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その日もハインツは、上空を厚い雲に覆われて光が全く届かない深夜の波止場を、長く続いている灯火管制により、すっかり闇に慣れてしまった夜間視力を頼りに、左足を引き摺って歩いていた。
既に季節は秋を周り、冬の気配が近付き始めている。……以前よりもはっきりと足を引き摺っているのは、日々冷たさを帯びていく外気に、金属片を包み込んだ膝の傷痕が反応し、痛みが増しているからに他ならない。
それでも彼は、目下の所そんな痛みを嘆くような素振りは、毛ほども見せてはいない。元より、冷気が膝の傷跡を抉るのは、一年前に分かっていた事だった。
現在の彼を苦しめているのは、そんな自分の肉体を襲う苦痛ではなく、自らの元に配属されている、ポケモン達を巡る問題についてであった。
――最近特に顕著になって来た、戦局の急速な悪化に伴い、配属下のポケモン達に対して、抽出を仄めかす様な通知や指示書が、頻りに舞い込むようになったのである。
主なものについては、『貴工廠に所属している陸生ポケモンの、西部戦線への抽出が可能かどうか』と言った類の問い合わせや、『工廠勤務の水生ポケモン達を、再び艦上勤務に付かせたい』と言う打電などであった。……それら全てが、彼に言わせれば実現不可能である事がはっきりしているにもかかわらず、各地の徴兵オブザーバー達の呼び掛けや要請は、全く引きも切らない。
カイリキーとワンリキーの兄弟は、重度の閉所恐怖症であった。……彼らでは、塹壕戦が全てとも言える西部戦線での軍役など、到底望むべくも無い。
ハッサムは背が低くて、他の自然個体よりずっと小柄な上に、耳が遠かった。……この問題を克服する為に、彼は監督として配属された当初から、アイコンタクトと手真似で最低限の意思疎通が図れるように、ずっと努力して来たのだ。
オーダイルとヌマクローに至っては、元々は大型主力艦艇に乗船・配属されていた、生え抜きの軍用携帯獣だったが……数年前の大海戦で、乗艦を集中射撃で撃沈されて以来、海に出る事自体がトラウマになっており、『使い物にならない』というレッテルを貼られて行き場を失っていた所を、彼が自ら引き取って、作業員としての訓練を積ませて来たのである。……それを今更、レッテルを貼った当の本人達が再び引っ張ろうとしているのだから、話にならない。
しかし一方で、心の底ではまた違った感情が――理屈抜きの思いが渦を巻くのを、どうしても押し止められなかったのも事実だった。
『失いたくは無い』――本当は、これが本音だったと言ってもいいだろう。
この一年ほどの間、とても短い期間ではあったが、それでも彼らはずっと苦楽を共にして、一緒に仕事に励んだ仲間達である。……主人でもない、ポッと出の見知らぬトレーナーである彼に対して心を開き、唯々諾々と指図に甘んじてくれた、掛け替えの無い仲間達なのだ。
ハインツはそれこそ臨時の現場監督に過ぎなかったが、それでも彼らの上に立つ者として―そしてまた、一人のポケモントレーナーとしても―自らの裁量下にあるポケモン達の身の上に対し、強い責任を感じるようになっていた。
――西部戦線(あそこ)は、正真正銘の地獄だった。
既に現場(そこ)を離れてから、二年以上が経過しているにも拘らず、ハインツは今でも度々、その光景を夢に見る。……夜中に汗びっしょりになって目覚めた時、彼は傍らで心配そうな表情を浮かべているロコンの心細げな鳴き声で、漸く我に帰るのだ。
一年が一日の如く推移する、塹壕戦の世界。変化に乏しく、死人ばかりが増え続けるあそこでは、全ての存在が消耗品だった。
そこには人もポケモンも無く、更には兵器と生き物の区別すら無い。当事国中からかき集められてきたそれらは、皆平等に戦力表上の数字としてのみ表され、ただ唯一『敵・味方』と言う色分けだけが、絶対的な拘束力を持って、場に集う全てのものをより分けていた。
言わば駒に過ぎなかった彼ら自身を、最も的確に言い表したのは、同じ部隊に居たトーマスと言う名の古参兵であった。
部隊に何度目かの攻撃命令が下ったその日、突撃の為に終結地点に移動している途中で、激しい戦闘の渦中で頭のおかしくなった負傷兵が、虚ろな目で淡々と泥団子を並べているのを目撃した時―― 一度思想問題で投獄された経験のあるその男は、離れた場所に居る士官達に聞こえないように、諦め切った口調で呟いた。
「あれが、俺達だ」
思わず視線を向けて来るハインツら同僚達に対し、彼は続けて、無作為に潰され始めた泥の塊の列をじっと見詰めつつ、尚も呟く。
「ただ砲弾の餌にされる為に集められて、前に追い立てられるだけの肉の塊だ。 ……人も獣も、砲門もタンクも関係ない。何もかも一緒くたに耕されて、泥土と一緒に混ぜこねられて行く」
全て潰された後、一塊に放置された泥団子を背中に、彼は皮肉に満ちた自嘲の笑みを浮かべると、吐き捨てるようにこう締め括った。
「所詮は消耗品さ。……だが同じ消耗品でも、ポケモンどもはちゃんと嫌がる。逃げようともするし、足を踏ん張って出撃命令を拒絶しようとするってのに、俺達はどうだ?
連中よりずっと頭が良くて、普段からトリだのブタだのと馬鹿にしてるクセに、命令とあらばこうやって、毎日無気力に歩き回ってる。 ……何の意気地もありゃしない。これじゃまさにブタ以下さ」
もし将校や下士官に聞かれたら、ただでは済まなかっただろう。……しかしそれ故に、敢えてそれを口にしたトーマスの言い分は、周囲の戦友達の奥底に、深く刻み込まれる事となる。
「とっととオサラバしたいってのにな」――最後にそう付け足した彼は、それでも結局、そこから出て行くことは出来なかった。
時を移さず参加した攻勢作戦に於いて、トーマスは顔面に敵の狙撃兵の弾丸を受け、泥濘に覆われた台地を朱(あけ)に染めて、悲鳴すら上げられずに息絶えた。飛び来る弾丸を避けてピッタリと地面に張り付いていたハインツには、倒れ込んだ彼に対してしてやれる事など何一つ無かった。
無論、トーマスだけではなかった。
その日一日の作戦期間だけでも、彼は両手の指に遥かに余るほどの、大勢の戦友を失っていた。
フランツもガイルも戦死した。 エドもマックスもオスターも、雨霰と降り注ぐ各種火砲に吹き飛ばされ、物言わぬままに土砂に埋もれた。
勇敢なエアハルト伍長も、ハインツと仲の良かった、ハーモニカの名手だったクルトも、見るも無惨な有様で倒れ、顧みられる事もなく命を落とした。
平坦な穴だらけの数百メートルを前進し、奪回するだけの作戦で、千人近い人間とほぼ同数のポケモン達が、飛来する砲弾と驟雨のような機関銃弾に切り裂かれ、目的を遂げる糸口すら掴めぬままに潰滅した。
同じ小隊で戦死した連中には、誰一人として三十を過ぎていた者はいなかった。 半数以上が故郷に妻や恋人を残し、そして更に全員が、国に家族を残して来ていた。
その日の夜、ハインツはボロボロになって退却して来た元の陣地に於いて、直属の大隊長が夜なべして手紙を書いている様を、同じく作戦から生き残ったグラエナと共に、歩哨に立った折に目撃する。
『私は此処に、痛心ながらもお知らせしなくてはなりません……』 ――幾通もの手紙に同じ文言を書き連ね続けていたその中佐は、後に自ら前線に出て指揮をとり、敵狙撃兵の戦果報告書を飾る事となった。
例え作戦行動が一切予定されてなくとも、日々の暮らしは安穏からは程遠かった。
また人間がそんな有様なのだから、ポケモン達の置かれている状態は更に過酷だった。
しかし無論、やられていたばかりでもなかった。
向かって来る敵方の兵も、基本的には皆、彼らが辿ったのと同じ運命に陥っていたし、首尾良く相手の陣地に突入出来た暁には、敵味方共に凶暴性を剥き出しにして、慌てる守備兵を悪鬼の如く狩り立てた。
ハインツ自身も、一旦攻撃が成功して白兵戦に持ち込めた時には、背を向けて二線陣地に逃げ込もうとする敵兵に対し、情け容赦はしなかった。
別の日に上げた功績とその戦い振りにより、ハインツは大隊本部から激賞されると共に、後に戦況に与えた影響の大きさを評価されて、勲章を受賞した事もある。……しかし既に、そんなものに対して名誉を感じるには、彼は余りにも多くのものを見過ぎていた。
そしてそれは、ハインツだけではなかった。同じ隊に所属していた殆ど全ての戦友が、戦功を賞する栄誉に対し、一様に冷めた感情を抱いていた。
――真に叙勲に値するのは、命運拙く戦いの渦中に斃れ、戦場の露と消えていった者達だけだった。……生者は『生き残った』と言う事実のみで十分であり、それ以外の何物をも、必要としてはいなかったのだから。
その日、懸命の手当ての甲斐も無く逝ってしまったコータスを陣地の片隅に埋葬し、かたわになったブーバーンを衛生兵に託した後、爆音も疎らになった塹壕の片隅で何とか生き残ったワカシャモと共に携行食を空けつつ、沈み行く夕日を見送っていたハインツは、陣地の元々の所有者達が遺していった様々な品物を前に、無常の思いを強くする。
陣営や所属は違えど、同じ兵隊。……そこに散らばる故人達の私物は、彼らが自分達の塹壕に大切に仕舞い込んでいるそれと、全く大差はなかった。
中でも記憶に残ったのは、土壁に刳り貫かれた狭い寝棚の一つに残っていた、一輪のスミレの花であった。
枕元に置かれたヘルメットの下に覗いている、そこだけ場違いな緑色の色彩に、興味を持ったハインツが重い鉄兜を取り除けた所に、それはあった。
書きかけと見られる手紙の傍らに置かれたそれは、押し花にしようと試みていたらしい持ち主の意向に反して未だに青々しく、今日の戦闘が始まる前に手折られたであろう事は、疑いようが無かった。
――今日の戦闘開始時刻は、早朝7時。 準備砲撃は6時頃から開始されたとは言え、そこから今のこの時点まででも、せいぜい半日程度に過ぎない。
ホンの数年前までは、仕事の為に家を出てから、帰宅の途に付く程度の時間。 一輪の花が萎れ切るにも足りないその間に、此処では数百のポケモン達が骸を晒し、数千に余る人間が死んだのである。
書きかけの手紙の隣には、持ち主と見られる青年と、手紙の宛先であろう若い女性が写った、一枚のスナップ写真。 ……ただ枯れ行くだけであろう小さな紫の花弁共々、この手紙や書き手が彼女の元へと届く事は、もう二度とない。
……言葉も無く文面を見つめるハインツには、その内容が理解出来ない事だけが、唯一の救いだった。
どんどん深く、陰鬱な沼の底へと嵌り込んで行くそんな彼を引き戻したのは、傍らに控えていたワカシャモの、囁きかけるような鳴き声だった。
戦いの際に上げる、耳を劈(つんざ)く様な金切り声とは似ても似つかない、か細く控えめな呼び掛け。思わず振り返ったハインツの顔を、彼は透き通ったオレンジ色の瞳で、真っ直ぐに見詰め返して来た。
――命懸けの毎日が続く中、厳しい環境と情け容赦の無いストレスに晒される兵隊達の中には、自らの心を意図的に閉ざしてしまう者も、少なくは無かった。
彼らは現状を客観的に受け止める事を避け、必要最小限のものにしか心を動かさず、本能と欲求の赴くままに、飾る事も無く振舞う。攻撃命令が来れば黙々と動き、戦友の亡骸を見ても眉一つ動かさず、奪取した塹壕で見かけた敵兵の家族写真を踏み躙って、遺体から金目のものを剥ぎ取った。
無表情のまま、顔色一つ変えずに戦い続けるそんな彼らを、死んだトーマスは自らへの皮肉も込めて、『娼婦』と呼んだ。
「あいつらだって、国に帰れば『お父さん』だ」
敵の死体から腕時計を剥ぎ取る男を眺めつつ、彼は言った。
「体を売って生活してる盛り場の女が、家じゃ母親なのと同じ様にな。 ……好きもへったくれも無くこんな所に来て、毎日胸糞悪く殺し合ってる。国じゃあ定めし良き夫であり父親であっても、ここではただのケダモノさ」
ヘルメットに手を伸ばした彼は、防水カバーの上に巻いたバンドに挟み付けられた小さな箱から、ひしゃげたタバコを引っ張り出して火をつける。
「それで休暇で家に帰った日には、昔の自分を思い出せずに、家族の前でひたすら悩む。戸を開ける音にもびくびくし、夜風の音にも怯えた挙句、夜中に静かに眠ってられず汗びっしょりで飛び起きて、一緒に寝ているかみさんや子供を叩き起こす――」
トーマスの言葉は、決して誇張では無い。……事実、ハインツ自身にしてもそうだった。
その日一日にしろそれ以前の事にしろ、最早回数を思い出すのも不可能なほどに引き金を引き、人やポケモンを殺してきたにも拘らず、明確な理由をその中に見出せる事など、一度として無いと言い切って良かった。
確かに、撃たなければ殺された。襲われれば迎え撃った。殺らなければ仲間が殺られた。……しかし実の所は、そのどれもが、別に確たる理由になっている訳ではなかった。
本当の所、彼は殆ど無意識の内に、相手に銃口を向けていた。……単純に、対象が『敵』である――ただ、それだけの理由で。
構えた銃口の向こう側に見える者が敵ならば、それは最早標的以外の何者でもなく、早急に片付けるべき異物に過ぎない。『敵である』と認識する事それ自体が、以下に呆気なく対象を単なる『標的』に変えるのかを初めて自覚した時、ハインツは自らの冷淡さに対して、身の毛が弥立つほどの衝撃を覚えたものだった。
そう……此処で彼らが従っていたのは、最早理屈や義務感などではない。戦場に赴かせ、其処に踏み止まらせるものこそ大義であったが、実際に彼らを戦わせるのは、もっとずっと単純なもの――体の奥底から湧き上がってくる、言いようの無い不気味な衝動こそが全てだった。
そこにいるのは、家族の盾になるべく立ちはだかる戦士でもなければ、身を以って国を守ろうとする愛国者でも、戦友達の為に義務を果たす兵士でもない。……ただ相手を傷つける事の出来る武器を携え、その使い方に習熟した、危険なケダモノが存在しているばかりであった。
十年一日の進捗の無い塹壕戦と、時折訪れる、驚異的な死傷率の攻勢作戦。
理性と感情の気違いじみた満ち干の中、前線に張り付けられた兵隊達の殆どは、大なり小なりその場を支配する狂気に取り付かれ、平和な時代には決して表には出さなかったであろう、凶暴な本能を剥き出しにしていた。
嘗て生活していた世界は、最早別の惑星での事であったのかと思えるほどに遠く、不意に前線から故郷に舞い戻った男達は、昔の面影を捜し求める家族の前で、初めて自分の変遷を目の当たりにし、呆然として為す術を知らない。
束の間の休暇を終え、再び前線に戻って来た彼らは、その思い出を大切にしながらも尚一層孤独感を深めて行き、やがて更に無機質な感情の下に、『敵』に対して牙を剥くようになる。
『正気ではいられない』―― それこそが、彼ら前線の兵(フロント)に課せられた日常的な定めであり、また狂気に満ちた現実から己の自我を護る、最良の逃避でもあった。
後方から急遽補充されて来た新兵達も、経験を積む前に大半が殺されるのが常ではあったにせよ、生き残った者達は迅速に古参兵からやり方を学び取って、怯えと戸惑いに溢れた初々しい瞳を、『死体を見慣れた目』へと変えて行く。
――最前線(ここ)に生きている限り、嘗て平和な時代に生活していた時の感性で日々を送るのは、あまりにも負担が大き過ぎたからだ。
しかし、唯一つだけ――前線に貼り付けられた数々の兵種・兵科の中、下っ端の兵卒に至るまで、そう言った逃避や自閉が、許されない連中が居た。
……それが彼ら、ポケモントレーナーである。
トレーナーは何時どんな時でも、ポケモン達と正面から接している必要があった。
何故なら、彼らが率いている形状も性質も様々な生き物達は、基本的に皆、戦場で戦う理由とその意義を、主人である人間達と共有する事が出来なかったからだ。
人が持つ、国家や国土への誇り。生まれ故郷たる美しい祖国への帰属意識や、仲間と共にそれを護ると言う誓いに対して齎される奮い立つような高揚感も、野生で生き抜く事に特化した彼ら獣達には、全く無縁の事柄であった。
『己が生命を賭してでも、守り抜くに値する――』 そう言った考えをろくに持てない彼らを、過酷な戦場の空気に耐えさせる為には、それに値するものを、意図的に用意してやらねばならなかった。
『親』である飼い主から離れ、前線に送られて来たポケモン達。拠り所を失って、精神的に不安定になっている彼らに寄り添い、新しい親としての立場を確立するのが、彼らトレーナー兵の最初の仕事であった。
独力で主人の下に帰ろうにも、国や周囲の圧力が元で、その主人自身から別れを告げられ、送り出されて来た彼ら――その彼らの心の空白にアクセスして、命を賭けるに足るだけの信頼関係を築くのが、徴用されたポケモン達を兵力として運用する、最も確実な方法なのである。
力による強制的な動員は獣達の反抗を招き、過度な抑圧は彼らに残された最後の理性を狂わせて、思慮も見境も無い集団脱走へと駆り立てる。……こうしたポケモン達は、戦力としてマイナスになるのみならず、下手をすれば進撃して来た敵方のトレーナーに懐柔されて、最悪敵方の戦力に組み込まれてしまう恐れすらあった。
古くからある拘束具や服従を強要する器具が、近代戦に於いて滅多に用いられないのも、これが原因である。また、もし味方であったポケモン達が敵方へと寝返った場合、そこから流出する情報は、しばしば決定的な形で、戦局を左右させる事となった。
諜報関係を担う者達は、両陣営とも高い知性を持つエスパーポケモンを駆使して、確保した相手方のポケモンから、敵陣営の情報を探り出そうとする。 戦争の形態が変化し、情報戦の成果が戦況の変化に直結する様になって行くに従って、必然的に末端に位置する捨石の獣達も、管理体制の内にがっちりと組み込まれるようになっていった。
けれどもそうした体制は、必然的に管理者であるトレーナーとポケモン達との距離を、急速に縮める事ともなったのだ。
拠り所を失ったポケモン達は本能的に管理者達に服従し、常に命の危険に晒され続けるトレーナー側は、自らの命綱ともなり得るポケモン達に、課せられている責務以上の情を掛ける事を惜しまない。
元より明日をも知れぬ運命を背負った人間とポケモンは、異常な環境下で生き残るべく力を合わせる内に、娑婆の世界では到底考えられないほどの短期間で、言葉には出来ぬ深い絆で結ばれていく。……良きパートナーと巡り会えたポケモン達は、命の危険も顧みず進んで戦闘に加わり、彼らと正面から向き合う事を強要されるトレーナー達は、日々の暮らしの中で交わされる素朴な心の交流によって、逆説的に自らの正気と自我とを保った。
翼に保持している缶詰に口を付けようともせず、自らを心配そうに見つめて来る暖色の闘鶏に対し、ハインツはそっと手を伸ばすと、土埃で薄っすらと汚れているその背中を払ってやりながら、寂しげながらも微笑んで見せた。尚も視線を外そうとしない相手に向け、食事を再開するように促してから、彼は自らもまたゆっくりと、手に持ったスプーンを使い始める。
漸く食べる事に意識を戻した若鶏の瞳は、同じ場に集う人間達のそれとは違い、未だに光を失ってはいない。……己の焼き焦がした屍の臭いを嗅ぎ、羽毛や蹴爪を鮮血で汚しても、大義の意味すら弁えぬ彼らは、決して現実から目を背けなかった。
缶詰に嘴を突っ込む、言葉無き戦友の傍ら、ハインツはもう一度込み上げて来た思いを振り払うと、新たに生まれた苦悩と迷いとを、静かに闇の底へと押し沈めた。
明日も明後日も戦いは続く。……どの様な結末が訪れようとも、直向きに生きる彼らの重荷になる事だけは、絶対にあってはならない――それだけは確かだった。
長く取り留めも無い回想を終えたハインツの足は、何時しか港の外れに差し掛かったまま、そこでピタリと歩むことを忘れて立ち尽くしていた。
――あれから幾許もなくして彼は南部戦線へと転属となり、共に戦った戦友達とも、二度と会う事は無かった。かの会戦はその後も規模を拡大し続けた後勝敗も定かではないまま終息し、敵味方両陣営の死者・行方不明者は、最終的に三十万人を越えたと言う。
あの時のワカシャモについても、当然その消息は不明のままだった。……負傷者も含めれば百万人を越えたとすら噂されているその損害の中に、ポケモンの損耗は一切含まれていない。
共に意思を持って戦っている存在であるとは言え、所詮彼らの扱いは砲門や車両、航空機のそれに近い。即ち、撃破した数は『戦果』として大々的に報じられるが、自軍の側の損失については、人間の犠牲者とは違って明確にカウントされ、報じられる事は無いのである。
……元々、人間自体が消費される『資源』として認識される世界に於いて、更にその下で捨て駒として戦っている彼らに、一々心を砕く必要があろう筈も無い。
そこまで心の内が推移したところで、ハインツは苛立たしげに首を振ると、大きな溜息を吐いて踵を返した。
鬱屈した気持ちを引きずって家に帰ったところで、気が晴れるとは思えない。……住居とは反対の方角に進路をとり、町の中心に向けて歩む彼の心は、たった一匹の同居人の元へと帰り着く前に、何らかの捌け口を見出す事を求めていた。
――こう言う時は、一杯やるに越した事は無い。影すら映らぬ冷たく暗い石畳の上に、乾いた靴音を残しつつ、胸に蟠りを抱いた元兵士は、ひたすら目標に向け行軍し続けた。
※こちらは原文です。 ……過激な描写や出血表現が用いられる可能性がある為、中学生未満の方や残酷表現に敏感な方は、ご覧になることを見合わせ下さいますよう、予めお願い致し置きます――
その日もハインツは、上空を厚い雲に覆われて光が全く届かない深夜の波止場を、長く続いている灯火管制により、すっかり闇に慣れてしまった夜間視力を頼りに、左足を引き摺って歩いていた。
既に季節は秋を周り、冬の気配が近付き始めている。……以前よりもはっきりと足を引き摺っているのは、日々冷たさを帯びていく外気に、金属片を包み込んだ膝の傷痕が反応し、痛みが増しているからに他ならない。
それでも彼は、目下の所そんな痛みを嘆くような素振りは、毛ほども見せてはいない。元より、冷気が膝の傷跡を抉るのは、一年前に分かっていた事だった。
現在の彼を苦しめているのは、そんな自分の肉体を襲う苦痛ではなく、自らの元に配属されている、ポケモン達を巡る問題についてであった。
――最近特に顕著になって来た、戦局の急速な悪化に伴い、配属下のポケモン達に対して、抽出を仄めかす様な通知や指示書が、頻りに舞い込むようになったのである。
主なものについては、『貴工廠に所属している陸生ポケモンの、西部戦線への抽出が可能かどうか』と言った類の問い合わせや、『工廠勤務の水生ポケモン達を、再び艦上勤務に付かせたい』と言う打電などであった。……それら全てが、彼に言わせれば実現不可能である事がはっきりしているにもかかわらず、各地の徴兵オブザーバー達の呼び掛けや要請は、全く引きも切らない。
カイリキーとワンリキーの兄弟は、重度の閉所恐怖症であった。……彼らでは、塹壕戦が全てとも言える西部戦線での軍役など、到底望むべくも無い。
ハッサムは背が低くて、他の自然個体よりずっと小柄な上に、耳が遠かった。……この問題を克服する為に、彼は監督として配属された当初から、アイコンタクトと手真似で最低限の意思疎通が図れるように、ずっと努力して来たのだ。
オーダイルとヌマクローに至っては、元々は大型主力艦艇に乗船・配属されていた、生え抜きの軍用携帯獣だったが……数年前の大海戦で、乗艦を集中射撃で撃沈されて以来、海に出る事自体がトラウマになっており、『使い物にならない』というレッテルを貼られて行き場を失っていた所を、彼が自ら引き取って、作業員としての訓練を積ませて来たのである。……それを今更、レッテルを貼った当の本人達が再び引っ張ろうとしているのだから、話にならない。
しかし一方で、心の底ではまた違った感情が――理屈抜きの思いが渦を巻くのを、どうしても押し止められなかったのも事実だった。
『失いたくは無い』――本当は、これが本音だったと言ってもいいだろう。
この一年ほどの間、とても短い期間ではあったが、それでも彼らはずっと苦楽を共にして、一緒に仕事に励んだ仲間達である。……主人でもない、ポッと出の見知らぬトレーナーである彼に対して心を開き、唯々諾々と指図に甘んじてくれた、掛け替えの無い仲間達なのだ。
ハインツはそれこそ臨時の現場監督に過ぎなかったが、それでも彼らの上に立つ者として―そしてまた、一人のポケモントレーナーとしても―自らの裁量下にあるポケモン達の身の上に対し、強い責任を感じるようになっていた。
――西部戦線(あそこ)は、正真正銘の地獄だった。
既に現場(そこ)を離れてから、二年以上が経過しているにも拘らず、ハインツは今でも度々、その光景を夢に見る。……夜中に汗びっしょりになって目覚めた時、彼は傍らで心配そうな表情を浮かべているロコンの心細げな鳴き声で、漸く我に帰るのだ。
一年が一日の如く推移する、塹壕戦の世界。変化に乏しく、死人ばかりが増え続けるあそこでは、全ての存在が消耗品だった。
そこには人もポケモンも無く、更には兵器と生き物の区別すら無い。当事国中からかき集められてきたそれらは、皆平等に戦力表上の数字としてのみ表され、ただ唯一『敵・味方』と言う色分けだけが、絶対的な拘束力を持って、場に集う全てのものをより分けていた。
言わば駒に過ぎなかった彼ら自身を、最も的確に言い表したのは、同じ部隊に居たトーマスと言う名の古参兵であった。
部隊に何度目かの攻撃命令が下ったその日、突撃の為に終結地点に移動している途中で、激しい戦闘の渦中で頭のおかしくなった負傷兵が、虚ろな目で淡々と泥団子を並べているのを目撃した時―― 一度思想問題で投獄された経験のあるその男は、離れた場所に居る士官達に聞こえないように、諦め切った口調で呟いた。
「あれが、俺達だ」
思わず視線を向けて来るハインツら同僚達に対し、彼は続けて、無作為に潰され始めた泥の塊の列をじっと見詰めつつ、尚も呟く。
「ただ砲弾の餌にされる為に集められて、前に追い立てられるだけの肉の塊だ。 ……人も獣も、砲門もタンクも関係ない。何もかも一緒くたに耕されて、泥土と一緒に混ぜこねられて行く」
全て潰された後、一塊に放置された泥団子を背中に、彼は皮肉に満ちた自嘲の笑みを浮かべると、吐き捨てるようにこう締め括った。
「所詮は消耗品さ。……だが同じ消耗品でも、ポケモンどもはちゃんと嫌がる。逃げようともするし、足を踏ん張って出撃命令を拒絶しようとするってのに、俺達はどうだ?
連中よりずっと頭が良くて、普段からトリだのブタだのと馬鹿にしてるクセに、命令とあらばこうやって、毎日無気力に歩き回ってる。 ……何の意気地もありゃしない。これじゃまさにブタ以下さ」
もし将校や下士官に聞かれたら、ただでは済まなかっただろう。……しかしそれ故に、敢えてそれを口にしたトーマスの言い分は、周囲の戦友達の奥底に、深く刻み込まれる事となる。
「とっととオサラバしたいってのにな」――最後にそう付け足した彼は、それでも結局、そこから出て行くことは出来なかった。
時を移さず参加した攻勢作戦に於いて、トーマスは顔面に敵の狙撃兵の弾丸を受け、泥濘に覆われた台地を朱(あけ)に染めて、悲鳴すら上げられずに息絶えた。 ……目鼻の区別も付かぬほどに破壊されたその顔面から、牛乳瓶を逆さにした時のような音を立てて鮮血が噴き出す中、飛び来る弾丸を避けてピッタリと地面に張り付いていたハインツには、彼に対してしてやれる事など何一つ無かった。
無論、トーマスだけではなかった。
その日一日の作戦期間だけでも、彼は両手の指に遥かに余るほどの、大勢の戦友を失っていた。
フランツもガイルも戦死した。 エドもマックスもオスターも、雨霰と降り注ぐ各種火砲に吹き飛ばされ、物言わぬままに土砂に埋もれた。
勇敢なエアハルト伍長は、顔面を掠めた砲弾の真空圧により両の眼球を吸い出され、無惨な有様で事切れたし、ハインツと仲の良かった、ハーモニカの名手だったクルトも、対携帯獣用の弾丸を腹部に受け、真っ二つに裂け飛ばされて死んだ。
平坦な穴だらけの数百メートルを前進し、奪回するだけの作戦で、千人近い人間とほぼ同数のポケモン達が、飛来する砲弾と驟雨のような機関銃弾に切り裂かれ、目的を遂げる糸口すら掴めぬままに潰滅した。
同じ小隊で戦死した連中には、誰一人として三十を過ぎていた者はいなかった。 半数以上が故郷に妻や恋人を残し、そして更に全員が、国に家族を残して来ていた。
その日の夜、ハインツはボロボロになって退却して来た元の陣地に於いて、直属の大隊長が夜なべして手紙を書いている様を、同じく作戦から生き残ったグラエナと共に、歩哨に立った折に目撃する。
『私は此処に、痛心ながらもお知らせしなくてはなりません……』 ――幾通もの手紙に同じ文言を書き連ね続けていたその中佐は、後に自ら前線に出て指揮をとり、敵狙撃兵の戦果報告書を飾る事となった。
例え作戦行動が一切予定されてなくとも、日々の暮らしは安穏からは程遠かった。
前触れも無く降り出す雨は、身を休める土壁の要塞を瞬く間に排水溝に変え、砲弾によって耕された前線より流れ込んできた水からは、腐敗した生ゴミの臭いが漂う。
汚水に踝まで浸かって生活する彼らは、始終『塹壕足炎』に悩まされ、捨て場の殆ど無い排泄物によって汚染された食品は、伝染病の流行に一役買う。
そんな折でも砲弾が降り注ぎ始めれば、溜まった泥水を掻き抱くようにして身を縮め、直撃弾によって負傷した者達の金切り声を、粘り付く硝煙の臭いの中に聞かねばならない。 しかしそんな避難場所も、時折集団で襲ってくる飛行ポケモンの群れに対しては、それ程役には立たなかった。
夜が来れば侵入して来る敵兵の影に怯え、朝が来れば強張った体を解しつつ用を足し、その際唯一得られる微温湯を使って、泥と油に塗れた両手を濯ぐ。
衛生状態の悪化から虱は体中に湧き、圧迫感と閉塞感に耐え切れず、心身に異常を来たして壕を飛び出した者は、瞬く間に狙撃兵の餌食となった。
人間がそんな有様なのだから、ポケモン達の置かれている状態は更に過酷だった。
糧秣は常に乏しく、地を駆ける者も空を羽ばたく者も、行動の自由は一切許されず、狭い穴倉の中でひたすら待機させられる。
聴覚の優れた者は、絶えざる爆音に脅かされ、嗅覚の発達した者は、常に漂う悪臭に苛まれ続ける。 繊細な者は心身を喪失させ、穏便な者は荒じ果てた環境にノイローゼを誘発させられたが、指揮統制は厳格を極め、命に反したり恐慌状態に陥った獣達は、多くの場合その場で処分された。
戦闘ともなれば真っ先に前面に立たされるが、優れた耐久力や強靭な生命力も、進化を続けた兵器の破壊力の前には既に抗するべくもなく、また高い能力や強力な特性を兼ね備えた者に関しては、重要オブジェクトとしてあっという間に攻撃が集中する。 開戦当初は主力を努めた大型ポケモンや、特殊能力に優れた人型のポケモン達も、最優先目標として徹底的に狙い撃たれるに及び、程なくして戦場から姿を消していった。
例えそうでない者も、人とは違い輸血や鎮痛剤の投与等の緊急救命処置は受けられず、また帯電していたり、体温が非常に高い種族に至っては、手当てそのものが困難な為、応急処置を放棄される場合が殆どであった。
しかし無論、やられていたばかりでもなかった。
向かって来る敵方の兵も、基本的には皆、彼らが辿ったのと同じ運命に陥っていたし、首尾良く相手の陣地に突入出来た暁には、敵味方共に凶暴性を剥き出しにして、慌てる守備兵を悪鬼の如く狩り立てた。
ハインツ自身も、一旦攻撃が成功して白兵戦に持ち込めた時には、背を向けて二線陣地に逃げ込もうとする敵兵に対し、情け容赦はしなかった。
あの悪夢のような一日から、まだ日も浅かったその日―― 一方的に撃たれ続けて憤怒の塊となっていた彼は、燃え盛る敵愾心に導かれるまま敵方の交通壕に侵入し、共に罵声を上げて飛び込んで来た戦友達共々、つい先程まで集中砲火を浴びせて来ていた敵方の兵士を、情け容赦の無い白兵戦で一掃した。
目の前に飛び下りて来た味方の兵士に向け、反射的に銃弾を浴びせた敵方の下士官を、胸部への一発で無造作に撃ち殺すと、その後ろにいて戸惑ったように突っ掛かって来た若い兵士を、銃剣で貫いて蹴り倒す。 作業用の蛮刀を振るう別の兵士が、背を向けて逃げようとする狙撃兵の肩口に得物を一閃させると、皮肉を断たれて転がる男の口から、この世のものとは思えぬほどの高音が発せられた。
一時駆けつけて来た敵方のシュバルゴによって追撃は停滞したものの、新たに戦列に加わったブーバーンが一撃で甲冑虫を焼き尽くすと、無事にハインツ達の小隊は、その陣地を乗っ取る事に成功する。
続いて彼は、蛸壺(個人用掩蔽壕)一つ一つに手榴弾を投げ込んでいく僚友達とは別に、小隊で生き残っていたただ一人のトレーナーとして攻勢支援の命令を受け、ブーバーンにワカシャモ、それにコータスと言った三匹の炎ポケモン達を率い、未だに抵抗を続けている防衛線の中枢部に対する攻撃に加わって、強固なコンクリート陣地を『火炎放射』で焼き討ちし、陥落させた。
孤立していたトーチカからの反撃は熾烈を極め、彼らが到着した時には、既に味方の兵は攻撃を中断して膠着状態に陥っており、強固なコンクリートの掩蔽壕の周りには、大勢の兵士やポケモン達が撃ち倒されて転がっていて、死体に混じって蠢く負傷者達はそこかしこで苦悶し喘ぎ、喚き散らしていた。
前面に現れた炎ポケモン達の姿に気が付くと、それを目にした敵方の兵士達は恐怖に慄き、新たに戦列に加わったハインツらの一隊に対し、ありったけの射線を集中して来る。
先ず盾になろうとしたコータスが、あっという間に対携帯獣弾で甲羅を割られて重傷を負い、悲痛な鳴き声と共に倒れ伏す。体内で燃え盛る高温のエネルギーが溢れ出し、周囲に凄まじい蒸気が立ち昇る中、余りの熱気に近寄る事も出来ず、止む無く手当てもなされぬままに放置されている石炭ポケモンの向こう側では、胸を撃たれた若い兵士が、魂を抜かれたような虚ろな声で、ひたすら「何で? 何で……?」と繰り返していた。
続いて更に、周囲から続々と飛来する飛行ポケモン達の襲撃によって、息も絶え絶えの炎亀を何とか回収しようとしていたブーバーンが、奮戦空しく片腕を失い、血飛沫を風に流して昏倒する。それと同時に、再びターゲットを変えた敵陣地からの一弾が、ハインツの背後で送話器を片手に、味方砲兵陣地に対して煙幕射撃を要請している、将校の額を貫いた。大尉の階級章を身に付け、手に持った機械に向け喚き散らしていたその男は、瞬間声を失ったままレシーバーを取り落とすと、空いた片手で傷口を押さえ、「ああ、母さん……」と呟いた後絶命する。
最後にただ一匹だけ残ったワカシャモが、何とかハインツの援護射撃の下に『エアスラッシュ』を掻い潜り、中央のトーチカに直接猛火を注ぎ込んだ所で、漸く大勢が決した。……全身火達磨となり、絶叫と共に銃眼から転がり出てくる味方の最期に恐慌を来たした守備兵は、やがて抵抗を停止すると白旗を掲げ、その日の反攻作戦は、成功裡の内に幕を閉じる。
その日の功績により、ハインツは大隊本部から激賞されると共に、後に戦況に与えた影響の大きさを評価されて、鉄十字勲章を受賞した。……しかし既に、そんなものに対して名誉を感じるには、彼は余りにも多くのものを見過ぎていた。
ハインツだけではなかった。 同じ隊に所属していた殆ど全ての戦友が、戦功を賞する栄誉に対し、一様に冷めた感情を抱いていた。
――真に叙勲に値するのは、命運拙く戦いの渦中に斃れ、戦場の露と消えていった者達だけだった。……生者は『生き残った』と言う事実のみで十分であり、それ以外の何物をも、必要としてはいなかったのだから。
懸命の手当ての甲斐も無く逝ってしまったコータスを陣地の片隅に埋葬し、かたわになったブーバーンを衛生兵に託した後、爆音も疎らになった塹壕の片隅でワカシャモと共に携行食を空けつつ、沈み行く夕日を見送っていたハインツは、陣地の元々の所有者達が遺していった様々な品物を前に、無常の思いを強くする。
陣営や所属は違えど、同じ兵隊。……そこに散らばる故人達の私物は、彼らが自分達の塹壕に大切に仕舞い込んでいるそれと、全く大差はなかった。
中でも記憶に残ったのは、土壁に刳り貫かれた狭い寝棚の一つに残っていた、一輪のスミレの花であった。
枕元に置かれたヘルメットの下に覗いている、そこだけ場違いな緑色の色彩に、興味を持ったハインツが重い鉄兜を取り除けた所に、それはあった。
書きかけと見られる手紙の傍らに置かれたそれは、押し花にしようと試みていたらしい持ち主の意向に反して未だに青々しく、今日の戦闘が始まる前に手折られたであろう事は、疑いようが無かった。
――今日の戦闘開始時刻は、早朝7時。 準備砲撃は6時頃から開始されたとは言え、そこから今のこの時点まででも、せいぜい半日程度に過ぎない。
ホンの数年前までは、仕事の為に家を出てから、帰宅の途に付く程度の時間。 一輪の花が萎れ切るにも足りないその間に、此処では数百のポケモン達が骸を晒し、数千に余る人間が死んだのである。
書きかけの手紙の隣には、持ち主と見られる青年と、手紙の宛先であろう若い女性が写った、一枚のスナップ写真。 ……ただ枯れ行くだけであろう小さな紫の花弁共々、この手紙や書き手が彼女の元へと届く事は、もう二度とない。
言葉も無く文面を見つめるハインツには、その内容が理解出来ない事だけが、唯一の救いだった。
どんどん深く、陰鬱な沼の底へと嵌り込んで行くそんな彼を引き戻したのは、傍らに控えていたワカシャモの、囁きかけるような鳴き声だった。
戦いの際に上げる、耳を劈(つんざ)く様な金切り声とは似ても似つかない、か細く控えめな呼び掛け。思わず振り返ったハインツの顔を、彼は透き通ったオレンジ色の瞳で、真っ直ぐに見詰め返して来た。
――命懸けの毎日が続く中、厳しい環境と情け容赦の無いストレスに晒される兵隊達の中には、自らの心を意図的に閉ざしてしまう者も、少なくは無かった。
彼らは現状を客観的に受け止める事を避け、必要最小限のものにしか心を動かさず、本能と欲求の赴くままに、飾る事も無く振舞う。攻撃命令が来れば黙々と動き、戦友の亡骸を見ても眉一つ動かさず、奪取した塹壕で見かけた敵兵の家族写真を血溜りに投げ込んで、転がっている死体から金歯さえ抜き取った。
無表情のまま、顔色一つ変えずに戦い続けるそんな彼らを、死んだトーマスは自らへの皮肉も込めて、『娼婦』と呼んだ。
「あいつらだって、国に帰れば『お父さん』だ」
敵の死体を蹴り転がし、腕時計を剥ぎ取る男を眺めつつ、彼は言った。
「体を売って生活してる盛り場の女が、家じゃ母親なのと同じ様にな。 ……好きもへったくれも無くこんな所に来て、毎日胸糞悪く殺し合ってる。国じゃあ定めし良き夫であり父親であっても、ここではただのケダモノさ」
ヘルメットに手を伸ばした彼は、防水カバーの上に巻いたバンドに挟み付けられた小さな箱から、ひしゃげたタバコを引っ張り出して火をつける。
「それで休暇で家に帰った日には、昔の自分を思い出せずに、家族の前でひたすら悩む。戸を開ける音にもびくびくし、夜風の音にも怯えた挙句、夜中に静かに眠ってられず汗びっしょりで飛び起きて、一緒に寝ているかみさんや子供を叩き起こす――」
トーマスの言葉は、決して誇張では無い。……事実、ハインツ自身にしてもそうだった。
その日一日にしろそれ以前の事にしろ、最早回数を思い出すのも不可能なほどに引き金を引き、人やポケモンを殺してきたにも拘らず、明確な理由をその中に見出せる事など、一度として無いと言い切って良かった。
確かに、撃たなければ殺された。襲われれば迎え撃った。殺らなければ仲間が殺られた。……しかし実の所は、そのどれもが、別に確たる理由になっている訳ではなかった。
本当の所、彼は殆ど無意識の内に、相手に銃口を向けていた。……単純に、対象が『敵』である――ただ、それだけの理由で。
構えた銃口の向こう側に見える者が敵ならば、それは最早標的以外の何者でもなく、早急に片付けるべき異物に過ぎない。『敵である』と認識する事それ自体が、以下に呆気なく対象を単なる『標的』に変えるのかを初めて自覚した時、ハインツは自らの冷淡さに対して、身の毛が弥立つほどの衝撃を覚えたものだった。
そう……此処で彼らが従っていたのは、最早理屈や義務感などではない。戦場に赴かせ、其処に踏み止まらせるものこそ大義であったが、実際に彼らを戦わせるのは、もっとずっと単純なもの――体の奥底から湧き上がってくる、言いようの無い不気味な衝動こそが全てだった。
そこにいるのは、家族の盾になるべく立ちはだかる戦士でもなければ、身を以って国を守ろうとする愛国者でも、戦友達の為に義務を果たす兵士でもない。……ただ相手を傷つける事の出来る武器を携え、その使い方に習熟した、危険なケダモノが存在しているばかりであった。
理性と感情の気違いじみた満ち干の中、前線に張り付けられた兵隊達の殆どは、大なり小なりその場を支配する狂気に取り付かれ、平和な時代には決して表には出さなかったであろう、凶暴な本能を剥き出しにしていた。
嘗て生活していた世界は、最早別の惑星での事であったのかと思えるほどに遠く、不意に前線から故郷に舞い戻った男達は、昔の面影を捜し求める家族の前で、初めて自分の変遷を目の当たりにし、呆然として為す術を知らない。
束の間の休暇を終え、再び前線に戻って来た彼らは、その思い出を大切にしながらも尚一層孤独感を深めて行き、やがて更に無機質な感情の下に、『敵』に対して牙を剥くようになる。
『正気ではいられない』―― それこそが、彼ら前線の兵(フロント)に課せられた日常的な定めであり、また狂気に満ちた現実から己の自我を護る、最良の逃避でもあった。
後方から急遽補充されて来た新兵達も、経験を積む前に大半が殺されるのが常ではあったにせよ、生き残った者達は迅速に古参兵からやり方を学び取って、怯えと戸惑いに溢れた初々しい瞳を、『死体を見慣れた目』へと変えて行く。
――最前線(ここ)に生きている限り、嘗て平和な時代に生活していた時の感性で日々を送るのは、あまりにも負担が大き過ぎたからだ。
しかし、唯一つだけ――前線に貼り付けられた数々の兵種・兵科の中、下っ端の兵卒に至るまで、そう言った逃避や自閉が、許されない連中が居た。
……それが彼ら、ポケモントレーナーである。
トレーナーは何時どんな時でも、ポケモン達と正面から接している必要があった。
何故なら、彼らが率いている形状も性質も様々な生き物達は、基本的に皆、戦場で戦う理由とその意義を、主人である人間達と共有する事が出来なかったからだ。
人が持つ、国家や国土への誇り。生まれ故郷たる美しい祖国への帰属意識や、仲間と共にそれを護ると言う誓いに対して齎される奮い立つような高揚感も、野生で生き抜く事に特化した彼ら獣達には、全く無縁の事柄であった。
『己が生命を賭してでも、守り抜くに値する――』 そう言った考えをろくに持てない彼らを、過酷な戦場の空気に耐えさせる為には、それに値するものを、意図的に用意してやらねばならなかった。
『親』である飼い主から離れ、前線に送られて来たポケモン達。拠り所を失って、精神的に不安定になっている彼らに寄り添い、新しい親としての立場を確立するのが、彼らトレーナー兵の最初の仕事であった。
独力で主人の下に帰ろうにも、国や周囲の圧力が元で、その主人自身から別れを告げられ、送り出されて来た彼ら――その彼らの心の空白にアクセスして、命を賭けるに足るだけの信頼関係を築くのが、徴用されたポケモン達を兵力として運用する、最も確実な方法なのである。
力による強制的な動員は獣達の反抗を招き、過度な抑圧は彼らに残された最後の理性を狂わせて、思慮も見境も無い集団脱走へと駆り立てる。……こうしたポケモン達は、戦力としてマイナスになるのみならず、下手をすれば進撃して来た敵方のトレーナーに懐柔されて、最悪敵方の戦力に組み込まれてしまう恐れすらあった。
古くからある拘束具や服従を強要する器具が、近代戦に於いて滅多に用いられないのも、これが原因である。また、もし味方であったポケモン達が敵方へと寝返った場合、そこから流出する情報は、しばしば決定的な形で、戦局を左右させる事となった。
諜報関係を担う者達は、両陣営とも高い知性を持つエスパーポケモンを駆使して、確保した相手方のポケモンから、敵陣営の情報を探り出そうとする。 戦争の形態が変化し、情報戦の成果が戦況の変化に直結する様になって行くに従って、必然的に末端に位置する捨石の獣達も、管理体制の内にがっちりと組み込まれるようになっていった。
けれどもそうした体制は、必然的に管理者であるトレーナーとポケモン達との距離を、急速に縮める事ともなったのだ。
拠り所を失ったポケモン達は本能的に管理者達に服従し、常に命の危険に晒され続けるトレーナー側は、自らの命綱ともなり得るポケモン達に、課せられている責務以上の情を掛ける事を惜しまない。
元より明日をも知れぬ運命を背負った人間とポケモンは、異常な環境下で生き残るべく力を合わせる内に、娑婆の世界では到底考えられないほどの短期間で、言葉には出来ぬ深い絆で結ばれていく。……良きパートナーと巡り会えたポケモン達は、命の危険も顧みず進んで戦闘に加わり、彼らと正面から向き合う事を強要されるトレーナー達は、日々の暮らしの中で交わされる素朴な心の交流によって、逆説的に自らの正気と自我とを保った。
翼に保持している缶詰に口を付けようともせず、自らを心配そうに見つめて来る暖色の闘鶏に対し、ハインツはそっと手を伸ばすと、土埃で薄っすらと汚れているその背中を払ってやりながら、寂しげながらも微笑んで見せた。尚も視線を外そうとしない相手に向け、食事を再開するように促してから、彼は自らもまたゆっくりと、手に持ったスプーンを使い始める。
漸く食べる事に意識を戻した若鶏の瞳は、同じ場に集う人間達のそれとは違い、未だに光を失ってはいない。……己の焼き焦がした屍の臭いを嗅ぎ、羽毛や蹴爪を鮮血で汚しても、大義の意味すら弁えぬ彼らは、決して現実から目を背けなかった。
缶詰に嘴を突っ込む、言葉無き戦友の傍ら、ハインツはもう一度込み上げて来た思いを振り払うと、新たに生まれた苦悩と迷いとを、静かに闇の底へと押し沈めた。
明日も明後日も戦いは続く。……どの様な結末が訪れようとも、直向きに生きる彼らの重荷になる事だけは、絶対にあってはならない――それだけは確かだった。
長く取り留めも無い回想を終えたハインツの足は、何時しか港の外れに差し掛かったまま、そこでピタリと歩むことを忘れて立ち尽くしていた。
――あれから幾許もなくして彼は南部戦線へと転属となり、共に戦った戦友達とも、二度と会う事は無かった。かの会戦はその後も規模を拡大し続けた後勝敗も定かではないまま終息し、敵味方両陣営の死者・行方不明者は、最終的に三十万人を越えたと言う。
あの時のワカシャモについても、当然その消息は不明のままだった。……負傷者も含めれば百万人を越えたとすら噂されているその損害の中に、ポケモンの損耗は一切含まれていない。
共に意思を持って戦っている存在であるとは言え、所詮彼らの扱いは砲門や車両、航空機のそれに近い。即ち、撃破した数は『戦果』として大々的に報じられるが、自軍の側の損失については、人間の犠牲者とは違って明確にカウントされ、報じられる事は無いのである。
……元々、人間自体が消費される『資源』として認識される世界に於いて、更にその下で捨て駒として戦っている彼らに、一々心を砕く必要があろう筈も無い。
そこまで心の内が推移したところで、ハインツは苛立たしげに首を振ると、大きな溜息を吐いて踵を返した。
鬱屈した気持ちを引きずって家に帰ったところで、気が晴れるとは思えない。……住居とは反対の方角に進路をとり、町の中心に向けて歩む彼の心は、たった一匹の同居人の元へと帰り着く前に、何らかの捌け口を見出す事を求めていた。
――こう言う時は、一杯やるに越した事は無い。影すら映らぬ冷たく暗い石畳の上に、乾いた靴音を残しつつ、胸に蟠りを抱いた元兵士は、ひたすら目標に向け行軍し続けた。
――――――――――
放置加減にてめぇでワロタ(爆) ・・・じぇーんじぇん更新出来ず。
なんか、書きたい事が全然表現出来ないのですよこれがどうしたことじゃいかなるもののくわだてぞであえぇ(乱)
結局破れかぶれの更新。・・・なので、風呂敷を思いっきり広げたは良いが綺麗に畳める気が全くしないなんだこりゃ(汗)
もし読んでおられる奇特な方がおられても、現時点では何を書きたいのか把握しておられる方は多分おられないと思ふ。 ・・・なので、今後お話が変な方向に転がって行っちゃっても、どうか怒らないで下さいとだけ(汗)
まぁ、早くもグダってるから怒髪天をつかれても全く文句は言えんのだが・・・
とりま、今更雑文を上げちゃってゴメンなさい、と言う事でした(汗)
「疲れた」
誰に向けたモノでもないが、そう呟いてベッドに倒れこむ。すると、白い天井が視界いっぱいに広がる。
部屋に先ほどつけた冷房の冷気が行き渡るまでじっと出来ず、何を思った訳ではないが立ち上がるが、足元に広がるそれを見てややげんなりする。
大量の紙袋。先刻まで姉貴と出た買い物での産物だ。思い返すだけで顔から火が出そうになる。
別に体は女なんだから何も問題はないはず。といえど心は健全な十六歳の男子。姉貴にランジェリーショップにつれられて、慣れない雰囲気に心臓が口からこんにちはしそうになった。
立場的に堂々と胸を張って良いのだが、最後の砦、男心の意地がおれの心をたしなめた。きつめの照明をそのままそっくり照り返す真っ白い床を眺めながら、より眩い店員の笑顔や商品から目をひたすら逸らした。
のだが、結局は姉貴にどやされてしまい姉貴の手を借りて強制的に試着、購入に至る。続く婦人服売り場でも似たような感じだった。姉貴からしたらさぞ嬉しかっただろう。終始笑顔だったのが証拠だ。でもこちらへの配慮がまるでない。辱しめにあっているようで、一人で顔を赤くしていた。……姉貴だから仕方がないか。
帰り道、共に外食をして帰宅すれば、もう午後九時を過ぎていた。それなりに歩いてスタミナを使ったのもそうだけど、それ以上に精神的に限界だった。
お風呂も昨日よろしく、姉貴が何年かぶりに一緒に入ろうなんて乱入してきた。いまだにこの長い髪の洗い方とかが分かっていないので助かった点は無いことはないが、姉貴に振り回されるのはもう疲れた。
改めて、引き返せないところまで来てしまったんだなと思う。別に今さら引き返せるなんて考えは無いのだけど、あまりのてんやわんやっぷりについそう思ってしまう。自分の身に起きてることなのに、まだ何だか遠いような……。
そうだ、遠いで思い出した。ジグザグマだ。ポケットに入れっぱなしにしていたモンスターボールを取り出す。さっき述べたばかりだが、買い物はあまりにてんやわんやだったのでジグザグマを出す余裕がなかったのだ。
「おいで、ジグザグマ」
モンスターボール中心部にある丸い開閉スイッチを優しく押す。ボールが口を開けて、白い光を放ちつつ、中にいるジグザグマを目の前に出現させる。
とりあえずまずは姿形がカノンでも、おれと認識してくれるかどうかからだ。
ボールから出たジグザグマは、ぶるぶると体をしばらく震わせる。その間に目線を合わせるために腰を下ろして屈むと、ジグザグマとパッチリ目が合った。と同時にジグザグマの愛くるしいはずの顔が歪み、耳を突き破るかのような轟音が飛んでくる。吠えられた、うるさい。
そしてそれだけでは終わらない。あまりにも唐突だった。おれの腹部を目掛けてジグザグマが飛び掛かってきた。飛び掛かってきたのは今現在見ているから分かっている。なのに反応出来ない。ストロボ写真を見ているような不思議な感覚。徐々に近づくそれに対してただただ念じるのみである。おい。来るな。バカ。待て。やめろ。ちょっと、ちょっと!
くぐもった音と同時に、腹部に苦しい振動が走る。バランスが崩れ、ベッドに腰をぶつける。痛い。前も後ろも。そして休む間も無くひたすら吠え、唸るジグザグマ。
おたおたしてるとまた突進を食らう。お腹を抑えながら立ち上がり、やられる前にと先手を打つ。
「おれだよ! いろいろあってカノンになったけどおれ! ユ、ウ、キ!」
グウウウ。カアアア。グウウウウウ!
そんな気はしてたけど、やっぱり聞いてくれていないや。
ジグザグマが再び小さな体を弾丸のように、おれ目掛けて発射する。
しかも口を開いて牙を見せる素敵なオプション付きだ。
「のおぉぉぉぉぉぉ!」
どんな気分の沈んだ夜の後にも明るい朝日は拝めるものと、何かのドラマで言っていた。
確かに朝日は明るい。しかし気分は上がらない。 目が覚めて、ベッドすぐそばの棚の隅に置いてあるモンスターボールを見て、ひどくげんなりする。
げんなりした際項垂れて、視線が落ちたときに、右腕に雑に巻かれた包帯が目に入りさらにげんなり。
あのあと見事にジグザグマに噛み付かれた。脊髄反射的に右腕で顔を庇おうとし、結果として右腕でがっちり牙を受け止めてしまった。ばっさり腕から血が出たぜ。とはいえジグザグマの顎の力は、クチートや大型ポケモンに比べれば大したことはなく、ポケモンバトルのために鍛えたなんてこともない。お陰で少しすれば血は止まった。もちろん、二度目を起こさないようにジグザグマはボールに戻した。
かれこれジグザグマと七年はいるが、あんなことをされるのは過去を振り返っても一度となく、不可抗力とはいえ自信を無くしてしまう。
肩を落としながら一人、モンスターボールを手にもって、朝食を摂るためダイニングに向かう。
「おはよう」
姉貴は仕事が朝早くからある。毎週水曜から土曜まで市場で働く姉貴は毎朝五時半起きで、一時間すれば出ていってしまう。普段おれは姉貴が家を出た後にのんびり起きるのだが、今日は有事なのでおれも早くに起きたのだ。今も姉貴は食べ終わった自分の朝食の皿と、自分のポケモンのポケモンフーズを入れていた皿を洗い終わったところのようだ。
「お、珍しく早いね。ってどうしたのそれ!?」
「いや、激しい闘いが」
「全然伝わらないから」
おれの雑に巻かれた包帯に驚いて、動きが止まった姉貴。何かを語る前に、俺はそっとモンスターボールを姉貴に渡す。
「あぁ、そっか。ジグザグマはカノンちゃん嫌いだからねぇ」
「酷い目に遭ったわ……。とりあえずご飯食べさせてあげて。姉貴にはなついてるし」
「姉貴じゃなくて?」
「お願いしますお姉ちゃん」
「よろしい。ジグザグマの視界に入らないように」
ぐぅ、一晩したら『お姉ちゃん』の件は忘れてるかと期待したら、なかなかしつこい。しかし視界に入らないように、ねぇ。
やっぱりどうしてジグザグマはおれ、というよりカノンを嫌っていたかを知らないと、どうしようもないのだろうか。
廊下でぼんやり待機していると、もういいよと姉貴の声がしてダイニングに入り直す。
「いつも通りガツガツ食べてたよ」
「ありがとう。……なんでジグザグマは怒るんだろう」
「それを調べるのはいいけど、そんな可愛らしい肌にこれ以上生傷つけないようにしなさいよ?」
「はいはい」
「それじゃあお姉ちゃんはもう行くから」
「行ってらっしゃい」
自分でお姉ちゃんとか言いやがって。と、小さく毒突いてやや駆け足な姉の背を見送る。
旅に出て、野生のポケモンを捕まえるにしろそれらから身を守るにしろ、自分のポケモンは必要だ。それがこの調子だと非常にまずい。
「参ったなぁ」
深い溜め息のおまけに、ポロっとそんな言葉がこぼれた。悩みの種は絶えない。
朝ごはんを軽く食べて、昨日買わされた服に着替えて家を出る。この体になって、前よりも明らかに胃が縮んだような気がする。いつも食べれた量の、良くて四分の三程度しか入らない。そんな目立たない変化にも気付けるくらい、余裕は出たのかもしれない。もうこの体になって早くも三日が経ったのか。
今日はカノンにコンテストについての『いろは』をきちんと学ぶために、またまたカノンの家に向かう。あまり気乗りはしなかったが、ジグザグマのボールも持ってきた。
家を出て隣の家の、カノン宅。慣れた手つきで呼び鈴を鳴らす。
『いろは』と言っても基本教養なレベルは流石に俺でも分かる。
時間があれば、ジグザグマについても相談するだけしてみよう。
「はいはいお待たせお待たせ〜」
そうこう考えているうちに、カノンののんびりした声と共に、しっかりした造りの扉が開く。
「さ、入って入って」
「カノン、お前……」
違う。
扉から現れたカノンのシルエットを見て、反射的にそう思った。
前に会って一日も経っていないのに。確かにカノンだが、これはカノンじゃない。
そんなこちらの反応を楽しんでいるのか、カノンはにやにやと笑みを浮かべる。わざとらしく「どうしたの?」と尋ねるカノンに対し、むしろおれから尋ねたい。どうしたんだよ、カノン。
ヒワマキシティにあるポケモンセンターも例外ではなかった。木の上に家を造り、生活するヒワマキシティを象徴するように、ポケモンセンターも高いところにあった。といっても、一階部分は他と変わらず、2階から上が木と合体しているのである。きっと、前は2階にあったのに、旅のトレーナーからいろいろ言われて下ろしたような、とってつけた内装だった。
正午を少し過ぎた頃。仮眠室にガーネットを置いて、ザフィールは外に出た。寝ているのを起こすのもしのびないし、また過ちがないとは限らない。気づいた時にはすでに時が遅かった。最初から言っていれば、どうだったのだろう。後悔は止まることを知らない。
「あーあ・・・」
ため息をついたところで時間が戻るわけでもなく。ザフィールはヒワマキシティを観光しようとツリーハウスを登る。昔は木登りしていたようだが、今は木で編んだスロープがついている。重たいものも楽に運べるというわけだ。ツリーハウスをつなぐ橋は、手すりがないところもあり、落ちたら痛そうな木の上。
「ザフィール!」
振り向き様に、黄色いものが目の前に張り付いた。バランスを崩し、橋の上から重心が出た。ヤバいと思ったら、その黄色いものは顔面から離れ、橋の上に着地している。
「あっ!橋の上に戻れ!」
落下を始めていた体が何かに押し戻されるように、橋の上へと上がった。何が起きたか解らず、ザフィールはただ張り付いて来たものを見る。
「ごめんごめん」
青いサーナイトのような格好。フエンで会ったミズキだ。マグマラシを連れていた。嬉しそうにザフィールのまわりを跳ねている。こいつが張り付いて来たのか。マグマラシに張り付くなと一発叩いた後、ボールに戻した。
「今日は一人?暇?」
「今は一人で一応暇」
「ちょっと付き合ってくれない?」
時間をつぶすにはちょうど良いと、ミズキに頼まれるままついていく。ツリーハウス同士を結ぶ橋が、足並みにあわせて揺れた。急いでいるわけでもなさそうだけれど、楽しそうでもないミズキ。鞄についている鈴の音色が動きにあわせて揺れていた。
まだ寝ているのかな。薬は要らないと言っていたけれど、あんなに熱が高いのに要らないわけがないだろうし。何を買っていけばいいのか検討もつかない。起きた時にいなかったらまた怒るのか。けれど昼からずっと側にいて騒がしくしても休まるはずもないし。
「どうしたの?ぼーっとしてるけど」
ミズキに声をかけられて、現実に戻る。頭の中が占められていたことに気づく。こんなに苦しいならば、もっと早く言えば良かった。この思いを伝える時、どんな言葉にしたら一番いい結果になれるのか。そして何より、今のガーネットに聞いてもらえるのか。
「悩んでるなら聞こうか?」
「いや・・・あのさ、ミズキって彼氏いる?」
失礼なことを聞いたかと思った。ガーネットなら確実に怒ってもいいところ。けれどミズキは平然と答えた。
「えー?いないなあ、好きな人はいるけど」
彼女も同じ境遇なのか。そういうミズキから全く悲壮感が出ていない。むしろその状態で安定していると言うように。
「どんな人?」
「うーん、どんな・・・身長も体重も大きくて、病弱だったって言う割にはタバコも酒も節制しないし仕事で・・・」
「えっ!?年上!?」
「そうだよ。かなり年上。こんな子供なんて興味ないからね、向こうは。だからさ、このまま秘密でもいいかなって最近になってやっと落ち着いたんだよ」
ミズキの落ち着きはそこから来ていたのか。通じなくてもいいなんて、そんな仏のような心なんてザフィールには持てそうになかった。
しばらく行くと、ツリーハウスの前で止まる。新しい感じの家で、ミズキは何やら難しそうな顔をしている。戸惑っているような、勇気が出るのを待っているような。そして深呼吸を一つ。
「こんにちは!」
ノックをする。親しい友達を訪ねる様子ではない。ザフィールは少し後ろで待っていた。家の中は静かであったが、いきなりドアが開く。準備もなく開くドアに、ザフィールは頭を思いっきりぶつけた。
「あっ、ごめんね!どちらさま?」
金色の目をした女の子が、ミズキを見ている。
「私はミズキ。ハウトがここだっていうから寄ってみたんだけどいるかしら?」
「あ、なるほど。私はフォール。よろしくね。ちょっと待ってて、呼んでくるから」
フォールは足音一つ立てず家の奥に引っ込む。玄関には靴が並んでいるが、一つだけサイズの違うものがある。誰か来客中なのか、それだけやけに整っている。
ハウトとは誰なのか、ミズキに聞く。ホウエンに来てからの知り合いだと言っていた。そして、謎の黒いものを追いかけてる人だと。赤い瞳孔が特徴だとも。そういえばフエンでガーネットも同じようなことを言っていた。ここで話が全てつながる。ザフィールもどんな人なのか見たくなってきた。
しばらくすると、やはり静かに目的の人が出てくる。確かに深紅のルビーのような瞳孔が特徴的だ。見た目で言えば、とても優しそうで、そして世間一般ではイケメンと言われてもおかしくなさそう。けれど、どこか引っかかる。
「ああ、こんにちは。お久しぶりですね」
「そうね。ちょっと近くを通ったから来てみたの」
ミズキの顔は笑ってない。何かを探るような言葉。ハウトと名乗る人物は、二人に寄っていかないかと誘う。
「誰か来てるんじゃないの?」
ザフィールが言うと、ハウトはそれを否定した。一足だけある雰囲気の違う靴。それを指摘してもハウトは違うと言い張る。
「せっかくですし、少しくらいどうぞ」
「そうだよ、せっかくだし!」
いつの間にか現れたフォールに手を引っ張られるようにしてミズキが入っていく。続いてザフィールも。
ツリーハウスの中は、普通の家とあまり変わりなかった。あるとしたら、ポケモンが自由に出入りできそうな入り口があるくらい。そこから今もトロピウスが顔を出す。手慣れたようにフォールはトロピウスに木の実を渡した。するとトロピウスは去っていく。
「そういえばザフィールさんに会うのは初めてですね」
「あ、そうか、はじめまして」
ソファに座ったまま頭を下げて気づく。いつ名前を教えたっけ。ミズキと話しているのを聞いてたのか。疑問を浮かべてハウトを見ると、どうしたのかとでも言うように見ていた。
「それにしても、一時はどうなることかと思いましたが、なんとかなりそうですね」
「へ?ああ、ハウトまで知ってるのか」
どこまでガーネットは広めたのか検討もつかない。ハウトはにっこりと微笑む。
「ええ、知ってますよ。悪い人というのは何処にでもいますが」
「まあ、いるよなあ」
「でも、私は言葉というもので解決できないかと思ってます。難しいことですけどね」
ハウトの話は小難しい。そして深紅の視線が刺さるようだった。ザフィールの隣に、だまったままハウトを見ているミズキ。何か、何かこの感じは前もあったような気がする。けれど思い出せない。
夕方にハウトの家を出た後、ミズキはにっこり笑って手を振る。けれど心からではない、警戒を解いてないような顔だった。そして陽が沈んでいるというのに、今からミナモシティへ行くという。ヒワマキシティの端までミズキを送る。
「気をつけてね」
別れる瞬間、ミズキはそういった。お前こそな、と言うとそういう意味ではないという。
「ハウトは何か隠してる。でもそれが何かまではちょっと解らないんだけど」
「うーん、そうかなあ?すごくいい人っぽいけど」
「まあ、確かにね。んじゃね、お・・・いやいや、ザフィール」
「じゃあな!」
夕闇に青いサーナイトのようなミズキが消えていく。足元にいるのは青い光を放つブラッキー。確かアッシュだといった。イーブイの時は灰色の毛並みだったからだとか。記憶が確かなら、イーブイの希少種はそんな色だった。イーブイ自体が希少種といっても過言ではない。そういえば実家がイーブイのブリーダーだとか言ってたな。
「え?待って、そんなブリーダーいるはずないんだが」
ポケモンの繁殖を行なってる者は、規模に関わらず研究機関が全て把握している。そして、イーブイは何度も試してだめだったポケモンで、やろうという人間もほとんどいない。
「俺の勘違いかな、現にそうだっていってるんだし」
帰りにスポーツドリンクを買って行く。もうさすがに起きて待ってるのかな。それともまだ寝ているのか。様々なことを考えながら、ツリーハウスの橋を走る。
暑い。手はじんわりと暖かい。きっとピークは超えた。後は数日すれば自然に下がるはずである。ガーネットはぼんやりする頭を起こして、聞こえる声の主を見た。とても冷たいスポーツドリンクを頬に当ててくる。
「はい、これ」
ザフィールが袋を手にしている。中にはまだ3本。
「ご飯食べる?」
「いらない」
「そう」
貰ったスポーツドリンクを一口。体の中が冷えていくような感じがした。食欲は湧かないけれど、これならば飲めた。ザフィールが何か言いたそうな顔をしている。
「どうしたの?」
彼は視線をそらす。下を向いてばかりで、顔を見ようとしない。
「あのさ、明日、俺ちょっと呼ばれてるんだわ」
「誰に?」
「・・・マグマ団に」
目をそらした意味が解った。両肩を掴んだ。びっくりしてこちらを見たようだ。
「行かないで」
「いや、そういうわけにはいかなくて」
「ダメ。そんな犯罪者集団にいく必要なんてない!」
優しくガーネットの手に触れる。そして諭すように穏やかな口調でザフィールは言った。
「そう言うと思った。だけどさ、俺が行かなきゃアクア団と戦うのに不利になる。どうしても行かなきゃならないんだよ」
止められない。ザフィールを止めることが出来ない。一度走ってしまえば普通の足では追いつけない。突風のように去ってしまって行く。
「あとさ、お前のこと俺の先輩たちが来てくれって言ってた」
「なんで!?行けるわけない」
「そういうと思ったんだけど、ここ数日アクア団の監視も厳しいし、マグマ団にいた方が安全かと思って」
「やだ。誰がなんと言おうとやだ。ザフィールも行かないで。行っちゃやだ!」
だだっ子みたいだ。騒ぎながら冷静に思った。ザフィールは困ったような顔で見ている。どうしたら引き止められるのか。全く解らなかった。それに、今の状態ではまともに走れるわけがない。せっかく治ってきたのに、また戻ってしまいそうだ。
――あとがき――
……なにはともあれ、完結です。
いや、かなりダメダメです。後半なんてやっつけ仕事感丸出しだし、なんか伏線回収し忘れありそうだし――とにかく、次からはプロット書こうと思った。
こんなモノを最後まで見てくださった方、本当にありがとうございました。
【メンバー紹介】
マキノ♀ (四年)/ ゴローニャ♂(トレスク)
アキラ♂ (四年)/ トドゼルガ♂(レフ)
ユウスケ♂ (四年)/ キリンリキ♀(ジーナ)
シン♂ (四年)/ カポエラー♂(メストリ)
コウタロウ♂(三年)/ キュウコン♀(メイヤ)
マイ♀ (三年)/ トゲチック♂(ティム)
シュウ♂ (二年)/ ウインディ♂(ヒート)
ケイタ♂ (二年)/ レントラー♂(エルク)
ヤスカ♀ (二年)/ フローゼル♂(バロン)
タツヤ♂ (二年)/ ムウマ ♂(ポウル)
☆テーマについて☆
基本的に、読んで下さった方が感じてくれたものがあればそれがそのままテーマとしてもらっていいと思っています。下記については筆者側として「こんな軸で書きました」とか「味わいどころはココ」と思うところをつらつら述べた感じです。
■メインテーマ
「動機-motive-」
戦うことを選んだ動機、守ることを決めた動機。感じてくだされば幸いです。
■サブテーマ
1「情報化社会におけるメタ認知」
今日、インターネット・通信技術の発達により簡単に情報が端末から引き出せるようになりました。昔に比べて「知ろうと思えばすぐに知れるモノ」が膨大になっています。
加えてその膨大な量の情報に「質のバラツキ」が顕著に現れてきました。特に掲示板やSNSなどでは誰もが簡単に情報をばら撒ける環境にあるため、そこから「事実」を見極めるのは困難です。
大学などの閉鎖的なコミュニティにおいても同じことが言えます。その中で流れる「噂」は本当である確証はどこにもない。みんな言ってるけど、みんな知らない。しかし「噂」は、不思議なことに基本的に「事実」であることが前提で認識されている嫌いがあります。「あくまで噂なんだけどね――」と注釈をつけて話しても、どこかで「まあ、事実だろうな」と思っていることが多い。それが一般論で、それを信じていれば居心地が良いからです。
つまり事実である一次的な情報なのか、事実に対する批評を含めた二次的な情報なのかがごちゃごちゃになって認識されています。「薬やってるやつって不良でしょ? ちょっとイライラしたら衝動的にヤッちゃうんでしょ?」と、よく考えずに「知っちゃう」のです。
なんでこんな風になるかっていうと、やっぱりそういう風に小さい頃から育ったからなんですよね。学校で習うことって「事実」じゃないですか。そうでないものがあるにせよホンモノの顔をしてます。今は小学生もインターネットで情報を取り入れることができて、同時に学校でも情報を取りれてるんです。ごっちゃになって当り前ですよね。しかもより魅力的な情報を振りまいているのは前者です。そりゃ「ググれば済みます」とも言いますw
このままだと、その子からは何も生まれないんです。考えなくなっちゃったから。
「自分は薬物について知っているということを、把握しようとする」との立場がアキラ先輩です。「おれってこう認知してるけど、その認知自体についてちょっと考えてみよう。もしかして『正しく認知していない』かもしれない」と思考することができるかできないかです。
これが「メタ認知能力」というものらしいです。
「メタ認知」っていうのは「認知」していることを「認知」していること、つまり「自分は〜について知っている、ということを把握し得ている」ということです。ちょっと興味を持って難しそうな本を読んでみたことはあるんですが――まあ学術的なことはほとんど頭に入ってきませんでしたw
なので本稿では「あんまりむずかしくかんがえず」それっぽく織り交ぜるにとどめることにしました。専門家の方がご覧になると色んな批評が飛んできそうですw
カオリやシュウは図らずも先に述べた「情報のごちゃごちゃ認識」の当事者になってしまいました。またなってしまったからこそ「考える」ことができました。その意味で思考面での個性が出せたんじゃないかなと思っています――思ってるだけですw
でもまあ私自身ニュースとかに一喜一憂して考えもせず飲み込むことが多いのです。全く説得力ありませんね(>_<)
2「ミソジニー(女性嫌悪)」
カオリって男性にとって都合の良い(ように映るように描写したつもり)女じゃないですかw
多分性格的にも「かわいい」部類に入ると思うんです。多分。
一方でマキノ先輩はリーダーシップを持ってチームを引っ張ることができる「かっこいい」女、キャリアウーマン的なイメージで書きました。
どっちがお好きですか?w
もし仮に「女性らしさは魅力的だからカオリが好き」とするとしたら、マキノ先輩は女性らしくないのでしょうか。
ここで言う「女性らしさ」は、男性側のミソジニーとしての見方で「女ってのはこうでしょ?」という、ぶっちゃけると「偏見」です。
逆に女性視点のミソジニーもありますよね。「あの子、男の前だけあんな顔して! イライラする!」なんてことは、無きにしも非ずw なんで男はあんなのに騙されるんだっ?!w
そう言った女性に対する価値観の相違が表現できたらと思いましたが――あんまり物語の中で言及できなかったのでいまいちピンときませんね、ごめんなさい(>_<)
――――――――――――――
【書いてもいいのよ】【描いてもいいのよ】【てか何してもいいのよ】
32
左手が、温かかった。誰かが僕の左手を相当強く握っているらしい――この手の大きさやかたちには、覚えがあった。
――だんだんとシャットダウンされていた五感がよみがえってきたようだ。触覚、聴覚――強烈な明かりがまぶたをすり抜ける。
「うー」最後に痛みがよみがえり、僕は目を開けた。
「シュウ? シュウ! よかった! ――大丈夫?!」
蛍光灯の明かりにに目をぱちぱちさせながら、僕は声のした方を見ると、カオリが僕の左手を握りしめ、目を赤く腫らしていた。
真っ白なベッドの上に僕の身体は寝かされていた。病室のようだった。
「んあ、眩しい――カオリ、か?」
「うん――よかった気が付いて。もうホントに心配だったんだから」
カオリは僕の手を握ったまま、両手をおでこに寄せた。
「――すまん。ここ、病院?」
僕はゆっくり身を起こし、室内を見つめた。飾り気のない正方形の部屋にベッドが一つだけ。僕の寝ているベッド意外大きな家具はなく、脇に据えられた質素な棚が壁にほとんど同化しているくらいだった。白いカーテンの隙間を覗くと、まだ夜の闇がとっぷりと居座っていた。そんなに長く眠っていたわけではなさそうだ。
「そう、ミオシティの市立病院だよ。シュウが気を失ってたから、シロナさんが救急車を呼んで、それで――」
カオリの口から予想外の名前が出た。「シロナさんが? どうして?」
カオリは少し困った顔をした。「うーん、話すと長くなるんだ。待合室にシロナさんたちがいるから、今呼んでくるね」
そう言ってカオリは病室を出ていこうとした。だがすぐにこちらを振り返り、照れくさそうに笑いながら戻ってきた。
「シュウ――まだもうちょっとだけ、目を覚まさなかったことにして」
そう言ってカオリはおもむろに僕に覆いかぶさり、唇を重ねてきた。僕の胸の上に心地よい体重がかかる。激しく動くカオリの身体や指に、僕は応じないわけにはいかなかった。病室にはそぐわない水っぽい音を立てながら舌を入れ合い、両手を握り、髪を触り、お互いの体温を確かめた。
「――生きててよかったな、マジで」
唇が離れたタイミングを見て、僕は言った。カオリは泣いていた。
唐突にノックの音が病室に飛び込んだ。カオリは慌ててベッド横のスツールに座り直し、髪を整えた。
ガチャリとドアノブを回す音がして、女性と青年が一人づつ、病室に入ってきた。女性の方は僕が起き上がっていることを確認すると血相変えて駆け寄ってきた。
「シュウくん! 気付いたのね!」黒のロングコートに金髪、そして――寝癖。
「シロナさん――どうしてここに?」
シロナさんは質問に答えず、突然両手を合わせて謝りだした。
「本当に――本当にごめんなさい! こんな目に遭わせるつもりはなかったのよ! もっと早い段階で駆けつけるつもりで――」
何度も何度も「ごめん!」を連発するシロナさん。合わせた両手で何度もおでこを叩いている。
「いや、僕には何が何だか――むしろ謝るのは無茶をした僕らだし。一体どういうことなんですか?」
「シロナさん、とりあえずちゃんと説明しましょうよ―」
シロナさんと一緒に入ってきた細身の青年がのんびりと言った。どこかで見たことのあるような気がしたけど、なかなか思い出せなかった。その声は、僕が気を失う寸前に聞いた声と同じだった。そう、あの時突然蝶が現れて――
「あ、ヒートは?! 他のメンバーは無事なんですか?!」
何をぼんやりしていたのか、まず最初に訊くべきことを完全に忘れていた。一気に僕の胸の辺りに不安が舞い戻ってきた。
僕が気を失った時、まだ相手のポケモンは残っていたし、戦況はかなり厳しかった。ヒートも満身創痍で、ほとんどあと一撃で瀕死に追いやられてしまいそうな状態だった。シロナさんよりはよっぽど冷静な青年はにっこりして言った。
「心配しないでください、みんな大丈夫ですから。ウインディや他のポケモンは今センターで治療中ですし、お友達はこの病院の大部屋で休んでもらってます」
「――そうですか、よかった。ありがとうございます――あの、あなたは?」
「あ、僕ですかー? 名乗るほどの者でもないんですけど、でもこれから説明するにあたって立場くらい言っとかないと失礼ですねー」彼はポリポリと頭を掻いた。「どうも初めまして。シンオウ地方ポケモンリーグ、四天王のリョウと言います。よろしくお願いしますねー」
見覚えがあったのは、そういうことだった。四天王と言えば毎年のポケモンリーグの中継では必ず見かけるし、しょっちゅうテレビにもゲスト出演している。彼はその中でも虫ポケモンの使い手、あの時現れた蝶――アゲハントは彼の手持ちだった。
「そうね――まずどこから説明しようかしら」シロナさんは病室の隅からスツールを持ってきてベッドの横に座った。「話がかなりこんがらがってるわね」
「とりあえず、協会の話からじゃないですか?」リョウさんが助け船を出す。
協会とはもちろん、非営利団体で最大規模のポケモン協会のことで、彼らのような協会付属のトレーナーは協会の従業員ということになり、様々な規則のもと日々動いている。しかし、今回の僕らが身勝手にも起こした「暴力団討伐作戦」とポケモン協会の接点は、どう考えてもなかった。
「結論から言うとね――」シロナさんがゆっくりと告げた。「あなたたちを試験していたの」
「試験――ですか?」当然ピンとくる言葉ではなかった。
「去年の八月に、ロケット団が大脱走しちゃったの覚えてます?」
リョウさんが唐突に訊いてきた。僕は頷いた。確かちょうど去年の秋、その話をケイタとしていた記憶がある。カントーの刑務所から、大勢の団員とそのボスが逃げ出した事件だ。
「あれ、逃がしちゃったの僕らなんですよ――いや、僕らが手引きしたとかじゃなくて、脱走を止められなかったって意味ですよ」
リョウさんの話によると、ロケット団に関する別件の事件を追っていた中で、最終的に事件の解決が遅れ、去年の大脱走の引き金を引いてしまったのだという。そして、ポケモン協会はそのことを重く受け止めて、いくつかの命令を協会付属トレーナー各位に下した。
「四天王、チャンピオンの僕らは、平たく言うと強いポケモントレーナーや団体を協会の味方につけなきゃならないんですよー。あ、新聞とか読みます? 昨日の日経に出てたんですけど」
彼はポケットから財布を取り出し、小さく折り畳んだ新聞のスクラップを財布から引っ張り出した。僕はその記事を受け取り、読んだ。
<協会「戦力増強必至」>
見出しにはそう書いてあった。内容を見た僕は驚愕した。
「――つまり、『民間のレベルアップ』を図るために、協会は実戦形式の『試験』を認めているんですね。そしてその試験官が、シロナさんやリョウさん――」
「――ごめんなさい、黙っていて」シロナさんが暗い声で言った。
なるほど、全てが繋がる。我らがポケモンバトル・サークル「ヘル・スロープ」は、全国的に見てもレベルが高い。協会の基準がどんなものか知らないが、選考に組み込まれる可能性は十分にあった。コトブキ大との定期戦でシロナさんが来たのも、僕らのバトルを「視察」しにやってきたのだろう。そして僕らの練習を見学しにはるばるミオシティまで訪れ、飲み会では僕らに火を付けた――
「コウタロウ君――だったかしら? 彼だけは気付いていたみたいね。私たちがこの戦いを管理しようとしていたこと」
「――あの暴力団たちは? まさか全部偽物?」僕は勘ぐった。
「いいえ、あいつらは正真正銘、ロケット団傘下の暴力団『ナギナタ組』。実際、あなたたちにハンデ無しにあいつらと戦ってもらうのは危険すぎたわ。だから私のミカルゲが事前に彼らの拳銃を『封印』しておいたり、もし危なくなったりしたら私とリョウが駆けつけられるように控えていたの」
そうだ。タツヤの話では、暴力団が混乱状態に陥り拳銃を取り出したものの、結局不発に終わったということだった。あの時は弾切れもしくは故障で運が良かったと思っていた。
なるほど、最初から僕らは守られていたのだ。
「結局かなりギリギリまで手を出さなかった結果、随分な目に遭わせてしまったんですけどね――ホントに申し訳ない」
リョウさんが恐縮した面持ちでそう言った。
僕が気絶したその後は、シロナさんとリョウさんが助太刀する形になり、あっという間に相手を制圧したらしい。他の場所で戦っていたユウスケ先輩やシン先輩、それにマキノ先輩やケイタも、苦しい戦いを強いられていたものの、結果的に自力でその場を制圧することができたのだという。
「このことは、もうみんな知ってるんですか?」僕はシロナさんに訊いた。
「ええ、シュウくんが目を覚ます前に私たちが説明したわ」
「――みんな、どんな反応してました?」
シロナさんは少し切なそうに微笑んだ。
「静かに最後まで説明を聞いてくれたわ。激昂したりすることもなく、無表情で。でも、内心ではやっぱり怒りもあったと思う――」
「メンバーの皆さん、感謝してました」そう言ったのはカオリだった。「シロナさんが話し終わって部屋を出た後はしばらくみんな静かでしたけど、定期戦の事件をきっかけにして、実際に踏み出したのは自分たちだって言ってましたし、むしろそういう機会を与えてくれたんだって、感謝してました」
「――私が考えていた以上に、大人なのね。黙っていた私たちが本当に愚かしく感じるわ」
シロナさんはそう言って目を伏せた。僕の中には不思議と怒りはなかった。いや、そんな感情を持つのはお門違いだって思うくらいだ。みんなが言っていた通り、暴力団との対決という選択肢を選んだのは、シロナさんや教会の人間ではなく自分たちなんだ。マキノ先輩を始めとして、メンバーは全員、定期戦の一件から何かしなければという衝動に駆られていたし、火付け役がシロナさんだったとはいえ、その動機は最初からみんなの中にあったものだった。その動機に従うことにしたまで。今夜のことは、その結果というだけに過ぎない。
僕はみんなに会いたかった。もちろん、ヒートにも。今夜のことを話したい。他の場所で戦っていた先輩たちはどんな戦況だったのか、詳しく知りたい。そう思った。
「話はまだ続くの」シロナさんが再び口を開いた。「実は今回『ヘル・スロープ』に注目しようと思ったのは、単に全国的に実力があるというだけではないのよ」
「――と言うと、どういう?」
「私、ユウスケとはちょっとした知り合いでね、彼の伝手があってみんなの存在を知ったってわけ」
「ユウスケ先輩ですか?」
「ええ。彼だけは今回のこと最初から全部知っていたわ。それでね、彼がみんなを『試験』にかけるかわりにある条件を満たしてほしいと言ったの。この話はさっきもしたんだけど、カオリちゃんも関わってくるわ」
シロナさんはスツールにちょこんと座っているカオリの方を見た。カオリは居心地が悪そうに口元だけで微笑んだ。
僕の頭に不安がよぎった。
「カオリが関わっているっていうのは、一体――」
「――うーん、途中誤解を生む話し方になってしまうかもしれないけど、つまりそう、私たちは全部聞いたわ。ユウスケから」
「全部って――」
「全部よ。カオリちゃんが去年犯してしまったことも、全部」
少しの間、病室に沈黙が流れた。僕が最も恐れていたことだった。今回の事件で警察が捜査の手を伸ばし、カオリの身にまで危険が及ぶ――絶対に避けたかったことだった。
しかしカオリのことはケイタにしか話してないはずだった。なぜ、ユウスケ先輩が知っている?
そして、カオリはなぜ笑っているのだ?
「――何が、何だか」僕は間抜けな声で呟いた。
「あんまり詳しいことは言えないけど、ユウスケもあれで昔は荒れててね。カオリちゃんのように辛い経験も、何度もしてきたの。そしてこれは私も最近知ったことなんだけど、ケイタくんも弟さんのことで色々あったみたいね」
去年の秋のこと、ケイタが夕暮れの坂道で突然弟のことを話してくれたのを思い起こした。シロナさんは続ける。
「シュウくんからカオリちゃんのことを聞いたケイタくんは――多分、迷っただろうけど――そのことをユウスケに相談したらしいの。そしてユウスケは今回の『試験』の条件として『カオリちゃんの身に捜査の手が及ばないこと』を要求した」
カオリは両手を膝の上で合わせ、真顔でじっと話を聞いている。その手は少しだけ震えていた。
「――そうだったんですか」
「ええ、私、心から友情ってすごいと思った。意外とできないことよ、友達のために行動を起こすって」シロナさんは優しい笑顔で続ける。「同僚にゴヨウっていう、シンオウ警察の刑事総務課長をやってる男がいて、さっき摘発が終わったって連絡が入ったわ」
「それって――」
「本当はいけない介入ですよー」リョウさんが僕の疑問を先読みした。「ゴヨウさんがちょっかい出して、捜査の範囲を限定させることにまんまと成功してしまったということです。駄目ですよ、公言したら」
緊張感のないその声で、僕は思わず噴き出しそうになった。
「じゃあカオリは罪を問われたりしないんですね?」
その問いはなぜか、クスクス笑いで返された。僕は大真面目にそう訊いたのだが、おかしなことにカオリさえも口元を押さえている。
「実は、話には続きがあってね」
怪訝な目つきをしていた僕に、シロナさんが言った。
「プラシーボ効果って知ってます?」リョウさんがまた唐突な質問をした。
「えっ? 何効果ですか?」当然僕は聞き返す。その言葉には全く聞き覚えがなかった。
「プラシーボ効果です。例えばですね――」リョウさんは少し考える仕草をしてから続けた。「船酔いに困っている船乗りさんがいるとします。彼に『この薬、船酔いにすっごく効くんですよ!』と念を押してある薬を渡すんですよ。そしてその船乗りさんはその薬のおかげでその日、船酔いせずに済んだんです。だがしかしですね、実はこの薬、錠剤の形をしたただの飴だったんですよ。つまりこれがプラシーボ効果なんです」
「はあ――つまりどういう効果ですか?」
「平たく言えば、『思い込み効果』よ」シロナさんが引き継ぐ。「『その薬が本物で、絶対効き目がある』って本人さえ信じていれば、その思い込みで本当に本人の身体に効果が現れるの。不思議でしょ?」
なるほど。いや、そんな話を聞いたのは初めてだったが「病は気から」と言うくらいだし、そういうことがあっても不思議ではない。けど――
「その現象が一体どうしたんですか?」
さっきから僕、質問ばかりしているような気がする。でも彼らは始終ニヤニヤしているし、カオリも今は赤くなっていた目も治って、むしろ朗らかに見える中で、僕一人だけなんにも分からない状況なのだ。
「ですから、それが薬だと思い込んで飲んでいただけなんですよー。ね? カオリさん」
「思い込んで――」リョウさんが「薬」と強調するように発音し、カオリに目配せするのを見て、僕は頭を弾かれた。「えっ?! まさか!」
「ほんの一時間前にゴヨウから連絡が入ったのよ」シロナさんが呆れたような笑みをこぼした。「押収した白い粉末、全部偽物」
僕の脳みそは頭の中から離脱してしまったようだった。胸がドキドキと大きく鼓動し、手足の感覚が変になって力が入らない。
「――カオリ、本当?」震える声で確かめる僕。
「もう確かめようがないけど、多分そう。私――」
なんだか決まりが悪そうに、カオリは口元だけで笑った。
「ホントは覚醒剤なんて使ってなかった」
33
噂というものは、どんなに頑丈に蓋をしても漏れて出てしまうものらしい。
僕らがキャンパスで繰り広げた死闘の話は、またたく間に大学中に広がった。地方新聞には暴力団摘発の記事がでかでかと載っていた(当然、僕らのことは伏せられていた)し、別記事で協会のことも出ていたため、みんな好き勝手に憶測を繰り広げ、あることないことひっくるめてごちゃ混ぜの状態で、今回の話は縦横無尽に拡散していった。
僕らは日常の生活を取り戻すのにしばらくかかった。「ヘル・スロープ」のメンバーは、一時期廊下ですれ違うだけで振り向かれるし、数ある噂の中で「あのサークルの代表が一人でアジトに乗り込んだらしい」という極論も出回っていたこともあってか、マキノ先輩は学食に顔を出しづらくなってしまった。就職活動中の三年生は、面接の中でその話を持ち出されることもしばしばあったらしいし、ケイタはなぜか彼女と別れた。本人は、全く関係ないと言っていた。
僕とは他のところで戦っていた先輩たちの話も聞かせてもらった。シン先輩のカポエラーは相手のニドリーノの毒針を受けてしまったらしく、ケイタが駆け付けていなかったらまずいことになっていたらしい。ユウスケ先輩からはシロナさんとの話を聞き出そうとしたが、「腐れ縁だよ」と軽く流されてしまった。マキノ先輩は、自分のゴローニャに傷一つ付けずに相手のリーダーのゴーリキーに勝利したと言っていた。たとえ少しだけでも、心配して損だった。
暴力団「ナギナタ組」は、二年前から覚醒剤の偽物を売りさばいて利益を上げていたらしい。このミオシティを拠点に、主に学生を食い物に、約一千万円もの儲けを出していたという。
偽物だと分かって、事実僕は心から安堵したが、ケイタはそうではなかった。
「周りの目は結局変わらないさ、悲しいけどね。カオリちゃんの罪の意識も、全部帳消しになったわけでは決してないと思う。それはお前が一番分かるだろ?」
もちろん「偽物だったから、一件落着」というわけにはいかない。当時はカオリ自身も本物だと思って使ってしまったのだから、彼女の心の片隅にはしこりが残る。
ただ、それは問題ではないのだ。カオリが恐れをひた隠して見せる笑顔も、時々油断して見せる不安げな顔も、僕は目を逸らさずに見つめることができる。ゆっくりと丁寧に話しだす彼女の声も、耳を傾けてやれる。
時間はかかるだろう。別にいい。かかるのが時間だけでいいなら喜んで費やす。
僕がいるんだから、カオリは大丈夫だ。
「訊いたんだ、シロナさんに最後。おれたち試験に合格したのかって」
僕は例の如く、ケイタとサシで飲んでいた。ここは僕の家。雪解けも進み、この街の坂に沿って設けられた排水溝を勢いよく流れ落ちる、そんな季節だった。
「そしたらシロナさん、『一次審査は通過』だってさ。二次審査の話とか来たか?」
「いんや。あの後協会からは音沙汰ないな。コトブキの方の暴力団に手を焼いてる話は聞いたが」
僕らはこの一年で、一度だけ本物の覚醒剤を見た。それが去年の秋に行われた「定期戦事件」での、例の下りだった。
あの薬を受け渡ししようとしていたコトブキに拠点を置く暴力団は、ミオの暴力団ともパイプが繋がっており、今回の摘発で協会に敵意を剥き出しにしていた。
「またあんな戦いしなきゃならないのかな」
僕はモンスターボールに入ったヒートを見つめながら、ビールをあおった。
「あんなもんじゃ温いって言われるくらいの戦いが待ってるかもな。命がいくつあっても足りない。事実、母体のロケット団が今回の事件をきっかけに動きだすっていう噂もある。本当かどうかは知らないけどな」
ずっと昔に、たった一人でそのロケット団を壊滅状態に追い込んだポケモントレーナーの少年がいたという、もはや伝説じみた話を思い出した。命さえ賭けなければならないような、「本気のポケモンバトル」は、少し前なら僕らよりもっともっとレベルの高い方々が興じているものだと思い込んでいたが、今は少し違う。本の中の登場人物程度の感覚で知っていたロケット団は、案外すぐ近くにいる。僕もまたヒートと共に腹を括らなければならない状況も、やってくるのかもしれない。僕はちょっとだけ、汗をかいた。
もうじき、この街も一足遅く春を迎えて、僕らは三年生になる。大学生活も、とうとう折り返し地点だ。
「――ケイタ、夏にみんなで海行こう」
「良いね。ナンパしようナンパ――あ、お前とタツヤはダメか」
ケイタはわざとらしくため息をこぼし、缶を空けた。
「それから、ポケモンバトル。付き合ってくれよ」僕は続けてケイタに言った。
彼はゆっくりうなずく。
「お安い御用だ」
お互いに二缶目のプルタブを空けた。
ミオシティを包む晩冬の夜が、ゆっくりと更けていった。
31
相手がトゲチックの「指を振る」で発動したスピードスターやロックブラストで翻弄されている隙に、僕たちは手元から離れていたボールを取り戻すことができた。僕はすぐにボールを放ると、現れたヒートはたてがみをなびかせ、夜空に向かって高らかに吠える。しかし、ザングースに傷付けられた左肩を庇い、明らかに立ち方が不自然だった。あまり長くは戦わせられない。勝負は短時間で決めなければ――
ヤスカは雪に足を取られそうになりながら傷ついたフローゼルに駆け寄り、労いの言葉をかけた後、モンスターボールに戻した。フローゼルはさっき、目を覆いたくなるほど酷いやられ方をしていた。おそらく、体力は残っていなかったのだろう。
「ヤスカ! フローゼル連れてここから離れろ!」タツヤがムウマをボールから繰り出しながら叫んだ。
「う、うん――ごめん」
ヤスカは言われた通り、積もった雪の中をもがくようにしてこの場から離れていった。
マイ先輩も含めて、こちらは四人。相手は五人――事実、まだ状況は好転したとは言い難かった。
数で負けているだけじゃない。位置関係が問題だった。学生会館の裏の細い通路で、僕たち男三人は東側、マイ先輩だけ西側だ。相手を取り囲むようにして構えており、一見すると非常に有利に見える。しかしこの陣営でいくと、むしろ相手はどちら側にどのポケモンをぶつけるかを自由に選択することができる。自らに不利になるタイプの相手は避けることが可能だし、弱点も突きやすい。
そしてヒートやコウタロウ先輩のキュウコンがいる僕らの方には当然水タイプ――ビーダルとゴルダックがにじり寄ってきた。
「へへ、悪いがまだ終わっちゃいねえ。相性ってもんがポケモンバトルにはあるよなあ? それにそのウインディ、へばってんじゃねえか」
ビーダルの主人が罵った。ヒートは正直、立っているのがやっとのように見えた。
相手のグラエナは白い毛を逆立てて、ムウマを睨みつけている。こちらも、相性が最悪。残りの二匹――ドクロッグとアーボックはマイ先輩のトゲチックに狙いを定めていた。予想通り、タイプの相性が相手に有利になるようにカードを組まされてしまった。
「落ち着いていこう。勝機はある」コウタロウ先輩が言った。九尾の先端に青白い炎が灯り、低い姿勢のまま敵のを待ち受ける。
「――はい」
僕とヒートは相手のゴルダックとビーダルに対峙していた。ヒートは足で雪を踏み固め、助走をつける仕草をした。あまり何度も使えない技だが、スピードを重視するとベターだ。ヒートはばねのように後ろ足を使い、風を切るような早さで相手に突っ込んだ――
神速――技はゴルダックの左腕をかすめ、ビーダルに直撃した。ゴルダックは少しよろけただけだったが、ビーダルはどてっ腹に重い衝撃をまともに受け、後ろへ吹き飛ばされた。
「クソッ! ありかよそんな速さ!」相手の一人がうろたえた様子で言った。
ビーダルは雪を巻き上げて地面に転がったが、すぐに顔を振るって立ち上がる。まだ決定打とまではいかない。
ゴルダックは背後から手のひらをヒートに向けたかと思うと、勢いよく水砲を発射した。
「ヒートっ!」
寸前のところで気が付いたヒートはギリギリのところで身をかわす。そのまま雪の中に倒れそうになる。脚がぐらつき、息を荒くしていた。
「シュウ、下がってろ」コウタロウ先輩が叫んだ。
メイヤの九つの尾の先端から放たれた炎はゴルダックを取り囲み、手を取り合うようにして数珠状に繋がり、青白いの火柱になって寒空に燃え上がった。踏み荒らされた雪の絨毯が明るく照らし出される――
しかし、うず高く巻き上がらんとした炎はゴルダックの水鉄砲により途中で鎮火されてしまった。
「――駄目か」コウタロウ先輩が苦虫を噛む。
一方、タツヤのムウマは相手のグラエナ攻撃を余裕綽々でかわしていたが、なかなか攻撃に転じない。あれこれ指示を出しているタツヤの声を無視し、噛みつこうとしているグラエナを嘲笑って、ただふわふわと空中を漂っていた。
マイ先輩とトゲチックのティムは毒針をもった蛙と毒の牙をもったコブラを二匹同時に相手にしていた。壁技でなんとか持ちこたえているが、なかなか攻撃に転じられずに、やはり苦戦を強いられていた。
「ヒート、もう一発いけるか?!」
そう叫んだ僕に対しヒートは身体を震わせて精一杯「ヴォン!」と吠えた。もう一度「神速」のために足を踏みしめ、助走を取ろうとしたが、ゴルダックが水鉄砲で邪魔をする。かわすために後ろへ飛んだヒートの足元がまたぐらついた。
「――シュウ、ヒートを戻せ」
コウタロウ先輩がそう言った。その目は、ビーダルの攻撃をけん制し、今はゴルダックに怪しい光を浴びせようとしている彼の九尾から一瞬たりとも離れない。
「でも!」
「これ以上は危険だ。それはお前が一番わかってるはずだろう。それに、戦えないやつが残ってもマイナスにしか働かない」
僕は反論できなかった。
正論――ここで先輩に噛みつくのはただのわがままだ。事実ヒートはもはや精神で身体を支えているようなものだった。この凍えるような寒さも、恐らくヒートの体力に追い打ちをかけている。
他のポケモン達の動きはまだほとんど鈍っていない。キュウコンは相手の水タイプの技をかわしつづけているし、トゲチックは指を振るで発動したラスターカノンをアーボックに浴びせていた。
「急げ! やられちまうぞ!」
ビーダルが雪をかき分けながらこちらに向かってくる。
「――すまんヒート、ボールに戻って――」
しかしその瞬間、ヒートは雄叫びを上げると、僕の言葉を無視し、ビーダルに正面から向かっていった。
「おい! よせ!」
僕が呼びとめるも、ヒートはビーダル目がけ、渾身の力で突進していく。
「はっ! 飛んで火に入るなんとやらだな。ビーダル、水鉄砲だ!」
ビーダルの主人が意気揚々と指示を飛ばした。ビーダルは前足をついてヒートに狙いを定める。
僕は慌てて取り出したモンスターボールを取り落とした――
――その時、ひらりと天から舞い降りたのは、蝶だった。
蝶はダイヤモンドダストのようにきらきらと光る風を巻き起こし、ビーダルを包んだかと思うと、鳴き声のようなかん高い音を立てて風は竜巻に変わり、ビーダルを雪もろとも吹き飛ばした。僕らも相手の暴力団も、あっけにとられてその光景を見ていた。
「ほらー! やっぱりヤバい感じじゃないですか!」
どこか気の抜けたような、聞いたことのない若い男の声が、遠くの暗がりから聞こえた。
そしてその後聞き覚えのある女性の声が耳に入ったような気がしたのだが、僕はその後の出来事のせいで、声に注意を向けることができなかった。
「シュウ!」タツヤの悲痛な声が僕を呼んだ。
相手のゴルダックが手のひらを、僕に向けていた。
「トレーナーを狙っちゃいけないルールはなかったろ?」ゴルダックの主人が不気味な笑みでそう言った。
強烈な念力が僕の身体を襲った。空気に殴られたような感覚で後ろへ吹き飛ばされ、僕は思いっきり雪を喰った。頬に切り付けられたような痛みが走った。
すぐに立ち上がろうとしたが、身体が重たい。僕はゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた。何人かの声が僕の名前を呼んだり、叫び声を上げたりしている。
オレンジ色の毛をまとった前足が視界に入った。身体が揺すられている気がしたが、その感覚もやがて消え去り、目の前の景色も黒く塗りつぶされた。
「リオー! 早く早くー!」
「待ってよノウー!」
青空の下に、甲高い元気な声が響き渡った。細い木々や家々の間を縫うように走る、二つの影。片や後ろを急かし、片や前の者を必死に追う。
ここは人間のいない、ポケモンだけが住む世界。そこには気候も地形も全く異なる七つの島々が、一つの大きな島の周囲をぐるりと囲むように存在した。この個性豊かな八つの島々は、七つの島をそれぞれ色になぞらえて、七色列島と呼ばれていた。
花の香がどこまでも広がる自然豊かなこの島は、七色列島の中心部、レインボーアイランド。見渡す限りの大草原がどこまでも続き、生き物たちの集う森が所々に点在する。八つの島々の中で最も広い面積を持つ島だ。
「マフィンさーん!」
遠くから響いた声に、オオタチのマフィンは畑仕事の手を止め顔を上げた。見ると、長い耳をぴょこぴょこ揺らして、オレンの木々の間を小さなポケモンが走ってくる。
黄色い体に青い頬。小さなねずみのような姿の電気ポケモン、マイナンだ。
マイナンは目の前までやって来るなり、布地の肩掛けかばんの中から真っ白なビンを取り出して見せた。
「はいっ、モーモーミルクの配達だよ!」
「あらあら、どうもありがとう」
ずっと走ってきたのだろう。すっかり泡立ったモーモーミルクを受け取って、オオタチはにっこり笑った。それから、すぐに何かが足りないことにふと気付く。得意満面のマイナンの後ろに目をやるも、オレンの木々が作り出す一本道が変わらぬ様子で丘の向こうまで伸びているだけである。
「ノウくん、いつも一緒の双子の妹さんは?」
きょとんとするマイナンの代わりに、オレン畑の向こうから答えが聞けた。
「もうノウってば、置いてかないでよー!」
どうやら妹は、木々の作り出す壁で兄とはぐれてしまったらしい。子供らしい甲高い声は今にも泣き出しそうである。青々と茂る葉が幾重にもなり、近くにいるらしい彼女の姿をすっかり隠してしまっている。
「リオー、こっちだよー!」
マイナンが緑の垣根に向かって大声で叫ぶと、がさがさと木々を掻き分ける音が近づいて、やがて一匹の小さなポケモンが飛び出した。先に来たマイナンとは、ねずみのような容姿であるのは同じだが、彼女は黄色い体に赤い頬、プラスルだ。垂れ下がった右耳には、可憐な青い花飾りをつけている。
その海色の瞳がマイナンたちを捉えると、ほっとしたようにプラスルの顔が緩んだ。
「あぁ……やっと追いついた。もうノウってば、急に走り出すんだもん」
「えへへ、ごめんごめん。あんまりいいお天気だったから、つい……」
ピンク色の舌を覗かせて、いたずらっぽい笑顔を見せる兄、ノウに対して、妹のリオは小さくため息をつく。そんないつもどおりの双子の様子を見て、オオタチは微笑んだ。
「あら、そうだわ」
マフィンはふと思い出したように呟くと、足元にある籠から何やら取り出した。
「うちの畑で取れたのよ。持って行ってちょうだいな」
二匹は思わず目を輝かせた。薄桃色のマゴの実。内側に丸め込まれたその形が、秘めた甘さを物語る。つやつやとした表面が、早く食べてくれと言わんばかりに食欲をそそらせる。
「うわぁ……おいしそう!」
「ありがとうございます、マフィンさん!」
一匹に一つずつ、それぞれ完熟した木の実を受け取ると、二匹とも大事そうにかばんの中にしまい込んだ。何度も何度も口紐の閉まり具合を確認して、最後にしっかりと結ぶとマイナンはぴょんと小さく飛び跳ねた。
「じゃあぼくたち行くね。リオ、帰ろう!」
言うや否や、一目散に駆け出した。慌てたリオが声を上げる。
「あっ、待ってよノウ! さようならマフィンさん、またお店にも来てくださいね!」
妹はぺこりと軽く頭を下げ、大急ぎで兄の後を追いかけた。取り残されたオオタチは、初めは呆気にとられていたが、はっと我に返り、両手で口を囲って声を張り上げた。
「気をつけて帰ってねーっ! モリアさんによろしくー!」
聞こえたかしら、と呟くと、緑の木の葉が音を立てて笑った。
片手の牛乳ビンに視線を落とすと、もうほとんど泡が消えかけている。遠ざかって行く二つの小さな背中を見つめて、マフィンはふぅっと息を吐いた。
「あの子たちがこの村に来て、もう随分経つのね」
また風が吹き、オレンの木々がざわめいた。遥か向こうにそびえる名峰、アルカンシエルの頂から、穢れ無き真っ白な雲が流れてくる。
「……本当に、元気に育って」
風の音の中で、子供たちのはしゃぐ声がいつまでも響き渡った。
二匹は丘を越え、緑の坂道を尻で滑り、走って走って帰路を急いだ。風に吹かれてふわふわ浮かぶハネッコの群れの真下をくぐり、道行くジグザグマやコラッタたちと簡単な挨拶を交わして、何の前触れもなく地中から飛び出したディグダにつまずきそうになりながらも、その足取りは止まらない。
ここシラカシ村はそう広い村ではないものの、プラスルとマイナンの小さな体で走り回るには充分すぎる。
太陽はとうに南の空の頂点へと達し、草原全体を容赦なく照らしつけている。二匹は帰路を急いでいた。
「ねぇリオ、何かいいにおいがしない?」
ノウはひくひくと鼻を動かした。頬を撫でるそよ風に乗って、ほんのりと甘い香りが漂っている。
隣を走るプラスルがすかさず答えた。
「これ、はなつめくさのにおいだわ。そろそろ咲き始める時期なのよ」
「ふぅん、よく知ってるねぇ」
ノウが感心したように唸ると、リオはにっこり笑った。
「うん! わたしの一番好きなお花だもん」
右耳につけた花飾りがしゃらんと音を立てた。赤い耳に青色の花はよく映える。いつもつけている、リオのお気に入りの耳飾りだ。
「おーい! ノウくーん、リオちゃーん!」
丘の向こうから何やら呼び止める声がする。二匹が振り返ると、こちらに向かって走る小さなポケモンが三匹ほど。右からウパー、ニドラン♂にチェリンボだ。
「あっみんな!」
返事のつもりで大きく手を振ってから、リオは彼らの様子にはっとした。三匹ともひどく取り乱しているように見えるのだ。何かあったのだろうか、横目でちらりと兄を見ると、やはり同じことに気付いたらしい。ぴくりと青い耳を動かすと、すぐさま彼らの元へと駆け寄っていく。
「おはよう! マルル、ランディ、それにチェルシーも。みんな、どうしたの?」
「ノ、ノウくん! 大変なんだよ!」
「UFOが……UFOが森の上に浮いてるんだ!」
荒く息を切らしてウパーとニドラン♂が声をもらす。
「UFO?」
後から来たリオが首をかしげると、チェリンボのチェルシーがまくし立てるように話し出した。
「なんだかね、青く光りながらふわふわ飛んでるの! 最初はアサナンが瞑想でもしてるのかなって思ったんだけど、動き方がなんだか不気味で……」
「ほら、あそこ!」
一角兎ニドラン♂のランディが頭に生える小さな角を振りかざし、ある一点を指し示す。ノウは背伸びをして額に片手をかざし、よーく目を凝らしてみた。ここからそう遠くない森、青々と茂る深緑の木々の上に、ふわふわと浮かぶ見慣れぬ物体が。
「ほんとだ……何だろう、あれ」
「分かんないよう」
「大人を呼んできたほうがいいのかなぁ……?」
ウパーのマルルが落ち着き無くぱたぱたと尻尾を地面に打ち付けた。チェルシーは不安げにつぶらな瞳を潤ませ、いつも陽気な立ち振舞いのランディも長い耳を背中にぴったりくっつくほどまで寝かせている。
ノウとリオはしばらくの間、じっと空に浮かぶ謎の物体を観察してみた。森の上に浮かぶそれは、大人しく静止しているかと思えば何の前触れも無しに突然すぅっと動き出す。天に昇ろうとしたかと思えば、また不規則に右へ左へ行ったり来たり。おまけに青鈍色の淡い光をぼんやりと宿しているのだから、チェルシーの言うとおりなるほど確かに不気味である。
「あっ……」
放心したように声を漏らしたのはリオだった。
どこへ行くでもなく漂っていた物体は、突然糸でも切れたように落下を始めた。枝からちぎれた木の葉が右へ左へひらひらと舞い散るように、あるいは、日の入りの早い時期に空から舞い降りる白い天使たちのそのように、ゆっくり、ゆっくり、重力の赴くまま落ちてゆく。やがて鈍い輝きは力を無くし、ほうき星となって青空に溶けた。
「え……消えちゃった、の?」
「さぁ、森に落ちたようにも見えたけど」
マルルとランディが首を傾げ合う。その間をおずおずとチェルシーが割って入った。
「ねぇ、やっぱりあれ、ポケモンだったんじゃないかしら?」
「ポケモン!?」
とうとうノウの好奇心が発火した。
「ぼく、ちょっと見てくる!」
「ええっ!?」
ノウが元気よく飛び出そうとした瞬間、首が曲がりそうになるほどの衝撃に止められた。ぐぇ、と苦々しい唸りを上げ後ろを見ると、ランディがノウのかばんをくわえて必死に踏ん張っているところであった。
「な……何、するんだよぅ……」
「ダメだよー! 危ないって!」
すかさずマルルとチェルシーが回り込み、ノウの体を押さえ込む。
「そ、そうだよ。あれが何なのかも分からないのに!」
「それに子供だけで森に入るなんて! いくらなんでも危なすぎるわ!」
「わ……分かった……分かったからっ」
生返事はしたものの、彼らの言葉はよく聞き取れなかった。なおも首の絞まり具合は緩む気配がない。ノウは涙目になっていた。なんとかこの状況を打破しようと、慎重に右手を伸ばしてニドラン♂の体を探り当てる。が、そのために後ろのめりになったのがいけなかった。
「あ」
急にふわりと両足が浮いたかと思うと、一気に左肩が重くなる。頭がぐるりと回転し、視界いっぱいに大口を開けたばけもののような紫色の棘棘が広がった。
「うわぁっ!」
思わずぎゅっと目をつむる。
どしん、衝撃とともに、胸が押しつぶされそうになった。恐る恐る目を開ける。横たわるニドラン♂の顔が真っ先に目に入った。少しだけ首を動かすと、紫色の毒々しい棘がぎらりと光る。落ちた場所がほんの少しでもずれていたら。顔中の毛がぞっとそそけ立つ。
「ちょ、どけよ! 重たいってば!」
腹の下でランディがばたばたと身もがきした。とはいえノウの体も満足に動けない。背中には、ウパーとチェリンボ二匹分の体重がのしかかっているのだ。しぼんだ肺から苦しい息を吐き出した。
「チェルシー……ちょっと、先、どいて」
「ごめん、待って、葉っぱが、ちょっと引っかかっちゃって」
「痛い痛いっ! えらは踏まないでっ!」
「おい気をつけろよ! おれの棘に触ったって知らないぞ!」
すっかりぐちゃぐちゃになって揉める四匹の子供たち。そんな彼らの横を、小さな風が走り抜ける。ノウは、それを見た瞬間、全身に水を被ったような感覚に襲われた。他の子供たちも同様だった。
なぜなら。
「リオ……?!」
「リオちゃん! どこへ……」
長い耳を揺らして走るそのポケモンは、ノウたちの呼びかけにも応じることなくまっすぐに森へと向かっていく。
ノウは腹に力を込め、思い切り身を振るった。あっけにとられたマルルとチェルシーが背中から転がり落ちる。立ち上がり、ランディの口からかばんをひったくる。自由の身だ。
「おいノウ! お前まで」
「ごめんランディ、大人にはナイショにしてて!」
振り返りそれだけ言うと、ノウは足を速めた。先を走るプラスルは、依然としてペースを緩める気配はない。
妙な焦りを覚える。何か、急がないと、何かが手遅れになってしまいそうな、頭にこびりつく嫌な予感。
追い風が足の運びを手伝った。
「ナイショ、って言ったって……」
取り残された子供たちは互いにぽかんとした顔を見合わせた。風が吹き、遠く深緑の海が誘うように大手を振る。三匹はじれったいようにまごまごと口を動かし、困ったように足を踏みかえ、やがて――
「お、おれたちも行くよ!」
「ノウくーん! 待ってよー!」
「あっちょっと、ねぇ置いてかないでー!」
村外れの森が大きくざわめいた。日の光さえ届かない臼闇の森の中へ、はなつめくさの香りと共に、風が冷たく吸い込まれていく。
先程とは打って変わって、うっそうと茂る森の中。
そこに入った青年、ハマイエは戦うべき老人がいないことに妙な疑問を抱いていた。
「七賢人とかいう奴……どこ行ってん……まさか、逃げた、とか……」
そんなことを言っていると、背後から大声がした。
「しょあっ!!!」
誰だって背後から大声を出されると驚くものだ。彼も例外なく驚く。なんなら、驚きすぎて膝から倒れたくらいだ。
「ハア、ハア、びっくりした……」
「驚きましたか!?我々に挑もうとする青年よ。……おっと、紹介が遅れましたね。わたしは七賢人が一人、アスラ。相手をこうして驚かせることで、心の隙を作るのですよ。その隙に日本という国を掌握しようとしたのですが……あなた方のように反逆する人がいますとはね。容赦なく叩き潰させていただきますよ!」
「とりあえず、お前みたいな卑怯な奴には負けるかあっ!!」
こうして、戦いの幕は上がった!
アスラが先発で出してきたのは、ジョウトという地方を駆け巡るポケモンのうちの1匹で、雷を司るライコウ。対して、ハマイエが出したのは大きく毒々しい色のメガムカデ、ペンドラーだった。
「スパークで鈍重な虫を仕留めてあげなさい!」
先に動いたのはいかずちポケモンの方だった。体に眩い電気を身に纏い、一直線にぶつかっていく。
しかし、アスラはペンドラーの素早さを確実に勘違いしていた。
このメガムカデ、大きな体を持っている割に素早い動きができるのが売りなのだ。決して鈍重ではない。むしろ、ライコウの足に追いつけそうなくらいだ。無論、スパークはあっさりと回避された。
「なっ!?」
「そろそろやな。嫌な音を思いっきり響かせろ!!」
ギュイイイイーーーン!!!
ものすごい音が響き、いかずちポケモンは動きを一瞬止めた。その隙を見計らって青年は指示を飛ばす。
「どくどくをかませ!!」
ムカデの口から紫色の液が飛び、しっかりと雷獣にかかった。苦しそうな表情を浮かべるライコウ。
それでも、攻撃は行う。放電によって広範囲に広がった電撃はムカデにヒットしていた。
しかし、猛毒は体を蝕んでいく。この場合、じわりじわりと、時間を経るごとに毒のダメージは倍加していくのだ。
「ここで決める!ペンドラー、ベノムショック!!」
指示が飛ぶやいなや、ムカデから特殊な毒液が振り掛けられる。それを、まともに食らってしまったいかずちポケモンは悶え苦しみ、とうとうノックアウトされた。
「ベノムショックがこんなに強いとは……」
「毒の状態をかけといたからな。威力が倍になってん」
「……まだ1匹目です。あなたをこれからいたぶってあげましょうか!!」
老人が出してきた2匹目はエンテイ。炎を司る、ジョウトを駆けるポケモンの1匹だ。一方の青年は、この世で最も美しいと称される慈しみポケモンのミロカロスを出した。
火山ポケモンは登場してすぐ、佇む海蛇に火炎放射を見舞った。
しかし、その炎は相性を含めた技の効果によってほとんど効果のないままに終わる。いつの間にか、辺りは水浸しになっていた。海蛇の体も、水で濡れて何とも言えず、美しくなっていた。
「水遊びで炎を緩めたというわけですね」
「そういうこと。ミロカロス、そこからアクアリングを!」
さらに慈しみポケモンの周囲に水の輪が出現する。火山ポケモンは攻め方を変えざるを得なかった。
「ならば、神通力!!」
不可視の念の力がごう、と巻き起こり、攻撃を行おうとした海蛇を怯ませる。それでも、ぷかぷかと浮かぶ水の輪は攻撃を受けるたびにミロカロスにさらなる体力を供給し続ける。もともとの防御に自信のあるミロカロスを、エンテイはなかなか打ち崩せない。
そして、ここまでじっと耐えていた海蛇から、容赦のない一撃が飛ぶこととなる。
「ハイドロポンプ!!!」
彼女の口から激しい水流が迸った!その水流はしっかり命中し、仮想空間の木々をバキボキと何本かなぎ倒しながらエンテイを吹き飛ばし、とうとうノックアウトにまで至った。
3匹目にアスラから出されたポケモンはスイクンだった。それを見て、ハマイエは新たなポケモンを出した。彼の一番のパートナー、エルフーンを。
「一撃のもとに沈めてあげましょう!オーロラビームを発射してあげなさい!」
「悪いけど、先に行かせてもらうわ。エルフーン、綿胞子!!」
風隠れポケモンの動きは速かった。オーロラポケモンが虹色の光をためる前に、もうすでに体の綿を膨らませ、其処ら中にばらまいたのだ!纏わりつく綿達にスイクンがやきもきしていると、今度は黄色い粉が降ってきた!それは痺れ粉だった。
イタズラ心の特性を持つ風隠れポケモンの、変化技をふんだんに使う攻めはトリッキーと言えよう。
さらに嘘泣きまで追加されたものだから、スイクンにとってはたまったものではない。
「くっ……こうなったら……吹雪を仕掛けなさい!」
突然、冷たい風がびょう、と吹いて、風隠れポケモンに襲い掛かってきたのだ!この時ばかりは避けきれなかったようで、ふわもこの綿が一部凍ってしまっていた。嘘泣きで特殊攻撃力を大幅に削いでいたことがラッキーだったようだ。
「ちっ……簡単には勝たせてくれへんわけか」
「そういうことです。もう一度吹雪でなぎ倒してあげなさい!!」
そのまま、先程より強い冷気がエルフーンに襲い掛かってきた、が……
大技でも、当たらないと意味がない。空しく回避されるに至った。
「今度は、こっちが……!エルフーン、エナジーボール!!!」
飛び上がった風隠れポケモンの周りに、無数の緑色の生命の力がめぐり、それらはすべてオーロラポケモンに命中したのだ!
スイクンはそのままバタリと倒れ、ノックアウトされた。
4匹目に老人の手によって出されたポケモンは、シンオウの大地を飛び回る三日月のポケモン・クレセリア。対して青年が送り出したのはとうじんポケモンのキリキザン。
先に動いたのはクレセリアだった。ここまでハマイエに変化技で散々苦しめられているアスラは、変化技の効果を避けたい、とばかりに神秘の守りと白い霧を繰り出す。
「じいさん、妨害だけが変化技やないってこと、教えたるわ。剣の舞を踊れ、キリキザン!」
白い霧は相手の能力降下技を躱せる技である。神秘の守りは状態異常を防ぐものだ。先のエルフーンになら、この戦法をとって勝てたかもしれない。
しかし、目の前にいるとうじんは、自分の能力を高めることで障壁を意に介さないものとしていた!攻撃力を高めた悪鋼のとうじんの前には、耐久力に優れているとされる三日月の幻のポケモンもただの無力な存在と化していた。
「辻斬り!!!」
黒いオーラを纏った刃はクレセリアを一閃し、その一撃のうちにノックアウトさせた。
5匹目にアスラが送り出したポケモンは筋骨ポケモンのローブシンだった。対して、ハマイエは独特な形状の鳥もどきポケモン・シンボラーを出した。
先に動いたのはシンボラーだった。星や宇宙の力をその身に与えるコスモパワーを行い、光に包まれつつ守りを重ねることにしたのだ。それに対し、両手にコンクリートの太い柱を持つ筋骨ポケモンは、高い集中力から放たれた気合いパンチで鳥もどきを打ち据えた!
しかし、格闘のダメージは相性によってかなり軽減された上、宇宙の守護によってさらにダメージを抑えられる結果になったため、攻撃の割にはシンボラーはピンピンしていた。
それを見たアスラは次の指示を飛ばす。
「ストーンエッジで浮かぶ鳥を落としてしまいなさい!」
「させるか!サイコキネシスで押し返せ!」
鋭い石のかけらは、次から次へと鳥もどきに向かっていくが、それらはピタリとストップし、逆にローブシンを襲う結果となった。さらに波及していく念動力に、さすがの筋骨ポケモンも白旗を上げざるを得なかった。
アスラが最後に出してきたのは、怠けてしまってはいるものの強力なパワーをその身に秘めているケッキング。一方のハマイエは、最後を託すポケモンとして、手掴みポケモンのヨノワールを出した。
「あなたが幽霊のポケモンを出した時点であなたは負けるのですよ」
「何でそう言い切っとんねん」
「だって、あなたは幽霊に指示を出せないという心の弱さを持っているのですからね」
「……お前が、いつの話をしとるんか知らんけど、俺はお前が言う通りの奴やないからな!!」
ここで先に動いたのはものぐさポケモンの方であった。隠し持っていた大きな球体をドスッという音とともに投げつけてきたのだ!「投げつける」によってヨノワールに降ってきたものは黒い鉄球。人間がまともに食らったら気絶してしまうだろう。
攻撃を終えて、特性の効果でだらりと怠けているケッキングに向かって、ヨノワールはある技を発した。それは……
「ヨノワール、呪いを使え!」
指示するなり太い釘がグサグサと、何本も手掴みポケモンに突き刺さるではないか!
「自分を傷つけるだけの技を、何故簡単に行える?」
「それだけの技と思うな!!こっちだって考えとんねん!!」
ハマイエの言葉に、アスラがケッキングの方を向いてみると、ケッキングは、
苦しそうに荒げた息を発していた……!!
「ここで鬼火を出してくれ!」
苦しみに悶えるものぐさポケモンに追い打ちをかけるが如く、怪しい炎がふわりふわりと舞い、そして燃やした。火傷と呪いのダブルパンチが容赦なくケッキングを追い詰める。さらに攻め手を緩めぬハマイエ。だいぶ弱ってきたところを見て最後になるであろう指示を飛ばした。
「ヨノワール、ここで決めるで!気合い玉!!!」
橙色のフルパワーの塊がものぐさポケモンを覆い尽くした……!!
「わたしはあなたの心の隙を作ろうとしましたが、むしろわたしがあなたに心の隙を見せてしまったようですね……わたしの負けです。これを受け取りなさい」
ハマイエはアスラから、勝利の証となる鍵を受け取った。
「こいつでどこの鍵を開けるん?」
「あなたの目の前のドアです。……あなたは強かった……さあ、先へ行きなさい!」
アスラに送り出され、ハマイエは扉の施錠を外し、先へと進んだ……!
七賢人完全撃破まで、あと、4人。
次へ続く……。
マコです。
変化技をふんだんに使ってのバトル。
猛攻撃型の自分にとっては羨ましい限りです。
二人目の七賢人も撃破です!
次回の七賢人のヒントは……「海内存知己 天涯若比隣」。
読み方と意味も次回、一緒に出します!
ガーネットは目を覚ます。見た事もない場所。手触りのいいふわふわマットに、頭の下には柔らかいぬいぐるみ。体を起こす。雨で体が冷えて、体温がどんどん上がっているのが解る。とても寒い。震えているのはそれだけじゃない。
「起きた?大丈夫か?」
まだマグマ団の格好のまま。いつもより冷たく見えたのはそのせいかもしれない。ガーネットは手元にあった白いエネコのぬいぐるみを投げつける。
「消えろ!お前なんか知らない!」
熱のせいで力が入らない。エネコのほほえんだ顔のまま、ザフィールの腕に収まる。何を言っていいか解らないような顔で、彼はそこに立っている。知る限りの罵りの言葉を伝えたいのに、上手く出て来ない。感情が溢れ、涙が頬を濡らす。
「ごめん、黙ってて」
「近寄るな!全部お前だったんだろ!」
差し出された左手を払いのける。びくっと体を動かしたのが解った。けれどガーネットは変わらずザフィールをにらみつけている。呼吸も乱れて声も涙掛かっていた。
ザフィールが身をかがめる。そしてそのままガーネットを抱きしめた。離せと抵抗するけれど、今の彼女では払いのけることは不可能で。マグマ団の服越しに感じる彼の匂いは変わらない。
「何するんだよ!離せ」
「嫌だ、離さない」
それでもこんなに心臓が乱れるくらいに、後に引けなくなっていた。だからこそ、現実を認めたくなかった。けれども優しく抱きしめてくれるザフィールは反社会的なマグマ団で、そして一番思いたくなかったことだった。
「確かに俺はマグマ団だよ。アクア団に復讐したくて、ボスに拾ってもらった」
聞きたくなかった。本人の口からそんな言葉。耳を塞ぎたくても、ザフィールの言葉が次々に入ってくる。
「ずっと言おうと思ってた。けれど俺にそんな勇気がなくて、こんな時になって、本当にごめん」
耳元に残る彼の声は震えていた。
「ふざけんな」
この胸に抱かれてる時に出てくる感情。ずっと否定していた心。もう否定することは出来ない。自分に嘘を突き通すことは出来なかった。
「私の心を返してよ。味方だって思わせておいて、そうやって」
涙が止まらない。入るだけの力で、ザフィールを抱きしめた。本当はこうしていたかった。アクア団の誘いに迷ったのも、ザフィールの潔白を証明したかったから。そして断ったのも彼が悲しむと思ったから。それなのに、マグマ団だったなど、受け止めるには重すぎる。
大きな声で泣いた。ザフィールは黙って抱きしめてくれていた。言葉にならない声。たくさんのことを伝えたかった。それなのに何一つ意味のある言葉にならず、声となって出ていってしまう。
「落ち着いた?」
ガーネットは黙って頷く。大声を出して気持ちがすっきりしたのか、今はだいぶ現状を受け止められるようになってきた。一度腕から離れてみる彼は、まぎれもなく市井で見るマグマ団そのもの。フードの隅から見える白い髪が、本人だと証明している。
聞きたいことはたくさんある。どうしてマグマ団にいるのか、ジョウトで見たのは本人なのか。何も言わず、ザフィールはこちらを見ている。そんな彼を見ていたら、今は全てどうでもよくなった。濡れているザフィールの体を引き寄せて、そしてフードを取らせる。つららのようになってしまった白い髪。
「本当に、ごめん。今まで黙ってて。バレたくなくて、ずっと嘘ついてた。疑われるのが嫌で、ずっと言えなくて」
今のザフィールから出る言葉は、嘘ではないようだった。まっすぐと見て、今の素直な気持ちを言葉にして。
「それでも、カナシダトンネルとか、ハルちゃんのこととか、助けてくれたことはすっごい嬉しくて、余計に言えなくて。いつ言おうかって迷ってた」
悪いことをしたときの子供のようだった。ガーネットは全てを聞き逃さないように頷く。
「だから、許してくれなんて思ってない。俺が隠してたのが悪いんだから。それに、マグマ団の活動だからって、人にほめられないようなことも、違法行為だってしてきた。だけど、一つだけ、本当に信じて欲しい。俺は人を殺してない」
真剣な顔つき。けれどガーネットはそれを突き放す。
「信じられるか。なんで、そんなこと、信じるなんて」
心に引っかかるその事実。マグマ団にいるという時点で、一つまた黒へと近づいたというのに。けれど、事実は事実、ガーネットの心はそれと反していた。
「信じたいよ、ザフィール。でもどうしてマグマ団にいるの、どうして」
私に優しくしたんだ。その言葉を言えず、ザフィールの体を抱きしめた。力を入れても、熱のために上手く入らない。どうして目の前の人はこんなに優しくしたのだろう。そうでなければ、こんな気持ちにはならずに済んだのに。
それからしばらく二人で黙っていた。外は夜だというのに全く変わらず雷雨が続いている。雷光が中まで通る。どれくらいまで熱が上がったのか解らないほど体は熱かった。それなのに寒気を感じている。手は冷たい。
「ザフィール、バッグとって」
外されていたポーチの中身を見た。何度みてもそれは無い。
「何使うの?」
「寝れる薬」
「どうして?いつも早く寝てるのに」
「私の友達がね、死んだ時、真っ赤な血が溢れてた。浴室を赤くしてさ。それを見てから、目を閉じるとそれが見えてきて」
被害者ではないのにね、と笑った。
「でも大丈夫、きっと熱があるから寝れる、多分ね」
ふかふかマットの上に横になる。自分の荷物を枕にして。そしてそのままザフィールの方を見ていった。
「近寄ると、うつるよ。おやすみ」
おやすみ、と軽く返し、ザフィールもなれない床についた。
もう一人の私。もう時間がない。早く、早くそこにいるならば私を迎えに来て欲しい。邪悪な気に取られる前に。
何やら眩しい。朝日が顔を照らしていた。ザフィールは体を伸ばすと、外の様子を見た。昨日と打って変わって快晴。雲一つない綺麗な空だった。近くの川はまだ増水した時のままだが、他はすっかりいつもの通り。
空腹だというように腹が鳴る。そういえば夜はあんなことがあったために何も食べずに寝てしまった。何かあったかと鞄を探すと、チョコレートとおいしい水が出て来た。空腹を満たすように、まずおいしい水を一つ開ける。喉が潤い、少し空腹も満たされる。
「ガーネット何か食べる?」
声をかけても反応はない。いつもなら自分より早く起きるはずなのに、今日はまだ眠っていた。調子が悪いんだな、と側による。
「・・・かわいいよな」
最初は凄い怖いと思っていたけれども。カナシダトンネルでは本当に救いの天使に見えたし、フエンタウンの時はこちらの好みを把握してプレゼントくれるし、ミシロタウンに帰ったらハルカからかばってくれて。それに髪のことだって、気にしてるなんて一言も言ってないのにからかうこともなく、聞いてくることもなく、雪みたいだと言った。
まだ眠ってる。そのガーネットを独り占めしたい。けれどそんなこと受け入れてもらえるわけがない、今となっては。だから、この瞬間だけでも。気づいたらザフィールはガーネットの唇に触れていた。やわらかく、そして熱い。唇を味わう。ガーネットから離れ、その顔を見つめる。冷静になったのか、何をしてしまったのか考え、誰もみていないよな、とまわりを確認する。
「本当、なんでこうなっちゃったんだろ」
だったらなぜその行為に及んだのか疑問は残る。それでも、後悔は無かった。少しでも自分のものに出来た。今の状態では、到底受け入れてもらえそうにない。それだけで、ザフィールは良かった。
「・・・ヒワマキ行くなら着替えないと」
入り口付近に鞄を置きっぱなし。昨日はここに運んだ直後に天気研究所に戻り、そうしたらもう終わったと言われ、途中で抜け出すなとマツブサに一言怒られる。そしてそのまま帰って話して。着替える暇もなかった。外を見ながら、服を脱いだ。
何度も見た、血が飛び散る様子。夢は白黒ではなかったのか。思わず目を開ける。けれども今日は何か違った。もう大丈夫だよ、と暖かい声をかけられた瞬間に目を覚ましたようだった。目覚めの不快感が無かった。もう朝日がのぼってきていたようで、日差しが見える。
「ザフィール?」
だるさの残る体を起こし、離れている彼を見た。服を脱いで、背中が見える。そしてその背中には、見た事もないような大きな切り傷が何カ所もついていた。すでにどれも傷跡。
「どうしたの!?その傷」
慌てて振り返る。見られたくないものを見られた顔をして。悪いことやいたずらしたのではなく、他人には気軽に話せないような。
「なんでもない!なんでもないから!」
隠すように服を着た。見慣れた姿に戻る。そして足元の鞄を取ろうとして、ザフィールは止まった。どうしたのと近寄ると、ザフィールの足元に何かいる。背びれは穿孔していて、他のヒレもみすぼらしい。
「なにこれ、魚?」
ピチピチとザフィールの足元で跳ねている。その力は全く無さそう。
「ヒンバスだよ。きっと昨日の大雨で流されて来たんだな。こいつさ、野生だと綺麗なミロカロスの鱗が手に入らないと進化できないんだぜ。最初のヒンバスはどうやって進化したか知ってるか?」
「知らない」
「渋い味の木の実が災害で台風で流れ込んでさ、それを食べたヒンバスから進化できたっていう説があるんだ。今はトレーナーのヒンバスはポロックだね・・・って!?そんな大量に食べるわけないよ!?」
ザフィールが話している側でガーネットはポロックケースの渋い味がするポロックを全部ヒンバスの前に出した。非常食としてたくさん作ってあったもの。持ち運びしやすいからと作りすぎたと思っていたのでちょうどいい。それにガーネットは渋い味が苦手だった。
「ほら、食べてるじゃん」
目の前のポロックの山をヒンバスは一つずつ片付ける。水もないのに、よく動くヒンバスだ。ガーネットは自分が正しいと言わんばかりにザフィールを向く。
「いやいや、量がね・・・まあいいのかな」
進化できる条件だと本能が知ってるのか、ヒンバスはポロックを食べ続ける。
「ガーネット、支度できたら早く行こう。昨日より熱あるし、夏だからって濡れたままじゃ悪化するし」
「昨日、より?」
「そう。熱で涙目になってるし。早く行こう。ここからならヒワマキシティは近いから」
荷物を持って立ち上がる。ザフィールが左手を差し出した。それをガーネットはつかむと立ち上がった。再び足元でピチピチ音がする。両腕で抱えられるほどあったポロックの山をヒンバスがたいらげたのだ。
「まじかよ、すげえなコイツ。もう川に帰れ。干涸びるぞ」
ザフィールが左手で掴むと、川へ向かって投げる。ぱちゃんという着水音がして、ヒンバスの姿が見えなくなった。
「ちゃんと生き残ればいいな」
「ねえザフィール」
左手を掴む。そして何かを言おうとしてやめた。ヒワマキシティに行こうとだけ言うと、ふらつく頭と足を踏み出して歩く。
「無理すんなって」
ザフィールがかがむ。その距離くらい行けるから、と。ガーネットは何も言わず、彼の背中にぴったりと近づいた。離れないように、しっかりと手をまわして。
「んじゃ、まずはヒワマキのポケモンセンターだな」
「そしたら、ザフィールを警察につきだして・・・」
「ええっ!?そこ!?」
「そんでマグマ団を壊滅させて・・・」
「いやいや、それは困る!」
そんな話をずっとしていたけれど、二人ともとても楽しそうだった。半分冗談、半分本気で。一番言いたい、マグマ団をやめるように諭す言葉は中々出そうにない。もし、可能ならもう関わらないで欲しいのに。
そして、長い丈の草むらから、二つの目がのぞいていた。いつ飛び出そうか、いつ現れようか。あの二人の前に現れていいものなのか。けれど予知した二人はあれに違いない。
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