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お疲れ様ですー!
エネコロロVSゲンガーで書かせていただきました!
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「じゃあ行ってくるから。留守番よろしくな、エネ」
あの日あたしは、顔も見ずに尻尾を振って見送った。
『――先月24日、オツキミ山に登山に出かけたまま連絡が取れなくなっていたタマムシシティの20代の男性が28日、頭部のない遺体の状態で見つかり……』
テレビはそっけなくあいつが「帰ってこない」ことを告げた。くるくる変わる事件のニュース。小さな事件としてすぐに流れてしまった。でも当事者たちにとっては小さくなんかなくて、さらに遡ってその数日前。ポケモンレンジャーはこう言った。
『実は時々、似た事件が起こるのです。頭部は見つかりませんでした。残念ですが、これ以上の捜索は……』
その時あたしは、ポケモンレンジャーの言葉を呆けた顔で聞いていた。隣で聞いていたあいつの奥さんの顔は、あまりよく覚えていない。だいたいあたしと同じ顔をしていたと思う。花が枯れるように、二度と笑顔を見せなくなった。物もロクに食べなくなって、いつも綺麗だった家は荒れるようになって、あたしが鳴いても何も言わない。
仕方ないから、あたしは重い腰を上げた。本当は清潔で、気持ちよい場所でのびのび生活したいけど。あいつの“頭”を探してこない事にはどうにもならない気がしたのよ。
暗くて、湿っぽい洞穴の道を進む。昼とも夜ともつかないオツキミ山中――あたしは、記憶を辿るように道を選ぶ。あの馬鹿に引きずられて化石掘りに付き合ったのは、1度や2度ではない。少年時代の旅だって、あたしが一番長い付き合いなのだ。あいつの性格上、どの道をどう通ったかくらい見当はつく。
遺体は偽物だ! なんて言うつもりはない。遺体の手首に赤色のバンダナが結んであった。あいつは自分も含めて全員に色違いのバンダナ結ぶのが趣味なのよ。「戦隊ものみたいで格好いいよな!」って馬鹿丸出しの理由で。あたしの体にも鈴付きのピンクのバンダナが巻いてある。自宅で奥さんを慰めてるサーナイトには緑のバンダナ。馬鹿についてったはずのヤドランには黄色のバンダナ。青色のバンダナは募集中。
冷やりとしたものが体に触れた。
驚き振り返るが何もいない。気のせいかしら。洞窟の中だから寒いのは当たり前だが、どうにも気色の悪い感じだ。捜索隊が入った場所はとうに抜けた。夜目が利くとはいえ、わずかな光も射さない洞窟の中は危険だ。周囲を警戒して岩壁に背をつけた。ひえっ! 冷たい何かが背中を掠めた。飛び上がって勢い振り返る。誰もいないし何もない。無言の岩壁に見返されただけだ。
……何よ今の。全身鳥肌が立っていた。早々にここを離れた方がいいと直感し駆け出した。
暗闇から視線を感じる。間違いなく何かがあたしを見ている。背中で鈴がシャラシャラと鳴った。突き刺すような無数の視線は何なのだ。ズバットに目はない。イシツブテは餌と強さにしか興味はない。ピッピは自身に見惚れてる。人間は夜目が利かない。だったら誰が?
視界の端に青いバンダナが映った。
足を止めた。思い出す。見つかった遺体は青いバンダナを持っていなかった。
「4匹目の仲間を見つけた時のために」
って、いつもポケットに入ってたのに。その癖、気分で付け替えることもあった。
「俺がリーダーだ!」
って言い張るときは赤いバンダナ。
「クールな2枚目……俺は冷静沈着な男」
って格好つけるときは青いバンダナ。
きっとどっちでも良かった。4匹目の仲間が格好良ければ赤いバンダナを。美しいと思えば青いバンダナを。似合いの方を贈るつもりだったのだろう。
氷のように冷たい遺体に、燃えるような赤いバンダナはずいぶんと不釣り合いだった。
あの遺体は本当に彼だったのだろうか。疑問が頭をもたげる。誘うように、青いバンダナはいまだ視界の端をちらついている。追いかけるが近づけば遠のき、遠のけば近づく。必死に追いかけるあたしを笑ってる。深海に潜るように体温が暗闇に溶けていった。鈴の音だけがここが陸だと教えてくれる。走るほどに寒く感じた。あたしは青いバンダナを追いかけて、海溝にでも落ちてるんだろうか?
青いバンダナがあちらへ、こちらへ。追うほどに体がずんと重くなる。
バンダナには決して追いつかない。あたし、足は速い方だと思ってたのに。どうして。
ねぇ、そのバンダナを持ってるのはあんたなの?
あの赤いバンダナをつけていたのは別の知らない人で、本当は青いバンダナを腕に巻いていたの?
怪我した誰かに巻いたの?
早く帰ってきなさいよ。みんな待ってるのよ。ヤドランだって、そろそろ近所の川が恋しい頃じゃない。
痺れたように足がもつれた、手足がかじかんで棒のようになってしまった。
うまく動かない足を前に出して飛ぶように暗闇を駆ける。不思議と息切れはしなかった。ただ締めつけるような苦しさがあった。走る音もズバットの鳴き声も自身の息遣いも、聞こえなくなっていた。焦燥感が全身を這いまわる。誘うような青いバンダナに追いつけない。逃げていくばかりであたしは泣きそうだった。走っているのに、止まっているような気さえしてくる。駄目だ。涙が出そうだ。泣いちゃ駄目だ。駄目だ。
あたしの願いを聞き届けたのか、青いバンダナが止まった。
それは姿を現した。見覚えのあるシルエットが近づいてくる。でもあたしは動けなかった。体が鉛のように重くて、顔なんて上げられない。あいつが笑ったのが分かった。今、目の前にいるあいつにはちゃんと首があった。やっぱりあの遺体はあいつじゃなかったのだ。あれは偽物で、本当は生きていた。
あたしは鳴き声をあげようとした。文句の一つも言わなくては。馬鹿、スカタン、なんで早く帰ってこなかったのよ。驚いたことに声どころか息もできなかった。息苦しさに喘いだだけだ。意図を察したらしくあいつはにっこりと笑いかけてきた。
連絡をしなくて済まなかった。まだ戻れそうにない。
あたしの頭を困惑が占める。言葉の意味が分からない。考えようとしたが上滑りするばかりだ。とぷとぷと単語の羅列が思考の海に浮かぶだけで全然くっつこうとしない。マダモドレソウニナイ。何、それ? ぐるぐるするあたしを前にあいつの言葉が続く。
エネコロロ、お前も一緒に来てくれると嬉しい。
あたしを見つめる赤い瞳はゆるく弧を描いていた。あいつが手が差し出してきた。あたしは口を開いた。ヤドは? あいつは一瞬止まったが、すぐに返答があった。ヤドランなら向こうで待ってるよ。ふっと、安心して息をついた。あぁ、そう……。体に力を込めるが動けない。冷え切った四肢はいうことを聞いてくれそうになかった。手を伸ばしたいのに。今すぐ懐かしいその腕に飛び込みたかった。ここはとても寒くて、心がとても寂しくて仕方がないから。あいつの手が近づいてくる。
不意に温かいものが首筋を掠めた。かすかな鈴の音――思考の霧が薄らいだ。滑るように言葉が口をついてでた。
なんであたしのこと、“エネ”って呼ばないの?
返答はなかった。あいつは肩を震わせていた。泣いているのかと思ったけど違った。あいつは笑っていたのだ。だんだんとくぐもった笑い声は大きくなっていく。聞き馴染んだはずの声が別人の声のように聞こえる。こんな笑い方聞いたことがない。あいつは口をゆがめて叫んだ。ああ、ああ。可哀そうに。気がつかなければ良かったのに!! あと少しだったのに! でもね――
もう遅い。
あいつはぐにゃりと姿が変えた。三日月よりも鋭い口元が引き伸ばされて哄笑がこだまする。生ぬるいような、冷たいような感触が全身を舐め上げた。恐怖に駆られて体を必死に動かそうとするけど全然動かせない。これは現実なの? それともあたしは本当は暖かい家のベッドにいるの? とんでもない悪夢だ! あたしは足を動かそうとする。痺れていて動かない! あたしは頭を動かそうとする。ぼんやりしていて働かない! やめて、やめてよ――!!
弾いたような鈴の音が、大きく鳴り響いた。
音が悪夢の闇を切り裂いた。“眠り”から一気に意識が覚醒する。あたしの両眼に広がる闇。だが先ほどまでと違い現実感を伴っていた。夜目が闇に輪郭を与えていく。無限に続く暗闇などなかった。ぽっかりと開けた空間に大小のボールのようなものがたくさん転がっていた。そして自身を抱きしめる大きな影も。あたしは力を振り絞って影を振り払い、その場を飛びのいた。距離をとり、大きな影――ゲンガーを睨みつける。ゲンガーの赤い双眸がにやりと歪んだ。
あと少しだったのに。
不愉快な笑みを浮かべてゲンガーは闇に姿を溶かした。逃げたわけじゃない、気配を感じる。でも居場所は分からない。闇全体から嫌な空気を感じた。敵の体内にいるかのような不気味な感覚だ。加えてこの場所全体に満ちている鼻を突く腐敗臭にくらくらする。頭を横に振った。考えろ、相手の居場所をつかむ方法を。ぐにゃりと視界が歪みかけた。体を震わせバンダナの鈴を鳴らす。“癒しの鈴”が響き、ぐらつきかけた意識が清明に戻る。ゲンガーの舌打ちが聞こえた。
その鈴、嫌いだなぁ。そんなバンダナ捨てちゃいなよぉ。
イラついた声。よく言う。この鈴がなかったらあたしは悪夢に囚われてじわじわと殺されていたことだろう。
あんたこそ、その青いバンダナ似合ってないわよ。
あたしは言い返した。相手の声はあちこちから響いてきて、居場所はつかめそうにない。ゲンガーはゴーストタイプだ。けれど物理攻撃の時、混乱している時は実体化する。不定形の状態のままでは、相手もあたしも攻撃はできない。なんとかして相手の実体化を誘わなければ。機を見計らっていると、ゲンガーはバンダナをひらひらと振って見せた。
ホントは赤いバンダナが欲しかったんだけど駄目なんだって。
駄目? もしかして奪ったのではなく、バンダナはあいつからもらったのか? そんな馬鹿な。あいつは野生のポケモンには絶対にバンダナを贈らない。サーナイトもヤドランもあたしも、みんな仲間になってからもらったのだ。仮に本当にもらったのだとしたら、こいつは――
うふふ。馬鹿だよね。“ゲットしたら友達”なんて、本気で思ってたのかなぁ。
大きなボールが蹴られて転がってきた。いなくなったのは数日前で、元の顔が失われるには十分な時間だ。大きなボールは他にもたくさんあった。それらはすでに薄汚れた白だった。小さなボールの中は見えない。開閉スイッチの壊れたボールは何も言わない。
でもね、君のことは気に入っちゃった。もうメロメロだよ。胸がドキドキするんだ。
好きな相手を攻撃するの?
違うよ。ずっと一緒にいてもらおうと思っただけさ。
上ずった声が返ってきた。馬鹿馬鹿しい。何度も“舌で舐める”をしたから、メロメロボディにあてられただけだ。
普通は愛しい相手を攻撃しない。こいつは愛しい相手だから攻撃する。転がっている無数のボールはこいつの過去の遊び相手だ。忘れ去られた恋人たちのなんて多いことだろう! だが今だけは恋人ごっこに付き合ってやってもいい。息を吐く。可愛さ折り紙つきのエネちゃんが外道に愛を囁いてあげる。
あたしのこと、好き?
大好きさ!
だったら、ちゃんと唇にキスして頂戴。
……!!
ゲンガーが息を呑んだのが分かった。あたしは目を閉じる。メロメロが効いているのなら必ず来る。ゲンガーの気配が動いた。あたしは四肢と尻尾に力を込めた。相手がどこにいるのか分からないのなら誘い出すしかない。キスしようとするなら実体化しなくてはならない。
うふ、怖いなぁ。
その声はすぐ後ろからだった。“背後”からゲンガーはあたしに覆いかぶさった。四肢をがっちりと抑え込み羽交い絞めにしてくる。あたしの小さな肩に大きな影がかぶさった。
“ふいうち”か“だましうち”狙ってたんでしょ。怖い怖い。
体を震わせるとゲンガーはくすくす笑った。いくら技を放とうとしても四肢が抑えられていれば抵抗できない。その通りだ。唇を噛む。だがあたしだって、抑え込まれる可能性くらい考えていた。
――だから“仲間”に賭ける!
背後に向って尻尾を振った。“猫の手”が“この場の仲間”の技を借りて光りだす。慌ててゲンガーが手を放した直後。あたしの尻尾から“サイコキネシス”が放たれた。至近距離で強い念力がゲンガーに直撃する。絶叫が響き渡った。拘束が解けた直後、振り向きざまゲンガーを蹴りつけた。手応えあり。ゲンガーは悲鳴をあげてボールに頭から突っ込んだ。動揺する声にあたしの口角が持ち上がる。
こんなもんじゃ済まさない。
足もとに無数に転がる何処かの誰かも。あたしも、あたしたちも、あいつに置いてかれた彼女の悲しみも、こんなもんじゃ到底釣り合わない!
絶対逃がしたりしない。追いかける。“猫の手”で尻尾が光り、今度は“水の波動”が飛び出した。無数のボールが巻き込まれゲンガーに襲いかかる。叫び声は水流に呑み込まれた。あたしはぐったりとしたゲンガーに向かって走った。全身に力をこめて“だましうち”を放――
三度目の鈴が鳴った。
誰かに、止められたような気がした。
びた、と動きを止めた。息を吸って、吐いて、気持ちを落ち着ける。ぴくりともしないゲンガーに近づくと、一応生きていた。ゆら、と自身の尻尾が動く。手を出してはいけない、“これは命令だ”。理性で抑え込み、攻撃の代わりにゲンガーの耳に囁いた。
次はない。
短い悲鳴。死なない程度にその頭を思いっきり踏みつけた。ばったりと動かなくなった。今度こそ気を失ったようだ。
青いバンダナを奪い取り、ボールの山に取り掛かった。見覚えのあるやつの入った小さなモンスターボールが見つかった。中を覗き込むと瀕死のヤドランがいた。バンダナにあいつの頭とボールを入れて、口と前足で包み込む。ピンクのバンダナも使って何とか体にくくりつけた。振り返る。気がつくと、ゲンガーは消えていた。
重い体を引きずって、あたしは帰途へとついた。
『――の男性の頭部が発見されました。発見者は男性のポケモンであるエネコロロで、調査の結果、ほかに複数の頭部とポケモンの遺体が……』
――目を覚ました。ニュースは相変わらず、くるくると変わっていく。小さな事件はすぐに埋もれて消えてしまう。だけど当事者の日常は大きく変わって叩き落されて、そこから少しずつ、元の場所を探すのだ。
奥さんは家事も行えるようになってきた。サーナイトや、たまにあたしも手伝って少しずつ日常を取り戻しつつある。ヤドランが回復して帰ってきたときには、ささやかなお祝いをみんなでした。
けれど夜にはわずかな物音にも怯えてしまうから。サーナイトが寄り添って、あたしが物音を確認しに行く。ヤドランは……寝てる。たいていはただの風の音だけど、その日は違っていた。玄関口に大きなポケモンが浮いていた。真っ赤なひとつ目に黒っぽい体で足はない。大きな胴体に金色の模様が入っていて、顔のようで不気味だった。サマヨールだ。
やぁやぁ、こんにちは。
灰色の見た目に反して陽気な挨拶をしてきた。はぁ、どうも。何の用ですか。返答するとサマヨールは手を振った。
用というか、お礼に参ったのです。貴女のお陰で、久しぶりにたっぷりと食事が摂れました。
食事?
先日、ゲンガーを見逃されたでしょう。あのゲンガーは随分と被害者を出していたようで、無数の魂がまとわりついていました。ニュースを見てすぐにオツキミ山に行きましたよ。
大きな腹を満足そうに揺すった。意図を察して、あたしが身を強張らせると慌てて両手を横に振った。
ご心配なく。私はゴーストなど、さまよえる魂しか食べません。ただ、食べた魂から一部始終を知りまして。どうしてあなたが殺さなかったのか不思議に思ったのです。
それは……。
“彼”を見て、納得しました。そんなに睨まないでください。何もしません。
サマヨールは何もない空間に話しかけていた。ぽかんとするあたしを横目に、ぺこりとお辞儀をする。
ではこれで。あなたも長居はいけませんよ。
ざぁっと、夜に消えていく。止める暇もなく。
動けなかった。最後の言葉の半分は、あたしではない人物に向けられていた。だからあたしも虚空に向って鳴いた。「エネ」と名前を呼ばれた気がした。風とも木々ともつかない懐かしい音が囁いた。
「ありがとう」
バンダナの鈴が、チリンと鳴った。
Twitterで突発的に行った【バトル描写書き合い会】の作品投下スレッドです。
指定されたポケモン同士のバトルを約10日間で書き、各々が描くバトル描写にどのような違いが出るかを楽しむ企画です。
ルール
・バチュルVSオーダイル、エルレイドVSジュカイン、エネコロロVSゲンガーの中から選び、書く。
・シングル1VS1のバトルを描く(このバトルはトレーナー戦に限らず、野生ポケモン対トレーナーやポケモン同士のバトルでも可)
・執筆期間は10日前後
※「主役は遅れてやってくるぜ! (遅れての参加)」や飛び入りも可
最近になってのぞみ野と名を改め、真新しい住宅が並んでおりますこの土地は、かつて草木も碌に生えぬ荒野でありました。
しかしその前。さらに時代を遡ると、それはそれは緑豊かな森が広がっていたのです。
それは昔。人々がポケモンたちへの畏敬の念を忘れ始めた頃のお話です。
豊かな森のほど近くには村が一つありました。
ある日、一人の僧がその土地を訪れますと、何やら村人たちは大層困った様子で何事かを話し合っておりました。僧が如何したのかと声をかけると、村人たちは顔を見合わせて何か言葉を交わしました。やがて一人の村人が進み出て、事の次第を説明し始めたのでした。
曰く、村の近くにある森の主が狂ってしまったというのです。なんでも、昔からこの村では森から恵を頂いて生活してきたのだと言います。それはもちろん、森の主の許しを得てのことであり、時には供物を捧げ、森の主とは長い間うまくやっていたのだということでありました。
しかし近頃、村人が森へ足を踏み入れるだけで、森の主が襲ってくるのだというのです。あわや命を落とすところだったものもおりますが、けれど森へ入らねば日々の薪にも、食べるものにも事欠きます。
それで村人たちは困り果てていたという話でした。
僧は何か心当たりはないかとお尋ねになりましたが、村人は首を横に振りました。突然のことで何もわからず、さらには直接尋ねようにも、こちらの姿を見るだけで怒り狂い、襲ってくるので、どうしようもないということでした。
そうして、村人たちはこんなことを頼んできたのでした。
もしかしたら、森に何か異変があるのかもしれない。一度、森の主を森の外へと連れ出してはくれないだろうか。森の外へと出たなら、森の主も落ち着いて話ができるだろうし、それが叶わなくとも、森へ入って原因を調べることができるだろう、と。
僧はその言葉にしばし考え込んだあと、相わかったと仰せになりました。
その昔、僧というのは知恵者であり、さらにその中でも旅僧は優れた操り人、すなわち優秀なポケモントレーナーでもありました。
人里を一歩でも離れますと、そこはもう人の世界ではございません。獣たちの世界を通るには、同じく獣の力を借りる他ないのです。故に長く旅を続ける旅僧ほど優れた操り人であることが多く、それを見込んで村人たちは僧に頼み事をしたのでした。
さて、僧がそのまま一人で森へ入った時のことです。森へ入って幾許もしないうちに、僧は何か妙だと思い首を傾げました。
森が静かすぎるのです。獣一匹おりません。もしかしたら森の主を恐れて皆、逃げ出したのかもしれませんが。
しかし本当にそれだけだろうか。そんな疑問を抱えつつも、僧の足は止まることはなく、奥へ奥へと進み続けました。
静かな森の中を進んでいきますと、やがて、おおう、おおうと唸り声のような人ならざる声が聞こえてきました。
声のする方へ、奥へ奥へと進みますと、それはそれは大きな緑の蔓の山が蠢いておりました。どうやらこの蔓の山が声の主のようでありました。
そう、そこにいたのは大蔓主(おおつるぬし)と呼ばれる、今で言うモジャンボでした。小屋ほどはあろうかという巨体を震わせ、大蔓主はまるで泣いているかのように声を上げ続けていました。
けれど、それも束の間のことでした。すぐそこに僧がいることに気がつくと、大蔓主は耳を塞ぎたくなるような一際大きな金切り声を上げ、その蔓でできた腕を僧へと振り落としました。
あわや、という時です。何処からか梔色(くちなしいろ、黄色のこと)の雷獣が現れますと、その尾で蔓を叩き落としました。
僧は少しも慌てた様子もなく、大蔓主へと呼びかけました。
何故(なにゆえ)人を襲うのだと。
けれど大蔓主はそれに答えず、殺した、殺したと譫言(うわごと)のように繰り返すのみ。何を殺したと尋ねても、答えの代わりに返ってくるのは、無数の蔓だけでありました。
僧は、なるほど確かに正気を失っているようだと思いました。幾度呼びかけてもまともに答えがないとなれば、一度力を削いで落ち着かせたいところです。
しかし、森から力を得る大蔓主は強力無比の存在。振るわれる蔓を切り落としたとしても、瞬く間に蔓は蘇り、力を削ぐことは並大抵のことではありません。そうであるならば村人の言うとおり、森から一旦引き離し、その力を幾分か弱めることが必要です。
雷の力は草の獣には効きづらく、まともに戦ってもこちらが不利なのもあり、僧は雷獣と共に駆け出しました。事前に、西に開けた場所があることを聞いていた僧は、そこへ大蔓主を誘導することにしました。
とはいえ、ここは森の中。先ほども申し上げたように、森は大蔓主にとっては己に力を与え、また家も同然の勝手知ったる場所であるため、正気を失っていようともやすやすと動き回ることができます。しかし人間にとっては碌な道もなく足元も悪いですから、思うように走るのは中々難しい話でございました。
おまけに大蔓主は容赦なく幾度も腕を振るっては、数多の蔓をしならせ襲いかかってくるのです。厄介なことに時折岩を飛ばしてくる上、さらには幾度かの後に突然大蔓主の動きが早くなり、また振るう力も増したように思われました。
これらをいなしながらとなると、その苦労たるや筆舌に尽くしがたいもの。しかしながら、僧と雷獣は見事それを成し遂げたのでございます。
襲いくる無数の蔓や岩を、雷獣は鋼鉄の如く硬くした尾や、あるいは雷撃で弾き返し、そうしてようよう森の外れまで辿り着きました。
僧がちらと外へと目を向けますと、そこには村人たちが待ち受けていました。ええ、話をすると言っていたのですから、そこにいてもおかしくはありません。おかしくはありませんが、けれど僧は、おや、と思いました。
いつ出てくるかわからない大蔓主を、わざわざ大勢で待ち受ける必要があるのでしょうか。待ちきれなかった、ということも考えられますが。それに何故だか大量の荷物があるように見えました。大蔓主に捧げる供物でありましょうか。いえ、供物というには何かがおかしいようにも思えました。
そうは思いましたが、大蔓主が僧の後を追ってきているので、あまり長い間外に気を逸らしているわけにもいきません。また、奇妙だからといって、もはや止まることもできません。そのまま僧は森を飛び出しました。
森の外は平地でしたので、先ほどまでと異なりとても走りやすく、あっという間に森から十分に離れることができました。そして傍らを走る雷獣が体勢を整えたのを横目で確認すると、僧はここで初めて、雷獣へ攻撃を命じました。
雷獣は僧の言葉に答えるように、ばちばちと雷の力を纏わせ、身を翻したかと思うと、瞬く間に真正面から大蔓主に突進しました。
無我夢中で僧たちを猛追していた大蔓主は、避けることも出来ずまともに雷獣とぶつかります。
大蔓主と比べ小さな体躯の雷獣は無数の蔓に埋もれてその姿は隠れてしまい、まるで大蔓主に飲み込まれたかのように思われました。
しかし、すぐに大きな音がしたかと思うと、大蔓主はたたらを踏んで二歩、三歩と後ずさり、そうして大きな体をぐらり、ぐらりと揺らします。
寸の間の静寂の後。どう、という音と共に大蔓主は倒れました。
雷獣はというと、たちどころに蔓の間から抜け出し、主人である僧の元へと戻ります。耳がひしゃげ、頭から血を流していた雷獣はふるり、と身を震わせるといつの間にかその姿を消していました。
それを確認した僧はそのまま村人たちの元へと向かいます。
ふと村人たちを見れば、幾人かが弓を持っており、そして、村人たちの背後には火が灯っているのが目に映りました。草の獣にとって大敵である火が、何故ここに。
村人の幾人かが、何かを投げると、それは僧の背後へと飛んでいきました。ぷんと油の匂いがしたかと思うと、あ、と思う間もなく、ひゅんひゅんと何かが、ああ、火が、火矢が、飛んでいきました。僧が止める間などありませんでした。
ぼう、と大蔓主は燃え上がりました。耳をつんざくような凄まじい悲鳴が響き渡りました。炎の勢いは時とともに増すばかりであり、そしてまた、大蔓主が暴れるものですから近づこうにもどうにもなりません。
僧はすぐに火を消し止めるように怒鳴りましたが、村人たちは笑って首を横に振りました。やっと化け物を殺せるのに、何故消さねばならないのです、と。
大蔓主は転げ回っています。そしてその途中途中で、叫んでいました。
殺した! お前達が殺した! 返せ! 我が子を、一族を返せ!
僧はそれで、森の中がやけに静かだった理由を悟りました。大蔓主以外の獣の姿がなかったのは、大蔓主を恐れて逃げ出しただけではないということです。
やがて大蔓主は声を上げることも、動くこともなくなりました。
大蔓主は死んだのです。
人々は、僧を除く人間たちは、歓喜の声を上げました。
何故このようなことを、と僧が村人の一人に詰め寄りますと、村人はこのように述べるのでした。
昔から森からの恵みを得て暮らしてきた。大蔓主には感謝を捧げてきた。
しかしこの数年、森から恵みを得ようとしても、大蔓主はだめだだめだと言って、思うように採らせてくれなくなった。村では人も増え、薪も食べ物も入用(いりよう)なのに。
だからわからず屋の大蔓主の子である蔓の子を攫って脅した。けれどそれでも言うことを聞かないから、蔓の子を殺した。蔓の子は賢くなかったので、簡単におびき出せたから、幾度も幾度も、子を攫っては殺した。
しまいには殺せる蔓の子もいなくなり、森に人が入るだけで、大蔓主が襲ってくるようになった。
それで困っていたが、それも今日で終わり。これからは自由に採れる。
それを聞いた僧は諦めたように、報いはすぐに来るだろう、と告げました。そうして、大蔓主のために経を読むと、あとはもう何も仰せになることはなく足早に去っていきました。
さて、それからの数年は、森からの多くの恵みで村は潤いました。けれど、いつの頃からか薪も食べ物も手に入りにくくなりました。以前は少し探しただけで、どっさり手に入ったというのに。
やがて、探しても探しても、思ったような量が得られなくなったのです。それで人々は、以前と同じ量を得るために森の中を歩き回りました。
ふと気がつけば、森は姿を変えておりました。
あれだけ生い茂っていた木々は、今や疎ら(まばら)にあるばかり。辛うじて残っている木も、実をつけることはほとんどありません。残っている木は枯れかけているものばかり。茸も見当たりません。草花も疎らです。獣の姿もありません。
目に見える茸も野草も木の実も採り尽くし、食べるものがないからと木の皮さえも剥ぎ、薪に使える枝が落ちていないからと木を切り倒し、手当たり次第何でもかんでも採っていったからです。
それで人々はようやく、自分たちが採りすぎたことに気がつきました。
かつて森は大蔓主やその子らが世話をしていました。木を切ったあとには苗を植え、茸や野草や木の実も、採り尽くしてしまわぬよう、気を配っていました。
人々は、そんな風に森を守り育てる大蔓主に感謝を捧げ、敬っていたのです。けれど、いつしか人々はそれを忘れてしまっていたのです。
もしここで全ての人が己の行動を悔い、省みていたならば、あるいは違った未来もあったのかもしれません。しかし人々は恵みの減った森から全てがなくなってしまう前にと、我先に何もかもを奪い尽くし、ついには森は完全に失われたのです。
森からの恵みを得られなくなった村から、人々は一人、また一人と姿を消し、そうして荒れ果てた土地だけが残りました。
かつてここは荒れ果てた土地でありました。
けれど、そのずっと前は、緑豊かな森がありました。森には大蔓主と、その子らが住み、近くに住む人々は森から恵みを得、大蔓主に感謝を捧げて暮らしておりました。
それは、ずっとずっと昔のお話。
さて、この話に限らず昔話ではよくポケモンが喋りますね。
特に、古い古いお話ではその傾向が強く、人と変わらない扱いであることもしばしばあります。シンオウ地方では人もポケモンも同じ、という古い言い伝えが残っているほどです。
しかしながら、時代が下るにつれ、ポケモンが喋ることは減っていきます。光宙法師のお話は、その過渡期に当たるとも言われ、この時代を境に言葉を使うポケモンのお話も一気に減っていきます。
その辺りのことを頭に入れて昔話を聞くのも面白いかもしれません。
ところで、各地を行脚していた光宙法師智史(こうちゅうほうし ちし)が連れていた雷獣に関しては、話によってその記述がまちまちなのも相まって、現在でも大変な議論の的となっています。
一般に有名なのは、児童書の表紙にもなったピカチュウでしょう。
このお話で雷獣が大蔓主に使った技は、スパークや、あるいはとっしんなどの技が考えられますが、もしピカチュウであったなら、ボルテッカーかもしれませんね。
機会がありましたら、また光宙法師のお話をいたしましょう。
――
いえーい、何年ぶりでしょうか、光宙法師シリーズ第三弾です。
前のお話が2015年投稿ということで…ええ…(白目
本当は去年のうちに出そうと思ってたんだけどなー…(遠い目
昔、一粒万倍日スレに出したと思ったけど見つからなくて、おそらく以前、精神的にアレになって消したと思われる。
まあなので、いつ書き始めたかは定かではないんですけど、でもかなーり時間経っていると思われる。
書くの遅い…。
周回遅れになった挙句、ちょっぴりタイムリーになっている。
この話考えたときは鰻もそこまで話題になってなかったんですけどね…。
ていうかわりと軽い気持ちで書いてたんですよ。
ただ今回ちゃんと書くにあたって、厚みというかそういうのを出そうとした結果、まあこうなりましたよね。
ちなみに細かいとこつっこまれると大変厳しいので、大目に見てもらえると嬉しいです!
このシリーズ、地味ーに書いていきたい気持ちはあるのですが、いかんせんネタがないので、今回みたいに忘れた頃に突然出すことになりそうです。
もし書くなら、前回今回と人間が悪い!って話なので、次回は暴れるポケモンに困ったわ…みたいなの書きたいですね。
まあ予定は未定なんですけど!
「暇やな」
「そうやな」
ミンミンと鳴く虫ポケモンの声。入道雲と青い空。ジリジリと暑い日差し。
「何で今日こんな暑いん」
「知らん。暑苦しい人間でもここいらに来ているんじゃない」
あおぐ団扇。チリーンもどきが鳴らす音。真夏の真昼間に二匹のポケモンは愚痴をこぼす。
「去年はこんな暑くなかった。もっと風が吹いてた」
「いや、去年はもっと雨が降ったな」
「いやいや、去年はもっと雲が多かったな」
「んなわけあるかい。去年はもっとこう…さっぱりしてた」
縁側で空を見上げる二匹。右はズリ、左はパイルのシロップのついたかき氷を抱え、暑さにやられただらしない顔を晒していた。
「そういえば今日何であいつ来ないん」
「あー、なんか時渡ってるらしい」
「時間旅行?」
「さあ…仕事じゃないの?」
「ふーん」
どうでも良さげな右はかき氷に目線を落とす。パイルを抱えたままの左は半開きの目で空を見つめたままだった。遠くの空では飛行機が雲を靡かせ飛んでいた。
「あー、空飛んだら涼しいんでね」
左が口の中をシャクシャク言わせて発した言葉を、右は長い尾を振って否定した。
「あんな、俺らはな、飛行機みたく速く飛べないだろ。普通に考えて無理だろ。あんなジェットばりに飛べるのなんてラティ兄か、ゼクロムレシラム辺りじゃねーの」
「いや、本気出せば飛べる」
「お前が飛んでる後ろからたたきつけるをあびせたらいい勝負かもな」
「それは痛ぇ」
「鋼タイプがほざけ。叩いた俺のがダメージ受けるわ。腫れるわボケ」
「ほごしょくー…なんつって。あいた」
ビシッと右が左の黄色い頭を尾で叩いた。冗談を言い合う二匹の顔は内容ほどおちゃらけてはおらず、依然だらしないままだった。
「あんさ、今日、何しに来たんだっけか」
右が問う。
「…………」
左が黙る。
「…………」
「……忘れた」
「だよなー」
集った意味すら忘れ、二匹はかき氷を貪る。チリーンもどきが音を鳴らすのを止めた時、二匹の顔は死に始める。
「何だったっけなー、何かしなきゃいけないんだよなー」
「俺の目覚める貴重な7日間のうちの貴重な1日なんだけどなー」
「あー、そうだっけ」
「お前は長生きしすぎて俺に何回も会ってるからそんな事言えんの。レアなの普通。目覚めた俺は。人間達はわーつって寄ってくるよ。可愛い子もそうじゃない子も」
「失礼なやっちゃな。お前」
「ただし俺は顔では判断しない。ちゃんとその人の人と為りをだね、判断してだね」
「オーイエスイエス」
「むかつくわー。破滅願っちゃうぞー」
「そしたら帰るわ」
「お互いにやる事やってからな。あー、何すんだっけ」
空が少しずつ傾き始める。いつもよりも鮮やかな色をたたえて。次第に太鼓の音と笛の音が遠くの方から聞こえてくる。右と左は顔を見合わせた。
「あー、今日この日か」
「んー、今日この日だね」
「俺今年花火上げなきゃいけねーのよ」
「俺も今年花火上げなきゃいけねーや」
「お前は毎年やってねーだろーよ」
「俺にとっちゃ毎年なんだけどなぁ」
「スケールが違すぎるわ」
かき氷を完食した二匹は浮遊した。彼らが後にした縁側で寂しくチリーンもどきが鳴いていた。
ここはポケモン達の暮らす場所。年に一度の夏祭り。同時に死んだポケモン達の魂も呼び込み、どでかく花火を打ち上げて、酒を飲み交わし、踊って騒いで一晩過ごす。ここではまぼろしも伝説も一般も関係ない無礼講。ご先祖様や死んだポケモン達の魂を祀りつつ、みんなでどんちゃん騒ぐのだ。
「つーかご先祖様を祀るんなら、死んでないけど俺が祀られてもいいんじゃないの」
一応ポケモンの先祖とか言われてんだけど。と、ぼやく右。
「いや、それだったらまずアルちゃんが祀られるべきだね。アルセウス」
黄色い左が指差した方には、酒に酔って周りを巻き込んで笑う創造神の姿があった。
「……いーなー、楽しそうで」
「ま、いんじゃねーの。ホラ、俺らも次の球打つぞ」
ドンと、一際大きな花が空に咲く。ポケモン達は皆楽しそうに見上げていた。
誰がどうして生まれたのか、どうやって生きるのか。
そんな事考えないで生きられる奴は幸せだよ。お前達だって、きっとあの場所に居たままならそうだったんじゃないか? 死ぬ直前まで、そんな事考えないで居られるんだからさ。
……。
答えられないよな。こんな事知った後じゃな。
私はな、私自身がどう生きていくべきなのか、分からなくなってしまったんだ。
私の事はこの前話しただろう? 自分の事しか考えないクズが、成長しきっていない雌を犯して生まれた子供だと。
私はな、そいつの、父親の全てを否定したかったんだ。でもな、この前気付いたんだ。
そいつの全てを否定するって事は、そいつをより深くまで知るって事だ。そいつを忘れないように心に刻むって事だ。
私は、その父親の呪縛から解き放たれたいのに、解き放たれようと足掻けば足掻くほど、逆に引きずり込まれているんじゃないか、と思ったんだ。
でも、私はどうしたら良い? 私は、父親の呪縛から解き放たれる為に何をしたら良い?
私にはまだ、分からない。忘れて生きる事なんて出来ない。そのクズの為に、私はどれだけ苦労してきたか。私の心にはもう、しっかりと刻まれてしまっているんだ。
刻まれたまま、解放される事は可能なのか?
やっぱり、私には、分からない。
だから、私は他の誰かの生きざまを、進むべき方向を見ようと思ったんだ。
お前のような運命を持った奴が、この先どうしたいか私が見る事で、何か掴めるんじゃないか、とね。
……。
まあ、ゆっくり考えるといいさ。
お前は・・・、私は食わない。
*****
ことり、と目の前に皿が置かれた。
分厚いハム。テカテカと光る脂身と、引き締まった赤身。流れ出るアツアツの肉汁。昼、吐いたと言うのに、美味しそうに見える。
腹が鳴っている。何故だろう。
何故、僕は、腹が鳴っているんだろう。
――食べないのか?
隣で父さんが聞いて来た。身体の至る所に皺があって、髭にハリは無く、身体を支える筋肉さえも衰えている、僕の父さん。でも、その目はまだ、死んでいない。
僕は、そんな父さんを見て、突拍子も無く浮かんで来た疑問を聞いた。
――生きるって何なの? ……人間と生きるって、どういう事なの?
父さんは、少しの間、黙った。そして、言った。
――それは、多分それぞれによって違う。私と、お前でもな。でも、私にとって、野生ではなく、人間と生きる、という事は、無駄の為に生きる、という事だった。
――無駄の為?
――私は野生の暮らしをした訳じゃないがね、それでも何となく分かるんだ。野生の獣達は、生きる為に生きているんだと。生きている事こそが、生きる事を繋ぐ事こそが、そこへの過程全てが幸せなのだと。それを邪魔するもの全てが不幸なのだと。けれど、私達はそうじゃない。生きている事は、当たり前だ。
――当たり前。
――生きている事は、当然な事なんだ。争いなんてちっぽけもない、この町ではね。だからこそ、人間はそれ以外に物事に生きる価値を見出す。野生の獣達からしたら馬鹿らしいものに見出す事だって勿論たっぷりとある。
僕は、目の前のハムに目を戻した。
このハムも、それ以外の物事に当たるんだろうか。当たるんだろう。
そうじゃなきゃ、僕は吐いたりしていない。
――人間と生きるって事は、その生き方に身を委ねる事だと、私は思う。だからこそ、野生の獣にとっては馬鹿らしい事でも、無駄に思えるような事にも、私自身が価値を見出せる事ならば、人間達が価値を見出す事ならば、それは十分、生きる意味になる。
……。
――僕自身が、それに意味を感じられれば、……幸せを感じられれば、それは生きるって事になるの?
――……誰しもがそうではないと思うが、私は、そう思う。
ハムに齧り付いた。
……美味しい。とても、美味しい。
幸せは、そこにある。
――でもね。忘れちゃいけない事がある。
――忘れちゃいけない事?
――この幸せは紛れも無く、人の手によって作られたとても多くの死の上にあるって事だ。
…………。
それでも、美味しいのだ。
――……父さんは、それに対してどう考えてるの?
――……結局、曖昧なままさ。命の重さなんて、誰にも決められる事じゃない。
…………。
人は、……いや、僕達は、人と、その人と一緒に暮らす僕達は、命の価値を、決めつけているように生きているんだろうか。
それは、どういう事なんだろう。
分からない。
でも、人達は、僕達は、このポカブのハムを食べる皆は、ポカブの命を、立派に成長出来るその命を、食べ物として見ている。態々育てて、殺して。
それは、どういう事なんだろう。
命の重さなんて、誰にも決められる事じゃない。でも、人は、それを決めつけている。人と暮らす以上、僕達はその決めつけられた命の重さに従って生きる。
だから、この美味しいハムが食べられる。
考えれば、いつの間にか、堂々巡りになっている。
結論が出るようなものじゃないのだと思った。
――食べるなら、熱い内だぞ。
父さんが、言った。
――……うん。
僕は、もう一口、小さく齧り付いた。
やっぱり、美味しい。とても。
――父さんは、いっぱい、悩んだ?
――……いや。ほら、この前言っただろう? 私はお前より小さい頃から、進化する前からポカブを殺し続けて来たんだ。物心ついた時から、と言っても差し支えない。その位からずっとやって、体が何度も血だらけになったり、沢山の悪夢を見たり、それでも必死こいて主人の役に立とうとしている内に、悩むような余裕が出来る頃には慣れてしまっていたんだ。
――……そう。
――でもな、私はお前じゃない。悩むか悩まないか、それも自由だ。
――……分かった。
結論が出ないとしても、悩む事に価値はあるんだろうか。
僕は、もう一口、食べた。
*****
なかのいい友だちだって、たくさんいたんだ。
いっしょにすなあそびしたり。いっしょに追いかけっこしたり。いっしょにお昼ねしたり。いっしょにご飯を食べたり。いっしょにねて、いっしょにけんかして、いっしょになか直りして、またいっしょにご飯を食べて。
それい外の事なんて、何も考えなかった。
それで、ぼくはとても幸せだったんだ。
ニンゲンはご飯をくれる。ぼくたちをねらう何かがいれば、それを追いはらってくれる。
たまに、ニンゲンは大きくなった友だちをつれていくけど、それはみんな、大きくなったらべつのばしょに行くんだ、って思ってた。もっと、いい、べつのばしょに。
でも、その大きくなった友だちがつれて行かれたあとに、たまに、へんなにおいがする時があったんだ。
ある時まで分からなかった。でも、ころんで足から血が出ちゃった時、それが分かったんだ。血のにおいだったんだ。
でも、ぼくはそれとそれをすぐにはむすびつけなかった。
ここに連れさられるまで。
だって……だって……ぼくたちを食べるために育ててたなんて、そんな事なんて、思うはずないじゃないか!!
友だちが連れて行かれたあと、みんな、ころされて、食べられてたなんて、そんな、そんな事、そんな!
ああ、ああ!
…………。
それで、ぼくは、これからどうしたいかって?
助けたいけど、むりに決まってる。ぼくは、あなたみたいに強くない。空を飛べないし、足もおそい。力はちょっと強くなったけど、それでもみんなを助けられるほど強くないし、あのがんじょうな小屋をこわせるわけでもない。
ぼくが、これからどうしたいかって?
どうしたいかなんて決まってる。でも、何が出来るかも決まってる。
ここで、生きるしか出来ないよ。ぼくは。
何もかもをあきらめて。
うう。うう……。
…………。
…………え?
今、何て言ったの?
……本当に? 本当に!?
獣同士の話、というのは人間には分からない。喋る獣は人間と共存するしないに関わらず確かに居る。ただ、共通して声もほぼ出さずに喋り、まだ原理も解明されていない。
ダイケンキは確かにリザードンとあの時喋っていた。ただ、何を喋っていたのか、俺も誰も、知る事は出来なかった。
その数日後、腕利きの鳥獣使いがやってきた。
相棒となる獣は、乗って来た一匹だけ。
ピジョットと言うらしき赤と黄の毛を頭から長く生やした鳥獣に乗ってやってきて、その鳥獣には宝石が付いた首輪が付いていた。
また、本人もその宝石と良く似た宝石を嵌めた腕輪をしていた。
それに目が行っている事に気付き、それが獣の力を人間との絆によって引き出すものだと説明された。
「ただ、石は良く分からない代物でね。似たような石が沢山あるが、それぞれ特定の獣しか強められない。
更に、どちらかの力が不十分だったりすると、獣自身が暴走してしまう事もある」
「暴走、ですか?」
「文字通り、暴走さ。人が死んだ例だってある」
怪訝な目で見ると、もう扱いなれているから安心しろ、と返された。
専門のトレーナーが来た所で、リザードンが来なければやる事は無い。
見張りも露骨に一人だけでしていれば、怪しまれるだろうという事で、見張りも立てない。しかしリザードンは来ないまま日は悪戯に過ぎて行った。
暇ならその宝石の力を見せてくれと言ってみたが、人も獣も酷く疲れるから、と断られてしまった。
ポカブ達はその間ずっと、サザンドラの骨の方、小屋から遠く離れた場所までは行こうとせず、そわそわと落ち着きが無いままだった。
肉の味も、毎日のように殺して食べている自分達でしか分からない位ではあるが、落ちた。
それでも、専門のトレーナーにソーセージを食べてもらうと、絶賛されたのだが。
「やっぱり、こういう田舎でちゃんと牧場で伸び伸びと育てられたポカブは、都会で食べるポカブとは全く違う。今まで食っていた肉が、無機質なものに思えて来てしまう程に」
「無機質?」
「色んな依頼を片付けて、色んな場所に行ってきた身でもまだ、上手く言い表せないのだが……この肉は、生きている、と感じられるという感じか……」
生きている、か。
多分、それは育て方の違いなのだろう。
都会でのポカブの育て方を俺は知らない。ただ、効率を求めたものになっているとは知っている。
それが、肉質の違いにも響いているのだろう。
「都会だったらもっと高く売れるよ、この肉」
褒めちぎられると、流石に抑えるべきだと思っても嬉しくなってしまう。
やっている事は、ある種の才能が無いと出来ない、残酷な事なのにも関わらず。
旨い肉を作る事、それは誇りと言われれば違う気がした。
誇りと言うよりは……殺す以上、無駄にしてはいけないと言うような…………使命だ。
フライパンの上で、皮が破れて中の脂が弾けたソーセージ。肉汁が染み出て来る前に、またトレーナーの前に置いた。
パリっと音を立てて、トレーナーが沢山食べる。
*****
気付けば、収穫祭のひと月前となっていた。
七日間が過ぎても、リザードンは来なかった。流石にトレーナーも退屈し始めていて、そして雇っている日数だけ金が嵩んで行く。結構な分の金が。
そんな事を言うと、流石に何もしてない日は半額でいいよと言われた。その代わりに肉たっぷりくれと言われたり。
助かったは助かった。でも半額でも高い事には変わりはないのだが。
収穫祭に向けて、一日に殺す量が増える。そして、卵で入って来る量も。
「何で人間だけ卵で生まれないんだろうな」
卵は、別の場所で生産される。卵を産んでいるチャオブー、エンブオー達は、子供達が肉として消費されている事を、知らない。
俺は、その問いに適当に返した。
「人間が特別優れているのか、それとも特別劣っているのか、そのどっちかだろうな」
「後者だったらどうする?」
「……別に優れていたって劣っていたって関係ないだろ」
「……そうか」
卵を生産している方の人も、思う所はある。
互いに、美味い物を食う為に、ちゃんとパートナーにさえなれる獣達を犠牲にしているのだ。
割り切れてしまう才能は良い物なのかどうか、と言われれば正直余りそうだとは思えない。
痺れさせ、首を落とし、血を抜いて、切り分け、加工する。
父は加工所に掛かりきりで、俺は慎重に、慎重に、ポカブ達に気付かれないように、より多く殺す。
牧場のポカブ達に殺している事が気付かれたら、終わりだ。
若いダイケンキ達にも手伝って貰って、血の臭いを洗い流す。日が照って、その水が蒸発していく。
いつもは一か所で足りるのだが、この時期になると二か所、三か所と別の場所を使わなければいけない。
血の臭いを嗅ぎ取られないように、風向きも考えて、ポカブを連れて行くのも緊張する。
最悪、血の臭いまでは気付かれて大丈夫ではある。牧場のポカブ達に気付かれてしまう事が、終わりに繋がる。
気付いたポカブが逃げて、牧場のポカブ達が異変に気付く。痺れさせる所を見られる。
その二つが無ければ、問題はない。だから最悪、他のポカブ達が見えなくなった直後に痺れさせ、その状態のまま奥まで引っ張っていき、殺すと言う手も無くはない。
でもそうすると勿論、肉質は落ちる。収穫祭に出す肉は、最高の質でありたい。気付かれる危険を最小限までに抑えて、そして、その気付かないままの幸せの中で、殺す。
今日の分が終わった後、吐いているダイケンキが居た。
父のダイケンキ……吐いているダイケンキの親が近付き、様子を見守る。
……あれは、無理そうだな。
この作業は、野生だった獣でさえも受け付けない事が多いのだ。無理も無い。
後始末も終わり、加工所へ父を手伝いに行く前に、トレーナーがやってきた。
青い顔をしていた。
「……見ていたんですか」
「興味を持ってしまってね……。でも、見るのは初めてだったんだ」
「面白いものでも無いでしょうに」
「……でも、何となく、都会の肉との違いが分かったよ」
「そうですか」
「ここのポカブ達は、死ぬ直前まで生きているんだ。出来るだけ、気付かせないようにしている」
「……そんなの、当たり前じゃないですか」
「…………。そうか」
言ってから気付いた。多分、都会の近くで効率的に育てられているポカブ達は、殺される前からとうに気付いているのだ。気付いていながら、逃げられない環境に居るのだろう。きっと。
それが、死ぬ直前まで生きている、の否定になる。
「都会の方じゃ、そうじゃないんだ」
そう言って、青い顔のまま生気が失ったようにふらふらと戻って行った。
「…………いや、考えるのは止そう」
都会への憧れは、元々そんなに持っている方では無かったが、それでも更に減った。
*****
……さて。お前に質問だ。
お前はあそこで、何をしていた? いや、どうなる予定だった?
…………。
分からない、考えた事も無い、か。そうだよな。
全く羨ましくないが、いや、ある意味羨ましい。私は、そんな馬鹿みたいに生きられていない。
馬鹿とはなんだって? そりゃあ、馬鹿だよ、お前は大馬鹿だよ。
お前は、あそこで育てられていた理由も知らずに生きていたんだからさ。
理由? 分からないのか? お前、言っただろ自分で。それが正解だよ。それが。
嘘? いや、嘘じゃない。
思い当たるような顔しているじゃないか。
お前、私に言ったよな? 進化してから、喋れるようになってから、私に聞いたよな?
僕を何の為に連れ去ったの? 僕を食べる為に連れ去ったんじゃないの? ってさ。
それが紛れも無い正解だよ。
あんたは、食べられる為に育てられていたんだ。
まあ、私も一匹目は、最初に連れ去ったポカブは食ったよ。そりゃ美味かったさ。人間達が態々育てる程だって分かったさ。
…………。
連れ去った理由?
ああ、私がお前を連れ去った理由ね。私は、これからお前に聞く問いを、お前自身がどう答えるかを知りたかったんだ。
……お前は、これからどうしたい? お前は、これからどう生きていきたい?
私は、それを聞く為に、お前を食べなかったんだ。
強い殺気を感じる。強くて、そして静かな殺気だった。
私に対して向けられたそれは、狩人としては失格だった。後ろを軽く振り返る。骨鳥……バルジーナの上に立ち、大きな弓を構えた人間。
狩人と言うよりは、趣味人だった。
集中が分かる。狙いが分かる。いつ、どのタイミングで矢を放ってくるであろう事が分かる。
放たれたタイミングで宙返りをすれば、矢は私の下を飛んでいった。
泣き叫ぶ子豚の首に爪を突き刺し、黙らせた。血が私の手に滴る。
私は死なない程度の炎を吐いて、人間を追っ払った。
*****
やや焼け焦げた姿で、弓も失って、追っていった男が帰って来た。
バルジーナから降りて、互いに手当てをしながら、「俺には無理だ」と最初に呟いた。
「相手にもされなかった。……矢を避けられたんだ。俺の殺気を感じられているような、頭の中さえも読まれているような……。
それから殺すつもりも無い炎を吐かれて、それで俺も相棒もぼろぼろだ。……悔しいが、俺達じゃ敵いそうにない」
後は黙ってしまった。
……。どうするべきか、俺はすぐに決められなかった。
男は弓の名手だった。バルジーナの背からでも、安定した姿勢で狙った獲物は外さない。祭りでは数多の風船をバルジーナの曲芸飛行の最中に次々と撃ち壊していた。
鳥を撃ち落とす事も良くやっていた。人と獣、そのコンビの強さとしては、この村の方でもかなり強い方だった。
そして、一番強いコンビも特別強い訳ではない。村外から専門職を雇うのも、あのリザードン相手となると、かなりの金を支払わないと敵う者はやって来ないだろう。
夜になり、人が去っていく。空っぽの農場。小屋の中から落ち着きの無いざわめきが感じられる。
考えても、その金を支払わなければいけないのだろうとしか、良い案が見当たらなかった。
次の日、見張りは居なくなった。
ドサイドンを連れた初老の男性も。
「矢を避けられるのでは、岩石砲も当たらんよ。それに、刀を持った私が近付く事も許さないだろう」
そう、言われた。
ポカブの怯えは伝染していた。見張りが居ない事にリザードンが気づいたらどうするだろう。
調子に乗る、とは余り考えられなかったが、それも無くは無いとも思った。
気休め程度に自分とエレザードで見張りをするが、来られても成す術は無い。
「なあ、エレザード。
お前、強くなりたいか?」
何となく、聞いてみた。エレザードは、頷きも、否定もしなかった。
「俺もだ」
あんな戦士のようにまで強くなろうとは、俺もエレザードも思わない。思ったとしても、なれるとも限らない。
あの夜に見たリザードンの姿は、強く印象に残っていた。
肉体と、そしてサザンドラの骨を見ていたその、複雑な決意の目。
その話に聞いた中のサザンドラが本当に親だったとしたら、その目には納得が行った。
"俺は、お前のような馬鹿にはならない。賢く奪ってやる。"
俺のその想像する決意は、きっと合っている。そう思える。
はぁ、と息を吐く。
本当に、もっと良い決意は無かったのか。
正直、殺したくない気持ちもある。賢くて、強くて、悪い奴では無いという事はあの夜の内に分かっている。
けれども、敵対するというのならば、こちらも黙っている訳にはいかない。
早いうちに専門職を呼ばなければいけない、か。今日中に手紙を出そう。
内心嫌だなあ、と思いながらその決意を固め、手紙を書いて、出す。
けれど、リザードンは来なかった。
次の日も、その次の日も。
四日後。
腕の良いドラゴン使いが来るという手紙が来た日。
ダイケンキとも一緒に一応見張りをしている最中。リザードンが来た。
着地し、リザードンは、その老いたダイケンキを見て、止まった。
ダイケンキが脚刀を一本だけ抜き出し、立ち上がった。
「……戦える力、お前もう無いだろ」
そう諌めたが、ダイケンキはリザードンを見据えたまま、しっかりと立っていた。
張り詰めた緊張が漂っていた。エレザードが臨戦態勢に入るのを抑えて、やや距離を取った。リザードンとダイケンキの間には俺達を除いた何かがあった。
そして、このダイケンキは、現役時代、この村でも最も強い方だった。
力が残っているのかどうかは分からない。それでも戦うとするならば、その脚刀の間合いには入ってはいけない。
下手すれば、胴体がちょん切れる。
ただ、リザードンから、敵意は感じられなかった。警戒はしているが、敵意は無い。
サザンドラの骨を見ていた時と同じように思えた。ただ、その目に決意めいた何かは無かった。
ダイケンキが後ろ脚で立ったまま、ゆっくりと距離を詰めていった。
リザードンは警戒を強めたが、戦おうとする気は相変わらず見えない。
……まさか、リザードンは、あのサザンドラを最終的に殺したのがこのダイケンキだと知っているのだろうか。
ダイケンキは、ある程度まで距離を詰めたところで、脚刀を地面に突き刺して立ち止った。
そして、止まってしまった。
*****
――お前は、何だ?
そう、聞くとリザードンは、少し考えてから言った。
――……あのサザンドラの、子供だ。
私が想像している事、相棒の父親が言っていた事と、同じだった。
――やっぱり、そうだったか。
――分かって、いたのか。
――言ったら、怒るか? どこか、似ていたと。
認めたくないような、苦い顔をした。
――……不快だ。
――……それで、その様子だと私があのサザンドラの首を落とした事も知っているんだろう?
――ダイケンキが首を落とした、とまでは知っていた。どのダイケンキが、までは知らなかった。……あんたがあいつを殺したのか。
――私だけで殺した訳ではないがね。……どうだ、このもう戦えもしない実物を見て。
歯も抜け、人間の手助けが無ければもう、物も碌に食えないこの体だ。
――……いや、若かった頃は、私よりも強かったと分かる。老いても、貴方の目は、まだ死んでいない。肉体も、その強さの痕跡が残っている。
――あんたはまだ若いだろう。まだまだ強くなるさ。若い時の私よりも、あのサザンドラよりも。
――……そうだな。
そうでなきゃ困る、とリザードンは小さく付け足した。
リザードンの警戒が薄れていた。多分、父親であるあのサザンドラを殺した私と話したかったのだろう。
後ろを見ると、相棒の息子とそのパートナーであるエレザードは、緊張しながらも手出ししようとは思っていないようだった。
――それで。何故、ここのポカブを襲う?
――……それを聞くなら、私からも聞かせてくれ。
――いいだろう。だが、あんたが先だ。ポカブを襲う理由を、私が聞いてからだ。
――…………分かった。……でも、貴方にも何となく想像付いているんじゃないか?
――あんたの口から聞きたいんだ。
――……。あのクソの痕跡が、どこに行ってもあるんだ。季節が十回、二十回以上も巡った今になっても。……私は、あのクソに犯されて正気を喪ったリザードから生まれたんだ。リザードンじゃなくて、リザードだ。体格の差なんて、酷いもんだ。……生まれて最初に目にした光景は、母が、先に生まれた兄を、泣きながら殺している姿だったよ。…………私は、あのクソの全てを否定したいんだ。あのクソから生まれてしまった、あのクソが母親を壊していなければ私は生まれなかったとしても。私の中にあのクソから遺伝した力が死ぬまであっても。だから、ここで馬鹿して人間に殺されたなら、私はここで賢く立ち回って、良い思いだけをしてやる。……そう、しなければいけなかった。
しなければいけなかった。そう、リザードンは言った。
このリザードンは、生まれた時からずっと、その父親の呪縛に苛まれている。
――それで、今度は私の質問だ。
――……。
――あのサザンドラを殺すまでの間、どう思っていた?
――殺すまでの間?
――ここに現れて、貴方が殺すまでの間、だ。
……。記憶を呼び覚ます事は、難しくはなかった。
――とんだ迷惑な奴が来た、と最初は思った。駆除が決まった時はさっさと殺したい衝動に駆られていた。あれ程自分が世界の中心に居ると勘違いしているような奴は、これまで生きて来て、アレ以外に知らない。そして、多大な被害を出しながらも何とか弱らせる事が出来て、そして殺す時は、とにかくウザくてしょうがなかった。死ぬと分かってギャンギャン泣き喚くあいつの姿を、もう見たくも無かった。泣き喚く声も、耳に入れたくなかった。……こんな所だな。
リザードンは、それを聞いて黙った。
リザードン自身がクソ扱いしていても、父親だからか、他者から酷く言われるのは何かあるのだろうか。
黙ったままのリザードンに、続けた。
――これ以上ウチを荒らし続けるなら、こっちも本格的にあんたを駆除しに掛かる。それ専門の腕の立つ、あんたなんかよりも強いポケモンを多く引き連れた人間を呼んであんたを地の果てまで追い掛けて、殺しに掛かる。あの父親と同じ目に遭いたくなきゃ、もう、止めろ。あんたは父親とは違うだろう?
リザードンは、黙ったままだった。
…………。
――……私は、あのクソを越えなきゃいけないんだ。
そう言って、翼を広げて去って行った。
……勝負するつもりか?
ポカブを捕まえずに遠くへ去って行くその姿は、もう、止められそうになかった。
相棒の息子は、あのリザードンの事を戦士、と称していたが、あれはそんなものじゃない。父親のせいで、選ぶ道がもう一つしか無くなってしまった、ただただ哀れな奴だ。それ以上でも、それ以下でも無い。
占いなどというものは信じぬ。
いや、齢二十にもなって占いなどというものを盲目的に信じて疑わないなんてことは、元来なかったのだが、これはそういう話ではない。たとえば朝のほんの些細な娯楽の一環として、テレビの星座占いを観てみるといった、そんな次元の話である。
ようはここで俺の言う信心とは、占いをある種の冗句として楽しめるか否かということである。
しかし俺はテレビの星座占いは観ない。寝坊と判断される時間の限界まで睡眠に耽るため、俺の朝にはのんびりとテレビを眺めているような、そんな暇は皆無である。
そんな俺が毎朝密かに、取るに足らない程度の楽しみとしていたのが、駅前広場の掲示板の左下の隅に小さく張り出されている星座占いである。どうやら自治会の暇な誰かしらが、飽きもせずに毎朝張り出しているようである。
この星座占いはその日の運勢が最も良い星座だけを取り上げ、その星座のラッキーカラーを教えてくれるのだ。
毎朝駅前広場を通る俺はその度に掲示板の左下の隅っこに一瞥をくれては、俺の誕生日星座であるおひつじ座が運勢一位ではないかを確認してから大学に向かうのであった。占いを信じていないとはいえ、運勢一位と朝から宣言されれば、縁起が良いから悪い気はしない。
さて、現在世間ではゴールデンウィークなどというものが謳われ、もてはやされているようである。この貴重な長期休暇を謳歌せんと、朝から小中学生が自転車でどこかへ駆けていく姿が散見された。まこと羨ましい次第である。
甚だ忌々しいことに我が大学はゴールデンウィークという一大イベントもどこ吹く風と、構うことなく講義がおこなわれるというのだから、俺の気分も朝から沈鬱なものであった。それはもう、布団から幾多もの腕が生えて俺を離すまいとしているかのごとき倦怠感は格別であった。自主休講というワードが思考を過ぎりもしたが、実家暮らしともなればそうはいかない。母親に尻を叩かれるように家を出て俺は駅へ向かったのであった。
今日も今日とて、俺は駅前広場に差しかかると、掲示板の方に一瞥をやった。特に期待もせず、ある種の惰性でもって張り紙に目を走らせた。
「おや、おひつじ座」
どうやら、今日の俺は全人類中上位十二分の一に入る程度には幸運であるらしかった。ラッキーカラーは『桜色』と春を意識したチョイスであった。
春。五月とは春であろうか? その論題について学説的な知見は寡聞ゆえに持ち合わせてはおらぬが、大衆から意見を募れば、五月が春かどうかという判定については意見が分かれそうではある。ただ五月に桜は咲かぬ。なんとも季節錯誤なラッキーカラーである。
桜といえば我が相棒のチェリムである。本日は曇天ゆえに、口惜しくもそのかんばせを拝むことは叶わぬが、お天道様が輝けば桜のごとき花弁と笑顔にまみえることができる。お天道様さえあれば、年がら年中春を楽しめること請け合いである。お天道様がなければまるでなすびがごとき容貌であるが。どうもここのところ曇天続きで、ここ数日はなすびのままであった。
閑話休題。何の話だったかといえば、占いを信じぬという話であった。
そもそも占いという概念自体が非科学的なものであるし、それもどこの誰とも知れぬ輩が気紛れに張り出している星座占いに、端から信憑性の片鱗すら見出すことはできぬだろう。そのような曖昧模糊な代物に沈鬱なゴールデンウィークを応援されても、焼け石に水と言う他ない。ゴールデンウィークが倦怠な講義に蝕まれることに幸運など到底見出せぬ。今朝の星座占いの結果は俺の憤りを助長するだけのものであったのだ。
「おいおい、なすび。俺は今日一日幸運であるそうだぞ」
俺は鼻を鳴らしながら、随行するなすび、もといチェリムに言った。チェリムはだんまりを決め込みながら、俺の斜め後ろをただ陰湿なストーカーのように歩いた。
「ラッキーカラーは桜色だそうだ。どうだ、俺のために字義通り一肌脱いでみる気概はないか。そんななすび染みた紫ではなくて、華々しい桜を見せてくれても良いだろう」
俺がしつこくつっついたり、花弁を捲ってやろうという素振りをしていると、チェリムはなすびの蔕のような部分で俺の頬を一発きつめに叩いた。いったいこの痛みの何が幸運か。
俺はチェリムをモンスターボールに入れた。もう駅に着く。電車内ではポケモンはモンスターボールに入れなければならぬから、戯れ合いもここらで打ち切らねばならぬ。ゆえになすびとはしばしのお別れである。
俺は駅前広場を抜けて、バスロータリーを早足で横切った。そのまま階段を上り、駅構内に入った。俺が住むこの街は、それなりに都会であるから、それなりに駅が大きく、それなりに混雑するのである。大都会の迷宮がごとき駅には到底及ばぬが、それでも人混みを掻き分ける必要のあるくらいには人間が蠢いている。駅に殺到する人種は、平生ならばサラリーマンと学生が大半であるが、今日はゴールデンウィークだからかそういった人種はやや少ない。少ないが、見受けられる彼らは皆一様に沈鬱な面持ちであった。俺と似たり寄ったりの境遇の者どもであろう。果たしてこの中におひつじ座は何割ほど含有されているであろうか。
サラリーマンと学生が少ない代わりに、今日はやたらと家族連れが多い。連休を利用してどこかへ遠出する者たちだろう。奴らがいるせいで総合的には駅はむしろ平生よりも混雑している。
無秩序に改札へと流れていく人波の一員となりながら、俺はカバンから通学定期を取り出そうとした。
「む。無い」
いくらまさぐろうとも、カバンに入っていて然るべき定期はどこにも見当たらなかった。俺は人の群れから一旦外れ、壁際に寄り、カバンの口に頭を突っ込む勢いで、いよいよ本格的な捜索を実施した。しかし中身をクリームシチューよりも掻き回せど定期は出てきてはくれなかった。どうやら家に忘れてきたようである。
なんたる不運。今から家へ取りに帰る猶予はないので、今日は切符を購入せねばなるまい。幸いにも、俺は家の最寄りから一駅の大学に通っているので、運賃は最小限に抑えることができる。
すでに改札の近くまで流されていた俺は、人間の群れに対して怒涛の逆流を決行した。すれ違う人々は甚だ迷惑そうに顔をしかめながら、惜しげもなく胴体やら肘やらを俺に突っかけてきた。俺は這う這うの体で発券機までこぎ着けた。財布からなけなしの小銭を掴み、切符を購入し、俺は小さくため息をついた。なんとも幸先の悪いものだ。
その後も俺の不運は連鎖した。まず講義に出席したら、通学定期のみならず、本日〆切のレポートをも家に忘れていることに気が付いた。俺は教授にこれでもか頭を下げて、今日中に家から持ってきて教授の研究室まで提出しに行く約束を辛くも取り付けた。
昼に購買でパンを買い食いしようかと思ったら、財布に金がほとんど入っていなかった。俺は実家が学校からすぐ近くということもあり、平生からほんの一握り程度の金銭しか持ち歩いていなかった。それが今朝通学定期を忘れ切符を購入したがために、昼食に割けるだけの金がなくなってしまったのである。口座から金をおろそうにも、この辺りには俺が利用している口座の支店はなかった。俺は昼食を断念することを余儀なくされたのであった。
災難はそれだけに留まらない。本日の講義を全て終えた俺は、教授の恩情に報いるべく、急いで家に戻り、置き去りにされていたレポートを持って再度大学へ向かった。レポートの提出自体は滞りなく済んだのだが、問題はその後である。研究室を出るとなにやらゴロゴロと曇天の向こう側で不吉などよめきが聞こえるではないか。
「おいおい、勘弁してくれよ」
俺の絶望的な呟きなどが抑止力になどなるはずもなく、案の定数刻と経たないうちに天をひっくり返したような雷雨がしとど振りだした。俺は研究棟の正面玄関でチェリムと共に呆然と立ち尽くした。傘など持ち合わせてはいなかった。
ああ、なんたる不運!
コンビニエンスストアにでも行けばビニール傘も販売していようが、そこに辿り着くまでがすこぶる難儀であった。度重なる不幸に俺もいい加減辟易としてくる頃合いである。
次の瞬間、おれは土砂降りの渦中へと身を躍らせた。もはや自棄である。待っていれば止むという保証もない。ならば一時の錯乱に身を任せて、強引に事態を突破してしまう方がまだマシなように思われた。道行く人からの痛々しい視線に気付かないふりをしながら、俺は疾走した。
俺は全身から滝の如く水を滴らせながら、ようやく近くのコンビニエンスストアに飛び込んだ。店内の床に点々と水たまりを作り、店員の迷惑そうな目に身を晒されながらも、俺は無事にハンドタオルと傘の購入に成功した。タオルで全身の水分を拭い、チェリムの身体も拭いてやった。こいつはボールに戻してやることもできたが、基本的に俺のチェリムは外に出たがるので、その必要もなかろう。ボールが嫌いなようであるから、日ごろから必要最低限以外の時は、解き放って自由にさせているのだ。
チェリムを拭き終え、コンビニから出て傘を差した。とりあえず一段落着いたが、こんなにびしょ濡れの格好で電車に乗ろうものならそれこそ大顰蹙を買ってしまう。たかが一駅であるし、家までは歩いて帰ることにした。
大学の最寄り駅を過ぎ、俺は線路に沿ってゆっくりと歩いた。がたたん、ごととんとわきを電車に何度か追い越されながら、俺は己の不幸を呪った。やがて自宅最寄りのいつもの駅前広場に着いた。掲示板はガラスの防護板に覆われており、中の掲示物が雨風に晒されぬようになっていた。星座占いも朝と変わらぬ有り様で、隅っこにぽつねんと佇んでいた。なにが運勢一位であるか。星座占いなぞ、とんだペテンではないか。お前との縁も今日までである。こんなペテン、明日からはけして見向きなどしてやるものか。
俺は袂を分かつような思いで、足早に駅前広場を抜け出した。
*
「おや」
ふと、一筋の光が差した。俺は傘の下から天を仰ぎ見た。
どうやら単なる通り雨であったらしい。なにやら急激に雨脚が弱まったかと思うと、そのまま空を厚く覆っていた雨雲は彼方の方へと去っていき、後には煌々と光を注がんとするお天道様だけが残された。それは久方ぶりの邂逅であった。
それまで寡黙に後を付けてきていたチェリムは弾かれたように走り出した。
「待つのだ、チェリム」
俺の制止なぞには耳もくれず、チェリムはようやく相まみえることのできたお天道様だけを目指し、走る。走る。
お天道様のない日々が続いた後であれば、それはよくある光景であった。曇天の間、チェリムは愚直にお天道様を待ち焦がれている。その反動がかような奔走として表れるのだ。見慣れている光景であるから、猛進するチェリムに置いて行かれそうでも、俺は別段慌てたりはしない。後から追いかけ、ここ数日の鬱屈を晴らさんとするチェリムの後ろ姿を見守った。
我が街において、高層ビル等の文明的建築物を除いた中でもっともお天道様に近い場所は、街の喧騒から外れた、やや寂れている丘の上の公園であると記憶している。そこからならば、街の大半を一望できる。チェリムが駆け上がっているのが、まさにその公園の道程たる坂であった。俺はへろへろになりながらも身体に鞭打って、小さき体躯に無尽蔵の体力を滾らせたチェリムに食らいつこうと必死であった。
やがて頂上へと至る。お天道様の光を余すことなく浴びて、なすびが綻びる。それはまるで、羽化する蛹のような様相である。逆光を受けて輝くその光景は神々しさすら感じる。それはすでになすびなどではない。
そこに顕現したのは、爛漫と微笑む桜花であった。
本日の我がラッキーカラー。煌々たる桜色。
「久しぶりだな」
ここ数日間お天道様が顔を見せなかったゆえに、こいつの真のかんばせを拝むのも数日ぶりである。
チェリムは嬉々として飛び跳ねている。先ほどまでの陰湿ななすびが嘘であったかのように躍動する活力に満ち溢れている。そんな相棒を見ていると、俺の不運幸運にまつわる葛藤なぞ、至極矮小なものであったかのような心持ちになる。
「はは、くだらない一日であったよ」
俺は俺自身を鼻で笑い飛ばし、一蹴した。思えば、今日一日の憤りはゴールデンウィークに大学へ行かねばならぬという理不尽に対して湧き起こったものであって、掲示板の星座占いなど、初めからどうでも良かったような気もしてきたのであった。それは玩具を買ってもらえぬおさなごのような八つ当たりであったのかもれぬ。
チェリムに倣い、お天道様を見据え、その眩しさに目を眇めた。久方ぶりに相見えたお天道様は、無情にも沈み始めていて、そう遅くないうちに再度隠遁してしまいそうであった。
しばらく眺めていると、お天道様の沈む方角から、なにかがこちらに向かって飛んでくるのが見えた。光に目が眩んでおり、明瞭に視認ができないでいたが、それが翼の生えた生き物であるということだけはシルエットが物語っていた。
生き物は、ふわふわと頼りなく浮遊しながら俺たちに向かって近づいてきて、チェリムの頭上まで到達すると、そこで移動を終えて、その場で旋回し始めた。
「これはビビヨンか」
チェリムは自身の頭上で旋回する蝶々を落ち着きなく見上げた。ビビヨンはゆっくりと旋回をやめると下降し、チェリムの頭部にとまった。チェリムは頭を左右に振り乱し、唐突な襲撃者を振り落とそうとした。ビビヨンは驚いたのだろう、反射的に飛び上がり、不思議そうにチェリムを見下ろした。そこらの花と見誤ったのだろうか。
俺はビビヨンの様子を観察した。そういえばこのビビヨンはここらでは見ない模様の羽を携えている。ここらでは一部の特殊な地域を除けば、ビビヨンはおしなべて紫色の雅やかな羽を持っているのである。ところがこのビビヨンの羽は紫ではなく、チェリムの花弁の色と類似した桜色の羽であった。俺の記憶が確かならばこの桜色の羽を有するのは西洋の方でしか見受けられない種であったはずだ。畢竟するに、このビビヨンは外来種であるということである。
桜色といえばもはや言うもおろかではあるが、俺のラッキーカラーである。なるほど凡庸に生きていればまずお目にかかることのないであろう希少な模様のビビヨンに出会えたのだから、これは一つの幸運と呼んでも差し支えないだろう。幸運の程度としては些少たるものだが、占いなどというものは、受け手の気の持ちようなのだ。俺が幸運だと言えば、多少物足りなくとも幸運なのである。
記念ということでひとつ、俺は携帯端末を起動すると、付帯のカメラ機能でもって桜の花と桜の蝶々のツーショットを一枚収めた。背景にお天道様が煌びやかに光を放つため、いまいち写りが悪かったので、二匹の反対側に回り込んでもう一枚収めた。ナイスショット。
しかしこのビビヨン、外来種ということは海外から訪れた誰かしらが連れてきたということであろう。試しに近づいて頭に触れてみても、こちらを警戒することはなく、随分人に慣れている様子である。やはり飼い主がいるのだろう。今は一緒にいるわけではなさそうだが、もし迷子ともなれば面倒な話になってくる。俺は周辺に視線を彷徨わせてそれと思われる人物を探した。すると一人こちらの方へ駆け寄ってくる人影があった。
それは女性であった。恐らくは俺より多少年下の、十七、八くらいの少女であるように見えた。白いワンピースの上にブルーのベストを羽織っている。
少女は焦燥気味な小走りで、俺たちのもとまでやってきた。
「すみません、うちのビビヨンが突然押しかけてしまい」
息をきらせながらも、少女は恭しく頭を下げた。
もっと西洋風な人物が出てくるのではと構えていた俺は少々拍子抜けした。少女は長い黒髪を眼の上で一文字に切り揃え、肌は名残雪を想起させる今にも溶け出してしまいそうな淡い色白であり、むしろ和風然としているような印象を受けた。
「ああ、いえ。あなたのビビヨンですか」
「そうでございます。本当に申し訳ありません。ほら、ビビヨン、こっちに来てください。無闇と人様に迷惑をかけるものではありません」
少女は重ね重ね平身低頭し、謝罪した。それから少女はビビヨンに手を差しのべ、回帰を促した。
少女にたしなめられたビビヨンは名残惜しそうに、なおもチェリムの上で旋回を続けており、少女のもとへ戻っていく気色はなさそうであった。
「もう、本当にやんちゃなんですから」
「元気なことは良いことです」
と俺は言った。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとしと言います」
と少女は答えた。
「ははは、でしたらうちの根暗なチェリムに活気を分けて欲しいものです」
「根暗でありますか」
少女はチェリムたちに一瞥をすると、疑惑の色を浮かべた。俺もそれにならい、二匹を観察した。
初めは戸惑っていたチェリムであるが、なにやら意気投合でもしたかのようで、ビビヨンが旋回する下で、くるくると回り踊っているのであった。木々の緑が濃くなり始めている季節の景色の中で、そこだけ過去から春を切り離して来て、現在に貼り付けたようであった。
「とても根暗でいらっしゃるようには見えません」
少女は言った。
「今は花が開いていますから、あんなにはしゃいでいます。こいつは花が開いている時は、見てくれ相応に陽気な性質なのです。ですが、もうしばらくして日が沈みますと花が閉じます。そうすると今の活気がまるで嘘のように、根暗になってしまうのです」
「そうなのですか」
「はい。そうなれば、あいつはただの陰湿ななすびです」
「なすびでございますか」
少女は袖もとを口に当て、くすくすと控えめに微笑んでみせた。その姿があまりに可憐であるものだから、俺はつい見惚れてしまいそうになった。
「でしたら、日が沈むまであのままかもしれませんね。あの子あんなに夢中になってしまって」
少女は心底申し訳なさそうに顔を曇らせた。ビビヨンとチェリムは依然じゃれ合っており、二匹の戯れが終わる気配は一向にない。
「いいえ、俺は別に構いません」
むしろ満更でもないくらいであった。平生女性との会話は、母親以外では皆無に等しい俺にとって、かような可憐な女子と会話ができるという事態は、今日この時が最初で最後であるかもしれないのであった。
「立ちっぱなしもなんですから、ひとまず腰を落ち着けませんか」
と俺は提言した。
「そうですね」
俺たちは公園の端にしつらえられた、老朽化の途上にある木製のベンチに腰をかけることにした。少女は右端の方に座った。俺は適切な距離感を図りかねて、少女から一人と半分が間に座れるくらい離れて座った。根性なしであると自らの内から罵倒の声が聞こえてくるようであったが、これが女性と真っ当なコミュニケーションを交わしてこられなかった男の限界である。
ベンチからは暮れなずむ街並みを背景にしたビビヨンとチェリムの姿が真正面に捉えられた。
「それにしても珍しい模様のビビヨンですね」
「はい。家の都合で五年ほど海外で暮らしておりまして、向こうにいる時に出会った子ですので」
「なるほど、帰国子女なのですね」
「そういうことになります」
「ちなみに、差し支えなければどちらの国で出会ったのかお聞きしても?」
「カロスでございます」
カロスといえば、西洋の中でも芸術に秀でた国であり、世界各国の中でも有数のお洒落大国でもある。しかしこの少女からはカロスらしい華美な洒落っ気は感じられなかった。むしろ精緻な和製人形がごとき、清楚で奥ゆかしい雰囲気をまとっている。
「ですから、この国ではあまり見られない模様かもしれません」
「はい。このような模様の羽根は実物では初めて見ました。素晴らしい桜色ですね」
「桜色、ですか?」
胡乱そうに小首を傾げる少女の仕草で、俺は迂闊にも妙ちきりんなことを口走ってしまったことを自覚した。桜色などという表現は常頃から世間で使われるようなものではないし、そもそもいまや桜は時期外れという節があるのだから、他人との会話で脈絡無く使えば戸惑われることもあろう。
「ああ、たしかに桜のような色とも言えますね」
「すみません。おかしな表現をしてしまいました」
「いえ、素敵だと思いますよ。そうですね、カロスに桜はありませんから失念しておりましたが、そういう言い方もありますね。今年帰国して久しぶりに桜を観ましたが、やはり風情があって良いものでした」
「この国の桜が一番美しいという話も聞きますし、格別なのでしょう。ちなみにですが、カロスにも桜はあるそうです」
「あら、そうなのですか」
「はい、こちらほど盛んではないそうですが、花見をする地域もあるそうです」
「浅学でした。私の住んでいた地域には桜はございませんでしたので、てっきりカロスには咲いていないものかと思い込んでおりました」
少女は含羞の表情でほんのりと頬を赤らめた。
「桜と言えばジョウトやカントーだけ、という先入観は抱いてしまいがちですし、実際そういう人も少なくありませんから、無理もないでしょう」
「いえ、本当にお恥ずかしい」
今までことさらに触れなかったが、俺のいる地方はジョウトである。ジョウトと少女の言うカロスとは遠く離れた地で、その文化も大きく異なるが、その仔細についてはわざわざ言及する必要もなかろう。
お天道様が隠遁してしまうまでにはまだ猶予があるようであった。チェリムはいまだなすびの中へ引きこもる兆しはないようであった。西日に晒されて自慢の桜花を咲き誇らせている。その桜花に向けられるビビヨンの並々ならぬ熱情も健在であった。
「貴方のチェリムさん、うちのビビヨンにたいそう気に入られてしまったようですね」
「そのようです」
見るからに異様な気に入られっぷりである。二匹とも愛らしい相貌であるから、傍から眺めていれば、それは微笑ましい光景に他ならないが、それにしてもビビヨンからはチェリムに対する往年の親友に久方振りに邂逅したかのような情愛染みたものを感じざるを得ない。二匹らは初対面であるはずなのに、いったいどういうことであろうか。
「あの子、桜の花が好きなのです」
ビビヨンの執心について思案を巡らせていた俺に、少女は言った。
「先も申しましたが、カロスの私が住んでいた地域には桜はありませんでした。あの子とはそこで出会いましたから、きっとあの子も向こうでは桜を見たことはなかったのだと思います」
「でしたら、ジョウトの桜はさぞ珍しく映ったことでしょう」
「はい。こちらに帰ってきて、初めて桜の花を見たとき、あの子、いたく桜を気に入ったようでした。しばらくの間、毎日勝手に桜並木の方まで飛んでいってしまって、大変でした」
「なるほど、ですから桜の花によく似たチェリムにあれほどご執心なわけですね」
得心がいった俺は、ぽんと手を打った。
「桜が散った後のあの子の鬱屈した様子といったらありませんでした」
「それほど酷いものでしたか」
「ええ。部屋のカーテンを桜柄にしたり、あれこれ便宜を図りましたら幾分か元気も出てきたようでした。まあ今となっては桜のことは半分忘れていたような様子でしたが、今日貴方のチェリムさんを見て記憶が呼び起されたのでしょう」
公園の裏は雑木林になっており、その奥底に潜んでいるのであろう鳥ポケモンの甲高い声が夕空へ突き刺さった。立地もあまりよろしくなく、甚だ寂れた公園には俺たち以外に人影はない。時折蠢く姿の見えぬ獣たちの気配が、この地の孤立をいっそう際立たせた。
じゃれ合うビビヨンとチェリムを尻目に、俺たちの間では沈黙の時間が流れた。気まずさでいたたまれない俺はなにか気の利いた話題を見つけようと、躍起になった。隣の少女を盗み見ると、二匹の戯れをあてもなく眺めながら、儚げな微笑みを浮かべていた。その横顔に胸が高鳴り、俺はますます焦燥感に身を苛まれた。
「俺の今日のラッキーカラーは桜色なのです」
懊悩の末に我が喉頭から飛び出した台詞は、そんな掃いて捨ててしまいたくなるような至極くだらないものであった。言ってから、おまえ他にマシな話題があっただろうと後悔の炎が身を包んだ。
少女は俺の唐突な宣言にぽかんとして見つめてきた。
「桜色、ですか?」
既視感のある少女の返答に、一抹の申し訳なさを覚えてしまう。
「はい。今朝の星座占いがそのように宣っていました」
少女は腑に落ちないように目をぱちくりと瞬かせた。
「それはおかしいですね」
「なにがですか?」
「私は今朝、星座占いをしているチャンネルを全て梯子しましたが、そのようなラッキーカラーは記憶にございません」
おっ、と俺はある種の手ごたえを感じた。悪手と思われた占い談義であったが、意外にも少女の喰いつきが良さそうであった。
「テレビの星座占いではないのです」
「では新聞でしょうか」
「いいえ、新聞でもありません。あそこの駅前の広場に掲示板があるのはご存知ですか」
俺は見下ろした街の一画に鎮座する駅の方角を指さして言った。もうじきお天道様も見えなくなりそうだった。
「はい。存在くらいは存じております」
「その掲示板に毎朝星座占いが張り出されるのです」
「まあ、初めて知りました」
「隅の方に小さく張り出されるので、大抵の人の目にはとまらぬようです」
過去、友人に何度か掲示板の星座占いについて教示したことがあるが、皆一様にそんなものは知らなかったと答えた。古くからこの街に住む人間にすらまともに認知すらされていない、悲しき星座占いである。とはいえ、俺もその存在を知ったのはそう遠い過去ことではないというのは内緒のはなしである。
「俺はおひつじ座ですが、その星座占い曰く、おひつじ座は今日の運勢一位でして、ラッキーカラーは桜色だそうです」
「なんと。私もおひつじ座なのです」
「おお、これはまた偶然ですね」
「では私のラッキーカラーも桜色なのですね」
「そういうことになります」
「桜色といえば、うちのビビヨンの羽の色は桜色ですし、貴方のチェリムさんの花も桜色でいらっしゃいます」
「はい」
「それで先ほど、ビビヨンの羽を桜色とおっしゃたのですね」
「つい勢いで口走ってしまいました」
俺は苦笑しながら頭を掻いた。
「ではあの子たちは今日、私たちに幸運をもたらしてくれていたのでしょうか」
少女は笑顔で首を傾げた。
「さあ、どうでしょう」
俺は今日一日でわが身に降りかかった不運に思いを馳せた。ゴールデンウィークの登校に始まり、定期やらレポートやらを忘れ、切符を買ったせいで昼飯代はなくなり、夕立に襲われる。それらはとても幸運であったとは言えまい。
ただ、こうして可憐な少女と邂逅し、しばしの談話に耽ったことは、至上の幸運と呼んでも、俺としては差支えがなかった。もっとも、『あなたと出会えたことが何よりの幸運です』などとこっ恥ずかしい台詞を臆面もなく口に出せるほど、俺の精神は強固に作られてはおらぬ。
「私は幸運でしたよ」
少女は言った。
「えっ、なにがでしょう」
少女は立ち上がり、お天道様の方へ歩み寄ると、伸びをするように両の手を天に突き上げ、夕日の紅を一身に浴び、こちらに振り向くと煌びやかに顔を綻ばせ、笑った。その芸術的とも賛美すべき情景に寸毫心を奪われた俺は固唾を飲んで、次に紡がれる言葉を待った。
「あの子の――――ビビヨンのあれほど嬉しそうな姿を見るのは久しぶりでした。これはきっと桜色の花と桜色の羽が私に運んでくれた幸運なのでしょう」
「あっ……ははは。そうですか。そう言っていただけるとうちの桜も本望でしょう」
一瞬、自分にとって都合のいい発言を期待してしまった己に、些末な羞恥心を抱きつつ、俺は釣られて笑った。
「ああっ」
突然少女が短く悲鳴をあげた。
「どうかしましたか」
「先刻まで雨が降っていたから木製のベンチに雨水が染み込んでいたのでしょう。その……後ろの方が濡れてしまいました」
少女は恥ずかしそうに臀部を押さえながら俯いた。
俺も慌ててベンチから立ち上がり自分の臀部に手を当てると、その下のボクサーパンツまでしっとりと湿っているのがわかった。
「とんだ不運だ」
俺は言った。
「ええ、本当に」
少女が言った。
少女は濡れた臀部の布地から水を跳ね除けようと、両手で忙しなく叩いた。そんなことをしてもどうにもならんだろうと思いながら見ていると、手を激しく動かした拍子に少女が携えていたカバンからなにやら四角い物が落下した。
「なにか落としましたよ」
言いながら、拾い上げるとそれは我が大学の学生証であった。そこには緊張ゆえに不自然に強張った少女の顔写真と名前、それから国文学部一年生、その他プライバシーに大きく関わるあれやこれが記載されていたので、俺はすかさず目を逸らした。
「すみません、ありがとうございます」
少女は俺から学生証を受け取るとそそくさとカバンにしまい込んだ。
「申し訳ない、見てしまいした」
「いえ、落とした私が悪いのです。お気になさらないでください」
「その……貴方もそこの大学生だったのですね」
「えっ?」
「俺も同じ大学に通っているもので。学年は俺がひとつ上のようですが」
少女は驚いて丸く口を開いて目を瞬かせた。
「まあ、こんな偶然もあるものなのですね」
気が付けば、お天道様はすでに隠居してしまっていた。遠くの方はまだ薄紅色の残滓が散りばめられていたが、だいぶ暗くなっていた。こうもなればチェリムの桜の時間も終わりを迎えることとなる。
いつの間にか俺の斜め後ろに物言わぬなすびが黙然と張り付いていた。それまでチェリムに執心を注いでいたビビヨンも、不気味ななすびにはもはや興味など皆無であった。
ビビヨンはようやく少女のもとへと舞い戻り、その傍らに落ち着いた。
「このたびはとんだご迷惑をおかけいたしました」
少女は深々と頭を下げ、長い黒髪を垂らした。
「いえいえ、そんな頭を下げないでください。うちのなすびも喜んでおりましたので、むしろ感謝しても良いくらいです」
「そんな、滅相もございません」
それから俺たちは並んで丘を降りた。
「では私はこっちですので」
「はい、ここでお別れですね」
途中の十字路で俺たちは立ち止った。
「同じ大学に通っているともなれば、また会う機会もございましょう」
少女が言った。
「そうですね」
「その時はまたうちのビビヨンが粗相をするかもしれませんが……」
「なんのなんの。うちのなすびなんぞで良かったら、いつでも貸し出しましょう。遠慮なく仰ってください」
少女は、ふふ、と小さく笑うと「では、また」と会釈をした。
「さようなら」
俺は夜道を歩きながら、少女の言うところの『桜色の花と桜色の羽が運んでくれた幸運』という言葉を反芻した。僥倖な縁を引き寄せてくれた二つの遅咲きの桜色に、俺は多大なる感謝の意を表す所存である。
それから此度の幸運の根源たる件の星座占いを、俺は密かに崇拝することにした。
夏休みに入ったのだろうか。たくさんの荷物を抱えて、ろくに前も見えないだろう小学生の帰路を横目に、私は溜め息をついた。雨が上がったばかりの空はどんよりと曇り、まだ絞れば水が滴りそうだ。暑いよりは過ごしやすいのだが。
こういう時、私は祖父を思い出す。
「今年の夏は涼しくて過ごしやすい」
そう言って笑い、私の頭に大きな手を置いた祖父は、縁側に並んで座るように促した。祖父が亡くなったあの夏は、私にとって永遠の夏だ。夏が来る度に、私はいつでもあの夏に遡る。
「ほら、アイツも嬉しそうだろう。肌がツヤツヤしておる」
祖父の指が指し示す方向には、池があった。父方の実家は古かったが立派な庭付きの一軒家であり、庭の手入れは行き届いていなかったが、それがかえって子供の私にはジャングルのように見えて、魅了された。その草が生い茂る真ん中には瓢箪のような形の池があり、濁った水に水草が浮かび上がっている。溺れたらいけない、と、近づくことは許されなかったが、祖父と一緒に縁側に腰掛けて眺めることは多かった。そしてそういう時にはいつも、祖父は池を指さして「アイツ」のことを語った。
私は「アイツ」を見たことが無かった。
「いつの間にか、気が付いたらうちの池に住み着いていてね。水も合わないだろうし、すぐにいなくなると思っていたのだが。どうやらアイツはうちが気に入ったらしいんだよ」
子供だった私は、祖父がどんな顔をしていたのかまで見ていなかった。ただ、私には見えない「アイツ」のことを語る祖父を不思議に思って、首を傾げて話を聞いた。
初めて「アイツ」が祖父の話に登場した時、私は無邪気に池に目を凝らしたものだった。「アイツ」って、だれ? どこにいるの? 私には見えないけれど、おじいちゃんには見えるの?、と尋ねると、祖父はふっと微笑んでただ頷いた。それきり私は、「アイツ」は祖父にだけ見えるものとして、受け入れることにしていたのだった。
「ばあさんが死んでから、この家は無駄に広くてね。お前が遊びに来る時のために、とっておいているようなものだよ。わしひとりには、広すぎるんだ。そんな寂しい老人に同情したのか知らないが、アイツは池からわしを見守ってくれているんだよ」
祖父と最後に会ったのは、珍しく過ごしやすい日が続いた夏の盆だった。祖父は私達が帰っていった翌週に静かに息を引き取った。
両親は、ばあさんが盆に帰ってきて、そのままじいさんを連れていったのか、などと言っていた。
葬式で再び祖父の家を訪れた私は、遊んでくれる相手もなく、黒い服を着た大人達のつまらない会話に飽きて部屋を抜け出した。窮屈な真っ黒いワンピースを着せられ、じっと座らされて、もう我慢が出来なかったのだ。祖父はもういない、もう会えないのだと思うと悲しかったが実感は湧かず、私はいつものように縁側に腰掛けた。そしてやっと、ひとりで座る縁側で寂しさを覚えたーーその時、視線を感じて顔を上げた私には
「アイツ」が
青い肌の人間かと思った。しかし瞬きをしてよく見ると、それは人間ではなかった。青くぬめりのある皮膚、手足には鋭い爪が生えて水かきがあり、太い尻尾が草の上に横たわっている。額に赤い石をたたえた、その生物は、池を縁取る岩に腰掛けてこちらを見つめていた。私は微かに悲鳴をあげた。それを聞いて、「アイツ」は私から目を逸らし、ぬるりと池に入り込んで行ってしまった。元来濁っている池なのでその姿はすぐに見えなくなり、しばらくすると何事も無かったかのように水面も静かになった。私は動けなかった。ただそのまま、池を見つめていた。
大人になってから調べたところ、「アイツ」は「ゴルダック」というポケモンらしい。とても泳ぎがうまいポケモンのようだが、なぜあんな汚い池に住んでいたのかは検討もつかない。
あれから、私は川や湖や、とにかく水辺を見かける度に「アイツ」を思い出す。そして視線を感じる。見回しても何も無いのだが、水辺でいつも誰かに見られている気がする。
私は、祖父があのゴルダックに頼んだのだと思っている。自分を見守ってくれたように、孫の私を見守ってくれ、と。
もしくは、祖父の魂がゴルダックに乗り移ったのか、とも思っている。
どちらにせよ、再びゴルダックの姿を見ることは無かった。しかし、私が思い出す祖父の家にはゴルダックの姿が描けるようになったし、私の思い描く祖父は、ゴルダックに微笑みかけているのだった。
ーー気が付くと、ポツリ、と雨の雫が頬を打っていた。濡れたまま閉じられたビニール傘を震わせて、再び開く。駅までもう少しだったのに、と早めた足が、水溜りに踏み込んで小さな水しぶきをあげた。
通り過ぎる私を、揺れる水溜りから、青い影が見つめていたことは、誰も知らない。
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初めまして。実はお久し振りです、なのですが。
7年ほど前に、よくこちらのサイトで小説を投稿させていただいておりました。
かつての名前を忘れてしまいましたが、カゲボウズや救助リレーにも参加させて頂いたり…
小説コンテストにも何度か挑戦いたしました。
「足跡」の回で足跡博士とシキジカの話を書いたり、救助リレーにエーフィを派遣したりした者です。
少し落ち着いたので、また書いてみようと思います。
ぜひ、また宜しくお願い致します。
そしてオヤジは僕を取り替えそうとしたみたいだけど、
取り替えそうと⇒取り返そうと
次の日から、町の腕っぷしの強い獣を持つ人達に要請して、代わる代わるに見張りをして貰った。
ポカブ達が小屋の外に出ている間の時間に、複数人での体勢で。
けれど、俺は何となく、来る事は無いだろうと思っていた。あのリザードンは、そこまで危険を冒してまでここには来ないだろう、と。
一日、二日が経った。やっぱり、リザードンは来なかった。
空を何度も見たが、あの赤みがかったオレンジ色の姿は、見えない。
別の町の牧場にも姿を現していない事は、三日目で分かった。
サザンドラの二の舞にならないように、リザードンはずる賢く人間から食い物を奪っていくつもりだとしても、それをどれだけ慎重にやっていくのか、という事まではまだ分かっていない。
ただ、味を占めて隙を見せる、という事はまず無さそうだった。
念の為、一週間は取り敢えず見てもらう事にしていたが、森の先から姿さえも見える事が無いとなると、監視している側の緊張も薄れていく。
金属も使った強靭な大弓と燃えにくい金属の矢を背に番えた、初老の男性と、それに仕えるバルジーナ。
長剣を持つやや初老一歩手前の男性と、その隣でじっとしているドサイドン。
リザードンが一匹を連れ去ってからと言うものの、ポカブ達は少し落ち着きがない。見張りの有無に関わらず、夜、小屋に近付いてみれば、上手く眠れていないような唸り声が少し聞こえる。
リザードンは、もう一度来るだろうか? あの一回だけしか、ポカブを奪いには来なかった、という事はあるだろうか?
翼を持つ種族だ。噂なんて全く届かないような遠くに行って、そこでまたポカブやらアチャモやらを奪っているかもしれない。
三日が経ち、四日が経つ。
リザードンは姿を現さない。全くと言って良い程、遠くから様子を窺うような事すらも無い。噂もどこからも聞かない。
ポカブ達は落ち着きを取り戻してきた。落ち着きを取り戻すまでの間も、屠殺して肉にしていたが、それには気付いていない。
取り敢えず、見張りは効いているようだ。ただ、問題は、見張りが居なくなった瞬間、また奪いに来るなんて事があり得そうだという事だ。
実際、そう来たら本格的に対策を練らなければいけない。
あのリザードンを、空からも追い掛け、二度と来る事が無いようにする。
戦士のように鍛え抜かれた体を持つリザードンに対して、それが可能かどうかは別として。
*****
そう、そうだ。前足で柄を優しく握れ。強い力はそんなに必要ねえ。力んでいると、流れがそこで止まっちまう。力が刀まで伝わらん。
それから、頭の上まで振り被れ。人間のように直立するのは俺達にゃ苦しいが、数瞬の間で良い。その数瞬の間で、自分の体の軸をしっかりと固めるんだ。
震えるな。息を整えろ。落ち着け。自分を空っぽにしろ。
吸って、吐いて、そして、体重を掛けて。目の前だけを見て、重力に任せて、すとん、と振り下ろせ。
さくっ。
薪に向って振り下ろされた脚刀は、後少しで真っ二つになるまで食いこんでいた。
うん、中々良い。でも、まだまだだな。
次。
柄を握って。そうじゃねえ。包み込むようにだ。優しく握ると言ったが、すっぽ抜けちゃいけねえ。そう、この指をこっちに回して……。
もう一度、手本だ。私ももう先は短いからな、ちゃんとと見ておけ。
刀を抜いて、前脚で握り直す。優しく、だが、しっかりとだ。それでいて、力まないようにな。
そして、刀を立てて立ちあがる。私はもう、立ち上がるのも一苦労だがな。でもまあ、まだ大丈夫だ。
振り被り、息を整える。体の軸を感じて、その中心に刀を揃える。
そして、息を吐いて、振り下ろす。
とんっ、からから……。
そうだ、力が無くとも、薪位ならぱかっと割れる。この刀の鋭さに、自分の重みをちゃんと乗せる事が出来れば、それだけで薪位なら割れるんだ。
じゃあ、今日は誰かに実際にやってもらうからな。
緊張する事だろう。最初はそれでも良い。いや、そうじゃなきゃいかん。殺すって事は食うって事だ。それをちゃんと、身体の中に刻み込め。
人間と生きる俺達はそれを忘れがちだ。狩りもせずに生きていたら尚更な。
ちゃんと出来るようになるのは、それを身体に染み込ませてからで良い。
あ、あとな、"これ"は戦う技術じゃねえ。心を無にして楽にしてやる技術だ。実戦にゃ全く役に立たない。そこははっきりさせておけよ。
……まあ、楽にさせる、なんて結局人間達のそして私達のエゴでしかないんだけどな。
一回目を閉じろ。そうだ。心を落ち着かせろ。色んな事が頭の中をぐるぐると渦巻いているだろうが、やると決めたならばやるんだろ?
……私は最初は、貝刀で切り裂いていたんだ。その立派な刀でなく、あの小せえ貝刀でだ。痺れて動けなくて、何も考えられない、涎をだらだらと垂らしながら白目を剥いているポカブの目の前に行って、首の血管を切り裂いたんだ。
その度に私の顔に血が跳ねたさ。
でも、私はそれをやった。……私は、生まれた時からあの主人と共に生きて来たからだ。兄弟も居たが、どれもこの仕事には合わなかった。
私だけが慣れる事が出来た、主人の力になれた、そんな薄汚さもある優越感もあったが、それ以上にこの役割は、誇りを持てる。
そう毎日村の人達が食える程の量を捌いている訳じゃないがな、祭りとかそういう時に、人も獣も私が切った肉を美味しそうに食べている所を見るとな、誇りが湧いて来る。
この刀を血塗れにする価値がある。
そう思った。
それも、薄汚い優越感かもしれんが。結局、私は、こうして人と暮らし、互いに力になれる獣を殺す事を受け入れた。
長く続けて来て、殺す事が日常になって、ほぼほぼ何も思わなくなったが、それでも私も、全てを完全に割り切れている訳じゃねえ。
主人だってそうだろう。
ああ、……そろそろ来たな。
大丈夫か?
何とかなる、か。そうだな、その程度で良い。
エレザードがポカブに近付いて行ったら刀を抜け。
分かってる。そうか。
力んでるぞ。息を吸って、吐け。もう一度、ゆっくりと、吸って、吐くんだ。
よし、抜けた。
そら、痺れさせた。行け。
ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。
時間無いぞ、でも急ぐなよ。
おお、中々良い構えだ。そして、振り下ろす。
最初にしては、うん、かなり上出来だな。
さて、と。近付いてみると、ちゃんと首が切れている。骨もすっぱりと。でも、肉が潰れてるな。
まあ、上出来上出来。
どうだった? そんな顔するなよ。誰だってやってる事だ。やってない奴は、肉を食わなくて良い奴だ。それか、こういう事から目を背けてるだけの奴だ。
お前は、やったんだ。目を背けていない。それは、偉い事だ。
ほら、息を落ち着かせろ。吸って吐いて、吸って、吐いて。
よし、段々落ち着いて来た。さて、これで終わりじゃない。刀を洗わないとな。洗わないと血がこびりついて、切れ味も悪くなる。
ほら、若いんだから、動け。動いている内に気も少しずつ解れる。
動く気にならない?
そうか。でもな、そうするとな、記憶がこびりつくんだ。悪い方向にな。
夢を見るんだ。切った首がぐるり、と動いて、俺の顔にじりじりと近付いて来る夢だ。血をどばどば流しながら、どう見ても頭にある以上の血が地面に溜まって行って、真っ赤に染め上げて行って。そして俺は動けない。
首も動かせなくて、ただ只管に、時間を掛けて、じりじりと、な。足が血に浸されて。ぴちゃぴちゃと音が鳴って。びくびくと震えながら、白目を剥いたまま俺を睨み付けるようにしたり。
そして、目の前まで来て、口をぱっかりと開けて、ピギィィィィィィィイイイイイイイイイって、叫ぶんだ。
ほら、そうなりたくなかったら、空でも見て、……。リザードン。
あ、手に持ってるの、俺はもう見えないが、まあ、ポカブだろう?
やっぱりか。
追い掛けていく。
私はもう、戦える身じゃないからな、結構悔しい。でも、あれは……アレとは別物だな……。
アレ? まあ、近い内に話してやるよ。
エンジュシティに伝わる焼けた塔とホウオウの伝説は、ジョウト地方を代表する神話として、地方を越えて多くの人々に親しまれている。
最も一般的に知られている逸話は「カネの塔が雷で焼け落ちた時、そこに住んでいた三体の名も無きポケモンが火事で息絶えた。そこにホウオウが現れて三体のポケモンを、ライコウ、エンテイ、スイクンとして復活させた」というものであろう。
しかし、神話や伝説というものには異説がつきものであり、このホウオウ伝説も例外ではない。
以下に紹介するのはその異説の一つであり、オニドリルとエアームドが変じてホウオウとルギアになったとするものである。ある種のポケモンが全く別種のポケモンに変ずるということは、今の時代からすれば一見考えがたい説に思えるが、カロス地方においては、幻の存在とも呼ばれるディアンシーというポケモンが、実はメレシーの突然変異種であることが研究で分かっている。ホウオウとルギアに関しても、別種のポケモンの変異種である可能性が全くないわけではないのだ。
そうした可能性に思いを馳せながら、一種独特の神話の世界を垣間見てみよう。
***
昔々、延寿の町には二つの塔が建っていた。
二つとも立派な塔であったのに、あまりに古いものであるためか、その由来は誰も知らず、ただカネの塔、スズの塔と呼ばれていた。
その二つの塔の頂に、二羽の鳥がそれぞれ住んでいた。
カネの塔に住んでいた一羽は鎧鳥、スズの塔に住んでいた一羽は鬼嘴鳥(きしどり、今で言うオニドリル)である。
元来、鎧鳥は刃のような翼で草木や獣、人をも斬ってしまう鳥として人々に恐れられる鳥であった。このカネの塔に住まう鎧鳥もやはり恐れられていたが、この鎧鳥はいつも塔の頂に居座ったままで、何一つ人に害なすことはなかったという。
一方の鬼嘴鳥はといえば、こちらは元々、人が近づけばたちまち空へ上がり、一昼夜降りてこないとされるほどに臆病な質であるはずのものが、少しでもスズの塔に近づく者があれば、その長く鋭い嘴で直ぐ様追い払ってしまったという。その時の鬼嘴鳥の怒り狂う様の恐ろしいことは、まさに鬼の如しであったと言われている。
ある時、カネの塔に見知らぬ獣が出入りしているという噂が延寿の町にはやり、これを一目見ようと忍び込もうとする者がいた。が、カネの塔の頂から鎧鳥が刃の如き羽を一枚落として睨みつけ、スズの塔の頂から鬼嘴鳥が舞い降りて嘴で激しく攻めたてると、一目散に逃げていった。延寿の人々はこの様を見て、最もなことだと噂しあったという。
カネの塔に住む正体の知れぬ獣の事は、その後も人々の口にのぼるところとなり、一時はその姿を目で捉えたという者も現れたが、いざ正体を掴もうとすると尽く二つの塔に住む鳥たちに阻まれ、誰も事を成し遂げることはできなかった。
嘉永二年の夏、延寿の町を大嵐が襲った。嵐は風と雷を呼び、雷はカネの塔に落ちた。これがカネの塔を焼いた大火である。
この時人々はみな家に閉じこもっていたが、大火の報せを聞くやいなや外へ飛び出し、この後のことを見た。
延寿の町に並び立つ塔のうちの一つが、頂から真っ二つに裂けて燃え盛っている。吹きすさぶ雨風にも因らず炎の勢いはますます強く、人々は恐ろしい光景に身を震わせた。そしてそのうちに、はたと気づく者がいた。
「あの塔に住んでいた鎧鳥はどうなったか」
「あの塔に居着いているという獣はどうしたか」
「鬼嘴鳥の姿もどこにも見えない」
口々に言う人々の恐怖がいよいよ頂点に達した時、燃えるカネの塔の中から凄まじい鳴き声が聞こえ、続いて一羽の鳥が矢のような勢いで空に向かって舞い上がっていくのが見えた。
鳥は頭から尾羽根まで炎に包まれていたが、その鬼の角のように長く鋭い嘴を人々が見違えることはなかった。
鬼嘴鳥は雨風に打たれ、炎に焼かれながら、雲を割るような声をあげて真っ直ぐ空へ上がっていく。その様子はまるで天に怒り、戦いを挑むかのようであった。その鬼嘴鳥を、一つの雷が貫いた。
この様子を見守っていた人々は、ああ、いよいよあの鬼嘴鳥の命もなくなったか、と嘆息したという。
ところが、雷に打たれた鬼嘴鳥は命をなくして地面に落ちるどころか、ますます勢いを増して空を舞いだした。見れば、その翼は炎の朱色に染まり、尾羽根は雷のように金色に光っている。姿を変じた鳥が一つ大きく羽ばたくと、雨風はたちまち慈雨に変わり、塔を焼く炎を鎮めた。
これが鳳凰の起こりである。
鳳凰が焼けたカネの塔の上を一巡りし、笙の響くような声で鳴くと、声に応ずるように、焼けた塔の中から堂々たる風格の三頭の獣が現れ、何処へか走り去っていった。その姿は、塔を焼いた炎、塔に落ちた雷、塔を鎮火させた慈雨をそれぞれの身にまとったようであったという。
これが炎帝、雷公、水君の起こりである。
この時人々は、かなし、かなし、という声を聞いた。そして、焼け焦げた塔の中から、もう一羽の鳥が現れた。
その鳥の翼は白く、雨を受けて清らかに輝いていた。鎧鳥の鋼の翼が雷と炎により、白銀と成ったのだ。
白銀の鳥は、かなし、かなし、と人の声で鳴いた。そして天に向かい、このように告げたという。
「かなし、かなし。炎に焼けて泣く獣の声が。
くちおし、くちおし。雷によりて崩る我が家居が。
おそろし、おそろし。雨風に怖じ恐る人の声が。
水底なれば、炎、雷、雨風、消え返りて事なきものを」
白銀の鳥が飛び去ると、驚くことに、空を覆っていた黒雲がその後をついていき、延寿の空は一辺、晴天となった。空に虹が渡ると、鳳凰もまた飛び去ったという。
白銀の鳥には長きに渡り、名がなかった。延寿に起きた災いを引き連れて飛び去ったとされるその鳥の名を呼ぶ時は嵐や雷の名で呼ばれ、災いが去ったままにしておくために塔は焼けたままにされた。
今でも、スズの塔に鳳凰が舞い降りることはあっても、かつてカネの塔であった焼けた塔に「ルギア」と名付けられたその鳥が現れることはないのだという。
以上が、ジョウト神話の異説である。
貝刃が打ち合わされる音で目が覚める。
窓から外を覗けば、今日も朝っぱらから父がフタチマル達に稽古をしていた。
父のパートナーであるダイケンキの子は、七体。そして、この仕事をする適性があると父によって見做されたのは五体。獣は、人と比べてそういう性質が遺伝し易いらしい。
その五体が、暫くの間、稽古で力を付けている。
貝刃じゃ、体を刻む事が出来ても、首を切り落とす事は出来ない。脚刀でなければいけない。そして、父のダイケンキには時間が無い。
朝飯の時間になる頃に、貝刃の音は鳴り止み、父だけが戻って来た。
適性がある事と、最初から仕事を上手くやれる事は全くの別問題だ。フタチマル達は、ダイケンキが父ではあるが、住んでいる場所はここではない。
それぞれ、この町の人達の家で、その人達のパートナーとしてなれるようにも暮らしている。
自分達家族が引き取るのは、最も適性があった一体だけだ。
後は、この町の誰かのパートナーとして暮らしていく事になる。
朝は、簡素に豆のマトマスープとパン。ダイケンキには、パンがスープにしっかり浸かって解された状態で出され、エレザードには辛さを控えめに。
そのエレザードは皿を両手で掴んで、ぐい、ぐい、と口の中に流し込み、パンを口に加えて、窓から屋根にさっさと登って行った。
仕事が無い時は、大抵そうして太陽を浴びてうとうとと過ごしている。
エレザードが出て行ってから、祖父が昨日の事について聞いて来た。
昨日俺が帰って来て、問題ないと判断すると、殆ど何も聞かずに寝てしまった。
帰って来た時間は、普段なら祖父がとっくに寝ている時間だった。
「リザードンは……サザンドラの骨をずっと……見ていたんだな?」
「そうだった」
「どのように……見ていた?」
昨日父とも多少話した事でも言った。
「強い感情は、正負どちらとも無かった。嬉しいとか、悲しいとか、そういうのは全く無かった。けれど、ただ見ていた訳でも無かった。見る事自体に何かしらの目的があるように見えた」
それを、端的に上手く形容する言葉が無い。一夜過ぎた今でも。
強いて言うならば、鑑賞する、というのが一番似ていると思うが、どう考えても、鑑賞などと言った優雅な事をしているようにも見えない。
あそこにあったのは……緩いものじゃない。
真剣な……何かだ。
祖父は、スープに浸したパンをゆっくりと咀嚼し終えてから、言った。
「……子供、かもしれんな」
「子供……」
子供だったとしたら、少なからず父親を殺した俺達を恨んではいないのだろうか。
それを聞こうとした時、祖父が続けた。
「竜は……獣の中でも賢い。言葉を使ったような……複雑な意志疎通も出来る……。
そして……サザンドラは……何に対しても凶暴だ……。少なくとも……あの20年ほど前のサザンドラは……子を持っているようには……思えなかった」
父がそれに口を挟んだ。
「家族持ちの獣は、大抵、守ろうとする意志が生まれて来るんだ。如何に攻撃的な奴であろうとも、多少性格は丸める。20年以上前の事でもはっきり断言出来る。あれには、そんな意志は微塵にも無かった」
「じゃあ、何で子が出来ているんだ?」
そう聞いてから、あ、と思った。
「そういう事だ」
「……そういう事」
小さく反芻した。子を作っても、家族にはならなかった。子をどうやって作ったかは、そういう事だ。
「獣には多少ある事だ……尊敬出来ない親なんて……人間にもごまんと居る」
父親や祖父に対して俺は、尊敬と言ったような自覚するような思いを持っていない。かと言って、尊敬していない訳でも無いし、多分尊敬は自覚する事でも無いと思う。
けれど、その尊敬出来ない死んだ親に対して向き合っている、と言うような状況は昨日見たそれに似合っているように思えた。
「……あ、そうだとしても、何故、今更? 20年以上も経った後で」
それに対しては、やっと面と向き合えるけじめがついたんだろう、というような答が返って来た。
何となく、曖昧だと思った。
ポカブ達の様子を見て、特に何事も無い事を確認する。一匹減った。
偶に、その答に辿り着くまで行かなくとも、その可能性を考えてしまう個体が居る。生まれてからこれまでずっとほぼほぼ外敵の危険にも晒されず、ただただ柵の中の牧場で食っちゃ寝を繰り返していても。
しかし、それに辿り着いたところで、この環境から逃げ出せまではしない。ストレスが無い環境、それは強くなれない、そして学習出来ない環境だ。
ただ、不安の芽は摘み取っておくに限る。
一つのミスから全てが瓦解した牧場の例だって聞いた事が少しだがある。
日々の仕事に入る前にまた、そのサザンドラの骨の場所に行く事にした。
遠目から見た限りじゃ何も無かったが、近くにまで行って確かめておきたかった。
リザードンがこれからまた来ないとは限らない。
……そう言えば、何故夜に来たんだ?
リザードンは夜行性じゃない。人に関心を持たれない為?
……ああ、反面教師ってやつか。リザードンは、サザンドラの死に様を知っているんだろう。そして、自分はそうはならないと思っているのだろう。
でも、それが何故20年後の今になって、なのかはまだ分からない。やっと面と向き合えるけじめ、というのはどうも答としては曖昧で納得し辛かった。
サザンドラの骨の場所まで来ると、地面には焼け焦げた痕と、少しの爪痕が残っていた。それでも、ずっと座っていたとしたら、かなり大人しくしていた感じだ。
サザンドラの骨には、何の変哲も無い。
長い時間、何を思っていたんだろうか。竜は知能が高い。きっとそれは、人とそう大差ないレベルだ。
心の中で罵倒し続けていたのか。もやもやした気持ちが溶けるのを待っていたのか。こんな人間の場所に骨が無ければ、ぶっ壊していたのか。それを、あの時の仕草だけで察する事は、心を読み取れる獣でも無い限り不可能だ。
「また、来るのかな……」
来ないで欲しい気持ちもあるが、このまま終わるのもモヤモヤしたものが残って嫌な気分だった。
その、夕方だった。
ポカブ達を餌で釣って、小屋の中に入れている最中の事だった。
小屋の中への入り方は、早く餌に食らいつくグループと、そこまで急がずにのそのそ歩いて来るグループ、そして俺やエレザードがケツを引っ叩いて中に入れるグループと、ある。
早くに餌に食らいつくグループにブーブー言われながら餌を給餌場所に流し込んでいると、カン高い悲鳴が聞こえた。
持っていたバケツを投げて、すぐさま外に出ると、パニックになって走り回るポカブ達と、そして夕日に向かって飛んで行くリザードンの姿が見えた。
「……ああ、そういう事」
俺は、あのリザードンがあそこで思っていた事を理解した。
"俺は、お前のような馬鹿にはならない。賢く奪ってやる。"
きっと、そんなところだろう。
ポカブの数は案の定、一体少なかった。昨日と今日、殺した分を含めても。
「そんな風に反面教師にして欲しくなかったなあ……」
せめて、人間には関わらないとか、関わっても穏やかに、とかさあ。
そんな事を思いながら、これからとても面倒な事になると、俺はもう確信していた。
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