マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[新規順タイトル表示] [ツリー表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.3743] そして、ここにも春が来る 投稿者:GPS   投稿日:2015/05/12(Tue) 19:58:35   69clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

換気の終わった部屋の片隅、置かれたストーブを付けようとして、やめた。九時を回った室内はひんやりした空気が漂っているものの突き刺すような、と形容する程の寒さでも無くて、柔らかな冷たさが肌を撫でる程度である。ほんの一週間前までは、窓なんて開けたら震えが止まらなくなったというのに随分と違う。
そろそろカーテンも一度洗わなくては、と思いながらベランダに続く窓を見やる。と、室外機の傍に張り付いて、じっとしているトランセルを視界に入れる事が出来る。今はともかく冬真っ盛りの時節も、雪が降るような寒空の下にも、この蛹はこうして外に居続けている。寒くは無いのだろうか、と思ってもトランセルを外に出しているのは、君がそうすべきと言ったからだ。
急激なレベル上げをしない限り、自然界のトランセルの多くは春に羽化をする。彼らがバタフリーとなって蛹から出てくるためには、厳しい冬の寒さに耐えうることが条件になるそうだ。寒さと戦うことが彼らにとってのレベル上げであり、バタフリーとなってからの健康な身体の生成にも関わるらしい。だから、暖房で温められた部屋で育てるよりも外に出しておいた方がトランセルのために良いというのだ。

その君は、ストーブが消せない寒さの時分に出ていった。
君もまた羽化を待つカラサリスを連れていて、君がまだ僕の部屋にいた頃は、あの緑色の蛹の隣に純白の蛹が寄り添っていたものである。霜が降りる朝も北風が吹きさらす昼も、星までもが凍り付くのではないかと思われるほどの寒い夜にも、ベランダで隣り合ってじっとしている一対の蛹を、君は窓から少しも飽かずに覗いていた。寒くは無いのかな、そう僕が聞いてみると、「それが大事なんだよ」と君は決まって返してきた。


ストーブのコンセントを抜く。その行為を自分でするのは久しぶりだった。こういったことは、いつだって君がやってくれていたのだから。
君がいなくなったこの部屋は、ずっと静かになったと思う。だけど、ずっと寒くはならなかった。君がここを出ていった辺りから今年の寒さは徐々に和らぎ始めていて、冬の影は町から少しずつ消えている。
君がいないために広く感じる布団も、君がいた頃よりも冷たくない。君がいないために誰も座らなくなった椅子も、君がいた頃よりも暖かだ。君がいないためにその半分以上が空になってしまったクローゼットの中も、君がいた頃よりも幾分穏やかな空気をそっと漂わせている。


『寒いね』


僕と君、どちらが先に言い出したのかはわからない。僕だった気もするし、君だったようにも思える。しかしどちらにしても僕たちは、冬の終わりと同時に自分たちにも終わりを迎えたのだ。寒くて厳しい冬に耐えて、春に蝶と成る日を夢見てひたすら待ち続ける蛹とは違い、春を待つことが出来なかった僕と君は、冬の寒さに別れを告げるようにして、お互いからも背を向けていた。
寒いね。僕の言葉に、君は「だからここにいたくないんだ」と乾ききった声で言った。ここ、というのが僕の部屋を指しているのか、それとも僕の住まうカントー地方を指しているのかまでは測り兼ねる。ホウエン地方で生まれ育った君は、いつだって温かいということが当たり前だと思っていた。ホウエンの冬はこんなに寒くないんだ、そう文句を言いながらストーブの前に陣取る君を、僕は目が覚めるごとに見ることが出来た。
寒いから。君は寒さを忌み嫌っていた。僕も寒いのは好きじゃないよ、と言うと君はいつでも僕の腕を引っ張って、そう温かくもない肌を触れ合わせるのであった。しんと冷え切った夜を隔てたガラス窓の向こう、緑と白の蛹を眺める君の吐いた息が、手を繋ぐ僕たちを映し出すガラスを白く曇らせたものだ。

『なんでカントーはこんなに寒いんだ。カラサリスだって、寒いのは嫌いなのに』

『なら、やっぱり家に入れてあげた方がいいんじゃないかな』

『それは駄目なんだ、だって、寒さに耐えることが必要なんだから』


『きれいなアゲハントになるために』


ここからいなくなった君がどこに行ったのか、僕に知る術は無い。大雪の予報がテレビやネットを騒がせた晩に僕の部屋から出ていった君は、僕に行き先を告げること無く荷物を抱えて靴を履いた。玄関の扉を開く君に、僕が何かを聞くこともまた無かった。これからどうするのかとか、どこに向かうのかとか、そういった話はまるでしなかった。
ただ、君はホウエンに戻ったのだろうと僕は確信している。君の大好きな町に、君の生まれた故郷の町に。君の好きな、春がいっとう早くやって来る町に。冬が満ちたこの場所から旅立って、君は春の町へと帰っていったのだ。


『よい春を』


カラサリスをボールに収め、ここを発つ君は最後にその一言だけを残していった。別れの言葉も罵りの意も、これっきりの愛の文言なんてものなど一つもなかった。よい春を。それだけが、僕に残された君のひとひらだった。


『よい春を』


だから僕も、同じようにそう言ったのだ。その僕の言葉に君は浅く頷いて、何の名残りも見せない呆気無さで扉を閉めて、ここから消えた。僕の部屋には、僕とトランセルだけが取り残された。バタフリーになる日を待つ、トランセルだけが。
きっと今頃、君はもう春を迎えている。ホウエンに春が来たというニュースを見たのは数日前で、カントーよりも幾分暖かそうな映像がテレビに流れていた。
僕たちは春を迎えられなかった。厳しい冬を乗り越えて、共に羽化することは叶わなかった。だけど、君が迎えられていれば、そして僕が迎えられれば、それできっと十分なのだろう。春を迎えたその町で、君が温かい風に吹かれているのなら、僕はそれ以上何も望むことはない。美しい羽を広げたアゲハントと一緒に、君は春の町で笑っている。それがきっと、正しいのだから。


「よい春を」


ふと口から漏れた呟きは誰に向けたものだっただろう。君へのものか、アゲハントとなっているであろうカラサリスへのものか。それとも、澄んだ青空の下に見える、ガラスの向こうで春を待っているトランセルへのものだろうか。それかはたまた、緑の蛹と共にここにいる、自分自身へのものだったのかもしれない。
どの道、もうすぐそこまで春が来ている。君は春を迎えてアゲハントになった。僕も春になったら君のように、バタフリーになれると良いとは思う。
窓を開けてベランダに出ると、トランセルの眼だけが動いて僕を見た。二月終わりの空はよく晴れていて、どこまでも続くようにすら感じられる。この空は繋がっていて君のいるところまで届く、だなんて陳腐なラブソングのようなことを言うつもりは毛頭無いけれど、それでも春は君のいる町から、僕のいる町までやって来る。


柔らかな風が僕とトランセルを包み、その日が近いことを知らせていった。


- 関連一覧ツリー (★ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー