まだ、誰も起きていない早朝。ゆっくりと起き上がり、そのまま音を立てないで外に出る。
暗闇がまだ濃い、夜明けの更に前の時間。
寝ていた時間はそう長くはない。体の疲れは色濃く残っていた。大して動いていないのに、だ。
死期は近い。けれどまだそれは、ぼんやりとした先にある。
四つ足でゆっくりと歩く。30年ほど、この町で暮らして来た。この町の外には、余り出た事はない。ただただ、ポカブを殺し続けた毎日。
その一生に意味があったかどうかなど、私自身にも分からない。誰かが、私が殺したポカブを美味そうに食う姿を見て、自分が自ら汚れ役を買っている、人や獣のより良い幸せを作る生業をしている、それが生きがいなのは間違いない。けれど、それが完全に、自分がポカブを殺す事を納得させる理由にはならなかった。
自分の奥深くに、今でも僅かに、しかし確かにそれ・・はある。
私がポカブを殺す姿は、全くもって無駄が無いとか、ある時には美しいとまで言われた事がある。
それは、集中しているからではない。その僅かなそれ・・を、無視する為にはそうならざるを得なかっただけの事だ。半ば機械的に。
生きがいが強かろうと、自分でその旨みを堪能しようと、僅かに残るそれ・・は、きっと無くてはならないものでもあったのかもしれない、と思い始めたのはいつだっただろうか。
先にサザンドラを起こしに行く。口と手足を縛っただけの、サザンドラ。閉じ込めている小屋の前で、腕が立つ方の私の子と、人間一人が見張りに立っていた。
――こんな早朝に何を?
――手伝ってくれるか?
――え、ああ、うん。
扉を開けて中に入ると、目を覚ましたサザンドラが私の方を見て来た。
口を縛っていた紐を解く。
「おいおい……」
人間が声を出すが、無視した。
――随分、早いな。
――そうだな。
――こんな早朝にどうするんだ?
その声には怯えがあった。まあ、普通、そうだろう。
――妹を迎えに行こうか。
サザンドラを昨日と同じように台車に載せて、子に引かせて、外に出た。
――俺だけじゃ重いよ。
――まあ、少しだ。踏ん張れ。
ずり、ずりと土に痕跡を残しながら、そのリザードンが居る小屋の方へゆっくりと進んで行く。
サザンドラが話し掛けて来た。
――……なあ、どうして俺達に優しくしてくれるんだ?
――優しく? まあ、確かにそうだな。殺した方が手っ取り早いし安全だしな。
脚刀を抜く振りをすると、より一層怯えた。
――……なら何故。
――あのリザードンに、無性に腹が立っていたんだな。毎日のようにポカブを殺し続けて来た私だからか、命を自ら無駄にするような奴は、腹が立って仕方なかった。
――……良く分からないが、まあ、ありがとう、とでも言えば良いのか?
――さあな。
あのリザードン次第だ。多分、あのリザードンが本当に死にたいのならば、私はこれから殺すだろう。
そして、それを見て怒り狂うであろうサザンドラも。
僅かながら、私は緊張、していた。
今まで殺すという事は、数えきれない程してきた。殺す事に緊張したのは、最初の頃だけだ。あのサザンドラを殺す事には緊張しなかった。
そして今、僅かに感じている緊張は、最初の頃の緊張とは全くの別物だった。
恐怖か、と私は思った。何に恐怖しているのか。殺してしまう事に? 何故?
答が出ない内に、リザードンが閉じ込められている小屋が近付いて来る。思ったのは、きっと、そのリザードンの命を私が、重く見ているからだろう、と言う事だった。家畜のポカブなんかよりもずっと。
扉の前には、モロバレルと女性。さっきと同じように無視して扉を開けた。
薄らと明かりが入る。リザードンは倒れていた。暴れようとした痕跡がいくつもあり、傷が沢山ついていた。
サザンドラを連れて来る前に、先に私が近付いて、頭の縛りを解いた。
――……起きてるか?
――…………ああ。やっと。
――……どうだった。
顔には、涙の痕もあった。
――暗闇に呑み込まれないように、必死に考え続けた。私は、私が何をしたいのか、分からなかった。……呪いが解けたとして、その先に何が待っているか、私が何をしたくて呪いを解こうとしているのか、分からなかった。……考えて、考えて、分かったんだ。呪いの正体が。それしか考えられなくなる事が、呪いだったんだ。……私は、エンブオーとは違う。……申し訳ないけど、私は、違う。今は、兄が、居る。私に優しくしてくれる兄が。……私は、もう、頑張らなくて良い。呪いは、解けたよ。私の中にずっとあったそれは、もう解けるようになってたんだ。兄という存在が見つかったから。私は、私だけで頑張らなくて良くなってたんだ。生きる理由を、私自身の中に置かなくて済んだんだ。私は、私は……私は、やっと、抜け出せた。
それは、半ば独り言だった。私自身、その独り言を全て理解出来た訳じゃない。
ただ、その一言一言には、重みがあった。光が見えた。前向きに進んで行こうとする光が。
子を呼んで、サザンドラを引っ張って来て貰った。
「ま、なるようになったみたいだ」
心配と安堵が入り混じる顔をしながら、サザンドラは妹のリザードンを見つめていた。
それを見て、私の中で、一つ合点がいった。
私自身がずっと生業にしてきた、ポカブを殺す事よりも、この二匹のような絆を守る事の方が、私にとって重かったのだ、と。私と相棒のように。
沢山の迷惑を被っても、越えてはいけない一線を、この二匹は越えなかった。だからこそ、守ろうと思えた。だからこそ、私はこんな事をしている。
リザードンの拘束を全て解き始める。
子が驚くが、それも無視した。
解き終えて、サザンドラの拘束も解いた。
「何というかな、仇を恩で返されたような、ちぐはぐな気持ちだが……本当にありがとう」
「さっさと行け。私の独断でやっているんだ」
そう言いながらも、ありがとうと言われた事に、私はかつてない程の充実感を得ている気がした。
兄が妹を立たせてそしてゆっくりと飛んで行く。倉庫の外へと出て行き、段々高く、遠くへと飛んで行く。
私も外に出る。人間とモロバレルが私を訝し気に見て来たが、無視して、飛んで行く二匹を眺めた。
冷たい風が体を撫でる。牧場の先へと飛んで行く。下にある、兄妹の父親の死体には目もくれず、飛んで行った。
粒程にしか見えなくなる頃、私の体から、力が急激に抜けていくのを感じた。
*****
目が覚めた頃にはもうとっくに、リザードンとサザンドラは、ダイケンキの手によって逃がされていたらしい。
タブンネの治療をまた受けたが、流石にその強い癒しの力を受けても一朝一夕で治るような傷ではなく、ベッドの上で寝たきりのまま。
気絶させられただけで傷なんてもともと無かったエレザードは、外に日光浴をしに行った。呑気な奴め。
眠気も全くない中、陽射しが入る窓を眺めながら、はぁ、と息を吐く。
結局、俺にとっては、迷惑を掛けられただけなんだよな、と思う。俺は殺されかけて、俺だけじゃなくて家族にとっても、あの鳥獣使いを長い間雇った事で金はかなり吹っ飛んで行ったし。でも、俺自身の事でさえ、どこか他人事で見ている自分が居る。こんな家業をしているからだろうか。
エンブオーに憎しみを籠った目をされようとも、殺されかけようとも、それを思い出す俺の心は、平静を保ったままだった。
きっと、俺はこれからもポカブを殺し続けるのだろう。感情を持たずに。
ポカブは殺され続けるのだろう。知らないままに。
俺は、完全に狂っているのだろうか? あのリザードンとサザンドラの言葉を聞けたならば、俺はダイケンキと同じ選択をしたのだろうか?
それは、どう足掻こうとも分からない事だ。人間には、獣の言葉は聞こえない。
獣の精微な感情を、人間は読み取る事が出来ない。
ドアが開く音がした。父が入って来た。
「今居るポカブ達、一気に殺しておくか。あの一件でやっぱり、少しざわつきが残ってる」
「……、俺もそうした方が良いと思う。エレザード、連れて行く?」
「ああ、今日は天気も良い。太陽の力も借りれば、放電で一気にやってしまえるだろうさ」
……ただ、聞けるようには、余りなりたくない。