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初出は2015年6月28日 https://twitter.com/ohinot/status/615147374223056896 以下です。 |
カイリューは何をする事も無かった。
あれから、休日を除く日は仕事に行こうが付いて来る事も無ければ、俺とウインディ、それとムシャーナにちょっかいを掛ける事も無かった。
俺から貰うポケモンフーズをぽりぽりと食べ、俺が居ない時は外をぶらぶらと回って近所を騒がせ、俺が居る時は俺とウインディと一緒にテレビを見たり。
正に居候そのものだった。
ここに来てからは俺にとって害になる事もしなかったし(食費やら近所への説明やらはあったが)、かと言ってこれと言って益になる事もしなかった。
ドラゴンタイプの生命力、それは近付けば慣れた今でも少し畏怖を感じる程にあるのだが、このカイリューには活気が無かった。
生命力を持て余しているような、そんな気もした。
そんなカイリューは、くぁ、と俺の近くで欠伸をする。長く、大きく口を開けて。口の割りには小さな歯が並んでいるのが見える。
そしてむずむずと鼻を動かして、体を丸めて大きくくしゃみをした。
居眠りをしていたウインディが跳ね上がる。慣れた今でも、俺も少しびびる程の反応をしてしまう。
そのままガラスに向けてやられたら、ガラスがはじけ飛ぶ気がした。
そんな事がありながらも、俺の日常はそこまで変わっていなかった。
朝起きて、ウインディを連れて仕事に行く。カイリューがぶらぶらと外を散歩する。
仕事を終えて、ウインディと一緒に帰って来る。カイリューが庭で待っている。
テレビを見ながら二匹と一緒に夜飯を食べる。シャワーを浴びて寝る。
大して変わらない日常だった。
同僚に話すと、とても珍しがられた。
俺もそう思う。
その一番の理由は、カイリューも俺も、互いに大して何も要求していないからだと思えた。
……と言うよりかは、俺はカイリューに対して大それた事を要求出来なく、そしてカイリューは俺に対して、ここで暮らす事以外を要求していない、と言った方が正しいか。
カイリューが暴れたら、俺とウインディには為す術も無い。ただ居るムシャーナも、戦う姿を見た事は無いが一緒だろう。
それを恐れずには居られなかった。ここに居るなら俺のものになれとボールに入れる事すら出来ない。そんなでもお人よしにカイリューに飯を与えているのだが。
けれども、それでも別に良かった。
ただ隣に居るだけ。それだけで俺はカイリューが居ない時より満たされていた。きっと、カイリューも同じだった。
それ以上、カイリューも俺も、今は望んでいなかった。
休日、起きるとムシャーナが居なくなっていた。
妻は、どう思うのだろうか。きっと、カイリューが居る事も伝わる筈だ。
とは言え、どうなる事でも無いだろう。俺が曲がらない限り、きっと帰って来ない。そして、曲がるつもりは無い。
それだけの事がきっとずっと続くのだろう。
互いに曲がらずに、子も為さずに、離婚も再婚もせずに、そのまま終わるのも有り得ると思う。
目覚ましを掛けなかった今日の朝、いつもより遅めに起きる。ウインディは器用に自分でドアを開けて外にもう既に出ている。カイリューも居なかった。
欠伸をして、目を擦って、起き上がった。でも、二度寝する事にした。少し疲れている。
暫くして、ウインディが俺を起こしに来る足音が聞こえた。圧し掛かってべろべろ舐められる前に起き上がる。
頭を掻きながら、ドアを開けられるならポケモンフーズも自分で取って食えよと言いたくなる。それはそれで困るが。
寝室にウインディが入って来て、跳び掛かられる前にベッドから降り、そして跳び掛かって来たので横に避けた。
まともに跳び掛かられて、蝉ドンされ、そのままウインディが壁に爪を立てながらずるずる床に落ちた日何て、本当に何とも言えない気持ちが一日中続く羽目になった。
躱すとカイリューが入って来て、壁からずり落ちるウインディを不思議そうに眺めた。
「……飯にするか」
とは言え、休日だろうと食う物は大して変わらないのだが。
飯を食い終え今日はどうするか少し悩む。
ただぼうっとしているのも、ここにずっといるのも余りしたくはなかった。
また魚釣りにでも行くか、と思うが、カイリューを連れて行く事になると、傍にいるだけで釣れなくなりそうな気がした。
「……町にでも、行くか」
ただ居候しているだけ。きっと俺やウインディを害する事は無いだろう。そうは思えても、保険は欲しかった。
外へ出る。カイリューも今日が俺にとっての休日だと分かっているらしく、ラフな格好の俺に付いて来た。
ウインディの背に乗って、「町に行くぞ」と言うと、意気揚々と走り出す。
後ろを振り返ると、カイリューも空を飛んで追って来ていた。小さな翼なのに、余裕のある飛び方だった。
ウインディもそれを見て、負けじと足を速める。カイリューが付いて来る。
足を速める。カイリューがそれを追う。
やめてくれ、と言おうとした時にはもう遅かった。俺は下手に走る車何かよりとても速く走るウインディの背中にしがみつくのが精いっぱいだった。
吐くかもしれないと思った。
タブンネを倒すと、経験値が多く得られる。だから一部のトレーナーは、飽くことなくタブンネを倒す。延々と流血を強いる。
勿論、僕も頻繁に倒された。夥しい程の攻撃を受けた。意識が途切れる際の、朦朧とした感覚には慣れた。だから僕は、人間を憎んだ。それは至極、当たり前のことだ。
六番道路には、他にも沢山のポケモンが住む。だが人間がなぎ倒すのは、タブンネのみ。その他は眼中に全くない。
この、こっちが不幸になる情報が広まったのは、割とつい最近のことだった。何故か人間はやたらと、知識の伝達が早い。一人知れば、数時間後には千人が知る。コラッタが増えるより早いペースで、彼らはデータを拡散させていく。
僕は、他のタブンネから、良くこう称される。自己中心的だ、と。けれども、僕はこう思う。僕以外が、他人を思いやり過ぎなのだ、と。
あるタブンネは、人間に襲われたとき、ボールから出てきたポケモンが既に傷だらけで、だから可哀想に感じて、癒しの波動を使ってしまった。彼はその後、彼が癒やした獣に突進された。
またあるタブンネは、人間が傷薬を岩の上に忘れたから、それを教えてあげたくなって、忘れ物を掴んで正面に立った。彼もその後、悲劇に見舞われた。
どう考えても、その行動は異常だ。彼らの思考回路が、さっぱり理解できない。何故憎むべき相手に、優しくするのか。攻撃する者を助けるのか。
僕は仲間から、利己的という欠点を責められた。一部からは、完全に避けられた。タブンネは、基本的に優しい。誰かを批難するなんてしない。けれども、他人に優しくしない者には、頗る彼らは厳しくなる。
確かに僕は、人間から食べ物を盗む。だが、それぐらいだ。何度も、瀕死状態にしてくる奴らだ。その程度の被害なら、賜ってやってもいいだろう。
それは、突然のことだった。
タブンネ達に大きな、とても大きな転機が訪れた。
条例か、法律か、はたまた憲法だったか、良く分からない。とにかく、タブンネを倒してはいけない、という決まりごとができた。タブンネを見かけたら、無視して逃げろ。危害を加えては駄目だ。ほぼ全ての人間は、その命令にしぶしぶ従った。
何故このような、決まりごとが作られたか。理由は、だいたい想像がつく。一部の人間が、幾度となく攻撃され続けるタブンネを憂いだ。そして、抗議をしたのだろう。
こうして僕らは、地獄の日々から逃れられた。実にあっさりだった。こちらからは、何もしなくても済んだ。
僕も仲間も、当然の如く喜んだ。喜ばないタブンネなどいなかった。木の実を集めて宴をした。しかも、その宴は三日も続いた。
ただ僕は、人間を恨むことを止めなかった。これまで、酷い仕打ちを受けた。だから、一生恨んでも許される。自分は人間から、食べ物を盗み続けた。何の罪悪感も抱かずに、悪事ではない悪事を働いた。
六番道路にはもう、人間は来ない。誰もがそう、考えていた。僕は、もう食べ物は盗めなくなるけど、まあ別にいいかと思っていた。
ところが、その予想は見事に覆された。
人間は、今もなおやってきた。そして彼らは、タブンネ以外のポケモンを倒していった。多種多様な悲鳴が、六番道路に響き渡った。人間が去った後には、多種多様なポケモンが、傷だらけで横たわっている光景が広がった。
習慣。人間は、この場所で手持ちを育成するということが、日常の一部となっていた。習慣とは、急に変えることのできないもの。だから彼らは、未だに訪れる。そして、タブンネ以外のポケモンを傷つけていく。
誰かが幸せになれば、その分誰かが不幸になる。タブンネが人間から狙われなくなれば、他のポケモンが狙われるようになる。
こうなったことに、罪悪感を抱いている者が、タブンネの中にはいた。自分らさえいじめられていれば、みんな幸せだったのに、等とぶつぶつ呟いていた。いや、それで己を責めるのは筋違いだろう。こうなったのは、タブンネのせいではなく、紛れもなく人間のせいなのだから。
多くのタブンネは、地面に横たわるポケモンを見かけては、癒しの波動で立ち上がらせた。自分は、やらなかった。他のタブンネがやっているなら、自分はやらなくて良いと思っていた。
そうして、三日が経過した。
この日僕は、目撃した。草むらに、堂々と放置されたリュックがあった。そして、そのリュックのチャックを、必死になって開けようとしている、一匹のシキジカがいた。
自分はそのシキジカに、とても親近感が沸いた。憎むべき相手から、盗もうとしている。僕と同じように。
けれどもそのシキジカは、非常に不慣れであった。歯でチャックを開けるのに、かなりもたついていた。
そして、予想通り悲劇に見舞われた。やっとのことでチャックを開け、中を漁っていたちょうどそのとき、持ち主であるトレーナーがやってきたのだ。
人間の顔は、怒りに満ちていた。ボールからポケモンを出した。経験値を貰う。盗みを働いた罰を与える。この二つを、同時に行おうとしているのだ。
シキジカは、咥えていた木の実を即放り投げる。まだ三日目。やられ慣れていないシキジカの足は震えていた。
数分後、酷い傷を負ったシキジカが、眼前に横たわっていた。怒りを買った分、余計に痛めつけられた。
ボロボロの体でシキジカは、必死に立とうとしていた。さすがに僕は、胸がちくちくと痛んだ。周囲に、仲間がいないか確認した。けれども、こんなときに限ってどこにもいない。
僕は自然と、体が動いていた。
「ありがとうございます。おかげで助かりました」
癒しの波動を二回使ったことにより、シキジカは全回復した。
投げ飛ばしたモモンの実を見つけ、シキジカはそれを運んでいった。僕は後ろからこっそりついていった。運んでいった先には、息も絶え絶えのシキジカがいた。毒状態であった。このシキジカは、仲間のために、危険な行為を遂げようとしていたことが、発覚した。
シキジカはモモンの実を仲間に喰わせた。しかし、それだけでは体力は回復しない。ここは僕の出番か。と、思ったら。
シキジカはなんと、宿り木の種を使い始めた。仲間に向かって、幾多の種を飛ばした。それは、体力を余計に減らす愚行だ。
しかし、倒れているシキジカは、少しずつながらも元気になっていった。そしていつの間にやら、立てるくらいに元気になった。一方で、宿り木の種を使った者は、少々足がふらついていた。
宿り木の種の使い方は、本来逆である。どういう原理か知らないが、こんなこともできるポケモンが存在した。思いやりの心があるシキジカだからできるのか、と想像した。
シキジカは、自分の体力を犠牲にしてまで仲間を回復させた。本当に絶対に、自己中心的なんかではない。
それに引き換え、自分は。
自分と同極だと思っていた存在は、むしろ対極に位置していた。自分はだんだんと、今までの自分が、自己中心的であったことを自覚してきた。
ああ、なんて自分は、愚かだったのだろう。
僕は、自分か利己的であったことを認めた。タブンネ達がおかしいんじゃない。僕がおかしかったのだ。
シキジカの行動に浄化され、考えを改めた僕はそれ以降、倒れているポケモンを見かけたら、すかさず助けるようにした。助けると必ず、お礼を言われた。お礼を言われるのは気持ちが良かった。
そうなってから、周りのタブンネの視線も変わった。僕を避けていたヒト達も、寄ってくるようになった。
誰かを助ける行為は、嬉しいという感情以外を生み出さなかった。
そうして、またときが経過した。
やってくる人間は、半分に減った。それに伴い、被害も減ってきた。
しかし、この日は違った。
一人の人間が、やってきた。その人間は、酷かった。醜かった。人間は、ただ只管にポケモンを倒しまくった。本当に、これはいつまで続けるつもりだろうというくらい倒し続けた。人間は六匹のポケモンを持っていた。その全てを、大きく成長させようとしていた。
ようやく、人間は作業を終えた。被害は膨大だ。草むらの至る所に、ポケモンが倒れている。僕はすぐに体が動いた。彼らを回復させてやらねば。
いつもの通り一匹ずつ、癒しの波動で回復させていく。ボケモンの数が膨大で、PPが切れないか心配だった。
一匹に、癒しの波動を二回使ってやることはできなかった。PPは後二つ余ってはいるが、二匹だけ特別扱いするわけにもいかない。だからこれでいい。後は全員自然回復する。
さあ、これで安心。僕はここから去ろうとした。
けれども、そのときだった。僕の正面に、先程倒れていたポケモン達が表れた。
「なんで全回復してくれないんだ」
彼らの中のハトーボーが、このように言ってきた。
「PPが足りなかったんだ。済まない」
「それは君の問題だろう。俺達が悪いんじゃない」
タマゲタケが、強い口調で言ってくる。彼らの怒りの形相の意味が、僕には分からなかった。僕は、彼らを回復させた。良いことをしたのだ。だから本来は、お礼を言われるべき立場だ。
「仕方がないじゃないか。半回復でもさせて貰えるだけ、ありがたいと思えよ」
「ふざけるな。誰のせいでこうなったと思っているんだ」
誰のせい? 勿論人間だろう。
いつの間にか、囲まれていた。
「お前意外のタブンネに同じことを言ったら、申し訳ない顔をして謝ってきたぞ。謝るってことは、タブンネ達が悪いって認めるってことじゃないか。だから回復して貰うのは、当然のことなんだよ」
ふざけるな。そんなの、利己的すぎる。
あまりに理不尽な言い分。僕はあっけにとらわれて、反論ができなくなった。黙っている僕を見たポケモンたちは次の瞬間、とんでもない行動を取った。僕に襲い掛かってきたのだ。
逃げ場はなかった。完全に袋叩きにされた。怒りのこもった攻撃が、僕の体を何度も抉った。
倒れてもなお、攻撃を止めなかった。助けを呼ぼうと、辺りを見回す。どこにも仲間はいない。なんでいつも、肝心なときに。
ようやく、彼らは満足していなくなった。
辛うじて、意識はあった。しかし、このままではいずれ終わってしまうことが、感覚で分かった。
僕は、自分で自分を回復できないか試みた。奇跡に賭けた。常識を覆せと自分を念じた。けれども、傷はいつまでも癒えない。やはり無理なのだ。癒しの波動は、他人のみを回復させる、思いやりに溢れた技だから。
死にたくなかった。ようやく地獄の日々から逃れて、これからってときだ。もう一度仲間がいないか探す。激しく痛む首を無理やり回す。木の後ろにいた一匹の、シキジカを発見した。
そのシキジカは、僕がこの間助けたシキジカだった。これは、明らかなチャンス。
「おい聞こえるか! 死にそうなんだ助けてくれ! 仲間を呼んできてくれ!」
できる限りの大声を発した。絶対に聞こえている筈だった。それなのに、シキジカは動かない。
「早くしてくれ! 一刻を争う!」
ようやく、シキジカは走った。自分はほっと安堵する。仲間の到着をじっと待った。
けれども、待てど待てども、仲間はやってこなかった。
シキジカは、恐らく仲間を呼んでいない。僕は、裏切られたのだ。同種族はすごく思いやるが、関係のない者は助けない。そういう奴なのだろう。僕の視点から見れば、シキジカは自己中心的だった。
シキジカに対して、怒りは感じなかった。不思議と、シキジカを許せた。良く考えれば、仕方がないことだ。僕を助けたら、僕を痛めつけた連中に何をされるか。仲間になんて思われるか。ハイリスクな上に、見返りがない。だから、仕方がないのだ。自己中心的だけど、仕方がないのだ。
シキジカを許すと同時に僕は、全てを許した。恩を仇で返してきた、あの連中も許した。そして、長らく僕を苦しめてきた、人間達も許した。
薄れていく意識の中、一人僕は考える。
僕は、間違っていた。自己中心的でいることを、むしろ肯定すべきだったのだ。ぶれてはいけなかった。自己中心的でいるのなら、徹底的にそうであるべきだった。誰も助けてはいけなかった。誰も回復させてはいけなかった。経験値を得るためにポケモンを倒す人間も自己中心的で、そのストレスを発散しようとした野生のポケモン達も自己中心的で、僕を助けなかったシキジカもそうで。みんな自己中心的で、正しかったのだ。なのに僕だけが、タブンネだけが優しくて、他人のことばかり考えてても、バランスを崩すだけなのだ。
このまま死ぬのか。諦めるしかないのか。
僕はとうとう、来世のことを考え始めた、何に生まれ変わるのだろう。何になろうとも僕は、自己中心的でありたい。そう、思った。
「今度は絶対に、自分のことだけを考えて生きてやる!」
最後の力を振り絞り、空に向かってそう叫ぶ。
そして、最後の足掻き。もう一度、癒しの波動を使ってみる。
何も、起こらない。
そう、思っていた。
ところが、数秒経ってから。右手の傷跡が、だんだんと薄くなっていくのが確認できた。そして、体が楽になってきた。
成功したのだ。自身を回復させることに。
僕は、シキジカが宿り木の種を使って、他人を回復させていたことを思い出した。僕が今やったのは、その逆だ。
ポケモンの技は、時折本来とは、違う効果を発揮する。
タブンネのくせに、自己中心的な思考だった僕は、これが可能だったのだろうか。
もう一度、癒しの波動を使った。またしても成功。僕は全回復した。あの連中は、半回復だけど。
僕はこれで、生命の危機から逃れることができた。
僕はもう、他のポケモンを回復させるのを止めた。
これで再び、他のタブンネから嫌われる。そう思っていたが、そうではなかった。あの一件を知ったタブンネの中には、僕に対して、同情する者も多くいた。中には、自分もこれからは利己的で生きてみるよ、と僕に向かって言ってくるタブンネもいた。他のポケモンを救うタブンネの数も減った。
人間達はまだ、ここにいるポケモンを狙っていた。けれども、それもあと少しで終わる。
やがて人間は、タブンネに次ぐ、あるいは同率程度の、能率の良い経験値マシーンを、発見するのだろう。そして、そのポケモンのみが犠牲になるのだ。
その後人間は、そのポケモンを倒してはいけない、という決まりごとを作るかもしれない。そしたら、また別のポケモンが標的になって。それが、いつまでも終わらない。いつまでも終わらないことに気がついた人間は、そんな決まりごとは意味がないことを悟る。そうすると、タブンネを倒してはいけないという決まりも撤廃される。そうすれば、またタブンネが狙われることになる。
その流れを予想している、仲間は多かった。
今だけなのだ。こうして、体に傷をつけずに暮らしていけるのは。
「この間、ハブネークが吐き出した毒の塊が、僕にかかっちゃって。強い毒だったから、すごく苦しかった。でも、癒しの心を使って、毒を取り除けたんだ。すごいでしょ。癒しの波動は、まだ覚えてもいないけど。でも、覚えたらきっと、お兄ちゃんみたいに、自分を回復させられると思うよ」
そう言った後、まだ幼いタブンネが、僕に向かって笑顔を見せて駆けていく。僕も笑顔で手を振った。自己中心的になったタブンネは、癒しの波動や癒しの心を、自分のために使うことができる。どうやらそれは真実のようだ。
誰かが不幸になれば、誰かが幸せになる。その循環は、終わることはない。だから、自分が幸せなときは、遠慮なく、その幸せを味わっていこうと思った。
思えば夏に葬式をやってばかりだ、とぼやいた父の声を、僕は暑さに揺らぐ視界の中で聞いていた。
夏の葬式とは体力を削るものだと初めて知った、大学三年生の夏のことである。
冬に厳寒に襲われるこのシンオウの土地も夏の猛暑には音をあげたようで、カントーほどでは無いにしろ、全身に纏わりつくような暑さがひたすらに重たかった。残暑と呼ぶにはまだまだ少しも収まる様子の無い熱気に、第一ボタンまで締めた首筋に汗が伝う。夕刻の空はまだ青く、西方の太陽は明るかった。
「タタラ製鉄所の方までお願いします」
ハクタイジム前で捕まえたタクシーに乗り込んで運転手に告げる。空調の効いた車内は少し寒かった。ハンドルを切り始めた男の二の腕が覗く、半袖のワイシャツの白が眩しかった。
車窓の向こうに見える景色が流れ出す。訪れる毎に整備されていくように感じる街並は、西陽を反射してぎらぎらと輝いていた。最後にこの街を見たのはいつだっただろうかと思った僕のことを垣間見て、窓硝子越しにムックルが飛んでいった。
祖父の訃報を父から受けたのは今日の朝だった。タマムシゲームコーナーの帰り、大学の友人宅に集まっていつものように無為な時間を過ごしていたら、見慣れぬ電話番号から着信が入った。酒の抜けない起き抜けの頭で夢現に取った電話口で、父は平坦な声で話していた。
友人達に事情を告げ、リザードの入ったモンスターボールをその中の一人に預けて帰った自宅は静まり返っていた。危篤の知らせに父は二日前からカントーを発っていたし、母も先に家を出たようだった。食卓の椅子に、成人式以来袖を通していないスーツと、数日分の着替えが入りそうな大きさの鞄と、黒のネクタイが置いてあった。母が用意してくれたものだと思われた。
数時間の航空を終えて飛行機から降りると、乗り込む前よりも些か冷たい空気が漂っていた。それは風土の違いだけでなく、僕自身の内部から湧き上がる寒気であったのかもしれない。電車に揺られてハクタイに着く頃には消えてしまったその感覚は、祖父の家で感じるそれとよく似ているようにも捉えられた。
「森を越えた辺りにある住宅街に向かって進んでください」
交通の便を良くするためにと、ハクタイの森を抜ける道路が整備されたのは、もはや私が生まれるよりも前のことであろう。これが出来るよりも前は案内人を雇って森を抜けるか大回りして電車に乗るかしか無かったのだから大変だったと、かつてはそうしていた父に度々聞かされたことがある。
森に住むポケモンの生活を出来る限り守るために多少の迂回がされた道路であるが、そういった考え方は一体いつからなされていたのだろうか。考え自体は遥か昔にあっただろうけれど、そちらの方が尊重され、まかり通るのになったのは恐らくそう古い日のことでも無いだろう。
汗を掻いた身体が冷房によって冷たくなる。下がった体温に肌が粟立った。空調の臭いと煙草とエンジンの臭い、消臭剤の芳香に混じって鼻腔を突くものは獣臭さだった。
「すみませんね、先程お乗せした方がビーダルを連れていまして。当社はポケモンをボールに入れずに乗れるタクシーを売りにしてるんですよ」
まるで僕の思考を読み取ったかのように運転手がいい、車窓がするすると下りていく。流れ込むのは冷房よりも穏やかな涼風と、森の木々が茂る葉の臭いだった。
この臭いを嗅ぐと、僕は帰省を実感する。傾いた日に目を細めながら見やった空には回る風車のシルエットが浮かび上がり、フワンテと思しき球体がいくつか漂っていた。
◆
ソノオとハクタイの中間部に位置する住宅街に差し掛かった辺りでタクシーを降りた。製鉄所などの連なる工場地帯で働く人の多く住むここから少し奥まった所に、祖父の屋敷は建っている。去っていく黒の車を見送ると、東の空には折れそうな月が浮かんでいた。
家並みを抜けて屋敷へ向かう。どこかの家庭が夕飯の匂いを漂わせていた。電柱に貼られた求人案内のポスターは剥がれかけていて、連絡先と書かれた電話番号を読むことが出来ない。そのポスターよりも上方で無機質な柱に張り付いたテッカニンが数匹、ジワジワと弱い鳴き声を響かせていた。
幾人かの住民とすれ違いながら歩くと、やがて鳴き声が話し声に変わっていった。声を顰めたざわめきの方へ進んで角を曲がると、長い塀の周りに弔問客が集まっているのが見て取れた。
軽く頭を下げながら黒の群を縫っていく。冠木門の向こうに顔を覗かせると、誂えられた受付で見知った顔の女性が客達を出迎えていた。父の姉にあたる鏡子伯母だった。前を通り際にこちらも礼をすると、彼女は年齢よりも若々しい口元を緩めて「久しぶり」と言った。僕は小さく頷いて、屋敷の奥へと足を踏み入れた。
やたらと広い屋敷は既に葬式の準備を粗方済まされているようで、行き来する弔問客の声や足音が夏風に混じって響いている。喪服に身を包んだ彼らは祖父の会社の人たちや近所の住人だと思われ、親戚の姿はなかなか見当たらなかった。通夜という場に遠慮しているのかそれとも祖父の生前の様子がそうさせるのかはわからないが、ポケモンを出している人はおらず、ただ庭に訪れる野生ポケモンの声だけが長閑であった。
うっすら暗くなってきた屋敷に置かれた照明が、弔問客達を浮かび上がらせている。行き交う影と喪服の黒が混ざり合い、どこか異世界めいた風情を醸し出していた。黒が動く度に漂う汗の臭いと、彼らに出された茶の香りが屋内の湿気に蒸されて強くなる。
盆に乗せた茶を運ぶ母の姿を前方に見つけたが、あくせくと忙しそうであったため声をかけるのは躊躇われた。話すのは後回しにしてそのまま進む。何度目かの障子を横切ると、この屋敷で恐らく最も広いであろう座敷の前に辿り着いた。
祖父の祭壇はそこに設えられていた。葬式など幼児期に一度行ったきりである僕にとって、それは今ひとつ現実味に欠けるものであった。シートの敷かれた畳に鎮座する棺に祖父が入っているというのも想像がつかなかった。
「明久君」
弔問客の密やかな会話をぼんやりと聞きながら佇んでいた僕の名を呼ぶ人がいた。声の方を見やると、祭壇前に並べられたパイプ椅子に座る女性が控えめに手を上げるのが視界に映った。
彼女は鏡子伯母の姉で、名を桜子という。平素の彼女は品の良い夫人を絵に描いたような人であったが、流石に今は全体的に窶れ、弱っている風な印象を受けた。
「お正月以来ね」首だけを動かして伯母が言う。
「はい」
「鏡子達が手伝ってくれたから助かったわ。最近どうも腰が痛くて、あまり動けないものだから。千穂さんにもよろしく言っておいてね」
千穂とは僕の母親の名である。
「はい」
「覚悟はしてたけど、急だったから慌ただしくて。この家も広いし、会社の方々もいらっしゃるから色々手間取ったわ」
「お疲れ様です」
「遺影も碌に探せなくてね」
そう言った伯母の横に腰掛けて祖父の遺影と向き合うと、写真のくせに鋭い眼光がまるでこちらを射抜かんとしているように思えた。深い怒りに何かを睨み付けるかの如き祖父の遺影は、他にもっと別の写真があっただろうと思わせる一方で、これ以上無いほどに祖父という人間を表しているようにも感じられた。
「あんな写真しか無かったのよね。もっとも、お父さんはいつもあんな顔だったから当然なのだけど」
半ば独り言のように伯母が呟いた。くっきりとした紅に彩られた、半開きの唇が微かに歪む。黒い着物から覗く首元に刻まれた皺に、うっすらと汗が滲んでいた。
庭の木に止まりに来たと思しきホーホーの声が、僕たちの間を滑っていった。額の中の祖父は微動だにせず、ただただこちらを睨んでいた。
◆
祖父は近くの工場地帯で、食品加工の工場を経営していた。若い頃の祖父はイッシュで炭鉱をやっていたと聞くので、起業したのはおおよそ五十年ほど前のことだと思われる。
屋敷を建てたのは祖父の祖父、僕にとっては高祖父にあたる江角総次郎だった。江角家初代とも言われる総次郎はカントーの武士の出であったが次男坊であることと維新の風に流され、シンオウの開拓に身を乗り出したという。当時のシンオウは今程までに人の手が入っておらず、自然とポケモンが大きを占める土地であった。
そこで総次郎が如何にして開拓を成功させたのか、それを詳しく知る者は誰一人としていない。祖父は知っているのかもしれないが、それが父達に語られることは遂に無かった。先住民との衝突や行く手を塞ぐ森に歯向かい、誰もが辛酸を舐めたシンオウ開拓を身一つで成し遂げた高祖父の活躍は、ある種伝説となって語り継がれている。
開拓の成功によって得た資産により、総次郎は製鉄業を立ち上げ、同時にこの屋敷を建てた。製鉄工場は祖父の起業に伴い売り払われ、現在は江角でない者達によって経営されている。祖父の屋敷に来る道中に見える、灰色の煙を空へと吐き出す煙突が連なる中のいずれかが、その製鉄工場のものだ。
祖父はこの屋敷に一人きりで暮らしていた。父の母で祖父の妻たる巴さんは父が子供の時に亡くなってしまったから、父達子供が家を出てからは祖父と共に屋敷に住む者はいなかったのだ。一年半前に脳梗塞で倒れたのを機に僕の姉が住み込んで身の回りの世話をしていたのだが、それでも何十年かの間、祖父はこの広い屋敷に一人だった。
大学に上がる折、祖父に挨拶へ出向いたことがある。前年の夏にシンオウの大学を勧められていたのだが、結局僕は自宅から通える大学を選択した。
入学式の季節であった。まだ寒い空気が満ちる屋敷で、僕は祖父と二人で向き合っていた。庭に吹く風が木々を揺らす音と、池の水面が揺蕩う音、時たま野生のポケモンが鳴く声の他には何も聞こえなかった。祖父の部屋は庭へと面していて、いつでも葉の匂いと濡れた土の匂いが充満していた。
屋敷は穏やかに時を刻み、入学を報告する僕の声を響かせた。祖父が終始黙っているのが気まずかったが、それ以上に唯々僕の話を聞くだけの祖父の瞳が怖かった。何か後ろめたいことも怒られる理由もある訳でないのに、何故だか針の筵に座らせている心地であった。
祖父が傾ける杯の縁で、透明の酒がゆらゆらと揺れていた。そこに映る祖父の顔が、幾つにも砕かれ割れていた。自分の声に混ざるハトーボーの鳴き声が、恐ろしく遠くのものに感じられた。
祖父は酒を舐めながら、静かにこちらを睨み付けていた。未だ冷たい春風に散らされた木の葉が何枚か座敷に吹き込んでも、その視線が揺らぐことは決して無かった。
◆
そして、あの時と何ら変わらない視線は今も遺影の中から僕を射抜く。
世間話などを交わしていた桜子伯母は、寺の方が来たという呼び声に席を立って座敷を出ていった。儀式が始まるまでまだ時間があるようだったが、一人で祖父の睨み顔を眺めているのも気が進まない。伯母の足音が消えて数分後、僕もパイプ椅子から腰を上げた。
「ああ、明久」
廊下や中庭で何某かを話している弔問客の中を歩いていると、向かいからやってきた人影が僕を呼んだ。祖父の世話をしていた姉の小春だった。
「姉ちゃん」
「お父さんに会った?」
「まだ会えてない。母さんには会ったけど」
姉は日頃から明るく活発な性格をしており、気難しい祖父の世話も上手くこなしていたのだが、今は流石に顔を曇らせていた。それは祖父が亡くなったという事実と葬式の準備に追われた忙しさだけが理由では無いように思われた。
長い髪を一つに結わえた姉は腰に手を当て、「この暑い中、ねぇ」と中庭を見やって溜息をついた。この屋敷は今時いくつも残っていないであろう日本家屋だが、広々とした中庭を囲うようにして建てられているのが特徴的だった。
一本の大樹と、トサキントなどを泳がせた池を中心に緑の葉が多く生い繁る庭が暮れてきた空の下にぼんやり広がる様子は、まるで小さな森が屋敷に閉じ込められたようである。
「大往生だったんだけど」
「そりゃ、八十七年も生きれば」
「それはそうなんだけどね」姉は声を落とした。
「最期が苦しそうだったから」
庭には勝手に入ってきた野生ポケモンが彷徨いており、弔問客が愛でたり指差して話したりしていた。ブタクサの上で転がるスボミーに、近隣の住民と見える初老の女性が手を伸ばして軽く撫でる。「毒を持ってるから気をつけてほしいな」話題を変えるように姉が言う。「ま、スボミー程度なら大したこともないか」
玄関の方が若干騒がしくなってきた。先ほど伯母が迎えにいった、寺の者が入ってきたのだと思われた。そろそろ始まるのであろう、客達もその気配を感じて庭から動き始めた。
何か手伝えることは無いかと一応問うてみると、これと言った仕事は粗方終わってしまったという答えが返ってきた。白粉を塗った姉の横顔に、風に吹かれた細い髪が一房かかった。
「相変わらずじめじめしてるね」
姉がそれを手で払いながら鼻を小さく鳴らした。
「この家はいつも湿気が酷い」
◆
平坦な声の読経が屋敷に響く間も、祖父の死を実感するということは無かった。
木魚を叩く僧侶を睨み付ける祖父の遺影は今に動き出し、心経を聞く我々を蹴散らして座敷に立ちはだかるかのように思われた。或いは畳でじっと横たわっている棺の中から、痩せ細った身体が怒気を滲み出して這い出てくるのではないかと感じられた。暑苦しい背広とワイシャツに覆われた背中が、薄い底冷えに数度震えた。
入れ代わり立ち代わり、弔問客が焼香するために座敷中に線香の匂いが漂っていた。庭から流れてくる緑臭さと充満する湿気とが混ざり合う臭いは、盆にここを訪れるたびに嗅覚を刺激するものであった。そのため僕の中ではこの臭いは盆のものであり、夏休みのものであり、同時に何時まで経っても慣れない畏怖を感じる祖父の元で過ごすことを実感させるものだった。
読経に被せるようにして、庭でホーホーが一つ鳴いた。横目で見遣った庭は薄暗く、座敷から漏れ出た光が木々や草を照らしていた。
庭寄りの端に置かれたパイプ椅子に腰かけた僕の蟀谷を、庭からの風がのっそりと撫でていった。植物の生臭さを運ぶそれはしかし、湿った空気の満ちる座敷に居ては渇きのものとして捉えられた。視界の不明瞭な庭をずっと眺めるのも気が滅入り、視線を祖父の遺影に戻した。隣に座る姉の向こうに、母、そして父の姿が僅かに見える。
大学で教鞭を揮う父は歳の割に姿勢が良く、伸びた背筋は平時と変わりないものであったが、顔色は悪く青白いものとして僕の目に映った。この屋敷に訪れると、父はいつも顔色を悪くしていた。
◆
「どうにも蒸し暑いな」
読経が終わり、弔問客が帰り出してからようやく父と口を聞いた。母と姉は食堂で夕食の支度をしている。黒のネクタイを緩めながら、父は薄い唇を少しだけ舐めた。
「いつ来たの」
「昨日の夜中だ。ホウエンに近づいている台風のせいで、飛行機が少し遅れていた」
「僕の時はそんなことなかったけど」
「台風が逸れたんだな。さっきニュースでやっていたよ」
父との会話に割り込んできたのは哲人叔父であった。哲人叔父は父の弟で、件のホウエンからここまで来たはずである。垂れ目がちの童顔と日焼けした肌が相俟って、ジグザグマをどこか彷彿とさせた。
「こっちに来ている間に上陸して、家が倒壊したりしないか不安だったが杞憂だった。今向こうは晴天そのものらしい」
「結構なことだ、ぱっとしない空よりずっといい」
縁側に出た父が視線を上へと向けて言った。濃紺の空に浮かぶ星は一つとして無く、まるで朦朧とした灰色の雲が天球の全てを薄く覆っていた。折れそうな月だけが鈍い光をひたすらに放っており、蒸されるような中庭を見下ろしているようであった。
頰と首筋に吹き出る汗を同じように湿り気を帯びた手で拭おうとすると、傍からタオルを差し出された。
振り向いた先にいたのは鏡子伯母で「姉さん」僕よりも先に叔父が声をかけた。何となく口を開くタイミングを失った僕は黙ってタオルを受け取り汗を拭く。冷たく乾いたタオルは母や姉が外へ行く時には匂わせているのに程近い、化粧品の香りがした。
「お寺さんは帰ったの」
「今ね。ご近所の方と話してたんだけど、やっと」
「ああ、この辺に住んでる人なのか」
「お父さんのことも知っていたらしいわよ」
「そりゃあこんなに大きい家に住んでれば有名人にもなるものよね」
僧侶の見送りから座敷に戻ってきた桜子伯母が会話に入ってきた。縁側に祖父の子が四人揃った。
「姉さん、今夜はどうするの」
「まあ、寝ずの番をやっておかないと」
「不安だな、そこまで保つかどうか」
寝ながらの番になってしまいそうだ、と冗談めかして言った叔父に、鏡子伯母が「お父さんが怒って出てくるかもよ」と混ぜ返した。
「洒落にならん」父が言う。
「でも、親父はそんなことで怒る器でもないか」
続けられた言葉に、父の姉たちと弟は一様に頷いた。庭で眠るブイゼルを見つけた桜子伯母がそれを指差し皆で笑っている彼らが背にする、彼らの父の遺影は誰が見ても怒りの表情であった。しかし、滅多なことでは怒らぬ祖父が何に対して忿怒の感情を向けているのか、それは恐らく子供たちの知るところですらも無いのだろう。
◆
父は後妻の子であった。
祖父には元々、正代さんという妻がいて、その人が桜子伯母と鏡子伯母の母である。しかし正代さんは伯母たちが小学生の頃に家を出てしまった。二人の姉妹は父と共に屋敷に取り残され、そして今まで実母の顔を再び見たことは無いという。
それから暫くして屋敷の門を潜ったのが父と、父の母であった。父は私の祖母にあたる巴さんの連れ子で、江角という苗字を得た時にはまだ三つか四つという幼子だった。父にはこの屋敷に来る以前の記憶がほとんど欠落しており、それまでどこに住んでいたのか、実父がどのような人であるのか、どういう経緯でここに来ることになったのかなどをまるで知らない。ただ母の柔い手を握り締めて、草木の薫りが満ちる門の向こう側へと足を踏み入れたことだけが鮮明に残っている。
巴さんが祖父の妻となり、二年が経とうとした頃に哲人叔父が生まれた。伯母は二人揃って、頻りに父や叔父の面倒を見た。十幾つも歳の離れた弟たちが可愛かったのと、近寄り難い雰囲気を醸し出す祖父の姿が幼心には怖く見えることを知っていたからである。事実、身体が弱く早くに亡くなった実の母たる巴さんよりも、父や叔父は姉たちに世話を焼かれていた。
やがて桜子伯母はジョウトへ嫁に行き、次いで鏡子伯母が大学を中退して遅まきのトレーナー修行に旅立った。彼女がエリートトレーナーとして名を馳せる頃、父も大学進学を機にカントーに発ちそのまま学校に残り続け、そして哲人叔父もホウエンの大学に入ることになった。姉弟の分散は桜子伯母の所在が夫の転勤によりイッシュへ移った今も変わることなく、四人の子は祖父を一人屋敷に残してそれぞれの土地で生きている。
父たちは仲の良い姉弟であった。それは今でも同じだろう。
ただ、その彼らが屋敷から散るようにして居なくなったのは何やら父たちにもわからない理由があったのだろうか。次々に門の外へと出ていく子供たちを見送る時も尚、祖父の瞳が放つ光の鋭さが弱まることは一度も無かった。
◆
村佐という、祖父の会社の後継者が挨拶に来たため僕は父たちから離れて座敷を出た。村佐は恰幅が良く如何にも企業の取締役という風情で、祖父の体格とはまるで正反対であった。神妙な顔で頭を下げていた彼だが、祖父に後釜と認められるまでに一体どれだけの辛苦を積んできたのかということは計り知れなかった。
「今日は皆様、朝まで起きていらっしゃるのですか」
「ええ、まあ。通夜と呼ぶものですから」
「明日のこともありますし、あまり無理はなさらずに」
桜子伯母は村佐と面識があるようであった。部屋の連なる家屋を繋ぐ長い廊下を歩くと、母らの作っている夕食の匂いが漂ってきた。
この屋敷には中庭と別に、渡り廊下と家屋に挟まれた小さなスペースがあった。祖父はそこで、オドシシとメブキジカを一匹ずつ育てていた。メブキジカは昔、祖父が巴さんとイッシュへ旅行に行った時に連れて帰ってきたもので、当時はまだシキジカだったらしいが今ではオドシシに負けず立派な角を備えていた。
中庭を背に渡り廊下に立つと、彼らの様子を見ることが出来た。大きなポケモンと遊べるのが楽しくて、ここに来ると僕は決まって彼らを構っていた。しかし今では二匹の鹿は揃って寝ているらしく、草に覆われた薄暗い空間にはこんもりした塊が二つ、丸くなっているのが影として見て取れた。
祖父と同じく、彼らもまた高齢である。どちらも雄であるため、子を成すことはなくここでひっそりと過ごしていた。動かぬ二つの影の向こうには家屋、さらに向こうの塀を越えたところにある林地から葉擦れの音が流れてきた。
廊下を渡り終え、幾つ目かの部屋に入る。改築された食堂や便所などを除けば、ここは屋敷で唯一の洋間であった。茶と紫のどちらともつかぬ真紅の絨毯が敷かれたこの部屋を作ったのは、旧き佳き和の建築を好んだ高祖父でも機能美を愛した祖父でもなく、華美と豪奢に惹かれた曽祖父の伸之介だ。
伸之介は派手好きで、芸術を分かりもしないのに遍く手を出していた。
祖父があまり足を踏み入れないせいで何時でも埃っぽい絨毯に一歩を進めると、靴下越しのふかふかとした感触と共に鼻の奥がむず痒さを訴えた。特にここの部屋に用も無いだろうから、姉も滅多に掃除などしていないのであろう。大理石の机や、本棚に詰まった本の頁には細かな塵が積もっていた。
絨毯を踏みしめ幾らか歩くと、棚に置かれた洋燈が目に留まった。カロスの舶来だというそれには、虹色の角を持つ鹿と色鮮やかな花々がステンドグラスで描かれており、僕は父や伯母、叔父などにこの洋燈を灯してもらうのが好きであった。煌びやかな絵が内側から照らし出される様子をまた見たい気もしたが、洋燈の隣にある古いマッチはとうに湿気っていて、洋間に火を灯すことは不可能だと思われた。
ただ光源は引き戸の隙間から漏れ出る廊下の灯のみである、視界のきかない洋間をぐるりと見渡す。小説や学術書、何やら読めない文字の並ぶ背表紙が敷き詰められて僕を睨みつける。壁に掛けられたファイアローの群れが躍る絵の入れられた額は、端に黴が生えていた。数えきれぬ金の瞳を描いた絵の具だけがひたすら鮮やかに、薄汚れたガラスの向こうで輝いている。
しっとりと茶色い、四角のピアノの蓋に指を走らせると指紋いっぱいに埃が張り付いた。曽祖父が果たして音楽に精通していたのか、また楽器を奏でる腕があったのかは不明であるが、そんなことなど我々子孫たちには関係の無いことであった。幼い頃、この屋敷に親戚一同が集まると好き勝手にピアノを叩いて遊んだものである。曽祖父は既にいないし祖父は洋間に無関心であったから、我々を叱る者は存在しなかった。
重い蓋を開けてみると、つんと黴臭さが鼻をついた。黄ばんだ白鍵を右の人差し指で押さえてみると、篭った音が濁った空気を微かに震わせた。この湿気にやられたのであろう、昔に姉が軽やかなワルツを披露した鍵盤は、今ではその命を尽かせかけたかのように白と黒を黙って並ばせていた。
ピアノの蓋を元に戻して、僕は絨毯に腰を下ろした。足をだらしなく投げ出して天井を見上げる。瀟洒だが実用性に欠けるシャンデリアが取り付けられたそこには、幾何学模様が描かれている。
何ともつかないこの模様は、幼心にはどうにも不気味に見えてならなかった。こうして床に寝そべって天井を見ると、さながら自分が深い水底に沈められて揺れる水面を眺めているような、或いは巨大な生物の腹の中で自らの運命が決まるのを待っているような、はたまた逃げることの出来ない巧妙な罠に捕らえられて途方に暮れているような、そんな気分になったものだ。さっさと起きて部屋を出てしまえばよい話なのだが、言い知れぬ不安は身体を洋間に縛り付けてしまうらしく、僕はいつでも姉や両親などが呼びにきてくれるのを待っていた。
今は流石にそのようなことは無いけれど、不規則な曲線や図形の並ぶ天井は変わらず気味が悪かった。まるで蠢いているような、その癖時を止めているかのようなその模様に覆い尽くされそうになるのを、引き戸からの光とのか細い夜鳴きが繋ぎ止めていた。
◆
洋間を出て父たちの元へ戻ると、村佐はもういなかった。桜子伯母の姿が見えないのは、村佐の見送り際に、祖父のかかりつけであった井上医師が尋ねてきたからだという。井上医師は、診察が立て込んで読経に間に合わず、今になってようやくここを訪れることが出来たらしかった。
「明兄ちゃん! どこ行ってたんだよ、さっき話しかけられなかったから探してたんだ」
村佐と入れ替わりで座敷にいた、従兄弟にあたる大貴が縁側の障子から顔を覗かせて手を振ってきた。父である哲人叔父と似た垂れ気味の目が、くりくりと丸かった。今年十五になるという彼は、半年ほど前に顔を合わせた時よりも更に背が伸びていた。
「悪いね、ピアノの部屋に行ってたんだ」
持主の成長に追いつけない黒のズボンから垣間見える、硬そうな踝を視界の片隅に捉えながら言うと、大貴は大して興味も無さそうに「ふうん」とだけ答えた。幼さの残る、日によく焼けた顔は既に庭のポケモンなどに移っており、興味を失われた僕は苦笑した。
「またあの部屋に行ってたの?」
大貴の代わりに会話を引き継いだのは、それまで彼の隣で笑っているばかりであった少女だった。
「明久君はあそこが好きだよね」
彼女は大貴の姉で、名を菜美子といった。菜美子は僕よりも歳が一つ下で、今は大学に通う傍、ポケモン研究員である哲人叔父の仕事を手伝っていると聞いている。黒のワンピースに身を包んだ彼女の、緩くパーマをかけたような癖っ毛が緑めいた夜風に吹かれて揺れていた。
僕が曖昧な頷きを返すと、菜美子はふっくらとした頬を緩ませた。赤い唇が綻ぶ様子に何となく視線を逸らす。僕はこの、柔らかな笑みを浮かべる従姉妹がどうにも苦手である。彼女に明久君、と呼ばれると、今も昔も耳の奥がくすぐったくなる心地に陥るのだ。
「お父さんたちは今夜ずっと起きてるみたい」僕らそっちのけで明日のことなどを話している父たちの方を見て菜美子が言う。
「ああ、さっき聞いた。寝ずの番をするらしいね」
「お酒の用意とかしてたよ、いいな。俺も混ざりたい」
「別に楽しいものじゃないだろうよ。明日もずっと何かしらあるんだから、僕たちは早く寝ておくべきだろう」
年長者ぶってそんなことを言ってみると大貴は口を尖らせて、わかってるよ、と軽くぼやいた。弟の年相応そのものな素振りに菜美子が笑う。
廊下から漂ってくる、腹の中を刺激する匂いが一層強まった。縁側へと目を向けると、父の吐き出した煙草の煙が夜の空へと溶けていくのが障子の間から見え隠れした。
空に流れる灰色の雲と紫煙との区別がつかなくなる。夕食が出来た旨を姉が知らせに来たのは、それから間もなくのことであった。
◆
夢に魘されて目を覚ますと、木張りの天井がやっと見えるくらいの明るさしか屋敷には残っていなかった。
あの後親戚一同で夕食を取り、夜食の準備をする母や姉、通夜の支度に追われる父とその姉弟を横目に風呂に入った。特にすることも無くそのまま眠りに就いたのだが、気味の悪い夢によって僕は起きてしまったのだ。
寝巻きの下の皮膚は、脂汗でじっとりと湿っていた。ただでさえ湿気の中で寝ているせいで蒸されている感覚が絶えないのに、その上汗まで掻いては耐えがたい。湿り気を帯びたTシャツを脱ぎ捨て、僕は鞄から取り出した予備のそれに腕を通した。
寝起きついでに便所へ行くことにしたが、どうやら目が冴えてしまったようである。襖を開いて廊下に出ると、夜露に濡れた土の匂いがした。隣の部屋の母や姉は元より、親戚の誰もがよく眠っているらしく屋敷は静まり返っていた。飽きもせず鳴いているのはホーホーやヨルノズクだけである。
タイル張りの便所はひんやりと冷たかった。空の色に濃厚な墨を落としたような蒼のタイルが、白熱灯の光にてらてらと照らし出されていた。目を凝らすとその一つ一つに無数の自分が映し出されるのを見て取れたが、冴えぬ顔を沢山見たところで得るものも無く、僕は水が流れ落ちる音を背にして便所を後にした。
すぐに部屋へと戻れば良いのだが、ふと父たちのことが気になった。寝ないで夜を明かすと話していたが、屋敷の静まりようから考えるにその志は果たされなかったと推し量られた。道中、渡り廊下から降りて睡眠中の鹿たちを撫でてそんなことを考える。草と獣の臭いをした二つの塊を覆う毛は細く硬く、僕の手の動きに合わせて低い呻き声を上げた。
微かに軋む音を立てる縁側を歩き、祖父の遺影がある部屋に入ってみると、大方予想していた通りの光景が薄明るい部屋に広がっていた。藺草の匂いに酒や煙草の強いそれが重なって、一瞬奇怪な息苦しさに囚われた。ほぼ空になった何瓶かの酒瓶の側に置かれた、夜食の皿には何も残っていなかった。
「父さん、起きて」
煮染が盛られていたと思しき皿の隣に転がる父に声をかける。軽く肩などを叩いてみると、父は「うう」と唸って身体を起こした。
「俺は何を」
「寝てたんだよ。叔父さんも伯母さんもみんな酔い潰れてる」
「今は何時だ」
「12時過ぎたあたりかな」
「そうか。思ったよりもたなかったんだな」
俺たちももう歳だ、父はそう言って頭を押さえた。流石に酔いは醒めたようであるが、目元は明らかに眠そうな上に呂律も覚束ない。「おい起きろ、姉さん。哲人」父が叩き起こして回った他三人の様子を見ても、このまま通夜を続けるのは困難だと思われた。
「ああ、寝てしまってたのね。いつの間に」
「やはり父さんのようにはいかないな。僕たちはいつまで経っても酒に弱い」
「ともかく、みんなもう寝た方がいいですよ。後は僕が片付けておきますから」
「じゃあ、悪いけれどお言葉に甘えさせてもらおうかしら。もうこれ以上続けられる気はしないわ」
瞼を擦る桜子伯母の言葉に父たちは頷く。「まあ、それで親父が怒ることもないだろう」父は大きく伸びをしながら遺影に向かって呟いた。「親父の一番嫌うのは酒に弱い奴が無理してする酒盛りだから」
足をふらつかせた大人たちが自室へ去っていく。欠伸をする鏡子伯母の細い首筋に浮かぶ、青の血管がやけに目立って見えた。むにゃむにゃと夢現に何事かを言っている哲人叔父の背中を押して歩く父が「そういえば明久」と座敷を出て生きざま、思い出したように振り向いた。
「さっき俺を呼んだか。恭介、と。俺の名を」
「父さんのことは、父さんとしか呼んでないはずだけど。何時頃の話なの」
「俺が寝ている間だ。俺を、起こす前に」
一言一言噛み締めるような父の言葉には、思い当たる節が全く無いため正直に首を横に振った。そうか、と父は緩く頷き、哲人叔父と共に部屋を出ていった。乱れ気味の足音がしばらく響き、遠ざかってやがては聞こえなくなる。
食堂と座敷を往復して、夜食の皿だの空の酒瓶などを片付けてしまうと、祖父の遺体を前にして自分が一人であることを強く思い知らされた。もう幼い子供でもあるまいし、不機嫌な遺影や黒塗りの棺が怖いわけでは無いけれど、むしろ生きている祖父と独り対面しているような緊張感に襲われた。物言わぬ祖父は死して尚僕を睨みつけ、生前と同じ無言を以て自分以外の者を気圧している。
何となく居た堪れなくなり、手近にあった線香を焚いてみた。慣れない手つきと湿気に火がつかぬことを案じたが、それは杞憂に終わった。香に灯された小さな火は、蛍光灯に照らされた部屋の中で音も立てずに燃えていた。
薄ら寂しい匂いに手を合わせ、うろ覚えのお経を心中で唱えていると、背後で軽い音がした。父か親戚が戻ってきたのかと振り向いたが、そこにいたのは僕の予想していたどの人物でもなかった。
「水を飲もうと思って食堂に行ったのだけれども、物音がしたから」
「菜美子」
涼しげな寝巻き姿の菜美子は、「ここまできたらどうにも目が冴えてしまったようで」と廊下側の下桟を踏み越えて言う。白い裸足が微かに押され、仕切の凹凸の形に潰れるのがどうにも艶かしかった。
「明久君も、そうなの」
「大体は、うん。父さんたち、寝ずの番出来そうにないって」
「そう」
菜美子が畳を踏むだけの微小な音が鼓膜を擽った。祖父の遺影と向き合う僕の横に彼女が座ると、床が幽かに軋む音がした。
「どうせ眠れそうにないし。お父さんたちの続きでもしようかな」
独り言のように呟きながら菜美子が線香に火を点ける。僕よりも慣れているように見えるその手つきに、灯された線香がか細い煙を吐き出した。度重なる焼香によって酒や煙草や畳、また庭からの土の臭いは香のそれに取って代わった。どこか非日常的なその香りが強く鼻腔を突くせいで噎せ返るようである。
僕は何も言わなかったし、菜美子も敢えて何かを言うことをしなかった。しかし僕が自分の寝床に戻らなかったように、菜美子もまたこの座敷から動く様子を見せなかった。
隣では菜美子が手を合わせているし、眼前には祖父の祭壇が鎮座している。奇妙なことになったな、と二重の緊張を覚えながら、僕はじっとりという湿気の中にふうと息を吐いた。
◆
昔、こうして菜美子と共に縁側で庭を眺めていた記憶がある。
夏の夜だった。夕飯が出来るのを待っていたのか、或いは食後の夕涼みをしていたのかは定かではないが、僕たちは縁側に腰掛け生温い風に吹かれていた。
桜子伯母が、自分や弟妹の過去に着ていた浴衣を出してくれて、僕と菜美子はそれに身を包んでいた。白地に朝顔を描いた菜美子の浴衣の裾に、一対のメガヤンマが舞っていた。麻の生地越しに感じられる木目が少し痛かった。
当時、屋敷では家政婦を雇っていたのだが、交代で派遣されてくる彼女らの誰かが気を利かせてくれたらしく、僕たちに甘露を作ってくれた。ミツハニーの蜜とカイスの汁を水と混ぜ合わせたそれを縁側に置いておくと、バルビートやイルミーゼが何処からともなく集まってくるのだ。
甘やかな匂いがする皿を間に挟み、僕と菜美子は蛍たちが飛び交う中庭を眺めていた。彼らの光は不規則な軌道を描いて行き来し、僕は時折その柔らかな輝きが眩しくて目を細めた。暗い庭のせいで彼らの身体は見えず尻の光だけが浮かび上がっているのが少し怖くて、膝を隠す浴衣の布をぎゅうと握り締めていた記憶がある。自分の太腿に拳を押し付けていると、子供特有の柔らかな肉を感じることが出来た。
「綺麗だね」
そんな僕とは対照的に、菜美子は頻りに喜んでいた。蛍の舞を表現する豊かな語彙も、何も言わない選択肢も知らぬ時分の彼女は繰り返し、その言葉を繰り返した。曖昧な頷きだけを返す僕の首筋に汗が垂れていたのは、もしかすると蛍のせいだけでは無かったのかもしれない。庭の中央に位置する大樹の葉が風に騒めく度、幾何匹の蛍たちはその周りをぐるぐると回った。
◆
それから十年以上の月日が経った今、中庭に飛ぶ蛍はいない。祖父が倒れたことを皮切りにして家政婦を雇うことはなくなったし、夏の夜に甘露を作る者もいなくなった。僕と菜美子の間に挟まれているのは薄ら甘い水ではなく、父たちが残していった何本かの酒瓶である。
我々も育ち、あの頃着ていた浴衣などとうに着れなくなっているだろう。あの頃は縁側からぶらつかせていた両足も今や地面につき、むしろ縁の高さが足りないようにすら思えた。土を踏む裸足の皮膚が、湿り気を帯びた冷たさを訴える。茶黒の土は濡れていた。
「大学はどうなの」
「それなりに。むしろお父さんの手伝いの方が忙しいかも。明久君は」
「毎日を不毛に過ごしてるよ」
戯けて言うと、菜美子が息だけで笑ったのが鼓膜に伝わった。半袖の寝間着から覗く彼女の二の腕は白く、闇夜に照らし出されたそれはふっくらという印象が見受けられた。記憶の中の幼い菜美子もお饅頭のような子供であり、僕は菜美子に会う度に内心、チョウジの銘菓が口恋しくなったものだ。
縁側に出たため、座敷の灯りは消してしまった。視界を助ける光源は塀の向こうの街灯と、ハクタイが近いせいかやたらと明るい夜の空と、叢雲に覆われた細い月だけである。奇妙に薄暗い空の下で、あの日から変わることのない大樹が風に葉を揺らしていた。巨大な影が中庭に浮かび、その様子はまるで何か大きな化物が体躯を震わせているかのようにも感じられた。
何くれとなく大樹を眺めながら、菜美子と取り留めのない話をしていたのだが、やがて話は彼女の弟である大貴のことに差し掛かった。「旅は順調なのかな」トレーナー修行のために数年前から旅を続けている彼の笑顔を脳裏に描いて僕は問う。この質問は菜美子と言葉を交わす毎にしているし、先程見た彼の逞しく元気な姿から考えるに聞くまでも無いのだろうけど、それでも僕は飽きもせずに毎度毎度尋ねていた。
「うん。三月からアルミア地方に行ってるみたい。今日は飛行機で駆けつけたみたいだけど」
「すごいなぁ、レンジャー志望かな」「どうだろう。そんなことも言ってたけど、すぐに興味が変わる子だから」
ついこの前はドラゴン使いになるって張り切ってたのにね、と菜美子はそう言って肩を竦めた。頭の中に、ボーマンダに乗って空を飛び回る大貴の姿が現れる。想像上の従兄弟は、晴れ渡った空を背にして眩しい笑みをこちらに向けていた。
ひとたび現実に戻ればしかし、はっきりとしない空が我々の上に広がっている。手に収めた猪口に映り込む空は、流れるような灰色の雲をひたすらに浮かべていた。猪口の底には墨絵のハンテールが描かれており、注いだ酒が揺れるのと一緒になってゆらゆらと揺蕩った。
細長い身体が揺らめいて、雲の藻に幾つもの斑点が見え隠れする。「でもねぇ」菜美子が酒に口をつけて言った。彼女の使う猪口にはサクラビスが描かれているはずだった。
「ああして、ここで元気にしてるのが、まだ信じられないことがあるんだよねぇ」
ここに来るといつもそう思う。この屋敷で大貴が普通に笑ってるのを見るとね。
大樹やその他の木々が起こす葉擦れの音が、菜美子の声に被さった。濡れた空気を吸い込むと、深緑が肺の奥まで流れ込んできた。猪口を摘む右手の指が、薄く汗を掻いている。
大貴は昔、この屋敷で生死を彷徨ったことがあった。
◆
僕が十になった頃のことであった。
盆のために屋敷へ僕の家族と菜美子の家族が集っており、まだ四つになるかならないかという幼さの大貴もここに訪れていた。
その時、僕はあの洋間で菜美子と共に、姉に本を読んでもらっていた。無論洋間にあるような読めない文字で書かれた本ではなく、前日に祖父が本屋で買ってくれた子供向けの冒険小説だった。ホエルオーに呑み込まれた主人公が胃の中から巨大な鯨を攻撃し、脱出を試みるシーンであったと記憶している。
母が持ってきてくれたジュースを飲みながら、僕たちは洋間で緩い時間を過ごしていた。よく晴れた午後で、けたたましいテッカニンの鳴き声に姉の朗読が重なるのが心地良かった。湿気はやはり満ちていたが、廊下から吹く風は涼しかった。
菜美子や大貴の母親の悲鳴が聞こえたのはそんな折だった。言葉にならない言葉をただ音として表したような叫び声は、長い廊下を渡って僕たちの元まで届いてきた。
最初に反応したのは姉で、次いで菜美子が弾かれたように立ち上がった。それからのことは怒涛のようで、詳しいところまで把握することは不可能だった。父や母、叔父の叫ぶ声や怒号が飛び交い、菜美子や彼女の母親が泣く音もした。僕はどうすることも出来ず、一人洋間に取り残されて呆けたように座り込んでいた。ジュースの入っていたコップが空になって床に倒れていた。姉や菜美子が立った衝撃でそうなったのかと思い、絨毯に染み込んでいないかを霞んだ頭で心配した僕は足元の天鵞絨を指でなぞってみたが、酷い湿り気のせいで僕の指も絨毯も、元から濡れていたようなものであった。毒々しいほどに鮮やかな紫の、香料がきつい液体は一滴も残っていなかった。
ふらつく足でようやく廊下に出た。洋間の外は湿気が一層酷かった。救急車のサイレンが聞こえて、運ばれていく従兄弟の姿が一瞬だけ見えた。柔らかで健康的な小さい手足はぐったりと投げ出されていて、噴き出た汗のせいかぬらぬらと光っていた。
一つ、はっきり記憶に残っていることがある。
救急車への同乗を許可されたのは大貴の母親だけで、自分もついていくと強く訴えた父や菜美子は屋敷に残るよう命じられた。
そうしたのは他ならぬ祖父であった。救急隊員に縋りつく菜美子たちを引き剥がし、祖父は酷く恐ろしい声で、自分の部屋に戻ること、そして中庭には絶対に近づかないようにすることを怒鳴っていた。後にも先にも、祖父があれだけ激しく感情を露にしていたのはあの時だけである。
「水を飲め」
祖父はそんなことも強く言い聞かせていた。濃厚な湿気と水の臭いが充満する廊下で、僕はぼんやりと中庭に目を向けた。
陽炎の揺れるそこに鎮座する大樹は我々の騒ぎなど御構い無しに翠の葉を繁らせていた。隆々とした幹の根元、大樹の隣に位置する池の水がすっかり干上がって、中を泳ぐトサキントとアズマオウが美麗な腹を仰向けにしてごろごろと転がっていた。
◆
大貴は脱水症状を引き起こしていた。
暑い夏の昼間であったからそれ自体は何ら不思議なことではない。幼い子供は熱中症にもなりやすいのだから、目を離した少しの間に大貴がそうなってしまったのも無理のない話である。
不可解なのは、大貴がどうして、一人で中庭へ向かったのかということだった。当時の彼は今と違って大人しく、また母親に甘え盛りであったためにそばを離れて何処かへ行ってしまうなどということは滅多に無かった。その上、彼がいたのは渡り廊下の向こう側の家屋であり、縁側から中庭へすぐに行けるということも無い。彼が中庭に行くのなら、屋敷にいる誰かしらが気がついても良さそうだった。
大貴は、大樹の根元に倒れていたという。小さい身体からは水分が失われ、丸い目は全くもって閉じられていた。
「あの時、大貴が死んだのだと思った」
薄明るくぼやけた空を見上げて菜実子は言った。
「もう大貴は、ここにいないんだって考えたの。救急車が運んでいったあれは大貴の抜け殻で、本物の大貴は、この庭に閉じ込められてしまったんじゃないかって」
「でも、大貴は戻ってきたじゃないか」
「そう。戻ってきた。信じられなかった」
生死の境を彷徨うこと数日、大貴は無事に回復した。後遺症なども特段無くて、まるで何事も無かったかのようでった。むしろ歳を重ねるにつれて彼は活発になり、命の危機を垣間見たとは感じさせないほどに健康そのものである。しかし菜実子は、また彼らの父や母は、ふとした瞬間に彼がまた死に向かってしまうのではないかと不安になるという。それは単なる過去への恐怖というよりは、この屋敷に訪れると無条件に襲いくるものだと菜実子は述べた。露に濡れてぬらぬらと光る、大樹の葉を見る毎に、自分の弟がどこか違う世界へ連れて行かれる思いに駆られるのだ。水気の満ちる空気に、大貴が溶けてしまうかのような錯覚を覚えるのだ。
「それでも、大貴がここに踏み入ることは流石に無いのだけれどね」
「そりゃそうだ。いくら小さい頃といっても、何と無く覚えているのだろう。自分が死にかけた場所になんて、入りたくないに違いない」
菜実子の言葉に頷きながら、僕は杯に揺れる酒を舐めた。眼前の中庭に生える大樹は、あの日と何も変わらずに青々という葉を只管に繁らせている。
大貴が病院へ運ばれた後、祖父があの下に立っているのを見た覚えがある。何をしているのかはわからなかった。炎天下の中、大樹を強く睨みつけている祖父は、汗の一つも掻かずに太い幹の前で仁王立ちをしていた。少しも鳴り止まぬテッカニンの声が、警鐘のように何処か遠くから聞こえてきた。
「そう、庭に入らないといえば、明久君が怒られたことがあったね」
その祖父も今はもういない。話題を逸らした菜実子に、僕は苦笑と軽い溜息を返した。自分の口から吐き出された酒精の匂いが夜風に運ばれる。
「怒られたというほどではないだろう」
「まあね。おじいちゃんはいつもああいう顔だから、怒っているのかどうかもわからないし」
でも、あれは怖かったよと菜実子が笑った。首肯を以てそれに応えながら、僕は友人の家に置いてきた相棒のことを考えていた。
◆
僕が初めてポケモンを持ったのは、トレーナー免許を取れる最低年齢から三年遅れた中学一年生の時だった。
友人の中には旅に出る者もいたし、そうでなくとも自分のポケモンを持つ者もそれなりにいたが、ポケモンといるよりかは本を読んだりゲームをしたりという方が好きだった僕は、取り立ててポケモンが欲しいとも思っていなかった。祖父の家に来ればオドシシやメブキジカと遊べるし、平素は友人や学校のポケモンを見たりするだけで十分だったのだ。家にいたポリゴンは姉のものであったが、ほぼ共同のポケモンであるようにしていたのも一因と言える。
その僕がポケモンを持つ機会となったのは、菜実子の中学進学であった。進学祝いにポケモンを欲しがった菜実子は、研究者である哲人叔父のツテで初心者向きのポケモンを用意してもらえることになったのだが、もしよければ一緒に来ないかという誘いが僕にもきたのだ。その頃はまだ大貴も幼くポケモンを持てる年齢では無かったため、菜実子が一人でポケモンと対面するのは心細いと叔父に訴えたらしかった。
父も母も、そして僕もポケモンを持つのに反対する理由は特に無かったため、菜実子の家へ遊びに行くのも兼ねて申し出に甘えることにした。カントー地方から菜実子たちのいるホウエンまで、生まれて初めて自分だけで飛行機に乗った。着替えを詰めた鞄がこれほどまでに重いのかと思ったのも、機内の無機質な空気がやけに重苦しかったのも、あの時が最もそうだった。
空港で待っていてくれた哲人叔父一家に迎えられた僕は早速、菜実子と共に研究所へ向かった。駆け出しのトレーナーに適しているようなポケモンが何種類か、リノリウム張りの床で好き勝手に走り回っていた。僕は一番大人しそうな、柱の陰で退屈そうに丸まっていたヒトカゲを抱き上げた。これといって抵抗もせず、かといって喜びを見せるわけでもない橙色の柔らかい物体と顔を付き合わせている僕の後ろで、菜実子が頬をぷくりと膨らませ、小さなアチャモを追いかけまわしていた。
そうして僕はヒトカゲを連れて家に帰り、特段問題も無い日々を過ごしていた。ヒトカゲは予想以上に怠惰な性格であった。炎を司る種族であるくせに暑いのが苦手なようで、夏が近づくにつれて丸々とした腹を天井に向けて我が部屋で転がっているのをよく見た。
やがて盆の季節になり、祖父の屋敷に行く時期が来た。ポケモンを持ったことを祖父に報告しなさいと父が言ったため、ヒトカゲも連れて行くことにした。ボールに入れられた彼はいつも通りにぼんやりとしていて、眠たげに身体を丸まらせていた。
屋敷に着き、僕はヒトカゲをボールから出して祖父の元に向かった。ヒトカゲは自分で歩くことを面倒臭がるため、僕が抱きかかえて運んでやった。激しい湿気と夏の暑さに加え、腕の中にいる高体温の生き物が汗腺を執拗に刺激した。
「そいつを今すぐに戻せ」
ヒトカゲを見た、祖父の第一声はそれだった。
「その火を持ち込むな」
座敷に胡座をかいた祖父は微動だにせずそう言った。怒鳴っているわけではないし、激昂されたというわけでもない。ただ、有無を言わせぬ声で、僕は立ち退きを命じられた。
呆然と立ち竦み、戸惑う僕の後ろで、同じようにアチャモを見せようとしていた菜実子が赤い雛をそそくさと後ろに隠しているのが視界の端に見えた。菜実子は存外ちゃっかりした性格であった。抱きかかえたヒトカゲの爪が、腕を回された首筋に食い込むのが微弱な痛みとなった。鱗に覆われた尻尾の先で燃える炎が揺らめき、無言で我々を見ている祖父の姿を、まるで陽炎のように溶かしていた。
僕は何も言えずに祖父の部屋の扉を閉め、菜実子と共にポケモンたちをボールに戻した。悲しみや怒りといった感情は、唐突な驚きにすっかり掻き消されてしまっていた。廊下から見える中庭だけが変わらぬ様子で、大樹に繁る葉がばさばさと音を立てていた。
あれからずっと、屋敷にヒトカゲを連れて行っていない。それは彼がリザードになってからも同じだし、菜実子もまたそうだった。もう怒られるのは御免であるという理由も勿論あるが、それ以上にボールを握った我々の手が屋敷の門を越えるのを押しとどめているのは、あの時の祖父が放った声であった。
低く告げられた、地の底から響くような声。水気の多い空気を静かに揺らしたそれは、祖父の身体の奥深くから発せられたように思えたものだったと記憶している。
◆
ヒトカゲに限らず祖父は、中庭に誰かが立ち入ることにあまり良い顔をしなかった。
野生のポケモンが勝手に入ってくるのには何も干渉しないのに、我々が敢えて連れ込んだりすることは祖父の気に入らない部類であるようだった。
父に聞いた話である。
父が中学に上がる頃には既に桜子伯母は嫁に行ってしまったし、鏡子伯母もトレーナーとして各地を回っていたため、屋敷に残されたのは父と、小学生であった哲人叔父だけだった。家政婦が通っているとはいえ祖父は日中家を空けているし、二人の母親は幼い頃に亡くなっていたため、取り残された兄弟は必然的に揃って行動するようになっていた。
哲人叔父は昔から兄たる父によく懐き、憧れている部分があったから、二人の趣味嗜好は似通っていた。父と叔父は夏休みになると、午前中に図書室へ出かけ、昼になると帰ってきて食事をとり、あとは一日借りてきた本を読み耽るという生活を送っていたという。余談であるが、今現在の叔父が研究者であることと、父が大学教授という職に就いたことはその頃の過ごし方が深く関係しているのだろう。ともかく、父たち兄弟の生活は夏休み中変わることが無く、彼らは障子を開け放した座敷に本をいっぱいに広げて時間が過ぎるのを待っていた。部屋に寝転がる兄弟は蒸し暑くも穏やかな夏に包まれており、中庭を臨む縁側からは緑臭い風が時折涼しさを流してきた。桜子伯母が帰郷した際に持ってきた、薄い硝子にぽってりというラブカスを描いた風鈴がその度に、水粒を転がしたような音を立てた。薔薇の花弁にも見える海水魚達が、陽光を乱反射させてゆらゆら泳ぐ。
その日、祖父は珍しく一日屋敷にいた。仕事がひと段落ついて休みを取っていたのか、或いは家ですべき業務があったのか、誰かをもてなしていたのかは定かで無い。それに祖父がいたからといって父たちと共に遊ぶというわけではなかったため、父も叔父もいつも通りに二人で過ごしていた。
父はカントーの生態系変化について書かれた本を読んでいた。生物学に興味を持っていた父の真似をし、叔父は分厚い植物図鑑の頁をせっせと捲っては並ぶ草花の写真をに指をなぞらせていた。図鑑は古く、日に焼けて黄ばんだ頁を一枚捲る毎に乾いた音がか細く聞こえた。紙の酸化した臭いが少年の鼻をつく。
そうして写真を見ているうちに、幼い叔父は見覚えのある植物を本の中に見つけた。それはついぞ先日、縁側から見た中庭の光景にあったものだった。叔父は、汗で畳と張り付いてしまった膝を起こして中庭の方へと向かった。真っ白のタンクトップから露出する腕には、畳の目の跡がびっしり走っていた。
「どうしたんだ」活字が犇めき合う本から少し顔を上げて父が問うた。「あれを探しに行くの」叔父は答えながら開いたままの図鑑を指差したが、幾種類かの植物が載った中のどれを言っているのか、父に見当がつくはずもなかった。「ふうん」父は緩く頷き、細かな文字の海へと意識を戻してしまった。
物静かな兄の反応が芳しくないのはいつものことであるため、叔父は特段不満に思うこともなく中庭へと降り立った。覆うもののない足の裏が土を踏む。地下から伝わる冷たさと、炎天に焼かれた熱さが同時に皮膚を襲った。叔父は跳ねるようにして中庭の奥へ進んでいった。紺青の空は眩しかったが、大樹の落とす広い影は中庭を程良い明るさにしていた。
図鑑の写真と似通ったものを目指し、叔父が一歩を踏み出した時だった。叔父の左腕を掴み、強く引っ張る者がいた。
「何をしている」
それは祖父であった。いつの間に近づいていたのか、縁側に立った家着姿の祖父は小さな息子の腕を掴んでただ問いかけた。「何をしているんだ」
「あの葉っぱを探すの」
叔父は素直に答えた。彼の指が先ほど兄へとそうしたように、座敷の図鑑を指差した。図鑑の近くでは、祖父が急に現れたことに驚く父が頁を捲る手を止めて身体を硬直させていた。
答えた叔父に、祖父は怒るでもなく笑うでもなく、そうか、とだけ返した。しかし細っこい手首を握る、骨張った手が離されることはなかった。縁側から叔父を見下ろしたまま、祖父は淡々と言った。
「あまりこの庭に出ない方がいい。毒に触れると危ないから」
「毒のある葉っぱがあるの」
「葉っぱだけじゃないから危ないんだ」
障子の向こうで交わされる会話は、聞いていた父からすると微妙に噛み合っていないものに思えたという。玻璃の如き青空を背にした親子の姿を見ていると目が霞み、眼下の文字列が得体の知れぬ微小な生物が蠢いている様子に感じられた。座敷に満ちた湿気に蒸された頭は、藺草の臭いだけを執拗に捉えて少年の意識を朦朧とさせた。
◆
玄関へ続く廊下に置かれた柱時計が、深く低い音を一度鳴らした。屋敷の床を伝って響くその音は、今我々の後ろで棺に収まっている祖父の声を思わせた。
薄暗い中庭で、どこから来たのか、コロボーシの鳴く声がし始めた。彼らが震わせる夜の空気は冷えていたが、それを凌ぐ蒸し暑さが全身を覆うように漂っていた。
「おじいちゃんはいつも怒っていたようで怖かったけど」
菜実子が違う酒瓶に手を伸ばしながら言う。
「でも、一度おじいちゃんと二人だけでお祭に行ったことがあるの」
杯に注がれたのはどうやら果実酒だったようで、甘さと酸っぱさの混じり合う匂いがつんと鼻腔を突いてきた。緋色の曇りのある透明な瓶には筆絵のヒメリが描かれている。菜実子の杯で、黄金色の液体が小さく波打ちちゃぷんと音を立てた。水底のサクラビスが身体を翻す。
「そんなことあったっけ」
「八歳の頃。明久君たちはその次の日にくる予定で、本当は私たちの家族とおじいちゃんで行くつもりだったんだけど、大貴の準備が手間取ったから。私と、おじいちゃんだけで先に行ってなさいって」
「なるほど」
「自分で言うのも何だけど、その時のことはよく覚えているの」
菜実子の白い喉が、酒を飲んでこくりと音を立てた。金の水が流れる動きに合わせ、首の皮膚が盛り上がったり元に戻ったりした。
それがどうにもグロテスクで、僕は庭へと視線を戻す。杯に残っていた酒を飲み干し、枝を広げる大樹の葉の隙間から、無理くりに夜空を見ようなどと無意味な試みを徒にした。熱を持った目元は霞んで、視界に捉えた青墨色が単に木の葉がぼやけたものなのか、それとも本当に夜の雲居であるのか、決めることは出来なかった。
◆
ソノオの神社で毎年行われる夏休みへ、祖父に手を引かれた菜実子は向かっていた。
祖父の歩くスピードは速く、菜実子の小さな歩幅ではついていくのが精一杯だった。慣れない浴衣も足を開きにくい一因となり、裾に描かれたシャワーズの見返りの絵柄も着た当初に比べて色褪せたものに感じられた。腰に締められた赤い金魚帯がどんどんきつくなった。
自分の腕を掴んで先へ先へと進んでいってしまう祖父は、菜実子にとって恐怖の対象であった。怒られているわけでも叱られているわけでもなく、むしろ祭に連れて行ってくれているということは理解しているのだが、それでも仏頂面で終始無言の祖父はその気が無くても高圧的な印象を与えざるを得なかった。年の割に背が低く、祖父を見上げるためには首を痛くなるほどに傾けなくてはならなかったのもその一因かもしれない。
祭に浮き足立つ参拝客の間を縫いながら、菜実子は今頃家で準備をしているだろう両親や弟のことを考えていた。本当ならば今自分の手を引いているのは祖父ではなく、人好きのする優しげな丸顔の父であったろうし、或いは勝気だけども笑顔を絶やさぬ母であったであろう。そうでなくても、サンダースを描いた紺の浴衣に身を包んだ、やわやわとした弟の片手を自分が引っ張っていたかもしれなかったのだ。人ごみの中に弟ほどの年頃である幼児を見つける度、菜実子の心はどっしりと重くなった。
早歩きをしたせいで、小さい菜実子はすっかり疲れ果ててしまっていた。この日のために父が買ってくれた下駄の鼻緒は指の付け根を幾度となく擦り、薄い皮膚は裂けて滲んだ血が黄色の鼻緒にこびりついた。人波に熱された空気は息苦しく、階段を上りきる頃には肺が悲鳴を上げていた。がやがやと絶えることのない参拝客らの話し声や行き来するポケモンたちの鳴き声、屋台から放たれる呼び声が一緒くたになって鼓膜を揺さぶった。本殿から聞こえてくるお囃子の、篠笛の甲高さは浴衣の下の肌を粟立たせた。お好み焼きや焼きそばの屋台から漂ってくるソースの匂いは例年ならば食欲を引き起こすものであったが、滅入った気分をさらに悪くするだけだった。
ただ、そんな菜実子の心中を祖父も察していたようで、険しい表情こそ崩さないものの、立ち並ぶ屋台に近寄ってはあれやこれやと買い与えて孫の機嫌をとったらしい。甘ったるい水飴を舐め、粉末ソースと砂塵とが混じったお好み焼きで腹が膨らむと、菜実子の緊張も幾らか和らいだ。ビニールのプールに浮かんだスーパーボウルを赤と緑と白地に金筋、そしてマルマインの顔を描かれたそれを祖父が見事掬い上げたので菜実子は歓声を上げた。
サーナイトのお面を買ってもらい、側頭部にそれをつけて菜実子は上機嫌であった。相変わらず祖父が菜実子の歩く速さを待ってくれることは無かったが、靴擦れの痛みも帯の苦しさもいつの間にか忘れていた。すれ違った、桃色の浴衣の少女が掌に弾かせる水ヨーヨーが鈍い音を響かせる。かき氷屋の暖簾の下で、グレイシアが熱気を凌ぐようにして地面に伸びていた。
「なんだ、怖いのか」
不意に菜実子が祖父の手を強く握った。それはお面屋に並んだ面に混じって舌を出している、悪戯なゴースを見つけて驚いたことによるものだったが、祖父にそれは伝わらなかったようだった。祖父は、お面屋の向こうにある本殿を見て菜実子が怯えているのだと思ったらしかった。
朱塗りの本殿では軽やかなお囃子に合わせて舞が披露されていた。緋色の袴と純白の舞衣に身を包んだ巫女が四人、透けた般若の面を着けた男と赤帯の女を挟み込むようにして舞っていた。当時の菜実子にわかるところでは無かったが、毎年披露されるその舞は神社が出来た由縁、ソノオの花畑を氷雪に包み込み人々を苦しめていた邪神たるオニゴーリとユキメノコが術師に封じられた末、二度とそのようなことの無いように祀られたという様子を表すものである。
祖父はそのことを知っていたのであろう。邪神を封じた焔に見立てた真赤の鶏頭が大きく振られて靡く本殿を見やり、握った手の先にいる菜実子にこう言った。
「怖がる必要は無い。遥か昔に奴等の力は潰えたのだし、それに」
祖父の空いた片手が、本殿と逆方向にある鳥居を指す。「それに」
「あれがある限り、どうせ出ることなど出来るまい」
声や演奏などの騒音の中で、祖父の声は妙に響いていたように菜実子の耳に届いた。木で組まれた鳥居はどっしりと、暮れかけた空を背にして聳え立っていた。組み木の間から一番星の弱々しい輝きと、紫色の空に溶けるようにして飛んでいくムウマの姿が見て取れる。闇色をした小さな魔物はふわりふわりと浮遊して、橙の西空へと消えていった。
祖父の言葉の意味を、菜実子は理解することが出来なかった。手にしていた綿飴が参拝客の熱気で蕩け出し、幼い片手と薄青の袖をべたつかせた。溶けたそれよりも大分重そうな鈍色の雲が、本殿の遥か上空に浮かんでいた。
射撃ィ、という禿頭の呼び声がどこか遠くに聞こえたような気がした。同時に鳥居の向こう側に見つけたのは、ようやくやってきた両親と弟の姿であった。支度時にぐずったままに泣き跡を残した弟の顔を見るなり、菜実子は祖父の手を離して勢いよく駆け出した。
その拍子に落としてしまった精霊の面を、祖父が拾い上げる音を背中に聞いた。
◆
「結局、あの時振り払ったっきり、おじいちゃんと手を繋いでないんだ」
それで、あれっきり。果実酒で喉を潤す菜実子は微かに息をついた。視界に映る天空の半分を覆い隠す軒は殺風景で、いつかあったような風鈴などは外されたままであった。透き通る器を打ち鳴らす音の代わりに今聞こえるのは、鈴の音の如き蟲の鳴き声である。不規則に思えてその実規則的な声は、まるで耳元のすぐ近くで小さな銀の鈴を只管鳴らされているかのような心地にさせた。
「今思うと、おじいちゃんがあんなことを言うのも珍しかったかもしれない」
「あんなって」
「出てこれないだとか、怖がる必要は無いだとか。おじいちゃん、そういうの信じなそうだもの」
杯を両の手に乗せた菜実子の顔がこちらを向く。白く膨らんだ頰に月の灯りが当たって、柔らかな肉がどこか青白く映し出されていた。僕は少しだけ豆大福のことを思い出したが、そういうと菜実子は決まって僕を叱りつけるために黙っておくことにした。
丸い頰から視線を外して下方へ移す。「それでも、あのくらいの歳の人なら普通のことか」一人で納得する菜実子の手首の先、頰と同じ程の白さをした手は昔ほどでは無いにしろ、強く握れば蕩けて消えてしまいそうな心持ちを抱いた。この手を握り、引き、そうしてするりと抜けだされたしまった時の祖父は一体どのように思っていたのだろうか。「シンオウの人だしね、そういうの大切にしてるのかも」濡れた綿菓子が瞬く間に、ほんの少しの名残だけを後に消し去られてしまうような心地に襲われたりは、しなかっただろうか。
神社の雑踏。不気味さを伴う祭囃子。鳥居の中に祀られるは、遠い昔に封じられた邪神。
自分の手から、繋いだ手が抜け出てしまった祖父はその時も、あの珍重とした態度を崩さずに在ったのだろうか。
「信仰心とか、そういうやつなのかな。それなら、ひいおじいちゃんの方があった気がするけど」
菜実子の言葉に合わせて漂動する甘酸っぱい匂いに、足元の草の臭いが被さって奇妙な感覚を嗅覚に与える。池の中でアズマオウが跳ねる音がした。「あれは信仰といっていいのかな」半ば呟くように返した僕に、菜実子は一言「そうだね」と鈴の音程度の小さな声で言った。
◆
曽祖父、つまり祖父の父たる伸之助には総之助という兄がいた。
しかし生まれつき身体が強くなかった総之助は、二十を目前としたところで早い死を迎えたため、総次郎の後を継いだのは次男たる伸之介だった。
江角家初代総次郎は商売に関して俊豪であったが、伸之助にその能力が受け継がれることは無かったようである。総次郎の商才が血と共に流れ出て総之助の脆弱な身体を巡っていたのか、或いは彼らの妹でジョウトの宿屋の女将になった養女に継承されていたのか、それかはたまた、広い屋敷の湿気となって空虚に溶けてしまったのかは依然わからない。ともかく総次郎亡き後、伸之助は父の工場を継いだは良いが父のように切廻すことは出来ず、シンオウ指折りとも呼ばれた江角の名は、緩やかな坂を転がり落ちるように少しずつその輝きを鈍らせていった。
父の持つ商才は全く以て受け継がなかった伸之助だが、しかし強情で牢固たる性格の方はそっくりそのまま写し絵をしたかのように似通っていた。伸之助の危うい経営に周囲の者は度々口を挟もうとしたが、荒い気性と狷介ぶりはそれらを全て跳ね除けた。
結果的に工場の経営は破綻し、伸之助は限界まで膨れ上がった借金を抱えることになる。それらを処理して回ったのが、それこそ総之助の生まれ変わりかとも囁かれる鬼才であった江角家三代目、僕の祖父たる重雄であった。
◆
総次郎の死は、質素で堅実と言えども栄光たる人生を歩んできた男に似つかわしく無い、呆気ないものだった。
彼は息を引き取るその日も工場で采配を揮っていた。その頃の総次郎は優秀な部下に囲まれ、また慕われてはいたものの、いまいち光るところの無い息子の教育に始終頭を痛めていたという。総次郎とて他の者を後釜にする選択肢くらい思い浮かべたであろうが、世襲が当たり前であった時分、差しあたって心身共に健康である実子を却下してまでわざわざ別の後継者を探す理由も無かった。伸之助自身に後継ぎの意志があったのも、彼が江角を継ぐことになった原因の一つである。そのため総次郎は不安を抱えつつも、伸之助が自分の座に就けるように刻苦していた。
長いことそのような生活を続けてきたように、総次郎はその日も工場から帰り、風呂に入り、夕食を摂り、毎夜の習慣だった一杯の酒を飲んで床に就いた。それが彼の最期であった。夏の夜で、蒸した屋敷はさながら熱帯夜とでも呼ぶべき暑さであった。
夏用の掛布団にくるまれ、総次郎が動かなくなっているのを最初に見つけたのは洗濯のため部屋に出入りしていた使用人であった。普段ならばとうに総次郎の起きている時間であったから、使用人はいつも通りに彼の部屋に入ったのだが、いざ布団を持ち上げようとしたらその中にいたのは硬くなった主人であった。
まさに眠るようにして亡くなった総次郎だったが、一つだけ不可解なことがあった。総次郎は酒盛りを好む他には極めて健康的な生活を送っていたにも関わらず、死後に調べた結果内臓や消化器官、骨など体内の隅々に渡るまで、まるで酷使されたかのように壊滅的だったという。何物かに食い荒らされたかとも思えるその様子は異常であったが、その原因に思い当たる者は誰もいなかった。
果たして総次郎の死は謎のまま、江角の名を伸之助が継いだのである。
◆
「ひいおじいちゃんのことは、あの場所でしか知らないからなぁ」
白い頬を薄紅に染めた菜実子が言う。
あの場所、というのは中庭の向こうにある家屋を隔てたさらに向こう側、塀との間に設えられた蔵のことである。
石造りの蔵はかなりの古さを感じ取れるものの非常に丈夫であり、雨に打たれても雪に降られても壊れる兆しを見せずに建っていた。所々が罅割れて不規則な溝を作っているその蔵には、曽祖父伸之助が集めた品の数々が収められていた。もっとも、本当に芸術的価値があったりまたありそうなものは、屋敷を立て直す際に祖父の手によって粗方売り払われているのだから、今現在あそこにあるのは眉唾ものか贋作、そうでなければ路傍の石とも呼ぶべき無名の代物で、単なるがらくた部屋に過ぎないであろう。
「あの物置か。どうだろう、昔は何度か入ったこともあるけれど、よく覚えてないな」
「暗くてよく見えないしね。私、あそこ苦手だったんだ。なんだか怖いから」
「父さんたちは悪いことをすると、決まってあそこに閉じ込められたらしい」
僕の言葉に、菜実子は呼吸だけで笑ってみせた。弦楽器をはじいたように鳴く、コロトックが揺らす空気に菜実子の息が溶けていった。首を少し動かして座敷の方を見てみると、未だ線香の匂いが僅かに残る部屋は薄暗く、祖父が只々眠っていた。
蔵の中は洋間と同じ空気をしていた。埃と黴が鬩ぎ合う、太陽の光から遮断された狭い密室は、世界の外側へ放り出された箱庭の如き静寂さを帯びていた。しかしその癖限りなく小さく寂しいはずの無人の世界では絶えず何者かの呼び声が聞こえ、無数の瞳が自分のことを見張っており、壁を越えればどこかも知らぬ場所へと行けるようにすら思えることもあった。
蔵の中に何があるか、僕はほとんど覚えていない。大体の印象は洋間のような空間だったと記憶している。奇妙な凹凸をした壺、紙魚が酷くて読めない書物、襤褸といった方が適切であろうほどに劣化した羽織。かと思えば、やけに綺麗で美しい状態を保っているグラエナの剥製などが、蔵の片隅で硝子玉の眼を眈々と光らせており、どうにも不気味な場所であったことは確かであった。
「あそこに入った時に見たもので、一つすごい覚えてるものがあるの」視線を杯に落とした菜実子が言う。揺れる酒に映った菜実子の顔はほろほろと崩れては元に戻り、そうしてまたその形を幾つかの破片に変わるのであった。
「何を?」
「巻物。いつのものかわからないけど、とても古かった」
どんな、と尋ねた僕の方へ菜実子が顔の向きを変えた。丸い瞳が僕を見る。その中に映り込む自分の姿は、以前同じ場所で同じように彼女の瞳に入った時同様に、どうにも間の抜けた顔をしていた。
「酒呑童子の」
菜実子はそこまで言って一度口を閉じ、少しだけ俯いて「酒呑童子のお話だった」思い出しながら話し始めた。「昔の絵本みたいなものなんだと思う」
「鬼を酔わせて退治する話だったっけ」
「そう、それがあった」
「何でそれだけあるんだろう」
「わからないよ」
菜実子が困ったように口を尖らせる。特別薄くも厚くも無い唇は酒に濡れていて、彼女が何かを言う毎に合わせて光った。
酒呑童子の絵巻とやらに見覚えは無いが、かといってそんなものは絶対に無かったとも言い切れない。何が収められているのかすらも把握出来ないあの蔵に、それがあっても不思議なことではなかった。
「おじいちゃんがお酒好きだったからかな」
小首を傾げた菜実子が、人差し指と中指で杯の縁をついとなぞった。陶器の擦れる幽かな音が響く。自分の噂をされていることなど露知らず、後方に眠る祖父は唯々静かなままである。
「酒が好きだった割には、あの口癖はどうかと思うけど」
「そうね。でも、それこそ酒呑童子っぽいし」
「なるほど、確かに鬼っぽい。仲間が酒でやられたから戒めとして言い続けてた、か」
「ちょっと、怒られるよ。鬼だなんて」
けらけらと笑う菜実子が、僕の肩を軽く叩きながら目だけで祖父の方を指す。薄い布越しに弱く感じる体温はしかし確かに熱く、湿気に汗ばんだ肌の温度を殊更に上げた。
庭の草の根を視線で掻き分けると、勝手に住み着いたらしい、フローゼルの母が影に丸くなっているのが見えた。柔らかな毛に覆われた腹に守られてめいめい寝息を立てているのは、一見毛玉かと見紛うブイゼルの子供たちだった。明るい茶色の毛がくっつき合って並ぶ様子はまるで鞠のようであった。
「あの口癖。私は、数える程しか聞いたことのないのだけど」
「僕もそうだ。しかし父さんは何度も言われたらしい」
獣の親子が眠る上空には、葉を繁らせた大樹の姿がある。
天高く伸びるその幹は太く隆々としており、あたかも鬼の剛腕の如き風体を醸し出していた。
◆
酒は毒だ。
それが祖父の口癖だった。その癖祖父はかなりの酒豪で、夜毎に酒瓶を一本は空けるかというほど酒を飲んだ。酒に強いのは父親譲りで、その伸之助も父総次郎から受け継いだ数少ないものとして、酒精への不敗を徹底していた。
親譲りの酒豪たる祖父はとにかくよく飲んだ。どれだけ飲んでも顔を赤くする素振りすら見せることなく、涼しい風体で盃を傾け続けていた。その様子を見て、まるで水を飲んでいるようだと揶揄する者もあったけれども、水とてあんなにすいすいと飲むことは困難であろう。
食べ物に好き嫌いが無い祖父は、酒にもとやかく言う性分では無かったが、しかし贔屓にしていた酒はあった。その酒は薄紫をした硝子瓶に入っていて、凹凸の少ない素朴なデザインの容器は陽に当たると菫の花弁の如き光影を地面に落とすのだった。透き通った硝子瓶はそれほど大きくなく、酒が入っている状態でも片手で持ち上げられるほどであった。
その酒の銘柄を僕は知らない。僕だけでなく、菜実子や、父たち祖父の子供も同様である。一般的に売られている酒とは違い、その酒瓶には何のラベルも貼られていなかったし、何かが書かれていることもなかった。祖父は知っていたのかもしれないが、結局誰にもそれを言わないまま死んでしまったのだから、あの酒が如何なるものだったのかは謎のままである。逢魔ヶ刻と呼ばれるような黄昏の空を流し込んだような、青とも黒ともつかぬ紫色の瓶の中で揺れる液体がどんな名を持っているのか、何で出来ているのか、誰によって造られているものなのか、今となっては果たして迷宮入りだ。
その秘密を知ってか知らずか、祖父は兎角その酒を好んで飲んだ。桜子伯母が物心つく頃には既にそうであったし、僕の姉が屋敷に住み込んでから禁酒を医者に命じられる直前まで、祖父は紫の硝子瓶に揺蕩う酒を飲み続けた。
◆
座敷に転がっていた箱から煙草を取り出し火をつける。羽を広げたウォーグルが一羽、濃紺の背景に描かれたその箱は哲人叔父の忘れ物だと見受けられた。祖父は火事を案じていたため屋敷内での喫煙を嫌ったが、この湿度ではたとえ庭の草木に火が燃え移ったとしても、膨れ上がる前に立ち消えてしまうのでは無いかと思われた。肌に貼りつく湿気の中、一緒にあったライターで数回の失敗を経て点火する。
「煙草は普段から吸うの」
「いや。友達からたまにもらうくらいかな」
「高いものね」
最近、また値上がりしたし、という菜実子の言葉に頷きながら息を吸い込むと、肺の奥で熱と芳香が渦巻くのを脳が認識した。身体の中で何か別のものが生成されるこの感覚にいつまで経っても慣れることが出来ず、僕はこの、薬草を乾かしただけのこの物体を咥える度に、飽くことも無く鼓動を速めているのだった。熱くなった胸の内が加速する。自分の半身が奇妙な熱に侵されていく心地は、僕が自分自身でない何者かに乗っ取られ、それに作り変えられていくようにさえ思えるのだ。
胸中で作られた煙をほうと吐き出す。独特の匂いが闇に解け、庭に生える植物の臭みにぶつかった。我が口から漂うその匂いは湿気によって強められ、いつも同じものを纏っている叔父がすぐそこにいるという錯覚を僅かに引き起こした。
「煙草の味の違いなど、僕にはわからないからなぁ」
そもそも美味しさ自体がわからない。そのことを菜実子に告げると、彼女は「それならどうして吸うの」と呆れたように口を開けた。ごもっともなその意見に頷いて、僕はもう一度煙を吐いた。環状の気体が浮かび上がる。
「酒豪の血も流れてないから、酒の審美も出来やしない」
「それはどの道、お父さんたちの誰も受け継いでいないじゃないの」
「その通りだ」
一晩飲み明かすと言った癖して、日が変わるまでが精々であった父たち姉弟を思い出した僕は苦笑した。けらけらと笑いつつも杯に紅い口をつける、隣に座った菜実子の方がまだ彼らよりも酒に強い部類であろう。祖父まで続いた三代の酒豪の血は、誰にも譲られないまま何処かに流れ出てしまったらしい。
指の間に光る小さな炎は赤かった。その先から上がる煙と、先程自分が吐き出した煙が揃って天へと向かっており、月と我が目を隔てる雲と重なり合って両者の見分けをつかなくしていた。
◆
鏡子伯母が初めて酒を飲んだのは、彼女が十六の時だった。
今でこそ活発に各地を飛び回り、老いを知らぬ盛んな血気を評判としているが、昔の鏡子伯母は大変生真面目な性格をしていたらしい。よく言えば淑やかで清廉な症状であったが、はっきり言って愚直な世間知らずである、とは今の鏡子伯母本人の言葉である。
人一倍能天気で天真爛漫とした姉の桜子伯母と一緒にいると、その真面目さはより一層際立った。社交的で好奇心が強く、何事にも積極的に介入していく奔放な姉と、内気で保守的なところがあるが、与えられた課題を黙々とこなす実直な妹を比べ、二人を知る近所の者などは度々その様子を、それぞれ攻撃と防御に特化する、化石から復元された二種の龍に擬えていた。
当時女学生だった鏡子は、学業と嫁入り修行、そして幼少の砌より続けていた薙刀の稽古に打ち込んでいた。手を抜くということを知らない彼女はそのどれもに心血を注いでおり、一瞬たりとも気を休ませることのない日々を送っていた。母はとうの昔に家を出てしまっていたし、父も仕事で日夜多忙であるから、呑気な姉に代わって自分がしっかりしなくてはという自負もあったのかもしれない。長い黒髪を三つ編みにひっつめた鏡子は両眼をきっと吊り上げて、朝は机で書物と睨み合い、昼が過ぎると汗を流して薙刀を振るい、夜が更けるまで己の中の女を磨き上げるのだった。
しかし彼女の気概も無限では無く、秋めいた風の吹く頃に、鏡子は緊張の糸がぷつりと切れたように寝込むこととなる。
迫る女学校の試験に向け根を詰めていたのが原因か、或いは薙刀の大会出場を目指して鍛錬に入れ込みすぎたのが祟ったのかはわからないが、疲労よりくる熱に三日三晩魘された鏡子は呆けたように布団で横たわっていた。あれほど忙しなく動かしていた両手両足も力を失い、絶えず燃える火の如く奮い立たせ続けてきた気勢もすっかり萎んでしまったようであった。広くも質実な自室の天井をじっと見上げ、鏡子はただぼんやりと現に暮れていた。寝続けているせいで日の匂いを失い、部屋の湿り気と微かな体臭を帯びた布団に埋れていれば、何もかもが自分を忘れて進んでいくようにさえ感じられた。
庭に面した障子が開いて、冷たい風がすいと畳を滑っていった。枕に乗せた頭だけを動かしてそちらを見ると、彼女の父の立ち姿が若干の逆光となっているのが視界に入った。秋風よりも静かに現れた父に、平素の彼女ならば何らかの言葉をかけていたのかもしれないが、その時の鏡子は口を動かすことすらも億劫であった。表情というべき表情の無い親子は無言で向き合い、塵一つない部屋の空気を風が揺らす音に耳を澄ませていた。
「来い」
先に言葉を発したのは父の方だった。仏頂面のままそう言った彼は鏡子が何か返事をするよりも先に踵を返し、障子の向こうへと歩き出してしまった。
身勝手な父の行動に鏡子は全く不満を抱かなかったわけではないが、怒るよりも大人しく従った方が楽であると彼女は推測した。薄い掛け布団を剥いで、寝間着の鏡子は起き上がった。自分の身体が鉛のようであるなどと感じるのはこれが初めてのことだった。汗ばんだ肌に、使用人の用意してくれた濡れた布を這わせると、思考を霞ませる熱から少しは解放されるようで心地良かった。
重い足を引きずり、先を歩く父についていく。連れてこられたのは父の部屋だった。
小さな箪笥が一竿と、鎮座する文机。人のことが言えた筋合いでも無いが、いつ訪れても殺風景な部屋だと鏡子は思った。自分の部屋がいつでも片付いているのは几帳面な性質がそうさせているのだと彼女は自負していたが、祖父の部屋がきっちりと整頓されている光景はそういった気性の問題というよりも、生活感と呼ぶべきものが存在していないような印象を与えた。
鏡子は畳に正座し、文机の向こうの祖父と対面していた。障子の外に広がる中庭は緑と茶、赤や黄色が混在して妙な様相を呈していた。部屋に訪れる道中に見えたメブキジカの角に黄金色の葉が茂っていたのを思い出す。焦げたように色付く木々の上空には、細かく千切られた綿によく似た雲が幾つも浮かんでいた。
文机の上には薄紫の酒瓶と杯が二つ置かれていた。素焼きの杯の底にはそれぞれ満ちた月と、そこに目掛けて羽ばたくカイリューが描かれていた。父は口を閉じたまま、カイリューの杯に酒瓶の中身を注ぎ始めた。水が流れて打ち付け合う音が鏡子の鼓膜を弱く揺さぶる。霞みがかった頭に目を閉じると、文机の上に現れた小さな滝がこんこんと清水を落としているようであった。
杯になみなみ酒が注がれると、父は鏡子の方へそれを押し出した。鼠色の器をどうするべきかと戸惑う鏡子に、父は「飲みなさい」と告げた。酒を飲むなどそれまで考えたことも無かった鏡子は驚き、そして渋るように父親から視線を逸らしたが、彼はそれでもじっと動かないままだった。
「飲みなさい」
繰り返される言葉に、鏡子は苦々しい顔をしつつも杯に手を伸ばした。音も立てずに揺れる液体は甘い匂いがした。食欲の無さと、大樹が庭から流す青臭さのせいで、鏡子の気分は少々悪くなった。
父の方を睨みつけても何も言わないため、鏡子は諦めて杯に口をつけた。一思いに傾けてしまうと喉の奥に流れ込んできたのは体内を灼きつくすかのような熱と、苦いほどの甘ったるさであった。朝から白湯しか含んでいなかった胃が弱々しげな悲鳴をあげた。
全身を駆け巡る熱さに目を白黒させ、鏡子は身体を丸めて軽く噎せた。その様子を見、父はやはり何も言わずに酒瓶を手にし、満月の描かれた杯へとその中身を注いでいつものように飲み始めた。
鏡子の咳が収まると、彼は再度龍の杯に酒を注いだ。鏡子もそれ以上何も言わなかった。落ち着いて口に含んだその甘露は先程よりも熱くはなく、また舌に心地良い控えめな甘さであった。今まで体感したことの無い味をしている、と鏡子は思った。
細い喉を鳴らして酒を飲み込んだ鏡子と向き合い、父は淡々と杯を傾けていた。薄紫の瓶の中身はみるみるうちに空になっていった。つい数刻前とは別な類に浮かされている頭で、父はこの酒を一体どこから調達しているのだろうと鏡子は疑問を抱いた。
鏡子の具合はその日のうちに回復した。それから何度か彼女は父と共に杯を交わし、時にはその酒を飲むこともあったけれど、いつか抱いた疑問を口にすることは終ぞ無かった。
◆
底冷えの激しい冬の早朝、若き頃の桜子伯母は虚ろな両眼で縁側に座っていた。
ジョウトへ嫁に行った彼女は腹に子を授かり、旦那方の家の勧めもあって出産のため帰郷していた。生まれ育った地の方が心休まるだろう、と口を揃えて言う夫やその両親たちの心遣いは確かに桜子にとって嬉しいものではあったが、何時でも無表情を貫く父親の居る屋敷がそれほどまでに落ち着く場所かと問われると、実際のところそうでもなかった。どんな心変わりか、可愛がっていた内気な妹がトレーナー修行に出てしまったため家を空けているのも寂しいことだった。それでも、一年半ほど前に出来た小さな弟と優しくて美しいその母親、そして新たに誕生した哲人という次弟に会いたさもあったため、桜子は郷里についたのだった。
しかし元来身体が丈夫な方では無かった桜子の出産は難儀なものだった。どうにか桜子の命は無事だったものの、宿った子は産声を響かせるよりも前に、十月の生に幕を引いてしまった。
体調が回復しても、桜子は全身の力を抜かれたように部屋から動けずにいた。螺子の回りきった人形のように部屋で動かず、彼女はただただ障子の外を見つめていた。連日酷い寒さが続いており、中庭は解けぬ雪で覆われていたが、極寒にも関わらず屋敷の中には奇妙な生暖かさで満ち溢れてもいた。
障子を開け放して中庭を見遣る、桜子の佇まいは異常なほどに存在感に欠けていた。特別痩せているというわけでは無いが身体は一回りも二回りも細いものに感じさせ、艶のあった髪は乱れ、紅色の頰はすっかり痩けてしまった。天真爛漫な笑顔を振りまき、誰にでも好かれる彼女の愛らしさは何処かに消え失せたようであった。
少し目を離せば、降り積もった雪の白銀に溶け込んでしまいそうな桜子の様子を皆心配した。巴さんや弟も、報せを受けて飛んで帰ってきた鏡子も、見舞いにきた旦那家族や使用人たちも、揃って同じような不安を抱いた。
その時の桜子は余りに儚げで、そして何もかもが希薄であった。産道を通るままに三途の川の向こう岸へと旅立った子のように、彼女もまた、縁側から立ち上がると同時に彼岸に消え去ってしまいそうだった。陰を落とした桜子の両眼に映るのは、枯れた葉を数枚残して寒さに耐えている大樹の筈なのに、まるで自らの妄執から成る閻魔大王の裁きに頭を垂れているかのように思われた。
「桜子」
そんな彼女に声をかけたのは父であった。桜子は聞こえているのかいないのか、或いは音としてそれを捉えてはいるものの脳が処理することを拒んでいるのか、庭を眺める姿勢のまま動かなかった。
「桜子」
しかしそれでも父は動じることなく、娘の名を繰り返して呼んだ。揺れの無い、落ち着き払った声であった。今回の件で動揺を見せなかったのは、生まれて間もない哲人を除けば、この父だけだった。
ゆるゆると力の無い動きで、桜子は首だけを回して父を見た。丸い瞳は濁りきって、氷を孕んで天空に広がる薄鼠の雲とよく似ていた。視線の先こそ父に向いているけれど、本当に桜子が見ているものが何であるのかは不明瞭であった。
「来なさい」
が、やはり父は御構い無しで、淡々とそう口を動かした。有無を言わせぬ声だった。桜子の返事を聞くよりも前に廊下を歩き出してしまった父に、経験上何かを言っても仕方ないと知っていたからか、それかそうするという選択肢まで頭が回らなかったか、彼女は至極生気に欠けた動作で腰を上げた。
父の後についていくと、辿り着いたのは父の部屋であった。何度来ても極限まで片付けられている、と桜子は暈けた頭の片隅で感じた。整えられた部屋にいると自然と落ち着くものであるが、父の部屋は整頓されすぎているため、むしろ妙な居心地の悪さを桜子はいつも抱かなくてはならなかった。
部屋に置かれた数少ない家具である文机を挟み、父は黙って桜子と対面していた。彼の前には薄紫色の酒瓶と、硝子で出来た二つのグラスが置かれていた。光に当てると色とりどりの破片を落とすそのグラスにはそれぞれ、朱色の翅を広げる太陽に似た巨大な蛾と、艶かしげな緑色の鱗を持つ長い胴の蛇が描かれていたが、桜子にはそれが何であるのかはわからなかった。父が酒を注ぎ入れると、硝子が描いた蛾と蛇は乱反射してその色を僅かに変えた。
寒風が吹くのも構わず、父は中庭と座敷を隔てる障子を開け放していた。庭から届くぼんやりした光によって輝く蛾のグラスを、父は桜子の方へと押しやった。
だが、桜子はそれを受け取りも拒みもせずにただ座敷に正座していた。グラスの中で揺れる酒の揺れる音もやがて収まり、二人の耳に届くものは冬にも負けないらしいハトーボーの鳴き声だけだった。桜子はまさに心此処に在らずといった様相で、真正面に座る父の顔を見つめ返していた。
「桜子」
父が娘の名を呼んだ。桜子はそこでようやく、二重瞼の下の眼を動かした。「飲むんだ」父が視線だけで指したグラスを、桜子は緩慢な手つきで持った。力の抜けた手は震えており、彼女の右手に収められたグラスの中で酒が危なっかしく揺れた。小刻みに震える水面で、死人とも見紛う桜子の顔が無数に分断されていた。
「飲むんだ」
父はもう一度言った。桜子がその刹那に何を考えたのかを知る者はいない。当の桜子でさえも、一瞬のうちに駆け巡った思考の全てを把握しているはずも無いだろう。
彼女は目を閉じ、グラスの中身を一気に煽った。冬の寒気に冷やされたグラスは氷で出来ているようだった。その中に注がれた酒もまた、遥か北にある氷海を飲み干したように感じられたのに、その実地獄の業火の如き熱を以て桜子の身体を激しく焼いた。
桜子は薄紫の瓶に入ったこの液体を何度か飲んだことはあったが、これほどまでに体内を揺さぶられるのは未知のことであった。燃えるような熱水に口許を押さえながら、桜子は涙を流していた。その涙は次から次へと溢れてきて、やがて嗚咽へと移り変わっていった。産後、彼女は初めて泣いた。
滂沱する桜子の正面で、父は何も言わずに蛇のグラスを傾けていた。慰めることも、言葉をかけることも無かった。彼はただ、甘くて苦い、薄紫色の酒瓶の中身を喉の奥へと流し込んでいた。
桜子の咽び泣く声が響いていく。緑を失った真冬の庭は枯れた草木の匂いで満ちていた。張り詰めた空気は凍りついていたがその一方で、消えることの無い湿り気が、地に落ちた白の塊をだんだんと侵食しているようだった。
◆
カントーでは桜の開花が報じられたが、屋敷にはまだ冷たい空気が満ちていた。
哲人はホウエンの大学に進むため、屋敷を出て一人で暮らすことが決まっていた。高校の卒業式も終わり卯月へ月日が刻々と進む頃、哲人の出発もあと数日というところに迫った。
あれはいらないこれは持ってく、と哲人は連日荷造りに追われていた。捨てられない性分の弟の尻を叩くため、帰省した兄の恭介も彼の仕度を手伝っていた。子供の頃によく読んだ絵本などを逐一持っていくと哲人が宣うため、恭介はその度に弟を宥めなくてはならなかった。
それもようやくひと段落つき、あとは引越し業者に荷物を預けるだけという段階に差し掛かった時だった。すっかり綺麗になった哲人の部屋に父が現れ、自室に来るよう伝えてきた。哲人は戸惑い、忙しいからと一度は断ってみたものの父は折れず、またやるべき片付けなどは恭介が請け負ってしまったがために父を拒む理由もなくなってしまった。哲人は仕方無く、父に言われるままに障子の外に出たのだった。
廊下はとても冷たく、哲人は氷の上を歩いているような気分になっていた。父と話すのは久方ぶりであった。ここ数ヶ月の間父は仕事が忙しいようで、家へ帰ってくるのは毎晩遅くなってからだった。また哲人の方も受験勉強に苦しめられていたり度重なる試験や予備校のため外出が続いていたものだから、顔を突き合わせることすら長いことしていなかったかもしれなかった。とはいえ以前ならば頻繁に話していたというわけでもなく、父との間にいつも訪れる沈黙を想像して哲人は重い気持ちになった。渡り廊下を歩く際に目に入った、長い角に新芽を宿した鹿の片割れにその不安を訴えてみたが、四季折々に移ろう角を持つ鹿は無視を決め込み、足元に群れる雑草を食していた。
父の部屋は幼い頃からの印象そのままに静寂に包まれていた。いや、記憶の奥底に潜ってみると、この静寂はある時を境により深まっているようにも思える。それは哲人がまだ幼い頃に迎えた母の死であったように考えられたが、如何せん薄い記憶では判断のしようも無かった。
哲人はこの部屋をあまり好んではいなかった。一見整頓されており、必要最低限のものすらも無いように感じられるほどに殺風景なのだが、反面、ここに来るとどうにも圧迫される心地がしたのだ。目には見えない何かが部屋一杯を占拠しているようで、哲人はここで父と向き合う度に、恐ろしい怪物に首や腹を締め付けられる幻覚に襲われた。それは部屋の至る所から生まれてくるようにも思えたし、対峙する父そのものが怪物であるようにも思えた。
それは大学進学を控えた今になっても変わることなく、文机の向こう側の父を前にして哲人は身体を縮こまらせていた。せめて兄についてきてもらえば良かった、などと情けない後悔に駆られたが既に遅く、哲人は父親と二人、居心地の悪い湿気が蔓延する部屋に座っていた。
父は哲人の苦悩など知らぬ顔で、薄紫色の酒瓶の蓋を開けていた。酒瓶の隣にちんと並べられている朱塗りの盃は、チェリムの姿が描かれていた。はらはらと散る桜の花弁は金箔によるもので、注がれた酒の中でも尚可愛らしい輝きを放っているのだった。
庭から差し込む光に合わせて瞬く金の花弁に、哲人が満開になった想像上の桜に溺れていると、片方の盃が自分の方に押しやられた。意味が飲み込めずに次の行動を決めかねる哲人を、器の中に踊る桜の精霊が笑って見上げていた。愛嬌のあるその顔に首を捻っていると、やっと父が「飲め」と口を開いた。
「入学祝いだ」
成る程そういうことか、と哲人は恭しく盃を手に取った。酒を飲むのはこれが初めてだったが、不安よりも好奇心の方が余程先立っていた。鼻に近づけると優しい風が鼻腔を突いた。哲人は警戒するように数秒考えていたが、やがてほんの一口、舐めるように盃の中身を咥内に含んだ。
途端、春の訪れに香る花の芽のような、夏に感じる茹る程の熱のような、秋の夜更けに在る酩酊感のような、冬の極寒が孕む棘のような、かといってそれらの何れともつかない感覚が哲人を襲った。それはとても衝撃的なものだったが、同時に彼は何か幸せ夢を見ている気分にもなった。
盃を手に収め、ほやほやと目元を赤くしている哲人の向かいで、父は無表情を崩さぬままに自分の器を空にしていた。身体と頭が温かくなった哲人は、父の前に置かれた薄紫色の酒瓶が酷く美しいものだと思ってやまなかった。奇妙に美味である酒をその身に収め、鎮座しているその瓶は、どこか遠くにある異世界の空を溶かし込んでいるように感じられた。
「酒にはくれぐれも気をつけるように」
たった盃一杯で惚けている哲人に、父も思うところがあったのだろう。厳しい声でそう言い含めたという。加えてもう一言、父は息子に何かを伝えたらしいが、既に意識の幾分かを幻惑の中に旅立たせていた哲人の記憶には残らなかったようである。
そうして家を出た哲人は、その後何度か酔いの所為であらぬ揉め事を引き起こしたり引き起こされたり、巻き込んだりしたのであるが、それらの出来事の原点にあるのが、父と交わした朱塗りの一杯だった。雪解けも大分進み、中庭の草木にはちらほらと緑色が現れ始めた頃だった。寒いくせに奇妙な蒸し暑さの漂うそこで、せっかちなハネッコやポポッコがどこに向かうでも無く浮かんでいた。薄く広がる青空に点在する桃色や黄色に、酔いにうかされた哲人叔父は楽園を見た。
◆
「そのお酒を、明久君が見たことはあるの」
「さぁ。それらしいものは何度か目にしたことがある気もするけれど、本当にそうなのかはわからない。それに、父さんは飲んだことが無いんだ」
鏡子伯母が、桜子伯母が、哲人叔父が彼らの父親と酒を酌み交わしながら眺めた中庭を、今は僕と菜実子が眺めている。それぞれの抱える事情に関係無くいつでも杯を傾けていた祖父と同じように、翠の葉をいっぱいに繁らせた大樹もまた、変わることのない風格で庭の中央に聳えていた。コロボーシの奏でる鈴の音に重なるホーホーの声は朧な月のせいかどこか物哀しげで、何かに啜り泣いているように聞こえた。
「父さんはその酒の味を知らない」
祖父は、僕の父に薄紫の瓶の中身を飲ませることは無かった。酒を飲むこと自体を禁じていたわけではない。むしろ父と杯を交わすのを祖父は好んでいた節すらあり、長期休暇にタマムシの大学から父が帰郷すると、決まって酒を飲ませていたようである。
しかしその酒だけは別だった。父と同席すら際に自分だけ口にすることはあっても、それを父の杯に注ぐことは決して無かった。父とて好奇心というものを人並みに持ち合わせているから、一口味わわせてもらえないかと何くれと無く尋ねてみたものの、祖父の返事はにべもなかった。「お前にこれを飲ませるわけにはいかん」という断定的な口調に父もそれ以上言及する道理を見出せず、花とも果実とも付かない甘やかな香りを放つそれを飲み干す祖父の姿を見ながら、自分は別の酒を飲むというのが親子の決まった図式となっていった。
「菜実子は、無いの」
「無いよ。お父さんから少し聞いたことはあるけど」
「そもそも僕たちが酒を飲む歳になったのも最近のことか」
「私は一緒に飲んだことすら無いもの」
その祖父も晩年には酒を飲むこと叶わず、医者に禁酒を命じられたまま死んでいった。姉の話によると祖父は、「酒が飲みたい」と最期まで訴えていたらしい。水が入った器を姉が渡すと、これじゃないと激昂するため姉はほとほと困り果てていたという。
「巴さんがいれば、また違ったのかもしれないけど」
僕は言いながら杯に酒を注ぐ。底に描かれたハンテールは芳香の中でゆらゆらと泳いでいた。池のアズマオウが跳ねる音がする。墨絵のハンテールが跳躍したのかと酔った頭が早合点をしたが、少々不気味な斑模様の深海魚は未だ酒の海に沈んだままであった。
口に流し込むこの液体を、慣れた味だと感じるようになったのは一体いつのことであっただろう。「おばあちゃんの話」語尾が上がり気味の菜実子の言葉に軽く頷く。酔いに温まられた身体を外側から熱するのは未だかつて消えたことのない屋敷の湿気であり、大樹が屹立する中庭の空気が纏った水っぽさだ。
◆
巴さんは父の母親で、また哲人叔父の母でもある。
祖父が再婚相手の巴さんを連れてきたのは、桜子伯母が十九と十七の時だった。幼い頃に実母が家を出ていったきり、使用人を除けば顔をよく知る肉親は祖父だけであった二人は、どちらかと言えば母となる人というよりも自分たちの友人のような若さであった巴さんを見て、飛び上がるほど驚いた。しかしそれ以上に娘たちを仰天させたのは、実に幼い、新しく弟となった幼児であった。
それが父である。父は巴さんの連れ子で、母親と共に海の向こうからやってきた。巴さんはルネの出身ということだったが、海峡を渡る際に自らの過去を置いてきたらしい彼女の半生は、実の息子である父にすら語られないままであった。祖父は何か知っていたのかもしれないが、祖父とて語らないのだから同じことである。この屋敷に来る以前の父の記憶はほぼ欠落しており、系譜を辿った先にある最も古い情報は、屋敷の門をくぐった時の蒸した空気と繋いだ母の手の柔らかさだった。
巴さんについては、父や叔父よりも二人の伯母の方がよく知っている。僕は彼女を写真で見たことしか無いが、ほっそりと美しい女性という印象を抱いた。それは概ね合っているらしく、伯母たちの言葉によると巴さんはその見た目通り、優しくて儚げな人だったらしい。
巴さんは、穏やかな微笑を常に失わなずに屋敷に在った。気難しい祖父の妻など苦労が絶えないだろうと伯母たちは揃って気を揉んだが、それは杞憂に終わった。新しい伴侶が来たからといって祖父が変わることは無かったが、巴さんはその隣で、いつでも柔らかな笑みを浮かべていた。桜子伯母と鏡子伯母はこの綺麗で優しい母親を好いたし、歳の離れた弟をよく可愛がった。
やがて桜子伯母は嫁に行き、鏡子伯母が旅に出て暫く経ったところで、巴さんは男児を産んだ。その名は言うまでも無く、哲人である。
◆
「姉さんは巴さんに似ているらしい。勿論顔だけで、性格や振る舞いは全然違うのだろうけど」
竹を割ったような性格で表情のよく変わる姉と、写真の中の見果てぬ祖母を重ね合わせて僕は言う。同じことをしたのであろう、菜実子がくすりと口許を緩ませた。
「巴さんのこと、お父さんもよく覚えていないの。何かしてもらったっていうとすぐに伯父さんか、お手伝いさんか、そうじゃなかったらおじいちゃん。だからおばあちゃんって感じがしないんだ、どうにも」
「僕もだ。巴さんは、いつまでも巴さんのままだ」
灰皿に押し付けられ、火の潰えた煙草はぐにゃりと曲がって転がっている。浅い銀の器の中で丸まったその様子はまるで何かの死骸のようで、微かに飛び散った灰は、何か取り返しのつかないことをしてしまった時の感覚を呼び起こした。
それ以上見ている気も起きず、僕は庭へと視線を向けた。大樹を中心に様々な草木が群生するこの中庭は、短い間だけれども巴さんによって整えられていた。というより、今のように多種の植物が持ち込まれたのも巴さんが来てからである。それまでは外側の庭に植木屋を呼ぶことはあっても中庭はほぼ手付かずの状態で、池の魚たちに各人が餌をやる程度だったのだ。
白くて細い体躯の巴さんに庭仕事など務まるだろうか、気分を崩して倒れやしまいかと伯母二人や使用人たちは心配したが、巴さんは存外体力のある者だったようで、その身体のどこからそこまでの精気が湧いて出るのかという勢いで働いた。
巴さんが手入れを始めてから、中庭はそれなりに見るに堪えるものに変わった。雑草が好き勝手に群れるだけだった地面にも色々な草花が持ち込まれ、緑一色の庭に黄色や桃色などの花が咲くようになった。時には祖父に談判し、秋に葉を綺麗に染め上げる木を新しく植えることまでした。しかし彼女の方針として、植物の育成を助けるような薬品を使うことは滅多に無かった。そのため訪れ、棲み着く野生ポケモンが減るということも無く、中庭は大分立派なものになった。
「植物は、心を込めて育てれば必ず応えてくれる」
「何、それ」
「巴さんの口癖だったらしい」
そうして彼女はその言葉の通り、丹精込めて庭の世話を続けていた。今でこそまた雑草も増えてきたが、それでも巴さんが来る前に比べれば、多様な草葉を見ることが出来る。それらの王の如く鎮座する中央の大樹も、雑草で荒れ果てた庭から脱却出来て嬉しいだろう。夜風に揺れる葉が落とす影は広く大きく、幾種類もの草花に闇を乗せていた。
しかしその巴さんも、この庭と関わるようになってそう長くは無いうちに亡くなってしまう。
◆
巴さんが奇妙な死を迎えたのは、哲人叔父がまだ三つになるかならない頃のことだった。
夏日で、数日間雨の降らない状態が続けていた。青い空はどこまでも高く晴れ渡り、欠片ほどの雲もそこには存在していなかった。屋敷はいつにも増して蒸し暑く、また刺すような射光を容赦無く放つ太陽によって着々と燻されていた。
その日、父と叔父は近所に住む親子と共に市民プールへと遊びに行っていた。父の通う幼稚園で同じ組になった少年は活発な性分で、どういうわけか気の合ったらしい、おとなしい子供だった父を連れ回すことを好んだ。彼の母親も気の良いもので、忙しい祖父と屋敷から滅多に出ない巴さんに代わって父兄弟を外に連れ出してくれた。
母の死に関して、父は全てが終わってから知らされた。母親の命日と聞いて僕の父が思い出す記憶は激しい塩素の臭いの充満する市民プールの人混みである。泳ぐ水は客の体温と日光で生ぬるく、プールサイドを歩くとぬるぬると気色の悪い感触が足の裏にあった。友達の母親が着ていたチーゴ柄の水着、彼女が抱えていたのは確か、目一杯の空気を入れられてパンパンに膨らんだラプラス型の浮き袋だ。赤い浮き輪に嵌った弟が流れていくのを、友達は笑いながら追いかけていた。歓声と水の跳ねる音で賑わう中、打ち寄せる人口波に揉まれて空を見上げると、ケンホロウが悠々と飛んでいくのが見えた。弟が自分を呼んでいる。友達親子も。しかしどうしてか父は空を見たままの姿勢から動くことが出来ず、薬品臭いプールの中に立ち尽くしていた。
旱天に飛翔する大鳥の姿に父が何を見たのかは父自身にもわからない。
巴さんは、屋敷からやや離れた所にある水路で死んでいた。水死ということだったが柵の中へ故意に入らなければ落ちることも無いそこに、何故巴さんがいたのかは不明である。揉み合った痕跡も無く、自殺するような理由も見当たらない。日頃屋敷を空けない巴さんが、その日にどうして水路へ向かったのかも謎であった。
苔が生える、湿った水辺に倒れていた巴さんの周りには、数匹のベトベターが群れていた。平素水路の周りで見ることのないそのポケモンたちの所為か、辺りは鼻を摘みたくなるような悪臭に包まれていた。ベトベターは軟体の身体を這わすようにして、びっしりと生い茂った苔の上を行き来していた。腐臭をいち早く察知したのではないかという声が警察の一人から上がったが、その正否は誰にも判別つかなかった。
巴さんは青白い身体を横たえ、眠るように亡くなっていた。猛暑の中行われた母親の葬式で、父は暑さに眩む目を開けているのが精一杯だった。涙は出なかった。母の死への実感が湧かなかったという。そうしてそれは今でも変わっていない。
泣いている姉二人と、退屈してぐずりだした弟に挟まれ、父は黒の半ズボンから覗く足を無作法に揺り動かしていた。汗で湿った膝から顔を上げ、彼は父親の姿を見た。いつもと変わらぬ仏頂面には汗の一つも無く、ただ、睨むようにして、巴さんの遺影と正対しているのだった。
◆
柱時計の鐘が二度鳴った。地響きのようなそれに満ちる屋敷は物音一つせず、誰もが深い夢の中に落ちてしまっていることを暗に示していた。気づけばホーホーやコロボーシたちの鳴き声すらも消えていて、僕と菜実子を包むのは僅かな鐘の残響を除けば静寂のみだった。
草木も眠る丑三つ刻というが、中庭のそれらも確かに寝ているように見えた。しかし反面、風に葉擦れの音を立てる大樹だけはまだ意識を残したままで、我々のことを眈々と見張っているかのようだ。それはまるで今は亡きはずの祖父の威風にも酷似していて、知らず識らずのうちに後方の祭壇から目の前の大樹へと移り変わったのではないかと錯覚に陥った。
「そういえば、彩音さんは来なかったね」
言葉と共に吐かれた菜実子の息は、酒の甘い匂いを含んでいた。
彩音さんとは僕たちの従姉妹で、桜子伯母の娘である。血は繋がっておらず、伯母がこの屋敷で流産を経て六年後、ジョウトの養護施設から引き取ったと聞いている。桜子伯母と父たち兄弟の歳が離れているため、僕や菜実子と彩音さんもまた歳に開きがあった。
彩音さんには久しく会っていない。彼女は何時からか、ここに訪れることをやめてしまったのだ。そもそも菜実子や大樹、親戚たちと会う機会など祖父の屋敷に集まる以外で滅多に無いのだから、ここに来ないのならば態々僕が年上の従姉妹と会う理由も存在しなかった。
「ポケウッドの衣装だっけ、仕事。忙しいのかな」
「そりゃあ、僕みたいな暇な大学生と彩音さんは違うだろうけど。でも、多分」
「多分?」
「彩音さんはここが嫌いなんだ」
「嫌いって」
「気味の悪い夢を見るから」
桜子伯母によると、彩音さんは昔から、この場所を怖がっていた。いつ見ても怒っているような祖父や、古風な家の感じがそう思わせている面もあったのだろうが、それ以上に彼女の足を遠のかせたのは、ここで見る夢であった。
彩音さんは屋敷を訪れると、いつも同じ夢を見るという。特段悪夢というわけではないが、毎度必ず見ることと、どうにも不安になる雰囲気をその夢が持っていたことから、次第に恐怖心を抱くようになったのだ。結果彼女はトレーナー修行の旅に出たのをきっかけに、ここに来るのをやめてしまった。
「何、夢って」
「知らないの」
「知らないよ」
「ここに来ると決まってみる夢がある」
「そんなもの無いもの」
「僕はさっきも見たんだ」
彩音さんの話に、僕は思い当たる節があった。この屋敷に来ると見る夢。それと同じものを屋敷の外で見たことは無い。夜に布団で寝ている時、ささくれた畳に転がって惰眠を貪っている時、何をするでも無く天井の木目を無為に数えている時。屋敷で眠ると僕は必ずその夢を見た。そうして夢から覚めると、有無を言わせぬ倦怠感と疲労感、また全身を纏う脂汗に襲われる。どこもかしかも汗だくのその状態は、まるで水の中から這い上がってきたばかりのようであった。
毎度毎度、欠けることのない瞼の裏に広がる情景。不安を与える空気。それと恐らく同じものを、僕もまた味わっていた。
そうわかった時、僕はどこか安堵した。奇妙な夢を見るのが自分だけでないというのなら、きっと悪戯なポケモンでも棲み着いているのだろうと思うことが出来たからだ。エスパータイプやゴーストタイプのポケモンの中には、他者に悪夢を見させる技を操る者もいる。フローゼルの親子のように、ここに住んでいるポケモンたちの仕業であろうと考えたのだ。
しかし、そうでは無いと菜実子は言った。
「菜実子は、見ないの」
「見ないし、知らない。夢だなんて」
「いつも見るんだ」
「どんな夢」
そう、菜実子が尋ねた時だった。赤らんだ唇から漏れたその問いに、僕は乾いた口を開きかけた。しかし僕の声が菜実子の鼓膜を揺らすよりも先に、僕たちの後ろ、祖父の祭壇の方で、何かが動く気配と物音があった。
僕と菜実子は飛び上がらんばかりに驚き、一瞬の間を置いてそちらを振り返った。
座敷の暗闇に目を鳴らす僕たちに、気配の主が声を発した。
「御免下さい。酒を届けに参りました」
◆
夢の中の僕は薄暗い道を歩いている。その道が何処なのか、また何処から歩いてきたのか、そして何処へ向かっているのかは全く以てわからない。かなり長い距離を進んできたようにも思えるし、今しがた出発したばかりのようにも思える。ひどく疲れているようにも感じられるし、疲労を知らずに永遠に歩き続けられるようにも感じられる。どのくらい続いているのかも不明な道を、僕は唯々歩いているのだ。
その道は堅い壁に覆われている。壁の向こうがどうなっているのかは知らない。何で出来ているのかわからないが、つるりと平らな壁は三百六十度を囲っており、道と外界を隔てている。とてもじゃないがその壁は破れそうになく、パイプ状の道に閉じ込められた僕は土管の中にいるような錯覚にしばしば陥る。
道の先は見えない。通ってきたはずの後方も見えない。光が存在しない暗闇というよりは、僕の視力が働いていないのだと思う。ともすれば、歩いている自分の姿さえも見失ってしまいそうだ。
僕の足音に混じって聞こえる音がある。何の音なのだろう。何かが迫っているような音だ。地面の下で何者かが這うように動いたならば、こういう音がするかもしれない。轟音と呼ぶには余りに遠すぎるが、恐らく近くで聞けばかなりのものなのだろう。何かが勢いよく動き続けるその音は、静寂の中で僕の耳に流れ込む。
道の中は奇妙な涼しさを常に浮かべている。空気に多分の水が含まれているのはわかったが、どういうことか蒸し暑さは感じない。居心地の良い川辺などを歩いている気分だ。ひんやりとした冷たさは全身に纏わりつき、目を瞑るとまるで水底に身体を沈めているようである。
僕は歩き続けている。右足と左足をひたすら交互に動かしている。何故そうしているのか、その理由を僕は忘れてしまった。誰かに会いにいくのだと、そして誰かに何かを届けにいくという目的があったように思う。しかしそれも定かでない。ただ、海の中を漂い続ける難破船の如く、僕は道を進むのである。
壁の向こう側から、或いは道の終着点から、誰かが呼ぶ声がする。
おい。
おおい。
声のする方に進み続けても、僕は一向にそこへ辿り着けない。どれだけ歩いたところで道はずっと続くのだから、僕は声の主に会うことは叶わない。
声は呼び続けている。
おおい。おおい。おおい、と。
壁に覆われた道に深く響き渡る低い声は、身の毛がよだつほどの恐ろしさを持っているくせに、どこか哀しげである。何か僕には想像することも不可能である、巨大な存在の慟哭のようだ。
声は誰かを呼んでいる。それは僕の名では無いと思う。知っている誰かの名前だった気がするが、それが誰かはわからない。
それでも、この言葉だけはわかるのだ。
声は言う。
声は叫ぶ。
先の見えない道の終わりで、声はこうやって呼んでいる。
江角、と。
◆
酒屋であると名乗ったその人は、何故だか顔を白い布で覆い隠していた。風で微にはためくその布には、円の中に点を一つ、眼玉を模したような記号が描かれていた。墨をつけた筆で描かれたそれは何だか動いている風に見えて、アンノーンを一匹布の中に閉じ込めているようであった。
たった今来たところであるという酒屋は、暗闇に物も言わず佇んでいた。足袋に包まれた両足から黒い影が伸びていることがむしろ不自然で、化物の類であると説明された方がよっぽど納得出来たかもしれない。
「重雄様のことは、誠にご愁傷様でございます」
仰々しく礼をする酒屋の、紺色の着物から覗く骨張った手は男のものと見て取れた。しかし夜の空気によく溶ける、耳障りの良い声は女らしかった。布越しの顔を見ることは出来ず、どこか機械めいた振る舞いと妖怪じみた雰囲気を持つその姿に、僕と菜実子はどう接して良いかわからず顔を見合わせた。
「本日は御注文いただきました品をお届けに参りまして」
「ま、待ってくださいよ。急に言われてもわかりませんし、そもそもこの時間ですよ」
手から提げていた冷却箱を畳に降ろした酒屋に慌てて言葉を発する。単に僕たちが聞いていないだけである可能性も低くないが、しかし真夜中に宅配にくる酒屋というのは素直に受け入れられるものではなかった。また、姉などが買い出しに行っていたのだから、わざわざ宅配を頼むというのもおかしな話であった。
狼狽える僕と菜実子から十歩ほど離れた場所にいる酒屋は、不可解そうに首を傾げた。「そう言われましても」何かを喋る度に白の布がひらひらと揺れる。揺れが作る凹凸は須臾にして作り変えられ、アンノーンの如き眼玉が絶えず動いているようである。
しかしその文字の表すところを僕は知り得ない。
「お電話をいただいたのですが」
「何時の話ですか」
「今日の朝方ですよ。この時間にいつものものを持ってこい、と」
「いつもの、とは」
「重雄様には昔から懇意にしていただいておりまして。多様な酒をお買い上げいただいていたのですが、その中でも決まって御注文なさるものがあったのです」
「祖父がですか」
「ええ。この頃体調を崩されたということで、此方の門をくぐることもめっきり無くなったのですが。お医者様に禁酒でも命じられたのかと勘繰っていたのですが、朝方に訃報の御連絡をいただきまして」
「何故、屋敷の中にいたのです」
「重雄様は私に鍵をお預けになったのですよ。勿論最初は私も驚いて、お返ししようと思ったのですが、届ける毎に玄関までいかなくてはならないのが不便だとおっしゃったものですから、もう暫くのことそうしておりました」
「直接持ってこいと祖父が言ったのですか」
「ええ。何時もこの部屋に伺ってお渡しいたしました」
酒屋が懐から取り出した銀の鍵が、塀の向こうの街灯の光を反射して鋭く輝いた。この者が嘘をついているとは思えなかったが、腹の底どころか表情すら見て取れない事実は、喉元をひやりとさせるような不安を僕に与えた。
祖父が酒屋に酒の宅配を頼んでいたなど、況してや鍵まで渡していたなどという話は未だ嘗て聞いたこともない。もっとも僕の姉が屋敷に住み込むようになった時点では既に、祖父の飲酒は禁じられていたのだから、雇っていた家政婦の誰かが伝えなくては知る由も無いと言えばそうである。買い物になど繰り出さない祖父が、どうやって酒を常備していたのかも酒屋の宅配があったからというなら説明がつく。鍵を渡していたのも合理的ではあるし、防犯意識等の問題があるといってもこの酒屋がそのような、俗世間めいた事をするとは良くも悪くも思えなかった。
蒸した座敷でようやく冷えてきた頭でそんなことを考えると、背中を一筋、冷たい汗が伝っていくのがわかった。僕の隣では菜実子が困惑と疑惑を丸顔に浮かべ、すべやかな指を無意味に組み合わせたりしていた。
「その電話というのは、誰からのものでしたか」
「さぁ、お名前を伺おうとしたら切れてしまったのですよ」
「声の感じは」
「何とも言えませんな。何分電話ですから、成人した男性の声であったのは確かでしたが」
背にした中庭から葉の匂いがする。いくらシンオウ夜とはいえ夏の道を、しかも冷却箱を抱えてきたというのに、酒屋は汗の一つも掻いていなかった。袖口から伸びる手首は陶器のように白く滑らかで、よく出来た機巧人形かとも思えた。首の後ろで束ねられた黒髪は背中ほどに長く、穏やかに流れる小川を連想させた。
僕はそれ以上の質問が言葉とならず、菜実子と共に立ち尽くす他無かった。恐らく待ってくれていたのであろう酒屋は、僕たちのそんな様子に「それでは御注文のお品ですが」と今度こそ箱の蓋に手をかけた。
開いた箱の中から白の煙がもくもくと立ち昇る。無機質な銀の冷却箱には細かな氷が詰められていた。
「いつものを、一本。よく冷やしてくるようにとのことでしたので」
「あの、お代は」
「結構ですよ」
以前にまとめてお支払いいただきましたから。やや高めである酒屋の声が、布の向こうから僕の耳元を擽った。
酒屋が箱から取り出した酒を見て、僕たちは言葉を失った。
氷に埋れていたその酒は、薄紫色の小瓶に入っていた。それは様々な話の中に登場する、祖父が好んで飲んでいたという酒であった。酒屋の白い手はまるで赤ん坊を抱きかかえる時のように、優しく、酒瓶を扱っていた。
「では、私はこれで失礼致します」
酒瓶に目を奪われていた僕の意識を酒屋の声が引き戻した。ぴんと伸びた背筋を曲げて一礼し、立ち去ろうとする酒屋を引き留めなくてはならない気もしたが、何を言えばよいのか判別がつかなかった。
そのまま酒屋は障子の向こうに行ってしまいそうであったが、「おや」と不意に呟いて僕と菜実子を振り返った。
「ひとつ、お聞きしてよろしいでしょうか」
「何ですか」
「重雄様が体調を崩されてから、何か新しいポケモンを住まわせ始めましたか」
その質問に僕は答えることが出来なかった。野生ポケモンは勝手に出入りしているし、祖父の行動はほとんどわからない。姉は何も言っていないはずだが、敢えて言うことでも無かったのかもしれない。
口籠った僕に、酒屋は数秒動かず考え込んでいたようだが、やがて「いや、私の気のせいでしょう」と話を打ち切った。「以前は聞こえなかった鳴き声がしたようでしたから」
その意味を問い返そうと口を開きかけた時には既に、酒屋の姿はそこに無かった。風が吹くよりも気づかぬうちに帰ったらしい酒屋がいた場所には薄闇と湿気、そしてほんの僅かな残り気配しか存在していない。頭の中で、白の布に浮かぶ大きな一つ目がぎょろりとこちらを睨みつけた。
縁側に取り残されたのは立ち尽くす僕と菜実子、そして間に置かれた薄紫の酒瓶だった。畳にそっと置かれたその酒瓶は、何も無い世界に一輪咲いた菫のようであり、また、祖父の隣に寄り添う写真の中の巴さんのようでもあった。
僕も菜実子も、佇んだまま動かない。背中に感じるのは中庭の大樹が揺れる音と、生温く空気を掻き回す風だった。
◆
祖父の元妻が屋敷を出ていった時の話である。
彼女は祖父がイッシュの鉱山開発に出稼ぎへ赴いていた際に出会った女で、貿易商の父を持つハイカラな娘であった。二人の間にどのような経緯があったのかは不明だが、ともかく二人は結婚し、桜子と鏡子という娘を授かった。娘たちが生まれて間もなく祖父が伸之助の工場を売って事業を始めることとなり、その際家族揃ってシンオウに移り住んだ。
シンオウの屋敷に住むようになってからというもの、彼女は気掛かりなことがあった。それは祖父の飲酒に関する問題であり、また謎でもあった。
自分の旦那が元来酒好きな方で、出会った当初よりよく飲んでいたことは知っていたが、屋敷に来てからの祖父は酒の飲み方が少し変わったのだ。何か粗相を起こしたり、厄介ごとを招くといったことではない。ただ、彼女の知らぬ酒を一人で飲むようになった。
その酒は薄紫色の瓶に入っていた。好奇心に駆られた彼女はその中身を飲ませてくれるよう頼んだが、祖父は断固として認めなかった。そんなことが何度か続いたある時、彼女が祖父の目を盗んでその酒を飲もうとしたところを祖父が見つけてしまい大喧嘩となった。
何日にも渡った悶着の末、彼女は屋敷を去ってしまった。取り残された祖父は何も言わなかったし、幼い二人の娘も今ひとつ事態を飲み込めずにいた。そのまま時間は流れ、彼女の面影は屋敷にほとんど残っていない。祖父は彼女の話題を出すことも無かったし、桜子伯母や鏡子伯母も記憶に薄い実母に対しての思慕は驚く程に欠落している。
何が彼女をそれほどまでに掻き立てたのか、彼女の天性の性格がそうさせたか、或いはそうではないのか、それはわからないままだ。
◆
その酒が、今、僕の目の前にある。
酒屋が置いていったそれは冷却箱と外気との温度差で、薄紫の瓶の表面には丸い水滴がびっしりと張り付いていた。結露の一部は既に流れ落ち、歪んだ筋を描いて畳を濡らして輪染みを作った。針金で固定された陶製の栓は、何やら重大な秘密を守っているかのように閉じられていた。
まさに話題としていたものの突如なる登場に、僕も菜実子もどうするべきかを図りかねた。僕たちの間で、一本の酒瓶は静かに座作している。薄暗闇に浮かぶ透き通った紫の中で、無色透明の液体がごく僅かに揺れていた。
伝聞した酒は想像よりも呆気のない見た目だった。謎多き祖父にまつわる話に頻出する存在であるこの酒に、僕は知らず識らずに幻想的なイメージを抱いていたのかもしれないが、実際蓋を開けてしまえばなんてことの無いただの小さな瓶であった。黄昏に暮れる空を溶かし込んだような色は確かに美しかったが、祖父が毎晩のように飲み、そして時には人に分けるのを惜しむほどのものとは思えなかった。
「どうしようか、これ」
ようやく菜実子が口を開いた。内股気味の素足が、戸惑うように畳を擦る。丸っこい指はケムッソの腹を連想させた。「誰かが注文したのかな」
「でも誰が。そんな話は聞いてないよ」
「お父さんとか叔父さんとか。伯母さんかもしれないし。酔って忘れちゃったんじゃないかな」
「それにしても、『いつもの』を父さんたちが知ってるとも思えない」
どれだけ考えたところで、酒屋に電話をかけた者を特定することは不可能であるように思われた。屋敷に寝ている全員を叩き起こして問い詰め、また祖父の関係者や弔問客を片端から当たるなど、現実に行動を起こせば、もしかしたら見つかるのかもしれない。しかしそのようなことをしたところでわかるとは思えなかったし、それにこの瓶を目にしてから、根拠の無い不安が頭の中に渦巻いていた。詮索してはいけないのだと思った。知ってはならないことなのかもしれない、という感覚が胸の奥底から湧き上がった。
どうすれば良いのかわからなかった。そもそもこの中身が、祖父の好んだ酒であるという保証もない。瓶の見た目がよく似ているだけで他の酒なのかもしれないし、単なる水であるかもしれないのだ。それに考えてみれば、薄紫色の瓶というのも僕にとっては人から伝え聞いた話でしかなく、これぞ何であるという確証などどこにも存在していなかった。
普通に考えるのならば余計な干渉をせず、明朝目を覚ましてくる伯母たちに尋ねるのが最も現実的な選択であろう。事実僕はそうするつもりであり、それ以外の選択肢など思いつかなかった。
しかし菜実子は違ったようである。彼女の言葉に反対しなかった僕も本心ではそうでなかったのかもしれない。蒸すような暑さか酔った頭か、はたまたこの薄紫を纏った小さな海か、何が僕たちにそうさせたのかは不明である。ともかく菜実子は、足元の酒瓶に暫く視線を落とした後、ぽつりと唇を動かしたのだった。
「ねえ明久君」
「なに」
「飲んでみようか」
僕は返事らしい返事は何一つしなかったが、しゃがみ込んで酒瓶を手に取る菜実子を止めることもしなかった。丸い背中が屈められて、寝間着の薄い生地越しに肩甲骨の膨らみが現れた。彼女のうなじに、肩ほどの長さである黒髪がかかって覚束ない動きをした。
菜実子の手の中で酒瓶が鈍く光る。結露に濡れた薄紫はぬらぬらという輝きを幽かに放っており、僕は何となくその光景が夢で見た何某かに似ているような心地になった。
僕たちは縁側に戻り、先ほどの位置に腰掛けた。酒屋が来て、そして帰ってからも変わることなく中庭は湿った緑の臭いを漂わせていたし、大樹は重々しい風格を醸し出していた。更けた夜の草木の間にはゴーストポケモンすらも現れず、ただただ風のみが通り過ぎていく。菜実子が栓を開ける、小気味の良い音が僕たちの周囲にある湿気を少しばかり軽くした。
菜実子が瓶を鼻に近づけ数度呼吸を繰り返した。目をぱちぱちさせて何とも言えぬ表情になった彼女は首を捻りながら僕にも近づけてきたが、同じように臭いを嗅いだ僕もまた、眉間に皺を寄せてしまった。
栓の抜かれた硝子の穴から漏れるそれが良い匂いなのか、不快なものなのか、今ひとつの判断がつかなかった。似ているというわけではないが香水のようなもので、好いものにも臭いものにも受け取れるあの感覚を思い出させた。香り立つ花のそれにも似ていたし、甘ったるい果実のそれにも近いようだった。高校の頃付き合っていた彼女のポケモンだった、ロゼリアの振りまく匂いはこんな印象だったかもしれない。長らく頭の奥から引き出されることのなかったその存在を、持ち主であった癖毛の少女と共に、僕は薄紫色の瓶に幻視した。
しかしどちらにせよ、酒らしい臭いには思えなかった。菜実子もそう感じたらしく「何で出来てるんだろう」と訝しむように呟いたが、思い当たる節は全く無かった。僕たちは数秒、知らぬ世界の風を閉じ込めているかのような瓶を挟んで向かい合っていた。
腰かけた縁側は湿り気を帯びていた。そっと瓶を傾けた菜実子が杯に酒を注ぐと、澄んだ液体がとくとくと流れ落ちた。先程嗅いだ臭いが一気に広がり、むせ返るような思いだった。それはソノオの花畑に降り立った時の感覚に似通っていたが、中庭の湿気の所為で、ノモセの湿原に放り出されたかの如き不快感も存在していた。そのどちらにも、祖父と共に行ったことを想起した。大湿原にある広葉樹に樹液が溜まっており、その湿気た臭いと甘ったるさに思わず顔をしかめた僕に、祖父は呆れたような視線を向けていた。
菜実子から杯を受け取った。注がれた酒はやはり色味も濁りも無く、底を泳ぐハンテールの姿がよく見えた。横目で菜実子の手の中を見ると、白く柔らかな右手に乗せられた杯の深海に、桃色の魚が潜んでいるのを捉えることが出来た。
二匹の深海魚をそれぞれ掌中に収め、僕と菜実子はしばし無言でいた。水底に沈んだまま動かぬ魚たちは嵐の通過を待っているようであり、また、何か恐ろしい敵から身を隠しているようでもあった。海は彼らを包み込み、畏怖すべき存在に怯える者たちを守っている。その海の外にいる僕は、自分を取り巻くものが蒸した空気のみである現状がひどく頼りなく思った。
聞こえるはずの無い、粒子の流れる音を聞いている錯覚に陥った。菜実子がこちらを見た。僕は杯に視線を落とした。口元まで持ち上げると酒が揺らめいて、グロテスクな形状を刹那に成して零れそうになった。名状し難い幽香がより一層の激しさを持ち、鼻腔の奥底まで絡みついた。
杯の縁に口をつける。陶器のすべすべした感触が唇に貼りついた。「いただきます」菜実子の囁きが耳を掠った。いただきます。
一口飲み込んだ途端、喉を内側から抉られるような嫌悪感に襲われた。口の中が焼かれたようであった。胃や食道ごと噴き出したくなる嘔吐感と、全身の血液が心臓に押し寄せてくる圧迫感を一度に味わった。何が起こったのかわからない僕の視界で、白と黒の明滅を只管繰り返していた。
怒濤のような気持ちの悪さに咳き込む僕を、菜実子が「どうしたの」と不安げに見つめた。彼女は火照った頬を除けばごく普通の様子であり、中身が半分ほど減った杯を持つ手にも何ら変化は見当たらなかった。無意識のうちに杯を握り締めていたらしい僕の手から零れた酒が安物の寝間着を濡らしていた。
「大丈夫、明久君」
「いや。気管に入ったのかもしれない」
「おいしいまずいのか、よくわからない味がするよ」
言いながら、菜実子は杯を斜めにしている。白い喉が形を変えて、あの液体が彼女の身体へ流れ込んでいく。
「口を漱いでくる」僕は縁側から立ち上がった。見上げる菜実子の太腿の隣に、ハンテールの杯が乱雑に置かれて転がった。僕が中身を零してしまった所為で空になった器から優しい海はすっかり失われ、外界に打ち捨てられたハンテールは干からびて死んでしまった水棲生物そのものであった。
「足元に気を付けてね」という、菜実子の声は酔いからか少し上擦っていた。右手と手首と足の付け根、酒を零した箇所が炙られるような痛みを訴えた。
◆
父と祖父が向かい合っている。
夏の午後だった。入道雲が巨人の腹のように膨らんでいた。その遥か上空で太陽が輝いていた。中庭の草木はどこからか集まってきた露に濡れており、丸い雫は日光に当たる度に眩い輝きを放っていた。
祖父の部屋は不思議な涼しさに満ちていた。屋敷のどこにいても感じる蒸し暑さを、ここでは覚えないのが父にとって違和感だった。同年の正月にもこの部屋には訪れたはずだが、その時にどうであったかは思い出すことが出来なかった。
テッカニンのじわじわという声が庭から響いていた。幾重もの混声になったそれは鳴り止むこと無く、汗の引いて冷たくなった父の耳を煩わせるのだった。平素タマムシの大学で聞く声とは違っていた。こちらの方がより夏という監獄に押し込められている心地になると父は思った。
祖父は父の真向かいに鎮座していた。二人を隔てる文机が、父にとっては刑務所の外壁よりも堅牢なものに感じられた。血の繋がらない父親と馴れ合った記憶など存在しないが、しかしこれ程までに彼と自分が遠いものに思えたこともまた初めてであった。
父は大学院に進みたいという旨を伝えに来ていた。博士課程は教授からも強く勧められていたし、そうするだけの意欲を父は持っていた。研究したいことは山ほどあった。
背筋を伸ばして話す父の言葉を、祖父は黙って聞いていた。その表情からは是も、また非も読み取ることが不可能で、息子の申し出を彼がどう考えているかを推し量ることは誰に出来る芸当でもなかった。
父が話し終えても尚、祖父は声を発しなかった。庭からの音が反響するため、父は四方八方からテッカニンの声に取り囲まれていた。じわじわというその声は果たして本当に蝉たちの鳴き声なのか、本当は自分を見張っている怪物の息遣いなのではないか、或いは逃れられぬ暗殺者が今まさに忍び寄ってきている気配なのではないか、などという非現実的な妄想が彼の頭に浮かんでは消えた。
文机には、色の無い硝子で出来たグラスが二つ並べられていた。その隣に置かれていたのは、やはり二つの酒瓶だった。
片方の酒瓶は大吟醸酒のそれであり、相当な上物であることが見て取れた。達筆な墨汁が躍る付紙には雲を突き破って翔るギャラドスが描かれていた。獰猛な紅は鬼の血よりも地獄の釜の炎よりも濃く、向かう先にいるであろう天照神すらをも喰らい尽くすかの如き凄烈さであった。
その陰に隠れるように立っているのは、薄紫色をした酒瓶だった。
祖父は大吟醸を片方のグラスに注ぎ、もう片方には薄紫の中身を注いだ。無色透明の器に入れられたそれは一見見分けがつかず、どちらがどちらなのか判別し難かった。
「飲むといい」
しかし父は、祖父のその言葉と共に自分の側へと押しやられたグラスの中身が、どちらの酒なのかを理解していた。
グラスの水面に映る父の顔は青く、自らが何に恐怖しているのかわからぬことが恐怖だった。
◆
何度か嗽をしても、口から喉にかけての違和感は拭いきれなかった。手足に酒を零したところも水で軽く濯いでみたのだが鼻に纏わりつくような芳香はとれないし、皮膚を弱く焦がす熱っぽさも未だ残っているように感じられた。口の中がぴりぴりと痺れる心地だった。
洗面所の空気はひんやりとしていて、蛍光灯の白い光が無機質な清潔さを演出している。消毒薬の匂いがした。隣接する風呂場から漂ってくるものだと思われた。
蛇口から水が漏れていた。限界までハンドルを回してもそれは収まらず、白のシンクに一定の間隔で水滴が打ちつけられては音を立てた。落ちた雫は傾斜を流れ、排水口へと消えていった。パッキンの不調ならば今はどうすることも出来ないので、明日誰かに伝えることにした。
暗さに覆われた視界で進んだ廊下には、僕の足音しか響いていなかった。暑さで起きてしまうような夜であるけれど、誰もが深く眠っているようだった。渡り廊下を歩きながらオドシシたちの様子を見遣ったが、薄闇の中からは草木の陰と幾つかの塊しか見出せず、寝息の一つも聞こえてこない。それ以上目を凝らす気も起きず、僕は祭壇のある座敷へと戻る足を再び動かした。
「菜実子か」
座敷と廊下の間にある縁を踏んだ途端、祭壇の前に佇む影が目に入った。それが何であるかを一瞬図りかねたのと、鈍い動きで揺らめいたのとで、僕の心臓は一瞬高く跳ね上がった。しかしすぐにそれは菜実子であるとわかった僕は肩の力を抜き、座敷の中に踏み入った。
一歩進むと、先程までよりも一層激しくなった湿気がある種の熱量を持って襲いかかってくるように感じた。絡みつく蒸し暑さに吐き気がした。「明久君」祭壇を見つめていた菜実子が首を動かしてこちらを向く。「おかえり」
「どうしたの。こんなところに立って」
「何か聞こえる気がして」
「聞こえるって」
「明久君は聞こえないの」
菜実子は訝しむような眼で僕を見た。何が聞こえるの、と尋ねると「何かが通る音」そんな答えが返ってきた。
「ざーっ、って。あと、さらさら、っていうのも。それと、何かが落ちていく感じの音もした」
菜実子の説明は正鵠を得ないものであったが、僕はそれに覚えがあるような気がした。彼女が聞こえるという音はわからないけれど、それをどこか別の場所で聞いたことがある風な感覚に囚われた。別の場所ですら無いようにも思った。
何かが通る音。落ちていく感じの音。
通り過ぎていくものは、果たして何であるのか。
「今は聞こえないや。明久君が来るまでしてたんだけど」
「どこから聞こえてたの」
そう聞くと、菜実子は黙って前方を指差した。祖父の祭壇であった。
「なるほど。きっと僕たちが酒盛りしてるのが羨ましくなったに違いない」
酒の味もわからないくせに、自分を差し置いて何をやってるんだ、ってさ。戯けて言うと、菜実子はくすりと微笑んだ。形の良い耳にかかる黒の髪が、彼女の笑みに合わせて頼りなげに揺れた。
「じゃあ、おじいちゃんも一緒に飲もうか」
「コップが無い。父さんたちが持っていったかな」
「台所から取ってこようか」
「いや。僕の使ってたのでいいだろう。せっかく届けてくれたんだから、あの酒にすべきなのだろうし」
「それはそうね」
言いながら菜実子が身体の向きを変えて縁側に足を踏み出した。酒瓶と杯を取りに行った彼女の後ろ髪を見、僕は祭壇に視線を向けた。暗がりの中の祖父の遺影はやはり顰めっ面で、手持ち無沙汰に佇むだけの僕を強く睨みつけていた。
「ひッ」
すると、障子の外に出た菜実子の悲鳴が聞こえた。慌ててそちらに目を戻すと、菜実子がやや丸い身体をよろめかせ、柱にしがみ付いているのが見えた。
「どうした」
「池、池が」
声を震わせてそう言った菜実子の指がさす方に僕は顔を向ける。中庭の池を指していることはわかったが、何しろ暗いのと、大樹の影になっているせいでよく見えなかった。しかし細めた眼で暫く凝視してみると、池の中が何やら蠢動しているような光景がそこにあった。
腰を抜かしたらしく、崩れ落ちた菜実子を背中に僕は庭に出た。縁側から降りると土の冷たさが足の裏に伝わった。しかしそれ以外はじっとりと暑く、前髪の下にある額が汗を掻いた。
静寂であったはずの庭に、ぐちゃぐちゃという音が低く響いていた。むっとするような生臭さが立ち込めていた。飲んだ酒が腹の底からせり上がってきそうになるのを押さえつけながら、その臭いの元へと歩を進めると、大樹と隣り合う池へと着いた。
「水が無い」
思わず呟いた僕の後ろで、菜実子が息を呑む音がした。
平素冷たい水が揺蕩うそこは干上がっており、水底の岩肌を露わにしていた。トサキントとアズマオウが球体のような腹を仰向けにして、びちびちという音と共にのたうちまわっていた。まだ湿り気を帯びている鱗が不気味に輝いている。青白い血管が浮かぶ腹に緋色の斑点を散らした金魚は、厚い唇を開けたり閉じたりと苦しげであった。
鮮麗の象徴たる彼らが、鰭を振り乱して辛苦を訴える様子はとても醜く、また見るに堪えないものだった。あたかも地獄絵図であるようなこの状況をどうしたものか、と途方に暮れた頭の中に思い描かれるものがあった。それを僕は実際に目にしたことが無いくせに、ひどく鮮明に夢想出来る。まるで今まさに目の前で体現されているかの如きその一齣は、吐き気を催すこの臭いと共に僕を包み込むのだ。
◆
伸之助の蒐集癖は昔からのものであったが、父総次郎の死後、それは益々激しくなって歯止めが利かなくなっていった。その悪化が何をきっかけとするものなのかははっきりとはわからないが、慕っていた父親の死と折り重なるように彼を襲った、彼の妻の病死であったと言われている。一人息子であった祖父重雄が家を出たきり戻る気配も無く、何処か遠い場所に行ってしまったことも関係しているのかもしれない。屋敷に一人取り残された伸之助は、まるでその淋しさを蒐集によって埋めるかのように、泥沼の中へと潜り込んでいった。
彼の集めたものは多様である。壺や皿、根付などの骨董品から始まり、楽器や絵画などにも手を出した。伸之助に見る目など無かったものだからそれらの価値は天上から地の底までに差があり、何もかもが入り乱れている有様であった。伸之助は奇妙な逸話のある品を好んだものだから、やれ額縁の中のレントラーが夜な夜な抜け出して人を喰らうだとか、やれ皮を剥がれたニャースの霊が三味線で恨み節を奏でるだとか、やれ海の向こうから買い取った洋燈に憑いた悪霊の蒼い炎は人の寿命を燃やし尽くすのだとか、そんな噂が使用人を中心に流れていた。
人々を君悪がらせたのは何も骨董品だけでなく、同じく伸之助の蒐集の対象であったポケモンたちもそうだった。伸之助は珍しいポケモンを集めていたのだが、それらもまた、ただのポケモンでは無いのだと実しやかに囁かれていた。冥府へと繋がる結い紐を持つニンフィア、人骨を被り人語を話すガラガラ、百面相のナッシー。天を泳ぐホエルオーは満天の海に蕩けて誰にも見えない。屋敷に響くピジョットの咆哮は、頭がエテボース、四肢がウィンディ、ヒヒダルマの胴を持ち、ミロカロスの尾を轟かせるという鵺だと言われた。
伸之助の転落を決定的なものとなったのは、彼が妙なものたちを集め出してから五年ほどが経過した時であった。伸之助は日頃より様々な者を座敷に出入りさせており、骨董屋や古本屋といった商人は勿論のこと、画家や楽師や書生、奇術師や僧侶、猛獣使いなど伸之助を尋ねる者は多岐に渡った。中には霊能力者を名乗る者や王家の末裔を自称する者もいて、得体の知れない人影も次々と屋敷の門をくぐっていた。
そのような者たちを集め、伸之助は大掛かりな樽俎を開催した。誰が参加したのかという明確な情報は無く、何をしていたのかもわからない。酒宴であったとも言われ、旋律の歌姫を招いた大規模な音楽祭が開かれたのだとも言われた。或いは人とポケモンが入り乱れた殺し合いが繰り広げられたとも伝えられて、血飛沫を上げながら揉み合う来客たちの様子を、伸之助は呵呵大笑して見物していたとも言われている。
その日、屋敷は渾沌と混迷の限りが尽くされた。赤や紫や黄色など色とりどりの提灯に火が灯され、座敷も、廊下も、中庭でさえも艶めかしげな光に照らされていた。廊下には怪しげな形状の壺が並べられ、その中には鈍く光るパールルが一匹ずつ収められていた。軒下にはカゲボウズがずらりと並び、抉られたように巨大な眼玉をひっきりなしに動かしては、灰色の襤褸を裂いた口で嘲るように嗤うのだった。天井付近には桃色のハクリューが舞い踊り、長い渡り廊下を腐臭を撒き散らすダストダスが這い蹲って移動した。石壁にびっしりと貼りつくバチュルは互いに蠕きあっており、硝子玉のような無数の碧い瞳が血の池に泳ぐ亡者たちのそれであるかの如くぎらぎらと哀しげであった。
泡沫の光が泳ぐ屋敷へと、無秩序な者たちが吸い込まれていった。ある者はネイティオの面で顔を覆った着流しの男であったし、ある者は黒のドレスに身を包んだ青髪の美女だった。またある者は異臭を放つ巨大な花を頭に飾った踊り子に猿轡を噛ませた幼い少女であり、またある者は惜しみなく身に着けた煌びやかな宝石を牙の覗く口に放り込んで噛み砕いている若者でもあった。
そんな彼らを招き入れ、伸之助は何をしていたのか。狂気の渦に飲み込まれた屋敷でその晩、何があったのかを語る者は誰もいない。
樽俎の催された夜が明けた後、伸之助の人生はもはや引き返せない闇の中へと踏み込んでいた。正体不明の恐怖を抱かせた屋敷へは誰も寄り付かなくなり、江角の工場と手を組んでいた者たちも次々と退いた。工場にいた労働者の中には逃げ出す者もいた始末で、またそうしなかったものや出来なかった者も、勤務先で伸之助の姿を見ると、苦々しげに目を逸らしたり指の先を震えさせたりした。屋敷にいた使用人たちも辞めてしまい、いよいよ伸之助と江角の屋敷は怪奇と化物の支配する、暗澹たる世界であるかのように思われた。
そんな伸之助から実権を奪い、祖父は江角を立て直した。工場を同業者に売る傍らで、出稼ぎ時代に出来た交友関係を利用し事業を始めた。伸之助を良いようにしていた骨董屋や霊媒師などを屋敷から徹底的に追い払い、蒐集された品も片端より売り払ったため、今現在は伸之助のコレクションはほとんど残っていない。屋敷に棲んでいる怪物と称されたポケモンたちは皆、祖父がぼんぐりに詰めて遠く離れた海の底に沈めてしまったらしく、噂の真偽を知ることは不可能となった。
伸之助は屋敷の一室に閉じ込められ、そこで生涯を終えることになる。晩年の彼は口をきくことも自ら歩くこともなく、日がな一日暗い部屋の中でじっと動かなかった。その顔は髑髏のように瘦せこけており、怒りも絶望も哀しみも浮かべられず、感情を抱くという機能が失われているのだと思わせた。死神を生き写したかの如き伸之助を幼い伯母姉妹は怖がり、また祖父の元妻は気味悪がったために近寄らず、伸之助はただただ孤独に生きていた。しかし自分が孤独であるという認識すらも無かったかもしれない。新たに雇われた使用人の出入りも禁止され、彼と接する時間があったのは、食事を運び入れる祖父のみであった。
祖父は実父へと、簡素な飯と一本の酒瓶を毎日運んでいた。その酒瓶は薄紫色をしていた。伸之助が押し込められた四畳半は狭苦しく、大樹の落とす影のせいで日中でも暗闇に覆われていた。
一切の光を奪われたその部屋で、伸之助は闇と同化するように亡くなった。伸之助が横たわっていた黴臭い畳には、空になった酒瓶が無造作に転がっていた。
◆
「とりあえず一回、バケツか何かに水を汲んでこよう」
水の枯れた池で苦しげにしているトサキントたちだが幸いまだ息はあるようで、すぐに処置をとればまだ間に合うように思えた。池が駄目になっているのならばここに水をまた入れるよりも、浴槽などに移した方がよいかもしれない。水を運ぶ手間が惜しく感じられ、直接手で抱えて持っていこうかと、僕はやけに冷静になった頭で考えた。
池は広く、そこに棲まわされた金魚たちの数はおよそ十匹弱と見えた。とてもじゃないが一人で運べる数ではなく、池に屈みこんでいた僕は立ち上がって縁側へと戻った。菜実子に手伝ってもらうか、誰かを呼んできてもらおうと口を開いた。
「菜実子」
しかし、その依頼は言葉にならず、代わりに弱い溜息が自分の口から吐き出されたのを感じた。
縁側にへたり込んだ菜実子の顔には、玉のような汗が一面に張り付いていた。平素は白くとも健康的な丸顔は朧の月光に照らされて青白く見える反面、赤黒く染まっているようにも捉えられた。どちらにせよ気分が悪いことは明白であり、菜実子は顔を覆う汗を拭う素振りも見せず、半開きの口で小刻みに呼吸を繰り返していた。
ぬちゃぬちゃという音が未だに聞こえる池を中心に中庭は生臭く、息の詰まるような湿気が充満している。あの残酷な光景も相まって、精神面の衝撃が体調の不調となり現れているのだと思われた。
「休んだ方がいい。叔母さんたちの部屋に行こう」
そう言って手を差し伸べると、菜実子はこくりと頷いて僕の手を取った。その手はやはり汗に濡れており、掴まれた瞬間に互いの掌がぬらりと滑った。
汗ばんだ肩を支えるようにして縁側に立つ。洗髪剤の香りと酒の匂い、そして微かな体臭が鼻をついた。よろめく菜実子の横顔は中庭の影になって見えなかったが、伏せられた目に黒の睫毛が乗っているのだけはわかった。
「ん」
座敷に足を踏み入れた刹那、僕は小さく声を上げた。出した一歩が妙に冷たく感じられた。言い知れぬ不気味さを覚えながらもう一歩を踏み出す。「え」今度は菜実子が息を呑んだ。
「濡れてる」
独り言のように彼女が言った。僕らの裸足と接している畳は湿っているを通り越してもはや濡れており、歩く度にぴしゃ、と弱々しげな水音が耳をついた。雨上がりの地面を歩いた時の感覚に似たそれは、プールサイドを小走りになった時のものに近いかもしれない。ぴしゃり、ぴしゃり、とごく僅かな水飛沫をあげ、濡れた畳は水辺のように薄く光っていた。
一体どういうことだ、と僕は首筋に汗を伝わせた。どこからか、下水などが壊れて水が漏れているのだろうと考えることは勿論出来たのだが、心の中にいる沢山の自分のうち、一人が否定の意を示していた、大多数の自分で彼を押さえつけ、黙らせてしまうことは容易であるはずなのに何故だか出来ず、僕は菜実子を支えたまま足を止めてしまった。
足の裏に冷たさを感じたまま立ち竦んでいると、土付随に微弱な、しかし確かに何かが押し付けられる感覚がした。畳の含んだ水は飽和状態を超えたらしく、日に焼けた藺草を表面張力のように薄く覆っていた。
その水には流れがあった。屋敷が傾いているなどとも思いたくないが、畳を滑る水は確実な動きを持って僕たちの足元でぴしゃぴしゃと波打っていた。流れの元に視線を這わせると、祖父の祭壇に行き当たった。仏頂面の遺影が飾られたその場所から、この水は流れているのだった。
「ねえ、聞こえるでしょ」
心臓を跳ねさせた僕が何か言うよりも先に、菜実子の震えた声が鼓膜に響いた。彼女の指が僕の寝間着の袖を掴んで引っ張った。一刻も早くここから立ち去るべきだという思いと、もう何処へも行けないのだという思いが交差する中で、僕は菜実子の体温を感じながら目を閉じた。視界に暗闇が訪れる。水の臭いに満ちた暗闇だ。
音がする、と先ほど菜実子は言った。何が聞こえるのか、そう問いたかったが口が動かなかった。じっとりと重い空気の中、水気に耳を澄ましていると、何かが移動していくような、地響にも似た音がした気がした。かなり地下深くを通っているらしいように聞こえるそれは、誰にも気付かれないままに、陰乍に進んでいるのであった。何の影一つも見えぬ暗闇の底を、刻々と、流れていくのだ。
ざあー、という落下音がした。ぽつ、ぽつ、という、何かを打ち付けるような音もした。びちゃ、と叩きつけられるような音、ばしゃり、とひっくり返る音。さあ、と降り注ぐ音も聞こえた。そして、その影には常に、あの轟くような振動が響いている。
この音は、一体何であろうか。どこかで聞いたことがあると思ったが、やはりそれがどこであるのかを思い出せない。想起しようとすると頭が酷く痛み、胃を握り締められるような不快感に襲われた。思い出さなくてはならない、思い出してはいけない、その二者に板挟みになり、意識が揺さぶられているように感じた。
「明久君ッ」
途端、菜実子の鋭い声が名を呼んだ。袖口を激しく引かれる感覚に目を開ける。若干の時間をかけて夜眼を取り戻した僕は、呆然とするあまり呼吸を忘れた。
祖父の祭壇がぐらぐらと揺れていた。火の消えた線香が床に落ち、香る薬草を水に浸らせた。献花が次々に落下しては花弁を広げて転がり、遊惰の権化となって散らばった。激化する振動に終に遺影が落ちる。額が悲鳴のような音を立てて割れた。
孵化したばかりの怪物のように、祭壇は数度、震えるみたいに揺れ動いた。そして、最後に小さな振動を残し、祭壇の下から水が噴出した。それと同時に足元の水嵩が増した。天井から俄雨のように水が激しく滴り落ちた。鉄砲弾のような乾いた音が何発かして、壁を破った鋭い水が吹き込んできた。
縺れる手足で菜実子を抱きかかえ、僕は縁側に出てまた絶句した。両隣から水流が押し寄せてきていた。水分を吸って重くなった寝間着はひどく冷たくて、どうすることも出来ない寒気を覚えた。
菜実子と寄り添い、僕は早鐘のような鼓動を鳴らしていた。フローゼルの親子が毛玉が転がるように駆け出して、スボミーの群れが甲高い声を出しながらひたすら逃げ惑ってはまた鳴いた。木々にとまっていたホーホーやヤミカラスたちが一斉に飛び立ち、全てを掻き消すほどの羽音が響く。混迷に満ちた中庭において、四方八方を取り囲むこの水の流れが向かう先にある大樹だけが動かずにいた。
◆
祖父が死ぬ一月前から、いよいよ病状は思わしくないものへと変わっていった。それまでは体調は常に優れないものの起きたり横になったりを繰り返していたのだが、ついにそれもままならなくなり、何をするにも姉の手を借りるようになっていた。
とある日のことである。喉が渇いた、と訴える祖父に姉は水を持っていった。透明のコップに注いだ水を姉は手渡したが、しかし祖父は勢いよくそれをはたき落した。
「水なんか飲めるか」
そして祖父は「酒を持ってこい」と激昂したように叫ぶのだった。聞き分けの悪い子供のようにそう言い続ける祖父に姉は辟易したが、医者に禁じられている手前、酒を与えるわけにもいかず、無理であることを懇々と言い聞かせる以外の道はなかった。
姉がいくら説得しても、祖父は酒が飲みたいと譫言のように訴え続けていた。唸り声すら上げて強請るその顔は悪鬼のようであり、修羅のようであり、そのくせ涙を流す亡霊のようであり、姉は只管、咳き込む祖父の背中を摩ることしか出来なかった。
「酒を」
死ぬ間際まで、祖父はそのままであった。
蒲団の中から天井を睨みつけ、何かを呪うかの如き眼光を放っている祖父の姿は、ひどく恐ろしくて哀しい生き物のようであったと姉は記憶している。
◆
祖父の葬式から半年ほどが過ぎたあたりで、菜実子の一家がカントーへと遊びに来た。
お互いの家族で時間を合わせて食事でもしようということになったのだが、菜実子と菜実子の母親、そして母と姉は買い物に行ったまま戻ってこないため、僕と父と哲人叔父は適当な喫茶店でひたすら待ち惚けを食らっているのだった。ガラス窓から見える空はどんよりと曇っていたが、大貴の旅先に広がる空は今頃どうなのであろうなどという、妙な感傷が心中を過った。
何杯目かになる珈琲の香りが内側と外側、どちらからも鼻腔を刺激する。紙のカップに描かれた、このチェーンのトレードマークであるジュゴンはこちらを目指して泳いでいた。無意味に口にする話題も早々に尽き、我々はめいめい身体を凝り固まらせながら時間をやり過ごしているのだった。
「親父のことなんだけれども」
窓の外の通りを、リードをつけたラクライの散歩をしている初老の女性が歩いていく。沈黙に耐えかねて口を開くのはいつも哲人叔父であった。僕と父は何か返事こそしなかったが、携帯電話だの本だのに落としていた視線を上げて叔父の方を見た。
「いや、親父というか母さんのことだ」
叔父は「もっとも僕が幼い頃で朧気な記憶だから単なる妄言に過ぎないかもしれないが」と前置きして話し始めた。
それは巴さんが亡くなる前の晩の記憶であった。幼い叔父は夜中に目を覚まし、隣に母親が寝ていないことに気がつき不安に駆られた。逆隣の蒲団にいる兄を起こそうにもぐっすり眠っていてとても目覚めてくれそうになく、叔父は巴さんを探しに廊下に出た。
暗い廊下の中に唯一、灯りの漏れる部屋があった。祖父の部屋であり、叔父にとっては父の部屋だった。普段入ることは滅多に無い場所であったが、その時は叔父をほっとさせた。
こっそり部屋に近づいていくと、巴さんと祖父が文机を挟んで何かを話していた。その内容は叔父の知るところではない。ただ、二人の間にある薄紫色の酒瓶が美しかったことだけが目に焼きついた。
祖父が巴さんに紫の玉が連なったものを手渡した。受け取った巴さんの手の中で、それはぽろぽろと音を立てていた。その綺麗な何かが数珠であるとわかったのは、叔父がもっと大きくなってからのことだった。
「そういえば、母さんが死んだ時に、その数珠をつけていたなあ」
黙って話を聞いていた父がぽつりと言った。叔父が「そうだったのか」と頷きを返す。カップに半分ほど残った珈琲は冷めきっていた。
「あの数珠の色が、ずっとあの酒瓶の色と重なるんだ」
◆
凄まじい量の水が、大樹へ向かって流れていく。この水がどこから来ているのか、それを知る術は恐らく無い。轟音を立てて辺りを埋め尽くしていく水に負けないよう、立っているのが精一杯であった。
庭の草木が薙ぎ倒されていく。祭壇が押し流されていくのが見えた。背後に聞こえるめきめきという音は、屋敷の柱が水圧によって折れていくものなのだと直感で理解した。僕と菜実子は障子が剥がれてしまった柱にしがみついていたが、これも何時までもってくれるかわかったものではなかった。
水に濡れ、揺らぐ視界の中で祖父の棺を探す。せめて遺体だけは流されないようにしなくてはならないと思った。飛沫が頰に飛ぶ。冷たさと生臭さに吐きそうになる。既に胸ほどの高さまである水は大きく揺れ動き、何を見るにもままならない。
菜実子が短い悲鳴をあげた。反射で掴んだ彼女の腕に、翠色の蔓が巻きついていた。腕だけでなく、首や腹、水中に捥がく脚にも同じものが見える。愕然として蔓の根元を辿ると、水に流れていく祖父の棺があった。
菜実子が蔓に引っ張られる。彼女の根元と頰を濡らす雫が涙なのか水なのか、そのどちらであるのか僕にはわからない。目を見開いて叫ぶ菜実子の声は奔流の轟く音に掻き消される。悴んだ手で蔓を解こうとしたが固く絡みついたそれは菜実子から離れず、より一層絡みを強めるだけであった。
菜実子の腕を掴み、大樹に近寄らせないようにするのが限界だった。渦巻く水の中で菜実子は俯き、息を荒くして堪えている。気管に水が入ったらしく、鼻の奥から頭にかけてがつんと痛くなった。耳にも水が入ってきたのか、それともあまりの轟音なのか、僕たちは低い唸り声のような音の中に飲み込まれていた。
押し寄せる水流と共に、無数の記憶と誰かの想起と聞いた話と妄想が、一緒くたになって脳裏を駆け巡っていく。
屋敷を常に包み込んでいた湿気。広い中庭。祖父と歩く祭囃子。朱塗りの鳥居。幼い大貴の青い顔。入れなかったリザード。桜子伯母の流産。洋間に飾られた絵画と蔵に詰められた蒐集品。酒呑童子の絵巻。伸之助が育てていたという化物と、正体不明の催事。夢の中で通るあの暗く涼しい道。酒屋の影。巴さんの死。薄紫色の酒瓶が傾けられる。父はそれを飲むことが出来ない。「酒は毒だ」祖父が言った。
草木が育つための必要条件とは何であったか。
頭の中に水底がある。水面は遠く、遥か上にあった外の様子を見ることは出来ない。柔らかな陽が差し込んで、水と共にゆらゆらと揺蕩う様子は穏やかであった。
その中に、裸体の女が沈んでいる。身体を丸まらせて蹲っている女は、水底の近くをゆっくりと漂っている。それは菜実子であるように見え、巴さんであるように見える。
水底を囲うのは、薄紫色の透き通った壁であった。
奔流に乗って、あの酒瓶が流れてきた。
三分の二ほどの中身が残ったそれを掴み取った僕は無我夢中で、酒瓶を大樹に向かって放り投げた。
◆
「会社を継ぐ気はないのか」
夏の座敷で祖父が問う。祖父と父は文机を挟んで向かい合っている。文机の上には二本の酒瓶と二つのグラスが置かれている。グラスの片方は手付かずであり、もう片方は半分ほど減っている。
「いいえ」
若き日の父はそう答える。「勉強を続けたいのです」
「そうか」
祖父は怒りもせず、かと言って表情を和らげることもせずに、ただそう言うだけであった。父は祖父の顔を見れずに俯いている。グラスの表面に現れた結露が滴り落ちて、木製の文机を濡らしている。中庭では相変わらずテッカニンが鳴いており、室内に反響しては万華鏡のように幾重の声となる。
「父さん」
父は顔を上げる。祖父と視線が合い、父の背中を冷たい汗が伝う。喉の奥で変な音がした。
薄紫の瓶が、光を浴びて美しく輝いている。
「何故、その酒を俺は飲めないのですが」
父は尋ねた。祖父は黙っている。じわじわという鳴き声だけが響いている。どれほどの時間が流れているのか父にはわからない。祖父の部屋だけが時間の流れから取り残されたようである。祖父が時を止めているようでもある。この須臾は永遠であった。
「酒は毒だ」
祖父はそう答えた。それだけであった。他には何も言わなかった。
毎度聞かされるその口癖に、父は「そうですか」と呟いた。差し出された方のグラスには口を付けていない大吟醸がなみなみと注がれている。手を伸ばそうとしたが動かなかった。祖父の手にしたグラスの中で揺蕩う、無色透明の海がゆらりゆらりと揺れて、父はそこにもう亡き母親の面影を見た気がした。
◆
酒瓶は放物線を描き、渦巻く水流の中へと吸い込まれていった。濡れた前髪が額に貼り付いて気持ちが悪い。夢と現も判別付かない頭の中に、哀しげな慟哭が響いた気がした。ひどく重くなった身体はもはや自分のもので無いように感じられ、感覚の無くなった片手で菜実子を掴んでいることだけが唯一現実味を伴っていた。
その片手が不意に軽くなった。勢い余って蹌踉た菜実子を抱き止めて、僕は目の前の光景に息を潜めていた。
あれほど轟いていた水があっという間に引いていった。どこに消えていくのかはわからない。庭の土に吸い取られるようにして、或いは塀の下を通って屋敷の外へと逃げるようにして、中庭に集まっていた洪水は瞬く間に無くなってしまった。
腕の中の菜実子が息を飲み、小さく身体を震えさせる。彼女の目線の先には祖父の棺が、濡れた状態で打ち捨てられていた。流水によって蓋は外れてしまっており、祖父の遺体が転がり出ている。
全てを跳ね除けるような、不屈という言葉を具現化したかの如き表情は死んでいても変わらない。その事実はある種の安堵ともなり得たのかもしれないが、今はそれすらも絶句の理由でしかなかった。
祖父の身体を突き抜けて、幾本もの蔓が長く伸びていた。菜実子を水流の中へと引き込もうとしたそれは今でこそだらりと垂れ下がっているが、青々という鮮やかさを今も尚、朧月の光に湛えていた。突き破られた皮膚は表面こそ水に濡れてしまったものの乾いているように見え、痛そうなどと感じないのが不思議であった。その様子は、まるで祖父とこの蔓が初めから一体であったかのような、馬鹿げた妄想を引き起こした。
しかしそれ以上に我々の目を惹いたものがあった。水浸しになった中庭は泥濘んでおり、まだ残っている水が足を微かに叩くのが奇妙に心地良かった。彼方此方に流されたトサキントやアズマオウが再び水を失い、散らばった先で各々のたうち回っていた。彼らが持つ、美しい鰭が地面に打ち付けられる度に、びちびちと濡れた音が強く響いた。
その中庭の、中央に位置していた大樹が大きく傾いている。一杯に生い茂らせた葉は僕たちの知るままの姿であったが、筋骨のような幹から繋がる、猛々しい根元の先が月明かりの下に晒されていた。
奔流によって大地が抉られたからか、それとも故意にそうしたのかは知る由も無い。半壊した屋敷に囲まれるようにして、恐ろしいほどに巨大なドダイトスが、大樹諸共中庭を背負ってその身を投げ出していた。
ドダイトスは冷たい水に浸され、ぎらぎらと輝いているように見えた。切株程もある四肢は力を失って、苔に覆われた両眼は固く閉じられていた。額に寄せられた皺は苦しげであったけれど、巨躯は驚くほど綺麗なままであり、畏怖すべき美しさが眼前に顕現していた。
僕も菜実子も、無言で佇んでいた。濡れた土の匂いと、噎せ返りそうになるほどの深緑の薫りが満ちていた。何処かでドンカラスが鳴いた気がした。父や母、姉、親戚たちが僕たちを呼ぶ声が聞こえてきた。
◆
屋敷から三十分ほど車に揺られた先にある火葬場はこじんまりと静かであった。周りに広がる草原が穏やかで、暑くも心地良い空気が漂っていた。大きな尻尾を揺らして駆けていくパチリスの上空を、夏型のアゲハントがひらりひらりと舞う。雲の無い空は青く、今にも落ちてしまいそうに綺麗だった。
あの後、崩れ掛かった屋敷は大騒ぎになったが、皆必要以上に慌てたり騒いだりすることは無かった。地面を割って現れたドダイトスが何故そこにいたのか、どうしてあれほどまでに大きいのか、また、何を思って今日この日に出てきたのかということも、誰も触れなかった。大貴でさえも黙っていた。蔓に裂かれた祖父の遺体の不気味さがそうさせるのか、埋まっていたはずのドダイトスの身体がつい先ほどまで生きていたかのような美しさであったことが原因なのか、或いはもっと、深いところに理由があるのかはわからない。蒸し暑さの消え失せた屋敷は祖父の葬式当日であるはずなのに、祖父の話をする者は誰もいなかった。
葬式の食事は豪華な寿司が出たが味など分からず、粘土を頬張っているような心地であった。夜、菜実子と過ごしたあの時間は夢の延長だったのではないかと僕は考えていた。しかし、薄紫の酒瓶の中身を飲んだ時の痺れも、干上がった池の生臭さも、押し寄せる水流の圧も棺から伸びる蔓も菜実子の横顔も、夢というには実に鮮明に、僕の脳裏に刻まれていた。
やや離れた席では、村佐さんと哲人叔父が寿司をつつきながら話していた。村佐さんはこの辺りに昔から住む血筋らしく、過去の話などを叔父に聞かせていた。
江角家初代、総次郎が若い頃の話だというそれは、シンオウの開拓時代だという前置きから始まった。カントーから訪れた開拓団によりシンオウは切り開かれていったのだが、とある場所の住民たちがいつになっても了承しないため、開拓団は手を焼いていた。
が、ある時住民たちは、一つの話を開拓団の一人に持ちかける。この近くには邪神がいる、自分たちはそいつを鎮めなくてはいけないからここから動けない、森を広げる邪神の機嫌を損ねると祟られるから怖くて出ていけない、と彼らは嘆いた。そして、その邪神をどうにかしてくれさえすればすぐにでも立ち退こう、とも。それより間も無く住民たちはそこを去り、開拓は滞りなく推し進められた。開拓に多大な貢献をした一人の男にはかなりの対価が支払われたらしいが、その男がそれを何に使ったのか、開拓団を抜けた後にどうしたのか、そして如何にして開拓を成功させたのかは杳として知れない。
村佐さんはそんな話をした。哲人叔父は黙って頷いていた。茶と共に飲み込んだ寿司に塗りたくられた山葵が、喉の奥でつんと香った。
二人と別の一角では、桜子伯母と鏡子伯母が、遺産相続の手続きについて話していた。屋敷の崩れた土地は売り払い、得た金はシンオウの自然保護に取り組む団体に全額寄付するなどという会話が聞こえた。ドダイトスの亡骸は丁重に供養した後、かつて森があった処へ帰してやろうなどと伯母たちは言った。
彼女たちが持っていた屋敷の間取り図を覗き込み、僕は思わず言葉を失った。妙な部屋の並びをしていると思っていた屋敷の形を図式化したそれは、歴とした鳥居の形を成していた。
「どうせ、出てこれまい」菜実子が聞いた祖父の声が頭に反響する。地面に作られた大きな鳥居は、地下深くという社にいる神を封じているかのようだった。
食後に運ばれてきたロメは熟し過ぎているように思った。苦いほどの甘さを持つそれを口内へと押し込みつつ、僕は斜め前に座る菜実子を盗み見た。喪服姿の彼女は白い頬に薄く紅を塗っていた。スプーンで掬われた緑の果肉が小さな口へ運ばれる。前髪に隠れた菜実子の、あまり手を入れられていない眉が微かに見える度、僕は現と夢の区別がより一層つかなくなるのだった。
祖父が焼かれているのを待つ間、我々は手持ち無沙汰に草原に立っていた。母が手洗いに行ってしまったため、僕は父と姉と並んで何くれとなく空を見上げていた。
わざとそうしようとしているのか、僕たちは取り留めもない話を口にして母を待っていた。父は僕の大学のことを聞きたがり、姉は友人のポケモンがコンテストに出たことなどを話した。
姉の話が、不意に「そういえば、変な夢を見たの」という内容に差し掛かった。
「水道の中を歩いてる夢なのよ」
「水道?」
聞き返した僕に姉は頷いて、片手を頬に当てながら考え込んだ。細い手首に骨が浮かんでいる。手の触れた顳顬を汗が一筋伝っていた。
「なんだか、水道の中みたいなところ歩いてるのよ。ぐるりと壁に覆われて、水が流れていく音が聞こえるから、水道」
水が流れてる菅ってだけでそう決めるのは安直かしら。汗を拭う姉は言った。「でも、それしか例えようもないしね」
「でも、毎晩同じ夢を見てたのよ。ここに住み込んでから、いえ、もっと前から、ずっと」
「小さい時から、ずっと、か」
呟くような姉の言葉に父が口を挟んだ。普段父はあまり喋らない性分だったし、こうして誰かの話を遮るような真似をしなかったから、僕は少々驚いた。意外であると感じたのは姉も同じだったようで、目を数回開けたり閉じたりしてから返事をした。
「そうだけど。お母さんに言っても信じてもらえなくて。でも、何でわかったのよ」
もしかしてお父さんもそうだったとかじゃないでしょうね、という姉の言葉に父は返事をしなかった。ただ少しだけ口許を緩めた父は、汗の浮かんだ瞼を数秒閉じた。
「道の向こうに、親父が歩いていった。俺はそれを追いかけるんだが、どれだけ急いでも、親父との距離は開くばかりなんだ。親父の向かう先に、親父に似ている男が二人歩いていた。俺は親父に手を伸ばした。だが、」
父が話し出した。それは僕たちに話しているというよりも独り言のようであり、またここにいない誰かに語りかけているかのようにも感じられた。
「後ろから引っ張られて、親父の方へは行けなかった。振り解こうとすると地面が揺れて足が縺れた。ずっと聞こえていた音が、轟々と鳴り響いていた」
それは果たして、昨日にだけ見た夢なのだろうか。父の話を聞いていた僕の頭の中で、ふとそんな疑問が首を擡げた。
しかしそれを確かめる術はもうあるまい。いや、最初から無いだろう。父の見た夢の意味するところは、父にすら永劫にわからない。
「引っ張ってくれたのは、母親だったように思う」
父はそこで目を覚ましたという。夢から引き戻された父を待っていたのは屋敷が崩れる現実の震動と、蒲団から出た自分の妻が慌ただしげに障子の外を覗く姿であった。血相を変えた姉が廊下を走ってきて、その後を追った父が中庭の惨状を見るのはその数刻後である。
水が流れてるから水道だと姉は言った。水の通り道となる管に、またそれと隣り合っている道に、僕は思い出すものがあったが、今となっては全て終わったことであるため黙っていた。
「声は呼んでいた。何度も聞こえた」
僕も姉も、父の話に何かを言うことをしなかった。その夢は僕もよく知っているようであり、また全くの未知であるようでもあった。姉もきっと同様であろう。僕たちは黙りこくったまま、父の声だけが頭の奥に溶けていった。
その声が何を言っていたのか、僕は昔から知っている。姉も、そして父もだ。何を訴えているのか、何を読んでいるのか、僕たちは皆、その声を長く聞いていた。
「江角、と」
しねしねしね。テッカニンの鳴き声が響いてくる。この鳴き方を聞くのは久方ぶりであった。以前に聞いたのはずっと昔のことで、やはり屋敷に訪れた際だったのは覚えているが、その時隣に誰がいたのかは記憶に残っていない。ただ、夏という監獄の檻となって自分を責め立てるようなものに感じられたことだけが、今も尚はっきりと思い出せる。死ね、という慟哭となって。
煙突からは白い煙が細く上がっている。終わっちゃったねぇ、と姉が気の抜けた声で言う。父が小さく頷き、取り出したハンカチで汗を拭う。青一色の空を突き進む煙は、祖父らしからぬ緩慢さで天へと向かう。
首筋を伝った汗がワイシャツの襟に染み込んだ。火葬場を囲う木々の緑が、鮮やかな色をして風に揺れていた。
江角が殺し、江角を呪った神を、江角の血をひかない僕が葬ったのだと、そう思った。
雨はさらさらと音を立てて降り始めていた。
ボンネットの上から聞こえる雨音は、いつもより小さい。
ただ付いて来ただけ。だからか、車を運転しながら色々悩む羽目になる。
レジャーシート程度のものならある。雨避けでも渡そうか。いや、そもそも湖で暮らしていたなら雨何て避けるものじゃないのか?
それに、もうそろそろ家に着く頃だった。
そんな事やってる暇があればさっさと車をかっ飛ばして家に戻る方が良さげだろう。
家に着く。二階建て、庭有り。そして俺一人とウインディ、妻が残していったポケモン一匹。
ローンはまだ残っている。
車から出て、その郊外に建てた家を眺める。いつもの事だ。
この家は未だに物理的には心地いい空間ではあったが、俺にとってはもう精神的に心地いい空間ではない。
魚釣りはこの頃再開した趣味だったが、それの原因が別れた妻にある事は内心分かっていた。
ウインディのボールを引っ掴み、荷物を肩に背負い、ドアから出る。
常人ならボンネットの上に乗っていても安心していられないような普通な運転だったが、カイリューは未だにそこに居た。
カイリューはゆっくりとした動作でボンネットから降りる。
僅かに、凹んでいた。舌打ちをしたくなるのを堪えた。
とは言え、追い返す事は出来ないし、付いて来る事を拒む事も出来ない。ボールに入れる事も出来ない。
だが、誰かに連絡を取って何とかして貰おうとも不思議と思わなかった。
何故だかは、分からない。その表情からは何も読み取れなかったし、ここに居候するとなったらポケモンの食費が増える事やら手間が増える事やら良い事は決してないのに。ボンネットも凹まされたのに。
ただ、悪い事はしないだろうとは思えた。暴れたりはしない。そして、こいつにとって俺に付いて来た事は何らかのプラスがある事だ。
それだけは何となく分かっていた。
「……来いよ」
雨の中、ぼうっと突っ立っている訳にもいかない。それに、ただ付いて来ただけにせよ、俺は雨の中にこいつを突っ立たせておける程割り切れる人間でも無かった。
ボールが少し、震えた。
ウインディは反対のようだった。
玄関を潜り抜けるようにしてカイリューは家の中に入った。
ウインディを出して「バスタオル持ってきてくれ」と言う。渋々ながらウインディは従った。
反対しようとも、俺が受け入れてしまった事を分かっているのだろう。
こいつが卵だった頃からの、そして俺が学生だった頃からの付き合いだ。互いの事は良く知っている。
ウインディがバスタオルを持って来て、俺は濡れたカイリューの体を拭いた。精神的に居心地の良い場所ではないが、物理的にも居心地の悪い場所になっても困る。
カイリューは大して邪魔をせず、俺が体を拭うのにじっとしていた。
聞き分けは良さそうだった。こうやって付いて来た位だ、我が強いのはあるだろうが。
カップ麺に湯を入れ、ポケモンフーズを出す。
バスラオを食って満腹だったウインディも、何故か欲しそうにしていたのでまあ、いつもより少なくだが皿に入れた。カイリューにも皿を出してポケモンフーズを入れた。
ウインディが食べているのを見て、ぽり、ぽりと少しずつ食べ始める。遠慮しているような素振りを見せながらも残しはしなさそうだった。
テレビを付けて、適当にチャンネルを回す。カイリューは驚きはしたが、特にそれと言って何もする事は無くただぽりぽりと食べながら眺めていた。
テレビでは見慣れた芸人がクイズに答えていたり、視聴率が並そうなドラマをやっていたり。
ニュースでは肉に関する新たな規制に対しての議論をしていた。
明日の天気を知りたかったが、気が重くなり、チャンネルを回した。
軽くシャワーを浴びて、明日の仕事の為に少し早く寝る事にする。今日はいつも以上に疲れた。
明日から会社なのにこいつをどうしようかという不安はある。何とかなりそうな感覚はあるのだが。
居候はもう一匹居る事だし。
寝室へ行く。ツインベッドの片方は、今はウインディが占拠している。毛だらけになっているが、いつから放置しっぱなしだったか。コロコロで拭ってもキリが無いし。
そして窓が開いているその寝室には、ムシャーナ、妻が置いて行ったポケモンがふわふわと漂っている。
時々ここから居なくなるこいつは、きっと俺の夢を盗み見て妻にでも届けているのだろうと思う。
今でもある、妻との唯一の繋がりだった。
ムシャーナは、俺の後ろから二匹目、カイリューが来た事に対しても特に何も反応せずにふわふわと浮き続けているだけだった。
予備の布団を適当に広げて、カイリューの為の寝床にする。
ウインディはその布団の上で丸まるカイリューを心配そうに眺めながらも、俺の隣で目を閉じた。
電気を消し、俺も目を閉じる事にした。
夢うつつになる中、カイリューの目的が何であれ、ただ居候する程度なら歓迎している自分に気付いた。
そういう関係なら、何も考えずにコミュニケート出来る、一緒に居られる、と思っている自分が居た。
今日も一人の人間が眼前に現れた。人間は何やら丸いボールから、鋭い刃を持った緑色のポケモンを出した。その刃は私を怯えさせるのに十分な輝きを帯びていた。銀色に輝くその刃を、緑色のポケモンは両手に二つも所持していた。所持というより、体と一体化しているようだ。どっちでもいい。どちらにせよ、これからの彼の行為が仁義なきものであることには変わりはない。あの刃では、恐らく一撃であろう。逆に考えれば、一撃のみ我慢すればいいのだ。そう思えば、前回よりは楽ではある。前回は、中途半端にレベルの上がったポケモンに、何度も刃をぶつけられた。あれは悲惨だった。
ポケモンは、いよいよ刃を振り上げる。私には顔面がない。恐怖を軽減するために目を瞑るという手段を持たない。
次の瞬間、木である私は体の真ん中よりやや下の箇所をスパッと切られた。スパッという形容が、実によく似合いほど切れ味が良かった。
なんか物を主人公にした話しが書きたいと思ったので。九億八千四百五十四万年以内には完結します。
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ジョウトとカントーに跨る霊峰、シロガネ山。数多の強者がひしめくこの山に、一際名を轟かせる猛者がいた。
彼の名はライカ。シロガネの麓に生息するギャロップの中で、歴代最も大きな群れを率いた長である。
大地を駆ける音、雷の如く。たなびく赤焔のたてがみ、猛火の如き気性を表す。畏敬と賞賛の念を持って、人々は彼をこう称した。
誇り高き炎馬の王、シロガネ平野を統べる主――そして、彷徨う孤独な炎馬の王、と。
これは、栄光と自由の中に生きた一頭のギャロップの物語である。
まだ幼い仔馬の頃から、彼はすでに王者の頭角を現していた。輝く炎を纏う美しい容姿もさることながら、その年に産まれたポニータの中で一番足が速く、また気性も荒かった彼はあっという間に仔馬たちのリーダー格に納まった。子分を従えて颯爽と走り回る様は微笑ましくもあり、同時に将来有望である事を予感させるものだった。
独り立ちを迎え群れを出た後は、同じく所属を持たない若い雄馬達を纏め上げて新たな集団をつくり、互いに争うことで自分の能力を磨き上げた。天性の俊足に加えて、戦闘での立ち回り方や仲間内での優劣のつけ方を学んだ彼は、数年後、小さな群れを率いる長へその座をかけた闘いを挑むことになる。
燃え盛るたてがみから激しい火花を散らしつつ、二頭の雄馬が対峙する。甲高いいななきで相手を牽制し、前足を踏み鳴らし地を掻いて自らの力を見せつけ、睨み合ったまま有利な位置取りを探してぐるぐると歩き回る。互いに一歩も引かないことを悟った彼らは、ついに雄叫びを上げて相手に突進した。
首筋を狙って食らいつき、身を翻して後足を蹴り出し、棹立ちになって前足を叩きつけ、ごうごうと音を立てて燃えるたてがみや尾を打ち振るう。両者の闘いは互角に見えた。年長の雄馬には豊富な経験と技量があり、若い雄馬にはがむしゃらに突き進む体力と気力があった。
何度もぶつかり合い、退き、またぶつかる内に、やがて群れの長に疲労の色が見え始めた。動きに僅かな躊躇いとふらつきを見て取ったライカは、ここぞとばかりに相手を攻め立てた。とうとう決定的な後足の一打が雄馬の胸に叩き込まれ、長は悲鳴を上げてくるりと背を向けた。
走り去る敵を、ライカは追わずに見送った。勝敗は決した、群れの長との激しい戦いに打ち勝って見事その座を手に入れたのだ。
野性の世界は厳しい。弱肉強食の理の中で暮らす生き物達は、本能的に強い者を求める。雌馬達は自分と仔を生かす為、老いた統率者より力を示した若き挑戦者を選び、自ら進んで頭を垂れた。座を追い落とされた古き長は失意のうちに群れを去り、代わって新しい長が誕生した。
自分の群れを手に入れた彼は、それを守るために全力で戦った。幼い仔馬を襲うリングマに真っ向から立ち向かって撃退し、縄張りを巡って他の群れと争い、虎視眈々と最高位の乗っ取りを狙う雄馬達を蹴散らし。全てにおいて優位を保った彼の元にはその強さを慕った雌馬達が集まり、また強力な庇護の下で産まれた仔馬たちは、外敵の脅威にさらされることなくすくすくと育った。時が経つほどに群れは栄え、いつしかシロガネ平原に住まう者の中で一大勢力を誇ることとなった。
しかし、彼に注目していたのは同族のみならず。野生ポケモンの最大の敵――人間もまた、この強く逞しいギャロップに深い関心を示したのである。
野を疾駆する彼の姿を見た者は、その速さに舌を巻いた。敵と対峙する彼を目の当たりにした者は、凄まじい気迫に度肝を抜かれた。燃えるたてがみを振りたてて誇らしげに歩く様は、見る者全てを魅了した。
大地を駆ける音、雷の如く。たなびく赤焔のたてがみ、猛火の如き気性を表す。その素晴らしいギャロップの噂はシロガネ山から遥か離れた土地まで轟き、いつしか人々の間で『シロガネ平野の炎馬王ライカ』として知られるようになった。
噂が噂を呼び、ライカはますます神格化されて語られる。比類なきギャロップと称されたその内容は、残念ながら欲深な人間達を引き付けるに余りあるものだった。
「その足の速さはレースに使える、きっと優秀な成績を収めるだろう」
「いや、それほど力のある馬なら戦わせるべきだ」
「何を言う、美しい姿を活かしてコンテスト用に仕立てなければ」
各々の目的の為に、彼を手に入れたいと願う者は沢山いた。そんな人間が大挙して押し寄せ、基地とされたシロガネの麓は黒く染まった。無数に蠢く人間達を警戒し、恐れをなしたポケモン達は山の奥地や洞窟の中に身を隠したが、しかし彼の群れは逃げも隠れもしなかった。欲望にぎらつく二本足どもを横目に、悠々と草を食み野を駆ける。
ギャロップ達は知っていた。群れが戴く長は賢く力のある者で、どんな脅威からも守ってくれるのだと。
けれどギャロップ達は知らなかったのだ。人間がいかに狡賢く、執念深い生き物であるかを。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
今一番時間を割いて書いているもの、元ネタはシートン動物記の野生馬のお話。
企画に便乗して上げさせていただきました。一粒万倍日ってとっても縁起のよさそうな素敵な響き、完成しますようにできますようにと願いを込めて。
皆様の作品もどんどん芽が出て成長しますように!
時よ止まれ、貴女は美しい。
〜
栓を捻る。リングが割れて、炭酸の弾ける小気味良い音が瓶の中から吹き出した。パシパシ弾ける泡の液体を、一気に喉に流し込む。瓶を傾けた拍子に見える、底抜けに青い空。暑いくらいの天気には、冷たいコーラが丁度良い。
「美味いな」
青井は気分良く、腹に溜まった炭酸を吐き出した。これで、山道の途中の、この休憩所の景色が綺麗なら、言うことなしだったのだが。青井は小汚いトイレや、塗装が剥がれるままに放置されているベンチや、日除けや、自動販売機を見た。作ったはいいが、管理まで考えていなかったのがよく分かる。だが、友達四人で旅行なんて、中々出来ないことが出来た時に、この快晴だ。文句は言うまい。青井は景気付けに、もう一度コーラを呷った。
「コーラか。村に着くまでに抜けちまうぞ?」
そんな良い気分に水を差すように、友人が言う。
「そんなこと言うなよ、真壁。まあ、ここで飲み切るさ」
言葉の最後にゲップが出た。コーラはまだ、半分程残っている。真壁は「がんばれ」と気怠げに言って、笑う。
真壁は猛禽のように鋭い一瞥を今しがた登ってきた道の方へやると、再び青井の方を向いて愉快そうに笑った。
「どうした、真壁」
「いや。面倒なことになるな、と思って」
そう言って真壁は一瞥を、今度は三人目の方へ向けた。青井は道を見て、「ああ」と合点の声を上げた。
間もなく、がやがやとかしましい声が下から聞こえてきた。休憩所に現れたのは、女性の三人組。年は二十歳ぐらいだろうか。青井たちとそう変わらない。彼女らは小汚い休憩所を見て、途中まで素通りするペースで足を進めていたが、青井、真壁、と休憩所にいる人間を見、それから三人目に目を移したところで、揃って足を止めた。女性三人組は、互いに小突き合い、小声で何かを話し合う。その顔が少しにやけている。青井と真壁は「やっぱりな」と呟いた。
やがて、三人組は足並みを揃えて青井たちの方へ向かってきた。しかし、青井と真壁には目もくれない。目標は、少し離れて座っている三人目の彼である。
「あの、すいません」
三人目、海原は話しかけられて初めて気付いた様子で、顔を上げた。女性たちは顔を見合わせて笑うと、
「写真、撮ってもらえませんか?」
そう言ってインスタントカメラを差し出した。
海原が青井と真壁を見た。しかし、彼らは意地悪く笑っているだけ。海原は仕方なさそうに女性からカメラを受け取った。
「写真ねえ。撮りたい景色なんてないだろうに」
小声で言いながら、青井は周囲を見回す。休憩所は勿論写真に残せるような代物ではない。山の向こうを拝んでみても、なだらかとも険しいとも言えない微妙な角度の稜線と、微妙に紅葉した森が広がっているだけで、とりたてて観光客に売り込める景色はない。
真壁は、女性三人と少し見晴らしのいい所へ行った海原を指差した。
「海原を撮りたいんだよ」
「なるほどな」
青井はコーラの瓶に手を伸ばして、休憩所のトイレの方を申し訳なさそうに見る。
「しかし、アキちゃん、遅いな」
「女性は色々と時間が掛かるんだよ。海原がパパラッチを振り切るのと、どっちが早いかな」
真壁の軽口に笑いながら、青井はコーラを口に運ぶ。しかし、一口飲んですぐに異変に気付いた。
「真壁。お前、振ったな」
「油断するからだ」
青井は真壁を一睨みしてから、ただの甘ったるい液と化したコーラを飲み干した。
「おまたせ!」
明るい声がした。小柄なショートボブの女性が、手を振りながら青井たちに走り寄った。友達の四人目で紅一点の晶子だ。
「ごめんなさい、時間が掛かっちゃって。私はいつでも出発できるから」
青井は口の横に手を当てると、大声で海原を呼んだ。海原の周囲に群がっていた女性三人が、晶子を見て残念そうな顔をする。やっぱり振り切れなかったか、と真壁が楽しそうに呟いた。
〜
それからしばらく時間を潰して、青井、真壁、海原、晶子の四人は休憩所を出発した。海原に写真を撮ってとねだっていた女性三人組は、先に出発していた。こちらは彼女らに会わないように、わざとゆっくり進んでいる。人のいない山道だ。各々ポケモンを出したりしながら、のんびり、登っていた。真壁はポケモンを持っていないので、三人のポケモンを眺めているだけだが、それでも心は踊った。
「たまにはこうやって森林浴もいい」
これから向かう村の観光案内を読みながら、真壁が言った。
「今回の目的は、森林浴じゃなくてセレビィの村の観光でしょ」
真壁に反抗するように、晶子が言った。しかし、作ったようなしかめっ面も一瞬で、彼女はすぐに破顔する。
「でも良かった。皆の休暇が合って」
「俺のは療養休暇だけどな」海原がボソリと呟いた。
「こんな機会は滅多にないだろうな」
真壁はパンフレットを閉じて、感慨深げに言った。他の三名も頷く。真壁はジャーナリスト、彼以外の三人は警察官だ。こんな風に休暇が合うことなど、もうないかもしれない。
巨木の多い山道は、これまで歩いてきた町中や休憩所よりも、ぐっと涼しかった。風は、ごくわずかにあった。木の葉がさやさや頷く音がする。晶子は自分のエーフィの喉元を撫でてやっていた。ヘルガーは眠たげに欠伸をし、その周りをメタモンとストライクがくるくる回っていた。ガーディが泥を跳ね上げ、煽りを食ったシャワーズは海原の元へ走って行って、泥を落としてもらっていた。姿が見えなかったベロリンガが、リグレーと山菜を抱えてやってくる。
この時間が、ずっと続けばいいのに。多かれ少なかれ同じようなことを、四人皆が思っていたはずだ。
時よ止まれ、貴女は美しい、か。真壁は心の中で呟いて、観光案内のパンフレットに目を戻した。パンフレットの表紙には、クスノキを元にした村章が描かれている。村の木がクスノキなのだそうだ。おそらく、村に大きなクスノキがあるのだろう。
「そういや、セレビィの村って、どういう所なんだ?」
今回の旅行先について、何も予習してこなかったらしい青井が言った。晶子が諸手を上げて「それはね」とはしゃいだ調子で説明を始める。今回の旅行のプランを決めたのは、晶子だった。
「セレビィが祀られてるのよ。昔、悪いことをしようとしたけどやっつけられて、それ以降は村の守り神になったの。運が良ければ、姿も見られるんですって」
「へえ、いいな」
シャワーズの泥を払いながら、海原が呟いた。セレビィが見られるかもしれない、なんて、晶子が喜びそうな売り文句である。もっとも、セレビィは幻とさえ言われるポケモンだ。余程運が良くなければ見られないだろう。
「その悪いことってのは?」
青井が聞く。今度は真壁が答えた。
「昔、まだ森が広がっていたこの場所を、村に作り替える為に多くの木が切り倒された。それで、セレビィが弱ってしまったんだ。森ってのはセレビィの力の源だからな。
そうして村は出来たが、セレビィはすっかり弱ってしまった。そのセレビィを人間の女性が助けた。セレビィの力が戻るまで親身に世話をしたその女性に、セレビィは恋をした。そして、彼女とずっと一緒にいたいと願ったセレビィは、村ごと、彼女の時間を止めてしまう。
しかし、そんな蛮行が許されるはずもない。ある男が聖剣でセレビィを調伏し、村の時は再び流れ始めた。男と女は結ばれ、セレビィは彼らを見守る為に、村の守り神になったそうだ」
「調伏?」
「叩きのめして従えたってことだろ」
青井の疑問に答えたのは海原だ。青井は「モンスターボールで捕まえるようなもんか」と納得した。
「それでね」と再び晶子が喋りだす。
「その村には時の巫女という女性が一人、時の勇士という男性が一人いてね。年に一度のお祭りでは、その人たちが当時のことを再現してお祭りをするの。女性はセレビィを助け、男性はセレビィを調伏する。セレビィは他の草ポケモンが演じるらしいけど、それでも見たかったな。時期が合わなくって」
「仕方ないだろ」
真壁が言った。
「そうね。こうやって皆で遊びに来れただけでも、感謝しなくっちゃ」
晶子は笑顔を浮かべた。花が咲いたようだ、と男たちは思う。セレビィのやり方は駄目だろうが、そうしてしまいたいと願う気持ちは、三人には分かる。彼らがそう思っていることを、晶子一人だけが知らない。
「ちょっと」
第三者の声が、四人の間に割って入った。剣呑な雰囲気に、四人は振り返った。村人だろうか。山菜の入った籠を脇に抱えた老人が、四人とポケモンたちを睨みつけていた。ベロリンガが山菜を飲み込んだ。
「こんな道の真ん中でポケモンを出すなんて、非常識じゃないか」
すいません、と口々に謝って、それぞれのポケモンをボールに戻す。手持ちのいない真壁は、手持ち無沙汰にその様子を眺めていた。別に、道でポケモンを出してはいけないという法律はないし、周囲の迷惑になるような、例えばバンギラスやカビゴンみたいなポケモンも出していない。それでも、いちゃもんを付ける人というのはいるものだ。そんな時は、大人しくポケモンをボールに戻すに限る。わざわざ諍いをすることはないし、それに、老人の方だって、実は何かのポケモンアレルギーで苦しんでいるのかもしれない。真壁はそう考えて溜飲を下げることにした。
「偏屈老人だな。ああいうのにはなりたくない」
老人が去った後を見て、青井が苛ついたように言う。
「でも、私たちも、ちょっとはしゃぎすぎたわよ。真壁さんは違うけど」
「いや、俺はたまたまポケモン連れてなかっただけだし」
言いながら、真壁は海原の方を見る。彼は先程からキョロキョロと、辺りを見回している。
「どうした、海原?」
「ミームがいない」
言葉少なに答え、また見回す。
「ちょっと道外れただけだろ。バルキリーも見当たらねえけど、大丈夫だよ」
まだ苛々が収まらない様子で、青井が言った。
「ほら、戻ってきた」
上空からポッポを追いかけて、ストライクが降りてきた。ポッポは海原の上空に行くと、ドロリと溶けてメタモンの形に戻った。そして、素早く海原の鞄に入り込む。ストライクは逃げるメタモンに向けて、シャアッと鳴いた。海原が大きく身を引いた。
「バルキリー」
トレーナーが呼ぶと、ストライクは大人しく青井の元に戻った。
「悪い」
「別にいい」
青井の謝罪を介せず、海原はふいと背を向けた。
微妙な雰囲気のまま、四人は村へと向かった。さっきの今でポケモンを出す気にはならないが、出しっぱなしのメタモンやストライクをわざわざ戻す気にもなれない。ストライクは、今は大人しく青井の後ろを歩いている。メタモンも鞄の中に収まったきり、うんともすんとも言わない。四人もそれぞれ黙ったまま、村を目指した。
そうして、ようやく村の入り口が見えてきた時。
「思ったより、時間が掛かったな」
青井がポツリと呟く。
日はすっかり落ちていた。都会から離れた村は眠るのも早いのか、静まり返っている。
「まだ七時過ぎだってのに」
青井が腕時計を確かめて言った。
「とりあえず、宿屋を探そう」
真壁の一声で、四人は村を進み出す。有名な観光地ではないし、祭りの時期も外れているので、宿は予約していない。四人はそれぞれに道の両側を眺めて、宿屋の看板を探した。しかし、月明かりを頼りに探してみても、一向にそれらしい物が見当たらない。
「いくら過疎った観光地だからって、宿屋がなさすぎじゃないか?」
青井が腕組みをした。彼のストライクも、トレーナーそっくりの渋面でカマを合わせた。「あの」と晶子が言い難そうに口を開く。
「私が調べた宿屋も、ないみたい」
「潰れたんじゃねえの」
にべもなく言い放った青井に、真壁が反論を出す。
「だとしても、この静けさは異常だろ」
その時、三人から離れて立っていた海原が、何かを言いかけて口を閉じた。
「何だ? そういう態度が一番気になるんだよ、言ってくれ」
いい加減疲れが出てきたのか、青井が投げやりに言った。海原は青い目をす、と空へ逸らすとこう呟いた。
「月」
三人は夜空を見上げた。田舎らしい、落ちてきそうな程に星屑の詰まった紺色の空に、丸い盆のような月が一つ。
「今夜は満月じゃない」
海原はそう言うと、村の入り口に戻り始めた。三人は慌てて、彼を追った。
〜
背中から近付く足音を聞きながら、海原はため息をついた。三人が立ち止まったのを聞くと、振り向いて、黙って村の入り口の方角を示した。
「入り口がない」
青井が唸った。村の入り口があったはずの場所は、ぬっぺりとした岩壁に変わっていた。海原は黙ったまま村の中へ戻る。その腕を、青井が掴んだ。
「おい、戻ってどうすんだよ。明らかに変だってのに」
「でも、帰れもしない」
淡々とそう言うと、鞄の中にいるメタモンを肩に乗せる。そして、一番近くにあった家の戸を乱暴に叩いた。「誰かいますか」返事はない。戸板が揺れただけだ。
「いないな。明かりも点ってない」
海原が戸に手を掛けた。しかし、晶子が「ちょっと待って」と声を上げて遮った。
「ねえ、モンスターボールが開かないみたい」
そう言って、自分のモンスターボールの開閉スイッチを押し込んでみせた。スイッチは彼女の指の動きに従って押し込まれ、離されれば元に戻るが、いつものように、ボールが開いて中からポケモンが飛び出してくる気配がない。
青井と海原も、自分のモンスターボールを改めた。開閉スイッチを押してみるが、中のバネが空しく戻る音がするだけで、一向にボールは開かない。
「どうなってんだ」と青井が声を上げた。
「青井、今何時だ?」
皆がボールを確かめる間、ずっと黙っていた真壁が口を開いた。青井は怪訝そうにしながらも、自分の腕時計を確かめ、そして、顔を歪めた。
「七時過ぎで止まってる。でも時計が壊れたのかもしれない」
「俺の腕時計まで、同時刻にか?」
真壁が左手をゆるゆると振った。
「私のも止まってる」
晶子が言った。
「どうやら、時の止まった世界に迷い込んだらしいな」
真壁が言った。その手には村のパンフレットが握られていた。表紙に付いたクスノキの村章を指で弾く。青井が「信じられない」と声を荒げた。
「だが、そう考えた方が辻褄が合う」
真壁はクスノキの村章を再び指で弾いた。そして、少し考え込んでから、口を開いた。
「人がいない。建物の配置も、このパンフレットとは少々違う。それにあの月だ。俺たちは、セレビィの作った異界に迷い込んだ」
「でもなあ。それだと、俺たちが元々目指してた村はどうなるんだ?」
青井が腕組みをした。次に答えたのは海原だった。
「ここは、時の流れから取り残されてるんじゃないか。俺たちが元いた世界と、そもそも別の時間軸にある」
「分からん!」
青井が音を上げた。
「とにかく、セレビィが原因なんだろう? ならそのパンフレット通り、セレビィを調伏すればいい。それで、俺たちを元の世界に戻させるんだ」
「聖剣の話は?」
海原が水を差した。青井は五月蝿そうに手を振った。
「セレビィもポケモンだ。こっちにはバルキリーがいる。聖剣なんてなくても、ポケモンバトルで伸してやりゃあいい」
「それに、聖剣という言葉自体、何かのポケモンの比喩かもしれない」
青井に加勢するように真壁が口出しして、海原はまたふいと背を向けた。
「じゃあ早速、セレビィを祀ってる社へ行こう。いいな、海原?」
「ああ」
海原の返事を聞いて、青井が頷く。真壁も頷く。三人は晶子を見た。
晶子は三人の顔を順々に見ると、いつもそうするように、物柔らかな、陽だまりのような笑みを浮かべた。
「……大変なことになったけど、セレビィと会えるんだって思うことにしましょ」
そして声のトーンを落とすと、「ごめんなさいね、私の所為で」と言った。
「晶子の所為じゃない」
海原がボソリと呟いた。
〜
パンフレットによると、この村は大きく上層、中層、下層に分かれているのだそうだ。山の斜面にあるこの村は、俯瞰すると、山を削って大きな三段の棚田を作ったような形をしている。棚田の下層には田畑が多く、中層に村の主要施設があり、上層に社があるらしい。自分たちが用があるのはセレビィだから、階段を探して、上層を目指せばいい。
「あった。階段だ」
最初に見つけたのは真壁だった。社や、それに続く階段の位置は、時が移ろってもそう変わらないということだろう。山肌にそってやや右曲がりの道を進む。上層へ続く階段はすぐにそれと分かった。少なくとも百段はありそうな石段。その中程に鳥居があった。青井は上方を仰いだ。しかし、暗くて見えない。
誰が言うでもなく、青井とストライクが先頭に立って石段を登り始めた。晶子が後ろに続き、その次に真壁、しんがりはメタモンを連れた海原が務めた。四人は黙って階段を登る。もうそろそろ半分というところで、青井のストライクが唐突に止まった。
「どうした、バルキリー?」
青井が先に立ってストライクを呼ぶものの、ストライクは困ったように首を横に振るばかりで、それ以上前に踏み出そうとしない。「ちょっと失礼」海原が石段を登る。そして、メタモンを肩に乗せたままストライクの横を通りすぎて、そのまま青井の上に登った。
「虫ポケモン除けになってるのかもな」
海原が指差した先を見ると、鳥居があった。海原は再び段を降りる。
「セレビィっていうのは草・エスパータイプのポケモンらしい。だとしたら、天敵になる虫ポケモンが入れないようにしてても、不思議じゃない」
「じゃあ海原、お前が行けばいい」
「だめよ」
晶子が口を出した。
「皆で行かなきゃ」
四人はしばしの間、石段の途中で固まった。青井はストライクをボールに戻そうかとも考えたが、やめた。モンスターボールからポケモンを出せない今、ストライクをボールに戻しても鳥居をくぐれないとなったら、戻し損だ。四人はこれといった打開策が出ないことを悟ると、今度は真壁を先頭にして石段を降り始めた。
「さて、どうする?」
一番に中層に戻った真壁が言った。その次に晶子がトン、と石段を数段飛ばして降りる。青井はその次だ。
「聖剣を探す?」晶子が困った様子で言った。
「だとよ。いい気分だな、海原」
「何が?」
最後に石段を降りた海原に青井が嫌味を飛ばすが、海原は気が付かなかったようだ。真壁の方を見て、「他に、ここを出る方法はないか」と尋ねた。真壁はパンフレットを振る。
「つっても、ここに書いてあるのは、時の勇士がセレビィを調伏した話だけだぜ?」
「それ以外でも。例えば、似たような話で……異界に迷い込む話で、そういう話の主人公は、どうやって元の世界に戻ったんだろうか」
「似たような話ねえ。急に言われるとなあ」
言いながら、真壁は近くの塀にもたれる。そういえば、時間感覚がないが、疲れが溜まっている。他の三人もそれに気付いたらしく、晶子が「どこかで休めないかしら」と声に出した。
「適当に近くの家で休もう。どうせ、誰もいないだろ」
青井の言葉に他の三人も頷いて、石段から程近い場所にある平屋に投宿することになった。「ごめんください、一晩ここに泊まります」とは言ったものの、案の定中には誰もいない。一晩というのも、一体どれくらいの時間になるのか分からない。時間が止まるなんてなあ、と青井はため息を吐いた。
四人は、家に入ってすぐのところに囲炉裏の部屋に集まっていた。板敷きの中央には囲炉裏が切られており、そこには鍋が吊り下げられてあったのだが、今は外されて、青井の懐中電灯が代わりに結わえ付けられている。乾電池二本分の光が、囲炉裏とその周りをぼうっと照らしている。ポケモンを出すことも出来ないのが、なんとも気詰まりだった。
障子を開けて、家の探索に出ていた真壁が戻ってきた。
「飯はなかった。風呂も台所もあったが、水が出ないからどうしようもないな。でも便所は使える」
何故か、とは誰も聞かなかった。
「とりあえず、夕食にするか」
青井は自分の荷物から、缶詰とカップ麺を出した。トレーナーの修行の旅をしていた時の癖で、つい色々持ってきてしまっていた。それがこうして役に立つとは、なんだか複雑な気分だ。
缶詰を適当に四つ選び、三つを他の人に投げた。ポケモン用のドライフードも投げる。この時も海原だけ何故か離れた場所に座っていて、一々名前を呼ばなければならなかった。なんなんだあいつは、と心の中で悪態をつきつつ、今度はカップ麺を配る。しかし、囲炉裏に鍋を掛け直そうとした時に、真壁に止められた。
「これで煮炊きはしない方がいい」
「なんで?」
「よもつへぐい」
海原が分かったように口を聞いた。
「何だよその、よもつぐへい、ってのは?」
青井の質問に、今度は真壁が答える。
「よもつへぐい、な。あの世の物を食べたり、あの世の竈で煮炊きした物を口にすると、この世には帰れなくなる、という話だ。ところで、色々考えてみたんだが」
真壁は缶詰を開けると、割り箸を割った。
「この世とは思えない所に迷い込む話って、帰ろうとしたら帰れました、ってパターンが多いんだよなあ。迷い家とかさ。あるいは、異界の主に招かれて、歓待されて、帰りますと言ったらお土産までくれるパターン。竜宮城みたいなやつな。でも、そういう雰囲気でもないし。こう、帰ろうとしても帰れないっていうのは……」
「お菓子の家みたい」晶子がポツリと呟いた。
「セレビィは魔女ってとこか」真壁が言った。
「やっぱり、セレビィを叩きのめすしかないんじゃないか」
青井が食べ終えた缶詰をリュックに放り込み、「なあバルキリー」とストライクの方を向いた。ところがどうだ。ストライクは海原に頻りに寄って行っている。
「こら、お前のトレーナーはこっちだぞ。戻ってこい」
青井の言葉に渋々、ストライクは向きを変えた。戻ってくる途中、何度か名残惜しそうに海原の方を見た。
全くどいつもこいつも、と言いかけて、言葉を呑み込んだ。海原に寄っていくのは、今のところ、一見さんの女性たちと青井のストライクだけだ。青井が気になっている彼女は、まだ誰のことが好きだとか、何も明言していない。今はまだ。
わびしい夕食が終わった。青井は板敷きの上にゴロリと横になった。晶子も自分の上着を掛けて横になった。
「隣に畳部屋があったぞ。そっちで寝たらどうだ?」
家を一通り見ていた真壁が晶子に言った。
「うーん、でも」
「男共と同じ部屋ってのも具合悪いだろ」
「それより、皆と離れちゃう方が不安だわ。大丈夫よ、固いところで寝るのは慣れてるし」
そう言って笑うと、リュックサックを抱き枕代わりに引き寄せる。そして、目を閉じた。
「俺はしばらく見張りをしとく」
海原がメタモンを撫でながら言った。ストライクが自分もやる、と言うように鳴き声を上げたが、「お前はいいよ」と青井が止めた。
横にはなったものの、青井はよく眠れなかった。時々変な夢を見ては、夢から醒めて暗い天井を見上げる。夢の内容は思い出せなかった。ただ、恐ろしく夢見の悪い夢だという感覚だけ。
ストライクはまた海原の近くにいた。小さな鳴き声が聞こえる。メタモンとストライクが話しているのだろう。青井はまたうとうとし始めた。メタモンとストライクの話し声が、夢の中を行ったり、来たりする。夢の中で、ガシャンと卵が割れた。暖めれば金銀財宝が孵ったのに、なんて勿体ない……いや、割れて良かったのだ……
「ミーム、落ち着けって! 海原、おい、どうした!」
真壁の声がして、青井は跳ね起きた。真っ先に目に入ったのは、鍋を叩き付けられて、気を失っているストライクだった。鍋は二つに割れていたが、すぐに囲炉裏に掛かっていた物だと気付いた。青井が懐中電灯を取り付ける時、外して囲炉裏の横に置いたのが、どうしてこんなことに。青井は部屋の中央を見た。冷気をダダ漏れにしたマニューラが、鋭い爪を床に突き刺している。
マニューラが口を開いた。口元に冷気が収束していく。
「ミーム、やめ」
海原の声がした。マニューラは目を見開くと、ブルリと体を震わせた。その途端、マニューラの体が溶けてメタモンの姿に戻る。メタモンは怒気の籠り籠った目で、倒れたストライクを睨み続けている。
青井はストライクの容態を見た。気を失っているだけのようだ。目を覚ましてから、オレンの実をやれば大丈夫だろう。そして、海原の方へ向かう。囲炉裏の近くにいるメタモンは、遠回りして避けた。
海原は壁に背中を預けて、座り込んでいた。真壁が自分の荷物から救急箱を引きずり出した。
「傷、見せろ」
海原が首を振った。「見せろと言ったら見せろ」二度目で、ようやく海原は右腕を出した。真壁が袖を破る。現れた傷口を見て、青井は顔をしかめた。切り傷だ。肉まで切れているが、動脈は切れていない。しかし、まだ血が流れ出している。
「浅いよ」
「そら、普段死体を見てる人間には浅い傷だろうさ」
言いながら、真壁は手早く包帯を巻いた。巻き終えると海原は腕を引っ込めて、再び傷口を押さえた。
青井はまだ気絶しているストライクを見た。真壁が騒々しく荷物を片付けている。まとめた荷物を蹴って壁際にやったところで、青井はやっとこさ、口を開いた。
「俺のバルキリーの所為だな。悪かった」
いくら青井だって、自分のポケモンが付けた傷くらい、分かる。本当は頭を下げて「申し訳ありませんでした」とでも言うべきところだが、今の青井には、それだけ絞り出すのが精一杯だった。
海原は顔を背けた。「ミーム」メタモンを呼び戻す。そして、「別にいい」と言った。
「良くない。これは立派な業務上過失傷害だ」
「この程度では立件されない」
「そういうことを言ってるんじゃねえよ」
海原は怪我をしていない方の手で、メタモンを持ち上げた。
「どうせミームが怒らせるようなこと言ったんだよ」
「お前なあ!」
青井は大声を出した。海原が寸の間驚いたように青井を見上げた。真壁は素知らぬ顔で、自分の荷物を転がしていた。青井は構わず続けた。
「そういう態度が腹立つんだ。こっちが悪いっつってんのに、やたらと庇われんのも癪に障るんだよ。俺にだってポケモントレーナーとしてのプライドはある。自分のポケモンの不始末の責任を取るくらいはな!」
「でも今回は青井の責任じゃない。バルキリーをミームが怒らせたから鎌を振ったんだ。ミームを止めなかった俺の責任だろ」
青井は近くの壁を殴りつけた。
「ふざけんな!」
「ふざけてない。俺なりに公平に判断してるつもりだ。ところで」
「話を逸らすな!」
「もうそのくらいにしとけよ」
真壁がどちらに言うともなく、言った。
「で、何だ? 海原」
「晶子がいない」
その言葉で、二人ははじめて晶子が姿を消していることに気が付いた。リュックサックと上着は残っている。真壁が言った。
「厠じゃないか?」
「さっきまではいたんだ。俺が斬られた時はまだ寝てた」
青井は唸った。晶子はあの騒ぎを放っておくような、薄情な女ではない。
「探してくる」
青井は真壁から懐中電灯を受け取ると、ストライクを起こして、隣の部屋に移った。海原も見張りだといったって、眠くて意識が飛んで、その間に晶子がどっか行ったんだろう。そう思いながら、青井は真っ暗な廊下を進んでいった。
〜
「さて」
青井が行ったのを確認すると、真壁は海原の近くに腰を下ろした。荷物から毛布を引っ張り出して、海原に投げる。
「ちょっと寝とけ。厄介なことになりそうだしな」
「じゃあ、青井が戻るまで。お言葉に甘えるよ」
海原は毛布を被って横になりつつ、「しかし、お前はなんでこんな物持ってきたんだ? たかが旅行なのに」と問うた。
「面倒くせえから、トレーナー修行してた時のをそのまま持ってきたんだよ」
「なるほど」
真壁は囲炉裏の近くに座った。そして、パンフレットを広げると、懐中電灯の明かりで読み始めた。海原はピクリとも動かない。疲れていたのだろう。真壁はパンフレットの一字一句も見逃さないよう、目を皿のようにして読み続けた。
時を止めた村。
セレビィは自分を助けた女性に恋をした。
女性の時を止めたいと願い、事実その通りにした。
そして、ある男性に聖剣で調伏された。
真壁の頭にある可能性が閃いた。悪い可能性だ。もしかすると、晶子は……
「いない。家のどこにもだ」
青井が騒々しく戻ってきた。寝ていた海原が身を起こす。「なんだ、寝てたのか?」「ああ」「それよりだ」
青井が懐中電灯を真壁に投げた。真壁は受け損ねて落とした。
「アキちゃんが見つからねえ。トイレにも行ったし、屋根裏も探してみたんだが」
「もしかすると」
真壁は今しがた思い付いた可能性を話した。
「セレビィに連れていかれたんじゃないか。セレビィに惚れられて、さ」
「何?」
青井が狼狽えた声を出した。
「ってことは何だ。アキちゃんはその、昔語りの時の巫女みたいに?」
「可能性の話だがな」
青井は腕を組んで考え込んだ。後ろでストライクも同じポーズを取っている。真壁はもう一度パンフレットに目を落とした。聖剣についての記述はない。外部に漏らしてはならない、という約束があるのかもしれない。セレビィは災厄をもたらした悪神だったが、村の守り神でもあるのだ。それを調伏させる力の正体を、村の敵に悟られてはまずい、というところか。
「行こう」
青井が立ち上がった。
「どこに? 手がかりなんて何もないんだぞ」
「黙って座って考えてるのは性に合わない。それにまあ」
青井は後ろのストライクを見やった。
「いざとなったらこいつをボールに入れるなり、鳥居の前で座って待ってるなりするさ。アキちゃんも今一人で心細いだろうしな。それを考えると苦にはならん」
彼女のことだから今頃セレビィと談笑しているだろう、と真壁は思ったが、口には出さなかった。
青井は海原の方を向くと、やや言い難そうに、
「海原、行けるか」と口にした。
海原は頷くと、毛布を丸めて真壁に寄越した。
まずは社に続く階段に行ってみたが、やはり途中からストライクが進めなくなった。
「こうなったら」
青井がストライクにモンスターボールを向ける。しかし、横から海原に止められた。
「貴重な戦力を減らそうとするのはやめてくれ」
海原が苦言を呈した。青井の腕を押さえた手が、今度は怪我をした右腕に添えられる。
「それと、虫除けがなされてるくらいだから、相手も虫ポケモンが苦手なんだろう。バルキリーがいるだけでも、セレビィの手出しを避けられるかもしれない」
「分かったよ、やめるよ」
青井は五月蝿そうに手を振った。真壁が海原の右腕を指差した。
「海原、腕、大丈夫か?」
「ああ」
海原が腕を下ろした。
「悪かったな」青井が小さな声で呟く。
ふいと海原が背を向けた。そして、そのまま歩き出す。真壁は慌てて海原を呼び止めようとした。
「おい、どうしたんだ」
「下層に降りてみる」
海原はこちらを振り向かず、淡々とした調子で答えた。
「そっちは中層を調べといてくれ」
真壁はパンフレットを広げて、地図を確かめた。上層に社、中層に主要施設、下層に田畑。村の大きな構造は昔から変わっていないはずだ。
「下層には多分、何にもないぞ」
「刑事の性だよ。虱潰しにやらないと気が済まないんだ。それと、念の為に行くだけだから、俺一人でいい。じゃあ、青井は真壁を頼む」
そう口早に言って、海原は月明かりの届かない向こうへと姿を消した。
「ほっとけ」
海原を追い掛けようと一歩踏み出した真壁を、青井が止めた。
「強情な奴だから。それより、こっちもこっちで調べちまおうぜ」
真壁は海原が消えた方向を一瞥したが、結局諦めて、青井に付いていった。海原は強情だが、道理の通らないことをやる人間じゃない。それにあの言い方、まるで、自分が既にセレビィの攻撃を受けていたみたいじゃないか?
「ああ、さっさと片付けよう」
真壁は青井にそう、声を掛けた。こちらにはストライクがいる。海原よりかはいくらか安全だろうが、さっさと調べるに越したことはない。時間は無限にあるが、どうも、猶予はなさそうだ。
三軒目の民家を調べたところで、新聞を見つけた。今から二十年前の四月と記されている。捲って読んでみると、真ん中程の面の端に、太陰暦で十五日と書かれていた。この世界は、二十年前の満月の夜で、止まっているらしい。新聞も捲りやすいことに、真壁は気が付いた。物質も、二十年前の状態のまま、保存されているのだろうか。
それから四軒、五軒、六軒と調べ、途中で数えるのを放棄したが、これといった成果は得られなかった。「捜査はこういうもんだ」と言って、青井は気にする様子がない。疲れも感じさせない。流石本職の刑事だな、と真壁は思った。
「人がいないのは、何故なんだろうな」
間取りも変わらない民家を、既に十軒は調べた後で、真壁はポツリと疑問を口にした。時を止めただけなら、人がいても良さそうなものだ。
「疲れるくらいだから、死んだのかもしれん」
「だがそれだと、セレビィが時の巫女の時間を止めたという話に反する。あるいは、村の時間を丸ごと止めても、人間の時間は一人分しか止まらないのか。そうか、あるいは」
真壁は言いかけて、やめた。あまりに悪趣味だ。しかし案の定、青井に言われた。
「何だよ? 途中でやめられたら気になる」
真壁は「ああ、いや」と少し言い淀んで、結局、白状した。
「発狂したのかと」
「なるほどなあ」
青井はしかめっ面で、一寸だって動きそうもない満月を見上げた。
「いくら綺麗な月だって、そればっかじゃなあ」
そうして、またしばらく歩いた先に、今まで見てきた民家より、少し大きくて、心持ち豪勢な家を見つけた。
「村長の家かもしれないな」
青井が進んで、観音開きの扉に手を掛ける。扉は難なく開いた。
「鍵を掛ける習慣がなくて助かるな」
真壁の台詞に、青井は頷いた。
青井が警戒しながら家に踏み込む。その次にストライクが入り込んで、間を空けずに真壁が滑り込んだ。
「多分、旅人なんかをここに呼んだんだろうな」
応接間らしい。木製の椅子に机が並べてある。壁や棚にクスノキのシンボルを織り込んだ布が掛けられてあった。
「クスノキか」
青井が慣れた手付きでタンスの引き出しを調べていくのを見ながら、真壁は椅子に腰掛けた。手伝おうとしたら怒るので、勝手にやらせておく方がい、
「うわっ」
真壁の口から悲鳴が出た。座面が抜けた。
青井の手を借りて立ち上がると、真壁は椅子を調べた。
「座面と椅子の足を繋ぐネジが外れたんだよ。ネジ穴が腐ってたみたいだ」
ため息をつく真壁の横で、青井がもう一つの椅子の座面を押した。一度押しても崩れなかったが、力を込めて叩くと座面が落ちた。机の方は叩いてもびくともしない。
「多分、元から腐ってたんだろ」
とりあえず、家の探索を続けることにした。しかし、目ぼしい物は見当たらない。三つ、四つと部屋を調べている折に、不意に青井が「あいつは」と口にした。
「なんで俺にだけああいう態度なんだろうな」
「へえ、どういう態度だ?」
相槌を打ちつつ、誰のことだろうと真壁は考えた。ややあって、海原のことか、と気付く。
「他の奴は絶対庇ったりしないのにな」
「そうなのか」
「ああ」
青井は頷いた。
「出来のいい同期で友人だよ。その上庇われて、こっちは劣等感ばっかりだ」
「大変だな」
青井は頷く。そして、投げやりに言った。
「女もああいうのが好きなんだろうな」
それから、部屋の引き出しを乱暴に開け始めた。
真壁たち三人の中で、ある文脈で“女”といえば、特定の一人のことを指した。彼女については、当たり障りのない話題でしか触れない。抜け駆けもしない。それが三人の不文律となっていた。
彼女と誰かが付き合い始めることで、彼女を含めた四人の関係が変わってしまうのが恐ろしいのだと、真壁は分かっていた。真壁も、青井も、そして海原も、彼女に恋心を抱いているのは分かり切っているのに、誰もその先に進めない。
「俺たちの時も止まってんだな」
真壁はごく小さな声で自嘲した。
部屋を虱潰しに調べて、最奥まで来た。文机にタンスが一つという、質素な部屋だ。青井が早速、タンスを調べ始める。真壁は文机の方を見た。机に置かれた紙に、『お守り』とだけ書かれている。メモ書きのようだ。
「おい、真壁、これ」
青井が大声を出した。真壁は青井が持っている物を見た。カセットテープだ。
「ほら早く」と急かされて、真壁はいつも持ち歩いているテープレコーダーを出した。一度停止ボタンを押して止めてから、カセットテープを入れ替える。巻き戻す時間がもどかしかった。テープが全て巻き終わってから、真壁は再生ボタンを押し込んだ。静かにリールが回り出す。「えっと」ここにいない、女性の声が聞こえた。
「ちょっと間が開きました。ごめんなさい。えっと、ほら、もうすぐお祭りだから忙しくて」
女性は喋り慣れていないのか、「えっと」や「あの」を繰り返す。しかしそれは、すぐに恥ずかしさからくるものだと知れる。
「時の巫女の私が時の勇士の貴方に……貴方を好きになるなんて、なんか、不思議ですよね。あ、今回はこういう話をしたかったわけでは。あの、貴方が送ってきた前のテープ」
無音。
「あのですね」
女性は咳払いした。
「今回駆け落ちをするにあたりまして、私なりに色々考えて、調べてみました」
青井と真壁は顔を見合わせた。しかし、すぐに続きを傾聴する姿勢になる。
「道は貴方が言ってた道でいいと思います。ちょっと湿気が気になりますけど。冗談ですよ。で、決行の日ですが、出来れば明後日に。禊ぎの時ならお付きの目も少なくなりますし。その日が確か町に市の立つ日でしたよね。
それでですね、貴方には何とかして、聖剣を持ち出してきてほしいんです。その、大丈夫だと思いますけど、セレビィ様に見つかった時の為に、念の為。お祭りの前に練習したいとか一目見たいとか言って。出来ればでいいですが、お願いします」
二人は随分長い間、耳を澄ませていた。しかし、それ以上カセットテープは音を出さなかった。
カセットテープが終わりまで巻かれる。真壁は黙ってカセットテープをひっくり返すと、再生ボタンを押した。古臭い歌が流れてきた。ラジオの放送を録音したものらしかった。
「こっちはダミーっぽいな」と青井が肩の力を抜いた。
カセットテープを取り出しながら、真壁が言った。
「音で恋文か。ロマンチックだが、危ないとは思わなかったんだろうか。隣の部屋に誰かいて、聞かれるかもしれないのに」
「普通に手紙に書いて、盗み見されるのと変わんねえよ。でも確かに、妙だよなあ」
それからもう少し部屋を探してみたが、ボロボロになった木製のアクセサリーぐらいしか見つからなかった。
この家に、これ以上目ぼしい物はなさそうだと判断して、真壁と青井は家の玄関へ戻りながら話す。
「何代目か分からないが、時の巫女が時の勇士と駆け落ちしようとしていた」
「駆け落ちというからには、本当は結ばれない運命だったんだろうな」
運命、という似合わない言葉が青井から出てきたので、真壁の思考が一瞬停止した。
「とにかく」と言って持ち直す。
「セレビィが祀られている村で、時の巫女と勇士が駆け落ちしようとした。セレビィに見つかった時に備えて、聖剣を準備しようとしていた」
「セレビィが時の巫女に惚れてた、とか」
「なるほど」
判断材料が少ないが、それで辻褄は合いそうだと真壁は考えた。
「セレビィに惚れられた時の巫女は、時の勇士と愛の逃避行に出ようと考えた。時の勇士は聖剣を持っていたとして。駆け落ちは」
真壁は頭の中で仮設を組み立てた。
「成功したんだ。セレビィは逃げてしまった時の巫女の面影を感じて、晶子を攫った」
これで辻褄は合いそうだ、と手を打つ。「いや、でも」と青井が反意を唱えた。
「それだと、なんでこの村の時が止まってるんだ?」
「ああ、そうか」
真壁はもう一度考えた。今度は青井が先に答えを出す。
「駆け落ちは失敗した。セレビィは時の巫女を囲い込む為、村の時を止めた」
「すると、どうして晶子を攫ったのかが分からなくなる」
青井は腕を組んで唸った。
「この問題は後にしよう」真壁は言った。
「巫女と勇士が恋仲だった。セレビィに見つかるとまずかった。今はこれだけ分かればいい」
「お前、刑事に向いてるかもな」
青井が感心したように言った。
二人は表に出た。「あれ」同時に声が出た。そして、二人同時に立ち止まる。この家に入る時にはいなかった者が、道の中央に鎮座していた。
「くるっぽ」
「ポッポだよな?」
真壁は懐中電灯の光をその物体に向けた。毛羽立ち、汚れているが、どうやらポッポのようだ。
「迷い込んだのか?」
真壁は背を低くすると、ポッポにゆっくりと近付いた。汚れたポッポは座り込んだまま、逃げる気配も見せない。「疲れてるんじゃないか」と青井が言った。
真壁はポッポに距離を詰めていく。ポッポは真壁の手が触れる所まで来ても逃げ出さず、それどころか、自分から近付いてきたではないか。真壁は腕を地面に下ろす。ポッポはごく自然に、真壁の腕に乗っかった。
真壁は立ち上がった。ポッポは真壁の腕に掴まっている。
「似合ってるぞ」と青井が言った。
「オレンの実とか、ないか? こいつ、体力なくなってるみたいだ」
真壁はポッポを撫でながら言った。羽繕いをする元気もないようだ。茶色と白の境目が分からないくらい、汚れている。
青井からオレンの実を一つ受け取って、ポッポに差し出した。ポッポは凄まじい勢いでオレンの実を食べ尽くして、真壁の指まで齧りそうになった。「こら、こいつ」と言いつつポッポと戯れている真壁を、青井がニヤニヤしながら眺めている。
「なんだよ、ったく」
「いや、仲が良いなと思って。ゲットしてやったらどうだ?」
「そうだな。ポッポ、俺がゲットしてもいいか?」
ポッポはくるっぽ、と鳴くと、真壁の肩に飛び移り、そこから頭の上に飛び移った。正直、痛いし重いが、これがこのポッポなりのオーケーの出し方なのだと真壁は受け取った。
「じゃ、よろしく、ポッポ」
真壁が腕を出すと、ポッポは躊躇いなくそこに飛び移った。
「こいつをゲットする為にも、この村を出なきゃな」
「そうだな」
ポッポを撫でながら、真壁は自分の口元が綻んでいることに気が付いた。
自分のポケモンを持つのは久しぶりだった。トレーナーをしていた頃のポケモンたちは、就職する時に全て他人に譲ってしまっている。仕事とポケモンの世話の両立に自信が持てなかった所為だが、今は仕事にも慣れてきたし、このポッポと暮らし始めるのはいいかもしれない。
さて、ポッポの世話には何が要るだろうか。考え事をしながらポッポを撫でていると、指に奇妙な物が当たった。
おやと思い、ポッポをひっくり返す。ポッポの足に、紙が括りつけられていた。
「伝書ポッポか」
青井が紙を外そうとすると、今までの脳天気ぶりはどこへやら、電光石火の速さで首を伸ばして、青井の指を突いた。青井が慌てて指を引っ込める。
「痛かったぞ」
「はは、ごめんごめん。でも、宛先以外には手紙を渡さないなんて、伝書ポッポの鑑じゃないか」
言いながら、真壁はおかしなことに気付いた。こいつは誰に手紙を届けに来たんだ?
二人と一匹にさらにもう一匹加わって、一行は村のさらに奥へと進んだ。
「おお」と青井が感嘆の声を漏らした。
「ここが村の中心部か」
「だろうな」
真壁も青井の隣に並ぶと、上方を仰いで言った。巨大なクスノキ。幹には注連縄が巻かれている。
「これが村のシンボルなんだろうな」
青井はクスノキの周りを回って、注意深く調べている。真壁は今しがた懐いたポッポを指先で撫でてやっていた。
「おい、真壁!」
青井が大声を出した。手招きしている。真壁は急いで戻った。
「どうした?」
「これ見ろよ」
青井が懐中電灯で照らしたものを見る。『エリナ』『マイコ』『カヨ』と、クスノキの肌に彫りつけてあった。
「どこの世界にも、こういう傷を付ける馬鹿はいるらしい」
「でもってこれだよ」
青井が懐中電灯を動かした先には、エリナマイコカヨがこの村を訪れた年月日らしきものが彫られていた。
「昨日の日付だ。いや、この世界じゃ時間の流れが分かんねえな。とにかく、俺たちがこの村に来た時の日付だ」
青井は立ち上がる。「どういうことかな」
ポッポは飛び上がると、真壁の上空をくるくると飛び回って、くるっぽーと鳴いた。
真壁は木に付けられた落書きを見る。
「ここだけ時空を越えた、ってことか?」
この村は一体、どうなってるんだ。
〜
中層と下層を繋ぐ階段は短かった。海原はさっさと石段を降りると、右腕の包帯を外し始めた。包帯は真っ赤に染まっていた。右腕も、血がべったりと貼り付いている。
「困ったな」
「何が?」
海原のものではない、変声期前の少年のような声がした。声の主は、海原の肩から顔を出す。メタモンのミームだ。
「うわあ、酷い。あのバカマキリ」
「人のポケモンを悪く言うもんじゃない」
海原はメタモンが喋り出したことは気にせず、自分の右腕を押さえた。「やっぱり、血が止まらない」
「じゃ、僕が止血するよ」
メタモンが言った。そして、自分の体を平べったくして、くるりと海原の腕に巻き付く。しばらく巻き方を模索していたが、やがて動きを落ち着かせると、紫の一反木綿のような格好のまま、こう言った。
「変だね。自然治癒力が働いてないみたい。仕方ないから、管で太い静脈を繋いどくよ」
「ありがとな」
「こんな芸当できるメタモンって僕だけだと思うから、もっと感謝してね」
「その減らず口を治したら考えてやる」
それからメタモンは体を伸ばすと、その一部分を懐中電灯に変化させた。懐中電灯部分を海原が持つ。そして、周囲を照らした。
「明かりがあると、違うな」
「同時に包帯にも懐中電灯になれる、そんな素敵な僕に掛ける言葉ってもっと他にない?」
「この状態でも喋り続けるお前に吃驚するよ」
軽口を叩きながら、海原は残りの変身回数のことを考えていた。行きに一回、空き家で一回、ここで二回、あと六回だ。
村の下層部分を、懐中電灯の光で照らす。真壁が言っていた通り、田畑が主らしい。農作業に従事する人の住居か、あるいは作業小屋か、家らしき物もいくつか見える。海原は農道を歩き出した。田畑に光を当てる。
「うわあ、酷い。枯れてるよ」
メタモンが声を上げた。
海原は田んぼだか畑だかに降りて、しゃがみ込んだ。規則正しく、同じ種類の植物が植えられている。何かの苗だろうか。どれも瑞々しく、枯れている状態とは程遠い。
「これ、何だ? ネギ?」
「稲だよ」
海原の質問に、メタモンが答えた。そして、「ああ」と合点したように声を上げて、こう言った。
「水が枯れてるんだよ。ここ、田んぼなのに」
海原は立ち上がると、先へ進んだ。今度は海原にも一目で畑と分かる区画に出た。規則正しく立てた支柱に、何かの植物が絡み付いていた。これも触ってみるが、瑞々しい。しかし、実は付けていなかった。
「時間が止まってるから、成長もしないし、実も付けないんだろうな」
「そうだね」
メタモンが頷く。水が枯れたのは、時間が止まって、水が流れなくなった為だろうか。
「人間はどうするのかな」お喋りなメタモンがまた口を開いた。
「この状況を見る限り、成長や老化はしないだろうね。その為のエネルギーも必要ない。でも、運動した時に消費するエネルギーはどうしようもないからね。僕らポケモンは小さくなってボングリの中とかに逃げ込めばいいんだけど。エネルギーが賄えないから、出られなくなるけど、死ぬよりマシ」
そこまで一息に言った後、メタモンはまたもや喋り出した。
「ああ、だからさっき傷が治らなかったんだね。傷が出来た状態で、時が止まってたんだ。出来れば、傷が出来る前の状態で時に止まってほしかったね」
海原は黙って頷いた。田んぼや畑の傍に建っていた小屋の中も調べてみたが、ごく普通に農作業の道具が置かれていた他は、何もなかった。海原が小屋を調べている間も、メタモンはずっと喋り続けていた。その大半を聞き流す。外に出ると、先程と変わらない景色が立ち現れる。枯れることはないが、実ることもない植物の群落。そして晶子のことを考えた。例えば彼女がずっと美しいままでいるからといって、好きになれるだろうか。海原はかぶりを振る。それはない。海原は、草花が枯れ、実る度に、悲しみ、喜ぶ彼女のことが。そこまで考えて、海原は「手がかりらしいのはないな」と口に出す。さっさと今しがた考えたことを振り払って歩き出した。
「あ、あれ、見て」
メタモンが懐中電灯を海原の手から奪い取って、別方向に向けた。
「井戸だ」
「水が枯れてるから、何か見つかるかも」
海原は頷くと、井戸に歩み寄った。メタモンが懐中電灯を井戸の中に向けるが、深すぎてよく見えない。
井戸の中に足場があった。梯子の段のように作られたそれを使い、井戸の底に下りる。枯れ井戸にかつて水を運んでいた道が、ぽっかりと口を開けていた。海原にも楽々通れそうだ。海原は井戸の中の道を少し見た後、井戸の底に落ちた物を改めた。しかし、誰かの食べ残しや、落としたハンカチに煙草の吸殻くらいしか見つからなかった。海原は懐中電灯を持ち直して、井戸の道を進み出す。
水は枯れているが、やはり井戸らしい。じめじめした感じが、肌にまとわりつく。
井戸から差し込んでいた月の光は間もなく見えなくなって、頼れるのは懐中電灯の光だけになった。引き伸ばされた楕円状の光を見つめて、歩く。後ろには闇ばかりが残る。重苦しい道をひたすら進むと、唐突にそれが現れた。
「紙?」
それも、一枚や二枚ではない。
地面から拾い上げようとしたが、紙がふやけていて、触るだけで破れてしまう。拾うことは諦めて、紙に書いてある内容を読むことにした。海原が来た方向からでは逆さまで読み辛いので、一度飛び越えて、それから読み始めた。
「死ね、出てけ、間男」
「一々音読しなくていい」
それから、海原は地面に散らばった紙を、出来る限り解読してみることにした。
ほとんどが単純な罵詈雑言だ。死ね、出てけ、殺すぞが多い。間男、ふしだら、阿婆擦れという言葉もあった。浮気に気付いた誰かが、浮気した伴侶とその浮気相手をひたすらに罵りながら、出て行けと喚いている。そんな印象を持った。
海原はさらに懐中電灯の光を動かす。他のより細かい字がびっしりならんだ紙を発見した。その冒頭を読んで、海原は眉を顰める。
「時の巫女は私にだけ仕えていればいい。他の男に心を寄せるなど言語道断」
「音読はしなくていいんじゃなかったの?」
軽口を叩くメタモンを無視して、海原はその細かく書かれた紙の方に一歩踏み出した。その時に、懐中電灯が紙以外の異質なものを照らしだした。
海原は指先でその物体を突いた。茶色く朽ち果てているが、どうやら木片のようだ。今度は手を伸ばして持ち上げてみる。木の繊維の走り方が、途中で交錯している。木でパーツを作って、後で組み合わせた物らしい。長い間ここに置かれて、腐ってしまったようだ。そう考えて、すぐにおかしなことに気付く。この村で、物が朽ち果てることなどないはずだ。その証拠に、目の前の紙は濡れているものの、きちんと原型を保っている。
海原は木片を叩いた。叩いた場所から、ボロボロと破片になって崩れていく。
「クスノキだね」
メタモンが言った。
「クスノキ?」
「そう。その木片」
海原は木片をしばらく眺めた後、紙の解読に戻った。しかし、せっかく見つけた細かい字の書かれた紙も、同じようなことが延々書かれているだけで、大した収獲はなかった。
しかし、セレビィが時の巫女に思いを寄せ、その巫女が男と逃げようとした為、激しく怒ったというのだけは分かった。そして、この道を使って出奔しようとしたところを取り押さえたのだろう。
また別の紙が見つかった。『私とずっと一緒にいましょう』『老いも死も恐れることはありません、ずっと一緒』
「うへえ」
メタモンが身震いした。
「今まで見た中で、最悪の口説き文句だよ」
「そうだな」
巫女の方は連れ戻されたのだろう。
これ以上、ここにいても収獲はなさそうだ。そう判断して、海原は立ち上がる。少し目眩がした。紙を飛び越えて進む。その刹那、バン、と音がして、目の前に白い紙が現れた。立ち竦む間に、白い紙に、文字が浮かび上がる。
『今度もまた引き裂く気ですか』
真っ赤な字。
紙は水平に傾くと、海原の喉目掛けて真っ直ぐ飛んできた。横道の壁に、体ごとぶつかるようにして紙の進路から逃げた。赤い文字で染まった紙は海原を通り過ぎると、失速して地面に落ちる。
紙が飛んできた方向に懐中電灯を向ける。挿絵でしか見たことがない、幻のポケモンがそこにいた。
「なんだよ、今度もまたって。今まで引き裂かれたのもお前が悪いんだろうが!」
メタモンが高い声で騒いだ。
『黙れ。お前たちの言葉を聞く耳はありません』
再び赤い文字の浮かんだ紙が現れ、海原に飛びかかる。メタモンは懐中電灯の部位を、素早くブラッキーの頭に入れ替えた。そして、サイコキネシスで紙を撃ち落とす。フラッシュで明かりも絶えず、便利だが、極めて気持ち悪い。
『化け物め。だがここでお前たちの道を断つ』
「お前の行動の方がよっぽど化け物じみてるだろ!」
再び紙を撃ち落とす。
「晶子をどうして連れてった」
海原が聞く。
『殺すぞ』
その紙も撃ち落とされた。反動でブラッキーの頭がふらつく。海原が手を差し出して、メタモンを支えた。それを見たセレビィが、まるで口が裂けているかのように、ニタリと笑った。
何が起きたのか、全く分からなかった。気付いたら、セレビィが二匹向かい合っていた。片方はメタモンが変身したものだろう。
『思ったより厄介でした。私はここで一旦退きます』
『だが、お前たちの道は断つ』
セレビィは紙を残して、姿を消した。二枚の紙はセレビィが消えると同時に、地面に落ちた。
さっきのは何だったのだろう。右腕の傷を押さえて、今はセレビィの姿をしたメタモンの方へ、一歩進む。何かを踏みつけた。海原はそれを拾い上げて、ポケットに入れた。
「まずい、走って!」
メタモンが叫んだ。海原はその場から前に飛んだ。遅れてメタモンも海原の隣に滑り込む。その直後、鈍い振動が地面を走った。後ろを振り返ると、木の根ががっちりと組み合わさって、井戸の道を塞いでいた。
「危なかった」
メタモンが呟く。それからセレビィの変身を解くと、包帯と懐中電灯の姿に変身した。あと二回。海原は呟いた。
「さっき、あのセレビィ、時間を止めたよ、一瞬」
メタモンは戻る道すがら、さっきのセレビィとの戦闘について喋っていた。
「僕がブラッキーだったからかな。効くのが遅かったから、咄嗟にセレビィに変身してあいつを攻撃したんだ」
井戸に戻ると、梯子の段が全て落とされていた。メタモンがフワンテに変身して井戸を出る。月明かりを頼りにして歩く。あと一回。
中層と下層を繋ぐ石段に戻ると、石段が通れなくなっていた。
変身しようとしたメタモンを、海原が止めた。
「なんで?」
「もう一つ、変身してほしいものがある。今はいい」
「って言っても。登れないよ?」
メタモンの言葉で、海原は石段の方向を見た。石段の入り口が、木の根のバリケードで塞がれていた。そのバリケードが、かなり高い。横の斜面もほぼ崖みたいなものだ。道具がないと登れない。石段はその崖に切り込むように作ってあるので、石段を登りたければ、まず、木の根のバリケードを何とかして越えるしかない。
手を掛けてみる。取っ掛かりになる部分が全くと言っていい程なかった。
「ねえ、僕が変身した方が」
くるっぽ、と鳴き声がした。
くるっぽ、くるっぽ。月明かりではっきりと見えないが、どうやらポッポのようだ。ポッポは頻りにくるっぽと鳴くと、バリケードの向こうへ飛んでいった。そしてすぐに戻ってきた。ロープを持って。
「くるっぽ」
ポッポはバリケードの上に降り、ロープの一方を海原の方へ落とすと、もう一方をバリケードの向こう側に垂らした。海原はロープを手に取り、離す。ロープに結び目が作ってある。これなら、なんとか登れそうだ。
「あのポッポ、自分の鳴き声で位置把握して、月明かりでもぶつからないように飛んでるんだね。器用だね」
海原がメタモンの口を塞いだ。
「おい、海原、そこにいるのか?」
バリケードの向こうから、声が聞こえてきた。この声は青井だ。
「ああ」
「そっちは虱潰しに調べられたか」
真壁の声だ。
「ああ。そっちの首尾は」
「調べられる所は全部調べた」
再び、青井が答えた。
「そっちも調べたんならロープ使って戻ってこい」
「そうする」
海原は近くの木にロープを結び付けると、結び目に足を掛けて登った。バリケードを登り切ると、今度は滑り落ちるようにして向こうに降りた。
「ったく、危ねえよ!」
ロープを支えていた青井が、手を離して飛び退いた。
「ま、今回は許してやる。それで、何か分かったか」
「ああ」
バサバサと羽音がした。くるっぽ、と声がして、真壁の肩にポッポが停まった。よく見ると、右足に紙を結び付けてある。伝書ポッポだろう。
「そいつ、捕まえたのか?」
「まだ捕まえてはない。予約済みだ」
真壁がポッポを撫でる。「そうか」海原は口元を緩めた。
「それで、そっちは何か掴めたか?」
「おう、勿論だ」
青井は快活に笑ってみせると、石段を登り始めた。海原も後を追う。真壁が途中で切れたロープを回収して、最後に続いた。
三人は最初に投宿した民家に戻って、晶子の荷物を回収した。そしてそこで、今まで集めた情報を突き合わせる。
海原の話を聞いた真壁が、話をまとめた。
「つまりだ。二十年前、時の巫女と勇士が恋仲になった。ところが、時の巫女はセレビィに惚れられていて、その恋は許されそうもなかった。そこで、巫女と勇士は駆け落ちを企てた。
だが、その駆け落ちの計画がセレビィに知られてしまう。巫女と勇士は抜け道でセレビィに出くわした。勇士は聖剣でセレビィを調伏しようとしたが、返り討ちに合い、村から追放。巫女は連れ戻され、セレビィが時を止めた村に監禁された」
「でも、その後、巫女はこの村からいなくなった。逃げたか、死んだか。だからセレビィは時の巫女の代わりに、晶子を攫った」
海原が後を引き継ぐ。
「きっとそんなところだな」
青井がまとめた。
「聖剣のことは分からず仕舞いか?」
青井が困ったように海原の方を見た。海原はポケモンたちを見ていた。ストライクは相変わらずメタモンにご執心のようだ。海原の右腕をジロジロ見ている。ポッポは真壁の隣に、大人しくチョコンと座っていた。
「心当たりはある」
海原は少し躊躇ってから、そう切り出した。青井は海原の態度を気にせず、身を乗り出した。
「そうか。じゃあ早速聖剣でセレビィを」
「聖剣を持ってるわけじゃない。どういう物か推定しただけだ」
青井の言葉を遮る。ストライクを追い払ってから、海原はポツリと推定を口にした。
「クスノキで出来た剣だと思う」
「木剣ってことか?」
青井の問いに、海原は頷いた。真壁が「そうか」と呟く。
「村の中心にあったクスノキには昨日の日付が彫ってあった。クスノキだけはセレビィの力の影響を受けないんだろう。木のアクセサリーとか、俺が壊した椅子とか」
「壊した椅子?」
海原がオウム返しに尋ねると、真壁は「そんなことはどうでもいい」と言って続けた。
「クスノキで作った物は、年月相応に朽ちていったんだ。だから、クスノキで作った剣を使うと」
そこまで言って、真壁は首を傾げた。
「どうなるんだ」
「さあ。ただ、井戸の底の抜け道に、クスノキの木片が落ちてた」
青井が苛ついたように床を叩いた。
「それが聖剣だって保証は?」
「ない。全部俺の推測だ」
三人の間に、静寂が降りた。
メタモンの変身は、あと一回しか出来ない。その一回で正しい聖剣になれなければ、最悪、この世界で死ぬまで彷徨うことになる。慎重にならざるを得ないのは、当たり前だった。
「文句付けるわけじゃねえけど、失敗した人の剣ではなあ」青井がボソッと言った。
「そうだな」海原は大人しく同意した。
海原は立ち上がると、部屋の端へ行った。そして、今度は壁にもたれるようにして座り込んだ。その拍子に、ポケットの中の物が腰に当たった。
「調子悪いのか?」
「いいや」
真壁に生返事を寄越して、海原は自分のポケットの中にあった物を取り出した。出してから、これはどこで拾った物かと考える。
「それは?」
「確か、井戸の底で拾ったやつだ」
海原はそれを床に置いた。手の平に収まるくらいの、小さな容れ物。丸い瓶のような形で、短い口の部分には固く栓をしてあった。細い筆で、四季折々の風景が描き込まれている。
青井が手を伸ばして、瓶の封印を外そうとした。しかし、全く歯が立たず、真壁に渡した。真壁も挑戦してみるが、一度やって諦めた。真壁は瓶を床に置くと、「これはあれじゃないか」と言った。
「あれ、って何だ?」
青井が聞く。
「ほら、モンスターボールだよ」
真壁はそう言って、説明を始めた。
「モンスターボールって、プラスチック製とボングリ製以外にも、色々あるんだよ。陶器製とかガラス製とか。強いポケモンを捕まえるのに、鉄製のモンスターボールがいいと信じられてた時代もあった。それは迷信だけど。職人が作った陶器製のモンスターボールが貴族の間で流行して、一種のステータスとされてたこともある。これもそういうモンスターボールの一種じゃないか」
「これがモンスターボール」
青井は疑うように小瓶を見た。
「投げたら割れそうだけどな」
「うん、だから、投擲には向かない。そういうのは大体見せびらかす用とか、祭事用だから」
青井はまだ疑うように小瓶を見ていた。海原も、これがにわかにモンスターボールの一種だとは信じられなかった。
「中からポケモンが出てくりゃ、信じられるんだけどな」
青井はもう一度栓を抜こうとして、諦めた。
「時間が止まってるから、ポケモンはモンスターボールの外に出られない」
海原が言った。「ああ、そうだった」と青井が頭を掻いた。
「でも、中にどういうポケモンが入ってるか、気になるなあ」
「それは、確かに」
青井の言葉に、真壁が同意した。
「井戸の抜け道にあったんだろ? 巫女か勇士のポケモンだとしたら、この村の伝承に縁のあるポケモンかもしれないじゃないか」
「俺はそんなに深い意味があって言ったんじゃないけどな」
再び静寂が訪れた。三人とも、小瓶を見つめている。四季折々の景色が、細かく描き込まれた小瓶。
「お守り」ふと海原が呟いた。青井が不可思議そうに海原を見る。
「時の勇士の方の家に、メモ書きみたいにして書いて置いてあったんだよ。それがどうかしたか?」
海原は再び黙り込んだ。そして、ゆっくり、自分の考えを整理するように話し出す。
「どうも俺は、根本的に間違ってたらしい」
そして、青い目で二人を見た。
「村の神様を倒す方法なんて、観光案内に書くはずがなかったんだよ。青井が正しかった」
三人は再び鳥居の前まで来た。
小さな木片を青井が宙に投げ上げた。そして、戻ってきたそれを受け止める。
「本当に、これで大丈夫なのか?」
海原は「多分」と小さな声で答えた。
「何だ、頼りねえなあ」
「だったら、青井はここで待っておけば」
いつものように、淡々とした口調で海原が言う。青井が大仰に顔をしかめた。
「おいおい、お前一人に持ってかれちゃたまんねえぜ」
「死なば諸共だ」と真壁も笑顔で言ってのけた。
「真壁、それは意味が違う……」
「で、バルキリーがここを通る方法だが」
真壁は鳥居を見上げた。
「いざとなったら、バルキリー抜きで挑むしかないな」
青井が渋面を作った。
「出来れば、それは避けたい」
海原が呟く。
その時、真壁の肩に乗っていたポッポがくるっぽ、と鳴いた。
「どうした?」
真壁の問いに答えるように、くるっぽ、くるっぽと鳴きながら、ポッポは鳥居の上に飛び上がった。そして、何かを爪で引き裂いた。
頭上から紙片が降ってくる。
ストライクが前に進んだ。そして、難なく鳥居をくぐる。
「一体、どういう手品だ?」
青井が不思議そうにポッポを見上げた。ポッポは一声鳴くと、大きな紙片を掴んで真壁の所へ飛んで戻った。紙片には、奇妙な模様が描かれている。
「これが虫除けの御札だったってことかな」
ポッポは肯定するように鳴いた。
「ともかく、これで三対一だ。セレビィを懲らしめて、アキちゃんを連れて元の世界に戻ろう」
青井が拳を自分の手の平に打ち付けた。残りの二人も頷いた。
ストライクを先頭に、石段を登る。登り切ると、ごくありふれた神社らしい、拝殿が目に入った。入ってすぐ横には手水舎がある。左右にある建物は、お守りを買ったり、納めたりする所だろうか。狛犬の類はないようだ。
海原は拝殿の前まで進んで、周囲を見回した。晶子はどこにいるだろうか。
「おい、何やってんだよ?」
青井が声を荒げた。
海原が声のした方を見た。真壁が手水舎を覗き込んでいる。
「一応神社だから身を清めようと思ったんだが、肝心の水がない」
「馬鹿かお前。これから退治するってのに」
青井が大仰に肩を竦めた。
「戦の前でも、礼儀は大事だぜ。仕方ないから、賽銭だけで勘弁してもらおう」
そう言って、真壁は海原の隣に立つと、アルミ硬貨を賽銭箱に放り込んだ。鈴を鳴らす。
「どこぞの傍迷惑な神様をはっ倒せますように」
「願い事は口に出すもんじゃない」
「もう知らねえ、お前らは勝手にしろ!」
青井が叫んだ。だが、顔が笑っている。真壁も愉快げにニヤリと笑った。
『おや、随分丁寧ではありませんか』
ふわり、と白い紙が舞った。三人に緊張が走る。紙に書き付けられた文字は、今はまだ黒色だ。
『お相手致しましょう。どうぞ中へ』
二枚目の紙が、拝殿の横を回って奥へと飛んでいく。海原は二人の顔を見た。
「どうした、今更怖くなったんなら、留守番でもいいぜ」
青井が快活に笑った。
「いや、いい」
海原は頷くと、「行こう」と言った。
「言われなくとも」真壁が答えた。
拝殿の向こう側には、思いがけず広い空間が広がっていた。茶色い地面が顕になった四角い庭には、白い縄で四角い線が引かれており、ちょっとしたバトルフィールドになっているようだった。そのバトルフィールドの向こうの本殿に、彼女がいた。
「おおい、アキちゃん!」
青井が早速手を振る。「アキちゃん?」二度目は疑惑に満ちた声音となった。
晶子は青井の声に、全く反応しなかった。それどころか、身動ぎさえしない。晶子は困ったような、寂しそうな笑みを浮かべたまま、止まっていた。
アキちゃん、と叫びながら青井が本殿に向かって走り出した。その道をセレビィが遮った。
『鬱陶しいですよ』
青井の顔スレスレに、紙が飛んだ。
「おい、どういうことだ。彼女に何をした」
青井がセレビィに噛み付く。セレビィはそんな青井には頓着せず、固まったままの晶子にすっと近付くと、その頬に手を添えた。
『あなた方の想い人は、私がお預かり致しました。彼女こそ理想の女性、最初からこうすれば良かった』
真壁が手帳を取り出して、何か書き付けた。そして、そのページをセレビィに見せる。セレビィは晶子の隣から動かず、ただ少し目を細めた。また別の紙が出現する。
『彼女の時を完全に止めさせて貰いました。これで、死に別れることも、老いや空腹を恐れることもありません。前の巫女は耐え難い空腹を味あわせた挙句、手放してしまいましたが』
「手放した?」
青井が叫ぶ。セレビィは青井の方を見ていたが、口の動きで察したらしく、紙に続きを書き出した。
『この村より追放しました。その際、なんらかの形で戻ると約定しました故、こうして待っておりました』
腑に落ちない、と思った。海原は真壁を見た。同じように思っているらしいと見てとれた。
『彼女は戻りませんでしたが、約束は約束。この女性を身代わりとして、私の理想の村の完成とすることに致します。だがしかしそれには』
『あなた方三人が邪魔だ』
字が赤く染まった。
『一度目は聖剣で、二度目は飢餓で引き離されましたが、三度目の今、最早私たちを引き裂くものは存在しません』
セレビィがバトルフィールドに躍り出た。
『クスノキの守りを身に着けているようですが、圧倒的な力の前に、そのような小細工は意味を為さぬもの。あなた方には森の腐葉土と消えて頂きます』
「二度あることは三度あるってな。バルキリー!」
青井が威勢良く叫んだ。ストライクが飛ぶ。セレビィに距離を詰めて、両の鎌を袈裟懸けに振り抜いた。シザークロス。
「やったか?」
「いや、避けられてる」
真壁はポッポを腕に停まらせたまま、上空を注視した。海原は歯を食いしばって、腕を押さえた。
「上だ」
ストライクが上空に向けて威嚇の声を上げた。セレビィは、ストライクが届かない高みから、じっと見下ろしていた。
『かつての聖剣と同じ種のポケモンなら勝てるとでも? 私も敗北から学ぶのですよ』
セレビィの周囲を取り巻くように、純白の結晶体が発生した。水晶のような形のそれは、切っ先をストライクに向けて一直線に飛んだ。
原始の力――ストライクの弱点を突く技だ。食らえば重い。ストライクは両腕の鎌を振るって、原始の力の軌道を逸らした。セレビィが地面まで一気に降下して、地面スレスレで二撃目を放つ。
その技の軌道を追って、海原が叫んだ。
「青井!」
ストライクが上空に飛んで躱そうとして、その場に踏みとどまった。セレビィ、ストライク、青井と一直線に並んでいた。これでは躱せない。
原始の力が容赦なくストライクの体を弾き飛ばした。
「バルキリー、ごめん」
青井がストライクの横に片膝を付く。その顔の横にセレビィが現れた。セレビィが青井のこめかみに手をやった。と思うやいなや、青井がストライクと同じようにドサリと倒れた。
「何しやがった」
セレビィには聞こえていない。そもそも耳が聞こえないのだ。そう分かっていても、海原の思いは声に出た。
『祈り虫は大人しく、私に跪けば良いのです』
セレビィは海原の叫びなど一顧だにしない。そして、再び飛び上がった。
『今度はあなたですよ』
セレビィは真っ直ぐ真壁とポッポの元へ飛んで行った。真壁はポッポを放すと、両手を上げる。
セレビィは真壁の数メートル手前で止まった。
『あなたは物分かりが良いようだ』
そして踵を返すと、今度は海原の方へ向かってきた。
『おや? あの厄介なメタモンはどうしたのですか? いえ、答えなくて構いません』
セレビィは紙にそう書き出しつつ、愉悦の笑みを浮かべる。
『あなた、そのままでは失血死しますよ。それを待つのも心楽しいですが、そう』
『冥土の土産に、一つ、面白い話をしましょう』
セレビィは宙でくるりと回った。いつの間にか、紙の字も赤から黒へと戻っている。
『私の力がクスノキに通じないことは、もうご存知ですね? クスノキは私の力の源、いわば私の母。子が母に逆らえぬように、私の時を操る力はクスノキには掻き消されてしまうのです』
ふわりともう一枚紙がやってきた。
『それはいかなる場合も同じ。私がどんなに強い術を掛けて時を止めたとしても、クスノキの守りの前には無効化されてしまいます。では、どうしても時を止めたい者がいる場合、どうするか』
セレビィが猟奇的な視線を本殿へ向けた。
『その者に触れぬよう、結界を施すのですよ。この表六めが!』
破裂音がして、メタモンが舞い上がった。その手からクスノキの木片が落ちる。メタモンも続けて地面に落ちた。
『さて、舐めくさった真似をしてくれたあなたには、選択肢をあげましょう』
セレビィが再び海原の方を見た。
『今すぐ地獄に落ちるか』
「サイハテ、フリーフォール」
『苦しみ抜いて死ぬか』
海原は動揺を消してセレビィを見た。真壁の奴、何しれっと指示出してるんだ。あと、いつの間にポッポに名前を付けたんだ。
ポッポのサイハテは、突然セレビィの頭上に現れたかのように感じた。細身の鞘入りの剣を持ったまま、セレビィの頭も掴むと、そのまま地面に落下した。そして、剣を海原の方向に飛ばすと、素早く空へと舞い戻った。
セレビィが起き上がって、ポッポを見た。セレビィが飛び出す前に、海原は鞘を払って、セレビィを一打ちした。
『死ね』
赤文字で描かれる。
「やだね」と海原は呟いた。
海原は地面に伸びたままのメタモンを見た。
「おい、ミーム! 起きてるならさっさと変身しろ!」
メタモンはピクリとも動かない。起きているのか、伸びているのか。
海原は剣を右手で持って、右半身をセレビィに向けた。晶子の時間が止まったままなのが悔やまれる。彼女が動いていれば、きっとセレビィだって説得できると思ったのだが。
いや違う、と思った。判断ミスだ。どうしても彼女を助けたかった。
起こらなかった可能性より、今目の前のことだ。海原は剣を構えたまま、後ろに下がった。ストライク抜きで、セレビィを調伏しなければならない。その為に、ポッポ一匹以外に何が必要か。セレビィを確実に倒せるポケモンに、メタモンを変身させなければ。
「サイハテ、エアスラッシュ」
がら空きになっていたセレビィの背を、空気の刃が叩いた。セレビィが怯んだ隙に、間合いを詰めて突いた。その間にポッポが距離を取る。このままヒットアンドアウェイで倒せれば。そう思った矢先に、セレビィの体が光に包まれる。自己再生。僅かに与えたダメージも無に帰した。
「もう一度エアスラッシュ」
真壁の声に従って、ポッポが羽を振り上げる。羽を振り下ろすポッポを見据えて、セレビィは虚空から葉っぱを生み出すと、それにふうと息を吹きかけた。葉っぱはセレビィが手を離すと、ポッポへと飛んだ。向かってくる風の刃をすいすいと躱しながら。セレビィが飛ぶように複雑な動きをする葉っぱ――マジカルリーフは、ポッポの元へ難なく到達し、お守りとポッポを繋ぐ糸を切った。
セレビィが笑った。
『時よ止まれ』
ポッポが空中でピタリと止まる。そして、為す術なくセレビィから念力を食らって落下した。真壁が落下点に滑り込んで受け止めた。セレビィが海原を見た。
剣を左手に持ち替える。血が止まらない。感覚が消える、その前に。メタモンを何に変身させればいい。この状況から、逆転王手を打てるもの。考え出さなければならない。トレーナーなら。
セレビィの目が妖しく光った。念力の発動サイン。そうだ、簡単なことだ。
海原は右手を柄頭に添えると、セレビィ目掛けて一気に振り下ろした。セレビィが体を逸らす。外した。
「ミーム、セレビィに変身しろ!」
直後、肺が詰まったような感覚がして、咳き込む。地面に剣を突いた。
〜
頭が痛いと思ったら気絶していた。先鋒を務めてこれとは情けない。
青井はストライクの頬を叩いた。シュウ、と元気のない返事が返ってくる。戦えないだけで命に別状はなさそうだ。ひとまず胸を撫で下ろした。
しかし、問題は解決していない。セレビィは未だピンピンしている。セレビィが、海原に原始の力で止めを刺そうとしていた。その背後で光が弾ける。セレビィが後ろを向いた。光の中から飛び出した者に、驚愕の目を向ける。宙空から紙を取り出した。
『紛い物め、恥を知れ』
セレビィの殺意の籠った視線を受けて、セレビィは――メタモンは、楽しげに笑って宙空から紙を取り出した。
『その紛い物に今から負けるんだよ』
紙が凶器のように飛び出した。二枚とも、メタモンを狙って飛ぶ。しかし、メタモンは飛行術一つだけで、紙を躱してセレビィにそれを掠らせた。
『二十年も頭が停滞してたんじゃ、僕の動きは革新的すぎて付いてこれないかな?』
『若輩者め。私の真の力を思い知りなさい』
メタモンの動きが、寸の間止まる。しかし、すぐにセレビィの力を振り払って飛び上がった。セレビィの原始の力を見事に躱す。恐らくあれは、躱すことに専念している動き方だ。
ひゅう、と口笛を吹く。青井の目の前に、白い紙が降ってきた。
『天才メタモンの僕でも、セレビィの力をすぐにコピーするのは難しいから、僕が時間稼ぎしてる間に、僕の大事なご主人様の手当てでもしといてください。どうせ暇だろ。ミームより』
青井は紙を握り潰した。手当てはするが、一体どういう育て方をしたらこんな性格の悪いポケモンになるのか後で問い質さねばなるまい。
海原は、朦朧としているものの意識はあるらしかった。握ったままの剣から、手を引き剥がす。その瞬間、剣が地面から抜けて、空へ飛んでいった。危ねえよ、と思わず呟く。海原の右腕に包帯を適当に巻いてから、青井は空を見上げた。
『白熱の攻防戦ってやつだね、これは! と思ったけど、じいさんが一人で勝手に白熱してるだけだった』
メタモンは次々に言葉を叩きつけては、セレビィを怒らせている。放たれた原始の力を、同士討ちに持ち込んで自壊させる。それにセレビィが気を取られている内に、背後から剣を念力で操って強打。大量の紙が念力で巻き上げられ、メタモンに襲いかかる。メタモンは目を細めると、避けに集中した。しかし、周りを取り囲まれる。どうやってこの場を切り抜けるのかと思ったら、念力で強行突破を仕掛けた。
メタモンが本殿に飛び込む。晶子の両肩に手を置いた。目が醒めたみたいに、晶子が顔を上げる。メタモンは再びセレビィと同じ高さまで上昇した。
『さてどうする? 愛しの眠り姫が起きちゃったよ?』
『紛い物の力なんて上塗りしてやりましょう。これ以上邪魔はさせません』
『邪魔だって? 僕が正道だろ』
再び二匹は空中戦に突入した。しかし、この調子では決着が付かないだろう。一体メタモンはどうするつもりだ、と青井が考えていると、突然話しかけられた。
「ねえ、青井さん」
「おお、アキちゃん」
「ポケモン、出せるようになってるわ」
普段よりいくらか暗い表情で、晶子はそう言った。彼女の後ろに、ヘルガーとエーフィが控えている。彼女の意図が読めなくて、青井はただ「良かったな」としか言えなかった。
「青井さん、ちょっとだけフレちゃん貸してくれる?」
晶子の様子に違和感を感じながら、青井は言われた通り、ガーディのボールを晶子に渡した。彼女の意図を知ったのは、ボールを渡した後だ。
「ちょっとお灸を据えるわ」
そう言って彼女はガーディを出すと、テキパキと指示を出した。
「ヘル、大文字。フレちゃん、オーバーヒート。サンはヘルに手助け」
ヘルガーとガーディの二匹が腔内に炎を溜める。エーフィが額の宝玉をヘルガーの首に押し当てる。ヘルガーの火力が目に見えて増した。
「ミーム!」
晶子は上空にいるメタモンの名前を呼ぶと、飛ぶべき道筋を指し示す。メタモンが針路を変え、セレビィもそれを追う。メタモンが三匹の目の前を、垂直に降下する。セレビィがそれを追って降下した。セレビィがピタリと止まる。
「時よ止まれ」メタモンがニヤリと笑う。二匹の炎犬から解き放たれた業火が襲った。
セレビィがポトリと落ちる。晶子はセレビィを抱えると、「じゃ、私が勝ったから言うこと聞いてくれる?」とセレビィに問うた。
セレビィは黙って頷く。なるほど、これが調伏かと青井は思った。晶子はセレビィの耳が聞こえないことを忘れているようだが、セレビィは晶子に完全に気圧されていた。
「まず、私たちを元の世界に返すこと」
セレビィは頷いた。
「それから、こんな風に人を傷付けないで。私の大事な人を傷付けられて、私、すっごく悲しかった」
晶子はセレビィの目を見て話す。セレビィはコクコクと頷いた。そして、ややあって、紙を取り出した。
『不老不死をもたらす力。これで喜んでもらえると思った』
晶子はパチパチと瞬きして紙を見つめた。
「ごめんなさい」
そう言うと、ここまで運ばれてきた自分の荷物の中から、手帳とペンを取り出して、さっき言ったことを書き付けた。それをセレビィに見せてから、続きにこう書き付けた。
『きっと、それは使い方を間違えてる。私は嬉しくなかった』
セレビィは触覚を垂れ下げると、フラフラとバトルフィールドの中央に飛んだ。ポトリと地面に落ち、本殿に手を翳す。すると、本殿から光が溢れてきた。あそこから帰れるのだろう。
青井は海原に肩を貸して、立ち上がらせた。こんなにボロボロになったのに、悪役があんなにしょぼくれてるんじゃ、報われないよなあ、と青井は思った。
青井と海原は本殿に踏み込んだ。床も壁も天井も光っていて、上下左右の境目のない部屋に入り込んだかのようだ。青井は海原を床に下ろした。メタモンの姿に戻ったミームが続けて入り、海原の傍に走り寄った。続いて、青井のガーディとストライクが来る。真壁も来る。晶子のヘルガーとエーフィが来て、それから晶子が本殿に入った。
「さよなら、セレビィ」
晶子が小さく呟いた。その言葉はセレビィには聞こえない。
不意に羽音がした。真壁のポッポが、セレビィの目の前に降り、そして、足に括りつけられた手紙を差し出した。
セレビィは腕を伸ばし、小さな手で不器用に手紙を外した。クシャクシャになったそれを広げ、読み出す。セレビィの大きな目に、みるみる涙が溢れてきた。
ポッポが飛び立って、真壁の胸元に飛び込んだ。光が強くなる。扉が閉まる。閉じかけた扉の隙間から、一枚の紙が飛び込んできた。
『彼女は約束を守ってくれた。心はここに帰ってきてくれた。だから、ごめんなさい。ありがとう。私からあなた方に、時と森の祝福を』
目の前が真っ白になって、見えなくなった。
〜
観音開きの扉を開けて、外に出た。陽の光が、広い庭いっぱいに降り注いでいた。真壁の肩で、ポッポが嬉しそうに鳴いた。
「お日様がありがたく感じるな」
真壁はポッポを撫でる。さて、モンスターボールを買わないと、と呟く。
続いて晶子と青井が出てきた。続いて彼らのポケモンが出てくる。ストライクにメタモンが囁いているのが聞こえてきた。「な。異種間恋愛ってのはうまくいかないんだ」ストライクはそれを聞いて項垂れていた。誰が誰に種族の壁を越えて恋慕していたのだろうか。
最後に本堂から出てきた海原が、ポケットから何かを取り出した。彩色の美しい小瓶。変わり種のモンスターボールだ。時を止めた村から持ってきてしまったらしい。
「どうするんだ、それ?」
真壁が尋ねる。海原は黙って瓶の封印を解いた。時が流れている為か、瓶の蓋は簡単に外れて、中からポケモンが出現する時の光が出てきた。光が地上に触れて、弾ける。
「ストライクか。いい体してんな」
青井が興味ありげに言った。なるほどそれは、青井のよりも体が大きくて全体的にがっしりしたストライクだった。鎌も、白刃のように光っている。
「聖剣か、その子孫かもしれないな」
真壁が言った。
突然現れたストライクに、青井のストライクが反応した。いそいそと鎌を擦りながら近付いて、顔を寄せる。聖剣のストライクはぎょっと身を引くと、素早く羽を広げて飛んで逃げてしまった。
「何やってんだよ、バルキリー」
青井がストライクをボールに戻す。
「現金な奴」メタモンがごく小さな声で呟いた。
青井がガーディを、晶子がヘルガーとエーフィをそれぞれのボールに戻した。それから、二人が海原の方を見て言う。
「海原、大丈夫か?」
「海原くん、大丈夫?」
海原は頷いた。
「少し休めば」
「本当?」
腕の傷以外に外傷らしい外傷はないが、顔色が悪い。
「大体あれだ。真壁が海原に剣なんて渡すからだ」
「いや、サイハテが勝手に」
「真壁さん、そんなことしたの?」
晶子が怒った顔をする。そうなると、真壁も辛い。
「いや、そこに剣があるからといって、ポケモンと生身で戦おうとする奴がいるとは思わなかった、から」
「本当か? 何か証拠残ってねえか」
青井が真壁のリュックを無理矢理漁る。そして、テープレコーダーを引っ張り出してきた。
「証拠の音声が残ってるかもしれない」
そう言って、容赦なく巻き戻し、再生ボタンを押す。そのタイミングで、真壁がテープレコーダーを奪還した。
『なんで俺にだけああいう態度なんだろうな』
カセットテープから、青井の声が流れてきた。声の主が瞠目した。
『へえ、どういう態度だ?』『……他の奴は絶対庇ったりしないのにな』
「おいおい、ちょい待てこれ」
青井の顔が怒りで赤くなった。
「どういうことだ!?」
「あー、多分鞄の中で録音スイッチ入ってた」
『出来のいい同期で友人だよ。その上庇われて』
「だああああああ!!」
青井が叫びながら、真壁の手からテープレコーダーを奪い取った。停止ボタンを押す。
「消しとけ!」
青井がテープレコーダーを突き返す。
「今の、忘れるわ」
晶子が困ったように笑った。
「そうしてくれ」
青井はそう言ってから、海原の方を向いた。
「庇わないように善処する」
「いや、忘れてくれ」
青井が言った。
「あの、すいません」
若い女性の声がした。見ると、巫女装束に身を包んだ女性が、こちらを困ったように見つめていた。
「ここ、関係者以外立入禁止なので」
そう言いながら、彼女の目が海原の上で止まった。またか、と真壁は思った。
「失礼しました。山中で道に迷ってしまいまして」
海原が申し訳なさそうに言って、それから笑みを浮かべた。若い巫女はコロリと騙される。
「そうでしたか。時々あるんですよ。ほら、この神社って周りが森だから。あ、あの小道を下りて小川沿いに進んだら、この村の入り口に出られます。そこから下ればすぐ麓で」
「ありがとうございます。ご親切にどうも」
「旅のトレーナーさんですか?」
「そのようなものです」
あ、これは長引くぞ、と真壁は思った。案の定、若い巫女が話を続けた。
「旅のトレーナーが迷い込むことが多いので。あ、この村では、来月、時の感謝祭という祭事を行います。セレビィ様に会えるかもしれませんので、是非」
「ということは、君はセレビィ様に仕える巫女さん?」
見ていられないので、真壁が助け舟を出した。巫女さんはちょっと名残惜しそうに海原から目を離して、真壁の質問に答えた。
「はい。まだまだ至らぬ身ですが」
「間違ってたらごめん。だけど、巫女さんっていうことは、神様と結婚する、とか、している、ということかな」
巫女は少し考えてから、こう、笑って答えた。
「神社によって違いますが、この神社ではそうです。時の巫女はセレビィ様に身を捧げます」
「時の勇士の話は?」
「それは、セレビィ様が陰の気に当てられた時に、陰陽を正す存在で、婚姻とは関係ないです」
「ああ、なるほど。尋ねてくださってありがとう。最後に一つ、いいかな」
「はい、どうぞ」
「いずれは君は、セレビィ様のお嫁さんになるということ?」
巫女ははにかんで笑った。
「私は修行中ですので。でも、頑張ったらそうなるのかもしれません」
頬にほんのり赤みが差していた。幸せそうに笑うな、と真壁は思った。
「それでは、今度は是非表からいらしてくださいね」
「これは、道を教えてくれたお礼に」
海原が、何を思ったか、ついと進み出て巫女の手に握らせた。あの、四季折々が描き込まれたモンスターボールだった。
「偶然手に入れた品ですが、この地域に縁ある物だと思いますので」
そう、そつなく言う。
「ありがとうございます」巫女は変わり種のモンスターボールをしっかりと握りしめた。
若い時の巫女に見送られて、四人は小道を下りた。
「あのセレビィも、愛されてるんじゃない」
晶子がそう言った。
小川沿いに道を下って、四人は村の入り口を見つけた。そこから改めて村に入る。昼過ぎの村は微妙に見慣れなくて、奇妙な感じがした。まずは晶子が目を付けていた宿に部屋を取って、めいめい荷物を下ろしてから、ロビーに集まって土産物屋を見て回った。
「海原、本当に体、平気か?」
「ああ」
真壁の問いに素っ気なく頷くと、海原は腕を伸ばして木彫りのアクセサリーを手に取った。「村のクスノキで出来たお守り」
「もうクスノキはいいよ」
「あ、これ」
晶子がはしゃいだ声を上げた。海原が取ったのと同じ物を、体を伸ばして取ると、「これ、この村の工芸品なんですって」と言った。
「この村の守り神にあやかって、恋愛成就の効果があるとか」
「なさそうだ」
青井がぼやいた。
しかし、晶子は笑って、「これ、買うわ」と言った。
男三人は、レジに向かう晶子を見送った。彼女はそのお守りで、誰と結ばれたいのだろう。時は流れるのに、誰も前に踏み出せない。彼女の笑顔を見て、進みたいと思いながら、時よ止まれと願ってしまう彼らがいる。
(完)
咲玖という仮面HNのものです。連載板に置いてあるお話のキャラクターで、『鳥居の向こう』の作品を一つ……と思ったら、字数大幅オーバー(35912字)でこちらに投稿となりました。
楽しんでくだされば幸いです。
(七月二十二日 微修正)
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屏風の大唐犬の希望が被っておりましたが、割り振りが決定いたしました。
茉莉さんに第二希望の絵を描いていただくことになりましたので、
一次掲載決定作品 は以下のようになります。
冬の神 砂糖水(絵:碧)
探検の舞台は クーウィ(絵:ヤモリ)
ニドランの結納 No.017(絵:草菜)
鮫の子孫たち No.017(絵:たわし)
盗まれた才能 No.017(絵:発条ひず)
屏風の大唐犬 No.017(絵:のーごく)
ミルホッグ・デー リング(絵:茉莉)
以上、7作品となります。
二次に向けて絵師さんにも更に声掛けして参りますので振るって応募くださいませ!
お越し頂いた皆様、ありがとうございましたー
次回は9/17のポケモンオンリー「チャレンジャー」にて出展予定でございます。
どうぞよしなに。
暑い、暑すぎる
現在時刻は9時30分ちょっと前。確かに早起きだと胸を張るには遅すぎるが、まだ朝のはずなのに。
びしょ濡れのシーツをケムッソのように這い出て鳴り続けるゴニョニョ時計の頭を叩く。
ホウエンの夏の朝は遅くて暑い。
※オリジナル設定、登場人物有り
※ごくごく少量の流血有り
日に照らされて焦げ付きそうなサドルに跨り、夏の道を緩やかに下ってゆく。トレーナー修行の旅ではなく、家から一番「近い」学校に進級したのだが流石はホウエンの離島。来るかも分からないバスを除けば文字通り野を越え山を超えて行くしかない。
ぼうぼうに茂った草むらの脇を抜け道に砂利が混じり始めるとほぼ無意識にギアを変える。入学当初は戸惑ったが今ではこの坂道も何ともない。タイヤが砂を踏みしめるジャリジャリとした振動を物ともせずぐいぐいと漕いでゆく。
こんなに必死で登っても目的地は壊れかけの扇風機位しかないボロ校舎だ。暑さで鈍った頭にふとそんな事がよぎり益々憂鬱になる。視界が開け崖の向こうに海が広がると、見慣れぬものが現れた。
―――あ、かげろう
突然の事に思考が明晰になるより先にゆらり、と宙に舞った虫のようなものは姿を消していた。さっきから頭痛がするような気がする。
暑さにやられたかな。早いところ着いたら何か飲もう。生ぬるい水道水しか無いけれど。
何となくしかめっ面をしてみながら慣れすぎた道を急いだ。
「遅いぞユウコ。」
仏頂面の先生は校門前の木陰で南京錠をくるくると回しながらあぐらをかいていた。チョークの粉が染み付き茶色く煤けて所々穴の開いた白衣に、かかとを潰したスニーカー。数人居た同級生たちと共に過ごした日々と先生の制服姿は一切変わらない。変わったことと言えば、ポケモンに限らない一般教養の勉学と部活動に精を出す学年になるまでには、ユウコを残して全ての生徒が旅へ出てしまったくらいだ。
先生のあとに着いて校舎脇の小道へはいる。伸び放題の草むらを掻き分けて、ポトポトと木から落ちてくるタネボーたちを刺激しないように奥を目指す。突き当たりで右を向けばボロ校舎に擬態したような倉庫が置いてある。
「言っとくけどなぁ、本当に使い物になるか分からないからな。」
酷暑の中ベッドに未練を残してはるばる来たのに今更それはないだろう、とユウコはいくらかむっとしながらブラウスのボタンを二つ開けてパタパタしていると錆びた鍵が回った。
ひんやりとした倉庫の中は天然もののタイムカプセルのようにあらゆる物が無造作に積まれていた。郷土資料館にでも提供したら良さそうな古びた農作業具に、一チームすら作れないのに真新しいバスケットボールの得点板まである。何に使われていたかも分からない劣化したプラスチックのかけらをぼんやりと拾っていると、先生がダンボールの山から手だけを出してこっちだと招いた。
「随分と早く見つかりましたね。」
先生の喜々とした顔に少し面食らう。
「そりゃそうだ。これは私のだからな。ささ、暑くなりきる前に校庭に持って行くぞ。」
「私物って、先生の趣味には思えないのですが。」
「人を見た目で判断するのは良くないぞ。」
「それじゃあ余程ひどい目にでもあって人格が変わってしまったとか。」
「人には触れられたくない過去があるものさ。」
「都合の良いときだけ善良な教育者になるのは止めて下さいよ。」
「いいじゃない、教師だもの。」
いつの間にか仏頂面に戻った先生は眉一つ動かさず台詞だけでおちゃらけてみせた。それ以上言い返す気力も失せ、擦り切れた細長いダンボールを担ぎ倉庫を後にした。
校庭、もとい元校庭があった場所を眺めユウコは唖然とした。砂が風を纏いとぐろを描いて荒れ狂う、例えるならば今まさに、地を離れ空へと飛び立たんとする蟻地獄。そんな物が校庭を占拠していたからだ。
「なにこれ……。」
そう呟いた瞬間、風が変化した。砂と共に明らかな敵意が向けられる。
コンッカチッ
軽金属の衝突音と共にあらわれた無数の星屑が猛進する砂の渦を迎え撃つ。一つの渦が掻き消された先には、既にいくつもの渦が形成され始めていた。
「ぐままもう一度、スピードスター。」
くおっと短く応えたマッスグマは吹き付ける砂をするするとかいくぐると星型の閃光を吐き出した。幾つかは砕け、あるものは突き抜け、真っ直ぐに標的を仕留める。しかし切り裂かれたそばから砂は無尽蔵に湧く。中心は一向に見えない。
「あーあ……うわっ!」
外股を掠めていった衝撃波にユウコは飛び退く。スカートを見ると裾がバッサリと裂けていた。
「ボサッとすんなって。そこら辺にでも隠れてな。しっかし埒が開かないねぇ。かぎわけるだよ!」
ぐままは迎撃を止め目を閉じ耳を倒して全神経を鼻腔に集中させる。祈りを捧げるように悠々と天を仰ぎ、渦が迫る一歩手前で身体を翻す。してやったり、とでも言いたげに青い瞳がギラギラと輝く。先生の口がにやりと歪んだ。
「はかいこうせん!」
「えっ、ちょっとっ!」
着地と同時に放たれた熱光線は砂嵐を破り、グラウンドをも抉り。地獄の主を撃ち抜いた。
「面倒なやつは嫌いだよ。」
校庭に一直線の焼き焦げを付けておきながら実に良い笑顔である。これがカナズミの学校だったなら間違いなくクビがとぶだろう。最も採用すらされない気もするが。
すなじごくが晴れ、横たわるポケモンにユウコは見覚えがあった。
「驚いたね、ビブラーバじゃないか。」
流石のユウコにも聞き覚えがある。暑さと乾燥の厳しい砂地に生息する蟻地獄ポケモンの成長した姿。呆気にとられているうちにビブラーバは慌てて起きあがるとふわふわと頼りなく飛び去ってしまった。
「わざわざ余所のトレーナーが島に来るとは思えないし、こんな所でここまで成長できるのですか?」
「こんな湿っぽい所へ来ておきながらホームシックとは、随分な物好きもいたもんだ。ま、とにかく校庭も取り返せたし始めるぞ。」
ユウコの質問に面倒くさそうに答えると、先生は反動でへたり込むマッスグマを抱えた。太陽がギラギラと照りつけた校庭は確かに砂漠にも見える気がした。
ダンボール箱をあけるとユウコが生まれるよりずっと前の日付の新聞の塊が入っていた。ひときわ大きな塊を解くと中からは細長いアルミの三脚に傷だらけの黒い筒が一本。先生はぽってりとした凸レンズを慎重に拾いながら唐突に切り出した。
「ところでお前、ポケモン関連の仕事には興味無かったんだっけ。」
またか。ユウコは密かにため息を付くと新聞紙の隙間から茶色くすすけたメモを見つけ、引っ張り出した。折り畳まれた紙の表には「天体望遠きょう組立図」とたどたどしい字で書いてある。
「まあ、ここに残ったくらいですから。」
メモの内容に目を走らせると何かから書き写したのであろう望遠鏡の原理や作り方、そして行間には改良点やアイディアがびっしりと埋められていた。その横にはやせ細ったバンギラスのような、恐らく望遠鏡の絵が添えられている。
ひらがなと誤字のやや多い幼い子供の字。鉛筆を握りしめ夢中に文字を刻み込むあどけない少年の姿が浮かび、先生をそっと盗み見る。
「こいつを買ったころはな、宇宙飛行士になりたかったんだ。でもやめた。」
「はあ、どうしてですか。」
どうでもいい、とは素直に答え無かった。話題が自身から逸れることを願いながら聞き返した。
「歯磨き粉みたいなメシを毎日食わされると知ったからさ。」
むすっとした顔は何の感情も帯びていない。
三脚のネジがひとつ足りない。箱へ手を伸ばすと目の前にネジと鼻先が差し出された。得意げに尻尾を振り回すぐままの顎を掻いてやる。先生が二つ目のレンズをはめ込みネジを締めた。
「ほれ、見てみな。」
望遠鏡と呼ぶにはやや質素な黒い筒を覗いてみた。拡大された校舎が逆さ吊りになり、空は地平にへばりついている。二枚の凸レンズに絶妙なバランスによって観察対象は倒像となり、拡大されて瞳へ届く。頭では理解していてもむず痒い違和感がある。
「本当に逆さまですね。」
「良いよな宇宙は。逆さまに見えたって誰も怒りゃしない。」
「先生だって誰にも怒られないんでしょう。」
「居るんだよ。それなりにちゃんとしないと五月蠅いのが。」
ぐままは素知らぬ顔で背中を毛繕っていた。先生はユウコの手から望遠鏡を奪うと三脚に取り付け、満足そうに頷き、ニマニマと笑った。
「せっかくここまでして二人だけで観察するのも勿体ないな。」
呆れたようにユウコが答える。
「それじゃあ下の学年でも呼びますか。」
「分かってるじゃないか。チビ達を招待しての野外天体ショー、天文部と参加者は今夜校庭に再集合だ。」
そう言った先生の顔は降り注ぐ太陽の光によく似ていた。
この人も少年みたいに笑うことあるんだ。そうだ、私が最後にあんな気持ち良さそうに笑ったのは何時だったかな。
ユウコは真夏の空に望遠鏡を高々と向けた。明日も明後日も永遠に来なくてもいいから、ずっと吸い込まれていたい。そう思わせる青くて深い空だった。
「サイユウシティでは西北西の風、風力3、晴れ、22ヘクトパスカル、気温は31度…」
地図の下の端、サイユウに記された丸印の左斜め上に羽を書き入れ、丸の中に晴れを表す縦線を伸ばす。さざ波のようなラジオの雑音をBGMに、天気を読み上げるアナウンサーの声がユウコの部屋に流れる。
心地よい秩序を持った音声の海に乗り、北へ北へ。海を越え天気図が埋められる。未だ訪れた事のない、これからも訪れるか分からない、遥か遠くの風が吹く。
海を飛び立ち空を滑る。いつの間にか薄緑の羽根を羽ばたかせ、波に揺られるようにふわり、ふわり。キッサキの分厚い雪雲を抜けると更に遠くイッシュの地へ。静かな恍惚の中で天気図は埋まってゆく。
夢から醒めるように自分の部屋へと着陸すると、放送終了にぴったり合わせてラジオを止めた。新聞の切り抜きから月齢を写しパンチで穴を開けバインダーに閉じる。
そういえば。あのポケモンはどうしてこの島へ来てしまったのだろう。住み慣れた砂漠を離れてふわふわと海を渡って。
馬鹿な奴、とユウコは思った。透けるような緑の羽根は、海を渡るにはかなり、頼りない。ふわりとカーテンが風に膨らむ。かげろうが離れない自分の思考に苛立つ。
再び開いたバインダーに目を落とす。天候は良好、月の光量も控え目で、絶好の鑑賞日和となりそうだ。
サイコソーダに浮かべた氷が溶けてからりと音をたてる。橙が染み始めた部屋でナップザックを拾い上げた。
こんな日には。
星でも見るに限る。
湿っぽい海風と下がりきらない気温に汗がにじむ。巣に帰れと言うかのように鳴き交わすキャモメの声が響いている。
砂利道にさしかかり、ギアを変える。ほの赤く暮れかかる海が崖越しに見えてくる。坂を登りきりユウコがギアを戻して速度を緩めた、その時だった。
視界の外れから、薄緑の塊がはらりと降ってきた。あの、ビブラーバだ。慌ててブレーキをかけ、自転車を降り捨てるとそろそろと忍び寄る。こちらに気付く様子もなく倒れ込んでいる。
「死にかけかしら。」
呼吸にあわせて微かに動いてはいるものの確かな反応はない。過度な湿気に当てられたためか素人目にも緑の皮膚が赤くかぶれているのが分かる。
胸の辺り、羽の付け根まで照らした時ユウコは息を飲んだ。羽の付け根辺りに、自分の背まで疼くような亀裂が走り血が滲んでいる。恐らくは他のポケモンに裂かれたばかりの傷だろう。それも、空を飛べるビブラーバを更に高くから狙える凶暴な何かから逃げ際に付けられた。
全身を隈無く照らすと赤黒いものが点々とこびりついている。ポケモンバトルなどという生易しい物ではない。激しい闘争を物語る不規則な赤い斑点。
どうしようか。野生のポケモンに無闇に干渉する必要などない。放っておけば自然の中で処理されるだけの話だ。
ユウコには手持ちも居なければポケモンの知識も浅い。島のポケモンは見知っているとは言え、丸腰で自分の身を危険に晒すことになりかねない。
でも―――
暴れるなよ、と念じながら恐る恐る手を伸ばす。しかしどこを掴んで良いのやら。逡巡し、意を決して尾に触れた。
その途端、羽根が激しく振動し、ユウコは弾き飛ばされた。ビブラーバは威嚇するように羽根を震わせると、ユウコではなく空中を睨み付けた。
ユウコはようやく気付いた。頭上でキャモメの声が、五月蝿い。
先程までまばらに飛んでいたキャモメが次々と集まり円を描いていた。中心は、此処。
「逃げるよ!」
未だに臨戦態勢をとるビブラーバに声を掛けた。この状況は嫌な予感がする。このままこの場所に留まるのは危険だ。
頑として動こうとしないビブラーバを抱き上げようとするが、羽根を震わせ触ることすら出来ない。何度目か手を伸ばしてようやく尻尾を掴むと、バダバタと羽ばたき出し、ユウコは数メートル引き摺られて投げ出された。敵意に満ちた目でユウコを一瞥すると、ゆらりと飛び立った。
バランスを大きく崩しながら飛ぶビブラーバと後を追うキャモメ。ユウコは駆け出していた。
「崖に住んでいるキャモメには手出ししてはならないよ。」
島に住む者ならば人もポケモンも誰もが教わる事だった。
「彼等一羽一羽はかよわいものさ。でもね、もしもその一羽に手を出そうものならば……」
上空を飛び回るキャモメは少なくみても数十は集まっているようだ。彼等が追う先には今にも堕ちそうな一匹のポケモン。
不安定に飛ぶビブラーバより上空を保ち、キャモメの群れは風の強い海沿いへと追い込むように飛び回る。ビブラーバも時折衝撃波や砂の渦でささやかな抵抗を見せるが、そのたびに高度を上げるキャモメにはさっぱり当たらない。
十分に追い付いたことを確認したのか、鋭い鳴き声と共に風の刃が降り注ぐ。小さな体から放たれる狙いの甘い高威力の絨毯爆撃は、敢えて射撃方向をずらして散らす事で命中率をカバーしている。
呆れるほどに練られた連携に、圧倒的な数の暴力。これではもはや闘いではない。狩りだ。
遂に一発のエアスラッシュがビブラーバを撃墜した。待ちわびて居たかのように一斉にキャモメたちが飛びかかる。
「うわあああああああぁぁぁっっ!!!」
ユウコは叫んだ。ありったけの声で叫びながらナップザックを振り回し、群がるキャモメに突進していった。
突然の人間の登場に豆鉄砲を喰ったかのようなキャモメ達を振り払い、ビブラーバを抱え上げる。なるべく、陸へ。ナップザックをもう一周振り回すと、近くのサトウキビ畑へと飛び込んだ。
ユウコの背丈を優に越す高い茎の間を慎重に進んで行く。しゅるりと細長い葉の陰に切れ切れに見える空は夕日で赤く染まり、しつこくキャモメが飛び回っている。もう直ぐ日も沈むだろうに実に執念深い。
ビブラーバが弱々しく訴えるように羽根を震わせていることに気付きそっと降ろした。
「ねぇ、……」
ダメで元々、話し掛けたユウコにビブラーバはさも煩そうに首を傾ける。
「あなた、キャモメ、襲ったの…?」
しゃがんで問い掛けるユウコについと顔を背けるとぶぶっと羽根を鳴らす。
「えーっと、…どの位?」
先程とは反対へ首を回すとぶぶぶっと鳴らした。何を言いたいのかはさっぱり分からない。しかしキャモメの様子を見ればある程度の想像はつく。
「それで、思いもかけずにこっぴどくやられたのね。」
ユウコを見据えると二本の短い触覚をツンと立てて羽根をはたはたと振った。今度のは拒否のつもりらしいと分かった。一方的に反撃されているようにしか見えないのだが。
葉の隙間からちらちらと白い鳥が見え隠れしている。おおよその見当は付いているのだろう、かなりの数が集中してきていた。
足元からぶぶぶぶぶっと音がする。ユウコを通り越し天高く向けられた眼はキャモメを鋭く捉えていた。
「どうしても諦めないのね。」
ユウコの事など気にも留めない様子で羽根も触覚もピンと立て構えている。
「あのさ、私このあたりは詳しいの。だからその…協力、しようか?」
ビブラーバは今度こそユウコを真っ直ぐ見つめると、目を瞬かせて首をぐいぐいと回した。
ユウコにとってこのあたりは道も畑も我が家のような物だった。極力茎を揺らさぬように、こごみながらジグザグに進んでキャモメをまいてゆく。ビブラーバは大人しく腕の中に収まってくれている。
ついにサトウキビの林から出ると、地面に開いた洞窟のなかへ身を滑り込ませた。島のそこかしこに開いている、石灰質が雨水に溶かされた窪地。地理の時間に先生がそう説明していた、気がする。
洞窟の中程で降ろしたビブラーバに目配せをすると、四枚の羽を二枚の尾を扇子のように広げて応じる。ユウコは親指をぐっと立てると洞窟から出て、ナップザックから懐中電灯を取り出した。暮れなずんだ空の元、自分へ向けてスイッチを滑らせた。
小さなスポットライトに照らされたユウコに気付きみゃあみゃあと敵の発見を伝えるキャモメに向かって、下瞼を引っ張り舌をペロリと出す。色めき立つキャモメを確認すると、更に挑発するように石を群れに投げ込み洞窟に逃げ込む。怒りに我を忘れたキャモメたちは一斉に洞窟へとなだれ込んできた。ユウコはビブラーバから距離を取り後ろに控えた。
「今だよ!」
掛け声と共に地表が蠢く。異常を察したキャモメ達は、引き返そうとするが後から後から流れ込む仲間に押し戻される。
遂にとぐろを巻いた砂が宙へ飛び立った。避けようと飛び上がり壁にぶつかり堕ちるもの。仲間と衝突しいがみ合うもの。焦りの余り自ら呑み込まれにゆくもの。空中の蟻地獄は錯乱状態のキャモメを次々と引きずり込む。
キャモメの声が徐々に収まり、ビブラーバはすなじごくを収めた。砂煙ごしに息を荒げたビブラーバと気絶して転がるキャモメが現れる。
ついさっきまでの怒号と悲鳴の喧騒など初めから無かったかのように風の音だけ微かにが聞こえる。白い羽毛の混じった砂を踏み、洞窟の外を目指した。
甘かった。どうりで静かな訳だった。洞窟の入り口には、キャモメの大群が音もなく待ち伏せていたのだ。
みゃーあ!!
キャモメの一声で猛攻が開始された。天から降り注ぐエラスラッシュ。体の大きい数羽は螺旋を描きつばめがえしを繰り出す。ビブラーバはとっさに砂を張り防御態勢を取った。
「ひゃあっ!」
ユウコは左腕を押さえて転げた。鋭い痛みが二の腕を刺す。恐る恐る手を離すと真っ白なブラウスが裂けじわりと赤い染みが広がっている。
戦闘へ顔を上げるとビブラーバが凄まじい殺気でユウコを見ている。
「大丈夫だよ!大丈夫だから!」
きゅーーーううぅぅぅ!!!
ビブラーバは憤怒していた。ユウコは訳も分からず身を竦ませた。
来るんじゃなかった。やっぱりこんな事するんじゃなかった。
馬鹿なのは私だったんだ。こんなことをして、何かが変わるなんて勘違いして。
後悔しているユウコをよそにビブラーバはゆったりと向き直った。キャモメの群れも気圧されて静まり返った。
羽根が大きく、大きく振られている。次第に速く、激しく、小刻みに、速く速く速く速く!
耳をつんざくような羽音が次第に、次第に、柔らかなメロディーを奏で始める。
まるで歌っているみたい。女声の、暖かくって物悲しい声。ユウコは場違いにもそう思わずにいられなかった。
歌声がフォルティシモに達すると、ビブラーバは地を蹴った。四枚の羽根の一対が大きく伸び、昆虫のような体躯は骨が張り出し肉が盛り上がる。
竜と呼ぶには繊細過ぎるが、精霊と呼ぶにも逞し過ぎる。変貌を遂げたビブラーバ、いや、フライゴンはキャモメの群れを突き破り天高く抜けていった。
高く、高く。上り詰めたフライゴンは翼を翻して地上を見下ろし、腹にエネルギーを溜め始める。呆気にとられていたキャモメ達も陣を組み迎撃態勢を取り出している。
最後の力を振り絞り、熱く激しく濃縮された、ドラゴンのエネルギー砲がついに放たれた。
幾筋にも分かれたエネルギーの塊は空を駆ける。慌てて放たれたキャモメ達の射撃も打ち砕き、煌めき、尾を引く。キャモメ達は雪のように堕とされ、散り散りに逃げて行く。
一つの銀河が丸ごと現れたかのような星の雨。あまりに神々しく、厳かな星々の怒りの進軍。
夏の宵空に地に近すぎる流星群が、ちっぽけな島を覆った。
ユウコはふらふらと舞い戻ってきたフライゴンが地に足を着けるや否や抱き着いた。
「やったっ!やったぁ……!」
キャモメの大群は一羽残らず撤退していた。今頃はがっかりしながらねぐらの崖を目指しているだろう。
フライゴンの少し照れくさそうな困ったような顔に気づきユウコは腕を解いた。
穏やかな風に吹かれて空を見る。夜の闇がさらさらと夕暮れの赤をすすぎ、気の早い星がうっすらと見え始めていた。
「私、もういかなくっちゃ。」
フライゴンはくぅー?と鳴いて首を傾げる。その様子がビブラーバの時のサトウキビ畑での傾げ方にそっくり過ぎて可笑しくなる。
「あなたが昼間暴れてたとこ。学校っていうとこでね、星を見るの。だからもういかなくっちゃ。」
ユウコがそっと肩を撫でると、フライゴンは数歩下がり腰を低くすると首を深々と下げた。
「えっ?」
戸惑うユウコにフライゴンは悪戯っぽく笑った。
滑らかなひんやりとした鱗が覆う長い首を跨いで、腕を回す。喉に触れた手には呼吸が伝わってくる。翼を大きく振り上げると、地面をそっと蹴った。
くるりくるりと旋回しながら高度を上げ、地面が遠くなってゆく。空気がひんやりと冷めてゆく。ユウコの生きてきた全てが詰まった島が遠くなってゆく。
空から見下ろす島はびっくりするくらいに小さかった。まばらに漏れる民間や灯台の灯りは、まるでミニチュアのおもちゃを見ているよう。自分の家も、学校も、じっちゃんの畑も町の役場も、今なら全部一歩で行けてしまいそうだった。
フライゴンに促され海を見渡す。水平線の向こうに、光が広がっていた。遥かに遠いのに、島よりも鮮烈な光。ユウコの知らない沢山の命が発している光。
緩やかに緩やかに地面が近付いてくる。風が熱を帯びる。人生の大半通い詰めた学校が近付いてくる。
ユウコを校舎の裏で降ろしたフライゴンは、海の方を向いた。
「もう出るの?」
フライゴンはユウコの問い掛けにゆっくりと頷いた。
「もう無茶したら駄目だからね?」
フライゴンはむくれるように離陸態勢を取る。
「じゃあね。旅、楽しんでね!」
既に小さくなったフライゴンは、一回転宙返りを決めると海の彼方へと消えていった。
波の音だけが残されたユウコを包んでいた。視界の外れで星が一つ流れた気がした。
「あーゆっこばばあがちこくしたぁ!」
「ヒロトくん!ばばあとかゆったらいけないんだー!せんせーにゆっちゃうよ!」
「うっせ!やーい、おばあさん!」
校庭は集まったちびっこたちのせいでてんやわんやの大騒ぎになっていた。
ヒロトくんはユウコがぽかりと殴る格好だけすると、大はしゃぎで逃げていった。
「ユウコ遅いぞ」
仏頂面の先生は何も変わらずにむすりと言った。
「色々と忙しかったんですよ。」
ユウコは先生の寝転がっているブルーシートの隣に横になった。
「望遠鏡とられちゃったよ。」
先生は少し悲しそうな声を作った。昼間組み立てた望遠鏡はちびっこたちが奪い合いながら覗いている。
「実はあれがなくても流星群の観察自体は出来るんだけどねぇ。」
自分を慰めるように呟く先生の声を聞きながら、空を見ていた。痩せた月のまだ登らない空につい、つい、と星が走る。
「先生。」
「ん、どした?」
「本当のところ、どうして宇宙飛行士を目指さなかったんですか?」
「そうだねぇ……」
子供たちのはしゃぎ声、風にざわめく木々。沢山の流れ星。時が止まったかのような熱帯夜。
「こっちのが、気楽だろ?」
「そんなことだろうと思いました。」
先生は先生だから良いな、と付け加えるのは何だか恥ずかしいから止めにした。
もしやりたいことが有るとするならば。とりあえず、次にあいつに会った時にはお礼くらい言いたいな。
ユウコは目を閉じると流れ星の洪水みんなにいっぺんに願ってみた。
終わり
小説を、それも大好きなポケモンで書き上げてみたい。
そんな願いを抱き幾星霜。
何作か途中で放り投げ、やっと完結まで書き切れたので恥を晒しに来ました。
はじめまして、孤狐です。
物語を書くのがこんなにも大変で、楽しいとは。
結構疲れたので、もうしばらく書けそうにありませんが;
そうそう、今日明日はペルセウス流星群が見られるそうで。
今日は曇ってしまいましたが明日は晴れますように!
日にちを間に合わせるため特に最後のほうは急ピッチで仕上げたので、誤字脱字等かなりありそうなので見つけ次第どしどし報告してください。
いつ直せるか定かではありませんが;
【第1話】
ズダダダダダ!!!!ズダダダダダ!!
街中に銃声が響き渡る。戦争だ。レインが住むマルス地方は、まだ発展途上で、銃や戦車や爆弾などは無い。住居も木の中に作り、狩をして暮らしている。戦争ではポケモンと弓と槍で戦う。なので、相当不利だ。
ドガガガーーーーン!!
爆弾が落ちた。
人々「キャーーー!!助けてーー!!」
??「フライゴン、ハクリュー、人々を避難させろ。プテラ、いけーー!!」
ある人はプテラに乗り、弓を構え、堂々と敵に突っ込んでいった。
??「いけープテラ!ヤーー!!」
ある人は矢を射った。その矢は、敵に命中した。
??「プテラ、破壊光線だ!!」
プテラの破壊光線により、敵のガンシップは次々と破壊されていった。
敵大佐「何だあいつは?撃破しろ!!」
ズダダダダ!!ズダダダダダ!!
敵のガンシップから銃声が聞こえた。
??「うわっ!!」
ある人は銃に撃たれ、死んでいった。
その人の死から、マルス軍は次々と死に、残ったのは僅かだった。
・・・・・・・あの悲惨な出来事から15年。
レイン「で、そのある人ってのは?」
レイン母「あなたの、お父さんよ。」
レイン「え・・・・・」
レインが住む村の入り口には、レインのお父さんの石碑が建っている。村の勇者だ。
レイン母「レイン。私たちの一族は、代々続くドラゴン使いなのよ。あなたももう10歳。だから、ドラゴンを授けます。」
レインはモンスターボールをもらった。
レイン「なんだろ・・・えっ、レックウザ?何で伝説のポケモンが?」
レイン母「あなたのお父さんにレックウザが心を開いたのよ。天空の城で。」
レイン「えーすごい。」
レイン母「10歳になるともう1人で自立です。家を作り、これからもレックウザと共に過ごしなさい。ずっと一緒に。」
第2話へ続く
どうも、ヴェロキアです。
お題の『ポケモンのいる生活』を書きたいと思います。
よろしくお願いしまーす。
では次の回からスターートッ!!
コメントいただけた! ホントどうもありがとうございます。
しかし、案の定と言いましょうか、みなさまドン引き。
こんな虫ネタ、死体ネタ、さらに汚物ネタと、出してから言っても遅いですが人を選びますよね。AとCの話に実際に遭遇したら自分なら絶望してます。
「背筋が寒くなるもの」「身の毛もよだつもの」には、おぞましいと感じたり目を背けたくなるものも含まれると思います。
そういう点では、今回は正解を得られたような気が。自分の評価の株が底値を割った気もしますが。
>もしかしたら寄ってきたよくないものを消してくれるのだろうか?
飛んで火にいる夏の虫。このあと腐臭につられて寄ってきたよからぬ虫をランプラーが退治してくれることでしょう。その命でランプラーも少しは満たされるはず……。
>「男3人(学生)集まると、必ずバカなこと引き起こすよな」
自分にはそんな友人はいませんでしたがやはりお約束ですよね。ちょっとCの悪ノリが過ぎたおかげであの始末ですが、それが男子の日常、と。
ナマ物が腐りやすい夏、死肉はともかくとして食べ物にはご注意ください。
>炊飯器
あの手のモノで一番恐ろしいのは中途半端に水気が残っていてドロドロになっているものでしょう。
今回のアレは、駅雑炊のようになっていた、というのが自分の予想です。
あくまで予想です。実際に試したこともやらかしたこともありませんからね。スパゲティの茹で汁を「再利用できるかも」と鍋に入れたまま数日放置し、液面にカビを生えさせたことはありますけども。あの時のやっちまった感は悲しかったなぁ。
笑いが取れたのならもはやそれでオッケー。読み手が混乱するようなノンジャンルの作品を、ご一読いただきありがとうございました。
以上、MAXでした。
余談ながら、「猫は祟る」でグーグル検索したら先頭に猫の幽霊に関するお話(コピペ?)が出てきました。不思議なお話で結構面白かったです。
風も穏やかですね。空も晴れてますし、ホエルオーの上だと物凄く星が一つずつくっきりと見えますね。
あー、そうですね、ダイゴさん寝てますから別に返事しなくていいですよ。
こんな明るい星空を満天って言うんでしょうか。私は初めて見ましたよ。隣にダイゴさんがいるからですかね。いつもより綺麗に見えます。学校で習った星座も解りません。ダイゴさんなら解りますかねえ。起きてたら教えてくれたかもしれませんが、今は出来ませんね。
相当疲れてたんですね。ホエルオーが大きいからいいですけど、落ちないでくださいね。
やっと会えたんです。とても探したんです。嬉しく無いわけないですよ。私の好きな人。これが恋することだと教えてくれたのはダイゴさんです。そしてこれが愛だと気付かせてくれたのはダイゴさんです。
あんな手紙一つでいなくなって……心配したんですよ。本当に心配して、いてもたってもいられなかったんです。
でもこうして、この手で触れられる距離にいる。ダイゴさんの髪がさらさらしてて気持ちいいです。よく見えませんが、きっと寝顔も美しいですよ。だってあんなに笑顔が素敵で、優しい人が美しくないわけないです。
頬を撫でたら、少し苦しそうな寝息が聞こえました。起こしてしまったかと思いましたが、そうでもないみたいですね。いいんですよダイゴさんそのまま寝てて。ホエルオーもゆっくりと泳いでますから。
ダイゴさんに貰ったダンバルも、今では立派なメタグロスです。今は連れてきてませんよ、安心してくださいね。
そうですよ。今いるのはホエルオーだけです。二人きりなんですから、ポケモンたちは置いて来ました。ポケモンたちも好きですけれど、私はダイゴさんと過ごす時間がもっと大切なんです。
やっぱりダイゴさんに触れていたいと思います。抱きしめたダイゴさんはいい匂いがします。
好き。大好きダイゴさん。
もう絶対どこにも行かないでください。私と一緒にいてください。
そんなこと言ったら、ダイゴさんはとても困った顔をしましたね。
大好き。誰よりも大好き。そんなダイゴさんを独り占めしたいと思うのは間違ってませんよね。みんな言ってましたもの、それが恋することだって。
でも、ダイゴさんが困るなら仕方ないと思います。
ダメなんですよね、私だと。
ダイゴさんの気持ちは私に向いてないんです。
だからこうして最初で最後のデートにワガママいって来てもらいました。ほら、遠くに小さな明かりが見えるのが、ルネシティですよ。こんなところにまで来たんですよ。
もう二度と離しません。
もう二度と何処へも行かせません。
これが最初で最後だとしても、ダイゴさんがどうしても欲しい。ダイゴさんの気持ちを捕まえることの出来るボールを持っていない私には、この方法しかないのです。
私とダイゴさんを縛って。もっと離れないように私の手とダイゴさんの手を縛って。
さあホエルオー、私たちが海面についたら好きなところへ行って。いままでありがとう。
ここはカイオーガが眠ってた場所。紅色の珠で目覚めて、藍色の珠で眠っていった場所。
私たちもここに眠るの。
深い深い海底に。
誰も起こしに来ることのない、暗い海底に。
苦しく無いよう、眠ってもらってますから。
さあ、行きましょう
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背筋凍る話で盛上がってる中、空気読まずにカップリングだぜ!ダイハルだぜ!
hahahahahahaha!
【好きにしていいのよ】
明日は少しメンバーが替わりまして
No.017
カンツァーさん
小樽ミオさん
での店番となりますー
皆さんよろしゅう〜
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