マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
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  [No.3262] 俺はシビルドンに恋をした 2 投稿者:GPS   投稿日:2014/05/11(Sun) 20:40:07   120clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

「ああ疲れた、帰りのバスもえらく混んでたな」
 扉の鍵を開けながら彼女に同意を求めると、やれやれといった表情をしてこくりと頷いた。観光客ならどうせあの辺りのホテルに泊まるんだろう、とタカをくくっていたのだけれどそれは甘かった。俺のアパートがある方面へと帰る人も思ったより多く、バス停には長蛇の列が出来ていたのだ。
 美味そうだ、と思って買った総菜や手作りのオリジナルフーズなどが入ったビニール袋をどかりと下ろす。なんだかんだでコンビニよりも安いから、と野菜や木の実まで買ってしまったけれども重くて仕方なかった。
 繋いでいない方の手、俺と彼女で分担して持っていたのに彼女は全く疲れた素振りを見せていない。いくら人とポケモンを比べるのはナンセンスと言えど、一応サークルで腕力を使っている身としては若干複雑な気分だ。
「ああ、そう言えばお湯落としたんだっけ……」
 買ってきたものを冷蔵庫にしまう作業もそこそこに、俺は風呂場へと向かう。浴槽の栓を閉め、蛇口を捻るとシビルドンが寄ってきた。
「入るまでここで遊んでていいぞ。お湯がいっぱいになったら俺を呼んでくれ」
 水タイプでも無いし、生息地が水場でも無い癖に水遊びが好きらしいシビルドンは俺の言葉に嬉しそうな顔をして浴槽に身体をしまいこんだ。笑いかけて風呂場を出る。
 手作りのフーズは早めに食べないといけなくて、キーは冷蔵、ナナは常温……。頭で整理しながら袋の中を片づけていく。思い出して、マートルさんにお詫びのDMを送る。そんなこんなで時計を見ると、7時になるかならないかだった。
「……天気予報見とくか」
 洗濯物のことを考えながらテレビをつける。爽やかな夏服に身を包んだお天気お姉さんとポワルンが、明日は一日を通して晴れますが雷雨を伴うにわか雨の可能性があります、お出かけの際は折りたたみ傘を持っていきましょう、とコメントした。灰色の球体だったポワルンの姿が赤い太陽になり、次いで雨粒の形になる。
 帰り道に当たらないといいなあと思いつつ、週間天気も確認しておくことにした。晴れ、晴れ、雨、晴れ、曇り……とお姉さんが説明するたびに、ポワルンの姿が目まぐるしく変わる。最後に元の姿に戻ったポワルンとお姉さんが一礼して、7時の時報が鳴り、ニュース番組に切り替わる。
 とりあえず用は済んだのでテレビを消そうとリモコンを手に取って、しかし、俺はトップニュースに動きを止めた。
『本日14時頃、ポケモンの権利を訴える団体がタチワキシティでデモ活動を行い、一部団員が民間人に危害を加えたとして……』
 画面に映った、団員と思われる男が何かを叫んでいる。この愛護団体はインターネットを中心にかなり有名だったはず、タブンネのシルエットが印象的な旗を掲げ、野生ポケモンとのバトルはやめるべきだというのが主な主張だ。
『そもそも、ポケモンは人間のくだらない戦闘欲求を解消するための道具でも無ければ、代替品でも無い! ポケモンはバトルなど望まない! ポケモンを自由に、人間の束縛から解放するんだ!』
 団体のリーダー格らしい男の声明はそこで途切れ、『イッシュではプラズマ団の活動が縮小してから各団体の個別行動が盛んになっており……』とアナウンサーの無機質な声に変わる。しかし映像はまだVTRのままで、今日の昼の様子がありありと映し出されている。
 大通りを占拠し、主張し続けるメンバーたち。突如現れた団体に驚き、遠巻きに事態を見守る民間人。その中で文句でも言ったのか、団員の一人につっかかった人がいた。言われた若い団員はかっとなったようで、その民間人に殴りかかった。警察が止めに入り、騒ぎはますます大きくなる。
 だけど、俺の目についたのは彼らでは無かった。ここと同じで港町のタチワキ、コンクリートとは言え海岸となっているのだから海辺のポケモンは町へとやってくる。
 海を背にして暴動を起こす団体の足下、画面のほんの隅の方。
 小さなクラブが数匹、気づかぬうちに蹴られて鋏にひびを入れていた。

 かたり、という音に我に返る。はっとして振り向くと、シビルドンが風呂場の扉を半分だけ開けてこちらを見ていた。
「お湯入ったのか? それにしては早いけど……」
 言いながらテレビを消す。アナウンサーの声が途切れ、部屋は一気に静まった。
 嬉しそうでも悲しそうでも無い、怒っている風でも楽しそうなわけでも無い、そんな表情をシビルドンは浮かべていた。バトルフィールドを去ろうとした時にしていたのと同じ顔だ。俺に対して何かを言おうとして、でも口を噤んでいる感じ。
「今行くよ」
 俺はわざと気がつかない、わかっていない振りをする。何でも無い風にしてテレビに背を向け、風呂場の方へ進む。その間もずっとシビルドンはじっと俺を見つめていたけれど、微妙に視線をずらして目を合わさないようにした。
 引き出しの前を通り過ぎる。ふと、明日は何のゴミの日だっけ、と考えた。月曜日は可燃ゴミだったっけ、金属製のものは捨てられないか。
「なんだ、まだ入ってないじゃないか」
 浴槽を覗いて俺は苦笑した。半分ほどお湯が溜まったそこには、蛇口から出るお湯が未だ勢いよく注がれている。
 俺の脇からするりと俺を追い越し、ちゃぷりと浴槽に浸かったシビルドンが俺を見た。すいすい、と滑らかに動く尾鰭が水面に一瞬だけの幾何学模様を描く。
 確かにお前にとってはちょうどいい量かもしれないけどさ、と心中で言って俺は風呂場を出ようと方向転換する。と、脇腹を掴まれる感覚に足を止めた。
 獲物を海に引きずり込む両腕。それが俺の両脇を掴み、ずい、と引っ張る。仄かに食い込む爪、シャツに寄る皺、込められる力。バランスを崩し、浴槽の中に落ちかける。
 すんでのところで壁に片手をついて持ち直した俺を、シビルドンの大きな瞳が射抜いた。
「…………そんな、」
 そんな目をしないでくれ、と言いかけてやめる。代わりに群青の頭を撫でてから、回された腕を片方ずつ外した。
「後で入るってだけだよ。どこかに行くとか、そういうんじゃないから」
 シビルドンでは無く、むしろ自分に言い聞かせるようにそう告げる。そう、俺はどこかに行ったりしない。何もしない。そういうことにしよう、と決めたのだから。
 渋々という調子で納得したらしいシビルドンの頭にもう一度手を乗せる。お湯で濡れた表面は温かかったけれど、少し長く触れるとひんやりしていた。そんな彼女をいつまでも触っていたいような、そんな思いが頭をよぎる。
「……じゃあ、もうちょっとしたら来るね」
 首を振って考えるのをやめた俺は、シビルドンにそう言って風呂場を出た。まだ時間があるだろうから、夕飯の支度をあらかた済ませてしまおう。
 小さなキッチンスペースに戻り、台所に貼った幾枚もの紙の中の一つに目が行く。ダストダスとヤブクロンが遊んでいるイラストと、「しっかり分別しよう!」という文字の下に書かれた曜日の表だ。
 月曜日は燃えるゴミの日。不燃ゴミが捨てられる日では、やっぱり無かった。



 中学生の時だったか。休み時間、ポケモンを持っていない俺は一人で資料室にいてパソコンを使っていた。私立校だけあって設備が整っていて、生徒でも自由にインターネットに繋ぐことが出来たのだ。
 いつものように、適当に色々なサイトを巡っていた俺は一つのニュースサイトにたどり着いた。そこはポケモン関連の事件を中心に扱っていて、かなり昔の記事も閲覧することが可能だった。へー、こんなこともあったのかー、としばらくはぼんやり読んでいた俺だったが、とある記事に目を止める。それは数十年前の事件、ヤグルマの森で起きたという若きトレーナーのものだった。
 名前こそ公表されていなかったが、カゴメの出身だということや年齢、半身不随という記述から判断するに母の兄で間違いないだろう。そういえば、俺はこれまで母の口以外からこのことについて聞いたことが無かった。どんな状況だったのだろう、と気になった俺は「続きを読む」と書かれたリンクをクリックする。

 そこに記されていたのは、母が俺と姉に語ったことと全く同じの、しかし全く違う内容だった。母の兄である若きトレーナーが、ペンドラーの猛毒に襲われたということは一致していた。しかし、マウスを握る俺の指を固まらせたのはそのことでは無い。その先に書かれた、母が語ることのなかったもの。そして恐らく母の耳には届かなかった、届いたとしても受け入れていなかった、事件についてのさらなる説明。
 ちょうど繁殖期だったペンドラーの巣は偶然に足を踏み入れてしまう所などには無く、かなり入り組んだ場所にあった。また、普段は気性が荒く、好戦的なペンドラーだが繁殖期には子供を守ることを優先するため、首の爪を使うほどの戦闘状態にはそうそうならないことが研究により明らかになっているという。となると、「若きトレーナー」はわざとペンドラーの巣に侵入し、そのペンドラーを相当刺激したと考えるのが妥当では無いか、という見解が続いていた。
 さらに、若きトレーナーのポケモンであったジャノビーの身体の一部である緑の葉が、毒を浴びて変色した状態で事件現場に残されていた。何枚かの葉と地面の草にこびりついた血痕は、点々と、ペンドラーの巣の中へと続いていた。衰弱し、気を失ったトレーナーの元に駆けつけた救急隊員はジャノビーの救助も検討したがもはや手遅れであることが考慮され、また、野生のペンドラーやフシデの成長を妨げてしまう恐れがあることから救助は断念した。
 その先には、ポケモンはやはり危険であることや子供が旅に出ることを反対する意見、未熟なトレーナーが野生のポケモンの暮らしを荒らしてしまうことへの対策を求める声、それに対し森や洞窟などの出入りをある程度制限することなどの関連記事が並んでいた。無闇にポケモンを子供に与え、あまつさえバトルがあまり出来ない状態で旅に出すべきでは無いのではという意見もあった。

 そのどれもが、俺の頭を素通りしていく。何度も何度も繰り返し聞かされた母の話が脳内に響く。その上を、たった今見た文字列が塗りつぶしていく。
 目眩がする。耳の奥でキーン、と音がする。画面に表示されていることは、ちゃんと俺のわかる言葉で書かれているはずなのに、まるで知らない言葉のように思えた。

「おーい、春岡! サッカーするんだけど面子足りないんだわ、一緒にやろうぜ!」
 画面をスクロールすることも出来ず、呆けていた俺を現実に引き戻したのはハーデリアと共に資料室に飛び込んできた級友だった。走ってきたのか、揃って息があがっている。はっはっ、と舌を出したハーデリアは俺を誘うように尻尾を振った。
 オッケー、と軽く答えて、俺はブラウザの右上にある×ボタンをクリックする。そして、級友たちと共に資料室を出て扉を閉めた。
 


 ポケモン健康診断のご案内、というチラシを大学でもらったのはそれから一週間くらい後のことだった。
「へー、本学生徒半額だって。この病院のお偉いさんに、うちの携帯獣医学部の教授いるんだよな、だからかな」
 ガマゲロゲに似てるあの人、と友人が笑う。いつだったか学内ですれ違った、白衣がきつそうな教授をぼんやり思い出す。
 健康診断はもう始まっていて、今月一杯が割引期間のようだ。お前は受けるのか、と友人に尋ねたところ「いや、俺はかかりつけ医もういるから。つーか、大抵の場合はそうだろ」との答えが返ってきた。そういうものなのか、と俺は頷く。
 裏面を詳しく読んでみると、野生である、誰か別の人のポケモンでは無いということが確認出来ればゲットしていなくても大丈夫らしかった。いつも仲良くしている野生ポケモンが何か病気を持っている可能性もゼロでは無いから、人間と関わっているポケモンだけでも健康状態をチェックすることが必要なのだろう。
 シビルドンはいかにも元気で身体に異常など無いように思えたが、一応行ってみるべきだろうか。彼女は外から帰るとすぐくっついてくるから、万が一にも俺が病気を持ち込んでいるかもしれないし。
「あ、そうだ。この前断っちゃったやつ、今度行こうぜ」
「おお、サイユウ料理! この前っつーか随分前だけどな。もう忘れられてんのかと思ったわ……まあ、俺の十七番水道のように広い心で許してやろう」
「お前の心荒れ狂いすぎだろ」
 しかもさして広く無いし、とツッコミを入れる。しかし友人は全く気にしておらず、「やっぱ泡盛だな〜、パイルのリキュールもいいな〜、でも女子みたいって馬鹿にされるかな〜」とのんきにどうでもいいことで悩んでいた。
「そだそだ、この店ポケモン同伴可能なんだけど杏弥大丈夫? ポケモン苦手、ってわけじゃなかったよな」
「ああ、問題無いぞ」
「じゃあ良かった。それも人気の一つでさー、ポケモンと一緒に楽しめますってとこ。俺もラビちゃん連れてっていい?」
 ラビちゃんというのは、こいつのポケモンであうバルチャイのことだ。携帯の写真を何枚も見せられたし、実物を自慢されたこともある。骸骨から飛び出てる細い足が折れちゃいそうで魅力的だとか進化したらしたで大人っぽくてストライクど真ん中だとかなんとか。
 勿論、と返事をして日程を決めるとちょうどよいタイミングで始業のチャイムが鳴った。学生たちがざわざわと席に着き、教授がレジュメを配り出す。
 回ってきた紙を一枚取って残りを後ろに回しつつ、飲みの予定を記入するため俺は手帳を開いた。日付のマスの中に文字を入れ、しまう前に手を止める。バイトが無くて学校の都合がつく日を探し、俺はチラシの電話番号に目を向けた。

「ああ、兄ちゃん。すまないね、このバスはポケモン出したままじゃ乗れないんだよ」
 翌々日、サークルを蹴って病院を予約した俺は大学が終わってから一度家に帰り、シビルドンを連れて再度外に出た。病院方面のバスが出ている停留所で待っていると赤いバスが来たので早速乗り込もうとしたら、運転手が申し訳なさそうな顔をして俺たちに言った。
 見てみると、確かにドアのところに「ポケモンはボールにしまった状態でお願いします」と書かれていた。ボールの中に入っているポカブの絵も添えられている。
「そのシビルドン、ボールにしまってもらえないかい? そうしたら大丈夫だ」
 運転手の言葉に、俺は隣のシビルドンをちらりと横目で見る。ポケモンがいない分バスの中は空いていて、同伴可能のものよりも快適そうだ。それに今乗れたのならより早く着くことが出来る。引き出しの中にしまってある、手のひらサイズの球体が頭をちらついた。
 しかし、俺はすぐにその像を打ち消す。どの道今からとりにいくのは不可能だ。少しくらい混んでいて、少しくらい待っても構わない。
「いえ、このままで行くので……すいません、止まっていただいたのに」
「そうか、それなら十分くらい後に青いバスが来るからな。そっちは一緒に乗れるからもうちょっと待ってくれ」
 片手を上げてドアを閉める運転手にもう一度頭を下げる。ほどなくしてやってきた青いバスは予想通り混んでいたけれど、乗れないほどでは無かった。シビルドンと並んで乗車し、吊革を握る。もう片方で繋いだ手の甲に、銀の腕輪がかつん、と当たった。
 いくらかバスに揺られていると、割合大きな白い建物が見えてきた。降車ボタンを押して鞄の中を確認、学生証と財布があるのを確かめてからバスを降りる。
 ポケモンを回復するための施設、ポケモンセンターは各町に存在するが検査や治療に重きを置いたポケモンの病院というのはあまり多くない。簡単な検査ならば大抵はポケモンセンターの中で可能だから、わざわざそれだけの施設を作る意味があまり無いのだ。
 友人曰くの「かかりつけ医」のように、小規模なものならそれなりの数があるが、それは診療所であって入院などは出来ないらしい。病院という形で残っているのは、ポケモンセンターが普及する前から建っているものがほとんどである。
 ここ、帆巴携帯獣病院もその一つ。イッシュの中で数少ないポケモンのための病院だ。
 だからというわけでは無いだろうけれど、清潔感漂う院内は思ったよりも混んでいた。健康診断だけでなく、具合の悪そうなポケモンや怪我をしているポケモンも多い。センターの事務的な対応だとちょっと、と思うトレーナーやリカバリーマシンが向いていなかったポケモン、或いは医師と長くつき合い、育成などに関することを相談したいという人が診療所や病院を選ぶらしい。
 受付で名前と学生証を提示し、予約札をもらう。事前に電話しておいて良かったなと考えていると、センターよりも簡素な制服を着た看護士さんに「トレーナーIDは……」と尋ねられたので、シビルドンが野生である旨を伝えた。義務教育中にトレーナー免許は学校でとったからIDは一応持っているけれど、今言う必要は無いだろう。
「それでは、お掛けになってお待ちください」
 看護士さんに言われたままに、隅の方にあるベンチに腰をおろす。シビルドンはふよふよと浮いているからお掛けにならない。前足に包帯を巻いたオオタチが見慣れぬポケモンに驚いたのか、シビルドンの姿に大きな尻尾をさらに膨らませる。
 作業服を着た男性が、五匹のドッコラーを連れて治療室から出てきた。医師の声だろうか、あまり無理させないであげてくださいねという言葉が中から聞こえてきて、男性が苦々しい顔で頷きながら扉を閉める。
 ヤーコンロードなどではドッコラーやドテッコツと一緒に仕事をするらしいが、大小問わず事故が起きたという報道はよく見かける。ドッコラーはそれぞれ身体のどこかに怪我を負っているが、それも作業中のことなのだろうか。
「春岡様、春岡様。二番にどうぞ」
 そんなことを考えていたら呼び出しのアナウンスがかかった。立ち上がり、シビルドンと共に数字の二が書かれた扉を開ける。そこはついさっき、作業員とドッコラーたちが出てきた検査室だ。
「こんにちは。健康診断、だったよね? そこのシビルドンでオッケーかな?」
「ええと、はい」
 丸椅子に腰掛けた、柔和な雰囲気の医師がカルテを書く手を止めて俺たちを見た。年の頃は四十そこそこだろうか、人の良さそうな笑顔にほっとする。
「じゃあ早速検査に入ろうか。基本的にはそこまで長引かないけど、今日は遅くなっても平気?」
「大丈夫です、よろしくお願いします」
「うん、では始め……と、言いたいんだけど」
 一礼した俺に、医者が困った声で言った。何のことだと一瞬思ったものの、はっとして振り返る。
「いや、大丈夫だから! すいません、なんかこいつ人見知り激しくて……」
 俺の影になるように、長い身体を出来るだけ小さくして隠れていたシビルドンを慌てて前に出す。マートルさんの時といい、どうしてこんなにもテンションの差があるのか。
 しかし、どれだけ前に押し出そうとしても俺から離れまい、医者の方にいくまいと突っ張るシビルドンはなかなか動いてくれない。無駄な押し合いを繰り広げる俺たちに苦笑した医者が「それなら、トレーナーさんにもいてもらうから」と言うとようやくシビルドンはどうにか納得したようである。俺はその時点で早くも疲れきっていて、医者の言葉を訂正する気にもなれなかった。
 渋々といった感じで医者の前に立ったシビルドンだが、「おや、その腕輪素敵だね」という言葉には気を良くしたようだ。大きな口を緩め、嬉しそうに身をくねらせる彼女に俺はそっと溜息をついた。
 しかし「でもごめんね、検査中はちょっと取ってくれると助かるな」と言われた途端に俺の方へとんぼがえりしてきたので今度は大きく嘆息した。「終わったら返すから! 一時のことだから!」と説得し、なんとかはずしてポケットに腕輪をしまった俺が医者に平謝りしたのは言うまでもない。その間もシビルドンは拗ねた顔で俺に抱きつき、静電気をばちばちやってたのだからもう怒る気にもなれないというものだろう。
 またしても医者に苦笑されながらも、始まってしまえば検査は順調に進んだ。心音やらなんとか線やら、文系の俺には詳しくはわからないけれども色々な機械が現れて素直に感心してしまう。終盤の身体測定で、じゅうりょく状態を再現した体重計に乗る前にシビルドンが俺に「見るな」という風に睨んできた。
 ポケモンとは言え女の子の体重など見るものじゃないか、と一応その場は彼女の望み通り目を逸らしたが、結局は後で検査結果として見ることになるんじゃないかと内心で首を捻る。
「うん、今のところは異常無し、測定結果もいたって健康だね。今日中に結果が出ないものは後日連絡するから」
 カルテを埋めながら医者が言う。異常無しという言葉に俺も安心し、終わるなり抱きついてきたシビルドンの腕を撫でる。
 そんな俺たちを見て、医者が「随分好かれてるみたいだけど」と軽い調子で話し出した。
「受付で君が書いたの見ると、その子野生なんだって? すごい懐いてるからてっきりトレーナーなのかと思ったよ」
「あ、はい……よく言われます」
「おやおや、のろけられちゃった」
 医者はそう言って肩を竦める。でも羨ましいねえ、僕の娘なんて育て方が悪いのか、リーシャンに全然懐かれなくってよく嘆いてるよ。家内には懐いてるんだけど、トレーナーじゃないと意味ないからねえ。いつになったら進化出来ることやら。
 言うほど困ってなさそうな医者の話に適当に相づちを打つ。娘さんとリーシャンの話題が少し続いたが、不意に医者が「そういえば」と首を傾げた。
「シビルドンの野生、だなんて珍しいけれど。シビシラスの頃からのつき合いとか?」
「いえ、そんなことはちっとも……出会った時からシビルドンです。っていうか、今年の五月ですよ」
 赤羽橋に佇んでいた彼女を思い出しながら俺は言った。口に出してみて改めて経過した時間を実感し、彼女と過ごしたその時間が実際よりも短く感じられることを今更ながらに知る。
 一人暮らしに同居人が出来たから、という単純な理由だけでは無さそうだけれども他に何と言われたら何だろう、と考え込む俺にしかし、医者は不思議なことを呟いた。
「あれ……? そもそも、野生のシビルドンなんて陸上じゃ見れないはずなんだけどな……」
「え?」
 俺の回想と矛盾するその言葉に思わず聞き返す。医者は顎に手を当て、「だって」と思案しながら続けた。
「だって、シビシラスやシビビールなら洞穴とか洞窟に住んでいることも少なくないけれど、シビルドンは海にしか住まないポケモンなんだよ。確かに水タイプじゃないから、陸でも不自由なく生活出来るけれど」
「待ってくださいよ、じゃあ、どうして……」
「それは…………ああ、そうか」
 言われたことが理解出来ず混乱する俺に、一人医者が納得したように頷いた。
「シビシラスは洞窟では生まれない。海で生まれるんだ、そしてある程度まで育ち、自分で戦えるようになると陸に浮き上がってきて洞窟や洞穴で暮らすようになる」
「はあ……初めて聞きました」
「タイプはともかくとして、見た目がどう見ても水タイプなのはそのためなんじゃないかな? それで洞窟で過ごしたシビシラスはやがてシビビールに、そして最終的に雷の石や或いは周りの電磁力の電気など、雷の石に準ずるものの力によってシビルドンに進化する。そして海に帰っていき、タマゴを生み、シビシラスの赤ちゃんを育て……その繰り返しだ」
 インターネットで調べたほんの少しの情報。シビルドンの二本の腕は、獲物を海に引きずり込むとあった。その時の俺は、このポケモン海にいないだろ、と画面の向こうに突っ込んだけれどもそういうことだったのか。
 そう合点がいく一方で、何か悪寒が俺の肌を走る。冷房の効きすぎていない病室は寒くないのに、半袖のシャツから伸びる腕が粟だった。首に回る彼女の両腕が、やけに冷たく感じられる。
 そんな俺に気づかず、医者の話は続く。
「まあ、だからシビルドンの野生は海、それも結構深くてトレーナーが通常そうそうに行けないような所にしかいないはずなんだけど……でも、どうやら彼ら種族は必ず進化してから海に向かうらしいからね。君が出会ったのはまさにその瞬間、シビルドンになったばかりだったということか」
 すごいタイミングだなあ、と医者が感嘆の台詞を吐く。だけど、俺は、一緒になって驚くことが出来なかった。
「……あの、それは……それは、どんなシビルドンでも同じ、ことなんですか……?」
「ん? ああ、十数年に行われた研究ではそういうデータがとれてるね。まあ、野生のシビルドンでは当たり前のこと、習性とか本能とかそういう……野生のポケモンとして生きる上で、シビルドンとして普通のことなんじゃないかな」
「……………………、」
「シビルドンは強い種族だけど進化が難しいから、その短いタイミングを見計らって捕まえようとするトレーナーも沢山いるけれど大抵は出会えないか、出会えても負かされて逃げられるんだってさ。だけど君はその瞬間に立ち会った上にこんなに懐かれて、このことを知ったら結構な数のトレーナーが嫉妬すると思……おっと、記入終わったよ」
 医者の言葉が鼓膜を震わせる。ちゃんと聞こえているのに、どこか別の世界のことのように感じられる。この感覚を、俺は前も味わったことがある。母の兄に関する、記事のサイトを見た、時だ。
 でもその時とは少し違う。医者の言葉は、鍵爪のような形を帯びて俺の耳に入り込み、しまいこんでいた記憶を無理矢理引っ張りだしてきた。
 オマエノセイダ。甲高い、平均よりは少し早口に思える声が聞こえる。勿論それは今実際に聞こえるわけじゃない、医者が言ったのでも無いし院内のナースや患者が言ったわけでも無い、ましてやシビルドンが言ったわけでも無い。あくまでも、俺の頭の中のことに過ぎない。
 だけれども、その声は異様なほどのリアリティをもって俺の体内に響く。オマエノセイダ、オマエノセイダ、と、何度も、何度も。
 オマエノセイダ。

 オマエノセイダ!



 ――『お前のせいだ!』
  
 その声を聞いたのは、何年前になるんだろうか。高校二年生だったから、三年前のことだ。
 父方の祖父母の家はカナワタウンにあるのだが、俺はそれまで一度も行ったことが無かった。母の実家にも俺が行ったことは無い。いつでも、双方の祖父母や親戚、従兄弟がヒウン側に来てくれていたのだ。
 父だけ、母だけは時折帰っていたが俺も、そして姉もそこへ足を運んだ経験が無い。それも当然と言えば当然で、父の実家にはポケモンがいるから母は行きたがらないし、母の実家では母の兄のことなどがあるためまだ小さい俺たちを連れて行く気にはならなかったのだろう。
 だけど両親はその代償なのか、夏休みにはいつも旅行を計画してくれたし、祖父母にも正月などに会えるから不満を感じてはいなかった。
 しかし、その夏は違った。俺と両親が暮らしていたマンションで結構大きな火事が起こったのだ。俺たちが住む部屋も直接的な被害にこそ遭わなかったが、マンションの修復を行うために上からいくつかの階の住民は、一時的な移住を求められた。俺の家があった部屋もそこに含まれていたのである。ちょうど夏休みにさしかかったあたりで、呆然としながら消化現場を見ていた記憶がある。
 そして新しい問題が発生する。引っ越しなどにかかるお金は保障されたが、肝心の部屋が見つからなかったのだ。一人部屋ならあっても、家族三人が住める広い部屋はなかなか無いのだ。
 しかし、学校が始まる頃には戻れるらしいから俺がヒウンにいる必要は無い。両親は話し合い、父がヒウンの一人部屋へ、母が自分の実家へ、そして俺は父の実家に行くことを決めた。もう高校生だから大丈夫だろ、と結論づけた父は俺にというよりは自分に向かって言ったように感じられた。

 そして俺は、単身、まだ見ぬカナワタウンへの道を電車に揺られて進んだ。ヒウンやライモンではとても見ることの出来ないような、鬱蒼と茂った森やそこに同化している草ポケモンたちが窓の外に続く。
『大丈夫? ちゃんと乗ってる?』
『乗ってる。終点まででしょ? そっから2番のバス』
 心配性の母親にメールを返し、ガラスの向こう側を見るのに戻る。深緑の葉が広がる枝から枝へ、ヤナッキーが器用に移動していくのが見えた。
 車内にはほとんど誰もいない。大学生くらいの若い女の人が一人、老夫婦が一組、小さい子供を二人連れたお母さん。週末には混むみたいだけれど、平日の真っ昼間の電車は碌に冷房が効いていなかったがそんなに暑くなかった。
 四分の三が空いたボックス席。自分の隣に立てかけたスーツケースに肘を突き、ペットボトル茶で喉を潤していると、マイクを通した割れた声が終点を告げた。
 電車がホームに滑り込むなり、そこまで来てくれていたらしい祖父母が手を振っているのが目に入る。父か母が連絡したのか、それとも彼らの方から迎えに来たのか。どちらにしても少し照れくさく、だけど嬉しさを感じて祖父母よりは控えめに俺は手を振り返した。

 父の実家で過ごす日々は楽しかった。
 散歩に行けばいつもは見れないポケモンがいるし、役場の近くの図書館は小さいけれども面白い本がたくさんあった。野生ポケモンの鳴き声と、住民の声だけがかすかに混じる心地よい静けさの中で勉強ははかどったし、ここに来ると決まる前はどうしようと悩んでいたポケモン観察の宿題も難なくクリア出来た。ボードゲーム好きの祖父は将棋に囲碁にチェスに麻雀などを教えてくれ、祖母は毎日のようにおいしい料理を作ってくれた。
 バトルサブウェイの全貌を見ることも出来た。カナワタウンに行くことになった、とクラスの鉄道好きに言ったらひどく羨ましがられ、「是非とも写真を撮って来てくれ」と懇願されたのだ。サブウェイマスターやエリートトレーナーはこの中でバトルしてるのか、と何だか感慨深い気分になりながら写真を送信すると、彼からお礼メールが大量に届いて笑えた。
 そんな感じで、俺は夏休みを満喫していたのだが一つだけひっかかることがあった。それはいると聞かされていた、父の実家のポケモンとやらにいつまで経っても会えないことだ。
 「あそこにはポケモンがいるから、母さんが嫌がるからなあ」と父は確かに言っていた。いつも行けなくてすみません、いやいいんですよ、と母と祖父がいつぞやの正月に話していたのも覚えている。
 だけれども、いつになっても祖父母宅のポケモンは現れなかった。それどころか、ポケモンがいる気配すら感じられなかった。
 もの凄く興味があったわけじゃないけれど、少なからず俺はここにいるというポケモンと会うのを楽しみにしていたのだ。種族などを父は言わなかったから、何タイプかな、どんな性格かな、と色々考えたりもしたし、何より純粋に疑問だった。
 しかし自分から聞くのも何だか気が引けて、俺は心の中で首を傾げながら祖母特製の炊き込みご飯を頬張った。

 父の実家に来て十日ほどが経った日のことだ。
 その日聞いた声は、俺は何度でも思いだし、そのたびに忘れようと心がけてきた。
 祖父母宅のポケモンには未だ会えず、俺はそろそろ興味を失いかけていた。まあ、かのポケモンと会わなくてもここには野生のポケモンや他の住民のポケモンが沢山いる。無理に会おうとする必要は無いだろう、と、木の影から俺を覗いているカブルモに手を振りながら思った。
 そういう感じで散歩をしていた俺は、視界の端に祖父が映ったことに気がついた。確か、今日は夕方まで近所のお爺さんと囲碁だかの対戦をすると言っていたはずだ。それなのに、どうしてこんな雑木林に入っていくのだろう。
 不思議に思った俺は、草木を掻き分けて祖父を追いかけることにした。都会で育った身には慣れない地形に、俺は腕や脚を擦り切りながらどうにかこうにか進んでいく。危なっかしい俺の足取りに、さっきのカブルモだけでなく、雑草の隙間にいるモンメンやフシデまでもが何事かと顔を出した。
 前に進むだけで精一杯の俺とは対照的に、祖父は慣れた様子で雑木林を抜けていく。俺には全く気がついていないようで、早歩きをするその後ろ姿を見失わないようにしてどんどん歩く。それがしばらく続き、顔にかかる葉っぱを一枚また一枚とずらしていくと、すっ、と視界が明るくなった。
「…………家?」
 俺の口から独り言が漏れるが、むしろ小屋と言うべきだろうか。木で出来た小さいその建物は、雑木林の中にある拓けた場所にぽつん、と寂しく建っていた。
 祖父はごく自然にそこへ近づき、俺からは死角になっている裏へと回っていく。姿は見えないけれどもガチャガチャという金属音から考えるに鍵を開けているのだろう。だが、おおよそ人が住んでいるとも思えない風貌の小屋に、祖父は一体何のために。
 と、疑問符が頭に浮かんだ時だった。
 扉を開く音と共に、その声が、俺の鼓膜を震わせた。

「オマエノセイダ!!」
「オマエノセイダ!!」
「ゼンブゼンブ、オマエガ、オマエタチガ!!」
「オマエタチガヨワイカラ、オレハコンナオモイヲシナキャイケナインダ!!」

「オマエノセイダ!!」

「……杏弥、そこにいたのか」
 呆然として立ち竦み、指の先すら動かせないでいた俺の意識を取り戻したのは祖父の言葉だった。鍵を片手に俺の方へ数歩近づいてきた祖父は、少し驚いたような顔をしていたけれどもやがて俯いた。わざと無表情にしようと思って作られたような無表情だった。
「俺についてきたのか?」
「……あ、え、……俺、……」
 祖父の口調は責めるようなものでは無かったけれど、俺は今も尚聞こえてくる声のせいで上手く答えられない。その声は、言葉になっていることはわかるけれど何を言っているのかは不明だ。それなのに、何故だか、強い力で殴られるほどの衝撃を感じる。足が震え、息が苦しくなった。
 そんな俺の様子に、祖父はしばらく黙り込み、そして静かに「仕方ない」と言った。それは、いつもの剽軽な祖父からは考えられない雰囲気だったが、当時の俺はそう思うことすらまともに出来ずにいた。
「ここまで来て……というより、お前もそろそろ知っておいた方がいいのかもしれないしな。お前の父親は、お前からは遠ざけていたかったみたいだが、…………来なさい」
 感情を押し殺した声に、首を横に振ることは出来なかった。まだ震えの止まらない足を動かして祖父の一歩後ろをついていく。
「オマエノセイダ!オマエラノセイダ!オマエラガヨワイカラ!!」
 先程祖父が開けた扉の中を見ると、真っ先に目に飛び込んできたのは頭部が音符の形になっているポケモンだった。名をペラップと言い、人が喋ったことや他のポケモンの鳴き声、物音などを記憶して自らの鳴き声と化す習性がある。
 黒い頭にちょこんとついている嘴はひっきりなしに動いていて、このポケモンが声の主であることは否が応にもわかった。正体のわからなかった不気味な声が、ただの鳴き声だったということがわかって俺は胸を撫で下ろす。緊張が解け、肩の力を抜いてペラップに向き直った。
 しかし、俺は次に祖父が言ったことを聞いて、先程までとは違う意味でその声を忘れられなくなる。
「あいつも少しは話していただろう……俺の兄貴の息子、あいつにとっては従兄弟にあたる奴がポケモントレーナーのドロップアウト組だと」
 一流のポケモントレーナーを志し、旅に出たり修行を積んだりする人間はごまんといる。かつての母の兄がそうだ。俺の姉がそうだ。
 だけど、全員がトレーナー職に就けるとは限らない。四天王やジムリーダー、エリートトレーナーなんかになれるのはほんの一握りで、ほとんどの人はある程度までいったところで諦めることを余儀なくされる。それでもポケモン関連の仕事に携わったり、他の人生を歩みつつも趣味でポケモンに関わっている人は沢山いる。ポケモンマスターにはなれなくても、ポケモンと暮らすことは十分出来る。
「俺はあいつが十三の時にこっちに来たけど、それまでシンオウに住んでたのは知ってるよな。俺の兄貴一家もそうで、兄貴の息子は十の誕生日を迎えると同時に故郷のズイタウンから旅に出た」
 しかし、一部の人間はそうじゃない。トレーナー修行からドロップアウトしたものの、上手く社会に戻れなかった者。目標を達成出来ず、挫折したという思いにいつまでも囚われてしまう者。自分は強い、こんなところで終わる奴じゃ無い、と虚しくプライドを張り続けるもの。
「しばらくは順調だったんだが……バッジの数がいつまで経っても五を超えず、焦りからかバトルにも負けが増えるようになって……ある日、不意にズイに帰ってきてな」
 まさか、と俺の心臓が跳ねた。ペラップが鳴き続けている。オマエノセイダ、オマエノセイダ、と。
 まさか、それなら。祖父が今、このペラップを前にして、こんな話を始めるということは。
「……それきり、部屋に閉じこもって、……自分は弱いトレーナーじゃ無い、悪いのは強くならないポケモンだ、もっとあいつらが強ければ、……そんな恨み言を連ねるようになったんだ……自分一人で、な」
 オマエガワルイ、オマエガヨワイノガワルイ。
 じゃあ。
 つまり、このペラップは。
「兄貴の息子は自分のポケモンを捨てた。それが……それが、こいつらだ」

 オマエガワルイ。
 オマエガヨワイノガワルイ。
 オマエノセイダ。

 ――お前の、せいだ。 



 どのようにして病院で手続きを済ませ、どうやって帰ってきたのかはほとんど記憶に無い。受付の看護士さんが俺を心配するような言葉をかけてきたことや、ふらりと赤信号で渡りそうになったところをすんでのところでシビルドンに止められたりしたな、と断片的ないくつかの情報があるだけだ。
 だけど一つ、今も尚べったりと脳に貼り付いている出来事だけは覚えている。
 病院を出てバス停に向かう途中だった。歩いているという自覚が無い、おぼつかない足取りだった俺はうっかりすれ違いざまに人にぶつかってしまった。
「すみません!」
 驚いたようにして謝られる。近くの高校の制服に身を包み、頭を下げる女子高生に「こちらこそ……」と狼狽しながら返した途端、その女子高生の足下のそれが俺の思考をストップさせた。
 体長よりも大きいであろう丸いカサ。タマゲタケというポケモンで、人間の目を欺く容姿が特徴的だ。
 流石にこの距離で騙されることは無いけれど、赤と白のカラーリングと間に通った線と円の模様は、いつでも俺の心の隅の方で小さく転がり、じわじわとダメージを俺に与え続けている物を想起させるには十分なほどだった。


 俺は、モンスターボールを投げられないのだ。
 
 持つところまでは平気でも、それを投げる、つまりポケモンにぶつけて捕まえることはどうしても出来なかった。
 大学の仲間内で行ったカントー旅行、サファリゾーンで俺はどうしてもボールを使えず、友人たちに怪訝な顔をされた。高校時代、「捕まえたポケモンはすぐ逃がすから」と友人に連れられて草むらなどに行っても、ボールを投げるという段階になると身体が動かなくなった。

 ボールを投げる、ただそれだけのことなのに。その、それだけのことが、俺には出来ないのだ。


 携帯の通知で我に返る。画面の時刻を見ると、もう十一時半を回っていた。足下には先程使った鞄が乱雑に転がっている。帰ってきた状態のまま、夕飯も食べず、風呂にも入らず、ただ呆けているだけだったのであろう俺をシビルドンが少し離れたところでじっと見つめていた。
 どうにかシビルドンの分だけの食事は用意したのだけれども、気を遣わせてしまっているらしいことに申し訳なさが湧いてくる。しかしだからと言ってどうするのか、という考えも思いつかずに俺と彼女は沈黙の中に沈んでいた。隣の部屋の住人とヤンチャムの笑い声が、実際よりもうるさく聞こえてくる。
 もう一度時間を確認する。引き出しに目を向け、そしてすぐ逸らす。ポケットに入れっぱなしの、金属性の腕輪のひんやりとした感触。
 彼女と目を合わせる。一秒、二秒……。蛍光灯の下でも光っていることがなんとかわかる、黄色の斑点が囲む瞳が俺を見る。五秒、六秒……。噛まれたらひとたまりも無いだろう、鋭い牙が覗く口は閉じられている。九秒、十秒……。身体を覆う、水分の蒸発を防ぐための粘膜が彼女の呼吸に合わせて小さく膨らみ、そして収縮する。
 一分、二分、……どのくらいそうしていたのかわからない。俺は彼女を見、彼女は俺を見ていた。俺の部屋で−−深い海じゃない、この場所で。 
 ほんの一瞬だけ目を瞑り、再度開いて網膜に彼女の姿を焼き付ける。本来はここにいるはずのない、野生のシビルドンである、彼女の姿を。
 数秒の間、また見つめ続ける。息を吸う。口を開く。
 立ち上がって、俺はシビルドンに言った。
「行くぞ」



「ズイの家じゃ、このポケモンたちを置いてあげることは出来ないってなあ……それに、兄貴と義姉さんは自分の子供のことで手一杯だろうし」
 祖父は俺に背中を向け、まるで独り言のように言う。
「俺たち家族がここに引っ越してきたのもそれが理由だ。まあ、俺がライモンの支店に配属されたのもあるけれど、ライモンに行かないでカナワに来て、それで小屋を買い取ったんだ」
 地主さんが気のいい方で、遠慮せずに使って大丈夫だと言ってくれて助かった、そんな祖父の言葉を掻き消すようにペラップは鳴き続ける。オマエノセイダ、お前のせいだ、と。休む間も無く、何度も、何度も。
「お前の父親には悪いことしたと、今でも思ってるよ……それでもあいつは文句一つ言わず、俺と一緒に片道数時間かけてライモンの学校に通ってくれた。だが……これに関わらせてしまったのが、申し訳なくて」
 祖父の台詞が耳の上を滑っていく。さっきから、祖父の言うことが碌に頭に入ってこなかった。
 俺の意識を塗り潰したのは、もはやペラップの声だけでは無かった。ペラップの向こう側、小屋の奥の方にはまだ他のポケモンがいたのだ。ある程度まで旅をしていたというから、それは当たり前のことなのだけれど。
 皇帝然とした威厳と角の輝きを失い、じっと座り込んだエンペルト。何かにとり憑かれたように、虚ろな目をして木の板をかじり続けるビーダル。たてがみを床に広げ、壁に寄りかかって丸まったまま動かないレントラー。窓の外の青い空を見上げ、時折ふらりと身体を傾かせるも見つめ続けるガバイト。隅の方で遠慮がちに膝を抱えて座り込み、終始怯えたように震えているリオル。
 そして、そんなポケモンたちを背景に、鳴き続けるペラップ。彼らこそが、父の言う「うちにいるポケモン」であることなど火を見るより明らかだった。
「この子たちの世話をし始めて、もう何十年経ったのかわからなくなったよ……来た時と同じ、ずっとこの状態で元気になることも、ここから出ようとすることも無い」
 祖父は言い、そして付け加えた。それはこいつらのトレーナーも同じだ、と。

 お前たちのせいだ、お前たちが弱いからこんなことになったんだ、俺は悪くない。聞いた音を手当たり次第に真似するはずのペラップは、さっきからそんなことしか口にしない。それだけ、他の言葉を聞かなかったということか。そんなにも、脳に刻まれるほどに、そんなことを言われ続けたということか。
 ただの「おしゃべり」であるはずなのに、その声は意味を伴って俺の鼓膜を殴打する。ただ、父の従兄弟の言葉を反復しているのだ。それだけなのだ、ペラップは物真似をしているだけなのだ。
 そう、自分に言い聞かせる。だけども、どうしても。
「オマエノセイダ!」
 それはただの物真似、「おしゃべり」なんかじゃなくて、
「オ前ガ弱イセイダ!」
 意味もわからずに、繰り返して言うだけの鳴き声なんかじゃなくて、
「お前が弱いから、俺はこんな思いをしているんだ!!」
 歴とした呵責の意志を持って、彼らのトレーナーだった者へと向けられる言葉にしか感じられなかった。




「お願いします」
 赤羽橋のホドモエシティ側、警備中の係員に学生証を見せる。確認しました、の声を聞き終わらないうちに褐色じみた橋に足を踏み入れた。
 いつもよりも早足になる俺を、シビルドンがふわふわと、やはりいつもよりも早いスピードで追いかけてくる。肌に纏わりつくような、むわっとした空気をかき分けて進む細長い身体の真ん中あたりで、二本の腕が所在なげに揺れていた。ちらりと視界に入ったそれに、胸の奥がざわめいたけれどもポケットに入れた手は出さない。ただでさえ暑い夜、密閉されて汗だくになった両手を弱く握る。
 空の半分を雲が覆っていた。月明かりは雲の切れ目から差しているものの肝心の月はちっとも見えない。この不快な湿気のせいか、今夜はチョロネコの鳴き声も、ヤミカラスの羽ばたきも聞こえてこなかった。橋の両端にある街の物音と、バスラオか何かが跳ねる音だけがうっすらと耳に届く。
 かつん、かつん、と、俺一人の足音が橋に響く。人やポケモンはおろか、深夜に行き来するトラックすらも通らない。ついこの間にも思えるし、ものすごく昔のことのようにも思えるいつぞやの夜と、まるで示し合わせたみたいに同じだ。違うのは温度と湿度と、俺のシャツの袖の長さと、空模様と、聞こえてくる音と。
 それと、俺と一緒にいるのがシビルドンでは無く。
「なあ」
 立ち止まって、振り返る。動きを止めるとただでさえ暑く感じられた空気が余計に熱気を増したように思えた。
 俺の声に、彼女もその場所でストップした。薄ら明るい光に照らされるのはぬめりを帯びた群青の肌、長い触覚と大きな尾鰭、呼吸に合わせてゆっくりと点滅を繰り返す黄色の斑点たち。
 この前は鉄筋越しに見えたその身体を、人間だと見間違えることはもう無い。以前よりもずっと近い距離で、彼女は俺の目に映り込む。
「お前がここにいた時、俺はお前に話しかけたよな」
 わざとかと疑うくらい誰も通らない。彼女の頭で、触覚がほんの少しの動きを続ける。
「正直、あれはお前のことをポケモンじゃなくって、人間だと思ってたんだ。ここから飛び降りて、自殺でもしようとしてんじゃないかって」
 風の一つも吹かず、空気はどんよりと溜まっている。テニスボールくらいはありそうな、彼女の両目は俺に向けられたまま動かない。
「だから、もしもあの時俺が言ったことを、あの時俺がお前に伝えた言葉を、お前が受け止めてしまっていたら」
 橋の上はじっとりと生ぬるい。人間の頭程度なら軽く飲み込める、ぽっかりと開いた口から続く空洞が、彼女が俯いて出来た少しの角度からうかがえる。
「その言葉をお前が受け止めたことで、」
 月を覆い隠す雲も停滞したままだ。彼女の身体に浮かび上がった、弱く光る黄色い丸模様が橋に奇妙な絵を描き出す。
「お前の行動を変えてしまったのならば、ーーいや、」
 息を止めて彼女を見る。海よりも蒼く、うねりを作った長い身体。落ちてしまいそうなほどに大きな瞳。想像よりもずっと表情豊かだった、牙が収まりきっていない口。浮いた時にひらりと優しくはためく透き通った鰭。しなやかな腕と、その先にある広い掌。
 彼女は、あの夜海に去るはずだった彼女は、俺がそんなことをするなと言ってしまった彼女は、
「お前を俺の言葉で、縛ってしまっていたのならば、」
 初めて見た時よりもずっと、美しくて、
「それは絶対に、あってはいけないことなんだ」
 そう言うのが、とてつもなく辛く感じられるほどだった。

 
 疑問自体がいつ生まれたのは、いつなのかはっきりわからない。姉が出ていく時には既に持っていたようにも思えるし、もっと前に持っていたかもしれない。自覚したのは、母の兄に関するサイトを見た時だろうか。それが確固たる形を持って、心の隅を支配し始めるようになったのはあの声を聞いた時だ。
 ずっと考え続けてきた。考えないようにしても、頭のどこかにそれは必ずあった。束の間忘れることが出来ても、それはふとした拍子に母の兄のジャノビーの影になり、林の奥の小屋でうずくまるリオルの形になり、ペラップの声にその姿を変えて俺の前に現れてきた。
 腹の奥を蹴るような、心臓を握りつぶすような、頭を強く殴るようなこの疑問は、俺が抱いているはずなのに、他ならぬ俺自身を苛んだ。考えたって仕方ない、悩む必要も義務もあるわけでもないのに、俺はずっとそれに囚われている。
 
 俺は、人間が、ポケモンを不幸にしてしまうのでは、と問い続けてきた。
 ポケモンは、野生の状態にあるのが一番良いのではないか、と疑い続けてきた。 
 
 勿論そんなことはない、そうとも限らない、ということはわかっているのだ。ホウエンから届く映像、バトルフィールドで姉と共に舞うケンホロウたちは生き生きしていた。中学の頃、同級生とサッカーボールを追いかけるハーデリアはすこぶる楽しそうだった。マートルさんの頭にとまり、街の様子を見回すモルフォンも悩み事など無さそうだった
 だけど、俺は悪いところばっかり気にしてしまった。その最たる例が母の兄が連れていたというジャノビー、小屋の中で命が尽きるまでじっとしているペラップたち。
 ジャノビーは、母の兄のことを守ろうと必死に戦おうとしたのではないか。戦って負けて、ペンドラーに連れて行かれたのではないか。それなのに、命を賭けて主を守ろうとしたのに、勘違いされたまま死んでしまって。ペンドラーに襲われたことだけが原因とは思えないほど、ポケモンに対してトラウマを抱くようになった自分の兄を見て、母はジャノビーが兄を見捨てたせいだと決めつけた。
 祖父が世話をする、父の従兄弟のポケモンたち。「おしゃべり」のレパートリーがあれだけになるほど、酷い言葉を浴びせられ続け、挙げ句はトレーナーの方が折れてしまって放り出されたポケモンたちだ。身勝手な文句に怯え、怒り、呆れ、そして虚ろになった状態で、あの狭い空間で寿命が終わるのをただただ待つのを、幸福になっただなんて口が裂けても言う気にはなれない。
 彼らだけじゃない。なるべく気にしないように生活しても、目に入ってくるポケモンが、野生以上の幸せを手に出来ているのかと心にひっかかるのだ。
 居酒屋で働いていたポポッコや、トレーナーの女の子と客引きをしていたマラカッチ、バスの案内人が連れたコアルヒー。トレーナーと一緒とは言え、ポケモンを労働させるのは、果たして良いことなのか。怪我をしたドッコラーたちの包帯の白さが網膜に蘇る。
 カップルが対になるように連れ歩くプルリルや、バルビートとイルミーゼ。アイドルと共にパフォーマンスをしている可愛い容姿が人気の電気ポケモン。アクセサリーショップにいたニャスパーのように、美しさを極めてミュージカルやコンテストに出場させられるポケモンもいる。モンスターボールを飾りたてるように、自分自身のステータスや雰囲気を演出するためにポケモンを利用してなどいない、と言い切ることは出来るのか。
 自らの体力を削って攻撃力を上げるいのちのたまを身につけたランクルスや、強い攻撃を繰り出すべく自分の体力すら犠牲にする技を命じられたバッフロン。人間の享楽であるポケモンバトルのためにポケモンのことを傷つけ、それも相手の技だけでは無く自分によるダメージまで強制するようなことは本当に悪では無いのだろうか。
 当然だけど、こういうことを考えるのは俺だけでは無い。以前いたという宗教団体や、タチワキでデモを起こした愛護団体のような存在は沢山いる。だが、彼らに賛同も出来なかった。自分たちの主張を押しつけようとするあまりそのポケモンを、足下の小さなクラブを傷つけるような彼らと同調することでポケモンが幸せになれるとは到底思えなかった。ポケモンと人が同じと言っておきながらポケモンのことを食べていた神話の人のように、結局は人間を中心に考えているようにしか受け取れないのだ。
 それは違うんじゃねーの、とバルチャイを抱いた友人が頭の中で言う。俺はラビちゃんといて幸せだし、ラビちゃんも俺といて幸せだよなー? おおそっかー! と友人はバルチャイに頬ずりする。わかってる、それはわかっている。お前みたいな人とポケモンが、数え切れないほど存在していることはわかりきっている。
 でも、と俺はやっぱり考え込んでしまうのだ。でも、リードに繋がれたヘルガーが、野生の状態でいるよりも幸せな環境だなんて誰が言い切れる? 今は幸せに人間と過ごしていても、途中までは順調だったという父の従兄弟のように、この先不幸が絶対訪れないと誰が断言出来る?
 野生のポケモンでいるには自由に過ごせる反面で、生命の維持に苦労することも知っている。それならば多少の束縛はあっても、衣食住は整う人間との暮らしの方が良いとも思うことは出来る。だけど、人間のところにいて得られる幸福は、本来得られるはずだった野生としての幸福よりも大きいとは限らない。
 野生がベストの状態だとは言えなくとも、ポケモンとしての最低限の幸せは確実に手に入るという意味で、ベターなのではないか。そう考えるのはエゴかもしれないけれど、自分にとって都合の良いようにポケモンを使うよりかはマシなように思える。
 トレーナーでも無い俺が、こんなことを考えたってどうにもならないことは自覚している。考えるだけで行動しないのだから、そんなことをする必要は無いのも自分で気がついている。
 でも、せめて俺だけは。俺は、俺のせいで、ポケモンの幸せを奪うことは絶対にしたくないのだ。そんな思いが、ボールを投げる俺の手を引き下ろす。
 

「お前は、海に行くべきなんだ」
 だから、俺はポケモンを持たないと決めていた。どんな状況におかれているポケモンを見ても、どんな扱いをしているトレーナーを見ても、何もしない代わりに、自分はポケモンを捕まえない、束縛しないと決めたのだ。名前をつけ、ボールに入れて自分に縛り付けるような真似はしたくなかったのだ。
「お前は野生のポケモンとして生きるんだ」
 母に言われるからポケモンを持たないのでは無くなったのだ。だから大学に入って、親から離れてもポケモンを持たずに生活し続けてきた。
「お前は、幸せになる権利がある。ポケモンとして……自分が、より幸せになれる選択を出来る権利があるんだよ」
 シビルドンと過ごすことになったのは、勿論予想外のことだった。とは言え、ボールに入れず、一応は野生のままならばいいだろうと考えていた。俺といるのが嫌になったらいつでも出ていける、俺も無理に彼女にいてもらうようなことはしない、自由な関係ならば大丈夫だろうと。
「俺は、お前を傷つけてしまうかもしれない。お前のことを不幸にしてしまうかもしれない。それはあってはいけないことで、俺もお前にそうなって欲しくない」
 だけど、俺の気持ちは変わってしまった。彼女と過ごす毎日が愛おしくなってしまった。彼女と一緒にいたいと思うようになってしまった。彼女に抱きしめられ、弱い電流が身体を走るのが、この上ない幸せだと感じてしまった。
 彼女を、彼女のことを、ただのシビルドンではなく「彼女」として捉えるようになってしまった。
「だから……だから、お前を、海に……野生に、還す」
 特別視するようになったら、いつ束縛してしまうかわからない。去ろうとする彼女を、無理矢理引き留めてしまうかもしれない。ポケットに入れたままだった腕輪が、実際以上に重く感じられた。
 言い終わるなり腕を掴む。いつもは繋いだ手から感じていたぬめりが、握りしめる手にすべる。掴んだ腕が俺を抱きしめる時のことを思いだし、群青の姿を振り返りたくなったけれども見ないようにして引っ張った。
 寂しいだなんて、思ってはいけない。鉄筋の隙間が大きく開いた場所に彼女を連れていく。歯を噛みしめて力をかき集め、掴んでいた腕を大きく動かして、離した。
 抵抗しなかった彼女の身体は、ふわりと浮いたまま橋の下へと落ちていく。
「幸せに、なるんだ」
 これで良かったのだ。俺のところにいるよりも、野生として生きた方がずっと良いはずだ。海に行って、他のシビルドンと一緒に過ごして、一生を終えるべきなんだ。
 彼女が消えた暗闇を俺は数秒間眺めて背を向ける。また元通りの生活になるだけ、ポケモンがいない一人だけの毎日に戻るだけ。彼女と過ごしていた、あの間の方が異常だったのだ。ポケモンフーズの多さに戸惑いながらも彼女が喜ぶものを吟味し、一緒に食事をとり、夜は隣に並んで寝て、電流混じりに抱きしめられたあの日々の方がイレギュラーなものだったのだ。
 言い聞かせながら俺は橋の中央に進もうとする。
 しかしそれは出来なかった。身体が宙に浮く。踏み出した足が空を切る。酔いそうなほどの浮遊感が全身を満たし、組み合わされた鉄筋の間を奇妙な角度から見ながら抜けていく。
 普通に落下するよりもいささかゆっくりのスピードで落ちる俺の腰に、青色をした二本の腕が回っているのに気がついたのは少し遅れてからだった。それが彼女のものだなんて、考えなくてもすぐわかる。少しきつく思えるくらいに強く締め付けてくる両腕は、俺が帰宅する時と同じように俺を抱きしめていた。
 インターネットにあった、シビルドンの図鑑説明が頭をよぎる。一瞬で海へ獲物を引きずりこむ、とても強い腕の力。自分がどういう状況に置かれているかがわかったが、いきなりのことで抵抗なんて出来なかった。
 それに、それ以上に。彼女が習性通りに行動するなら、シビルドンとして幸せになれるなら。俺は彼女のしたいままにされて良かった。
 彼女に続いて俺の身体が着水する。温い空気とは違い、結構な冷たさの水が不思議と心地良い。空中とは少し違う浮遊感、身体の全てが水に浸かる前に俺は目を閉じる。
 お前がそう望むなら。そうしたいと思うなら。
 彼女の好きなようにして欲しい。

「…………?」
 しかし、いくら待っても俺が水に溺れることは無かった。肩くらいまで浸かってはいるが、顔はちゃんと水上に出ていて息が難なく出来るようになっている。どういうことだ、と思っていると俺の腰を掴んだまま、彼女はぐるりと位置を変えた。
 水に濡れ、つやつやと光る目が俺を見る。笑っているような、怒っているような目をしていた。一瞬だけ腕の力が緩められ、そして背中に回される。それは、いつもいつも彼女がしてくる抱擁と同じ動きだった。
 続いて、これもいつものように弱い電流がその腕に迸る。しかし身体が水に浸かっているせいで、本来の威力の何倍にもなった電流が俺の肌に伝わってきた。嘘発見器とか電気椅子はこんな感じなのだろうか、と場違いなことを考えてしまった俺の全身に衝撃と痛みが走る。でも、その痛みは苦しいものじゃない。
「お前は、そう望んでくれるのか」
 痺れた喉でそう問いかける。少しの間も空けずに彼女が頷く。
「……お前は、俺と一緒にいたいと思ってくれているのか」
 自分の声は震えていた。すぐさま頷いた彼女の周りの水が揺らめく。
「…………お前は、それを幸せだと感じてくれるのか?」
 息と、心臓が止まりそうだ。今度は頷くだけじゃなく、彼女はもう一度強く俺を抱きしめた。
 何か言おうとしたけれど、喉の奥と鼻の奥が急速に熱くなったせいで声が出なかった。目のあたりに熱が溜まる。水で冷えていっているはずの身体が、中から温められていくように思えた。
 本当に何も言えない。声にもならないし、言葉にもならない。
 それ以上口を動かそうとするのを俺はやめた。伝えたいことは山ほどあるけれど、それは後で言えば良いと思った。
 小さな震えの収まらない両腕を背鰭の方へと回す。水を吸った袖から水滴がしたたり落ちる。
 シビルドンが向かうという海へ続く水の中、俺は彼女を抱きしめ返した。常に濡れている青い身体は水のせいで余計に冷たくなっていたが、彼女に触れた部分からは確かな熱と電流が感じられる。いくらかの時間を置いて一度彼女が離れた後、彼女の腕に手を添えて、俺はポケットの中にもう片方の手を入れた。



 姉が家を出ていって、一ヶ月ほどが経った日のことだ。
 そのことから精神が不安定になりがちの母と何となく顔を合わせづらくて、俺は出来る限り外で過ごしていた。図書館に行ったり、塾の自習室に籠もったり。同級生たちと一緒に遊びに行くこともあった。
 だけどその日は友達と都合が合わなくて、だけど図書館などにも行く気がしなかったのだ。俺はセントラルエリアの広場で、サイコソーダを飲みながら高校生たちのポケモンバトルを見たり、ギタリストを中心としたバンドの演奏をぼんやり聴いたりしていた。
「キミは、ポケモンを持っていないのかい?」
 そんな僕に、突然話しかけてきた人がいた。
「その制服は中学生のだよね。ということは、もう持てる歳なんだろう?」
 白い服を着た、長身で長髪のその人は少し早口にそう言った。あの頃の俺は子供だったから「なんだこのオッサン」などと失礼なことを思ってしまったけれど、今になって考えてみれば現在の俺とそう離れていない歳であろう。青年、と呼んだ方が適切だ。
 その青年は、ベンチに座った俺の隣に当たり前のように腰掛けた。距離がやけに近い。不審者に関する注意喚起を、日頃母や学校から耳にタコが出来るほど聞かされている俺は当然警戒するが、青年は何も考えていなそうな様子で前を向いていた。
「みんな、ポケモンといるけど。キミは一人でいたから気になってね。どうなの?」
 なんでこんなこと聞くんだろう、と思いつつも俺ははぐらかすのも面倒なので正直に答える。
「持ってません、けど……」
「へえ。どうして?」
 随分と遠慮の無い人だ、と俺は子供心に若干の不快感を覚えながらも話し出す。なんというか、その青年はどこか人間離れしているような感じがして、友達や先生に対しては言いにくいことも口に出来たのだ。
「母がポケモン嫌いで、持っちゃ駄目だって言うんです。いえ、持つだけじゃない……近づくのも、駄目だって」
「ふうん」
「僕はそれでも、あまり気にならなかったんですけど。この前、姉ちゃんが耐えられなくなって、一人で旅に出てしまいました」
 思ったよりも淡々と、そんなことが俺の口をつく。流石にことの重さを察したのか、青年はぱちぱちと瞬きを何度かしてから少し難しそうな顔をした。「……なるほどね」と、答えに困ったような返事をされる。
「まあ、ボクも……ポケモンは持って、いないんだけどさ」
「そうなんですか?」
 今度は俺の方が質問する番だった。青年の方をきちんと向いた俺に、青年はうん、と頷く。
「だって、ポケモンはトモダチだから」
「トモ、ダチ……」
「うん。人間とポケモンはトモダチ。対等の関係。人間がポケモンを使う……バトルの道具にして許されるわけがない、ポケモンを縛ることなどありえない、ポケモンは人間から解放されるべきなんだ!」
 青年は畳みかけるようにそう言って、俺はその剣幕に怯んで言葉を失った。変な人に関わってしまった、という思いが生まれて一刻も早く立ち去るべきだと頭の中で警報が鳴る。しかし同時に、彼の言ったことが不思議と耳にこびりついて俺の足を止めていた。
 固まってしまった俺を見て、青年は慌てた様子になった。「驚かせてごめん」と、なんだか幼い口調で謝る。
「そう、思っていた……思っていたんだ。それは、過去のこと」
 さっきとは違う、静かな口調で青年が言う。近くの茂みがガサ、と音を立ててチョロネコが現れた。おいでよ、と青年が手を伸ばすと、チョロネコは嬉しそうに鳴き声を上げて青年の膝に飛び乗った。喉がゴロゴロと鳴る音がする。
「問答無用で、全てのポケモンは、全ての人から解放されるべきだって思いこんでいた。ボクはそう、育てられたからね。だけど」
 青年の視線の先にあるのは、穏やかな午後の公園の風景。人もポケモンも、同じように楽しそうで、同じように幸せそうで、同じように過ごしている、そんな風景だった。
 青年の手がチョロネコの頭を撫でた。優しいその手つきに、チョロネコがますます心地よさそうに喉を鳴らす。
「ポケモンと人は、一緒に幸せになることが出来るんだって。お互いに、お互いを豊かにすることが出来るんだって。そうやって、考えられるようになった。……そう、教えてくれた、人がいた」
 ボクはその人を探しているんだ、と青年が言い、思い出したように「そうだ、キミは会ったり見たりしたことないかな? こんな感じのトレーナーで……」とそれきり元の早口に戻ってしまった。生憎そのような人に覚えは無かったので首を振ると、青年はちょっと残念そうな顔になった。だけどもすぐ立ち直り、
「まあいいか。いつか、会えるよね」
 と笑ってみせた。その顔に何となく笑い返すと、青年は膝に乗せたチョロネコを抱き上げて俺にも触らせてくれたのだ。
 あとは、やたらと学校のことに興味を示した青年に俺が学校の話をしたり、青年が今まで会った珍しいポケモンのことを聞かせてくれたり。詳しいことはよく覚えていない。見た目の割に子供っぽい青年と、話が弾んだことだけが印象的だ。

 ただ、最初にした会話だけが今でも鮮明な記憶として残っていた。青年の意図や言っていることの意味なんて、ほとんど俺にはわからなかったのに、青年の言葉はやけに俺の心の片隅を支配し続けた。
 それ以来、青年とは会っていない。どこで何をしているのかもわからないし、探し人に会えたかどうかもわからない。そういえば、名前すら知らないのだ。元気でやっていれば良いと思う。
 だから当然、青年に真意を聞くことも未だ叶っていない。あの言葉にはどういう意味が込められていたのか、それは不明なままだ。

 だけど、と、俺は脳裏に浮かんだ青年の笑顔に話しかける。
 

 だけど、俺も、あなたと同じように。
 それを教えてくれる存在と出会えたんだ。 



「あー、疲れたー……まだ一コマあるよ……しかもきっついやつ……もう無理……」
 チャイムが鳴ると同時に机に突っ伏し、レジュメに皺を作りながら友人がぼやいた。いつもの光景なので俺はさして気にせず、教科書と称された教授の本やルーズリーフ、筆箱を鞄にしまっていく。
「お前次なんだっけー……」
「ああ、俺これで終わりだから。頑張れよカクタス」
「はあ!? ずっりー!! え、じゃあ今日はどっかで時間潰してから来る感じ? 料理美味いだろうから腹空かせてた方がいいよ」
「いや、一旦家戻ってから行くからさ。現地待ち合わせで良かったんだよな」
「そうそう、柳もシャワー浴びて来るって。んじゃ、俺はパルミエと学校から一緒に行くわ」
 あいつ講義サボって無いといいんだけど、と友人が溜息混じりに言う。サラサラのブロンドが自慢の、カロス出身の美少年である彼が何食わぬ顔で図書室で優雅な読書タイムを繰り広げているところが安易に想像出来て、俺も一緒になって嘆息した。
「そうだそうだ、この前はありがとな。兄ちゃんめっちゃ喜んでたわ、フレンドリィショップマニアだから」
「いいって、ボール一つくらいでそんな。捨てるのも忍びなくって、俺もどうしようか困ってたからありがたいよ」
 色々な学生たちとすれ違い、長い廊下を進む。兄ちゃんくじ運なくてさー、いくら引いてもH賞しか出ないんだ、と友人が笑い飛ばした。
 引き出しの中のモンスターボールは、もう無い。キッチンに行くたびに目を向けてしまうことも、朝起きた時に視界に入ることも、頭の中でその引き出しを開けることも、今の俺はしなくなった。
 階段を二階まで降りた所で、じゃあ俺こっちだから、と友人が講義室のある方を指さす。おう、と手を振りかけて、俺は一つ質問した。
「今日のサイユウ料理屋って、ポケモンOKなんだよな?」
「そうだよー、俺も連れてくよー」
「今から一匹増えても、大丈夫だと思う?」
「んー、ラビちゃんは小さいし、柳のゲンガーはまあ一人分か……パルミエの奴はビビヨン何匹連れてくんのかわかんないけど、まああれは飛んでるから……」
「そっか。じゃあ平気そうかな、一応あいつも浮いてるっちゃ浮いてるし。電流さえ気をつければ……」
「うん、大丈夫じゃん? ……ん? え、杏弥、ポケモン捕まえたん!? いつ!? 何!? 浮いてる? 電気? ……ギギギギアルかな?」
 予想もしていなかったであろう俺の言葉に、友人はびっくりしたような声をあげた。驚きのあまりか、謎の第四進化形を勝手に生み出している。
 黒い目をぐるぐるさせている友人の肩をぽん、と叩いて俺は階段に足をかけた。一階へと向かう俺の背中に、なんだよー、と不満そうな声がぶつかる。振り返って「夜に説明すっから」と、笑って言ってやった。
 大学を出て、アパート帰る前にすぐ近くにあるコンビニに寄り道をする。ストックが切れかけていたカップ麺をいくつかと、目に付いたお菓子を数種類。そのままレジに向かおうとして、だけど雑誌コーナーで足を止めた。ポケモンと行く夏のスポット100、と書かれた表紙のものを一冊籠に入れる。こんな本を買うだなんて、ちょっと前までは考えもしなかったのに。そう思うとなんだかおかしかった。

 彼女は、俺といたいと望んでくれた。野生のシビルドンとして生きるのでは無く俺の傍にいるのだと、本来の自分の習性に抗ってでも、それを幸せと思えると伝えてくれた。ポケモン嫌いの家に生まれつき、それでもポケモントレーナーを志した姉のように。
 彼女は俺の隣にいる。今はとりあえず、そのことだけで十分だと思う。
 今後どうなるかはわからない。彼女に嫌われてしまうかもしれないし、俺のところからいなくなってしまうかもしれない。反対に、彼女をボールに入れる時が訪れるかもしれない。彼女が行きたがった場所が、ポケモンをボールにしまわなければいけない交通手段を使う必要があるということもあるだろうし。
 でもそれは、そうなった時に考えれば良いのだろう。彼女がボールに入ることを望んだら、彼女と一緒にボールを選ぼうと思う。名前を欲しがったら、何日もかけて一緒に考えようと思う。偶然に懸賞で当たったボールじゃなくて、すぐに決めるのではなくて、一緒に。
 ジャノビーは誤解されたまま命を落としたし、ペラップは今でもあの場所で鳴き続けている。幸せなポケモンも、そうでないポケモンもたくさんいる。それは彼女と出会う前から変わらないことだ。
 だけど、そのことを考えすぎるのはもうやめようと思う。やめようと、すんなりと考えることが出来たのだ。そうなれたのは彼女のお陰だし、俺が一番にすべきことは一匹のシビルドンを、彼女を幸せにすることだろう。ほんの数ヶ月前までは考えもしなかったことを、今はごく自然に思えた。
 
 アパートの階段を登り、突き当たりの部屋の扉に鍵を差す。金属音の後に鍵を引き抜き、ふう、と深呼吸してドアノブを捻った。
 扉が開くなり、青く細長い身体がぶつかってくる。若干よたった足をどうにか持ちこたえてそれを受け止める。二本の腕が与える衝撃と締めつけ、そしてほんの少しの電流に、俺はちょっと苦笑してから彼女の頭を撫でるのだ。





少し長かったので二つに分けました。
読んでいただき、どうもありがとうございました。


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