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目覚めた僕が目にした世界は、やはり変わり果てていた。唯一眠る前と同じなのは、目の前に佇むポケモンの名前くらいだろうか。
「君は強いね――もう会えないとばかり思っていたのに」
僕の言葉に、彼は首を振り答えた。
「いや、僕は弱いよ――千年経っても、君の事を忘れられなかったんだから」
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twitterで行われていた140字以内のコンテストに参加したもの。お題は「忘れない」。これ( https://twitter.com/140pokecon/status/1190283457261293569 )ですね。
片方はジラーチですがもう片方は決めてないです。素で千年生きていても良いですし、願いの力で千年生きていても良し。
確かパワポケに「私は強い女です。あなたの事は決して忘れません。私は弱い女です。あなたの事は忘れられそうにありません」みたいなフレーズがありまして、印象に残ってましてね。それを踏襲する上でやっぱり強いと弱いは同じキャラに言わせたかったんですが、上手い事噛み合わず断念しました。無念。
取り敢えず、このエピソードで終幕予定。
完結できて気が向いたら隙間の話を埋めていきたいです。
中身の代わりに捏造・パクリ・ハッタリ・中二病等が詰め込まれていますが、どうぞよしなに()
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俺は任務中に立ち寄った組織の支部で休息をとっていた。今回は人間を狩猟の対象にする他種族のポケモンが組織化された連合「暮れなずむ人狩りの会」の統率者と幹部たちを捕獲するべく捜索していたが、連中は中々尻尾を出さず任務は膠着している。
徒党を組むポケモンとは何度か遭遇しているが、わざわざ組織名を掲げて人間の真似事・・・或いは宣戦布告するような連中は初めて遭遇するかもしれない。
奴等は人並み以上に知恵をつけ、一部の幹部は人の言語まで習得しており、うちの組織はその突然変異の頭脳を欲しているのだ。
俺が最初に遭遇したキリキザンの幹部は、典型的な極左でタカ派なヤベーヤツで危険思想を垂れ流しなら襲いかかってきたが、組織からは何故か高く評価されてしまい行方を追う羽目になったのである。
俺から言わせりゃ、自分から名を広めるたがる悪の組織なんて盛者必衰の理を突き進む二流だが、連中は自分達の事を正義の革命組織みたいに思っているのだ。馬鹿な連中だが、我等が「若様」曰く大成する奴は良くも悪くも馬鹿になれる奴だけらしい。どうでもいいが馬鹿を相手にする身にもなって欲しいよ。
明日もあのキリキザンと不愉快な仲間たちの行方を探す旅に出ると思うと気が滅入ってくるが、受けた任務は果さなければならない。
深夜頃まで連中を炙り出す作戦を練っていた。そんな時、あの音が聞こえてきた。
ガシャ、ガシャ、ガシャ、ガシャ・・・!!!
その音はいつもと違う。耳の奥に纏まりついて人の神経を逆撫でるような音ではなく、地響きと共にやってきた。
俺以外の団員達にも聞こえているらしく、支部内に喧しい警報音が鳴り響き、非常事態のアナウンスが流れた。
『緊急事態発生!緊急事態発生!北東2キロ先に未確認巨大生物が出現!推定階級・災害級!現在我々の基地に接近中!防衛班は直ちに出動!繰り返すーーー』
何やらど偉い事が勃発したらしい。ポケモンの襲撃はたまにあるが災害級の驚異はヤバイ。
世界中のどこにでも人類に災いをもたらす災害級のポケモンは存在する。伝説・幻のポケモンに準ずる突然変異のイレギュラーな個体・群の事を指す。
有名どころを挙げれば、かつて無数のゴースを引き連れてカントー地方を荒らし回った巨大ゴースト「ブラックフォグ」、たった一匹でジョウト地方を壊滅させられるポテンシャルを秘めた巨獣「黒いバンギラス」辺りか?俺が遭遇した連中から挙げるなら「虫姫」や「無貌の大蛇」「如水法師」は・・・違うか。
まぁようは、そんな連中とタメを張れるようなヤツが、接近中となればこの支部も下手をすれば壊滅する恐れがある。
黙って避難したいところだが、本部から来てる以上、未確認の脅威を見過ごすわけにはいかない。
俺は支部の司令室に入ると、中は予想以上に混乱していた。それもそのハズ、監視モニターには闇夜の森しか映らないのだ。熱感知カメラ等視覚補助装置を次々と切り替えても姿を捉える事ができない。
ゾロアークに化かされているのか?映像を見てそんな疑念を浮かべる者も少なくないだろう。しかし、地響きと共にガシャガシャと喧しい騒音だけが激しく自己主張をしており、現場には木々をなぎ倒しながら進撃する謎の巨大生物が確かに存在しているらしい。司令官は現場に出動した防衛班に連絡をとり状況を確認しているようだ。
『こちら防衛班!目標は体長約15メートル!頭から尻尾の先まで全身が骨や骸骨のような物で覆われた二足歩行の怪獣です!まるで骨が寄せ集まって動き出したガラガラの巨像のように見えます!!』
現地に到着した防衛班は目標が見えているらしく、鼻息を荒らげながら謎の襲撃者の情報を説明してくるが、目標を確認する事ができない司令官やオペレーターたちは顔を見合わせながら困惑している。
「待て待て、司令部では目標の姿を捉える事ができない。君たちは本当に目標を認識できているのか?」
「しっかりこの目で見えていますよ!それより早く攻撃の指示をください!!もう目と鼻の先まで来ちゃいますよ!!!」
「・・・すまないが、まずは様子をうかがいたい。玄地八領(げんじはちりょう)の使用を許可する。君たちが見えている目標の進路を妨害してくれ」
『了解!!!』
司令官の許可を受け、防衛班の隊長はモンスターボールから組織お手製の改造ポケモンを解放した。中から出現したのは見た目はなんの変哲もない鉄足ポケモン・メタグロス。
謎の巨大怪獣と比べたら、体長2メートル弱のメタグロスはどうしても小さく見えてしまうが、大きさ比べて勝負する訳じゃない。「玄地八領」は我等が組織の最先端科学技術を集結させて産み出した次世代兵器「武装携帯獣」なのだ。
主武装は体内に存在する四つの脳と四本足に埋め込まれた「PSI誘導型メタマテリアルシールド発生装置」メタグロスのスパコン以上の頭脳とエスパータイプのエネルギーパワーが装置の完全制御を実現し、全方位に不可視の防御壁を幾重にも重ねながら発生させる事ができる。生半可な攻撃では傷一つつける事すら出来ない鉄壁の防御能力に物を言わせて、数多のポケモンたちを打破してきた我が組織の切り札の一つである。
『いくぞ玄地八領!第八拘束機関解放!メタマテリアル領域展開!!起動せよ!!鬼門封じ・楯無ィ!!!』
防衛班のリーダーは舞台役者みたいな迫真の口上を披露する。丸で意味が分からない命令だが、我が組織の最高頭脳であり組織の中枢を担う科学者「ドクター・ジョン・ピーチ」の趣味だから誰も文句は言えないらしい。
まぁ博士のネーミングはさておき、モニターに映る「玄地八領」は、司令室からは目視できない見えざる怪物相手に、不可視の不可進行絶対領域を周辺に展開して対抗しようとする。そのやり取りはできの悪いパントマイムのようにしか見えないのが残念である。
派手さがないのは致し方ないが、しかし「楯無」の領域を正攻法で突破できたポケモンは俺が知る限り存在しない。堅実で信頼に足りる防衛機能である。
『なんだコイツ・・・どうなってやがる!そんな馬鹿なありえねぇ!!!』
映像からは状況を確認する事ができないが、防衛班の連中は予想だにしない現象を前にして焦燥している。
「どうした?何が起こってる?」
『あの野郎・・・!た、楯無をすりぬけやがった!ダメだこっちに来る!!攻撃の指令をください!!』
絶対の信頼を寄せいて切り札が無効化された防衛班たちは酷く焦っている。
だが悲しいことに、その深刻な状況は司令部にはいまいち伝わらず、現場との温度差が激しい。
司令官はすぐには攻撃の指示を出さず状況を俯瞰する。参謀やオペレーターたちも不可解な状況に慣れてきたのか各々の見解を述べ始めた。
「映像の解析は進んでいるか?」
「いいえ、依然として目標の正体を捉える事ができません」
「やはり幻影なのでは?我々は見えない虚像と戦ってるのかもしれませんな」
「それでは何故森の木々だけが倒木する?この地響きと騒音は何なんだ?」
「うーん、ガシャガシャガシャガシャ煩いけど、もしかしたら音を媒介にして精神に干渉する催眠術の類いかもしれませんね」
「その線はあるかもしれないな」
「思ったんですけど、あれが幻影なら相手がデカブツ一匹とは限りませんよね。最近徒党組むポケモンが流行ってるじゃないですか?なんて名前だったかな・・・」
「エリートハンティングクラブ?」
「素晴らしき青空の会だっけ?」
「あーたしか暮れなずむ人狩りの会でしたよ」
「そうそうそれ。まぁ何が言いたいかって複数犯の可能性ですよ。サーモグラフィーにデカブツは映らなかったけど、野生のポケモンたちは、この場から逃げる事なくチラホラ映ってたでしょう?木々が倒れるのは見せたい幻に箔をつける為の演出とかじゃないですかね?」
「ふむ、その可能性もあるな。・・・まずはできることから始めてみよう。ジャミングに防音装置・ポケモン避けのノイズを起動できるよう準備に取りかかってくれ」
「了解」
『司令!!攻撃の許可を求めます!!!繰り返します攻撃の許可を!!!』
「分かった許可する。ただし目標が幻影である可能性がある事を念頭に置いて欲しい。攻撃が効かなければ一旦後退してくれ」
『了解!!!』
まともにコミュニケーションをとれている。この支部はポケモンマフィアのクズにしておくには勿体無いぐらいマシな人員が集まっているらしい。お陰で俺は傍観者のままでいられて有り難い限りだ。本部から「玄地八領」を支給されるだけの事はある。
モニターに映る防衛班たちは次々に武装携帯獣をボールの中から解放していく。
中には全身を鋼鉄の鎧で覆いつくし、両腕をサイボーグ化させて無数の爆弾イシツブテを乱射する改造ドサイドン「破城」、δ因子を適合させ電気タイプを複合させた改造カイリキー「轟」に、機関砲とロケットランチャーを合体させたマルマイン射出兵器「雷の十字架」を四丁同時に使いこなす特別訓練を施した精鋭中の精鋭「爆撃鬼」、見た目は普通のフーディンだが、様々な武器に変身するようプログラムされた改造メタモン「八百万」がコーディングされた二対のスプーンを変幻自在に使いこなす「奇術師」、中には戦闘補助装置を全身に装備した旧式武装のリザードンやカメックスもいるが、今なお現役で活動する辺り、ロートルだが相当な手練れである事は間違いないだろう。「玄地八領」も楯無が効かなかっただけで戦闘は継続可能である。
ネーミングを馬鹿にしてたが、この錚々たる面子を目の当たりにして興奮しない男の子はいないだろう。いい歳したおっさんだという自覚はあるが年甲斐なくワクワクしてきた。
「バケモンにはバケモンをぶつけんだよ」だったかな?やはりこの言葉は堪らなく好きだ。
『総員攻撃体制に入れ!玄地八領!お前もだ!いくぞ!領域形成!起動せよ!!竜王の如き・八龍ゥ!!!』
防衛班のリーダーは勇ましく号令をかける。武装ポケモンたちも一斉に身構えた。この一斉攻撃を皮切りに未知の怪獣に対する対応が決まるだろう。実体があるならそのまま潰す。無ければあらゆる手段を用いて探る。正体不明の怪物が支部の目前まで迫ろうとも、俺たちは自分たちが信奉する組織の科学力に絶対の信頼を寄せて疑わない。
しかし攻撃の号令がくだろうとする直前、全てが一瞬にして覆された。
『⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛!!!!!!』
それはとてもこの世のものとは思えない。身の毛もよだつ悍ましい雄叫びがあがったと思えば、俺が認識する世界の全てが止めどなく揺らぎだした。
誇張しているつもりはない。現場にいた防衛班の連中との通信は途絶え、司令部の連中も大半が気を失ったり、気が触れたようにのたうち回る者までいる。司令官は痙攣しながら意識を失っており使い物にならない。おまけにモニターは砂嵐に包まれ使い物にならなくなった。
鶴の一声ならぬ怪物の雄叫で悪の組織が壊滅寸前に追い込まれるなんて洒落にもならないが、破滅は目前まで迫ってきている。
音を媒介にしてこちらの精神に干渉するという予測は当たっていたかもしれないが、俺を含め司令部にいた連中は目標の力を完全に見誤っていたようだ。単なる幻影と高を括り相手を刺激したのが不味かったのだろう。
酷い頭痛と目眩に襲われ、俺もいつ意識を失ってもおかしくない状況だが、支部の中枢が麻痺しかけている以上、いよいよ重い腰を上げなければならない・・・と言うよりは尻に火が付いたと言うべきか。暢気に傍観者を気取って支部の連中と仲良く死んだたら世話がない。
俺は壊れかけたアナログテレビを叩く要領で、空元気だろうとも自分自身に活を入れながら、意識が残っていそうなオペレーターに声をかけた。
「よぉ・・・お前さん無事か?」
「あ、あなたは?」
「本部からたまたま来てた部外者だ。コードネネームは「狂犬」で通っている」
「ゲッ!あの不死鳥の「狂犬」かよ!?」
「ゲッ!?とは何だオイ?しばくぞ」
「し、失礼しました・・・」
俺の悪運・・・不死鳥武勇伝もとい死神伝説はここまで伝わっているらしい。いつ頃からかは覚えてないが、どんな危険な任務を引き受けても、たった一人だけ必ず生き延びてくる様を皮肉られているだけで、不名誉な称号でしかない。
こちとら気色悪い変態寄生携帯獣の群に凌辱された末に死の運命を預言されているというのに、人の気も知れないでまったく失礼なヤツだ。まぁ今はそんな事を気にしてる猶予はない。どんなに罵られようが嫌味を言われようとも、こんなところでつまらなく死ぬのだけは真っ平ゴメンだ。
・・・・・・というよりも日頃から聞こえるガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャガシャ!!耳障りで不快な耳鳴りと、今の状況と結び付いてしまい自分の死期が迫ってきているような錯覚に陥ってしまう。冗談じゃないまったく。
「通信機材は生きてるか?」
「いや・・・どれも激しいノイズが混じりこんで使い物になりません」
「他に現場の状況を確認できるカメラは?」
「全滅です」
「ヤベーな。それじゃ防衛班の安否も不明だな?」
「はい・・・」
「こりゃ詰みだな。撤退しよう」
「早くない?諦めるの早くないですか?」
「化物との対決は引き際を見誤らない事が重要だ」
「なるほど・・・不死鳥さんの言うことは説得力がありますね」
「不死鳥じゃねーよ俺は狂犬だ馬鹿野郎。さっさと脱出するぞ」
「でも負傷者こんなにいるのにどうやって・・・」
「お前組織に何年いる?分かるだろう?」
「分かるだろうって・・・まさかみんな見捨てるんですか?汚いないさすが死神汚い」
「違うだろ間抜け!この基地には「脱出王」はいないのか?」
「嗚呼・・・!なるほど!!さすが不死鳥さんだ!!!オベッ!?」
とりあえず間抜けがムカつくからひっぱたいた。ポケモンマフィアが三度も我慢すれば十分過ぎるくらい寛大だろう。それはさておき「脱出王」とはテレポート能力に特化した改造フーディンである。
今じゃメタモンとトリオを組む戦闘特化した「奇術師」の方が人気だが、こういう緊急事態の時こそ「脱出王」の独壇場だ。
冗談みたいなコードネームだが、精神感応能力を広域化させることにより、支部内に存在する団員を感知し、余す事なく全員同時に本部の非難シェルターに転送する神業はコイツだけに許された専売特許である。
一方、頬を叩かれたオペレーターは突然我に帰り大事な事を思い出したらしい。
「あー!!でもうちの「脱出王」は今ボックスに預けてるから・・・」
「「脱出王」なら俺が連れてる」
「さすが不し・・・狂犬さん!」
「よし良い子だ。そうだそれでいい」
何で俺はこの緊急事態に間抜けと即興コントをしてるのか?只でさえ酷い頭痛に襲われてると言うのに余計に頭が痛くなる。んでもって頭痛の種は予想だにもしないところからも芽吹き出す。
そいつは間抜けの同僚だが、何やらいつの間にか復旧したパソコンのモニターを目にして酷く狼狽している。
その画面に映し出されているのは、巨大な怪物でも徒党を組むポケモンたちでもない。ガシャガシャガシャガシャ喧しい騒音をあげ、森の木々を次々となぎ倒しながら進撃していたのは、頭を項垂れさせながらとぼとぼと歩く見たことのない小型ポケモン・・・・・・いいや、よく見れば見覚えがある。頭蓋骨の被り物を失い、素顔を晒している孤独ポケモン・カラカラだ。
「おい、この映像はなんだ?」
「か、監視カメラにシルフスコープ・プログラムを起動させた映像です」
「・・・・・・おいおいおいおいおいおいおいおい!ありえねぇ!寝言は寝てから言ってくれ!頼むからな!おい!」
「シルフスコープっていたらあのシルフスコープですよね・・・これってもしかして、ひょっとすると幽霊ってヤツじゃないですか!ヤダー!!」
間抜けと初めて意見が一致した。シルフスコープ・システムとは、かつてシオンタウンに存在したポケモンの共同墓地・ポケモンタワーに巣食う幽霊と称される謎の怪異の正体を暴くため、シルフカンパニーが開発したトンデモアイテムの機能をそのまま流用した装置だ。
幽霊などと騒いで持て囃されていたが、実際の所はポケモンタワーに生息するゴースやゴーストたちが人を驚かせる為に編み出した術・固有フォームの一種であるとされている。この幽霊の姿にカモフラージュしている時はどんなポケモンだろうとも相手に絶対的な恐怖心を与えて戦意を喪失させる事ができるらしい。
今はなきポケモンマフィア・ロケット団はポケモンタワーを占拠し、幽霊の正体を暴いてその仕組みを解明し「テラーエフェクトシステム」なる装置を開発しようとしていた噂もあるが、実現までには至らなかったそうだ。
ポケモンタワーが移転して取り壊されて以来、幽霊と呼ばれる存在は確認されておらず、他の地方でも前例のない事例故に今となっては検証不能な案件とされ、シルフスコープもそれ以来お役御免、過去の遺物でしかなかった。
しかし、シルフスコープシステムで正体を捕捉したという事は、あの殻無しのカラカラは目撃談のように、自分の姿を巨大な怪物の幽霊であるかのように偽る事ができるらしい。
ヤツが何故この支部に迫ってきているのかは、余所者の俺には分からないが、その原因は顔面蒼白な間抜けの同僚から明かされそうだ。
「幽霊なんて生優しいものじゃない。あれは復讐鬼だ!我々がしていたことを忘れたのか?」
「すみません、俺ここに配属されたばかりで」
「俺はそもそも部外者だから諸々の事情が分からん」
「どうりで呑気でいられるハズだ!我々はかつてロケット団が手掛けていた「テラーエフェクトシステム」を再開発しようとしていた!その過程で大量のカラカラやガラガラを乱獲して研究材料として消費していたが結果は出せずプロジェクトは白紙に戻ったが・・・・・・この現象はまさに我々が構想していたテラーエフェクトシステムそのものなのだよ!」
「なにそれ?エフェクトガードシステム?」
「もういいから分からんなら黙ってろ」
「超展開すぎて置いてきぼりじゃないですか」
「俺も置いてきぼりだから安心しろ」
「なにそれ?すげー安心できないですよ」
間抜けは至極真っ当な突っ込みを入れてくれた。この緊急時に何度も話の腰を折られては堪らないが、暴走機関車のような超展開なのは間違いない。「テラーエフェクトシステム」なんてロケット団も途中で匙を投げたような突飛なオカルトプロジェクトを今になって再現しようだなんて正気の沙汰ではないし、何よりも腑に落ちない事がある。
「ところでなぜ研究材料はゴースやゴーストでもなく、カラカラやガラガラなんだ?」
「なんだアンタ知らないのか?ポケモンタワーで起こった怪現象の原因はカラカラやガラガラにあるんだ。タワーに生息していたゴースたちは、その影響を受けていただけに過ぎない」
「そりゃ初耳だ。それにしても凄い情報通だな?」
「そりゃ俺は元ロケット団員だからな。この支部の大半は元ロケット団員で構成されていて、当時の研究もここで引き継がれているんだ」
「マジでか」
「先輩って元ロケット団だったんだ!すげー!サインくださいよ!」
「サインなら後でいくらでも書いてやる!それより今は早くここから脱出させてくれ!さもないと・・・・・・!」
元ロケット団員は、これから自分たちの身に降りかかるであろう災いを想像し身をワナワナ震わせる。早く脱出しなければならない事は同意せざるを得ない。
ガシャガシャと騒音はすぐそこまで聞こえる。支部内にいる団員を避難させるべく、俺はボールから「脱出王」を解放した。
その瞬間、天井から巨大な何かがすり抜けて現れた。支部が崩壊することなく、するりとそいつは壁を通り抜けたらしい。
見れば至るところに様々なポケモンね骨や骸骨がひしめきながら集合している。真っ暗闇の虚ろな二つの孔がこちら見つめている。
「脱出おーーー」
「⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛⬛!!!!!!!!!!!!!」
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記録 20××年8月 ××地方 ××支部付近。
テラーエフェクトを発現した幽霊フォームのカラカラが出現。
その擬態した姿を複数の市民・及び団員が目視で確認するが、監視カメラにその姿を捉える事は出来ず映像記録は存在しない。
緊急事態のため基地の防衛班が出動し迎撃するが部隊は全滅、基地も襲撃を受けて全壊。
偶然その場に居合わせた本部所属の団員が所持していた改造フーディン・コードネーム「脱出王」の大規模瞬間転移術により、基地内にいた全ての団員は本部の緊急避難シェルターに転送されたが、団員の半数は発見された時点で死亡していた。生存者の中には精神に異常をきたす者が大半を占めた。
テラーエフェクトを発現したカラカラは、××基地破壊後、姿を消し行方不明である。
初めて書き込ませて頂きました。初めまして、若鷹と申します。
ポケモン世界の小学校の先生、ということでぼんやりと考えていた話を稚拙な文ながら投稿しました。
10歳でポケモンを貰って旅に出ることができるこの世界、義務教育も短いと思うと先生大変だろうなぁ。
ポケモンに関する逸話、神話を教材に浸かったりもするのかな。
使うとしたら国語よりは道徳的な視点を持って子どもに伝えるのかな。
現実での教育と繋がる部分もあるんだろうけど、この世界だからこそ、こちらの常識とは違う「ありそうな日常」を書いてみたい。
そう思いながらも。ぼんやり、ふわふわしたままで書き進めていったもので、上手くまとまっていない文章になっているかもしれません。
読んでいただきありがとうございました。
仕事が多忙なため大変遅筆でございますが、また機会がありましたら投稿してみたいと思います。よろしくお願い致します。
タグ: | 【批評していいのよ】 |
ひとと けっこんした ポケモンがいた
ポケモンと けっこんした ひとがいた
むかしは ひとも ポケモンも
おなじだったから ふつうのことだった
「みんな、この話知ってる?」
模造紙の四隅にマグネットを貼って黒板に固定する。その横に立ちながら黒の水性マジックで大きく書いた一節を声に出して尋ねてみたが、前に座る男女合わせて二十九人の子どもは首を傾げたり、黙ったり、隣の子と顔を見合わせたり。「知ってる」と言う声は期待できそうにない……が、まぁ、それは想定通りだ。大丈夫だよ、知らなくても大丈夫。と、僕は語り掛けるように話しながら笑んだ。そして、尋ねる。
「今、これを読んでみて何か思ったことがある人はいる?」
漠然な質問だ。口にした瞬間、しまったと思った。
何を聞いているのかハッキリしない質問は、できるだけ避けた方がいいと研修の際に何度も言われたのだが、気を抜くとつい言ってしまう。少しばかり覚えた焦りを顔には出さないように努めつつ、子ども達を見てみるが、「何かって、何をいえばいいの」と、困っている顔がちらほらと見える。それでも、手を挙げてくれた子どもはいたことにホッと安堵しつつ(もちろん、表には出さないように)、窓側に近い席に座るその子の名を呼んだ。少女はシズク。何の授業でも積極的に発言してくれる子だ。凛とした声で、はい、と答えた彼女が口を開く。
「人とポケモンが結婚するのって、不思議だなと思いました」
彼女の言葉に「同じです」といくつも声が続いた。それを聞いてホッとしたような、或いは満足したような様子で彼女は席に付く。声には出さなくても頷いたり、模造紙をじっと見つめていたりする子もいる。まぁ、それでもいいのだ。何かを考えていても、まだ言葉にする術を持たない子もいる。自信を持てない子もいる。そういった子には
「ミナミさんはどう?シズクさんと同じ?違った?」
と、声をかける。頷くだけでも、首を振るだけでも立派な意見だ。そりゃあ、理想は言葉で話してほしいけれども、苦手な子に無理矢理させたくはない。少しずつ、少しずつできるようになればいいのだ。経験は少ないけれども、これだけは譲りたくない僕のこだわりだ。
3人ほど、同じようなやり取りを繰り返した後でもう一度模造紙を示し、僕は口を開いた。
「これは、シンオウ地方に伝わる昔話でね……結婚、っていうのは皆にはまだ早い話だけど、つまり」
「先生は結婚してないですよね!」
「リュウセイ君、それ先生傷つくからやめて。」
どっと子ども達が笑う。クラスのムードメーカーの言葉に苦笑いを浮かべながら頷くと、彼も満足した様子で背中を伸ばした。
僕は、一度教室を見回して小さく息をついて言葉を仕切り直す。
「まぁ、簡単に言えば、一緒に過ごすってこと。皆の家にも色々あると思う。ポケモンがいる家、いない家。でも、皆の身の回りでも、野生じゃないポケモン……誰かと一緒にいるっていうポケモン、見たことあるよね」
「ジョーイさん!ジュンサーさん!」
「日曜に、引っ越しのトラックにゴーリキーが乗ってたの見たよ。」
「ねんりきで荷物運んだりもしてるよね。」
「給食の牛乳!ミルタンク!」
「ポケモン・バッカーズ!」
「この間、グラウンドにジジーロンが来てた。」
投げかけたと同時に、一人一人と矢継ぎ早に声が上がる。賑やかかだ、とても賑やかだ。時にはそれがムックルの群れ張りにやかましくなるその声は、ドゴームの叫びにも負けないかもしれない。それぐらいのエネルギーが子ども達にはある。
10歳になった子どもは図鑑とパートナーを受け取り、旅に出る。故に、この国での義務教育は7歳から10歳までの4年間となる。トレーナーズスクールといったものもあるが、それは公立の小学校とはまた違ったものだ。基本的に10歳を迎えた子どもの家庭は、その地域の研究所と相談した上で旅の日取りを決めていく。連絡を受けた教師は、その子の指導要録、学校生活に関する所見文を研究所に送ることとなっている。学校も一つの研究機関であるから、こうして研究所と連携することになっているのだ。しかし、学校ができることはここまで。子どもが旅に出ることに教育者が介入することはできない。だから、この4年間の間に教師は子ども達に伝え、子ども達に考える場を与えなければならない。
「人もポケモンもおなじだったって、どういうこと。」
そう投げかけた瞬間、子ども達の声が止まった。
この言葉を知ったのは、もう15年ほど昔のことになる。自分がこの子達ぐらいの歳の頃、シンオウ地方はミオシティの親戚の家へ遊びに行ったときに僕はこの神話を聞いた。不思議な話だ。幼心にそう思った自分は、母にその意味を尋ねたことを覚えている。
模造紙の一節に赤いマーカーを引いた。ぼそぼそと呟く声、自分の考えを伝える声を一度止めて、
「隣の人と相談してみて。終わったら前の席、後ろの席の人と相談してみてごらん。」
そう、声をかけた。
このクラスの子ども達は皆、9歳になった。旅に出るのは10歳の誕生日を迎えてからとされている――つまり、その日が来れば順次、この子達は旅に出ることだ。その日が来れば彼は、彼女らは、己とそれぞれのパートナーと共に、これから続くであろう先の見えない長い道を歩いていくことになる。
だから僕は、この話を伝えたいと思った。教育者という立場から言うのなら「道徳的実践力を養う」「正しい道徳観の涵養を目指す」といった堅苦しいものになるのだが、要するに、自分で考える力を持ってほしいのだ。何が正しいのか、どうあるべきなのか、そんなものは人の数だけ答えがある。
子ども達からは色々な考えが出た。
人は人、ポケモンはポケモン。
どっちも命。
ポケモンに助けられてる。
助け合って生きてる。
子ども達の言葉を箇条書きで書き連ねていく。
僕はこの問いに「答え」は出さないつもりでいる。
あの日、一緒に過ごしていけば貴方だけの答えが見つかると教えてくれた母のように。
『ひともポケモンもおなじ
↓
ひとも ポケモンも 互いに助け合う』
子ども達の声を繋ぎ合わせた言葉。黄色いチョークに力を込めて、書いた文字を丸で囲む。
「先生にこの言葉の答えは分かりません。だって、これは昔話だから。書いた人がどんな気持ちだったのか、予想することしかできない。だから、みんなで考えたこれが答えなら、それでいいと思ってる。」
この春、僕は初めて子ども達を送り出す。真っ直ぐにこちらを見つめる五十八個の瞳にあの日の自分を重ねながら。
その心の片隅に、今日の日が残ることを願いながら。
※キャラ崩壊と捏造しかないです
――ククイさんよ、あんたと俺はお互いキャプテンになれなかった者同士。アローラ地方に残る古くさい風習、しまキングやキャプテンなんてくだらない連中に変わる、新しいものがほしくなるよなあ。
――僕はなれなかったではなく、ならなかったんだ。夢のために、ね。
+++アローラ、ぼくのふるさと+++
あの子と初めて会ったのはそう、僕が視察のため初めてカントーの地を訪れて、ジムリーダーたちと一戦交えさせてもらったあとのことだ。
慣れない土地で初めての相手ってこともあって、勝負自体は何というか相手にいいようにやられた。まあそれはいいんだ。今回は別に勝ちに行ったわけじゃないし。今回はね。
ともかく、僕は相棒のルガルガンを連れて、競技場裏の通路を歩いているところだった。
すいません、と声をかけられた。まだかなり若く見える、髪の長い女性が僕のところへ小走りでやってきた。
女性に隠れるように、まだ幼い子供が僕の顔をうかがっていた。
アローラに移住したいんです、とその女性は言った。前からアローラ地方に憧れてて、僕の試合を見てますます興味を持ったとか。
僕の試合に熱くなってくれたのはとても嬉しいんだけど、ちょっとそれどころじゃない事情があった。慣れない土地で初めての相手にいいように翻弄されて、ちょっとばかり気が立っている傍らの相棒を、早いところどこかで落ち着かせてやりたいと思っていたからだ。
なのだけれど、興奮してさっきの試合状況を熱く語る目の前の女性はどうやらその雰囲気を察してはくれないらしかった。この国の人は空気を読むのが得意と小耳に挟んだけれども、個人差はあるようだ。参ったなあ、と思いながら、そっと傍らの相棒に目線を落とした。
さっきまで女性の影にいた子が、気の立っている相棒の顔をじっと見つめていた。
その子は気の立ったルガルガンを恐れる様子もなく、相棒に手を伸ばした。鈍く光る牙も低いうなり声もものともせず、そっと頭に触れる。
しばらく警戒を続けていた相棒は、その子に撫でられているうちに落ち着きを取り戻し、気持ちよさそうに目を細めて、細い指が毛をかき分けるのを楽しんでいた。その様子に気づき、あらあら、気持ちよさそうね、と女性は脳天気に笑った。
僕はへえ、と小さく声を上げた。元々僕以外が触るのを好かない上に気が立っている相棒が、頭を触らせるだけでも驚きだ。その上、撫でるだけでおとなしくさせるなんて。まだ自分のポケモンも持っていない幼い子供だというのに。
ぴんときた。この子はものすごい才能を秘めている。まだトレーナーではないけれど、この先ポケモンを持ったならば、それこそとんでもない実力を発揮するだろう、と。
僕が探し求めていたのは、この子に違いない。
アローラへの移住でしたっけ、喜んでお手伝いしますよ、と僕が言うと、女性はとても喜んで飛び上がった。
相棒の頭をひと撫でしてボールへ戻した。撫でる相手を失った子供はまた女性の影に引っ込んだ。
僕は膝をついて、恥ずかしそうに身を隠すその子に向かい、笑顔で手を上げて、アローラ、と言った。
あろーら? とその子は不思議そうに首を傾げた。
アローラ地方の挨拶だよ。親切・協調・喜び・謙虚・忍耐、という意味の五つの言葉からできているんだ。僕は指折り言った。
「いろんな場面で使えるんだ。はじめまして。こんにちは。ようこそ。いらっしゃい。お元気ですか。愛しています。ありがとう。そして、おやみなさい。さようなら。それが全部この言葉の意味なんだよ」
僕がそう言って笑うと、母の陰に隠れていた子供は少し体を出し、照れたように顔を真っ赤にして、あろーら、とはにかんだ。
*
「――以上が、僕の提案です」
いかがですか? と微笑んだ先には三人の男女。メレメレ島のハラさんと、アーカラ島のライチさんと、ウラウラ島のクチナシさん。それぞれの島のしまキング・しまクイーンたちだ。
それぞれ、僕が配った資料の山を眺めたり、腕を組んだりして考え込んでいる様子だ。
「……ポケモンリーグ、ねえ……」
クチナシさんがいすの背もたれにもたれながらつぶやいた。僕はそちらに目線を向けてにこっと笑った。
「はい! アローラの実力あるトレーナーたちが、聖地であるラナキラマウンテンで力と技を争うんです!」
詳細は先ほど説明したとおりです、と言って、僕はもう一度にっこり笑った。
ハラさんが腕を組んで、うーむと唸り声を上げた。
「いやぁ、他ならぬ君の提案だし、話はわかりますぞ。しかし……アローラの伝統を考えると……」
「ラナキラマウンテンは聖地であり、元々大大試練が行われていた場所でもあります。それの延長と考えてもらえればいいんじゃないでしょうか?」
リーグという形式上、大大試練より少し、門戸は広がると思いますけどね。僕がそう言うと、ハラさんはまた唸って首をひねった。
「ならば、現状を維持してもよろしいのではないかな? わざわざリーグという形式をとらずとも……」
「僕の狙いは、島巡りの最後の仕上げという側面しかなかった大大試練を、もっと意味あるものにすることです。リーグという形をとることによって、年齢性別キャリアの如何を問わず、純粋に実力あるトレーナーを選別できます。そして、いずれはアローラから世界に通じるチャンピオンを生み出すことでしょう」
ううむ、とハラさんは三度渋い顔をした。僕は小さく息をついて、腕を組んだ。
「みなさんご存じでしょう? 巷を騒がせているスカル団のこと。……なぜ彼らが、ああなってしまったのかも」
僕はそう言って、ちらりとハラさんの方を見た。ハラさんは言葉に詰まったように眉根を寄せた。
「現状の島巡りでは、確かによいトレーナーが育つかもしれませんが、それと同じくらい、いやその何倍も、ふるい落とされるトレーナーがいます。現状、彼らはトレーナーとして復帰できるきっかけがない。リーグは彼らの受け皿になります。島巡りを諦めても、また新たな目標が出来る。若者が非行に走るのを防ぐことが出来ます」
むう、と低く唸ったきり、ハラさんは腕を組んだまま動かなくなった。
僕はもう一度ハラさんに微笑みかけて、他の方々はどうですか? と聞いた。
ライチさんと目があった。あたしはいい考えだと思うけど、と言いながら目線を動かして、いすの背もたれにもたれて書類を眺めているクチナシさんの方を向いた。
「設立予定地のしまキングさんは、どう思う?」
ライチさんがそう言うと、クチナシさんは書類から目線を外し、しばらくじっと僕の方を見つめてから、小さく肩をすくめた。
「ま、ひとつ言っとくなら、ポニ島のじいさんが生きてりゃ即反対しただろうなってことだな」
そう言って、クチナシさんは手に持った資料をばさりと机の上に投げた。数年前亡くなったしまキング。伝統を何より大事にする人だった。そうでしょうね、と僕は苦笑いを返した。
だけどまあ、とクチナシさんは頬杖をついて小さくため息をついた。
「俺はスカル団のことは一番近くで見てるからなあ。その辺のこと言われると反対も出来んわな」
ラナキラのことも理にかなってるし、そこんところも俺は納得したよ、と言って伸びをし、あくびをした。
そして、ただなあ、とクチナシさんはだるそうに続けた。
「やるなら止めやしないけど、協力はしねぇぞ。これでもカプに指名されてこの座にいるもんでなあ。人に指図されるなんざ性に合わねえや」
「そう言っていただけただけでも十分ですよ。ありがとうございます」
そう言って僕は笑顔を向けた。クチナシさんは何となくシニカルな笑みを口元に浮かべた。
ラナキラマウンテン、ねえ、と、ライチさんがつぶやいた。何かありましたか? と僕が問うと、ライチさんは心配そうな顔をこちらに向けた。
「近いだろう? あの……村に。大丈夫なのかい?」
「ご心配ありがとう、ライチさん。でも、大丈夫ですよ。万が一何かあっても、責任は全部僕が負いますしね」
僕がそう言って歯を見せて笑うと、あんたは昔から本当に怖いもの知らずだね、とライチさんは笑った。
*
たたき落とされて地に伏したドデカバシをボールに戻しながら、彼女は大きく息を吐いた。
「……さすが、お強いですね、ククイ博士」
「いやいや、噂に違わぬ実力でしたよ、カヒリさん」
それはどうも、とツンとした声で彼女は答えた。ちょっと不機嫌そうな顔だけど、負けて怒っているわけではない。この経験をどう生かすか考えている目をしていた。
やっぱり、外に羽ばたいていった実力者は違う。そんなことを考えていると、彼女は左手を腰に当てて、ふうとおおきく息をついた。
「それで、なぜあたしに?」
「いやあ、確かに島巡りチャンピオンは他にもいるんだけどさ。ほら、何て言うか、みんな腑抜けちゃってるから」
トレーナーとしての限界を感じたから、あなたはアローラを飛び出したんだろう? と僕が言うと、元島巡りチャンピオンは肩をすくめた。
「そうですね。正直、あなたの誘いに乗ったものか悩んでいますよ。手応えのない相手ばかりでは、自分でトレーニングしていた方がずっとましですから」
「ああ、それは大丈夫。僕イチオシの、とっても才能のあるトレーナーがいるからね」
楽しみにしててよ、と僕が笑うと、彼女はポーカーフェイスを崩さないまま、それは楽しみですね、と小声で言った。
「ポケモンリーグ、ですか。正直、故郷にそんなのが出来るのが驚きです。よく許可を得られましたね」
「それはまあ、頑張ったからね。どうしても実現したかったから。僕も本気でやらなきゃ」
それで四天王候補全員とバトルしてみたのですか? と彼女が聞いてきたので、まあね、と僕は答えた。
こちらが頼む以上、相手の実力は知っておきたかったからね。みんなさすがの強敵だったよ。そう言うと、彼女はドデカバシを収めたボールに目を落として、小さくため息をついた。
「実力あるトレーナーをお求めでしたら、あなた自身でもよろしかったのでは?」
「いいや、僕はねえ……そういうキャラじゃないから」
僕がそう言って歯を見せて笑うと、仏頂面の彼女がふっと小さく笑った。
「……そうですね。あなたはこちら側ではありませんわね」
苦笑交じりにそう言って、アローラの生んだ世界的ゴルファーは、彼女の切り札がモチーフのドライバーを右肩に担いだ。
*
研究所前の砂浜で、ぼんやりと海を眺めていた。
今日もいい天気だ。日差しがまぶしい。僕がしばしば、いや研究の一環なんだけど、技を暴発させるせいか、最近はここに近づく人もそんなにいない。白い砂浜。贅沢なプライベートビーチだ。
伸びをしながらあくびをかみ殺していると、博士、と背後から声をかけられた。振り返ると、初代アローラリーグチャンピオンが、ロトム図鑑を連れて僕の元へ走ってきていた。
僕が見込んだとおり、いやそれ以上の才能を持ったこの若きチャンピオンは、アローラに来てからほんのわずかの間に、様々な偉業を残して見せた。
島巡りを滞りなくこなし、アローラを覆っていた影を払い、伝説に伝わるポケモンをその手に収め、そしてアローラリーグの頂点に立ってからは防衛記録を絶賛更新中だ。本当に、僕が想像していた以上にこの子はすごい。アローラに連れてきて、本当によかった。
どうしたんだい? と僕が聞くと、チャンピオンは少し困ったような顔をして、大丈夫かな、と小声で言った。
心臓が跳ねた。まさか、もしかして。この子は。
急上昇する心拍数を抑えるように静かに深呼吸して、何かあったのかい? といつもの調子でチャンピオンに聞いた。少し迷った様子を見せて、チャンピオンは口を開いた。
「カプ、捕まえちゃった」
そう言って、チャンピオンは図鑑を見せてきた。捕獲済を示すボールのマークが、四匹の守り神の名前の隣に燦然と輝いている。守り神なのに、大丈夫かな、とチャンピオンは心配そうに身を縮こませた。
どっと汗が全身から噴き出した。動悸がする。呼吸が荒くなり、ぐらぐらと視界が揺れる。
捕獲済。捕獲済。僕は何度もそれを見直し、チャンピオンの肩に手を置いた。まだ幼いその子が一瞬身をすくめたのを感じた。
「おめでとう! 君ならきっと出来ると思ったよ! よくやったね!」
すごいよ、おめでとう。僕は満面の笑顔でそう言い、チャンピオンの肩を大げさにばんばんと叩いた。
尋常でなく喜ぶ僕の様子を見て、まだ幼い異国出身のチャンピオンは、初めて会った時と同じように頬を染めてはにかんだ。
ああ、本当に。本当に、よくやってくれたよ。
僕が思っていたとおりだ。やっぱりこの子はやってくれた。
これで、全部作り替えられる。
誰もいなくなった研究所前の砂浜。
静寂の中で、海風が吹く。僕はそれに押し倒されるように、砂浜に倒れ込む。
のどの奥から笑い声が漏れる。愉快で愉快でしょうがなかった。次第にそれは抑えられなくなり、僕は酸欠になるほどゲラゲラと大きな笑い声を上げながら、子供のように浜辺を転げ回る。
ばんざい。これで全部思い通りだ。ふざけやがって。ちくしょう。ざまあみろ。時折そんな言葉が混ざる。
狂ったような哄笑の中に、引きつるようなすすり泣きが混ざる。時折怒りにまかせて砂浜を殴り、ぐちゃぐちゃになった感情が内にとどめられず噴き出していく。
感情の爆発は徐々に収束し、僕は何とか体を起こして砂浜の上であぐらをかいた。ぜいぜいと肩で息をする。サングラスの上から目を押さえる。虹色のレンズに滴がしたたっては、つり上がったままの口角に流れ落ちる。
深呼吸をして、散らばった感情をもう一度ゆっくり噛みしめる。くつくつと、押し殺したような笑いがまだ漏れた。
じゃり、と砂を踏む音がした。僕は顔を上げた。
視界の端に、黒い服に白い髪の、猫背の大柄な青年が見えた。
「……ああ、久しぶりだね、グズマ君。マリエの庭園で会って以来かな?」
スカル団が解散して以来、しまキングの弟子に戻ったとかいう話も聞いたけど、姿は見かけなかった。どこかを放浪しているんじゃないかという噂も立っていた。リーグチャンピオンもその座について以来一度しか顔を合わせていないとか。
以前会った時より格段に丸くなったように見える僕の後輩は、呆れ顔を僕に向けてため息をついた。
「たまたま近くを通りかかったらよ、何か馬鹿笑いが聞こえてきやがったもんでな。……何かあったのか?」
「いやあ、何でも。……ちょっとばかり、楽しいことがあっただけさ」
へえそうかい、と猫背の後輩は興味なさそうに相づちを打った。僕はそっと目線を外してさりげなくサングラスを取り、元スカル団ボスに見られないように目元を拭った。
それ以上話が発展しない。何しに来たんだろう、とも思ったけど、彼にとっては頭のおかしい笑い声の主が自分の先輩だったっていうことがわかったことで、もう用事は終わりなのだろう。
やれやれと僕は立ち上がり、白衣をはたいた。白い砂が体のあちこちからこぼれ落ちてきた。
「さっき、チャンピオンが来てたよ」
僕がそう言うと、後輩の猫背が少し伸びた。
「強いね、あの子は。もう何度もチャンピオンの座を防衛しているみたいだ」
「……けっ、関係ねぇな」
「君の部下だったあの子……そうそう、プルメリちゃん、だったっけ。あの子も来たみたいだよ。トレーナーとしてちゃんとやり直す、ってさ」
元部下の名前を出すと、彼はぎろりと僕をにらみつけてきた。僕は苦笑して、威嚇してくる後輩に言った。
「なあ、グズマ君。君もリーグにチャレンジしてくれると、とっても面白いことになると思うんだけどなあ」
はあ、と後輩は不機嫌そうな顔を更に不機嫌そうにして、ため息をついた。
「あん時言ったろ。ポケモンリーグはいけねえぜ、って。……行く気はねえよ。今のところはな」
「君が真っ先に、賛成してくれると思ってたんだけどなあ。……リーグのチャンピオンじゃ、お気に召さないかい?」
愚問だなあ、ククイさんよお、と鼻で笑われた。
「バトルロイヤルで頂点に立って、アンタは満たされたかい?」
意地悪く笑ってそう言う後輩に、そうだよねえ、と僕は肩をすくめて苦笑いを返した。
なるほど、島巡りに対する執着は相変わらずみたいだ。彼も、……僕も。
固執しても、どんなに求めても、彼も僕も、もう戻れる場所なんかないのに。
「ククイさんよ」
「何だい?」
「俺様はなあ、あんたのためにリーグに出たりはしねぇよ」
「……そうだろうね。それでいいさ。いずれ気が向いたらでいい。君のために来てくれ。待ってるからさ」
チッ、と舌打ちする音が聞こえた。
後輩はまた大きくため息をついて、もう行くわ、と言った。
ハラさんのところには行かないのかい、師弟関係に戻ったって聞いたけど、と僕が聞くと、知るか、俺は俺のやりてえようにやるだけだ、と吐き捨てるように言った。
ザク、ザク、と砂を踏む音が三回したところで、また風が吹いた。今日は風が強い。
アローラの風が吹けば、何が起きるかわからねえ、か、と後輩が足を止めて独り言ちた。
それにしても、と後輩は振り返り、シニカルな表情を僕に向けた。
「派手にぶっ壊してくれやがったなあ、ククイさんよぉ」
お褒めの言葉ありがとう、と僕が返すと、僕とよく似た後輩は、背中のバツ印を僕に向けたまま肩をすくめた。
*
『ククイさんよ、あんたと俺はお互いキャプテンになれなかった者同士。アローラ地方に残る古くさい風習、しまキングやキャプテンなんてくだらない連中に変わる、新しいものがほしくなるよなあ』
あの日マリエの庭園で、親愛なる挫折仲間にそう言われた時、正直なところ、痛いところ突かれたなあ、と思った。
『僕はなれなかったではなく、ならなかったんだ。夢のために、ね』
自分に言い聞かせるように、かつてプライドに刻まれた消えない傷を隠すように、負け犬は吠えた。
*
僕は、挫折組だった。
この地方の残酷な伝統による、敗者だった。
誰よりも努力して、強くなった。Zリングだってもらったし、島巡りだって順調に終わった。
それなのに、僕には何も残らなかった。親友のマーレインはキャプテンになったのに僕はなれなかった。もちろんしまキングなんて箸にも棒にもかからなかった。僕の努力は何の成果ももたらさなかった。島巡りを終えた、ただそれだけの何の意味もない事実が残されただけだった。
島巡りは通過儀礼。挫折すれば大人たちに後ろ指を指され、かといって必死で終わらせても、もたらされるものは何もない。結局この島で力を持つのは神と呼ばれるポケモンの些細な気まぐれ。僕たちがどれだけもがいても、あがいても、それが報われることなんて、ない。
この島では、どんなに強くても、気まぐれな禁忌の目にとまらなきゃ、トレーナーとしては絶対に大成できない。
四つの島にたった四人のしまキングか、それが任命する七人のキャプテンか。
キャプテンは二十歳まで。それを過ぎたら島の首長になるしかない。
大人になったトレーナーに、上へ行くチャンスはほとんどない。せいぜい、島巡りのあちこちで小さな障壁となるサポーターの位置を確保するくらいだ。
僕と同じ絶望に襲われた後輩は、全てを破壊する方へ向かった。
明らかな犯罪行為に走る彼らをこの地方の人々が強く止められなかったのは、半ば野放しみたいな状態になっていたのは、無意識にかもしれないけれども後ろ暗いところに気がついていたからだ。
じゃなければ、あんな状態の彼らが闊歩する中で、「アローラは平和だから」なんて、警察が堂々と言えたりするものか。
この場所で、努力は実を結ばない。
神のほんの気まぐれがなければ、誰にも認められない。
どんなに強くなっても、この地方の中では、目指す目標はどこにもない。
挫折と、絶望。
なくしてしまえ。僕を蔑ろにした伝統なんて。努力を踏みにじる風習なんて。
全部作り替えてやる。伝統も、風習も、何もかも全て過去のものにしてやる。
僕はなれなかったんじゃない。ならなかったんだ。
その負け惜しみを事実にするため、僕は夢を持った。
その答えが、リーグの設立だった。
僕は僕のために、その夢を持った。
しまキングやクイーンたちの説得は、多少は揉めるだろうけど何とかなるだろうとは思っていた。
ポニ島のキングがいたら即刻却下されていただろうけど、王座は空白だった。今しかチャンスはないと思った。
一番伝統にこだわるのはハラさんだろうけど、何せ自分の実の息子がこの島の伝統に負けてアローラを出て行ってしまっている。だから、そのあたりを突けば崩せるだろうと思っていた。リーグが出来てあの子がチャンピオンに就いたあと、スカル団員たちをあの後輩含め自分の元に大勢引き入れているのを見る限り、やっぱり僕が考えていた通り、思うところはたくさんあったのだろう。
島巡りの子たちを自分の子供のように見守っている優しいライチさんも、情に訴えればいけると思った。彼女も自分が見守ってきた子たちが挫折し非行に走るのを嫌になるほど見てきたはずだから。若いだけに考え方も柔軟だろうし。
一番読めないのはクチナシさんだった。元々他の地方で長く仕事をしていたという、この島で上に立つ人としては珍しい立場。しまキングとして君臨している今でもまだ内部はごたついているらしく、マーレインから話を聞く限り、キャプテンを任命する仕事も放棄しているようだ。他地方のやり方を知っているだけにリーグという提案に乗ってくれる可能性も大いにあったものの、そういう立場でありながらしまキングの座を守っていることを考えると、むしろあの島の神とのつながりは強い方なのかもしれない。そもそも僕が提案した計画その場所の長だ。見逃してくれただけでも十分すぎる成果と言えよう。
ラナキラマウンテンにリーグを造るのにこだわったのは、あそこが大大試練の場であること以上の理由があった。
あの場所が聖地だったから。そして、禁忌に触れた罰を受けた村のほど近くだったから。
リーグへ行くためには、必ずあの村を通らなければならない。神の怒りを買った村。アローラの人たちの「畏れ」の象徴。
自然と、聖地に造られたリーグと対比される。この村と違って、リーグは怒りを買わない。許されている。そういう印象を受ければ、出来たばかりのリーグは人々に受け入れられやすくなる。リーグという存在が、より早くアローラに浸透する。
あの村と同じ末路をたどる心配はしていなかった。なぜなら、全て計算していたから。
マリエの図書館にある、アローラの伝説についての大量の蔵書。もちろん片っ端から読み漁った。そして知った。
守り神が一番大事にしているのは、彼らの仕える太陽と月の獣だということ。それがかつて空間の裂け目からやってきたこと。
妻が空間研究所で働いていたから、アローラに起こる空間の異常については知っていた。それがウルトラホールというもので、どこかの異世界に通じていることも。
最近になって、空間の不安定さが増してきていることも。
ウルトラホールが開くなら、その向こう側から何かがやってくるだろう。人とアローラの自然に甚大な影響を与える存在が。守り神は感づいているはずだ。
彼らが一番に考えるのは、アローラの自然と、自分の仕える存在の保護。そのために力を蓄えているはず。
ウラウラの守り神は、つい最近村をひとつ消したばかり。僕の動向に構っていては、力が足りないだろう。怒りを買った元凶のスーパーが他の島では平然と営業しているのを考えても、縄張り意識の強い守り神が他の島に干渉してくることはないはずだ。
そもそも、聖地とはいえ伝統的に大大試練を行ってきた場所だ。しまキングやそれに値する人が集ってもおかしくはない。
僕はちょっとその場所に、新しく建物を造るだけ。文句を言われる筋合いはない。
だから、大丈夫。この地方の人たちが思っているより、守り神は気まぐれで利己的だ。
人々が禁忌を過剰に畏れるほど、計画通りにいった時の成果は大きい。
そして、最後の仕上げ。
一見伝統を継いだように見える、聖地に造られたリーグ。最初のチャンピオンが、僕の選んだあの子だったからこそ、意味があった。
アローラで生まれなかった、この島の伝統なんて何も知らない、でも才能にあふれた、まだ幼いあの子が、本来イレギュラーであってしかるべきのあの子が、この地方で最初のチャンピオンになる。それが重要だった。
それこそが、僕が作る新しい世界の象徴であるから。
リーグは誰も拒まない。
島巡りなんて達成しなくていい。神に認められなくてもいい。若くてもいい。年をとっていてもいい。アローラ出身じゃなくてもいい。ただ、力さえあればそれでいい。
くだらない伝統で、理不尽に絶望する必要なんてない。僕のように。僕の後輩たちのように。
このままあの子が、才能あふれたあの子が、世界中にアローラリーグが知れ渡るまで、その座を守りきってくれるといい。
いつか挫折仲間のあの後輩も、チャレンジしてくれるといいな。彼は少しばかり運に恵まれなかったけれども、実力は指折りなんだ。島巡りで挫折した人間がチャンピオン。痛快だろう?
僕がその座につくのも悪くはないな。まあ、こだわりはないんだけれども。僕自身がどのポジションに着くかより、この文化がどんどん定着してくれることが僕にとっては大事だ。
そしてあの子は、この島の象徴である神を捕まえた。島の誰もが恐れる禁忌を、ボールの中に納めてみせた。
ああ、なんて素晴らしいことだろう!
もう邪魔は出来ない! この地方を縛るものは何もない!
いずれしまキングもキャプテンも形骸化して、儀式的意味合いを持たないものになるだろう。何せ、任命するはずの神は、触れてはいけないはずの禁忌は、リーグ初代チャンピオンのボックスの中だ。
人の命は永遠じゃない。囚われの神はいつの日か、人の作った呪縛から解放される時が来るだろう。でもその頃にはきっと、この地は僕の作った新たな秩序に、人の世の理に支配されているはずだ。
神に帰る場所はない。彼らはすでに、強い力を持った単なるポケモンに成り下がった。
伝統が過去のものとなった時、僕の挫折は時代の流れに覆い隠される。
そして代わりに、僕は新たな秩序を作ったものとして、その名を永遠に刻まれるだろう。
きっとその時、ようやく僕は報われるんだ。
不意に吹いた風がキャップを飛ばした。僕は顔を上げる。どこまでも続くべた塗りの青い空。人の作った白い砂浜。転がったキャップは波打ち際で、頭頂部を塩水にさらしている。サングラスを外して胸ポケットに押し込み、空を見た。強く烈しいはずの日差しは、今の僕の目には全くまぶしく感じなかった。
とても、清々しい気分だった。
左手首にはまる、鈍く輝く石のはまった白いリングに指先を触れた。ぬるい体温が伝わってくる。
かつてほんの一瞬だけ、守り神だったものに認められた証。僕の栄光と、努力と、挫折の象徴。
僕は薄く微笑み、聞く者のない言葉をそっとつぶやく。
アローラ、愛しい僕の故郷。
願わくばもう二度と、目を覚ますことのないように。
+++
ララバイ(lullaby):子守歌
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さる画家の老人から聞いた話。
ドーブルにはすごく稀に尻尾の絵筆が黒いの色のたドーブルがいるそうだ。
そのドーブルが黒で絵を描くと、絵はひとりでに動き出すらしい。
図工の時間が嫌いだった。
家は貧乏だから僕は絵の具を持っていない。
物のない時代、兄弟の一番上だった僕には兄弟からのお下がりなんてものもなくて、絵を並んで描くような友達もいなかった。
だから写生する絵はいつも鉛筆の黒一色だった。
先生はそれで許してくれたけれど、ずっと笑われている気がしていた。
写生の時間、絵をほっぽり出して学校を飛び出した。
けど行くあてもなくて僕は神社の賽銭箱の横にうずくまって泣いていた。
あのドーブルが現れたのは、そんな時だった。
境内のどこからか現れたそいつは水墨画から飛び出したみたいななりで、瞳と口の中以外は白黒の活動写真みたいな体色で、絵筆でもある尻尾の毛先は黒だった。
そのドーブルはにっこりと笑うと、境内の石畳に黒い尻尾の先で黒い絵を描き始めた。
まるで踊るように舞うようにドーブルは絵を描いた。
ある時は軽やかに跳ねて、ある時は駆け抜けた。
黒い尻尾の先の絵の具が石畳に跳ねて、飛び散った。
あれよあれよという間に石畳には一匹の龍が現れた。
ドーブルはその黒い龍を満足げに眺めると、自分の前脚を尻尾で染めて、完成、とでも言うように石畳に押し付ける。
すると信じられない事が起こった。
龍が途端に石畳から浮き上がって、実体を持ったのだ!
そいつは咆哮を上げ、神社の境内をくるくると飛んだ。
黒い龍ってかっこいいなあと僕は思った。
長い身体の龍は舞い続ける。
そのうちにその鱗の色が変化し始めた。
最初は藍色、次第に色が明るくなって青になり、紫、赤、橙へと変わっていく。
黄色までいくと金色に輝いて、次第に緑色を帯び、焦げ茶、そして最後にまた黒になった。
黒に戻った龍は上空へ登っていき、そして見えなくなった。
いつのまにかあのドーブルもいなくなっていた。
三原色と混色、という話を図工の時間に習ったのはそれからしばらくしてからだ。
絵の具の色は様々な色を塗り重ねる事でその色見を変えていく。色は重ね塗りのたびに暗くなっていき、最終的には黒になるという。
黒い龍が空に昇った後も僕の描く絵は相変わらず黒かった。
れど、もう色がなくて情けないという風には思わなくなった。
だって黒は全部の色を持っているのだから。
どんな色にだってなれるって僕は知っているのだから。
「夏の終わりに、かぁ」
「あん?」
テッカニンの煩い求婚がぐわんぐわんと鳴り響く。
縁側から外を眺めタマザラシ型の丸い小さなアイスを頬張りながら呟いた言葉に、俺の後ろでマッギョの形をした魚のすり身の駄菓子をかじりながら数式を解いていた奴が反応した。
8月の末、残りの宿題を一緒に片付けようぜと転がり込んできたこいつは俺のダチ。家が隣の腐れ縁だ。俺の親父もじいちゃんもひいじいちゃんも、こいつのそれとダチだ。つまりは先祖代々ってやつ?
「なんだよいきなり。暇なら手伝えよ」
「やなこった」
ピンク色のタマザラシを口に入れて噛み砕く。これは一袋に3つしか入ってないモモン味だ。俺は普通のサイコソーダ味の方が好きだが。
「思い出したんだよ、タイトルを必ず『夏の終わりに』にする小説のコンテスト」
「なんだよそれ、出したのか?」
奴は聞きながらずりずりと畳を這いずって俺の隣まで来た。
「俺じゃねえよ、クラスの女子。あのみつあみの」
「ああ……あいつ、顔は可愛いけどよく分かんない奴だよな」
なに食わぬ顔でモモン味のタマザラシをつかみ、ひょいと口に放り込んだ奴のもごもごと動く頬と喉仏から目が離せない。
「お前ああいうのが好みなのか?」
「ひえーお」
ああ、こいつアイスはしゃぶる派だったな。頭が痛くなるからとかなんとかかわいこぶりやがって。こういうのは噛み砕くのが醍醐味だろーが。
つかなんだよその格好は。タンクトップとか無防備にも程があるだろ。ご丁寧に汗まで流しちゃってよ。
「あー、美味かった。俺モモン味大好き」
そうかそうかそんなに良かったか。おいやめろその笑顔暑さを忘れるだろうが。
「……もういっこやるよ」
「マジで!? さんきゅー」
にぱっとか音がしそうに笑うんじゃねえ。
若干溶けかけた最後のピンクのタマザラシを口に含んで、奴を押し倒して口付けた。
親父、じいちゃん、ひいじいちゃん、すまねえ。この血筋は俺で途絶えそうだ。
テッカニンさんよ、俺も便乗させてもらうぜ。
夏の終わりに、ダチと一線を越えた。
その日の夜。俺は畳に突っ伏しながら頭を抱えていた。
「やっちまった……」
というかヤっちまった。以前からヤバいヤバいとは思っていたが理性で封じ込めていたというのに。クーラーが壊れていて暑さをまともに食らっていたのが不味かったのか? 恨むぜまったくよ。
「陸太、あんた何やってんの。夕飯の準備するんだからそこどきな」
不躾な物言いが降ってきた頭上を見上げると、腰に手を当てた姉貴が見下ろしていた。
「やなこった。俺ぁ今人生最大の危機に直面してんだ」
「訳わかんないこと言ってないで暇なら手伝ってよ」
「やーだね……うおっ」
ぷいとそっぽを向くと机の下にタマザラシが3匹いた。きゅっきゅっきゅーと騒がしい。
「なんだお前ら、くし団子みたいな並び方しやがって」
「ああ丁度良い、 玉一郎たちの面倒見ててよ」
「しゃーねえなあ……」
俺は起き上がると、ころころとじゃれついてくる球体どもを受け入れた。まだ外は明るいとはいえもう夜の6時だ。全く感じなかったが確かに空腹かも知れない。
球体どものもふもふアタックをかわしながらも奴――海人のことは頭から離れない。
初めてムラッときたのは中1の時だ。あの夏も今年の様に蒸し暑くて、親の七光りでしかない芸能人がカロスから連れてきたカチコールが蒸発したっつーニュースがテレビで流れていたのを覚えている。
気温が急に上がってバテそうになった俺は海人を誘ってプールに行った。それ自体は毎年のことなのだが。ひとしきり泳いでそろそろ帰るかと奴の方を見た時、思わず目眩がした。
夏の日差しを浴びて健康的に焼けた肌、ほどよく肉付き始めた腹筋を伝うしずく、額から滲む汗……成長と言う名の性の芽生えに、危うく俺の股間がハンテールになるところだった。
「……お兄ちゃん何してるの?」
「ほっとけ……」
タマザラシの下敷きになり過去に思いを巡らせていた俺に、今度は妹が声をかけてきた。
「今お母さんから電話あって、これから帰るから先食べててって」
「親父は?」
「海人くんのお父さんと飲んでくるって」
「へーい」
球体共は飯の時間と理解したのかぞろぞろと俺の体から移動し、それぞれのエサ入れで行儀よくポケモンフーズをかじり始めた。俺もテーブルの定位置へと移動する。
「「いただきまーす」」
姉と妹は俺の向かいで揃って手を合わせ、呑気な顔でそうめんをすすり始めたが、俺はどうも食べる気にならなかった。ため息を吐くと、姉貴が怪訝な顔でこちらに目を向けた。
「陸太、あんた今日本当にどうしたの」
「……今日、海人を抱いた」
一瞬の沈黙、後。
「マジでっ!? っしゃあ!」
「えええええーっ!? 海人さんが抱く方じゃないのー?」
「あぁ? んなこたどうでもいいだろ」
「良くないよ! 私には地雷なのー!」
「知るか」
「お兄ちゃんひどーい」
「まあまあ妹よ……負けは負けだ、大人しく認めたまえよ」
「何その口調……分かったよう、デパ地下のゴクリンケーキね」
こいつら俺で賭け事してやがったのか……家族じゃなかったら絶対一発殴ってるな。
「で、それから?」
「は?」
「それからどうしたかって聞いてるの」
「それから……あー、汗だくんなったから交代でシャワー浴びて」
「そこで何故一緒に入らない!」
「うっせーよ腐れ姉貴……あーさっぱりしたっつって、そのまま宿題終わらせたら帰ってった」
「……それだけ?」
「ああ」
「ギクシャクとかメロメロとかにならなかったの?」
「いつも通りだったぜ」
「うそぉ!」
気まずくなるなら分かる。俺の都合がいいように考えれば甘い雰囲気になるのもまあ分かる。でもよ、なんも変わらねぇってのはどういうことだよ。
「なにそれ、なかったことにされたとか?」
「そりゃねぇだろ……」
またため息を吐く。沈んでいる俺を放ってふたりは食事を再開した。
「それにしても随分遅かったね」
「ねー。お兄ちゃんと海人さん、昔はよく一緒に寝てたもんねー」
「小学生の頃だろ……」
「小学生同士はセーフじゃない?」
「知らねーよんなこたぁ……」
あの頃は3日に一度海人が泊まりに来ていた。姉と妹がいる俺と違ってあいつは一人っ子だ。海人の両親も仕事で帰りは夜遅くになることが多く、学校から帰ってきたら即遊びに来てそのまま泊まることが常だった。さみしがりやの海人を幸せにしたくて、ずっと一緒にいるという約束をしたのを今でも鮮明に覚えている。
「そういや今年はデパートの七夕イベント行かなかったね」
「七夕ぁ?」
「小1から毎年短冊に書いてたじゃん。『海人とずっと一緒にいられますように』って」
「あー……まあな」
「ジラーチに叶えてもらうってはりきってたのに」
「もうジラーチを信じる歳でもねぇだろ」
思えば、今年の夏は最初からおかしかった。
七夕の件もそうだし、確実に俺と距離を取っていた。けど、今日はいつも通りだった。それで安心していたのも一線を越えてしまった原因かも知れない。
ぼんやりしていると、腰の辺りできゅーと鳴き声がした。見れば球体トリオの次男が俺を見上げていた。エサ場の方を見ると、長男と三男が互いに頬を擦り付けあいにんまりしていた。完全に自分達だけの世界に入ってるようで、次男は避難してきたのだろう。
「お前も挟まれて大変だな」
頭をつつくと、玉二郎は諦めたようにきゅうと鳴いた。
その時、不意に玄関の方でがちゃがちゃと物音がしたかと思うと、汗だくで首にタオルをかけた母親が顔を出した。
「ただいまー、あー暑い」
「お母さんお帰りー、陸太、海人くんとヤったんだってー」
「あら、まだだったの?」
「それもお兄ちゃんが攻めたんだって!」
「あらまあ勿体ない、陸太も抱かれれば良かったのに」
「……」
この母にしてこの娘らあり。俺は玉二郎に肘を埋めながらそう思った。
「じゃあ丁度良かったわね、はいこれ」
母さんはデパートの袋から透明な小さい円柱を取り出して俺に渡した。
「ナマコブシローション……?」
「アローラからの輸入品でね、今日から試供品として配り始めたの。結構イイらしいわよ」
パッケージには『ポケモン由来の成分で安全安心! あなたのとびだすなかみもアクセル全開☆』と書かれている。
「……サンキュー」
そういや母さんの職場はデパートのドラッグストアだった。
食後、冷凍庫から昼間のと同じアイスを出して食べていると皿洗いしていた姉貴が振り向いて顔をしかめた。
「あんたまたアイスのタマザラシ食べてんの」
「いいじゃねーか。噛み砕きやすいんだよ」
「やだ野蛮。ホエルオーに潰されろ」
「なんとでも言え」
もうひとつタマザラシをつまみ出すと、それはピンク色だった。なんとなく、歯を立てずにもごもごとしゃぶってみる。
『陸太っ……!』
赤い顔、甘い声、とろけた眼差し……汗だくになりながらも腰の動きは止まることを知らない。腕を引いて無理やりひっくり返して、うなじに噛みついて……。
「……」
思いだしちまったじゃねぇか、こんちくしょう。柔らかくなったタマザラシを噛み砕いて飲み込んだ。
翌朝。いつものように窓を開けると、ちょうど海人も起きたところだったようだ。
「はよー。今日も暑くなりそうだな」
いつも通りだ。すこぶるいつも通りだ。気に食わない。俺はそのまま返事もせずにぴしゃりと窓を閉めた。
階段を下りると、妹が朝っぱらから掃除機の音を響かせていた。
「何してんだ」
「今日業者さんがクーラー直しにくるの! お兄ちゃん邪魔だから、朝ごはん食べたら出かけてて」
「この暑い中どこに行けってんだよ」
「海人さんと水族館でも行ってくれば? 今夏の特別展示やってるんだって」
「へー……」
バスで20分程のところにある水族館は定期的に集客効果を狙ってか、特別展示を行っている。チケットを買ってふと横を見ると、『特別展示ラブカス 是非カップルでお越しください』と書かれたポスターが貼ってあった。
ラブカスの水槽の前はたくさんの人で埋まっていて、どことなく甘ったるい雰囲気が充満していた。水中ではピンクのハートがふよふよとあちらこちらに泳いでいる。時折集まり大きなハートを形作れば、観客は沸き立ち拍手が起こる。俺達は後ろの壁にもたれかかり、それをぼーっと見ていた。
「混んでるな」
「そうだな」
5匹程黄色いのが混じっていて、その内2匹は水槽の片隅でひっそりと寄り添っている。おいいいのかサボって。お前らはアクセントなんじゃねぇのか。
心の中でツッコミを入れていると不意に、ミロカロスの鳴き声を加工したチャイムが鳴りアナウンスが流れ始めた。
『お客様にお知らせ致します、ただいまより屋外プールにて、トドゼルガの砕氷ショーを行います……』
「トドゼルガのショーか……行くか?」
「いいや」
この水族館のトドゼルガはカントーやシンオウからも見に来る客がいるくらい有名らしい。他の客はぞろぞろと移動し、水槽の前の人もまばらになった。自然と口が開く。
「昨日は悪かったな。勝手にあんなことしちまって」
海人は何も答えない。
「本当に、悪かった」
「……お前は悪くないよ」
ぽつりと呟かれた言葉に隣を見ると、海人はそっぽを向いていた。これは強がりな海人が泣く前の癖だ。
「どうした」
「っ……何でもない」
こいつ、何か隠してやがるな。
とはいえ今問いただしても何も答えてはくれないだろう。
これは長くなりそうだ。そっと頭を撫でると、海人はぐすりと鼻を鳴らした。
>砂糖水さん
お読み頂きありがとうございます!
こんな作品なので物凄く難航しておりますが、書き上げるという意思は強いのでなんとしても完成させたく…(資料を読み返しつつ)
読みやすくはしたいし、ポケモンも活躍させたいし、かと言って蔑ろにしてはいけないものが凄くたくさんあるのですが、凄い書きごたえがあります。頑張ります!
おあああああ…!
めっちゃ好きです…。
> と、そういう風に書き始められればいいのだけれど、そこにいる誰もその生き物の名前を知らないし、第一に見たことすらないのです。
こういうとことかね、あのですね、いいですね…。
ポケモンの存在する世界らしいのに、ムニラたちは知らないんですよね。
もうそれだけで、いい…すごくいい…。
語りもね、いいですね。
すっすっと内容が入ってくるけど、内容が、あの、えぐいっていうかひどい状態なんですよね。
それなのにすすすーっと入ってきちゃうんですよね。
なんていうか、この話はいいぞ…いい…としか出てこなくて語彙力がほしいです。
お散歩
青い孵化装置についたランプが光る。
手順書に従って、こわごわと装置の蓋を開ける。
白地に緑の斑点がついた卵にヒビが入る。
今にも孵化せんとする卵にそっと触れる。
唐突に卵が割れる。
私は驚いて手を引っ込めた。
孵化すると同時に卵が光り、卵が爆発すると思ってしまったのだ。
そんな私を不思議そうに見る、小さな赤いポケモン。
卵から生まれたポケモンは、美しい毛並みと六つの尾を持つ狐のようなポケモン、ロコンだった。
◇
ロコンは餌を食べようとしない。そもそもポケモンフーズなど、近所のスーパーに売っていないので、何を食べさせればいいのかもわからない。何も食べなくても大丈夫なのかと知り合いのポケモントレーナーに訊いてみたところ、鼻で笑われた。失礼な奴である。
曰く、ポケモンは飴を食べて強くなるとのことである。私のロコンを強くしたいと願うならば、飴を食わせよ、と。
奴は腹がマリオのごとく突き出ており、その中身は一点の混じりけもなく黒く染まっているに違いない。性格は斜め67度に傾いている節があるものの、就職に合わせて東京に来た3年前から付き合いのある男だ。今のところ、奴の言ったことの1/3ほどは正しかったと記憶している。残りの1/3は奴のうっかりミスで、残りの1/3は奴の嘘である。
とはいえ、奴のほかに頼れるものもなく、常に体をふよふよと揺らしている可憐な狐のためにできることなら何でもしたいの一心で、私は近所のスーパーマーケットに走った。
大の大人が可愛い飴ちゃんなどを買うことになるとはと少々の恥ずかしさを覚えつつ、基本のべっ甲飴からカラフルなフルーツの味がした飴にキシリトール配合の健康に配慮した飴など様々な飴を、アイスクリームとチョコレートとともに買い物かごに突っ込み、私は意気揚々とスーパーマーケットを後にする。家までは徒歩で5分もかからないのだが、その5分が長く感じられた。
そしてゆっくりと椅子に腰を下ろし、ロコンに飴を与える。
食べない。
じーっと眺めていると、たまに右足をちょっと上にあげて足踏みをするような動きをするが、それでも食べない。
ロコンの鼻を突っつくと、体を震わせながらちょっと吠えた。可愛かったのでもう一度鼻を突っつくと、先ほどと同じようにちょっと吠えた。
飴は減らない。
どうも「ロコンの飴」という特別な飴が必要であるらしい。Google先生に教えていただいた。
ロコンの飴は、卵が孵化したときに出てくるらしく、部屋の隅に放置していた孵化装置のなかを除いてみると、10個ほど、オレンジがかった丸い飴が落ちていた。
飴を慎重にジップロックの中に移し、無印良品で購入した白いお皿に2つだけ入れて、ロコンの前に差し出す。
狐の君は少しにおいをかいだ後、ぺろりと舌を出し、2個とも口に入れた。
時間をかけてゆっくりと飴をなめる様子を眺めていると、日が暮れてきた。
秋分の日を迎え、日が落ちるのが早くなった。
レトルトのごはんをレンジで温め、同じくレトルトのバターチキンカレーを温める。
温めている間に、パックに入ったポテトサラダを、小さな器に盛りつける。
ロコンが足踏みをしているのを眺めながら、バターチキンカレーとポテトサラダをいただく。
なんとなく、いつもよりおいしいように感じた。
◇
平日は憂鬱だ。
憂鬱である理由は仕事があるからにほかならず、自慢の炎で会社ごと木端微塵に吹き飛ばしてはくれぬものかとロコンを突っついてみるが、狐の君はちょっと吠えるそぶりをするだけで、火を吐こうともしなかった。
それでも、最近はすこし楽しみがある。
家から駅まで徒歩17分。距離にしておよそ1.5kmある。その間にある神社仏閣の数は3。マクドナルドの数は1、ソフトバンクも1である。その各々に近づくと、ちょっとしたアイテムがもらえるのだ。ただ歩くだけだった灰色の道のりが、ほんのり色づく。
ロコンが足元を離れずについてくるのもいい感じである。
もらえるアイテムの中にはモンスターボールなどもあり、焼鳥屋の前にいるポッポやオニスズメにそれを放り投げると、案外簡単につかまる。たくさん捕まえるとポケモントレーナーとしてのレベルが上がり、ロコンも強くなるのだ。と、Google先生がおっしゃっていた。その言葉を信じ、道行くポケモンをひたすら捕まえるのが日課である。
千代田寿司の前でコイキングを捕獲していると、通りすがりの中年トレーナーに呼び止められた。
「君、コイキングなんか捕まえて楽しいかね」
余計なお世話である。
それに、ただのコイと侮るなかれ、このぴちぴちしているただの魚を101匹集めると、歩きスマホをしているトレーナーを池に突き落とすことで有名な、かのギャラドスを手に入れることができるのだ。
先日Google先生に教わったばかりの知識を披露すると、中年トレーナーの彼は、赤いぴちぴちしたポケモンを数秒間眺めた後に、ボールを投げて捕獲した。
そのまましばし情報共有をしたのち、30%引きになったお寿司を二人で買って、帰路に就く。
帰り道、なじみのジムに寄った。
最近はシャワーズやラプラスといった水ポケモンがジムリーダーになっていることが多くなった。そのため、狐の君はお役御免である。なぜか私も水ポケモンばかり持っているため、ラプラス同士で不毛な戦いを繰り広げたのち、僅差で私のラプラスが勝った。傷薬で回復させたのち、ラプラスにジムを任せる。
彼なら大丈夫なはずだ。私の持つポケモンの中で一番強いのだから。
簡単な夕飯をすまし、家の中でコラッタをつかまえていると、突然窓からラプラスが現れた。
何事かと思ったら、私のポケモンで、どうやら負けてきたらしい。ひどく落ち込んでいる。哀れに思い、寝室を提供し全回復させてやった。部屋がちと狭いが仕方ない。
今日も明日も日常にはさして変わりないが、少しにぎやかになったことは間違いない。
良いことだと思う。
◇
「進化だ」とマリオのごとき腹をした悪友が言った。進化しかない、と。
進化とは、遺伝子の世代間変異のことである。フィンチの嘴のように、親から子へ世代が移り変わるごとに、少しずつ体の形質が変化していくのだ。あぁ進化とはかくも奥深く……。
「飴をたくさん食べれば、進化できるらしい」
「お前はバカか」
3年来の付き合いとはいえ、奴がそこまでバカだったとは思いもしなかった。それではスーパーマーケットで買いあさった飴を毎日食べ続けている私は、すでに、腕が4本、目が10個、体内で核融合したエネルギーで生活するくらいの究極生命体に進化しているはずである。
「Google先生がそう言っておられる」
「……まじか」
奴が押し付けてくるスマホの画面見た私は瞬時に心を入れ替え、生物の進化とは、飴を食べることだと理解した。
どうも、そのポケモンに特有の飴が必要となるらしく、特別な飴を一気に食べさせることによって進化するらしい。私が進化せず、仕事のミスを連発しているのも合点である。
進化させてみよう、と悪友が言う。私も同意した。
とりあえずたくさん捕まえて余っていたポッポに飴をやると、体が少しでかくなった。
「太ったんじゃないのか」
「いや、進化だ。Google先生がそう言っておられる」
「……そうか」
私はGoogle先生のおっしゃるとおり、さらに飴を与えてやる。鳥は、さらに体がでかくなった。
「成長しただけじゃないのか」
「前よりもスマートになっている」
「これが進化か」
「これが進化だ」
二人でひとしきり手持ちのポケモンを進化させてみると、トレーナーレベルがぐんぐん上がっていった。
これが進化かと、一人で合点した。
足元に寄り添うロコンに目を向ける。
狐の君も、進化するのだろうか。
Google先生に伺ってみると、ロコンは進化するとしっぽが増えるらしい。すでにして十分に美しい六本のしっぽである。それが増えるとなると、なかなかどうして進化後の姿を見てみたい。
そう思って必要となる飴の数を調べると、全く足りていないことを知る。ロコンの飴は貴重であるらしく、めったに見つからないらしいのだ。
それは困った、どうしようかと思う間もなく、Google先生が解決策を示してくれる。
「相棒となるポケモンとたくさん歩きなさい。さすれば、相棒が自ら飴を拾ってきてくれるでしょう」
Google先生はそうおっしゃった。
なるほど、狐の君とたくさん散歩をすればいいということか。
外に出たいかい、と狐の君に訊いてみると、スンとうなずいてくれた。
可愛いと思う。
◇
待ちに待った週末である。
何をするでもなく過ぎ去っていった過去の週末とは違う。
今日は、お散歩をするのである。
ビジネスシューズを靴箱に片付け、代わりに歩きやすいスニーカーを取り出す。カバンの中に、スポーツドリンクなどを入れてみる。電車の定期券は引き出しにしまう。
気温は26度。天候は晴れ。絶好のお散歩日和である。
狐の君を連れて近所の川まで歩く。そして、川沿いを西に進む。夏草の勢力が衰え、代わりに残した次世代への種があちこちで目に付く。昨日降った雨で地面はしっとりとしており、土を踏むとわずかに柔らかい。歩道に入り込まんとするススキの葉を避けながら、朝というには少し遅すぎる日の光を浴びる。川面がきらきらと光り、フナ釣りにいそしむ人たちを照らす。
家の近所を流れる川が、これほど美しいことを、私は今日、初めて知った。
電車で一駅の距離だが、歩くと30分かかった。少し休憩したのち、さらに30分歩いて、うちの区の中核都市へ向かう。
駅が近づくと、徐々にアイテムがもらえる箇所も増えてきた。ポケモンも増えてきたような気がする。
しかし、1時間以上歩くと、さすがに疲れた。
狐の君は大丈夫かなと思って視線を落とすと、ロコンが何かをくわえている。
ロコンの飴だった。
せっかく拾ったのだから、すぐに食べてしまえばいいのにと思いつつ、狐の君は律儀に飴を私に差し出した。
そして、狐は、私が飴をカバンにしまう様子を、ものほしそうに見つめる。
なんだかかわいそうにも思えたが、進化するためだと心を鬼にして、すべての飴をカバンに入れた。
そしてまた歩く。
駅に続く石畳を、やたらと広い駅の中を、地下のレストラン街へ向かう階段を。
喫茶店に入ってようやく一息ついた。
冷たい炭酸ジュースが心地よくのどを流れる。
エビの入ったサンドイッチをほおばる。私がその喫茶店でよく頼むメニューだった。それでも、たくさん歩いたからか、いつもよりおいしく感じられる。
飴の数を数える。もう一息という数まで来ていた。
帰りも歩けば、進化する分がそろうかもしれない。
そう思って席を立ち、思い返して駅の中へと向かった。
駅前の本屋で楽しみにしていた漫画の新刊を買い、無印良品でバターチキンカレーを買い、家に帰ったら食べようと思い、抹茶味のケーキを駅ビル地下の食品売り場で買う。
そして川沿いを、来た道を逆に歩く。
家に帰ってから狐の君に訊いてみる。飴をどれだけ拾ってきたかいと。
狐の君は健気に飴を渡してくれる。
数えたところ、進化するのに、十分な量だった。
◇
狐の君に、50個の飴を渡す。
白い光に包まれて、赤かった体毛が黄金色に染まる。
丸くくるまった六本のしっぽは、長く美しい九本の尾へと変わる。
体が倍以上に大きくなり、大型犬ほどに成長した。
ロコンが進化して、キュウコンになったのだ。
狐の君は、優雅に一つ吠えたのち、私の足元に寄り添うように立つ。
そういえば、今日は土曜日。
明日もまだお休みだ。
明日は何をしようか。
明日はどこへ行こうか。
狐の君に訊いてみる。
黄金に輝く九尾の狐は、小さくうなずく。どこでも構わないという風に
明日が終われば明後日仕事。
お金のために働いて、老後のために貯金する。
どこにも行けない閉塞感はなくならないし、与えられた僕らのノルマは終わらない。
それでも明日は散歩に行こう。
ポケモン連れて、散歩に行こう。
まだ見たことがない風景を、明日見れると嬉しいな。
その白く清潔そうなトラックには、トゲキッスの絵が大きく描かれていた。
と、そういう風に書き始められればいいのだけれど、そこにいる誰もその生き物の名前を知らないし、第一に見たことすらないのです。埃臭い風の中、村外れの通りに砂像のように立ち並び、そのトラックが来るのを待っていた大人や子供や老人らはみんな、あの変な白いのが描いてある車が来た、としか思っていない。そもそも彼らにとっては車に描かれた絵などより、車が載せてくるものを自分が手に入れられるか、今日自分たちが何を貰えるのかの方がよっぽど大切なのです。
ざわめきの中、深い青色のフードを被った少女は、大人達に押しのけられて砂像の群れから弾き出されてしまわないように、ぐっと背伸びをしました。色んな食べ物や生活物資をどっさり積んだそのトラックを見る度に、あの卵に翼が生えたようなのは何だろうと思うのだけど、その一瞬の疑問は、座席から降りてくる迷彩服の男の人の大声と、物資を求めて動き始めた人々の喧騒の中、真夏の雪のように掻き消えてしまう。
迷彩服の人達に向けて、鳥の雛の口のように大きく開いて伸びた手。手。手の群れ達。そこに少女の手も堂々と混じっています。
「早くしろ!」少女のすぐ後ろのおじさんが怒鳴り声をあげた。負けじと少女も一層高く腕をあげ、手を広げます。迷彩服の人達が手振りで人々の昂ぶりを制し、白い紙に書かれた名前を1人ずつ読み上げだすと、にわかに人々は声を潜め、自分の名前が呼ばれるのを絶対に聞き逃すまいと、迷彩服の人達をぎらぎら睨みつけます。殺気めいた緊張感が通りに漂う中、迷彩服の人達は日焼けした腕をせわしなく動かし、呼びだしに応じて前に出てきた人々の手に次々、白い袋を持たせていく。
袋の中身はどれも同じはずでも、受け取る側の事情はみんな違います。父親が死んで稼ぎ手がいない家の母親、五人目の弟が生まれたばかりの家の長男、家をまるごと失って掘っ立て小屋に住んでいる家族の祖父。だからどうしても、張り詰めた静寂の糸はどこかでとぎれ、あちこちで争いあう声、怒鳴り声があがりだし、時には殴り合いさえ始まってしまう。
そうなると迷彩服の人達は、どこからか、いつの間にか、大人の背丈よりも大きな花を持ちだして地面に植えるのです。すると人々は自分たちのしていたことを全部忘れて、息を呑んでその魔法に釘付けになる。鮮やかな緑の葉と赤い花びら!風に花のいい匂いがふわっと香ると、もう何で争っていたのかとか、そんなことはすっかりどうでもよくなってしまう。そこに迷彩服の人達はまた名前を呼びかけ、白い袋を次々に持たせていく。人々が突然の声に驚いた時にはもう、花は夢のように消えてしまっているのです。
待ちかねた少女の手にそのずっしり重い袋が渡ると、彼女はお礼を言うなり青いフードを翼のように翻らせて、弾むように家へと駆けだしていきます。袋が重くて腕が痛いのなんか、赤ん坊の妹のお守りをするのに比べたら全然平気です。半分ガレキに埋まったような、生まれ育った村の表通りを、砂埃を立てて彼女は走っていきます。
その村は、外から来た人には、村というよりギャラドスが大暴れした跡みたいに見えるかもしれないけど、彼女はギャラドスどころかコイキングだって知らないし、見たこともない。ここには川も池もなくて、彼女は毎日往復四時間かけて山の方にある井戸まで水を汲みに行かなければならないから。村外れにあった井戸は、果てしない人間と人間の争いの最中に埋もれてしまったから。
人が人を撃つ。人が爆弾を持って人にぶつかる。毎日そんな事があちこちで起こる場所には、どんな野生のポケモンも近寄ることができません。
トゲキッスも、ギャラドスも、コイキングも。
通りに立ち並ぶ土作りの家々は、そっくりそのまま地面の砂の色なので、まるで土から生えてきたように見える時があります。
(本当に、家が勝手に土から生えてくるんだったらいいのに)
少女は横目で、崩れて壁だけになってしまった家を見ながら思います。だって、それなら、いくら爆弾に壊されても直さないで済むでしょう。
その壁だけの家の所で通りを外れて狭い路地に入り、少し奥まった所に少女の住む家はあります。
「ただいま、お父さん」
「おかえり、ムニラ」
お父さんの元気そうな声と、お父さんの腕が体の向きを変える、ずい、ずい、という音を聞くなり、名前を呼ばれた少女、ムニラは急いで家に上がってお父さんの側に座り、抱えてきた袋を降ろします。
「お父さん、『羽の卵』の人達からもらってきたよ」
「ありがとう、ムニラ。いつもすまないね」
「アーイシャは元気にしてた?家は何もなかった?お父さんには悪いことなかった?」
袋を開き、中に入っていた小麦粉やら調味料やら薬類やらを家のあちこちに片付けながらまくし立てるムニラに、
「そんなに心配しなくても、何もかも問題ないよ、ムニラ」
お父さんは笑ってそう言うけれど。
「アーイシャもいい子にしていたよ、ほら」
そう言って両腕だけで妹のアーイシャの所へ這っていくお父さんの、太ももに巻かれた包帯を見ていると。
包帯の先に、半月前まであったはずのお父さんの両足のことを思い出すと。
ムニラはいつも、心配でたまらなくなるのです。
次にまたいつ、あんな事が家族の誰かの身にあったらどうしよう、と。
ムニラの住む地方には名前がありません。この地方を誰が治めるか、という事で、ムニラが生まれる前からずっと、たくさんの組織が争っているからです。
ちゃんとした政府もあるにはありますが、どの組織も政府の言うことを聞かずに争いあい、自分たちの決め事に従わない人を虐げることばかりしているので、政府も鎮圧のために軍を出す以外にできることがない。
お父さんが両足を失ったのも、そうした反政府組織の攻撃に巻き込まれたからでした。お父さんは誰とも戦っていません。どこかの組織と敵同士だったわけでもありません。ただ、市場に買い物に出ただけです。たまたま、通りすがった荷車引きの男の荷物に、爆弾が仕掛けてあっただけなのです。
荷車引きの男は、荷車ごと食料品店に突っ込んで大爆発を起こし「名誉の死」を遂げました。食料品店の店主が、テロを起こしたその男の敵対する組織と密かに物資をやり取りしていたらしい、という話はムニラも聞きましたが、ずっと爆弾や銃の音ばかりを聞いてきたムニラにはもう、誰が誰と敵同士か、なんて話はうんざりなのです。
ムニラの住む砂と土の町に四季はありません。死にそうなくらい暑い日がずうっと続いた後に、死にそうなくらい寒い日がずうっと続く、その繰り返し。雨の降る日より銃弾がばらまかれる日の方がずっと多いし、風はいつでも埃と灰ばかり運んできます。
花が欲しいな、とムニラは時々思います。友達ともそんな話をする時があります。食べ物も薬も服もいつも何かしら足りないし、そのせいで泥棒や喧嘩はいつも絶えないけれど、花は元々ここに「ない」のだから。そのことを思うとき、ムニラの目には、灰混じりの風や銃痕の残る壁、砂埃に霞む青空がとても寂しいものに映るのです。
そんな時、この頃のムニラが思い起こすのは、最近この村を訪れる「羽の卵」の人達が魔法のように咲かせてすぐに消してしまう、赤い大きな不思議な花でした。いったいあの花は何なんだろう?花が育つには土、水、太陽、それから長い時間が必要なのに。
でも、もしもあの人達がするように、ムニラも何もない所に一瞬で花を咲かせる事ができたなら、どんなに素晴らしいことでしょう。ムニラのすることを見て、みんな喧嘩を辞めるかもしれないし、美しい花を見て、あの喜びに満ちた香りを嗅いだら、反政府組織も人を襲うのを辞めるかもしれない。
どうも武器らしい武器を持っていない様子の「羽の卵」の人達が、銃撃やテロや地雷をどうやってくぐり抜けてここまで来るのかムニラはよく知らないけど、きっとあの花のお陰なのだと、何となく納得していました。
けれど、そんな夢のような考えに浸れるのは、朝と夜の礼拝の時間、神様に感謝を捧げ、心の声で話しかける時くらいです。ムニラのお母さんはアーイシャを産んですぐに亡くなり、お父さんは歩けない体で、妹はまだ赤ん坊だから、彼女がお父さんを手伝って働き、お母さんの分だけ家事をして、妹を守ってやらないと、家族の誰も生きていけない。
だから、ムニラが自分自身の事を願えるのは、このお祈りの時だけでした。
(神様、私達のあるじさま、花をください。この村はとても寂しいのです)
一日を無事に過ごせた感謝の祈りの後、こう付け加えることが、いつからかムニラの夜の礼拝の決まり事のようになっていました。
けれど、その習慣が始まったのと同じくらいの頃から、ムニラは礼拝の後に気持ちが沈むことが多くなったのです。……
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このような話なので制作に時間がかかっていますが(中盤過ぎたくらいまでは書けてる)、できれば今月、最悪でも来月には仕上げます
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雨雲が去ったばかりの空に、大きな虹が懸かっていた。朝霧の残る踏み分け道はひんやりと涼しく、林の奥から聞こえて来るテッカニンの鳴き声も、気持ちの良い微風に遠慮してか控え目で大人しい。朝露に濡れた叢を緩やかにかわしつつ、ヒューイは木漏れ日に彩られた通い路を、のんびりとした二足歩行で進んでいた。
大きな房尾に尖がった耳。白い毛皮に緋色のライン。胴長の総身を覆う夏毛はそれでも十分に長く、立って用を足すにはやや不適とも見える短い前足には、幾つかの木の実が抱え込まれている。シンオウでは非常に珍しいポケモンである彼は、猫鼬と言う分類や、それに纏わる数々の逸話には到底似合わぬ表情で、幸せそうに欠伸を漏らす。この按配なら後二時間ぐらいは、あの狂気じみた殺人光線を恐れる心配は無いと言うものだ。
シンオウ地方はキッサキシティに程近い、とあるちっぽけな森の中。冬は止めど無く雪が降り注ぐこの辺りも、夏の盛りとあっては是非もなく、昼間はそこかしこに陽炎が立ち昇って、涼味も何もあったものではない。元々南国の住人である彼は兎も角、間借りをさせて貰っている同居人達は滅法暑さに弱いので、この季節は殆ど動こうとしない。勢い役立たずの居候である彼に、雑用の御鉢が回って来ると言う訳である。最も彼自身、現状には酷く窮屈さを感じている為、こうして何かをさせて貰っていた方が反って有難いのだけれど。
足裏に感じる、まだ温まりきっていないひんやりとした土の感触を楽しんでいる内。やがて不意に林道は途切れ、小さな広場に辿り着く。林の中にぽっかりと空いた、雑木も疎らな空白地。所々に岩の突き出たその場所が、朝の散歩の終着点だった。足跡や臭いなど、様々なポケモンの痕跡が感じ取れる中、ヒューイは真っ直ぐ手近の岩へと歩み寄ると、その根元を覗き込む。そこには良く熟れたクラボの実が幾つかと、硬くて噛み応えのありそうなカゴの実が一つ、大きな蕗の葉の上に並べられていた。此処には目的のものがない。そこで彼はその岩の傍を離れると、隣に腰を据えている三角の岩に場を移す。此方の根方にあったのは、喉元を綺麗に裂かれて無念気な表情を浮かべている、二匹の野ネズミの死骸。乾いた血の痕にぶるりと身震いした彼は早々にそこから離れると、三つ目となる赤い岩の方へと足を向けた。日に焼けた岩肌に眼を滑らせていく内、漸くお目当てのものを見つけ出す。岩陰に敷かれた緑の葉っぱに乗せられていたのは、つるりとした白肌も眩しい、三個の大きな卵だった。大きさからしてムクバード辺りのものだろうか。朝の光を浴びてつやつやと輝くそれは、如何にも新鮮で美味しそうだった。
品物の質に満足したヒューイは、次いで視線を戻し、自らのなぞった道筋を辿って、岩肌の一角に目を向ける。卵が置かれた場所より丁度腕一本分ぐらい上に岩を削って印が付けられており、続いてその下に、品物を置いていった主が必要としているものが、この種族独自のサインで簡潔に記されていた。一番上の表記を見た瞬間、彼は思わず顔をほころばせ、我が意を得たりと独り頷く。個人を表すそのサインの主は、顔見知りのマニューラ・ネーベル親爺のものだ。腕の良い狩人である半面酩酊するのが大好きな彼が欲しがるものと言えば、マタタビに辛口木の実と相場が決まっている。案の定『一個につきマタタビ三つ』と言う明記があるのを確認すると、ヒューイは抱え込んでいた緑色の木の実を全て下ろし、代わりに三つの卵を大事に抱え込んで、悠々とその場を後にした。
遣いに出て行ったザングースが帰って来た時、ねぐらの主であるラクルは、既に朝食となるべき獲物を仕留め、丁度綺麗に『調理』を終えて、住処に運び入れた所であった。内臓を取り分けて皮を剥ぎ、近くの流れでよく洗った野ネズミの肉を鋭い爪で分けていると、住居としている岩棚の入口から、「ただ今」の声が響いて来る。無警戒な足音が近付いて来た所で顔を上げ、そっけない挨拶を返しながら、彼女は狩りのついでに確保しておいたオレンの実を汚れてない方の腕で拾い、ひょいとばかりに投げてよこす。「お疲れさん」の言葉と共に飛んできたそれを、紅白の猫鼬は大いに慌てながらも何とか口で受け止めて、腕の中の荷物共々ゆっくり足元に転がした。
「どうやら収穫があったみたいだね。有難う、助かるよ」
やれやれと言う風に息を吐く相手に向け、ラクルは何時もと変わらぬ口調で礼を言う。御世辞にも温かみに溢れているとは言えない、まさに彼女自身の性格を体現しているような乾いた調子だったが、それでも好意と感謝の念は十二分に伝わって来るものだった。それを受けたザングースの方はと言うと、これまた生来の性分がはっきりと表れている感じで、多少慌て気味に応じて見せる。何時になっても打ち解けたようで遠慮会釈の抜けないその態度に、家主であるマニューラは内心苦笑を禁じ得ないのだが、それを表に出して見せるほど、彼女も馴れ馴れしいポケモンではなかった。
「いや、大した事じゃないし……! こっちは朝の散歩ついでなんだから、感謝されるほどの事もないよ。木の実だって、僕が育てた訳じゃないんだし」
「どう言ったって、あんたが私達の代わりに交換所に行ってくれたのには変わりないさ。対価だって自前で用意してくれたんだ。居候だからって遠慮せずとも、その辺は胸張ってくれて構わない」
「木の実一つぐらいじゃ足代ですら怪しいからね」と付け加えると、彼女はもう一度礼を言って、ザングースが持ち帰った卵の一つを引き寄せた。肉の切れ端を一先ず置いて立ち上がると、卵を軽く叩いて中の様子を確認してから、奥の方へと持っていく。干し草を敷いた寝床の一つに近付き、横になっていた黒い影にそれを渡すと、持ち帰った相手に礼を言うよう言い添える。体を持ち上げた黒陰は小柄なニューラの姿になって、そちらを見守る気弱な猫鼬ポケモンに、笑顔と共に口を開いた。
「有難う、ヒューイ兄ちゃん!」
「どう致しまして、ウララ。暑い日が続いてるけど、早く良くなってね」
ザングースが言葉を返すと、まだ幼さの残る鉤爪ポケモンは「うん!」と頷いて、彼が持ち帰った御馳走を嬉しそうに掲げて見せる。夏バテ気味の妹に寝床を汚さぬよう起きて食事するように言い添えると、ラクルはヒューイに向け、自分達も朝食にしようと声をかけた。
ヒューイは臆病者の猫鼬。ある日ふらりとこの近辺に現れた彼は、今目の前で一緒に朝食を取っている、マニューラのラクルに拾われた居候だ。元々人間に飼われていた為、野生で生きていく術も心得も一切持たなかった彼は、本来の生息地から外れたこの地で仲間も縄張りも持てず追い回された揚句、栄養失調で行き倒れになりかかっていた所を、全くの異種族であり野生のポケモンである、彼女によって救われた。
まだ根雪の深い春先の頃、泥だらけでふらふらのザングースを見つけた彼女は、マニューラという種族が当然取るべき行為をあえてやらずに、彼を生かして自分のねぐらまで運び込み、熱心に世話を焼いた。本来なら肉食性の狩人であり、仲間内の結束は固い半面異種族に対しては非常に冷酷なニューラ一族の事であるから、彼女のこの行動は当時大いに波紋を呼び、実際血縁関係にある親族達からも、さっさと始末を付けるよう何度も言われたらしい。今でもヒューイ自身、これに関してアクの強い冗談や皮肉を言われる事が少なくないのだから、当の本人であるラクルがどれだけ風当たりが強かったかは、推して知るべしである。
ところがしかしラクル自身はと言うと、そんな事は自分からはおくびにも出さず、後に周囲からの言葉よって己がどれほどの恩を受けたかを悟った彼が恐る恐る話題を向けてみても、「好きでやった事さ」と切り捨てるだけで、何ほどの事とも思っていないようだった。彼女は寧ろ、ヒューイが自分の妹であるウララの命を救った事実の方に強い借りを感じているようで、今でもやたらと『手のかかる』ポケモンである彼を止め置き、何くれと面倒を見てくれている。正直身の縮むような思いではあるものの、未だに自力で生きていける自信が毛ほどにも感じられない彼としては、こうして養って貰う他には光明が見出せないのが現状である。
ヒューイが彼女に恩を作ったと言うのも、いわば成り行き上の事に過ぎない。長い眠りから覚めたあの日、自分の置かれていた状況がまるで分かっていなかった彼に対し、恩人の冷酷ポケモンはどこか落ち着きに欠けた様子ながらも、好意的な態度で事の次第を話してくれる。「好きなだけ居てくれて良い」と言い置くと、気忙しげに場を立った彼女の態度が腑に落ちず、おっかなびっくり立ち上がった先で見たのが、熱にうなされているニューラと、それを看病しているニューラとマニューラの姉弟だった。狩りの際に負った傷が化膿し、明日をも知れぬ容体だったウララを救う為、ヒューイはその足でキッサキの町まで駆け走り、毒消しと傷薬を手に入れて来て、無事彼女の一命を取り留める事に成功する。長く人間と共に暮らし、『飼われ者(ペット)』の蔑称で呼ばれる身の上だったからこそ出来た芸当であり、同じように命を救われた彼としては寧ろ当然の行いであったものの、これによって彼自身の株が大いに上がったのは間違いなかった。結果的に、彼は家族の恩人としてラクル一家に受け入れられたし、群れの他の同族達からも、『役立つポケモン』として一応の存在を認めて貰えるようになったのである。
とは言え、やはり彼自身が居候でしかないのは間違いなく、群れの中では紛れもない異分子である。何とか自力でサバイバル出来るようになり、これ以上一家の負担にならぬよう心掛ける事だけが、目下の彼の唯一にして、最大の目標だった。
ヒューイの日課は固まっている。朝食が終わると外に出て肩慣らし、次いで昼食時まで木の実の探索と採集である。狩りの心得はラクル達から教えられはしたものの、未だに小動物さえ満足に捕まえられず、例え木の実と引き換えに交換して貰った獲物でも、裂けた傷口から臓物でもはみ出ていようものなら気味が悪くて持って歩くのも躊躇うほどで、自活の道はまさに多難としか言いようがない。
しかしそれでも、彼は黙々と日課をこなす。倒木相手に接近戦の練習をし、木陰を縫ってオレンやキーの熟れ具合を確かめると、昼食の為に一旦ねぐらに舞い戻る。手早く食事を済ませ、暑気をしのぐべく午睡に入る一家に断りを入れると、今度は狩りの修練を積む為に、森の中へと分け入った。ポケモンフーズと違い素早っこい獲物達に翻弄され、そのまま悄然と茜空を迎えるも、せめて見付けられるようになっただけずっとマシじゃないかと自分を励ます。帰る前に少し足を延ばし、自分で設けた秘密の菜園の様子を見たら、一日の活動は終了である。苦労して手に入れた珍しい木の実を植えているその場所は、未だに嘗ての生活を引きずっている彼の、苦肉の象徴とも言えるものであった。
黄昏過ぎて戻って来た彼の不首尾にも、誰も皮肉めいた事は言わない。群れの中でも一目置かれる狩りの名手であるラクルは、背中を丸めてもそもそと食む居候が増えた所で、家族に負担を掛けさせるような事はなかった。日暮れ時の短い間に自分の仕事を終える彼女に対し、ヒューイは畏敬の念を抱くと共に、自分がどうやってもその域には及ばぬであろう事を、忸怩たる思いで噛み締めるしかなかった。
狩りの腕は進歩せぬまま、暑い季節が通過していく。時々練習に付き合ってくれるラクルや彼女の弟のルプシに言わせれば、彼は余りにも「トロ過ぎる」らしい。
「迷いも戸惑いも挟む暇はないよ。近付くまでは用心深くしないといけないけど、行く時は一気に行かないと。あんたは何にしても時間を掛け過ぎるのが欠点だ」
ラクルの批評は厳しかったが、同時に「周到なのは悪い事じゃないけどね」と、言葉を添えてくれるのも忘れない。弟であるニューラのルプシは妹のウララと違って活発で、生意気盛りで既に自立を終えている優等生だったが、妹を救ってくれたヒューイに対しては好意的で、失敗続きの彼をからかいながらも根気よくコツを教えてくれた。……残念ながら、その好意に報える見込みは未だ立っていないのだけれど。
駆け足に過ぎるキッサキの夏は彼に何の進歩も齎さなかったものの、一方で並行して進めていた彼の試みそれ自体には、大きな成果を残してくれた。崖際の窪地に設けられた彼の菜園では、盛夏の日差しを一杯に浴びた果樹の群れが、綺麗な花を咲かせている。狩りに不適な地形の為主達は見向きもせず、かと言って優れた狩人であるニューラ一族の縄張りに好んで近付くポケモンもいない御蔭で、丹精込めたヒューイの努力の結晶は、今の所自身でも信じられぬほど順調であった。
進展に差が出ると、やはりどうしても結果が目についている方に傾くのは否めない。元々一種の保険として始めた木の実畑は、今や彼の日課において主要な地位を占めるようになっていた。水やりや草取りの方法も工夫し、彼なりに効率化すると共に、物言わぬ樹木に温かく接し、情を掛ける事を忘れない。傍目には突っ立っているだけの植物が如何に細やかな情によって揺り動かされるかを、ヒューイは良く分かっていた。
果樹の手入れは、今は亡き主が得意としていた仕事であった。遠いホウエンの出身で、根っからのコンテストびいきだった老人は、彼ら自らの手持ちに与えるポフィンやポロックを自作する為、四季を通じて欠かさず収穫出来るよう、木の実栽培に余念がなかった。毎日丹念に樹木を観察し、感情を込めて接するその手法を、彼は「目肥え」をやると称していた。「知ろうと思って見てみれば木の状態が理解出来、必要な手当てが分かる。例え枯れかかっている樹木でも、言葉を持って励ませば不思議と樹勢が回復し、大きな花を咲かせるものだ」――温厚な主の誰に聞かせるでもない問わず語りは、彼を強く慕っていたヒューイの耳に、今もしっかりと息づいている。
しかしそれは、同時に最も振り返りたくない思い出であった。……主人が倒れたあの日、偶々傍らにいて慌てて隣近所に急を告げた彼は、主が不帰の客となった事を理解するや、そのままいても立ってもいられぬままに、全てを捨てて逃げ出したのだ。コダックを模した如雨露が転がり、ふらりと倒れた老人の口から赤黒い血が零れるのを茫然と見ている事しか出来なかったヒューイにとって、身についたこの知識と業は、自分の無力さを象徴するものでもあった。
そうして逃げた臆病者が、今もこうして本来の生業を放棄して、嘗ての生き方にしがみ付いている。流されるままに死ぬべきだった所を救われ、ずるずると引っ掛かったその場所で、未だに受け入れるべき現実から目を背けている。さわさわと慰めるように青葉を揺らす若木に向け、ヒューイは微かに俯けていた顔を上げると、青空をバックに佇む物言わぬ友人達に、寂しさと自嘲の入り混じった笑みで応えた。
木の実畑の管理を終えて帰宅する途中、ヒューイは不意に行く手を遮られ、びくりと身を震わせた。
しかし直ぐに、相手の顔を見て胸を撫で下ろす。「よぉ」と気さくに声を掛けて来たのは、数少ない友好的な知人の一人である、中年マニューラのネーベルであった。右頬に二本の傷痕が走るコワモテの黒猫は、この一帯で最も優秀な狩りの名人である一方、その相貌に反し世話好きで情宜に厚く、新入りの異分子である彼に対しても、これと言った隔ても無く接してくれる稀有な存在である。
「久し振りにこっちに回ってみたら見た事もない木が並んでるし、手入れまでされてやがるからな……。どんな奴が植えたのかと思ってたが、お前さんだったのか。相変わらず変な事ばっかやってるなぁ」
感心と呆れが半々と言った表情で口にする黒猫親爺に、ヒューイは苦笑しつつ「はい」と答える。物々交換の常連、いわゆるマタタビ要員として始まった関係だったが、どうやらウマが合ったようで話すほどに打ち解けて、今では悩みと愚痴を交換出来る程度の間柄にはなっている。酩酊している時は底抜けの笑い上戸で、狩りの最中は近寄るのも憚られるほど真剣な表情を見せるが、平素の彼はガサツながらも御人好しの、すこぶる頼りになる親爺であった。
「何か出来ないかなと思って……。ラクルやみんなにお返ししたいと思っても、僕にはこう言う事しか出来そうにないし」
「こう言う事が出来るなら良いじゃねぇか」
おちょくるような色を引っ込め、不意に真顔になった相手の反応についていけず、気弱な猫鼬は少しどぎまぎしながら口を噤む。「お前なぁ……」から始まる年長者の言葉は、未だに周りを憚るばかりで一人前の雄として振る舞おうとしない若者へのもどかしさが、包み切れぬ気遣いと共に伝わって来る。
「お前も好い齢してるんだから、大概にしゃんとして歩けよ。オトコだろ? ガタイだって俺達より良いんだし、好い加減もっと強気に生きたらどうだ」
「はぁ……」
「はぁ、って……なぁ……。何でこう切れ味が鈍いのかねぇ?」
思わず首を捻るネーベルに、ヒューイは呑まれ気味だった己自身を取り戻しつつ、「でも僕は居候な上に余所者ですし」と控え目に答える。本当はほぼ無意識の内に言い訳にしているに過ぎないのだが、言った本人が気付いていないその逃避も、彼には御見通しらしい。人一倍鋭い眼でじろりと睨むと、引け腰でやり過ごそうとする若者に、諭し掛けるように言葉を紡ぐ。
「お前が誰かなんて気にしてどうする。男の貫目なんて、そんなもんとは何の関係もねぇよ。陰で何言われようが気にすんな。狩りがダメなら教えてやるし、俺の次ぐらいに上手くなりゃ、誰も何も言えねぇよ」
大真面目に「俺の次ぐらいに」と言う辺りが、如何にも彼らしい言い草である。だが、本気で自分を心配してくれている相手の前で、ヒューイは何時ものように笑って誤魔化す事は出来なかった。
「そもそもお前を拾って来たのはラクルなんだし、何か抜かす筋合いがあるならあいつに直接言うべきなんだ。思いがけずお前がやって来たせいでやっかんでる奴がどれほどのもんだって話だし、そうじゃない連中には実力で分からせれば良い。最悪狩りが上手くならずとも、お前には木の実や知識って武器があるだろ? 家族を食わせるのに、狩りと木の実にどれほどの差があるかってんだ。ラクルの奴じゃなくとも、群れの中にゃ狩りの出来る娘はごまんといる。お前一匹狩りが出来なくとも誰も困らん」
「ちょ、ちょっと待って……。僕はただの居候で……!」
「行き場のない雄って事ははっきりしてるだろうが。え? ここで骨を埋めた所で不都合なんか無いだろ」
何時の間にか自分の嫁取り話にすり替わり始めて、流石にヒューイは待ったをかける。如何に善意からくるものとは言え、此処まで世話を焼かれると彼としても堪らない。が、次に相手が口にした事は、彼にとっては思いもよらぬ内容で、それでいて誰も教えてはくれなかった事柄であった。
「居候云々にしても、ラクルにしたって自分の都合でお前を拾ったんだ。片意地張って庇い立てしてた辺り、お前と昔の出来事を重ね合わせてたんだろう。あいつはずっとその事で、爺さんを恨んでたからな……」
「え……?」
「ラクルがお前を拾った理由さ。直接聞いた訳じゃないが、多分あってると思うな、俺は」
事情を説明し始めた彼の言葉を一句も漏らさじと聞いている内、ヒューイはラクルの抱いているらしい感情が、自分のそれととてもよく似ているのに気が付いた――。
彼がねぐらに戻った時。岩棚の横穴には、主のラクルが一匹だけで残っていた。
ウララは兄のルプシと共に、川に涼みに行ったと言う。「あんたの御蔭で大分良くなった」と好意的な表情を見せる冷酷ポケモンに、ヒューイは聞いて来たばかりの内容を切り出すべきか、束の間迷った。
だがその逡巡を、優秀な狩人でもある相手は、あっさりと見破ったのだろう。どうかしたのかと問うて来る彼女に対し、引っ込みがちな猫鼬は、意を決して口を開く。
「実は途中でネーベルさんに会ってさ……。聞いたんだ。ラクルについて、色々と」
「ふーん?」とでも言いたげな表情を見せる彼女に若干気押されながらも、ヒューイは一度踏み出した勢いのままに、自分が聞いたその内容を繰り返す。多分怯まなかったのは、ずっと自分が苛まれて来た思い出と、重なっていたからだろう。
彼女には昔友達がいた。マニューラではない、彼らの縄張りの外から来た友達が。天敵に追われて傷だらけで逃げ込んで来た彼を、ラクルは仲間に告げずこっそり匿い、家族にも内緒の秘密の時間を過ごす内、すっかり打ち解けて仲良くなった。
だがある時、彼の存在が周りにばれた。友人に食べさせたいが一心で非常時の備えとして手付かずにしていたオボンの木に登った彼女は、同心している仲間がいるかどうか確認する為泳がされていたとも知らず、見張り番をしていた大人達を、真っ直ぐ隠れ家に導いてしまったのだ。悪ガキ共の度胸試し程度に思っていた彼らは、実態を知るとすぐさま彼女の友達を捕まえて、木の実泥棒と共に群れの頭を務めていた、彼女の祖父の下へ突き出した。
勿論彼女は、必死に友達の為に嘆願した。当時から既に頭角を現していた彼女は群れの内でも期待の星であり、捕えられた友人も、現場では何とか傷付けられる事も無く収まっていた。だが、厳格さで知られ、恐れられていた彼女の祖父は、群れの伝統的な慣習であり自らも定めた掟を揺るがせる気はなく、孫娘の涙ながらの訴えも黙殺して、潜り込んでいた異分子を即決で処分する決定を下したのである。「他種族と交流する事一切無用」と言うその原則の下あっさり息の根を止められ、獲物として分配された友人の末路に、ラクルは暫くショックから立ち直れず、旧に復しても祖父とだけは、最後まで打ち解けようとはしなかったと言う。
「困った親爺だね。酔っ払ってなくても御喋りなんだからさ」
ヒューイが打ち明け終えた後、黙って聞いていた彼女は開口一番そう言って、何とも言えぬ苦笑いを浮かべた。極力何でもないようには装っているものの、呟きと共に眼差しの内に宿った翳は、彼でもはっきり読み取れるほどに色濃くて、底の深いものだった。
「確かに、そんな事があったよ。……私もまだまだ未熟だったからね。後をつけられてたってのに、全く気付かず仕舞いだった」
淡々と語る言の葉が、ヒューイの耳には別の形で突き刺さる。何に憤懣を漏らすでもなく、敢えて自分の未熟さに焦点を当てようとするその姿。――それもやはり、彼には見慣れた光景だった。自嘲に満ちた、淡い諦観。「あの時こうすれば」、「自分がこうであったなら」。終わらぬ繰り言に縛られ、責め先を自身にしか見出せない苦悩は、何よりどうする事も出来なかった自身のそれと重なって、ヒューイの胸を締め付ける。その虚ろな瞳がやり切れなくて、彼は思わず前に出ると、嘗て見た事もないほど小さく感じた相手身体を、包み込むように抱き締める。
「なっ……!?」
思わず声を上げて固まり、次いで戸惑ったように身を離そうとするマニューラに、彼は微かに震えながらも、心の底から思いを込めて呼び掛ける。「君は悪くない」、と。
老人が倒れた日の朝、ヒューイは自分の主が、常に飲み続けていた薬を切らしていたのに気が付いた。文机の上に散らばっていた空のフィルムは数が足りず、何時もの半分ほども無い。老人は胸の血管が弱っており、既にここ数年で薬を手放せない身の上となっていた。主人が地に伏した時、彼は生まれ備わったその全力で駆け走り、隣の家の柵門をでんこうせっかで突き破る。必死に助けを求めて飛び込んだものの誰もおらず、結局何とか通行人を掴まえて戻って来たのは、三軒目を覘いた後だった。
多分何をどうしても、主は助からなかっただろう。薬は気休めと本人自身が語っていたし、既に意識を失って倒れた時点で手の施しようがなかった事は、直感的に覚っていた。……けれども、それで納得出来るかは別物だった。助けを呼べたのは彼だけであり、薬を受け取りに行くよう誘う機会もあった。ヒューイは主人のお気に入りだったし、老人は彼の全てであったのだ。
彼を失ってから、ヒューイは行くべき道を見失った。目の前のマニューラは傍目にはちゃんと立っていたが、絡み付いた苦悩の蔓は断ち切れず、未だ翳の刃に苛まれ、声も無く血を流している。終わりの見えぬその苦しみが分かるからこそ、彼はこれ以上恩人に、背負い続けて欲しくはなかった。
込み上げて来た衝動が去り、身体の震えが収まった後。ヒューイは恐る恐る身じろぎすると、既に抵抗を止めていた彼女の背から腕を引き、静かに下がって相手に詫びた。
「ごめん……」
視線を合わせる勇気も無く、ぽつりと呟く彼に対し、ラクルはやや置いた後、冷たく光る鉤爪を持ち上げると、俯く相手の顎にあてがい、そのままくいと持ち上げる。
「謝るこたないさ。何で謝る必要があるのか、こっちが聞きたいほどのもんだ」
柔らかくも何処か寂しげに微笑んで見せた彼女は、次いで「ありがとう」と口にすると、直ぐに自らの見せたその表情をはぐらかすように切り替えて、軽い溜息と共に苦笑する。
「私もヤキが回ったかな。居候のザングースに慰められているようじゃ、先が思いやられるね」
顎に当てた爪を引っ込め、どう反応すべきか戸惑っているらしい猫鼬に背を向けると、ラクルは夕食の支度をすべく、足早に岩棚を後にした。
平穏だった森に衝撃が走ったのは、それから数日後の事だった。
何時も通りの一日が過ぎ、後は夕食を待とうと言う時間帯。突然駆け込んで来たルプシの切羽詰まった呼び掛けが、彼らのねぐらに急を告げる。
「ハガネールが暴れてる!」と叫んだ彼の次の言葉に、ラクルは勿論此処の事情に疎いヒューイまでもが、血相を変えて外に飛び出す。不意に現れた鉄蛇ポケモンに襲われたのは、散歩に出ていたウララだったのだ。飛ぶように走り、見る見る内に引き離されていく両者の背中を焦慮に満ちた目で見詰めながらも、ヒューイは少しでも喰い下がろうと、必死に四足で地面を蹴って追い縋った。
何とか二匹の姿を捉えたままで辿り着いたその先は、既に大荒れに荒れていた。木々が折れ、地面が抉れて至る所に穴ぼこが空いた川岸で、先に駆け付けた数匹のニューラやマニューラ達が、巨大な鉄蛇を取り巻いている。辺りを睥睨するハガネールが余裕に満ちている反面、数には勝れども種族柄非常に不利な黒猫達は近付く事も出来ず、爪を光らせ威嚇するのみで、焦りの色を隠せていない。早くもやられ倒れ伏している者も二体ほどおり、苦戦中なのは一目瞭然であった。
駆け付けたラクルとルプシがすぐさま敵に向かう中、ヒューイは一先ず呼吸を整えながら、ウララの姿を探してみる。程なく彼は、ハガネールが圧し折ったと見える倒木の陰に蹲り、縮こまっている彼女を見て取った。恐らく怪我をして動けなくなった所で、仲間が駆け付けて来たのだろう。怯えと共に彷徨わせていた視線がかち合い、此方を認識した幼いニューラの瞳の内に縋るような色が浮かんだのを受け、ヒューイは意を決すると、覚悟を決めて前に飛び出す。先に突出したラクルが、迎え撃とうと巨体を廻らせるハガネールに飛び掛かるのを横目に見つつ、彼は目を瞑る思いで鉄蛇の尻尾の下を潜り抜け、ウララの許に滑り込む。
「大丈夫、ウララ?」
「うん……。ありがとう、ヒューイ兄ちゃん」
気が緩んだのか、目を潤ませて抱き付いて来る小柄なニューラを励ましつつ、ヒューイは手早く観察して、怪我の程度を確認する。幸い出血も骨折も見えず、せいぜい足を挫いたか、軽い打撲ぐらいのものらしい。
「早いとこ逃げよう。掴まって」
長居は無用とばかりに、ヒューイは自分の背中に彼女を乗せると、外の様子を窺がってから走り出す。必死に距離を取る背後では、ハガネールの繰り出したストーンエッジを家主のマニューラが身軽に避けて、氷の礫で反撃している。彼女の果敢な突貫により、どうやら勢いを取り戻した周りの鉤爪ポケモン達も、てんでに礫や凍える風を撃ち込んで、ラクルの奮闘を援護している。小煩く攻め立てて来る黒猫共の反攻に、大柄な鉄蛇ポケモンは効果的な対応が出来ず、苛立たしげに尻尾を地面に叩き付けた。
だが、一見単純な力押ししか出来そうになかったその相手は、直後思いもよらぬ手で反撃に移る。周りを囲むすばしっこい狩人達を一渡り睨み回した彼は、不意に全身を輝かせると、一呼吸置いて辺り構わず、鋼の身体から光の帯を乱射する。
「うわっ!?」
「ぎゃ!!」
まるで刺を撃ち出したテッシードを思わせるような多方面攻撃に、避け切れなかった黒猫達が悲鳴を上げて蹲る。自分に向けて飛んで来た光を慌てて横っ跳びにかわしつつ、ヒューイは普通のハガネールなら先ず覚える事はないその技の名称を、信じられない思いで口にする。
「ラスターカノン……!? まさか……」
ラスターカノンは光を一点に集めて照射する、中距離向けの遠隔攻撃。鋼タイプの技ではあるが、本来野生のハガネールは、この技を覚える事はない。これを使えるのは、技マシンで習った時――人間の手によって覚え込まされた個体のみが、この特殊な技を扱う事が出来るのである。しかもこのハガネールのそれは、本来一点に凝縮して単体の相手を狙うべき技を、威力を大きく下げる代わりに放射状に無差別攻撃を仕掛けると言う、非常に実戦向きのアレンジまで加えている。此処まで戦いに特化されたポケモンが、元々野生に居る筈がなかった。
頭に浮かんだ結論に彼が驚愕する中、ハガネールは続いて強烈な地震を繰り出して、自分の周りで動けなくなっている、鉤爪ポケモン達を一掃する。地面タイプ屈指の大技の余波は激しく、ラスターカノンを避け切っていたラクル達も大なり小なり巻き込まれて、辺りは技の轟音とダメージを受けたポケモン達の悲鳴や呻きで騒然となった。ヒューイ自身も巻き込まれはしたものの、地震が来るのはある程度予想出来ていた為、ウララ共々痛手を被る事は免れる。
身軽なラクルも直撃こそはしなかったが、堪えた衝撃に動きが鈍る。それを見て取ったハガネールは、訪れた勝機を見逃す事無く、すぐさま次の手を打って来た。戦意充実し咆哮を上げた鉄蛇は、巨大な鋼の身体を駒のように回転させ、一直線にマニューラ目掛けて突っ込んでいく。この種族最強の武器である、最大火力のジャイロボール。もしこれが直撃すれば、ハガネール自体の質量も相まって、ほぼ間違いなく致命傷は免れない。
「ラクル! 危ない!!」
必死に叫ぶヒューイの声に応えるように、マニューラの身体が横に跳ぶ。でんこうせっかで何とか回避したのも束の間、ハガネールは折角巡って来た好機を無為にする心算は無いらしく、そのまま方向を転換し、彼女のみに狙いを絞って追い掛け始めた。
一方ヒューイの方は、急いでウララを地面に下ろした。姉の名を呼ぶ小柄なニューラに下がっているよう伝えると、彼は地を蹴って前に出ながら、ずっと使う事のなかった、自分の能力(ちから)を呼び覚まそうと試みる。必死に距離を詰め、風を切って高速回転する鋼鉄の蛇を射程圏内に捉えると、地に着けていた二本の腕を持ち上げて、標的を見据え身構える。最速で呼吸を整え、無意識の内に鋭い爪が飛び出している己の腕に戦う力を込め始めると、程なく生まれた枯れ草色の塊が、どんどん大きくなっていく。――命中率の悪い技だが、得られるチャンスは一度きり。両手で保持したエネルギー弾が十分育ったのを確認すると、ヒューイは全神経を集中し、恩人に向けて突進していく巨大な灰色の駒に向け、思いっきり技を繰り出した。
矢声と共に解き放ったのは、格闘タイプの気合い玉。ただでさえ制御の難しいそれは威力の確かな大技の半面、ちゃんと使いこなせても尚命中精度が不安定と言う代物だったが、今回は的の大きさが幸いした。案の定、予想もしなかった弧を描いて彼の肝を冷やさせた光の玉は、それでも何とか予想進路から大きく外れる事は無く、猛進するハガネールに引っ掛かるように命中する。凝縮されたエネルギーが炸裂音と共に弾けると、マニューラに向かっていた鉄蛇の身体は凶暴な力に打ちのめされ、強引に進路を捻じ曲げられて、苦痛の吠え声と共に横転したまま地を滑る。回転する鉄骨のようなハガネールの巨体は、繰り出していた技の勢いそのままに地表を削りながら進んだ後、岩にぶつかって漸く止まった。ぐったりと横たわる彼は命に別条こそ無さげだったが、最早起き上がって戦う事は不可能だろう。
「すげえな……。あんたそんな技が使えたのか」
大きく安堵の息を吐くヒューイに向けて、ルプシが気圧されたように言葉を掛ける。タネを明かせば、物理ダメージに対して極めて強靭な半面、特殊攻撃に対しては非常に脆弱なハガネールと言う種の弱点を突いただけなのだが、その手の知識がまだ無い彼には、今の一撃が驚嘆に値する、恐るべきものに見えたのだ。……まぁ事実、強力な技である事は間違いないのだけれど。
此方も漸く安堵の表情を浮かべたラクルに、ウララが足を引き摺りながら走り寄っていくのを眺める内。唐突にヒューイは、今まで聞いた事も無い声で、背後から呼び掛けられていた。
「見事だな。大した腕だ」
称賛を意味する内容であるにもかかわらず、ハッとするほど冷たいものが入り混じったその声に、ヒューイは慌てて振り返りつつ、無意識の内に身構える。――果たしてその相手は、今まで出会った事も無いポケモンだった。
そこに居たのは、一匹の猿。燃え盛る炎を頭部に宿し、彼と同じく白を基調とした体毛を纏うその種族自体は、嘗て主と共に観ていたテレビの中で、よく目にしていた存在である。
「ゴウカザル……」
「まぁ、そうだ。見ての通りの事だがな」
彼の呟きが何処となく可笑しかったらしく、目の前の火猿ポケモンはやや表情を緩め、軽い苦笑と共に頷いて見せた。次いで再び目付きを戻した彼は、ヒューイに向けて「いきなりで悪いが、ちょっと付き合って貰いたい」と要請する。
「貴様、元は人間の手持ちだろ? 気合い玉が使えるのなら、先ず間違いあるまい。なら――」
「ちょっと待てよ。いきなりでって言うけど、実際訳分からないし迷惑だ。ヒューイをどうする心算だよ?」
『飼われ者(ペット)』ではなく『手持ち(パートナー)』と呼ばれた事に、ザングースが目を見開く一方、傍らで見守っていたニューラのルプシは、抱いた敵意と警戒心を隠さぬままに、両者の会話に割って入る。普段なら同時に爪を光らせ、頭ごなしに威嚇もする所だが、今回は穏やかならぬ口調ながらも、自分から踏み出す事はない。この種族をよく知らぬ彼も、目の前の相手が自分より遥かに危険な存在だと言う事は、本能的に悟れていた。……果たしてその炎の猿は、横槍を入れた彼の方をじろりと睨み、冷たい口調で吐き捨てる。
「邪魔するか、小僧。首を突っ込むなら容赦はせんが構わんのだな?」
「待って……!」
思わず後ろに下がりかけるニューラを追い立てるが如く、険悪な表情で一歩進んだゴウカザルに対し、ヒューイは慌てて両者の間に割って入ると、ルプシを庇うように立ち塞がる。「行くよ」と答えた彼の顔を無言で見詰める火猿ポケモンは、ややもして一つ頷くと、くるりと背を向け歩きだす。その時背後で上がった叫びに、思わずそちらを振り返るザングースに対し、彼は変わらず前に進みながら、「気にするな」と呼び掛けて来る。
「仲間を連れて帰るだけだ。貴様が大人しく付いて来るなら、今は此処の連中に手は出さん」
冷たい声音の裏に見え隠れするその意図に、内心怯えを掻き立てられるも――事実上の選択権を奪われたヒューイは、ルプシに一言心配するなとだけ告げて、前を行く相手の後を追い、今の自分の生活圏である、縄張りの外へと向かい始めた。
ゴウカザルはソグと名乗った。自らも名前を言ったヒューイに対し、彼は「さっき聞いた」と素っ気無く応じつつも、やはりその反応が可笑しいらしく、微かに苦笑しながら首を振る。距離を置いた雰囲気を保ちつつも、不思議なほどに悪意の無いそんな相手の態度に、ヒューイは戸惑いを隠せぬ反面、それほど悪くないと思っている自分に気付く。
やがて見慣れた森を抜け、人間の使う道路が見え始めた頃。唐突に立ち止まったゴウカザルが、くるりと此方に向き直った。
「ここらで良かろう」
そう呟いた彼は、次いで「改めて聞くが、お前は元は人間の手持ちだったんだよな?」と念を押す。ヒューイがそうだと肯定すると、ゴウカザルは満足気に頷いて、「なら話は早い」と呟いた。そして不意に真剣な目付きになると、向かい合う彼が思ってもみなかった事を口にする。
「ヒューイと言ったな。元手持ちなら、是非とも勧めたいのだが……貴様、俺達の仲間に入らんか?」
「え……?」
思わず絶句する彼に対し、ソグは自分が、主を無くしたポケモン達で構成されたグループの、リーダーを務めているのだと言い添える。彼らは高い実力を持ちつつも、野生の世界で独自の縄張りを持てなかったり、上手く生活に溶け込めなかった者の集団で、旅をしながら「此処ぞ」と思った所に滞在し、そこで一定期間土地のポケモン達の厄介になって暮らしているのだと言う。
「さっき貴様が倒したハガネールも、俺達の仲間だ。今は隣の森の厄介になってるんだが、其処の連中に頼まれたのが、今回の件と言う訳さ。あの森はとても豊かで広大だが、主のニューラ共は余所者嫌いで、外から来た奴には容赦しない。だから少しばかり締めてやって、縄張りを削って貰うよう依頼されたんだ」
「でも……それって、彼らから言えばただの侵略なんじゃないかな……? 確かにもっと寛容になっても良いとは思うし、外の世界とも助け合えるならそれが何よりだけれども……」
ゴウカザルの言葉にも頷ける点がある事を認めながらも、ヒューイは控え目に彼の方針に反論する。ラクルが苦しむ切っ掛けとなった出来事を踏まえてみても、排他的に過ぎる姿勢は彼にしたって好きになれない。――けれども、だからと言って外の考え方を押し付けて、それを力づくで認めさせるなど、本来余所者である自分達がして良い事ではない筈だ。現にウララは危険な目にあったし、ラクルに至っては命すら奪われかねなかった。自分の身近な存在が脅かされた彼にとり、ソグ達の行いは不当な侵略以上の価値を見出せるようなものではない。
結局平行線を辿った議論に、最後はソグも諦めた。だが彼は、ならばと表情を改めると、最後に一つだけ釘を刺して来る。
「そう言う事なら仕方がない。惜しい話だが、貴様の事は諦めよう。……ただし、受けた依頼は撤回する心算はない。もし今度邪魔しに来たなら、その時は貴様も敵と見做して、容赦無く叩き潰させて貰う。それだけは肝に銘じておけ」
決別の言葉を終えたゴウカザルは、送りはしないが邪魔立てもせぬと、彼がラクル達の縄張りに戻るのを黙認する意思を示す。臆した色が顔に出ぬよう懸命に表情を取りつくろいつつ、相手の判断に言葉少なに謝意を伝えたヒューイは、冷たい視線を送って来る火猿ポケモンに背を向けると、再び元来た道を踏み分けて、長い家路を辿り始めた。
無事戻って来たヒューイの伝えた内容に、群れのメンバー達は大いに動揺し、議論百出して騒ぎ立てた。
ある者は今直ぐ戦いに向けて技を磨くべきだと言い、またある者は守り易いよう、役割分担をすべきだと言う。幼い者を巻き込まぬよう避難させる事が提案されれば、別の者は年端の行かぬ連中でも、見張りや連絡役は担えるのだから、留めるべきだと主張する。けれども全員が受けて立ち、迎え撃つ事を選択したのは変わらなかった。相手がどれだけ手強くとも、余所者如きに好きにされてなるものかと言う訳である。
その一方で困った事に、ヒューイ自身への風当たりも、露骨に強くなって来た。ラクル一家は言うまでも無く無事を喜び、感謝の念と共に迎えてくれたが、他の大半の同族達は疑いの目を向けて来るか、そうでなくとも嫌悪の情を隠そうとしない。余所者は十把一絡げで余所者であり、外からの悪影響が齎されれば、異分子の印象はただ悪化する一方だった。ルプシなどはハガネールを降した点を挙げたりして懸命に擁護してくれるのだが、あくまで排他論を捨てきれぬ一部の連中に言わせれば、敵であるゴウカザルと共に縄張りの外に出た事を見ても、グルであると判断した方が自然であると主張する始末。無関心や陰口程度なら兎も角、下手をすると闇討ちすらされかねない雲行きに直面して、流石のヒューイも嫌気が差すと同時に、自分がどうするべきであるのか思い悩んでいた。
正直な所、ソグのやり方は許せないと感じたし、出来るなら止めるべきだとも思う。けれども、いざ止められるかどうかとなれば全く自信が無かった。口で言って思い止まるような相手じゃないし、争い事も苦手である。ハガネールの時は他に選択肢が無かったし、そもそも横から手を出しただけで、正面から立ち向かったと言う訳ではない。一応心得も無い訳ではなく、バトル自体が始まってしまえばどうとでもなると思われるのだが、敵意を込めて睨まれるだけで萎縮してしまう自分にとり、こんな状況で自ら渦中に飛び込むのは、無謀以外の何物でもなかった。
寝ても覚めても思い悩んでいる彼に対し、ラクルが相談を持ち掛けたのは、それから三日後の事である。日課であった木の実畑の管理にも出ず、憂いを含んだ目でぼんやりと空を眺めていたヒューイに、家主のマニューラは「頼みたい事がある」と切り出して、彼を現実に引き戻した。
「もし私に何かあった場合に、ウララの事を頼みたいんだが……構わないだろうか? ルプシが無事で残っているとは限らないし、いたとしてもあの子は身体が強くない。その点あんたは病気や薬になる木の実に詳しいし、妹に関してはあいつよりよっぽど頼りに出来る。……こんな場所に縛り付けたくは無いけれど、せめてあの子が一人前になるまでは面倒見てやってくれないか?」
「ちょっと待って……! そりゃもし何かあったら、言われるまでも無く引き受けるけどさ……。何もそんな縁起でもない事言わなくても」
承諾しつつも、そんな事考えたくも無いと言う表情のヒューイに対し、ラクルは何時に無く真剣な面持ちで、自らの見据えた展望を語る。
「私もこんな事は言いたくないよ。……でも、もし本気で向こうが攻めて来るなら、勝ち目があるかは怪しいもんだと思うしかない。この間のハガネールだって、私達だけじゃ手に負えなかったんだ。あんなのが束になって掛かって来たら、追い払うどころか逃げ散るだけで精一杯ってとこだろう。そうなれば私らは幼い連中を守る為にも、前に出て時間を稼がなきゃならない。命までは取られなくとも、不具にぐらいはされる覚悟をしといた方が良いだろうな」
淡々と語る彼女の目には、その絶望的な内容とは裏腹に、恐れる気配は微塵もない。怖くないのかと尋ねると、ラクルは軽く苦笑して、「これがうちの一族の伝統だからね」と頷いて見せる。
「祖父さんがよく言ってたよ。受け止めずに逃げ出すのは簡単だけど、結果を見詰めるのは死ぬより辛いって。最初は意味が分からなかったけど、あの事があってから骨身に染みた。別れが辛くて延ばし延ばしにしたせいでああなったんだから、そう言う意味では重い教訓だったね。……今だって、ウララ達に当て嵌めてみれば答えははっきりしてる。逃げる訳にはいかない」
強い光を湛えて語る彼女の瞳を、ヒューイはまるで憑かれたように、言葉も無く見詰め続ける。その内でうねる嵐のような波頭に気付かず、件のマニューラは自分を見据える猫鼬に向け、少しだけ表情を和らげて付け加えた。
「とは言った所で、結局偉そうな事を言えた義理でもないんだけどね。……あんたに諭されるまで、私もずっと前を向けてはいなかった。私をこうさせてくれたのは、間違いなくあんたなんだ」
ぶるりと震えたヒューイに向け、彼女は微笑み手を差し伸べる。大揺れに揺れる感情の波に頭の中をかき回され、固まったまま動けない猫鼬の片腕を取ると、ラクルはもう片方の腕も持ち上げ、冷たく光る鋭利な爪を立てぬよう、己の両手で相手の掌をそっと包んだ。
「……だからさ。もう役立たず面するのは止めな。私達はあんたを必要としてるし、あんたは自分で思ってる以上に、私達にしてくれてるんだ。あんたの御蔭で、私も色々な事が見えて来た。祖父さんがなんで外の連中を受け入れなかったのか分かったし、それを頭に入れた上でも、自分のやり方は間違って無いと確信出来た。……なのに、未だにあんたは辛い思いをしてる。自分が救われる為に播いたタネであんたが苦しんでるってのに、私はまだあんたの事をろくに知らないし、聞かせて貰った事すら無い。不公平だと思わないか?」
噴き上がって来た熱湯のような塊が、何とか踏み止まろうとしていた、ヒューイの思考力をゼロにした。「少し待って……」と震える声で答えた彼に、ラクルは「分かってるよ」と応じると、そのまま何も言わずに言葉を待った。
多分、その時が来たのだろう。淀み溜まったの胸の重荷が、行き場を失っていた古い涙に包まれて、外に運び出される段階が。傷の舐め合いはしたくない――無意識の内に築かれていたちっぽけな砦(みえ)が跡形も無く崩れ去る中、ヒューイは今なら全ての事を、素直に話せる気がしていた。
その日以来、ヒューイは持ち得る限りの全力で、来たるべき日に備え始めた。あの後、自らも戦うと強固な意志の下に宣言した彼は、長らく錆び付かせていた技の鍛錬を繰り返し、放つ呼吸やタイミングなどを思い出しつつ、傍ら滞っていた何時もの日課を再開して、木の実の世話に精力を注ぐ。衰え始めた初秋の日差しに揺れる果実は、もう充分に大きく熟し始めており、使えるようになるのは目前だった。この近辺では決して見る事は出来ないだろう特徴的なラインナップは、機会さえあれば街の方に出かけていき、バトルの後の齧り残しを拾ったり、鳥ポケモンの糞を穿り返すなどして、コツコツ集めて来たものである。
「そろそろ良いかな」
やがて満足のいく色つやに仕上がったそれを手に取ると、彼は樹木に一声掛けてから、爪で丁寧に付け根を刈って収穫する。秋口の夕日を眩しく弾くヨプの実に、ヒューイは心強げな視線を向けて、己が成果に納得したように頷いた。
ゴウカザル達が現れたのは、それからホンの数日後――木の実の取り入れがまだ終わらぬ、午後下がりの事だった。丁度収穫の為にねぐらを離れていたヒューイは、息を切らせて知らせに来てくれたルプシに会うまでその一大事に全く気付かず、最初の段階から大きく後れを取ってしまう。「既に招集が掛かってる」と告げるニューラは、案内を頼んだ彼のペースにもどかしげな様子だったものの、何だかんだで鈍間な猫鼬に付き合ってくれた。
懸命に走りながらも、ヒューイは途中で一度立ち止まり、尻尾を激しく打ち振って、中に仕舞った唯一の私物を振り落とす。当ても無く駆け出したあの日以来、これだけは肌身離さず持ち続けていたその私物は、嘗ての主人に与えて貰った、小さな筒型のペンダントだった。
「何だそれ?」
振り出したそれを大事そうに拾い上げ、自らの首に慌ただしく引っ掛けるヒューイに対し、振り返ったニューラが怪訝そうに質問する。「大事なものだよ」と曖昧に濁し、再び走り出した猫鼬は、これから始まる危険に満ちた騒乱が何とか上手く片付く事を祈りつつ、嘗て幾多の場面を共にした思い出の品に、決意に満ちた眼差しを向けた。
彼らが到着した時には、もう戦いが始まっていた。予てから想定していた通り、有利に戦える種族を中心に攻め込んで来た相手方に対し、縄張りの主である味方の側は、その圧倒的な劣勢を高度なチームワークで喰い止めている。数に勝る黒猫達の集団戦術に、一息に押し切ろうとした略奪者達が手を焼いているのを見て、ヒューイは改めてマニューラ達の実力に感嘆した。
けれども、やはりそれだけでしのぎ切れるほど甘くはない。攻撃が分散しているだけで、消耗のペースは間違い無く味方の方が不利だった。せいぜい十数体に過ぎない攻撃側のポケモン達が未だ殆ど脱落していないのに比べ、群れのメンバーで倒れた者は、見える限りでも十指に余る。このまま彼我の比率が接近し続け、膠着状態を維持出来る許容範囲を割ってしまえば、防衛側は一気に総崩れとなり、受ける被害は計り知れない。直ぐにでも敵の数を減らさなければ、明日を待たずに悲嘆の声が木霊して、森を覆い尽くすだろう。
無論それが分かっているヒューイに、手をこまねいている心算は無い。「どうする?」と聞いてくれたルプシに対し、彼は大きく一つ深呼吸すると、両手の爪を露わにしながら返答する。
「援護して! 一匹ずつ片付ける!」
「了解だ! よし、行こうぜ!」
覚悟を決めて地を蹴るヒューイに遅れじと、爪を研ぎ終えた生意気盛りの黒猫が、勇躍して後に続く。自らも己を奮い立たせ、全身の毛を逆立て始めた猫鼬を、ルプシはニヤリと小気味良さげな笑みを浮かべて追い抜くと、視線の先のジバコイルに向け、氷の礫を投げ付けた。身軽にヒットアンドアウェイを繰り返すマニューラに向けマグネットボムを放とうとしていた磁場ポケモンは、頭部のアンテナを直撃した氷塊に、苛立ったように振り返る。すぐさま踵を返して避退するルプシに対し、用意していた必中技の目標を切り替えようとした彼の判断は、ニューラのすぐ後ろから迫って来ていた気合い玉への対応に、僅かではあるが致命的な遅延を生じさせた。慌てて再度志向先を変更するも、元より高度な集中力を要求される精妙な曲技が、度重なる意識の乱れに付いて行ける筈がない。中途で放ったマグネットボムはあらぬ位置で炸裂し、迎撃に失敗した気合い玉は、一撃で彼の継戦能力を奪い去った。撃破されたジバコイルが地面に墜落したのを受けて、戦っていた相手のマニューラが、表情を輝かせつつ駆け寄って来る。
「ヒューイ!」
「ラクル、遅れてごめん」
合流した家主に対し、ヒューイは先程までの勢いに到底似合わぬ声で謝ると、束の間普段の表情に戻り、バツの悪そうな笑みを浮かべた。見慣れた彼のそんな態度に、ラクルの方も何時もの調子で応じると、さっさと戦線に復帰するよう促して見せる。
「構わないさ。ただしその分、しっかり働いて貰うからね」
次いで弟と同じく、どうするべきかを質問して来た彼女に対し、ヒューイはこれまた同じように、自分の動きを支援して欲しいと要請する。快諾してくれたマニューラに向け、一声「行くよ」と声を掛けると、彼は再び手近な相手に狙いを定め、重ねて奮い立てるで己自身を鼓舞しながら、乱闘の渦に突っ込んでいった。
次々と敵を撃破しながら、ヒューイは自分でも知らない内に、戦いの場に溶け込んでいた。心の弱さに封じ込められた本能が息を吹き返し、臆心が生み出す躊躇いの掛け金が外れた先にあったのは、相手を捩じ伏せ自らの力を証明すべく牙を剥く、ザングースと言う種族本来の、純粋な闘争心だった。
嘗てヒューイは、主人と共にコンテストに参加していた。一般的なザングースとは全く異なる彼の技のレパートリーは、そこに端を発している。馴染まぬ技を薬籠中に使いこなすべく、彼はたゆまぬ鍛錬を重ねる傍ら、どんなパフォーマンスにも応じられるよう、徹底して身の軽さを追求した。老いた主を喜ばせるべく励んだ修練の道ではあったが、そこに見え隠れする強い闘争本能には、殆ど気付いていなかった。臆病なのは今と全く変わらなかったが、例えどんな形であれ、自身の事は思い通りにならねば気が済まなかった。扱いの難しい気合い玉や雷も、的中させられるまで放ち続けた。彼は負けず嫌いだった。
心の痛手に一度は折れたその牙が、今再び、違う形で表れていた。駆け疾る彼が力を解き放つ度、手強く働き続けていた敵ポケモンが、一体また一体と地に這っていく。相前後して氷の礫や辻斬りを放つラクルとルプシの姉弟と共に、ヒューイは戦いに没頭している己が心の赴くまま、目に付く敵に襲い掛かった。
フリーフォールで獲物を浚うエアームドに雷を当てて撃墜すると、ラクルの辻斬りを弾き返したハッサムに気合い玉を投げ付けて、そのまま弟の繰り出す袋叩きに便乗し、はさみポケモンに利き腕の爪を叩き付ける。次いで立ち向かったエテボースは俊敏な動きで身をかわし、彼の大技を尽く避ける見事なフットワークを披露したものの、ラクルの放つ氷の礫のコンビネーションには対応出来ず、複数に被弾して力尽きた。礫の名手である彼女は、形も特性も違う幾つかの氷塊を同時に生み出し、変幻自在の波状攻撃で素早い相手を討ち止める。弧を描き飛ぶ羽根型の礫で動きを封じ、針のような形状の細い氷柱で攻め立てられれば、如何に素早い尾長ポケモンとて、逃げ切る余地などありはしない。
矢継ぎ早に相手を仕留め、戦況が著しく変化し始めた所で現れたのがソグだった。傍らに三匹の仲間を従えた彼は、ヒューイ達の前に立ち塞がると、敵意も顕わに言い募る。
「やってくれたな青二才! こうなったからには生かしておかんぞ。覚悟しろ!!」
怒りに満ちた咆哮と共に、火猿ポケモンの頭頂部から、炎の柱が立ち昇る。共に居並ぶドクロッグにブーバーン、ドラピオンの三匹も、それぞれ憤怒の情を剥き出しにして、此方に襲い掛かって来た。
対するヒューイは、素早く一時後ろに下がった。何も言わずとも彼の思惑を心得たらしい姉弟は、何とか時を稼ぐべく、一団となって向かて来る、敵の群れへと斬り込んでいく。
ただでさえ不利な相手に数的有利を取られた彼らに、持ち堪えられる時間は限られている。それを分かっているヒューイは、すぐさま繰り出すべき技の呼吸を整えるべく、全神経を集中した。同時に胸から下がるペンダントに手をやると、細かな鎖で繋いであるそれを勢い良く引き千切り、丁寧に閉じ合わされた蝶番をこじ開けて、中に入った物を摘み出す。細かい作業をこなす間も技の集中は絶やす事無く、やがて彼の周りには、何時しか微かな揺らぎが生まれ始めた。最初は毛先に感じる程度だったそれは急速に勢いを増していき、昂った彼の心に応えるように、激しい渦を巻き始める。
最初にザングースの変化に気が付いたのは、歴戦の勇士であるソグであった。直ぐにそれが危険なものであると看破した彼は、目の前を隔てるマニューラ目掛け、速攻でケリを付けるべく突っ込んでいく。放たれた礫を敢えて無視し、庇った腕に突き刺さったそれを抜きもせずに詰め寄せた彼は、驚愕に目を見開き、次いで顔を庇うように口元に手を添えた相手に対し、激烈なインファイトを叩き込む。すさまじい威力を誇るその一撃は、標的のマニューラを一発で粉砕し、ザングースに向け突き進む彼と、同じく猫鼬に照準を定めるブーバーンに対し、突破口を開く。先ず助からぬであろう黒猫の後を追わせるべく、真っ直ぐ標的に向けて狙いを定める爆炎ポケモンの腕先から灼熱の炎が迸り出た時、何者かが脇から飛び出して来て、技への集中で無防備な、ザングースの前に立ちはだかった。
火達磨になった相手が誰かを理解した時も、ヒューイは何とか歯を食い縛り、技への集中力を維持し続けた。完全に援護を失った彼の瞳の内に、此方に向けて一直線に突っ込んで来るゴウカザルと、その背後で追い詰められたニューラのルプシが、ドラピオンの尻尾を必死に避けている様が飛び込んで来る。
絶体絶命のようにも思えたが、既に彼の成算は立っていた。大き過ぎる代償の果てに整ったそれを繰り出すべく、ヒューイは握り締めた掌を緩め、そこに包み込んでいたものを、乱暴に口の中に放り込む。ペンダントの中に仕舞い込まれていたそれは、傍目には何の変哲も無い、萎びた植物の茎であった。奮い立てるで高揚した戦意に後押しされ、逆立てた毛を風に揺らしつつ好戦的にほくそ笑んだ彼は、その枯れ草をガリリと噛んで飲み下す。口中に広がる刺激的な辛みが全身に力を行き渡らせ、万を時して荒ぶる風が意識と完全に同調すると、彼は己が全霊を込め、自らの意志に従うそれを、認識している全ての敵に向け解き放つ。吹き荒ぶ風は時ならぬ見えない刃となってゴウカザル達を包み込み、全身を滅多切りに切り裂いて、一瞬の内に全体力を奪い去り、戦闘不能に追い込んでいった。
パワフルハーブによって解放されたかまいたちに、ソグ達が為す術も無く薙ぎ倒された後。漸く自由になったヒューイが真っ先に走り寄ったのは、ブーバーンの火炎放射から自分自身を庇った相手――数少ない友人の一人である、マニューラのネーベルの許であった。全身火達磨となり、絶叫と共に倒れ伏していた彼の傍らに飛び込んだヒューイは、まだ完全には鎮まっていない周囲の状況も目に入らぬまま、くすぶり焦げた冷酷ポケモンに押し被さるようにしゃがみ込む。
「ネーベルさん! ネーベルさん!! お願い、しっかりして……!」
「よせ、爪が刺さるから落ち着け。……あー、きつかった。ったく、死ぬかと思ったぜ」
が、今にも泣き出しそうな彼の呼び掛けとは裏腹に、件のマニューラは思いがけぬほどしっかりした声音で反応すると、そのままひょいと頭を上げて、思わず仰け反る若い友人に視線を向ける。「なんで……?」と信じられぬ表情で呟くヒューイに、彼はほれとばかりに、ヘタだけ残った木の実の破片を突き出して見せた。
「オッカ……?」
「そ、お前のな。暇がありゃ食ってやろうとかっぱらって来たんだが、意外な所で役に立ったわ。辛くて美味い上に命まで救ってくれるたぁ大したもんだなこれ」
平気な顔で「かっぱらって来た」とのたまうその相手は、空いた口の塞がらぬ彼に向け、「時々失敬して楽しませて貰ってたのよ」と悪びれる事無く打ち明ける。「代わりに今度狩りのレクチャーを――」と焦げた親爺が続けた時には、ヒューイはもう既に座を立って、同じく致命傷を受けた筈の、家主の許へと駆け出している。
だが、そちらに向かうヒューイの表情は、意外なほどに落ち着いていた。……事実、先に傍らに寄り添っていた弟の呼び掛けに反応した彼女は、次いで隣にしゃがみ込んだ猫鼬に目を向けて、弱々しくも柔らかな笑みを浮かべて見せる。
「……ごめん。遅くなっちゃって」
「全くだ。何時も何をするにも遅(とろ)いんだからさ」
激しい戦いに決着が付き、漸く落ち着きを取り戻した周囲の視線を集めつつ。何時もの姿と雰囲気に戻った両者の脇に、あの日収穫したヨプの実の欠片が、風に揺られて転がっていた。
あの戦いから暫くの間、ヒューイは紛れもない英雄として、群れの連中から下にも置かぬ扱いを受けていた。戦後処理や今後の方針についても強い発言権を認められ、一時は異分子でありながら指導者層の一員として、受け入れられる雰囲気すらあったのである。
だが一月経ち、更に二月も経った今、彼の立場は嘗てと同じ、『少し変わってはいるが役に立つポケモン』に戻って来ていた。あれだけの働きを見せたと言うのに、彼は相変わらず狩人になれる気配が無く、普段の物腰も前と同じで、やっぱりやる事が何処かずれている。自然彼への接し方も軽いものとなっていき、以前と違う点と言えば、悪意のある陰口が聞かれなくなったぐらいだろう。……とは言え、彼にはそれで十分だったのだけれど。
一方で周囲の環境については、明確に変化が訪れていた。
まだ影響力のあった当時、ヒューイが真っ先に主張したのは、戦いに敗れ虜囚となった、ソグ達の助命と解放であった。幸いあの戦いでの犠牲者は無く、群れの連中の反感もその分許容範囲に収まっていた為、彼の必死の説得は、何とか実を結ぶ形となった。更に彼はそれに合わせ、長年断絶状態にあった群れと外の世界との交流を、推進する事も提案する。此方も抵抗は根強かったが、今回の事件もこの孤立主義に端を発していたと言う事実もあり、取りあえず通行や冬季以外の限定的な滞在ぐらいは認めても良かろうと言う風に落ち着く。正直まだまだ小さな一歩だったが、抉じ開けた風穴が残り得る限り、前進の機会は常にある。――少なくとも、ヒューイやラクルはそう信じていた。
ヒューイの日常は、今も変わらない。来たるべき冬に備えてせっせと集めた木の実を貯蔵する彼の姿に、「ザングースとはパチリスの親戚だったのか」と言った冗談は聞こえて来るものの、既にその手の言い草に慣れ切っている彼には、何程の事でもなかった。
「よくもこれだけ集めたもんだね」
「うちだけの分じゃないからね。交換に使える事も考えたら、冬の間は幾らあっても困らないと思うよ。この森は木の実集めをするポケモンも少ないから、独り占めの心配はないし……」
「そんな考え方してるから、自分の縄張りが持てないのさ」
やれやれと言う風に首を振るラクルに対し、ヒューイは曖昧に苦笑して見せる。何だかんだ言っても、自分がこの手の思考法から抜け出せる事はないだろう。――人間の世界で習い覚えたその知識や習慣は、やっぱり彼の一部に違いないから。
今の彼には、あるがままの自分を受け入れてくれる、掛け替えのない家族がいる。拾って貰ったヒューイにとっては、ただそれだけで充分だった。
・後書き
ポケモン小説wikiさんの第八回仮面小説大会にエントリーさせて頂いた作品。こっちは一般部門。これも一粒万倍日に乗せた奴なので覚えておられる方もおるやもしれませんね。
実は期日に二日遅れており、ペナルティも貰ってしまった代物。見てわかる通り終盤はめっちゃ駆け足で竜頭蛇尾な終わり方です。……うん、その通り。未完成なんだ。ゴメンorz せめて完成させてから投稿しようと思ったんだけど、どうにもポケモンGoが忙しくて……(撲殺)
ホワイティ杯とブッキングしてたせいではあるんだけど、向こうの夏の終わりも未完成だったことを考えるとやっぱり自分は仕事の出来ん人間なんだなぁと悲しくなりました……。しくしく。
メッセンジャーは唐突に現れて、私にこう言った。
「この世界はもう、終わったんだよ」
私はそのポケモンの言葉の意味を、よく理解している。だからこそ、認められなかった。
レンガ造りの大きなおうち。たくさんのぬいぐるみに囲まれた、私好みの素敵な空間。
そんな私の部屋の中にそいつはずかずかと入ってくる。そいつに足は無いけれども。
その、水色の丸い身体にヒラヒラとした布が付いたポケモンはチリンと声を鳴らして、繰り返す。
「いいかい? この世界は終わったんだ。もうじきここは完全に消滅する。だからキミのご主人様の元に帰るんだ」
私は静かに首を横に振る。
そんな私の態度にそいつは呆れた表情を見せた。
宥めるように私に説得をするメッセンジャー。
「キミがいつまでもここから帰ろうとしないから、みんな困ってる」
知らない、そんなの。私はここに居続けるんだ。
そう拗ねる私に、メッセンジャーはため息をつきながらこぼす。
「ここに居ても、もう誰も来やしないよ」
聞き捨てならない言葉に、私は反射的に食いつく。
どうしてそう言い切れるの? ここは、みんなの夢の楽園だったのに。
「夢の楽園、ね。その楽園にも、始まりがあれば終わりがあるだけの話だ。終わってしまったから、みんなここを去っていった」
……嘘だ。
「キミだって、みんながもういないことに気付いてるはずだ。だからこそ、こんなぬいぐるみだらけの部屋に閉じ籠っている。もうキミはこんなものでしか、キミの心を誤魔化せない」
そいつはそう蔑む口調で呟いた後、私のぬいぐるみ達を片っ端から宝箱へしまい始めた。
私はその行為をとても不快に感じ、涙がこぼれそうになったがぐっと堪える。
口をぎゅっと一文字にして家から出ていこうとする私に、奴は宣告した。
「探しても無駄だ。キミがこの世界に残っている最後のポケモンだから」
私は小さくうるさい、とだけ返事を返して、扉を開けくぐった。
緑の芝生が敷き詰められた、空に浮かぶ小さな浮き島。お家の他に畑や棚がある、広くもなく狭くもない、私と私のトレーナーのテリトリー。
この世界にはこんな感じの浮き島がいくつも、数えきれないくらいたくさんあった。
他の島は、他のトレーナーのポケモンが所有していた。今は過去形である。
以前は友達になった子の浮き島に行くことが出来た。でも、今は出来ない。
友達の浮き島に行こうとしても、見つからなかった。
探しても、探しても。
あいつの言う通りならば、みんなここから去ってしまったのだろう。
「ほら、言った通りだろう」
いつの間にか隣に来ていたメッセンジャーが、むかつく声で言った。
私はそれでも現実に納得がいかず、今でもたった一つだけ空に見える、大きな浮き島を指差して尋ねる。
あの島は、どうなっているの?
私の問いに、そいつはチリンと透き通る声で答える。
「あの島は、今は立ち入り禁止だよ」
立ち入り禁止……いつもあの島に行くときに架かる虹の橋が現れないのは、立ち入り禁止だから?
「そうだよ。何、あの島に行きたいの?」
私は無言でうなずく。
「仕方がない、特別だよ。あの島に行ったら帰るんだよ」
と、そいつはしぶしぶ承諾してくれた。
そいつが合図を出すと七色の虹でできた橋が架かる。
私たちは足早に、その橋を渡った。
「ゆめしま」と呼ばれていた大きな島には、山や海、洞窟に洋館、公園などいろんな場所があった。
私はメッセンジャーに頼んで最後に行きたかった場所に連れて行ってもらう。
そこは、小さな森。
初めて私が「ゆめしま」にやってきた時に訪れた思い出の場所。
草むらや池、木の上などから色んなポケモン達が現れた時は、驚いたっけ。
お家にあるボードに貼られた数多くの友達の写真を思い返す。
私はここで、本当に多くの友達と仲間と出会えた。そんな出会いはこれからも続くものだと、無邪気に信じていた。
――想定はしていたけれど草むらは音沙汰なく、池の水面も揺れる様子もなく、木の上を見上げてみても誰もいない。
見知った顔も、見知らぬ顔ももう誰もいない。
私は思った。思い知らされた。
こんなにも、静かな場所だったのか。と。
そうして歩いていくと、とうとう島の中央にある終わりの場所、大樹の元まで辿り着いてしまった。
今まで大樹は、みんなの夢を集め、シャボンのような無数の光を携えていた。
けれども、今私が見ている大樹はまるで枯れてしまったかのように活力を感じられない。
それは、まるで終わりを迎えてしまったモノの、なれの果てのようだった。
メッセンジャーは三度、終わりを告げる。
「この夢世界は、終わったんだ」
メッセンジャーの一言に、ぐっと堪えていたはずの涙が溢れだし、私は大声で泣いた。
私にとって、ここは大切な居場所だった。
たくさんの思い出をもらった場所だった。
大切な友達と時間を過ごした場所だった。
私にはまだ、この世界が必要だ。
なのに、なのに、どうして!
「覚めない夢なんて、夢とは言わないんだよ。それともキミは、独りぼっちの夢を見続けたいのかい?」
メッセンジャーは現実を突きつける。
ああ、そうだ。
解っている。
私が望むのは、独りぼっちじゃない。
「いい加減、思い出にしてあげよう」
思い出に……でも、思い出にしてしまったら、いずれ忘れてしまうじゃないか。
どんなに大切な友達との記憶も、それぞれの未来へ歩み出したら消えていってしまうじゃないか。
「それでも消えないモノはあるよ」
それは、なに?
「繋がり、さ」
メッセンジャーが木魂するような音を放つ。
辺り一帯の大地が鼓動する。
大樹の根元が光に包まれ
透明なシャボン玉のような光がいっせいに浮かび上がった。
今まで見たどんな景色より、美しいと感じる私がいた。
私の意識も光に誘われて空へと引っ張られていく。
天高く、天高く、光と一緒にどこまでも上昇していった。
下方に見える大樹が、メッセンジャーがどんどん小さくなっていく。
メッセンジャーは最期にどこまでも通るような真っ直ぐな声で、こんなメッセージをくれた。
「今までこの世界を愛してくれて、ありがとう! バイバイ!」
咄嗟に私は叫んだ。
思い切り声を張り上げ叫んだ。
ありったけの感謝の気持ちを込めて、
はるか彼方に消えていく、
あそこに向かって、高らかに!
*************************
そして、ベッドの中の私に、ご主人はやさしく語りかけた。
「おはよう。おかえり――お疲れ様」
私は泣きじゃくりながら、一声鳴いて応える。
ただいま!
あとがき
BWのPDWが運営終了してしまった後に思いついたお話しでした。
揺れる。 揺れる。
「ぐらぐら」ではなく、かといって「ゆらゆら」という訳でもなく、
ゆっくりと鈍い音を立てながら、その柱は塔の中心で揺れ続けていた。
揺れ幅には一寸の狂いもなく、一定のリズムを保ちながら揺らぎ続ける柱。
気になったのでじっと眺めて観察してみたが、その動きはどうやら止まる事は無い様だった。
柱は、休む事を知らずに振れ続ける。
まるで、生きるために働き続ける私達の心臓のみたいに、マダツボミの塔の心柱は動いていた。
ふと思う所があり、私は手持ちのモンスターボールの中にいる相棒を眺める。
そのカプセル状の機械にすっぽりと収まった小さな命も、
「ゆらゆら」と弱々しくはなく、
かといって「ぐらぐら」と雄々しい訳でもなく、
静かに、だけどしっかりと揺れて――生きていた。
やはり、その一つの命から目を反らす事は、私には出来そうにも無かった。
……するつもりも、毛頭から無かったのだけれども。
◇ ◆ ◇
ジョウト地方、キキョウシティ。
古い建造物が多く残されているのが特徴的なこの町の北側、川を隔てた先にマダツボミの塔という名前の名所がある。
そこでは昔から、塔にいる坊主達とポケモンバトルをして見事勝ち抜くと、いあいぎりの秘伝マシンを譲り受ける事が出来るしきたりがあり、登竜門の意味も兼ねて多くのトレーナー達が訪れていた。
僕は小さな頃から、休日になると此処の手前の桟橋によく来て、このマダツボミの塔に挑戦しに来る人とポケモン達を眺める事を趣味の一環として生活していた。
何時から、どうしてこの趣味を始めたのかは、もう憶えていない。
だが、こうして道行く彼等を眺めたり、時には出会い、話をしたりして行く内に僕は何処かで“マダツボミの塔”という歴史を見ている様な奇妙な感覚を覚えていた。
些細な出来事からちょっと大きな出来事まで、同じ時間を共有出来る。
例え忘れてしまったとしても、その一瞬一瞬に遭えるのが堪らないのかもしれないから、今も僕は此処に来続けているのかもしれない。
そしてまた一人、今日も塔からトレーナーが出てくる。
出てきたのは、今朝方に塔に入っていった、ピクニックガールらしき恰好の女の子。
特に慌てた様子も無く、落ち着いて歩いているので恐らくは無事勝利と秘伝マシンをその手に掴む事が出来たのだろう。
何時ものノリで、話しかける。
「今日は、お嬢ちゃん」
「? 今日は、お兄さん」
いきなり話しかけて、驚かれるのはよくある事だ。一々気にはしない。
そのまま世間話を、振り始めてみる。
「秘伝マシンは、ゲット出来たかい?」
「ええ、はい。相棒が頑張ってくれました。今は少しボールの中で休んでもらっています」
「そっか。おめでとう、お疲れ様」
「はい。有り難うございます、私も相棒も疲れました」
「良かったら、お茶とお菓子があるし、少し休んでいくかい?」
言ってしまった後に、あ、しまった。これってナンパかな。と若干不安になりつつも、
「お言葉に、甘えさせて頂きます」
という彼女の返事を聞いて安堵した。
あらかじめ持って来ていた紙コップに水筒のお茶を容れて、少女に渡す。
少女はそれを受け取り一口飲み、「美味しい」と言葉を漏らす。お口にあって何より。
自分様の紙コップにお茶をいれた後、そのまましばし沈黙が続いたので、僕の方から彼女にいくつか質問をしてみた。
「お嬢ちゃんはこの辺ではあまり見かけないけど、トレーナーとして旅をしているのかい?」
「そんな所です。……と、言ってもまだまだ未熟者ですが」
「……ジム戦にはもう挑戦した?」
「はい、なぎ倒しました」
「なぎっ…… 最近の子達は、強いな」
「いえいえ」
話の区切りに二人で一服。
今度は逆に、僕が質問される番。
「お兄さんは、何をされているのですか?」
「フレンドリィショップの、店員だよ」
「店員さんでしたか」
「店員さんです。今後ともご贔屓に」
「はい。今度キズぐすり買いだめさせてもらいます」
「お買い上げ有り難うございます」
こういう機会にお得意様を作るのも、一興である。
また一服。その時にバッグから取り出したネコブ飴の袋を差し出す。
あまり、子供にはメジャーでは無いかなと思っていたが、案外どうやらそうでもないらしい。
「私、これ好きです。良く家で食べてました」と言いながら二つほど袋から取り出し、「頂きます」と食べていた。
しばらくして、少女がマダツボミの塔の方を見上げて、話を切り出し始めた。
「……そう言えば」
「そう言えば?」
一度咳払いをして、彼女は言葉を続ける。
「そう言えば、塔の試練を受けていて一つ疑問に思うことがありまして」
「疑問、というと?」
「このマダツボミの塔の、名前の由来になっている言い伝えについて、です」
「ああ、あの塔にあるいつも揺れている柱は実は巨大なマダツボミだったって話?」
この塔にある、有名な言い伝えだ。
「はい。30メートルもの巨大なマダツボミがその柱になったというお話は聞きましたが……この言い伝え、個人的には若干惨いと思うのです」
「……どうして?」
そう、問いかけると、少女は俯きながら
「いいえ、やっぱり何でもないです」
「私個人の感情論だというのは、分かってますから」
と、言葉を濁した。紙コップのお茶には、彼女の表情が映し出される。
「えっと、話がそれました」
「疑問、というのはですね、そのマダツボミがどういう風に、どういう事情で、どういう経緯で柱になってしまったかは、一切語り継がれていない事についてです」
「言われてみれば……確かに」
「僅かに残っているのはただ巨大なマダツボミが柱になった。という事実かどうかも本当には分からない不明確な結果だけ。塔の名前にもなっているポケモンの事なのに、アバウト過ぎます」
少し憤る彼女に、苦笑いで僕は返す。
「何百年も、昔の話だからね。仕方がないよ」
「だからこそ、しっかりして欲しかったです。出来るなら、腕の葉はどうなったとか、見えない最上階に頭部はちゃんとあるのか、どうして揺れ続けるのかとか、もっともっと詳しく知りたかったです」
ため息を吐き、心底がっかりした様子で、彼女は呟いた。
「これじゃあ、ちゃんと言い伝えられて無いじゃないですかー」
「ご、ごもっとも。だけど――そういう事は、お坊さん達に質問してみれば良いんじゃないかな?」
「聞きにくかったんです」
即答。まあ……内容が内容、だからなあ。
俯いてた彼女が、顔を上げた。
その表情は、すっきり……と言うよりはどこか腹をくくった様にも僕には見えた。
「……でも、やはりそうですよね。ちゃんと正直に話して教えて貰うのが、一番ですよね。うん」
そう、言い切って紙コップに残るお茶を一気に飲み干す少女。
この時、彼女が何に納得したかは分からなかったが、何か突っかかっていた物が吹っ切れたのだろうと、勝手に解釈させて頂く事にした。
「それじゃあ、私は一旦ポケモンセンターに行った後、もう一度塔を登ってくる事にします。お茶とお菓子、ご馳走様でした」
「いえいえ。あ、そうだ」
返して貰った紙コップを受け取りつつ、僕はふと、思いついた事を口に出していた。
「ねぇ君、マダツボミ、捕まえていないかい? もし良かったら僕のイワークと交換しようよ」
「持っていますが……嫌です。お断りします」
ありゃ。まぁ、口振りからするに、マダツボミ好きそうだもんなあ。
大人気なく、交渉を続けてみる。
「む、どうしてもダメかい?」
「ダメです。自分で捕まえて下さい」
「イワークはタフで大きくて、たよりになるよ?」
ほら、と僕は自分のモンスターボールから“イワーク”を出してみせる。
いわへびポケモンと呼ばれるだけはあり、そのゴツゴツとした頑丈そうな岩で出来た巨躯は、何時見ても立派な物だ。
「確かに防御は高そうですし、大きいですね」
「だろう?」
「しかし」
少女が彼女の手持ちのモンスターボールを開く。辺りが一瞬白い光に包まれた後中から“何か”のシルエットが浮かび出てきた。
ソレの身体は細くは無かった。
――太く、長く、最初は目の前に木があると勘違いした。
ソレの葉っぱは、決して小さくは無かった。
――急に暗くなったので、何事かと思い、僕は空を見上げる。
ソレの頭部は、僕のイワークの頭よりも微妙に高い位置にあり、しっかりと見る事は出来なかった。
――黄色。黄色黄色黄色。空の青がそこだけ切り取られている様だった。
ソレの頭が、此方を見下ろす。この時ようやっと、僕はコレがポケモンだと認識出来た。
そのポケモンの瞳は、つぶらだった。
「私のマダツボミの方が、強くて――大きいのですよ」
彼女がニヒルな笑みを浮かべながら言う。
僕は思わず背後の塔を見上げてしまっていた。
「がぶっ、ごぶっ」
べきべきと俺の体の骨が折れて行く。頭が沸騰しそうだ。意識が爆発しそうだ。
こいつの腹を裂いたというのに、こいつは最後の力を振り絞るかのように俺を締め上げた。
「あぐぅっ、いぎぃ」
両脚の感覚が消えたのが分かった。
そして、この野郎の締め付けは終わった。
指一本、爪ももう全く動かせねぇ。
ハブネークも、俺を締め上げた後は動かなかった。
くそったれ、相打ちかよ。
俺もハブネークもこのまま死ぬのだろう。馬鹿みてえにいつも通り、青い空と白い雲が流れて行くのを見ながら。
「げぶっ」
血を吐くと、目が霞んで来る。
死、はそう大して怖くない。後悔が無い訳じゃない。俺の子供は俺の死体を見た後に何を思うだろう。俺の番は泣き崩れるんだろうか。
そんな事も考えたが、すぐに消え去った。
「……なあ」
消え入りそうな声。ハブネークが話し掛けて来た。
「……何だ」
「楽しかったか?」
朦朧とする頭で、ゆっくりとした思考の後で俺は言った。
もう、青い空も霞んできやがった。ったくが。
「そうだな」
いつからこいつと戦い続けた。
何度爪を尻尾の刃を打ち合わせた。
何度こいつの毒をこの身に受け、何度こいつを切り裂いた。
そして、今、こいつの腹を掻っ捌き、その代償として俺は全身の骨を砕かれた。
当然の結末っちゃあ、そうなんだろうな。どっちかが強かったらさっさとどっちかが殺してる。
体が冷えて行く。俺が掻っ捌いた腹から出て来る血が温かい。
「お前に巻かれて死ぬなんてな」
「お前を巻いたまま死ぬなんてな」
互いの体温を感じながら死ぬなんてな。
俺達は敵同士でありながら、互いの事を誰よりも知っていた。
苦い物が好きだ何て事も知ってたし、こいつは俺が甘い物が好きだ何て知っていた。
吐き気がする。けれど、悪くない。
暗闇が近付いて来た。
「……なあ」
「何だ、早くしろ」
こいつも、近いか。
死ぬタイミングまでそっくり一緒らしい。悪くない。
「……いや、いい」
「……そうか」
いや、やっぱり、と口を開こうとしたが、もう口も動かない。
くそったれ。でも、まあ、後悔はない。
俺だけが死のうが、こいつだけが死のうが、こうなろうが、俺とこいつは全力で戦って来た。
それだけで、後悔はない。それ以外の事がどうだろうとも、それに比べたら全て些細な事だ。
体が軽くなる。全ての感覚が失せて行く。
「あの世でもな」
そう聞こえた気がした。
「ああ」
答えられた気がした。
ぼうっと空を見上げると、雲がゆらゆらと過ぎて行く。
夏の終わりの空は真夏の時の空とは何かが違う気がする。青空は青空で変わらないし、雲の形だって変わらないけれども。毎年そんな事を思っているけれど、それがどうしてかは良く分からない。
夜になれば、少し肌寒くなって来る時期。
良く分からない寂しさと共に、夏毛の役目が終わろうとしている。
そんな早朝、屋根の上で青空のような色の毛皮をしたルカリオを待った。
暫くすると、ひょい、と軽い身のこなしでルカリオが屋根に登って来た。
俺が持っていた小銭をちゃりんちゃりんと軽く手の平で遊びながら出すと、ルカリオも小銭を取り出す。
真夏のある日に、ルカリオと戦っている最中に人間の誰かの植木鉢を壊した。きっと誰かが隠していた金なんだろうけれども、その植木鉢の中から小銭がたっぷりと出て来て、全部盗んでとんずらした。
その小銭ももう、底を尽きかけている。
俺とルカリオの小銭を合わせて、後どの位だろうか。
数えてみれば、ヒウンアイスなら後3つ分位だった。
―――――
毎日毎日を過ごしていく。こいつと会ったのは俺がリオルからルカリオになってから、こいつもゾロアじゃなくてゾロアークだった。
街という場所で、小銭を拾い集めて偶に人間に混じって物を食べる。
街の子供達をあやして、貰った物を食べる。
捕まえられそうになったら逃げる。
夜になれば、雨を凌げる場所で他のポケモン達と寝て、心地良い場所が占領されていれば、偶にその縄張りを争う。
森の中やトレーナーに従う存在になるのとはまた別の生き方。
それに慣れたのはいつ頃だったか、もう覚えていない。
俺がリオルだった頃の記憶も、リオルからルカリオに進化した時の記憶ももう、断片的にしか思い出せない。
ちゃっちゃっ、と爪の音を石畳に響かせながら、ゾロアークと一緒に歩く。
気付けば良く一緒に行動するようになっていたし、仲良くもなっていた。一緒に寝る事も良くあった。
ゾロアークが欠伸をする。軽く猫背で気怠そうな姿。けれども、戦う時になればタイプ相性が悪い俺とも互角に戦う。
「おはよー!」
子供が俺達に手を振って朝っぱらから元気に駆け抜けていく。俺は普通に、ゾロアークは気怠そうに手を振り返す。
「おはよう。冷えて来たわねえ。大丈夫?」
二階建ての家の窓から、そこに住んでいる家族の妻が声を掛ける。頷いて答える。
「よお、今日こそ仲間にしてやる!」
若いトレーナーが、そう言って俺達の前に立った。
俺も気怠くなる。
―――――
付き合ってやる必要もないが、今から最後の小銭をぱあっと使う身としては、動いた方がその後の飯が美味くなるだろうな、と思った。
背伸びをすると、ぽきぽきと音が鳴る。ルカリオがそんな俺を意外そうに見た。
ま、俺だって偶にはお前以外と戦うぞ。
出してきたのはいつも通りのデンチュラとポッタイシ、じゃなくてエンペルト。
成程、進化したのか。
俺とルカリオは、軽く距離を取って、互いに爪と拳を相手に構える。
勝ったら金くれねえかな。
位置の関係上、俺がデンチュラと戦う事になる感じで、デンチュラも俺に電気を纏った糸を飛ばして来た訳だが、それを躱してエンペルトの方に走る。
ルカリオもエンペルトの方に走っている。
あの鋭い腕は当てられたら痛いじゃ済まさそうだな、と思いながらも爪に力を込める。
「デンチュラ! ゾロアークにシグナルビーム!」
後ろをちらりと見て、デンチュラの狙いを見る。
「エンペルト! ゾロアークにメタルクロー!」
両方俺狙いかい。
姿勢を低くしてシグナルビームを躱す。その次の瞬間、飛んだシグナルビームがエンペルトの腕に弾かれて飛んできた。
流石鋼タイプ。
そんな事を思いながら、まともに食らってしまった。
―――――
予想外の攻撃にゾロアークが怯んだ。
エンペルトにはっけいを打ちこむと、痛いな、と睨まれる。
ゾロアークは転がって、続けざまに飛んできたシグナルビームを躱した。
反射された分、あのシグナルビームはそんなに威力は無かったみたいだ。
エンペルトが人間の指示に従って、俺を無視する。アクアジェットで起き上がるゾロアークに追い打ちを掛けようとしているんだろう。
そこを足を引っかけて転ばせて、背中にもう一度はっけい。
動こうとしたから更にもう一度はっけい。
それで気絶した。
素早い俺を無視しようたって、こんな至近距離じゃ無理だろ。
ゾロアークも、デンチュラに距離を詰めていた。放電をナイトバーストで相殺して、爪を突きつけた。
気絶したエンペルトがボールの中に戻って行く。
デンチュラも戦意を失って、すごすごとトレーナーの方へ戻って行った。
シグナルビームを当てられた腹を擦りながら、ゾロアークが息を吐く。流石に少しは痛かったらしい。
ゾロアークがトレーナーの方を見る。何か小銭でも物でも何かくれよとでも言いたげな感じだ。
仕方なく、と言った感じに人間がゾロアークに缶を渡した。一本。
俺の分は?
そんな事を察したのか、人間が俺の方にもう一本投げて来た。
水色の缶、サイコソーダ。
―――――
俺が貰ったのはミックスオレ、ルカリオが貰ったのはサイコソーダ。俺の方が良いものだ。ま、ダメージ食らってしまったしな。
歩きながら、爪で開けて、一気に飲み干す。
少し温いそのジュースが一気に喉を潤した。やっぱりジュースって言うのは一気飲みするのが良いよな。
そんな俺を気付けばルカリオがジト目で見つめて来ていた。
その手は、カツカツと、蓋を開けられない指が必死に開ける部分を引っ掻いていた。
爪を引っ掛けて、開けてやる。
ぷしゅ、と音を立てて静かに炭酸が漏れ出て行く。ルカリオは慎重に飲み始めた。炭酸は一気飲み出来ないから、少し残念だよな。嫌いじゃないけれど。
空いた缶を宙に投げて、蹴ってゴミ箱に入れる。ルカリオも同じようにやって、外した。
溜息を吐いてルカリオがそれを拾って手で入れた。
目の先には、いつも朝早くからやっているアイス売り場が見えて来ていた。
小銭を確認する。いつものヒウンアイスなら3つだけれど、もう一ランク上のアイスなら、2つ。それを頼もう。
―――――
今年の夏は、途中まではいつも通りだった。
真夏、うだるような暑さだったし、そんな中の楽しみと言えば、小銭を集めて買うアイス。
俺とゾロアークで集めた小銭でいつも大体、アイス1個がやっと。
戦って勝った方が、動けなくなった体から小銭を奪い取ってアイスを買う。偶に体からもぎ取って逃げ切ってアイスを買って、そのまま口に突っ込む。そして冷たさで悶える。一回、食べようとした所に突っ込まれて地面に落としたっけ。
それは去年だったっけ。覚えてない。
途中から、誰かの金を見つけてそれからは、のんびりアイスを買った。
毎年に比べれば、幸せだったか。アイスを食べられた回数は多かった。けれど、意外と幸せだったかと聞かれれば、同じ位かもしれない。
ふと、のんびりとアイスを食べながら思った事がある。
達成感が無いな。
戦って、勝ち得たものがアイスだった。それがただ、手に入るようになった。
味は変わらないし、美味さも多分、変わらない。
けれど、勝てなかった時に生暖かい地べたで、次こそはと思う事も無くなったし、勝利と一緒に得る快感も無くなった。
毎日アイスを食べられる事が嫌だった訳じゃない。寧ろ、毎日食べられる事はそれはそれで幸せだった。
けれど、物足りなさがあった事も事実だった。
ゾロアークが爪を指して、もう一つ上のランクのアイスを注文しようとしている。一番上のアイスなら、1個だけ買える。
それと、いつも通りのアイスがもう1個。
ゾロアークの腕を掴んで、それを止めた。
―――――
ルカリオが最上級のアイスに指を指してから、俺の方を向いて来た。
……俺はダメージを受けているんだけどな。
時間が少し経って、ミックスオレも飲んで大体回復しているとは言え。
けれども、俺は笑った。
それを含めても良い提案だった。
「うん? それを頼むのかい?」
ちょっと待ってと首を振った。
アイス屋から距離を取って、街のど真ん中で互いにもう一度、今度は向かい合って爪と拳を構える。
賭けるものは、いつも通り、互いが持っている金。
それは夏に限らず、秋、冬、春、いつになっても変わらないだろう。
けれど、こうして毎日のようにアイスを買えるのは、今日が最後。一番きっとでかくて旨いであろうアイスは、今日だけしかきっと食えない。
静かに、涼しくなった風が吹く。太陽が俺とルカリオを家の上から照らし始める。
「こっちに被害を飛ばさないでくれよー」
その呑気な声が、始まりの合図だった。
はじめまして。年越しのお供にしました。いろいろな活字のバックボーンを思わせる文体から、それぞれの地の真冬の緊張感、浮かれた空気感がよく伝わってきます。
3年前カロスの鏡の洞窟でメレシーの外見に一目惚れした(シンボラーやニャスパーの冷静そうな所が好きなんですよね)
のを思い出します。キュウコンの千年は有名ですが、彼等の寿命が数億年なのは言われて虚をつかれました。
まさに今長い命を歩みはじめた彼(女)にはしんしんと降る雪が似合いますね。
『にじのタマゴ』の人間サイドの思いやりも覚えてます。
ひとつ気になったのは、主人公は納得しているのでしょうが、メレシー一匹のために尽くしている姿(主にトレーナー
人生後半)を見ていると、少しだけゲッコウガ達が不憫に思えました。
思ったより年末年始要素は少なかったけどいい話でした。ありがとうございました。
はじめまして。別の話とあわせて読ませて頂きました。
理知的に見えて年相応に可愛げのあるアズマを応援中です。明確な組織に所属したことはありませんが、クレイン所長の話も
もっともで、考えさせられます。ってか続くのか…予想外だった。
オーレはコロシアムを投げ出したきりなのですが、元から硬派なシナリオといいつつこういう視点はあまり用意されてなかったような…BW信者でした。原作キャラの使用と改変はいいぞもっとやれ派です(w)。
それでは、更新ゆったり待ってます‼
Appeindix 1:この資料は案件の無力化した2015年10月2日以降に、関係者#142309-3によって管理局に提出された、日記と見られる計30冊の大学ノートです。関係者#142309-3によると、この大学ノートは生前の関係者#142309-1より譲渡されたもので、最近になって中身を確認するまで、その異常性に気付かなかったとのことです。
大学ノートは市販の一般品で、それ自体に異常性はありません。大学ノートの表紙には番号と記録期間が記されています。中には関係者#142309-1の筆跡で“ナオヒコ”と名付けられた生物の観察記録のようなものが書かれていますが、この記録にある生態と一致する生物は現在に至るまで発見されていません。
以下は、1と番号が振られたノートの最初の部分です。:
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2003年2月11日 晴れて今日、ナオヒコを家に迎えた。[関係者#142309-1の友人の名前。故人]に薦められたときは腹立たしくなったものだが。少しずつ会って、今ではナオヒコのいない人生を考えられなくなっている。
[関係者#142309-2の名前]が亡くなった寂しさが消えるわけではないが、しかし、ナオヒコがいないと腐っていただろう。
2003年2月12日 餌を変えて様子見。環境が変わった為だろう、ナオヒコは前の家にいた時より食欲がなくなっている。明日[関係者#142309-1の友人の名前]から青菜を貰う予定。
2003年2月14日 昨日から少しずつ元気になっているような気がする。医者でないから予断は禁物だが。だが[関係者#142309-1の友人の名前]の野菜が効いたのだろう。うちでも育てるべきか悩む。
昨日整理をしたので、今日ちょっとの間部屋に出してやる。ナオヒコは小さいので、踏まないか緊張。
片づけだのもしないといけない。いつ私もぽっくりいくかしらん。
2003年2月15日 昨日放した為か、ナオヒコややゴキゲン。片づけに気合が入る。
片づけの途中、昔の写真が出てくる。[関係者#142309-2の名前]がたくさん写っていた。
懐かしさを感じた。と同時に、ナオヒコの餌をどうするか不安になる。貝殻なぞ。
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ノート中の“ナオヒコ”について、調査が行われる予定です。
残りのノートの内容については順次アーカイブ化が進められています。
タグ: | 【書いてみた】 【Subject Notesの1ページ、あるいは似た何か】 |
Subject ID:
#142309
Subject Name:
侵入したくなる家
Registration Date:
2015-02-05
Precaution Level:
Level 2(2015-10-02以前)→Level 0(2015-10-02以降)
Handling Instructions:
建築物#142309内の固定電話からの緊急通報は管理局に直通し、自動的に録音が保存されます。当該の緊急通報を受け取った担当者は現地に向かい、侵入者の確保及びヒアリングを行ってください。侵入を試みた彼/彼女に、他人の敷地に無断で侵入することが違法である旨を説明すれば、彼/彼女に励起された建築物#142309内への侵入欲求が消失することが分かっています。
[2015-10-02 Update]
上記の取扱方は廃止されました。建築物#142309は解体は終了し、建築物#142309の廃材及び跡地、その他資産について、異常性は見出されませんでした。関係者#142309-3より引取以来のあったその他資産については、通常の配送ルートを用い順次返却してください。案件#142309は既に無力化されており、これ以上の保全は必要ありません。
Subject Details:
案件#142309はジョウト地方ヨシノシティ北部の宅地にある建築物(建築物#142309)と、それに掛かる一連の案件です。
建築物#142309は1969年に建てられた庭付き・平屋の一戸建です。同年に男性(前保有者。関係者#142309-1)が購入し、関係者#142309-1とその妻(関係者#142309-2)、息子(現保有者。関係者#142309-3)が居住していました。関係者#142309-3の独立、関係者#142309-1と-2の死亡により、現在は空き家となっています。建築物#142309は2LDKのごく一般的な住居で、内部は老年夫婦の生活環境としてごく普通のものとなっています。調査の結果、内部に携帯獣や携帯獣が隠れうる空間異常は存在せず、後述する事象#142309を発生させる他に特異な点はありません。
事象#142309は「建築物#142309の内部に未知のポケモンが存在する」と確信する認識異常(段階1)から始まる一連の事象です。被誘引者#142309は未知の携帯獣について一切の先入見を持っておらず、未知の携帯獣について質問すると「未知だから未知なんだ」という旨の回答が得られます。建築物#142309が認識異常をもたらす対象者(被誘引者#142309)については、半径6km圏内(圏内にポケモンセンター有)に立ち入った旅のトレーナーが最多ですが、そうでない者も少数含まれます。認識異常は距離に反比例して少なくなり、ヨシノシティ外での発生は確認されていません。
段階1に陥った被誘引者#142309は次に「建築物#142309の内部にいる未知のポケモンを捕獲したい」という耐え難い欲求に襲われます(段階2)。この欲求に反抗することは極めて困難で、被誘引者#142309は建築物#142309を何らかの方法で見つけ出し、敷地内への侵入を試みます(段階3)。段階3で建築物#142309内への侵入に成功しても、被誘引者#142309が未知の携帯獣を発見することはありません。段階3と前後して、建築物#142309内の固定電話から警察へ関係者#142309-1の声で「家に押し入ろうとしている不審人物がいる」旨の緊急通報が入ります(段階4)。警察官もしくは局員が被誘引者#142309を確保し、建築物に押し入るのは法律的に問題であると指摘すると、段階2で発生した欲求が消失し、事象#142309は終了します。この際、未知の携帯獣が建物内で見つかっていないと指摘しても、被誘引者#142309が「未知だから分からないんだ」「未知だから見つけたら分かる」と繰り返すのみで事象#142309が終了しないので留意してください。
事象#142309のいかなる段階においても、事象#142309を中断する試みは成功していません。段階1-3にある被誘引者#142309を確保する試みは、被誘引者#142309によって全て突破されます。また、建築物#142309内の固定電話の撤去/別機器に変更/また電話回線の閉鎖を行っても、段階4の緊急通報をストップすることはできません。現状では、段階4の緊急通報に応じて被誘引者#142309を確保することが最良と判断されています。
建築物#142309の前保有者である関係者#142309-1、その妻である関係者#142309-2は事象#142309の最初の通報以前に死亡が確認されており、電話の声の主については調査中となっています。また、関係者#142309-1と-2はトレーナー免許を取得しておらず、携帯獣の所持履歴がないことも判明しました。関係者#142309-3はトレーナー免許を所持していますが、携帯獣の所持履歴はありません。にも関わらず、建築物#142309について何故このような認識異常が起こされるのかは分かっていません。
[2015-03-12 Update]
建築物#142309の解体工事が開始されました。関係者#142309-3はかねてより建築物#142309の解体を計画していましたが、当局はこの件について関知していませんでした。関係者#142309-3と案件#142309の保全及び原因究明について、話し合いの場を持ちましたが芳しい成果は得られませんでした。建築物#142309の解体は止められない状況です。
[2015-06-18 Update]
建築物#142309の解体が終了しました。解体後の廃材及び跡地、その他資産についてはヨシノシティ支部に収容され、異常性についての試験が行われます。
[2015-10-02 Update]
解体後の廃材及び跡地、その他資産についての試験が終了しました。この試験結果と事象#142309の発生が長期間観測されなかった事実を鑑み、裁定委員会に案件#142309の無力化を提言し、受理されました。
Supplementary Items:
本案件に付帯するアイテムはありません。
[2016-01-02 Update]
本案件には、1件の付帯資料があります。適切なセキュリティクリアランスを持つ局員のみが、付帯資料を参照できます。
(この報告書は正規のものではないかもしれません)
「ただいまーっ」
「おかえりなさい、はじめちゃん」
今日もお外でいっぱい遊んで、はじめちゃんはお家に帰ってきました。くつを脱いでスコップを置いて、しゃきっと玄関を上がります。
はじめちゃんはお外で遊ぶのが大好きな、普通の女の子です。これといって変わったところの無い、どこにでもいそうな女の子です。
「さあ、手を洗いってらっしゃい。綺麗にね」
「はーいっ」
はじめちゃんは元気な返事をして、奥にある洗面所まで走ってゆきました。
宅地造成でできた、大きな大きな団地。はじめちゃんは、そこにある一室で暮らしています。この辺りには、はじめちゃんのような年頃の子もたくさんいますから、遊び相手に困ることはありません。
手をしっかり洗ったはじめちゃんが、テーブルを囲む椅子の一つに座りました。
「はじめちゃん。今日もたくさん遊んだの?」
「うんっ。いっぱい遊んで、楽しかったよー」
「そう、それは良かったわ」
「たくさん遊んだよ。だからね、はじめのこと褒めてー」
はじめちゃんが、ぐっと身を乗り出しました。
「じゃあはじめ、ご飯の用意するねー」
「ええ。はじめちゃん、お願いするわ」
こうして、はじめちゃんの平和な時間は流れていくのです。
「明日の対戦カードは、ジョウト地方日和田市出身の女性トレーナー・嬉野玲花選手と、ホウエン地方xxx市出身の小学生トレーナー・水瀬一海選手です」
「嬉野選手は昨年現役に復帰したというカムバック組、方や水瀬選手は今年初出場の新顔です。対照的な両者の対戦、見逃せませんね」
付けっぱなしのテレビから、そんな声が聞こえてきました。
*
朝になれば、はじめちゃんはきちんと早起きをして、元気に学校へ行きます。
あっという間に学校までたどり着いて、颯爽と教室に入ると、はじめちゃんはランドセルから教科書とノートをしゃきしゃきと取り出します。
「ねえ、またあったんだって。あの事件」
「数が増えてるって聞いたよ。見つかるたびに、だんだん……」
「それって、それだけいっぱい切ってるってことだよね……」
はじめちゃんの隣でお友達が二人、何やらひそひそ話をしていますが、はじめちゃんはこういうことにあまり興味が無いので、文字通り見向きもしていません。
学校でしっかりお勉強をして、一番に教室を出て、お外でいっぱい遊ぶ。はじめちゃんには、それが一番大切なことだったのです。
「はじめちゃん、おはよう」
「おはよっ、ともえちゃん」
登校してくるクラスメートに、丁寧に挨拶。はじめちゃんにとっては、ごく当たり前のことなのです。
クラスメートがみんな揃って、最後に先生が教室に入ってきました。
「みんなー、席に着けー」
立ち話をしていたり、遊んでいた子供たちをきちんと席に座らせると、先生は朝の会を始めます。
今日の予定のこと、明後日の授業参観のこと、提出物のこと。いつものように話をしてから、先生は「今日はもう一つ話がある」と付け加えて、また別の話を始めました。
「最近、刃物を持ってこの辺りをうろついてる人がいるらしい」
先生の話は、ご町内に刃物を持った怪しい人がいるというものでした。ぎらぎらと刃物をちらつかせながら、住宅街を一人で歩いている、とても危険な人だそうです。
けれど、はじめちゃんにはそれほど興味のある話ではなかったようです。
昨日ちょっと夜更かししたこともあって、お口を開けて大きな大きなあくびをしています。
「……最近、それがたくさん見つかる事件があった。皆も気をつけるように、な」
はーい、とみんなと揃って生返事をしたはじめちゃんの目は、やっぱりちょっと眠たそうでした。
学校の授業は、真面目に受けていればすぐに終わってしまいます。
はじめちゃんは教科書とノートをランドセルにぐいぐい詰め込むと、だだだっと教室から駆けていきました。今日も一番のお帰りです。
「守。俺、昨日ポケモンセンターに行ったんだぞ」
「そうなんだ。もしかして、ポケモンをもらいに?」
「そうだぞ。昨日は見に行っただけだけど、今週の日曜にもらいに行くんだ」
クラスメートの男子二人が、走っていくはじめちゃんのお隣で話をしています。ポケモンセンターに行ったという男の子はとても興奮した様子で、もう一人の男の子に話していました。
はじめちゃんのいる地域では、子供は十歳になると、別の人からポケモンをもらったり、自分でポケモンを捕まえたりすることができるようになります。男の子が話していたのは、このことだったのです。
しかも。それに加えて、ポケモンと一緒にあちこちを旅して歩くことができるようになります。その間、学校に行ったりする必要はありません。
「公園っ、公園っ」
けれど、はじめちゃんにはまるで興味の無い話でした。ポケモンをもらいたくない子や捕まえたくない子は、別にそうしなくても良かったですし、家から学校に通うことをそのまま続けても、何も問題はありませんでした。
はじめちゃんは、きちんと勉強をして、それからお外でいっぱい遊んで、お母さんに褒めてもらうのが一番の楽しみです。ポケモンと一緒に旅に出ることなんて、考えたこともありませんでした。
「守は行ったりしないのか? ポケモンセンターに」
「うん、ぼくはいいよ。コラすけがいるからね」
「おっ、そういやそうだったな。でもよ、気をつけろよ。最近危なっかしいからな」
「大丈夫。コラッタの頭を切り落としちゃうようなひどい人は、僕が懲らしめるよ」
男子二人の会話を背にして、はじめちゃんは走っていきました。
さて、今日も日が暮れるまでたくさん遊んで、はじめちゃんは自分のお家に帰ってきました。
「ただいまーっ」
「おかえりなさい、はじめちゃん」
はじめちゃんはランドセルをベッドの上に投げるように置いて、スコップを靴箱の上へ戻しました。お片づけもそこそこに、はじめちゃんはリビングへ走って行きます。
「今日もよく遊んだわね、はじめちゃん」
「うんっ。たっくさん遊んできたよーっ。かくれんぼとか、鬼ごっことか!」
「元気が一番ね。さあ、はじめちゃん。いつものように、手を洗っていらっしゃい」
「はーいっ!」
洗面所で手を綺麗に洗うと、はじめちゃんはぱたぱたとリビングへ戻ります。
「お母さんっ、お母さんっ」
「どうしたの? そんなに慌てて」
「あさってねー、授業参観があるの。知ってる?」
「もちろん、知ってるわ」
「じゃあ、お母さん、見にきてくれる?」
はじめちゃんが話したのは、明後日に行われる授業参観のことでした。教室の後ろにお父さんやお母さんがずらりと並んで、はじめちゃん達が授業を受けている様子を見学するのです。お母さんが大好きなはじめちゃんは、もちろんこれに来てもらおうと考えていました。
「決まってるじゃない。はじめちゃんが頑張ってるところ、しっかり見に行くわ」
「わーいっ! はじめ、頑張って手上げたりするからーっ」
お母さんが見に来てくれると知って、はじめちゃんは飛び上がるほど喜びました。授業参観でかっこいいところを見せれば、お母さんに褒めてもらえること間違いなしです。
「お母さんお母さんっ、はじめのこと褒めてー」
「ふふふ。もう少ししたらね。その時は、たくさん褒めてあげるわ」
「はーい。はじめ、もっともーっと頑張るねっ」
テーブルに座ったはじめちゃんが、元気良く声を上げました。
「次のニュースです。本日行われた第六十八回ホウエンリーグ二回戦で、今年初出場となる小学生の水瀬一海選手が、対戦相手の嬉野玲花選手をストレートで破り、準々決勝へと駒を進めました」
「嬉野選手はこれが五度目の挑戦となりましたが、雪辱を果たすことはできませんでした。足早に会場を後にする嬉野選手の背中からは、悔しさに溢れた様子が伝わって来ました」
テレビでは、遠く離れた豊縁地方で行われた、ポケモンリーグの様子を伝えていました。はじめちゃんと同じくらいの年頃の子が、それよりもずっと年上の女性トレーナーに快勝した、ということのようでした。
けれども、はじめちゃんはまるで興味を示しません。
「お母さん」
「どうしたの? はじめちゃん」
はじめちゃんは声をあげて、確かめるような口調で言いました。
「はじめ、旅になんか出ないよ。トレーナーになんかならないよ」
「ええ。知ってるわ、はじめちゃん」
「ポケモンなんかといるより、お母さんと一緒にいたいもん。ね、いいでしょ? お母さん」
「もちろんよ。お母さんも、はじめちゃんが側にいてくれた方が嬉しいわ」
はじめちゃんは、それよりもここにいることの方が、ずっとずっと大切なのです。
「そうだよね! じゃ、はじめ、ご飯の支度するね!」
「いつもありがとうね、はじめちゃん。お母さん、はじめちゃんがいてくれて、とても嬉しいわ」
「ホントに? ずっと、そう思ってくれる?」
「ええ。初めのうちだけじゃなくて、今も、そして、これからも。ありがとうね、はじめちゃん」
お母さんに褒めてもらうのが、はじめちゃんの一番の楽しみなのです。
*
今日も今日とてはじめちゃんは、元気良く腕を振って学校への道を歩きます。
道なりに歩いていると、同じく学校へ行く途中のクラスメートが、何やら話をしているのが聞こえてきます。はじめちゃんが、少し耳を傾けてみます。
「琥珀ちゃん、今日学校休むんだって」
「えっ、どうして? 昨日は元気そうだったのに」
「昨日ね、家に帰る途中に、刃物を持った人に出会って、後ろから追い掛けられたんだって」
「そんなことあったんだ……」
「うん。なんとか逃げ切ったんだけど、すごくショックだったみたいで、今日は学校お休みするって。琥珀ちゃんのお母さんが言ってたよ」
何やら怖い事件があったようです。おそらく、昨日先生が話していた、刃物を持った怪しい人のことなのでしょう。どうやら、はじめちゃんの同級生が襲われてしまったようです。幸い命に別状はなかったようですが、怖い話に違いはありません。
はじめちゃんは話を聞いてはいましたが、特に興味があるわけではなさそうでした。自分には、それほど関係ないことだと思っているみたいです。
教室に入ると、はじめちゃんはいつも通りきびきびランドセルから教科書とノートを取り出して、授業を受ける準備をさくさくと進めていきます。
「にゃはは! いっちー、おはようぞよ!」
「おはようっ、まりちゃん」
はじめちゃんは、漢字で「一」と書きます。なので、このまりえちゃんのように、はじめちゃんを「いっちゃん」とか「いっちー」と呼ぶ子も時々います。
準備をして友達とおしゃべりをしていると、またいつものように、先生がのそのそと姿を表しました。はじめちゃんはさっと席に戻ると、佇まいを直して椅子に座ります。
「きりーつ!」
さあ、今日も授業の始まりです。
お昼休み。給食を残さず綺麗に食べたはじめちゃんが運動場へ遊びにいこうとすると、ふとある光景が目に飛び込んできました。
「戸川先生、昨日もまた、見つかったそうですね」
「ええ。そうみたいですね……一体誰が、あんな酷いことを……」
「まったくです。犯人は、コラッタを一体なんだと思っているのか……」
担任の先生が、誰かと話をしています。よく見ると、それはちょっと離れたクラスの担任をしている、戸川先生のようでした。
先生同士が話をしているのは珍しいことですが、はじめちゃんには大して気になることでもないようです。さっとその場を離れると、みんなが遊んでいる運動場へ走っていきました。
「あと……嬉野さんは、あれから大丈夫ですか?」
「ええ。色々ありましたが、今は落ち着いているように見えます。皆とも仲良くしています。ただ──」
「ただ?」
「はい。その……連絡帳の保護者欄に、何度言っても必ずサインがあるんです。何故か、必ず……」
興味のないことには振り向かない。それがはじめちゃんの性格でした。
「はじめも混ぜてーっ」
運動場に出てみると、もうクラスメートが数人、固まって遊んでいました。はじめちゃんは迷わずその輪の中に入っていくと、あれよあれよという間に馴染んでしまって、すぐに遊びに熱中し始めました。
お昼休みももうあと五分くらいで終わる。そんな時間になったころでした。
「やっぱり、コラすけと一緒に行くんだな。思ったとおりだけどよ」
「うん。ぼくも外の世界を見てみたいんだ。小さい頃からずっと側にいる、コラすけと一緒に」
「幼稚園の頃に拾ったんだよな、コラッタのコラすけ。よく懐いてて、羨ましいぜ」
クラスメートの守くんと準くんが、鉄棒にぶら下がりながら、この間の続きのような話をしていました。守くんはねずみポケモンのコラッタに「コラすけ」という名前をつけて、可愛がってあげているようです。
コラすけは、守くんが幼稚園に通っていた頃、道端で弱って倒れていました。食べ物が見つからなくて、弱ってしまったようでした。守くんが拾ってあげたことでコラすけは命をつなぎ、以来守くんにくっついて離れなくなりました。守くんも、そんなコラすけのことをとても大事にしてあげています。
そんな守くんも、もうすぐ十歳になります。一人で旅に出ても、もう大丈夫な歳です。一緒に旅をするパートナーとして、守くんはずっと一緒にいるコラすけを連れていくみたいですね。
「……」
ずっと一緒にいましたから、きっと心も通っていることでしょう。辛く厳しい旅路も、仲間と一緒なら乗り越えられるものです。
守くんの旅立ちは、もうすぐそこにまで迫っていました。
すっかり日も沈んで、辺りが赤く染まった頃のこと。
「さぁて。今日もたくさん遊んだし、帰ろうっと」
はじめちゃんはお気に入りのスコップを手に取ると、森を抜けて公園に出ました。だいぶ派手に遊んだのでしょう、服は泥だらけになって、おまけにあちこち濡れています。ちゃんとお洗濯をしないと、服が台無しになっちゃいそうです。
ぱたぱた走って、はじめちゃんは家のちょっと重いドアを思い切り開けました。
「ただいまーっ」
「おかえりなさい、はじめちゃん。今日はたくさん遊んだみたいね」
「うん。今日はねー、お友達と一緒に遊んだんだー」
「そう、それはよかったわ。楽しかったでしょう。さあ、手を洗ってらっしゃい」
「はぁーいっ!」
はじめちゃんは靴を脱ぎ捨てると、洗面所にダッシュしていきました。水をざーっと流して、手を綺麗に洗います。石鹸も使って、ごしごし、ごしごし。染み付いた汚れを、剥がすように洗っていきます。
何度か水でゆすいで、はじめちゃんの手はすっかり綺麗になりました。
「お母さんお母さんっ。明日だよっ、明日なんだよっ、授業参観っ」
「ええ、分かってるわ、はじめちゃん。お母さん、はじめちゃんの授業を見にいくの、楽しみにしてるもの」
「うんっ。いっぱい手を上げて、黒板に答えを書いて、お母さんに褒めてもらうんだー」
明日は待ちに待った授業参観。はじめちゃんはお母さんに褒めてもらおうと、今から大張り切りです。きっと、日頃きちんと勉強している成果を見せられることでしょう。
「ねえ、お母さん。はじめ、授業参観で頑張るから、お母さんもはじめのこと、なでなでしてね。約束だよ」
「約束するわ。頑張ったら、たくさん撫でてあげるわね」
はじめちゃんの一番してほしいこと。それは、お母さんに頭を撫でてもらうことです。お母さんの優しい手つきで、ゆっくりゆっくりなでなでしてもらう。はじめちゃんが、この世で一番幸せだと思える瞬間です。
「明日お母さんが元気に学校に来れるように、はじめ、とびっきりおいしいご飯作るね!」
「ふふふ。お母さん、今から楽しみだわ」
はじめちゃんの楽しげな声が、リビングに響いていました。
*
翌日。朝の教室は、いつもとちょっと違っていました。
「みんな。この中で、昨日新本君と放課後に会った子はいるか?」
いつもと違うのは、今日がはじめちゃんの待ちに待った授業参観の日だから、というわけではなさそうでした。担任の先生が、みんなに質問をしています。
教室の座席が、一つだけ空いていました。守くんの座席です。先生は新本くん、もとい守くんと最後に会った子は誰かと、みんなに尋ねていました。
「昨日から、新本くんが家に帰っていないんだ。もし見かけたら、先生に教えてほしい。みんなの家の人でも構わない。見かけたら、すぐに教えてほしい」
先生がみんなに呼び掛けていますが、はじめちゃんはどこ吹く風という面持ちで、この後の授業参観のことで頭がいっぱいです。
そうですね、どちらかというと、授業参観そのものよりも、授業参観でお母さんに格好いいところをたくさん見せて、褒めてもらうのが一番の目的でしょうね。それが、はじめちゃんの楽しみですから。
窓の外を眺めているはじめちゃんは、先生の話もちっとも聞かず、ずっとお母さんのことばかり考えていたのでした。
それにしても、守くんはどこへ行ってしまったのでしょう?
「……」
守くんが学校に来ていませんが、授業参観は予定通り始まりました。みんなのお父さんやお母さんがずらりと並んで、中にはお兄さんやお姉さん、それにおじいちゃんやおばあちゃんも混じっています。
「ともえちゃん! お母さん、応援してるわよーっ!」
「あの人、ともえちゃんのお母さんなんだね。お姉ちゃんみたい」
「えへへっ。今日は来られないかも、って言ってたから、来てくれてうれしいよ」
張り切って子供の様子を見にきている人もたくさんいます。その人達の姿を代わる代わる見つめながら、はじめちゃんがもう待ちきれないとでも言いたげな様子を見せています。
お母さんが来てくれる、お母さんが授業を見てくれる、お母さんが褒めてくれる、お母さんが頭を撫でてくれる。楽しみで楽しみで、仕方がありません。
「よーしみんな、席に着け」
さあ、いよいよ授業参観の時間です。先生がいつもよりちょっとだけぴしっと決めて、教室に入ってきました。クラスメートのみんなと父兄の皆さんが、一斉に先生の方を向きます。
はじめちゃんが、ぐっと気合いを入れ直します。
「お母さん、見ててねっ」
「ねえはじめちゃん。はじめちゃんのお母さんって、どの人? もう来てる?」
「はじめのお母さん? えっとねー……」
隣の席のみどりちゃんが、はじめちゃんに話しかけました。はじめちゃんはくるりと後ろを向いて、きちんと並んだお父さんやお母さんたちの中から、はじめちゃんのお母さんを探します。あれほど来てくれると言っていたのです、必ず、はじめちゃんのお母さんもいるはずでしょう。
……けれど。
「あれ……? お母さん、いない……」
「まだ、来てないのかな?」
はじめちゃんのお母さんの姿は、教室の後ろの、どこにも見当たりませんでした。何度見回してみても、お母さんの姿がありません。
きょろきょろと、繰り返し繰り返し、はじめちゃんが後ろを見返します。お母さんはきっといるはず。そう信じて、はじめちゃんは背筋をピンと伸ばして、大きな瞳をいっぱいに開いて、お母さんの姿を探します。
その時でした。
「あっ。誰か、走ってきてる」
廊下の方から、誰かが走ってくる音が聞こえます。かなり慌てているようです。はじめちゃんのいる教室に、走って近付いてきているようです。
お母さんだ。はじめちゃんはそう確信しました。きっと、どこかで信号待ちをしていたり、遠回りをしてしまったりしていたのでしょう。みんなのお父さんお母さんたちからはちょっと遅れてしまいましたが、まだ授業は始まっていません。
はじめちゃんの晴れ姿を見せる、その時が近づいて来ました。
「お母さんっ、早く早くっ」
逸る気持ちが言葉になったはじめちゃんの、大きなくりくりとした瞳の先で──
(がらららっ)
ついに、教室のドアが開きました。
「お母さんっ」
待ちに待った時の訪れに、はじめちゃんは思わず声を上げました。
「嬉野さんっ! 警察の人が、あなたを連れてくって! 新本君のことで、話を聞きたいって──!」
教室に飛び込んできたのは、はじめちゃんのお母さん──ではなく、隣のクラスの戸川先生でした。
「戸川先生?! い、一体どういうことです?!」
「警察?」
「はじめちゃん、何かしたの……?」
事情が飲み込めない担任の先生。騒然とする教室の中。みんなが、戸川先生の口にした「警察」という言葉に、驚いた様子を見せています。
けれども──
──けれども。
「なーんだ、お母さんじゃなかったんだ。早く来てほしいなー」
──はじめちゃんだけは、違っていました。
はじめちゃん、だけは。
──ガラス越しに、取調室の様子が窺える。連れて来られた少女から、女性の捜査官が話を聞いている。男性では話しづらいだろうと、特別に配慮がされたためだ。
「殺された新本守くんの……同級生なんですか、あの子は」
「ああ。同級生で、しかもクラスメートだ」
「信じられません。あの女の子が、同級生の頭を切り落として、殺してしまうなんて」
連れて来られた少女の名前は、嬉野はじめ。連行された理由は、同級生の少年である新本守の頭部を切り落として殺害した疑いが掛けられたため。
そしてその疑いは、はじめ自身の言葉であっさりと肯定された。
「そうだよー。コラすけとずっと一緒にいたいって聞いたから、いっしょにいられるようにしてあげたんだよ。はじめ、えらいでしょ? えらいでしょ? ね?」
無惨に頭部を切り落とされた守の亡骸の傍らには、同じように頭を切断されたコラッタの死体が、まるでそっと添えるかのように置かれていた。守がいつも連れていた、コラッタのコラすけだった。
そして、その周囲には。
「一年程前から起きていたコラッタの虐待事件も、すべてあの子が? 守くんの側に、他にもたくさんコラッタの首の無い死体があったと聞きましたが」
「そうだ。スコップでコラッタを叩き殺して、一つ一つ頭を切断していたらしい。あちこち血だらけで錆びついたスコップが、あの子の家から見つかった。スコップを使ったのは、切った首を後で埋めるためだったようだ」
「それは酷い……しかし、なぜそんなことを」
ガラスの向こうにいるはじめは、あてがわれた女性の捜査官を前にして、身振り手振りを交えながら、無邪気にこれまで彼女が積み重ねてきた「遊び」の数々を、惜しげもなく披瀝していった。
全容が明らかになるまでは、さほど時間を必要とはしなかった。
「あの子の母親は、現役のポケモントレーナーだ。今は豊縁地方にいて、向こうの警察が事情を聞いている」
「えっ? しかし、お母さんと一緒にいるとか、授業参観に来るとか、そういった話をしていますが」
「それは全部、あの子の空想だ。家にいたのはあの子一人で、他には誰もいなかった。母親が契約していたハウスキーパーが、あの家の手入れを続けていたことも分かっている」
「空想、ですか……」
「ああ。自分の空想の中で、あの子はお母さんにとても可愛がってもらっているようだ」
しかし──と、前置きし。
「実際は酷いものだ。母親はあの子を捨てて、ポケモントレーナーとしてあちこちを旅し始めたんだからな」
「それ、本当なんですか?」
「この間、テレビでやっていただろう。女性のトレーナーが、リーグの予選で子供に大敗したと」
「まさか、その女性が親だっていうんですか」
「ああ。あの子を置き去りにして、豊縁まで行っていたというわけだ」
あっさりと話しはしたが、実状はかなり悲惨なものだった。
「嬉野玲花は、元々ポケモントレーナーとして活動していた」
「だが、他の多くのトレーナーと同じように、頂点には立てずドロップアウトした」
「同じようにドロップアウトした男のトレーナーと、なし崩し的に一緒になって、そして──」
──そして。
「あの子が、嬉野はじめが生まれた……そうですよね?」
「そうだ」
沈黙が辺りを包む。言葉を発するのがためらわれる、重苦しい沈黙。
やや間を置いて、捜査官が再び口を開いた。
「向こうの警察と話をして、母親が──嬉野玲花が、あの子に言った言葉が明らかになった」
「それは……一体、あの子に何と言ったんです?」
捜査官は、あえて感情を殺した声で、相方に答えた。
「『あなたよりコラッタの頭でも撫でてた方が、ずっとマシだわ』」
あなたよりコラッタの頭でも撫でてた方が、ずっとマシだわ──
──それが、はじめに向けられた言葉だった。
「そう言って、そのまま家を出て行ったそうだ」
もう一人の捜査官は、完全に言葉を失っていた。何も言うべき言葉が出てこない様子だった。
「どうやらその言葉で、嬉野はじめは完全に壊れてしまったようだ」
「遊びと称して、あちこちでコラッタの頭を切断し始めた」
「その矛先が、コラッタを可愛がる新本守にも向けられたわけだ」
「今回の事件は、そうやって起きたんだ」
守が殺されたのは、コラッタのコラすけを可愛がっていたからだった。はじめが言うには、まずコラすけをスコップで殴り殺して、次いで守も同じように叩き殺したらしい。傷跡の分析から、はじめは何のためらいもなく、守にスコップを振り下ろしたことが分かっている。
そして事後、はじめは持ち前の「優しさ」を発揮し、守とコラすけの頭を同じように切り落とした。これが、今回の事件のあらましである。
「皮肉なものだな」
捜査官が呟く。
「あの子は」
「ポケモンよりも、母親に愛されず」
「ポケモンを何匹も何匹も、その手に掛けていたというのに」
「ポケモンがいなければ、母親はトレーナーになることもなく」
「あの子もまた、生まれてくることは無かったのだから」
ガラスの向こうでは、はじめが屈託の無い笑顔を見せて、こう捜査官に話していた。
「だって、コラッタの頭がぜーんぶなくなれば、お母さんがはじめの頭を撫でてくれるんだもん」
無邪気に話すはじめの声は、あくまでも、明るいものであった。
今にして思うと、十歳の頃に食べさせた冷凍のカキフライ。あれが原因だったのかも知れないと、私は思う。
少し後になってから、食中毒の話題が出ていたはず。そのせいで、弘樹はこんな風になったのかも知れない。
『まーたひろ君の死ぬ死ぬ詐欺か。本当に死んでくれた方が喜んでくれる人が出ていいと思うぞ』
『次に死ぬ予告をするのは来週の火曜くらいですか? 大体月に三回くらいのペースですし』
『死ぬときは樹海に行って首括れよ。間違っても電車には飛び込むなよ。ダイヤが乱れると困るんだから』
そして今日もまた、心ない言葉が乱舞する。
そうだ──やはり、あのカキフライがいけなかったのだ。
ハウスダスト対策を施した高品質なドア、それを一枚隔てた向こう。そこに、私の息子──弘樹は一人でいる。
引き篭もっているわけではない。引き篭もりとは違う。私がそう思うのだから間違いはないし、第一、弘樹が犯罪者予備軍の引き篭もりであるはずがない。だから、弘樹は引き篭もりではない。
弘樹はただ、部屋から出てくる切っ掛けがつかめないだけ。
『俺はお前らのような平凡な凡愚の愚民とは一線を画している まずそれを認識しろ』
『そうですね。ひろ君と一般人は一線を画していると思いますよ ひろ君の想像とは若干違う形ですけども』
断じて、引き篭もりなどではない。弘樹は正常、普通の子。
『で、以前書くと言っていた小説はどうなったんですか? また言うだけの嘘つき野郎ですか?』
「はぁ? お前ら俗物と違って俺は忙殺なんだよ。死ぬほど忙しい、分かるか? あ?」
「ひろ君の忙しい=寝る、もしくはシコる ですね、分かります」
しっかりと防磁フィルムを貼り付けた15型ディスプレイ内蔵のノートパソコン。そこに映し出される、眼を覆いたくなるようなやり取り。
これがずっと続いて、もう六年以上になる。その間、私はずっとシックハウス症候群の対策をし続けた。農薬の入っていないオーガニックフードにこだわり続けたし、空気清浄機も最高級品を取り付けた。
やるべきことはやった。しなければならないことはすべてやった。けれど、まだ弘樹は部屋から出てこない。いや、違う。部屋から出てくる切っ掛けがつかめない。部屋から出ることはできる。引き篭もりとは違う。
「うるせんだよ宝石成金ども。お前らの作り上げた砂上の桜閣はいずれ滅ぶ運命にあるんだよ。分かるか?」
「いい加減漢字くらい調べてから打ったらw? 桜閣ってなんて読むんですかあw?」
「まーたひろ君のぼっち脳内世代間闘争か。一般の人はポケモンの赤だとかサファイアだとかのバージョンで六年間百スレも延々と世代がどうのこうの成金がどうのこうのと喚いたりしないぞ。弁えろよ人非人のひろ君」
弘樹は正常で、ただ少し疲れているだけ。人生には休息が必要。ひろは今、人生の休息に入っている。そう、それが今の正しい現状認識。間違っていない。
少しだけ、他の人より遅れているだけ。
少なくとも弘樹の育て方について、私は何一つとして間違ったことはしていないと確信している。
小さな頃から高い月謝を払って塾に通わせていたし、弘樹に間違ったことを教えるような他人の子とは触れさせないように気を配ってきた。弘樹はそれを受け入れて、どこでも優秀な子であり続けた。だから決して、間違いではない。むしろ完全な正解だと自信を持って言える。
弘樹が部屋から出てこなくなったのは、大学受験の時からだった。学校側が弘樹に配慮をしてくれなかったから、弘樹は十分な学力があったにもかかわらず合格できなかった。学校が悪いのであって弘樹は悪くは無い。たかだか五分の遅刻で、偏差値や学力に影響が出るとは思えない。
繰り返す。弘樹は優秀で、私は何の間違いもなく弘樹を育ててきた。一切の間違いは無く、完璧だったと胸を張って言える。敢えて至らないところがあるなら、中学受験の時に冷凍食品を夜食として出したことくらいだろうか。そう、あのカキフライが、弘樹にわずかに歪みを与えてしまったに違いない。
「お前らに孤高の天才たる俺の凄さは分からないだろうな。お前ら団地民と違って俺は二階建ての庭付き一戸建てに住んでるし、親の遺産だって軽く七千万はある。そもそもお前らとは各が違いすぎるんだよ理解しろ」
「だから書き込む前に誤字脱字のチェックくらいしろよ糞ニート。各が違うって何が違うんだよボケ」
「こんなんだから大学受験も失敗したんだろうな。分かりやすいこった」
「庭付き一戸建てとたかだか七千万のキャッシュとやらでそこまで威張れるのが凄いな。ひろ君がいなきゃ両親はもっと安泰だったろうに」
受験に失敗してから、弘樹は部屋からほとんど出て来なくなった。勉強のために買い与えたパソコンを使って、時間を問わず匿名の掲示板に書き込みをしている。
弘樹のことを知っておく必要がある。そう考えた私は、弘樹のパソコンが送受信するデータを横から取得して、こちらに複写する装置を業者に頼んで付けてもらった。こうすれば、弘樹のことを逐一知ることができる。画期的なアイデアだった。これ以上の方策は無かった。
そうして複写されたデータを、私は自分のパソコンのディスプレイに映し出して確認する。
「汚物に等しい馬鹿共が俺に口答えするな。俺のバックには武装組織が付いてるんだいい加減諦めろ」
「武装組織って、警棒を装備したお巡りさんですか? それバックに付いてるって言うよりひろ君を監視してるだけじゃ……」
「口答えされたくないなら最初からここに来なきゃいいじゃん。毎日毎日へったくそな嘘を付いてフルボッコにされて、二度と来ないだの死んでやるだの言いながら次の日になると全部忘れて来てるのはアホのひろ君でしょ」
こんなやり取りが、時間を問わず日を問わずずっと繰り返されている。どう対処したらいいのか、私には分からない。せめて、書き込みをした人の所在さえ分かれば、どうにでもなるというのに。
そして、言い合いの最後になると、決まってこんなやり取りになる。
「宝石成金共と白黒豚共はまとめて地獄に落ちろ赤の裁きがお前たちに下るこれは絶対の真理だ不可避の無慈悲だ」
「改行くらいしろよ低能」
「あっ、赤の裁き(失笑)」
「厨二真っ盛りの奴ですら今時「赤の裁き」はねーよw」
「ひろ君は一刻も早く第一世代のファンに樹海で首括って謝罪しろよ」
弘樹は最後になると決まって、昔買い与えた「ポケモン」という名前のゲームの話を出す。よく知らないが、いくつかの「世代」に分かれていて、弘樹に買い与えたのは一番最初、第一世代と呼ばれるバージョンだったようだ。
中学受験が終わった後、弘樹がどうしても欲しいといった「ポケモン」。弘樹にも娯楽が必要と思い、本体と一緒に誕生日に買った記憶がある。ちゃんと娯楽も与えていたから、私の子育ての方針は「教育ママ」と呼ばれるような一方的なものではないのが分かるはず。やはり、私の教育が原因ではない。原因があるとするなら、やはりこの家の壁材に含まれるホルムアルデヒドのせいだろう。もっと対策をしなきゃいけない。
もうすぐ十九時になる。この時間になると、私は弘樹のために夕食を用意する。無論、産地を厳選した無農薬の野菜を使った完璧な献立だ。弘樹の体のことは、私が一番よく分かっている。これが、弘樹にとって一番いいことだというのは、一切の疑いもない。
夕食を準備し終える。食器をトレイに載せ、そして必ず一緒に持っていくものがある。
スプーンだ。
弘樹は子供の頃から、スプーンを使って食事をするのが好きだった。弘樹が好きなのが理由であって、決して箸が使えないとか、そういったはしたない理由ではない。弘樹は箸も持てないような行儀の無い子供では断じて無い。弘樹は自分の意志で、スプーンを使って食事を刷るのが好きだから、スプーンを使っている。それが正しい。
いつも使っているアルミ製のスプーンを添えて、私はトレイを持って立ち上がる。弘樹の部屋は二階にあるので、階段を登って食事を持っていく。
弘樹の部屋のドアの前に経つ。湯気を立てる料理を載せたトレイを一旦床に置き、部屋のドアを二回ノックする。その場では何の変事もない。声も聞こえないし、ノックを返す訳でもないし、ドアが開く訳でもない。けれど、これで弘樹にはきちんと連絡ができている。何の問題もない。
部屋の前のトレイを置いて、一時間と二分経ってから、再び弘樹の部屋の前へ行く。すると、用意した食事は必ずすべて平らげている。好き嫌いをしないように、小さな頃からきちんと躾けてきた結果だ。空になった食器を載せたトレイを持ち、私はキッチンへと戻る。
このやり取りを、かれこれ六年ほど続けている。
食器を食洗機にかけてから、私は再びパソコンの前に戻る。食事の間だけは、弘樹の匿名掲示板への書き込みが止まる。終わるとすぐに再開するから、きちんと見ておかなければならない。
パソコンを使って弘樹の書き込みを監視することは、きちんとした意味があると確信している。弘樹とコミュニケーションを取るために、これは必要なことなのだ。状況は着実に進展している。弘樹の自主性を尊重して、部屋から出てくるのを待つのが親としての責務だ。今は、そっとしておくべきだ。
ディスプレイを覗き込むと、早速あのやり取りが始まっていた。
「社畜共は今頃不味いコンビに弁当を喰らってる時間だろうな 俺は放っておいても食事が出てくる恵まれた地位にある お前らとは住んでる世界が違い過ぎるんだよ」
「拝啓お母様。この掲示板をお読みになっているなら、お食事にネズミ取りを混ぜられることを強く強く推奨致します」
「その飯は掲示板で発狂するエネルギーと糞に変わるだけだろ。食べられるだけ無駄じゃん」
「で、まだスプーン使ってるんですか? 赤ん坊のまま大人になった最悪の例ですねw」
眉を顰めるようなメッセージが続く。けれど目を背けてはいけない。これを受け入れてこそ、真に弘樹の母親だ。弘樹が部屋から出てくるまで、ここでずっと見守ってやらなければならない。
私は、間違いなく最善の行動を取っている。焦って動いても何の利もない。今は待ち続けることこそが、母親として成すべきことだ。間違いない。
「下賎の愚民共とは育ちが違うんだよビチグソが 箸なんて持てなくても生きるのになんら支障はない スプーンが一本あれば何の問題もない弁えろ」
「スプーン一本さえあればというか、貴方の場合は単に二本持てないだけだと思います。現実でもポケモンでも」
「ママンに頼んでもう一セット買ってもらえば良かったのにねw 交換なんて夢のまた夢なんですから」
「別にスプーンで食うのは自由だけどさ、俺だってスプーンくらい持ってるぞw ひろ君は何か勘違いしてるみたいだけど」
そういえば。
弘樹に「ポケモン」を買い与えた後、弘樹が私に珍しくお願いをしてきたことがあった。普段は私に言われたことをきちんと守り、自分から何かを言うことは決してなかったから、よく憶えている。
そのお願いというのは──そう、こうだった。
(「取っ手がアルミ製のスプーンを使いたい」
それまではずっと、取っ手がプラスチックで出来たものを弘樹に使わせていたけれど、弘樹にそう言われて、私は弘樹のために総アルミ製のスプーンを買ってきた。以来弘樹はずっと、あのアルミ製のスプーンを使っている。
少し前、弘樹がそのスプーンにこだわる理由を、掲示板に書き込んでいたのを見た。「ポケモン」に出てくる……そう、確か、ユング、だとか、そういう名前のモンスターを、とても気に入っていたからだ。
細かいことは分からないが、弘樹がそのユングだとかいったキャラクターに、並々ならぬ拘りを持っていたのは間違いなかった。罵詈雑言が並ぶ中でも、ユングなんとかだかには、弘樹は絶対に言葉を向けなかった。
ふと気が抜けて物思いに耽っていると、掲示板にはまた新しい書き込みがなされていた。
「黙れよ糞共。俺は天才だ、教師に神童と讃えられた生粋の天才だ。糞共は下水でグズグズに潰れて悪臭を撒き散らしているのがお似合いなんだよ」
「教師ってか、しょーがっこーのせんせえ、でしょ。ひろ君えらいえらいってノリで」
「言うに事欠くと大体その話ですね。もしかして、自慢できることがそれしかなかったりするんですか?」
「くせーのはロクに風呂も入ってないひろ君の方だろw」
小学校の頃を思い出す。弘樹にはできる限り良い教育を受けさせたかったから、隣町へ越境入学させた。通学に少し、そう、一時間と十分くらい掛かったけれど、これも弘樹のためを思ってのこと。小学校の教育は、妥協する訳にはいかない。
弘樹は優秀な子だったから、家によその子を連れて来ることもなかった。一人で静かに遊んでいて、まったく手の掛からない良い子だった。越境入学させたことで、近くの子と変に接触する機会がなくなって良かったに違いない。
一体何がいけなかったのだろうか。やはり、通学に新開線を使わせたからだろうか。あの路線は電車の本数が少ない。私や弘樹が利用しなければならないにもかかわらず、だ。新開線の人ごみが、弘樹に悪い影響を与えた。そうだ、そうとしか思えない。
「俺は飛翔する。天高く飛翔する。空高く飛び上がって天使としてお前らチンカス共を焼き尽くすだろう」
「だったら早く飛翔しろよ、窓から」
「下に人がいないことを確認してから飛翔しろよ。せめて死ぬときくらい迷惑かけんな」
「ひろ君、この間も飛翔するって言ったばっかりでしょ。もう忘れたの? 脳を消毒してもらえば?」
それにしても、この掲示板のなんと酷いことか。弘樹に目を疑うような罵詈雑言や誹謗中傷が浴びせられているというのに、相手を罰するどころか書き込みの削除すら行わない。どういう神経をしているのか、親の顔が見てみたい気持ちでいっぱいだ。
頭が痛い。弘樹をずっと見守るために、ディスプレイを見つづけているせいだろう。弘樹を守れるのは私しかいない。私が気をしっかり持って、弘樹の様子を見守ってやらなければならない。他に頼れる人などいない。
弘樹は病気でも障害でもなくて、単純に気持ちの問題で外に出てこられないだけ。だから、精神病院に連れていったりカウンセラーに見せる必要は、一切ない。絶対にない。私がそう考えているのだから、間違いはない。これまで常に完璧な選択をし続けてきたから、絶対に間違いない。
私は、正しい。
──こうして弘樹を見守る日々が、しばらく続いたあとのことだった。
「俺はクリエイティヴな人間だ。創作にすべてを捧げている。創作に対する純粋で真摯な無償の愛を持っている。小説を書いて世間をアッと言わせお前らカスゴミの白黒豚共がキーキー奇声を上げて発狂するさまを想像するだけで笑いが止まらない。そして俺はその小説で世間の絶賛を浴び小説の概念を塗り替え歴史に名を残すだろう。印税でお前らのために豚の餌でも買ってやるからありがたく思えどうせ端金に過ぎないからな。俺はお前ら白黒豚共が下利便を垂れ流しながら餌を貪るのを見つつ印税で集めた世界中の美酒を楽しむ。これが現実というものだ」
「無償の愛(とかほざきながら、後半名誉欲金銭欲がほとばしってますね。精神分裂ひろ君は平常運転ですなあ」
「上の書き込みの時点で、既にどうしようもない文才の無さを遺憾なく発揮してるのはすごいな」
「ひろ君は美酒じゃなくてママのおっぱいでも吸ってれば?w」
弘樹が小学生の頃に作文を書いて、クラスで取り上げられたことがある。遠足に行ったときのことを書いたものだった、はずだ。内容は読んでいないので分からないが、先生に褒められたらしい。
それ以来、弘樹は文章を書くのが好きになった。国語の点数がいつも高かったのを憶えている。私はそれよりも理科や算数を頑張って欲しかった。弘樹のためを思って学習塾に通わせ始めたのも、この頃だ。
頭がズキズキする。きーん、と中で音が鳴っている。せめて罵詈雑言誹謗中傷を浴びせる相手の名前が分かれば、名誉毀損で訴えてやれるのに。パケットキャプチャを取り付けた業者に相手が分かる機能を付けてほしいと頼んだけれど、業者はそれはできないと言ってきた。なんて役に立たないんだろう。私が頼んでいるというのに。
「題材はこうだ。少年の頃から神童と謳われた少年が周囲の嫉妬と誹謗中傷で足元を掬われかける。しかしそこで屈せず新たな超能力を得て人類を導く救世主に変身するという話だ。これを小説化すれば間違いなく今までの小説の概念は根本から崩れ去るだろう。まさに禁断の書となる存在だ」
「できれば、そのまま永遠に禁断の書にしておいてもらえませんか?」
「ひろ君のありとあらゆる妄想とコンプレックスが詰め込まれた、掃溜めか肥溜めか痰壷みたいな話になるな」
「サルにキーボードで遊ばせて出てきた文字列を小説にする方がまだまともな内容になりそう」
弘樹と名も無い赤の他人との不毛なやり取りが、朝から晩までずっと続く。私はそれを、今にも目を伏せてしまいそうになるのを懸命に抑えて、弘樹を見守り続けている。弘樹を思えばこそ、こうして見守り続けているのだ。もう少し時間が経てば、弘樹はきっと部屋から出てくる。
断じて事態を傍観しているわけではない。現状を正しく把握し、今取るべき行動を考えた結果が、弘樹を見守るという結論に至っただけのこと。手を拱いているわけではなく、意識して今の状態を保っているのだ。
私の息子が、弘樹がおかしいかどうかは、私が一番よく分かっている。弘樹は病気でも異常でもない。正常で、ただ少し疲れているだけなのだ。弘樹が異常だなんて、あり得るはずが無い。機械だって動かしつづければ疲労して動きが鈍くなる。それと同じ。今は見守ること、それが弘樹の唯一の親としてすべきことだ。
「俺には家がある。金もある。一人でも生きていける。群れることしか能の無いお前ら宝石成金のような汚物との間には絶望的で圧倒的な壁が存在するんだいい加減理解しろ」
「壁はありますね、確かに。まあ、ひろ君の方にスパイクがいっぱい付いた壁ですけど」
「群れることしか能の無いって言うか、ひろ君はぼっちだから、ポケモン交換してもらえるようなお友達がいなかっただけでしょ?w」
「周りは全員フーディンなのにひろ君だけユンゲラーとかどんな気持ち?w ねえどんな気持ち?」
ユンゲラー、そうだ。前に引っかかっていた「ユング何とか」は、「ユンゲラー」だった。弘樹は「ポケモン」に出てくる「ユンゲラー」というモンスターが好きで、よくその話をしていた気がする。ほとんど聞いていなかったし、聞く必要もないと思っていたけれど、そういう話があったということは、少しだけ憶えている。
ふと気になり、インターネットで「ユンゲラー」について調べてみる。出てきたのは、狐のような顔をした魔術師のような姿だった。
そしてその手には、アルミで出来たスプーンが握られている。
この「ユンゲラー」というモンスターは、サイコキネシス、つまり超能力を使い、様々な超常現象を起こすとか、そういったキャラクター付けをされているようだった。いかにも子供が遊ぶゲームに出てくるような、安直な設定だと思った。将来大成し世界で活躍する弘樹には、まるでそぐわないものだ。
ページを閉じようとした私の目に、隣に並んだ「ユンゲラー」そっくりのモンスターの姿が目に飛び込んでくる。手を止めて見てみると、そこには「フーディン」という名前が記されていた。
説明を読む。専門用語があって分かり難かったけれど、どうやら「フーディン」は「ユンゲラー」が成長して、蛹から蝶になるように変身した後の姿らしい。見ると「フーディン」は「ユンゲラー」が持っているスプーンを両手に一本ずつ持っていて、心なしか「ユンゲラー」よりも強そうに見える。
「五月蝿い黙れゲロ袋共! ユンゲラーは進化させなくても強いことくらい分かれよカスが! 俺はお前らノンポリの日和見主義とは違ってポリシーがあってユンゲラーを使ってんだ理解しろ!」
「対戦もしないのに使うとかどうとか言うんじゃないよヒキニートのひろ君」
「ポリシーってどうせ後付けの言い訳だろw そんなんだからいつまで経ってもユンゲラーのままなんだよ」
なぜ、弘樹は一つ前の段階の「ユンゲラー」に拘っているのだろう。もっと強い「フーディン」にしてしまえばいいのに、その理由が分からない。「ユンゲラー」を成長させて「フーディン」にすることを、弘樹はなぜしなかったのか。
こんなことなら、弘樹に「ポケモン」を買い与えるのではなかった。細かい疑問が増えて、頭が痛くなるばかりだ。ただでさえ、今月は振込がいつもより少なかったというのに。一体どこへ消えたのか。それだって気になる。ああ頭が痛い。
こうしている間に、また夕方になる。弘樹の食事の支度をしなければ。
いつも通り食事の準備をして、一つずつトレイに載せていく。弘樹が、私が出したものを残さず食べていることは良いことだ。小さい頃から、好き嫌いを許さなかった甲斐があった。私の教育が正しかったからこそ、弘樹の将来がある。今は将来に向けての充電期間だ。慌てず騒がず焦らず逸らず、弘樹が自発的に出てくるのを待てばいい。
そして、最後に──いつも使っている、アルミのスプーンを載せる。
部屋の前に食事を置いて、二回ドアをノックする。もちろん、応答はない。けれどこれで、弘樹には伝わっている。何の問題もない。コミュニケーションはきちんと取れている。
部屋の前から立ち去ろうとした瞬間、ずきん、と頭にヒビが入るような痛みが走った。頭痛が慢性化してきているみたいだ。今度、医者に診てもらわなければ。私が倒れてしまっては、弘樹を見守れる人がいなくなってしまう。弘樹を支えられるのは、母親の私だけなのだ。他の誰でもない、この私。
ふらつきながら一階へ戻ると、ディスプレイには閉じ忘れたインターネットのウィンドウが開きっぱなしになっていた。体を預けるように椅子に腰掛け、何の気なしに、表示されている文字を目で追ってみた。
あるあさのこと。 ちょうのうりょく しょうねんが ベッドから めざめると ユンゲラーに へんしん していた。
変身。その言葉に既視感を憶えつつも、何のことだったか思い出せない。確か、ごく最近目にした言葉のはずだ。もう少しで糸を手繰り寄せられそうだったけれど、私はあえてその正体をつかもうとは思わなかった。
頭痛が一段と激しくなった。心臓が頭に転移したかと錯覚するほどだ。視界が明滅し、体を起こしているだけで酷い疲労感が募ってくる。この頭痛は、一体どこから来ているのか。いいえ、それは分かっている。分かっているけれど、私自身にはどうしようもないことだ。
一時間ほどずっとディスプレイの前で頭を抱えていると、あの掲示板に新しい書き込みがあったとの通知メッセージが届いた。食事を終えたようだ。無意識のうちにマウスを繰り、画面を掲示板に切り替える。
「宝石成金共に白黒豚共マジでぶっ殺してやるこれは正当防衛だお前たちは度重なる名誉毀損と誹謗中傷で俺を苦しめてきただから殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
「ありきたりな発狂だなあ。そんなんで物書きができると思ってんじゃないよひろ君」
「先生に『ひろ君は文章がうまいね』ってここで自慢して、名前バレに気づいて必死にログを流そうとしたときくらいの発狂ぶりを見せてほしいなw」
「つか、アホのひろ君はなんで携ゲ板にいるの? メンヘル板とか池よ」
ああ、まただ。また、弘樹が誹謗中傷を浴びせられている。罵詈雑言を投げつけられている。感情の赴くまま、怒りを掲示板にぶつけている。けれど、相手にはその言葉が届かない。何を言ったところで、相手は匿名のその他大勢に過ぎない。ずっとこの繰り返しだ。
けれど、私は見守り続けなければならない。弘樹を守れるのは私だけ、弘樹を支えられるのは私だけ、弘樹を導いてあげられるのは私だけ。絶対に折れてはいけない。私が弘樹を正しいレールに載せてやらなければ。
「五月蝿い五月蝿い五月蝿い! お前らに人間の心は無いのか獣共が! 俺のように正直に清く正しく生きている真人間に涎を垂らして薄汚い牙で噛み付いて、日々の研鑽を怠らない極上の人間に唾を吐いて、下痢便のような誹謗中傷をネチネチグチグチ書き込んで! 全員地獄に落ちるぞこれはもうどうしようもないことだ弁えろ理解しろ受け入れろ!」
「親の脛齧りながら一日中掲示板に張り付いて発狂三昧が清く正しい生き方なんですか?」
「出会い系のサクラに親の金を数十万も突っ込んで余裕で逃げられる極上の人間なんていねーよバーカw」
「何から何までママンに依存しっぱなしのくせに、ママンがいるからダッチの一つも買えないとかギャーギャー喚いてたのはどこのどいつでしたっけ?」
私は正しい。私は、間違っていない。
「俺は進化する、お前らカスゴミの白黒豚共を駆逐する力を手に入れる! 俺は神童と讃えられた天才だお前たちなんて造作もないんだよ絶対に死滅させてやるから覚悟しろ」
「進化する前にまず部屋から出ろよヒキオタ童貞ニート」
「死滅してるのはひろ君の脳細胞だろ、常識的に考えて」
「ひろ君の進化とか、明らかに人間止める道しか無いじゃないですかー。それも悪い方向での」
私は、私は正しい。
「明日には貴様等宝石成金共を撃滅してやる絶対にだ。もう何があっても許さない死ね死ね死ね死ね死ね」
「金と銀は宝石じゃないでしょって、何回言えば分かるのこの子」
「ユンゲラーだから脳細胞が増え続けてるわけじゃないのよね。むしろ順調に死滅して同じことしか言わなくなってるじゃん」
「頼むから他のスレで宝石成金とかひろ君ワード使うのやめてくれよ。どんどん縮んでいくひろ君の脳内でしか有効じゃないんだから」
私は、私は、私は──
「俺は神童だ、新しい姿に変身するんだ」
──私は。
いつかどこかで見た光景。記憶の中に埋もれていた、遠い昔の光景。
「お母さん。お願いがあるんだ」
「僕、友達とポケモン交換がしたいんだ」
目の前にいたのは、中学生になったばかりの弘樹だった。まだ、小学生の時のようなあどけなさを残している。
私は、弘樹の様子をじっと見つめている。
「ずっと育ててたケーシィってポケモンが、ユンゲラーに進化したんだ」
「いろいろな技も覚えて、強くなったんだ」
これは、そうだ。珍しく弘樹の方から、私に話しかけてきた時の記憶だ。あの時の光景だ。
次に弘樹が何を言ったか、そして何を言うのか。私の記憶が蘇ってくる。
「でも、これよりもっと強く、賢くなれる方法があるんだ」
「ユンゲラーは友達と交換すると、フーディンってポケモンに進化するんだ」
交換、通信交換。そうだ、あのページに書かれていた「通信交換」は、そういう意味だったのか。
ユンゲラーは、普通に戦わせて経験を積ませても、決してフーディンになることはない。他の友達と通信交換をしなければ、ユンゲラーはフーディンに進化しないのだ。
「だから、お母さん」
「僕、友達とポケモン交換がしたいんだ」
そうか、そういう理由だったからなのか。
中学に上がったばかりの弘樹が、友達としきりに遊びたがっていたのは。
「お願いだよ、お母さん」
一人では、ユンゲラーをフーディンに進化させることは出来ない。そのためには、友達の協力が必要だ。
だから、友達と遊びたい。友達と、ポケモンの交換がしたい。
「友達と遊ばせてほしいんだ」
そして……それを拒んでいたのは。
弘樹を、ずっと一人にしておいたのは──。
「馬鹿なことを言うんじゃありません。他の子と遊ぶなんて、時間の無駄よ」
「つまらないことに拘っていないで、きちんと勉強をしなさい」
──この私だった。
何が間違っていたのだろうか。何を間違ってしまったのだろうか。
いや、そうじゃない。決して、そうではない。
何を間違っていたかではなく……すべてが間違っていた。
私が、間違っていた。
「私が……私が弘樹を……」
目が覚めると、窓から朝日が差し込んでいた。窓に目を向けると、視界が滲んでぼやけていた。目が痛いのは、寝不足のせいではない。瞼は真っ赤に腫れ上がっていた。
電源を入れっぱなしにしていたパソコンは、真っ青な画面を表示して止まっていた。このままでは、弘樹の様子が確認できない。再起動する必要があった。
けれど、私は電源ボタンには手を伸ばさない。代わりに、後ろの電源ケーブルに手をかけ、そのまま引き抜いた。
(プツン)
糸が切れるような音とともに、画面が暗くなり消えた。回っていたファンが停止し、部屋に一層の静けさが訪れる。
弘樹の様子を見るのは、このパソコンを通してじゃない。
私のこの目で、直接弘樹を見なければ。
心のどこかでは、もう分かっていた。
様子を見るのが最善だと言い聞かせること、弘樹との直接の対話が無くても大丈夫だと思い込むこと、掲示板の書き込みを監視して弘樹を見守っているつもりになること、弘樹は正常だと理由を並べ立てること、自分は正しいと言い張りつづけること。
全部、出鱈目だ。何もかも、間違っている。
弘樹を自分の部屋に追い込んだのは私だ。私自身の責任だ。夫が家に戻らないことを理由に、自分一人で弘樹の何もかもを決め、決めてかかり、決めつけた。その末路が、今の部屋に閉じこもった弘樹だ。認めなければいけない。悪いのは、すべて私だ。
今更かも知れない。けれども、今しかないのも事実だ。
話をしよう。弘樹の言葉をすべて受け入れよう。どんな怒りや侮蔑も、ありのまま聞き入れなければ! それから、しかるべきところへ弘樹を連れていこう。こうなった理由を洗いざらい話して、弘樹の心を解き放ってやらないといけない。すべて私が蒔いた種。私自身で摘み取らなければ!
ズキズキと頭が痛む。けれど、決して立ち止まることはない。間違いを認めて、弘樹を縛っている鎖を断ち切るのは、もう今しかできない。また、私は自分を正当化して現状を許容してしまう。それは弘樹にとっても私にとっても、最悪の選択だ。
もっと早く過ちを認めていれば良かった……けれど、今ここで認めることができてよかった。私のせいで、弘樹の人生を滅茶苦茶にしてしまった。私の責任で、弘樹の人生を立て直さなければ。
部屋に近づくに連れて、頭痛の度合いが激しさを増す。けれど、これは気の持ちようだ。私が長年見て見ぬふりをしてきた代償だ。今引き返せば、二度と取り返しが付かなくなる。前へ進むことだけを考えるべきだ。
階段を登りきり、弘樹の部屋の前に立つ。そこにはいつも通り、空になった食器の載ったトレイが置かれていた。ほぼすべてがいつも通りだ。ある一点だけ存在する、いつもと違うところを除いては。
スプーンが、トレイの上に置かれていない。どういうわけか、弘樹はスプーンを持ったままのようだ。
何故かは分からないけれど、胸騒ぎがした。スプーンが置かれていないのは何故なのか。弘樹はただ置き忘れただけなのか、あるいは、スプーンを使って何かしようとしているのだろうか。
逸る気持ちを抑えて、部屋のドアをノックする。
「……」
いつも通り二度ノックしたけれど、弘樹からの応答は無い。まだ朝だから眠っているのかもしれないとも思ったが、どういうわけかそうとは思えなかった。中に弘樹がいるのは間違いないけれど、眠っているとは思えなかった。
どうすべきか逡巡する。一旦引き返すべきか、それとももう一度ドアをノックすべきか──いや、そのどちらでもない。とにかく一度、弘樹の様子を見なければ。そのためには、引き返すのもドアをノックするのも正しい行動ではない。
するべきことは、私と弘樹の間を隔てるこのドアを開け放つことだ。
「弘樹、入るわよ」
ぐっとドアノブに手をかけ、意を決してドアを開く。
開け放ったドアの、その先には。
……その先には。
「……」
キツネのような顔をした、かつて弘樹「だった」モノが、じっとこちらを見つめていた。
その手には……不自然に折れ曲がった、あの見慣れたアルミ製のスプーンが、静かに握られていた。
目が合った途端、これまでとは比べものにならないような強い頭痛が襲いかかり、目の前が真っ暗になる。痛みの余り意識を失う刹那に、あの文言が脳裏をよぎる。
──あるあさのこと。
──ちょうのうりょく しょうねんが ベッドから めざめると
──ユンゲラーに へんしん していた。
私の意識は、ここで途切れた。
児童書のような柔らかい文体で読者の油断を誘う技法が、それこそ鋼の翼の如くギラギラと光ってますね。
だから同じ児童書系の「かごのそとへ」でみんな警戒したんですね(笑)
かわいい表現ばかりなのに、やってることはエゲツナイないのは流石です。
スパルタ教育と調教は紙一重、あるいは全く一緒なのかもしれませんね。
とりあえず、飛びたいなら飛ぶ練習をしようよと言いたくなります。
「傷つかぬものに青空は見えない」っていう歌詞がありますが、傷つきすぎると青空に飛んでしまうのですね。
面白かったです。後、傷だらけの女の子可愛かったです(やめなよ
ぼくのつばさは、まだやわらかい。
大きな木の上にある巣で、ぼくはお父さんと一緒に暮らしている。木漏れ日の差し込む、あったかい場所だ。
「おはよう、お父さん」
「おはよう、ツバサ」
ぼくの名前は、「ツバサ」という。空高く飛べるようにと、お父さんが付けてくれた名前だ。
空を飛べるようになるために、ぼくは毎日特訓をしているのだ。
「お父さん、今日もいい天気だね」
「そうだな。よく晴れていて、飛ぶにはいい日だ」
お父さんがぼくの一歩前に出て、ガシャンと翼を大きく広げる。
陽の光を跳ね返してキラキラと輝く、大きな大きなはがねのつばさ。
「ツバサ。お父さんは食べるものを探してくるから、ここで待ってるんだぞ」
「うん。分かったよ、お父さん」
朝の風を受けて、お父さんが巣から飛び立つ。ぼくはお父さんの背中を、見えなくなるまでじっと見送った。
お父さんが帰って来るまで、ぼくはここでお留守番だ。
「なにか面白いことは無いかなあ」
巣のなかには、ぼくが遊べるようなものは何もない。せいぜい、この間お父さんと散歩をしているときに拾った、蝶のサナギの抜け殻くらいだ。
退屈だなあ。そう思って、ぼくが何気なく巣の下を覗き込んだときだった。
「……」
ぼくの巣がある木の根元に、小さな女の子が一人、ぽつんと立っていた。真っ白いワンピースを身につけて、二本の足でしっかりと立って、じっと木を見つめている。
ぼくのいる巣に目を向けながら、女の子は上に向かって細いつばさを伸ばして見せた。ぐーっとぐーっと伸ばして、まるでぼくを迎え入れるような姿勢になった。
「ぼくといっしょで、まだやわらかいんだ」
女の子の細いつばさにはまだ羽も生えていなくて、空を飛ぶことなんてとてもできそうになかった。ぼくのつばさもまだふにゃふにゃで、やっぱり空なんて飛べやしない。
でもきっといつか、ぼくもお父さんみたいに風を切って空を飛べるようになるはずだ。だって、ぼくはお父さんの子どもだからね。きっと、お父さんみたいになれるんだ。
だから、あの女の子も同じ。大きくなったら、光り輝く「はがねのつばさ」になるんだ。並んで飛ぶことだって、追いかけっこだって朝飯前だ。一緒に遊べたら、どんなに楽しいだろう。
「早く大きくなって、ぼくと一緒に遊ぼうね」
ぼくは一声鳴いて、女の子に呼びかけた。
*
「お父さん、お父さん」
「どうしたんだい、ツバサ」
お父さんが持って帰ってきてくれた木の実を食べながら、ぼくはお父さんに女の子の話をした。
「留守番をしてるときに、女の子がここに来たよ」
「ほう、そうなのか」
女の子が木の下でぼくをじっと見つめていたこと、ぼくと同じでまだ小さい子どもだったこと。そんなことを、ぼくはお父さんに話して聞かせた。
「ぼくと同じで、まだつばさができてなかったよ」
「なるほど。ツバサと同じ、子どもなんだな」
大きな大きなつばさをガチャガチャと揺らして、お父さんはぼくの話のひとつひとつに頷いてくれる。
ぼくが、あの女の子と遊べるようになりたい、と言うと、お父さんは、じゃあ、早く大きくならないとな、とぼくに返した。
「ぼく、空を飛べるようになりたい。お父さんみたいに大きくなったら、ぼくも空を飛べる?」
「もちろんだ。早く大きくなれるように、しっかりご飯を食べるんだぞ」
「うん。わかったよ、お父さん」
ちょっと苦い味のする木の実を、ぼくは口いっぱいにほおばって食べるのだった。
*
それから、少し時間が経った。
「ツバサ。お父さんはご飯を取ってくるから、ここで留守番してるんだぞ」
「わかった。ぼく、ここで待ってるね」
お父さんはいつものように朝早くから巣を出て、お父さんとぼくが食べるご飯を探しに行った。ひゅーん、と風に乗って飛んでいくお父さんの後ろ姿を、ぼくは見えなくなるまで追いかけていた。
一人になってから、ぼくは自分のつばさを見つめる。
「まだ、ちょっと赤いなあ」
ぼくのつばさには、あちこちに赤い色が付いている。朝の冷たく澄んだ風になでられて、ちょっとくすぐったい感じがした。
ひとつ、ふたつ、みっつ……ぼくがつばさに付いた赤いもようを数えていると、誰かが近くの草を踏みしめる音が聞こえてきた。
「もしかして」
ぼくが巣から身を乗り出して、木の下を覗き込む。
見えたその先には、この前巣の近くまで来た女の子の姿があった。前と同じワンピースを着ていて、ゆっくりこっちに歩いてくる。
女の子が近づいてくるにつれて、ぼくはあることに気がついた。
「……あっ。あの子、つばさにキズがある」
小さなつばさに、引っかいたような赤い筋。そんなキズが、いくつもいくつも付いていた。真っ白い肌に、血で線を引いたような赤いキズが、くっきり目立って見えている。
ぼくは思わず、ぼくのつばさに視線を移した。
「ぼくと同じ、ぼくと同じだ」
ぼくのつばさ。そこに付いた赤い色は、女の子と同じ引っかいたようなキズだ。風にさわるとくすぐったくて、まだ少しひりひりする。
ぼくと女の子には、同じようにつばさにキズがあった。
同じ、同じなんだ。
「ぼくと同じように、あの子もがんばってるんだ」
ぼくは女の子の目を、一時も離さず見つめ続けた。瞬きもせずに、じーっと見つめ続けた。
*
「お父さん。ぼく、今日いいことあったんだ」
「ほう、どんなことだ?」
お父さんの持って帰ってきてくれた、少しすっぱい木の実を全部食べてから、ぼくはお父さんに女の子の話をした。ぼくと一緒で、つばさにキズが付いていたって話だ。
ぼくの話を聞いたお父さんは、いつものように大きくうなづいて見せた。
「そうかそうか。女の子も、ツバサと同じように頑張ってるんだな」
「うん。ぼくと同じだったんだ」
「いいことじゃないか、ツバサ。それなら、今日も頑張るか」
お父さんの言葉に、ぼくは頷いた。お父さんがしゃきっと立ち上がると、ぼくの前にどんと立つ。
「よし、ツバサ。翼を広げなさい」
「うん。お父さん、これでいい?」
「いいぞ。少し痛いけど、我慢するんだぞ」
つばさを広げたぼくに向かって、お父さんがきらりと光る大きなつばさを、しゃっと振り下ろした。
一瞬冷たい感じがしたかと思うと、それはすぐに、火が付いたみたいな痛みに変わった。
「いたっ」
「痛いか、ツバサ」
「うん、いたいよ、お父さん」
「そうか。それでいいんだぞ」
お父さんは頷いて、またつばさを振り下ろす。
ぼくのつばさに深く切れ目が入って、お父さんのつばさが赤く染まった。
「いたいっ、いたいよ、お父さん」
「頑張れ、ツバサ。これも、ツバサのためだ」
何回も、何回も、お父さんはぼくのつばさを切っていく。小さな切り傷、大きな切り傷。たくさんの赤い筋が、ぼくのつばさに作られていく。
ぼくが時々足を折ってしゃがみ込むと、その度にお父さんはぼくを立たせ直した。
「お父さん、もう止めてよ」
「まだだ、ツバサ。もう少しやらないと、強い翼にはならないぞ」
「本当に?」
「そうだ。傷つけば傷つくほど、ツバサの翼は立派になるんだ」
つばさに付いた真っ赤な血を払って、お父さんはまたつばさを構えた。ぼくはお父さんの言う通りにして、痛いのをこらえてつばさを広げる。高く振りかぶってから、お父さんはぼくのつばさを深く切りつけた。
いちごのように赤い血が、ぼくの体に降り注いだ。
*
それから、また少し経ったあとのことだった。
「いつものことだが、ツバサ。留守番は頼んだぞ」
「うん。分かったよ、お父さん」
お父さんは食べ物を探しに、一人で巣から飛び立った。もう見慣れた光景だけど、でも、お父さんが出ていくときは、やっぱり少し寂しい気持ちになる。
夕方くらいまで、ぼくは一人でお留守番だ。
「早く帰ってきてくれたらいいのになあ」
巣の中でつばさを広げて、ぼくは大きく伸びをする。たくさんのキズが付いたつばさは、まだお父さんのように硬くはないけれど、前に比べるとずいぶんしっかりしてきた気がする。
お父さんに切られるのは痛いけど、でも、これもお父さんみたいな立派なつばさを作るためなんだ。
「今日もがんばるぞ」
ぼくがつばさをたたんで、ふと下に目を向けたときだった。
「あっ」
「……」
ぼくの目に飛び込んで来たのは、あの時の女の子の姿だった。いつもと同じワンピース姿で、木の根元までゆっくり歩いてくる。ぼくは思わず、はっと息を呑んだ。
女の子がだんだん近付いてきて、姿がはっきり見えるようになると、ぼくはあることに気が付いた。
「やっぱり、ぼくと同じだ」
ぼくと同じように、女の子のつばさもキズだらけだった。前に会ったときよりも、もっとキズが増えている。ぼくみたいに、つばさを立派にするためにがんばってるんだ。
よく見ると、赤いキズに混じって、青いアザもたくさんできていた。叩かれた後にできる、丸くてうっすら青いアザが、あちこちにぽつぽつと姿を見せている。
「そうか。切ってもらうだけじゃだめなんだ。叩いてもらわなきゃいけないんだ」
お父さんはぼくを毎日のように切りつけている。それだけでも大丈夫だと思ってたけど、女の子のつばさには叩かれてできるアザがあった。きっと、切られるだけじゃなくて叩かれてもいるんだ。
女の子に負けないように、ぼくもがんばらなきゃ。
「叩かれるのは怖いけど、ぼくもがんばるよ。一緒に空を飛ぼうね」
ぼくは声をあげて、女の子に呼びかけた。
お父さんが帰ってきたら、このことを伝えなきゃ。
*
持って帰ってきてくれた甘酸っぱい木の実をすっかり平らげてから、ぼくはお父さんに声をかけた。
「お父さん、お願いがあるんだ」
「どうしたんだい。言ってみるんだ」
「お父さん、ぼくを叩いてほしいんだ」
「叩く?どういうことだ?」
ぼくは朝にやってきた女の子が、つばさにアザができるまで叩かれていたことを話した。たくさん叩かれて、丸くて青いアザがたくさんできていたことを、お父さんに話して聞かせた。
お父さんは、ぼくの話の一つ一つに深く頷いて、ちゃんと納得してくれたみたいだった。
「そうか、そうか。確かに、叩いた方がもっと強くなるな」
「うん。だからお父さん、ぼくのことをうんと叩いてよ」
「いいぞ。じゃあ、いつものように翼を広げて、お父さんの前に立ちなさい」
言われた通り、ぼくはお父さんの前に立つ。キズのいっぱい付いたつばさを広げて、ぼくはお父さんの目をじっと見つめた。
「いくぞ、ツバサ。痛くてもこらえるんだぞ」
「うん」
「これも、ツバサのためだからな」
お父さんが左のつばさをタテに構えて、大きく息を吸い込んでから、ぼくのつばさ目掛けて勢いよく振り下ろした。
バシンッ、と大きな音が響いて、切られたときとは違う、しびれるような痛みがつばさを駆け抜けた。
「うぐっ」
「続けるぞ。つばさをちゃんと広げるんだ」
右のつばさを振りかぶって、ぼくに叩きつける。
はがねを叩きつける鈍くて重い音が、静かな夜の森の中で木霊した。
「うっ……あっ……!」
「我慢だ、ツバサ。お父さんのようになるには、もっともっと耐えるんだ」
両方のつばさを振り上げる。ぶんっ、と風を切る音が聞こえたかと思うと、すぐさまぼくのつばさにはがねが叩きつけられる。痛みの上に、痛みが覆い被さった。
タテ・ヨコ・タテ・タテ・ナナメ・ヨコ・タテ……四方八方から、ぼくのつばさは叩かれ、殴られ、だんだんと腫れ上がっていく。
「これで……こうだっ」
叩かれていくうちに、ぼくはつばさから感覚が消えていくのを感じた。しびれが痛みを上回って、つばさがなくなったような感じがした。
そしてまた、お父さんのつばさが空を切る音が、ぼくの耳に飛び込んできた。
*
季節を一つまたいで、辺りの木々が衣替えを始めた頃だった。
「ツバサ。いつものように、留守番は頼んだぞ」
「うん。お父さん、気をつけてね」
お父さんはいつもと変わらず、ぼくに留守番を頼んで、食べるものを探しに出かけて行った。
今はいい季節だから、食べるものは簡単に見つかるって、お父さんは言っていた。お父さんの言う通り、最近は夕方になる前に、食べ物をたくさん持って帰ってきてくれる。だから今日も、早く帰ってきてくれるはずだ。
「でも、留守番はしっかりしなきゃ。ぼくが巣を守るんだ」
お父さんの代わりに、ぼくが巣を守る。そう思うと、ぼくはとてもやる気になるのだった。
張り切って留守番をしながら、落ちていく木の葉を追いかけてひまつぶしをしていたぼくの目に、また、あの光景が飛び込んできた。
「あっ、あの子だ」
白いワンピースの、あの小さな女の子。しばらくここに姿を見せていなかったけれど、今日は来てくれたみたいだった。
いつものようにぼくのいる木の根元までやってきて、ぼくのことを見つめ始めた。ぼくは巣から身を乗り出して、女の子の姿を視界にしっかりと収める。
「来てくれたんだね」
声をあげると、女の子は少しだけ背筋を伸ばして応えてみせた。ぼくはつばさを広げて、女の子に見せてあげた。
お父さんに毎日のように切られたり叩かれたりして、ぼくのつばさはキズとアザでいっぱいになっていた。ひりひりずきずきとあちこちが痛むけど、ぼくがお父さんみたいになるためには、これが必要なことなんだ。
「……」
ぼくがつばさを見せると、女の子が少しうつむいてから、ぼくに向けて両方のつばさをまっすぐ伸ばした。
女の子の伸ばしたつばさを見て、ぼくはまた、女の子のつばさに異変が起きていることに気づいた。
「あれは、こげた跡?」
小さなつばさに点々と作られた、赤いキズでもない、青いアザでもない、黒い点のような模様。少し焼けた肌の上に、黒点は一際目立って見えた。
ぼくはそれを、別の場所で見たことがあった。近くに雷が落ちて木が燃えたとき、飛び散った火の粉が別の木に作った、こげた跡だった。
「そうだ、火だ。火を使ったんだ」
女の子がつばさにこげ跡を作っていた理由を、ぼくはすぐに見抜いた。女の子はつばさに火を当てて、もっともっと強くしようとしているんだ。
ぼくのお父さんも、火は苦手だって言ってる。つばさが焼けて、怪我をしたこともあるって聞いた。だから、とても危ないことなんだ。
でも、ぼくもやらなきゃ、一緒に空を飛べるようにはなれない。だって、あの女の子がやっていることなんだ。それはきっと、女の子のお父さんかお母さんが、女の子のためにしていることにちがいない。
「ようし。ぼくもやるぞ、お父さんにお願いするんだ」
ちょっと難しいお願いだけど、お父さんならきっとやってくれるはずだ。ぼくが空を自由に飛べるように、火を使ってつばさを焼いてもらうんだ。
「見ててね、ぼくも同じようにしてみせるから」
女の子に追いつけるように、ぼくもがんばるぞ。
そう声をあげたぼくを、女の子はじっと見つめていた。
*
思った通り、お父さんは夕方頃に帰ってきた。持って帰って来てくれた、熟した甘い木の実を食べ終わってから、ぼくはお父さんに話を切り出した。
「お父さん、またお願いがあるんだ」
「よし、分かった。言ってみなさい」
「火を使って、ぼくのつばさを焼いてほしいんだ」
ぼくがそう言うと、お父さんは少しビックリしたみたいで、目をまん丸くしてぼくを見返した。
「火を使って?本当に言っているのか?」
「だって、あの女の子がやってたんだ。だから、ぼくもやらなきゃ」
「けれど、ツバサ。お父さんやツバサは、火にはとても弱いんだ。それは前に教えただろう」
「うん、知ってるよ。でも、ぼく、やってほしいんだ。お父さんみたいに、立派なつばさが欲しいんだ」
ぼくが何回もお願いすると、お父さんは腕組みして少し考え始めた。
けれどそのあと、いつもみたいに何度も大きく頷いて、閉じていた目を開いた。
「そうだな。火に強くなるのも大事なことだ。偉いぞ、ツバサ」
「お父さん、やってくれるの?」
「ああ、やってあげよう。少し準備をするから、待ってるんだぞ」
お父さんは巣から、口にくわえられるくらいの小さな小さな木の棒を、何本も取り出した。
それを何に使うかは、ぼくも知っている。木の棒を何かに擦り合わせると、簡単に火が付くんだ。火は木の棒がなくなるまで燃えつづけて、簡単には消えないようになっている。
「ツバサ。またいつもみたいに、翼を広げて立つんだ」
「うん。分かったよ、お父さん」
ぼくはいつもお父さんに叩かれたりするときみたいに、つばさを目いっぱい広げて立ち上がる。
お父さんがくちばしでくわえた木の幹に燃える棒を擦り合わせると、棒の先っぽがごうっと燃え上がって、赤々とした火が着いた。
「いいか、ツバサ。火を押し付けられるのは、切ったときより、叩かれたときより、ずっと痛いぞ」
「うん」
「切ったときや叩いたときと違って、お父さんには痛さの加減が分からない。本当に、いいんだな」
「うん。それでもぼく、こらえるよ」
ぐっと力を込めて、ぼくは巣の足場を踏みしめた。
そしてお父さんが、ぼくの左のつばさに、燃えた木の棒を押し付けた。
「あっ……熱っ、熱いっ」
切られたときとも、叩かれたときとも違う、鋭くあとを引く痛みが、ぼくのつばさに広がっていく。燃える棒を押し付けられた部分から、火の粉が木の幹を焼いたときと同じ黒い煙が立ち昇るのを、ぼくは自分の目で見た。
あまりにも痛くて、熱くて、苦しくて、ぼくは思わず気を失いそうになる。
「まだ始めたばかりだぞ、ツバサ。おとなしくして、姿勢を保つんだ」
「うっ……ぐぅっ……」
お父さんは目の前が暗くなりかけたぼくをはがねのつばさで叩いて、無理やり立たせ直した。ぼくはふらつく足に力をこめて、倒れまいと体を支えた。
一度燃える棒を離して、お父さんが今度は右のつばさに棒を押し当てた。
「いたいっ、あついよっ、お父さんっ」
「まだだ。もっともっと翼を焼かないと、火には強くなれないぞ」
火の消えかけた棒を、きちんと火を消しきって遠くに投げ捨てると、お父さんはすぐに新しい棒をくわえた。
迷わず火を着けて、勢いをつけてぼくに押し付ける。
「耐えるんだ、ツバサ。これも、ツバサのためなんだ」
「そ、そうだ……ぼ、ぼくはっ、お、お父さん、みたいに……」
気が遠くなりかけたぼくのまぶたに、あの女の子の姿が浮かんでくる。今ここでがんばらなきゃ、一緒に空を飛んで遊んだりすることはできない。
ぼくはもう一度つばさを大きく広げて、お父さんの前に立った。お父さんはくちばしにくわえた棒を振るって、ぼくのつばさに火の粉を振りまく。
ぼくのつばさが焼けるにおいが、辺り一面に広がっていった。
*
木の葉がすっかり落ちきって、冷たい風が吹きすさぶ季節になった。
お父さんが少し前から食べるものをたくさん貯めておいたおかげで、暖かくなるまで食べ物には困らなさそうだった。
「寒いね、お父さん」
「そうだな。ツバサは、初めての冬だからな」
時々強い風が吹くと、お父さんがそっと風からぼくを守ってくれる。ぼくは巣の隅で、つばさを折りたたんでじっと座っていた。
あれから、ぼくは毎日のように叩かれて、切られて、火を着けられている。キズと、アザと、ヤケドの数が増えていく度に、ぼくのつばさがお父さんのように硬く強いものになっていくのを感じる。
「もう、目は大丈夫か」
「うん。朝になったら、ちゃんと開けられるようになったよ」
ちょっとだけ変わったこともある。ぼくはつばさだけじゃなくて、顔とか体とか背中とかも、お父さんに叩いたりされるようになった。そうやると、つばさだけじゃなくて、体全部が強くなるってお父さんは言うんだ。
あちこちがぎしぎしと音を立てて、ちょっと気を抜くと突き刺すような痛みが走る。風に真っ正面から当たったら、体がばらばらになるんじゃないかと思うくらい痛かった。
「暖かくなれば、ツバサも一人前になれるぞ」
「ほんとに?」
「ああ。あと少しの辛抱だ」
ぼくはお父さんと一緒に身を寄せ合って、まだ来る気配の無い、あったかい季節を待ち続けている。
早くあったかくなればいいのに。ぼくがそう考えながら、小さく身を震わせていたときだった。
「おや?あれは、人間の子か」
「えっ?」
お父さんが声をあげて、巣から身を乗り出した。ぼくもつられて、木の下をぐーっと覗き込む。
すると、そこにいたのは。
「あっ。お父さん、あの子だよ」
「あの子?」
「ぼくがいつも話してた、あの女の子だよ」
こんなに寒いのに、いつもと同じ薄手の白いワンピースを着た女の子が、ぼくたちのいる木の根元までやってきていた。
ぼくは女の子の姿を見て、あっと思わず声をあげた。
「お父さん、お父さん。見て、見てよ」
「どうしたんだ?あの子がどうかしたのか?」
「よく見て。ぼくと同じで、あちこちにキズがあるよ」
女の子は、今のぼくとそっくりだった。つばさだけじゃなくて、顔や、足や、頭にもいっぱいキズがある。キズだけじゃなくて、アザやヤケドもいっぱいあった。
ぼくは体が痛いのも忘れて、飛び上がって喜んだ。
「同じだよ。あの子も、ぼくと同じだ」
「ほう、ツバサのように、あちこちを鍛えているんだな」
「そうだよ。ぼくと一緒なんだ」
うれしかった。ぼくと同じように、あの女の子もすごくがんばってる。体中ぼろぼろのキズだらけで、今のぼくそのものだった。それが、すごくすごくうれしかった。
あったかくなれば、ぼくはお父さんみたいに空を飛べるようになる。だからあの子も、空へ行けるようになるに違いない。
「うれしいなあ。ぼく、一緒に飛ぶのが楽しみだよ」
「そうだな。あと少しで、ツバサも一人前になれるぞ。あの子と一緒に、空も飛べるだろう」
「うん。そうだよね、きっとそうだよね」
巣の中ではしゃぐぼくを、お父さんが優しく撫でてくれた。
女の子はぼくとお父さんの様子を、震える体でじっと見つめていた。
*
「東の方へ行けば、ツバサの好きな苦い味の木の実がたくさん見つかるぞ。一度行ってみるといい」
「ありがとう、お父さん」
あたたかい木漏れ日が、巣に差し込む。ぼくは陽の光をいっぱいに浴びて、巣の裾にしっかりと立つ。
ぼくの後ろには、お父さんがどっしりと座っている。
「ツバサが一人前になってくれて、お父さんはうれしいぞ」
「えへへっ。ぼく、立派なつばさになったよ」
「ああ。ツバサはもう、一人前の鋼鳥だ」
ぼくは大きくつばさを広げる。ガシャン、という乾いた音が聞こえた。
光を反射してキラキラ輝く、硬くて軽いはがねのつばさ。それが、今のぼくのつばさだ。
大きさはまだお父さんよりも小さいけれど、それ以外はみんな、お父さんと同じだ。硬くて鋭くて、それでいて中は軽い。刀のように風を切って、葉っぱのように風に乗ることができる。
「それじゃあ、ツバサ。お父さんとツバサの分のご飯を取ってきてくれ」
「よぉし。ぼくに任せてよ」
ぼくはつばさを羽ばたかせて、風をつかむ準備をする。いい風が吹いてくるまで、少し待つことにしよう。
「そうだ、お父さん」
「どうしたんだい、ツバサ」
もうすぐ飛ぶ、その段になって、ぼくはあることを思い出した。
「あの子は、もう空にいるかな?」
「あの、人間の女の子か?」
「うん。あったかくなったから、あの子も空を飛べるようになってるはずなんだ」
お父さんは、ぼくにこう答えた。
「ああ。きっと今頃、空高く飛んでいるはずだ」
今、ぼくが飛ぼうとしている空。そこに、きっとあの子もいる。
ぼくは期待に胸を高鳴らせながら、ちょうど吹いてきた心地よい風に、すっとつばさを預けた。
「お父さん、ありがとう。ぼく、行ってくるね」
「ああ。気をつけてな」
両足を強く強く踏みしめて、ぼくは風に乗って飛び立つ。
あの子のいる、この広い空へ。
基幹産業を失った町が、その後急速に衰退してしまうケースは決して珍しい事象ではない。元となる産業への依存度が高ければ高いほど、喪失からのリカバリーはより困難なものになる。これはいつ何時、どの地域で起きたとしても不自然なことではない。
地域の衰亡を放置しておくことは、即ちそこから人が流出していくことを意味する。魅力の無い土地に若者は根付かず、平均年齢の上昇と共に町の寿命が反比例して縮まっていく。気付く頃には既に手遅れになっている、それが実情である。
柱となる産業を失った場合、何らかの形で新たな別の産業を勃興させ、人を定着させなければならない。それは行政の使命であり、また地域住民にとっての切なる願いだ。地域の活性化のためには、時として大きな決断を伴う。本稿で取り上げるのは、数年前にある「決断」をした地方都市である。
石竹(せきちく)市。関東地方の最南部に位置するこの都市は、かつて巨大な自然公園である「サファリ・ゾーン」を擁する一大観光都市であった。サファリ・ゾーンには種々の希少性の高いポケモンが放し飼いにされ、見る者を大いに楽しませていた。
観光だけでなく、携帯獣を繰る人々にとっても、石竹市は大変魅力的な都市であった。サファリ・ゾーンの園長は、大胆にも公園のポケモンの捕獲を許可する施策を取ったのである。一定額の料金を支払い(全盛期でも五百円であったが、十二分に採算は取れていたという)、定められたルールと制限時間の中で、という制約はあったが、希少性の高いポケモンを捕獲できる機会とあって、大いに賑わいを見せた。
サファリ・ゾーンを基幹産業として、石竹市は著しい発展を遂げる。観光客相手の土産物店や飲食店が立ち並び、人の入らない日は無いと言われるほどになった。この目覚しい経済の成長を受けて、市は「栄えている都市」の象徴とも言えるポケモン・ジムの誘致に成功。さらには市のジムリーダーを務めていた杏氏が、ポケモン・リーグの重鎮としての立場を得るという、かつてない快挙を成し遂げた。
このように文字通り栄華を極めた石竹市であったが、しかし、ある時状況は一変する。サファリ・ゾーンの園長が、突如としてサファリ・ゾーンの閉鎖を宣言したのである。
園長の唐突な動きに、市の対応は後手後手に回った。園長に対して市の職員や関連産業の重役らが懸命の説得を行ったが、園長の決定を覆すことはついに叶わず、サファリ・ゾーンは閉鎖された。当の園長は閉鎖から間を置かず、蛻の殻となった石竹市から退去した。
一連の慌しい出来事の背後には、地価の高騰に纏わる投機筋の動きがあったと囁かれている。真相は定かではないが、何れにせよ何らかの利権が絡む事案であったことは想像に難くない。サファリ・ゾーンの園長も案件に介在したとする噂もあるが、噂の域を出ず真偽の確定には至っていない。
ほとぼりが冷めた頃、園長は石竹市より遠く離れた静都地方の丹波市にて、同等の規模を持つ新たなサファリ・ゾーンを開園した。何がしかの動きがあっても良さそうなものであったが、この件に付いてはマスコミもサファリ関係者も足並みを揃えるかの如く沈黙を守っており、背後にどのような利権の動きがあったのかは定かではない。
サファリ・ゾーンの突然の閉鎖は、同公園に依存していたあらゆる産業に致命的な打撃を与えた。観光客の足取りは完全に途絶え、日を追うごとにシャッターを下ろす店舗が増加。一年も立たない間に、市の産業はほとんど壊滅状態に陥った。
急速に衰退する市の産業と、それに伴う財政の大幅な悪化を受け、石竹市は大規模な梃入れを行うことを余儀なくされた。サファリ・ゾーンに代わる基幹産業の創出が急務となったのである。各方面から有識者を招いたり、市民に案を呼びかける等の懸命の取り組みが行われた。
しかし即効性のある妙案は無く、財政の逼迫はピークに達していた。石竹市は幾許かの議論を経て、ついにある決断を下した。
「廃棄物の処理場が作られたのは、サファリの閉園から一年半くらい経ってからでした」
サファリ・ゾーンの閉園前後に、とある廃棄物の処理ニーズが急激に増加しつつあった。廃棄物の発生に対して処理が追い付かず、全国的な問題となっていたのである。増え続ける廃棄物を速やかに処分すべく、何らかの手を打たざるを得ない状況に合った。
石竹市はここに着目し、その廃棄物の処理場を市に大々的に誘致するという動きに出た。廃棄物処理を新たな雇用創出の手段として見出すと共に、処理場を受け入れることにより得られる補助金を市の財政再建に当てようと計画したのである。処理場のニーズは極めて高く、石竹市には直ちに処理場建設の案件が持ち込まれた。
A氏(仮名)は、処理場建設計画の初期から深く携わっている人物の一人だ。A氏はサファリ・ゾーン閉園以後急速に衰退する石竹市を救いたいという思いで、市が掲示した廃棄物処理場の計画に賛同し、今日に至るまで様々な領域に携わってきた。計画の隅々までを知り尽くした、数少ない人物である。
「処理場の建設は、急ピッチで進められました。あの時から、反対する声もあったように思います」
財政破綻が目前に迫る中で、市は土地の所有者に立ち退き要請を行うなどして半ば強引に処理場建設の用地を確保し、アセスメントもそこそこに建設を開始させた。この拙速な石竹市の計画推進に関して反発の声が上がり、左翼系の市民団体が市長に質問状を送付するといった動きも見られた。
しかし、一方で市の計画推進を支持する勢力も大きなものであった。サファリ・ゾーン閉園以後の石竹市の衰亡ぶりを目の当たりにした市民からは、雇用創出と財政再建の機会となる処理場の一刻も早い建設を求める声が後を絶たなかった。石竹市はこれをバックに、廃棄物処理場の建設を力強く推し進めていった。
「処理場ができて、政府からの補助金で財政も持ち直して……久しぶりに、市が元気になったんです」
廃棄物処理場の誘致に伴う補助金は、逼迫していた石竹市の財政を大いに潤した。市は予算を組んで市民に積極的にサービスを提供する形で還元し、財政の建て直しに成功したことを幾度と無くアピールした。一時は財政破綻の可能性さえ取り沙汰された石竹市にとっては、まさに奇跡的な出来事であった。
建設された処理場は予定通りに稼動を開始し、稼動から半年も経たず、施設の稼働率は常時九十パーセント台を維持するほどにまで達する。好調な稼動ぶりを受けて国は石竹市に補助金を追加給付し、市は並行稼動させるための処理場を別途建設していった。
「今は、合計五つの処理場が稼動しています。あと三ヶ月で、もう一つも再稼動の予定です」
現在、石竹市には合わせて六つの処理場が存在している。最初期に建設された一つは、定期検査フェーズを迎えて半年の稼動停止期間に入っている。残る五つの処理場は、稼働率が日常的に百パーセントに及ぶほどの過密状態での処理を続けており、二十四時間止まることなく運転を続けている。
処理場を建設した効果により、石竹市の財政は安定期に入っている。現市長はこの成果をバックに、市長選にて三期連続でトップ当選を果たしている。市長はさらなる処理場の建設に意欲を見せており、水面下で候補地の選定が行われていると囁かれる。
このように石竹市の活性化に貢献した処理施設であるが、A氏は険しい表情でその実情を語った。
「道行く人に白い眼で見られている……そんな気がするんです。本当はそうでなかったとしても、そう思いこんでしまうんです」
廃棄物を取り扱う石竹市においては、先にも触れたが根強い反発の声も上がっている。市民団体は「廃棄場の撤去」を市に対して再三に渡り求めており、市側は対応に苦慮していると伝えられる。昨今も、処理場の建設推進派である現市長が市長選にてトップ当選を果たしたものの、開票結果を見ると建設反対派の候補が僅差で肉薄しており、まさに薄氷の勝利であった。石竹市民の処理場に対する不安・不満の声が高まっている証左であろう。
処理場への反発を強めるのは市内の人間だけではない。海外に本拠地を置く自然環境保護団体は、そもそも処理場自体の存在が自然環境に重大かつ深刻な悪影響をもたらしているという声明を発表。公称三百万人(関係者から、実数は六十万に満たないとの発言がある)の処理場存続反対署名を集め、新規構築計画の即時停止と現在稼動している処理場の早急な閉鎖を求めて石竹市に要望書を送付するほどの事態となっている。同団体は昨年末石竹市民全員に、処理場が稼動する様子を綴ったドキュメンタリー・ビデオの納められたディスクを配布するという行動に出るなど、圧力を強めている。
こうした動きに触発され、建設反対派はより力を強めている。先日、石竹市内で二千人もの参加者を集めたデモ行進が成功裏に終わったのは記憶に新しい。市としても意見の黙殺は難しい状況にあり、外部から環境問題に関する有識者を招くなど歩み寄りの姿勢を見せている。しかし、依然として反対派の声は収まるところを知らず、最終的には市長のリコールにまで発展するのではないかと噂されている。
一方で、処理場建設に賛成の立場を取るものも多い。特に、サファリ・ゾーン閉園後に基幹産業を失った商店主たちは、財政の逼迫・困窮の恐怖を身を持って味わわされている。彼らにとっては処理場が存続することによって国から助成される給付金の存在が代え難いほど大きく、処理場は右肩上がりで増え続ける廃棄物を処理する有益な施設であると主張している。
賛成派と反対派の議論はここ数年平行線を辿り続けており、決着の付く見込みは一向に見えない。処理場の扱いを巡って市を二分する事態となっており、話の上での些細な行き違いや見解の相違が切っ掛けとなり、暴力沙汰になることもしばしばである。処理場の賛成・反対で、同じ石竹市民が色分けされていると、旧来から石竹市に住む人々からは嘆きの声が後を絶たない。
「処理場をこれ以上作るべきなのか、そして、今稼動中の処理場を今度も動かし続けるべきなのか……私には、それが正しい道には思えません」
そもそも、石竹市の処理場は何を処理する施設なのか。
ここ数年の間、幅広く見積もっても過去十年以内の間に、その廃棄物の総量は爆発的な増加を続けている。ある試算では、日本国内だけで一週間に約九千トンもの廃棄物が新たに生み出されていると言われる。正確な統計が取れていない地域もあり、また統計に使用される係数も早急な更新が必要であるとの見解が出されているため、実数が先の試算を上回ることはほぼ間違いないと言われている。
圧倒的な質量もさることながら、廃棄物に対する課題は非常に難しいものがあった。性質上再利用が極めて難しく、これまで数多くの再利用プロジェクトが立ち上っては消えるということを繰り返していた。水に溶けにくく燃えにくいという高い耐久性に加え、通常の廃棄物のように圧縮して固めるという処理も難しい。単純な強度の高さもあり、処分に際しては莫大なコストを要する存在だ。
現在打ち出されている処理方式は、廃棄物を機械的に破砕し、粒状にして埋め立てるというものである。廃棄物の特性を考慮した、ある意味止むを得ない処理法であり、効率的とは言えないのが現状である。廃棄物を埋め立てた際に生じる自然環境への影響に対する懸念もあるが、現時点ではどの程度の影響をもたらすのかは未知数である。
「殻の砕ける音を毎日のように聞きながら、この先のことについて考える日々が続いています」
二十世紀末頃、静都地方の若葉市在住の宇津木博士により、ポケモンは卵生にて子孫を残すという発見がなされた。精緻に取り纏められた報告書により、ポケモンはある一定の枠組みの中で、どちらかの親の原種となるポケモンの子を宿した卵を産むことが分かり、各界に大きな衝撃をもたらした。
この宇津木博士の報告が為されて以後各地でポケモンの卵の発見例が爆発的に増加、一年も経たない間に、ポケモンの卵はもはや何の新規性も無い、ごく普通に見られるものとなった。これは、各地域のポケモン・ブリーダーがポケモン間で卵を産ませるための手法・技術を迅速に確立し、ポケモン・トレーナーが積極的にそのサービスを利用するようになったことが最大の要因と見られている。これにより、ポケモンの卵は数を急速に増やしていった。そこで持ち上がってくる問題が、卵が無事に孵化した後に残る「卵の殻」の取り扱いである。
石竹市の処理場が処理しているのは、ポケモンの卵である。
ポケモンの卵の殻は、本来であれば時間と共に風化し、自然へ還元される。ところが、近年発達したポケモンの産卵ビジネスにおいて、ポケモンの排卵を促進するために使われている特殊な薬剤が使用されるようになった。薬剤について、ポケモン自体への副作用は無いことが臨床実験で既に証明されているが、別の副作用として「産まれた卵の殻の成分が変質し、自然に還らなくなる」という現象が発生することが判明した。
つまるところ、何らかの形で人為的に、卵の殻の処分を行わなければならないということである。
「処理すべき卵の数がどんどん増えて、都度処理場を増設していって……その繰り返しです」
宇津木博士の報告により、ポケモンは種族によらず、ほぼ同一構造の卵を産むことが分かっている。そのため処理場では、ありとあらゆる卵を一箇所に集め、ある程度の質量に達するとまとめて破砕するという処理方式を採用している。元々のポケモンの種類に依存せず同じ方式で処理できるため、処理場は単純な構造で高い稼働率を上げることができる。一つの処理場に十五台の処理機が配備され、現在稼動中の処理場は五つ存在している。総合計で七十五もの処理機が、ほぼ休むことなく処理を続けているのが現状である。
そこに及んでさらに処理場を建設し、加えてその処理場には旧来の倍以上の処理機を配備するという計画があることから、ポケモンの卵がどれほど凄まじい勢いで廃棄されているかが分かる。そもそも卵の処理場は石竹市にしか存在しないわけではなく、国内で合わせて三十箇所に上る処理場の中の、比較的処理能力の高いものの一つに過ぎない。国内の処理場はいずれも稼働率が限界に達しており、各地で新規の建設計画が持ち上がっている状態である。
ポケモンの卵の処理については社会問題の域を既に超えており、国家としてどのように対峙していくかが問われる大問題となっている。ポケモンの卵を取り扱う業者に課税を行い圧力を掛けるという政策を打ち出した政党もあったが、ポケモン・トレーナーの育成に力を入れる文科省を初めとする省庁が一斉に反発、即時の取り下げを余儀なくされた。ポケモン・トレーナーとそれに付随する産業の規模は国家の基幹を支えるほどにまで成長しており、何らかの不利益をもたらすようなことは「国が傾く」(文科省関係者)と完全に忌避されている。
今や国家に多大な影響をもたらすまでになったポケモン・トレーナー達は、何故卵からポケモンを孵化させるのか。ポケモンの卵を取り扱うポケモン・ブリーダーによると、卵から孵化したばかりのポケモンは、野性のポケモンに比べて成長の伸び代が大きく、戦いに向いた体質や能力を得やすいためという。単刀直入に言えば、野生のポケモンをそのまま捕獲するより、卵から孵化して手塩にかけて育てる方が強くなるということである。
先述の理由により、ポケモンに卵を産ませるサービスを利用するポケモン・トレーナーが後を絶たない。しかもその母数は各地域で年々増加の一途を辿っており、それに伴ってポケモンの卵の数自体も増えることになる。
止まらないポケモン・トレーナーの増加については、ポケモンに関わらない産業の深刻な空洞化やドロップアウトしたトレーナーの社会的地位の不安定さなどにより別方面からも早急な対策を求める声が上がっており、国は何らかの措置を講ずることが求められている。そのため、いずれトレーナー自体の増加には一定の歯止めが掛かると考えられているが、廃棄物の増加傾向が直ちに収まるものではないとする見解が根強い。
根本的・抜本的な解決策はなく、処理場の稼働率を上げて対応するしかないのが、廃棄されたポケモンの卵に係る問題である。
――そしてA氏は、今後持ち上がってくるであろう「ある問題」に対する、深刻な懸念を吐露した。
「新しい処理場は……もちろん、卵の『殻』も処理します。それは、これまでの方針通りです」
「それとは別に、新しい処理機を導入する予定があります。卵の『殻』ではなく、別の廃棄物を処理するためです」
「何の処理を行うか、ですか? それは――」
「ポケモントレーナーの人が捨てるのは……ポケモンの卵の『殻』だけじゃありませんから」
2012年〜2013年頃にかけて頒布した、ポケモン恐怖小説作品集です。頒布からだいぶ期間が経過したので、Web向けに公開いたします。
なお収録作品のうち、下記のものは公開済作品の再録のため、このスレッドでは公開しません。
●七八〇の墓標
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/780.html
●オブジェクト指向的携帯獣論
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/object.html
●私の世界
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/world.html
●壁はゆめの五階で、どこにもゆけないいっぱいのぼくを知っていた
→ http://fesix.sakura.ne.jp/novels/pokemon/collapse.html
昔々、サイユウの町は、ホウエンからやって来た偉いお侍が治めておったそうだ。
ホウエンのお侍は、サイユウの民に重い年貢をおさめさせて、朝から晩まで働かせ、たいそういばっておったということだよ。
そんなお侍が、ある日、村々の見回りをしておる途中に、草むらの中から「おい、おい」と小声で呼ばれたって。
お侍というのは、その辺りの村人が簡単に「おい」なんて呼んでいいお方じゃない。だからお侍が
「侍に向かってかように無礼な態度を取るとは、何奴か!」
とカンカンに怒って草むらに分け入ったらさ、なんとそこにいたのは人じゃなくて、大きな紫のハブのマジムン(サイユウでは昔、ポケモンのことをこう呼んでいました)だったんだよ。
ハブが口を聞くなんて、とお侍がおどろいたのもつかの間、ハブはお侍にこんな頼み事をしたって。
「お前さん、ちょうどいい所に来てくれた。今からわしは龍になるための準備をするから、そこで誰か来ないか見張っていてくれんかね。特に、白いイタチのマジムンが来たら、何としても追い返してくれんか」
お侍は、ハブの言うことを聞くなんて、と思ったが、しぶしぶとハブの言うとおりにした。龍ってものを、自分の目で見てみたい気持ちもあったんだろうね。それでハブを背にしてしばらく草むらに立っておった。
そうしたら白いイタチのマジムンがやって来て
「紫のハブを見なかったか」
とお侍に聞いたと。お侍はハブに言われた通り
「いや、見なかった」
と答えたら、白いイタチは不思議そうに首をかしげて、きた道を戻っていった。そうこうするうちに紫のハブは、立派な白い龍の姿に変わっておったって。
白い龍はお侍にこう言ったそうだよ。
「お前が見張ってくれたおかげで、わしは無事に龍になることができた。お礼にこの紫の刀をあげよう。これは、わしら紫のハブの一族が、白いイタチの一族と戦うためにずっと持っていたものだけれど、わしはもう戦うのにほとほと疲れてしまったのだよ。そういう理由で龍になるのだから、もういらなくなったこの刀をお前にあげるけれど、決してこの刀で生き物を切ってはいけないよ。龍からもらった刀だと言って見せればそれだけで人も獣も何でも言うとおりになるから、どうか切ることだけはしないでおくれよ」
お侍はこれを聞いて大喜びした。見せるだけで誰でも何でも言うことを聞く刀なんて、お侍にとってはすごいお宝だったろうね。だから
「わかり申した、約束、しかと守らせていただこう」
ときっぱりとした声で言ったって。
それで、白い龍は安心して紫の刀を置いて、天に登っていったんだよ。
紫の刀を持ったお侍は大いばりで、サイユウのある村へやって来た。そうしたら、お百姓たちが困り果てた様子で道ばたに座っておった。
お侍は
「どうしたどうした、さっさと畑仕事をせんか」
と、どなった。お百姓はお侍を見て、慌てて地面に頭をこすりつけながらこう言ったって。
「それがお侍様、鳥や獣や虫のマジムンが畑に次々やって来て、仕事にならんです」
「わしらもほとほと困っております。今すぐに追い出しにかかりますから、どうぞお許し下さい」
お侍はこれを聞いて、ははあ、ちょうどあの刀を使ってみるのにいいな、と思った。それから
「かっかっか、なんじゃ、そんなことならわしに任されよ」
と、大笑いをしながら、ゆうゆうと畑へ向かったって。
お侍は、この村の畑が全部見下ろせる丘へやって来た。なるほど確かに、トウキビの畑にも、イモの畑にも、いろんな鳥や獣や虫のマジムンが集まって、荒らし放題やっていた。
お侍は、龍にもらった紫の刀を天へ向かって抜き放ち、高らかな声で言ったって。
「獣よ、虫よ、鳥よ、これを見よ、これなるは天におわします龍神様よりいただいた刀であるぞ。この刀の持ち主のわしに逆らうことは、龍神様に逆らうことであるぞ。分かったらこの地から去れい」
そうするとね、あっちからピイピイ、こっちからギャアギャア、いろんなマジムンたちの騒ぐ声がして、鳥も獣も虫も、みーんな逃げてしまったって。
お百姓たちは大喜びして、
「お侍様、ありがとうございます」
とお礼を沢山言ったって。
さて、これだけならこのお侍は、いいことをしたと思うだろうね。でも、お侍は紫の刀をお百姓に向けて言ったって。
「お前たちもさっきの言葉を聞いていただろう。わしの言葉に逆らうことは、龍神様に逆らうことなのだぞ。分かったらさっさと働いて、畑を元に戻さんか」
お侍の言葉を聞いたお百姓の顔は真っ青になって、
「へへー、分かりました。すぐに畑仕事に戻ります」
と、みんな慌てて畑へ向かったって。
それでね、お侍は
「これは良い物を手に入れた。これでみんなわしの言うとおりじゃ」
と、とても気分を良くして、お城へ帰ったんだよ。
それからお侍は、龍からもらった刀でお百姓を無理やり働かせて、年貢をたっぷり取り上げた。
男も女も、オジイもオバアも、子どもや病気の人まで働かせたんだよ。
ひどいもんだねえ。
ところがある年、あちこちの村の畑にひどい病気がはやって、作物はみーんな枯れてしまったって。
お百姓たちは、年貢どころか、自分たちの食べるものにも困る有り様だったということだよ。
「お侍様、作物がみんな枯れてしまったので、どうしても今年は年貢が納められません。どうぞお許し下さい」
そう言って村のお百姓たちは泣いて謝ったけど、紫の刀を持ったお侍は許さなかったって。
「何としてでも年貢を納めないと、許さんぞ」
そう言って紫の刀を向けて怒ったけれど、お百姓は頭を地面にこすりつけて謝るだけで、なんにもならない。
いくらなんでも、何にもないところから年貢がわいて出てきたり、枯れてしまった作物がみるみるうちに元気になる、なんてことは、どんなに龍神様の刀を振りかざしても、無理な相談だったわけ。
お侍はカンカンに怒った。紫の刀でもどうにもならないことが、がまんできなかったんだろうね。だから
「ええい、こうなったらお前を殺して、村人へのばつにしてやるわい」
そう言って村の広場へお百姓を連れて行くと、縄でしばって、紫の刀を振り上げた。
するとそのとたんにね、空が雲におおわれて、嵐の前のような強い風がふいてきたって。
村人たちが
「なんだ、なんだ」
と不思議そうな顔をする中、お侍はあのハブのマジムンとの約束を思い出して、真っ青になったけれど、もう遅い。
ガラガラドッシャーン!!
ものすごいカミナリが村の広場に落っこちて、その真下にいたお侍は死んでしまったって。
それでね、お侍の服はこげていたけれど、側に落ちていたあの紫の刀だけは、きれいなままだったから、村人たちは
「ははあ、このお侍はこの刀を龍神様からもらったものだと言っていたけど、それは本当だったんだなあ」
「弱い者いじめをしてきたから、バチがあたったんさあ」
と、うわさしあった。
それでその刀は、村のお社にあずけられて、大切にまつられることになったということだよ。
あとがき
このお話では、ハブネークが白い龍になったということが伝わっています。
白い龍のポケモンといえば、ハクリューですね。昔、ポケモンの進化のことがまだよく分かっていなかった頃には、ハクリューの進化前のミニリュウというポケモンも見つかっていませんでした。だから、他の種類のポケモンが、修行をしてハクリューになるのだと思われていたのです。
このお話に出てくるハブネークは、紫色の姿をしていますが、その抜け殻はハクリューのように真っ白なのです。だから、昔の人は、ハブネークが修行をしてハクリューになるのだと考えたのかもしれません。
また、このお話では、サイユウの人々がホウエンからきたお侍に苦しめられる様子が書かれています。昔、サイユウやトクサネ、ムロといった島々は、ホウエンの領主に治められ、このお話のように重い年貢を払わされて、苦しい暮らしをしていました。サイユウやトクサネには、マジムン(ポケモン)の不思議な力を借りて、そうしたお侍をやり込めるお話が沢山残っています。このことから、サイユウの人たちがマジムンの力を敬っていたこと、そしてマジムンの力を借りてでも苦しい生活を抜け出したい、と強く願っていたことがわかります。
「泰さん、気づきましたか!?」
なんだ、ここは。
自分を取り囲む見知らぬ顔達、体育の授業を彷彿させる四方の景色。ガクガクと肩を揺すりながら自分に向けて話しかけてくる者がいるが、その名は他ならぬ父親を指すものであるはずだ。
それに、瀟洒な照明器具によく似た姿のゴーストポケモン。美しくも不気味な蒼色の炎を宿したそれは、数いるポケモンの中でも最も苦手な部類だった。父の相棒であるからという理由だけで、ポケモンに罪は無いというのは百も承知なところであるのはわかっているが、見たくないものは見たくない。
しかしどうして、それが至近距離に。理解出来ないことの数々に、リノリウム張りの床に腰を下ろした悠斗は頭が痛くなった。
「あ、あなたは……」
ようやく発した声は震えていたが、今の悠斗はそれどころではない。何もかもがわけのわからない状況なのだ。
だがその中で、唯一見覚えのある面影を見つけた彼の心に、少しばかりの安堵が浮かぶ。
「ああ、目が覚めましたか、泰さん!」
声をかけた相手である、先ほどまで自分を揺さぶっていた男はホッとしたような表情になる。そう、彼は今までに何度か見たことがある。悠斗は記憶の糸を手繰り寄せ、確か、確か、と脳の奥から情報を引っ張り出した。この、丸っこい童顔と苦労性っぼさが印象的な人は家にもいらしたことがある、父親のマネージャーとかいう、この世で一番大変そうな仕事に就いている男は確か……。
「そうだ、確か…………森田さん?」
「さ、『さん』……!?」
悠斗の台詞に、男ばかりでなく、周囲で様子を伺っていた他の者達まで驚きを露わにした。人だけではない、困った風に浮遊しているシャンデラでさえ、ギョッとしたように炎を揺らす。
「ええと、俺は……すみません。あの、ここは……」
しかしそんな反応も、そして自分の口から出た声が低く濁ったものであることにも意識がいかない悠斗は、痛む頭を押さえながら断続的な言葉を紡いだ。それにまたもや、皆が驚愕の表情を形作る。
「す、すみません……!?」「あの羽沢さんが……あの羽沢さんが謝った……」「しかも、こんなにスマートに……」ざわめきの内容はよく聞こえなかったが、彼らの不安そうな様子はただでさえ不安な悠斗をさらに不安にさせた。本当に何が起きているのか、と問いかけようとしたが怖くて聞けない。「ねえ、これヤバいんじゃ……やっぱり救急車……」数歩後ずさっていた女性が震える声で言いかける。が、彼女を制して動く影があった。
「いえ、もう少し具合を見てみます。泰さん、ちょっと休みましょう、いや、今日はもう帰りましょうか」
「あの……それはありがたいのですが、俺は……」
「すみません! 羽沢が体調不良のようですので、本日はこれで失礼させていただきます! 所長!」
口を開いた悠斗にまたしてもどよめきかけた周囲の声を遮るように、森田はシャンデラをボールに戻しながら早口で叫ぶと、「立てますか」と悠斗に手を差し伸べた。「おー、了解」離れたところで別のバトルを見ていた064事務所の所長が呑気に返事をした時にはすでに、悠斗は森田に腕を引かれながら歩かされていた。
「どうしちゃったんですか、泰さん。さっきから変だし、なんか気持ち悪いこと言い出すし……あ、いえ、別に泰さんがキモいんじゃなくってその、様子のおかしいのがキモいと言いますか……」
コートを出て、駐車場に向かいながら森田はぶつぶつと文句を言い、そして一人で慌ててごまかした。そんな彼の台詞の半分も頭に入っていない悠斗は「違うんです」と、弱々しい声で言う。
「俺は、泰さんじゃなくて……いや、何なんですか! 俺はあいつじゃない、俺は羽沢、悠斗だ!」
「はぁ?」
くぐもる声を裏返して叫んだ悠斗に、森田は丸い目を細くした。「そっちこそ何なんです、泰さんが冗談なんて、明日はヒトツキでも降るんじゃないですか」呆れたようにしつつも愉快そうに笑い、森田は自分の車の鍵を開けながら悠斗の肩をポン、と叩く。「ま、送っていきますから。今日は帰って、ゆっくり休んでください」
しかし、そんな森田の労いの言葉など、悠斗の耳には入っていなかった。
車のガラスに映る、自分の姿。ジグザグマみたいな森田の隣に位置するそれは確かに自分のものであるはずなのに、それでも、悠斗のものではなかった。
眉間に深く刻まれた皺。鋭く細い瞳。動きやすいよう短く切り揃えられた黒の髪。人当たりが悪すぎる人相。鍛えられてはいるがところどころに青筋の浮かぶ身体。
下ろしたばかりの灰色のジャケットと、気に入っている細身のパンツは姿形も無く、代わりに纏っているのは運動に適した、半袖のTシャツとジャージである。間違いない、この姿はどうしようもなく、一番嫌いで一番憎くて、自分が何よりも遠くありたかった――
「あの」
「はい。どうしました? 泰さん」
許しがたいその呼び名も、もはや否定することは出来ない。自分が父の身体になって、父がいるべきバトル施設にいるということは、本来の自分の身体は今何をしているのだろうか? 新たに浮かんだ疑問に、悠斗の脳はコンマ数秒で最悪の答えを叩き出す。
助手席のドアを開けて待っていた森田の丸顔に、悠斗は体温が一気に降下していくのを感じながら叫んだ。
「携帯! 俺の、早く!」
「何言ってんですか、もー。家ですよ家、いくら頼んでも『そんなものは必要無い』とか言って泰さんは携帯を携帯してくれないんですから、今日も――」
「じゃあ! じゃあ森田さん貸して!」
明らかに狼狽を顔に浮かべた森田だが、あまりの気迫に押されたらしく、笑顔を引きつらせて携帯を悠斗に手渡した。「ありがとうございますッ」その言葉に森田が硬直したのが視界に入ったが構ってなどいられない。
心拍が跳ね上がり、ガクガクと震える指をどうにか動かして、悠斗は自分の電話番号をタップした。
◆
「羽沢君!」
何が起こったんだ。
チカチカする視界が徐々に晴れていく中、泰生はぼんやりとそんなことを思った。
頭が痛い。低く響いているような鈍い衝撃が、脳の奥から断続的に与えられている。キーン、と耳鳴りがして、彼は思わず頭部に自分の片手を当てた。
「よかった、気がついて……羽沢君、少しの間だけど、気失ってたんだよ。やっぱり疲れてるんじゃないかな」
目の前にいる男がホッとしたように喋っている。眼鏡のレンズの向こうにある穏やかそうな瞳に見覚えは全く無い。そうそう珍しい外見というわけでは無いからその辺ですれ違うくらいはしたかもしれないが、少なくとも、こんな慣れたように話しかけてくる仲ではないはずだった。
では、こいつは誰なのか。倒れていたらしい自分を支えてくれていた、その見知らぬ人物の腕から立ち上がって泰生は口を開き掛ける。言うべきことは二つ、お前は誰か、と、先ほどまでしていたバトルはどうなったのか、だ。
「今日はもう帰って休んだ方がいいよ。とりあえず、さっき富山君たちには連絡いれたからさ。ゆっくりして、貧血とかかもしれないし」
が、泰生が言おうとしたことは声にはならなかった。
何だ、これは。泰生の目が丸くなる。起こした身体がやけに軽い、いや、軽いを通り越して動かすのに何の力を入れなくても良いくらいだ。また、耳の聞こえも変に良く、一人でぺらぺら話している男の声は至極クリアに聞こえてくる。
それにここはどこなのか、天井はかなり低く圧迫感があり、四方を囲う壁には無数の穴が開いていた。酷く狭苦しい室内にはあまり物が無く、古臭さを感じる汚れた絨毯は所々がほつれて物悲しい。座り込んだ自分の横で膝をついている男の後ろには、黒々としたピアノが一台。コートにはあるはずもないそれに目を奪われ、泰生は、視界に広がるその風景が不自然なほど鮮明に見えることまで意識がいかなかった。
視線をさまよわせ、固まっている泰生を不審に思ったのだろう。白いシャツの男が「ねぇ、羽沢君」と軽く肩を叩いてくる。
「大丈夫? 医務室とか行った方がいい? どこか痛むところとかあるかな、頭は打ってないはずだけど……」
「いや、俺は――」
そう言いかけて、泰生はまたもや驚愕に襲われた。口から出た声が、いつも自分が発しているものよりもずっと高く、そしてよく通ったのだ。口を開いたまま硬直してしまった泰生に、男はどうして良いかわからないといった様子で困ったように瞬きを繰り返す。「もう少しで富山君達来るから……」戸惑交じりの声が狭い部屋に反響した。
「悠斗!!」
その時ちょうど、簡素な扉が勢いよく開かれた。飛び込んできたのは長い前髪が片目を隠している若い男で、泰生は彼に見覚えがあった。詳しいことも名前もわからないが、家に何度か遊びに来ているのを見たことがある。確か、息子である悠斗の友人だったはずだ。
よく知っているというわけではなくとも、面識のある者の登場に泰生の心がいくらか落ち着く。彼に続いて扉の向こうから顔を覗かせた他の若者達には残らず憶えがないが、それでも心強さは認めざるを得ない。
「ああ、富山君! あのね、羽沢君なんだけどちょっと調子やばいっぽくて……」
「ありがとうございます芦田さん、悠斗、大丈夫か? 悠斗が倒れたって聞いて――」
「悠斗?」
白いシャツの男に短く礼を言った若者が自分に向けて手を伸ばしてくる。が、泰生は彼の言葉を遮るようにして問いかけた。「悠斗、って、なんだ」若者始め、自分を見つめる全員がピタリと動きを止めるのを無視して尋ねる。
「何故、俺を悠斗と呼ぶ? 俺は羽沢だが……悠斗じゃない」
「え、羽沢君……? ホントどうしちゃったの?」
「それに、誰だ、お前は?」
その質問に、今度こそ皆の表情が凍りついた。信じられない、そんな気持ちを如実に表した顔になった白シャツの男が、陸に打ち上げられたトサキントのように口をパクパクさせる。
そんな中、最初に動いたのは泰生の腕を掴みかけていた若者だった。すっ、と目の色を変えた彼はそのまま泰生を強く引っ張り、無理に立ち上がらせて歩き出した。
「すみません。こいつ具合悪いっぽいので今日は帰らせます。俺も送っていくので。では、お疲れ様です」
「え!? 富山、ちょっと……」
「おい、俺の話を聞――」
サークル員や泰生の声など全く構わず、一礼した彼は素早い動きで扉を閉めてしまう。バタバタと足音を響かせて部屋から出ていった二人を呆然と見送り、取り残された者達はぽかんと口を開けたまま固まった。「何なんでしょうアレ……樂さん、何があったんです?」「さぁ……」流れについていけなかった軽音楽サークルの面々はしばらくの間、そこに立ち尽くすことしか出来なかった。
「よくわからないのは富山だけだと思ってたけど、羽沢もなかなかエキセントリックだな」
「だな。悪いものでも食ったのかな」
中でも一層呆然状態なのがキドアイラクのベースとドラムである有原と二ノ宮で、彼らは泰生達の走り去った方向をぼんやり見つめて言葉を交わす。
「極度のポケモン嫌い以外は普通のヤツなんだけど」
「それな。ま、変なのはお前の髪型の方が上だけどな」
「うっせー。誰が出来損ないのバッフロンだ」
「言ってねぇよ」
「芦田ー、ここ使わないなら俺達借りちゃっていい? 今度の月曜と交換でさー」「え? ああ、いいよー、ごめんね。ありがと!」漂っていた困惑もにわかに霧散し、日常へと戻っていくサークル員たちを背にして、話題を強引に変えたかったらしい有原は二ノ宮の天然パーマを無意味に小突いたのだった。
「いい加減話を聞け! 質問に答えるんだ、お前は誰なんだ!? ついでにここはどこで、どうなってるのかも!」
富山という名前らしい、不躾な若者に腕を引かれながら泰生は何度目かになる疑問を叫び声にする。壁には所狭しとビラが貼られ、黒ずんだ床のあちこちにゴミが落ちているこの廊下がどこのものなのか全くわからない。ごちゃごちゃと散らかった印象が、こんがらがりそうな泰生の頭をさらにイライラさせた。
しかし気が立っているのは富山の方も同じだったらしい。階段を半ば駆け上がるようにして昇りつつ、前方を行く彼は「何言ってんの」と尖り気味の声で言う。
「そんな冗談、気持ち悪いんだけど。やめろよ悠斗」
「冗談だと? 真面目に聞け、冗談なんか言ってない! 俺は悠斗じゃない、羽沢泰生だ!」
「なんでよりによってそのモノマネなんだよ。普段あんななのに、どうして急にお前の父さんが出て来るんだ?」
「モノマネなんかじゃ――」
そこで、泰生の声が途切れた。
もはや富田のことなどどうでもよく、彼は全身の血が一気に冷え切るような心地を覚えて身体を固まらせる。腹に据えかねて叫んだ拍子に揺れた髪が目にかかり、鬱陶しいと苛立ちながら手で退けたのだが、そこで気付いたのだ。
短髪の自分には、目にかかる髪などあるわけないのだと。
それだけではない。泰生を待ち構えていたのはさらなる驚愕だった。階段を昇りきったところにあった窓ガラス、暗くなりかけた外と廊下を隔てるそれには富田と、そして恐らく自分と言うべきなのであろう姿がはっきりと映っている。
「…………な、」
「『な』?」
「何だ、これは!!」
窓ガラスにベッタリと張り付き、泰生はそこに映った自分に向かって叫び声を上げた。廊下を歩いていた学生達がギョッとしたように見てくるが、そんなものに構ってはいられない。鬼気迫る泰生の雰囲気に怯えたらしい、女子学生の連れていたポチエナが、ガルルルル、と唸り声をあげて威嚇した。それにもはや気づいてすらいない、ガラスを割らんばかりに押し付けた泰生の指がワナワナと震える。
整えられた眉。明るい茶色に染められた頭髪。少年らしい印象を与える二重まぶたの両眼は、自分の妻のそれにそっくりだ。取材の撮影以外では袖を通さないジャケットの間に揺れるのは、泰生は生まれてこの方つけたことなど無いであろう、ペンダントの類である。驚きを通り越してこちらを見ているのは、街頭や雑誌にごまんといそうな、ありふれた若い男だった。
間違いなかった。そこに映っているのは、すなわち今の自分の姿は、間違い無く自分の息子、悠斗のものだ。ロクに口を聞いてもいない、勘当してやるべきかと真面目に考えるほどの馬鹿息子が、自分の見た目となってそこにいた。足の裏から絶望と、混乱と、そして激しい憤怒が這い上がってくる。その足さえも今は自分のものではない、他ならぬ息子のものなのだ。
「何が……何が、どうなってるんだ」
力無い、高めの声が口から漏れる。隣で黙って立っていた富山が、泰生の様子に前髪の奥の目を少しだけ細めた。一瞬の逡巡をその瞳に浮かべた彼は、「とりあえず」と泰生の腕を軽く引く。
「ここじゃなくて、もっと人の少ないとこに……冗談じゃ無いのはわかったから、まずは」
「おい、何だこれは! どうなってるんだ、なんで俺がこんなことになった! 俺は、……俺は今、何してるんだ!?」
「そんなこと、俺に聞かれても困ります。まずはここから離れて、どこかに連絡を……」
苛立ったように富山が言ったその時、泰生の、正確には悠斗のジャケットのポケットから明るい音楽が鳴り響いた。「電話ですよ」何事かという風な顔をする泰生に富山が伝える。「出た方がいいと思いますが」
「何だ!」
あたふたと携帯を操作し、電話に出た泰生は怒りを隠しもせずに通話口へと叫ぶ。傲岸不遜なその声に、富山がチッ、と舌打ちした。
『おい! 俺だ、俺! 俺だろ!? 俺は今何やってるんだ、俺! どこにいる俺』
「誰だお前は! 切るぞ!!」
間髪置かずに電話の向こうから叫び返してきた珍妙極まりないセリフに、泰生も負けじと叫んで通話終了ボタンをタップする。その行動に目を剥いた富山が「かけ直せ!!」と激昂したのに、成り行きを見守っていた学生及びそのポケモン達はビクリ、と各々の身体を震わせたのだった。
◆
キィィ、と音を立て、森田の運転する車カラオケ店の駐車場に停まる。平日の夜とはいえそこそこ繁盛しているらしく、駐車場は三分の二ほど埋まっていた。隣に停まった車の上で寝ていたらしい、ニャースが軽やかに飛び降りて暗がりへ消える。
自分の携帯にかけた電話は一度目こそ酷い態度で切られてしまったが、程なくしてかけ直されてきたものとは話がついた。電話口の向こうで話しているのは友人の富田で、落ち着いたその口調に、どうやら自分の身体は無事らしいことが伺えて悠斗はホッとした。が、同時に、「ややこしくなるから僕が話をしましょう」と代わってくれた森田に電話を渡すなり「おい、森田か!? 今どこにいる!」と偉そうな声が響いてきて、最悪の予想は現実となってしまったであろうことに絶望したのもまた事実である。
とにかく通話の相手と話をつけて、いや、正確に言うと話をつけたのは森田と富田だが、悠斗はタマ大近くのカラオケ店に来ていた。『カラオケ BIG ECOH VOICE』の文字列と、暑苦しい感じのバグオングのイラストが並ぶ看板をくぐって店内に入る。「連れが先に来てるはずでして、はい、富田という名前で入ってると思います」手早く受付を済ませてくれた森田の後について、「じゃあ行きましょうか、泰さ……じゃなかった。悠斗……くん?」未だに混乱したままの彼と共に店の奥へと向かう。
「なぁ、アレって羽沢泰生だよな!?」
「やっぱり! だよねー! え、マジびっくりなんだけど!? ツイッターツイッター……」
「バカ、そういうの多分ダメなやつだろ? プライベートだよ、プライベート」
「あ、そうか。でも意外ー、あの羽沢もカラオケなんか来るんだねー」
本人達はないしょばなしのつもりらしい、一応落とされた声が悠斗の背中から聞こえてくる。その会話に、やはりこの姿は自分だけの見間違いなどではないのかと悠斗の気は一段と重くなった。「いやー、なんというか、泰さんと一緒にカラオケとか変な感じだなー。あ、泰さんじゃない、のか……?」沈黙に耐えかねたらしく、一人で喋っている森田も調子が狂っているようだ。
「あ、ここです。202号室、ソーナンスのドア」
突き当たりにある部屋の扉を指差して森田が言う。ソーナンスの絵札がかかったそれを目の前にして、悠斗は一瞬だけ躊躇った。開けた先に待っているのは、きっと考え得る限りで一番の絶望だろう。背を向けて引き返したい気持ちがないかと問われれば、それは嘘になる。
しかしそうしたところで何も解決するわけではなく、悠斗は仕方無しにドアノブへと手を伸ばす。節くれ立った右手に一度深く呼吸をし、ええいままよ、と勢いよくノブを回した。
「…………俺、だ」
「……誰だ、……お前は」
そして足を踏み入れた、狭い個室。そこにいたのは――ある程度予想していたものではあるが、それでも実際目にすると受け入れがたい――そんな光景だった。
「おい、お前は誰だ!? それは……それは俺の身体だ! 返せ、今すぐにだ!」
「そっちこそ返せよ! どうせお前なんだろ? 今も、さっきの電話も。あんな偉そうな話し方する奴、お前しかいないからな」
「お前とは何だ! 偉そうなのはお前の方だ、まずは名を名乗れ! 自己紹介はトレーナーの常識のだろう!?」
「トレーナーなんかじゃねえよ。……わからないのかよ、本気か? 見りゃわかるだろ、俺とお前がこうなってて、お互いこの状況。考えられるのなんて、」
その先を悠斗が言うよりも先に、悠斗の見た目をした誰か、と言ってもこんな不遜な態度を取ってくる相手は悠斗が知る限りそう何人もしないが、とにかく悠斗の身体が息を呑んだ。「まさか」ようやく気づいたらしいそいつが唖然とするのを見て、自分は驚く時こんな顔をするのか、と悠斗は場違いな感情を抱く。
「と、いうことは」悠斗の身体が言った。「じゃあ、俺は…………俺と、お前は」血色を失いかけた唇を震わせて、悠斗の身体が呟く。「悠斗、……お前と俺は、入れ替わったのか?」
「…………そういうことになるな」
「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ!」
フシデでも噛み潰したような顔で答えた悠斗の声を遮って、ぶっ飛んだ会話に取り残されていた森田が慌てて口を開く。互いに叫び合う、中の悪さは先刻承知な親子を不審に思いつつも邪魔しない方が良いだろうと考え、「あ、初めまして、羽沢泰生のマネージャーの森田良介と申します」「どうも。悠斗の親友です、富山瑞樹です」「そうか、悠斗くんの!」などと、先に個室にいた青年と自己紹介などをしていたのだが、いよいよ会話が聞き捨てならなくなってきたのだ。
「待ってください、『入れ替わった』……!? 何を言ってるんですか、親子揃って。いつからそんなに仲良くなったんです? まあ、それは結構なことですけど……」
無理に作ったのであろう苦笑を浮かべ、そんなことをのたまう森田に、羽沢父子は揃ってお互いの顔に嫌悪を示した。「こんな馬鹿げたことを俺がすると思うか」「そうですよ、冗談にしてももっとマシな冗談を言います」二人が苦々しげに否定するも、あまりに非現実なその言い分に森田は呆れ混じりに溜息をつくだけである。泰生は勿論、悠斗のことも十年ほども前からの付き合いでよく知っているが、両者ともこんなことをする性格では決してない。「お二人ともなかなか似てるとは思いますが」適当な講評を述べながら、彼が頭を掻いた。「急にボケるのは心臓に悪いんでやめてくださいよ」
しかし、泰生(もっとも外見は悠斗だが)の横でやり取りを見ていた富田は、森田と違って神妙な顔つきになっていた。「何故こんなことになってるのかはまではわかりませんが」泰生と、悠斗を交互に見比べて富田が静かに言う。
「悠斗たちが言ってることは、冗談でも嘘でも勘違いでも無いでしょう。2人の言う通り、こっちが悠斗で、こっちが羽沢泰生。お互いに入れ替わってるんですよ」
「はっ…………え、あ……えええ!?」
「おい、悠斗。なんでこいつはこんなに飲み込みが早いんだ」
「富田は霊感というか、そういう類のモノを察する力があるらしいからな。だからわかったんだろ。霊とか呪いとか、前からよくそんな話聞いてるし」
「いや、今はそんなことはどうでもいいでしょう!!」
ぴ、ぴ、と羽沢親子を指し示した富田を見遣って話す二人の会話を遮り、森田はバン、とテーブルを叩いた。ビニールがかけられたままのマイクがカタカタと音を立てる。どうでもいい、と言われた富山が前髪の奥の眉をひそめたが、そんなことにまで気を回せ無い森田は丸顔に冷や汗を浮かべて叫ぶ。
「そんな馬鹿なことが……ねぇ、泰さん。そろそろ悪ふざけはやめてくださいよ、それに、こんなお茶目なことは僕の前だけじゃなくて事務所のみんなにも見せてあげてください。みんな泰さんのこと怖が……」
「うるさい!! 俺はこっちだと言ってるだろうが!!」
引きつり笑いで悠斗(見た目は泰生であるが)の肩などを軽く叩いた森田を、泰生が鋭く怒鳴りつけた。その声は悠斗のものであり、高いがとてもよく通る、音圧の高いそれに森田はびくりと震えて動きを止める。泰生の低い声にもなんとも言えない畏怖があるが、日々歌うことに熱を注いでいるだけあって、悠斗の声には恐ろしいまでの迫力があった。
アーボックに睨まれたニョロモ状態の森田を呆れたように一瞥し、富田が「じゃあ、確かめてみましょうよ」と提案する。「悠斗じゃなければわからないような質問に、こっち……悠斗のお父さんに見えるこっちが答えられて、その逆も出来たら。本当に入れ替わってるってことになるでしょう」
「あ、なるほど……それは名案ですね」
「よし、富田、何か質問してみろ。なんだって答えてやる」
「じゃあ……悠斗の好きなバンド、『UNISON CIRCLE GARDEN』の結成日」
「2004年7月。ただ、今の名前になったのは9月25日」
「今年5月にリリースされたシングルはオリコン何位までいった?」
「週間5位。で、それはCD。ダウンロードは首位記録だ」
「ドラムの血液型」
「Aだ!」
「…………全問正解。覚悟はしてたけど、最悪」
「すごい……確かに泰さんじゃこんなことわかるはずないですね」
自信満々に答えきった悠斗に、微妙な表情の富田が溜息をつく。そんな彼らを他所に感心する森田を見て、黙って話を聞くしかなかった泰生が「おい、森田!」と不機嫌な声をあげた。こんなことわかるはずないと言われたのが嫌だったのか、自分の知らないことを自分がぺらぺらと答えているのが気に食わなかったのかはわからないが、彼は怒った表情のままで言う。「俺にも何か聞いてみろ、こいつの知らないようなことを」
どうせポケモンのことなどわかるまい、そう言い捨てた泰生に、悠斗は明らかにムッとした顔をしたが黙っておくことにする。「わかりましたよ……では、」森田が少し考えてから口を開いた。
「泰さんの顔が怖いという理由で、獣医の里見が泰さんにつけたあだ名は?」
「わるいカメックス」
「泰さんが怒ってる様子がこれに似てると、酔った重井がうっかり口を滑らせたのは何?」
「……げきりんバンギラス」
「泰さんを勝手に敵視してる『週間わるだくみ』の先々月号で、泰さんをこき下ろした記事の見出しに書かれてた悪口は?」
「…………『特性:いかくで相手ポケモンのこうげきをダウン、手持ち以外での戦闘は反則ではないのか!?』」
「泰さんの……」
「馬鹿野郎!! なんでそんなくだらんことばかり聞くんだ、もっとあるだろ、バトルの戦法とかトレーニングのコツとかスパトレの問題点とか俺がよくわかること!!」
耐えきれずに激昂した泰生から耳を塞ぎつつ、「だって泰さんといえばこういう感じですから」などと森田は言葉を濁す。その横で、そんな酷い言われようをされている見た目を今の自分はしているのか、と悠斗が絶望に暮れていたが誰も気づかなかった。
「………………なるほど。確かに、これは泰さんですね。じゃあ、お二人はお二人の言う通り本当に……」
森田はそこでようやく、泰生と悠斗の精神がお互いに入れ替わってしまったらしいこと自体には、なんとか納得したらしい。しかし当然それだけで終わるはずもなく、「いや、でもやっぱり待ってくださいよ!?」と何度目かの叫び声をあげる。
「人の……なんだ、ええと……心? それが入れ替わる? そんな、ドラマや漫画みたいなことが本当に起こるわけ、」
「起こるんですよ。勿論、真っ当な方法というわけじゃありませんが」
そもそも、こんなことに真っ当なやり方自体無いんですけどね。泰生と悠斗から森田へと視線をスライドさせ、すっと口を挟んだ富田は続ける。
「端的に言うならば呪術の類です。誰かが悠斗達のことを呪ったんですよ、二人からそんな気配がかなりしてますから。どういう呪いかは僕じゃわかりませんけど」
「何だ富田。『そんな気配』って?」
「呪われてるなー、とか、祟られてるなー、とか。あとは憑いてるなぁ、みたいな気配のこと。でもおかしいな、悠斗は前からずっと、一度もこんな気配しなかったのに」
「そうなのか?」
「そうだよ。多分体質というか、生まれ持った何かで、そういうのが通用しないんだ。……だから、全く通じないタイプだと思ってたんだけど。一体どうやって」
富田の話に必死について行きつつも、森田は「泰さんにも通用しなそうだな」ということをぼんやり考えた。
「いや、それは今置いておきましょう! 呪われた……って、誰に! 何の目的で! それで……どうやって!!」
頭を抱えて叫ぶ森田に富田が、結局聞くんじゃないか、と言いたげな目をして口を開く。
「悠斗の体質をどう破ったのかまではすぐにわかりませんが、呪術自体はそれほど難しい話でもありません。もっとも普通に違法まっしぐらですし、自分も何かしら犠牲にしないといけないから、表立っては言われてませんけど」
「え、そうなの……?」
「図鑑に書いてあるでしょう? ゴーストタイプやあくタイプ、エスパータイプは特に多いですけど、本当にこんなことするのかって思うような、恐い能力。ゲンガーとかバケッチャとか……」
「ああ、あの……命を奪うとかのヤツですか?」
「はい。実際のところ、アレは『こういうことが出来るのもいる』というだけで、その種族全てのポケモンがああするわけではないですけどね。そうだったら堪ったものじゃない……けど、『それを可能にする』ということは出来るんです。ポケモン自身だけでは引き出せない潜在能力を、外から引っ張りだすようなものでしょうか」
ポケモンを使った呪術と言えばわかりやすいでしょうかね、という富田の説明に、三人のうち誰かが生唾を飲む音がした。「心を交換するような力を持ったポケモンがいるかどうかは今すぐ思い出せませんから、後ほど専門家にかかりましょう」淡々とした声に一抹の焦りを滲ませて、富田は言う。
「ポケモンが自分で勝手に力を使うのとは話が違いますから、ある程度その力の矛先を操作することも可能です。どう使うのか、誰に向けるのか……昔から使われてきた術ですね」
「使われてきた、って……じゃあ、それは誰にでも出来るってことなんですか!? 泰さんのシャンデラも図鑑上ではなかなか怖いポケモンですけど、あのシャンデラの力を操って、誰かを呪い殺すみたいなことも!?」
「不可能とは言いません。ただ、素質や技量が必要ですから『誰にでも』というわけではありませんよ。サイキッカーやきとうしなどは、ある程度、そういう能力を持った人が就けるトレーナー職です。元の力は弱くても修行でどうにかなる人もいるにはいますが、生まれつきのものもありますから……」
そこで富田は言葉を切ったが、森田は彼が何を言わんとしたかを大体察する。富田の視線の先にいる泰生や悠斗はわかっていないようだったが、シャンデラのトレーナーである彼、もっと言うなら彼ら親子にそんな力が備わっているようには見えなかった。物理重視のノーマル・かくとう複合タイプのイメージを地でいくような男なのだ、いくら修行しようとしたところで、呪術の『じ』の字も使えないだろう。
生産性の無い思考は隅に頭の追いやって、森田は「それはわかりましたが」と話題を変える。
「最悪の奇跡っていうわけじゃなくて、下手人がいるってことは、まあ、理解しました。でも誰が? こんなことをしたのは一体誰なんですか?」
誰に向けたともつかない森田の問いに、泰生以下三人は黙り込む。各々の脳内で各々の交流する者達の顔が次々に浮かんでは消えたが、人の精神を入れ替える呪術などという芸当が使えそうな存在に心当たりは無かった。
「直接やったわけじゃなくても、専門家に依頼して呪いをかけさせたという可能性もなくはありません」
「どうせお前がどっかで恨みでも買ってきたんだろ。バトルもそうやって偉そうな態度でやってんなら、嫌われて当然だぜ」
「おい、なんだ悠斗その口の利き方は――」
「泰さん、今は喧嘩してる場合じゃないですよ。それに悠斗くんも。大体、泰さんくらいの活動してたら恨みの一つや二つ、十個や百個、無い方がおかしいですって」
「それは多すぎでしょう……まあ、確かに。俺だって全く、世界の誰からも恨まれてないかって言われたらそれは違うしな」
諦めたように頷きながら悠斗は言う。プロを目指して音楽をやっている以上、ライバルの存在は当然のものだ。そのバンド達が、悠斗らを疎んでこんなことを仕掛けてくる可能性もゼロではないだろう。
「でも、そんなこと言ってたら埒があきませんね」森田が『お手上げ』のポーズを取る。「泰さんや悠斗くんを恨んでそうな人を全員調べていくなんて、ヒウンシティで特定のバチュル探すようなものですよ」
「それは、後で専門の人に頼みます。知り合いにその筋がいるので、調査は任せた方がいいでしょう。それよりも」
森田の言葉に割り込むようにして、富田が声を発した。
「今考えなきゃいけないのは、悠斗と、羽沢さん。元に戻れるまではお互いがお互いのフリをして、お互いの生活をこなさないといけないってことです」
富田の指摘に、羽沢親子と森田の表情が固まる。あまりの衝撃から意識を向けられないでいたが、確かに一番重要なことだった。しかし泰生と悠斗は、職業トレーナーと学生という肩書きの違いから始まって、何もかもが正反対の日々を送っていたのだ。それを入れ替えて過ごすなど、不可能といっても過言ではない。
「で、でも」黙りこくってしまった親子の代わりに森田が焦った声で反論する。「こんな一大事なんですから、警察とかに言うとかするべきなんじゃないですか。そんな、隠すようなことしなくても……」彼の言葉に、しかし富田は苦々しく首を横に振った。
「勿論、そうするのがベストです。でも、信じてもらえるかわかりませんし……それに、タイミングが」
「タイミング?」
「今、そんなことが明るみに出たら俺たちの……ライブ出演をかけたオーディションが来月あるんですけど、当然、それは無理になってしまいます。羽沢さんも同じですよ。リーグの申し込みはもう終わってるんでしょう? 出場資格の無い悠斗が中にいるだなんてことになったら、あるいは悠斗の見た目をしていたとしたら、リーグに出られませんよ」
畜生、と泰生が歯噛みする。自分の外見をしたその様子を見遣り、悠斗は内心で悪態をついた。
富田の言う通り、きっと自分達にとれる手段はそれしか無いのだろうという、漠然とした、かつ絶望的な確信が悠斗にはあった。きっと、犯人の狙いはそこなのだ。殺してしまったりすると大事になって足がつくだろうから、この、悠斗達自身が隠してしまえば逃げ切れるであろう類の攻撃を仕掛けてきたのだ。それでいて被害はかなり大きく、同時に隠さざるを得ない時期である。非常に狡猾、かつ悪質な罠であった。
「やるしか無いだろ」低い声で呻いた悠斗に視線が集まる。「俺と、こいつとで。互いの生活ってのを」
「何も出来なくて共倒れなんて、こんなことしたヤツの思う壺にはなりなくねぇよ。少なくとも、俺達にある大きな予定まではあと一ヶ月弱あるんだ。それまでには戻れるだろうし、もし戻れなかった時に備える意味でも、それぞれにならないといけないだろ」
「だが、悠斗。お前わかっているのか? 俺はポケモントレーナーだ。ポケモンと力を合わせ、共に進む人間なんだ。ポケモンが嫌いだとか、そんなことを言ってるお前に務まるわけないだろう、甘えたことを抜かすな!」
「そんなこと言ってる場合じゃねぇんだよ!!」
叫んだ悠斗に、泰生は思わず言葉を失った。凄んでみせる顔は自分のものではあったが、言いようのない迫力に満ちており、彼は不本意にも日頃自分に向けられる不名誉なあだ名の数々に同意せざるを得なかった。
「それは俺だってわかってる。……けど、他にどうしようもないんだから、やるしかないんだ。俺がお前みたいに、ポケモンと協力してバトルをする。お前は俺みたいに、ポケモンと極力関わらない生活をする。そうするしか、ないだろ……」
「…………お前に、出来るのか。俺の生活が」
「何度も言わせるな。やるしかないんだよ。お前こそ、俺の顔で、俺の顔に泥塗るようなマネするんじゃねぇぞ」
どうにか話はまとまったらしいものの、未だ睨み合ったままの親子を眺め、森田は重く嘆息した。この、ザングースとハブネークもかくやというほどの仲の悪さである彼らが久方ぶりに交わしたであろうまともな会話がこんなものになるだなんて、一体誰に予想がついただろうか。
疲れきった顔の森田の横で、富田が思案するような表情を浮かべる。
「じゃあ、さしあたって、悠斗には森田さん、羽沢さんには僕がついてサポートするということでいいんじゃないですか? 森田さんは羽沢さんのマネージャーですから一緒にいて不自然ではありませんし、僕も悠斗と授業、サークル同じですから」
「どうするよ。このこと、二ノ宮とか有原に言った方がいいかな」
尋ねた悠斗を富田は手で制した。「余計な混乱招くのもよくないし、今のところは黙っておこう」その言葉に森田も頷いた。「ですね。とりあえずは、僕たちだけに留めておきましょうか」
「問題はポケモン……泰さんのポケモン達にどうわかってもらうか、ですね。他の人達はごまかせても、こっちは……」
言い淀みながら、森田が悠斗のベルトにセットされたモンスターボールの一つを取ってボタンを押す。中から現れたのは先ほどバトルを中断されたシャンデラで、カラオケボックスなどという、生まれて初めて(ゴーストポケモンである彼に『生まれた』という表現をするのが果たして適切か否かということは今は考えないことにする)訪れる場所を物珍しそうに見回していた彼は、その視線が一点に定まるなり浮遊する身体をびくりと震わせた。
「なっ……どうしたミタマ! 確かに今はこの見た目だが、俺だ! お前のトレーナーの泰生だぞ!?」
その視線の先、じっとりとした目を向けられた泰生が物凄く狼狽えた声をあげる。しかしシャンデラからしてみれば今の彼は悠斗――日頃『泰生のポケモン』という理由だけで自分を目の敵にしてくる嫌な奴――なのだ。つつ、と距離を置くような動きで天井に逃げていったシャンデラに、泰さんはこの世の終わりかのような顔をする。
「ミタマ、あのですね、今の泰さんは悠斗くんで、悠斗くんが泰さんなんですよ」ダメ元で森田が説明してみるが伝わるはずもない。しかしトレーナーである泰生(中身は悠斗だが)が苦い顔をして自分を見てくることなど、なにやら様子がおかしいことは察したらしく、シャンデラは困った風に皆を見下ろして炎を揺らした。
「なかなか理解はしてもらえないでしょうね……お二人には、大変ですが、ポケモン達の調子を狂わせないように振舞っていただかないと……」
「失礼しまーす、お飲物お持ちいたしましたぁー」
と、間延びした声でドアを開け、アルバイトと思しき若い女が個室に入ってきた。慌てて口を噤んだ悠斗達に、「ちょっとお客さんー、当店はポケモンご遠慮いただいてるんでー」と言いつつ、雑な手つきでテーブルに飲み物を並べていく。そそくさとシャンデラをボールに戻す森田の脇を通り、ごゆっくりどうぞー、という言葉を残して彼女は素早く出ていった。
ガチャ、とドアが閉まる音がするのを確認して、誰からともなく溜息をつく。今から待ち受けているであろう数々の苦難がどっしりと背に重く、四人はそれぞれ受付時に頼んだ飲み物に手を伸ばした。
日頃好んで飲んでいるブラックコーヒーに口をつけた悠斗は、コップを傾けるなり激しく咳き込む。口内を駆け巡った苦味、いつもならばこれほどまでに強く感じないはずのそれに目を白黒させていると、「ああ、悠斗くん、これをどうぞ」ウーロン茶を飲んでいた森田が鞄から取り出した何かを差し出してきた。どうやら自前で持ち歩いているミルクとスティックシュガーらしいそれを、「泰さんは甘党ですから。ミルクを3つと、砂糖2本。いつもそうです、おくびょ……じゃなかった、ともかく、辛いのも駄目なんで」と言いながら悠斗へと手渡す。
「身体に染み付いた感覚はそのままなんでしょうね」父とは真逆で、甘いものが苦手な辛党の悠斗の身体でココアを飲み、同じく咳き込んでいる泰生を横目に富田が言った。彼の持ったコップの中で、コーラの炭酸の泡が弾けては消えていく。「好みとは別で」そう呟いた森田の、前髪越しの視線が、テーブルの上のモンスターボールに向けられたことには誰も触れなかった。
「しかし、エライことになってしまいましたね」
力の無い、森田の言葉がカラオケボックスへ溶けていく。テレビから流れてくる、場違いに明るいアーティスト映像に掻き消されそうなそれに答える者がいなかったのは、不本意な賛同からくる沈黙であったのは言うまでもない。
「俺達……どうなっちゃうんだろうな」不安気にそう漏らした悠斗の肩を、富田がグッと掴む。
「安心しろ。悠斗が困ったら俺がどうにかするし、羽沢さんのことも俺が見てるから。悠斗は心配しなくていい」
「瑞樹…………」
「そうです。僕も泰さんのため、精一杯サポートしますから!」
熱い友情の言葉を交わす二人に便乗し、森田も「ねっ、泰さん」と笑いかけた。が、それは泰生の見た目をした悠斗であったようである。「馬鹿森田。そっちは俺じゃない」悠斗の姿である泰生の冷たい声を横から飛ばされた森田は、「すみませんでした」と小声で言いながら、三者の突き刺さるような視線に身体を縮こまらせたのであった。
ポケモンリーグ。
それは、ポケモンバトルの王者を決する聖なる戦いだ。
王の玉座を手に入れるためには幾つもの勝負を制し、無数の技を掌中にして、ポケモンと心を一つにすることが求められる。
ポケモンバトルの強き者、それが王たる資格なのだ。
しかし、真実はどうであろう。
バトルに強き者だというだけで、果たして王と成り上がることは叶うのだろうか。
王者に乞われる力とは、もっと別のところにあるのではないか?
◆
「泰生さん、本日のご予定ですが」
「ん」
「十一時からブリーダーの山崎によるメンテナンス。十三時からスタジオ・バリヤードで月刊トレーナーモードの取材及び撮影。内容は先日のタマムシリトルカップと、リーグについてです。連続して毎朝新聞社のスポーツ紙のインタービューも入ってます。それが終わり次第、野島コート、二ヶ月前に根本信明選手との練習試合で使いました、あそこに移動して、事務員内のシングルトレーナーでタッグを組みマルチバトルトレーニングです。それが三時間、その後、そのままコートを取ってあるとのことですから、あとは個人練に回して良いと伺いました。以上です」
「ん」
「何かご不明な点はございませんか」
「む」
ん、は肯定の合図で、む、は否定の印。寡黙さと冷徹な印象が評判のベテランエリートトレーナー、羽沢泰生は低く唸りながら首を横に振った。
しかし実際のところ泰生は長々と続くスケジュールなど、本当は大して真面目に聞いていなかった。わかったことは、とりあえずあまり自分の本業たるシングルバトルに費やせる時間が無さそうだということのみである。生まれつきのしかめっ面をますます強張らせる泰生に、彼の専属マネージャーにあたる森田良介は溜息をついた。人の感情や思惑の機微に敏感なこの男は、泰生が話をまともに聞いてくれないことを察するのにも慣れきっていたが、しかしそのたびに肩を竦めずにはいられないくらいには生真面目な男でもあった。
「まあ、いいですけどね。泰さんの予想通り、今日のシングル出来る時間は最後の自主トレだけです。事務所としてのトレーニングがマルチですから」
「ふん。なんでシングルトレーナーがマルチをやらなきゃならないんだ」
「それは、ほら、自分以外のトレーナーと協力することで相手の手を読む力を養うとか」
「そんな悠長なこと言ってる場合か。リーグはあと一ヶ月も無いんだ」
「しょうがないでしょう。ウチの方針なんですから、幅広いトレーニングとメンバー同士の密なこ・う・りゅ・う」
「ふん」
わざと『交流』の部分を強調した森田に、泰生は不機嫌そうに鼻を鳴らす。腰につけた三つのモンスターボールを半ば無意識に伸びた手で握ると、それに応えるようにしてボールが僅かに動く気配が掌越しに伝わった。こんなにやる気なのに、夕方まではシングルどころかバトルすらまともにさせてやれないのが嘆かわしい、泰生はそんなことを思って眉間に皺を寄せる。
「それに、それはリーグでも……とにかく、予定は詰まってるんですから文句言わずに行きますよ。まずは山崎のとこに、恐らくもう待ってるでしょうから」
慣れた口調で森田は泰生を急き立てる。足早に廊下を歩く二人とすれ違った事務員の女性が、桃色の制服の裾をやや翻しながら「おはようございます」とにこやかに声をかける。「あ、谷口さん、おはよう」同じような笑顔で森田が返すが、しかし、泰生はしかめた顔のまま無言で通り過ぎた。女性事務員は、それも日常茶飯事といった感じで向こう側へと歩いていってしまったが、森田は童顔気味の面を渋くする。「泰さん」そして苦言というより、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるようにして言う。「いい加減挨拶くらい出来るようになってくださいよ」
泰生は元来、人付き合いとか人間関係とか、そういった類のものが全く以て苦手かつ大嫌いな男だった。ポケモンバトルの才能は天賦のものであったため、若い頃は実際ほぼほぼ山籠りのような、孤高の野良トレーナーとして人と最低限度の付き合いをしながら生きていたというほどである。泰生にとって、人間は何を考えているのかわからない、口先ばかりの嘘つきな存在なのだ。その点ポケモンは信頼に値する、心と心で通じ合える生き物であり、出来ることならば一生ポケモンとだけ過ごしていたいと考えていた。
そんな泰生が、何故こうして森田(当然ながら人間である)のサポートの元、がっつり人間社会に縛られているのかというとワケがある。泰生は本職のエリートトレーナー、つまりはトレーナー修行の旅はしていないが、バトルで飯を食べているという職業だ。国の公金から援助が出る旅トレーナーとは違い、定住者としてバトルで生活をしていくには一匹グラエナというわけにはいかず、余程の強さ、それこそ今や行方不明だが噂によるとシロガネ山で仙人になったという、かつてカントーの頂点に立ったマサラ出身の少年くらいでなければ叶わない話である。
ではどうするのか、というとどこかに所属するしか無いのだ。ジムリーダーとはその代表格で、地方公共団体という存在に属し、バトルを通して市町村の活性化に努める役目を負っている。そして泰生など、いわゆる『エリートトレーナー』は概して、トレーナープロダクションに所属しているトレーナーを指す言葉なのだ。野球選手が球団に入ったり、アイドルが芸能事務所に身を置くのと同じようなものだと考えてくれれば良いだろう。旅をすると道中バトルを仕掛けてくるトレーナーの中に、自分をエリートトレーナーと名乗る奇妙なコスチュームの者がいると思うが、そのコスチュームは彼、彼女の所属しているプロダクションの制服である。特定の制服のエリートトレーナーが色々な場所に点在しているのは、『フィールドでの実践』がその事務所のウリという理由なのだ。
ともかく、泰生は生活のため『064トレーナー事務所』というプロダクションの一員となっている。野良トレーナーだった頃とは違い、日々ガチガチにスケジュールを縛られるのに加えて人間関係を良好に保つことを強いられる毎日は、もはや二十年以上続けているにも関わらず一向に慣れる気配は無かった。無論、そうして予定を詰められるのは泰生が強く魅力的なトレーナーであることの裏返しなのだが、彼がそれに気づく日が来るかは不明である。
「ほら、もう少し柔らかい表情しないとまた山崎に笑われますよ。オニゴーリみたいだって、まったく、オニゴーリの方がまだ可愛げがあるってものでしょうに」
「陰口を叩く奴なんかブリーダー失格だ」
「まーたそんなこと言って。陰口じゃなくて、面と向かって言われたの忘れたんですか」
そんな泰生に手を焼いて、森田は丸っこい目を尖らせた。自分のサポートする相手は決して悪人では無いし、むしろ深く付き合えば好感の方がずっと上回る人だとはわかっている。が、周囲がそうは思ってくれないことも森田は知っていた。
本人がこれ以上損をしないためにもどうにかしてほしいものだと思いつつ、いかんせんこの調子ではとても無理だろう。三十を過ぎてから重くなる一方の身体が殊更に重くなったような感覚に襲われながら、革靴の足音を事務所内に響かせる森田はぐったりと息を吐いた。
◆
「お疲れ様でーす」
「おつかれー」
「遅かったじゃん」
「三嶋の講義でしょ? あいつすぐ小レポート書かせるから時間通り帰れないんだよな、お疲れ」
「羽沢今日メシ食いにいかない? 友達がバイト始めた居酒屋あるからさー」
『第2タマ大軽音楽研究会』と書かれたプレート部室のドアを開けた羽沢悠斗へ、先に中にいた者達が口々に声をかける。ある者は楽器をいじっていた手を止めて、ある者は個々のおしゃべりの延長戦として、またある者は携帯ゲームや漫画に向けていた顔を上げて羽沢を見た。その一つ一つに「お疲れ様ですー」「はいアイツです、ジムリーダーの国家資格化法案について千字書かされました」「本当面倒くさいですよねあの万年風邪っぴき声」返事をした彼は、各々自分の居場所に陣取ったサークル員の間を縫って部屋の奥まで行き、簡易的な机に鞄を置いた。「行く行く、ちょうど夕飯どうしようか考えてたんだよな」
最後の一人まで返事をし終えた悠斗は言いながら机を離れ、壁に立てかけられているいくつかの楽器のうち、黒い布で出来たギターケースに手を伸ばした。その表面を、とん、と軽く指で突いた彼は何か言いたげな顔をしてサークル員達の方を振り返る。
「富山ならまだ来てないぞ」
悠斗が口を開くよりも前に、ギターの弦を張り替えていたサークル員の一人が声をかけた。「そうか」悠斗はへらりと笑う。
「練習室、五時からですよね。芦田さん?」
「ん? うん、そうそう。第3練習室ね、まぁ一個前の予約がオケ研だから押すと思うけど」
悠斗の問いかけに、芦田と呼ばれたサークル員がキーボードに置いた楽譜から視線を上げて返事をする。それにぺこりと頭を下げ、悠斗は「そうなんですよ」と誰に向けてというわけでもない調子で言った。
「だから、五時までやろうと思ってたんですけど。有原と二ノ宮もいるし、結構、合わせられる時間はなんだかんだいって無いですから」
「そうだな」
「ま、そろそろ来るでしょ。事務行ってるだけらしいから」
会話に出された有原と二ノ宮が、それぞれ反応を返す。「なんだ、そっか」と小さく息を吐いた悠斗にサークル員がニヤリと笑って「いやぁ」と半ばからかうような口調で言った。「流石キドアイラク、期待してるぞ」
やめてくださいよ、ソツの無い笑顔でその台詞に応えた悠斗は、タマムシ大学法学部の二回生という肩書きを持っているが、それとは別にもう一つ、彼を表す言葉がある。新進気鋭候補のバンド、『キドアイラク』のボーカリスト。それが悠斗に冠する別の名だ。ボーカルの悠斗をリーダーとして、先ほど話題に上っていたギターの富山、そしてベースの有原とドラムの二ノ宮で編成されたこのバンドはサークル活動の枠を超え、今はまだインディーズといえども、数々のメジャーレーベルを手がけている事務所にアーティストとして登録されているという実力を持っている。それはひとえに彼らの作る音楽の魅力あってのものだが、それは勿論として、しかし同時に別の理由もあった。
古来、壮大な話になるが、それこそ『音楽』という概念が生まれてからずっと、人間にとっての音楽はポケモンと切っても切れない存在であった。ポケモンの鳴き声や技の立てる音を演奏の一部とするのは当然、それ以外にもパフォーマンスの一環としてポケモンのダンスを演奏中に取り入れたり、電気や水の強い力を楽器に利用したりと幅広く、音楽とポケモンとを繋げていたのだ。
ポケモンと共に作る音楽は当たり前ながら、人間だけでのそれと比べてずっと表現の可能性が広いものとなる。人間ではどう頑張っても出せないサウンド、限界を超えた電圧をかけられたエレキギター、多彩な技で彩られるステージ。そのどれもが、ポケモンの力で出来るようになるのだ。
そのため、遥か昔から今この瞬間まで、この世にあまねく、いや、神話や小説などの類で語られる『あの世』の音楽ですら、ポケモンとの共同作品が主流も主流、基本中の基本である。ポップスだろうがクラシックだろうがジャズだろうが関係無い。民族音楽も、EDMも、アニソンもヘビメタも電波も環境音楽もみんなそうだ。人間の肉声を使わないことが特徴であるVOCALOID曲ですら、オケのどこかには必ずと言って良いほどポケモンの何かによるサウンドが入っている。世界中、過去も未来も問わないで、音楽にはポケモンがつきものなのだ。
が、その一方で、ポケモンの力を一切使わないという音楽も確かに存在している。起こせるサウンドは確かにぐっと狭まるが、限られた可能性の中でいかに表現するかを追求するアーティスト、そしてそれによって実現する、ポケモンの要素のあるものとは一味違う音楽を求める聴衆は、いつの時代もいたものだ。くだらない反骨精神だの異端だのと評されることは今も昔も変わらないが、その音を望む人が少なからず存在するのもまた、事実。
そして悠斗率いる『キドアイラク』もそんな、ポケモンの影を一切省いたバンドなのだ。元々、彼らの所属サークルである第2タマ大軽音楽研究会自体がそういう気風だったのだが、悠斗たちはより一層、人間独自の音楽を追い求めることをモットーとしていた。
ポップス分野としては珍しいその音楽と、そしてそれを言い訳にしないだけの実力が評価され、彼らは今日もバンド活動に邁進しているというわけである。
「っていうか二ノ宮、何読んでんの」
そんな悠斗たちだが、まだ全員揃っていないこともあって、今は部室のくつろいだ雰囲気に溶け込んでいる。円形のドラム椅子に腰掛けて何か雑誌を広げていた二ノ宮に、悠斗は何ともなしに声をかけた。「んー」雑誌から顔は上げないまま、二ノ宮は適当な感じの音を発する。
「トレーナーダイヤモンド。リーグの下馬評とかさー、もうこんなに出てんだな。ま、一ヶ月切ったし当たり前かぁ」
「え? もうそんな時期なのか、今回誰が優勝すんのかなー、去年はまたグリーンだったからな」
「出場復帰してからもう四年連続だっけ。もうちょっとドラマが欲しいね、全くの新星とまではいかなくても逆転劇っていうか」
「でも五年守り続けるってのはさ、それはそれですごいじゃん?」
「あー」
二ノ宮の返事を皮切りにして、口々にリーグの話を始めるサークル員達の姿に、悠斗はふっと息を吐いた。聞いた本人にも関わらず、彼は会話に入らずぼんやりとその様子を眺めていた。
皆が盛り上がる声に混ざって、扉か壁か、その向こう側から他の学生のポケモンと思しきリザードの声が聞こえてくる。それを振り払うようにして悠斗が頭を振ったのと、「お疲れ様ですー」ドアが開いて、事務で受け取ったらしい何かの書類を手にした富山が顔を覗かせたのは同時だった。
◆
「では、今リーグもいつものメンバーで挑むということですか」
「当然だ。俺はあいつらとしか戦わない」
「流石は首尾一貫の羽沢選手ですね。しかしリーグに限らず、今までバトルを重ねていく中で、今のメンバーだけでは切り抜けるのが難しいことがあったのではないでしょうか? そういった時、他のポケモンを起用しようとか、編成を変えてみようとか、そうお考えになったことはございませんか?」
「三匹という限られた中で戦わないといけないのだから、困難に直面するのは必然だろう。そこで、現状に不満を抱いて取り替えるのでは本当の解決とは言えん。編成を変えたところでそれは一時凌ぎでしか無い、また違う相手と戦う時に同じ危機に苦しむだろう。取り替えるのではなく、今のままで課題を乗り越えるのだ。それを繰り返していれば、少しずつ困難も減っていく」
「なるほど! それでこそ羽沢選手ですよ、不動のメンバーに不動の強さ、見出しはこれで決まりですね」
これが狙ってるんじゃなくて、素でやってるんだから厄介だよなぁ。興奮するレポーターの正面で大真面目に腕組みしている泰生の一歩後ろで、森田は内心そんなことを考えていた。
タマムシ都内、スタジオ・バリヤード。そこで今、泰生はトレーナー雑誌の取材に応えている。まるで漫画やドラマの渋くダンディな戦士かのような受け答えをする泰生に、インタビューを務める若いレポーターは先ほどからずっと大喜びだ。頑固一徹を具現化したような泰生は、ともすれば周囲全てを敵に回す危険を孕んだ存在ではあるものの、同時にその堅物ぶりは世間から愛される要因でもある。それが決して作り物ではない天然モノであること、本人の真剣ぶりに一種のかわいさが見受けられることがその理由だ。また泰生の根の真面目さが幸いし、いくら嫌とは言えど、受けた仕事はこうしてしっかりこなすというところにも依拠している。
背筋をぴんと伸ばした泰生が、眉間の皺は緩めないものの順調に取材を受けている様子に、森田は尚も心の中でそっと安堵の溜息をついた。朝はいつものように不機嫌だったが、いざ始まってしまえば大丈夫だ。これなら何の心配もいらないだろう、彼がそう考えたところに、レポーターがさらなる質問をする。
「ところで、羽沢選手にはお子さんがいらっしゃるとのことでしたが……やはり同じようにバトルを……」
「………………知らん」
「えっ」
途端、森田は一気に顔を引きつらせた。森田だけではない、レポーターも同じである。まだ新人だし初めて対面した相手だから、この類の質問が泰生にとってはタブーであると知らなかったのだろうか。しかし今はそんなことに構ってはいられない、凍りついた空気をかき消すようにして、「いやー、すみませんね!」森田は無理に作った笑顔と明るい声で二人の間に割り込んでいく。
「そういうのはプライベートですから、ね、申し訳ないんですけど控えていただけると! いや、お答えになる方も沢山いらっしゃるでしょうが、羽沢はその辺厳しいものでして、本当申し訳ございません!」
早口で謝りながらぺこぺこと頭を下げる森田の様子にレポーターはしばらく呆気にとられていたが、やがて「……あ、ああ!」と合点がいったように頷いた。
「なるほど、そうでしたか……! いえ、こちらこそ大変失礼いたしました。そうですよね、あまり尋ねるべきではありませんでしたよね、不躾な真似をしてしまい申し訳ございません」
「いえいえ、本当すみません。ほら、泰さんもそんな怖い顔しないで。別にこんなの大したことじゃないでしょう、ね、まーたオーダイル呼ばわりされますよそんな顔じゃ」
「…………ふん」
オーダイルじゃなくてオニゴーリだったか、森田は冷や汗の浮かんだ頭でそんなことを思ったが、この際別にどちらでも良いことだった。とりあえず泰生の機嫌が思ったよりは損なわれていないらしいことを確認し、森田の内心はまたもや大きな息を吐く。まだ引きつったままの頬を押さえ、彼は寿命が三年ほど縮んだ心地に襲われた。
泰生のマネージャーとなってから十年ほど。少しずつ、本当に少しずつではあるが、泰生も丸くなっていっているのだと要所要所で実感する。しかしこればかりは緩和されるどころか、自分たちが歳を重ねるたびに悪化しているようにしか感じられない。そう、森田は思う。
「で、ではインタビューに戻らせていただきます……今リーグからルール変更により二次予選が出場者同士が一時味方となるマルチバトルが導入されましたが、その点に関してはどうお考えで?」
「非常に遺憾だ。シングルプレイヤーはシングルプレイヤー、ダブルプレイヤーはダブルプレイヤーとしての戦いを全うすべきなのに、まったく、リーグ本部は何を考えているのかわかったものではない」
この頑固者の、親子関係だけは。
ダグドリオの起こす地響きの如き低い声で運営への不満を語る泰生に、森田は困った視線を向けるのだった。
◆
「樂先輩、樂先輩」
「なに?」
「羽沢のやつ、なんであんなムスッとしてるんですか」
「あー、それはね、羽沢泰生っているでしょ? 有名なエリトレの、ほら、064事務所のさ。あの人、羽沢君のお父さんなんだよ」
「え! そうなんですか……でも、それがあのカゲボウズみたいになってる顔と何の関係が」
「実はさぁ、羽沢君、お父さんとすっごく仲悪いらしいんだよね。だからトレーナーの話、というか羽沢泰生に少しでも関係する話するといつもああなるの。っていうか巡君もなんで知らないの。結構今までも見てたはずだけど」
「すみません、多分その時はちょっと、僕ゲームに忙しかったんでしょうね。でも、別に雑誌程度で……」
「まあ、ねぇ……よっぽど何かあるんだろうけど……」
「聞こえてますよ、芦田さんも、守屋も」
一応は内緒話っぽく、小声で喋っていたサークル員たちに向かって悠斗が尖った声を出すと、二人はびくりと身体を震わせた。守屋と呼ばれた、悠斗の同級生である男子学生は猫背気味の後姿から振り返り、「ごめんなさい」と肩を竦める。彼はキーボードの担当だったが今は楽器が空いていないらしく、同じくキーボード担当である芦田の隣に陣取って暇を持て余しているらしかった。
決まり悪そうに、お互いの眼鏡のレンズ越しに視線を交わしているキーボード二人へ、悠斗はそれ以上言及しない。それは悠斗の、のろい型ブラッキーよりも慎重な、事を出来るだけ波立たせたくない主義がそうさせることだったが、彼らの言っていることが間違ってはいなかったからでもある。
悠斗が父親のことを嫌っているというのは、もはやサークル内では公然の秘密と化している。ただ、守屋のような一部例外を除いての話であるが。
泰生は悠斗が物心ついた時からすでに、というか彼が生まれるよりもずっと前からバトル一筋だった。それはトレーナーとしては鏡とも言える姿なのかもしれないが、父親という観点から見たらお世辞にも褒められたものではなかったのかもしれない。少なくとも悠斗からすればそれは明白で、悠斗にとっての泰生は、ポケモンのことしか考えられない駄目な人間でしかなかったのだ。
彼がポケモンの要素を排除した音楽をやっているのもそこに起因するところがある。勿論、悠斗の好きなアーティストがそうだからという理由もあるが、しかしそれ以上に彼を突き動かしているのは父である泰生への、そして彼から嫌でも連想するポケモンへの黒く渦巻いた感情だろう。悠斗はそれを自覚したがらないが、彼の気持ちを知っている者からすればどう考えても明らかなことだった。
兎にも角にも羽沢親子は仲が悪い。本人たちがハッキリ口に出したわけではないけれど、彼らをある程度知る者達なら誰でもわかっていることである。
「……おい、なんだよ瑞樹。その目は」
「別に。それより練習するんだろ、今用意するから」
そのことは、悠斗とは中学生からの付き合いである富山瑞樹ともなれば尚更の事実であった。それこそ泰生にとっての森田くらい。
しかし富山は、それを悠斗が指摘されると不快になることもよくわかっている。理解しきったような目をしつつも、何も言わずにギターケースを開けだす富山に、悠斗は憮然とした表情を浮かべていた。が、富山が下を向いたところでそれは若干、それでいて確かに緩まされる。その様子をやはり無言で見ていた有原と、図らずも発端となってしまった二ノ宮は「なあ」「うん」と、各々の楽器を無意味に弄りながら、やや疲れたような顔で頷き合った。
◆
やはりマルチバトルなど向いていない。
本日何度目かになる試合の相手とコート越しに一礼を交わし、泰生は心中で辟易していた。現在彼は今日の最後のスケジュール、プロダクション内でのマルチバトルトレーニング中である。貸し切りにしたコートには、064事務所のトレーナー達がペアを組み、あちこちでバトルを繰り広げている真っ最中だ。
所内のトレーニングに重きを置いている064事務所では前々から取り入れられていた練習だが、今回のリーグから予選がマルチになったこともあり、より一層力を入れている。ただ、シングルに集中したい泰生にとっては厄介なことこの上無い。そもそも彼は元より、自分以外の存在が勝敗を左右するマルチバトルが好きではないのだ。少しでも時間を無駄にしたくないのにそんなことをしたくない、というのが泰生の本音である。
「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「かわせトリトン! 左奥に下がれ!」
ただ、やる以上は本気で勝ちにいかなくてはいかない。ミタマという名のシャンデラに指示をしながら、泰生はくすぶる気持ちをどうにか飲み込んだ。
敵陣のラグラージがミタマの放った弾幕を避けていく。長い尻尾の先端を緑色の光が少しばかり掠ったが、ほとんど無いであろうダメージに泰生の目つきが鋭くなった。現在の相手はラグラージとカビゴン、シャンデラを使う泰生としては歓迎出来ない組み合わせである。また、クジで組んだ本日の相棒という立場から見ても。
「クラリス、ムーンフォースだ、カビゴンに!」
シャンデラの眼下にいるニンフィアが光を纏い、カビゴンの巨躯へと走っていく。可憐さと頼もしさが同居するそのフェアリーポケモンに声をかけたのは、エリートトレーナーとしては新米である青年、相生だ。甘いマスクと快い戦法が人気で、事務所からも世間からも期待のホープとされているが、今の彼は、よりにもよって事務所一の偏屈と名高い泰生と組んだことからくる緊張に襲われている。
無口で無表情、何を考えているのかわからない泰生のことを日頃から若干恐れていた相生は、誰がどう見ても表情を引きつらせており、対戦相手達は内心、彼をかわいそうに思っていた。ニンフィアに向ける声も五度に一度は裏返り、整った顔は時間が経つごとに青ざめていく。今のところは勝敗こそどうにかなっているが、もし自分がくだらぬヘマをしてしまったら何を言われるか。そんな不安と恐怖が渦巻いて、相生の心拍は速まる一方だった。
「なんかすみません……相生くんに余計なプレッシャーかけちゃってるみたいで」
「いやぁ、いいんだよ。アイツは実力こそ確かなんだけど、まだそういうのに弱いから。今のうちに慣れておかないと」
「え、あ、じゃあ、泰さんでちょうど良かった、みたいな感じですかね? あはは、なら安心……」
「ま、ちょっと強すぎる薬だけどな」
「うっ……そうですね、ハイ…………」
ポケモンバトル用に作られたこの体育館は広く、いくつものコートで泰生たち以外のチームが各々戦っている。その声や技の音に掻き消されない程度に落とした声量で、森田と、相生のマネージャーはそんな会話を交わしていた。まだ若い相生にはベテランのマネージャーがあてがわれているため、トレーナー同士とは真逆に、森田からすれば相手はかなりの先輩である。「まぁ、それが羽沢さんの良いところなんだがな」「いえホント……後でよく言っておきますので……」泰生からのプレッシャーを感じている相生のように、森田もまた委縮せざるを得ない状況であった。
誰も得しないペアになっちゃったよなぁ、と考えながら、森田は会話の相手から視線を外してコートを見遣る。シャンデラが素早い動きでラグラージを翻弄する傍らで、「クラリス、いけ、でんこうせっか!」ニンフィアがカビゴンに肉薄していった。瞬間移動かと見紛うその速さに、流石はウチの期待の星だ、と森田は感心した。
しかしカビゴンのトレーナーである妙齢の女性は少しも動じることなく、むしろ紅い唇に不敵な笑みを浮かべる。「オダンゴ」
「『あくび』!」
「っ! そ、そこから離れろ、クラリス!」
しまった、と泰生は内心で舌打ちしたがもう遅い。慌てて飛ばされた相生の指示は間に合わず、カビゴンの真正面にいたニンフィアは、大きな口から漏れる欠伸をはっきりと見てしまった。
華奢な脚がもつれるようにして、ニンフィアの身体がふら、とよろめく。リボンの形をした触覚が頼りなく揺れ、丸い瞳はみるみるうちにぼんやりとした色に濁っていった。カビゴンと、そのトレーナーが同じ動きで口許を緩ませる。
「駄目だ、クラリス! 寝ちゃダメだって!」
元々、泰生に対する緊張でいっぱいいっぱいだった相生は完全に混乱してしまったようで、ほぼ悲鳴のような声でニンフィアへと叫び声を上げた。ああ、駄目なのは思えだ。泰生は心の中で深い息を吐く。こういう時に最もしてはならないのは焦ることだというのに、どうしてここまで取り乱してしまうのか。
期待のホープが聞いて呆れる。口にも、元から仏頂面の表情にも出しはしないが、泰生はそんなことを考えた。
「もう遅い。せめて出来るだけ遠ざけとけ、後は俺がやる」
「す、すみませ……」
涙が混ざってきた相生の声を遮るようにして言うと、彼はまさに顔面蒼白といった調子で泰生を見た。その様子を少し離れたところで見ていた相生のマネージャーが、あまりの情け無さにがっくりとうなだれる。
「本番でアレが出たらと思うとなぁ」「ま、まだこれからですから……それに今のはどちらかというと、泰生さんのせいで」小声で言い合うマネージャー達の会話など勿論聞こえていない泰生は、ぐ、と硬い表情をさらに引き締めた。ニンフィアが間も無くねむり状態になってしまう以上、二匹同時に相手にしなければならないのは明白である。しかしシャンデラとの相性は最悪レベル、切り札のオーバーヒートも使えない。もう一度欠伸をかまされる可能性だって十分あり得るだろう。
「ミタマ、ラグラージにエナジーボール」
「なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!」
とりあえずラグラージから何とかしよう、と放った指示は勢いづいた声と水流に呑まれそうになる。「避けろ!」間一髪でそれを上回った泰生の声で天井付近に昇ったシャンデラは、びしゃりと浴びた飛沫に不快そうな動きをした。まともに喰らっていたら危なかった、コートを強か打ちつけた水に、泰生の喉が鳴る。
しかし技は相殺、腰を落としてシャンデラを睨むラグラージもまた無傷のままだ。ニンフィアのふらつきはほぼ酩酊状態と言えるし、もう出来る限り攻め込むしかあるまい。しかし冷静に、あくまで落ち着いて。そう自らに言い聞かせながら、泰生は次の指示を飛ばすべく息を吸う。
その、時だった。
(ピアノ……?)
今この場所で聞こえるはずの無い音がした気がして、泰生は思わず耳を押さえる。急に黙ってしまった彼を不審に思ったのだろう、隣で真っ青になっていた相生が「……羽沢さん?」と恐る恐る声をかけた。
ラグラージに指示しようとしていた、またニンフィアへの攻撃をカビゴンに命じようとしていた相手トレーナー達も、異変を察して怪訝そうな顔をする。
「……ああ、いや。すまない」
何でも無いんだ。
何事かと駆け寄ってきた森田を手で制し、そう続けようとしたところで、またピアノの音がした。軽やかに流れていくその旋律はまさかこのコートにかかっている放送というわけでもあるまいし、仮にそうだとしてもはっきり聞こえすぎである。「チャ、チャンスなのか? やってしまえ、トリトン、なみ……」「バカ、やめた方がいいでしょ! オダンゴも止まって、羽沢さん! 大丈夫ですか!?」相手コートからの声よりも、勢い余って技を放ってしまったラグラージが起こした轟音よりも、ピアノの音はよく聞こえた。
まるですぐ近くで、それだけが鳴り響いているようだ。「羽沢さん!」「どうしたんですか、聞こえてます!?」反対に、自分に投げかけられる声はやけに遠くのものに思える。血の気を無くして近寄ってくる森田に何かを言おうとしたものの声が出ない。不安気に舞い降りるシャンデラの姿が、下手な写真のようにぶれて見えた。
「しっかりしてください、羽沢さん!」
「救急車!? 救急車呼ぶべき!?」
「まだ様子見た方が、羽沢さん! 羽沢さん、答えられますか!?」
「泰さん、どうしたんですか! 泰生さん!!」
「羽沢君!!」
そのブレが不快で、数度瞬きをした後に泰生の目に入ったのは、シャンデラとは全く以て異なる、
「いきなり黙るからびっくりしたよ……大丈夫?」
グランドピアノを背にして自分を見ている、心配そうな顔をした、白いシャツの見知らぬ男だった。
◆
「もうさぁ、巡君のアレは何なんだろう。『先輩がいない間の椅子は僕が安全を守っておきますよ!』って、アレ、絶対俺が帰ってからも守り続けるつもりでしょ……絶対戻ってから使うキーボード無いよ俺……」
「すごい楽しそうな顔してましたもんね、守屋。イキイキというか、水を得たナントカというか」
「部屋来るなり俺の隣に座ってたのはアレを狙ってたんだろうなぁ」
予約を入れた練習室へと向かう廊下。悠斗は練習相手である芦田と、部室を出る際の出来事などについて取り留めの無い会話を交わしていた。
夕刻に差し掛かった大学構内は騒がしく、行き交う学生の声が途切れることなく聞こえてくる。迷惑にならない程度であればポケモンを出したままにして良いという学則だから、その声には当然ポケモンのそれを混ざっていた。天井の蛍光灯にくっつくようにして飛んでいるガーメイル、テニスラケットを持った学生と並走していくマッスグマ。すれ違った女生徒の、ゆるくパーマをかけた柔らかい髪に包まれるようにして、頭に乗せられたコラッタが眠たげな目をしている。
空気を切り裂くような、窓の外から聞こえるピジョットの鋭い鳴き声は野生のものか、それとも練習中のバトルサークルによるものだろうか。絶えない音の中で、悠斗が脳裏にそんな考えを浮かべていると「まぁ、巡君のことはいいんだけど」隣を歩く芦田が話題を変えた。
「羽沢君も忙しいよねぇ。学内ライブって言ってもこうやって練習、結構入るし、あと学祭もあるじゃん? いいんだよ、無理してそんなに詰めなくても……」
身体壊したら大変だからさ。地下へと繋がる階段を降りながら、そう続けた芦田が何のことを言っているのか、それを悠斗が理解するまでには数秒かかったが、すぐに来月のオーディションのことだと見当がついた。
はっきりと口に出してはいないが、芦田が話しているのは来月に迫った、悠斗始めキドアイラクが受ける、ライブ出演を賭けた選考のことである。これからの開花が期待される新進アーティストを集めて毎年行われるそのライブからは、実際、それをきっかけにしてブームを巻き起こした者も数多く輩出されている。悠斗達は事務所から声をかけられて、その出演オーディションを受けることにしたのだ。ライブに出れれば、その後の成功こそ約束されてはいないものの、少なくとも今までよりずっと沢山の人に演奏を聴いてもらうことが出来る。
しかしそのオーディション前後に、悠斗達はサークルの方の予定が詰まっているのも事実だった。芦田が心配しているのはそのことだろうと思われたが、悠斗は「大丈夫ですって」と、いつも通りに明るい笑顔を作って言った。
「ちょっとぐらい無理しても。楽しいからやってることですし、やった分だけ本番にも慣れますしね」
「それはそうだけどさ。でもほら、本当やりすぎはダメだよ、なんだっけ……こういうの言うじゃん、『身体が資本』? だっけ、ね」
「そんな、平気ですよ。それに俺、今度の学内ライブで芦田さんと組めるの楽しみなんですよ? ピアノだけで歌ってのもなかなか無いですし、それも芦田さんの演奏で、なんて」
「やだなぁ、褒めても何も出ないから……いや、ま、ほどほどにね。あと一ヶ月無いのか、何日だっけ? 確かリーグの……」
そこで芦田は言葉を切った。それは「着いた着いた」ちょうど練習室に到着したからというのもあるだろうが、悠斗は恐らくあるであろう、もう一つの理由を感じ取っていた。
悠斗はポケモンを持っていないが、芦田はいつもポワルンを連れている。しかしその姿は今は見えず、代わりに、練習室へと入る芦田の肩にかかった鞄からモンスターボールが覗いているのが見て取れた。バインダーやテキストの間で赤と白の球体が動く。
「芦田さん」
「ん?」
「別に、そんな、気を遣っていただかなくてもいいですから」
苦笑しつつ、しかし目を伏せて言った悠斗に、芦田は「うんー」と曖昧な声で笑った。「そうでもないよ」にこにこと手を振って見せた芦田に申し訳無さを感じつつも、同時に彼が閉めたドアのおかげでポケモン達の声が聞こえなくなったことに確かな安堵を覚えた自分に、悠斗は内心、自分への嫌悪を抱かずにはいられないのだった。
「それはそれとしてさ、始めちゃおっか。あと何度も時間とれるわけじゃないし、下手したら今日入れて三回出来るかどうか」
「はい、そうですね」
練習室に鎮座するピアノの蓋を開け、何でもない風に芦田が言う。大学の地下に位置するこの部屋は音楽系サークルの練習場所であり、防音になっているため外の音は全くと言ってよいほど聞こえない。室内にあるのは芦田がファイルの中の楽譜を漁る、バサバサという音だけだった。
二週間ほど後に予定されている学内ライブは、サークル内で組まれているバンドをあえて解体し、別のメンバー同士でチームを作るという試みである。悠斗は芦田と組んでいるため、キドアイラクの方と並行して練習しているというわけだ。
「じゃあとりあえず一曲目から通して、ってことでいい? 今は俺も楽譜通りやるから気になったことがあったら後で、あ、キーは?」
「わかりました、二つ上げでよろしくお願いします」
「了解!」
言い終えるなり、芦田が鍵盤を叩き出す。悠斗も息を吸い、軽やかな旋律に声を乗せた。悠斗の最大の武器とも言える、キドアイラクの魅力の一つである伸びの良い高音が練習室に響く。
歌っている間は余計なことを考えなくて済む。悠斗は常日頃からそう思っており、歌う時間だけは何もかもから解放されているように感じていた。所々が汚れた扉を開ければ途端に耳へ飛び込んでくるだろう声達も、今は全く関係無い。自分の喉の奥から溢れる音を掻き消すものの無い感覚は、悠斗にとってかけがえの無いものだった。
しかし、である。
『ミタマ、ラグラージにエナジーボール』
今最も聞きたくない、そして聞こえるはずのない声が鼓膜を震わせた。
(何だ――?)
それは父親のものにしか思えなかったが、ここは大学の練習室だ。いるのは自分と、芦田だけである。その声がする可能性はゼロだろう。気のせいだろうか、嫌な気のせいだ、などと考えて悠斗は歌に集中すべく歌詞を追う。きっと空耳だろう、自覚は無くても少し疲れているのかもしれない。芦田の言う通り、無理はせずにちょっと休むべきだろうか。
『なみのりで押し退けてしまえ、トリトン!』
が、そんな悠斗の考えを否定するように、またもや声が聞こえた。今度は父親のものではなかったが、含まれた単語から、先程した父親の声と同じような意味合いを持っていることが予想出来た。次いで耳の奥に響いたのは水流が押し寄せる轟音と、何かが地面を弾くような鋭い爆発音。いずれにせよ、この狭い、地下の練習室には起こり得るはずもない音である。
どうして、なんで、こんな音が。サビの、跳ねるような高音を必死に歌い上げながら悠斗は激しい眩暈を覚えた。悠斗の異変に芦田はまだ気づいていないようだったが、『羽沢さん?』彼の奏でるピアノに混じる声は止む様子が無い。『オダンゴも止まって!』ありえない声達はやたらと近くのものに聞こえ、それと反比例するようにして芦田のピアノの音が遠ざかっていくみたいだった。
『聞こえてますか!?』
「羽沢君!?」
おかしくなった聴覚に、悠斗はとうとう声を出せなくなった。あまりの気持ち悪さで足がよろめき、口を押さえて思わずしゃがみ込む。声が聞こえなくなったため、流石に気がついた芦田は悠斗の姿を見るなり慌ててピアノ椅子から立ち上がった。
「羽沢君、大丈夫!? どうしたの!?」
「いや、なんか……」
どう説明するべきかわからず、そもそも呂律が思うように回らない。自分の身体を支えてくれる、芦田の白いシャツがぼやけて見えた。
『救急車!?』『羽沢さん、答えられますか!?』聞こえる声のせいか、頭が激痛に襲われたようだった。簡素な天井と壁、芦田の顔が歪みだす。何だこれは、声にならない疑問が息となって口から漏れたその時、悠斗の視界が一層激しく眩んだ。
「泰さん!!」
ほんの一瞬の暗転から覚めた視界に映っていた光景は、まるで映画か何かを観ているような感覚を悠斗に引き起こさせた。
自分を覗き込んでいる知らない顔、若い男もいれば初老の男もいる、長い髪を結った綺麗な女の人も……。彼らの背景となっている天井がやたらと高いことに悠斗の意識が向くよりも先に、その顔達を押し退けるようにして一人の男が目に飛び込む。
「泰さん、大丈夫ですか!? どこか具合が悪いですか、それとも疲れたとか……いや、泰さんに限ってまさか、ともかく平気ですか!?」
ああ、この人の顔には見覚えがある。そう思った悠斗の上空から、ふわりふわりという緩慢な、しかし焦った様子も滲ませた動きでシャンデラが一匹、蒼い炎を揺らしながら降りてきたのだった。
ありがとうございます!
ふてぶてしさが伝わったのならよかったですwwwww
たぶんアクア団のイズミさんとかにも「化粧が濃いよ。おばさん」とか言ってるんだと思いますw
カビゴン系女子wwwwwww
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