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映画ではサトシたちに化けても尻尾はそのままでしたね。
つまりここでも同じ現象が起きている筈。
なので尻尾が生えた鍋はかわいい説を提唱します。
バトルサブウェイには、バケモノが住んでいる。
それは人喰いのバケモノだと言う。
「こちらはスーパーシングルトレインです。ご乗車になりますか?」
緑の制服に身を包んだ駅員に頷き、先ほど購入した切符を手渡す。パチンと切られたそれを返してきた彼は、それでは行ってらっしゃいませ、と丁寧に頭を下げた。黙って前を通り過ぎてホームに向かう。
間も無く滑り込んできたのは緑のラインを車体に走らせた地下鉄で、普通の交通機関として使われているものよりもいくらか冷たい印象を放っていた。それは乗っている人が少ないからなのか、或いは生活に寄り添うものではなくある種の非日常を演出する空間であるからなのか、はたまた単純に使用回数が少ないからか。その疑問は俺が考えたところでわからないだろう、思考を打ち切って、独特の音を立てて開いたドアの中へと足を踏み出す。
「にゃんにゃんしょうぶだにゃん!」
乗り込んだ、いっとう端の車両で俺を待っていたのは一人のウェイトレス。惜しみない量のフリルで飾り付けられた服からは、どちらかと言うとメイドカフェの店員といったイメージを受ける。甘ったるい声とふざけた台詞とは裏腹に、嫌々やってますという気持ちを隠す気も無さそうな表情が個性的だった。
しかし、そんなことはどうでもいい。相手の見た目や性格や肩書きなんて、バトルには何の関係も無いのだから。
大事なのは、ただ、勝つことのみ。
媚びるようなポーズを決めてボールを宙に投げたウェイトレスと同時に、俺も自分のモンスターボールをセットする。何度も何度も見ているあの光が車両に満ちて、バトルの開始を暗に告げた。
いつ誰が言い出したのかわからないその噂は、バトルサブウェイを利用する者たちの間でまことしやかに囁かれていた。
バトルサブウェイにはバケモノがいて、地下鉄に乗っている人を常に狙っているのだと。
どんな者でも貪り食うというそのバケモノに目をつけられたら最後、抗うことなどとても出来ずに喰われてしまう。
そんな噂だった。
「ふにゃーん! まけちゃったにゃん!」
にゃんにゃん言葉は崩さぬままに、ウェイトレスが俺を呪い殺しでもしそうな瞳をしてポケモンをボールに戻した。先ほども少し思ったのだけど、彼女はこんな調子で大丈夫なのだろうか。ウェイトレスを名乗っているということは恐らく地下鉄を出てもそうなのだろうけれど、この正直さは果たして業務に支障が出ないのか不安である。
が、そんなことを考える必要は俺には無い。バトルに勝った俺は、次のバトルに勝つことだけを考えれば良いのだ。鬼の形相のウェイトレスの前を黙って過ぎ、車両の端に設置された、ポケモン回復機能搭載のパソコンを起動する。
『ただいま 1連勝! 対戦を続けますか?』
迷わず『はい』を選択、回復の済んだボールを手に取る。殺気立った視線を背中に感じるが、そんなことは俺には微塵も関係無い。俺が今気にするべきことはただ一つ。
バトルに勝つ、それだけだ。
バケモノの正体には諸説あった。
地下鉄そのものがバケモノで、乗り込んだ時には既に喰われているという話もあるし、マルノームやカビゴンが奇怪な力を得て変質したものだと語られることもあった。ポケモンではない、未知の生き物なのではないかと疑う者もいる。
中でも一番現実味を帯びていない、その癖最も信憑性があるとされているのは、いくつものバトルを勝ち抜いた末に戦えるサブウェイマスター兄弟がバケモノなのだという説だ。彼らは自分たちと戦いたいと望む者をバトルサブウェイに誘い出し、逃げ道の無い地下鉄でそのトレーナーを喰うらしい。
彼らにとってみればこんな噂、風評被害も甚だしいとしか言いようが無いだろう。
「瞳の輝き肌の張り あの頃はもう戻ってこない」
次の車両にいたのは、上品な雰囲気の婦人だった。倒れたポケモンを前に呆然と呟いている彼女の前を素通りしてパソコンに向かう。制した勝負の相手にはもう微塵の興味も無い、婦人の譫言はパソコンのスピーカーから流れ出る電子音に掻き消された。
『ただいま 2連勝! 対戦をつづけますか?』
機械的な手つきで『はい』を選ぶ。休んでいる暇など無い、すぐに次の勝負に移らなければ。
勝つことだけを考えて。
その噂を本気で信じて怖がる人もいれば、鼻で笑う人もいた。もし自分が狙われたらどうしよう、と涙声で語る人もいれば、そんなものがいるはず無いだろ阿呆らしい、と馬鹿にする人もいた。バケモノがいるのかと駅員に詰め寄る人もいれば、面白半分で噂を流布する人もいた。
だがそのどんな人たちも、バトルサブウェイを利用することだけはやめなかった。皆、バケモノの有無など知らないとでも言うように地下鉄に乗り続けた。揺れる車両の中で戦うその享楽を求めて、誰もが切符を片手にホームに立つ。
バケモノがいると言われる地下鉄は、毎日大勢を乗せて地面の中を走るのだ。
『ただいま 16連勝! 対戦をつづけますか?』
もう戦えない相手トレーナーの言葉を聞く時間すら惜しい。流れ作業のように『はい』を選択して、俺はさらに隣の車両に移る。
乗車してから大分時間が経っていた。しかし腕時計も携帯も持っていない俺は、体感以外で経過時間を知る術を持たない。具体的かつ詳細な時間についてもまた然り、だ。
それでいい。
時間などわからず、気にしなくて済む方がバトルに集中出来るのだから。
大切なのは、勝つということだけ。
それ以外は、考えなくていい。
俺もその一人だった。
噂など少しも気に留めず、地下鉄でのバトルに熱中した。元々ポケモンバトルが好きだったと言うのもあるが、バトルサブウェイでのそれは格別だったのだ。
狭い車内で繰り広げられる戦い。無機質な灰色の壁や床を滑り、ぶつかり合う技と技。外で戦うよりもずっと血に飢えた目をしていて、ギラギラと光る勝利欲求が全身から漏れ出ている狂気のトレーナーたち。闇雲にレベルを上げたのではない、綿密な計算と細かな調整の元に育てられた、嘘のように強いポケモン。
そして何よりも俺を夢中にさせたのは、連続して行えるバトルだった。
ポケモントレーナーというものは至る所にいて、バトルが禁止されている場所でなければどこだって戦うことは出来る。しかしポケモンの体力にも限界があるため、ある程度戦ったらポケモンセンターで回復しなければいけない。相手トレーナーが強ければ強い分だけ、連戦出来る回数は減っていく。
しかしここは違う。地下鉄を降りてセンターに行かずとも、一戦ごとに回復が可能なのだ。車両の隅にあるパソコンにはセンターにある機械と同じ回復システムが搭載されていて、ボールをセットするだけでポケモンは元気になる。
時間をほとんど置くことなく、連続して出来るバトル。それは通常感じるストレスというものを一切与えず、その代わりに快感が手に入った。
『ただいま 72連勝! 対戦をつづけますか?』
その電子音声を聞き終えるよりも早く『はい』を選ぶ。回復のためパソコンにセットしたボールを奪い取るように掴み、俺はドアを引いて隣の車両へと飛び込んだ。
「わたくし天才幼稚園児! すでに大学を目指しております」
虚ろな目のトレーナーが言う。舌っ足らずの声は俺の鼓膜を素通りした。敵であるところの少年はごくごく小さな影としてしか目に映らず、最低限の情報だけが脳に届く。
それで構わない。
俺が感じるのはトレーナーがどんなヤツかなんかじゃなくて、相手がどんなポケモンを出してくるか。そして、そのポケモンに対してどう立ち回るか。
それだけだ。
勝つには、それしか必要無い。
繰り返されるバトル。
それはまるで、麻薬のようだった。
血走った瞳のトレーナーたちとのバトルは刺激的で、そしてとてつもなく魅力的だったのだ。
一戦でも多く、バトルがしたいと思った。
その欲求はやがて、一戦でも多く勝ちたいというものに変わっていった。
少しでも多く。
少しでも高く。
バトルに勝って、高いところに行きたいのだ。
『ただいま294連勝! 対戦をつづけますか?』
答えなど決まっていた。パソコンが処理を読み込む時間すらもどかしい。ピッ、という短い音を聞くか聞かないかのところで、俺はボールをひっつかむ。
さあ、次のバトルだ。相手トレーナーの口上などには耳も貸さず、ボールを投げてポケモンを繰り出した。
勝つ。
このバトルにも、勝つ。
何が何でも、勝つんだ。
それしか考えられなかった。
それだけ考えれば良かった。
一つでも多くの白星を刻めるように。
僅かでも高みに届くように。
もっと、もっと、もっと。
バトルに勝ちたい。
それだけだった。
それ以外は、何も無かった。
『ただいま ?? 連勝! 対戦をつづけますか?』
パソコンの音声はもう聞かない。『はい』を選びながら回復システムを起動、終了を示す電子音と共にボールをぶんどって次の車両へ。
窓の外に見えるのは、暗い地下道を照らすライトが発している白い光だけ。等間隔で並べられたそれがやはり等速で動く電車から見ると、決まったペースで流れていくのがわかる。
この世界には、何も無い。
あるのはそのライトと、あとはバトルだけ。
バトルだ。バトルが出来るんだ。
早く、次のバトルを。
早く、次の勝利を。
早く。
ここではバトルのこと以外、考えなくていいのだ。
バトルに勝つことだけを考えればいい。
目が眩む。
手が震える。
喉が枯れる。
足が浮く。
胃液が逆流する。
背中に汗が伝う。
心臓が跳ねる。
身体中の感覚が、自分から離れていく。
頭の中に濃い霧がどんどんかかっていって、自分が何なのかすら曖昧になる。
それでも、これだけはわかる。
バトルに勝つ。
バトルに、勝つ。
「ねえーノボリー」
「どうかいたましましたか、クダリ」
「警察の人、来た。行方不明の男の人、最後に見つかったのスーパーシングル。捜索したいから、一緒に来てだって」
戦って、勝ちを刻む。
それだけ考える。
相手のポケモンを倒すことだけ、俺のすべきことはただそれだけ。
「またでございますか……いくら探されたところで、見つかるはずも無いと思いますけどね」
「ノボリ、そんなこと言っちゃダメ。もしかしたら、ホントの行方不明かもしれない。まだわかんない」
「何をおっしゃいますか、クダリ。貴方だってもうわかってらっしゃるんでしょう? 大体、車窓から飛び降りでもしない限り地下鉄で行方不明になんかなりませんよ」
目に映るのはバトルのみ。
今の自分はどんな顔をして、どんな声を出していて、どんな風に立っているのか。
そんなこと、知らなくても問題ない。
勝てばそれでいい。
勝つだけでいい。
「全く、何故そうも愚かなことをしてしまうでしょうか。自分でもわかっているはずですのに、人間のサガというものなのでしょうかね……」
「『酒は飲んでも飲まれるな』と、おんなじ?」
「近いような遠いような……まあ、やめ時を見計らうことの出来ない者は地獄を見る、という意味ではそうなのかもしれません」
どのくらい連戦したんだろう、と疑問が頭に一瞬だけ浮かんだけれどもすぐに掻き消える。
そんな思いは必要無い、今必要なのは勝利だけ。
勝利して、次のバトルに進むことだけだ。
一戦でも多く、バトルを。
「それにしても……これでまた、例の噂が広がってしまいます。ま、嘘というワケでは無いので敢えて否定をすることも出来ませんけどね」
「バケモノがいる、って噂でしょ? ボクもお客さんに聞かれたよ、また一人喰われたんですか、って! とっても怖そうだった。顔なんて真っ青」
「そうでございまし。怖いと思える内が華ですよ……クダリもみすみす喰われないように、気をつけてくださいね」
「もー、ノボリ! それ、もう耳にマーイーカ! ボクもノボリも大丈夫、駅員のみんなも、心配ない!」
「それを言うなら耳にオクタンですよ、クダリ。……そうですね、大概の方は心配する必要などございません」
そうだ。必要なのは、それだけだ。
勝つこと、だけ。
勝つんだ。
バトルに。
一度でも多く。
それ以外は、いらない。
「しかし、噂の一部を訂正させていただきたいものです」
「うん?」
一戦でも多くのバトルをして。
一度でも多くの勝ちを刻んで。
それだけだ。
俺はそれだけ、考えればいい。
他のことはもう、考えられない。
「今のままのストーリーでは、クダリに尋ねたお客様のように怖がる方もいらっしゃるでしょう」
頭の中は真っ白だった。
全ての情報が、消えていた。
それでも、目の前の敵を倒すために必要なことだけは鮮明に浮かんで、俺の口はポケモンへの指示を勝手に飛ばす。
これは俺が無意識のうちに自分でそうしているのか、それとも誰かに操られているのか。
わからない。
考える必要も無い。
ただ、勝てばいい。
「わかった。あの部分だね?」
勝てばいい。
それだけだ。
「ええ。バトルサブウェイのバケモノは、」
戦って、戦って、戦って。
「"どんな者でも貪り食う"ものでは無く、」
勝って、勝って、勝って。
「"自分の腹に、自ら飛び込んできた者"を喰ってしまうもので、」
戦って、勝って、それだけを。
それだけを繰り返す、この地下鉄で。
「しかもその正体は"人喰いのバケモノ"などにあらず、」
戦って、
「バトルのやめ時を見失った、愚かな自分自身……それに過ぎないのですから」
勝って、
「そうなった方々に待ち受ける結末は、バケモノに喰われるなどと生易しいものではありません」
少しでも多くのバトルをするのだ。
「ずっと、ずっと……それこそ、仮にこのバトルサブウェイが取り壊されて無くなるような、そんな未来が来ても永久に」
それ以外は必要無い。
数えることなどとうにやめた、何度目かもわからない勝利を収めた俺はボールをパソコンにセットする。
車窓の向こうに見えるランプは絶えず流れていって、随分時間が経っているのではないかとうっすら思った。
いや、やめよう。
そんな思考は、必要無いのだから。
一戦でも多くの戦いを。
少しでも多くの勝利を。
次の、バトルを。
「戦うことと勝利だけを求めて、地下鉄を彷徨い、無数のバトルを繰り返すことになるのですよ」
どこまでも続くかのような闇の中を、ガタゴトと音を立てた地下鉄は走り続ける。
俺の終点は、まだ、見えない。
ザンギ牧場は牧場主の男性と女性のおおらかな気質がそこいら中に漂っている気がする。
ようはそのくらいのんびりしていると言うことだ。
敷地内ではメリープがしっぽとモコモコの毛を揺らして円を描きながら追いかけっこをしている。
ヨーテリーたちは牧場主の夫婦の近くで、番犬としての使命はどこへやらと、すやすやお昼寝中だ。
牧場の敷地に住み着いている野生のポケモンすらも牧歌的な雰囲気に呑まれているようだ。
ミネズミが草むらの陰でぐてっと転がっていて、踏みつけそうになる。
あそこの草むらに、二つの対になった丸い影が見えるけれど、あれもミネズミだろうか。
ガサガサと草をかきわけながらそっちへ歩いて行ってみる。
「って、メイかよッ! なんでこんなとこでッ!」
「えーっと・・・・・・、宝探し?」
何故か疑問系で説明をするメイの手には、四角い緑の、大きなコンセントの先端みたいな形のダウジングマシンが握られていた。
「・・・・・・ここ人んちの敷地内じゃないのか?」
「だって、さっきおじいさんが見えなくてもいろんなものが落ちてるって言ってたから
・・・・・・牧場のおじさんと奥さんは別に落ちてたら拾って持って帰ってもいいって言ってたもん」
そう説明する割に、メイはダウジングマシンを肩にかけている鞄にしまいこんでしまった。
そんくらいですねるなよッ! とツッコミを入れれば、違うよお、とやっぱりどこかすねた声が返事をする。
「ヒュウちゃんが来る前にずっと歩いて探してたけど、もうなんにも落ちてないみたいだから。
このくらいにしとこうかなーって。もう足痛いし。だから休んで座ってたの」
「あっそ」
メイにならってドッカリと腰を落ち着けると、隣の幼なじみはえへへと笑う。
何がおかしいんだと言えば、ここっていつも気持ちがいいよね、とやっぱりニコニコしている。
「特に何か用があるわけじゃないんだけど・・・・・・牧場のおじさんや奥さんも優しいし、
なんとなくヒマがあるとここに来ちゃうんだよね」
「ああ、たしかにここはいいとこだよなッ!」
夏の暑苦しい日差しを木が遮って、キラキラと木漏れ日を落としているこの土地は、街にいるよりも涼しい。
木と木の間から見える空の雲は右から左に風に流されている。
流石に実行には移さないが、キャンプなんかも出来るかもしれない。
「わたしも大人になったら、こういうところで楽しく過ごしたいなあ」
「あてはあるのかよ」
「ヒュウちゃん一緒にやろーよ」
「オレかよッ?」
「ヒュウちゃんしか頼める人いないもん」
「あー・・・・・・まあそうだなあ」
ハリーセンみたいな髪をかきながら、ちょっと想像してみる。
メイと一緒に、のどかな土地で、ミルタンクやメリープに囲まれながらいつまでもいつまでも楽しく暮らす。
牧場の朝は早い。
メイは昔から早起きが苦手なのんびり屋だけれども、
牧場を運営するとなったら、頑張って早起きするだろう。
そして朝、朝食のパンやハムエッグなんかを用意しながら言うのだ。
「おはよう、あなた」と。
「・・・・・・考えとくっ!」
「えへへ、いい返事期待してもいいかな」
「さあなッ!」
何だかキュレムのこごえるせかいで頭を冷やしてもらいたいくらい恥ずかしくなったので、
ヒュウは自分の恥ずかしい想像を無理矢理取っ払った。
今はこうやって、親切な牧場主さんの土地で、幼なじみと一緒に、のんびり一休みさせてもらうだけでいい。
どこか遠くで、メリープのよく響くなきごえがしていた。
☆
空の大きなソルロックが目を覚ます前に、牧場主はさっさと起きなくてはならない。
だからまだ薄暗い空には、おはようを言う太陽さんもいないのだ。
さっさと服を着て寝室を出ると、おいしそうな匂いが鼻先をくすぐった。
「おはよう、ヒュウちゃん」
「・・・・・・おはよ」
既に着替えて髪まで整えたメイが、朝食をテーブルに並べながらニッコリと朝のあいさつをした。
それからすぐにムッとした顔になって、ヒュウのおぐしを指で直す。
やってみれば大変なこともいっぱいな牧場の仕事に、メイは根こそあげなかったものの、その指はだいぶ荒れている。
「別にいいじゃんッ! どうせ仕事がばたばたして髪どころじゃなくなるんだし、
大体オレの髪型じゃ、大して代わりやしないだろッ!」
「ダーメ! ヒュウちゃんの男前が、台無しになるもんっ!」
彼女なりに満足出来る範囲にヘアスタイルが決まったのか、メイはようやく手を離した。
それからヒュウがちょっとさびしくなるくらいパッと離れて、スッとイスを引いて手招きをする。
「さ、ご飯にしよっ!」
☆
「ヒュウちゃんおいしい?」
「ああ」
「そのタマゴね、ラッキーのたまごなんだよ。すっごくおいしいよね」
「うん」
「牛乳は、ミルタンクのモーモーミルクだし」
「ああ」
「ねえヒュウちゃん」
「ん?」
「幸せだね」
ニコニコしながら組んでいるメイの指には、籍を入れたのに指輪の一つもない。
長い髪を切ることまではしなかったけれど、
貴金属の類は誤ってポケモンたちが口に入れたりしたら大変だからと、普段の生活で身につけることはなかった。
彼女のポケモン好きは相変わらずである。
「・・・・・・そうだな。いーかげん、あなたって呼んでくれたら、オレも文句ねーよ」
「えー、だってヒュウちゃんはいくつになってもヒュウちゃんだもん」
「だってさ、それだとオレがむかし思い描いた想像図が」
「想像図がなーに?」
「な、なんでもないっ」
ヒュウはあわててクロワッサンにかぶりつき、野菜のスープを飲んで、今日もうまいなッ! と叫んで完全にごまかした。
単純な彼女はそれだけで幸せそうに微笑んで、ありがとーと返事をする。
さっきの想像図うんぬんは忘れてくれたらしい。ホッとした。
絶対に言えない。あの時つき合ってもいなかったのに、幼なじみの彼女が食卓で微笑んで、
おはようあなたと言ってくれるのを想像していたなんて!
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・ソーナノ
ソーナンスの進化前。
手に入れる方法は、ソーナンスに『のんきのおこう』を持たせてタマゴを作ること。
・ルリリ
マリルの進化前。
手に入れる方法はマリルに『うしおのおこう』を持たせてタマゴを作ること。
・ゴンベ
カビゴンの進化前。
手に入れる方法はカビゴンに『まんぷくおこう』を持たせてタマゴを作ること。
これらの種の共通点は近年になって発見されたということだ。
進化系であるソーナンス、マリル、カビゴン。
これらの種がもっと以前から知られているにもかかわらず、である。
――とある携帯獣の図鑑より
「まずはこれをご覧ください」
暗く静まり返った部屋の中で男がそう言うと、青年のとなりにあった光る大きな画面が切り替わった。それはどこかの地図を映しているようだ。それらは地区別に色分けされているようだった。
「これは各地域の森林の豊かさを示しています。最大を100として80以上は赤で、79から60はオレンジ、それ以下は黄色となっています」
地図上の色の分布を見ると赤はほとんどなく、オレンジが4分の1ほど、残りは黄色であった。
「次にこれをご覧ください」
聴衆が画面に注目すると、地図上に円柱の棒が現れる。円柱の長さはいろいろあったが青と緑の二つがあるようだった。
「青はカビゴン、緑はゴンベです。円柱の長さは生息頭数を示しています。このグラフが示すとおりカビゴンは赤の地域にしか生息していません。オレンジの地域にはゴンベが生息していますが、カビゴンは確認できませんでした。黄色の地域ではカビゴン、ゴンベとも生息は確認できませんでした。つまりこれらのポケモンは森の豊かさの指標となっているのです。では、次にこのグラフをご覧ください」
画面が切り替わった。
映し出されたのは黒い折れ線グラフであった。その折れ線グラフの値は年を追うごとに減少しており、回復の様子は見られない。急激に減っている箇所があり、近年では緩やかな減少が見られる。
「これは先ほど映し出した地域の森の面積を年で追ったグラフです。ちょうどこの20年あたりで急激に減っていることがお分かりになるかと思います」
青年がそう言うと、また別の赤い折れ線グラフが現れた。赤い折れ線グラフは森が急激に減りはじめたあたりで増加しはじめ、黒が勢いよく、低下している20年間の真ん中あたりで徐々に減り始めると、黒グラフの下降の勢いが低下したあたりで消えた。
「赤の折れ線グラフはこの地域のカビゴンによる農作物等の被害届け件数です。これは森林の減少によってカビゴンが人里に下りてきた結果であります」
男はここで一呼吸置くとまた続ける。
「被害届け件数は、この20年間の大規模な森林の減少に反比例して伸びていきます。そして、10年目でピークを迎え、その後は徐々に下がり続け、ついになくなった。それはなぜか…… その一つとして我々人間によるカビゴンの捕獲、もう一つにカビゴンの頭数そのものの減少が挙げられます」
男はここまで言うと、被害届け件数がピークとなった10年目を指差した。
そして、こう言った。
「そしてこの年は、ゴンベがはじめて発見された年であります」
聴衆内にどよめきが起きた。
画面に男が指差した点から、新しく緑色の折れ線グラフが現れるとそれは緩やかに上昇し、ある地点で安定し、緩やかに下降しはじめた。
「緑の線はゴンベの生息頭数です。さらに……」
今度は青い折れ線グラフが現れた。
それは緑が上昇しているのとは反対に下降した。ある地点で安定し、そして緩やかに下降しはじめた。
「青の線はカビゴンの生息頭数です。減少しているのがお分かりかと思います。とくに見ていただきたいのはこの部分です。生息数がゴンベの増加に従って、減少しています。まるでゴンベと入れ替わるように……」
聴衆がいよいよ騒ぎ始めた。
ついに一人が立ち上がってこう叫んだ。
「つまりあれかね! 君はこう言いたいのかね! 森林の減少の結果として、カビゴン内から新しくゴンベが生まれたと!」
「そうです。ゴンベ、という形態は追い込まれたカビゴンという種の苦肉の策なんじゃないでしょうか。体を小さくすればその分、エサは少なくてすむ。従来、カビゴンからはカビゴンしか生まれなかった。ですがこの急激な環境の変化、それがゴンベという新種を生んだのです」
男がこう答えたとき、会場内はついに収集がつかなくなった。
「まさか! ありえない!」
「いや、何しろ相手はポケモンのやることだからな」
「データの取り方はどうなっているんだ?」
「森の豊かさとはどういう基準か具体的にお教え願いたい!」
「そもそもカビゴンの生態というのはだね……」
「はぁ……、やっぱり発表するんじゃなかったかなぁ」
青年は、昼食のサインドイッチを握り締めながらため息をついた。
「あの後、質問の嵐でろくにしゃべれなかった……。ああでもないこうでもないって徹底的に突っ込まれるし、昼食買いに行っても、じろじろ見られるし……。俺、この先ポケモン学会でうまくやっていけるのかなぁ」
「そう落ち込まないで。突っ込まれるのは学会の常よ」
青年のとなりにいた若い女が声をかけた。青年がしゃべる横で画面を操作していたのは彼女であった。
「突っ込まれるのは何回やられても慣れないよ。本当に心臓に悪い……」
「そんなこといいから早く食べなさいよ。昼休み終わっちゃうわよ」
「ああ、そうだよ。あのまま俺の持ち時間はおしまいさ。せめて結論だけはちゃんと言わせて欲しかったなぁ」
青年はがぶり、とサンドイッチを口にほおばった。
ぼうっと会場の窓から空を見るとキャモメたちがミャアミャアと鳴きながら、窓から見える風景を横切っていくところだった。ポケモン学会は定期的にいろんな場所で開かれるが今回の会場は海が近いのだ。
鳥ポケモンはいい。空が飛べるから。飛べるならこの会場からすぐにでも飛んで帰りたい。
そんなくだらないことを考えながら、サンドイッチを飲みこんでふと横を見るといつのまにか青年の横に、もう一人の男が座っているのに気がついた。
青年が気が付いたことを察し、男は軽く会釈をした。傍らには一匹の大きな鳥ポケモン、ピジョットが立っている。その視線がどうにも手元のサンドウィッチに注がれている気がして、思わず青年はそれを後ろに隠してしまった。
「ははは。心配しなくてもダイズは大人しいから、人のサンドウィッチやメロンパンをとったりはしないよ。安心しなさい」
そう言って男はピジョットを撫でた。ピジョットがもう一度ちらりと青年のほうを見る。正直ちょっと信用できないよなぁと、青年は思った。結局サンドウィッチは一気に口にほおばって、飲み込むことにする。
「ああ、それはそうと、お隣お邪魔しますよ」
そんな青年の挙動と不信を気にする様子もなく男は言った。
「む、あが……はい……どうぞ」
口をむぐむぐさせながら青年は答えた。ごくりと食べたものを飲み込むとピジョットが諦めたように視線を外した。今度は男が長く伸びた冠羽の後ろを掻いてやる。するとピジョットはうれしそうに目を細めた。
青年の隣でピジョットに触れるその男は初老とでもいうのか、それなりに年を召している様子だった。顔に刻まれたしわや黒髪にまじった白髪、そして鳥ポケモンを撫でる手。それらがこの男の生きてきた時間を物語っていた。
初老の男はこの時を待っていたようだった。青年に顔を向け、彼はいよいよ話し始めた。
「貴方、あれでしょう。さっき発表していた方でしょう。ゴンベについて」
「え、あ、ええ……そうですが……」
今度は何を突っ込まれるのだろう。
青年は反射的に脳内で理論武装をはじめていた。
「まぁ、そう緊張なさらず……とは言っても無理かな。私もね、若いころはずいぶんと心臓に悪い思いをしたもんだよ」
どうやらこの初老の男も学会で発表する人間のようだった。この年なら相当な修羅場をくぐってきているのだろうと青年は推測した。
しかしあれだな。自分のことがせいいっぱいで誰が何を発表するなんてろくに調べてないぞ。誰だろう……この人……。と、青年は焦った。ああ、まずったなぁなどと内心に呟くものの、そんなものは後の祭りだ。
男は助けを求めるように反対側にいた女に目くばせしてみたが、女は「そんなことまで、知らないわよ?」というようにジェスチャーするだけだった。
「それでね、話の続きだけど……私はなかなかおもしろいと思うよ。貴方の説」
「え! あ、そ、そうですか! ……恐縮です」
自分の考えていたこととまったく違う言葉がきたもので青年は戸惑った。が、自身の説が評価されたのは単純に嬉しかった。
「会場内をあれだけ騒がせるとは、お若いのにたいしたものだ」
「い、いえ……それほどでもないです。突っ込まれてもほとんど答えられなかったし…… 第一どれくらいの方が支持してくださるか……」
「なぁに、新しい説っていうのはそんなものだよ。今は定説になっているものだって、発表当時は認められなかったものが多いからね」
「……僕のがそうだとは限りませんよ」
「今はまだ認められないかもしれない。なにせまだまだ証拠不足だからね。だが、君の説が正しいのなら後に続く研究がそれを証明してくれるさ」
「いえ、その、あの説は別に否定されてしまったって構わないのです。でもポケモン学会はいろんな分野の方がいらっしゃるから。だから何かのきっかけになればそれでいいと思っています。僕が言いたいのは……彼らの住む世界そのものが失われているということです。近年のデータではカビゴンはもちろん、ゴンベの数まで減ってきている。以前まではゴンベという形をとることでなんとかしてきた。でも、それももう限界でしょう……」
「なるほどね」
初老の男はそう言うと窓の外の風景を一望した。窓の外では相変わらずキャモメたちがミャアミャアと鳴いている。
この人になら聞いてもらえるかもしれない。男はさらに自分の考えを話してみることにした。
「ゴンベが発見された年の少し前に、ルリリやソーナノ、いわゆる『進化前』と言われるポケモン達が発見されています。これについてはまだ調査中ですが、もしかしたら関係あるのかもしれません」
「ああ、そうかもしれないね」
「僕は野生のゴンベを見て育った世代でして。だから野生の、大きなカビゴンが見てみたい、そう思っているんです。でも、そのためには僕が生まれる前の豊かな森が必要で。だから僕はそれを証明したいんです」
青年は言った。それは彼の願望であり、夢だった。
そんなものポケモンリーグでいくらでも見れるじゃないか。
まわりの大人達はみんなそう言った。けれど少年が見たいのは野生のカビゴンだった。豊かな森でゆったりと昼寝をするカビゴン。それが少年が夢に見た景色だった。
「うむ、私もね、大きなポケモンは大好きだよ」
初老の男がうんうんと頷くと自分のバッグをごそごそとかき回しはじめた。
そして一枚の紙を取り出した。
「私の専門は海のポケモンでね、君の説を後押しできるかどうかはわからないがこんなデータがある」
初老の男は、その紙を男に渡すと、それが示す内容について説明しはじめた。
「いいかい、これは僕が依頼されてある地域のあるポケモンの生息数を解析したものなんだ。この緑の折れ線グラフがホエルコ、青の折れ線グラフがホエルオーだ。このグラフはここ何十年かの生息数を追っているものなんだが……」
そう言って初老の男はある部分を指差した。
「ほら、この年からホエルコが増えて、ホエルオーが減り続けているでしょう。誰かさんのデータと似ていると思いませんか」
「…………」
「私の考察ではね、エサの不足でホエルオーに進化できないんじゃないかと思っているんです。ホエルコのままならホエルオーよりは食べないからね。この海域のエサの減った原因は森林の破壊ではないかと私は睨んでいる」
ここまで初老の男がいうと今度は女が口を開いた。
「あの、それが森林の破壊と関係あるのですか? ホエルコやホエルオーは海のポケモンでしょう?」
初老の男が答える。
「おおありですよ。地域によって差異があるのですが、この海域のホエルオーのエサは主に海のプランクトンなのです。それを育てているのは海中にある養分だ。その養分はどこから来ると思いますか?」
初老の男の質問に、こんどは男が答えた。
「森です。木から落ちた葉など養分となって、河に流れて海へ届くんです」
「そのとおり。だが一種だけじゃまだ弱いからね。他の海のポケモンでもデータを集めてみようと思ってるところだよ」
初老の男はその答えを待っていたかのように言葉を返した。
そして腕時計を見るとバッグを持って立ち上がった。
「さて、そろそろ昼休みも終わりだな。次は私が発表する番でね。お先に失礼させていただきますよ」
初老の男は会場に向かって歩き出した。その後ろを鞄をくわえたピジョットが冠羽をたなびかせ、トコトコとついていった。その様子を二人の男女はぼうっと見ていたが、にわかに男の方が立ち上がって初老の男の後を追った。
男は先ほど立ち去った男に追いつくと同時に話しかける。
「あ、あの、僕はモリノといいます。貴方のお名前は?」
初老の男はゆっくりとふりむいて、にっこりと笑った。
「継海……ツグミトシハルです」
どちらかだったか一方が手を差しのべると、二人は握手を交わした。
直後、会場側から初老の男を呼ぶ声がした。
「ツグミ博士、何やってるんですか! もうすぐ始まっちゃいますよ!」
どうやら声の主は博士の助手のようだ。
「私はね、かの海でも昔のように大きなホエルオーを見たい、そう思っています。その海を見て育つ子ども達にもそれを見せてあげたいってね。彼らは森からやってきます……また、お会いしましょう」
博士はそう言うと聴衆が待つ会場へと消えていった。
男が見送る後ろから、女がやってきて学会のプログラムを開く。二人はその内容について言葉を交わすと、博士が消えていった方向に向かって歩き始めた。
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