タグ: | 【#タイトルをもらってどんな話にするか考える】 【さあ、野球だ野球だ】 |
トレーナーとして旅をしようと故郷を飛び出して、3つ、驚いたことがある。
ひとつは、ポケモントレーナーの、特に若年層への待遇が格段にいいこと。
ふたつめに、先の戦争での新型爆弾が投下された日付も時間も知らない人が多いこと。
そして最後に、野球が遠い存在であること。
深夜だというのに、今夜のコンビニは妙に繁盛している。
僕は客が抱えてきたおにぎりやらサンドイッチやらのバーコードを読み取り、728円です、と告げる。見るからに10代半ばの少女は、赤い長財布から1000円札と硬貨4枚と緑色のポイントカードを取り出した。
280円のお返しです、とレシートとお釣りを渡す。受け取る左手の手首には最新型のポケナビ。白と桃色のボディにきらきらとしたラインストーンをちりばめてある。
はて、どこかで見たことあるような。そう思いながらありがとうございましたーまたお越しくださいませーと言うと、この時間に出歩くのはいかがかと思われる年頃の少女は僕に軽く頭を下げてコンビニを後にした。
少女に続いて、コンビニにたむろしていた人たちがぞろぞろと外へ向かう。何だ、妙に人が多いと思ったらあの子を追いかけてたのか。集団ストーカー事件か? とかぼんやり考えていると、コンビニを出たところで少女の周りには人だかりができ、みんな油性ペンやら何やらを少女に差し出している。
あ、思い出した。あの子、この前あったバトルの大会で優勝した子だ。ああなるほど、どうりであのポケナビ見覚えがあると思った。こんな時間に女の子ひとりで外に出るなんて危ないと思ったけど、あの子の腰につけてるボールにはちゃんとした護衛がいるわけだ。
なるほどなるほど、と心の中で納得しながらレジを打っていると、財布の中を漁っていた客が店の外の女の子と僕の顔を交互に見て言ってきた。
「あの、お兄さん、もしかしてこの前の大会であの人と3回戦で当たった人ですか?」
僕は小さく咳払いして、まあ一応、と小声で言った。
バイトを上がって、陽が昇り始めている人通りの少ない道をだらだらと歩く。
ポケットからスマホを取り出すと、メールが1通届いていた。差出人は母親。ため息をつきながら開くと、いつもと同じような文面が目に入った。
いつまで遊んでいるのか。早く帰ってきてまともな職につきなさい。ポケモンを扱いたいならトレーナーなんかじゃなくてもいいだろう――
僕はもう1度ため息をついて、メールをゴミ箱へ投げ入れた。
ここカントーやジョウトと違って、僕の故郷ではトレーナーに対する風当たりが強い。
戦後、カントーやジョウトが先陣を切って職業トレーナーの育成と発展に大いに力を入れ、世界的にも有名なトレーナーを何人も輩出してきた。その一方で僕の故郷ではトレーナー制度の普及が遅れ、その結果今でもトレーナーとして旅に出る人数は他地方と比べて圧倒的に少ないし、実力あるトレーナーもほとんど登場していない。かれこれ15年続いている、他の地域では大人気の、ピカチュウを連れた少年トレーナーが主人公のドラマも、僕の故郷では周遅れどころかゴールデンタイムですらなく、早朝6時とか夕方4時半とか、完全に見せる気の無い時間帯にしか放送していない。特に年配の世代では、職業トレーナーなんて無職の遊び人と同じ、情けない、くだらない、駄目な奴がなるものだ、と思いこんでいる人が未だに多い。
そうは言っても世間の流れには逆らえないもので、特に刺激に飢えている若者なんかの間では、徐々にトレーナーを目指す者も増えている。僕もその中のひとりで、18で高校を卒業してすぐ、親の猛反対を押し切ってトレーナーとして故郷を飛び出した。
あれからもう7年。気がつけば僕は25で、圧倒的に若者の多いこの地方のトレーナーの中では年上に分類されるようになってしまった。
職業トレーナーの収入と言うのは基本的にバトルしかなく、大会に出て入賞したり、トレーナー双方合意の下で賭けバトルをしたり、そうやって賞金を稼いでいかなければならない。幸いなことにこの地方のトレーナー支援は手厚く、旅をしていれば食事も宿泊もポケモンの治療費も基本的には無料だ。
しかしそれでも、淘汰は激しい。強いものは賞金を手に入れ、世間に注目され、スポンサーもついて、何不自由なくバトルに専念できる。勝てない者は収入がなく、収入がなければバトルのための道具や薬も買えず、また負ける、という悪循環。バトル1本でやっていけない者は兼業トレーナーとなるか、他の収入を求めてバイトでもするか、いっそすっぱり諦めるしかない。
言うまでもなく、僕もバトルだけではやっていけないひとりだ。戦績は決して悪いわけではない。全ての勝負の勝率を出せば7割は超える。ただ、僕の特性は「ムラっけ」らしく、どうも安定した結果を出せない。結果収入も安定せず、生活のためにコンビニでバイトしている。
親の考えや物言いは古臭いし、いらっとする。でも正直なところ、このままでいいのかなあ、と考えているのも事実だ。
だって、もう25である。この地方でトレーナーを辞める人数が、続ける人数を上回るのが22歳だ。僕が旅に出た時にはもうこっちの地方の同年代の子は辞めるか辞めないかを考えていた。高校の同期だった人たちの大半はとっくに大学を卒業して、大学院も卒業して、一般企業でバリバリ働いている。
そんな中で、勝率7割程度の低収入バトルを繰り返し、だらだらと生活を続けている。テレビを見れば僕よりずっと年下のトレーナーたちが、派手なバトルを繰り広げては喝采を浴びている。
いっそ、親の言う通りすっぱりやめて故郷に帰ればいいのかもしれない。でも、もう後戻りすら難しい年齢に差し掛かっている。今更戻れないという妙な意地と、自分はまだやれるんだという盲目的な思い込み。
二進も三進もいかず、今日も長期滞在中のポケモンセンターで直近の小さな大会を探す日々だ。
数週間後に開催される小さな大会の申し込み手続きをし、日が暮れはじめたタマムシの町をあてもなくぶらぶらと歩いていた。
今日はバイトも休み。明日は夜10時から朝の7時。バトルの申し込みもないし、かといって他にやることもない。
さてこれからどうしようか、と顔を上げた時、僕の目に見覚えのある、懐かしいものが見えた。
真っ赤に燃える炎の色を身にまとった集団。
コンクリート色の都会に輝く、緋色のユニフォーム。
野球だ。僕の故郷の、赤の球団だ。
思わずその集団を追いかけていくと、深緑と橙の外壁の球場へたどり着いた。タマムシを保護地域とする、スウェロー……オオスバメを象徴とする球団の本拠地だ。
白地に紺と赤のラインが入ったユニフォームに、同じくらいの人数の緋色のユニフォームが混ざり込んでいる。
チケット売り場へ向かうと、外野自由席がまだ残っていた。購入して、レフト側外野席へ向かう。
スタジアムの中は、半分が緋色に染まっていた。適当な席を確保し、グラウンドに目を向ける。
グラウンドではビジターチームの練習が行われていた。緋色のユニフォームと帽子を身にまとった選手たちが準備を進めている。僕の故郷の球団。マジカープ……コイキングを象徴とする、スカーレットの球団。
『野球』というものがマイナーな競技になって、もうずいぶん経つ。
一昔前までは、スポーツと言えば野球、という風潮があった。僕がまだほんの子供だった頃まではそうだったと記憶している。
しかしここ数年、趣味の多様化、特にポケモンバトルやポケモンを交えた競技の普及によって、野球の人気は一気に落ちた。決定打となったのが、20年ほど前にイッシュ地方から入ってきた、ポケモンと共に行うベースボール、通称ポ球だ。流入当初はポケモンの「P」と「YAKYU」をくっつけて「ピャキュー」などと呼ぼうとする運動が起こった気がするが、結局そちらは定着せず、「ポケモン野球」を略して「ポ球」と呼ばれている。
ポ球では事前に登録されているポケモンの中から6匹まで、メンバーの中に入れることができる。選手以外にもあちこちでポケモンが活躍し、観客席への持ち込みも一部を除き基本的に自由だ。ポケモンが行う競技はさすがにダイナミックで、剛速球を投げるカイリキー、場外ホームランになってもおかしくない当たりをキャッチするピジョット、イニング間にチアリーダーとダンスをするピッピとプリンの群れなど、見ていて楽しいことは間違いない。
一方、野球はそれと相対する存在となっている。グラウンドへのポケモンの持ち込みは基本的に一切禁止、客席でもボール外での携帯禁止、マスコットですらポケモンに模した姿をしていても、中に人……いや、夢と希望が詰まった着ぐるみでなければならない。
ある意味徹底的にポケモンの存在を排除した世界に、特にトレーナー世代では反発を覚える人がいるのも無理はない。テレビでの中継はほとんどなくなり、球場へ足を運ぶ人も激減。最近では野球を見るのは頑固者とポケモン嫌いとひねくれ者くらい、なんて悪意のこもった冗談を言われるくらいだ。
しかしながら、僕の故郷では少々事情が異なった。
元々職業トレーナーの普及率が低く、ショービジネスとしてのポケモンに反発を覚える人が一定層いるのもあるが、それ以上に、あの地域では昔から『野球』というものが、スポーツの枠を超えた生活の一部として根付いているのだ。
町を歩けばチームカラーの緋色が目に入る。あらゆるものにチームの名を冠し、テレビでは朝から晩まで野球の話、そこらを歩く小学生や女子高生ですら休み時間に野球の話で盛り上がる、そんな場所だ。
何と言うか、好きとか嫌いとか興味あるとかないとかそういう次元をとうに超えた、DNAに刻み込まれた魂の一部みたいなものである。割と冗談ではなく。
野球を見るのなんて何年振りだろう、と思いながらその様子を見回していると、外野のセンター付近、グラウンドの一番端で、投手陣が集まってアップをしているのが見えた。その集団からひとり、早々に準備を切り上げて、ベンチへ下がっていく選手がいた。その背番号を認識し、僕は驚きと嬉しさと高揚感がごちゃまぜになった不思議な感覚を覚え、思わず笑顔になった。
彼は僕が学生時代、まだ故郷にいた頃、一番応援していた選手だった。
僕がもうすぐ高校に入学するというころ、彼は大学を卒業すると共にドラフト1位で入団した。彼と僕の出身地が割と近くて最初の興味を持った。
次に僕が興味を持ったのは、彼が最近では珍しい進学校に通っていたことだった。職業トレーナーの普及に伴って、大学以上の高等教育を受ける人口は減り続けている。学力が重要視されなくなってきた世の中、彼の通う高校はポケモンバトルや育成に関する教育をほとんど行わないことで有名だった。大学での専攻も、ポケモンに全く関わりのないことだった。
高校、大学と名を上げた選手というわけではなく、スカウトの人があちこちを歩きまわって見つけた逸材ということだった。本人もドラフト1位指名は予想外だったようで、群がる記者の質問にわたわたしながら答えていたのを今でも覚えている。
ルーキーイヤーは開幕早々に先発投手のローテーション入りを果たしたが、夏前にリリーフに転向。後半戦からはメインのクローザーとして順調に登板を重ねた。重い速球と恐ろしいほど曲がる変化球が持ち味の、力で押して空振り三振を取るタイプのピッチャーだった。
ただ、僕が故郷を飛び出して頃から少しずつ成績を落としていたらしく、ここ数年は故障もあって1軍に上がらない日々が続いていた、はずだ。はずだ、というのは、故郷を出て以来僕は全くと言っていいほど野球というものの情報を入れていなかったからだ。野球が必要以上に根付いている僕の故郷と違い、最近の世の中はポケモンが絡まないと認められない人が多いらしい。生活の中に入り込んでいた故郷と違い、こっちでは探さないと出てこない。夜のニュースのスポーツコーナーの片隅にほんの少しだけ出てくる情報を、時々眺める程度にとどまっていた。
試合は結局、僕が応援していた選手が登板することはなく、相手チームの打線が大爆発を起こし、こちらはもう笑いしか起こらないくらいひどい大敗を喫した。それでも緋色のユニフォームを纏った集団は、最後までわいわいと熱く盛り上がっていた。ここだけ見れば、野球が世間的には斜陽なんて本当なのかな、と思えるほどだった。
その夜、僕はポケモンセンターに戻り、球団のホームページから、あの選手の背番号のユニフォームの通販を申し込んだ。
赤い球団がカントー地方へ来る時、緋色のユニフォームを纏って、タマムシやヤマブキの球場を巡る日々が続いた。昼間はトレーナーとしてポケモンバトル、夜は野球観戦、試合のない日はコンビニでバイト、というのが僕の生活パターンになった。
僕が同じ背番号を背負ったあの投手も、何度か登板した。彼は今もっぱらセットアッパー、中継ぎ投手として活躍していて、僕が見ていた試合では今のところ好投を続けている。
ただ、彼が登板する度、球場がざわめいて、時には口汚いヤジも飛ぶ。理由は僕もわかっている。
彼は少々、僕と同じ、特性「ムラっけ」のある投手なのだ。最終的には抑えても、その前にランナーを出すことが多い。失点することもある。それ故に、彼は「試合を壊す」だの「胃薬必須」だのとなじられることが多いのだ。
しかし、投手というのは損な役回りだと常々思う。バッターは3割打てば一流と呼ばれて賞賛される。ピッチャーは7割抑えても詰られる。プロの勝負の世界だ。勝った負けたもあるだろう。それなのに、味方のはずのファンに罵倒されるのはどういうことか。
彼のユニフォームを纏って球場に来る度、試合の流れとは関係のないモヤモヤが僕の中に漂うのだった。
それにしても、僕がしばらく野球を見ていなかった間に、彼の投球スタイルが随分変わった気がする。ケガから復帰して以来、球威で押すより変化球を多く使った軟投派に変わったようだ。
その辺りを確認してみようと、ウェブ百科事典の彼の項目に目を通してみる。便利な世の中になったものだと思う。怖いところもあるが。
経歴の項目をたどっていると、ある言葉が僕の目に飛び込んできた。
『特別児童養護施設 もみじの樹』。
特別、と濁して書いてあるが、この施設に入る子供の境遇はみんな同じ。
『携帯獣関係特別児童養護施設』、通称『特携』。
ここにいる子たちはみんな、親がトレーナーとして旅立ち、取り残された子供たちだ。
職業トレーナーとして旅立つ若者が増えたことで、様々な社会問題が浮上してきた。その中のひとつに、家庭を持ったトレーナーが、家を棄てて旅に戻るというものだった。
旅のトレーナーがその先で恋人を作り、再びどこかへ行く場合。行きずりの関係で子供が出来て、誰の子とも言いだせず育てるのを放棄した場合。両親ともに旅のトレーナーだったのが、子供を棄てて再び旅に出る場合。いくつパターンはあるが、いずれにせよ旅に子供は邪魔だから、と棄てられる子が後を絶たない。特携はそうやって棄てられた子たちが集められる。
特携が出来た理由としては、トレーナーの親に捨てられた子たちにポケモンを忌み嫌う子供が大勢いたからだ。まあそりゃ当然だとは思う。政府としてはトレーナー産業を推奨したい、しかし現状ではトレーナーのあり方を批判されかねない。だからそういう子たちを収容して世間的には保護してますよとアピールしつつ、ポケモンやトレーナーがトラウマになっている子を何とかしよう、という感じだ。実際のところ、その活動が上手くいっているとは僕は思えないけれども。
なるほど、と僕は思った。彼がポケモン関係の授業がほとんどない進学校を選んだのも、ポ球ではなくポケモンが関わらない野球を選んだのも。
彼はポケモンが嫌いなのだ。トレーナーが嫌いなのだ。だからポケモンから隔絶されている『野球』を選んだのだ。
それに気付くと、僕は何ともいたたまれない気持ちで、胸が張り裂けそうになった。何とも言えない罪悪感のようなものが溢れてきた。
僕はトレーナーだ。割といい年をした。自分が勝手に彼に親近感を持って応援していたけど、きっと彼は僕みたいな人間が、一番嫌いなのだろう。
ファンになる資格など、僕にはないのかもしれない。
ポケモンセンターの2段ベッドの柵に引っかけた、緋色のユニフォームを見ると、胸の奥がぎゅっと苦しくなり、じわりと涙が込み上げてきた。
ポケモンバトルの方も、相変わらず勝率7割位を漂っていた。
わかっている。ここからもうひと踏ん張りしてもっと勝率を伸ばさなければ、大会上位に進むのは難しい。大会はほとんどがトーナメント制。負けたらそこで終わりだ。「ムラっけ」が発動して1回戦で負けたりしたら、そこで終わり。それが続けば、もはやトレーナとしてはやっていけない。
あの日深夜のコンビニで出会った女の子は、時折テレビの中継にも映っている。色々な大会で優勝している彼女は、今や立派なスターだ。勝率10割をキープし続けるのは、並大抵の努力ではないはずだ。
一度はバトルフィールドを挟んで向かい合っていたのに、随分遠い存在に思えた。あの日、僕はコンビニのカウンターの中にいて、彼女は店の外でサインの要求に応えていた。あの時にはとっくに、僕と彼女の立ち位置は決まっていたのだろう。
スマホで時間を確認する。もうすぐ夜明けのコンビニバイト。ため息が漏れるばかりだった。
もういっそ、すっぱり諦めて、辞めてしまった方がいいのだろうか。
応援も、トレーナーも、何もかも、全て。
「……ねえ、店員さん」
突然客に話しかけられた。何だなんだと見てみると、ちょうど思い返していた、あの女の子がレジ前にいた。
あ、すみませんいらっしゃいませ、と僕が慌てていると、彼女は笑顔で僕に言ってきた。
「ねえ、あなたも野球好きなの?」
突然の質問に僕が面くらっていると、彼女は僕のスマホを指差した。正確に言うと、スマホにぶら下がっている、ヘルメットとユニフォームのミニチュアのストラップを指差した。
「そのストラップ、マジカープでしょ? カープファン?」
「あ、えっと、はい……」
「わー! こんなところで同志に会うなんて思ってなかった!」
彼女はそう言うと、鞄から長財布を取り出し、僕に見せてきた。
赤い革製の長財布。隅っこにしっかりと「Magikarp」の刻印が入っていた。
ようやく空が白んできたくらいの時間帯、僕と彼女はポケモンセンターのロビーで向かい合って座っていた。彼女は有名人なので、部屋の隅の目立たない席だ。
廃棄処分になるコンビニスイーツ(本当は持ち出しちゃいけないんだけど)と缶コーヒーで、早朝の茶会が始まった。
彼女は以前僕と対戦した時のことを覚えていて、前に深夜のコンビニで客と店員として出会った時も相当驚いたらしい。まさか同じ球団のファンだとは思わなかったけど、と彼女は笑った。彼女はカントーの生まれで、僕の故郷とは縁もゆかりもないそうだ。だけど小さい頃、知り合いに連れられて野球場へ行き、それですっかりはまってしまったらしい。今も時折緋色のユニフォームを羽織って、球場に足を運ぶそうだ。
意外だな、君みたいな子はみんなポ球の方が好きなんだと思ってた、と僕が言うと、彼女は困ったようにはにかんだ。
「ううん、私、バトルは観るのもやるのも大好きなんだけど、競技はいまいち、こう、ねぇ。まあ、好みの領域だけど。でも人と人のガチンコ勝負の方が私は面白いなあ。確かに地味だけど」
なるほど、こういう好みの人もいるのか。実力のある若いトレーナーはみんな、何でもかんでもポケモンが混ざっていればいいのかと思ってた。
誰のファンか、と聞かれたので、ユニフォームの選手を答えると、私も好き! と顔を輝かせて言った。
「私ね、ポ球より断然野球が好きになったの、あの選手の影響なの!」
はて、と僕は首をひねった。知らないの? と彼女は驚いた表情を見せた。
「今から……7年前だっけ。私まだ8歳だったけど。あったじゃない、合併騒動」
ああ、と僕は首を縦に振った。
ちょうど僕が、故郷を飛び出した位の頃のことだ。
野球は一度、消滅しそうになったことがある。
イッシュ地方から入ってきたポ球は、あっという間にこの国の国民の心をつかみ、瞬く間に浸透した。ポ球は独自にポケモン・リーグ、通称「ポ・リーグ」(運営団体としては響きがイマイチという理由で「Pリーグ」という呼び方を浸透させたかったようだが、もはや定着している)を設立し、各地に球団を持つようになった。とあるデータによれば、ポ球の広がりにより、野球は観客動員が50パーセント以上減少、球界全体の経済損失は量り知れないという。球団によってはこれ以上の運営が困難となり、球団の譲渡や合併が巻き起こることとなった。
そんな中持ち上がった話が、従来の『野球』リーグの廃止と、『ポ球』への路線変更。全ての球団でポケモンを用いるという、『リーグ一本化』である。
この案が成立すれば、人間だけで行われる「野球」は事実上消滅。そしておそらく、二度と復活することはない。そんな状況に、本当にあともう1歩のところでなるところだった。
そんな中、反対の声を上げたのが、野球を愛するファンと選手会である。
合併を強行しようとする野球機構に対し、選手会長を筆頭に、抗い、話し合い、激しいバトルを繰り広げた。機構のお偉方に毅然として立ち向かっていた選手会長の姿は、僕も覚えている。
結果として合併は起こらず、「野球」と「ポ球」はそれぞれ独立して存在することとなり、その象徴のように野球からはポケモン要素が締め出され、今に至る。
「でもね、ファンの中にも、選手の中にも、ポ・リーグへの合併やむなしって声もあったのね。そりゃそうよね、だって収入がなかったら自分たちの年俸もなくなるし、観客が来ないのは辛いもの。そうしたら選手が離れて、レベルが下がる。レベルが下がると面白くなくなるから、観客がますます来なくなる。そうやって、ゆっくり死んでいくだろう、って」
だけどね、と彼女は目を輝かせた。
「そんな時にみんなの心をひとつにしたのが、あの選手の言葉だったの!」
そんなことあったっけ、と僕は眉を寄せた。何せ騒動があった時、僕はちょうど野球から離れつつある頃だった。だから騒動の概要は知っていても、詳しいことは知らない。というか、どうしてそこであの選手が出てくるんだ。そう思っていると、あの時選手会だったんだよ、と言われた。なるほど。
とにかく、ぐだぐだ説明するより見ればいいよ、とタブレットを操作し始めたが、その途端、あ、と彼女の表情が固まった。
「ごめん、今日朝からテレビに呼ばれてたんだった……。本当ごめん、今すぐ行かなきゃ」
用事が終わったらURL送るから、夜になるけど、と彼女は僕の連絡先を強奪し、ポケモンセンターの外へ走って行った。
今夜ナイターあるけどそれまでに間に合うのかな、あの子も今夜野球観るのかな、などと僕は思いつつ、夜までしばらく睡眠をとることにした。
6時になって試合が始まっても、彼女から連絡は来なかった。僕は一応スマホと一緒にイヤホンを持ち、球場の緋色の集団に紛れ込んだ。
今夜は先発投手が初回に早々ソロホームランを打たれ、1点ビハインドのまま淡々と試合が進んだ。お互いまともなヒットもなく、試合運びは割とサクサクしている。いや、サクサクしてたら困るんだけど。こっち負けてるし。
4回表のこちらの攻撃、1アウトになった頃、スマホにメールが届いた。URLからして動画らしい。選手会が合併反対を訴えて作ったサイトに掲載されていた、とメモ書きがあった。僕は応援に盛り上がるスタンドをそっと抜け出して、動画の再生ボタンを押した。
それはインタビューの動画だった。動画の中ではあの選手が、ポ・リーグとの合併についてどう思うか、野球選手としてどう考えているか、などを話していた。
その時、インタビュアーが尋ねた。
「あなたは『特携』の出身で、高校や大学でもポケモンと触れ合わない生活をしていたようだが、それが合併反対に影響を与えることはあるか?」
と。つまり、「お前はポケモンとトレーナーが嫌いだから合併したくないんだろう?」と遠まわしに言っているのだ。
すると彼は、困ったように笑い、そして穏やかな顔でこう言った。
「確かに、僕はトレーナーだった両親に捨てられました。それは今でも、僕にとっては悲しい思い出です」
「でも、それは必ずしも、マイナスの側面だけではありません。僕は人より少しだけポケモンから距離を置いて生きてきて、この世界におけるポケモンの影響力を見てきたつもりです。ポケモンが与えるいい影響も、悪い影響も、出来るだけ冷静に、見てきたつもりです」
「まず言っておきますが、僕はトレーナーやポケモンが嫌いなわけじゃありません。悲しい思いはしましたが、それとこれとは違う話です」
「学生時代は、確かにポケモンやトレーナーから出来る限り距離を置きたいと思っていました。だけど時が経って、色々と見て、学んでいくうちに、考え方も変化していきました」
「現状のトレーナー制度には、問題があるとは個人的に思います。僕みたいな子供を減らす努力はしなければいけません。でも、それと僕がポケモンやトレーナーを憎むのは、違う問題だと思ったんです」
「ポ球は何度も観ました。参加させてもらったこともあります。素晴らしいスポーツだと思います。人間だけでは決して出来ない、ダイナミックなプレーは大きな魅力です」
「だけれども、僕は、野球は決してそれに負けない、強い力を持っていると思います」
「僕は人間です。野球をやっているのも、僕と同じ人間です。人がやることだからこそ、僕は心が動かされたんだと思います」
「人に影響を一番与えるのは、人だ、と僕は思っています」
「子供の頃、野球選手を見て、僕は生きる力、みたいなものをもらいました。それは派手な動きとか、神業的なプレーによるものではなかったと思います。でも、野球選手は僕にとって『ヒーロー』でした」
「野球選手になった今、今度は逆に、野球を愛してくれるたくさんの人から、僕は力をもらいました。今度は僕が、皆さんに力を与えられたら、と思っています」
「だから、僕は野球が消滅してしまうことに反対です。この競技がいいんです。この競技でなければいけないんです」
そして彼は歯を見せて笑い、こう言った。
「野球は僕の、魂の一部なんです」
動画が終わった。
僕は大きく深呼吸をして、涙が溢れそうになるのをぐっとこらえた。
赦されたような気がした。自分が勝手に罪悪感を持って、勝手に憂鬱になっていただけなのに。
ファンである資格がないと思い込んでいたのは、自分だけだった。
彼はいつでも、球場で待っていてくれたのに。
もう1回深呼吸をすると、ちょうど4回裏が始まるところだった。僕はスマホをポケットにしまい、スタンドに戻った。
ここまで1失点ながら好投していた先発投手だったが、4回に入って突然制球が乱れ始めた。
フォアボールを連発し、1、2塁が埋まる。捕手とコーチがマウンドに向かい、内野手も交えて話し合いをしているようだった。レフトスタンドの緋色の集団はざわざわと不安そうにざわめき、ライトスタンドからはチャンステーマが高らかと鳴り響く。
選手たちが定位置に戻り、ピッチャーが3人目のバッターに1球目を投げた、その時だった。
打ち返された速球が、投手の頭に直撃した。
ピッチャーが頭を押さえてその場に崩れ落ちた。スタンドから悲鳴が上がる。すぐにタイムがかけられ、緋色の選手たちがマウンドに集まった。
しばらくの後、投手はふらふらと立ち上がった。スタジアム全体から安堵の声が漏れた。しかし外野席から見ても、その様子は万全とは思えなかった。
監督が球審の元へ駆け寄り、何かを話しあっていた。そのすぐ後、投手は控え選手に背負われ、ベンチへ戻って行った。
緊急登板(スクランブル)だ。レフトスタンドが異様なざわめきに包まれた。
マウンドへ走ってきたのは、僕が羽織っているのと同じ背番号を背負った、あの投手だった。
こぼれ落ちたボールをいつの間にか投手のすぐ横まで移動していた2塁手が拾って処理していたことで失点はしなかったが、無死満塁。
レフトスタンドが、これまでとまた違うざわめきに包まれる。今日の相手投手はいい。これ以上点を与えるわけにはいかない。「ムラっけ」のピッチャー、ましてや緊急登板。十分な準備は出来ていないはずだ。大丈夫か? という雰囲気が緋色の集団に蔓延していた。
マウンドでは投球練習が始まっている。ごくり、と息をのむ雰囲気がスタンドを覆っている。
「……れ……、頑張れ! 頑張れーっ!!」
気がつくと僕は、立ち上がって声を張り上げていた。周りの視線が僕と、僕が来ているユニフォームに向けられる。
呆気に取られていた周りの人たちが、つられて声を出す。応援団が太鼓を叩く。やがてレフトスタンド全体から、頑張れ、頑張れ、の大合唱が始まった。
試合が再開された。あちらの攻撃の間、僕たちはじっと見守ることしかできない。何となく重苦しい空気が漂っている。
1人目、外角高めのストレートを見逃してストライク。2球目、3球目は内角へのスライダー。4球目をバットの先で何とか引っかけたが、投手のすぐ目の前へのゴロとなり、ホームへ送って1アウトとなった。
レフトスタンドからほっとした息があちこちから漏れ聞こえた。しかし2人目のバッターがバッターボックスへ立つと、再びぴりぴりとした空気に支配された。
2人目は初球から振ってきた。2球目がやや甘く入ったところを、狙って打たれた。しかし2塁手が素早く飛び付いてダイレクトキャッチし、即座に他の内野手へボールを送って牽制することで、ランナーを進ませなかった。
これで2アウト。スタンドがざわめく。これまでの不穏なざわめきの中に、明らかに高揚が混ざっていた。
3人目。1球目、2球目を見送られ、3球目をファール。4球目の外角低めの真っ直ぐを再びファール。5球目のスライダーはわずかに外れてボール。6球目もまたファール。
投手は帽子を取り、ユニフォームの袖で額の汗をぬぐった。ライトスタンドからはバッターへの声援が飛び交い、レフトスタンドはじっと黙って投手の一挙手一投足に注目していた。
7球目。
振りかぶって投げられた球は、バッターの正面に飛んできた。
狙い澄ましたバットがボールを叩かんとしたまさにその瞬間、ボールは急にがくっと軌道を変えて落ち、ワンバウンドしてキャッチャーのミットに収まった。
バットが空を切った。空振り、三振。3アウト。
レフトスタンドが総立ちになった。歓喜の声がスタジアムを包んだ。
僕も声にならない歓声を上げてガッツポーズをした。何が何だか分からなくなって、今までずっと堪えていた涙がボロボロと零れおちた。
周囲の人たちが、おう兄ちゃん良かったな、最高だったな、と言って、カンフーバットで僕のユニフォームの背番号をバンバン叩いた。
試合は7回表、期待の若手の今シーズン第1号逆転2ランホームランによって、見事逆転勝ちを収めた。ヒーローインタビューに呼ばれたスラッガーは、若さあふれる輝きで満ち溢れていた。落ち着いて考えたら僕より5つ以上年下だ。うわあ。考えたくない。
レフトスタンドは試合が終わってからもしばらく、楽しく歌って勝利の余韻を噛みしめていた。
グラウンドの端を、緋色のユニフォームを着た選手たちが荷物を抱えて歩いて行った。僕がそれを見ていると、緋色のユニフォームの集団に混ざっていたあの投手と一瞬目があった、ような気がした。
『人に影響を一番与えるのは、人だ、と僕は思っています』。
勝ちもつかない、ホールドもつかない、ヒーローインタビューにも呼ばれないし、おそらく夜のスポーツニュースのハイライトでもカットされることだろう。
それでも今日の彼は、緋色のユニフォームを纏った彼は、僕にとってこれ以上ない、魂を燃やしてくれる『ヒーロー』だった。
スマホがメールの着信を告げた。あの女の子からメールが届いていた。嬉しそうにはしゃぐ本文に、バックネット裏で撮ったと思しき写真が添付されていた。
僕はバックネットの方をちらりと見てふっと笑い、メールを返した。
『また、どこかの大会か、球場で』