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なみのり迷惑メールの原作にマジでありそう感も好きですが、ピッピちゃんのティータイムが特に好きです。
本当に謎って感じで。というか普通に読みたいです。
作者はセレビィとか色んな力借りてわざわざ謎っぽく経年劣化させたり紛れ込ませたりしてる、変わり者無害系知能犯だったりして。とか色々勝手に考えてしまう楽しさがあるなあと思います。
ポケモンだって、人と同じ仕事をしている。
何言ってんだお前、と言われるかもしれない。だけど考えてみて欲しい。格闘タイプのゴーリキー。彼らが引っ越し屋さんや運送業者で働いているのを、一度は見たことがあると思う。
人からしたら、ポケモンの手を借りているわけだけど、ポケモンからすれば、人と同じ仕事をしているのだ。
他にも発電所で働いているコイルやエレブー、花屋で働いているフシギバナ、工事現場で働いているワンリキー。職場の人がゲットしたポケモンではあるけれど、彼らは人と同じ仕事をしている。
休憩時間もあるし、お給料という名のエサもある。
でもこれらの例は、誰もが考え付く物だ。人の手が入っている。
私は前に、孤高のピアニストとして生活しているポケモンを見たことがある。
彼の演奏は素晴らしい。その太い指と短い腕と、ペダルを踏む足がないのを物ともせず、美しいメロディを奏でる。後で知ったけど、ペダルを操るのは自分の技”かげうち”だ。ペダルを壊さないように、絶妙な力加減でペダルを押す。
その一つの赤い目は、鍵盤を弾く自分の手と、目の前の楽譜を交互に見る。楽譜を捲るのはやはり”かげうち”だ。影を器用に操り、演奏に支障の出ないように素早くページを捲る。
聞き惚れている観客は、そのうち弾いているのがポケモンだということも忘れてしまう。天才ポケモンピアニスト、という肩書きなどどうでも良くなってくる。ただ、その演奏を一音漏らさず聴きたいという思いに駆られるのだ。
彼は人の言葉は話せない。しかし、筆談できる程度の言葉は知っている。演奏が終わった後、スタンディングオベーションを受け立ち上がり、一礼をする。傍の机にあったスケッチブックを手に取り、文字を書く。
その文字は感謝の言葉だったり、次の曲名だったりする。そして静かにそれを置き、再び鍵盤に向かう。
手がまごつくことは、ない。
彼にトレーナーは存在しない。かつて、彼にピアノを教えてくれた人間はいても、自分を所持している人間は誰もいない。マネージャーという存在もいない。
いつもピアノがある場所に現れ、勝手に弾いて帰って行く。それが調律されていなければ、弾かずに帰って行く。ホールに鍵が掛けてあっても、気にすることじゃない。
彼はゴーストタイプだ。彼の前では、障害物など無いに等しい。
ホールだけじゃない。放課後の音楽室に現れたこともある。
それがその学校の七不思議として認定されたのは、そこの生徒なら誰もが知っていることだ。『放課後、誰もいないはずの音楽室からピアノが聞こえて来る』と。
ちなみにそれを聞いた音楽室の先生曰く、曲目は『幻想即興曲』だったらしい。
私は、彼と会話したことがある。演奏が終わればそれこそ幻のように消えてしまう彼を追って、どうにか話をすることができた。
熱心に感想を語る私に、彼は少しだけなら、と私の質問に答えてくれた。
沢山聞きたいことがあったが、三つに絞って聞かせてもらった。
一つ。どうしてピアニストとして生活しようと思ったのか。
二つ。一番好きな曲は何か。
三つ。誰からピアノを習ったのか。
彼はその質問に答えてくれた。見せてくれたスケッチブックには、カクカクした文字でびっしりと答えが書いてあった。
次の文は彼の解答そのままだ。
『一つ。これは単純にピアノが好きだからだ。いや、音楽が好きなんだ。
知られていないだけで、演奏できるポケモンは割と多い。私は各地を回って来たが、歌を歌うだけでなく、ドラムやフルート、中にはコントラバスが弾けるポケモンもいた。
しかし彼らは、その特技を出すと大好きな曲が自由に弾けなくなると考えている。その才能に目を付けた人間によって、金儲けの道具にされることを嫌がっているのだ。
しかし私は、あえて人前で演奏することを選んだ。観客がいた方が演奏に身が入るからだ。
ポケモンに金は必要ない。食事さえあればいい。演奏が終わった後、木の実を投げてくれればそれでいい。
ホールに度々現れるのは、たまには良い場所で弾きたいと思う時があるからだ』
『二つ。一番好きな曲。これは難しい。ペトリューシュカもいいし、幻想即興曲もいい。しかし弾くのではなく、ただ聴くだけなら夜の女王のアリアがいい。
一度、これを歌ったムウマ―ジがいた。終わった時には、観客だけでなく演奏者全員がその場に倒れていた。本人はとても楽しそうだったがね』
『三つ。』
私が彼が書くのを見つめていたが、ここで筆が止まった。何かを書こうとしては止め、書こうとしては止めを繰り返している。しきりに考え込んでいるようにも見える。
もしかして、触れてはいけない琴線に触れてしまったのだろうか、と思った矢先、彼が少しずつ書き始めた。
『習ったのではない。彼女が弾いているのだ』
最後の質問の意味が、未だに私はよく分かっていない。
ただ、ピアノを弾いている時の彼の表情は(分かるのかって話だけど)、とても幸せそうだ。ピアノを弾けることが何よりも幸せという顔だ。
そういえば、この前招待状が来た。今度カロスで行われる、コンサートの招待状だ。ミアレシティの巨大なホールで行われるらしい。
演奏者は全員、ポケモンだという。マスコミはおろか、一般客さえ立ち入り禁止の、完全なる招待制コンサートらしい。
ピアニストとして彼が出るという。とても楽しみだ。
Subject ID:
#90734
Subject Name:
ピッピちゃんのティータイム
Registration Date:
1998-10-03
Precaution Level:
Level 1
Handling Instructions:
利用者の多い主要なオークションサイトを、本案件専用のクローラーを使用して常に巡回しています。本案件と推定される書籍の出品が確認できた場合、局員はオークションサイトの管理者に連絡し、出品物を接収してください。接収に際して、出品者がどのような経路で対象書籍を入手したかのヒアリングも併せて行ってください。
書籍に付いての基礎情報は既に広範に知れ渡っているものと推測され、情報封鎖は困難な状況です。書籍そのものには異常性が見られないことから、現状では情報の出現を監視するに留まっています。新たに書籍に対する言及が見られた場合、局員は書籍の情報がいかなる文脈で登場しているかについて詳細な分析を行ってください。
入手した書籍は、管理局の特殊書籍を収容する書架で集中管理されます。研究の為に書籍を持ち出す場合、様式F-90734に従い特例申請を実施してください。書籍は必要に応じて複写・電子化が認められていますが、一般的な機密情報拡散防止の観点から、不必要な複写・電子化は避けてください。
本案件では「ピッピちゃんのティータイム」のみを管理対象とします。類似する異常な書籍を発見・確保した場合は、別案件として管理してください。
Subject Details:
案件#90734は、「ピッピちゃんのティータイム」という出自不明の書籍に関する一連の案件です。主体となる書籍の正確な出現時期は明らかになっていませんが、少なくとも90年代後半から存在が確認されています。管理局の推定では1997年後半を出現の最有力時期としていますが、いくつかの物証はより以前からの書籍の存在を示唆しています。
当書籍の特徴的な点として、現時点ではインターネットのオークションサイトでのみ入手が確認されていることが挙げられます。通常の書店、特に古書を扱う書店において、「ピッピちゃんのティータイム」なる書籍が確認された事例はこれまで一件もありません。オークション出品者へのヒアリングでは、例外なく「蔵書を整理していたら買った覚えのない漫画が出てきた」もしくは「別のオークションサイト経由で購入した」との回答が寄せられ、オークションを除く正規の流通経路で入手したという証言は得られていません。多くの書籍は出版年から見て矛盾が無い程度に品質が劣化(日焼け・風化等)しており、出版年に付いてはある程度の信憑性があるとの見方が大勢を占めています。
この「ピッピちゃんのティータイム」は2015/3時点で第57巻までの発行が確認され、その内容は概ね70年代後半から80年代前半にかけての少女漫画の一般的な作風を踏襲しています。著者は「たかはしさゆり」、出版社は「芽吹書房」、元々の掲載誌は「別冊ショコラ」と記載されています。作家としての「たかはしさゆり」、出版社としての「芽吹書房」、及び漫画雑誌としての「別冊ショコラ」がそれぞれ実在した記録はありません。加えて、「別冊ショコラ」が「芽吹書房」から出版されていたという確証もありません。書籍に記載された情報はこのシリーズが1972年頃から連載・刊行され始めたことを示していますが、当時の記録からは「ピッピちゃんのティータイム」なるシリーズが存在した形跡は見つかっていません。
主人公は携帯獣の「ピッピ」で、風貌は一般的な携帯獣のものですが、少女漫画の作風に沿った擬人的なキャラクター付けが施されています。基本的に一話単位で完結するショートエピソードによって構成されていますが、時折複数話にまたがるロングエピソードも見られます。エピソードの粗筋は総じて平凡です。主人公であるピッピちゃんがレギュラーキャラクターである「ピカチュウくん」との恋愛を成就させるべく様々な努力をするという筋書きが大半を占め、時折「ライバル」が登場して他愛のない痴話げんかが繰り広げられるといった、何ら特筆すべき事項のないストーリーが展開されます。登場人物はほぼすべて携帯獣によって構成されていますが、まれに人間と思しき人物が登場するエピソードも存在します。
ただし、一部のエピソードについては一般的なエピソードと比べて明らかに作風が異なり、また総じて注目すべき内容が描かれていることに注意しなければなりません。
以下はこれまでの調査で発見された「特異な」エピソードの一部です:
・第40話「ピッピちゃんと殺人事件」(第7巻収録)
このエピソードでは、ピッピちゃんの隣人である「ラッキーさん」が何者かによって暴行の末に殺害され、またラッキーさんの娘である「ピンプクちゃん」が行方不明になったという事件がシリアスなタッチで描かれています。第7巻が刊行されたのは巻末の記載によると1973年2月ですが、当時種族としてのピンプクは知られていなかったことに注目すべきです。次の第41話は前々話である第39話の直近の続編となっており、この第40話での出来事は無かったものとして扱われています。
・第83話「ピッピちゃんとW.D.ビル」(第15巻収録)
それまでのエピソードではさして特徴の無い田舎町が舞台となっていましたが、このエピソードのみ唐突に都会が舞台になっています。ピッピちゃんが高層ビルにある職場で働く父親の「ピクシーおとうさん」の元を訪れるという筋書きですが、ストーリーの半ばで突如として携帯獣の「ホウオウ」及び「ルギア」がビル近くに登場して激しい戦いを始め、以後はピッピちゃんとピクシーおとうさんが命からがらその場を脱出するという緊迫したシーンが展開されます。このエピソードにおいては、レギュラーキャラクターを含む極めて多くの死者・負傷者が発生します。次の第84話は前々話である第82話の直近の続編となっており、この第83話での出来事は一切無かったものとして扱われています。第83話で死亡または負傷したキャラクターは、何事も無く以降のエピソードに登場しています。
・第160話「ピッピちゃんの激怒行進」(第27巻収録)
ピッピちゃんの友達である「ミズゴロウくん」が、恐らくは人間と思しきシルエットを持つ警察に追われ、結果として事故に巻き込まれて瀕死の重傷を負うところからストーリーが始まります。ピッピちゃん始め携帯獣の登場人物は警察の度の過ぎた追跡行為に憤慨し、以後エピソードの終了まで激しい抗議行動を繰り広げます。ページの終わりに至るまで、人間に対する苛烈な罵詈雑言が携帯獣の登場人物による台詞として延々と書き連ねられています。次の第161話は前々話である第159話の直近の続編となっており、この第160話での出来事は無かったものとして扱われています。ただしこのストーリー以降、ミズゴロウくんが再登場するエピソードは確認されていません。
2014年には、新たに第55巻・第56巻・第57巻の存在が確認されました。3冊すべて出版年は1982年となっており、接収された書籍はいずれも年月から見て矛盾が無い程度に劣化しています。シリーズの連載が未だ続いているのか、それとも何らかの理由で時間経過と共に新たな巻が「発見」されるようになるのかは、局員の間でも意見が分かれています。
書籍の巻末には「別冊ショコラ」に掲載・連載されていたと思しき他作品の単行本が多数紹介されており、そのすべてがこれまでの記録に存在しない漫画作品です。著者の中には実在する漫画作家の名前もごく一部発見されましたが、いずれも書籍の発行時期には漫画家として活動していないか、あるいは出生していません。また、紹介されている作品は例外なく当該作者の既知の作品リストに存在しません。
以下はこれまでに確認された他作品の一部抜粋です:
●ときめきドキドキ電子レンジ(著者:小石川れい/第9巻までの刊行を確認)
●思い出のプチキャプテン(著者:かたぎり翼/第17巻までの刊行を確認)
●ライムグリーン・カンバス(著者:かたぎり翼/読み切り)
●天翔ける赤いツバサ(著者:さいとうともみ/第8巻までの刊行を確認)
●Gene Girls(著者:荒川瞳/短編集)
●手のひらの上のアルカトラズ(著者:新庄まなみ/第11巻までの刊行を確認)
●ハート★スワップ!(著者:月梨野ゆみ/短編集)
●オクタン同盟(著者:松井かおる/第32巻までの刊行を確認)
●はるかぜエレジー(著者:牧下マユミ/第3巻までの刊行を確認)
●太陽と月は石の夢を見る(著者:大林みか/第6巻までの刊行を確認)
当書籍がインターネットのオークションサイトでのみ発見される理由は判然としていません。また一部の出品者については、オークションサイト並びに案件管理局からのコンタクトが完全な失敗に終わるケースも見受けられます。
Supplementary Items:
本案件に付帯するアイテムはありません。
まず、海が枯れた。気付かぬ内に人が枯れて、生物の多くは死に絶えた。世界の終焉と誰かが言った。
なし崩しに文明も終わる。海が無ければ導くものもなく、ここアサギの灯台も役目を終えて眠りに付いた。需要が無ければ光ることも出来ず、事実上の無職宣言を私は食らってしまったのである。
灯台守のデンリュウとしてそれなりに安定した後生を送れるはずだったのに、運命とは時として残酷なものだ。朝昼晩光ってさえいれば人間共は有難がって傅くし、食事だって不自由しなかった。だがそれは昔の話、今では昼と夜の合間を縫って一欠けの草根を死に物狂いで探す生活を送っているとなれば、私の落胆と絶望がいかほどのものであるかを想像するのは難くない。
無論、世界が終わったからと言って嘆くことばかりではない。世界が終わっていない頃には決して出会えなかったはずの、いくつかの繋がりが出来たのだ。ピカチュウ、と名乗るそのポケモンはとても気さくで、出会って直ぐに意気投合した。私が知らない遠い場所の話や、逆に彼が知らない灯台とアサギの街のことなど、様々なことを語り合ったものだ。
しかし、出会って三日後に彼は死んだ。
その日からだ。なぜ私は生きているのか、生き続けているのだろうか、疑問に思うようになったのは。終わってしまった世界でなお、生へと執着しなければならない理由などない筈なのに、私は今日も生き長らえるのはどうしてなのかと。ただ機械的に日々を流すだけの私は、果たして生きていると言えるのだろうか。それとも。
『太陽の墓標』
一
ピカチュウの亡骸は、灯台の根元に埋めることにした。遺骨には意志も目も備わってないとはいえ、やはりこんな僻地に埋めてしまうのには多少なりとも心苦しさを感じたが、この殺人的な気候の中出歩くのは危険だと判断を下した。墓掘りを埋める墓は、誰も作ってなどくれないのだ――そう自分に言い聞かせることで、涙が出るのを堪えたりもした。
本当ならば茜色の夕焼けが見られる丘の上にでも埋葬してやりたいのだが、それも行うことは出来なかった。そもそも、私達の知っている夕焼けを見ることすらも叶わなかったのだ。
その原因は枯れた海にある。厳しく吹き付ける風が、海が干上がったことでむき出しになった地表の砂を浚い、巻き上げ、まき散らすことで空に蓋をし、陽の光を届かなくしている。かつてそこに咲いていた筈の陽だまりの花は、もう私たちの手の届かないところへ行ってしまったのだ。
上がそうなら下も同じ。灯台のライトルームより覗いた世界、眼前に広がるぐずぐずの泥――かつて海と呼ばれていたもののなれの果て――は、腐った木の実の色に良く似ている。時折視界の隅に映る泥以外の色は、悉くがポケモンの死体だった。翌日には泥に呑み込まれて消えていた。
今日も月の光はない。人間たちの営みの光ももうない。一寸先はおろか自身の指先さえ見えないほどの完璧な暗闇は、これからの自分の行く末を示唆しているようで気持ちが悪い。指や毛先、心臓にまで纏わりついてくる泥闇はいくら触れ合っても慣れる事はなく、この時間は私にとって酷く憂鬱なものだった。
しかし、私はデンリュウだ。故に、頭部の球体から明かりを発することが出来る。その気になれば、この灯台から外へと光を漏らすことだって出来るのだ。だが。
だが、それをして何になるというのだ。確かに一時の不安や寂しさは紛れるかもしれないが、それ以上の意味合いはない。寂しさを紛らわせたところで私が一匹ぼっちであることには何も変わりがないし、不安を埋めたところで次に襲ってくるのは虚無感だけだ。そんな自己安心の為にエネルギーを消費するのは、この生き辛い世界ではご法度なのだ。より長く、生き永らえる為にも。
この終わってしまった世界の中で、私が唯一楽しみにしているのは眠ることだった。かつて職務に明け暮れていた頃は碌に眠ることも許されなかったのだから、その点に限っては今の世界の方が幸せだと言えなくもない。時間の概念も日付の概念も衰退した今は、好きなだけ起きて好きなだけ眠ることが可能だった。勿論空腹等々の生理的現象も考慮しなければいけないからずっと寝ている訳にもいかなかったが、大体一日の半分は床に就いていた筈だ。もっとも、他にやる事がないからという理由もあったが。
しかし、その錆びついた黄金サイクルは今日を持って崩れ去った。灯台に、新たな客が訪れたのだ。
「よお」
生の籠る声とは裏腹に、来訪者の身体はほぼ泥人形と化していた。あのどこまでも広がる泥の海を漂ってきたのだろう、被る紫紺の影帽子は泥を吸い込んでぼろぼろに煤けていた。
私は横たえていた体を起こすと、暫くぶりの来訪者を一瞥した。黒々しい泥に浸って変色してはいるが、彼は確かにムウマージというポケモンだった。この辺りでは見ないが、一応は知っている。ライトルーム勤務だった頃にトレーナーが引き連れていたのをはっきりと覚えていた。
「おれさ、久しぶりに見たよ、生きてるやつ」
ぽつぽつ。吐き出した言葉と共に、雫がはじける音がする。飄々と笑いのける彼の瞳には、涙が浮かんでいた。瞬きの際に零れ落ちたそれは、頬の泥をこそげ落としてコンクリの地面に叩き付けられていく。黒ずんだ涙に泥は吸い取られ、奥から覗かせた紫色の肌はまだ若々しい少年のものだった。
「なあ、聞いてくれよ。泥の中を進んでると、たまに固いものに触れるんだ」
彼は私の傍まで近寄ると、そっとしゃがみ込んだ。
死臭を帯びた泥の臭いと共に、ゴーストタイプ特有の冷涼感が伝わってくる。こうして誰かの温もりを感じるのが、随分と懐かしいことのような気がした。
「そいでさ、拾い上げると決まって誰かの亡骸なんだ。泥にまみれてぐちゃぐちゃだけど、形は綺麗に残っててさ。みんな苦しそうなんだよ。恨めしそうな形相で、おれの事を睨んでくるんだ。おれ何も悪いことしてないのにさ、ただ生きてるだけなのに、なんか生きてちゃいけないって言われてるみたいで」
心の底に押し込められていた不安をを押し出すように、彼は話を続ける。絞り出すような吐息が、かちかちと震えていた。
帽子に隠れ、その横顔から表情は窺えない。されど、彼が怯えているのは手に取るように分かった。私だって最初に死体を見たときは酷く狼狽したものだ、まだ若齢の彼がそういうものを見続ける状況に立たされなければならないというのは、想像を絶する責め苦に違いない。
「……悪かったよ。急に押し入ってきて、変な話してさ」
魂の抜けた笑顔と共に、彼は静かに立ち上がった。未だに癒えない痛みの影を引く背中は、今にも溶けて消えてしまいそうな弱々しさがある。
一度強い衝撃を食らった心は、それ以上何をしなくても勝手に壊れていくものだと聞いたことがある。まさしく今の彼がそうだった。これ以上野ざらしにしたらどうなるかなど、誰にだって予想は付く。
「おれ、もう行くよ。この世界で独りぼっちじゃないって分かったし、話も聞いて貰えたし、良かった」
――良くない。何一つとして、良い訳がない。
私は唇を噛み締めると立ちあがり、彼の紫装束を掴む。泥水でしとどに濡れそぼった身体を伝って、哀しさの匂いが鼻をつく。
そして私は、彼が何の脈絡もなく話し始めた理由をようやく理解した。孤独に今まで彷徨い続けてきた彼は、自分の負った痛みを吐き出せる時間を待ちわびていたのだ。そして私が、初めて見つけた、ただ一匹の――。
「お互い、死なずにいような」
彼は、顔を背けた。ムウマージの濁った瞳は、私の身体を映さない。それでも、私には彼が助けを求めているようにしか見えなかった。只でさえ多感で脆弱な子供の心が、悲鳴を上げ続けているようにしか。
ひび割れた心を包むように、私は彼の肩を抱いた。そうすることに抵抗はない。むしろ、そうするべきだという確信さえあった。
その確信を裏付けるように、彼は私の腹にゆっくりと顔をうずめる。小刻みに震える彼の頭を、ゆっくりと撫でまわす。
「水場からは泥しか出ない。食べ物は遠くまで探しに行かなければまともなものがないし、泥の臭いだってひどいものだ。夜になると真っ暗だし、寝床の硬さたるや外の方が幾分かマシなぐらいだ。……もし、それでもいいのなら、ここに根を下ろすといい」
「……いいところは、ないのかよ」
「寂しくはない。お互いに」
「なんだよそれ」
すすり泣きは止まっていた。彼は私の腹から顔を外すと、控えめに微笑む。
「サイコーじゃん」
二
気が付くと、私はアサギの灯台の目の前に立っていた。根元の白から切っ先の蒼まで、凛と晴れ渡る青空を切り裂いて佇む白無垢はいつ見ても惚れ惚れとするような出で立ちだ。建設から今まで随分と長い時を過ごしてきたのに、素肌には傷一つさえ走っていない。いかに町の人々に愛されてきたかが良く分かるというものだ。
アサギの砂浜の細やかな粒をまぶしたように、青空は燦然と輝きを放つ。毛先を撫でるように吹き付ける海風に合わせて、キャモメの群れが踊っていた。
「どうして」
思わず、そんな言葉が口を付いて出た。瞼の裏に過ぎるのは終末世界の空の色。今のこことは似ても似つかぬ、退廃的なまでの黒ずみ。今までも、そしてこれからもずっと黒ずんだままだと思っていた世界が、なんと晴れているではないか。それどころか、海も元に戻っている。命と潤いに溢れた、深い深い青色に。
居ても経ってもいられず、私は駆け出した。焼けつくような美顔の太陽に見つめられ火照る砂浜を踏み鳴らし、踝を海に突っ込む。冷たい。気持ちいい。そしてすごく、懐かしい感覚。
足毛の内側にまで入り込んでくる波にある種のくすぐったさを覚えながら、私はしばしの間水平線を見つめた。私の愛するアサギの町がまだ存在していたことに、言葉にできないような熱が目と喉の奥からじわりと這い上がってくる。もしかしたら、あの終末世界こそが只の夢だったのかもしれない。妙にリアルな、俗に言う明晰夢とかいうやつで――
「違うよ」
思考に、一閃。薄ぼけた闇をさらに薄めたように、それは不気味だった。
「これは、ただの夢だよ」
ききき、と重いものを擦るような笑い声が潮風を震わせた。さざめいていた海が微かに遠ざかっていき、代わりにそれの息遣いが深く強く聞こえるようになった。それは白い砂浜を洗う潮騒よりもか細く、しかし妙に耳にこびりつくような残響を纏わせ、私の耳毛をねっとりと舐る。
不快感に煽られて、私は糸を引かれるように振り向いた。飛び込んでくる黒い布を裂いて被ったような風体は、砂浜の白に異様なほど不釣り合いで、そこだけ切り取った別の空間を貼り付けているようであった。どんなに風が吹こうともなびく事のない白い髪の間に、夜の灯台よりももっと仄暗い黒を孕んだ瞳がぐるぐると渦巻いている。焦点をどこかに落っことしてきたのか、瞳の中は嫌に朧気だった。
「覚えておくといい。この感触を。素敵な世界を。風の声を。海の匂いを。空の青を。灯台の美しさを。そしてなにより、君が幸せを感じていたことを」
再び、そいつは含み笑いを浮かべる。
不意に意識が揺らめいた。大地に大きな衝撃が走り、崩れかけの土壁を蹴ったようにぼろぼろと零れ落ちていくのは海、それから空の青。空間を駆け回る亀裂に囲まれた所から、ぱっくりと裂けてとろみのある闇が噴き出して、今までそこにあった筈の世界を黒く塗りつぶしていく。
「――」
私のところへ確かに届いた言葉が意味になる前に消えていくのと、私の意識が消えていくのと。
どちらが早かったのかは、分からないまま、私は――。
「……おい、起きろってば」
ゆさゆさ。ぽすぽす。
海の底にいたような意識が、急速に引き上げられるのを感じた。目ヤニのへばり付いた重ったるい瞼を開くと、私の顔色を窺うように覗き込むムウマージの顔。
「おはよう。随分うなされてたけど、大丈夫かあんた」
「ああ、おはよう。……何でもない、変な夢を見ただけだ」
気にしないでくれ、と私はかぶりを振った。首元に鉛が流されたような気だるさを覚えたが、別段気にすることでもないだろう。原因がこの硬い床だということはとうの昔に分かっている。
彼との共同生活も、気が付けば二十回目の朝を迎えていた。
しかし、上空は相変わらず砂塵の蓋に覆われているので、その時間が本当に朝なのか推し量ることは出来ない。宵闇が去って、微かに自分の掌が見えるようになってきた頃を、私達は便宜上“朝”と呼んでいるだけだ。
「そうか。いや、変な汗かいてるようだったから心配でさ」
「そんなに酷かったのか」
「そりゃもう。“ゆめくい”で覗いてやろうかと思ったけど、面倒だからやめた。あれ結構疲れんだぜ」
ムウマージが本気で心配していたところを見るに、どうやら私は相当うなされていたらしい。どんな夢かはもう覚えていないけれど、確かに胸中には何か苦々しいしこりが留まっているような気がした。一体どんな夢を見ていたのだろうか。少なくとも良くない夢であることは確かだ。
「そんな顔すんなって、所詮夢は夢なんだし。ほらメシ食おーぜ、今日は木の実を見つけたんだ。一個だけだけど」
ぶゆぶゆに萎びた木の実を器用な手つきで半分に割ると、彼は私の前に大きい方を差し出した。お世辞にも食指が進む見た目とは言えないが、食べられてしかも味があるだけマシなものだ。
「……なあ」
噛む度に口に溢れる不快感と甘苦さは、なんというか、なんというか。とりあえず食に対する冒涜だと感じた以外には、特に語るべきではない。胸一杯に広がる生理的嫌悪感を語るには、奇麗な言葉では足りなさすぎる。ムウマージが何か言いたげに眉根を寄せていたので、私は沈黙を促すように首を振った。
「何も言うな」
「でも」
「いいから」
“味に関してとやかく言うな、食えればいい”という意を込めて睨みつける。そいつが伝わったのか単に私の形相が続きを言うのを思いとどませたのかは知らないが、不服そうに口を尖らせながら彼は黙った。途端に広がる気まずい雰囲気を払拭するべく、私は立ち上がる。呼応して、ムウマージの影帽子の鍔が、くいっと跳ね上がった。
「え、もうやんの」
「ああ。よくよく考えたんだが、夜より昼の方が不特定多数の目につきやすい」
「不特定はともかくさ、多数って呼べるほど生きてる奴が居るのかどーか」
いまいち洒落になっていない言葉を無視しつつ、私は階段を登る。もういない人間サイズに調整されているために、短い脚では結構な負担だった。ぜえはあと切れる息の隣をふよふよとなびく布のように通り越していくムウマージが、無性に恨めしくて腹立たしい。
目指すのはライトルーム。
まだ灯台が生きていた頃、私はあそこで、海へ向けて光を放っていた。その当時は嫌で嫌で面倒でしかたなかったものだが、無ければないで寂しいものだと感じたのはムウマージと出会って三回目の朝だったように記憶している。そのことを漏らすと、ムウマージはいかにも名案だというように顔を綻ばせ、私にこう告げた。“標になってくれ”と。
つまり、こういうことだった。数多く生息していたデンリュウの中でも、曾祖母アカリより繋がる私達の血筋は特に発光器官が発達している。かつては海を統治する管制塔としての働きを担っていたその光を、今度は陸に向けて放ち、まだ見ぬ生存者達がこの灯台へ集う切っ掛け――標となってほしい、と。
私としても、それは名案に思えた。というか実際、名案だった。私の退屈やフラストレーションはそれによって解消されるし、まだ生存者がいるかどうか確認するためにも、最良の行動だ。だが、あえて一つ、欠点を上げるとすれば――とても、困憊するということだ。
よくよく考えれば当たり前だ。発光に費やす電力は自身の肉体を動かすエネルギーと直結している訳で、私の今の行為は自ら自分の体力を削ることによって成立している。疲れない訳がなかった。
しかし、なにかしていないとどんどん鬱屈していくのもまた事実。打ち込めることがあるだけ、まだマシだと思いたい。
「よ、遅かったな」
様々な意味で疲れ知らずなムウマージのにたり笑みを通り越して、私はライトルームの中央に立つ。深く息を吸い、尾っぽと額の球に力を込めると、しならせた細鞭のような破裂音を立てて電気の糸屑が纏わり出した。耳先からつま先まで、ありとあらゆる箇所の毛が一斉に逆立つこの瞬間が、とても楽しい。
「すっげ……かみなり雲みてえ」
感嘆とも畏怖ともつかぬ彼の声は、跳ね上がっていく電圧と騒音に呑まれて聞こえなくなっていった。渦巻く雷撃の奔流の中央は、一周した爆音波が静寂へと姿を変える。台風の中心部も、きっと今のような空間が展開されている筈だ。
視界を走るは絹糸。流星の様に渦巻き、踊り、輝くのは電気の飛沫。ああ――なんて、楽しいんだ。
身体中を震わせる愉快さを噛み締めて、私はさらに電力を上げていく。
眩いばかりの閃光は、くすみ切った空のどこまで届くのだろうか。
そんなことを思いながら、私は、迸る。
三
「正直になりなって。楽しいんだろ、放電」
「そんなことはない。断じて」
ムウマージから繰り出される毎度恒例の問いを、私は毎度恒例に突っぱねる。そんな様子を見て、オーダイルとレディアン、オオタチは微かな苦笑を浮かべた。
オーダイル率いる彼らと私たちが出会ったのは一昨日、或いは彼と迎える二十二回目の朝だった。放たれた光を見つけて、泥の海を掻き分けここまで来たというのだから、私の消費した時間とカロリーは無駄ではなかったようだ。そういう事を気にする性分ゆえに、今までずっとやきもきしていたのだが、これで私の行動が理に適っているものだと証明できたのである。一安心。
「おい、オオタチ。身体はもういいのか」
「うん、もう平気。オーダイルさんこそ、疲れてるでしょ」
「ばっきゃろー。ガキは自分の心配だけしてりゃいいんだ」
何ともまあ、仲睦まじい事である。そこだけ向日葵の花畑もかくやと甘ったるく朗らかな空気が広がっていた。
レディアンの話を聞くに、彼ら三匹の関係は私とムウマージとの関係とよく似ていた。終末世界の泥の海を進んでいたところを、偶々出会ってそれからはずっと共に行動しているという話だ。なんでも、小柄なオオタチを泥から庇うように、オーダイルが背中に乗せて運んでいたら妙に懐いてしまったとか。まるで年の離れた兄弟のよう、とはレディアンの言である。
「ところで、オーダイル」なおも浸食を続けるおひさまぽかぽかワールドに太刀を切り込むのは中々苦しい事だったが、どうにか私は成し遂げた。オオタチを振り回して遊んでいた手を止めると、オーダイルは静かに私の方を向いた。海面から急に深海付近に引きずり込まれたかのように、取り巻く空気がとても息苦しいものに変わる。なんだか、酷く罪悪感。
「そろそろ聞かせて貰ってもいいか。オオタチもだいぶ良くなってきたようだし」
「ああ、いいぜ。っても、大部分はレディアンに頼ることになっちまいそうだけど」
覚えとくのは苦手なんだよ、と彼は苦々しく頭を掻く。
「構わないよ。その時はレディアンにお願いする」
「ええ、任せてください」
急に話の空気が変わって、オオタチが困惑していた。私はムウマージの方ににちらりと意識を傾ける。既に依頼が飛んでくることは察知していたのか、彼とは即座に目が合った。“後でたっぷり聞かせろよ”とでも言いたげに頬を釣り上げると、影帽子が微かに揺らんだ。
「オオタチ君。ちょっと、向こうで遊んでよっか」
「え、いや、あの」
幽霊という特性を生かして無音で近づくと、ムウマージは背後からオオタチを抱きかかえた。飄々と抱きかかえられるあたり、意外と力持ちだ。少し見直した。
しかし、ムウマージがオオタチを抱えるこの絵面は、人によっては幽世住まいの霊がいたいけな少年を向こうの世界へ連れて行こうとしているようにも見える。というか、ある意味、根本的なところでは何も間違ってはいなかった。ムウマージに言ったら“レイテキジンケンのソンガイだ!”などとどこで覚えたのかも分からぬ呪文を連呼されるのは経験上知っていたので、内緒。
ムウマージ達が去るのを見届けた後、私達は重苦しい空気を噛み締めながら話し合いを始めることとなった。議題は勿論、終末世界の有様についてだ。面子のどことなく底暗い表情を見るに、議論の行く末はもう決まっているようなものだったが、そのことについて触れてはならないことは既に暗黙の了解済みだった。
「……じゃあ、オレから行くぜ」
埃を被った空気に負けじと、オーダイルがひび割れた声を張る。本人は明快なつもりなのだろうが、言葉尻に微かに滲み出る諦念の意は消えそうもなかった。土台無理な話だ。
「この灯台を中心として、俺たちは右の方から来た」
「レディアン」
「東から、ですね。太陽が出ていないので曖昧ですが、地理的に考えるとそうなります」
「……もうレディアンが話せよ」
はあ、と口を尖らせるもレディアンはどこ吹く風。面倒なことは極力押し付ける、というのが彼女のポリシーだと聞いた時には脱力したものだが、実際にその現場を目撃するとまた脱力してしまいそうになる。いったいなんなんだ、このレディアン。
「話を戻してくれ」
「ああ、分かったよ。少なくとも、オレが見てきた中で泥に覆われていたのは低地部分だ。東の方は低地が多かったから、泥も多かった。ついでに言うと、泥に呑まれた死骸もな」
「私は飛べるので良かったのですが、オオタチくんとオーダイルさんは大変そうでした。このオーダイルさんでさえ沈んでしまいそうになったことが何度か」
「あの時ばかりはみずタイプに生まれて良かったと思ったね。じゃなきゃオレもオオタチもここにはいない」
シニカルチックな笑みの端に力はなく、楽観的な口調の奥底は恐怖に怯えていた。灯台に引き籠っていた私とて何度か死の恐怖に直面したことがあるので、オーダイルの恐怖は手に取るように伝わってきた。擦りつけようのない不安に、胃の奥が微かに痛む。
「そういえば、オオタチの体調は大丈夫なのか」
「本人はすこぶる好調だって言ってる」
「そんな訳がないだろう」
「ああ、オレもそう思ってる。あの痩せ方は異常だ」
向こうの隅でムウマージと戯れているオオタチを見やる。種族特有の寸胴体型は日陰に伸びた植物の様に頼りなく、力を入れたら根元からへし折れてしまいそうに華奢だった。肉という肉がこそげ落ちて、薄汚れた身体に病的な窪みをいくつも拵えている。
「理由は」
「栄養失調」
だろうな、と思った。
成体の我々と違いオオタチはまだ子供、栄養状態の良くない状況が続いた為に発育も止まってしまっている――と、彼は考えたのだろう。筋も通っていたし、理解出来なくはない。だが。
「本当に、そうなんだろうか」
「ん?」
「いいや、何でもない」
憶測だけで物事を言うのは憚られた。というか、単純に言葉にしたくなかったのだ。考えうる限り、最悪の可能性。
思考の末はみ出てしまった声の末端を握り潰すように、ひび割れた喉から咳払いを一つ。
「じゃあ、次は私から。と言っても私は灯台からあまり遠くに出たことがない。これはムウマージから聞いた話なんだが――……」
その日の私は、自分でも驚くほどに饒舌だった。
それはつまり、雑草の様に芽吹く不安の種を、目に入れないようにする為か――或いは。
四
オオタチが倒れたのはその日の夜のことだった。突然ぐったりと仰向けになったまま、彼は動かなくなった。身体は強張ったように固く、尻尾の先からは熱が奪われて冷たくなった。
鼻に手を当てると微かに息が通っていたので呼吸はしているようだが、時折不規則に乱れたり止まったりすることがある。もしかしたら呼吸器が弱っているのかもしれない、とレディアンは私に告げた。医療的な措置が受けられないこの世界では、それはつまり、死亡宣告でしかない。
暫くオオタチの看病に努める、というレディアンを見送った後、私は光のないライトルームに佇んでいた。窓の外は夜の帳が下りたように真っ黒で、腐敗しきったこの世界の行く末を暗示しているようであった。一寸先は闇、それも、悪い意味での。
一人きりになると、涙が止まらなくなった。オオタチのこともそうだが、何より、私達がいずれ彼と同じ道を通るという事が堪らなく怖かった。孤独になる事が怖いのか、痛いのが怖いのか、単純に死ぬという事実が怖いのか、そういう事を考える内に、考えること自体が怖くなっていく。やめようと思っても、一度こびり付いた恐怖は簡単に振り払うことは出来ない。
ふと、首筋に何かひやりとした感覚が訪れた。振り向くと、ムウマージが浮かんでいた。
「ムウマージか。オーダイルは」
「大分参ってるみたいだ。おれに掴みかかってきたから気絶させといた。その方がいいだろ」
「荒っぽいな」
「おれだってパニクってたんだよ。後で謝っとく」
彼は私を一瞥した後、傍に腰を下ろした。ここ最近色々と忙しかったせいか、ムウマージと二人っきりになるのは随分と遠い日の事だったように感じられた。彼から伝わってくる無機質な冷たさが、今はとても心地いい。
「泣いてたんだろ。目、赤いぞ」
伸びてきた手が、私の目を優しく擦った。
「オオタチのことか」
「当たらずとも遠からず、だ」
私は重い溜息を吐いた。もし空気が可視化できるのならば、その息はとても濁った色をしているに違いない。
「オオタチのあの姿を見て、なんか実感したんだ。死ぬって、案外近いことなんだって」
「それで、怖くなって泣いてたってか。あんたらしくないな」
「私だって怖くなる時ぐらいあるさ」
「それもそうか」
彼はわざとらしく微笑んでみせ、そしてふと真剣な表情を浮かべた。
「……でもさ、デンリュウ。おれ、こうも思うんだ。死ぬこととか生きる事自体には大した意味がなくて、真に問題にするべきなのはその間のことなんだって」
「……ムウマージ?」
金色に輝く瞳が、窓の外を通り越して、何億光年も離れた遠い場所を見つめていた。横目で見た彼の横顔は妙に大人びていて、凛々しくもどこか郷愁的な哀しみを孕んでいる。
「急にどうしたんだ」
「いや、何か言ってみたかっただけさ。たまには、らしくないことを言ってみたくなるじゃん」
「なんだそれ」
急に子供っぽくなったムウマージの姿を見ていると、なんだか笑いがこみあげてきた。いつの間にか、抱いていた恐怖の感情はどこかへ消えてしまっている。重苦しい雲に覆われていた筈の胸が、たちまちの内に晴れ空へと変わる。
「あ。デンリュウが笑ったの、おれ初めて見たかも」
「ああ、私も久しぶりに笑ったよ。キミが居てくれてよかった」
「よせよ。照れるって」
私と視線を合わせないよう萎びた影帽子を深くかぶり直して、焦げるぐらいに頬を赤らめて、彼はぽつぽつと呟いた。
「おれも、デンリュウが居てくれてよかったよ。じゃなきゃ、生きようと思えなかった」
奇妙なむず痒さに伏した瞼の裏には、出会った当時の私たちの姿が映っているのだろうか。こっ恥ずかしさで矮小に縮こまった彼を見ていると、なんだか穏やかな気持ちになれた。
「私もだよ」
そっと彼の頭を撫で、瞳を閉じた。かつての邂逅に思いを馳せる。寂しさと孤独に飲まれそうだった彼を匿った――というのは形ばかりで、誰かと居ることに最も飢えていたのは誰でもなく私なのだ。ムウマージが居なかったら、私は誰とも出会うことなく、寂しさの中で一匹死んでいただろう。例えば、今こうしていられるのも。
「お前が居てくれたから、だよな」
「ん?」
「いいや、何でもないよ」
ゆっくりと首を振って、私は床に寝転んだ。暗い天井のひび割れた部分から、暖かな闇が顔を覗かせている。静寂と孤独の象徴である筈のそれは、なぜだか陽だまりの様な優しさを孕んでいた。
私は粘っこい唾を呑んだ。そろそろ、私も覚悟しなければならないな、と思った。あれ程までに恐怖を抱いていた闇が、ムウマージが傍にいる時だけは怖くないのだ。それはつまり、ムウマージという存在が、私の中で大きなものに変わりつつあるということを意味している。だが、ムウマージだって、私だっていつかは死んでしまうのだ。もし、私より先にムウマージが死んでしまったら? 私は耐えられるのか? 一生埋まる事のない傷を抱えて過ごしていくなんて、私には重すぎるのだ。
恐ろしい何かに追われるように瞳を閉じた。瞼の裏に広がる幾何学模様。腫れぼったい目が、急に鋭い頭痛を運んできた。
「なあ、デンリュウ。……もう寝ちまったのか?」
まだ起きていたけれど、私は返事をしなかった。今返事をすると、私の中で守り続けてきた強がりが、音を立てて崩れてしまいそうだったからだ。
「まあいいや。おれ、さっき難しい事言ったけど、あれ気にしなくてもいいからな。デンリュウもおれも、今生きていることを楽しめれば、多分それでいいんだと思う。……それじゃおやすみ、デンリュウ」
※ポケモンオンリーです。死ネタもあります。苦手な方はお気を付け下さい。
Subject ID:
#95840
Subject Name:
なみのり迷惑メール
Registration Date:
2000-05-16
Precaution Level:
Level 2
Handling Instructions:
当案件にて保全されたメールは、管理局のファイルサーバに保管します。メールが保管されているサーバにアクセスするためには、様式F-95840に則った特例申請を提出する必要があります。メールはサーバ上で三重に暗号化された上で保持され、研究目的以外での閲覧・持ち出しは禁止されています。
新たに当案件にて管理すべきメールが確認された場合、可及的速やかにメールの回収を行います。その際、受信者がメールのコピーを媒体を問わず保持していないことを確認しなければなりません。
Subject Details:
2000年上半期から、一部のポケモンセンターより「トレーナーがボックスに預けたポケモンが、身に覚えの無いメールを持っている」という申し出が続けて寄せられました。案件管理局ではポケモンセンターの関係者にヒアリングを実施し、メールが発見された際の状況を調査すると共に、当該メールの確保に乗り出しました。申し出があったメールに付いては、いずれもメールの確保に成功しています。
ポケモンが持っているメールはいずれも「なみのりメール」と呼ばれるタイプのもので、発信者は「ユニティー・サイエンス」と名乗る団体です。時期や地域によって若干の差異が見受けられますが、内容は概ね「ポケモンと人との新しい関係」「一歩進んだポケモンとのコミュニケーション」を受信者に提案する内容になっています。メールの末尾にはパーソナルコンピュータ用と推定されるメールアドレスが記載され、同団体とコンタクトを取るよう受信者に促しています。
以下は文面の一例です:
ポケモンとの あたらしい コミュニケーション!
あなたと ポケモンが ひとつになるための
さまざまな おてつだいを いたします
くわしくは しりょうの せいきゅうを
ユニティー・サイエンス XXXXXXXX@unityscience.com
これまでのところ、案件管理局では「ユニティー・サイエンス」と名乗る団体とのコンタクトには成功していません。資料の請求を行ったところ、メールサーバは指定されたアドレスが存在しない旨のエラーを返します。広範な調査においても、「ユニティー・サイエンスと名乗る不審な団体からのメールを受け取った」という文脈においてのみこの団体の名前は登場し、具体的な素性は未だ明らかになっていません。
メールを受信したポケモンについての調査では、ポケモンには特段の異常は見受けられませんでした。ただし一部のポケモンについては、トレーナーにより預けられる以前と比べて、トレーナーへの信頼度が明らかに向上したとの報告があります。メールとの因果関係については不明です。
Supplementary Items:
本案件に付帯するアイテムはありません。
タグ: | 【書いてもいいのよ】 |
586です。
前々から「ポケモン世界のデジタル系都市伝説・怪奇現象」をテーマにした話を書きたいと思っていたので、
ぼちぼちネタを投下していこうと思います。
一つ一つは報告書風かつごく短いので、それほど期待せずにご覧ください。
ごくたまに長いのも混じるかも。
感想ありがとうございます。
小説の強みなんて私も分かっていません……。
語り手にトリックを仕込めるのは、小説ならではですね。タブンネ。
好きって言ってもらえて嬉しいです。ありがとうございます。
この話は最後がすごいんです。
語り手がタブンネに入れ替わっていくんです。タブンネ。
そういう演出は小説ならではの演出で、これ読んでよかった!と思いました。
これ本当好き。
こういった自分の表現する媒体の強みを知ってるだけで、かけるものが違ってくるんだなぁと画面の前でうなってました。
タブンネを殺してはいけない。絶対だよ。
目の前にピンクの肉塊が転がっていた。ほんの少し前までは生きていた。私はただ呆然と、それを見下ろしていた。
「嘘でしょ」
草むらから飛び出してきたから、これはチャンスだと思って、手持ちのジヘッドに攻撃させた。タブンネはあっけなくやられて、動かなくなった。予想以上にレベル差があったのだ。
事故だよ、事故。私は自分に言い聞かせる。事故だ。野生ポケモンを追い払おうとして攻撃して、当たりどころが悪かったという不幸な事故は、珍しいものじゃない。私はとりあえず十字を切って、タブンネの遺体を草むらの奥に押し込んだ。脱力したタブンネの体は重たくて、作業に時間が掛かってしまった。その間、青空をくり抜いたような瞳が遺体に不似合いな爽やかさで、ずっと私を見ていた。
タブンネ、ヒヤリングポケモン。優しいポケモンで、戦う相手に経験値をたくさんくれる。並外れた感覚でポケモンの体調をよく捉えるから、ポケモンセンターでも助手ポケモンとして多く飼われている。そんな優しいポケモンだけど、一つだけやってはいけないことがある。タブンネを、どんな理由であっても、殺してはならない。殺したら、大変なことになる。
他のポケモンなら、シキジカやバッフロンなら食肉として利用されるかもしれない。暴れて被害を出して、駆除されるポケモンだっているだろう。でも、タブンネは、タブンネだけは、いかなる理由があっても殺してはならない。旅に出てから、先輩トレーナーたちに口を酸っぱくして言われたことだった。
そんなの、都市伝説よ。私は思う。学校や家庭で、そんなこと聞いたことない。言ってるのは、バトルトレーナーと言われる専業のトレーナーたちだけ。きっと都市伝説。手持ちのポケモンたちの経験値の為にタブンネを“狩る”彼らなりの良心の現れ。例えば魂を食らうとか死者に供えられた蝋燭が化けるとか言われてるヒトモシならまだしも、タブンネで何かしら大変なことなんて、起こるわけがない。
それに、これは事故。ノーカウント。きっと、大変なことになんてならない。タブンネを隠し終えた私は、立ち上がって汗を拭く。大変なことなんてなりはしない。もう一度そう自己暗示をかけて、ジヘッドをボールに戻そうと振り向いた。
そこにジヘッドはいなかった。
私は目を疑った。
いたのはサザンドラだった。
私が惰性で構えていたボールに、サザンドラは小首を傾げながら吸い込まれていった。私も首を傾げながら、スマホのアプリでサザンドラのデータを調べた。それによると確かにこの子は私のジヘッドだったポケモンらしい。でもおかしい。このジヘッドは今朝モノズから進化したばかりなのに、あのタブンネでは一発でサザンドラへ進化するほどレベルは上がらないはずなのに。私はスマホの画面を注視したまま呆けたようにその場に立ち止まって考えて、そしてある仮説を立てた。
目の前にピンクの肉塊が転がっていた。ほんの少し前までは生きていた。私は手袋を嵌めて死体を草むらの奥に隠すと、次を探した。後ろでは学習装置を付けたハクリューが、ほんの数瞬前までミニリュウだったポケモンが、くるぐるくるぐる、歓喜か嗚咽か分からない鳴き声を上げている。
――最初の事故から暫くして、私は二度目の“事故”を起こした。バトルで勝てないとか、育成が上手くいかないとかフラれたとか色々あって、手加減を間違えたのだ。そして、その“事故”で私は、あの日立てた仮説が正しいことを確信した。
すなわち、タブンネは普通に倒すだけでもポケモンを良く成長させるが、殺せばその成長度合いは桁外れのものになる、ということ。人が来ないような場所にある草むらを探す手間はあるが、対価はそれを補って余りある。
私は思う。タブンネを殺してはいけない、なんて都市伝説、端から出鱈目だったのだ。きっと、この美味しい情報を他に知られるまいと思った誰かが流したものだろう。
私は静かな草むらでタブンネを探す。私の手持ちには育成中のポケモンがハクリューを含めあと五匹、控えている。
これを始めてから、私のバトルの勝率は目に見えて上がった。今まで二十連勝くらいしか出来なかったバトルサブウェイで、四十八連勝してサブウェイマスターに挑むのが当たり前になった。そうなるとバトルが楽しくなる。もっと色んなポケモンを育てたくなる。ガブリアスも、バンギラスも、メタグロスも、ハピナスも育てたい。砂パも雨パも試したいし、マイナーどころを主軸にした冒険的なパーティも作りたい。
その為に、タブンネ。
探していたタブンネは、間もなく出てきた。いつも通りサザンドラを出してやっつけた。いつも通り使い捨ての手袋を出して死体を草むらの奥に押し込めようとした矢先、タブンネが不意に首をもたげて、言った。
「気付け」
私は慌てて手を離した。仕留め切れなかったのかと思ったが、ハクリューはカイリューに進化しているし、タブンネはきちんと事切れている。余力を振り絞って動いたものらしい。それと幻聴だろう。私はさっさとタブンネを草むらの奥に押し込むと、その場を去った。疲れているのだろう。今日はさっさと休もう。道中、背中を這い回るような視線を感じて後ろを振り向いたが、静かな湖面が晴れ渡った青空を映しているだけだった。いよいよ疲れている。
町に戻ってポケモンセンターを目指して歩いている時も、舐め回すような視線をずっと感じていた。気になって何度も辺りを見回す。そんな私の行動が目立ったのか、知らない小男が一人、私に近付いてきた。
私は顔を顰めた。嫌な臭いのする小男だった。小男は妙に円な目で私を見て、言った。
「トレーナーさん、トレーナーさん、それはよろしくない」
変な言いがかりを付けないで、と言って私は一歩下がった。すると小男は一歩距離を詰めた。ボロ布同然のマントの下から、まるで腐った肉でも持ち歩いているのかのような臭いがする。トレーナーとは名ばかりの、浮浪者だろう。私みたいにバトルで連戦連勝すれば、美味しい物も食べられるし、綺麗な服も着られるのに。
「トレーナーさん、トレーナーさん」
小男の目が嫌に気になった。それは、小男を持ち上げてみたら、目玉のところで頭蓋が貫通して見えそうなくらい、青空そっくりの空色だった。
「今まで倒したタブンネと同じ数の蝋燭を、殺したのも普通に倒したのも含めた数を、一番近いタブンネの墓に、供えなさい。悪いことは言わない。そうしなさい」
小男はそれだけ言って去っていった。
なにそれ、馬鹿らしい。小男が見えなくなった後、私は小さな小さな声で呟いた。タブンネを倒した数だけの蝋燭なんて。
でも、気味が悪いから念の為、蝋燭を百本買って、さっきの草むらに行った。すると先程は見当たらなかった祠があって、中を覗くと、蝋燭をたくさん並べられるよう、窪みの付いた仕切り板が入っていた。下の方に十数本、燃え尽きそうな蝋燭が立っていた。私は蝋燭の封を解いて、その中に白い寸詰まりな蝋燭を追加した。倒したタブンネの数は分からないが、百本もあれば十分だろう。奥から順にライターで火を付ける。数が数なので流石に時間が掛かり、全部灯し終えて祠の扉を閉じた時には、空の方も焼けたように赤く染まっていた。
今度こそ、私はポケモンセンターに向かった。
自動ドアをくぐった。どこの町でも同じポケモンセンターの内装が、トレーナーたちに安心感を与えてくれる。
私は真正面にあるカウンターに向かう。
「すいません」
タブンネ? ピンク色の生物がこっちを見て、私は何故かドキリとした。何を考えているんだろう。この子は野生のタブンネたちとは無関係のはずだ。
「誰かいる?」
タブンネ。
タブンネは短い手を私に差し出した。ちょいちょい、と指を動かす。私が反応に困っていると、タブンネはカウンターの下からトレーを出してきた。穴ぼこが六つ空いた金属製のトレー。ポケモンを回復機械にかける時に、モンスターボールをセットするのに使うやつ。さっきの祠の仕切り板にも似ている。
タブンネ。
タブンネはトレーを私に差し出した。回復してやる、ということだろうけど。
「ねえ、人を呼んで」
しかし、タブンネは引かない。私は仕方なくトレーに六つのボール全部をセットして、タブンネに渡した。タブンネは奥のドアをくぐって姿を消す。カウンターの中に回復機械があるのに。奥に行く時は混んでる時だけのはずなのに。今はとても空いているのに。
戻ってきたタブンネの手に、トレーはなかった。タブンネはタブンネ、と言って私に鍵を渡した。キーホルダーに数字が刻印されている。ポケモンセンターの宿泊部屋の番号。
「ねえ、私のポケモンは?」
聞いてみるが、タブンネはタブンネ、と言って奥に引っ込んでしまった。あのタブンネでは話が通じない。人を探そうかとも思ったけれど、関係者以外立入禁止の多いポケモンセンターをうろうろするのは気が進まない。鍵も貰ったことだし、丁度疲れていたし、一旦部屋で休むことにしよう。窓の外を見ると、もう日も沈んでいた。
私は番号の合う部屋に入り、着替えだけ済ませてベッドに倒れ込む。すぐに眠りに落ちたが、心地良い眠りとは言いがたかった。
夢の中で私は逃げ続けていた。何から逃げているかも分からず、逃げていた。逃げ道などどこにもないと分かっているのに。途中、何度も目が覚めたり、夢に戻ったりした。夢でも現でも逃げ続けているような感じがした。
目が覚めた。目覚まし時計のアラームが鳴っていた。いつもと同じ六時。けれど、外はまだ暗い。今日はお日様と一緒に起きることにしよう。私は布団を被り直して、二度寝を決め込むことにした。夢見が悪くて寝不足だったのか、今度もするりと眠りに落ちた。けれど、嫌な夢は見なかった。
次に起きる。十時。びっくりして飛び起きた。しかし、外はまだ暗い。おかしい。いくらなんでも、もう日が昇っているはず。曇っているのだろうか。空を見上げようとしたけれど、嵌め殺しの窓の向こうには隣のビル壁が迫っていて、空を見ようにも見られなかった。天気の確認は諦めよう。
私は荷物をまとめてポケモンセンターのロビーに向かった。もうポケモンたちの回復は終わっているはずだ。鍵をカウンターの上に置いて、その場に陣取って、しばし待つ。タブンネが出てきた。
「ねえ、昨日預けたポケモンたちを受け取りたいんだけど」
タブンネ。
「回復、もう済んでるでしょ?」
タブンネ。
「それとも、なにか具合でも悪かった?」
タブンネ。
「ああもう、あなたじゃ話にならないから、人を呼んでくれる?」
タブンネ、タブンネ。
目の前のタブンネは、笑っているだけ。
しびれを切らした私は、手を口の横に当てて叫んだ。「誰かいませんか」返ってきたのは静寂。そしてタブンネの笑い声。
「誰もいないの? まさか」
そのまさか。私ははっとしてロビーを見回す。誰もいない。受付の人はおろか、ポケモントレーナーさえ、町の人さえ、人っ子一人いないロビー。
町の中心のポケモンセンターのロビーに私一人しかいないなんてことが、あるだろうか。あるとして、それは天文学的に低い確率だと私の脳が弾き出す。ここにいるのは私とタブンネだけ。タブンネだけ。
タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ。
カウンターを振り返った私は悲鳴を上げた。誰か、はいた。ポケモンセンターの奥の関係者以外立入禁止の向こうからやってきた。ピンクの丸こい体つきのポケモン、タブンネが、タブンネだけが、大量に。
自分の鼓膜が引き破かれそうな悲鳴を上げて、私は出口へ走った。自動ドアは開かない。手を掛ける。力を込める。自動ドアは今度は閉じる方向に意志を定めたかのように動かなかった。踏ん張る私の足ばかり滑る。
タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ。
タブンネたちがやってきた。私は悲鳴を上げる。恥も外聞もなく、謝罪らしき言葉を吐きながら、自動ドアに手を掛ける。
タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ。
ピンク色の肉の塊が迫ってくる。ごめんなさい。私は叫ぶ。ほんの出来心だったの。バトルで勝ちたかったの、分かって――
タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ、タブンネ。
衝撃。タブンネと自動ドアに挟まれての衝突。突撃系の技を食らったらしいと気付くも遅く。肉塊で押しつぶされた私の意識に嫌な臭いが入り込んだ。
今日未明、町の外の草むらで、旅装のトレーナーが遺体で発見された。タブンネ。
遺体の状況から、バトル中、外れたポケモンの技が直撃したものと思われる。タブンネ。
このようなバトル中の不幸な事故は、決して珍しくない。タブンネ。
バトルする皆々様は注意されたし。特にタブンネ狩りが好きな皆々様は。ゼッタイダヨ。
〜〜〜
きっちり数を数えておけば、もしもの時も大丈夫ですね。よかったよかった。
ミナモ美術大学(MAU)の講師、J氏は語る。
「毎週、ヌードモデルを招いてデッサンするという実習をしているんですが、学生がサボってばかりでしてね。
どうしたものかと悩んでいたら、姪っ子がポケモンを貸してくれたんです。
背の高いウサギのポケモンで……そうそう、ミミなんとかいうグラマラスなポケモンでしてね。
まぁとにかく今度はそのポケモンでスケッチ会をするよと告知したらびっくりですよ。
教室が満員になるほど学生が集まりました。いやあポケモンっていうのはすごいですね。
でもそれでも出席してこないAという学生がおりまして。
で、姪っ子に相談して、また一匹ポケモンを借りてきました。
今度は全然グラマラスじゃない小さいポケモンで、ミミなんとかを縮めた感じの、茶色い……イーなんとかっていう尻尾の大きいポケモンだったんですけどね、そしたら釣れたんですよAが。
ミミなんとかでも、サーなんとかでもダメだったのに人の好みってむずかしいですよねぇ。」
どうも、ギタリストです。
週末に西コガネ駅出た所で路上ライブやってるんだけどちっとも人が集まらないんだ。
もちろん、毎日練習は欠かさないし、一生懸命歌ってるんだけどまったく人が集まらない。
だったんだが、ある日、野良っぽいブラッキーが一匹聴きにきて、
それからだんだんとポケモンが増えていった。
毎週やるごとに増えていきやがる。
これは一体どういうことなんだ?
今週はゲンガーにベトベター、それにドガースが増えてたかな。
なんか妙にガラの悪い奴らが多い気がするんだがそれはこの際気にしない事にする。
ちなみに相変わらず人間は聴きに来ない。
だから、ギターの箱を開いておいといても誰もお金なんて落としてくれないんだが
ある時、変わった木の実が投げ入れられたんだ。
変な形の見たことない木の実だったな。
そうしたら、いかにもエリート風のいかにも強そうなトレーナーがやってきて、目玉飛び出すような高値で買い取りたいと言ってきたよ。
その日はひさびさにいいもの食べたね。
今でも毎週ライブをやってるけど、相変わらず人は聴きに来ないよ。
まぁ、リスナーはたくさんいるからこれはこれでいいと思っているけれどね。
タグ: | 【ポケライフ】 |
タマムシシティのマンションの敷地へ侵入し、女性用下着を盗もうとしたとして、タマムシ市警は6日、
コンビニアルバイトのサルタサルノスケ容疑者(30)(ヤマブキシティ在住)を
住居侵入と窃盗未遂の疑いで逮捕した。
発表によると、サルタ容疑者は6日午前2時30分頃、
タマムシシティ内のマンションの雨どいからマンキーを登らせ
ベランダに干してあった洗濯物を盗もうとした疑い。
マンキーが下着を物色中、屋内で飼われていたニャースに見つかり、
その声を不審に思った住人女性が110番し、逮捕に到った。
サルタ容疑者は調べに
「下着欲しさに初めてポケモンをゲットした。ポケモンゲットの動機は人それぞれだと思う」
と容疑を認めているという。
【ごめんなさい】
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