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「ただいまーっ」
「おかえりなさい、はじめちゃん」
今日もお外でいっぱい遊んで、はじめちゃんはお家に帰ってきました。くつを脱いでスコップを置いて、しゃきっと玄関を上がります。
はじめちゃんはお外で遊ぶのが大好きな、普通の女の子です。これといって変わったところの無い、どこにでもいそうな女の子です。
「さあ、手を洗いってらっしゃい。綺麗にね」
「はーいっ」
はじめちゃんは元気な返事をして、奥にある洗面所まで走ってゆきました。
宅地造成でできた、大きな大きな団地。はじめちゃんは、そこにある一室で暮らしています。この辺りには、はじめちゃんのような年頃の子もたくさんいますから、遊び相手に困ることはありません。
手をしっかり洗ったはじめちゃんが、テーブルを囲む椅子の一つに座りました。
「はじめちゃん。今日もたくさん遊んだの?」
「うんっ。いっぱい遊んで、楽しかったよー」
「そう、それは良かったわ」
「たくさん遊んだよ。だからね、はじめのこと褒めてー」
はじめちゃんが、ぐっと身を乗り出しました。
「じゃあはじめ、ご飯の用意するねー」
「ええ。はじめちゃん、お願いするわ」
こうして、はじめちゃんの平和な時間は流れていくのです。
「明日の対戦カードは、ジョウト地方日和田市出身の女性トレーナー・嬉野玲花選手と、ホウエン地方xxx市出身の小学生トレーナー・水瀬一海選手です」
「嬉野選手は昨年現役に復帰したというカムバック組、方や水瀬選手は今年初出場の新顔です。対照的な両者の対戦、見逃せませんね」
付けっぱなしのテレビから、そんな声が聞こえてきました。
*
朝になれば、はじめちゃんはきちんと早起きをして、元気に学校へ行きます。
あっという間に学校までたどり着いて、颯爽と教室に入ると、はじめちゃんはランドセルから教科書とノートをしゃきしゃきと取り出します。
「ねえ、またあったんだって。あの事件」
「数が増えてるって聞いたよ。見つかるたびに、だんだん……」
「それって、それだけいっぱい切ってるってことだよね……」
はじめちゃんの隣でお友達が二人、何やらひそひそ話をしていますが、はじめちゃんはこういうことにあまり興味が無いので、文字通り見向きもしていません。
学校でしっかりお勉強をして、一番に教室を出て、お外でいっぱい遊ぶ。はじめちゃんには、それが一番大切なことだったのです。
「はじめちゃん、おはよう」
「おはよっ、ともえちゃん」
登校してくるクラスメートに、丁寧に挨拶。はじめちゃんにとっては、ごく当たり前のことなのです。
クラスメートがみんな揃って、最後に先生が教室に入ってきました。
「みんなー、席に着けー」
立ち話をしていたり、遊んでいた子供たちをきちんと席に座らせると、先生は朝の会を始めます。
今日の予定のこと、明後日の授業参観のこと、提出物のこと。いつものように話をしてから、先生は「今日はもう一つ話がある」と付け加えて、また別の話を始めました。
「最近、刃物を持ってこの辺りをうろついてる人がいるらしい」
先生の話は、ご町内に刃物を持った怪しい人がいるというものでした。ぎらぎらと刃物をちらつかせながら、住宅街を一人で歩いている、とても危険な人だそうです。
けれど、はじめちゃんにはそれほど興味のある話ではなかったようです。
昨日ちょっと夜更かししたこともあって、お口を開けて大きな大きなあくびをしています。
「……最近、それがたくさん見つかる事件があった。皆も気をつけるように、な」
はーい、とみんなと揃って生返事をしたはじめちゃんの目は、やっぱりちょっと眠たそうでした。
学校の授業は、真面目に受けていればすぐに終わってしまいます。
はじめちゃんは教科書とノートをランドセルにぐいぐい詰め込むと、だだだっと教室から駆けていきました。今日も一番のお帰りです。
「守。俺、昨日ポケモンセンターに行ったんだぞ」
「そうなんだ。もしかして、ポケモンをもらいに?」
「そうだぞ。昨日は見に行っただけだけど、今週の日曜にもらいに行くんだ」
クラスメートの男子二人が、走っていくはじめちゃんのお隣で話をしています。ポケモンセンターに行ったという男の子はとても興奮した様子で、もう一人の男の子に話していました。
はじめちゃんのいる地域では、子供は十歳になると、別の人からポケモンをもらったり、自分でポケモンを捕まえたりすることができるようになります。男の子が話していたのは、このことだったのです。
しかも。それに加えて、ポケモンと一緒にあちこちを旅して歩くことができるようになります。その間、学校に行ったりする必要はありません。
「公園っ、公園っ」
けれど、はじめちゃんにはまるで興味の無い話でした。ポケモンをもらいたくない子や捕まえたくない子は、別にそうしなくても良かったですし、家から学校に通うことをそのまま続けても、何も問題はありませんでした。
はじめちゃんは、きちんと勉強をして、それからお外でいっぱい遊んで、お母さんに褒めてもらうのが一番の楽しみです。ポケモンと一緒に旅に出ることなんて、考えたこともありませんでした。
「守は行ったりしないのか? ポケモンセンターに」
「うん、ぼくはいいよ。コラすけがいるからね」
「おっ、そういやそうだったな。でもよ、気をつけろよ。最近危なっかしいからな」
「大丈夫。コラッタの頭を切り落としちゃうようなひどい人は、僕が懲らしめるよ」
男子二人の会話を背にして、はじめちゃんは走っていきました。
さて、今日も日が暮れるまでたくさん遊んで、はじめちゃんは自分のお家に帰ってきました。
「ただいまーっ」
「おかえりなさい、はじめちゃん」
はじめちゃんはランドセルをベッドの上に投げるように置いて、スコップを靴箱の上へ戻しました。お片づけもそこそこに、はじめちゃんはリビングへ走って行きます。
「今日もよく遊んだわね、はじめちゃん」
「うんっ。たっくさん遊んできたよーっ。かくれんぼとか、鬼ごっことか!」
「元気が一番ね。さあ、はじめちゃん。いつものように、手を洗っていらっしゃい」
「はーいっ!」
洗面所で手を綺麗に洗うと、はじめちゃんはぱたぱたとリビングへ戻ります。
「お母さんっ、お母さんっ」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「あさってねー、授業参観があるの。知ってる?」
「もちろん、知ってるわ」
「じゃあ、お母さん、見にきてくれる?」
はじめちゃんが話したのは、明後日に行われる授業参観のことでした。教室の後ろにお父さんやお母さんがずらりと並んで、はじめちゃん達が授業を受けている様子を見学するのです。お母さんが大好きなはじめちゃんは、もちろんこれに来てもらおうと考えていました。
「決まってるじゃない。はじめちゃんが頑張ってるところ、しっかり見に行くわ」
「わーいっ! はじめ、頑張って手上げたりするからーっ」
お母さんが見に来てくれると知って、はじめちゃんは飛び上がるほど喜びました。授業参観でかっこいいところを見せれば、お母さんに褒めてもらえること間違いなしです。
「お母さんお母さんっ、はじめのこと褒めてー」
「ふふふ。もう少ししたらね。その時は、たくさん褒めてあげるわ」
「はーい。はじめ、もっともーっと頑張るねっ」
テーブルに座ったはじめちゃんが、元気良く声を上げました。
「次のニュースです。本日行われた第六十八回ホウエンリーグ二回戦で、今年初出場となる小学生の水瀬一海選手が、対戦相手の嬉野玲花選手をストレートで破り、準々決勝へと駒を進めました」
「嬉野選手はこれが五度目の挑戦となりましたが、雪辱を果たすことはできませんでした。足早に会場を後にする嬉野選手の背中からは、悔しさに溢れた様子が伝わって来ました」
テレビでは、遠く離れた豊縁地方で行われた、ポケモンリーグの様子を伝えていました。はじめちゃんと同じくらいの年頃の子が、それよりもずっと年上の女性トレーナーに快勝した、ということのようでした。
けれども、はじめちゃんはまるで興味を示しません。
「お母さん」
「どうしたの? はじめちゃん」
はじめちゃんは声をあげて、確かめるような口調で言いました。
「はじめ、旅になんか出ないよ。トレーナーになんかならないよ」
「ええ。知ってるわ、はじめちゃん」
「ポケモンなんかといるより、お母さんと一緒にいたいもん。ね、いいでしょ? お母さん」
「もちろんよ。お母さんも、はじめちゃんが側にいてくれた方が嬉しいわ」
はじめちゃんは、それよりもここにいることの方が、ずっとずっと大切なのです。
「そうだよね! じゃ、はじめ、ご飯の支度するね!」
「いつもありがとうね、はじめちゃん。お母さん、はじめちゃんがいてくれて、とても嬉しいわ」
「ホントに? ずっと、そう思ってくれる?」
「ええ。初めのうちだけじゃなくて、今も、そして、これからも。ありがとうね、はじめちゃん」
お母さんに褒めてもらうのが、はじめちゃんの一番の楽しみなのです。
*
今日も今日とてはじめちゃんは、元気良く腕を振って学校への道を歩きます。
道なりに歩いていると、同じく学校へ行く途中のクラスメートが、何やら話をしているのが聞こえてきます。はじめちゃんが、少し耳を傾けてみます。
「琥珀ちゃん、今日学校休むんだって」
「えっ、どうして? 昨日は元気そうだったのに」
「昨日ね、家に帰る途中に、刃物を持った人に出会って、後ろから追い掛けられたんだって」
「そんなことあったんだ……」
「うん。なんとか逃げ切ったんだけど、すごくショックだったみたいで、今日は学校お休みするって。琥珀ちゃんのお母さんが言ってたよ」
何やら怖い事件があったようです。おそらく、昨日先生が話していた、刃物を持った怪しい人のことなのでしょう。どうやら、はじめちゃんの同級生が襲われてしまったようです。幸い命に別状はなかったようですが、怖い話に違いはありません。
はじめちゃんは話を聞いてはいましたが、特に興味があるわけではなさそうでした。自分には、それほど関係ないことだと思っているみたいです。
教室に入ると、はじめちゃんはいつも通りきびきびランドセルから教科書とノートを取り出して、授業を受ける準備をさくさくと進めていきます。
「にゃはは! いっちー、おはようぞよ!」
「おはようっ、まりちゃん」
はじめちゃんは、漢字で「一」と書きます。なので、このまりえちゃんのように、はじめちゃんを「いっちゃん」とか「いっちー」と呼ぶ子も時々います。
準備をして友達とおしゃべりをしていると、またいつものように、先生がのそのそと姿を表しました。はじめちゃんはさっと席に戻ると、佇まいを直して椅子に座ります。
「きりーつ!」
さあ、今日も授業の始まりです。
お昼休み。給食を残さず綺麗に食べたはじめちゃんが運動場へ遊びにいこうとすると、ふとある光景が目に飛び込んできました。
「戸川先生、昨日もまた、見つかったそうですね」
「ええ。そうみたいですね……一体誰が、あんな酷いことを……」
「まったくです。犯人は、コラッタを一体なんだと思っているのか……」
担任の先生が、誰かと話をしています。よく見ると、それはちょっと離れたクラスの担任をしている、戸川先生のようでした。
先生同士が話をしているのは珍しいことですが、はじめちゃんには大して気になることでもないようです。さっとその場を離れると、みんなが遊んでいる運動場へ走っていきました。
「あと……嬉野さんは、あれから大丈夫ですか?」
「ええ。色々ありましたが、今は落ち着いているように見えます。皆とも仲良くしています。ただ──」
「ただ?」
「はい。その……連絡帳の保護者欄に、何度言っても必ずサインがあるんです。何故か、必ず……」
興味のないことには振り向かない。それがはじめちゃんの性格でした。
「はじめも混ぜてーっ」
運動場に出てみると、もうクラスメートが数人、固まって遊んでいました。はじめちゃんは迷わずその輪の中に入っていくと、あれよあれよという間に馴染んでしまって、すぐに遊びに熱中し始めました。
お昼休みももうあと五分くらいで終わる。そんな時間になったころでした。
「やっぱり、コラすけと一緒に行くんだな。思ったとおりだけどよ」
「うん。ぼくも外の世界を見てみたいんだ。小さい頃からずっと側にいる、コラすけと一緒に」
「幼稚園の頃に拾ったんだよな、コラッタのコラすけ。よく懐いてて、羨ましいぜ」
クラスメートの守くんと準くんが、鉄棒にぶら下がりながら、この間の続きのような話をしていました。守くんはねずみポケモンのコラッタに「コラすけ」という名前をつけて、可愛がってあげているようです。
コラすけは、守くんが幼稚園に通っていた頃、道端で弱って倒れていました。食べ物が見つからなくて、弱ってしまったようでした。守くんが拾ってあげたことでコラすけは命をつなぎ、以来守くんにくっついて離れなくなりました。守くんも、そんなコラすけのことをとても大事にしてあげています。
そんな守くんも、もうすぐ十歳になります。一人で旅に出ても、もう大丈夫な歳です。一緒に旅をするパートナーとして、守くんはずっと一緒にいるコラすけを連れていくみたいですね。
「……」
ずっと一緒にいましたから、きっと心も通っていることでしょう。辛く厳しい旅路も、仲間と一緒なら乗り越えられるものです。
守くんの旅立ちは、もうすぐそこにまで迫っていました。
すっかり日も沈んで、辺りが赤く染まった頃のこと。
「さぁて。今日もたくさん遊んだし、帰ろうっと」
はじめちゃんはお気に入りのスコップを手に取ると、森を抜けて公園に出ました。だいぶ派手に遊んだのでしょう、服は泥だらけになって、おまけにあちこち濡れています。ちゃんとお洗濯をしないと、服が台無しになっちゃいそうです。
ぱたぱた走って、はじめちゃんは家のちょっと重いドアを思い切り開けました。
「ただいまーっ」
「おかえりなさい、はじめちゃん。今日はたくさん遊んだみたいね」
「うん。今日はねー、お友達と一緒に遊んだんだー」
「そう、それはよかったわ。楽しかったでしょう。さあ、手を洗ってらっしゃい」
「はぁーいっ!」
はじめちゃんは靴を脱ぎ捨てると、洗面所にダッシュしていきました。水をざーっと流して、手を綺麗に洗います。石鹸も使って、ごしごし、ごしごし。染み付いた汚れを、剥がすように洗っていきます。
何度か水でゆすいで、はじめちゃんの手はすっかり綺麗になりました。
「お母さんお母さんっ。明日だよっ、明日なんだよっ、授業参観っ」
「ええ、分かってるわ、はじめちゃん。お母さん、はじめちゃんの授業を見にいくの、楽しみにしてるもの」
「うんっ。いっぱい手を上げて、黒板に答えを書いて、お母さんに褒めてもらうんだー」
明日は待ちに待った授業参観。はじめちゃんはお母さんに褒めてもらおうと、今から大張り切りです。きっと、日頃きちんと勉強している成果を見せられることでしょう。
「ねえ、お母さん。はじめ、授業参観で頑張るから、お母さんもはじめのこと、なでなでしてね。約束だよ」
「約束するわ。頑張ったら、たくさん撫でてあげるわね」
はじめちゃんの一番してほしいこと。それは、お母さんに頭を撫でてもらうことです。お母さんの優しい手つきで、ゆっくりゆっくりなでなでしてもらう。はじめちゃんが、この世で一番幸せだと思える瞬間です。
「明日お母さんが元気に学校に来れるように、はじめ、とびっきりおいしいご飯作るね!」
「ふふふ。お母さん、今から楽しみだわ」
はじめちゃんの楽しげな声が、リビングに響いていました。
*
翌日。朝の教室は、いつもとちょっと違っていました。
「みんな。この中で、昨日新本君と放課後に会った子はいるか?」
いつもと違うのは、今日がはじめちゃんの待ちに待った授業参観の日だから、というわけではなさそうでした。担任の先生が、みんなに質問をしています。
教室の座席が、一つだけ空いていました。守くんの座席です。先生は新本くん、もとい守くんと最後に会った子は誰かと、みんなに尋ねていました。
「昨日から、新本くんが家に帰っていないんだ。もし見かけたら、先生に教えてほしい。みんなの家の人でも構わない。見かけたら、すぐに教えてほしい」
先生がみんなに呼び掛けていますが、はじめちゃんはどこ吹く風という面持ちで、この後の授業参観のことで頭がいっぱいです。
そうですね、どちらかというと、授業参観そのものよりも、授業参観でお母さんに格好いいところをたくさん見せて、褒めてもらうのが一番の目的でしょうね。それが、はじめちゃんの楽しみですから。
窓の外を眺めているはじめちゃんは、先生の話もちっとも聞かず、ずっとお母さんのことばかり考えていたのでした。
それにしても、守くんはどこへ行ってしまったのでしょう?
「……」
守くんが学校に来ていませんが、授業参観は予定通り始まりました。みんなのお父さんやお母さんがずらりと並んで、中にはお兄さんやお姉さん、それにおじいちゃんやおばあちゃんも混じっています。
「ともえちゃん! お母さん、応援してるわよーっ!」
「あの人、ともえちゃんのお母さんなんだね。お姉ちゃんみたい」
「えへへっ。今日は来られないかも、って言ってたから、来てくれてうれしいよ」
張り切って子供の様子を見にきている人もたくさんいます。その人達の姿を代わる代わる見つめながら、はじめちゃんがもう待ちきれないとでも言いたげな様子を見せています。
お母さんが来てくれる、お母さんが授業を見てくれる、お母さんが褒めてくれる、お母さんが頭を撫でてくれる。楽しみで楽しみで、仕方がありません。
「よーしみんな、席に着け」
さあ、いよいよ授業参観の時間です。先生がいつもよりちょっとだけぴしっと決めて、教室に入ってきました。クラスメートのみんなと父兄の皆さんが、一斉に先生の方を向きます。
はじめちゃんが、ぐっと気合いを入れ直します。
「お母さん、見ててねっ」
「ねえはじめちゃん。はじめちゃんのお母さんって、どの人? もう来てる?」
「はじめのお母さん? えっとねー……」
隣の席のみどりちゃんが、はじめちゃんに話しかけました。はじめちゃんはくるりと後ろを向いて、きちんと並んだお父さんやお母さんたちの中から、はじめちゃんのお母さんを探します。あれほど来てくれると言っていたのです、必ず、はじめちゃんのお母さんもいるはずでしょう。
……けれど。
「あれ……? お母さん、いない……」
「まだ、来てないのかな?」
はじめちゃんのお母さんの姿は、教室の後ろの、どこにも見当たりませんでした。何度見回してみても、お母さんの姿がありません。
きょろきょろと、繰り返し繰り返し、はじめちゃんが後ろを見返します。お母さんはきっといるはず。そう信じて、はじめちゃんは背筋をピンと伸ばして、大きな瞳をいっぱいに開いて、お母さんの姿を探します。
その時でした。
「あっ。誰か、走ってきてる」
廊下の方から、誰かが走ってくる音が聞こえます。かなり慌てているようです。はじめちゃんのいる教室に、走って近付いてきているようです。
お母さんだ。はじめちゃんはそう確信しました。きっと、どこかで信号待ちをしていたり、遠回りをしてしまったりしていたのでしょう。みんなのお父さんお母さんたちからはちょっと遅れてしまいましたが、まだ授業は始まっていません。
はじめちゃんの晴れ姿を見せる、その時が近づいて来ました。
「お母さんっ、早く早くっ」
逸る気持ちが言葉になったはじめちゃんの、大きなくりくりとした瞳の先で──
(がらららっ)
ついに、教室のドアが開きました。
「お母さんっ」
待ちに待った時の訪れに、はじめちゃんは思わず声を上げました。
「嬉野さんっ! 警察の人が、あなたを連れてくって! 新本君のことで、話を聞きたいって──!」
教室に飛び込んできたのは、はじめちゃんのお母さん──ではなく、隣のクラスの戸川先生でした。
「戸川先生?! い、一体どういうことです?!」
「警察?」
「はじめちゃん、何かしたの……?」
事情が飲み込めない担任の先生。騒然とする教室の中。みんなが、戸川先生の口にした「警察」という言葉に、驚いた様子を見せています。
けれども──
──けれども。
「なーんだ、お母さんじゃなかったんだ。早く来てほしいなー」
──はじめちゃんだけは、違っていました。
はじめちゃん、だけは。
──ガラス越しに、取調室の様子が窺える。連れて来られた少女から、女性の捜査官が話を聞いている。男性では話しづらいだろうと、特別に配慮がされたためだ。
「殺された新本守くんの……同級生なんですか、あの子は」
「ああ。同級生で、しかもクラスメートだ」
「信じられません。あの女の子が、同級生の頭を切り落として、殺してしまうなんて」
連れて来られた少女の名前は、嬉野はじめ。連行された理由は、同級生の少年である新本守の頭部を切り落として殺害した疑いが掛けられたため。
そしてその疑いは、はじめ自身の言葉であっさりと肯定された。
「そうだよー。コラすけとずっと一緒にいたいって聞いたから、いっしょにいられるようにしてあげたんだよ。はじめ、えらいでしょ? えらいでしょ? ね?」
無惨に頭部を切り落とされた守の亡骸の傍らには、同じように頭を切断されたコラッタの死体が、まるでそっと添えるかのように置かれていた。守がいつも連れていた、コラッタのコラすけだった。
そして、その周囲には。
「一年程前から起きていたコラッタの虐待事件も、すべてあの子が? 守くんの側に、他にもたくさんコラッタの首の無い死体があったと聞きましたが」
「そうだ。スコップでコラッタを叩き殺して、一つ一つ頭を切断していたらしい。あちこち血だらけで錆びついたスコップが、あの子の家から見つかった。スコップを使ったのは、切った首を後で埋めるためだったようだ」
「それは酷い……しかし、なぜそんなことを」
ガラスの向こうにいるはじめは、あてがわれた女性の捜査官を前にして、身振り手振りを交えながら、無邪気にこれまで彼女が積み重ねてきた「遊び」の数々を、惜しげもなく披瀝していった。
全容が明らかになるまでは、さほど時間を必要とはしなかった。
「あの子の母親は、現役のポケモントレーナーだ。今は豊縁地方にいて、向こうの警察が事情を聞いている」
「えっ? しかし、お母さんと一緒にいるとか、授業参観に来るとか、そういった話をしていますが」
「それは全部、あの子の空想だ。家にいたのはあの子一人で、他には誰もいなかった。母親が契約していたハウスキーパーが、あの家の手入れを続けていたことも分かっている」
「空想、ですか……」
「ああ。自分の空想の中で、あの子はお母さんにとても可愛がってもらっているようだ」
しかし──と、前置きし。
「実際は酷いものだ。母親はあの子を捨てて、ポケモントレーナーとしてあちこちを旅し始めたんだからな」
「それ、本当なんですか?」
「この間、テレビでやっていただろう。女性のトレーナーが、リーグの予選で子供に大敗したと」
「まさか、その女性が親だっていうんですか」
「ああ。あの子を置き去りにして、豊縁まで行っていたというわけだ」
あっさりと話しはしたが、実状はかなり悲惨なものだった。
「嬉野玲花は、元々ポケモントレーナーとして活動していた」
「だが、他の多くのトレーナーと同じように、頂点には立てずドロップアウトした」
「同じようにドロップアウトした男のトレーナーと、なし崩し的に一緒になって、そして──」
──そして。
「あの子が、嬉野はじめが生まれた……そうですよね?」
「そうだ」
沈黙が辺りを包む。言葉を発するのがためらわれる、重苦しい沈黙。
やや間を置いて、捜査官が再び口を開いた。
「向こうの警察と話をして、母親が──嬉野玲花が、あの子に言った言葉が明らかになった」
「それは……一体、あの子に何と言ったんです?」
捜査官は、あえて感情を殺した声で、相方に答えた。
「『あなたよりコラッタの頭でも撫でてた方が、ずっとマシだわ』」
あなたよりコラッタの頭でも撫でてた方が、ずっとマシだわ──
──それが、はじめに向けられた言葉だった。
「そう言って、そのまま家を出て行ったそうだ」
もう一人の捜査官は、完全に言葉を失っていた。何も言うべき言葉が出てこない様子だった。
「どうやらその言葉で、嬉野はじめは完全に壊れてしまったようだ」
「遊びと称して、あちこちでコラッタの頭を切断し始めた」
「その矛先が、コラッタを可愛がる新本守にも向けられたわけだ」
「今回の事件は、そうやって起きたんだ」
守が殺されたのは、コラッタのコラすけを可愛がっていたからだった。はじめが言うには、まずコラすけをスコップで殴り殺して、次いで守も同じように叩き殺したらしい。傷跡の分析から、はじめは何のためらいもなく、守にスコップを振り下ろしたことが分かっている。
そして事後、はじめは持ち前の「優しさ」を発揮し、守とコラすけの頭を同じように切り落とした。これが、今回の事件のあらましである。
「皮肉なものだな」
捜査官が呟く。
「あの子は」
「ポケモンよりも、母親に愛されず」
「ポケモンを何匹も何匹も、その手に掛けていたというのに」
「ポケモンがいなければ、母親はトレーナーになることもなく」
「あの子もまた、生まれてくることは無かったのだから」
ガラスの向こうでは、はじめが屈託の無い笑顔を見せて、こう捜査官に話していた。
「だって、コラッタの頭がぜーんぶなくなれば、お母さんがはじめの頭を撫でてくれるんだもん」
無邪気に話すはじめの声は、あくまでも、明るいものであった。
今にして思うと、十歳の頃に食べさせた冷凍のカキフライ。あれが原因だったのかも知れないと、私は思う。
少し後になってから、食中毒の話題が出ていたはず。そのせいで、弘樹はこんな風になったのかも知れない。
『まーたひろ君の死ぬ死ぬ詐欺か。本当に死んでくれた方が喜んでくれる人が出ていいと思うぞ』
『次に死ぬ予告をするのは来週の火曜くらいですか? 大体月に三回くらいのペースですし』
『死ぬときは樹海に行って首括れよ。間違っても電車には飛び込むなよ。ダイヤが乱れると困るんだから』
そして今日もまた、心ない言葉が乱舞する。
そうだ──やはり、あのカキフライがいけなかったのだ。
ハウスダスト対策を施した高品質なドア、それを一枚隔てた向こう。そこに、私の息子──弘樹は一人でいる。
引き篭もっているわけではない。引き篭もりとは違う。私がそう思うのだから間違いはないし、第一、弘樹が犯罪者予備軍の引き篭もりであるはずがない。だから、弘樹は引き篭もりではない。
弘樹はただ、部屋から出てくる切っ掛けがつかめないだけ。
『俺はお前らのような平凡な凡愚の愚民とは一線を画している まずそれを認識しろ』
『そうですね。ひろ君と一般人は一線を画していると思いますよ ひろ君の想像とは若干違う形ですけども』
断じて、引き篭もりなどではない。弘樹は正常、普通の子。
『で、以前書くと言っていた小説はどうなったんですか? また言うだけの嘘つき野郎ですか?』
「はぁ? お前ら俗物と違って俺は忙殺なんだよ。死ぬほど忙しい、分かるか? あ?」
「ひろ君の忙しい=寝る、もしくはシコる ですね、分かります」
しっかりと防磁フィルムを貼り付けた15型ディスプレイ内蔵のノートパソコン。そこに映し出される、眼を覆いたくなるようなやり取り。
これがずっと続いて、もう六年以上になる。その間、私はずっとシックハウス症候群の対策をし続けた。農薬の入っていないオーガニックフードにこだわり続けたし、空気清浄機も最高級品を取り付けた。
やるべきことはやった。しなければならないことはすべてやった。けれど、まだ弘樹は部屋から出てこない。いや、違う。部屋から出てくる切っ掛けがつかめない。部屋から出ることはできる。引き篭もりとは違う。
「うるせんだよ宝石成金ども。お前らの作り上げた砂上の桜閣はいずれ滅ぶ運命にあるんだよ。分かるか?」
「いい加減漢字くらい調べてから打ったらw? 桜閣ってなんて読むんですかあw?」
「まーたひろ君のぼっち脳内世代間闘争か。一般の人はポケモンの赤だとかサファイアだとかのバージョンで六年間百スレも延々と世代がどうのこうの成金がどうのこうのと喚いたりしないぞ。弁えろよ人非人のひろ君」
弘樹は正常で、ただ少し疲れているだけ。人生には休息が必要。ひろは今、人生の休息に入っている。そう、それが今の正しい現状認識。間違っていない。
少しだけ、他の人より遅れているだけ。
少なくとも弘樹の育て方について、私は何一つとして間違ったことはしていないと確信している。
小さな頃から高い月謝を払って塾に通わせていたし、弘樹に間違ったことを教えるような他人の子とは触れさせないように気を配ってきた。弘樹はそれを受け入れて、どこでも優秀な子であり続けた。だから決して、間違いではない。むしろ完全な正解だと自信を持って言える。
弘樹が部屋から出てこなくなったのは、大学受験の時からだった。学校側が弘樹に配慮をしてくれなかったから、弘樹は十分な学力があったにもかかわらず合格できなかった。学校が悪いのであって弘樹は悪くは無い。たかだか五分の遅刻で、偏差値や学力に影響が出るとは思えない。
繰り返す。弘樹は優秀で、私は何の間違いもなく弘樹を育ててきた。一切の間違いは無く、完璧だったと胸を張って言える。敢えて至らないところがあるなら、中学受験の時に冷凍食品を夜食として出したことくらいだろうか。そう、あのカキフライが、弘樹にわずかに歪みを与えてしまったに違いない。
「お前らに孤高の天才たる俺の凄さは分からないだろうな。お前ら団地民と違って俺は二階建ての庭付き一戸建てに住んでるし、親の遺産だって軽く七千万はある。そもそもお前らとは各が違いすぎるんだよ理解しろ」
「だから書き込む前に誤字脱字のチェックくらいしろよ糞ニート。各が違うって何が違うんだよボケ」
「こんなんだから大学受験も失敗したんだろうな。分かりやすいこった」
「庭付き一戸建てとたかだか七千万のキャッシュとやらでそこまで威張れるのが凄いな。ひろ君がいなきゃ両親はもっと安泰だったろうに」
受験に失敗してから、弘樹は部屋からほとんど出て来なくなった。勉強のために買い与えたパソコンを使って、時間を問わず匿名の掲示板に書き込みをしている。
弘樹のことを知っておく必要がある。そう考えた私は、弘樹のパソコンが送受信するデータを横から取得して、こちらに複写する装置を業者に頼んで付けてもらった。こうすれば、弘樹のことを逐一知ることができる。画期的なアイデアだった。これ以上の方策は無かった。
そうして複写されたデータを、私は自分のパソコンのディスプレイに映し出して確認する。
「汚物に等しい馬鹿共が俺に口答えするな。俺のバックには武装組織が付いてるんだいい加減諦めろ」
「武装組織って、警棒を装備したお巡りさんですか? それバックに付いてるって言うよりひろ君を監視してるだけじゃ……」
「口答えされたくないなら最初からここに来なきゃいいじゃん。毎日毎日へったくそな嘘を付いてフルボッコにされて、二度と来ないだの死んでやるだの言いながら次の日になると全部忘れて来てるのはアホのひろ君でしょ」
こんなやり取りが、時間を問わず日を問わずずっと繰り返されている。どう対処したらいいのか、私には分からない。せめて、書き込みをした人の所在さえ分かれば、どうにでもなるというのに。
そして、言い合いの最後になると、決まってこんなやり取りになる。
「宝石成金共と白黒豚共はまとめて地獄に落ちろ赤の裁きがお前たちに下るこれは絶対の真理だ不可避の無慈悲だ」
「改行くらいしろよ低能」
「あっ、赤の裁き(失笑)」
「厨二真っ盛りの奴ですら今時「赤の裁き」はねーよw」
「ひろ君は一刻も早く第一世代のファンに樹海で首括って謝罪しろよ」
弘樹は最後になると決まって、昔買い与えた「ポケモン」という名前のゲームの話を出す。よく知らないが、いくつかの「世代」に分かれていて、弘樹に買い与えたのは一番最初、第一世代と呼ばれるバージョンだったようだ。
中学受験が終わった後、弘樹がどうしても欲しいといった「ポケモン」。弘樹にも娯楽が必要と思い、本体と一緒に誕生日に買った記憶がある。ちゃんと娯楽も与えていたから、私の子育ての方針は「教育ママ」と呼ばれるような一方的なものではないのが分かるはず。やはり、私の教育が原因ではない。原因があるとするなら、やはりこの家の壁材に含まれるホルムアルデヒドのせいだろう。もっと対策をしなきゃいけない。
もうすぐ十九時になる。この時間になると、私は弘樹のために夕食を用意する。無論、産地を厳選した無農薬の野菜を使った完璧な献立だ。弘樹の体のことは、私が一番よく分かっている。これが、弘樹にとって一番いいことだというのは、一切の疑いもない。
夕食を準備し終える。食器をトレイに載せ、そして必ず一緒に持っていくものがある。
スプーンだ。
弘樹は子供の頃から、スプーンを使って食事をするのが好きだった。弘樹が好きなのが理由であって、決して箸が使えないとか、そういったはしたない理由ではない。弘樹は箸も持てないような行儀の無い子供では断じて無い。弘樹は自分の意志で、スプーンを使って食事を刷るのが好きだから、スプーンを使っている。それが正しい。
いつも使っているアルミ製のスプーンを添えて、私はトレイを持って立ち上がる。弘樹の部屋は二階にあるので、階段を登って食事を持っていく。
弘樹の部屋のドアの前に経つ。湯気を立てる料理を載せたトレイを一旦床に置き、部屋のドアを二回ノックする。その場では何の変事もない。声も聞こえないし、ノックを返す訳でもないし、ドアが開く訳でもない。けれど、これで弘樹にはきちんと連絡ができている。何の問題もない。
部屋の前のトレイを置いて、一時間と二分経ってから、再び弘樹の部屋の前へ行く。すると、用意した食事は必ずすべて平らげている。好き嫌いをしないように、小さな頃からきちんと躾けてきた結果だ。空になった食器を載せたトレイを持ち、私はキッチンへと戻る。
このやり取りを、かれこれ六年ほど続けている。
食器を食洗機にかけてから、私は再びパソコンの前に戻る。食事の間だけは、弘樹の匿名掲示板への書き込みが止まる。終わるとすぐに再開するから、きちんと見ておかなければならない。
パソコンを使って弘樹の書き込みを監視することは、きちんとした意味があると確信している。弘樹とコミュニケーションを取るために、これは必要なことなのだ。状況は着実に進展している。弘樹の自主性を尊重して、部屋から出てくるのを待つのが親としての責務だ。今は、そっとしておくべきだ。
ディスプレイを覗き込むと、早速あのやり取りが始まっていた。
「社畜共は今頃不味いコンビに弁当を喰らってる時間だろうな 俺は放っておいても食事が出てくる恵まれた地位にある お前らとは住んでる世界が違い過ぎるんだよ」
「拝啓お母様。この掲示板をお読みになっているなら、お食事にネズミ取りを混ぜられることを強く強く推奨致します」
「その飯は掲示板で発狂するエネルギーと糞に変わるだけだろ。食べられるだけ無駄じゃん」
「で、まだスプーン使ってるんですか? 赤ん坊のまま大人になった最悪の例ですねw」
眉を顰めるようなメッセージが続く。けれど目を背けてはいけない。これを受け入れてこそ、真に弘樹の母親だ。弘樹が部屋から出てくるまで、ここでずっと見守ってやらなければならない。
私は、間違いなく最善の行動を取っている。焦って動いても何の利もない。今は待ち続けることこそが、母親として成すべきことだ。間違いない。
「下賎の愚民共とは育ちが違うんだよビチグソが 箸なんて持てなくても生きるのになんら支障はない スプーンが一本あれば何の問題もない弁えろ」
「スプーン一本さえあればというか、貴方の場合は単に二本持てないだけだと思います。現実でもポケモンでも」
「ママンに頼んでもう一セット買ってもらえば良かったのにねw 交換なんて夢のまた夢なんですから」
「別にスプーンで食うのは自由だけどさ、俺だってスプーンくらい持ってるぞw ひろ君は何か勘違いしてるみたいだけど」
そういえば。
弘樹に「ポケモン」を買い与えた後、弘樹が私に珍しくお願いをしてきたことがあった。普段は私に言われたことをきちんと守り、自分から何かを言うことは決してなかったから、よく憶えている。
そのお願いというのは──そう、こうだった。
(「取っ手がアルミ製のスプーンを使いたい」
それまではずっと、取っ手がプラスチックで出来たものを弘樹に使わせていたけれど、弘樹にそう言われて、私は弘樹のために総アルミ製のスプーンを買ってきた。以来弘樹はずっと、あのアルミ製のスプーンを使っている。
少し前、弘樹がそのスプーンにこだわる理由を、掲示板に書き込んでいたのを見た。「ポケモン」に出てくる……そう、確か、ユング、だとか、そういう名前のモンスターを、とても気に入っていたからだ。
細かいことは分からないが、弘樹がそのユングだとかいったキャラクターに、並々ならぬ拘りを持っていたのは間違いなかった。罵詈雑言が並ぶ中でも、ユングなんとかだかには、弘樹は絶対に言葉を向けなかった。
ふと気が抜けて物思いに耽っていると、掲示板にはまた新しい書き込みがなされていた。
「黙れよ糞共。俺は天才だ、教師に神童と讃えられた生粋の天才だ。糞共は下水でグズグズに潰れて悪臭を撒き散らしているのがお似合いなんだよ」
「教師ってか、しょーがっこーのせんせえ、でしょ。ひろ君えらいえらいってノリで」
「言うに事欠くと大体その話ですね。もしかして、自慢できることがそれしかなかったりするんですか?」
「くせーのはロクに風呂も入ってないひろ君の方だろw」
小学校の頃を思い出す。弘樹にはできる限り良い教育を受けさせたかったから、隣町へ越境入学させた。通学に少し、そう、一時間と十分くらい掛かったけれど、これも弘樹のためを思ってのこと。小学校の教育は、妥協する訳にはいかない。
弘樹は優秀な子だったから、家によその子を連れて来ることもなかった。一人で静かに遊んでいて、まったく手の掛からない良い子だった。越境入学させたことで、近くの子と変に接触する機会がなくなって良かったに違いない。
一体何がいけなかったのだろうか。やはり、通学に新開線を使わせたからだろうか。あの路線は電車の本数が少ない。私や弘樹が利用しなければならないにもかかわらず、だ。新開線の人ごみが、弘樹に悪い影響を与えた。そうだ、そうとしか思えない。
「俺は飛翔する。天高く飛翔する。空高く飛び上がって天使としてお前らチンカス共を焼き尽くすだろう」
「だったら早く飛翔しろよ、窓から」
「下に人がいないことを確認してから飛翔しろよ。せめて死ぬときくらい迷惑かけんな」
「ひろ君、この間も飛翔するって言ったばっかりでしょ。もう忘れたの? 脳を消毒してもらえば?」
それにしても、この掲示板のなんと酷いことか。弘樹に目を疑うような罵詈雑言や誹謗中傷が浴びせられているというのに、相手を罰するどころか書き込みの削除すら行わない。どういう神経をしているのか、親の顔が見てみたい気持ちでいっぱいだ。
頭が痛い。弘樹をずっと見守るために、ディスプレイを見つづけているせいだろう。弘樹を守れるのは私しかいない。私が気をしっかり持って、弘樹の様子を見守ってやらなければならない。他に頼れる人などいない。
弘樹は病気でも障害でもなくて、単純に気持ちの問題で外に出てこられないだけ。だから、精神病院に連れていったりカウンセラーに見せる必要は、一切ない。絶対にない。私がそう考えているのだから、間違いはない。これまで常に完璧な選択をし続けてきたから、絶対に間違いない。
私は、正しい。
──こうして弘樹を見守る日々が、しばらく続いたあとのことだった。
「俺はクリエイティヴな人間だ。創作にすべてを捧げている。創作に対する純粋で真摯な無償の愛を持っている。小説を書いて世間をアッと言わせお前らカスゴミの白黒豚共がキーキー奇声を上げて発狂するさまを想像するだけで笑いが止まらない。そして俺はその小説で世間の絶賛を浴び小説の概念を塗り替え歴史に名を残すだろう。印税でお前らのために豚の餌でも買ってやるからありがたく思えどうせ端金に過ぎないからな。俺はお前ら白黒豚共が下利便を垂れ流しながら餌を貪るのを見つつ印税で集めた世界中の美酒を楽しむ。これが現実というものだ」
「無償の愛(とかほざきながら、後半名誉欲金銭欲がほとばしってますね。精神分裂ひろ君は平常運転ですなあ」
「上の書き込みの時点で、既にどうしようもない文才の無さを遺憾なく発揮してるのはすごいな」
「ひろ君は美酒じゃなくてママのおっぱいでも吸ってれば?w」
弘樹が小学生の頃に作文を書いて、クラスで取り上げられたことがある。遠足に行ったときのことを書いたものだった、はずだ。内容は読んでいないので分からないが、先生に褒められたらしい。
それ以来、弘樹は文章を書くのが好きになった。国語の点数がいつも高かったのを憶えている。私はそれよりも理科や算数を頑張って欲しかった。弘樹のためを思って学習塾に通わせ始めたのも、この頃だ。
頭がズキズキする。きーん、と中で音が鳴っている。せめて罵詈雑言誹謗中傷を浴びせる相手の名前が分かれば、名誉毀損で訴えてやれるのに。パケットキャプチャを取り付けた業者に相手が分かる機能を付けてほしいと頼んだけれど、業者はそれはできないと言ってきた。なんて役に立たないんだろう。私が頼んでいるというのに。
「題材はこうだ。少年の頃から神童と謳われた少年が周囲の嫉妬と誹謗中傷で足元を掬われかける。しかしそこで屈せず新たな超能力を得て人類を導く救世主に変身するという話だ。これを小説化すれば間違いなく今までの小説の概念は根本から崩れ去るだろう。まさに禁断の書となる存在だ」
「できれば、そのまま永遠に禁断の書にしておいてもらえませんか?」
「ひろ君のありとあらゆる妄想とコンプレックスが詰め込まれた、掃溜めか肥溜めか痰壷みたいな話になるな」
「サルにキーボードで遊ばせて出てきた文字列を小説にする方がまだまともな内容になりそう」
弘樹と名も無い赤の他人との不毛なやり取りが、朝から晩までずっと続く。私はそれを、今にも目を伏せてしまいそうになるのを懸命に抑えて、弘樹を見守り続けている。弘樹を思えばこそ、こうして見守り続けているのだ。もう少し時間が経てば、弘樹はきっと部屋から出てくる。
断じて事態を傍観しているわけではない。現状を正しく把握し、今取るべき行動を考えた結果が、弘樹を見守るという結論に至っただけのこと。手を拱いているわけではなく、意識して今の状態を保っているのだ。
私の息子が、弘樹がおかしいかどうかは、私が一番よく分かっている。弘樹は病気でも異常でもない。正常で、ただ少し疲れているだけなのだ。弘樹が異常だなんて、あり得るはずが無い。機械だって動かしつづければ疲労して動きが鈍くなる。それと同じ。今は見守ること、それが弘樹の唯一の親としてすべきことだ。
「俺には家がある。金もある。一人でも生きていける。群れることしか能の無いお前ら宝石成金のような汚物との間には絶望的で圧倒的な壁が存在するんだいい加減理解しろ」
「壁はありますね、確かに。まあ、ひろ君の方にスパイクがいっぱい付いた壁ですけど」
「群れることしか能の無いって言うか、ひろ君はぼっちだから、ポケモン交換してもらえるようなお友達がいなかっただけでしょ?w」
「周りは全員フーディンなのにひろ君だけユンゲラーとかどんな気持ち?w ねえどんな気持ち?」
ユンゲラー、そうだ。前に引っかかっていた「ユング何とか」は、「ユンゲラー」だった。弘樹は「ポケモン」に出てくる「ユンゲラー」というモンスターが好きで、よくその話をしていた気がする。ほとんど聞いていなかったし、聞く必要もないと思っていたけれど、そういう話があったということは、少しだけ憶えている。
ふと気になり、インターネットで「ユンゲラー」について調べてみる。出てきたのは、狐のような顔をした魔術師のような姿だった。
そしてその手には、アルミで出来たスプーンが握られている。
この「ユンゲラー」というモンスターは、サイコキネシス、つまり超能力を使い、様々な超常現象を起こすとか、そういったキャラクター付けをされているようだった。いかにも子供が遊ぶゲームに出てくるような、安直な設定だと思った。将来大成し世界で活躍する弘樹には、まるでそぐわないものだ。
ページを閉じようとした私の目に、隣に並んだ「ユンゲラー」そっくりのモンスターの姿が目に飛び込んでくる。手を止めて見てみると、そこには「フーディン」という名前が記されていた。
説明を読む。専門用語があって分かり難かったけれど、どうやら「フーディン」は「ユンゲラー」が成長して、蛹から蝶になるように変身した後の姿らしい。見ると「フーディン」は「ユンゲラー」が持っているスプーンを両手に一本ずつ持っていて、心なしか「ユンゲラー」よりも強そうに見える。
「五月蝿い黙れゲロ袋共! ユンゲラーは進化させなくても強いことくらい分かれよカスが! 俺はお前らノンポリの日和見主義とは違ってポリシーがあってユンゲラーを使ってんだ理解しろ!」
「対戦もしないのに使うとかどうとか言うんじゃないよヒキニートのひろ君」
「ポリシーってどうせ後付けの言い訳だろw そんなんだからいつまで経ってもユンゲラーのままなんだよ」
なぜ、弘樹は一つ前の段階の「ユンゲラー」に拘っているのだろう。もっと強い「フーディン」にしてしまえばいいのに、その理由が分からない。「ユンゲラー」を成長させて「フーディン」にすることを、弘樹はなぜしなかったのか。
こんなことなら、弘樹に「ポケモン」を買い与えるのではなかった。細かい疑問が増えて、頭が痛くなるばかりだ。ただでさえ、今月は振込がいつもより少なかったというのに。一体どこへ消えたのか。それだって気になる。ああ頭が痛い。
こうしている間に、また夕方になる。弘樹の食事の支度をしなければ。
いつも通り食事の準備をして、一つずつトレイに載せていく。弘樹が、私が出したものを残さず食べていることは良いことだ。小さい頃から、好き嫌いを許さなかった甲斐があった。私の教育が正しかったからこそ、弘樹の将来がある。今は将来に向けての充電期間だ。慌てず騒がず焦らず逸らず、弘樹が自発的に出てくるのを待てばいい。
そして、最後に──いつも使っている、アルミのスプーンを載せる。
部屋の前に食事を置いて、二回ドアをノックする。もちろん、応答はない。けれどこれで、弘樹には伝わっている。何の問題もない。コミュニケーションはきちんと取れている。
部屋の前から立ち去ろうとした瞬間、ずきん、と頭にヒビが入るような痛みが走った。頭痛が慢性化してきているみたいだ。今度、医者に診てもらわなければ。私が倒れてしまっては、弘樹を見守れる人がいなくなってしまう。弘樹を支えられるのは、母親の私だけなのだ。他の誰でもない、この私。
ふらつきながら一階へ戻ると、ディスプレイには閉じ忘れたインターネットのウィンドウが開きっぱなしになっていた。体を預けるように椅子に腰掛け、何の気なしに、表示されている文字を目で追ってみた。
あるあさのこと。 ちょうのうりょく しょうねんが ベッドから めざめると ユンゲラーに へんしん していた。
変身。その言葉に既視感を憶えつつも、何のことだったか思い出せない。確か、ごく最近目にした言葉のはずだ。もう少しで糸を手繰り寄せられそうだったけれど、私はあえてその正体をつかもうとは思わなかった。
頭痛が一段と激しくなった。心臓が頭に転移したかと錯覚するほどだ。視界が明滅し、体を起こしているだけで酷い疲労感が募ってくる。この頭痛は、一体どこから来ているのか。いいえ、それは分かっている。分かっているけれど、私自身にはどうしようもないことだ。
一時間ほどずっとディスプレイの前で頭を抱えていると、あの掲示板に新しい書き込みがあったとの通知メッセージが届いた。食事を終えたようだ。無意識のうちにマウスを繰り、画面を掲示板に切り替える。
「宝石成金共に白黒豚共マジでぶっ殺してやるこれは正当防衛だお前たちは度重なる名誉毀損と誹謗中傷で俺を苦しめてきただから殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「ありきたりな発狂だなあ。そんなんで物書きができると思ってんじゃないよひろ君」
「先生に『ひろ君は文章がうまいね』ってここで自慢して、名前バレに気づいて必死にログを流そうとしたときくらいの発狂ぶりを見せてほしいなw」
「つか、アホのひろ君はなんで携ゲ板にいるの? メンヘル板とか池よ」
ああ、まただ。また、弘樹が誹謗中傷を浴びせられている。罵詈雑言を投げつけられている。感情の赴くまま、怒りを掲示板にぶつけている。けれど、相手にはその言葉が届かない。何を言ったところで、相手は匿名のその他大勢に過ぎない。ずっとこの繰り返しだ。
けれど、私は見守り続けなければならない。弘樹を守れるのは私だけ、弘樹を支えられるのは私だけ、弘樹を導いてあげられるのは私だけ。絶対に折れてはいけない。私が弘樹を正しいレールに載せてやらなければ。
「五月蝿い五月蝿い五月蝿い! お前らに人間の心は無いのか獣共が! 俺のように正直に清く正しく生きている真人間に涎を垂らして薄汚い牙で噛み付いて、日々の研鑽を怠らない極上の人間に唾を吐いて、下痢便のような誹謗中傷をネチネチグチグチ書き込んで! 全員地獄に落ちるぞこれはもうどうしようもないことだ弁えろ理解しろ受け入れろ!」
「親の脛齧りながら一日中掲示板に張り付いて発狂三昧が清く正しい生き方なんですか?」
「出会い系のサクラに親の金を数十万も突っ込んで余裕で逃げられる極上の人間なんていねーよバーカw」
「何から何までママンに依存しっぱなしのくせに、ママンがいるからダッチの一つも買えないとかギャーギャー喚いてたのはどこのどいつでしたっけ?」
私は正しい。私は、間違っていない。
「俺は進化する、お前らカスゴミの白黒豚共を駆逐する力を手に入れる! 俺は神童と讃えられた天才だお前たちなんて造作もないんだよ絶対に死滅させてやるから覚悟しろ」
「進化する前にまず部屋から出ろよヒキオタ童貞ニート」
「死滅してるのはひろ君の脳細胞だろ、常識的に考えて」
「ひろ君の進化とか、明らかに人間止める道しか無いじゃないですかー。それも悪い方向での」
私は、私は正しい。
「明日には貴様等宝石成金共を撃滅してやる絶対にだ。もう何があっても許さない死ね死ね死ね死ね死ね」
「金と銀は宝石じゃないでしょって、何回言えば分かるのこの子」
「ユンゲラーだから脳細胞が増え続けてるわけじゃないのよね。むしろ順調に死滅して同じことしか言わなくなってるじゃん」
「頼むから他のスレで宝石成金とかひろ君ワード使うのやめてくれよ。どんどん縮んでいくひろ君の脳内でしか有効じゃないんだから」
私は、私は、私は──
「俺は神童だ、新しい姿に変身するんだ」
──私は。
いつかどこかで見た光景。記憶の中に埋もれていた、遠い昔の光景。
「お母さん。お願いがあるんだ」
「僕、友達とポケモン交換がしたいんだ」
目の前にいたのは、中学生になったばかりの弘樹だった。まだ、小学生の時のようなあどけなさを残している。
私は、弘樹の様子をじっと見つめている。
「ずっと育ててたケーシィってポケモンが、ユンゲラーに進化したんだ」
「いろいろな技も覚えて、強くなったんだ」
これは、そうだ。珍しく弘樹の方から、私に話しかけてきた時の記憶だ。あの時の光景だ。
次に弘樹が何を言ったか、そして何を言うのか。私の記憶が蘇ってくる。
「でも、これよりもっと強く、賢くなれる方法があるんだ」
「ユンゲラーは友達と交換すると、フーディンってポケモンに進化するんだ」
交換、通信交換。そうだ、あのページに書かれていた「通信交換」は、そういう意味だったのか。
ユンゲラーは、普通に戦わせて経験を積ませても、決してフーディンになることはない。他の友達と通信交換をしなければ、ユンゲラーはフーディンに進化しないのだ。
「だから、お母さん」
「僕、友達とポケモン交換がしたいんだ」
そうか、そういう理由だったからなのか。
中学に上がったばかりの弘樹が、友達としきりに遊びたがっていたのは。
「お願いだよ、お母さん」
一人では、ユンゲラーをフーディンに進化させることは出来ない。そのためには、友達の協力が必要だ。
だから、友達と遊びたい。友達と、ポケモンの交換がしたい。
「友達と遊ばせてほしいんだ」
そして……それを拒んでいたのは。
弘樹を、ずっと一人にしておいたのは──。
「馬鹿なことを言うんじゃありません。他の子と遊ぶなんて、時間の無駄よ」
「つまらないことに拘っていないで、きちんと勉強をしなさい」
──この私だった。
何が間違っていたのだろうか。何を間違ってしまったのだろうか。
いや、そうじゃない。決して、そうではない。
何を間違っていたかではなく……すべてが間違っていた。
私が、間違っていた。
「私が……私が弘樹を……」
目が覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。窓に目を向けると、視界が滲んでぼやけていた。目が痛いのは、寝不足のせいではない。瞼は真っ赤に腫れ上がっていた。
電源を入れっぱなしにしていたパソコンは、真っ青な画面を表示して止まっていた。このままでは、弘樹の様子が確認できない。再起動する必要があった。
けれど、私は電源ボタンには手を伸ばさない。代わりに、後ろの電源ケーブルに手をかけ、そのまま引き抜いた。
(プツン)
糸が切れるような音とともに、画面が暗くなり消えた。回っていたファンが停止し、部屋に一層の静けさが訪れる。
弘樹の様子を見るのは、このパソコンを通してじゃない。
私のこの目で、直接弘樹を見なければ。
心のどこかでは、もう分かっていた。
様子を見るのが最善だと言い聞かせること、弘樹との直接の対話が無くても大丈夫だと思い込むこと、掲示板の書き込みを監視して弘樹を見守っているつもりになること、弘樹は正常だと理由を並べ立てること、自分は正しいと言い張りつづけること。
全部、出鱈目だ。何もかも、間違っている。
弘樹を自分の部屋に追い込んだのは私だ。私自身の責任だ。夫が家に戻らないことを理由に、自分一人で弘樹の何もかもを決め、決めてかかり、決めつけた。その末路が、今の部屋に閉じこもった弘樹だ。認めなければいけない。悪いのは、すべて私だ。
今更かも知れない。けれども、今しかないのも事実だ。
話をしよう。弘樹の言葉をすべて受け入れよう。どんな怒りや侮蔑も、ありのまま聞き入れなければ! それから、しかるべきところへ弘樹を連れていこう。こうなった理由を洗いざらい話して、弘樹の心を解き放ってやらないといけない。すべて私が蒔いた種。私自身で摘み取らなければ!
ズキズキと頭が痛む。けれど、決して立ち止まることはない。間違いを認めて、弘樹を縛っている鎖を断ち切るのは、もう今しかできない。また、私は自分を正当化して現状を許容してしまう。それは弘樹にとっても私にとっても、最悪の選択だ。
もっと早く過ちを認めていれば良かった……けれど、今ここで認めることができてよかった。私のせいで、弘樹の人生を滅茶苦茶にしてしまった。私の責任で、弘樹の人生を立て直さなければ。
部屋に近づくに連れて、頭痛の度合いが激しさを増す。けれど、これは気の持ちようだ。私が長年見て見ぬふりをしてきた代償だ。今引き返せば、二度と取り返しが付かなくなる。前へ進むことだけを考えるべきだ。
階段を登りきり、弘樹の部屋の前に立つ。そこにはいつも通り、空になった食器の載ったトレイが置かれていた。ほぼすべてがいつも通りだ。ある一点だけ存在する、いつもと違うところを除いては。
スプーンが、トレイの上に置かれていない。どういうわけか、弘樹はスプーンを持ったままのようだ。
何故かは分からないけれど、胸騒ぎがした。スプーンが置かれていないのは何故なのか。弘樹はただ置き忘れただけなのか、あるいは、スプーンを使って何かしようとしているのだろうか。
逸る気持ちを抑えて、部屋のドアをノックする。
「……」
いつも通り二度ノックしたけれど、弘樹からの応答は無い。まだ朝だから眠っているのかもしれないとも思ったが、どういうわけかそうとは思えなかった。中に弘樹がいるのは間違いないけれど、眠っているとは思えなかった。
どうすべきか逡巡する。一旦引き返すべきか、それとももう一度ドアをノックすべきか──いや、そのどちらでもない。とにかく一度、弘樹の様子を見なければ。そのためには、引き返すのもドアをノックするのも正しい行動ではない。
するべきことは、私と弘樹の間を隔てるこのドアを開け放つことだ。
「弘樹、入るわよ」
ぐっとドアノブに手をかけ、意を決してドアを開く。
開け放ったドアの、その先には。
……その先には。
「……」
キツネのような顔をした、かつて弘樹「だった」モノが、じっとこちらを見つめていた。
その手には……不自然に折れ曲がった、あの見慣れたアルミ製のスプーンが、静かに握られていた。
目が合った途端、これまでとは比べものにならないような強い頭痛が襲いかかり、目の前が真っ暗になる。痛みの余り意識を失う刹那に、あの文言が脳裏をよぎる。
──あるあさのこと。
──ちょうのうりょく しょうねんが ベッドから めざめると
──ユンゲラーに へんしん していた。
私の意識は、ここで途切れた。
児童書のような柔らかい文体で読者の油断を誘う技法が、それこそ鋼の翼の如くギラギラと光ってますね。
だから同じ児童書系の「かごのそとへ」でみんな警戒したんですね(笑)
かわいい表現ばかりなのに、やってることはエゲツナイないのは流石です。
スパルタ教育と調教は紙一重、あるいは全く一緒なのかもしれませんね。
とりあえず、飛びたいなら飛ぶ練習をしようよと言いたくなります。
「傷つかぬものに青空は見えない」っていう歌詞がありますが、傷つきすぎると青空に飛んでしまうのですね。
面白かったです。後、傷だらけの女の子可愛かったです(やめなよ
ぼくのつばさは、まだやわらかい。
大きな木の上にある巣で、ぼくはお父さんと一緒に暮らしている。木漏れ日の差し込む、あったかい場所だ。
「おはよう、お父さん」
「おはよう、ツバサ」
ぼくの名前は、「ツバサ」という。空高く飛べるようにと、お父さんが付けてくれた名前だ。
空を飛べるようになるために、ぼくは毎日特訓をしているのだ。
「お父さん、今日もいい天気だね」
「そうだな。よく晴れていて、飛ぶにはいい日だ」
お父さんがぼくの一歩前に出て、ガシャンと翼を大きく広げる。
陽の光を跳ね返してキラキラと輝く、大きな大きなはがねのつばさ。
「ツバサ。お父さんは食べるものを探してくるから、ここで待ってるんだぞ」
「うん。分かったよ、お父さん」
朝の風を受けて、お父さんが巣から飛び立つ。ぼくはお父さんの背中を、見えなくなるまでじっと見送った。
お父さんが帰って来るまで、ぼくはここでお留守番だ。
「なにか面白いことは無いかなあ」
巣のなかには、ぼくが遊べるようなものは何もない。せいぜい、この間お父さんと散歩をしているときに拾った、蝶のサナギの抜け殻くらいだ。
退屈だなあ。そう思って、ぼくが何気なく巣の下を覗き込んだときだった。
「……」
ぼくの巣がある木の根元に、小さな女の子が一人、ぽつんと立っていた。真っ白いワンピースを身につけて、二本の足でしっかりと立って、じっと木を見つめている。
ぼくのいる巣に目を向けながら、女の子は上に向かって細いつばさを伸ばして見せた。ぐーっとぐーっと伸ばして、まるでぼくを迎え入れるような姿勢になった。
「ぼくといっしょで、まだやわらかいんだ」
女の子の細いつばさにはまだ羽も生えていなくて、空を飛ぶことなんてとてもできそうになかった。ぼくのつばさもまだふにゃふにゃで、やっぱり空なんて飛べやしない。
でもきっといつか、ぼくもお父さんみたいに風を切って空を飛べるようになるはずだ。だって、ぼくはお父さんの子どもだからね。きっと、お父さんみたいになれるんだ。
だから、あの女の子も同じ。大きくなったら、光り輝く「はがねのつばさ」になるんだ。並んで飛ぶことだって、追いかけっこだって朝飯前だ。一緒に遊べたら、どんなに楽しいだろう。
「早く大きくなって、ぼくと一緒に遊ぼうね」
ぼくは一声鳴いて、女の子に呼びかけた。
*
「お父さん、お父さん」
「どうしたんだい、ツバサ」
お父さんが持って帰ってきてくれた木の実を食べながら、ぼくはお父さんに女の子の話をした。
「留守番をしてるときに、女の子がここに来たよ」
「ほう、そうなのか」
女の子が木の下でぼくをじっと見つめていたこと、ぼくと同じでまだ小さい子どもだったこと。そんなことを、ぼくはお父さんに話して聞かせた。
「ぼくと同じで、まだつばさができてなかったよ」
「なるほど。ツバサと同じ、子どもなんだな」
大きな大きなつばさをガチャガチャと揺らして、お父さんはぼくの話のひとつひとつに頷いてくれる。
ぼくが、あの女の子と遊べるようになりたい、と言うと、お父さんは、じゃあ、早く大きくならないとな、とぼくに返した。
「ぼく、空を飛べるようになりたい。お父さんみたいに大きくなったら、ぼくも空を飛べる?」
「もちろんだ。早く大きくなれるように、しっかりご飯を食べるんだぞ」
「うん。わかったよ、お父さん」
ちょっと苦い味のする木の実を、ぼくは口いっぱいにほおばって食べるのだった。
*
それから、少し時間が経った。
「ツバサ。お父さんはご飯を取ってくるから、ここで留守番してるんだぞ」
「わかった。ぼく、ここで待ってるね」
お父さんはいつものように朝早くから巣を出て、お父さんとぼくが食べるご飯を探しに行った。ひゅーん、と風に乗って飛んでいくお父さんの後ろ姿を、ぼくは見えなくなるまで追いかけていた。
一人になってから、ぼくは自分のつばさを見つめる。
「まだ、ちょっと赤いなあ」
ぼくのつばさには、あちこちに赤い色が付いている。朝の冷たく澄んだ風になでられて、ちょっとくすぐったい感じがした。
ひとつ、ふたつ、みっつ……ぼくがつばさに付いた赤いもようを数えていると、誰かが近くの草を踏みしめる音が聞こえてきた。
「もしかして」
ぼくが巣から身を乗り出して、木の下を覗き込む。
見えたその先には、この前巣の近くまで来た女の子の姿があった。前と同じワンピースを着ていて、ゆっくりこっちに歩いてくる。
女の子が近づいてくるにつれて、ぼくはあることに気がついた。
「……あっ。あの子、つばさにキズがある」
小さなつばさに、引っかいたような赤い筋。そんなキズが、いくつもいくつも付いていた。真っ白い肌に、血で線を引いたような赤いキズが、くっきり目立って見えている。
ぼくは思わず、ぼくのつばさに視線を移した。
「ぼくと同じ、ぼくと同じだ」
ぼくのつばさ。そこに付いた赤い色は、女の子と同じ引っかいたようなキズだ。風にさわるとくすぐったくて、まだ少しひりひりする。
ぼくと女の子には、同じようにつばさにキズがあった。
同じ、同じなんだ。
「ぼくと同じように、あの子もがんばってるんだ」
ぼくは女の子の目を、一時も離さず見つめ続けた。瞬きもせずに、じーっと見つめ続けた。
*
「お父さん。ぼく、今日いいことあったんだ」
「ほう、どんなことだ?」
お父さんの持って帰ってきてくれた、少しすっぱい木の実を全部食べてから、ぼくはお父さんに女の子の話をした。ぼくと一緒で、つばさにキズが付いていたって話だ。
ぼくの話を聞いたお父さんは、いつものように大きくうなづいて見せた。
「そうかそうか。女の子も、ツバサと同じように頑張ってるんだな」
「うん。ぼくと同じだったんだ」
「いいことじゃないか、ツバサ。それなら、今日も頑張るか」
お父さんの言葉に、ぼくは頷いた。お父さんがしゃきっと立ち上がると、ぼくの前にどんと立つ。
「よし、ツバサ。翼を広げなさい」
「うん。お父さん、これでいい?」
「いいぞ。少し痛いけど、我慢するんだぞ」
つばさを広げたぼくに向かって、お父さんがきらりと光る大きなつばさを、しゃっと振り下ろした。
一瞬冷たい感じがしたかと思うと、それはすぐに、火が付いたみたいな痛みに変わった。
「いたっ」
「痛いか、ツバサ」
「うん、いたいよ、お父さん」
「そうか。それでいいんだぞ」
お父さんは頷いて、またつばさを振り下ろす。
ぼくのつばさに深く切れ目が入って、お父さんのつばさが赤く染まった。
「いたいっ、いたいよ、お父さん」
「頑張れ、ツバサ。これも、ツバサのためだ」
何回も、何回も、お父さんはぼくのつばさを切っていく。小さな切り傷、大きな切り傷。たくさんの赤い筋が、ぼくのつばさに作られていく。
ぼくが時々足を折ってしゃがみ込むと、その度にお父さんはぼくを立たせ直した。
「お父さん、もう止めてよ」
「まだだ、ツバサ。もう少しやらないと、強い翼にはならないぞ」
「本当に?」
「そうだ。傷つけば傷つくほど、ツバサの翼は立派になるんだ」
つばさに付いた真っ赤な血を払って、お父さんはまたつばさを構えた。ぼくはお父さんの言う通りにして、痛いのをこらえてつばさを広げる。高く振りかぶってから、お父さんはぼくのつばさを深く切りつけた。
いちごのように赤い血が、ぼくの体に降り注いだ。
*
それから、また少し経ったあとのことだった。
「いつものことだが、ツバサ。留守番は頼んだぞ」
「うん。分かったよ、お父さん」
お父さんは食べ物を探しに、一人で巣から飛び立った。もう見慣れた光景だけど、でも、お父さんが出ていくときは、やっぱり少し寂しい気持ちになる。
夕方くらいまで、ぼくは一人でお留守番だ。
「早く帰ってきてくれたらいいのになあ」
巣の中でつばさを広げて、ぼくは大きく伸びをする。たくさんのキズが付いたつばさは、まだお父さんのように硬くはないけれど、前に比べるとずいぶんしっかりしてきた気がする。
お父さんに切られるのは痛いけど、でも、これもお父さんみたいな立派なつばさを作るためなんだ。
「今日もがんばるぞ」
ぼくがつばさをたたんで、ふと下に目を向けたときだった。
「あっ」
「……」
ぼくの目に飛び込んで来たのは、あの時の女の子の姿だった。いつもと同じワンピース姿で、木の根元までゆっくり歩いてくる。ぼくは思わず、はっと息を呑んだ。
女の子がだんだん近付いてきて、姿がはっきり見えるようになると、ぼくはあることに気が付いた。
「やっぱり、ぼくと同じだ」
ぼくと同じように、女の子のつばさもキズだらけだった。前に会ったときよりも、もっとキズが増えている。ぼくみたいに、つばさを立派にするためにがんばってるんだ。
よく見ると、赤いキズに混じって、青いアザもたくさんできていた。叩かれた後にできる、丸くてうっすら青いアザが、あちこちにぽつぽつと姿を見せている。
「そうか。切ってもらうだけじゃだめなんだ。叩いてもらわなきゃいけないんだ」
お父さんはぼくを毎日のように切りつけている。それだけでも大丈夫だと思ってたけど、女の子のつばさには叩かれてできるアザがあった。きっと、切られるだけじゃなくて叩かれてもいるんだ。
女の子に負けないように、ぼくもがんばらなきゃ。
「叩かれるのは怖いけど、ぼくもがんばるよ。一緒に空を飛ぼうね」
ぼくは声をあげて、女の子に呼びかけた。
お父さんが帰ってきたら、このことを伝えなきゃ。
*
持って帰ってきてくれた甘酸っぱい木の実をすっかり平らげてから、ぼくはお父さんに声をかけた。
「お父さん、お願いがあるんだ」
「どうしたんだい。言ってみるんだ」
「お父さん、ぼくを叩いてほしいんだ」
「叩く?どういうことだ?」
ぼくは朝にやってきた女の子が、つばさにアザができるまで叩かれていたことを話した。たくさん叩かれて、丸くて青いアザがたくさんできていたことを、お父さんに話して聞かせた。
お父さんは、ぼくの話の一つ一つに深く頷いて、ちゃんと納得してくれたみたいだった。
「そうか、そうか。確かに、叩いた方がもっと強くなるな」
「うん。だからお父さん、ぼくのことをうんと叩いてよ」
「いいぞ。じゃあ、いつものように翼を広げて、お父さんの前に立ちなさい」
言われた通り、ぼくはお父さんの前に立つ。キズのいっぱい付いたつばさを広げて、ぼくはお父さんの目をじっと見つめた。
「いくぞ、ツバサ。痛くてもこらえるんだぞ」
「うん」
「これも、ツバサのためだからな」
お父さんが左のつばさをタテに構えて、大きく息を吸い込んでから、ぼくのつばさ目掛けて勢いよく振り下ろした。
バシンッ、と大きな音が響いて、切られたときとは違う、しびれるような痛みがつばさを駆け抜けた。
「うぐっ」
「続けるぞ。つばさをちゃんと広げるんだ」
右のつばさを振りかぶって、ぼくに叩きつける。
はがねを叩きつける鈍くて重い音が、静かな夜の森の中で木霊した。
「うっ……あっ……!」
「我慢だ、ツバサ。お父さんのようになるには、もっともっと耐えるんだ」
両方のつばさを振り上げる。ぶんっ、と風を切る音が聞こえたかと思うと、すぐさまぼくのつばさにはがねが叩きつけられる。痛みの上に、痛みが覆い被さった。
タテ・ヨコ・タテ・タテ・ナナメ・ヨコ・タテ……四方八方から、ぼくのつばさは叩かれ、殴られ、だんだんと腫れ上がっていく。
「これで……こうだっ」
叩かれていくうちに、ぼくはつばさから感覚が消えていくのを感じた。しびれが痛みを上回って、つばさがなくなったような感じがした。
そしてまた、お父さんのつばさが空を切る音が、ぼくの耳に飛び込んできた。
*
季節を一つまたいで、辺りの木々が衣替えを始めた頃だった。
「ツバサ。いつものように、留守番は頼んだぞ」
「うん。お父さん、気をつけてね」
お父さんはいつもと変わらず、ぼくに留守番を頼んで、食べるものを探しに出かけて行った。
今はいい季節だから、食べるものは簡単に見つかるって、お父さんは言っていた。お父さんの言う通り、最近は夕方になる前に、食べ物をたくさん持って帰ってきてくれる。だから今日も、早く帰ってきてくれるはずだ。
「でも、留守番はしっかりしなきゃ。ぼくが巣を守るんだ」
お父さんの代わりに、ぼくが巣を守る。そう思うと、ぼくはとてもやる気になるのだった。
張り切って留守番をしながら、落ちていく木の葉を追いかけてひまつぶしをしていたぼくの目に、また、あの光景が飛び込んできた。
「あっ、あの子だ」
白いワンピースの、あの小さな女の子。しばらくここに姿を見せていなかったけれど、今日は来てくれたみたいだった。
いつものようにぼくのいる木の根元までやってきて、ぼくのことを見つめ始めた。ぼくは巣から身を乗り出して、女の子の姿を視界にしっかりと収める。
「来てくれたんだね」
声をあげると、女の子は少しだけ背筋を伸ばして応えてみせた。ぼくはつばさを広げて、女の子に見せてあげた。
お父さんに毎日のように切られたり叩かれたりして、ぼくのつばさはキズとアザでいっぱいになっていた。ひりひりずきずきとあちこちが痛むけど、ぼくがお父さんみたいになるためには、これが必要なことなんだ。
「……」
ぼくがつばさを見せると、女の子が少しうつむいてから、ぼくに向けて両方のつばさをまっすぐ伸ばした。
女の子の伸ばしたつばさを見て、ぼくはまた、女の子のつばさに異変が起きていることに気づいた。
「あれは、こげた跡?」
小さなつばさに点々と作られた、赤いキズでもない、青いアザでもない、黒い点のような模様。少し焼けた肌の上に、黒点は一際目立って見えた。
ぼくはそれを、別の場所で見たことがあった。近くに雷が落ちて木が燃えたとき、飛び散った火の粉が別の木に作った、こげた跡だった。
「そうだ、火だ。火を使ったんだ」
女の子がつばさにこげ跡を作っていた理由を、ぼくはすぐに見抜いた。女の子はつばさに火を当てて、もっともっと強くしようとしているんだ。
ぼくのお父さんも、火は苦手だって言ってる。つばさが焼けて、怪我をしたこともあるって聞いた。だから、とても危ないことなんだ。
でも、ぼくもやらなきゃ、一緒に空を飛べるようにはなれない。だって、あの女の子がやっていることなんだ。それはきっと、女の子のお父さんかお母さんが、女の子のためにしていることにちがいない。
「ようし。ぼくもやるぞ、お父さんにお願いするんだ」
ちょっと難しいお願いだけど、お父さんならきっとやってくれるはずだ。ぼくが空を自由に飛べるように、火を使ってつばさを焼いてもらうんだ。
「見ててね、ぼくも同じようにしてみせるから」
女の子に追いつけるように、ぼくもがんばるぞ。
そう声をあげたぼくを、女の子はじっと見つめていた。
*
思った通り、お父さんは夕方頃に帰ってきた。持って帰って来てくれた、熟した甘い木の実を食べ終わってから、ぼくはお父さんに話を切り出した。
「お父さん、またお願いがあるんだ」
「よし、分かった。言ってみなさい」
「火を使って、ぼくのつばさを焼いてほしいんだ」
ぼくがそう言うと、お父さんは少しビックリしたみたいで、目をまん丸くしてぼくを見返した。
「火を使って?本当に言っているのか?」
「だって、あの女の子がやってたんだ。だから、ぼくもやらなきゃ」
「けれど、ツバサ。お父さんやツバサは、火にはとても弱いんだ。それは前に教えただろう」
「うん、知ってるよ。でも、ぼく、やってほしいんだ。お父さんみたいに、立派なつばさが欲しいんだ」
ぼくが何回もお願いすると、お父さんは腕組みして少し考え始めた。
けれどそのあと、いつもみたいに何度も大きく頷いて、閉じていた目を開いた。
「そうだな。火に強くなるのも大事なことだ。偉いぞ、ツバサ」
「お父さん、やってくれるの?」
「ああ、やってあげよう。少し準備をするから、待ってるんだぞ」
お父さんは巣から、口にくわえられるくらいの小さな小さな木の棒を、何本も取り出した。
それを何に使うかは、ぼくも知っている。木の棒を何かに擦り合わせると、簡単に火が付くんだ。火は木の棒がなくなるまで燃えつづけて、簡単には消えないようになっている。
「ツバサ。またいつもみたいに、翼を広げて立つんだ」
「うん。分かったよ、お父さん」
ぼくはいつもお父さんに叩かれたりするときみたいに、つばさを目いっぱい広げて立ち上がる。
お父さんがくちばしでくわえた木の幹に燃える棒を擦り合わせると、棒の先っぽがごうっと燃え上がって、赤々とした火が着いた。
「いいか、ツバサ。火を押し付けられるのは、切ったときより、叩かれたときより、ずっと痛いぞ」
「うん」
「切ったときや叩いたときと違って、お父さんには痛さの加減が分からない。本当に、いいんだな」
「うん。それでもぼく、こらえるよ」
ぐっと力を込めて、ぼくは巣の足場を踏みしめた。
そしてお父さんが、ぼくの左のつばさに、燃えた木の棒を押し付けた。
「あっ……熱っ、熱いっ」
切られたときとも、叩かれたときとも違う、鋭くあとを引く痛みが、ぼくのつばさに広がっていく。燃える棒を押し付けられた部分から、火の粉が木の幹を焼いたときと同じ黒い煙が立ち昇るのを、ぼくは自分の目で見た。
あまりにも痛くて、熱くて、苦しくて、ぼくは思わず気を失いそうになる。
「まだ始めたばかりだぞ、ツバサ。おとなしくして、姿勢を保つんだ」
「うっ……ぐぅっ……」
お父さんは目の前が暗くなりかけたぼくをはがねのつばさで叩いて、無理やり立たせ直した。ぼくはふらつく足に力をこめて、倒れまいと体を支えた。
一度燃える棒を離して、お父さんが今度は右のつばさに棒を押し当てた。
「いたいっ、あついよっ、お父さんっ」
「まだだ。もっともっと翼を焼かないと、火には強くなれないぞ」
火の消えかけた棒を、きちんと火を消しきって遠くに投げ捨てると、お父さんはすぐに新しい棒をくわえた。
迷わず火を着けて、勢いをつけてぼくに押し付ける。
「耐えるんだ、ツバサ。これも、ツバサのためなんだ」
「そ、そうだ……ぼ、ぼくはっ、お、お父さん、みたいに……」
気が遠くなりかけたぼくのまぶたに、あの女の子の姿が浮かんでくる。今ここでがんばらなきゃ、一緒に空を飛んで遊んだりすることはできない。
ぼくはもう一度つばさを大きく広げて、お父さんの前に立った。お父さんはくちばしにくわえた棒を振るって、ぼくのつばさに火の粉を振りまく。
ぼくのつばさが焼けるにおいが、辺り一面に広がっていった。
*
木の葉がすっかり落ちきって、冷たい風が吹きすさぶ季節になった。
お父さんが少し前から食べるものをたくさん貯めておいたおかげで、暖かくなるまで食べ物には困らなさそうだった。
「寒いね、お父さん」
「そうだな。ツバサは、初めての冬だからな」
時々強い風が吹くと、お父さんがそっと風からぼくを守ってくれる。ぼくは巣の隅で、つばさを折りたたんでじっと座っていた。
あれから、ぼくは毎日のように叩かれて、切られて、火を着けられている。キズと、アザと、ヤケドの数が増えていく度に、ぼくのつばさがお父さんのように硬く強いものになっていくのを感じる。
「もう、目は大丈夫か」
「うん。朝になったら、ちゃんと開けられるようになったよ」
ちょっとだけ変わったこともある。ぼくはつばさだけじゃなくて、顔とか体とか背中とかも、お父さんに叩いたりされるようになった。そうやると、つばさだけじゃなくて、体全部が強くなるってお父さんは言うんだ。
あちこちがぎしぎしと音を立てて、ちょっと気を抜くと突き刺すような痛みが走る。風に真っ正面から当たったら、体がばらばらになるんじゃないかと思うくらい痛かった。
「暖かくなれば、ツバサも一人前になれるぞ」
「ほんとに?」
「ああ。あと少しの辛抱だ」
ぼくはお父さんと一緒に身を寄せ合って、まだ来る気配の無い、あったかい季節を待ち続けている。
早くあったかくなればいいのに。ぼくがそう考えながら、小さく身を震わせていたときだった。
「おや?あれは、人間の子か」
「えっ?」
お父さんが声をあげて、巣から身を乗り出した。ぼくもつられて、木の下をぐーっと覗き込む。
すると、そこにいたのは。
「あっ。お父さん、あの子だよ」
「あの子?」
「ぼくがいつも話してた、あの女の子だよ」
こんなに寒いのに、いつもと同じ薄手の白いワンピースを着た女の子が、ぼくたちのいる木の根元までやってきていた。
ぼくは女の子の姿を見て、あっと思わず声をあげた。
「お父さん、お父さん。見て、見てよ」
「どうしたんだ?あの子がどうかしたのか?」
「よく見て。ぼくと同じで、あちこちにキズがあるよ」
女の子は、今のぼくとそっくりだった。つばさだけじゃなくて、顔や、足や、頭にもいっぱいキズがある。キズだけじゃなくて、アザやヤケドもいっぱいあった。
ぼくは体が痛いのも忘れて、飛び上がって喜んだ。
「同じだよ。あの子も、ぼくと同じだ」
「ほう、ツバサのように、あちこちを鍛えているんだな」
「そうだよ。ぼくと一緒なんだ」
うれしかった。ぼくと同じように、あの女の子もすごくがんばってる。体中ぼろぼろのキズだらけで、今のぼくそのものだった。それが、すごくすごくうれしかった。
あったかくなれば、ぼくはお父さんみたいに空を飛べるようになる。だからあの子も、空へ行けるようになるに違いない。
「うれしいなあ。ぼく、一緒に飛ぶのが楽しみだよ」
「そうだな。あと少しで、ツバサも一人前になれるぞ。あの子と一緒に、空も飛べるだろう」
「うん。そうだよね、きっとそうだよね」
巣の中ではしゃぐぼくを、お父さんが優しく撫でてくれた。
女の子はぼくとお父さんの様子を、震える体でじっと見つめていた。
*
「東の方へ行けば、ツバサの好きな苦い味の木の実がたくさん見つかるぞ。一度行ってみるといい」
「ありがとう、お父さん」
あたたかい木漏れ日が、巣に差し込む。ぼくは陽の光をいっぱいに浴びて、巣の裾にしっかりと立つ。
ぼくの後ろには、お父さんがどっしりと座っている。
「ツバサが一人前になってくれて、お父さんはうれしいぞ」
「えへへっ。ぼく、立派なつばさになったよ」
「ああ。ツバサはもう、一人前の鋼鳥だ」
ぼくは大きくつばさを広げる。ガシャン、という乾いた音が聞こえた。
光を反射してキラキラ輝く、硬くて軽いはがねのつばさ。それが、今のぼくのつばさだ。
大きさはまだお父さんよりも小さいけれど、それ以外はみんな、お父さんと同じだ。硬くて鋭くて、それでいて中は軽い。刀のように風を切って、葉っぱのように風に乗ることができる。
「それじゃあ、ツバサ。お父さんとツバサの分のご飯を取ってきてくれ」
「よぉし。ぼくに任せてよ」
ぼくはつばさを羽ばたかせて、風をつかむ準備をする。いい風が吹いてくるまで、少し待つことにしよう。
「そうだ、お父さん」
「どうしたんだい、ツバサ」
もうすぐ飛ぶ、その段になって、ぼくはあることを思い出した。
「あの子は、もう空にいるかな?」
「あの、人間の女の子か?」
「うん。あったかくなったから、あの子も空を飛べるようになってるはずなんだ」
お父さんは、ぼくにこう答えた。
「ああ。きっと今頃、空高く飛んでいるはずだ」
今、ぼくが飛ぼうとしている空。そこに、きっとあの子もいる。
ぼくは期待に胸を高鳴らせながら、ちょうど吹いてきた心地よい風に、すっとつばさを預けた。
「お父さん、ありがとう。ぼく、行ってくるね」
「ああ。気をつけてな」
両足を強く強く踏みしめて、ぼくは風に乗って飛び立つ。
あの子のいる、この広い空へ。
基幹産業を失った町が、その後急速に衰退してしまうケースは決して珍しい事象ではない。元となる産業への依存度が高ければ高いほど、喪失からのリカバリーはより困難なものになる。これはいつ何時、どの地域で起きたとしても不自然なことではない。
地域の衰亡を放置しておくことは、即ちそこから人が流出していくことを意味する。魅力の無い土地に若者は根付かず、平均年齢の上昇と共に町の寿命が反比例して縮まっていく。気付く頃には既に手遅れになっている、それが実情である。
柱となる産業を失った場合、何らかの形で新たな別の産業を勃興させ、人を定着させなければならない。それは行政の使命であり、また地域住民にとっての切なる願いだ。地域の活性化のためには、時として大きな決断を伴う。本稿で取り上げるのは、数年前にある「決断」をした地方都市である。
石竹(せきちく)市。関東地方の最南部に位置するこの都市は、かつて巨大な自然公園である「サファリ・ゾーン」を擁する一大観光都市であった。サファリ・ゾーンには種々の希少性の高いポケモンが放し飼いにされ、見る者を大いに楽しませていた。
観光だけでなく、携帯獣を繰る人々にとっても、石竹市は大変魅力的な都市であった。サファリ・ゾーンの園長は、大胆にも公園のポケモンの捕獲を許可する施策を取ったのである。一定額の料金を支払い(全盛期でも五百円であったが、十二分に採算は取れていたという)、定められたルールと制限時間の中で、という制約はあったが、希少性の高いポケモンを捕獲できる機会とあって、大いに賑わいを見せた。
サファリ・ゾーンを基幹産業として、石竹市は著しい発展を遂げる。観光客相手の土産物店や飲食店が立ち並び、人の入らない日は無いと言われるほどになった。この目覚しい経済の成長を受けて、市は「栄えている都市」の象徴とも言えるポケモン・ジムの誘致に成功。さらには市のジムリーダーを務めていた杏氏が、ポケモン・リーグの重鎮としての立場を得るという、かつてない快挙を成し遂げた。
このように文字通り栄華を極めた石竹市であったが、しかし、ある時状況は一変する。サファリ・ゾーンの園長が、突如としてサファリ・ゾーンの閉鎖を宣言したのである。
園長の唐突な動きに、市の対応は後手後手に回った。園長に対して市の職員や関連産業の重役らが懸命の説得を行ったが、園長の決定を覆すことはついに叶わず、サファリ・ゾーンは閉鎖された。当の園長は閉鎖から間を置かず、蛻の殻となった石竹市から退去した。
一連の慌しい出来事の背後には、地価の高騰に纏わる投機筋の動きがあったと囁かれている。真相は定かではないが、何れにせよ何らかの利権が絡む事案であったことは想像に難くない。サファリ・ゾーンの園長も案件に介在したとする噂もあるが、噂の域を出ず真偽の確定には至っていない。
ほとぼりが冷めた頃、園長は石竹市より遠く離れた静都地方の丹波市にて、同等の規模を持つ新たなサファリ・ゾーンを開園した。何がしかの動きがあっても良さそうなものであったが、この件に付いてはマスコミもサファリ関係者も足並みを揃えるかの如く沈黙を守っており、背後にどのような利権の動きがあったのかは定かではない。
サファリ・ゾーンの突然の閉鎖は、同公園に依存していたあらゆる産業に致命的な打撃を与えた。観光客の足取りは完全に途絶え、日を追うごとにシャッターを下ろす店舗が増加。一年も立たない間に、市の産業はほとんど壊滅状態に陥った。
急速に衰退する市の産業と、それに伴う財政の大幅な悪化を受け、石竹市は大規模な梃入れを行うことを余儀なくされた。サファリ・ゾーンに代わる基幹産業の創出が急務となったのである。各方面から有識者を招いたり、市民に案を呼びかける等の懸命の取り組みが行われた。
しかし即効性のある妙案は無く、財政の逼迫はピークに達していた。石竹市は幾許かの議論を経て、ついにある決断を下した。
「廃棄物の処理場が作られたのは、サファリの閉園から一年半くらい経ってからでした」
サファリ・ゾーンの閉園前後に、とある廃棄物の処理ニーズが急激に増加しつつあった。廃棄物の発生に対して処理が追い付かず、全国的な問題となっていたのである。増え続ける廃棄物を速やかに処分すべく、何らかの手を打たざるを得ない状況に合った。
石竹市はここに着目し、その廃棄物の処理場を市に大々的に誘致するという動きに出た。廃棄物処理を新たな雇用創出の手段として見出すと共に、処理場を受け入れることにより得られる補助金を市の財政再建に当てようと計画したのである。処理場のニーズは極めて高く、石竹市には直ちに処理場建設の案件が持ち込まれた。
A氏(仮名)は、処理場建設計画の初期から深く携わっている人物の一人だ。A氏はサファリ・ゾーン閉園以後急速に衰退する石竹市を救いたいという思いで、市が掲示した廃棄物処理場の計画に賛同し、今日に至るまで様々な領域に携わってきた。計画の隅々までを知り尽くした、数少ない人物である。
「処理場の建設は、急ピッチで進められました。あの時から、反対する声もあったように思います」
財政破綻が目前に迫る中で、市は土地の所有者に立ち退き要請を行うなどして半ば強引に処理場建設の用地を確保し、アセスメントもそこそこに建設を開始させた。この拙速な石竹市の計画推進に関して反発の声が上がり、左翼系の市民団体が市長に質問状を送付するといった動きも見られた。
しかし、一方で市の計画推進を支持する勢力も大きなものであった。サファリ・ゾーン閉園以後の石竹市の衰亡ぶりを目の当たりにした市民からは、雇用創出と財政再建の機会となる処理場の一刻も早い建設を求める声が後を絶たなかった。石竹市はこれをバックに、廃棄物処理場の建設を力強く推し進めていった。
「処理場ができて、政府からの補助金で財政も持ち直して……久しぶりに、市が元気になったんです」
廃棄物処理場の誘致に伴う補助金は、逼迫していた石竹市の財政を大いに潤した。市は予算を組んで市民に積極的にサービスを提供する形で還元し、財政の建て直しに成功したことを幾度と無くアピールした。一時は財政破綻の可能性さえ取り沙汰された石竹市にとっては、まさに奇跡的な出来事であった。
建設された処理場は予定通りに稼動を開始し、稼動から半年も経たず、施設の稼働率は常時九十パーセント台を維持するほどにまで達する。好調な稼動ぶりを受けて国は石竹市に補助金を追加給付し、市は並行稼動させるための処理場を別途建設していった。
「今は、合計五つの処理場が稼動しています。あと三ヶ月で、もう一つも再稼動の予定です」
現在、石竹市には合わせて六つの処理場が存在している。最初期に建設された一つは、定期検査フェーズを迎えて半年の稼動停止期間に入っている。残る五つの処理場は、稼働率が日常的に百パーセントに及ぶほどの過密状態での処理を続けており、二十四時間止まることなく運転を続けている。
処理場を建設した効果により、石竹市の財政は安定期に入っている。現市長はこの成果をバックに、市長選にて三期連続でトップ当選を果たしている。市長はさらなる処理場の建設に意欲を見せており、水面下で候補地の選定が行われていると囁かれる。
このように石竹市の活性化に貢献した処理施設であるが、A氏は険しい表情でその実情を語った。
「道行く人に白い眼で見られている……そんな気がするんです。本当はそうでなかったとしても、そう思いこんでしまうんです」
廃棄物を取り扱う石竹市においては、先にも触れたが根強い反発の声も上がっている。市民団体は「廃棄場の撤去」を市に対して再三に渡り求めており、市側は対応に苦慮していると伝えられる。昨今も、処理場の建設推進派である現市長が市長選にてトップ当選を果たしたものの、開票結果を見ると建設反対派の候補が僅差で肉薄しており、まさに薄氷の勝利であった。石竹市民の処理場に対する不安・不満の声が高まっている証左であろう。
処理場への反発を強めるのは市内の人間だけではない。海外に本拠地を置く自然環境保護団体は、そもそも処理場自体の存在が自然環境に重大かつ深刻な悪影響をもたらしているという声明を発表。公称三百万人(関係者から、実数は六十万に満たないとの発言がある)の処理場存続反対署名を集め、新規構築計画の即時停止と現在稼動している処理場の早急な閉鎖を求めて石竹市に要望書を送付するほどの事態となっている。同団体は昨年末石竹市民全員に、処理場が稼動する様子を綴ったドキュメンタリー・ビデオの納められたディスクを配布するという行動に出るなど、圧力を強めている。
こうした動きに触発され、建設反対派はより力を強めている。先日、石竹市内で二千人もの参加者を集めたデモ行進が成功裏に終わったのは記憶に新しい。市としても意見の黙殺は難しい状況にあり、外部から環境問題に関する有識者を招くなど歩み寄りの姿勢を見せている。しかし、依然として反対派の声は収まるところを知らず、最終的には市長のリコールにまで発展するのではないかと噂されている。
一方で、処理場建設に賛成の立場を取るものも多い。特に、サファリ・ゾーン閉園後に基幹産業を失った商店主たちは、財政の逼迫・困窮の恐怖を身を持って味わわされている。彼らにとっては処理場が存続することによって国から助成される給付金の存在が代え難いほど大きく、処理場は右肩上がりで増え続ける廃棄物を処理する有益な施設であると主張している。
賛成派と反対派の議論はここ数年平行線を辿り続けており、決着の付く見込みは一向に見えない。処理場の扱いを巡って市を二分する事態となっており、話の上での些細な行き違いや見解の相違が切っ掛けとなり、暴力沙汰になることもしばしばである。処理場の賛成・反対で、同じ石竹市民が色分けされていると、旧来から石竹市に住む人々からは嘆きの声が後を絶たない。
「処理場をこれ以上作るべきなのか、そして、今稼動中の処理場を今度も動かし続けるべきなのか……私には、それが正しい道には思えません」
そもそも、石竹市の処理場は何を処理する施設なのか。
ここ数年の間、幅広く見積もっても過去十年以内の間に、その廃棄物の総量は爆発的な増加を続けている。ある試算では、日本国内だけで一週間に約九千トンもの廃棄物が新たに生み出されていると言われる。正確な統計が取れていない地域もあり、また統計に使用される係数も早急な更新が必要であるとの見解が出されているため、実数が先の試算を上回ることはほぼ間違いないと言われている。
圧倒的な質量もさることながら、廃棄物に対する課題は非常に難しいものがあった。性質上再利用が極めて難しく、これまで数多くの再利用プロジェクトが立ち上っては消えるということを繰り返していた。水に溶けにくく燃えにくいという高い耐久性に加え、通常の廃棄物のように圧縮して固めるという処理も難しい。単純な強度の高さもあり、処分に際しては莫大なコストを要する存在だ。
現在打ち出されている処理方式は、廃棄物を機械的に破砕し、粒状にして埋め立てるというものである。廃棄物の特性を考慮した、ある意味止むを得ない処理法であり、効率的とは言えないのが現状である。廃棄物を埋め立てた際に生じる自然環境への影響に対する懸念もあるが、現時点ではどの程度の影響をもたらすのかは未知数である。
「殻の砕ける音を毎日のように聞きながら、この先のことについて考える日々が続いています」
二十世紀末頃、静都地方の若葉市在住の宇津木博士により、ポケモンは卵生にて子孫を残すという発見がなされた。精緻に取り纏められた報告書により、ポケモンはある一定の枠組みの中で、どちらかの親の原種となるポケモンの子を宿した卵を産むことが分かり、各界に大きな衝撃をもたらした。
この宇津木博士の報告が為されて以後各地でポケモンの卵の発見例が爆発的に増加、一年も経たない間に、ポケモンの卵はもはや何の新規性も無い、ごく普通に見られるものとなった。これは、各地域のポケモン・ブリーダーがポケモン間で卵を産ませるための手法・技術を迅速に確立し、ポケモン・トレーナーが積極的にそのサービスを利用するようになったことが最大の要因と見られている。これにより、ポケモンの卵は数を急速に増やしていった。そこで持ち上がってくる問題が、卵が無事に孵化した後に残る「卵の殻」の取り扱いである。
石竹市の処理場が処理しているのは、ポケモンの卵である。
ポケモンの卵の殻は、本来であれば時間と共に風化し、自然へ還元される。ところが、近年発達したポケモンの産卵ビジネスにおいて、ポケモンの排卵を促進するために使われている特殊な薬剤が使用されるようになった。薬剤について、ポケモン自体への副作用は無いことが臨床実験で既に証明されているが、別の副作用として「産まれた卵の殻の成分が変質し、自然に還らなくなる」という現象が発生することが判明した。
つまるところ、何らかの形で人為的に、卵の殻の処分を行わなければならないということである。
「処理すべき卵の数がどんどん増えて、都度処理場を増設していって……その繰り返しです」
宇津木博士の報告により、ポケモンは種族によらず、ほぼ同一構造の卵を産むことが分かっている。そのため処理場では、ありとあらゆる卵を一箇所に集め、ある程度の質量に達するとまとめて破砕するという処理方式を採用している。元々のポケモンの種類に依存せず同じ方式で処理できるため、処理場は単純な構造で高い稼働率を上げることができる。一つの処理場に十五台の処理機が配備され、現在稼動中の処理場は五つ存在している。総合計で七十五もの処理機が、ほぼ休むことなく処理を続けているのが現状である。
そこに及んでさらに処理場を建設し、加えてその処理場には旧来の倍以上の処理機を配備するという計画があることから、ポケモンの卵がどれほど凄まじい勢いで廃棄されているかが分かる。そもそも卵の処理場は石竹市にしか存在しないわけではなく、国内で合わせて三十箇所に上る処理場の中の、比較的処理能力の高いものの一つに過ぎない。国内の処理場はいずれも稼働率が限界に達しており、各地で新規の建設計画が持ち上がっている状態である。
ポケモンの卵の処理については社会問題の域を既に超えており、国家としてどのように対峙していくかが問われる大問題となっている。ポケモンの卵を取り扱う業者に課税を行い圧力を掛けるという政策を打ち出した政党もあったが、ポケモン・トレーナーの育成に力を入れる文科省を初めとする省庁が一斉に反発、即時の取り下げを余儀なくされた。ポケモン・トレーナーとそれに付随する産業の規模は国家の基幹を支えるほどにまで成長しており、何らかの不利益をもたらすようなことは「国が傾く」(文科省関係者)と完全に忌避されている。
今や国家に多大な影響をもたらすまでになったポケモン・トレーナー達は、何故卵からポケモンを孵化させるのか。ポケモンの卵を取り扱うポケモン・ブリーダーによると、卵から孵化したばかりのポケモンは、野性のポケモンに比べて成長の伸び代が大きく、戦いに向いた体質や能力を得やすいためという。単刀直入に言えば、野生のポケモンをそのまま捕獲するより、卵から孵化して手塩にかけて育てる方が強くなるということである。
先述の理由により、ポケモンに卵を産ませるサービスを利用するポケモン・トレーナーが後を絶たない。しかもその母数は各地域で年々増加の一途を辿っており、それに伴ってポケモンの卵の数自体も増えることになる。
止まらないポケモン・トレーナーの増加については、ポケモンに関わらない産業の深刻な空洞化やドロップアウトしたトレーナーの社会的地位の不安定さなどにより別方面からも早急な対策を求める声が上がっており、国は何らかの措置を講ずることが求められている。そのため、いずれトレーナー自体の増加には一定の歯止めが掛かると考えられているが、廃棄物の増加傾向が直ちに収まるものではないとする見解が根強い。
根本的・抜本的な解決策はなく、処理場の稼働率を上げて対応するしかないのが、廃棄されたポケモンの卵に係る問題である。
――そしてA氏は、今後持ち上がってくるであろう「ある問題」に対する、深刻な懸念を吐露した。
「新しい処理場は……もちろん、卵の『殻』も処理します。それは、これまでの方針通りです」
「それとは別に、新しい処理機を導入する予定があります。卵の『殻』ではなく、別の廃棄物を処理するためです」
「何の処理を行うか、ですか? それは――」
「ポケモントレーナーの人が捨てるのは……ポケモンの卵の『殻』だけじゃありませんから」
2012年〜2013年頃にかけて頒布した、ポケモン恐怖小説作品集です。頒布からだいぶ期間が経過したので、Web向けに公開いたします。
なお収録作品のうち、下記のものは公開済作品の再録のため、このスレッドでは公開しません。
●七八〇の墓標
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/780.html
●オブジェクト指向的携帯獣論
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/object.html
●私の世界
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/world.html
●壁はゆめの五階で、どこにもゆけないいっぱいのぼくを知っていた
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/collapse.html
昔々、サイユウの町は、ホウエンからやって来た偉いお侍が治めておったそうだ。
ホウエンのお侍は、サイユウの民に重い年貢をおさめさせて、朝から晩まで働かせ、たいそういばっておったということだよ。
そんなお侍が、ある日、村々の見回りをしておる途中に、草むらの中から「おい、おい」と小声で呼ばれたって。
お侍というのは、その辺りの村人が簡単に「おい」なんて呼んでいいお方じゃない。だからお侍が
「侍に向かってかように無礼な態度を取るとは、何奴か!」
とカンカンに怒って草むらに分け入ったらさ、なんとそこにいたのは人じゃなくて、大きな紫のハブのマジムン(サイユウでは昔、ポケモンのことをこう呼んでいました)だったんだよ。
ハブが口を聞くなんて、とお侍がおどろいたのもつかの間、ハブはお侍にこんな頼み事をしたって。
「お前さん、ちょうどいい所に来てくれた。今からわしは龍になるための準備をするから、そこで誰か来ないか見張っていてくれんかね。特に、白いイタチのマジムンが来たら、何としても追い返してくれんか」
お侍は、ハブの言うことを聞くなんて、と思ったが、しぶしぶとハブの言うとおりにした。龍ってものを、自分の目で見てみたい気持ちもあったんだろうね。それでハブを背にしてしばらく草むらに立っておった。
そうしたら白いイタチのマジムンがやって来て
「紫のハブを見なかったか」
とお侍に聞いたと。お侍はハブに言われた通り
「いや、見なかった」
と答えたら、白いイタチは不思議そうに首をかしげて、きた道を戻っていった。そうこうするうちに紫のハブは、立派な白い龍の姿に変わっておったって。
白い龍はお侍にこう言ったそうだよ。
「お前が見張ってくれたおかげで、わしは無事に龍になることができた。お礼にこの紫の刀をあげよう。これは、わしら紫のハブの一族が、白いイタチの一族と戦うためにずっと持っていたものだけれど、わしはもう戦うのにほとほと疲れてしまったのだよ。そういう理由で龍になるのだから、もういらなくなったこの刀をお前にあげるけれど、決してこの刀で生き物を切ってはいけないよ。龍からもらった刀だと言って見せればそれだけで人も獣も何でも言うとおりになるから、どうか切ることだけはしないでおくれよ」
お侍はこれを聞いて大喜びした。見せるだけで誰でも何でも言うことを聞く刀なんて、お侍にとってはすごいお宝だったろうね。だから
「わかり申した、約束、しかと守らせていただこう」
ときっぱりとした声で言ったって。
それで、白い龍は安心して紫の刀を置いて、天に登っていったんだよ。
紫の刀を持ったお侍は大いばりで、サイユウのある村へやって来た。そうしたら、お百姓たちが困り果てた様子で道ばたに座っておった。
お侍は
「どうしたどうした、さっさと畑仕事をせんか」
と、どなった。お百姓はお侍を見て、慌てて地面に頭をこすりつけながらこう言ったって。
「それがお侍様、鳥や獣や虫のマジムンが畑に次々やって来て、仕事にならんです」
「わしらもほとほと困っております。今すぐに追い出しにかかりますから、どうぞお許し下さい」
お侍はこれを聞いて、ははあ、ちょうどあの刀を使ってみるのにいいな、と思った。それから
「かっかっか、なんじゃ、そんなことならわしに任されよ」
と、大笑いをしながら、ゆうゆうと畑へ向かったって。
お侍は、この村の畑が全部見下ろせる丘へやって来た。なるほど確かに、トウキビの畑にも、イモの畑にも、いろんな鳥や獣や虫のマジムンが集まって、荒らし放題やっていた。
お侍は、龍にもらった紫の刀を天へ向かって抜き放ち、高らかな声で言ったって。
「獣よ、虫よ、鳥よ、これを見よ、これなるは天におわします龍神様よりいただいた刀であるぞ。この刀の持ち主のわしに逆らうことは、龍神様に逆らうことであるぞ。分かったらこの地から去れい」
そうするとね、あっちからピイピイ、こっちからギャアギャア、いろんなマジムンたちの騒ぐ声がして、鳥も獣も虫も、みーんな逃げてしまったって。
お百姓たちは大喜びして、
「お侍様、ありがとうございます」
とお礼を沢山言ったって。
さて、これだけならこのお侍は、いいことをしたと思うだろうね。でも、お侍は紫の刀をお百姓に向けて言ったって。
「お前たちもさっきの言葉を聞いていただろう。わしの言葉に逆らうことは、龍神様に逆らうことなのだぞ。分かったらさっさと働いて、畑を元に戻さんか」
お侍の言葉を聞いたお百姓の顔は真っ青になって、
「へへー、分かりました。すぐに畑仕事に戻ります」
と、みんな慌てて畑へ向かったって。
それでね、お侍は
「これは良い物を手に入れた。これでみんなわしの言うとおりじゃ」
と、とても気分を良くして、お城へ帰ったんだよ。
それからお侍は、龍からもらった刀でお百姓を無理やり働かせて、年貢をたっぷり取り上げた。
男も女も、オジイもオバアも、子どもや病気の人まで働かせたんだよ。
ひどいもんだねえ。
ところがある年、あちこちの村の畑にひどい病気がはやって、作物はみーんな枯れてしまったって。
お百姓たちは、年貢どころか、自分たちの食べるものにも困る有り様だったということだよ。
「お侍様、作物がみんな枯れてしまったので、どうしても今年は年貢が納められません。どうぞお許し下さい」
そう言って村のお百姓たちは泣いて謝ったけど、紫の刀を持ったお侍は許さなかったって。
「何としてでも年貢を納めないと、許さんぞ」
そう言って紫の刀を向けて怒ったけれど、お百姓は頭を地面にこすりつけて謝るだけで、なんにもならない。
いくらなんでも、何にもないところから年貢がわいて出てきたり、枯れてしまった作物がみるみるうちに元気になる、なんてことは、どんなに龍神様の刀を振りかざしても、無理な相談だったわけ。
お侍はカンカンに怒った。紫の刀でもどうにもならないことが、がまんできなかったんだろうね。だから
「ええい、こうなったらお前を殺して、村人へのばつにしてやるわい」
そう言って村の広場へお百姓を連れて行くと、縄でしばって、紫の刀を振り上げた。
するとそのとたんにね、空が雲におおわれて、嵐の前のような強い風がふいてきたって。
村人たちが
「なんだ、なんだ」
と不思議そうな顔をする中、お侍はあのハブのマジムンとの約束を思い出して、真っ青になったけれど、もう遅い。
ガラガラドッシャーン!!
ものすごいカミナリが村の広場に落っこちて、その真下にいたお侍は死んでしまったって。
それでね、お侍の服はこげていたけれど、側に落ちていたあの紫の刀だけは、きれいなままだったから、村人たちは
「ははあ、このお侍はこの刀を龍神様からもらったものだと言っていたけど、それは本当だったんだなあ」
「弱い者いじめをしてきたから、バチがあたったんさあ」
と、うわさしあった。
それでその刀は、村のお社にあずけられて、大切にまつられることになったということだよ。
あとがき
このお話では、ハブネークが白い龍になったということが伝わっています。
白い龍のポケモンといえば、ハクリューですね。昔、ポケモンの進化のことがまだよく分かっていなかった頃には、ハクリューの進化前のミニリュウというポケモンも見つかっていませんでした。だから、他の種類のポケモンが、修行をしてハクリューになるのだと思われていたのです。
このお話に出てくるハブネークは、紫色の姿をしていますが、その抜け殻はハクリューのように真っ白なのです。だから、昔の人は、ハブネークが修行をしてハクリューになるのだと考えたのかもしれません。
また、このお話では、サイユウの人々がホウエンからきたお侍に苦しめられる様子が書かれています。昔、サイユウやトクサネ、ムロといった島々は、ホウエンの領主に治められ、このお話のように重い年貢を払わされて、苦しい暮らしをしていました。サイユウやトクサネには、マジムン(ポケモン)の不思議な力を借りて、そうしたお侍をやり込めるお話が沢山残っています。このことから、サイユウの人たちがマジムンの力を敬っていたこと、そしてマジムンの力を借りてでも苦しい生活を抜け出したい、と強く願っていたことがわかります。
「泰さん、気づきましたか!?」
なんだ、ここは。
自分を取り囲む見知らぬ顔達、体育の授業を彷彿させる四方の景色。ガクガクと肩を揺すりながら自分に向けて話しかけてくる者がいるが、その名は他ならぬ父親を指すものであるはずだ。
それに、瀟洒な照明器具によく似た姿のゴーストポケモン。美しくも不気味な蒼色の炎を宿したそれは、数いるポケモンの中でも最も苦手な部類だった。父の相棒であるからという理由だけで、ポケモンに罪は無いというのは百も承知なところであるのはわかっているが、見たくないものは見たくない。
しかしどうして、それが至近距離に。理解出来ないことの数々に、リノリウム張りの床に腰を下ろした悠斗は頭が痛くなった。
「あ、あなたは……」
ようやく発した声は震えていたが、今の悠斗はそれどころではない。何もかもがわけのわからない状況なのだ。
だがその中で、唯一見覚えのある面影を見つけた彼の心に、少しばかりの安堵が浮かぶ。
「ああ、目が覚めましたか、泰さん!」
声をかけた相手である、先ほどまで自分を揺さぶっていた男はホッとしたような表情になる。そう、彼は今までに何度か見たことがある。悠斗は記憶の糸を手繰り寄せ、確か、確か、と脳の奥から情報を引っ張り出した。この、丸っこい童顔と苦労性っぼさが印象的な人は家にもいらしたことがある、父親のマネージャーとかいう、この世で一番大変そうな仕事に就いている男は確か……。
「そうだ、確か…………森田さん?」
「さ、『さん』……!?」
悠斗の台詞に、男ばかりでなく、周囲で様子を伺っていた他の者達まで驚きを露わにした。人だけではない、困った風に浮遊しているシャンデラでさえ、ギョッとしたように炎を揺らす。
「ええと、俺は……すみません。あの、ここは……」
しかしそんな反応も、そして自分の口から出た声が低く濁ったものであることにも意識がいかない悠斗は、痛む頭を押さえながら断続的な言葉を紡いだ。それにまたもや、皆が驚愕の表情を形作る。
「す、すみません……!?」「あの羽沢さんが……あの羽沢さんが謝った……」「しかも、こんなにスマートに……」ざわめきの内容はよく聞こえなかったが、彼らの不安そうな様子はただでさえ不安な悠斗をさらに不安にさせた。本当に何が起きているのか、と問いかけようとしたが怖くて聞けない。「ねえ、これヤバいんじゃ……やっぱり救急車……」数歩後ずさっていた女性が震える声で言いかける。が、彼女を制して動く影があった。
「いえ、もう少し具合を見てみます。泰さん、ちょっと休みましょう、いや、今日はもう帰りましょうか」
「あの……それはありがたいのですが、俺は……」
「すみません! 羽沢が体調不良のようですので、本日はこれで失礼させていただきます! 所長!」
口を開いた悠斗にまたしてもどよめきかけた周囲の声を遮るように、森田はシャンデラをボールに戻しながら早口で叫ぶと、「立てますか」と悠斗に手を差し伸べた。「おー、了解」離れたところで別のバトルを見ていた064事務所の所長が呑気に返事をした時にはすでに、悠斗は森田に腕を引かれながら歩かされていた。
「どうしちゃったんですか、泰さん。さっきから変だし、なんか気持ち悪いこと言い出すし……あ、いえ、別に泰さんがキモいんじゃなくってその、様子のおかしいのがキモいと言いますか……」
コートを出て、駐車場に向かいながら森田はぶつぶつと文句を言い、そして一人で慌ててごまかした。そんな彼の台詞の半分も頭に入っていない悠斗は「違うんです」と、弱々しい声で言う。
「俺は、泰さんじゃなくて……いや、何なんですか! 俺はあいつじゃない、俺は羽沢、悠斗だ!」
「はぁ?」
くぐもる声を裏返して叫んだ悠斗に、森田は丸い目を細くした。「そっちこそ何なんです、泰さんが冗談なんて、明日はヒトツキでも降るんじゃないですか」呆れたようにしつつも愉快そうに笑い、森田は自分の車の鍵を開けながら悠斗の肩をポン、と叩く。「ま、送っていきますから。今日は帰って、ゆっくり休んでください」
しかし、そんな森田の労いの言葉など、悠斗の耳には入っていなかった。
車のガラスに映る、自分の姿。ジグザグマみたいな森田の隣に位置するそれは確かに自分のものであるはずなのに、それでも、悠斗のものではなかった。
眉間に深く刻まれた皺。鋭く細い瞳。動きやすいよう短く切り揃えられた黒の髪。人当たりが悪すぎる人相。鍛えられてはいるがところどころに青筋の浮かぶ身体。
下ろしたばかりの灰色のジャケットと、気に入っている細身のパンツは姿形も無く、代わりに纏っているのは運動に適した、半袖のTシャツとジャージである。間違いない、この姿はどうしようもなく、一番嫌いで一番憎くて、自分が何よりも遠くありたかった――
「あの」
「はい。どうしました? 泰さん」
許しがたいその呼び名も、もはや否定することは出来ない。自分が父の身体になって、父がいるべきバトル施設にいるということは、本来の自分の身体は今何をしているのだろうか? 新たに浮かんだ疑問に、悠斗の脳はコンマ数秒で最悪の答えを叩き出す。
助手席のドアを開けて待っていた森田の丸顔に、悠斗は体温が一気に降下していくのを感じながら叫んだ。
「携帯! 俺の、早く!」
「何言ってんですか、もー。家ですよ家、いくら頼んでも『そんなものは必要無い』とか言って泰さんは携帯を携帯してくれないんですから、今日も――」
「じゃあ! じゃあ森田さん貸して!」
明らかに狼狽を顔に浮かべた森田だが、あまりの気迫に押されたらしく、笑顔を引きつらせて携帯を悠斗に手渡した。「ありがとうございますッ」その言葉に森田が硬直したのが視界に入ったが構ってなどいられない。
心拍が跳ね上がり、ガクガクと震える指をどうにか動かして、悠斗は自分の電話番号をタップした。
◆
「羽沢君!」
何が起こったんだ。
チカチカする視界が徐々に晴れていく中、泰生はぼんやりとそんなことを思った。
頭が痛い。低く響いているような鈍い衝撃が、脳の奥から断続的に与えられている。キーン、と耳鳴りがして、彼は思わず頭部に自分の片手を当てた。
「よかった、気がついて……羽沢君、少しの間だけど、気失ってたんだよ。やっぱり疲れてるんじゃないかな」
目の前にいる男がホッとしたように喋っている。眼鏡のレンズの向こうにある穏やかそうな瞳に見覚えは全く無い。そうそう珍しい外見というわけでは無いからその辺ですれ違うくらいはしたかもしれないが、少なくとも、こんな慣れたように話しかけてくる仲ではないはずだった。
では、こいつは誰なのか。倒れていたらしい自分を支えてくれていた、その見知らぬ人物の腕から立ち上がって泰生は口を開き掛ける。言うべきことは二つ、お前は誰か、と、先ほどまでしていたバトルはどうなったのか、だ。
「今日はもう帰って休んだ方がいいよ。とりあえず、さっき富山君たちには連絡いれたからさ。ゆっくりして、貧血とかかもしれないし」
が、泰生が言おうとしたことは声にはならなかった。
何だ、これは。泰生の目が丸くなる。起こした身体がやけに軽い、いや、軽いを通り越して動かすのに何の力を入れなくても良いくらいだ。また、耳の聞こえも変に良く、一人でぺらぺら話している男の声は至極クリアに聞こえてくる。
それにここはどこなのか、天井はかなり低く圧迫感があり、四方を囲う壁には無数の穴が開いていた。酷く狭苦しい室内にはあまり物が無く、古臭さを感じる汚れた絨毯は所々がほつれて物悲しい。座り込んだ自分の横で膝をついている男の後ろには、黒々としたピアノが一台。コートにはあるはずもないそれに目を奪われ、泰生は、視界に広がるその風景が不自然なほど鮮明に見えることまで意識がいかなかった。
視線をさまよわせ、固まっている泰生を不審に思ったのだろう。白いシャツの男が「ねぇ、羽沢君」と軽く肩を叩いてくる。
「大丈夫? 医務室とか行った方がいい? どこか痛むところとかあるかな、頭は打ってないはずだけど……」
「いや、俺は――」
そう言いかけて、泰生はまたもや驚愕に襲われた。口から出た声が、いつも自分が発しているものよりもずっと高く、そしてよく通ったのだ。口を開いたまま硬直してしまった泰生に、男はどうして良いかわからないといった様子で困ったように瞬きを繰り返す。「もう少しで富山君達来るから……」戸惑交じりの声が狭い部屋に反響した。
「悠斗!!」
その時ちょうど、簡素な扉が勢いよく開かれた。飛び込んできたのは長い前髪が片目を隠している若い男で、泰生は彼に見覚えがあった。詳しいことも名前もわからないが、家に何度か遊びに来ているのを見たことがある。確か、息子である悠斗の友人だったはずだ。
よく知っているというわけではなくとも、面識のある者の登場に泰生の心がいくらか落ち着く。彼に続いて扉の向こうから顔を覗かせた他の若者達には残らず憶えがないが、それでも心強さは認めざるを得ない。
「ああ、富山君! あのね、羽沢君なんだけどちょっと調子やばいっぽくて……」
「ありがとうございます芦田さん、悠斗、大丈夫か? 悠斗が倒れたって聞いて――」
「悠斗?」
白いシャツの男に短く礼を言った若者が自分に向けて手を伸ばしてくる。が、泰生は彼の言葉を遮るようにして問いかけた。「悠斗、って、なんだ」若者始め、自分を見つめる全員がピタリと動きを止めるのを無視して尋ねる。
「何故、俺を悠斗と呼ぶ? 俺は羽沢だが……悠斗じゃない」
「え、羽沢君……? ホントどうしちゃったの?」
「それに、誰だ、お前は?」
その質問に、今度こそ皆の表情が凍りついた。信じられない、そんな気持ちを如実に表した顔になった白シャツの男が、陸に打ち上げられたトサキントのように口をパクパクさせる。
そんな中、最初に動いたのは泰生の腕を掴みかけていた若者だった。すっ、と目の色を変えた彼はそのまま泰生を強く引っ張り、無理に立ち上がらせて歩き出した。
「すみません。こいつ具合悪いっぽいので今日は帰らせます。俺も送っていくので。では、お疲れ様です」
「え!? 富山、ちょっと……」
「おい、俺の話を聞――」
サークル員や泰生の声など全く構わず、一礼した彼は素早い動きで扉を閉めてしまう。バタバタと足音を響かせて部屋から出ていった二人を呆然と見送り、取り残された者達はぽかんと口を開けたまま固まった。「何なんでしょうアレ……樂さん、何があったんです?」「さぁ……」流れについていけなかった軽音楽サークルの面々はしばらくの間、そこに立ち尽くすことしか出来なかった。
「よくわからないのは富山だけだと思ってたけど、羽沢もなかなかエキセントリックだな」
「だな。悪いものでも食ったのかな」
中でも一層呆然状態なのがキドアイラクのベースとドラムである有原と二ノ宮で、彼らは泰生達の走り去った方向をぼんやり見つめて言葉を交わす。
「極度のポケモン嫌い以外は普通のヤツなんだけど」
「それな。ま、変なのはお前の髪型の方が上だけどな」
「うっせー。誰が出来損ないのバッフロンだ」
「言ってねぇよ」
「芦田ー、ここ使わないなら俺達借りちゃっていい? 今度の月曜と交換でさー」「え? ああ、いいよー、ごめんね。ありがと!」漂っていた困惑もにわかに霧散し、日常へと戻っていくサークル員たちを背にして、話題を強引に変えたかったらしい有原は二ノ宮の天然パーマを無意味に小突いたのだった。
「いい加減話を聞け! 質問に答えるんだ、お前は誰なんだ!? ついでにここはどこで、どうなってるのかも!」
富山という名前らしい、不躾な若者に腕を引かれながら泰生は何度目かになる疑問を叫び声にする。壁には所狭しとビラが貼られ、黒ずんだ床のあちこちにゴミが落ちているこの廊下がどこのものなのか全くわからない。ごちゃごちゃと散らかった印象が、こんがらがりそうな泰生の頭をさらにイライラさせた。
しかし気が立っているのは富山の方も同じだったらしい。階段を半ば駆け上がるようにして昇りつつ、前方を行く彼は「何言ってんの」と尖り気味の声で言う。
「そんな冗談、気持ち悪いんだけど。やめろよ悠斗」
「冗談だと? 真面目に聞け、冗談なんか言ってない! 俺は悠斗じゃない、羽沢泰生だ!」
「なんでよりによってそのモノマネなんだよ。普段あんななのに、どうして急にお前の父さんが出て来るんだ?」
「モノマネなんかじゃ――」
そこで、泰生の声が途切れた。
もはや富田のことなどどうでもよく、彼は全身の血が一気に冷え切るような心地を覚えて身体を固まらせる。腹に据えかねて叫んだ拍子に揺れた髪が目にかかり、鬱陶しいと苛立ちながら手で退けたのだが、そこで気付いたのだ。
短髪の自分には、目にかかる髪などあるわけないのだと。
それだけではない。泰生を待ち構えていたのはさらなる驚愕だった。階段を昇りきったところにあった窓ガラス、暗くなりかけた外と廊下を隔てるそれには富田と、そして恐らく自分と言うべきなのであろう姿がはっきりと映っている。
「…………な、」
「『な』?」
「何だ、これは!!」
窓ガラスにベッタリと張り付き、泰生はそこに映った自分に向かって叫び声を上げた。廊下を歩いていた学生達がギョッとしたように見てくるが、そんなものに構ってはいられない。鬼気迫る泰生の雰囲気に怯えたらしい、女子学生の連れていたポチエナが、ガルルルル、と唸り声をあげて威嚇した。それにもはや気づいてすらいない、ガラスを割らんばかりに押し付けた泰生の指がワナワナと震える。
整えられた眉。明るい茶色に染められた頭髪。少年らしい印象を与える二重まぶたの両眼は、自分の妻のそれにそっくりだ。取材の撮影以外では袖を通さないジャケットの間に揺れるのは、泰生は生まれてこの方つけたことなど無いであろう、ペンダントの類である。驚きを通り越してこちらを見ているのは、街頭や雑誌にごまんといそうな、ありふれた若い男だった。
間違いなかった。そこに映っているのは、すなわち今の自分の姿は、間違い無く自分の息子、悠斗のものだ。ロクに口を聞いてもいない、勘当してやるべきかと真面目に考えるほどの馬鹿息子が、自分の見た目となってそこにいた。足の裏から絶望と、混乱と、そして激しい憤怒が這い上がってくる。その足さえも今は自分のものではない、他ならぬ息子のものなのだ。
「何が……何が、どうなってるんだ」
力無い、高めの声が口から漏れる。隣で黙って立っていた富山が、泰生の様子に前髪の奥の目を少しだけ細めた。一瞬の逡巡をその瞳に浮かべた彼は、「とりあえず」と泰生の腕を軽く引く。
「ここじゃなくて、もっと人の少ないとこに……冗談じゃ無いのはわかったから、まずは」
「おい、何だこれは! どうなってるんだ、なんで俺がこんなことになった! 俺は、……俺は今、何してるんだ!?」
「そんなこと、俺に聞かれても困ります。まずはここから離れて、どこかに連絡を……」
苛立ったように富山が言ったその時、泰生の、正確には悠斗のジャケットのポケットから明るい音楽が鳴り響いた。「電話ですよ」何事かという風な顔をする泰生に富山が伝える。「出た方がいいと思いますが」
「何だ!」
あたふたと携帯を操作し、電話に出た泰生は怒りを隠しもせずに通話口へと叫ぶ。傲岸不遜なその声に、富山がチッ、と舌打ちした。
『おい! 俺だ、俺! 俺だろ!? 俺は今何やってるんだ、俺! どこにいる俺』
「誰だお前は! 切るぞ!!」
間髪置かずに電話の向こうから叫び返してきた珍妙極まりないセリフに、泰生も負けじと叫んで通話終了ボタンをタップする。その行動に目を剥いた富山が「かけ直せ!!」と激昂したのに、成り行きを見守っていた学生及びそのポケモン達はビクリ、と各々の身体を震わせたのだった。
◆
キィィ、と音を立て、森田の運転する車カラオケ店の駐車場に停まる。平日の夜とはいえそこそこ繁盛しているらしく、駐車場は三分の二ほど埋まっていた。隣に停まった車の上で寝ていたらしい、ニャースが軽やかに飛び降りて暗がりへ消える。
自分の携帯にかけた電話は一度目こそ酷い態度で切られてしまったが、程なくしてかけ直されてきたものとは話がついた。電話口の向こうで話しているのは友人の富田で、落ち着いたその口調に、どうやら自分の身体は無事らしいことが伺えて悠斗はホッとした。が、同時に、「ややこしくなるから僕が話をしましょう」と代わってくれた森田に電話を渡すなり「おい、森田か!? 今どこにいる!」と偉そうな声が響いてきて、最悪の予想は現実となってしまったであろうことに絶望したのもまた事実である。
とにかく通話の相手と話をつけて、いや、正確に言うと話をつけたのは森田と富田だが、悠斗はタマ大近くのカラオケ店に来ていた。『カラオケ BIG ECOH VOICE』の文字列と、暑苦しい感じのバグオングのイラストが並ぶ看板をくぐって店内に入る。「連れが先に来てるはずでして、はい、富田という名前で入ってると思います」手早く受付を済ませてくれた森田の後について、「じゃあ行きましょうか、泰さ……じゃなかった。悠斗……くん?」未だに混乱したままの彼と共に店の奥へと向かう。
「なぁ、アレって羽沢泰生だよな!?」
「やっぱり! だよねー! え、マジびっくりなんだけど!? ツイッターツイッター……」
「バカ、そういうの多分ダメなやつだろ? プライベートだよ、プライベート」
「あ、そうか。でも意外ー、あの羽沢もカラオケなんか来るんだねー」
本人達はないしょばなしのつもりらしい、一応落とされた声が悠斗の背中から聞こえてくる。その会話に、やはりこの姿は自分だけの見間違いなどではないのかと悠斗の気は一段と重くなった。「いやー、なんというか、泰さんと一緒にカラオケとか変な感じだなー。あ、泰さんじゃない、のか……?」沈黙に耐えかねたらしく、一人で喋っている森田も調子が狂っているようだ。
「あ、ここです。202号室、ソーナンスのドア」
突き当たりにある部屋の扉を指差して森田が言う。ソーナンスの絵札がかかったそれを目の前にして、悠斗は一瞬だけ躊躇った。開けた先に待っているのは、きっと考え得る限りで一番の絶望だろう。背を向けて引き返したい気持ちがないかと問われれば、それは嘘になる。
しかしそうしたところで何も解決するわけではなく、悠斗は仕方無しにドアノブへと手を伸ばす。節くれ立った右手に一度深く呼吸をし、ええいままよ、と勢いよくノブを回した。
「…………俺、だ」
「……誰だ、……お前は」
そして足を踏み入れた、狭い個室。そこにいたのは――ある程度予想していたものではあるが、それでも実際目にすると受け入れがたい――そんな光景だった。
「おい、お前は誰だ!? それは……それは俺の身体だ! 返せ、今すぐにだ!」
「そっちこそ返せよ! どうせお前なんだろ? 今も、さっきの電話も。あんな偉そうな話し方する奴、お前しかいないからな」
「お前とは何だ! 偉そうなのはお前の方だ、まずは名を名乗れ! 自己紹介はトレーナーの常識のだろう!?」
「トレーナーなんかじゃねえよ。……わからないのかよ、本気か? 見りゃわかるだろ、俺とお前がこうなってて、お互いこの状況。考えられるのなんて、」
その先を悠斗が言うよりも先に、悠斗の見た目をした誰か、と言ってもこんな不遜な態度を取ってくる相手は悠斗が知る限りそう何人もしないが、とにかく悠斗の身体が息を呑んだ。「まさか」ようやく気づいたらしいそいつが唖然とするのを見て、自分は驚く時こんな顔をするのか、と悠斗は場違いな感情を抱く。
「と、いうことは」悠斗の身体が言った。「じゃあ、俺は…………俺と、お前は」血色を失いかけた唇を震わせて、悠斗の身体が呟く。「悠斗、……お前と俺は、入れ替わったのか?」
「…………そういうことになるな」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ!」
フシデでも噛み潰したような顔で答えた悠斗の声を遮って、ぶっ飛んだ会話に取り残されていた森田が慌てて口を開く。互いに叫び合う、中の悪さは先刻承知な親子を不審に思いつつも邪魔しない方が良いだろうと考え、「あ、初めまして、羽沢泰生のマネージャーの森田良介と申します」「どうも。悠斗の親友です、富山瑞樹です」「そうか、悠斗くんの!」などと、先に個室にいた青年と自己紹介などをしていたのだが、いよいよ会話が聞き捨てならなくなってきたのだ。
「待ってください、『入れ替わった』……!? 何を言ってるんですか、親子揃って。いつからそんなに仲良くなったんです? まあ、それは結構なことですけど……」
無理に作ったのであろう苦笑を浮かべ、そんなことをのたまう森田に、羽沢父子は揃ってお互いの顔に嫌悪を示した。「こんな馬鹿げたことを俺がすると思うか」「そうですよ、冗談にしてももっとマシな冗談を言います」二人が苦々しげに否定するも、あまりに非現実なその言い分に森田は呆れ混じりに溜息をつくだけである。泰生は勿論、悠斗のことも十年ほども前からの付き合いでよく知っているが、両者ともこんなことをする性格では決してない。「お二人ともなかなか似てるとは思いますが」適当な講評を述べながら、彼が頭を掻いた。「急にボケるのは心臓に悪いんでやめてくださいよ」
しかし、泰生(もっとも外見は悠斗だが)の横でやり取りを見ていた富田は、森田と違って神妙な顔つきになっていた。「何故こんなことになってるのかはまではわかりませんが」泰生と、悠斗を交互に見比べて富田が静かに言う。
「悠斗たちが言ってることは、冗談でも嘘でも勘違いでも無いでしょう。2人の言う通り、こっちが悠斗で、こっちが羽沢泰生。お互いに入れ替わってるんですよ」
「はっ…………え、あ……えええ!?」
「おい、悠斗。なんでこいつはこんなに飲み込みが早いんだ」
「富田は霊感というか、そういう類のモノを察する力があるらしいからな。だからわかったんだろ。霊とか呪いとか、前からよくそんな話聞いてるし」
「いや、今はそんなことはどうでもいいでしょう!!」
ぴ、ぴ、と羽沢親子を指し示した富田を見遣って話す二人の会話を遮り、森田はバン、とテーブルを叩いた。ビニールがかけられたままのマイクがカタカタと音を立てる。どうでもいい、と言われた富山が前髪の奥の眉をひそめたが、そんなことにまで気を回せ無い森田は丸顔に冷や汗を浮かべて叫ぶ。
「そんな馬鹿なことが……ねぇ、泰さん。そろそろ悪ふざけはやめてくださいよ、それに、こんなお茶目なことは僕の前だけじゃなくて事務所のみんなにも見せてあげてください。みんな泰さんのこと怖が……」
「うるさい!! 俺はこっちだと言ってるだろうが!!」
引きつり笑いで悠斗(見た目は泰生であるが)の肩などを軽く叩いた森田を、泰生が鋭く怒鳴りつけた。その声は悠斗のものであり、高いがとてもよく通る、音圧の高いそれに森田はびくりと震えて動きを止める。泰生の低い声にもなんとも言えない畏怖があるが、日々歌うことに熱を注いでいるだけあって、悠斗の声には恐ろしいまでの迫力があった。
アーボックに睨まれたニョロモ状態の森田を呆れたように一瞥し、富田が「じゃあ、確かめてみましょうよ」と提案する。「悠斗じゃなければわからないような質問に、こっち……悠斗のお父さんに見えるこっちが答えられて、その逆も出来たら。本当に入れ替わってるってことになるでしょう」
「あ、なるほど……それは名案ですね」
「よし、富田、何か質問してみろ。なんだって答えてやる」
「じゃあ……悠斗の好きなバンド、『UNISON CIRCLE GARDEN』の結成日」
「2004年7月。ただ、今の名前になったのは9月25日」
「今年5月にリリースされたシングルはオリコン何位までいった?」
「週間5位。で、それはCD。ダウンロードは首位記録だ」
「ドラムの血液型」
「Aだ!」
「…………全問正解。覚悟はしてたけど、最悪」
「すごい……確かに泰さんじゃこんなことわかるはずないですね」
自信満々に答えきった悠斗に、微妙な表情の富田が溜息をつく。そんな彼らを他所に感心する森田を見て、黙って話を聞くしかなかった泰生が「おい、森田!」と不機嫌な声をあげた。こんなことわかるはずないと言われたのが嫌だったのか、自分の知らないことを自分がぺらぺらと答えているのが気に食わなかったのかはわからないが、彼は怒った表情のままで言う。「俺にも何か聞いてみろ、こいつの知らないようなことを」
どうせポケモンのことなどわかるまい、そう言い捨てた泰生に、悠斗は明らかにムッとした顔をしたが黙っておくことにする。「わかりましたよ……では、」森田が少し考えてから口を開いた。
「泰さんの顔が怖いという理由で、獣医の里見が泰さんにつけたあだ名は?」
「わるいカメックス」
「泰さんが怒ってる様子がこれに似てると、酔った重井がうっかり口を滑らせたのは何?」
「……げきりんバンギラス」
「泰さんを勝手に敵視してる『週間わるだくみ』の先々月号で、泰さんをこき下ろした記事の見出しに書かれてた悪口は?」
「…………『特性:いかくで相手ポケモンのこうげきをダウン、手持ち以外での戦闘は反則ではないのか!?』」
「泰さんの……」
「馬鹿野郎!! なんでそんなくだらんことばかり聞くんだ、もっとあるだろ、バトルの戦法とかトレーニングのコツとかスパトレの問題点とか俺がよくわかること!!」
耐えきれずに激昂した泰生から耳を塞ぎつつ、「だって泰さんといえばこういう感じですから」などと森田は言葉を濁す。その横で、そんな酷い言われようをされている見た目を今の自分はしているのか、と悠斗が絶望に暮れていたが誰も気づかなかった。
「………………なるほど。確かに、これは泰さんですね。じゃあ、お二人はお二人の言う通り本当に……」
森田はそこでようやく、泰生と悠斗の精神がお互いに入れ替わってしまったらしいこと自体には、なんとか納得したらしい。しかし当然それだけで終わるはずもなく、「いや、でもやっぱり待ってくださいよ!?」と何度目かの叫び声をあげる。
「人の……なんだ、ええと……心? それが入れ替わる? そんな、ドラマや漫画みたいなことが本当に起こるわけ、」
「起こるんですよ。勿論、真っ当な方法というわけじゃありませんが」
そもそも、こんなことに真っ当なやり方自体無いんですけどね。泰生と悠斗から森田へと視線をスライドさせ、すっと口を挟んだ富田は続ける。
「端的に言うならば呪術の類です。誰かが悠斗達のことを呪ったんですよ、二人からそんな気配がかなりしてますから。どういう呪いかは僕じゃわかりませんけど」
「何だ富田。『そんな気配』って?」
「呪われてるなー、とか、祟られてるなー、とか。あとは憑いてるなぁ、みたいな気配のこと。でもおかしいな、悠斗は前からずっと、一度もこんな気配しなかったのに」
「そうなのか?」
「そうだよ。多分体質というか、生まれ持った何かで、そういうのが通用しないんだ。……だから、全く通じないタイプだと思ってたんだけど。一体どうやって」
富田の話に必死について行きつつも、森田は「泰さんにも通用しなそうだな」ということをぼんやり考えた。
「いや、それは今置いておきましょう! 呪われた……って、誰に! 何の目的で! それで……どうやって!!」
頭を抱えて叫ぶ森田に富田が、結局聞くんじゃないか、と言いたげな目をして口を開く。
「悠斗の体質をどう破ったのかまではすぐにわかりませんが、呪術自体はそれほど難しい話でもありません。もっとも普通に違法まっしぐらですし、自分も何かしら犠牲にしないといけないから、表立っては言われてませんけど」
「え、そうなの……?」
「図鑑に書いてあるでしょう? ゴーストタイプやあくタイプ、エスパータイプは特に多いですけど、本当にこんなことするのかって思うような、恐い能力。ゲンガーとかバケッチャとか……」
「ああ、あの……命を奪うとかのヤツですか?」
「はい。実際のところ、アレは『こういうことが出来るのもいる』というだけで、その種族全てのポケモンがああするわけではないですけどね。そうだったら堪ったものじゃない……けど、『それを可能にする』ということは出来るんです。ポケモン自身だけでは引き出せない潜在能力を、外から引っ張りだすようなものでしょうか」
ポケモンを使った呪術と言えばわかりやすいでしょうかね、という富田の説明に、三人のうち誰かが生唾を飲む音がした。「心を交換するような力を持ったポケモンがいるかどうかは今すぐ思い出せませんから、後ほど専門家にかかりましょう」淡々とした声に一抹の焦りを滲ませて、富田は言う。
「ポケモンが自分で勝手に力を使うのとは話が違いますから、ある程度その力の矛先を操作することも可能です。どう使うのか、誰に向けるのか……昔から使われてきた術ですね」
「使われてきた、って……じゃあ、それは誰にでも出来るってことなんですか!? 泰さんのシャンデラも図鑑上ではなかなか怖いポケモンですけど、あのシャンデラの力を操って、誰かを呪い殺すみたいなことも!?」
「不可能とは言いません。ただ、素質や技量が必要ですから『誰にでも』というわけではありませんよ。サイキッカーやきとうしなどは、ある程度、そういう能力を持った人が就けるトレーナー職です。元の力は弱くても修行でどうにかなる人もいるにはいますが、生まれつきのものもありますから……」
そこで富田は言葉を切ったが、森田は彼が何を言わんとしたかを大体察する。富田の視線の先にいる泰生や悠斗はわかっていないようだったが、シャンデラのトレーナーである彼、もっと言うなら彼ら親子にそんな力が備わっているようには見えなかった。物理重視のノーマル・かくとう複合タイプのイメージを地でいくような男なのだ、いくら修行しようとしたところで、呪術の『じ』の字も使えないだろう。
生産性の無い思考は隅に頭の追いやって、森田は「それはわかりましたが」と話題を変える。
「最悪の奇跡っていうわけじゃなくて、下手人がいるってことは、まあ、理解しました。でも誰が? こんなことをしたのは一体誰なんですか?」
誰に向けたともつかない森田の問いに、泰生以下三人は黙り込む。各々の脳内で各々の交流する者達の顔が次々に浮かんでは消えたが、人の精神を入れ替える呪術などという芸当が使えそうな存在に心当たりは無かった。
「直接やったわけじゃなくても、専門家に依頼して呪いをかけさせたという可能性もなくはありません」
「どうせお前がどっかで恨みでも買ってきたんだろ。バトルもそうやって偉そうな態度でやってんなら、嫌われて当然だぜ」
「おい、なんだ悠斗その口の利き方は――」
「泰さん、今は喧嘩してる場合じゃないですよ。それに悠斗くんも。大体、泰さんくらいの活動してたら恨みの一つや二つ、十個や百個、無い方がおかしいですって」
「それは多すぎでしょう……まあ、確かに。俺だって全く、世界の誰からも恨まれてないかって言われたらそれは違うしな」
諦めたように頷きながら悠斗は言う。プロを目指して音楽をやっている以上、ライバルの存在は当然のものだ。そのバンド達が、悠斗らを疎んでこんなことを仕掛けてくる可能性もゼロではないだろう。
「でも、そんなこと言ってたら埒があきませんね」森田が『お手上げ』のポーズを取る。「泰さんや悠斗くんを恨んでそうな人を全員調べていくなんて、ヒウンシティで特定のバチュル探すようなものですよ」
「それは、後で専門の人に頼みます。知り合いにその筋がいるので、調査は任せた方がいいでしょう。それよりも」
森田の言葉に割り込むようにして、富田が声を発した。
「今考えなきゃいけないのは、悠斗と、羽沢さん。元に戻れるまではお互いがお互いのフリをして、お互いの生活をこなさないといけないってことです」
富田の指摘に、羽沢親子と森田の表情が固まる。あまりの衝撃から意識を向けられないでいたが、確かに一番重要なことだった。しかし泰生と悠斗は、職業トレーナーと学生という肩書きの違いから始まって、何もかもが正反対の日々を送っていたのだ。それを入れ替えて過ごすなど、不可能といっても過言ではない。
「で、でも」黙りこくってしまった親子の代わりに森田が焦った声で反論する。「こんな一大事なんですから、警察とかに言うとかするべきなんじゃないですか。そんな、隠すようなことしなくても……」彼の言葉に、しかし富田は苦々しく首を横に振った。
「勿論、そうするのがベストです。でも、信じてもらえるかわかりませんし……それに、タイミングが」
「タイミング?」
「今、そんなことが明るみに出たら俺たちの……ライブ出演をかけたオーディションが来月あるんですけど、当然、それは無理になってしまいます。羽沢さんも同じですよ。リーグの申し込みはもう終わってるんでしょう? 出場資格の無い悠斗が中にいるだなんてことになったら、あるいは悠斗の見た目をしていたとしたら、リーグに出られませんよ」
畜生、と泰生が歯噛みする。自分の外見をしたその様子を見遣り、悠斗は内心で悪態をついた。
富田の言う通り、きっと自分達にとれる手段はそれしか無いのだろうという、漠然とした、かつ絶望的な確信が悠斗にはあった。きっと、犯人の狙いはそこなのだ。殺してしまったりすると大事になって足がつくだろうから、この、悠斗達自身が隠してしまえば逃げ切れるであろう類の攻撃を仕掛けてきたのだ。それでいて被害はかなり大きく、同時に隠さざるを得ない時期である。非常に狡猾、かつ悪質な罠であった。
「やるしか無いだろ」低い声で呻いた悠斗に視線が集まる。「俺と、こいつとで。互いの生活ってのを」
「何も出来なくて共倒れなんて、こんなことしたヤツの思う壺にはなりなくねぇよ。少なくとも、俺達にある大きな予定まではあと一ヶ月弱あるんだ。それまでには戻れるだろうし、もし戻れなかった時に備える意味でも、それぞれにならないといけないだろ」
「だが、悠斗。お前わかっているのか? 俺はポケモントレーナーだ。ポケモンと力を合わせ、共に進む人間なんだ。ポケモンが嫌いだとか、そんなことを言ってるお前に務まるわけないだろう、甘えたことを抜かすな!」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよ!!」
叫んだ悠斗に、泰生は思わず言葉を失った。凄んでみせる顔は自分のものではあったが、言いようのない迫力に満ちており、彼は不本意にも日頃自分に向けられる不名誉なあだ名の数々に同意せざるを得なかった。
「それは俺だってわかってる。……けど、他にどうしようもないんだから、やるしかないんだ。俺がお前みたいに、ポケモンと協力してバトルをする。お前は俺みたいに、ポケモンと極力関わらない生活をする。そうするしか、ないだろ……」
「…………お前に、出来るのか。俺の生活が」
「何度も言わせるな。やるしかないんだよ。お前こそ、俺の顔で、俺の顔に泥塗るようなマネするんじゃねぇぞ」
どうにか話はまとまったらしいものの、未だ睨み合ったままの親子を眺め、森田は重く嘆息した。この、ザングースとハブネークもかくやというほどの仲の悪さである彼らが久方ぶりに交わしたであろうまともな会話がこんなものになるだなんて、一体誰に予想がついただろうか。
疲れきった顔の森田の横で、富田が思案するような表情を浮かべる。
「じゃあ、さしあたって、悠斗には森田さん、羽沢さんには僕がついてサポートするということでいいんじゃないですか? 森田さんは羽沢さんのマネージャーですから一緒にいて不自然ではありませんし、僕も悠斗と授業、サークル同じですから」
「どうするよ。このこと、二ノ宮とか有原に言った方がいいかな」
尋ねた悠斗を富田は手で制した。「余計な混乱招くのもよくないし、今のところは黙っておこう」その言葉に森田も頷いた。「ですね。とりあえずは、僕たちだけに留めておきましょうか」
「問題はポケモン……泰さんのポケモン達にどうわかってもらうか、ですね。他の人達はごまかせても、こっちは……」
言い淀みながら、森田が悠斗のベルトにセットされたモンスターボールの一つを取ってボタンを押す。中から現れたのは先ほどバトルを中断されたシャンデラで、カラオケボックスなどという、生まれて初めて(ゴーストポケモンである彼に『生まれた』という表現をするのが果たして適切か否かということは今は考えないことにする)訪れる場所を物珍しそうに見回していた彼は、その視線が一点に定まるなり浮遊する身体をびくりと震わせた。
「なっ……どうしたミタマ! 確かに今はこの見た目だが、俺だ! お前のトレーナーの泰生だぞ!?」
その視線の先、じっとりとした目を向けられた泰生が物凄く狼狽えた声をあげる。しかしシャンデラからしてみれば今の彼は悠斗――日頃『泰生のポケモン』という理由だけで自分を目の敵にしてくる嫌な奴――なのだ。つつ、と距離を置くような動きで天井に逃げていったシャンデラに、泰さんはこの世の終わりかのような顔をする。
「ミタマ、あのですね、今の泰さんは悠斗くんで、悠斗くんが泰さんなんですよ」ダメ元で森田が説明してみるが伝わるはずもない。しかしトレーナーである泰生(中身は悠斗だが)が苦い顔をして自分を見てくることなど、なにやら様子がおかしいことは察したらしく、シャンデラは困った風に皆を見下ろして炎を揺らした。
「なかなか理解はしてもらえないでしょうね……お二人には、大変ですが、ポケモン達の調子を狂わせないように振舞っていただかないと……」
「失礼しまーす、お飲物お持ちいたしましたぁー」
と、間延びした声でドアを開け、アルバイトと思しき若い女が個室に入ってきた。慌てて口を噤んだ悠斗達に、「ちょっとお客さんー、当店はポケモンご遠慮いただいてるんでー」と言いつつ、雑な手つきでテーブルに飲み物を並べていく。そそくさとシャンデラをボールに戻す森田の脇を通り、ごゆっくりどうぞー、という言葉を残して彼女は素早く出ていった。
ガチャ、とドアが閉まる音がするのを確認して、誰からともなく溜息をつく。今から待ち受けているであろう数々の苦難がどっしりと背に重く、四人はそれぞれ受付時に頼んだ飲み物に手を伸ばした。
日頃好んで飲んでいるブラックコーヒーに口をつけた悠斗は、コップを傾けるなり激しく咳き込む。口内を駆け巡った苦味、いつもならばこれほどまでに強く感じないはずのそれに目を白黒させていると、「ああ、悠斗くん、これをどうぞ」ウーロン茶を飲んでいた森田が鞄から取り出した何かを差し出してきた。どうやら自前で持ち歩いているミルクとスティックシュガーらしいそれを、「泰さんは甘党ですから。ミルクを3つと、砂糖2本。いつもそうです、おくびょ……じゃなかった、ともかく、辛いのも駄目なんで」と言いながら悠斗へと手渡す。
「身体に染み付いた感覚はそのままなんでしょうね」父とは真逆で、甘いものが苦手な辛党の悠斗の身体でココアを飲み、同じく咳き込んでいる泰生を横目に富田が言った。彼の持ったコップの中で、コーラの炭酸の泡が弾けては消えていく。「好みとは別で」そう呟いた森田の、前髪越しの視線が、テーブルの上のモンスターボールに向けられたことには誰も触れなかった。
「しかし、エライことになってしまいましたね」
力の無い、森田の言葉がカラオケボックスへ溶けていく。テレビから流れてくる、場違いに明るいアーティスト映像に掻き消されそうなそれに答える者がいなかったのは、不本意な賛同からくる沈黙であったのは言うまでもない。
「俺達……どうなっちゃうんだろうな」不安気にそう漏らした悠斗の肩を、富田がグッと掴む。
「安心しろ。悠斗が困ったら俺がどうにかするし、羽沢さんのことも俺が見てるから。悠斗は心配しなくていい」
「瑞樹…………」
「そうです。僕も泰さんのため、精一杯サポートしますから!」
熱い友情の言葉を交わす二人に便乗し、森田も「ねっ、泰さん」と笑いかけた。が、それは泰生の見た目をした悠斗であったようである。「馬鹿森田。そっちは俺じゃない」悠斗の姿である泰生の冷たい声を横から飛ばされた森田は、「すみませんでした」と小声で言いながら、三者の突き刺さるような視線に身体を縮こまらせたのであった。
ポケモンリーグ。
それは、ポケモンバトルの王者を決する聖なる戦いだ。
王の玉座を手に入れるためには幾つもの勝負を制し、無数の技を掌中にして、ポケモンと心を一つにすることが求められる。
ポケモンバトルの強き者、それが王たる資格なのだ。
しかし、真実はどうであろう。
バトルに強き者だというだけで、果たして王と成り上がることは叶うのだろうか。
王者に乞われる力とは、もっと別のところにあるのではないか?
◆
「泰生さん、本日のご予定ですが」
「ん」
「十一時からブリーダーの山崎によるメンテナンス。十三時からスタジオ・バリヤードで月刊トレーナーモードの取材及び撮影。内容は先日のタマムシリトルカップと、リーグについてです。連続して毎朝新聞社のスポーツ紙のインタービューも入ってます。それが終わり次第、野島コート、二ヶ月前に根本信明選手との練習試合で使いました、あそこに移動して、事務員内のシングルトレーナーでタッグを組みマルチバトルトレーニングです。それが三時間、その後、そのままコートを取ってあるとのことですから、あとは個人練に回して良いと伺いました。以上です」
「ん」
「何かご不明な点はございませんか」
「む」
ん、は肯定の合図で、む、は否定の印。寡黙さと冷徹な印象が評判のベテランエリートトレーナー、羽沢泰生は低く唸りながら首を横に振った。
しかし実際のところ泰生は長々と続くスケジュールなど、本当は大して真面目に聞いていなかった。わかったことは、とりあえずあまり自分の本業たるシングルバトルに費やせる時間が無さそうだということのみである。生まれつきのしかめっ面をますます強張らせる泰生に、彼の専属マネージャーにあたる森田良介は溜息をついた。人の感情や思惑の機微に敏感なこの男は、泰生が話をまともに聞いてくれないことを察するのにも慣れきっていたが、しかしそのたびに肩を竦めずにはいられないくらいには生真面目な男でもあった。
「まあ、いいですけどね。泰さんの予想通り、今日のシングル出来る時間は最後の自主トレだけです。事務所としてのトレーニングがマルチですから」
「ふん。なんでシングルトレーナーがマルチをやらなきゃならないんだ」
「それは、ほら、自分以外のトレーナーと協力することで相手の手を読む力を養うとか」
「そんな悠長なこと言ってる場合か。リーグはあと一ヶ月も無いんだ」
「しょうがないでしょう。ウチの方針なんですから、幅広いトレーニングとメンバー同士の密なこ・う・りゅ・う」
「ふん」
わざと『交流』の部分を強調した森田に、泰生は不機嫌そうに鼻を鳴らす。腰につけた三つのモンスターボールを半ば無意識に伸びた手で握ると、それに応えるようにしてボールが僅かに動く気配が掌越しに伝わった。こんなにやる気なのに、夕方まではシングルどころかバトルすらまともにさせてやれないのが嘆かわしい、泰生はそんなことを思って眉間に皺を寄せる。
「それに、それはリーグでも……とにかく、予定は詰まってるんですから文句言わずに行きますよ。まずは山崎のとこに、恐らくもう待ってるでしょうから」
慣れた口調で森田は泰生を急き立てる。足早に廊下を歩く二人とすれ違った事務員の女性が、桃色の制服の裾をやや翻しながら「おはようございます」とにこやかに声をかける。「あ、谷口さん、おはよう」同じような笑顔で森田が返すが、しかし、泰生はしかめた顔のまま無言で通り過ぎた。女性事務員は、それも日常茶飯事といった感じで向こう側へと歩いていってしまったが、森田は童顔気味の面を渋くする。「泰さん」そして苦言というより、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるようにして言う。「いい加減挨拶くらい出来るようになってくださいよ」
泰生は元来、人付き合いとか人間関係とか、そういった類のものが全く以て苦手かつ大嫌いな男だった。ポケモンバトルの才能は天賦のものであったため、若い頃は実際ほぼほぼ山籠りのような、孤高の野良トレーナーとして人と最低限度の付き合いをしながら生きていたというほどである。泰生にとって、人間は何を考えているのかわからない、口先ばかりの嘘つきな存在なのだ。その点ポケモンは信頼に値する、心と心で通じ合える生き物であり、出来ることならば一生ポケモンとだけ過ごしていたいと考えていた。
そんな泰生が、何故こうして森田(当然ながら人間である)のサポートの元、がっつり人間社会に縛られているのかというとワケがある。泰生は本職のエリートトレーナー、つまりはトレーナー修行の旅はしていないが、バトルで飯を食べているという職業だ。国の公金から援助が出る旅トレーナーとは違い、定住者としてバトルで生活をしていくには一匹グラエナというわけにはいかず、余程の強さ、それこそ今や行方不明だが噂によるとシロガネ山で仙人になったという、かつてカントーの頂点に立ったマサラ出身の少年くらいでなければ叶わない話である。
ではどうするのか、というとどこかに所属するしか無いのだ。ジムリーダーとはその代表格で、地方公共団体という存在に属し、バトルを通して市町村の活性化に努める役目を負っている。そして泰生など、いわゆる『エリートトレーナー』は概して、トレーナープロダクションに所属しているトレーナーを指す言葉なのだ。野球選手が球団に入ったり、アイドルが芸能事務所に身を置くのと同じようなものだと考えてくれれば良いだろう。旅をすると道中バトルを仕掛けてくるトレーナーの中に、自分をエリートトレーナーと名乗る奇妙なコスチュームの者がいると思うが、そのコスチュームは彼、彼女の所属しているプロダクションの制服である。特定の制服のエリートトレーナーが色々な場所に点在しているのは、『フィールドでの実践』がその事務所のウリという理由なのだ。
ともかく、泰生は生活のため『064トレーナー事務所』というプロダクションの一員となっている。野良トレーナーだった頃とは違い、日々ガチガチにスケジュールを縛られるのに加えて人間関係を良好に保つことを強いられる毎日は、もはや二十年以上続けているにも関わらず一向に慣れる気配は無かった。無論、そうして予定を詰められるのは泰生が強く魅力的なトレーナーであることの裏返しなのだが、彼がそれに気づく日が来るかは不明である。
「ほら、もう少し柔らかい表情しないとまた山崎に笑われますよ。オニゴーリみたいだって、まったく、オニゴーリの方がまだ可愛げがあるってものでしょうに」
「陰口を叩く奴なんかブリーダー失格だ」
「まーたそんなこと言って。陰口じゃなくて、面と向かって言われたの忘れたんですか」
そんな泰生に手を焼いて、森田は丸っこい目を尖らせた。自分のサポートする相手は決して悪人では無いし、むしろ深く付き合えば好感の方がずっと上回る人だとはわかっている。が、周囲がそうは思ってくれないことも森田は知っていた。
本人がこれ以上損をしないためにもどうにかしてほしいものだと思いつつ、いかんせんこの調子ではとても無理だろう。三十を過ぎてから重くなる一方の身体が殊更に重くなったような感覚に襲われながら、革靴の足音を事務所内に響かせる森田はぐったりと息を吐いた。
◆
「お疲れ様でーす」
「おつかれー」
「遅かったじゃん」
「三嶋の講義でしょ? あいつすぐ小レポート書かせるから時間通り帰れないんだよな、お疲れ」
「羽沢今日メシ食いにいかない? 友達がバイト始めた居酒屋あるからさー」
『第2タマ大軽音楽研究会』と書かれたプレート部室のドアを開けた羽沢悠斗へ、先に中にいた者達が口々に声をかける。ある者は楽器をいじっていた手を止めて、ある者は個々のおしゃべりの延長戦として、またある者は携帯ゲームや漫画に向けていた顔を上げて羽沢を見た。その一つ一つに「お疲れ様ですー」「はいアイツです、ジムリーダーの国家資格化法案について千字書かされました」「本当面倒くさいですよねあの万年風邪っぴき声」返事をした彼は、各々自分の居場所に陣取ったサークル員の間を縫って部屋の奥まで行き、簡易的な机に鞄を置いた。「行く行く、ちょうど夕飯どうしようか考えてたんだよな」
最後の一人まで返事をし終えた悠斗は言いながら机を離れ、壁に立てかけられているいくつかの楽器のうち、黒い布で出来たギターケースに手を伸ばした。その表面を、とん、と軽く指で突いた彼は何か言いたげな顔をしてサークル員達の方を振り返る。
「富山ならまだ来てないぞ」
悠斗が口を開くよりも前に、ギターの弦を張り替えていたサークル員の一人が声をかけた。「そうか」悠斗はへらりと笑う。
「練習室、五時からですよね。芦田さん?」
「ん? うん、そうそう。第3練習室ね、まぁ一個前の予約がオケ研だから押すと思うけど」
悠斗の問いかけに、芦田と呼ばれたサークル員がキーボードに置いた楽譜から視線を上げて返事をする。それにぺこりと頭を下げ、悠斗は「そうなんですよ」と誰に向けてというわけでもない調子で言った。
「だから、五時までやろうと思ってたんですけど。有原と二ノ宮もいるし、結構、合わせられる時間はなんだかんだいって無いですから」
「そうだな」
「ま、そろそろ来るでしょ。事務行ってるだけらしいから」
会話に出された有原と二ノ宮が、それぞれ反応を返す。「なんだ、そっか」と小さく息を吐いた悠斗にサークル員がニヤリと笑って「いやぁ」と半ばからかうような口調で言った。「流石キドアイラク、期待してるぞ」
やめてくださいよ、ソツの無い笑顔でその台詞に応えた悠斗は、タマムシ大学法学部の二回生という肩書きを持っているが、それとは別にもう一つ、彼を表す言葉がある。新進気鋭候補のバンド、『キドアイラク』のボーカリスト。それが悠斗に冠する別の名だ。ボーカルの悠斗をリーダーとして、先ほど話題に上っていたギターの富山、そしてベースの有原とドラムの二ノ宮で編成されたこのバンドはサークル活動の枠を超え、今はまだインディーズといえども、数々のメジャーレーベルを手がけている事務所にアーティストとして登録されているという実力を持っている。それはひとえに彼らの作る音楽の魅力あってのものだが、それは勿論として、しかし同時に別の理由もあった。
古来、壮大な話になるが、それこそ『音楽』という概念が生まれてからずっと、人間にとっての音楽はポケモンと切っても切れない存在であった。ポケモンの鳴き声や技の立てる音を演奏の一部とするのは当然、それ以外にもパフォーマンスの一環としてポケモンのダンスを演奏中に取り入れたり、電気や水の強い力を楽器に利用したりと幅広く、音楽とポケモンとを繋げていたのだ。
ポケモンと共に作る音楽は当たり前ながら、人間だけでのそれと比べてずっと表現の可能性が広いものとなる。人間ではどう頑張っても出せないサウンド、限界を超えた電圧をかけられたエレキギター、多彩な技で彩られるステージ。そのどれもが、ポケモンの力で出来るようになるのだ。
そのため、遥か昔から今この瞬間まで、この世にあまねく、いや、神話や小説などの類で語られる『あの世』の音楽ですら、ポケモンとの共同作品が主流も主流、基本中の基本である。ポップスだろうがクラシックだろうがジャズだろうが関係無い。民族音楽も、EDMも、アニソンもヘビメタも電波も環境音楽もみんなそうだ。人間の肉声を使わないことが特徴であるVOCALOID曲ですら、オケのどこかには必ずと言って良いほどポケモンの何かによるサウンドが入っている。世界中、過去も未来も問わないで、音楽にはポケモンがつきものなのだ。
が、その一方で、ポケモンの力を一切使わないという音楽も確かに存在している。起こせるサウンドは確かにぐっと狭まるが、限られた可能性の中でいかに表現するかを追求するアーティスト、そしてそれによって実現する、ポケモンの要素のあるものとは一味違う音楽を求める聴衆は、いつの時代もいたものだ。くだらない反骨精神だの異端だのと評されることは今も昔も変わらないが、その音を望む人が少なからず存在するのもまた、事実。
そして悠斗率いる『キドアイラク』もそんな、ポケモンの影を一切省いたバンドなのだ。元々、彼らの所属サークルである第2タマ大軽音楽研究会自体がそういう気風だったのだが、悠斗たちはより一層、人間独自の音楽を追い求めることをモットーとしていた。
ポップス分野としては珍しいその音楽と、そしてそれを言い訳にしないだけの実力が評価され、彼らは今日もバンド活動に邁進しているというわけである。
「っていうか二ノ宮、何読んでんの」
そんな悠斗たちだが、まだ全員揃っていないこともあって、今は部室のくつろいだ雰囲気に溶け込んでいる。円形のドラム椅子に腰掛けて何か雑誌を広げていた二ノ宮に、悠斗は何ともなしに声をかけた。「んー」雑誌から顔は上げないまま、二ノ宮は適当な感じの音を発する。
「トレーナーダイヤモンド。リーグの下馬評とかさー、もうこんなに出てんだな。ま、一ヶ月切ったし当たり前かぁ」
「え? もうそんな時期なのか、今回誰が優勝すんのかなー、去年はまたグリーンだったからな」
「出場復帰してからもう四年連続だっけ。もうちょっとドラマが欲しいね、全くの新星とまではいかなくても逆転劇っていうか」
「でも五年守り続けるってのはさ、それはそれですごいじゃん?」
「あー」
二ノ宮の返事を皮切りにして、口々にリーグの話を始めるサークル員達の姿に、悠斗はふっと息を吐いた。聞いた本人にも関わらず、彼は会話に入らずぼんやりとその様子を眺めていた。
皆が盛り上がる声に混ざって、扉か壁か、その向こう側から他の学生のポケモンと思しきリザードの声が聞こえてくる。それを振り払うようにして悠斗が頭を振ったのと、「お疲れ様ですー」ドアが開いて、事務で受け取ったらしい何かの書類を手にした富山が顔を覗かせたのは同時だった。
◆
「では、今リーグもいつものメンバーで挑むということですか」
「当然だ。俺はあいつらとしか戦わない」
「流石は首尾一貫の羽沢選手ですね。しかしリーグに限らず、今までバトルを重ねていく中で、今のメンバーだけでは切り抜けるのが難しいことがあったのではないでしょうか? そういった時、他のポケモンを起用しようとか、編成を変えてみようとか、そうお考えになったことはございませんか?」
「三匹という限られた中で戦わないといけないのだから、困難に直面するのは必然だろう。そこで、現状に不満を抱いて取り替えるのでは本当の解決とは言えん。編成を変えたところでそれは一時凌ぎでしか無い、また違う相手と戦う時に同じ危機に苦しむだろう。取り替えるのではなく、今のままで課題を乗り越えるのだ。それを繰り返していれば、少しずつ困難も減っていく」
「なるほど! それでこそ羽沢選手ですよ、不動のメンバーに不動の強さ、見出しはこれで決まりですね」
これが狙ってるんじゃなくて、素でやってるんだから厄介だよなぁ。興奮するレポーターの正面で大真面目に腕組みしている泰生の一歩後ろで、森田は内心そんなことを考えていた。
タマムシ都内、スタジオ・バリヤード。そこで今、泰生はトレーナー雑誌の取材に応えている。まるで漫画やドラマの渋くダンディな戦士かのような受け答えをする泰生に、インタビューを務める若いレポーターは先ほどからずっと大喜びだ。頑固一徹を具現化したような泰生は、ともすれば周囲全てを敵に回す危険を孕んだ存在ではあるものの、同時にその堅物ぶりは世間から愛される要因でもある。それが決して作り物ではない天然モノであること、本人の真剣ぶりに一種のかわいさが見受けられることがその理由だ。また泰生の根の真面目さが幸いし、いくら嫌とは言えど、受けた仕事はこうしてしっかりこなすというところにも依拠している。
背筋をぴんと伸ばした泰生が、眉間の皺は緩めないものの順調に取材を受けている様子に、森田は尚も心の中でそっと安堵の溜息をついた。朝はいつものように不機嫌だったが、いざ始まってしまえば大丈夫だ。これなら何の心配もいらないだろう、彼がそう考えたところに、レポーターがさらなる質問をする。
「ところで、羽沢選手にはお子さんがいらっしゃるとのことでしたが……やはり同じようにバトルを……」
「………………知らん」
「えっ」
途端、森田は一気に顔を引きつらせた。森田だけではない、レポーターも同じである。まだ新人だし初めて対面した相手だから、この類の質問が泰生にとってはタブーであると知らなかったのだろうか。しかし今はそんなことに構ってはいられない、凍りついた空気をかき消すようにして、「いやー、すみませんね!」森田は無理に作った笑顔と明るい声で二人の間に割り込んでいく。
「そういうのはプライベートですから、ね、申し訳ないんですけど控えていただけると! いや、お答えになる方も沢山いらっしゃるでしょうが、羽沢はその辺厳しいものでして、本当申し訳ございません!」
早口で謝りながらぺこぺこと頭を下げる森田の様子にレポーターはしばらく呆気にとられていたが、やがて「……あ、ああ!」と合点がいったように頷いた。
「なるほど、そうでしたか……! いえ、こちらこそ大変失礼いたしました。そうですよね、あまり尋ねるべきではありませんでしたよね、不躾な真似をしてしまい申し訳ございません」
「いえいえ、本当すみません。ほら、泰さんもそんな怖い顔しないで。別にこんなの大したことじゃないでしょう、ね、まーたオーダイル呼ばわりされますよそんな顔じゃ」
「…………ふん」
オーダイルじゃなくてオニゴーリだったか、森田は冷や汗の浮かんだ頭でそんなことを思ったが、この際別にどちらでも良いことだった。とりあえず泰生の機嫌が思ったよりは損なわれていないらしいことを確認し、森田の内心はまたもや大きな息を吐く。まだ引きつったままの頬を押さえ、彼は寿命が三年ほど縮んだ心地に襲われた。
泰生のマネージャーとなってから十年ほど。少しずつ、本当に少しずつではあるが、泰生も丸くなっていっているのだと要所要所で実感する。しかしこればかりは緩和されるどころか、自分たちが歳を重ねるたびに悪化しているようにしか感じられない。そう、森田は思う。
「で、ではインタビューに戻らせていただきます……今リーグからルール変更により二次予選が出場者同士が一時味方となるマルチバトルが導入されましたが、その点に関してはどうお考えで?」
「非常に遺憾だ。シングルプレイヤーはシングルプレイヤー、ダブルプレイヤーはダブルプレイヤーとしての戦いを全うすべきなのに、まったく、リーグ本部は何を考えているのかわかったものではない」
この頑固者の、親子関係だけは。
ダグドリオの起こす地響きの如き低い声で運営への不満を語る泰生に、森田は困った視線を向けるのだった。
◆
「樂先輩、樂先輩」
「なに?」
「羽沢のやつ、なんであんなムスッとしてるんですか」
「あー、それはね、羽沢泰生っているでしょ? 有名なエリトレの、ほら、064事務所のさ。あの人、羽沢君のお父さんなんだよ」
「え! そうなんですか……でも、それがあのカゲボウズみたいになってる顔と何の関係が」
「実はさぁ、羽沢君、お父さんとすっごく仲悪いらしいんだよね。だからトレーナーの話、というか羽沢泰生に少しでも関係する話するといつもああなるの。っていうか巡君もなんで知らないの。結構今までも見てたはずだけど」
「すみません、多分その時はちょっと、僕ゲームに忙しかったんでしょうね。でも、別に雑誌程度で……」
「まあ、ねぇ……よっぽど何かあるんだろうけど……」
「聞こえてますよ、芦田さんも、守屋も」
一応は内緒話っぽく、小声で喋っていたサークル員たちに向かって悠斗が尖った声を出すと、二人はびくりと身体を震わせた。守屋と呼ばれた、悠斗の同級生である男子学生は猫背気味の後姿から振り返り、「ごめんなさい」と肩を竦める。彼はキーボードの担当だったが今は楽器が空いていないらしく、同じくキーボード担当である芦田の隣に陣取って暇を持て余しているらしかった。
決まり悪そうに、お互いの眼鏡のレンズ越しに視線を交わしているキーボード二人へ、悠斗はそれ以上言及しない。それは悠斗の、のろい型ブラッキーよりも慎重な、事を出来るだけ波立たせたくない主義がそうさせることだったが、彼らの言っていることが間違ってはいなかったからでもある。
悠斗が父親のことを嫌っているというのは、もはやサークル内では公然の秘密と化している。ただ、守屋のような一部例外を除いての話であるが。
泰生は悠斗が物心ついた時からすでに、というか彼が生まれるよりもずっと前からバトル一筋だった。それはトレーナーとしては鏡とも言える姿なのかもしれないが、父親という観点から見たらお世辞にも褒められたものではなかったのかもしれない。少なくとも悠斗からすればそれは明白で、悠斗にとっての泰生は、ポケモンのことしか考えられない駄目な人間でしかなかったのだ。
彼がポケモンの要素を排除した音楽をやっているのもそこに起因するところがある。勿論、悠斗の好きなアーティストがそうだからという理由もあるが、しかしそれ以上に彼を突き動かしているのは父である泰生への、そして彼から嫌でも連想するポケモンへの黒く渦巻いた感情だろう。悠斗はそれを自覚したがらないが、彼の気持ちを知っている者からすればどう考えても明らかなことだった。
兎にも角にも羽沢親子は仲が悪い。本人たちがハッキリ口に出したわけではないけれど、彼らをある程度知る者達なら誰でもわかっていることである。
「……おい、なんだよ瑞樹。その目は」
「別に。それより練習するんだろ、今用意するから」
そのことは、悠斗とは中学生からの付き合いである富山瑞樹ともなれば尚更の事実であった。それこそ泰生にとっての森田くらい。
しかし富山は、それを悠斗が指摘されると不快になることもよくわかっている。理解しきったような目をしつつも、何も言わずにギターケースを開けだす富山に、悠斗は憮然とした表情を浮かべていた。が、富山が下を向いたところでそれは若干、それでいて確かに緩まされる。その様子をやはり無言で見ていた有原と、図らずも発端となってしまった二ノ宮は「なあ」「うん」と、各々の楽器を無意味に弄りながら、やや疲れたような顔で頷き合った。
◆
やはりマルチバトルなど向いていない。
本日何度目かになる試合の相手とコート越しに一礼を交わし、泰生は心中で辟易していた。現在彼は今日の最後のスケジュール、プロダクション内でのマルチバトルトレーニング中である。貸し切りにしたコートには、064事務所のトレーナー達がペアを組み、あちこちでバトルを繰り広げている真っ最中だ。
所内のトレーニングに重きを置いている064事務所では前々から取り入れられていた練習だが、今回のリーグから予選がマルチになったこともあり、より一層力を入れている。ただ、シングルに集中したい泰生にとっては厄介なことこの上無い。そもそも彼は元より、自分以外の存在が勝敗を左右するマルチバトルが好きではないのだ。少しでも時間を無駄にしたくないのにそんなことをしたくない、というのが泰生の本音である。
「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「かわせトリトン! 左奥に下がれ!」
ただ、やる以上は本気で勝ちにいかなくてはいかない。ミタマという名のシャンデラに指示をしながら、泰生はくすぶる気持ちをどうにか飲み込んだ。
敵陣のラグラージがミタマの放った弾幕を避けていく。長い尻尾の先端を緑色の光が少しばかり掠ったが、ほとんど無いであろうダメージに泰生の目つきが鋭くなった。現在の相手はラグラージとカビゴン、シャンデラを使う泰生としては歓迎出来ない組み合わせである。また、クジで組んだ本日の相棒という立場から見ても。
「クラリス、ムーンフォースだ、カビゴンに!」
シャンデラの眼下にいるニンフィアが光を纏い、カビゴンの巨躯へと走っていく。可憐さと頼もしさが同居するそのフェアリーポケモンに声をかけたのは、エリートトレーナーとしては新米である青年、相生だ。甘いマスクと快い戦法が人気で、事務所からも世間からも期待のホープとされているが、今の彼は、よりにもよって事務所一の偏屈と名高い泰生と組んだことからくる緊張に襲われている。
無口で無表情、何を考えているのかわからない泰生のことを日頃から若干恐れていた相生は、誰がどう見ても表情を引きつらせており、対戦相手達は内心、彼をかわいそうに思っていた。ニンフィアに向ける声も五度に一度は裏返り、整った顔は時間が経つごとに青ざめていく。今のところは勝敗こそどうにかなっているが、もし自分がくだらぬヘマをしてしまったら何を言われるか。そんな不安と恐怖が渦巻いて、相生の心拍は速まる一方だった。
「なんかすみません……相生くんに余計なプレッシャーかけちゃってるみたいで」
「いやぁ、いいんだよ。アイツは実力こそ確かなんだけど、まだそういうのに弱いから。今のうちに慣れておかないと」
「え、あ、じゃあ、泰さんでちょうど良かった、みたいな感じですかね? あはは、なら安心……」
「ま、ちょっと強すぎる薬だけどな」
「うっ……そうですね、ハイ…………」
ポケモンバトル用に作られたこの体育館は広く、いくつものコートで泰生たち以外のチームが各々戦っている。その声や技の音に掻き消されない程度に落とした声量で、森田と、相生のマネージャーはそんな会話を交わしていた。まだ若い相生にはベテランのマネージャーがあてがわれているため、トレーナー同士とは真逆に、森田からすれば相手はかなりの先輩である。「まぁ、それが羽沢さんの良いところなんだがな」「いえホント……後でよく言っておきますので……」泰生からのプレッシャーを感じている相生のように、森田もまた委縮せざるを得ない状況であった。
誰も得しないペアになっちゃったよなぁ、と考えながら、森田は会話の相手から視線を外してコートを見遣る。シャンデラが素早い動きでラグラージを翻弄する傍らで、「クラリス、いけ、でんこうせっか!」ニンフィアがカビゴンに肉薄していった。瞬間移動かと見紛うその速さに、流石はウチの期待の星だ、と森田は感心した。
しかしカビゴンのトレーナーである妙齢の女性は少しも動じることなく、むしろ紅い唇に不敵な笑みを浮かべる。「オダンゴ」
「『あくび』!」
「っ! そ、そこから離れろ、クラリス!」
しまった、と泰生は内心で舌打ちしたがもう遅い。慌てて飛ばされた相生の指示は間に合わず、カビゴンの真正面にいたニンフィアは、大きな口から漏れる欠伸をはっきりと見てしまった。
華奢な脚がもつれるようにして、ニンフィアの身体がふら、とよろめく。リボンの形をした触覚が頼りなく揺れ、丸い瞳はみるみるうちにぼんやりとした色に濁っていった。カビゴンと、そのトレーナーが同じ動きで口許を緩ませる。
「駄目だ、クラリス! 寝ちゃダメだって!」
元々、泰生に対する緊張でいっぱいいっぱいだった相生は完全に混乱してしまったようで、ほぼ悲鳴のような声でニンフィアへと叫び声を上げた。ああ、駄目なのは思えだ。泰生は心の中で深い息を吐く。こういう時に最もしてはならないのは焦ることだというのに、どうしてここまで取り乱してしまうのか。
期待のホープが聞いて呆れる。口にも、元から仏頂面の表情にも出しはしないが、泰生はそんなことを考えた。
「もう遅い。せめて出来るだけ遠ざけとけ、後は俺がやる」
「す、すみませ……」
涙が混ざってきた相生の声を遮るようにして言うと、彼はまさに顔面蒼白といった調子で泰生を見た。その様子を少し離れたところで見ていた相生のマネージャーが、あまりの情け無さにがっくりとうなだれる。
「本番でアレが出たらと思うとなぁ」「ま、まだこれからですから……それに今のはどちらかというと、泰生さんのせいで」小声で言い合うマネージャー達の会話など勿論聞こえていない泰生は、ぐ、と硬い表情をさらに引き締めた。ニンフィアが間も無くねむり状態になってしまう以上、二匹同時に相手にしなければならないのは明白である。しかしシャンデラとの相性は最悪レベル、切り札のオーバーヒートも使えない。もう一度欠伸をかまされる可能性だって十分あり得るだろう。
「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!」
とりあえずラグラージから何とかしよう、と放った指示は勢いづいた声と水流に呑まれそうになる。「避けろ!」間一髪でそれを上回った泰生の声で天井付近に昇ったシャンデラは、びしゃりと浴びた飛沫に不快そうな動きをした。まともに喰らっていたら危なかった、コートを強か打ちつけた水に、泰生の喉が鳴る。
しかし技は相殺、腰を落としてシャンデラを睨むラグラージもまた無傷のままだ。ニンフィアのふらつきはほぼ酩酊状態と言えるし、もう出来る限り攻め込むしかあるまい。しかし冷静に、あくまで落ち着いて。そう自らに言い聞かせながら、泰生は次の指示を飛ばすべく息を吸う。
その、時だった。
(ピアノ……?)
今この場所で聞こえるはずの無い音がした気がして、泰生は思わず耳を押さえる。急に黙ってしまった彼を不審に思ったのだろう、隣で真っ青になっていた相生が「……羽沢さん?」と恐る恐る声をかけた。
ラグラージに指示しようとしていた、またニンフィアへの攻撃をカビゴンに命じようとしていた相手トレーナー達も、異変を察して怪訝そうな顔をする。
「……ああ、いや。すまない」
何でも無いんだ。
何事かと駆け寄ってきた森田を手で制し、そう続けようとしたところで、またピアノの音がした。軽やかに流れていくその旋律はまさかこのコートにかかっている放送というわけでもあるまいし、仮にそうだとしてもはっきり聞こえすぎである。「チャ、チャンスなのか? やってしまえ、トリトン、なみ……」「バカ、やめた方がいいでしょ! オダンゴも止まって、羽沢さん! 大丈夫ですか!?」相手コートからの声よりも、勢い余って技を放ってしまったラグラージが起こした轟音よりも、ピアノの音はよく聞こえた。
まるですぐ近くで、それだけが鳴り響いているようだ。「羽沢さん!」「どうしたんですか、聞こえてます!?」反対に、自分に投げかけられる声はやけに遠くのものに思える。血の気を無くして近寄ってくる森田に何かを言おうとしたものの声が出ない。不安気に舞い降りるシャンデラの姿が、下手な写真のようにぶれて見えた。
「しっかりしてください、羽沢さん!」
「救急車!? 救急車呼ぶべき!?」
「まだ様子見た方が、羽沢さん! 羽沢さん、答えられますか!?」
「泰さん、どうしたんですか! 泰生さん!!」
「羽沢君!!」
そのブレが不快で、数度瞬きをした後に泰生の目に入ったのは、シャンデラとは全く以て異なる、
「いきなり黙るからびっくりしたよ……大丈夫?」
グランドピアノを背にして自分を見ている、心配そうな顔をした、白いシャツの見知らぬ男だった。
◆
「もうさぁ、巡君のアレは何なんだろう。『先輩がいない間の椅子は僕が安全を守っておきますよ!』って、アレ、絶対俺が帰ってからも守り続けるつもりでしょ……絶対戻ってから使うキーボード無いよ俺……」
「すごい楽しそうな顔してましたもんね、守屋。イキイキというか、水を得たナントカというか」
「部屋来るなり俺の隣に座ってたのはアレを狙ってたんだろうなぁ」
予約を入れた練習室へと向かう廊下。悠斗は練習相手である芦田と、部室を出る際の出来事などについて取り留めの無い会話を交わしていた。
夕刻に差し掛かった大学構内は騒がしく、行き交う学生の声が途切れることなく聞こえてくる。迷惑にならない程度であればポケモンを出したままにして良いという学則だから、その声には当然ポケモンのそれを混ざっていた。天井の蛍光灯にくっつくようにして飛んでいるガーメイル、テニスラケットを持った学生と並走していくマッスグマ。すれ違った女生徒の、ゆるくパーマをかけた柔らかい髪に包まれるようにして、頭に乗せられたコラッタが眠たげな目をしている。
空気を切り裂くような、窓の外から聞こえるピジョットの鋭い鳴き声は野生のものか、それとも練習中のバトルサークルによるものだろうか。絶えない音の中で、悠斗が脳裏にそんな考えを浮かべていると「まぁ、巡君のことはいいんだけど」隣を歩く芦田が話題を変えた。
「羽沢君も忙しいよねぇ。学内ライブって言ってもこうやって練習、結構入るし、あと学祭もあるじゃん? いいんだよ、無理してそんなに詰めなくても……」
身体壊したら大変だからさ。地下へと繋がる階段を降りながら、そう続けた芦田が何のことを言っているのか、それを悠斗が理解するまでには数秒かかったが、すぐに来月のオーディションのことだと見当がついた。
はっきりと口に出してはいないが、芦田が話しているのは来月に迫った、悠斗始めキドアイラクが受ける、ライブ出演を賭けた選考のことである。これからの開花が期待される新進アーティストを集めて毎年行われるそのライブからは、実際、それをきっかけにしてブームを巻き起こした者も数多く輩出されている。悠斗達は事務所から声をかけられて、その出演オーディションを受けることにしたのだ。ライブに出れれば、その後の成功こそ約束されてはいないものの、少なくとも今までよりずっと沢山の人に演奏を聴いてもらうことが出来る。
しかしそのオーディション前後に、悠斗達はサークルの方の予定が詰まっているのも事実だった。芦田が心配しているのはそのことだろうと思われたが、悠斗は「大丈夫ですって」と、いつも通りに明るい笑顔を作って言った。
「ちょっとぐらい無理しても。楽しいからやってることですし、やった分だけ本番にも慣れますしね」
「それはそうだけどさ。でもほら、本当やりすぎはダメだよ、なんだっけ……こういうの言うじゃん、『身体が資本』? だっけ、ね」
「そんな、平気ですよ。それに俺、今度の学内ライブで芦田さんと組めるの楽しみなんですよ? ピアノだけで歌ってのもなかなか無いですし、それも芦田さんの演奏で、なんて」
「やだなぁ、褒めても何も出ないから……いや、ま、ほどほどにね。あと一ヶ月無いのか、何日だっけ? 確かリーグの……」
そこで芦田は言葉を切った。それは「着いた着いた」ちょうど練習室に到着したからというのもあるだろうが、悠斗は恐らくあるであろう、もう一つの理由を感じ取っていた。
悠斗はポケモンを持っていないが、芦田はいつもポワルンを連れている。しかしその姿は今は見えず、代わりに、練習室へと入る芦田の肩にかかった鞄からモンスターボールが覗いているのが見て取れた。バインダーやテキストの間で赤と白の球体が動く。
「芦田さん」
「ん?」
「別に、そんな、気を遣っていただかなくてもいいですから」
苦笑しつつ、しかし目を伏せて言った悠斗に、芦田は「うんー」と曖昧な声で笑った。「そうでもないよ」にこにこと手を振って見せた芦田に申し訳無さを感じつつも、同時に彼が閉めたドアのおかげでポケモン達の声が聞こえなくなったことに確かな安堵を覚えた自分に、悠斗は内心、自分への嫌悪を抱かずにはいられないのだった。
「それはそれとしてさ、始めちゃおっか。あと何度も時間とれるわけじゃないし、下手したら今日入れて三回出来るかどうか」
「はい、そうですね」
練習室に鎮座するピアノの蓋を開け、何でもない風に芦田が言う。大学の地下に位置するこの部屋は音楽系サークルの練習場所であり、防音になっているため外の音は全くと言ってよいほど聞こえない。室内にあるのは芦田がファイルの中の楽譜を漁る、バサバサという音だけだった。
二週間ほど後に予定されている学内ライブは、サークル内で組まれているバンドをあえて解体し、別のメンバー同士でチームを作るという試みである。悠斗は芦田と組んでいるため、キドアイラクの方と並行して練習しているというわけだ。
「じゃあとりあえず一曲目から通して、ってことでいい? 今は俺も楽譜通りやるから気になったことがあったら後で、あ、キーは?」
「わかりました、二つ上げでよろしくお願いします」
「了解!」
言い終えるなり、芦田が鍵盤を叩き出す。悠斗も息を吸い、軽やかな旋律に声を乗せた。悠斗の最大の武器とも言える、キドアイラクの魅力の一つである伸びの良い高音が練習室に響く。
歌っている間は余計なことを考えなくて済む。悠斗は常日頃からそう思っており、歌う時間だけは何もかもから解放されているように感じていた。所々が汚れた扉を開ければ途端に耳へ飛び込んでくるだろう声達も、今は全く関係無い。自分の喉の奥から溢れる音を掻き消すものの無い感覚は、悠斗にとってかけがえの無いものだった。
しかし、である。
『ミタマ、ラグラージにエナジーボール』
今最も聞きたくない、そして聞こえるはずのない声が鼓膜を震わせた。
(何だ――?)
それは父親のものにしか思えなかったが、ここは大学の練習室だ。いるのは自分と、芦田だけである。その声がする可能性はゼロだろう。気のせいだろうか、嫌な気のせいだ、などと考えて悠斗は歌に集中すべく歌詞を追う。きっと空耳だろう、自覚は無くても少し疲れているのかもしれない。芦田の言う通り、無理はせずにちょっと休むべきだろうか。
『なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!』
が、そんな悠斗の考えを否定するように、またもや声が聞こえた。今度は父親のものではなかったが、含まれた単語から、先程した父親の声と同じような意味合いを持っていることが予想出来た。次いで耳の奥に響いたのは水流が押し寄せる轟音と、何かが地面を弾くような鋭い爆発音。いずれにせよ、この狭い、地下の練習室には起こり得るはずもない音である。
どうして、なんで、こんな音が。サビの、跳ねるような高音を必死に歌い上げながら悠斗は激しい眩暈を覚えた。悠斗の異変に芦田はまだ気づいていないようだったが、『羽沢さん?』彼の奏でるピアノに混じる声は止む様子が無い。『オダンゴも止まって!』ありえない声達はやたらと近くのものに聞こえ、それと反比例するようにして芦田のピアノの音が遠ざかっていくみたいだった。
『聞こえてますか!?』
「羽沢君!?」
おかしくなった聴覚に、悠斗はとうとう声を出せなくなった。あまりの気持ち悪さで足がよろめき、口を押さえて思わずしゃがみ込む。声が聞こえなくなったため、流石に気がついた芦田は悠斗の姿を見るなり慌ててピアノ椅子から立ち上がった。
「羽沢君、大丈夫!? どうしたの!?」
「いや、なんか……」
どう説明するべきかわからず、そもそも呂律が思うように回らない。自分の身体を支えてくれる、芦田の白いシャツがぼやけて見えた。
『救急車!?』『羽沢さん、答えられますか!?』聞こえる声のせいか、頭が激痛に襲われたようだった。簡素な天井と壁、芦田の顔が歪みだす。何だこれは、声にならない疑問が息となって口から漏れたその時、悠斗の視界が一層激しく眩んだ。
「泰さん!!」
ほんの一瞬の暗転から覚めた視界に映っていた光景は、まるで映画か何かを観ているような感覚を悠斗に引き起こさせた。
自分を覗き込んでいる知らない顔、若い男もいれば初老の男もいる、長い髪を結った綺麗な女の人も……。彼らの背景となっている天井がやたらと高いことに悠斗の意識が向くよりも先に、その顔達を押し退けるようにして一人の男が目に飛び込む。
「泰さん、大丈夫ですか!? どこか具合が悪いですか、それとも疲れたとか……いや、泰さんに限ってまさか、ともかく平気ですか!?」
ああ、この人の顔には見覚えがある。そう思った悠斗の上空から、ふわりふわりという緩慢な、しかし焦った様子も滲ませた動きでシャンデラが一匹、蒼い炎を揺らしながら降りてきたのだった。
ありがとうございます!
ふてぶてしさが伝わったのならよかったですwwwww
たぶんアクア団のイズミさんとかにも「化粧が濃いよ。おばさん」とか言ってるんだと思いますw
カビゴン系女子wwwwwww
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