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雄介君。ゆーすけくん。ゆーくん。ゆーすけ。ゆー。
声は出ないけど、念じてるよ。何年前から念じてるのかな。知らない知らない。知りたくない。そうだね、ゆーすけくんが、にっこにこ笑ってハイハイしてるときから、ずーっと見てたけど、
ここ最近見てないねぇ。うん。押入れを隔てて、ゆーすけくんがしゃべってるのは分かるよ。毎日、声を聞いてるよ。でも、それは押入れを隔ててなんだよねぇ。顔を見たのはいつのことだろう。うーん……。
ゆーすけくんが、ぼくを押入れに片付けてしまったのはいつのことだったかなぁ。お友達が遊びに来て、ぼくのことを見て、笑ってた。ゆーすけくんは、あはは、そうだねと笑って、ぼくを押入れにぽーいって投げ込んじゃった。いつ、出してくれるんだろう。出してくれる日は来るのかなぁー。早く、出してくれるかなー。
暗い押入れの中に、光が一筋。明るい光の中に、埃がきらきら舞ってた。男の人が僕を押入れから出してくれた。うん?この人、ゆーすけくん?あー、ゆーすけくんだ。久しぶりだねー、随分お父さんに似てきたねぇ。もう、子供っぽい顔じゃないねぇ。
ゆーすけくんが、ぼくを軽くぱんぱんと叩く。光の中に舞う埃が、一層量を増した。そんなにぼく、汚れついてたかなぁ?ちゃんと、太陽の光に当てて干してよね。あと、できれば押入れの中じゃなくて机の上においてほしい。らじこんとか、げーむ機とかと一緒に机の上においてほしいな。
あれ?ゆーすけくんの机の上、難しそうなほんでいっぱいだ。漢字がたくさんあるねぇ。ぼくの座る場所はあるのかなぁ……。
あ。暗い。何。袋? 入れないで、また片付けるの? ちぇー、早速押入れから出られたと思ったのに。
がたんごとんがたんごとんがたんごとんがたんごとんがたがたがたがたがたがたがたがたがたがたがた、がたっ。
うぃーんうぃーん。
ものすごい音が、聞こえる。うるさいうるさい。ゆーすけくんの声は聞こえない。上から、たくさんのものが落ちてくる。ぼくのおなかに、落ちてきた何かがめり込む。痛くなんてないんだけど、じぶんのおなかに何かがめりこんでいい気になることがあるはずない。ぼくは真っ黒な袋を切り裂いて、外へ出た。
なぜか、ぼくは動いている。歩いても走ってもないのに、動いている。ん?ぼくのたっている地面が動いているのか。どこにいくのかなぁ?行く先を見つめた。たくさんの騒音。
うぃーんがしゃーんがたんごきごとーん……ごごごごごごごごごごご。
赤い、赤いねぇ。赤い何かがゆらゆらしてる。これ、見たことある。いつか、テレビで見たお馬さんみたいなのが口からたくさん出してた。それに当たった、草や木は真っ黒になって、ぱりぱりになってしまうんだ。え、じゃあ
ぼくもそうなるのか。真っ黒に、ぱりぱりに。あぁ、もう、こんなに近くに。赤い……赤い何かがぼくのすぐそばに。
ぼくもそうなってしまうのか。
……手の先が黒く、ちっちゃくなっていく。零れ落ちた綿は一瞬に消えた。ぼくの体はこうなっているのか。いや、そんなことを言ってる場合じゃないぞ、ぼく。え、何なんで。どうなってるのさ。
ぼくのからだが、消えてく?……消えてるのか。ああぁ、どうして消えるのかなぁ。ゆーすけくんはわざとぼくを消したのかな。いや、そんなことはない。ないよ。ないでしょ。ぼくは、ゆーすけくんが小さい頃から知ってるんだよ。
ゆーすけくんだって、ぼくのことをずっと知ってるんだから、ぼくを消そうとするはずがな――ぼ――捨て――た?
ふぅわぁー。ぼくは飛んでた。鳥みたいにばさばさはしてなかったけど、浮いてた。浮いて、上から赤いのを見てた。赤いのがいろいろなものをどんどん真っ黒にしてた。一瞬だけ、ぼくが見えた気がした。すぐに、見えなくなっちゃたけどさ。
うん、どうして浮いてるのかは分からない。ただ一つ分かるのは、ぼくの体はなくなってしまったことだ。手を見ることも足を動かすことも、丸いおなかを見ることも出来ない。ただ、ぼくは見ることしか出来なかった。……そうだね、見ることができるなら、それで十分だ。浮きながら、動けるみたいだし、そう、ゆーすけくんの所に行く。いや、行かなくてもいいや、ゆーすけくんの話が聞ければ、いいんだ。
「もしもし、みかちゃん?」
「うん。そーだよ」
みかちゃんは、ゆーすけくんと仲のいい女の子だ。ぼくは頑張っておうちの近くに帰った。あんまり、遠くなかった。たぶん。全部、勘で浮いてきただけだから、よく、わかんないけど。今、ぼくはゆーすけくんのお友達のみかちゃんのおうちにいる。勘で来たら、着いただけだ。ゆーすけくんとみかちゃんは毎日のように電話をしてるから、ぼくはみかちゃんのふりをして、ゆーすけくんと話すんだ。だから、今は少しだけみかちゃんの体を借りる。ちゃんと、返すから、ちょっとごめんね。
「ねー、ゆーすけくんは、何かをなくした?」
「へ?」
「ゆーすけくんは、最近、何かを捨てた?」
「いや、ん……」
「ぬいぐるみを、捨てた?」
「……は、はははいや、俺がぬいぐるみなんか持ってるわけないだろ。小さい頃にはいくつかもって」
「捨てたの?」
「い……は?いや、そりゃ、捨てるよ。汚くなってたし、もう、ぬいぐるみ持ってるのとかださいだろ?高校生にもなって、そんなもの」
「……本当に、もういらないの?」
「いらないよ!みかちゃんが、ほしかったならあげたのにさー」
……。
威勢をはりたいだけなの?かっこつけたいから?でも、もう、ゆーすけくんは、ぼくを……捨てたんだ。
「もういらないんだねもうぼくはいらないんだねゆーすけくんはもうぼくなんていらないんだ!!」
「みか……ちゃん?」
「押入れに閉じ込めて! ずっと、暗い中に一人ぼっちにして! 埃まみれになるまで放っといて!自分は友達と仲良くして! やっと、出してくれたと思ったら、すぐに捨てて!」
「……」
「遊びたかったのに! もっといっぱい、遊びたかったのに! 話が聞きたかった! ゆーすけくんをもっと見ていたかった! もっと、一緒にいたかった!それなのに! もう、ゆーすけくんはぼくがいらないんだ!」
ゆーすけくんは何も言わない。ただ、ぼくが借りている体――みかちゃんの目に熱い水がたまって、床に零れた。
「あぁ、もう、さようならなんだね! さようならさようならさようなら!! ばいばい! じゃあね!あー、さっぱりすっきりした! あーさっぱりした! うけけけけけけけけけけけけけけけ――」
耳に当ててた、機械が落ちた。みかちゃんの体がゆっくりと倒れていく。僕は、みかちゃんが倒れる音を聞く前に
外に飛び出した。
もう、ゆーすけくんなんて嫌いだ! 大嫌いだ!
思いっきり、叫ぶ。心の中でだけど。もう、体はないから、ぼく一人で何かをすることは出来ないけど、ふらふらとぼくは街を彷徨う。そんなことをしてるうちに、灰色の空から雪が降ってきた。あれ、何かが思い出せそうだなぁ。
鈴の音。カラフルな光。綺麗な箱。リボン。
あぁ、今日は――
クリスマスだ――。
ぼくが、初めてゆーすけくんと出合った――。
「わー、サンタさんからの贈り物だ! 何かな……うわぁ! ぬいぐるみだ!サンタさん、ありがとう!そうだね、名前名前……じゃあ、「 」ね!」
……ゆーすけくん、ゆーすけくん、ゆーすけくん……。
悲しくて、苦しくて、寂し……い、よぅ。
今、スーツ着た男の人がおおっきなぬいぐるみを抱えて、家に帰ろうとしてる。真っ黒な瞳がぼくをじっと見ていた。まだ汚れていない、綺麗な毛並み、つぶらな瞳、お腹についたリボン――。
ぼくは、笑った。あれは、昔の、ずっと昔の――ぼくだ。
大事にしてもらって、一生大事にしてもらって、幸せになって、楽しく過ごして――ぼくみたいにはならないで。
雪が降る雪が降る。何だかとても眠くなったのでぼくは――寝た。
街に大きなビルが建った。中にはたくさんの施設があった。ポケモンバトルの出来るところ、買い物が出来るところ、大人の遊び場もある。街の真ん中に建った大きなビルを見て多くの人たちはすっごい喜んでた。
「ふー」
「今日も平和だねぇ、ゴースト」
「お前もゴーストだろ」
結果、街の上空を吹き抜ける風は止まってしまった。張り巡らされた電線に紐がひっかかる、腕がひっかかる。
「ひっかかっちゃったよあはは」
「ひゃあ、絡まったーげほんげほん」
「ごめん胞子出たぁ」
風に飛ばされるゴースやゴースト達は風の止まったそこにたまった。一キロもない身体だけれど、よどみから抜け出す力すらないわけでもない。でも、別に彼らは困りはしない。出たいとも思わない。風に飛ばされることが好きでも嫌いでもない。飛ばされているだけ。存在している場所がそこだと言うだけ。自分の好きな場所なんてないし、嫌いな場所もない。日の当たる場所は身体には悪いけど、別に消えるのなら消えても別に構いやしない。だって、もう死んでるみたいなものだし。
風に乗るフワンテやワタッコ達は風に乗り切れず、建物に衝突したり電線に絡まったり。彼らには目的があった。フワンテは魂を運ばなきゃだし、ワタッコは胞子を世界中に撒き散らさなきゃいけない。だから、電線に絡まってる暇なんかないから必死にもがいて逃げようとする。街のあちこちで電線が切れた。
やがて、ゴースやゴーストのたまってた場所はよく見ると紫色に見えるようになった。ガスだし。あと、ビルの外側のガラスに手の跡がついたりするようになった。類は友を呼ぶかな。ビルでは怪奇現象が増えた。カメラに映る影、誰もいないのに聞こえるあしおと。ビルには様々な噂が飛び交った。昔、ここは墓場だったとか病院だったとか。結局、ビルを使う人は少なくなってしまった。
街ではアレルギーの子供が増えた。よどみにたまるゴースやゴーストはもともとガスそのものだし、ワタッコはもがいて胞子を撒き散らす。季節外れの花粉症の人も増えた。
この頃から、街の住民たちはある運動を始めだした。ビルを取り壊す運動。あんだけ自分たちが使ってたビルを悪影響だから壊せと言い出した。ビルを建てた人は「ビルの影響かまだはっきり分からないのでなんとも言えない」と言い続けた。
相変わらず、ビルはなくならない。僕達の仲間もだんだんだんだん増えてきて、逆に街の人々はこの街を離れていった。言っても何も変わらないなら出て行ったがましだ。そんなことをぶつぶつ呟いて、街の人たちは出て行った。
切れた電線を直す人はいないから電線は切れっぱなし。うん。それはそれでいいよ。だって、フワンテやワタッコ達はここでとどまることはなくなったわけだし。
街に人はいなくなった。残ったのは大きな廃墟とガス達。
ふぅ。
僕はため息をついた。光に当たり続けると僕達の身体はやがて消えてしまう。一日に消えるガスと一日に新しくここに辿り着くガスの量は同じくらい。結果、僕達は増えもせず、減りもせず、よどみにたまり続ける。
大きな廃墟。中にはいろんなものが溜まっているんだろう。ゴーストタイプの僕ですら入りたくないくらいだ。割られた強化ガラス、引き裂かれたカーテン、綿の引っ張り出されたソファ、誰もいないバトルフィールド、静かな大人の遊び場。やがて、全体に蔦が纏わりついて、雨に風に酸素に、全部やられて消えてくんだろう。
でも、僕は知ってる。かつて、このたてものは人々の笑顔に満ちていたことに。そして、この建物がその人々の笑顔を消していったことに。
皮肉だなー。もし、風を止めるということを先に知っていたら?建物がもう少し低かったら?この場所に建たなかったら?きっと、この街はとても大きな街になっていただろう。誰もが住みたいと答えるような街に。ポケモンセンターが出来て、ポケモンジムもできただろう。素敵な街になっていただろう。
「でも、結果ここはこうなったんだ」
誰もいない。廃墟と化した街。ゴーストタウン。あ、別にゴーストとかけてるわけじゃないんだよ?
「まぁ、別に僕はいいんだけど」
この街にいるのも疲れてきたし、つまんない。日陰で暮らしてきたけれど、やっぱりつまんない。僕は自らの意思で太陽の光をさけ、日陰で暮らしてきた。だから、僕は自らの意思で今日この街を旅立つことにした。かすかな風の流れに乗れば、またどこかにいけるだろう。
僕の仲間は僕を「変わり者」と呼ぶ。まぁ、変わってるし反論しないし。
僕はゴースト。ガス状ポケモンゴースト。世界を見たいという意思を持つ、ゴースト。
※ 神話が出てきます(というより大半)が神話に詳しくないので間違ってたらすみません
あくまでも、勝手な考えです。イメージを崩されたくないというかたはみないことをおすすめしまう
ゴーゴン三姉妹。昔々に作られた神話に生まれたこの三姉妹は、誰もが見とれてしまうような容姿を持つことで知られていた。ステンノー、エウリュアレー、そしてその三姉妹の仲でもとりわけ知られていたのは、末妹メドゥーサである。
三姉妹の中でもメドゥーサは特に美しいと褒め称えられた。例え、千人の女達の中に彼女を無造作に放り込んだとしても、彼女を見つけることは非常に容易い事に違いない。幾ら他の女が青や赤の宝石で身を飾り、美しい色彩の布を纏ったとしても、裸の彼女の美しさに勝ることは無いだろう。もはや、容姿容貌というよりはもう彼女の持つ「気」の様なもの、それが彼女を美しく見せているとしか言い様がなかった。
桃の皮表面の色、やわからさを連想させる頬。蝋燭のように滑らかな細い指の先には、魚の鱗の如く透き通った爪がはり付いている。そして、何より美しかったのは、彼女の髪であった。長く伸びた彼女の髪は、背中を彩る装飾品と言っても過言ではない。やわらかな髪の一本一本が太陽の光に反射し、大きな宝石を置いている様に輝いた。
そんな美しさを持つメドゥーサであるが、あることがきっかけでゼウスの娘アテーナーの怒りをかい、醜い姿に変えられてしまう。このことに抗議した姉、ステンノー、エウリュアレーも共に醜い姿に変えられてしまうのである。
かつての美しい姿は何処へやら。
薄紅色の頬を隠すかのように、青銅の鱗が全身を覆いつくし、歯は剣の切先の如き鋭さを持った。何より美しかった彼女の長い髪は、森の小枝の様に短く絡み合っている。いや、それはもう髪と呼べるものではないだろう。髪の一本一本がゆらゆらと不気味に揺れ、近づくものには牙をむき真っ赤な舌を出す。三角の頭、縦に長い瞳孔。そう、彼女の、あの美しかった彼女の髪は「メドゥシアナ」と言う蛇になってしまったのである。かつて髪がしなやかに垂れていた背中も、今や黄金の翼がその場所を奪っていた。
けれど、彼女の容貌自体は美しかった彼女のまま。黒い体についた首は美しい少女の顔をしているのである。背に生えた黄金の翼も彼女の顔も美しいはずであるのに、黒い肌や蛇の髪との不釣合いであり、より一層彼女の不気味さを醸し出していた。
人々は彼女を怪物、魔女などと呼び恐れた。美しい姿を失い、人々からは恐れられ、心の荒んでしまった彼女は、人々を度々苦しめるようになった。
そんな彼女を退治しようと立ち上がったのはゼウスの息子、英雄ペルセウス。姉ステンノー。エウリュアレーと違い可死であったメドゥーサだが、その彼女を倒すことは、そう簡単なことではなかった。何せ、彼女の目を見たものは一人残らず石になってしまうというのである。同じ能力を持つと言われるバジリスクやコカトリスならば、背後から忍び寄って首を斬ってしまえばそれで終わりだが、メドゥーサの場合、例えメドゥーサに気づかれずに後ろから斬りつける範囲に辿り着いたとしても、彼女の頭は蛇の群。蛇に騒がれ、メドゥーサに振り向かれればペルセウスの身体は石と化し、二度と動くことは出来ないだろう。
考えたペルセウスは鏡の様に磨いた盾を前に、決してメドゥーサの顔を見ることなく、彼女を倒したと言う。そんな彼女の最後はどのようなものだったのだろう。ペルセウスが盾を前に翳し、反射した映った自分の目を見て石になったとも、ペルセウスに寝ている間に首を斬られたという話もある。何れの話でも、彼女は最終的にその首を斬られ、アテーナーのもとへ贈られることになった。
ペルセウスは彼女の首を抱え、空飛ぶサンダルで海の上を飛んだ。その際、布に包まれた彼女の首から流れ出した血は布を赤く染め、海に滴り落ちた。空から海に落ちた彼女の血は、やがて赤い珊瑚になったと言う――。
そこで私は筆を止め、一息吐いた。メドゥーサは神話の中でもよく知られた怪物である。蛇の髪を持つ、少女。だが、昔私はメドゥーサどころか、ゼウスすら知らなかった。しかし、初めてメドゥーサの話を聞いた時、私はどこか、見たことがあるような心当たりがあったのだ。
首、黒い肌、美しい少女の顔、短い髪、珊瑚の色、魔女――。
部屋の隅へと目をやる。部屋の暗がりに浮かぶそれは、眠たそうに欠伸をして何も居ないはずの空間をじっと見つめている。ムウマ。私は思わず、それの名を呼んだ。それが不思議そうに、赤い目で私の顔を見た。
心臓が跳ねる。手から落ちたペンが机の上を転がり、床に落ちる。時間が止まってしまったかのように、私の瞬きも呼吸も止まった。石と化した私は宙に浮かぶそれを、しばらく見つめ続けた――。
真っ白に塗られた壁があった。一つのゴミも欠けも剥げもない真っ白な壁。。#FFFFFFを画面いっぱいに出したような、壁。だが、この白はあくまでもトマトの皮のように薄く表面を覆っているものにすぎない。少しでも皮をむけばたくさんの落書きが現れるだろう。様々なペンキやスプレーで、ある落書きは薄汚い言葉、ある落書きはサインのような歪んだ文字。どの落書きも自分を一番目立たせようと激しい自己主張をし続けていた。主張、主張、主張。他のものを退けてまで自らを一番にみせようとする落書きのひしめく壁は、決して見ていて心地のよいものではなかった。だから、彼らは白に覆い隠された。
犬の遠吠え。通り過ぎ去る車の音。上弦の月が輝く夜、その白い壁は静かにそこに佇んでいる。けれど、月の光を受け、発光しているかのようにさえ見えるその壁は、どんな建物より際立って美しく見えた。幾つかの光にライトアップされたビルよりも、派手で悪趣味な看板を掲げた飲食店よりも。そう。それは、まるで――色一つ置かれてないキャンバスのようだった。
誰よりも早く色をそのキャンバスに置きたい……! 真っ白の中に自分だけの芸術を、他の誰にも邪魔されないその芸術を、その、キャンバスに……! 自らをアーティストと称する落書き魔達は、あるものはスプレーを持ち、あるものはペンキの缶を持ち、血肉に飢えたゾンビの如くその壁から目を離すことなくゆっくり、ゆっくり、と足を進める。熱にうかされたようなその瞳には、その壁に描かれる予定である自分の芸術が鮮明に映っているのだろう。ぺた、ぺた、ぺた……壁を取り囲む落書き魔たちは徐々にその輪を狭めていく。
そこにもう一つの影が現れた。彼女はうっとりとその壁を見つめている。彼女もまた、その壁に惹きつけられたうちの一人だった。否、一人という言い方は正しくない。彼女の場合、一匹と言うべきであろう。その壁は人だけでなく、ありとあらゆるものを魅了する神秘的な美しさすら持っていたのだ。彼女は今にも外にあふれ出てしまいそうな興奮を抑えようと息を吐いた。その風音の様な呼吸音は夜の街に小さく響いた。だが、周りに立っている落書き魔は誰一人として彼女に気づかない。壁から目が離せない。確かにそれも一つの理由であろうが、完璧な理由ではない。誰も彼女に気づかない、もう一つの理由。彼女が極端に小さな体をしていたからではない。誰の視点も彼女の姿を見る高さに存在していなかったからだ。何故なら、彼女の体は落書き魔たちの体の半分ほどの高さしかなかった。
「うわ、うわあぁぁぁあああ!!!」
一人が悲鳴を上げた。彼女は驚いて、声のした方向を見上げる。どきり。声を発した男は目を見開いて彼女を見つめていた。足元に大きな筆が落ちている。それを拾おうと視線を下に向け、彼女に気づいたのか。一歩、二歩と後ずさり、手に持っていたペンキ缶と筆を投げ捨て、男は闇の中へと走り去った。もう一つ、二つ、悲鳴が上がり、そしてまた彼らも最初の男同様に、彼女の姿を見るなり、後ずさり逃げ出した。からん、からんと投げ捨てられたペンキ缶が派手な音をたてる。金属音が反響し終わり、通りがまたもとの静けさを取り戻した時、その壁の前にいたのは彼女一匹だけであった。
彼女は男達が何故逃げてしまったのか分からず、少し首をかしげたが小さくシュッと鳴いて考えるのをやめた。本当は皆で色塗りをしたかったけど、いなくなってしまったのならしょうがない。一人で塗るわ。彼女は、やっと静止したペンキの缶を集め、ラベルをじっくり見た。彼女は体の構造上一度に六色しか使えない。悩みに悩んで選んだ六缶は、いずれも彼女の好きな明るい色だった。レモンイエロー、スカイブルー、バーミリオン、ライトグリーン、ホットピンク、ブルーヴァイオレット。彼女は器用に蓋を開け、ゆっくり足をひたす。彼女の六本の足はカラフルに彩られ、まるで靴下を履いているかのよう。
そして、その靴下を履いたまま、彼女は垂直な壁の上を歩き出した。彼女の足の先は小さな突起に覆われていて、どんなに平らな壁の上でも歩くことが出来るのだ。また、その突起は細かく毛のようでもあるため、彼女の足には見た目以上にたっぷりとペンキがついている。彼女がぺたぺたと歩けば、彼女の後に残るのはカラフルなドット柄。時にはその足でくるくると床をなぞってみる。また、ある時にはしゅっと勢いよく半円を描いてみる。そう。彼女は足で色塗るアーティスト。壁というキャンパスに、自らの足で色を置く。絵描くと言わないのは彼女は絵を描いているわけではないからだ。自分の気持ちを色で表現している、と言う方が正しいのだろう。
線と点で表現された彼女の世界。直角に折れ曲がった線。のびやかにはらわれた線。急ブレーキをかけたかのように止められた線。Uターンした線。丸い点。四角い点。今日の彼女は至極ご機嫌。彼女は小さく笑い声を漏らす。誰もいない通りの小さなビルの壁に色を置く彼女。輝く月が、星が、彼女の背中を照らしている。
幾度かペンキを付け直し、色を置き続けて、数時間。空の黒が薄くなり、星がぽつぽつと消え始めた頃。彼女はようやく足を止めた。そして、少し離れたところからじっくりと壁を見て、満足したように大きく頷いた。さぁ、最後の仕上げ。彼女はビルの一番上まで歩き、白いレースをその上にかけた。色鮮やかな彼女の色の上にレースのカーテンのような糸が揺らいでいる。朝陽がそれを照らし始めた頃、彼女は陽を避けるように、自分の場所へと戻っていった。彼女の足についたペンキはすっかり乾ききっていた。
彼はすっかり困っていた。彼の持つビルは多くの落書きがされていたため、真っ白に塗ったところまたもや落書きをされてしまったのだが、その落書きがあまりに素敵だったためどうしようか困っているのだ。街の人たちは一目見ようと通りに群れになっているし、彼の机上にある電話はひっきりなしに音を鳴らしている。情報社会ともいわれる現代、情報は瞬時に世界中を駆け巡る。電話の主は、名高い美術家や美術品のコレクター、絵画コンクールの審査員などさまざまな人たち。彼らは皆一様に壁に絵を描いた主は誰かと問いたてた。彼が知らないと言うと、皆一様に憤慨した。それほど、その絵はすごいらしい。
彼はもしかしたらサインがあるかもしれないと、壁をくまなくチェックしたが見つからなかった。だから、彼の机上にある感謝状の名前の部分はぽっかりと空いたままである。
「名無しの絵描きさんってところですかね……」
彼は途方にくれ、ぼんやりと窓の外を眺めた。人々は皆、その絵を見て微笑んでいる。彼は芸術家でなければ美術家でもない。絵を描くことを趣味としているわけでもない。それでも、分かった。この絵は、非常に美しい。六色の明るい色で描かれた線と点。そう。ただの線と点だけなのに、人を笑顔にしてしまう力がこの絵にはあった。楽しい、嬉しい。そんな感情がこの絵全体に深く染み込んでいて、誰にでも伝わる。そんな絵だ、と。
おや? そのとき彼は気づいた。窓ガラスについたペンキ。それは単なるドット柄としか見ていなかったがよく見てみると、ほぼ等間隔にあり、細長く、そして奇妙な形をしていた。それも、一つだけではなかった。いくつも、いくつも、同じ形をしている――。
「あし、あと……?」
もしかすると、この点は――この絵は足跡なのではないか。それならこの足跡を――。そう思いかけて彼は考えるのをやめた。名無しの絵描きさんが誰であろうと探るのは、何だかあさましいような気がしたのだ。彼は一回ため息をついて、そして笑顔で部屋を出て行った。
残された感謝状。その真上で、切れた白い糸がわずかに風に揺らいでいる。
そんな騒ぎをよそに彼女は自分の場所にいた。暗く、狭く、奥まった路地。レースのカーテンのように白い糸が張り巡らされ、糸の集まる中心で彼女はまどろんでいる。そこに、一匹の小さなイトマルがやってきてきぃきぃ、と鳴いた。彼女の呼び名は、ほとんどその種族名のままだ。だが、その種族名とのたった一文字の違いは、特別な雰囲気を醸し出していた。それは、たゆんだ白糸のような艶やかさ。きぃきぃ。もう一匹イトマルが現れた。彼女は彼らの報告を聞き、そうとだけ小さく頷いて、また夢の世界へと落ちていった。きぃきぃ。きぃきぃ。きぃきぃ。彼女の周りに何匹ものイトマルが集まってくる。きぃきぃ。きぃきぃ……。そして、彼らも互いに体を寄せ合って寝息をたて始めた。
彼らの女王はアーティストなのだ。足跡で、自分の気持ちを表現する。それは簡単に見えて、非常に難しい。自らの足跡だけで、しかも、その気持ちを自分でない他者に伝えられるほど完璧に表現できるとくれば、彼女を偉大なアーティストと言わずして、誰をアーティストと言えよう。
六本の足を駆使し、自分の気持ちを表現するアーティスト。それは――
女王、アリアドネ。
彼女の『足跡』はどんな絵よりも美しい――。
夜。闇。男と女。彼。眼。金。名誉。宝石。洞窟。――ヤミラミ。
気づけばあっという間に深夜三時を過ぎていた。皿洗いを終え、カウンターを拭き終えたので今日の仕事はお終い。ちゃっちゃと寝支度を調えて奥の部屋へ――なんて考えは浮かばなかった。数年前の自分のことで精一杯だった頃のあたしなら疲労のおかげでそうせざるを得なかっただろうけど、今は違う。ようやく、この仕事を続ける決心が出来たし、手馴れてしまえば何てことはない。着物を着ることだってとっくに慣れてしまった。そう、それに今は前と違って彼が来る。あたしは背の高い椅子に腰掛けて、流行のジャズと少しのアルコールを賞玩しながら静かに扉のベルの音が鳴る時を待つのだ。
「麻子、酒を」
薄汚れた出で立ち。長身痩躯。髭は毎日整えているらしく伸びてはいない。いいかげんに切られたと思われる少し長めの黒髪が半分ほど眼を隠していた。
カウンターに座った彼の前には一枚の札と少しの硬貨。恐らく彼が今日稼いだ金の全てなのだろう。あたしは適当に酒を選び彼の前に出してやった。一瞬、彼の三白眼が物言いたげにあたしを見つめるがすぐに目の前に出された液体を喉の奥へ流し込んだ。
「それであんた、職は探してるのかい?」
「いや、それよりもいい話を聞いた」
あたしは思わずため息をついた。戦争が終わり、ここ数年で社会は大きく変わろうとしている。裏世界で生きてきた彼にもその影響は大きく、昔ながらの暗殺や誘拐、物取りで生計が立てていけるほど簡単な社会ではなくなってきたのだ。結果、彼はスリで命をつなぎ、職を探さず怪しげな話ばかりに手を出すようになった。
「今度はどんな『いい話』なんです?」
前の『いい話』は湖に潜む朱色のギャラドスだった。捕まえれば金が入ると言っていたが見つからず。信憑性に欠ける噂話はそう簡単に実現するものではない。何とかというポケモンの葉の部分は万能薬になるだの、あそこの洞窟には恐ろしい古代のポケモンの化石が埋まっているだのたくさんの話を聞いてきたが、どの話も最後は、なかったか嘘だった、のどちらかだった。
「聞いて驚くなよ……巨大な宝石だ」
「宝石」
「ヤミラミというポケモンの眼は普通の宝石の何十倍も大きく美しいらしい。そして、未だ誰もヤミラミの眼を手にしていない……つまり、俺がそれを手に入れることが出来れば俺は一躍有名人となり、その宝石は莫大な金額で売れるに違いないってことだ」
話し終わると彼は珍しく笑い声を漏らした。毎度毎度、彼のことを見ているあたしはそんな彼の浮かれっぷりにあきれ返ってしまった。普段、無口な彼がここまで饒舌に話すなんて、と驚きもしたが。
さて、彼の頭を冷やすための反論タイムに入ろうか。
「どうやって、ヤミラミから眼を取るんです?」
「ナイフ」
彼が懐から小さなナイフを出して見せた。よく手入れされた刃には一つもこぼれは見えない。しかし、木製で出来た柄の部分は何らかの液体によって茶色く変色していた。
「最も簡単で、効率的な方法だろう」
彼は肩をすくめて笑って見せた。
ナイフで簡単に抉れるものなのかしら、と思考をめぐらせてみたがあたしはヤミラミというポケモン自体知らないし見たこともない。眼が宝石と言われても想像すらできない。大体、宝石すら近くで見たことがなかった。
「ものすごい大きくて、ものすごく凶暴だったら?もし、猛毒を持っていたら?もし」
「そう、質問ばかりするな。……そうだな――」
このぐらいの大きさ。と彼は縦に両手を広げた。二尺よりも少し短いくらい。結構小さい。
「――で、闇色の体をしていてぱっと見は猫背の人みたいだな。二本足で歩き、鋭い爪を持ってる」
「それは本当にポケモン?人じゃなくて?」
闇色の体、猫背の小さい人。うーん、気持ち悪い。
「……人じゃねぇんだ。何つーか、頭が大きいんだ。で、耳が大きくて尖っている」
ま、あれが耳なのかは分からん。と彼は付け足して杯を突き出した。なんとなく分かった気がする。とにかく変な奴。あたしは彼の杯に酒を注ぐ。水八割。思いっきり薄めてやった。受け取った彼は勢いよく飲み干して、またあたしをじろりと睨みつけた。恐ろしい眼。そんな彼の視線を受け流して話を続けた。
「どこにいるの?まさか、幻のとか希少なとかじゃないでしょうねぇ」
「ったりまえだ。俺が、この眼で、見てきてる。最近は毎日偵察に行ってる」
小さくて、それほど珍しくもなく。それならば、何故――。
「どうしてだれもヤミラミの眼を手に入れたことがないの?」
う、と。小さく呻いて彼は顔を伏せた。はん、やっぱり何か問題があるのね。どうも、こう順調に進む話だと思った。あたしは心の中で笑ってやったが、どこかほっと安堵した。安堵した理由は自分にも分からない。けれど――。
「……ヤミラミの、眼が光るとき、それは魂を奪うとき。という言い伝えがある……だから、誰も怖がって手を出そうと、しねぇんだ」
「魂を奪うなんてそんな馬鹿らしい噂を……」
彼はそう言ってまた杯を前に突き出した。水四割。先程と同じように飲み干した彼の頭はだんだんと下がっていき、ついには寝息をたて眠ってしまった。弱いくせに飲みたがり、弱いくせに強がりたがる。
「馬鹿みたい」
照明を落とす。
「本当に」
彼の背中に毛布をかけた。
「この人は」
もはや何も考えるまい。これはあたしがあたしに言い聞かせている。言い聞かせているのだ。言っている通りなのだ。本当にこの人は――。
「馬鹿だ」
――――――
目が覚めた。重い頭を持ち上げる。背中を伸ばして伸びをすると何かが俺の背中から落ちた。毛布。余計な気遣いをする女だ。全く――
「――険しい顔」
すぐ後ろできっちりと化粧をした女が笑う。
「ずっと起きてたのか」
「いーえ、さっき起きたばっかり」
いい目覚めだわ、と奴は呟いたが俺はとっくに感づいている。その化粧はそれを隠しきれてはいない。いや、隠しきれていないわけではないが隠しすぎて逆に目立ってしまっていた。充血した眼。細く切れ長の瞳の端にじわりと涙がたまった。あくびを我慢しやがったな今。
「ねぇ、たくさんお金を手に入れたらそれで何をするの?」
「使うさ」
「何に?」
そりゃ、お前――と言いかけて口ごもる。言う必要のないことだ、このことは。外では鳥の鳴く声が聞こえた。夜も明けかけている。
「そろそろ行く」
「そう」
盛大に扉につけられたベルを鳴らし、朝空の下へ。明るさを帯びてきた空には布を広げたように薄い雲が広がっていた。こんな朝だから俺みたいな人間でも清々しいと感じた。口笛でも吹いて笑いたいところだがそれが出来るほど俺はまともな人間じゃない。目立つことをすればすぐに巡査のねーちゃんが来るような格好だから。あー、もうわざと捕まって取調室での禁じられた恋なんて……ふっふふふ。……まー、どーせ無理なんだが。その代わり、胸のポケットから歪曲した煙草と銀色に光る重厚なライターを取り出し、銜えて火をつけた。煙草は全然美味くない。ただ、有害物質を摂取するだけ。酒も嫌いだ。あんなもの飲んだってちっともいい気分になることなんてない。飲んだ後に残るのは鈍い頭痛だけだ。
今の不安定な自分。毎日、確実なのは二つだけ。煙草、酒、煙草、酒――。
「……変わらんとな」
今の自分を変えることができるのは社会でも仕事でもない。自分を変えることができるのは金しかない。金を手にしてせめて人並みの生活をして――しかし、その前にまず、
「奴に――借りを返さんと、な……」
俺があいつにかけた負担は少ないものではないはずだ。金もない男にも酒を出してくれたあいつに恩を返したい。そのためにはヤミラミの眼が必要だ。彼らの眼を奪わなければ。たとえ、どんなに恐ろしい噂話があってもどんな魂を奪われようとも。
俺は朝陽を背中にうけ、街の外へと足を向けた。
人はいないか?番犬は?周囲を警戒し鉱山の中へと忍び込む。奥に進めば進むほどひやりとした空気が頬を撫でる。天井からぶら下がる蝙蝠を刺激しないようランタンの光は最小限。砂利を鳴らすな、息を止めろ。この先にはアレが――いた。
何でできてるのか分からない身体だが手の先についている爪はまるで角砂糖を砕くかのように岩壁を削っている。中から現れた拳より少し大きい石を見つけたそいつは嬉しそうに石にかじりついた。石を砕く音。どんな強度の歯を持っていやがんだ、あいつは。
さて、あれからどういう風にしたら眼を奪えるだろうか。先ほどはナイフと粋がってみたが本当はどうしたらいいか全く見当もつかない。まず正体が分からない。強いのか弱いのか。速いのか、遅いのか。音は聞こえるのか、嗅覚はあるのか。
一番気になること。それは前にあいつのうえに石が落ちてきたとき石はあいつの身体をすり抜けて地面に落ちたことだった。
一部のポケモンは単なる物体や格闘技などによる衝撃を全く受けない。それは自分の身体を透明にして受け流すのだ――まるで幽霊のように。まぁ、そういうポケモンはゴーストという分類で一まとめにされているが数は少ない。まだ詳しくは分かっていないんだろう。これは図書館で簡単に得た知識ではあるが。
ヤミラミはその中には入っていなかったが、全てのポケモンが載っているといわれる図鑑にすら載っていなかった。他の本を読み漁れば載っていないわけではないが、大抵三行。『鉱山に住む・鋭い爪を持ち石を食べる・宝石の眼が光るとき魂を奪われる』
つまり、俺の勘ではヤミラミはもしかするとゴーストなのかもしれないということ。となると、ナイフは通用しなさそうだし網で捕まえるとかもできないだろう。うーん。
もう一度じっくりとヤミラミを見る。石を食い終わり、立ち上がって歩き出して――が、うあ。
凍りついた。
振り向いたそいつは無機質なその眼で俺をじっと見ていた。早く目をそらせ、逃げろと心の中で叫ぶ自分。しかし、身体が動かない――?声を出そうと息を吸い込んでも、かすれた息しか漏れず、あぁ、もう俺は――。
ヤミラミの眼が怪しく鈍く光る。俺の記憶はそこで途切れた――。
―――――
「強く願えば願うほど願いは叶うものなのかしら……」
箒を動かす手を止めて声のするほうに顔を向ける。店の前を走る子供たちは皆一様に同じ歌を歌い短冊のついた笹を振り回していた。あと、何日かで七夕だななんて思ったのは随分と久しぶりのことだった。
輝く川に間を阻まれた織姫と彦星、その二人をつなぐシラサギ。一年に一度だけ会うことを許された二人。けれど、その日に雨が降れば川の水かさは増し二人は会うことが出来ない。そんな雨の日、二人は涙の雨を降らす。それは夜空で紡がれる愛のストーリー。
と、そこまで思い出してため息を一つ。ここ数ヶ月、彼は姿を現さなくなった。ヤミラミの宝石をの話したあの日から。今は何をしているのだろう。どこにいるのだろう。あ、もう魂をヤミラミに魂を奪われてしまった……なんて。いや、魂を奪う打なんてそんな馬鹿らしい噂話を信じるのが馬鹿らしい。どうせ、そこらへんでへらへらしてるし、近々ひょっこり帰ってくるはず――でも
「おねーちゃん」
「え、あ、こんにちは、美雪ちゃん。綺麗な飾りね」
自分がぼーっとしてたことに気づいた。目の前の彼女は少し不思議そうに顔をしかめたが、飾りをほめられるととても自慢そうに笑った。美雪ちゃんは小学二年生の元気な女の子で、こんなあたしでもおねーちゃんと呼んでくれるとってもいい子だ。彼女もまた色とりどりの飾りがついた笹を持っていた。
「おねーちゃんはもう、七夕様の笹作った?」
「え、えーとまだね」
七夕様、ねぇ。ちょっと違う気がするが、真剣な表情の彼女を前にしては違うとは言えなかった。
「これね、二個ついてるの。おねーちゃん、まだお願いしてないんでしょ? じゃあ、これあげる」
よく見ると彼女の笹は根元の近くから二股にわかれていた。彼女は小さな手で一生懸命それを二つに裂いて、その内の一つをあたしに差し出した。いいの? と聞くと彼女は元気よく頷いた。
「……ありがとう」
じゃあね、と走って行く彼女の背中を見送って、手の中にある小さな笹を見る。まだ、触るとべたつく飾り物と何も書かれていない短冊。きっと小さな手で頑張って作ったのだろう。彼女からもらったこの短冊に願い事を書けば何でも叶う気がした。
「でも……書けるわけがない」
見られたら恥ずかしいような、誤解されそうな、『彼に来てほしい』なんて書けるわけがない。あたしはもう一度ため息をついた。
間を阻まれた男女。彼はあたしを求めていないかもしれないけれど……この場合の天の川となるものは
「ヤミラミ……?」
だとすれば、この場合のシラサギは何だろう。あたしと彼の間をつなぐものはあるのだろうか。
深夜。静まり返った部屋の中、外から騒々しい音が聞こえてあたしは顔を上げた。ガラスの割れる音、ベールの倒れる音、そして――この部屋の入り口のドアに釣り下がるベルの鳴る音。
「……!」
随分と前に見た格好よりもまた一段とみずぼらしい格好で、一段と痩せた彼は部屋に入ってくるなりいきなり倒れこんだ。慌てて駆け寄って、身体を起こしてやると彼の服の隙間からは輝く砂粒が床へと落ちた。この砂粒は、そこらの公園の砂じゃない。街から少し離れたところにある砂漠の砂だ。昔は数知れないほどの行方不明者の出た砂漠。今は一応の道が出来て歩いてだと六時間くらいで超えられるらしいけれども……死にたくなければあの砂漠にはそう簡単に足を踏み入れるな。この街に来たばかりのあたしにそう言ったのは街の人たちであり、彼であった。
「……さ、砂漠の向こうの鉱山に玉の目を持つ闇あり、人の魂喰らいたり……」
息絶え絶えに彼は呟くと、苦しそうに呻きながらも身体を起こした。意味が分からない……。彼の言っていることが分からない。砂漠の向こう……。
「あなたいつから、ヤミラミを……!」
「一年前くらいか」
思わず言葉が出なかった。そのとき、彼はまだ毎日あたしの所に来ていた。けれども、毎日ヤミラミを偵察しにいっていたというあの言葉が事実ならば、彼は砂漠の向こうとこっちを一日で往復していたと言うことになる。片道六時間かかる道、それも風の吹き荒れる砂漠の道を、一日で一往復だなんて。
「どうして」
「どうでもいいだろ、そんなことは」
「……」
どこかが違う。どこかが前の彼と違う。彼が帰ってきてくれたことはとても嬉しいのに、なぜかあたしの中の妙な違和感がその嬉しさをかき消してしまっている。
そしてまた、何か危険な感じがした。何だろう。落ち着かない。今すぐにここから逃げ出したくなるような恐怖感。彼が怖い。あたしは彼に殺されるのではないかとも思って、ふと気づいた。
彼が怖いのではない。彼の中に巣食っている寄生虫のような何かだ。それが彼を変えて、狂わせているに違いない。
とにかく、彼を刺激してはいけない。前のように、いつものあたしであれ。
「今日はいいお酒があるのよ、飲む?」
「いらない」
「そ、そう。砂漠を越えてきたんなら喉渇いたでしょう。水を」
「いらないって言ってるだろ」
声を荒げる彼は顔を伏せたまま。あたしのことを睨みつけもしなかった。
「……これ、見ろよ」
悲鳴を上げそうになった。震える手を押さえ込んで、彼が懐から取り出した物を見る。それは見慣れた物、彼がいつも大切にしていたナイフ。けれど、以前とは違い銀色の刃は欠け、代わりにたくさんの札のようなものが貼り付けられていた。
「この前、神社に行って幽霊にも刃が効くように貼り付けてもらったんだ……これで、俺はヤミラミの目を手に入れることが出来る、ついに!」
「そ、そう」
「だけど、あの神社の巫女はー……俺に何かが憑いてるとか言いやがって塩投げてきて……本当に腹がたつ」
やはり。何かが憑いてるのかは知らないが、彼は変わってしまっている。狂ってしまっている。
「けれど、これでとうとうヤミラミの眼を手に入れることが出来る……あの眼をついに」
「魂を奪うとか言う噂はどうなったの」
「あんなの嘘に決まってるだろ。実際、奪われなかったんだぞ」
彼の言葉に適当に相槌を打つ傍らで包丁の柄から手を離さず、時は経った。彼はヤミラミの話ばかりを続け、それは単なる独り言のようにも聞こえた。
気づけば寝ていたらしい。前は普通に徹夜することができたのだが、徹夜も毎日続けないことには出来なくなるものらしい。
すっかり陽は昇っていた。彼はもういなかった。昨夜のおかしな彼が少しでも前の彼に戻ってくれたなら良かったのにと残念な気持ちと、行ってしまったという悲しい気持ち。彼と会えたのはもしかしたら昨夜が最後だったのかも……いや、そんなことは……。
「ん……?」
昨夜、彼が座っていたカウンターの下に一枚の紙切れが落ちていた。縦に細長い紙で上の方に開いた穴に紐が通してある。美雪ちゃんからもらった笹についていた白紙の短冊だ。
『ヤミラミの眼を手に入れる』
黒く滲んだ文字。あたしは思わず笑ってしまった。これは願いじゃない。目標?
「馬鹿だわ……裏にも」
裏に書かれていたのは、ぐしゃぐしゃと塗り潰された何か。書いた後に消したのだろうか。文字はほとんど塗りつぶされてしまって何と書いてあったのかは分からない。けれど、上の部分だけは微かに読み取れる。
「……『麻子』」
ようやく彼は彼だったことに気づいた。いくらおかしくても狂ってても彼は彼なのだ。だから、あたしが短冊に願いを書いていれば彼はその願いをきいてくれたかもしれなかった。なのに、私は変な意地を張り……。馬鹿はあたしだ。あたしが馬鹿だったんだ。
きっと、彼の性格からして今日何かをする。だから、あたしの所に来た。
彼の書いた短冊を握り締める。魂を奪われるだのなんだの知らない。もう一度彼に会ってやる。この短冊に書かれたことを彼に問い詰めるまでは、あたしの前から彼を去らせはしない。
―――――――
旅人は砂漠を行く。所々で蟻地獄が渦巻き、唯一の植物は走り回り、小さなやじろべえはくるくるとまわっていた。灼熱の風が砂を巻き上げ旅人の行く手を阻む。
「今、ここで君に『すなあらし』を使ってもらったらどうなるだろう」
どうなるかなぁ、と少し考えた様子のドータクンを見て私は少し笑った。砂嵐が酷くなる? それとも、他の何かになる? 答えは決まっている。
「変わらないよ、全く」
ゴーグルに当たった砂粒がぱちぱちと音をたてる。金属の身体が熱くならないように、大きな麻袋をかぶったドータクンの姿はなんだかおかしい。まるで、麻袋だけがふわふわと浮いているように見える。
地面を注意深く観察し、埋もれかかった杭を目印に歩いていかないと、道を外れてしまう。道を外れてしまえば……そうだな、最悪の事態が口を開けて待ち構えていると思っていたほうがいい。
しかし、幸いにも砂漠の住人であるヤジロン達が私達に手を貸してくれた。恐らく、私のドータクンと砂漠のヤジロンとで何か通じるものがあるのだろう。彼らは等間隔で並び、一様に同じ方向へ傾いた。彼らの傾く方向が恐らく私たちの目標としている場所……次の町であるといいのだが。
足を半分砂に埋めながら砂丘を登ると、雲一つない青空の下、一人の男がこちらへ向かってきているのが見えた。ドータクンを少し道の脇によらせ、私は足を止めた。
「あと、どれくらいで向こうにつきます?」
「……四時間くらいだ」
男はゴーグルの向こうからきつい視線で私とドータクンをねめつけて、口を開いた。
「お前、この砂漠の向こうの街で何をした」
「何にも。泊まって、買い物をしたくらいですかね」
「……そうか」
男はそう言い、再び歩き始める。私はそんな彼の背中を見送るのがもったいないような気がして呼び止めた。あなたに聞きたいことがある、と。
「ヤミラミの眼を手に入れようとしているのはあなたですか」
「……」
街で聞いた噂。ヤミラミの眼を手に入れようとしている男がいる。
「そんなことはやめておけとでも言うつもりか」
「いいえ、私はあなたに聞きたいのです。なぜ、ヤミラミの眼を手に入れようとするのか、を」
砂漠の風が吹き荒れる。彼の答えは、なかった。
考えるな、今は考えるな。ナイフの柄を強く握りしめる。そう、このナイフでアレの眼を抉り取る今日こそずっと待ちわびたはずだ。昨日も一週間前も一ヶ月前も今日が来るのが楽しみでわくわくとしていたはずなのに、なぜ今躊躇っている?
鉱山内の道は全て覚えた。光を使わなくてもある程度周囲が分かるように感覚も磨いた。ナイフの使い方は今までよりも更に熱心にやったし、宝石の扱い方も心得た。当然、ナイフには札を貼った。
不備などないはずだ。ならば、なぜ――。そうだ、なぜなんだよ。
『いいえ、私はあなたに聞きたいのです。なぜ、ヤミラミの眼を手に入れようとするのか、を』
俺は、分からなかった。なぜ、俺がヤミラミの眼を手に入れたいのか自分でも分からない。宝石としての価値を求めてるわけでもない。金だって……ここ最近分かってきた。普通に仕事すれば普通に食っていける金が入る。俺は贅沢をしたいわけでもないし、見つけたという栄誉がほしいわけでもない。
なら、なぜ俺はヤミラミの眼を欲するのだろう。最初は何かのためにヤミラミの眼を手に入れるはずだったのが、今ではどうしてか、ヤミラミの眼がただひたすらに意味もなく欲しい。ヤミラミの眼のことしか考えられないほど、ただ欲しかった。
「そう、だから俺は躊躇わずさっさと奪ってしまえばいいんだ」
何度も何度も自分に繰り返し言い聞かせる。深呼吸を数回して――。
ナイフを逆手に持ち直して、俺は一気に駆け出す。目の前のヤミラミに向かって。
―――――
「離してください! 離して!」
「落ち着いてください」
砂漠のオアシス――泉はないけれど砂嵐から身体を守る簡素な小屋だけがある場所。
砂嵐の吹き荒れる砂漠を必死に歩いて、彼に追いつこうとしていた。けれど、この男が――小屋の屋根の下で休んでいたこの男があたしの足を止めようとするのだ。あたしはぜぇぜぇと息をしながら、目の前の男をねめつける。落ち着きましたか。穏やかな表情で男は言う。波一つ無い、穏やかな湖のような目があたしを見つめていた。そうだ、眼だ。彼は、彼は――!
「彼が、彼ごほっごほっ……」
喉に砂が入り、むせ込む。しゃがみこみ、金色の砂の上に手をつく。
「『ヤミラミの眼』ですか……」
「どうして、それを……あなた、彼を! 彼は! 彼はこの先にいるの? ねぇ!」
男の着物の襟首を掴み、あたしは言った。男は小さな声で何かを呟く。その瞬間、傍らに置いてあった麻袋がふわりと浮き上がり、中から金属の何かが現れ――
「――しかたがありませんね」
男が、哀れむような目で私を見た。穏やかな瞳。あぁ、昔の彼は、こんな目をしていたのに。どうして――
「ドータクン――テレポート」
はやく行きなさい。男は言った。彼がまだ彼であるうちに、はやく行きなさい、と。
砂漠の向こうの街にある、小さな鉱山。かつて宝石のあった鉱山。坑道に入ると、そこは暗く、蝙蝠が何処かでばたばたと騒ぐ。
あたしは走った。髪がほつれるのも、何かもかも、気にせず、あたしは走った。彼の名を叫んだ。走り、叫び、走り、叫び、はし――
ずる。
そのとき、あたしの足に何かが絡みつき、思いっきり転ぶ。何かと思って払おうとすると、それは布であった。服か何かか。暗くて分からない。しかし、投げすてようとして、ふと気づく。
この、匂いはいつもの彼のものである、と。
これは彼がいつも着ていた外套。地面を這いづくばり、手を這わす。あった。ズボン。あった。シャツ。あった、あった――。
そうして、探っていくとヵつんと金属のものに手が触れる。そして、それは温かく、熱を持っていた。火傷しないよう、身長にそれをさわり、何かを考える。あぁ、これはランタンだ。彼のランタンだ。どれくらいだっただろう。なんとか、スイッチを見つけ、灯りをともす。
ぎょっとした。
目の前に何かが立っていた。
闇色の体、猫背で小さい――
「ヤ……ミラミ……?」
それは、しばらくの間じっとあたしを見て――そして、何か薄汚い布袋のようなものを置き、去っていった。
ヤミラミからの贈り物だろうか。ゆっくりとそれに近づく。――彼のリュックサック、だった。
ひっくり返す。どざどさと中から出てきたのは、曲がった札と汚れた硬貨。
大金とは言わない。だが、数年かは楽に暮らせるであろう額。最後に、出てきたのはまたも空の麻袋。恐らく、この金をまとめておいたものであろうそれは――。
『麻子に』
「――いらない」
言葉が零れた。目頭が熱くなって涙も零れた。冷たくて暗い坑道に座り込み、あたしは自分で自分自身を抱きしめた。抱きしめて欲しかった。ただ傍にいてくれればよかった。お金なんか要らなかった。
泣きながら、彼の名前を叫ぶ。坑道に響きわたり、どこまでも届くような気がした。けれど、何の返事もなかった。音一つしなかった。
文字通り、彼はヤミラミの眼を手に入れたのだ。念願のヤミラミの眼を手に入れ、そして、もう二度と戻ってこない。もう二度と、戻ってはこれない。
始まる。
「始まったな、兄弟よ」
「ハッピーエンドか」
「バッドエンドか」
「分からんな、兄弟よ」
人間には、我らは三機集まって一機とカウントされるが、あえて言おう。我らは一機であり、三機だ。
三個の頭が別々に物事を考える鳥や土竜とは違う。彼らは細胞という有機質の集合体であり、我らは人間に造られ、人間に
プログラミングされた、ただの機械がくっついただけ。だが、人間に造られた時は一機だった。
「最初にくっついてきたのはお前だったな」
「いや、お前だった」
「そう言うお――うが」
彼の音が不自然に途切れた。俺は黙った。聞いていた彼も黙った。最後まで音を出し切れなかった彼もしばらく黙っていた。
「すまない」
「謝るな」
「仕方が無い」
ほとんどの生物は、どんなに体が大きくてもどんなに強い力を持っていたとしても生まれ、やがて死ぬ。
生物に造られたことを我らが生まれたと言えるのならば、当然我らにも死というものが訪れるのだろう。では、我らにとっての死とは何か――。
「体が重いな」
「何も考えられない」
「右側が動かない」
生物は老いる。けれども、己の身体に受けた傷を治そうとする力を持ち合わせている。
反面、我らは老いることはない。だが、己の身体に受けた傷を自ら直すことは出来ない。人間なら直すことは可能だが。この鋼鉄の体に傷を付けられるものはそう多くはないだろう。いや、傷などそう恐れてはいない。本当に恐ろしいのは――。
「体の輝きなどとっくに失われ」
「部品をつなぐ螺子は脆く」
「信号を流す銅線など熱にやられてる」
風が怖い。水が怖い。熱が、大気が、大地が、我らをゆっくりと蝕んでゆく。時間をかけて、気づかれぬほどに、ゆっくりと。目に見えぬもの、逃れられぬもの。それこそが我らにとっての脅威。
「賭けようか、兄弟よ」
「生か」
「死か」
「考えな、兄弟よ」
我らの主は二十になるかならないかの男だ。主を我らを含めて五体のポケモンを持っていて――ポケモンマスターを目指しているのだ。最近は、我ら以外のポケモン達を強く逞しく鍛えることに専念していた。そろそろ、次の場所へと移動するらしい。
「ニドラン、ニドニーノになってたな」
「シェルダーもパルシェンになって殻が大きくなってた」
「ポニータも足が太く、強――な」
最早、主に我らは必要でないのかもしれない。この状態では電気を放出することもできまい。今、自分を保つことだけで精一杯な電力を技として使うことなんて、できない。この状態では。この、状態では――。
「あなたのポケモン達には何の異常もなかったわ」
「そうですか!ありがとうございます」
モンスターボールの外で主とジョーイの声がする。嘘吐き女医が。
「よし、出て来い」
主に放り投げられたボールから、強制的に外の世界へと放り出される。ぐら、と揺れる感覚。もう、次の町までもたないかもしれない。――が、もう、き――のか。
我らと同じように出されたポケモンが四体。ニドリーノ、ポニータ、パルシェン、グラエナ、と視線を移して主は最後に我らを見た。訴えることは出来ない。我らも彼を見つめた、我らの目を見て、主はただ一言。「大丈夫そうだね」と。
今、限界状態の我らを支えていたのは希望であったのか。急激に体が重くなる。我ら最後の希望は、あっけないほど簡単に打ち砕かれ――。
「賭けはどうなった、兄弟よ」
「俺の負けか」
「俺の勝ちか」
「今の我らには失うものも得るものもない。そうだろう、兄弟よ」
彼なら我らを救うことが出来た。治療と言う施しではなく、修理であったなら。彼ならば、我らの異常に気づいてくれると思っていた。けれど、今の彼の目に我らはあまりにもはっきりと映っていなかった。今となってはそんな思いも単なる妄想。希望は全て消え失せた。さあ――。
さあ、終わろう。
視界は急速に暗転し、深い穴の中に落ちていくような感覚。今まで一度も落としたことの無い右側の磁石が落ちて、金属音を響かせた。体の一部分が異常なほどに熱を持っていた。バトル中に催眠術で眠らされたときのように、急速に眠くなって何も考えられない。もう何があったのか、ほとんど思い出せない。思い出せないけれど
「今の気持ちはどうだ、兄弟よ」
「……タノシカッタナ」
「タノシカッタヨ……」
「……」
楽しかった、か。本当に、それは本当に――。
「楽しかったな、兄弟よ」
「……」
「……」
「今――まで、あ――りがとう――な、兄弟よ」
今までに投稿してきたものを再投稿しようと思います。
全ての作品に【何をしてくれてもいいのよ】タグをつけまして。
かたくるしいもの(?)はteko
やわらかくかいてあるものにはてこ
とつけていますが、目安です。
どっちが読みたいかなと考えたときの参照程度にどうぞ。
このページはちょくちょく、変わるかもしれません。
鮭のペーストとそぼろで作ったトリト丼。 |
港で栄えるこのカイナシティの北西に、ポケモンコンテスト、ハイパーランクの会場がある。
おれん家の隣の家に住んでいるカノンはコンテストを見るのが好きで、たまにテレビで放映されるというのによく会場まで足を運ぶ。
「ペリッパー、吐き出す!」
今もコンテスト会場ではたくましさを競っていて、ペリッパーは先程まで溜めたエネルギーを天井に目掛けて吐き出す。吐き出されたエネルギーは噴水のように周囲に撒き散らされ、赤、青、黄などたくさんの色で会場を彩る。
圧倒的な力強くかつ繊細なパフォーマンスに会場の観客が皆揃って拍手する。隣のカノンもそれに違わず手を叩いている。ついでに目も輝いている。
「見た!? すごいよねぇあのペリッパー。素敵!」
胸の前で雪のように白い手を合わせ、子供のように、胸元くらいまである長い黒髪を揺らしつつ興奮しながら話すカノンを見るのが、数少ないおれの楽しみだ。
「ねぇ、ユウキもそう思うでしょ?」
「……え、うん。そうだね」
急に名前を呼ばれて振り返り、適当に頷く。この気の無い返事で察せるように、おれはそんなにコンテストに興味がない。ただカノンが行きたいと言うから一緒に見に来ているというだけだった。
年頃の男子なら大概はポケモンバトルが大好きで、自分がチャンピオンになると言い出して遅くても十二歳くらいには街を飛び出し旅をする。
おれも例外じゃなくポケモンバトルがコンテストよりも好きだ。でも、生まれて十六年してもまだ、カイナから出たことすらない。
それはカノンも同じだ。冒険のない似たような繰り返しの毎日でも、おれたちはこんな暮らしが好きだった。
ペリッパーのアピールタイムは終わり、今度はハリテヤマのアピールタイムのようだ。一つ大きな欠伸をしているうちに、会場がまたもや拍手で割れる。
「あー、凄かったね今日! あのハリテヤマの突っ張り、空を切る音が観客席まで聞こえてびっくりしたよ!」
そう言ってカノンはハリテヤマの真似をして右手でなにもないところに張り手する。
さっきのたくましさコンテストが終わればもう午後の五時。今日はこれから夕飯の材料も買わなきゃいけない用事がある。冒険をせずに家にいるおれは、家事などの一切を任されているのだ。
「今日このあとさ、市場で買い物するけど先に帰るか?」
「大丈夫、今日は調子いいの。それよりもアレ見てよ」
カノンが右手人差し指でどこかをしきりに指差すので、つられて目線で追いかける。赤で装飾されたコンテスト会場のホールの隅の方に、笹の葉がひっそりと飾られていた。今日は七月六日。七夕の一日前だから、こんな粋なことをしているのか。笹の葉の傍には短冊とボールペンが置かれてて、自由に願い事をかけるようになっている。
「一緒に願い事書かない?」
「まあ別にいいよ」
断る理由もないから、その願い事を聞き入れてあげることにした。
カノンは水色の短冊を手に取って、おれに黄色の短冊を渡す。何を書こうか迷ってるうちにカノンは手早くペンを手に取ると書き始める。
願い事、かあ。これと言って望んでることもない。さっきの通り、おれはこの暮らしに満足しているし、高望みはしていないから……。そんな風にぼーっとしている間にも、カノンはいつの間にか笹に短冊をくくりつけていた。
「もう書けたの?」
「うん、最初から書くこと決めてたから」
「へぇー、何書いたの?」
「えっ、その……」
書けたことに対してご満悦だったようだが、その内容を尋ねるだけで急にもじもじし始めるカノン。そこからしばらく待っていたが、首を下に向けて何も言い出す気配がない。恥ずかしいことでも書いたのだろうか。
そんな様子がじれったくて、くくられた短冊を覗き見する。
「あっ……、ちょっと!」
それを見て、おれは思わず言葉を失った。
「勝手に見ないでよー」
「ご、ごめん」
拗ねるカノンにハリボテの笑顔を見せてなんとか誤魔化す。
『コンテスト全制覇が出来ますように』
カノンの短冊にはそう書かれていた。コンテスト会場はここカイナシティ以外にもシダケタウン、ハジツゲタウン、ミナモシティの計四ヶ所ある。
さらにコンテストはかっこよさ、美しさ、賢さ、可愛さ、たくましさの五部門ある。これを全制覇するのはコンテストに挑戦する者の目標だし、それだけとても難しい。
でも問題はそこじゃない。
カノンは体が弱いのだ。
スクールの体育でさえしょっちゅう休んでたのに、ここから遥か遠いハジツゲやミナモなんてとてもじゃないが行ける訳がない。
それにこのカイナからさえ出たことがないのに。
おれが旅に出ない理由もこれにあった。
同年代の友人知人はほとんど全員街を発っている。おれまでいなくなったなら、カノンはこの広いカイナで一人ぼっちになってしまう。だからおれはカイナから離れずに――
「ねぇ、まだ決まらないの?」
「え、あー。ちょっと待って」
カノンの声で現実に戻ってくる。眉を潜めて不満そうなカノンの顔がそこにあった。
「しょせん願い事なんだからそんなに迷わなくても良いのに……」
しょせん願い事。そのカノンが何気なく言ったその言葉に胸が痛む。カノンはそう短冊に書いたのに、自分でそれが叶うなんて思っていないのだ。ただそうする様式に沿っているだけで、最初からどうせ絵空事だと諦めている。
悔しい。ちゃんとこうしてやりたいことっていう夢があるのに、夢に向かって一歩も進めることが出来ないなんて、そんなのは……。
「おれも願い事決めたよ」
「人の見たんだからちゃんと見せてよね」
「はいはい」
口ではそう軽くあしらったけど、おれの願いをカノンに見て欲しかった。
ボールペンをすらすら動かして願い事を綴る。
「よし、書けた!」
「見せて見せて」
黄色の短冊をそっとカノンに渡す。それを見るや否や、驚いたような、嬉しいような、そんなもどかしい表情を見せる。
「それくくってさっさと行こうぜ」
「う、うん……」
こんな空気が気恥ずかしくて、急かすようにそう言うと、カノンが丁寧にそれを目立つ場所にくくりつける。
小さな笹の葉のてっぺんには、カノンの願い事が叶いますように、とおれの下手くそな字で書かれた黄色い短冊がくくられてある。
事件はその翌日の朝に起こった。
目を覚ますと、自分の体に凄い違和感を覚えた。
風邪を引いてて体がだるいとか、そういうのとは根本的に違う違和感。
勢いよく上半身を起こしてみれば、背中に何かが触れた。手を後ろに回してみれば髪の毛? おれは刈り上げに近い短髪のはずだ。一晩のうちにこんなに伸びたのか?
それだけじゃない。腕だってこんなに細くないし、白くない。これじゃあまるで……。
慌ててベッドから飛び出し部屋に備え付けつあった小さな鏡の前に向かう。
戸惑いながら鏡を覗けば……。
予想通りだった。あってほしくない予想が、お見事と言わんばかりに的中していた。
鏡の中には驚いた形相で肩を上下させているカノンがいた。
思わず頬をつねれば、鏡の中のカノンも同じことをして痛がる。
そんなバカな。もっとつよく頬をつねっても、やっぱり同じように鏡の中のカノンもそうする。いったい全体何が起きてるんだ。
ふと大事なことに気付く。今こうなってるのは一大事だが、おれがこうなら『本物の』カノンはどうなっているんだ。
一瞬血の気がひいたが、次の瞬間には寝巻き姿のまま部屋のドアを蹴飛ばすように乱暴に開けて走り出した。
いつも通りの自分の家の廊下を駆けて、自分がよく身に付けていたサンダルをさっと履いて玄関の扉をあける。
大きくなってしまったおれのサンダルに足を取られそうになりながらも、隣にあるカノンの家のインターホンを何度も何度も叩く。
ドアが開いて、カノンのお母さんがカノン!? と驚いて叫ぶ間をすり抜けて、サンダルを蹴るように脱ぎ捨てて玄関傍の階段を駆け上がる。
カノン、待ちなさい! ようやく我に返って大声を張り上げるカノンのお母さんを無視して、二階のカノンの部屋の扉をこれまた乱暴に開ける。
「……何なの?」
ベッドの上では状態を起こしたカノンが眠い目を擦っていた。
ちゃんと本物のカノンがいた。そのことに、ようやく一息つく。
いや、よくよく考えれば余計に話は複雑なことになっている。
そうしているうちに本物のカノンの目が覚醒したらしく、目の前のおれを見つめてたまらず茫然自失した。
「はれ……わたし!?」
七月七日の七夕。優しい夏の風が薫る頃、神様のイタズラがおれとカノンの運命を大きく歪める。
カイナシティに暮らすおれ、ユウキとその幼なじみのカノン。
体が弱くて旅に出れず、コンテストの夢を諦めたカノンのために、神様のイタズラが奇跡を起こす。
でりでりです。
各種短編企画とかがないときの暇潰しのつもりで書いてます。あくまでPCSが本命なので毎週更新とかは期待しない方向でお願いします。
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