「目と目が合ったらポケモンバトル」という暗黙のルールは、極めて強引な印象があり、例えポケモンが疲労してようとも、どんな急な用事があろうとも、そして、下痢による腹痛に苛まれていたとしても、戦いを拒むことは出来ないものだから、ネット住民は『ヤクザのやりくち』等と揶揄し、過保護な母親らはこぞってルール改正を訴えている。
だがしかしこのルールが消滅すればどうなるであろう。強い奴を避け弱い奴ばかり狙って戦いを挑み賞金を得る、卑怯なトレーナーを喜ばしかねない。この一見冷酷な仕来たりは、ある意味弱者に優しく平等かつ合理的なシステムであると言えるのだ。最も、全く問題が無いと言えるものでもない。
さて、ここにいる彼はそのような基本的な原則に則り、唯今からポケモンバトルをやる事となった訳である。
おトクな掲示板を目的なくぼんやり眺めていた彼は、数秒前、この辺りの草むらを歩いていたトレーナーと目が合った。だが、その人物は彼にとって些か不都合であった。
その男はバトルをやりたい気持ちを明らかに表に出しながらも、自分とは決して目線を合わせようとはしなかった。そいつは、実にワザとらしく、足元の草を揺らすように歩いていた。これは、向こうから目を合わせるように仕向けているのだろう。
けれども中々こっちを向いてくれない。だからそいつは、ボールから不意に『ロズレイド』を出し始めた。「戦う準備は万端です」と言いたげな感じを醸し出す。そこまでしますかと彼は呆れた。
こんな感じで、敵人からまず挙手させようとしてくるタイプは、非常に面倒なのである。さっさと自分の正面に立ってくれよと言いたくなる。
とてもじれったい。だがかと言って、自分の方から目を合わせようとするのも嫌であった。相手の思惑通りに動いて負けた気がするというのもあるが、それよりも、バトルで敗北した場合、目線を合わせなければ良かったと後悔するのが苦痛になると予想していた。「なんだ、戦う前から負けたときのことを考えておくのか。勝てば良い話じゃないか」と、嘲笑されそうであるが、勝ったら勝ったで、賞金として金を渡す羽目になった悲愴感漂う対戦相手を見て、少々後ろめたい気持ちになりそうなのが嫌であった。つまりどっちに転ぼうが嫌なのであった。
であるから出来ることなら、向こうから目を合わせて来て欲しいのである。そうすれば勝ったとしても、「お前が仕掛けてきたのが悪いんだろう」と精一杯の笑顔を心の中で浮かべることができる。別にそうでなくてもそこまで後ろめたい気持ちになる訳ではないが、出来得る限り最大限まで楽になりたいのである。
つまるところ、彼もあのトレーナーも、考えていることは凡そ同じことであった。
しかし、もう流石にじれったくなり過ぎた。とうとう彼はおトクな掲示板から目を逸し、草を揺らしまくるそいつの方を向いた。「あ、トレーナーさんだ。バトルお願いできる?」。ホッとした様子でそいつは言った。自分の存在にたった今気が付いたという振る舞いに少々イライラしながら、そんな気持ちは一ミリたりとも出さず、彼は笑って頷きながら「いいですよ」と返事をした。
バトルの相手は年齢が自分と同じか少し下程度の人であった。否、外見だけでは少々判別が厳しい。
旅をするトレーナーの中には年上だろうと年下だろうと、構わずタメ口を用いるような人もいる。それは横暴な振る舞いであるとも言えるし、むしろ理に叶っているとも言える。どうせ今日一日しか会わないような奴相手に、礼儀うんたらを気にするのはコストパフォーマンスが悪いのだ。
だがこの彼には、誰にでも構わずタメ口を用いるような勇気はなかった。であるので、相手が年下か同い年であると思っていても、必ず敬語を使うようにしているのであった。
まあ、そんなことは本来特筆すべきことではない。彼は余計なことを考え過ぎである。これからバトルをやる以上、大事なのは如何にしてこのトレーナーから勝利をもぎ取るかである。真のトレーナーならそこに、脳のリソースの全てを費やさねばならない。ポケモンバトルは常にポケモンバトル以外のことを考えている暇などないのだ。
彼はどのポケモンを出すか考え始めた。相手がバトルをさせるポケモンは十中八九ロズレイド。フェイクの可能性も無きにしもあらずだがそれを考えるとキリがないし、ただの野良試合でそこまではしないだろう。ロズレイドは草・毒タイプだから普通に考えれば有利なのは炎タイプだ。しかしボールから予め出してあるポケモンに有利なタイプを出すのも、なんだか気が引ける感じであった。ずるいって思われたらどうしようという心配があった。彼はまたしても余計なことを考え始めた。冷静に考えればそもそもあいつが下心ありでロズレイドを出した訳で、こっちが気を使うこともないのだが。一度気になると彼はどうも決断を渋ってしまうのだ。
「君、ずいぶん考え事長いね」
鞄に手を突っ込んだまま、どのポケモンの入ったボールを出そうか長考している彼にたいして、ついに対戦相手から突っ込みを入れられた。
見ると隣のロズレイドは、「早く決めろ」と言わんばかりに自慢の手に付いた花をこっちへ向けていた。
彼は結局、炎タイプは選ばなかった。彼は『ジャラランガ』を出すことにした。一応彼のエースであり、自信のあるポケモンである。
相性も別に悪くはない。ジャラランガは竜・格闘。相手の草タイプの技は効果今一つで、こっちの格闘タイプの技も同じく今一つだから、本当は五分五分なのだけれども、ロズレイドはなんとなく草がメインな印象があるから、それを半減させられるのは大きいような気がした。そもそも、ジャラランガは格闘タイプの技を覚えていないので、半減しようが全然関係ない。よって総合的に見て結構こっちが有利。しかし炎タイプ程圧倒的に有利って言う印象は受けない。以上の点から彼はジャラランガを選んだ。
ジャラランガが入ったボールを投げる。尻尾を振り回して光の粒子を掻き消しつつ、鳴き声を一つ上げてジャラランガは飛び出した。野良試合としては若干オーバーな飛び出し方だが、気合は入っていることは見て取れた。
この試合は残念ながら審判不在で行われようとしていた。バトルを始めようとすると、近くにいるトレーナーが空気を読んで「審判やりましょうか」って声を掛けてくれる場合が稀にあるが、今回はそういうことはなかった。
一応近くに若い女性のトレーナーがいた。彼は期待を込めてその人と目を合わせてみた。だか彼女はその瞬間、即スマホを取り出して画面を見始めた。完全に無視をされてしまった。もうちょっと睨み続けてみようかと思ったが、相手は女性であり、そっちの目的かと勘違いされる恐れがあった。「目と胸が合ったら法廷バトル」。そんな言葉も頭を過ぎったので、彼は彼女をじろじろ見るのは止めた。審判をやってもらうのは諦めた。仕方がない。誰もが審判なんぞやりたくないのは当たり前と言えば当たり前のことだ。賞金の一部を貰える訳でもないし、流れ弾が飛んでくるかもしれないから。
余りにもここまで長々とし過ぎた。お待たせして申し訳ない。いよいよ、である。ポケモンバトルの火蓋が切って落とされた。
一足早く動いたのはロズレイドの方だった。そのブーケポケモンはトレーナーが指示を出していないにも関わらず既に技の準備をしていた。憶測だが事前に初手は必ずこの技を放つと打ち合わせをしていたのだろう。
ロズレイドが今発射せんとしているのはエナジーボールという技だ。この技は自然から集めた命のエネルギーを球体にして発射するというもの。ロズレイドの両手の間には、緑と白色が混在した半透明な球体が形成されていた。その球体は周囲から活力を集め、除々に大きさと輝きを増していく。しかし先程述べた通り草タイプはジャラランガに効果が薄い。だから彼は少考して次のように指示を出した。
「避けずに突っ込んでドラゴンクロー!」
ダメージが小さいなら変に避けたりして別の攻撃を喰らうリスクの方が大きい。
ジャラランガは司令塔の発言通り、一直線にロズレイドへ接近した。ジャラランガの腕にエナジーボールが命中し、小爆発が起こる。弾け飛んだエナジーボールの欠片は、キラキラと輝きを放ちながら周囲の木や雑草の元へと帰っていった。
たいした威力ではないと高を括っていたが、ジャラランガは体をよろけさせていた。半減であるにも関わらずこのダメージ。あのロズレイドはこっちよりもレベルが高いことが明確になった。
痛みに耐えながらそれでもなんとかジャラランガは体制を崩さまいと必死に足を踏ん張っていた。なんとか耐えてくれと彼は祈っていた。ここで体制を崩すと攻撃を畳み掛けられる恐れがある。その畳み掛けで、早くも試合が終了してしまう可能性もある。
なんとか、ジャラランガは耐えきった。彼はホッとして胸を撫で下ろす。そして攻撃態勢を素早く整える。
ドラゴンクローはかなり安牌な技。それなりに高威力で当たりやすい。心理的に最初は無難な技で攻めたかった。いきなり大技や補助技を出すのは戦略的にはありなんだろうが、何と無く彼はそれを実行するのが億劫であった。大技や補助技は外れることが往々にして多い。実際に外す可能性が高いとかそういう話しでは無い。それらは何故か、大事な場面に限って敵から逸れていくものだから、イメージ的に命中率の低い技として彼の中で先入観が出来上がっていたのである。そして初っ端から自信のある技が外れると、テンションが著しく下がるのだ。
果たしてドラゴンクローはロズレイドに上手く命中した。ジャラランガの巨大な手に備わった鋭利な爪は、ロズレイドの体を容赦なく引き裂いた。千切れた花弁が何枚かひらひらと地面に落ちる。ロズレイドは軽く悲鳴を上げて一旦ジャラランガと距離を置いた。
「ロズレイド、宿り木のタネ」
ロズレイドは先程とは全く別の技を繰り出してきた。宿り木のタネは敵の体に木のタネを植えて、どういう原理か分からないが敵の体力を吸い取って自分のものにするという、補助技だ。
突如としてこの技を使うということは、真っ当な力戦では勝つのは難しいって思ったんだろうか。悪手だろうと彼は思った。持久戦に持ち込むなら最初からそうするべきである。
そんなことをついつい考えてしまっていたから、彼はジャラランガに命令するのが一瞬遅れた。ジャラランガはロズレイドの手から放たれた無数のタネを回避出来なかった。見事に食らってしまった。ジャラランガの固い鱗を覗いた体の至る部分から小さな芽が出ていた。これでじわじわと体力を削られる羽目になってしまう。苦しむジャラランガを見て心底申し訳ないと思ってしまっていた。
「ここは一気に決めるぞ。ソーラービームだ」
そして畳み掛けるかのようにロズレイドは技の準備を始めていた。ソーラービームという大技を放つつもりらしい。宿り木で持久戦に持ち込む作戦はどこへ行ったのか。先程のは悪手であったと気が付いたのだろうか。傍から見てツッコミどころ満載の指示を出してしまうのが、いかにも野良試合クオリティーだ。しかし誤りを直ちに認め直ぐ様方向転換する柔軟性は見習いたい所である。
行動がチグハグであるとは言え、この技を浴びれば下手したら負けてしまう。ソーラービームは威力が絶大であるが、代償として一定時間溜めが必要な技だ。
今のうちに攻撃してロズレイドを倒してしまうのが最良だろう。
彼はあの技を命令した。それは竜星群であった。この技は、ドラゴンタイプの中でも随筆の威力を誇るものである。ジャラランガが使える技で一番強いものと言うとZ技の存在もあって若干微妙な所なのだけれども、非常に強力な技であることは間違いない。という訳で、彼はこの技に勝負をかけた。
しかしこう言う大技は、大事な場面に限って不思議と当たりにくい。ポケモンが緊張して力んでしまっているからなのだろうか。図鑑やまとめサイトには竜星群は90%の確率で当たると書かれてはいるが、彼は全く信用していない。体感的にはもっともっと低いような気がしていた。
彼は、攻撃を外したときの未来を予め想像し、ある程度膨らませておいた。その時の空気感、そのときの感情、ロズレイドの反撃。それらをこの一瞬の間に隈なく想像した。そうすることで、外れた場合の精神的なダメージを軽減させようとしていた。保険の教科書に乗っていそうな類の自己防衛である。勿論外れることを期待しているのでは決してなく、ジャラランガを信じていない訳でもない。だが、心の隅から隅まで攻撃が絶対に当たると思い込んでしまうと、外れたときに過剰に落ち込む羽目になってしまう。外れたときに、「やっぱりか……」って心の中で呟けるような原材料を予め用意しておくために、外れたときの未来をなるべく鮮明に想像するのだ。決してそれは逃げではなく、さっさと立ち直り、次の目標へと向かうために必要なことなのである。
空中から無数の隕石がロズレイドに向かって降り注ぐ。紛い物の隕石ではあるが、決して発泡スチロールではない。直撃すれば只では済まない代物である。果たしてどうなる。結果は――。
「いやーお強いですね。参りました。完敗です」
何故か急に敬語になった相手は、そういう風に彼を褒めてきた。
彼はこのバトルで無事勝利することが出来た。やはりと言うべきか、バトルにおける緊張感はとても気持ちが良いものだ。何一つ余計なことを考えさせないでくれる。他人の感情や周りの様子を考えなくて済むのは本当に良い。目の前のバトルのことしか考えさせてくれない状況を勝手に作りだしてくれる。
……しかし、それはあくまでバトルの最中の話しである。バトルが終われば彼はまた、余計なことばかり考える羽目になってしまう。先程、賞金を貰うとき、彼は相手の顔を全く見ないように努めていた。
そろそろ、この男とは離れたい。そう思った矢先のことである。彼はこんな提案をされたのだ。それは悪魔の提案だった。
「よろしければ次の町まで一緒に行きませんか。後二十分ぐらいで着きますし」
嫌だ。
今日始めてお会いした人と、二十分もの間会話を続けていられる自信がない。どうでも良い人ならまだしも、バトルをしてそれなりには親しくなった人だと、「何か喋らないとまずい……」と思ってしまって、翻って喋れなくなってしまう。
何か嫌な予感はしていた。たまにだがこういう提案をしてくるトレーナーがいるのだ。
どうする。彼は激しく懊悩した。この提案は、実は非常に断りにくいものなのである。トレーナーであるならばポケモンの回復を第一に考えるべきなので、「ちょっと自分用事あるので……」という、サラリーマンが呑み会を断る際の常套手段がやり辛いのである。
ここで彼はあることを閃いた。通ってきた道のりに、育て屋が建っていたのを思い出した。
「すいません、自分近くの育て屋にポケモン預けていて、迎えに行かないといけないのです」
「そうでしたか。色々お話したいことあったのに残念です。それでは、自分はこれで」
もちろん、育て屋にポケモンなど預けていない。完全なる嘘である。
彼はトレーナーと別れると、見つからないよう木の後ろに隠れた。トレーナーが歩いて行くのを只管見つめている。やがて男の姿が完全に見えなくなった。彼は木の後ろから姿を現す。もう振り向いた所で、自分の姿は絶対に見えまい。安心して彼は町まで歩いていった。