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草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Epilogue. 雨月のアサメタウン
1月末 アサメタウン
さき、さき、と小気味よい音を立てて白い髪が散る。
「……こんなもんかな」
「終わったか?」
「ご確認のほど、頼むわ」
リズに背後から肩を叩かれ、セラは目の前に横たわっていた小川に自分の姿を映してみた。
花切鋏で髪を切るのはどうなんだとセラは思ったが、リズにとっては切れれば特に問題ないらしい。セラの白髪はリズの手により、綺麗に短く切り整えられていた。
「へえ、上手いもんだな」
川面で満足のいく仕上がりを確認すると、セラは体にくっついた髪の残骸を洗い流すべく、あらかじめ半裸になっていた体を流れに浸す。寒い、どころではない、心臓が止まりそうな冷たさだ。けれど身が引き締まるような、心が清められるような気がした。身に染み込んだ光の毒と罪が洗い流されるような。
セラも風邪をひくつもりはないのでさっさと冬の川から上がり、リズのファイアローの起こす羽ばたきで体を乾かさせてもらう。すると暖炉にでもあたったようにあっという間に体は温まった。乾いた衣服を着こむとすっきりとした気分になる。
流れで花切鋏を洗っていたリズを、セラは笑顔で振り返った。鋏を渡せと催促するように、掌を向けて手を伸ばす。
「次はお前の番だな」
「えっ」
「ちょん切ってやる」
「何を!?」
「鬱陶しいんだよ、その伸ばしっぱなしの髪。不潔に見える」
「ご、ごめんね。お、俺は遠慮しときます」
「私は遠慮しないが」
「だから! アンタは! もっと俺の価値観を尊重して!」
ぎゃあぎゃあと喚いて逃げようとするリズの手から花切鋏を奪い取り、もう片手の腕力でやすやすとリズを捕らえると、押さえ込んで川岸に膝をつかせた。
「いてえ! アンタって意外と怪力だな!」
「知らなかったのか? お前の記憶を消した後、毎度私が肩に担いで病院に連れ戻してたんだぞ」
「たくましい!」
「お前は骨ばかりだ。もっと肉をつけろ、ポケモン肉も好き嫌いせずに食べてだな」
「先ほどから無視されてる俺の価値観に謝れ!」
ぎゃいぎゃいと騒ぐリズを黙らせるべく、セラは片手に構えた花切鋏で、えいやとばかりに斬り込んだ。
――じゃくり。
「ひぎゃあ!」
小気味よいというよりはむしろおぞましい音に、リズが悲鳴を上げる。
セラは笑ってその頭を片手で押さえつけつつ、すかさず二撃目の構えに入った。
「おとなしくしろよ、脊椎を損傷しても責任は負えない」
「負えよ! どこからどう見ても明らかに傷害罪の構成要件満たすよ!」
――じゃくり。
「うん、おもしろいなこれ」
「……やめろ! これ既に暴行罪が成立してるから!」
――じゃくり。
「はははは。おや、なんかトサカみたいなのができたぞ。お前はカプ・コケコか」
「メレメレ島の! 守り神!」
リズは死に物狂いでセラの腕から逃れた。
セラは花切鋏を手に、けらけらと屈託なく笑っている。
「まだ襟足が残ってるのに。そんなみっともない頭でワイン祭りに行くのか、この恥知らず」
「俺はアンタが恥ずかしい」
アサメタウンでは十数年ぶりに、ワイン祭りが開かれていた。
その祭りの開催地は持ち回りであるため、一度回ってくると次はいつ回ってくるかわからないのだ。ブドウ栽培者の守護聖人を祭る祭典で、毎年1月下旬に開かれる、この時期では最大規模のワイン祭りだ。
アサメの街中には、いくつもの試飲用スタンドが設けられている。
シシコを担いだリズとニャスパーを抱えたセラもまた、それらに立ち寄っては試飲用グラスを傾け、各村や醸造者ごとにかすかに異なるワインの風味を飲み比べていた。
「あ、これ甘い」
「飲みやすいな」
とはいっても素人の2人にワインの違いなどほとんど判らないから、とりあえず目についたものから口にしてみて、とりあえず酔っ払おうという姿勢である。
毎年11月にハクダンシティで開かれる『栄光の三日間』と呼ばれるワイン祭はプロ向けの内容なのに対し、こちらは庶民向けだ。老若男女入り混じってワインを飲みまくり、アサメじゅうに愉快な酔っ払いが溢れかえる。ワインの難しい知識など不要、これは目の前の地酒を楽しんでみるというイベントなのだ。
守護聖人の像の神輿のパレードが通りを練り歩き、赤い衣装の金管楽団が演奏を始める。各ワイン産地の村を表す旗が掲げられ、広場には試飲を待ちわびた人々が溢れかえってすさまじい熱気だった。
ミアレの住民が総出で祭りを盛り上げている。
木製のスタンドの周囲にはワイン樽が転がされ山積みにされ、広場では音楽が奏でられてワインを楽しんだ人々がダンスを踊ったり、歌を歌ったり。スタンドの醸造者とおしゃべりをして仲良くなり二杯目をおまけしてもらったり。道には花が飾られ、冬の寒さはいつの間にかどこかへ吹き飛ばされている。
「あ、お前それ買ったのか。気に入ったか?」
どこかのスタンドでか、セラはワインボトルを買い付けていた。それを掲げてセラは微笑む。
「昼食の食前酒に」
街外れのオークの林まで、シシコを連れたリズとニャスパーを連れたセラは歩いて行った。セラはワインボトルを手に提げ、リズは昼食用のバゲットと惣菜、チーズ、果物の入ったバスケットを抱えて。
雪が残っていた。
今朝がた髪を切り合った清らかな小川の傍、クレソンや薄荷の茂みのあたりに雪の無い空間がある。その草地の上に2人は腰を下ろす。
蝋梅の花が咲いている。
葉を落とした木の枝の向こうの空は曇っている。
ヒノヤコマが冷たい風の中、火矢のように飛び回っている。
遠くには、未だ葉をつけない葡萄畑が雪に埋もれて、丘陵にどこまでも広がっている。
せせらぎの音が心地良い。
2人は息をついた。
「……私が死んだら、ここみたいな、川のせせらぎの聞こえる草地に埋葬してほしいな」
オークの幹に背を持たせかけ、ニャスパーの毛並みを指先で撫でつけながら、セラは微笑を浮かべて囁く。
「いいか、教会に葬式など挙げさせるなよ。私は無宗教だし、何よりあのお香のにおいが苦手でな」
「……あ、そうなの」
「墓石の代わりに、そうだな……葡萄でも植えてくれればいい」
「…………それは、アンタの栄養分を葡萄が吸うだろうな」
煌めく川面を見つめつつ、シシコの耳の後ろを掻いていたリズも苦笑した。
セラは楽しげに声を立てて笑った。
「そう、そこが肝なんだ。実が熟したらワインでも造ってくれ。造り方は調べろよ、お前には時間が腐るほどあるんだから。時間をかけて熟成させて、そうしたら3000年後も味わえるかもしれないだろう、私の血を。食前酒にでもすればいい」
「………………へ、変態」
「そしてお前は、それを毎年味わうことを生き甲斐にするだろう」
「…………もうやだこの変態」
「私の血肉はあの光の毒に汚染されているから、飲み続けていれば、お前も比較的早死にできるかもしれないし」
「……頭、大丈夫?」
「酔ってるだけだ。ああでも、今のは遺言だからな。――忘れるなよ」
「忘れるかよ」
のんびりと遺言が託される。
セラの体には今のところ何の異常も見られない。まだ、大丈夫だ。遺言の内容を実行するのはまだずっと先のことだろう。それがリズの今の心の支えだった。
シシコに、ワインのコルクを抜かせる。
ワイン祭での試飲をする際に買った特製グラスに、美しい紅紫色のワインを注ぐ。
「Merci」
「De rien」
グラスの縁を軽くぶつけ合い乾杯する。
買い付けたばかりの赤ワインと共に、バゲットに野菜のテリーヌを挟んだサンドイッチ、ジビエの煮込み、チーズにセシナの実という昼食を草の上でとる。デザートはロメの実の香りづけがされたブリオッシュだった。
「美味いな」
「美味しいな」
セラは朝からの酔いにどこか瞳を潤ませて微笑む。
リズは花開いていた蝋梅の枝を花切鋏で切り落として空いたボトルに挿そう――と考えて、すぐに思い直した。花は枝のままに。命を美しく儚いものとして切り取る鋏は仕舞ってしまう。実をつけるかもしれないから。
手持ちのポケモンもみんな草の上に出して、昼食を分けてやる。
リズのシシコ、フラージェス、ファイアロー、ガチゴラス。セラのニャスパー、ギルガルド、オンバーン、アマルルガ。
8体はいずれも冬の空気に目を細め、のんびりと川岸の草地に寛ぐ。
フレア団にいた頃は、ただの手足としてしか見なさなかったポケモンたちだ。けれど今は違う。人間に捕らえられたポケモンたちは、トレーナーと共に戦うことを生き甲斐とする。そういう風に現状に適応し、常に力いっぱい生きている。ポケモンを従えたきっかけが強制であれ何であれ、ポケモンたちを人間と同様に尊重しなければならないことをリズもセラも知っている。
では肉用に飼育されるポケモンはどうなのだという話になるけれど。
セラを見送ったら、一から思索をし直すのもいいかもしれないとリズは思う。セラの為だけに生きていくことはどうしても不可能だから――フラエッテのことだけを想い続けたAZがやがては心を失ったように。
セラが死んだ後もリズの日常は続いていく。長く、ひどく永く。
想像するだけでつらいけれど、それはリズが蒔いた種だし、それがどのような実を結ばないとも限らないのだし。
リズはセラにのんびりと問いかけた。
「これからどうする?」
「好きにすればいい。一緒に行ってやる」
「余命少ないのはアンタの方だから、アンタが決めればいい」
「まだ余命少ないと決まったわけでもないさ、そう悲観するな」
「カロスをひたすら回る方がいいのか?」
「別にこだわりはない、死後この美しいカロスに埋葬してくれるなら。……もし行くなら、明るくて暖かい土地の方がいいかな」
「大地の剣の城下町アイントオークとか?」
「水の都アルトマーレでも、時空の塔のあるアラモスタウンでも」
「アルセウスを祀る神殿があるミチーナとか。あと、そこの神官の末裔の一派が暮らすアルケーの谷とか……そこは何も無いけど……俺の故郷ってぐらいで……」
「おお、それは非常に興味をそそられるな」
「砂漠の向こうのデセルシティとかも凄いらしいな」
「超カラクリ都市アゾット王国とか。私の故郷だが」
「へええ凄そうなの。あるいは海の向こうでも」
「AZは極東の島国まで旅をしたそうだ」
「西の果てのアローラ地方の島々もバカンスにうってつけだろうな」
「ああ、そう……」
何なら、ここでずっとこうして話をしているだけでもいい。
ワインを飲みながら、草の上で。
Epilogue. 雨月のアサメタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre1-2´. 雨月のミアレシティ
1月下旬 ミアレシティ
「…………終わったんだな…………」
「そう、終わった。でも私たちの日常は続いていく」
凍て空の下。
シシコを膝の上に乗せたリズは、ニャスパーを抱えているセラと並んで、プリズムタワーの天辺に腰かけてパレードを眺めていた。
毎年この日はカロスを守った英雄がチャンピオンとなった日を称えて、ミアレシティではパレードが行われている、という。英雄にフレア団が滅ぼされたのは既に数年前のことらしい。そしてリズもセラと共にフレア団に所属していたと、セラは語った。
リズはフレア団のことも、そしてセラのこともほとんど覚えていないけれど。
冬の分厚い雲の切れ間から黄金の斜陽が差し込んで、ノエルの名残りのあるミアレの白石の街並みを栄光の色に染め上げている。街頭にはカロスエンブレムの縫い取りをされた旗が無数に閃き、祝福の紙吹雪が寒風に舞い、色とりどりの風船が氷空に上がる。
絢爛豪華なファンファーレと熱狂的な歓声の渦の中。
通りに敷かれた深紅の絨毯の上を、五人の若いトレーナーたちが悠々と歩いてゆく。
ローズ広場から、ミアレを貫く河を西北西へ下り、未来を象徴する新ゲートへと。
そこではカロスのポケモン研究者を代表するプラターヌとその助手二名が、彼ら五人を待ち受けている。
それが毎年のお決まりなのだそうだ。
押し寄せる観衆の熱狂。
歓迎される若き英雄たち。
年越しの残りのフウジョ産シャンパンのボトルが、あちこちで勢いよく開けられる爆音。
空を飛び交う、飛行ポケモンやドラゴンポケモンに騎乗した、見物のトレーナー達。
テレビ局や新聞社のヘリコプターの轟音。
それらに追い散らされ羽ばたくヤヤコマの、火の粉のような羽毛の煌めき。
遠いファンファーレ。
警戒に当たる黒い制服の警官たち。
微かにスピーカーに乗って聞こえる、遠いプラターヌの声。
酔狂どもの宴。
黄金の斜陽、白銀の曇天。
リズとセラは、それらすべてをプリズムタワーの天辺から見下ろしていた。今年に入ってから既に5個目のガレット・デ・ロワを貪り食いながら。今回は太陽を表す渦巻き模様のものだ。
「アンタって、こんなに甘い物好きだったっけ」
「……好きだよ。忘れられたものは仕方ないが……早く思い出してくれ」
「思い出せ思い出せって言うけどね、なんでそこまで拘るのさ。俺はアンタにプロポーズでもしたわけ?」
「…………本当に忘れてるんだな、リズ……愛してるって言ったくせに……」
「マジで? PACS申請しないとな。で、出産予定日はいつだ、セラ?」
「………………お前は本当に、変わらないな」
セラは目を細め、はるか遠い残照を見つめている。
冗談をしみじみと受け流されてしまい、リズも悄然としてガレット・デ・ロワに齧りついた。そしてすぐに口を止めた。
「あ、またフェーヴ当たった」
「お前はよく当たるな。おめでとう、幸福に恵まれるよ。きっと私のことを思い出してくれるだろうね」
「アンタの俺への熱い想いに、感動とドン引きを通り越して恐怖を覚える。マジでどんな関係だったんだろう、俺ら……」
「ちゃんと思い出してくれよ。でないと、死ぬより酷い目に遭わすから……」
セラはそう言って、密やかに笑った。――死ねない苦しみを何度も何度も自覚し直しては、深く深く絶望して、自分で自分を幾度も幾度も殺し続ける、そんな悪夢を見せてやる。
リズが思い直すまで。
セラと共に生きることを選択するまで、ずっと。
2人は言葉少なだった。
びょうびょうと寒風が、プリズムタワーの周囲で渦巻いている。
もう数度目だというのに、パレードの勢いは衰えていない。
セラがぽつりと呟く。
「そろそろポケモンセンターに戻ろうか、リズ」
「……お、おう……そうだな」
シシコを抱えたリズが、ふらりとプリズムタワーの縁で立ち上がる。
それを見上げて、セラは思わずぎょっとした。
リズが花切鋏を手にしていたのだ。
宝物のように、大事そうに。
鋏を握りしめて、プリズムタワーの縁に立って、パレードを眺めていて。
前の花切鋏は、リズの記憶を消した直後に、処分したはずだ。――また、だ。また今回もいつの間にか買っている。昼間にソルドを連れ回していた間だろうことはわかる、が。そんなにそれが好きなのか? そんなに儚い花が好きか? 摘み取り、刈り取り、それが実を結ぶと結ばないとに限らわず、未来を奪うのが好きか?
そんなに、自殺したいのか?
まだ、何も思い出せてもらっていないのに。
それに視線を吸い寄せられて、セラは無意識のうちに右手を伸ばしていた。
いつもと同じに。
ただ単に、危ないと思ったのだ。リズがそれを持っていてはいけない。
すると、リズが遥か遠くの曇り空を見つめたまま笑った。
「――見切った!」
きょとんとしてセラは手を止める。
シシコを担いだリズが、振り返った。伸ばしかけられていたセラの右手が、花切鋏を手にしていた右手に取られる。
セラは首を傾げた。
きょとんとしているセラに鋏を握らせると、リズはにやりと笑う。
「そんなに、これが怖いか?」
「……あれ、見切られた」
「俺が17歳の時から、いま俺21歳でしょ。5回も毎年これ奪われかけて同じとこから突き落とされれば、さすがにトラウマになるわ」
そう言われたので、セラはごく真面目に、今回は記憶消去に失敗したのか、と思った。早く改めて消さないと、リズはまた、この花切鋏を使って痛そうな自殺劇場を始めてしまう。
だからセラは、リズの手の中の鋏を握ったまま、力なく笑った。
「何度もこれで自分の胸を突いてた奴が、何がトラウマだって?」
「無限ループネタは俺も飽きてんだよ」
「頭でも打ったか?」
「いいかげん見てられなくなった。根負け、しました。俺の命はアンタにくれてやる」
2人は花切鋏を媒介に右手どうしを繋いだまま膠着状態に陥り、しばらく睨み合っていた。
やがてセラは、悲哀を込めて嘆息した。
むすっとした仏頂面を再び上げ、文句を言う。
「…………遅く、ないか?」
「うん、俺もどうせ折れるなら最初から折れとけばよかったって思った。でも、アンタも大概ひどいよな。自分に納得のいく結果が出るまで、容赦なく俺を苦しめ続けんだもんな?」
「…………言っただろう、死ぬより酷い目に遭わすと」
「アンタ、自称マゾヒストじゃなかったか? えっと確か、一回目のシャラで」
「…………記憶力がいいんだな」
「おかげさまで」
リズは、繋いだ右手をゆらゆらと楽しげに揺らす。
セラは不機嫌な表情のまま問いかけた。
「思い出したから、私と一緒にいるということか? 同情でもしてくれるのか?」
「アンタの為なら、別に折れてもいいかなと思って。正直疲れたってのもあるけど。絶望し続けるのにも疲れた。そこでさ、提案があるんだけど」
「……何?」
セラが尋ねて視線を持ち上げると、リズは名案を思いついたとでもいうように、金茶の瞳を輝かせていた。
「あのトレーナーが持ってんだろ、ゼルネアスとイベルタル。そいつらになんとか頼めば、アンタも俺も何とかなるんじゃないかと思ってよ」
セラは鼻で笑った。
「……元フレア団員の願いを叶えてくれるかな。というかそもそも、お前が、あれらに頼るという発想を抱こうとはな」
「文句をつけに行くだけだろ」
「……でも……私はそれよりも、このまま静かに……この美しいカロスの季節の流れていくのを見ていたいな…………」
「おい。人を残酷にも生かしておいて、自分はそんなこと言うのかよ」
「…………リズ。私たちが蒔いた種なのだから」
セラは微笑むと、下ろしていた左手も伸ばし、そっとリズの手の中の花切鋏を奪い取る。
足元に放り捨てると、それはかしゃりと音を立て、鈍い残照を映して転がった。
再び手を伸ばし、大切な友人の黒い髪に触れる。リズが目を伏せた。
プリズムタワーが点灯した。
夕闇に沈むミアレを、五色の光で照らし出す。
眩いダイヤモンドフラッシュが始まる。いつかと同じように、これからと同じように。
「お前が自分自身の価値観を大切にすることはよく理解しているつもりだが、一方でお前は、他者の価値観を軽んじすぎる感があるね。そんなだから、私を忘れて独りで死のうなどと考えるんだ」
「…………そうか」
「私の死から目を背けてはいけない。自らの生から逃げてはいけない。お前一人の命ではないのだから」
「…………生きる意味が見出せなくても、生きることに耐え続けろと?」
「どうか私のために生きていてくれ。そしていつか……お前が私のことを許してくれるといいな」
Chapitre1-2´. 雨月のミアレシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre1-1. 雪月のエイセツシティ
12月下旬 エイセツシティ
エイセツの街はノエル一色に染まっている。
カロスの街はどこでもそうではあるが、その中でもエイセツほど、大規模で豪勢にノエルが祝われる街は他にないだろう。
広場には巨大なモミの木に飾りつけを施した豪華なクリスマスツリーがいくつも飾られており、あるいは街中に暮らすユキノオーが街の人々によって綺麗な衣装を着せられて笑っている。エイセツに暮らすユキノオーは民家の高いところの飾りつけなどを手伝ってくれて、このように人々はポケモンと協力し合いながら街を美しく飾り立てる。
家々は沢山のモニュメントや、色とりどりのイルミネーションで彩られている。
商店街やデパートのショーウインドーにも、それぞれ趣向の凝らされた華やかな飾りつけが成される。
クリスマスマーケットも開かれている。通りには黄金の光が満ちている。パーティーのご馳走の食材、一同を満足させるだけの酒、そして親戚全員が相互に配り合うノエルの贈り物、それらを買い込む人々でごったがえし、年末に向けてその熱気は高まっていく。
パティスリーには丸太型のビュッシュ・ド・ノエルが並び、花屋にはクリスマスツリー用の大ぶりな樅の木が用意され、カフェでは熱く甘いヴァン・ショーが歩き疲れた人々の体と心を温める。
街中の広場には移動遊園地やアイススケートリンクが設置されて、冬休みに入った子供たちが仲良しのポケモンと一緒に歓声を上げている。
また街の教会では温かい食事やプレゼントが、貧しい人々にも振る舞われる。
ノエルはカロスにおいて一年で最も特別な日であり、カロスの人々にとって最も大切な日だ。人々は家族や親戚、友人を大勢自宅に招いて大規模なパーティーに興じ、ご馳走を並べ、ワインボトルをいくつも空にして、夜中まで賑やかに語り合う。
カロスにおいては、ノエルを孤独で過ごすなど考えられない。
――それゆえに孤独に追い詰められて自殺を図る者も、このノエルに急増するという一面もあるが。
シシコを肩に担いだリズはふらりとエイセツの街の喧騒を離れ、南の20番道路“迷いの森”にふらりと引き寄せられるように入っていった。
いつかと同じように。
記憶の中と同じ足取りで。
雪が降りしきる、音の無い深い森の中。
オークやトウヒ、カエデは葉を落とし、地面には落葉と雪が積もってひどく滑りやすくなっている。雪化粧を施された木々の枝の向こうには、一面に曇天が広がっている。
リズはたった一人きり、彷徨い始める。
***
リズはハクダンの病院をたった一人で抜け出して、3体の手持ちのポケモンだけを連れて枯れ果てた葡萄畑の間を彷徨した。
ノエルの所為か知らないが血気盛んに勝負を仕掛けてくるトレーナーを軽くいなす。そいつは故郷の家族にノエルのプレゼントを買う金が必要なのだと物乞いも同然にリズに許しを乞うたが、リズは聖人ではない。リズにはプレゼントを買う予定は無かったが、もしここで相手に譲歩をすればつけあがらせる。そして規則を曲げれば、法の存在する意味が失われる。それは長期的には相手の為にも社会の為にもならないと判断して、きっちりと搾り取るものは搾り取った。悪魔と罵られた。
――知ったことか。フレア団なんてのは奪うだけが能の、悪魔の巣窟だ。与えることを諦めた恵まれた者たちの集団だ。
道路には、同様にプレゼントの購入資金を求めてバトルの相手を探しているトレーナーが、うじゃうじゃいた。群れを成し、ほとんどリンチの体でリズに襲い掛かってくる。
しかしそのような貧しいトレーナーとは、往々にしてバトルに勝てない弱い連中である。だからたとえ集団バトルをしても、彼らはけしてリズの敵ではなかった。リズとて思想一本のみでフレア団内の地位を占めていたわけではない。強い野生のマンムーを捕獲しAZを捕縛してくるほどの幹部並みの実力は持ち合わせている。
トレーナー間に適用されるこの『賞金制度』は、言わずもがな、強者が弱者を搾取することを正当化する制度だ。それは元々経済的に貧しい層に多いポケモントレーナーの中にさらに格差を拡大させ、少数の弱者を虐げることになる。そのためリズがかつて籍を置いていたミアレ第一大学の法哲学者たちの間でも、賞金制度は、正義に適わないとすこぶる評判が悪かった――とリズは記憶している。
しかしリズは、これまで賞金制度を考察の対象としたことはなかった。
なぜなら、世界はフラダリによって滅ぼされると思っていたからだ。
でもそうならなかった。
そうしてトレーナーたちから逃げるようにして転がり込んだ、ノエルに賑わうエイセツの街がやっぱり煩わしくて、リズはさらに逃げた。
どこに行っても、人間か、ポケモンか、あるいは傲慢な神がいるからまったく辟易する。放っておいてくれればいいのに。そう、そもそもオリュザ・メランクトーンという人間の命を与えるまでもなく、無の世界にそのままそっと独り揺蕩わせておいてくれればよかったのだ。自分の命が憎い。生きているというこの眼前の現実が怖くてたまらない。
自分が生きているなんて、信じられない。
生きないといけないなんて、そんな現実、ありえない。
在り得ないのに、リズはここに在る。
そんなの、冗談じゃない。
しかしそれはやっぱり冗談でも何でもなく、現実なのだった。信じられないことに。
雪深い森の中、リズは雪の上に倒れ込んだ。
限界だった。
体が、というよりは心が。
眠りたい。すべて忘れてずっと眠っていたい、二度と目覚めなくてもいい。
気づけば、リズは雪の中、何者かにずりずりと引きずられていた。
腰のベルトを掴まれ、いずこかへと体を移動させられているようである。時折背や腰を木の根などにしたたかに打ちながらも、ポケモンだろうか、何かの獣にリズは森の奥へと連れ去られる。
――食われるのだろうか、などと考えた。
冬は野山に食料が乏しいから、冬眠しない肉食のポケモンに捕まったとしても不思議ではない。なぜすぐに仕留められないのかは不可解だが、そんなことはどうでもいい。
自分は死なない。たとえ手足がちぎれても首の骨を折られても片っ端から再生するのだろう、ヤドンの尻尾みたいに。なら、いい餌になる。死ぬまで、強制された永い生命が尽きるまで、食われて再生しては食われてを繰り返す、山頂で生きながらにして毎日肝臓をウォーグルについばまれる神話のプロメテウスのように。いつまで? 3000年の寿命が尽きるまでか?
悪夢だ。
悪夢みたいな現実を、もう何度目だろうか、リズは嘆く。
その頬を、熱い舌が舐めた。貴重な塩分を摂取したいのか、はたまた単に心優しいだけなのか、それは熱心な舌遣いでリズの涙を拭ってくれる。
それが、シシコとの出会いだった。
年甲斐もなく泣きじゃくりながら雪の中をシシコに引きずられ続けて、気づけば、リズは雪の斑に残る草原に横たわっていた。
雪は降っていたが、体に雪はほとんどかかっていない。
森の奥に開けた草原、そのただ中に作られた東屋の下にリズは休まされていた。
せせらぎの音が聞こえる。
草原の中では時折早咲きの水仙が、氷のように白く震えている。いつもなら花切鋏で摘み取ってしまうところだけれど、今は心が万年雪のように重く凍えて、そんな気になれない。
視線を彷徨わせても、周囲にいたのはシシコだけだった。
シシコはリズの頭の方で蹲り、そのつぶらな瞳でリズの顔を覗き込む。
その尾が、子供を宥め寝付かせるかのように、リズの背を優しく叩く。
再びシシコの熱いざらざらした舌が、毛づくろいをするようにリズの頬を舐めた。ふわふわの毛並みに覆われた前足が、頭をそっと抱え込んでくる。
暖かい。
背中を打つ尾の優しいリズムと、若獅子の甘い口づけと、毛布のように温かく柔らかい毛並みに、いつの間にかリズは眠りに誘われていった。
***
自分のホロキャスターを改造して、セラはリズのホロキャスターの電波を探知できるようにしてしまった。
ハクダンの病院からリズが手持ちのポケモン3体と共に消えた時、あちらこちらを無闇に捜し回る前にホロキャスターの改造を思い立ったのは、むしろセラの科学者としての矜持のためだった。
そしてその時も、そして今も、ホロキャスターの電波を頼りに消えたリズの行方を追ってセラがやってきたのは、ノエルに沸き返るエイセツの南に伸びる20番道路だ。別名“迷いの森”とも呼ばれるその地では、これ以上ホロキャスターの電波を追おうにも、ゾロアークだのオーロットだのといったポケモンに化かされて道を失う可能性の方が高いのだった。
しかし、リズはここにいる。
セラは覚悟を決め、雪に閉ざされた森に踏み込んだ。
いつかと同じように。
記憶の中と同じ足取りで。
そしてあの時も、数時間雪の中を歩き回った末に、案の定、道に迷った。
縄張りを侵されたと勘違いしたポケモンに化かされ、方角と距離を失い、このままではリズを見つけるどころか自分も遭難してしまう。
さてどうしたものかと戸惑って、歩き疲れてとうとう雪の中の倒木に座り込んだ。
そこで出会ったのが、ニャスパーだった。
セラはぎくりとした。ニャスパーは苦手だった――それはセラが幼い時に死なせてしまったポケモンだったから。その別れがつらくて、心を病むまでに嘆き狂って、そしてかつてのセラは永遠の命という夢想に恋い焦がれたわけである。死が無ければ、悲しみも無く、人生に価値が生まれるものと心から信じて。
その夢想がリズによって破壊された今でも、セラにとってニャスパーを見るのがつらいことに変わりはなかった。
ニャスパーはつぶらな瞳で、木の陰からセラを見つめていた。
居心地が悪くなり、セラは痛む足を引きずりその場を後にしようとする。
ところが、道なき道に向かって歩き出そうとすると、そのニャスパーがとてててと駆け出し、セラの前に立ちふさがった。小さな手足を広げて、ちんまりと通せん坊をする。
セラはそれを見下ろして、困り果ててしまった。
向きを変えてみても、やはりニャスパーはセラの行く手に回り込み、歩みを妨害してくるのだった。『先に進みたければ私を倒してからにしろ』というやつであろうか、とセラは思う。しかし相手はかつて喪って悲しみに暮れた愛しいポケモン、傷つけられるはずがない。
仕方なくセラはニャスパーの前に屈みこみ、半ば期待しないながらも説得を試みた。
「……友達を捜しているんだ。通してくれないか」
ニャスパーは首を傾げる。
それからくるりと踵を返し、てちてちと雪の中をとある方角へ歩き出した。
ポケモンも話せば分かるものなのだなとセラが感心しつつその後ろ姿を見送っていると、そのニャスパーはくるりとセラを振り返り、ふんすと鼻を鳴らす。
さっさとついてこい、とでも言うように。
野生にしては随分と人に慣れた様子に、セラはなんとなく分かってしまった。――これは人に捨てられたポケモンだ。ではその人間に仕返しするつもりなのか、あるいは未だに人間を慕って親切をしてくれるつもりなのか、セラには量りかねた。
セラが逡巡していると、ニャスパーの耳がぴくりと不穏に動く。
――まずい、これ以上焦らすと念力を暴発される。
そのように小さなニャスパーに無言の圧力をかけられて、セラは仕方なく、おとなしくその後に従って再び森の奥へ分け入ったのである。
***
ざわざわと、風でない何かが草をかき分けてこちらへやってくる音がして、リズは再び瞼を押し上げた。
草原の東屋の下。
セラが、こちらを見下ろしている。その腕にはニャスパーを抱えている。
リズの枕元にいたシシコがみゃああと嬉しそうな声を上げて起き上がり、こちらもまたセラの腕の中から飛び降りたニャスパーとみいみいにゃあにゃあと戯れ合い始めた。この2体は、この森の奥に隠された草原に暮らす幼馴染なのだろう。
ニャスパーがセラを、シシコと共にいるリズの元まで導いたのだ。
いつかと同じように。
リズがゆっくりと身を起こすと、セラもそれに並んで草の上に腰を下ろした。セラの膝の上に、すっかり懐いた様子でニャスパーがよじ登ってくる。一方のシシコも人懐こくリズの膝の上にのし上がってきた。
2人はそれぞれの毛並みを撫でてやった。くるくると心地よさげに喉を鳴らす音が、ふたつ。
緑の草原で、早咲きの水仙が凍えていた。
「……ひどい夢を見たんだ」
「俺にとってはこの状況こそひどい夢だ」
「…………本当に気が合わないな」
「だよな」
2人して溜息をついてから、互いに互いの顔を見つめた。
セラはすぐに視線を伏せた。
「………………思い出したか?」
リズもすぐに視線を逸らした。
「そうだな」
「…………黒焦げになって死んだと思ってたお前が生きてた時……正直に言おう、嬉しかったよ」
「俺は絶望した」
「……知っている、私はずっとお前の傍にいたんだから」
冷たい風が、草原を渡っていく。
とても静かだった。2人の膝の上のシシコもニャスパーもおとなしく風に目を細めている。
「それでも私は嬉しかったんだ」
「アンタが嬉しくても、俺は嬉しくない」
「セキタイで、一緒に生きるって話をしたのに」
「永遠を生きるとは言っていない。それにアンタは、俺と違って長くない。それなら尚更、生きる意味なんか無いよな。そうだろ?」
だからさ、とリズは苦笑した。
「一緒に死のう、セラ」
リズはひどく手に馴染んだ花切鋏を取り出した。
それを自分の胸に突き立てる。その感覚にすら覚えがあって、ひどくつらかった。
セラはそれを無表情で眺めていた。
「……痛くないか、それ」
「痛い。死にそうだ。でも死ねないんだ。何回やれば死ぬんだろうな」
「……私からしたら、腹立たしいどころじゃないぞ。私は生きたくても生きれないのに、お前は死のうとしている」
「俺は死にたくても死ねないんだ」
「……なあ、やめてくれないか。友達が自殺しているところなんて、何が嬉しくて鑑賞しなくちゃならないんだ」
「まだ当分死なねえよ。あと数百回の我慢だ。あー、ありえないわ、マジで……」
しばらくセラは黙っていた。
それからようやく口を開いた。
「…………私との旅は退屈だったか」
「いや、楽しかったな。……フウジョ行って、クルーズ船で河下りして、コウジン水族館見て、あと、なんだっけ」
「待て、ショウヨウで一緒に春のイースターを祝っただろう。レンリで夏至の音楽祭に寄った、シャラの初夏の中世祭を見た、キナンに真夏のバカンスに行ったし、ヒャッコクの秋のミラベル祭りにも行ったし、その後は葡萄の季節にクノエに」
「たの、しかったな、セラ」
「楽しかったと言うなら、これからも」
「……ちょっと、まて、ひんけつ。きこえない、ちょっとまって。どうせすぐになおるから」
セラはリズから視線を外さなかった。
「…………楽しかったと言うのなら、これからも2人で生きる楽しみを探していこう。一緒に生きよう、リズ」
「嫌だね。なんでアンタに生きる意味を決められなくちゃいけない」
「私が決めてるんじゃない。お前が決めるんだ。私のために生きることを覚悟しろ」
セラが背筋をまっすぐ伸ばしたまま、まっすぐリズを見つめたまま言い放つと、リズはへらりと笑った。
「だから、アンタはこんなことしてるわけ?」
「……こんなこと?」
「そのニャスパーの力か、俺の記憶を奪って。思い出作りだなんて言って、すべてを忘れた状態の俺に“今”なんかを楽しませて。俺がアンタのことを尊重するようになるよう、俺を誘導してただろう。デート作戦で惚れさせようとしてた、でしょ?」
「……ぐうの音も出ないな」
セラは力なく笑った。
リズのほうも笑うしかなかった。汚れた片手で顔を覆う。
「…………最っ低だ…………」
「ごめん。でもこうするしか思いつかなかった。確かに、お前の記憶を奪ったのは私だよ」
「……最低のド変態の下衆野郎だな……」
「だってそうでもしないと、お前、今みたいに、私の目の前で自殺し続けるだろう。それこそ、最低のド変態の下衆野郎のすることじゃないのか?」
「…………うん……だよね、……でもこうするしかないん、だよ」
「そうする以外にもあるはずだ。わかるだろう?」
セラの手が伸びてくる。ぽんぽんと肩を軽く叩かれ、頭も小突かれ、カロスの幼子が仲良し同士でじゃれ合うみたいに、むぎゅうと抱きしめられる。
暖かくて涙も出たけれど、それで少しは命が惜しくなったけれど、花切鋏で突かれた胸は痛いけれど、それでもリズは握った凶器を手放せなかった。これは美しく咲いた季節の花を切り取るもの、その命を刈り取り刹那を歎美するもの、それが実を結ぶと結ばないとに限らずその未来を断つもの。
「…………いやだ。生きてて何の意味がある。アンタはもうすぐ死ぬのに」
「その残り少ない私の人生を、せめて穏やかに過ごさせてくれよ」
「…………いやだよ。俺が虚しいだけだろう」
「私にまで虚しい思いをさせるつもりか? 本当にお前は薄情だ」
「…………何とでも言えよ、アンタのことなんか知るか」
「ああ、そう。お前から記憶を奪ったのは私だけれど、その記憶をお前が思い出した今も、いや思い出したからこそか…………お前の心から、私は忘れ去られてしまったんだな、リズ」
セラは立ち上がった。
リズはそれをぼんやりと見上げていた。
「ちがう、そうじゃ、ない……?」
「忘れたものは仕方ないな。思い出せばいいんだよ。何度でも。私は待っている。この命の続く限り」
セラが泣きそうな顔で、ぐしゃりと顔を歪めて笑う。
「だから、私は何度でもお前の記憶を奪い――」
リズの頭がずきりと痛む。歪んでいるのはリズの視界のほうだろうか。
「……いやだ」
「お前に考え直しを迫るだろう」
「…………やめてくれ…………」
シシコはのんびりと草地に伏せ、すべてを静かに見守っている。
ニャスパーが念力を使っている。
記憶を。
消されている。
まただ。
また? 何度目なんだ? そうじゃない。これからいつまで、何度、繰り返す気だ?
セラは。独りで。これを。
「――お前が本当に私を思い出すまで」
これこそ悪夢じゃないか。
Chapitre1-1. 雪月のエイセツシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-5. 霜月のハクダンシティ
11月下旬 ハクダンシティ
あれだけの事件があったというのに、その週末にはハクダンシティでは、毎年恒例のカロス最大のワイン祭り――通称『栄光の三日間』が催されていた。
カロスが滅ぼされかけていただとかそんなことは関係ない、結局はテロリストが自爆しただけでカロスは滅びなかったのだから、いつもどおりに祭りを開催する。その逞しい根性とワインに対する情熱がまさにカロス人らしいと言えるだろうか。
ハクダンを取り巻く葡萄畑は、黄や赤に色づいている。その葡萄樹に実った黒い宝石は摘み取られてワインとなるべく仕込みに回されて、残された葡萄畑は枯れた葉が寒風に吹き散らされるのを待つばかりだ。
空は毎日、雲に覆われていた。
日没は日に日に早くなる。
サイドテーブルにはサザンカの花枝が白磁の花瓶に挿して飾ってある。
セラは病室から、そうした初冬の気配を感じ取っていた。身を起こす気力すら失われたまま。
教会の鐘の音。
利き酒騎士団の叙任式。
広場や通りに軒を連ねる屋台の売り声。
ワインの試飲にいそしむ観光客の嘆声。
パレード。
マラソン。
ストリートパフォーマンス。
屋外で行われるワインのオークション。
賑やかだ。
セキタイで起きたことなど、無かったかのように。いや違うか、セキタイであれだけの事件が起きたからこそ、それを乗り越えたカロスを讃えているのだ。「あの程度の災禍などカロスにとっては何でもない」と国内外にアピールしているのだ。
素晴らしく鮮やかな掌の返し具合だ、とセラは思った。
行政の上層部にも、フレア団員はいたのである。彼らも、その日セキタイの最終兵器がカロスの全てを滅ぼし、フラダリの統べる死の無い新世界が始まり、そこで新たな人生を始めるものと――多かれ少なかれ信じて、フレア団として活動を続けてきていたはずで。
なのに、『栄光の三日間』をいつもどおり執り行っている。
あらかじめ、フレア団の失敗を、ある程度予測していたということだろうか。
けれどフレア団の悪事が明るみになった余波は、確かにカロスを襲った。
行政府の半分ほどの大臣、中央銀行の上層部、主要メディアをはじめとする大企業の重役、名家として知れ渡る貴族の末裔などなど。何十人ものカロスのトップに立つ人間が、フレア団との関わりが明るみにされて、職を失った。
その中で最後まで糾弾されなかった人物――カロスのポケモンリーグ四天王が一角パキラが、まったく悪びれる様子もなくニュースキャスターとしての華やかな職務に邁進しているのを、セラはむしろ感心して眺めた。
病床に横たわったまま。
セラは全身に火傷を負っていた。
最終兵器の放った光で焼かれたのだが、リズに庇われたおかげで炭化せずに済んだわけである。
そんな重い火傷も、病院で働くシュシュプの“アロマセラピー”やタブンネの“癒しの波動”やチリーンの“癒しの鈴”を毎日ひっきりなしに受け続け、強制的にモーモーミルクをごっくんさせられ、ラッキーの産んだ栄養満点のタマゴを毎日喉の奥に流し込まれ、そしてプクリンの歌声を聴かされて眠らされていると、ほんの数日で驚くほど回復した。
それでも、吐き気が止まらなかった。
上体を起こすことすらままならない。
煙のにおいを嗅ぐとどうしてもだめで、炎ポケモンを連れた他の患者やその見舞客が近くを通るだけで体調を崩す。
担当医はそれらを精神的なショックに起因するものと診断した。
それから病院のムシャーナに夢を診断されたりした。が、ムシャーナの出す夢の煙ですらセラは嘔吐する羽目になった。セラ自身にもわけがわからない。
手持ちのオンバーン、ギルガルド、アマルルガの3体はセラを心配そうに見守ってくれる。ポケモンに心配されるのは有り難いことだとセラは思う。フレア団に所属していた間、ほとんどセラは手持ちのポケモンを顧みなかったのに、この3体はセラを気にかけてくれるのだ。
この3体はセラに捕らえられた身であることを理解していて、その上で、セラに尽くすことを生きる意味として見出しているのだ。
そんなことは、数日間この3体と共に過ごしていれば当然に分かることだった。
ポケモンにも心があり、その命に価値があり、生きる意味を持っている――と教えてくれたのはリズだった。
オンバーンやギルガルドやアマルルガを愛おしく思えば思うほど、リズのことが思い出されてつらい。
オンバーンを、リズのファイアローと並べて何度も空を渡った。
ギルガルドがこの形態に進化させた闇の石は、リズのフラージェスを進化させた光の石と交換したものだった。
アマルルガは、リズに譲ったガチゴラスの片割れの化石ポケモンだ。
まだ生きると。
言ったのに。
そんなこんなで、セラはずっとハクダンシティの病院に入院している。
負傷現場であるセキタイから何故こんなにも遠く離れたハクダンに連れてこられたのかと思ったら、死傷した数万人のフレア団員で、シャラやショウヨウ、コボク、ミアレの病床が埋まってしまったためらしい。病床にあぶれたセラの受け入れを表明した医師が、ハクダンの病院に勤める、セラのミアレ第十一大学での先輩だった。
その個人的にも信頼できる医師から、セラは、自分の全身の細胞が最終兵器の放った高圧の電磁波にさらされて染色体が傷つき、ありとあらゆる部位において癌の発生リスクが高まった、などというようなことを聞かされた。
が、セラはそんなことなどどうでもよかった。
大学の先輩である医師が、半ば放心している様子のセラの顔を覗き込む。
「気をしっかり持て、ケラスス。つらいだろうが、人生なんてそんなものと思って受け入れろ」
「……そうは言うけどな……」
「それにしたって、おまえも寂しい人間だな。家族も来ない、友人も来ない。そんな患者、滅多にいないぞ。おまえっていったい何を生き甲斐にしているんだ?」
「……精神的にも弱ってる患者に向かって、えらい言い草だな……」
いい意味でも悪い意味でも遠慮のない先輩の言葉に適当に相槌を打ちながら、セラはどこも見ていない。
目覚めた時からずっと、セラの頭には、“円い星空の下に打ち捨てられた炭の人形”の映像がこびりついていた。
全身の火傷はひどく痛むけれど、そんなものどうでもよかった。リズはセラ以上に苦しんだはずなのだ、破滅の光に焼かれて、もがき苦しんで炭になって転がって煙を上げて、そして死んだ。
結局、死んでしまった。
死に損ねたななどと、笑っていたのに。
これからも名前を呼び続けるからと、セラという呼び名をくれたのに。
これからもよろしく頼むと、手を差し伸べてくれたのに。
煙が目にしみる錯覚がして、涙がだらりと流れ出てくる。そして医師を吃驚させる羽目になる。
「大丈夫かケラスス、痛むか。つらかったらお医者さんにすぐ言えよ、痛み止めは用意してやる。精神的な苦痛の緩和はカウンセラーの仕事だけどな」
その医師は、セラに友人がいるなどと思いもしないのである。そして自分の仕事をしっかり割り切っている。
良くも悪くもさっぱりしている。
セラは吐き気をこらえつつ、唸った。
「……オリュザ・メランクトーンの手持ちのポケモンは?」
「え? オリュザ君?」
「……あいつも……ここに連れてこられたんだろう?」
「ああ、うん、おまえと一緒にこの病院に運んではきたけどね。オリュザ君のポケモンは、オリュザ君の傍にいるけど……それがどうした?」
セラは息を吐いた。
リズの親族が見つからず、リズの手持ちの3体もおやの傍に留め置かれているということだろうか。どこかのジムなどに預けられてしまう前に、尋ねてみてよかった。友人だと名乗り出れば、リズのポケモンはせめてセラが引き取ることができるだろう。
「……そいつのポケモン、私が預かることはできないか?」
「え? なんで?」
「……なんでって……友達だから」
「あ、へえ、そうだったんだ。でもなんで? オリュザ君本人から頼まれでもした?」
医師は間抜けな顔をして、ぬけぬけとそう尋ねてくる。
さすがのセラも顔を顰めた。
「……頼まれてはいないが、あいつの傍に置いておくよりいいだろう……」
「いや、良くないだろうケラスス。だって、ポケモンはおやの意思に沿った処遇を受けるべきであって」
「――だから、そのおやが死んだんだろう? 遺言でも無いと駄目とでも言うつもりか?」
さすがに気分を害して刺々しく言い放つと、医師はぽかんとした。
「えっ?」
「あ?」
「えっ?」
「……おい、何だ」
「えっ? あれ? もしかしてケラスス……あれ? えっと、オリュザ君……」
医師は暫く一人で混乱していた様子だったが、とつぜんポンと両手を打ち合わせ、セラを見ながら馬鹿笑いを始めた。
「アッハハハハハハハハハッハハハハッハハッハハハハッハ!!!???」
「……何がおかしい」
「ああああ、そうか! 実によかった! よかったなケラスス!」
医師は実にいい笑顔を浮かべて、横になったままのセラの肩を優しく叩いた。
にんまりと笑って、医師は確かに、こう言った。
「――オリュザ君は、生きてるぞ」
セラは絶句した。
まるまる一分ほど経っても、息しか、漏れなかった。
「………………はあ?」
セラは寝台から転がり落ちた。
貧血でぐらぐらして、立てない。足もひどく萎えている。セラは傍にあったサイドテーブルの上、サザンカの枝の花瓶の傍に置いてあった3つのモンスターボールのどれか一つに呼びかける。
「マルス」
ギルガルドが召喚に応じ、自らボールの中から姿を現す。
「動かせ。私を」
ギルガルドの霊力で体を操らせる。頭に血が回らなくて、ひどく頭痛と眩暈がして、吐きそうなのをこらえて、壁を伝い、震えながら、すぐ隣の病室へ、もだえ苦しみのたうち回りながら向かう。
隣だった。
すぐ隣にいたのだ。
そこに、リズはいた。
褐色の肌、黒髪、金茶の瞳。
「え?」
セラは顔を顰めた。
それは紛れもない本人の姿で、至って健康そうな姿で、白い病床に横になってぼんやりと窓の外を眺めていた。
褐色の腕を白い布団の上に投げ出し、その右手には花切鋏、そして布団の上には山積みになった鮮紅のサザンカの花束。
「……え?」
ただただ息が、漏れる。
リズがサザンカの花弁の中から、ゆったりと、セラを振り返る。至って自然な動作で。
「よう、セラ。……ひどい顔だな」
「…………え?」
確かにリズの声だった。
信じられない思いで、見つめる。
リズの体には傷一つなかった。
リズは困り果てたような苦笑を浮かべてセラを一瞥すると、すぐに視線を逸らし、手の中のサザンカの花枝に改めて向き直った。鋏で枝を切り揃え、どうやら病院の白磁の花瓶に生けるものを造っているらしい。
セラはギルガルドに縋りつきながら、喜んでいいのか恐れるべきなのか、判断しかねた。
リズはもう、セラを見ていない。初冬の花に夢中だ。セラに軽く声をかけただけで、握手の挨拶すら無かった。――なぜ、友達なのに、感動の再会なのだからハグくらいしたって当然だろうに、いや、これは本当にリズ、か…………?
セラは立ち尽くしたまま、混乱していた。
遅れて医師がリズの病室に入ってくる。
「おおオリュザ君、今日もお花作りに精が出ますなあ」
「ああどうも、先生」
「他の患者さんも喜んでくれてるよ」
「それはよかった」
医師とリズはそのように呑気な会話をしている。
セラはただただぽかんとして、リズを見下ろしていた。
そこに医師が声をかけてくる。
「いいか聴け、ケラスス。オリュザ君は、このハクダン病院への収容時には全身炭化してて、こりゃ死亡診断出すだけの簡単なお仕事だわと思ってたその矢先――お医者さんが気付いたときには、完全復活を果たしてました」
「………………はああ?」
セラは顎を落とした。あまりに驚愕したせいか、頭痛がどこかに行ってしまっていた。
一方のベッドの上のリズは医師の説明にも興味なさげに、黙々と花切鋏でサザンカを切っている。どちらかというと、切り刻んでいる。時折その鮮紅色の花弁のかけらがはらりはらりと、雪白の布団の上に散る。
医師も溜息をついた。
「いや、お医者さんも何が起きたかさっぱりわけわかめなのね。で、とりあえず精密検査したわけよ、オリュザ君だけじゃなくて医療関係者の頭も片っ端からね。――で、これは間違いなくオリュザ・メランクトーン本人だよ。彼の手持ちのポケモンたちも、そのような反応を示している」
セラはリズを見つめたまま、呆然と、医師の説明を聞いていた。
医師曰く。
オリュザは最終兵器の光を浴びて、全身の細胞が形質転換を引き起こした。
――どこかで聞いたような話だった。
どんなに傷つけられても、あっという間に傷が癒えてしまう。それはもう染色体がどうのという問題でなくて、ほとんど観測する間もなく、時間が戻るように、あっという間に再生する。
そのような話を半ば放心状態で聞きながら、一方でセラの科学者としての頭の一部は冷静に動いていた。
リズのケースはセラによるAZの細胞の観察結果と若干異なる、が、それはセラがAZの細胞のサンプルを得た時点でAZが既に3000歳を超えてある程度老化が進んでいたためではないか。
つまり、リズは、AZと同様の症例に罹患しているといえるのではないか。
不死、という病に。
リズの枕元には、彼の手持ちであろう3つのモンスターボールが転がっている。
リズは死んではいなかった。だからその手持ちのファイアローもフラージェスもガチゴラスも、リズの傍に留まっていただけなのだ。それは3体にとっては良いことだろう。
医師は他の仕事の時間だと言って、リズの病室から去っていた。
そこにはリズとセラだけが残された。
リズは手を止めた。ぼんやりと、布団の上に散ったサザンカの花の残骸を眺めている。
遠く、ワイン祭りのざわめきが風に乗って病室まで聞こえてくる。
ぽつりと、声を漏らした。
「楽しそうだな」
セラもベッド脇の丸椅子に腰かけて頭痛をこらえながら、頷いた。
「……そうだな」
「ずっとここでアンタが目覚めるのを待っていた」
「……起きるだけならずっと前から起きていたのに」
「アンタが俺に会いに来れるまで回復するのを待っていた」
「……偉そうに……」
すっかり健康そうなくせに病人のように病床にあるリズを、セラは睨み下ろす。
「……お前は死んだと思っていた」
「俺も自分は死んだと思ってた」
「……生き返ったんだな、AZと同じに。イベルタルの力で命を吸われて空っぽになった肉体に、ゼルネアスの力で尽きぬ命を注がれたわけだ……」
「そうだな。アンタがフラダリやクセロシキにドゲザしてまで望んだ肉体だ。羨ましいだろう?」
挑発するような口調ながら、リズは自嘲気味に笑っている。
セラは顔を顰めた。
「……お前はそれを望んで手に入れたわけではないんだろう?」
「そうだよ。殺されて、生き返らされた。傲慢な神によって。……最低だ」
そう吐き捨てるリズの顔から笑みが消える。と同時に、憎悪と絶望と虚無が表情に広がる。
もともとリズは、殺されるとか、生き返らされるとか、そのように命を弄ばれることを憎む人間だった。それは死の意味を消滅させ、生の価値を破壊する行為だからだ。
そのことをセラはよく知っている。
だからリズが哀れでならなかった。頭を下げる。
「すまない。あのとき、私が、お前に庇われなどしたから」
するとリズは困ったような表情になった。
「……そう言われると、困るんだよな。あそこでアンタを庇ったのは俺の意思だし。でもあのときは咄嗟だったから、あの光をまともに浴びたらこんな事になるだなんて、考え付かなかったんだよ」
そう言ってリズは深く深く溜息をついた。哀しげな眼をしていた。
「……それに一方のアンタは、そう長くないらしいじゃん。庇った甲斐が無いじゃんな」
「…………あ…………」
リズに言われて、セラも思い出した。――そうだった、自分は、癌の発生リスクが高まったために常人ほどは生きられないだろうと、医師から宣告されたばかりだったではないか。リズが死んだと思い込んでいた間は自分の余生のことなどどうでもよかったが、言われてみれば、そうだった。
リズは永い命を与えられた。
セラの残り時間は削られた。
セラは途端に現実が信じられなくなった。
リズは鮮紅色の花弁に埋もれる中で、へらりと笑う。
「俺の持論を聞かせてやろうか、ケラスス・アルビノウァーヌス」
「……何だ」
「アンタは“哲学の第一原理”をご存知か? デカルトの『我思う、ゆえに我在り』ってやつ」
「……それぐらいは知っている。世の中のすべてを疑ってかかる姿勢をとってみた中で、その疑うということをしている自己だけは、疑いようのない存在だということだろう」
「俺に言わせりゃね、それでも信じられない不確かな自己もあると思うんだわ。――確かに俺はここに在る。でもそんなの信じられない、俺は死んだはずだ。だけど、まさにそう思っているからこそ、俺の存在が確信される。でもいくら確信されたところで、俺は俺が信じられないんだ……」
リズは横たわって宙を見つめたまま、そう呟いた。
セラはただただ苦笑した。
「…………お前の話は難しいな、夢想家」
「そりゃ、トピック的論証だもん。理論家には理解できんだろうさ」
リズも苦笑した。
「でも、こんな酷い現実、受け入れられないだろ? 俺が言いたいのは要はそれだよ」
「…………確かに、残酷な結末だな」
「だよな?」
リズは昏い眼を閉ざす。
その右手は冷たい花切鋏を握りしめ、左手は裂かれたサザンカの花を握り潰している。
セラはそれを見下ろしながら、ただただ悲しかった。――せっかく生きて再び会えたというのに、なぜ喜び合えないのだろう?
Chapitre4-5. 霜月のハクダンシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-4. 霜月のセキタイタウン
11月下旬 セキタイタウン
慰霊祭?
復興に向けた集会?
そんなものは営まれない。
せいぜいカロスの各地で、恐るべきテロリスト集団フレア団が壊滅したことを喜ぶイベントが催されるくらいだ。そこではかつてのカロスの支配者フラダリは史上最悪の犯罪者として手酷くこき下ろされているし、各界によってカロスの救世主に祭り上げられた五人の子供トレーナーたちは馬鹿みたいな大歓迎を受ける。
半島に位置するセキタイの街は偏西風の影響を強く受ける。そのため森林はほとんど自生せず荒れ地が広がっている。家々は石造りで西側に窓が無く、風への抵抗が前面に押し出されていた。
その街も、最終兵器に滅ぼしつくされ、一年が経った今も荒野になったきり、無残な傷跡をさらけ出していた。
最終兵器の放った破滅の光の、その電磁波の影響はまだ周囲にあるという。そのためセキタイタウンへの立ち入りは制限されている。科学者たちが電磁波の影響について詳しく調べているところだ。
かつてのセキタイの住民は9割以上がフレア団から受け取ったはした金を手に他の土地に移住していたから、一般市民の犠牲はごく少なかった。犠牲となったのは、大半が事件の犯人であったフレア団員だ。だからそもそもそれは自業自得で、唾棄すべき大罪人のために祈ろうなどという酔狂はこのカロスには本当に少ない。いたとしても、フレア団の遺志を継いだテロリスト予備軍として厳重警戒の対象になるだろう。
だから、事件から一年が経ったセキタイは、本当にただの荒野だった。
***
晩秋。
地上に咲いた巨大な人工の花を、オリュザはファイアローの背から冷ややかに見下ろしていた。
剣のような六枚の花弁をいっぱいに広げた、最終兵器。
枯れることのない永遠の花。
それは確かに美しかった。
ヒャッコクの日時計にも似た、これは虹色の輝きを放つ無色透明の結晶体だが、日の光を浴びてきらきらと輝いている。実用性だけでなく美観を重視したことがわかるデザインだ。
これを生み出した3000年前のカロスのAZ王は、本当に素晴らしい趣味をしている。オリュザは皮肉げに笑う。
――枯れぬ花が果たして結実するか、見届けてやろう。種を蒔いた者の責任として。
あらかじめホロキャスターでフレア団の仲間に連絡を入れておいたためか、ファイアローをセキタイタウンに乗り入れてもフレア団に追い散らされることはなかった。むしろオリュザは、フレア団の中ではそこそこ知られているほうだ――不死王フラダリの出現を予言しフレア団の理想を説いた、新世界へとフレア団を導いた若き思想家として。
10番道路“メンヒルロード”の列石には、フレア団が捕獲してきた数多くのポケモンが磔にされている。特別製の縄と杭で縛りつけられ、冷たい墓石に生体エネルギーを吸い上げられ、恐怖におののき絶叫するもの、抵抗する力すら奪われてぜえぜえと苦しげに喉を鳴らすばかりのもの、身をくねらせ解放を哀願するもの。
その見張りをしているフレア団の下っ端は、辛そうに目耳を強く強く塞いでいたり、逆に強がって平静を装っていたり、何にせよここまでポケモンが苦しむところを見るのは初めてだろう、その顔面はいずれも蒼白だ。
ルチャブルが白目をむく。
カラマネロの頭ががくりと落ちる。
ニンフィアが瞼を下ろす。
トリミアンの悲鳴が突如として途絶える。
クレベースが喉から奇妙な音を立て、血の泡を噴く。
オーロットの瞳から光が失せる。
エレザードが四肢と襟巻と尾をびくりびくりと激しく痙攣させる。
フレフワンの両眼から涙があふれる。
それらの列石の中に、オリュザがケラススと共に昨冬フロストケイブで捕獲した五体のマンムーの姿もあった。元気にエネルギーを供給してくれているようだ。
オリュザはファイアローの背から降りて、花開いた最終兵器の傍を涼しげな顔で通り過ぎ、セキタイの石の奥に隠されていたフレア団の秘密基地に入っていった。エレベータに乗り込み、降りていく。
深く深く、地下に降りていく。
静かに降下が止む。
入ったときと反対側の扉からエレベータを出ると、そのメインフロアでは最終兵器の最終調整をしている科学者たちが忙しげに立ち働いていた。
正面には巨大な窓。
その向こうには、暗い、巨大な空間。
そこは『伝説ポケモンの間』だ。そこには“樹”と“繭”が鎮座し、蓄えてあったエネルギーを装置を通して最終兵器に捧げていた。
これではまるで、ただの電池だ。
オリュザはそのような伝説のポケモンの無様な姿を眺めながら、ただただ嗤う。
――いいざまだ。他者の命の価値を弄ぶから、その報復を受けるのだ。フレア団のエゴによって滅びるがいい。
エネルギー吸収率が大画面によって示されている。
フラダリが険しい表情で、『伝説ポケモンの間』を見下ろしていた。
今や半ば部外者となったオリュザが、フレア団の王を冷やかすわけにもいかない。おとなしくその広く逞しい背中を眺めていて、その向こうの『伝説ポケモンの間』で動いた影に気付いて、オリュザはぎくりとした。
フレア団でないトレーナーが、『伝説ポケモンの間』に、入っている。
幹部たちが総出で応戦し、伝説のポケモンから侵入者を遠ざけようとしている。
しかし、その子供のトレーナーは強かった。
ポケモンのメガシンカを自在に操り、ちぎっては投げちぎっては投げ。二人や三人など同時に相手にしてもまるで敵ではない。
薙ぎ払う。
フラダリもまた、その子供のいっそ痛快な侵攻をこのメインフロアから見下ろして、どこか気分を高揚させているようだった。その背中を見ながら、オリュザは溜息をつく。
そのとき秘密基地じゅうに、けたたましい警報音がひっきりなしに鳴り響いた。
侵入者のバトルが刺激したものか。
伝説のポケモンが、眠りから醒めたのである。
最終兵器が取り込んだはずのエネルギーが、逆流する。
装置が破壊さ
れる。
“樹”が、“繭”が、動
Xの文字に似た、輝く角を持つ
Yの文字に似た、闇の翼を持つ
メインフロアでガラス窓越しのはずのオリュザは猛烈な吐き気と眩暈と冷や汗と悪寒と痺れと思考停止と恐怖と憎悪と絶望と憤怒と悲哀と悦楽とに襲われた崩れ落ちる足が震える怖くてたまらなかった
あれは生き物の敵だ
他者の価値観を無視し、生かしあるいは殺し、命を弄ぶ、カロスに根付く二体の悪魔だ
消したい
あってはならない
あれに平気な顔をして呑気にポケモンバトルなど挑んでいるあの子供は頭がおかしい
神にでもなる気か
フラダリの代わりに新世界の不死王でも気取るつもりか
子供のくせに
命の大切さも、死の意味も知らない子供のくせに
神の力を得て命を弄ぼうなどと、思い上がりも甚だしい
伝説のポケモンが捕まった。捕まったというよりは、自ら望んで子供の玩具みたいなモンスターボールに収まった。そして伝説のポケモンは、子供の手下になり下がった。子供を神の代行者に選んだわけである。
いつの間にかフラダリは、オリュザの目の前から消えていた。
メインフロアにいた科学者たちが、騒然としている。伝説のポケモンに、エネルギーを取り返されてしまった。これでは最終兵器が使えないばかりか、もし伝説のポケモンに最終兵器を破壊されでもしたら、フレア団の理想は道半ばで破れてしまう。
けれど、相手は、伝説のポケモンだ。
ぜるねあすといべるたるだ
勝てるわけがない。
けれど、フレア団員たちは希望を失わなかった。まだ、自分たちの王がいる。
フラダリがいてくれる。
メガシンカを使いこなし、カロスを掌握し、自分たちを導いてくれた、新世界の不死王たるべき人物が。
フラダリが『伝説ポケモンの間』に下りてその子供に直接ポケモンバトルを挑むのを、オリュザはメインフロアから見下ろしていた。
いつの間にかその隣には、灰色の肌と短い白髪と銀紫の瞳を持ったケラススがいた。
白衣は脱いでおり、私服姿が新鮮だった。紺色のハイネック、黒のライダースジャケット、ジーンズ、ブーツ。
ケラススとオリュザは互いに視線を交わすなり、すぐさま下方の『伝説のポケモンの間』を見下ろした。
「……大変なことになったな、オリュザ」
「……どうなっちまうんだ、ケラスス」
「どのみち、最終兵器は動かせないだろうな」
「最後の最後で」
「子供に邪魔されるなんてな」
「…………終わったのか…………」
「そう、終わった。そして私たちの日常は続いてゆく」
ケラススはこうなることも予測できていたかのように、淡々と呟いた。
ゼルネアスが、イベルタルが、フラダリと敵対している。おそらくこの二体の神は、3000年前に自分たちを利用したAZへの怒りの分もフラダリにぶつけているのだ。反省、と言えば聞こえはいいが。半ば八つ当たりのような気がしなくもない。
フラダリなど、覚醒した伝説のポケモンの手にかかれば敵でも何でもなかった。本当に、ただのゴミ屑のようだった。フレア団の理想は、傲慢なる神によって呆気なく砕かれたのだ。
形勢が不利と見るや、一人、二人と、メインフロアに残っていた科学者や、地下通路から引き揚げてきていた下っ端たちや幹部たちが、そろりそろりと秘密基地から抜け出していった。
その数が増えるにつれ、そしてフラダリの敗色が濃厚になるにつれ、団員の逃亡は競争性を増し、一つしかないエレベータへ我先にとなだれ込む。
基地は騒然としていた。
フラダリが負ける。
伝説のポケモンを怒らせてしまった。
フレア団はもう駄目だ。
けれど、オリュザとケラススは最後までその場に残っていた。メインフロアの奥から動かず『伝説ポケモンの間』を見下ろしていた。フラダリが負けるところを見届けた。
フラダリは手持ちのギャラドスと絆を結び、メガシンカさせ、メガギャラドスを操った。しかしゼルネアスの放った“ムーンフォース”の前に呆気なく散った。実に無様だった。――そう、人とポケモンの絆など、傲慢なる神の前には塵に等しい。
神に敗北した神ならぬフラダリが咆哮するのを、オリュザとケラススはただただ寂しく見下ろしていた。
甘い顔をした幼い子供が、勝利の美酒に酔いながら、神にでもなったつもりで、偉そうに綺麗事をほざいている。
――少ないものは分け合えない。人生に軽重があるように、いくら生命の平等を説いたところで、世の中の人間やポケモンは厳然とした不平等に苦しまねばならないのに。
競争に負けた者や、差別をされる少数派の者は、ゴミのように底辺で生きねばならないのに。
傲慢だ。
フラダリも、あの子供トレーナーも、傲慢だ。
メインフロアは静まり返っていた。2人以外は無人と化している。
いつの間にかオリュザとケラススは、『伝説ポケモンの間』を見下ろすガラスに背を預け、床に座り込んでいた。
頭が痛かった。
フレア団は終わった。
もう最終兵器は動かせない。
すべて、無駄だった。
フレア団以外の人類とポケモンを滅ぼし、死の無い新世界が始まるかと思われたのに。
すべて実を結ばない徒花だった。
そんな事のために、生きてきたのかと思うと、虚しかった。
世の中全体がフレア団の裏切りを知った上で失敗すれば、世間からフレア団は糾弾されるだろう。おそらく政治や経済やマスコミからも切り捨てられる。そうなれば、元フレア団員は路頭に迷うだろう。テロリストの烙印を押され、死ぬまで牢に閉じ込められるかもしれない。フラダリだって、ありとあらゆる罵倒を浴びせられる。
オリュザは右隣りのケラススに話しかけた。
「……アンタ、これからどうするよ」
「さあ。どうしようかな」
「……随分と落ち着いてんな」
「例の子供の噂は聞いていたからな。実際、あの子供は先月末も単身フラダリラボに乗り込んできて、最終兵器を停止させるスイッチを押すところまで行ったらしい。そこを危うくクセロシキが強引に起動に持ち込んだのだそうだ」
フレア団に仇なす者がかなりの実力者だと知っていたから、ケラススにはこうなることも予測できていたというらしい。
とはいってもケラススも憔悴した様子だった。オリュザは軽く鼻で笑う。
「……アンタ、永遠に生きられなくなっちまったな」
「まあ、それでもいいか。お前が死なないなら、別にそれでも」
「ほんとにアンタって俺のこと好きだよな」
「お前こそ、私のことが心配で来てくれたんじゃないのか?」
「思い上がるなって、セラちゃん」
「セラ、ちゃん……?」
ケラススが変な顔をする。それを見てオリュザは噴き出した。
「ぶふっ、可愛いなセラちゃんて。まあ少なくともケラススの数億倍は呼びやすいわ」
「ああ、Cerasusを略したCeraをカロス語風に発音したのか……」
「アンタも呼びにくかったら、俺のあだ名、考えてくれていいのよ」
「何をまた唐突に……」
「いや、1月に初めて会った時はアンタともあと一年未満の付き合いだと思ってたけど、これからもアンタの名前を呼び続けなくちゃならないんなら、呼びやすいあだ名が必要だなーと思ってよ」
ケラススはぱちくりしていた。
それからようやく、ふわりと笑った。
「そうだ、本当に……最終兵器が動かないなら、お前も死ぬ必要はないんだよな……」
「俺も、アンタが永遠の命なんか得ずに済んで、心から安堵している」
「…………そうか」
「これで俺もアンタも、晴れて普通に、一緒に生きていけるってわけだ」
「……そうだな。そうしようか……」
「つーわけでこれからも、もうちょっと長くよろしく頼むわ、セラ」
差し出された右手をじっと見下ろし、そちらもそろりと右手を出す。
「じゃあ、お前は、リズ……かな」
「おおお。あだ名で呼ばれるなんて生まれて初めてだ」
「お前、私以外に友達いないだろう」
「アンタこそ」
くすりと同時に笑って、リズとセラは互いの右手を握り合った。
そのとき、どすんと基地内に大きな振動が響き渡った。
当然、2人の手は離れる。
地響き。
ガラスにひびが入り、砕け散る。そのすぐ傍に居た2人にも破片が降り注ぐ。
柱が軋む。
壁が歪む。
デスクの上のコンピュータが震え、落ち、ぐちゃんがしゃんと喧しい音を立てる。
床が揺れている。
リズとセラは床や壁に膝や手をついて、それに耐えていた。
舌を噛まないようにしながら、リズは慌てて顔を上げた。
「なんだ? 伝説のポケモンどもが暴れすぎたか?」
「いや違う」
近くのモニター画面に張り付いていたセラが舌打ちする。
「フラダリ様が最終兵器を動かした」
「はあ? だってエネルギーが」
「不足しているけど、動かしたんだ。子供たちと心中するつもりか……?」
「逃げるぞセラ」
リズはセラの手を再び、掴む。
地下通路の方から駆け出してきた数人の子供たちが、リズとセラより一足先にエレベータに滑り込み、上昇していく。
「――うおおおおおおおおおおい!?」
「ああ負けた。さすが若い子は体力があるな」
揺れる床の上で移動もままならず、あっという間に置いてけぼりを食らった2人はもはや子供たちに対して怒る気にもなれず、うっかり笑い声が漏れた。
もう笑うしかない。
最終兵器が動いている。出力は抑えられているだろうが、殺傷能力は十分あるだろう。
エレベータは上昇中だ。戻ってくるまでまだ時間がかかる。
秘密基地全体が轟音を上げ、全体が軋んでいる。天井が落ちる。
頭を低くしてやり過ごしながら、リズは笑った。
「ちなみにセラ、このままここで逃げ遅れたらどうなる?」
「普通に最終兵器の破壊の光を浴びて真っ黒焦げじゃないか?」
「なんだそれ、それじゃ計画通りに行ってもフレア団が自滅するだけだったんじゃね?」
「いや、最大出力ならこの基地すなわちいわゆる台風の目以外を破壊し、そうして殺害した全人類と全ポケモンの生命力を吸い取り、その生体エネルギーは、生き残るここにいたフレア団員に注入される」
「あーわけわかんね。出力落ちると、ここにいる俺らが死ぬんだ?」
「何が起きるかの詳細は計算しないと分からないが、生憎その用意が無い」
エレベータがようやく上昇を止めた。地震のせいで動きが鈍くなっているようだ。
そのとき電源が落ちた。
「うわ。出てこいクローリス、“フラッシュ”」
「マルス、“キングシールド”」
リズの赤花のフラージェスが光源を確保し、それを頼りにセラのギルガルドが落ちてきた天井をはねとばす。
地下に築かれた秘密基地は、地中に潰されかけていた。
リズは叫ぶ。
「やばくね? 電気止まったらエレベータも」
「もう無理だろうな。仕方ない、地上まで直通の穴でも開けて、自力で空へ逃げるしかないか」
言うが早いか、次のボールを投げる。考える暇はない。どんどん天井は崩れてきて、メインフロアには大量の土砂までもが降り注いできていた。可能だろうかなどと迷っている暇すらなかった。
「レア、“諸刃の頭突き”」
「アウローラ、“吹雪”だ。上にあるものを吹き飛ばせ」
ガチゴラスとアマルルガ、セラが独自に化石から復活させたポケモンが進化した姿だ。息ぴったりで指示を出しておいて、二体の化石ポケモンが必死で天井を食い止める陰で、2人は顔を見合わせて呑気に笑った。
「おお、そっちも進化させてたか」
「お前こそ、大切に育ててくれていたみたいで嬉しいよ」
「ちなみにここ地下何メートルくらい?」
「さあ。ただ、地下3階くらいか?」
「うーん。助かるか?」
「お前のガチゴラスと私のアマルルガの頑張り次第だな」
ガチゴラスは頭突きで天井から降ってくるコンクリートの塊を押し上げ、アマルルガは吹雪を巻き起こして土砂を押し戻す。
しかし重力を敵に回していては、多勢に無勢だった。
「あー、やばいやばい死ぬ? エスパーポケモンの“テレポート”ってつくづく偉大だよなあ、バトルではくそ使えないけど……」
「モンスターボールの普及とトレーナーの増加によりポケモンの“テレポート”を商業利用できるようになって、諸々の運輸交通に革命が起きたからな」
「ねえこれ、死なない? 大丈夫……?」
「死を覚悟してた奴が、今さら何を慌ててるんだ」
「いや、なんかもう、平穏に生きる気満々になってた……」
「結局お前も生きたかったんじゃないか」
「セラちゃんがいれば何とかなるかなって思っちゃった。責任とれよ」
「熱いプロポーズをありがとう、リズ」
「ははははは。愛してるぞー」
「はいはい。私もだよ」
リズとセラは死にそうな状況の中、けらけらと馬鹿みたいに笑っていた。
ガチゴラスが疲れてきている。アマルルガが押し戻しきれなかった土砂が流れ込んできていて、フラージェスが“サイコキネシス”でそれを押しやり、ギルガルドが“キングシールド”でそれを防ごうとするが、もう、上も下も左も右も前も後ろも、空間が無い。
土のにおいがした。
無機質のにおいが、生々しく感じられた。
2人きり生き埋めにされるのだと思った。
そのとき、リズとセラは奇妙な音を聞いた。
ヒルルルル、というような、キイイイイイイイン、というような、ゴオオオオオオ、というような。
何かが降ってくる、ような。
一瞬で、埋まっていた空間が蒸発した。
土砂が焼け融け、吹っ飛んだ。
視界が真っ白になった。
被爆。
2人は咄嗟に、出していたポケモンたちをボールに戻した。守るために。
それから、何があったか。
リズは思わずセラを光から、庇おうとしたような。
そんな記憶がある。
覚えて、いる。
***
セラは目を覚ました。
瞼の裏まで白い闇が焼き付いていて、頭がどうにもくらくらした。
全身が焼けるように熱い。火傷でもしたか、とぼんやり思った。最終兵器の光にでも焼かれたのか、それでも死ななくてよかった。長いこと火ぶくれに苦しまなければならないかもしれないけれど、痕も残るかもしれないけど、生きていたなら助かった。
自分が大丈夫なら、傍にいたリズも。
――そのように楽観視できる程度には、セラは重傷ではなかった。
セラはのんびりと体を起こす。
そして目を開いて、辺りを見回して、セラは、あれと思った。
黒焦げになった自分たちのモンスターボールがひび割れて壊れて、ボールに戻していたはずのセラのギルガルドとアマルルガとオンバーン、リズのフラージェスとガチゴラスとファイアロー、その計6体がセラの周囲に姿を現していた。
ボールが壊れて、中のポケモンが緊急離脱したようだった。ポケモンの個体の生命を刻んだ電子情報がボールと運命を共にしなくて、本当によかったとセラは思う。
そこは、ぽっかりと巨大な空間が開いていた。
円柱のように開いた空間の底にセラと6体のポケモンたちはいて、その上方には丸い空がぽっかりと開いている。
見上げれば、満天の星空。
星明りが降り注ぐ中、セラは目を凝らした。
「リズ?」
辺りは瓦礫だらけだ。
空気はまだ熱い。
火傷を負ったセラの肌がずきずきと疼き、痛む。
「リズ?」
立とうとしても、立てなかった。足もひどく痛めつけられている。もともと瓦礫の下敷きになっていたのを、ポケモンたちが助けてくれたのかもしれなかった。
6体のポケモンたちはセラを囲むように、守るようにして静かに待機を続けていた。
「リズ?」
そこでようやく、セラは自分のすぐ傍に落ちていた大きな炭の塊に気が付いた。
――なんだ、これ。
「リズ?」
近くで見ると、それは人間の形をしているような気がした。
真っ黒になった、髪の毛のような繊維、頭部、額、眼窩、鼻梁、頬、唇、顎。
首、鎖骨、胸、肩、肘、手首、指、爪。
腹、腰、腿、膝、脛、足首、踝、踵、爪先。
炭のくせに、よく形が残っているなあ、と思った。
「リズ?」
見れば見るほど、それは炭で作られた精巧な人形だ。東洋の木造の仏像を蒸し焼きにでもしたら、こうなるのかもしれない。
でも、なんでこんなところに仏像なんかが落ちているのだろう。
セラはよくよく覗きこんでみた。
炭だ。
「リズ?」
そっと指先で触れてみた。
まだかなり熱かった。この上で目玉焼きでも焼けそうだ。すぐに手を引っ込めた。
炭だ。
「リズ?」
名前を呼んでみた。
返事は無かった。
炭だ。
「リズ?」
漂うにおいを嗅いでみた。
肉の焦げたにおいがする気がする。
焼きすぎて炭化した肉だ。煙臭い。教会で焚かれるお香のにおいにも似ている。胸が悪くなった。
気持ち悪いにおいを吸わないように、鼻呼吸をセラは止めた。
喘ぐように口で息をして、しばらく黙ってそれを見つめて、それが声を上げたり、動き出したりするのを待ってみた。
動くよな?
動かない。炭だ。
もしかして、これは死体じゃないかとふと思いついた。
ぞくりとした。
頭が痛かった。胸がつっかえてむしろ痛かった。
気づいたら目からだらだら涙が流れていて、その熱い熱い炭の塊を抱きしめていた。
「リズ?」
――だって、他に、それらしいものなんて、どこにもなかったんだ。目を閉じる瞬間に確かにセラのすぐ傍にいたのに、目を開けたら傍にあったのが、これしかなかった。
さっきまで笑って冗談など言っていたのに。
最後の言葉が『愛してる』だなんて、冗談でもひどすぎる。逆に陳腐過ぎて、笑える。
酷い夢だ。
夢だよな?
セラの爪の先でそれは崩れて、ぼろりと黒い粉になって、爪と指の間の隙間に入り込む。
子供が母親に懇願でもするように、爪を立てて引っ掻いてみる、くっきりとついたひっかき傷はへこんだまま戻らない。炭だ。
セラ自身がその炭の熱さと立ち込める煙のために気を失うまで、ずっとずっと名前を呼んでいたけど、ついにそれは動かない。
「リズ」
Chapitre4-4. 霜月のセキタイタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-3. 霧月のヒヨクシティ
11月上旬 ヒヨクシティ
朝から林檎の収穫祭で沸くヒヨクシティで、珍しい花を持つフラエッテを連れたやたら長身の老人の噂を聞いたセラは、オンバーンを駆って西へ空を駆けさせた。
紺碧のアズール湾が、白い曇天の下に轟きながら横たわっている。
ヒヨクの港の白い船溜まりは印象派絵画を生んだ有名な風景であるけれど、あいにくセラにそのような光景を楽しむ余裕など無かった。
海霧が出ている。
その中に浮かぶ白亜の崖をセラは目指す。
そこに、AZが座り込んでいる。
「…………Bonjour, Votre Majeste………...」
陛下と呼びかけると、その長身の老人はごくゆったりとした動作で振り返った。
彼は滄溟に臨む石灰岩の崖っぷちに腰かけ、掌の上の、珍しい花を持つフラエッテと何やら語り合っていたようだった。それがニャスパーを抱えたセラの姿を認めると、僅かに息を吐いたような気がした。
セラは老人に微笑みかけ、のんびりと話しかけた。
「それが貴方の探し求めていたフェアリーポケモンですか、AZ王」
「……何用だ、フラダリの手の者」
AZの声は一年前に聞いたものより、ずっとしわがれ、聞き取りにくくなっていた。もしかしたらこの不死の王も3000年の悠久の時の中で少しずつ老いているのかもしれないとセラは思った。
可憐なフラエッテを携えた古代のカロスの王、フラダリの先祖の兄にして科学者の偉大なる父祖は、長い白髪を海風に吹かれ、巌のようにただ静かに崖に座している。
セラはニャスパーを抱えたまま、AZの前で草原に膝をついてみせた。無表情で。
「元フレア団科学班所属、ケラスス・アルビノウァーヌスと申します。昨年のラボでの無礼を心からお詫び申し上げる。貴方に伺いたいことがあって参上した」
「…………尋ねたいこと、か……」
「貴方の命についてだ」
「……答えられることならば、答えよう」
「感謝します」
セラは銀紫の瞳で、AZをまっすぐ見つめた。
「ではお尋ねする。――貴方は本当に、死なないのか?」
AZは緩やかに首を振った。
「……私にも分からぬ。生憎、死んだことが無いのでな……」
「失礼ながら、老化が進まれたようにお見受けするが」
「……再会を果たして気が抜けたことにより、腑抜けたという可能性も無きにしも非ずだろう」
「ご自分で仰るか。やはりあの時、リズの制止を振り切ってでも試していればよかったかな」
「……あの時のことは感謝する。おかげで我が左肩に痛覚が残っていることが確認できた」
「どういたしまして」
白髪を持つ二人はのんびりと軽口を叩き合う。
AZがごくかすかに鼻で笑ったような気配がした。
「……この一年で随分と丸くなったな、若き科学者よ」
「色々あったんだ。セキタイで様々なものを見た。それから……本当に色々なことがあって」
セラは海に視線を向ける。ニャスパーの毛並みを撫でながら、傍らに座るAZに語る。
「出力は抑えられていたとはいえ、私もセキタイであの最終兵器の破壊の光を浴びてしまった。貴方と異なり、どうも細胞を破壊されたらしい。普通の人間ほどは生きられないだろうと、医師の宣告は受けている」
「……生き急いだな」
「まったく皮肉なものだ。私は永遠の生を求めて、自ら破滅の光を浴びに行ったのだからな。だがそれはどうでもいい…………心配なのは自分のことよりも、むしろリズだ」
9月下旬にクノエの宿舎をこっそり抜け出してから、セラは一ヶ月以上リズと連絡を取り合っていなかった。そしてただひたすら、AZを捜していたのだ。
シシコを連れた元同僚を思うと、セラの表情は沈む。
フラエッテを掌に乗せたAZは、表情を動かさないまま、ぼそぼそと潮騒にかき消されそうな声で呟く。
「……後に残す者が惜しいなら、なおさら傍に居てやるべきだろう」
「そういうわけにも、いかなくてね……。ああ、もしかして貴方もそうなのか? 貴方の寿命はじきに尽きるだろう。だがそのフラエッテはどうだ? 3000年前に何百何千ものポケモンとゼルネアスから与えられた命は、まだ尽きないのか?」
セラがその珍しい色のフラエッテを見やって尋ねると、AZは案の定、沈黙した。
セラは視線を海に戻した。
「まあ、死んでみるまで分からないか。貴方もそのフラエッテも長い命だ。けれど、同時に逝けるとは限らない。必ずどちらかが先に逝き、もう一方が残される……」
「……自然の摂理だ。私もこれも、3000年の時の間にいくつもの別れを目にしてきたのだから、今さら逆らおうとも思わぬ」
「破格の長さの命を手に入れておいて、今さら自然に身を委ねるなんて」
「……いいかげんに疲れたのだ。私は神ではない、不死の王もさすがに心が砕かれた。最後の望みもついに叶ったのだから、もうこれ以上あがく必要はない……」
AZは掌の上の小さなフラエッテを見つめている。
セラは溜息をついてしまった。
「貴方はそのフラエッテと再会を果たすことを生きる意味として、3000年の人生に耐え続けたのだな」
「……ということになる」
「どうすればそんなにそのフラエッテに惚れていられるんだ? なあフラエッテ、貴方はこの王に何かしたのか?」
セラはAZの掌の上のフラエッテに尋ねてみる。フラエッテはただふわりと花が咲くように微笑んだだけだった。
セラは真面目に頷いた。
「笑顔か。笑顔でいさえすればいいのかな? でもフラエッテ、貴方はAZが先に亡くなったら、その後はどうするんだ?」
永遠の命を持つフラエッテは表情を曇らせた。
このポケモンは死というものを解しているのだなあと、セラはのんびり思った。数多くのポケモンの命を吸い取って生きている存在だ。イベルタルに似ているが、このフラエッテのイベルタルと異なる点は、死する命を想うところだ。
ゼルネアスやイベルタルは、他者の価値観など超越してしまっている。だから平然と命を与えたり奪ったりなどするのだ。命のやり取りをすることが彼らの存在意義であって、他者の思いなどに配慮することはなく、傲慢に他者の命の価値を決定し強制する。だからオリュザはゼルネアスやイベルタルを嫌っていたのだ。
死者を蘇らせるなど、死を奪うなど、生者を殺すなど、生を奪うなど、そんなことは許されてはならない。他者に命の意味を決められてたまるか――オリュザは繰り返し繰り返しそう主張していた。吐きながらそう訴えていた。
ようやく、セラにも理解はできた気がする。
「AZが亡くなったら、貴方は後追いでもするのか?」
セラは尋ねてみた。
フラエッテは目を伏せ、ふるふると首を振った。
「自然に任せるという事か。ではAZ、貴方はフラエッテが先に亡くなったらどうする?」
「……飲食を断ち、衰弱に任せるだろうな」
「それは半ば自殺だな。それが貴方がたの選択か」
セラは膝の上のニャスパーを抱きしめた。
「結局は、どう生きるかは、本人が決める事か」
「……そうなる。個々の天命の流れの中で、どの支流を選び、どの海の水へ落ちるか。そういうものだろう」
AZの淡々とした低い声を聞きながら、セラは膝の間に顔を埋めた。
潮騒のような穏やかな声が、聞こえる。
「……その自らの流れ方の中で、他者に対し澪標を示すこともできる」
「リズがフレア団に対して道標を示したようにか?」
「……そのように、他者と互いの流れを干渉し合い、共に流浪するものだ。人もポケモンも」
時間をかけて覚悟を固めて、ようやくセラは膝を抱えたまま、AZとフラエッテを振り返った。
「最後に一つ、伺ってもよろしいか」
「……どうぞ……」
「なぜ、フラエッテは貴方の元に戻ってきたんだ?」
「……若き科学者よ。おそらくそれは、お前が求める答えではない」
AZにそのように返されて、セラはきょとんとした。
「え、そうなんですか?」
「これが私のもとを去ったのは、私が愛を失ったためだ。――では、お前の友人がお前のもとを去るのは、何ゆえか?」
「リズにはリズの理由があるから、フラエッテの件は参考にはならない、と?」
「左様。そして私の経験も、お前においてはさほど意味を成すまいよ。……その者を知るお前が、自分で、その者にとって一番良い澪標を見出さねばならない」
「…………心得ておきます。やるだけやってみることにする」
セラはニャスパーを抱えたまま、白亜の断崖に立った。腕の中のニャスパーと共に海を改めて睨みつけると、やがて笑顔でAZとフラエッテを振り返る。
「ありがとうございました。そろそろ失礼します」
「……Bon voyage」
「Merci, c’est gentil」
AZとフラエッテと別れの握手を交わすと、セラは草地に覆われた崖をゆっくり降りていった。
冷たい風が海霧を揺らし、崖を覆い隠した。
Chapitre4-3. 霧月のヒヨクシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-2. 霧月のコボクタウン
10月末 コボクタウン
セラがクノエシティでリズの前から消えてから、一ヶ月以上が経った。
セラからの連絡は無ければ、セラの噂を聞くこともない。
ただリズは淡々と、9月までセラと2人で一緒にしてきたことを独りで続けている。シシコを担いでカロス地方を歩き回り、ポケモントレーナーと出会えばバトルをし、勝利して賞金を稼ぐ。食事をし、シャワーを浴び、着替え、宿で眠る。贅沢をしなければ十分生きていくことができる。
去年の記憶も着実に戻りつつあった。
去年の今頃、リズはすっかり死ぬつもりでいて、実に心穏やかに秋の日々を過ごしていた。クノエでAZを捕縛させられて以降は、フラダリから面倒な仕事の依頼が来ることもない。法律や政治や経済や哲学について思索を巡らせることもしなくなっていた。もちろん本を書くこともしない。
泥まみれの暑苦しい黒スーツも捨ててしまった。
ゆったりとしたシャツに、紅色のカーディガン、ゆとりのあるサルエルパンツ、開放感あるサンダル。その身一つで、秋の涼しい風を受け止める。
そしてただひたすら、無為に、カロスの季節の移り変わりを眺めていた。
日の沈むのはめっきり早くなった。もう18時には暗くなっている。
冷たい雨も増えた。
街路のプラタナスの葉が色づき、鈴のような実が枝いっぱいにつく。
カロスの各地の森ではキノコ狩りが盛んになり、家族連れが森へと出かける。そして毒ポケモンに攻撃され病院へと搬送される者が腐るほど出てくる。
林檎やマルメロ、胡桃が収穫される。
街路では焼き栗の屋台が出てくる。
牧場のゴーゴートが肥え太る。
野生ポケモンの狩猟も解禁され、ジビエがマルシェに並ぶようになる。それと同時にポケモン食に反対するデモも頻発する。じきにポケモンが滅びることも知らずに、呑気に平和に。
丘陵を覆う畑の葡萄の葉が真っ赤に染まる。
フレア団としての仕事を終えて、久々に、本当に久々に、道端に咲いていた秋色アジサイを花切鋏で摘み取って手の中に花束を作った。美しい花の首を切り取るとき、たまらなく甘美な気持ちになる。
オリュザはそれらを、静かに、独り、見つめていた。
永遠などない、美しく儚いカロスの終焉の姿を。
列石の生贄とする強いポケモンを十分な数だけ捕獲し、電力エネルギーも十分に奪い取り、生命と破壊の力を秘めた“樹”と“繭”を確保し、最終兵器の“鍵”が手に入った。もはやオリュザの出る幕はない。オリュザが何もしなくてももうフラダリは立ち止まらないし、フレア団は後戻りできない。
セキタイの住民はその9割ほどが市街に退避しているが、そのことはほとんどニュースにもなっていない。政治も沈黙している。政治も経済もマスコミも、その中枢は既にフレア団に掌握されているのだ。
フラダリがここまでできるとはオリュザも思わなかった。
自分の思想をここまで現実にしてくれるのは、嬉しかった。
けれどそこでオリュザは、自らが抱いた夢想に殺されることとなる。
――そこまで考えて、リズはふと我に返った。
いつの間にか、街中の小道に立ち尽くしていた。腕の中のシシコが不思議そうにみいと鳴く。
記憶が戻り始めてから、どうも意識が一年前に引き戻されてしまうことが増えてきていた。
セラも言っていたはずだ、記憶に囚われず、今を楽しめ――と。
ここはコボクタウンだ。
秋は深く、ショボンヌ城を擁するこの城下町は、葡萄の収穫祭で沸き返っている。
パルファム宮殿を建てたカロスの時の王をして「ワインの王にして、王のワイン」と最大級の賛辞を贈らしめた有名なワイン、それが貴腐ワインである。その極上のワインの完成を祝う祭りが、10月末のコボクタウンで賑やかに催されているのだった。
陽射しのある昼下がり。
コボクの住民や国内外のワイン好きの観光客が、立派な菩提樹が葉を落とす中央広場に集まってきていた。石畳の上には大きなワイン樽がいくつも積まれており、涎を垂らしそうな勢いのワイン好きたちの視線を集めている。
ショボンヌ城を預かる当主が、長い長い挨拶をする。
シシコを抱えたオリュザも群衆に立ち混じり、広場の隅からそれを見物していた。人々は樽の中のワインこそを目当てに集まっているため、誰一人としてショボンヌ城主の挨拶に耳を傾けている者はいない。心なしか城主が可哀想である。
挨拶が終わると、伸びやかな柔らかいホルンの音色が秋空に響き渡る。
やっと、広場に積まれたワイン樽が開封された。そわそわする人々を尻目に専門家が淡々とテイスティングをし、出来立ての貴腐ワインにお墨付きを与える。
そうして、いよいよ、宴の始まりだ。
「A votre sante!」
「A votre sante!!」
コボクの民が一斉にグラスをかざし乾杯する。
それにリズもちゃっかり混ざった。グラスを傾けると、出来立ての貴腐ワインの濃厚な甘みと独特な味わいが口の中にふんわり広がる。
思わずリズもほうと息を漏らした。
広場のあちらこちらでも同様に感嘆の声が上がっている。
地元の人間も、観光客も、次から次へとワイン樽へ押し寄せ、周囲の人間とおしゃべりを楽しみつつ今年の貴腐ワインを味わっている。美しいショボンヌ城と紅葉した森という情緒あふれる風景を眺めながらの極上ワインは最高だ。
広場の周辺には軽食や菓子などの露店も並ぶ。人々の熱気は冷めやらず、つい飲み過ぎた者が上機嫌で歌など歌い始める。
秋に収穫されたきのみも広場に山と積まれて、これは山から下りてくるカビゴンをもてなすためのものだ。
いつの間にやら秋空は赤みを帯び、風も冷たいけれど、宴はこれからが本番だ。
そのようにポケモンと一緒になってカロスの人々が楽しげに馬鹿騒ぎをするのを眺めていると、自然とリズの意識は、昨年の秋に引きずられていく。
去年も、そう、オリュザは独り各地の収穫祭を回ってワインを試飲したり、あるいは森の中へキノコ狩りへ行って手作りのキノコ料理を楽しんだりと、他のフレア団員が必死で新世界を迎える準備を整えているのを尻目に遊びまくっていた。
ケラススを目にすることはなくなって、フラダリと会うこともなくなって、オリュザは一人、ただ独り。
楽しかった。孤独は好きだ。誰にも邪魔されることなく思索に耽るのはオリュザの第一の楽しみだった。もうフレア団のことなど忘れて、秋の涼しい日々と美味しい酒や料理、美しい季節の花々を愛でながら、残り少ない自分の命を愛おしむ。
死にたかったのだ。
美しく儚い秋の落葉の中に、オリュザは自分を埋葬してしまいたかった。
なのに、その一年後になっても孤独に生きている現実を目の当たりにして、今のリズはつらかった。去年は楽しかった、確実にもうすぐ死ねると思っていたから。日々を楽しむといっても結局はオリュザは空っぽだった。ほんの僅かな秋の日だけが生き甲斐だった。短いからこそ、いいのだ。人生は数十年だからまだマシだが、短ければ短いほどいい。
花は短い季節にしか咲かないから、美しいのだ。
ただでさえ虚ろな日々が、長く続けば続くほど、その価値は逓減していく。
また何度もこの秋を繰り返せば、季節外れの花が色あせるように、リズの希薄な人生の意味は失われてしまう。
***
セキタイタウンが崩壊した。
地底に眠っていた最終兵器が地上で開花した拍子に、吹っ飛んでしまった。
そのニュースをコボクタウンでの収穫祭の最中に聞いたオリュザは、ついに始まったかと思った。終わりの始まりだ。
これでフレア団の人員は、セキタイ周辺に集められるだろう。
ミアレのフラダリカフェの地下に隠されたフラダリラボに公権力の捜索が入る可能性は低い。警察や軍隊、そしてポケモン協会の上層部は既にフレア団と繋がっているのだ。
だからオリュザはのんびりと秋の日和の中、ひっそりとしたフラダリラボに戻っていった。好奇心のゆえに。
名目はまだフレア団員だ。支給されていたカードキーは有効なままで、エレベータを使って地下のフラダリラボへと潜っていくことができた。
やはりラボは閑散としていた。
ところが、その磨き上げられているはずの黒いタイルに激しいポケモンバトルの痕跡を認めて、オリュザは金茶の瞳を細めた。
――ラボ内に、争いの形跡。
「侵入者でもあったか」
そのような情報はオリュザのホロキャスターには入っていないが、十中八九そうだろう。先日のフラダリによる『フレア団以外の皆さんさようなら』宣言を受けて、ラボの在り処を突き止め、その上で潜入を試みた者がいた、のだ。
そのことに気付いたオリュザは、笑みを浮かべていた。
その人物のなかなかの行動力に多少は感服した。
最終兵器が起動した以上、その者はこのラボではフレア団を止めることはできなかったのだろう。
それにしたって、なかなか大した度胸だ。
その者が敵とする相手はフレア団であり、カロス随一の大企業であるフラダリラボである。政治も経済もマスコミもすべてフラダリの味方をしている。にもかかわらず、無謀にも、フラダリに仇なす者が現れようとは。
大した大馬鹿者だ。
そして馬鹿と天才は紙一重だ。
オリュザは一人でぞくぞくしながら、無人のラボを奥へと進む。入ったことのない資料室を覗いてみた。そこもまた、何者かに荒らされた形跡がある。
侵入者が関心を抱いた資料を、オリュザも覗きこんだ。
「王の名はAZ、始まりと終わり
時代を超えた技術でカロスを最初にまとめた者
豊かなカロスは狙われた、王は戦争を避けられなかった
愛しいポケモンも戦いに出さねばならぬほど激しく醜い乱であった
王はカロスを豊かにした自慢の技術を意にそぐわない形で発揮せざるを得なかった……
王だった男AZは消えた
AZには弟がいた……
カロスを奪うためカロスを欲しがる者を導き入れたとも言われている
だが戦で荒れ果てたカロスを目の当たりにして兄AZが造ったものを地中に埋めたとされる
王だった男AZは消えるとき鍵を持ち去った
それこそが最終兵器を動かすために必要なもの
王の弟は子孫に最終兵器の在り処を伝えて死んだ
あれは神が使うもの、人は触ってはならない
人に出来ることはあれが必要ではない世界を創ること……
AZが哀しみ苦しみながら最終兵器を造っている時に残したとされる言葉
“愛するポケモンを生き返らせて何が悪いのか!
そのポケモンが蘇るならば他のポケモンに意味はない!”」
要するに、フラダリの先祖はカロスの簒奪者であり裏切者であって、その兄AZはカロスの創造者であり破壊者であったのだ。
それだけでもオリュザは笑った。
しかしそれにしても面白かった。まさかこんな資料がラボに眠っていたとは。
フラダリが王弟の子孫だということは知っている。ということは、これはフラダリの家に伝わっていた資料なのだろう。信憑性も高い。フラダリは最初から、最終兵器の在り処も、そしてその“鍵”の在り処も知っていたわけだ。そしてオリュザの思想を利用し、人員と資金を集めた。
フラダリは自らが神となることで先祖の戒めを超越し、最終兵器を使用するのだ。
AZの考えも、オリュザにはある程度は共感できた。そう、意味も無く生きているポケモンに価値は無い。けれど、生きる意味など、自らが見出すものではないか。AZにポケモンの価値を決める権利は無いし、愛するポケモンを蘇らせ他のポケモンを殺す権利は無いではないか。――というのがオリュザ個人の持論だ。
フラダリは第二のAZになろうとしている。フレア団員だけに永遠の命を与え、その他の人やポケモンの意味を抹消し殺すつもりだ。その新世界の統治モデルは、うまく機能する可能性はあるとしてオリュザ自身が示したものだ。フラダリの手腕次第では哀しみも苦しみも無い新世界が創出される。けれど、フラダリが信じられないというわけではないけれど、オリュザはその傲慢さに唾を吐いた。
梯子を下ろすとか、裏切るとか、そういうわけではないけれど。
これはやはり、オリュザのただの空想の産物を、フラダリに利用されただけなのだ。
――フラダリは、ケラススは、まだ本気でこんなことをするつもりなのだろうか?
地下へと降りていった。
地下3階は科学者の領域だから、オリュザの持つカードキーでは立ち入ることができない。
地下2階には、地下牢がある。灰色のコンクリートが打たれた寒々とした一角だ。フレア団を裏切った者やフレア団に仇なす危険人物を捕らえ、ときに拷問を加え、また闇に葬るための処刑場。
もしかしたら、ラボに侵入したその大馬鹿者にまみえることができるかもしれないと思ったのだ。その者は最終兵器の起動の妨害に失敗して、フレア団に捕まったものだと、てっきりそうオリュザは思っていた。
しかしそこにいたのは、果たしてAZとケラススだけだった。
「……あ」
「…………オリュザ?」
その牢獄の前に佇んでいた白衣姿のケラススが、オリュザの姿を見ると振り返り、その傍までごく自然に歩み寄ってきた。
向き合う。
ごく自然に、握手の挨拶をする。普通の友人同士みたいに。
二か月弱ぶりの再会だった。懐かしい、気もする。
ヒャッコク以来だ。たしかあの時は9月初めのミラベル祭りの最中で、そこで、どんな話をしたのだったか。オリュザはすぐには思い出せなかった。一ヶ月以上も何も考えず、花から花へ移る蝶のようにぶらぶら遊び歩いていたせいで、どうも記憶がさび付いている。
ただ、ケラススは銀紫の瞳を細めて、穏やかに微笑した。
「久しぶりだな」
「……そうだな」
「オリュザの私服姿、初めて見たな。ずっと黒スーツだったから、かなり新鮮だ」
「……ど、どうも?」
「お前、どうしてここにいるんだ」
「いや……ラボに人がいないから」
「当たり前だ。もう皆セキタイに移動した。オリュザも……来るのか?」
そう、どこか期待をしている眼。
ああ、とオリュザは思った。思い出した。首を振る。
それだけでケラススの表情は面白いくらいに曇った。
「…………そうか。まあ、だろうなとは思った」
「それより、アンタはここで何してんの? こいつ、最終兵器の“鍵”を持ってた爺さんだよな? “鍵”を拝借した後もまだ後生大事に捕まえてたのか」
オリュザは地下牢の中で座り込んでいる、異常に背の高い老人を視線で示す。AZはオリュザに対して特に反応を示さず、寒そうな牢の中で俯いたまま動かない。
ケラススもまたAZを見やった。
「私は、彼の不死について研究していた」
「……不死?」
「彼はAZ。3000年前にカロスを最初に統べた王、偉大なる科学の父だ」
ケラススはごく真面目な表情でそう告げた。
オリュザはぎくりとした。
「…………3000歳? ま、さか……王本人?」
「お前からしたら、色んな意味で信じられないだろうな。けれどおそらく本物だ。最終兵器に注入したゼルネアスの力により、不死という病を得たのだろうよ。このAZ王は3000年前、戦争で死んだ愛するポケモンを蘇らせて、二人きり、永遠を生きようと試みたそうだ。そのために、イベルタルの力で一度カロスを滅ぼした」
オリュザは額を押さえる。
「私は彼の細胞を採取し、色々と実験をさせてもらった。実に興味深い」
ケラススは酷薄な笑みを浮かべていた。それをオリュザは、薄ら寒い思いで見つめていた。
「3000年前に最終兵器の光を浴びた彼の全身の細胞は、形質転換を引き起こした。いいか、オリュザ……彼は『癌人間』なんだ」
「…………う、うえええ……」
「彼の全身の細胞はテロメラーゼの再活性化が常軌を逸脱している。そのためテロメアが身長修復され染色体が維持され、ゆえに永続的に細胞分裂を起こし、細胞は不死化する。この異常な高身長もその副作用といったところか。――まさに癌じゃないか。全身を癌細胞に侵されながらも3000年にわたりその生命機能を維持し続けている、これはまさに驚嘆すべき事例だ」
ケラススは無表情で、つらつらと語った。
心なしかその瞳が冴え冴えと輝いているように見えて、オリュザは吐き気を催す。
AZが醜く生きていた。――そら見ろ、最終兵器を使うからこうなるのだ。
フラダリも、ケラススも、思い知ったはずだ。
永遠の生どころか、たったの3000年で、人の心が壊れるということを。
なぜそれを直視しない?
なぜ、永遠の生にそうまでしてこだわる?
そんなに生き返らせたい、あるいは生き永らえさせたい愛すべき存在でもいるのか?
ケラススは不意に、モンスターボールからニダンギルを繰り出した。
その片割れの赤紫の布を腕に巻き付けさせると、不意にケラススは右腕を高く振りかぶり、AZの幽閉されている檻に向かって、刀刃を勢いよく振り下ろした。
牢が破られる。
何をしようとしているのかとオリュザが息を詰めて見守っていると、ケラススは憑りつかれたような足取りで、俯いて座り込んでいるAZに歩み寄った。
ニダンギルの一振りを、再び、振り上げる。
「――ちょ、おい!」
オリュザの制止は届かなかった。
切っ先が、AZの肩を抉る。
それでも、座り込んでいた老人はわずかに呻き声を上げただけだった。
ニダンギルの刃を鉄錆色に染めて、ゆらりとケラススはオリュザを振り返る。
「……なに、今のはただの細胞サンプルの収集だ」
「い、いや、頬の内側を爪楊枝の柄なんかで擦れば、いとも簡単に細胞なんて」
「彼は不死身だ。でもそれはどういう意味で、不死身なんだろうな? たとえば首を斬っても死なないのか? それを確かめようと思って、私はここに来たんだ……」
ケラススは無抵抗の老人を、冷ややかに見下ろしている。ニダンギルの片割れを片手で握りしめたまま、くつりと笑う。
「…………そうすればわかるさ、オリュザ。ゼルネアスに生命を与えられた者が、絶対に死なないものなのか」
再びニダンギルがケラススの腕を持ち上げるのを目にして、オリュザも迷わずボールを投げた。
「クローリス、そいつを止めろ」
赤花を手にする表情の無いフラエッテが、念力を発し、ケラススごとニダンギルの動きを止める。
ケラススがにたりと笑う。
「マルス、“アイアンヘッド”」
「クローリス、“フラッシュ”」
もうひと振りの宙に浮遊していたニダンギルがフラエッテに斬りかかる。
それに対し、フラエッテが眩い光を放ち、その場の全員の視界を白く焼く。
オリュザ自身も眼球の痛みに苦しみながら、叫ぶ。
「……やめろ、ケラスス」
「なぜ? お前の大嫌いな、不死身の人間だろう? お前はこの老人を見て、こう思ったはずだ――『なぜ生きてる』『なぜ自殺しようと思わない』『3000年も生きるなんて苦しくないのか』『どうしても死ねないのか』『自分だったらそんなのは御免だ』『永遠の生を望むフレア団は頭がおかしい』…………、と」
ケラススは視界の利かない白い光の中、地を這うような声で囁く。
「だからさ、調べてやるよ、明らかにしてやる……最終兵器で永遠の命を得た者が、本当に死ぬことができないのか。もし死ぬことができるなら、お前だって、文句はないんだろう?」
「…………、何を言って」
「一緒に行こう、オリュザ」
「………………アンタ、ほんとに俺のこと好きだよねえ」
フラエッテの光が止む。
その場にいた全員の視界が次第に戻ってくる。
ケラススは涼しげに笑っているけれど、その瞳には悲しみを宿している。オリュザにもそれが分かってしまった、このたった一年未満ケラススと一緒にいただけで分かるようになってしまった。
ニダンギルの追撃が来ないことを確かめて、オリュザは吐き捨てる。
「言っただろう、ケラスス。俺は他人の命は尊重すると」
「……それはつまり、お前は3000年を生きるAZには吐き気がするけど、それを私が勝手に殺すのは我慢ならない、ということか?」
「そうだ。俺だって、その爺さんにはとっとと自殺すりゃいいのにとは思うがよ、決めるのはあくまでこの爺さん自身だ。アンタの価値観を押し付けられる義理は、この爺さんには無い」
「……意味がわからない、オリュザ」
「分かりやすく言ってやる、自殺は止めるな、だが殺すな。――ニダンギルを収めろ、ケラスス。ついでにこれもくれてやるから」
オリュザは懐に手を忍ばせると、それを手に取り、目にもとまらぬ剛速球でケラススに投げつけた。
攻撃されたと思ったケラススが、すかさず手にしていたニダンギルでそれを受ける。
オリュザは息を呑んだ。
「あ」
「ん?」
それはオリュザがクノエの林道で偶然見つけて拾った、闇の石だった。
ニダンギルがいきなり進化の光を放ちだすのを、ケラススもオリュザもぽかんとして見ていた。
「……え?」
「あ、ああ、あー、おま、ニダンギルで受け止めっから!」
「……何を投げた。闇の石か?」
「そうだよ!」
「…………勝手に何してくれてるんだ。仕返ししてやる」
言うなり、ケラススは白衣のポケットに片手を突っ込み、何かを握りしめると、オリュザのフラエッテに向かってそれを投げつけた。
オリュザが回避を命じ損ねると、フラエッテはその身でそれを受け止めた。
進化の光を放ち始める。
オリュザは絶叫した。
「う、うわああ、ウワアアアアアアアー!」
「光の石だ。これでおあいこだな」
ケラススは涼しげにそうのたまった。
ケラススのニダンギルがギルガルドに、オリュザのフラエッテがフラージェスに進化してしまう。
オリュザはケラススに食ってかかった。
「何しやがんだてめえ! ありがとうございます!」
「文句を言ってるのか感謝しているのかはっきりしてくれ」
「どっちもだよ! ビビるだろうが! もっと穏便に愛を込めてプレゼントしろ!」
「こっちの台詞だが」
ギルガルドはケラススの腕から離れていた。ケラススは溜息をつくと、進化したばかりのギルガルドをボールにしまってしまう。
「……やれやれ。興が殺がれたな」
「アンタって大概マッドサイエンティストだよね」
「クセロシキと一緒にするな。……あーあ、AZも死ぬということが証明されれば、お前も来てくれると思ったのに。まあここはオリュザ本人に免じて見逃してやるか。そらAZ王よ、自由に行くがいい」
そうケラススはこともなげに、残念そうに溜息をついてみせる。出会った頃よりは随分と素直に感情を表に出すようになったとは思うものの、その冷酷な本性は最初から何も変わっていないとオリュザは思う。
――いや、変わったか。
ここまで他人に大切にされることがあるとは思わなかった。
ここまでしつこく誘われるのは想定外だった。
オリュザは既にフラダリに見放されている。ケラススはフラダリを妄信しているものと思っていた。なのに、まだオリュザのことを気にかけてくれるとは。
よもや、オリュザを永遠に生かしたいなどと、ケラススが考えようとは。
オリュザもケラススと平等を期すために進化したばかりのフラージェスをボールに戻しながら、目を閉じる。
ああ、本当に。
独りで死ぬのが望みだと思っていたのに。
あーあ…………。
ケラススはそのようなオリュザのことなど、気にも留めていないようだった。しつこく、本当に執念深く、何度もオリュザに言葉で縋りつく。
「お前も来ればいいのに。死ぬのなんて、まだ先でも遅くはないだろう? フラダリ様の統べる新世界を一緒に見よう。それから本当に死ぬのか考え直してくれ、オリュザ」
オリュザは苦笑した。
「……本当に、馬鹿馬鹿しい……そんなにアンタは死ぬのが怖い? 俺が死ぬのが恐い? たったそれだけのために、いつ終わるとも知れぬ苦しみをアンタは味わいたい?」
「死の苦しみなんてフラダリ様の統べる新世界には存在しない、生きる喜びだけに浸っていられる。そうだろう?」
ケラススはむしろ必死にそう訴えかけてくる。オリュザの説得を試みているのだ。
けれどそれはオリュザも同じだった。
――どうしてもケラススに、永遠の生など、得てほしくなかった。友人にそんな無意味な人生を歩んでほしくなかった。
「…………死の無い生に、喜びなんか、無い」
「死の有る生には、苦しみしか、無い…………」
「………………どうして、わかってくれないんだ、ケラスス」
「それは私の台詞だ………………」
互いに顔を歪めて、睨み合った。
「一緒に生きよう」
「一緒に死のうぜ」
Chapitre4-2. 霧月のコボクタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-1. 葡萄月のクノエシティ
9月下旬 クノエシティ
目を覚ますと、セラが消えていた。
一人しかいないポケモンセンター宿舎のツインルームで、枕元のシシコが毛づくろいしている気配だけを感じ取りながら、リズはしばらく白い天井を見つめてぼんやりとしていた。
朝の7時半ごろ、日が昇ってくる。
外は曇り、室内は10℃でもう肌寒い季節となっていた。
昨晩まで確かにセラが休んでいたはずのベッドは、まるで使用されたことなどないかのようにぴしりと几帳面にベッドメイクされていた。おそらくニャスパーの念力のなせる業だろうとリズは適当に結論付けた。エスパーポケモンはだいたい何でも出来るものだ。
セラの痕跡は、いっさい部屋から消えている。
上着も無い。荷物も無い。室内履きも無くなっている。
10か月弱もの間ずっとリズと行動を共にしていたセラが実は幽霊だったというオチでも別におかしくないぐらい、気配が消えている。
書き置きなども何も無い。
しかしホロキャスターを操ってみれば、きちんとセラのホロキャスターの番号は登録されたままである。かといって、彼に電話を掛けたりメールを送ったりする気にはなれなかった。これまでもそんな事をしたことはなかったし。
リズにとってセラとは、記憶の中の唯一の友達であり、またリズが記憶を失っても常に傍に居続けた物好きな人間だ。それでも、だからといって特別に大事に思うほどの相手ではない、ように思われる。
エゴイストであることを自覚しているがゆえに。
そのリズは、自分の領域が侵されない限りは、他人の意思や価値観を尊重するつもりである。セラがどこかへ行きたくなったのなら自由に行けばいいし、リズに付き合うのが厭になったという話なら別にそれでも構わない。好きに生きてくれればいい。
リズは興味もなく、のんびりと伸びをしてベッドから立ち上がった。
セラがいようがいまいが、やる事は今日も変わらない。とりあえず朝食にして、当面の宿代飯代を適当に稼がなければならない。そろそろ冬着も欲しいところだ。
季節はもう葡萄を収穫する頃だけれど、ところがこのカロス最北の街クノエシティは、葡萄の栽培北限を越えてしまっている。
そのためこの街では、朝から夕まで農家のコマタナたちが偉そうなキリキザンの指揮の下でせっせと葡萄を摘み取る秋の風物詩を拝むことは叶わない。地酒もワインよりはむしろビールが有名だ。
木々の葉が色づき始めている。
家々の庭のボダイジュやブナは金茶に。
街路のプラタナスは黄赤や薄茶や青枯れのものなど様々に匂う。
路地にはマロニエの落葉の薄黄の吹き溜まり。
ナナカマドは鮮やかな真紅に。
カエデは水彩のような橙黄色に。
ツタは深紅に、石造の家々の外壁を染め上げ。
そして黄金や緋色のナラが、クノエの街全体を上品な錦に織り上げている。
公園や庭には淡紅色のコスモスや、赤・橙・黄・白・ピンク・薄紫と様々な色を持つダリア、これまた赤黄橙白と鮮やかな色を剣のように飾ったグラジオラス。
秋のクノエは華やかだ。
リズは、のんびりと朝食のバゲットを買うために朝のクノエを散歩しながら、秋の色彩を花切鋏で手の中に集めている。さながら七色のパレットのような美しい花束が出来上がった。
リズの足元を、シシコがくるくると駆けまわっている。仲良しだったニャスパーがいなくなってもシシコはいつもと同じ調子だった。
明るかった夏の太陽はあっという間に雲に覆われてしまい、既に涼しくなってはいるけれど、秋は秋でこれまた心躍る季節だ。カロス各地で葡萄や林檎の収穫祭が大々的に催され、それらの果実から新酒が造られればまたもや各地でワイン祭りが開かれ、それからは年末のノエルに向かって気分が盛り上がってゆき、そして年明けを盛大に祝う。
――それが毎年繰り返されるはずだ。
フレア団はそれらをすべて破壊しようとしたが、その野望ももはや潰えたのだから。
季節は巡る。
美しい人とポケモンの営みは続いていく。
その後ポケモンセンターに戻り、朝食のバゲットをカフェオレに浸しながらホロキャスターのラジオでニュースを聴いていて、リズは顔を上げた。
『昨日午後、ミアレシティで、自称フレア団所属の科学者の男・クセロシキが、強盗罪その他の容疑により、ミアレ警察によって逮捕されました』
――クセロシキ。
記憶の中のケラススが何かとオリュザに愚痴を言っていた、フレア団でのセラの上司の名前だ。
ニュースを聞いていると、どうやらそのクセロシキという男は、ミアレに住む貧しい移民の少女に、アルバイトなどと称して精神を遠隔操作する恐ろしいスーツを装着させ、意識のない少女にミアレの人々のポケモンを強奪させたり、美術館の絵画に落書きをさせたりした、というのである。
「ロリコンきめぇ」
感想の一つめはそれだ。男が少女の意思を奪って操ったなどと言っているが、確実にいやらしい事があったはずだ。――とリズは思う。
さらに、その少女の精神を操って犯罪を強要するというのは、クセロシキに間接正犯が成立するのみならず、実に重大な人権侵害だ。それは倫理的に手を出してはならない研究分野だったはず。そのような研究をフレア団の援助なしに一定水準まで完成させてしまったクセロシキは、まさにマッドサイエンティストの名がふさわしいように思われる。
セラがこの男を嫌っていたのも、納得されるのだった。
今頃セラもどこかでこのクセロシキ逮捕のニュースを聞いてほくそ笑んでいるのだろうか――と考えたところで、リズはバゲットの欠片を丸ごとカフェオレの中に落としてしまった。
――なぜ、いなくなったセラのことを気にする必要がある?
***
「ケラススはどうした?」
ミアレシティのフラダリラボの休憩室。一人きりでこっそり上等のセキタイ産シードルを楽しもうとしていたところに背後から低く穏やかな声を掛けられ、オリュザはびくりと飛び上がった。
恐る恐る振り返り、きまり悪く笑いながら立ち上がる。
「…………Bonjour, Votre Majeste………...」
「Bonjour, Oryza」
カエンジシを思わせる勇猛な風体の、ダークスーツに身を包んだ長身の男。
にこやかな表情を浮かべているその緋色の毛髪の男と握手を交わすと、ようやくオリュザは上目遣いに顔を上げた。
「…………あ、シードルなんていかがっすか、ムッシュー・フラダリ」
「頂こう。ほう、セキタイ産か。これは貴重なものになるだろうね」
「……っすね」
「今年はもうセキタイでは林檎の収穫が無いからな。名残惜しくはあるが、我らの美しい世界を創るという理想の為ならば仕方あるまいな」
「……林檎が採れないっつーことは、セキタイ住民の移転も完了したんすね」
「9割方は。あとはもう、梃子でも動かない連中だろう。まあどこにやっても同じ話だが。……ところでロゼ・シードルだな、これは。実に美しい」
「Oui, Monsieur. なんか、赤くてフレア団っぽくていいかなーと思って」
「――それでオリュザ、ケラススはどうした?」
そう何気なく話題を移されて、フラダリのために薔薇色の林檎酒をグラスに注いでいたオリュザは、危うくむせかけた。
「…………な、なんで、あいつのことなんか? 陛下がお気になさるんで?」
「確か今月の初めまでは、お前たち2人はよく一緒にいたと記憶しているが。さて、喧嘩でもしたか」
赤いシードルのグラスを優雅に揺らしながら、フラダリは休憩室の黒い革張りのソファに緩慢な動作で腰を下ろす。獣のように緩やかでありながら隙の無い所作だ。
その鋭い視線を向けられて内心びくびくしつつ、オリュザは視線を逸らした。
フラダリは目敏い。そして恐ろしいほどの記憶力を持っている。フレア団員の下っ端に至るまで、その顔や名前、所属、出身地、手持ちのポケモン、好きなデザートまでもを記憶しているのである。そして下っ端にも気さくに話しかけ、よく気にかけ、それがまたフラダリをカリスマたらしめている一因ともなる。もちろん、皆を率いる王としての資質も十分ある上でだ。
そのフラダリだから、オリュザとケラススの不和にもすぐに気づいたのだろう。
実際、オリュザはケラススとヒャッコクで別れて以来、連絡すら取り合っていない。
オリュザは数秒間視線を彷徨わせた末に、はあと溜息をついた。
「…………ああ、なんだ、聴いてたな」
「ほう、分かるか」
「分かるだろ。……アンタも大概、暇人だな」
ホロキャスターの電源を入れて常に持ち歩いている今となっては、オリュザにプライバシーなど有って無いようなものだ。オリュザの発言の一つ一つは音声データとしてフラダリラボに送信され、監視される。秘密を漏らさぬよう、裏切りを起こさぬよう。もちろんホロキャスターの電源を切ってしまえばプライバシーは守れるが、それをしないことが組織への忠誠を示す。
フラダリは、新世界の不死の王は、全知全能でなければならない。
そもそもホロキャスターの盗聴による情報の掌握それ自体、オリュザが提唱したことなのだから。
オリュザはグラスを空けると、がたんとそれをローテーブルの上に置く。
「そもそも、俺をアイツと組ませたのはアンタだろう。何故そんなことをした?」
「異なる分野の化学反応を試した、とでも言えば満足するか?」
「気まぐれで、科学者と思想家をくっつけてみたわけかよ。で、お望みの化学反応とやらは得られたのか?」
「いや、どうやら失敗だったようだな。残念だよ、オリュザ」
低い声に名を呼ばれると、オリュザの二の腕にざわりと鳥肌が立った。――フラダリを失望させてしまった、と思ってしまった。それこそがフラダリの持つカリスマ性のなせる業だ。
――ああ、本当に素晴らしい。
フラダリこそ、オリュザの思い描いた『不死の王』の理想に限りなく近い存在だった。
この男なら、やるだろう。
世界を滅ぼし、ポケモンを滅ぼし、限られた選ばれた者だけが永遠の生を享受する新世界を統べる王となる。
気分が高揚して、オリュザは喉を擦れさせて笑った。
「あはっ」
「どうかしたか、オリュザ」
「いやね。アンタも相当キてるな……うん、最ッ低の人間だ」
「世間のごく一般的な市民感覚ととかけ離れていることは自覚しているつもりだが、えてしてリーダーとはそういう者でなければ務まらぬだろう。そしてそのようなリーダー論を示した張本人であるお前に、最低となじられる謂れは無いと感じるが?」
「やだよ。……ああ、分かっちまったよ。アンタの考えが。アンタは俺を買いかぶりすぎだよ。アンタが何を言おうが、ケラススがそっちに行こうが、俺は行かないよ。約束通り…………殺してくれよ」
「そうか。つくづく残念だ」
目を伏せてみせるフラダリに、オリュザは苦笑する。その残念そうな様子も、フラダリからごく自然に発せられた本心でありポーズなのだと思いながら。
「俺のことをおだててくれるの、それなりに嬉しかったし楽しかったよ。でも、もうやめようや。アンタは俺の知らないところまで行っちまった。俺は道標を示したが、道の先に何が見えるかなんて知らないんだ。プラトンの哲人王は自らを育てた者を超越しなければならない」
「やれやれ。お前もケラススに対しては友人として心を開いていたようだったから、もしかすれば思い直すかとも期待したのだがな。実に、口惜しいが――委細承知した。約束はそのままに」
フラダリがボトルを手にし、二人のグラスにとくとくと赤い林檎酒を注ぐ。
それを掲げ合った。
「別れの杯だ。僅かなる余生を安らかに過ごせ、親愛なる夢想家よ」
「我らが不死王の治世に幸多からんことをお祈り申し上げる」
――というような雰囲気たっぷりの別れを交わしておきながら、フラダリは悪びれることなくオリュザに『最後の仕事』を押し付けてきた。
「ところでオリュザ、最後にクノエのビールを飲みたくないか?」
「は? 飲みたいの? 買ってこようか?」
「詳細は送る。すぐ発て」
「はいよ。余命少ない人間にも最後まで人使いが荒いのね、陛下」
オリュザも分かっている、オリュザは最終兵器が火を噴くその時まで、フレア団員だ。フラダリの部下だ。フラダリの命令には絶対服従である。
それにこれが、オリュザのフレア団としての最後の仕事になる。
ビールの名産地、クノエで。
オリュザはフレア団の下っ端たちと共に、超長身の老人・AZの捕縛を命じられていた。
14番道路“クノエの林道”。
その薄暗い湿原を、真っ赤なウィッグに真っ赤なサングラスに真っ赤なスーツといういやに目立つ出で立ちの下っ端たちと共にオリュザは歩き回った。赤い花のフラエッテに“フラッシュ”で行く手を照らさせながら、目標の老人を捜す。
最低の任務だった。
フラダリの最後の嫌がらせかと思った。
「暗いし寒いしオーロットとか出そうだしゴーストに首筋舌で舐められそうだし」
ぶつくさ言っていると、オリュザは木の根っこにつまずいて泥の中に顔面から突っ込んだ。
「あいた。顎を岩にぶつけた。……ってこれ、闇の石じゃん。ラッキー、って俺のポケモンには使えないけどな。光の石だったらクローリスを進化させられたのに、残念。ミアレの石屋には高く売れるよな。つっても残り少ない人生、別に贅沢したいわけでもなし……」
開き直って、泥まみれで立ち上がる。たまたま拾った闇の石をちゃっかりポケットにしまい込みながら。転んでもただでは起きないという言葉は実にロマンをそそられるものだ。
黒スーツは泥ですっかり台無しになってしまったが、これでもうフレア団の仕事は終わりなのだから、気にもならなかった。この任務が終わったら捨ててしまおう。
しかし、それにしても、フレア団の下っ端たちは使い物にならない。
やれオシャレな赤いスーツが汚れただの、怖いだのなんだの言って、ろくに動こうともしない。これだから金持ちの子息令嬢は困る。というより、フラダリも何だかんだ人手が必要だとか言って、綺麗なお仕着せだけ与えておけば資金が勝手に集まってくる程度にしか思っていないのではなかろうか。
そんな傲慢な人間ばかりを集めて、新世界が上手く統治できるのだろうか。
オリュザには分からない。最終兵器が作動した後のことは、すべてフラダリと、ケラススに任せておけばいい。自分が死んだ後の世界など知ったことではない。
ホログラムメールのフラダリの立体映像が、オリュザに任務の詳細を語りかける。
『セキタイの例の物の分析が進んでいるが、どうにも“鍵”が無いと動かないことがわかった。長い白髪、3メートル超の巨体、名はAZ。その老人が“鍵”を持っている。だが念のため“鍵”だけでなく、その老人ごと確保しろ』
誰に盗み見されるかわからないメールであるため、内容は適当に省略されていた。行間を読み取りつつ、オリュザは内容を把握する。
セキタイタウンに眠る最終兵器は“鍵”が無いと動かないので、その持ち主を捕らえろ――。
しかし3メートルの巨体を持った人間など、果たして存在するのか。
というか、3000年前の鍵なんか、あっても使い物になるのだろうか。
『頼むから、3000年前の鍵など鍵穴から複製できるのではなどと言ってくれるなよ、オリュザ。クレッフィの“フェアリーロック”という技をお前も知っているだろう? それと同じく、あれにはフェアリーの封じる力が働いているのだ、本物の“鍵”でないと動かない』
「あ、そうなの。残念ね」
一方的に話してくる立体映像に相槌を打って、オリュザは最後のホログラムメールを端末から消去した。
フラダリの指示は的確だった。
クノエの林道に、AZは潜んでいた。
20時半ごろ、日没。
下っ端の一人が連れていたゴルバットがそれを発見した。やはり人間よりポケモンの方が役に立つ。オリュザは指示を飛ばし、下っ端たちに包囲させる。
「クローリス、“サイコキネシス”」
血のように赤い花を捧げ持つフラエッテに命令を下す。
囲い込み、茂みから追い出して、その挙句なぜかオリュザのフラエッテを捕まえでもするかのように手を伸ばしかけていた、やたら長身の老人をフラエッテが強力な念動力で拘束する。
「……Bonsoir, Monsieur. アンタがAZ?」
茂みから飛び出してきた老人に、オリュザはきちんと挨拶をした。一方的にフラエッテの力で自由を奪ってはいるけれど、まだ上品な方だろう。
長い白髪を持った、ハブネークを縦にしたような長身の老人は、動けなくなってもほとんど表情に動揺を見せないまま、聞き取りにくい低い静かな声でぼそりと呟いた。
「……フラダリの手の者か」
「ちょっと我が家にご招待したいんですが、お時間頂いても?」
「……ふん、男にくれてやる時間など、無い」
「おいおい、うちの可愛いクローリス以上の美女がいったいどこにいるっつーんだよ? アンタの目は節穴か?」
意外にも、そしてこの状況でも冗談などを口にできるAZの度胸に、オリュザは感心した。軽口を返してやる。
しかしAZの視線は、もとよりオリュザよりも、そのフラエッテに注がれていた。
「なんだい爺さん、クローリスに一目惚れか?」
「…………その……フラエッテに」
AZは表情を動かさないまま、血の色の花を捧げ持ったオリュザのフラエッテをどこか痛ましげに見つめていた。
「……なぜそんな哀しそうな表情をさせるのか……」
そう囁く老人に、オリュザはわずかに目を見開いた。いったい何を言い出すかと思えば。
思わず自分のフラエッテを見つめる。
赤い花のフラエッテには、笑顔はない。瞳に生気は無い。虚ろに、ただオリュザの命令に従ってAZを拘束し続けている。
オリュザは不思議に思った。――あれ、こいつ、こんな顔してたっけ。フェアリーポケモンってもっと生き生きしてる印象があったけれど。
AZの低い声が投げられる。
「……私のことは、好きにするがいい……もはや抵抗はしない……」
「おおいいですね、物わかりのいい男性はモテますよー」
「だが……そのフラエッテは、なぜ……フラエッテ…………今……どこにいるのか……どうすれば会えるのか………………」
オリュザの背後では下っ端たちが、意味不明なことを口走るAZを嗤い嘲っている。その下品な口調から、まったくお里が知れるというものだ。
どうやらAZに抵抗の意思はもう無いようだった。腕を縄で縛りあげても、もはやうんともすんとも言わない。その胸元には不思議な形の古びた“鍵”を提げている。それは申し分ない。
その長身の老人は、正常な精神状態にあるとはオリュザには思えなかった。瞳は虚ろで、身につけているものもボロボロで、白い蓬髪を泥に引きずっても気に留める様子もなく、長すぎる手足を縮こまらせて、意味の通らない独り言を垂れ流している。
なぜこの老人が最終兵器の“鍵”を持っているのか、そしてなぜそのことをフラダリが知るに至ったのかは、オリュザには知らされていない。
しかし、最終兵器と関わりのあるらしい老人の心を失った様子が、ただそら恐ろしかった。
しかもなぜ、オリュザのフラエッテに妙に拘るのか。
そのように老人については疑問ばかりが浮かぶが、オリュザは首をもたげる好奇心を殺した。
だって、カロスはもうすぐ滅びるのだ。
Chapitre4-1. 葡萄月のクノエシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre3-4. 実月のヒャッコクシティ
9月初め ヒャッコクシティ
夏が終わろうとしている。
強い風が吹く。雨が戻ってくる。
風の音に、リズはベッドの上で目を覚ました。いつもと同じ下着一枚で横向きの姿勢。枕元には相棒のシシコが腹を見せて眠っている。
ここはヒャッコクシティのポケモンセンター上階の宿舎だ。
窓辺には、空いたワインボトルに白百合の花が飾ってある。夏の名残を惜しんで、リズがヒャッコクの道端に見つけたものを花切鋏で切り取ってきたのだ。
寝転がったまま、その夏雲のような白をリズは見つめている。
――思い出した。
自分は、最終兵器が起動した暁には、カロスの一般市民と一緒に死ぬつもりだったのだ。
***
キナンシティの湖畔のカフェで、その菩提樹の影のテラス席で、ケラススには目を点にされた。本当に、珍しいくらいにぽかんとしていた。
「正気か?」
「おう」
「正気か?」
「ああ」
「正気か?」
「はい」
「正気か?」
「その質問、尋ねてる側の方が正気じゃない場合はなんて答えりゃいいんですかね?」
それから、ケラススには聞かなかったことにされた。
たぶん、夏の暑さでオリュザの頭の螺子が融け落ちたのだ程度に思われている。
面倒なので、オリュザは放置している。
そして何事も無かったかのように、黒スーツのオリュザと白衣のケラススは2人でヒャッコクシティにやってきて、“ミラベル祭り”の最中にもかかわらず、伝説のポケモンについて調べているのだ。
とある民家にいた男性学者から聞き出したことには、イベルタルとゼルネアスは約800年前にも出現しただとか、寿命は1000年だとか、3000年前のカロスでの戦争でも姿を現したという言い伝えもあるだとか。
ケラススは肩をすくめていた。オリュザは苦笑した。
ミラベルというのはこの地域の特産品で、プラムに似た黄色い果実である。
収穫がこの時期ということで、ヒャッコクの街は8月下旬から9月初めまでミラベル祭り一色に染まるのだった。
色とりどりの造花で飾られた山車が行列をなして大通りを練り歩き、気球が飛行ポケモンと共に空を飛ぶ。
ヒャッコクを象徴する日時計前の広場では民族音楽が奏でられ、ダンスが披露される。市庁舎の屋上からはミラベルを模した巨大な黄色い風船が広場に投げ込まれる。まれにビリリダマが投げ込まれるのが性質が悪い。また別の広場には移動遊園地が設置され、子供たちが歓声を上げていた。
屋台ではミラベルのジュースやタルト、パンケーキ、シュケット、マカロン、マジパン、キャラメル、マドレーヌなども売られている。
広場の隅でマルシェで買ったもぎ立てのミラベルをもぐもぐやりながら、ふと我に返ったオリュザは声を上げた。
「……なんで俺らは、ミラベル祭りをのんびり満喫してんだ?」
「息抜きだ。最後のな」
ケラススも甘いミラベルを生のまま齧りながら、無表情で淡々と答えた。
「“樹”だけでなく、“繭”も発見し確保した。計画は最終段階に移行する。これからは忙しくなるぞ、オリュザ」
「ああそう、頑張ってね」
「またお前は他人事のように……」
「実際、他人事だもの。俺はやる事はやった。フレア団の思想を説明するわっかりやすい本を今年だけで6冊出した。フレア団の資金集めと人手集めに一番貢献したのは俺だろう、間違いなく」
オリュザはふんぞり返りつつも、造花で飾られた山車が通りを行き過ぎるのをつまらなそうに見つめていた。
ケラススも山車にはあまり興味がなさそうに、手元のミラベルばかりを注視している。
「……なあオリュザ、お前は、本気で」
「いやだなケラスス、分かってるくせに……」
「……何の話だ」
「分かってる、みなまで言うな。俺は至って本気だ。俺は本気で、アンタのことが……!」
「ああはいはい、夏風邪は馬鹿がひくんだったな」
「馬鹿と天才は紙一重とも言う」
「言ってろよ」
オリュザはケラススにごく雑に押しやられた。最近、とみにケラススのオリュザの扱い方が雑になっているように感じられる。からかっても柳に風、暖簾に腕押し。
ケラススも諸準備で忙しいのだろう。疲れを滲ませた、やや棘のある声を上げた。
「…………最終兵器でお前も死ぬつもりだというのは、本気か?」
「いやだなケラスス。本気にしたのか?」
オリュザは指についた果汁を舐め、にっこりと笑ってやった。
しかしケラススは怯まない。
「これまでのお前の言動から考えてみたんだ。お前は、『死の存在しない無意味な生』に価値を見出さない――そうだったな? つまりお前は……私たちフレア団員だけが永遠の命を享受する新世界に、生きるつもりはないという事か」
その言葉を受けて、オリュザは右隣りの相方を見やった。
ケラススは相変わらず、手元のミラベルに熱い視線を注いでいる。
こちらを見ないのが気に食わなかったが、オリュザは諦めた。出会った頃は何かにつけてその銀紫の双眸で真正面からオリュザを睨みつけてくれていたものだが。
「……そうだな。アンタの言う通りだよ」
「そんなのは、無責任じゃないか。『不死の王』の構想を私たちに与えたのはお前なのに」
「俺は道標を示したに過ぎない。その道を本当に選ぶのか、選んだとしてどのように進むのかは、アンタたちの選択に委ねている」
「そんな……そんなのは…………」
ケラススは手の中の柔らかいミラベルを握りつぶしていた。拳を握りこむように、種子を握りしめている。
ケラススが顔を上げた。まっすぐオリュザを見つめる。
「――そんなものは、欺瞞だ。お前の生きる意味とは何なんだ?」
「俺に生きる意味なんてないよ。探したけど見つからなかったのさ」
「なんで。本を書いただろう、あれもすべて遊びだったというのか、暇つぶしか何かだったのか?」
「さあ。わからない。少しは生きる意味を見出したかもしれない。でも、やっぱり、自分自身が考え出したフレア団の理想の新世界では、どうしても生きたいとは思えなかった」
「どうしてだ。あの世界はお前の理想を描いたものじゃないのか?」
「違うよ。“人類一般”の理想を描いたものだ」
「“人類一般”の理想を描いておいて、どうしてお前はそこに含まれないんだ?」
「さあ。なぜだろう。結局はアンタの言う通り、夢想だったのかもしれないね。ただの俺の空想、ファンタジーの世界。フラダリはそれを本気にしちまっただけだ。なにせ俺が大学で『不死の王』を書いた時、俺はゼルネアスやイベルタルが実在するなんて確証は持っちゃいなかったし、3000年前の最終兵器がまだ動くだなんて思いもしなかったんだ」
「フラダリ様を愚弄するな」
「愚弄してない。あいつはうっかり、俺の本を見て、勘違いしちまったんだよ。少しだけ、ほんの少しだけ、あいつを勢いづけちまったんだよ」
「だからお前は、フレア団に責任を持たないとでも言うのか?」
「あるいは、フレア団以外の人間に責任を持つのかもな。結局はあれは、この世の99.999%以上の人間を滅ぼそうって計画だ。傲慢な支配者の理論だ」
「自分の理論が間違いだと認めておいて、それを撤回せず、暴走するフレア団を止めようともしないのか!」
「それをアンタが言うか?」
ケラススは目を逸らした。
オリュザはその左肩を軽く叩いてやった。なおも問いかける。
「アンタは、俺がフレア団は間違いだと言えば、それでやめるのか? フラダリを裏切れるのかよ? ……アンタの目的を思い出せ、ケラスス・アルビノウァーヌス。夢想家の墓石から漏れ聞こえてくる戯言なんざに耳を貸すな」
オリュザの手は払いのけられる。
「私は……永遠を生きたい」
「そうか。気が合わないな」
下を向いたままの相方を、オリュザは寂しく見つめた。
「アンタにとって、新しい世界が素晴らしいものだといいな……」
「梯子を外された気分だ。この裏切り者」
「アンタって泣き上戸だよな。なに酔ってんだよ」
「……死なないから、悲しみが無いんだろう。誰も死なないから生きる意味を失わずに済む」
しかしオリュザはもうケラススを見ていなかった。
背を向け、ミラベル祭りに沸くヒャッコクの雑踏へと一人で歩き出している。
「……大切な者が死ぬのが悲しいのは、生きる意味を失うからだ」
ケラススの声が恨みのように追ってくる。
「……誰かを喪って泣くのは、誰かの為じゃない。そいつを大事にしていた自分が否定されるからだ」
「……誰も死ななければ、自分を失う必要なんてないじゃないか」
「……死なないからこそ、生きてる意味があるんだろう」
「…………なんで、わかってくれないんだ、オリュザ」
***
――そのちょうど一年後の現在、リズはそのセラと、ヒャッコクのポケモンセンターの宿舎のツインルームをシェアしているわけである。
思い出すだに恥ずかしい。
いったい一年前のヒャッコクでの決別の後、自分たちに何が起きたのか。想像するだけでリズは怖くなってくる。あまり思い出したくない気がする。
リズはオリュザだ。傍から見たら頭のおかしい自殺志願者だが、その自殺の願いさえもリズ自身にとっては、まったくもって共感できるものなのである。永遠の命などに意味も価値も無い。
リズもオリュザも、0か∞かどちらかを選べと迫られたら、迷いなく0を選ぶ。
そして、0ではなく∞を選ぼうとするケラススが考えていることは、リズにもオリュザにも理解できない。
今のセラについては、言うも更なりである。
わからない。
今この部屋にいるセラは、いったい何を考えながら、今年の1月から9月の今日までずっとリズの傍にいたのか。
想像するだけでも怖くてたまらない。
リズが布団の中でぶるぶる震えていると、向こう側のベッドで、目覚めたらしいセラが起き出した気配がした。さっさと衣服を整えている音がする。
一度は背を向けた相手だと意識し始めると、リズはもはやセラに対してどういう顔をしたらいいのか分からなくなってしまった。
「……っつーか、いつから俺らは『セラちゃん』『リズちゃん』なんて可愛らしいあだ名なんかで呼び合っちゃってんだよ。俺が未だに思い出せてない去年の9月から今年の1月までの間に、いったい俺らに何があったんだよ。ああ怖い怖いこわいでも気になるでも知りたくない嫌だ恥ずかしい」
「……何をさっきから一人でぶつぶつ言ってるんだ、リズ」
「うおう。おはようございます、セラ」
「おはよう。起きるか?」
「お、起きます」
「大丈夫?」
短い白髪、灰色の肌、銀紫の瞳。自分を覗き込んできたセラの顔の造形を、リズはじっくりと眺める。まったくもって記憶の中のケラススと同じ顔である。
つり目だ。露わになったおでこがチャーミングかもしれない。
誠実そうな、爽やかな眼をしている。
まったく何を考えているのか分からない顔をしている。
セラは暫く黙ってリズの不躾な視線に耐えていたが、やがて溜息をついた。
「なに。何か不愉快なことでも思い出したか?」
「うっ、おう、はい、もちのろんです?」
「語尾を上げるな。9月だし、ヒャッコクだし、あのミラベル祭りでのことを思い出したってところか……」
セラは遠い目をした。リズは恥ずかしさに震えた。
「……な、なんか、すまんな、こんな自殺志願者で。でも、俺、やっぱり、永遠に生きるのは嫌です」
「やっぱり考えは変わらないか。そうだろうと思ったけど…………」
「でも、もうフレア団もなくなったから、もう永遠に生きるかもって事は考えなくていいんだよな」
リズは一人で思考を整理した。――そうだ、よく考えてみたら、もう、自分は自殺志願者なのだという理由でセラに遠慮することはない。数十年しかないまっとうな人生を普通に歩めるのなら、リズもわざわざ自殺を選ぶほどではないと思えるのだ。
「ああ、でも……セラは、永遠に生きたかった、んだよな?」
「…………ああ、そうだな。聞いてくれるか? 去年はお前、私の話をろくに聞かずに行ってしまったもんな」
セラは自分のベッドの縁に腰を下ろし、とてとてと寄ってきたニャスパーを膝の上に乗せた。
それからリズをまっすぐ見つめる。
「私は幼い頃、それはそれは大切にしていたポケモンを亡くしてね。それ以来、大切な者を失うことを極端に恐れてきた、まあよくいる根暗な子供だったわけだ」
「……その通りかもしれないが、あんま卑下する必要はないだろ」
「ありがとう。まあとにかくそういう理由から私は、生物が死ななくて済むようにする技術を開発する科学者になることを夢見た」
「……それがフラダリが理想として掲げてた『永遠に生きられる新世界』を知ってしまって、それに夢中になったってとこか」
セラははにかむ。
「正直、去年お前に出会って、お前の本を読んでみて、その『新世界』の発想元がお前かもしれないと知ったときは興奮した。オリュザとフラダリ様がいるこのフレア団なら、私の望みを叶えてくれると確信なんてしてな」
「…………さ、さいですか…………」
「だから、お前が新世界に行かずに最終兵器で死ぬつもりだなどと言い出した時は……その、なんていうか……正直に言おう。悲しかったよ」
「悲しかった? アンタが? 俺が死ぬっつったから?」
「私は誠に勝手ながら、お前やフラダリ様と共に永遠に生きる新世界を、夢見ていたんじゃ、ないかな……。それだけ大切だったんだよ。でも、もし、お前が死んでしまうなら……意味がないじゃないか。死の無い新世界を創り出そうとした私のこれまでしてきたことの意味も……そしてお前を大事に思った私自身も……否定されるだろう」
セラは慎重に言葉を選んでいた。
これまでとは違う、揺れている不安げな声音。
ああ、なんだ、とリズは思った。
これまでの道のりはずっと、セラの思い描いた通りだったのだ。ただただリズはセラの誘導に従って記憶を取り戻していけばよかったのだ。
けれど、今は違う。これからはリズは、オリュザとして考え、セラであるケラススに対しても我を貫かなければならない。
セラと戦わなければならない。
もう、リズはセラと目的を違えているのだ。
セラは今まさに、リズに対して、思想の変更を求めている。理解を求めている。
できる範囲ならば、リズもセラの望みを叶えてやりたい。けれど退けない一線は守らなければならなかった。リズが、リズとして生きる意味を貫くために。
「ケラスス・アルビノウァーヌス。俺の持論を聞かせてやる」
リズは金茶の瞳を細め、言い放った。
セラが銀紫の瞳を僅かに瞠る。どこか警戒するような、緊張したような様子を見せる。
それが面白くて、リズは笑った。
「思うに、命には二つの面がある。一つは命の客観面である『生命』、もう一つは命の主観面である『人生』としよう」
「……生命と、人生か。それで?」
セラは挑むように顎を上げた。リズは鷹揚に語る。
「それぞれについて詳しく説明しよう。すべての人間の命は平等だなどと語る際の命とは、命の客観面である『生命』を指す。客観的に見れば、白人だろうが黒人だろうが、赤ん坊だろうが病人だろうが、『生命』は平等だ。そういう意味じゃ、すべての人類の命は平等だ」
「……なるほどな」
「では、例えばとある男が、二人の子供が川で溺れかけているのを見かけたとしよう。一人は自分の子供で、もう一人は赤の他人の見知らぬガキだ。さて、その男にとって、二人の子供の命は果たして平等だろうか? 違うだろう。自分の子供の方が大事に決まっている。――このように、主観を通してみた際に、人間の命は不平等になる。『人生』には軽重があるんだ」
セラは頷いた。
「人は客観的な命としては平等だが、主観を通して見た命には、人によって重い軽いがある、と。で?」
「アンタと俺の『生命』の重さは等しい。じゃあ、ここで俺――オリュザ・メランクトーンの主観を通して見てみよう。俺の『人生』は、アンタの『人生』よりも著しく軽い。まるで羽毛だ、綿だ。だから俺は、俺の命が今すぐ蒸発しても惜しくない」
「だが、私の主観を通して見れば、お前の命も私の命も、等しい重さを持っているが」
「そこで問題だ。命って、いったい、誰のものだ?」
セラは顔を歪めた。
「……自分のもの、じゃないのか」
「だろ。自分の命の価値は自分で判断して自分で処分するべきだ、と俺は考えている。あくまで俺の持論だがな」
リズは寂しく笑ってみせた。
セラも寂しげに、苦しげに笑んだ。
「……私がどれだけお前を大事に思っていようと、お前がお前自身のことをどうでもいいと思っている限り、お前は自殺を選ぶと、そういう事か?」
「そうなるな」
「……だが、それは誤りだぞ。お前はお前自身より、私の人生の方が重いと考えているんだろう? それならお前は、お前自身の主観よりも、私の主観を大事にすべきではないのか?」
「そういう論法は駄目だぜセラちゃん。俺はアンタの命は尊重するが、アンタの価値観を尊重するとは一言も言ってない」
セラは黙り込んでしまった。密かに唇を噛んでいるようにも見えた。
リズはひらひらと手を振った。
「とまあ、こんな感じだ。俺は何が何でも、アンタの価値観に従うわけにはいかない。俺は俺自身の価値観に従って生きさせてもらう」
「……それがお前の、生きる意味?」
「基本的な生き方、と呼んでくれ。要は、アンタに生きる意味を押し付けられる筋合いはないっつーことだよ」
「………………そう。よく、わかったよ」
セラは俯いて、目を閉じていた。
リズはベッドの上で胡坐をかいて、セラに明るく笑いかけてやった。
「そうどんよりするなよ、セラ。別に俺は、最終兵器が使われて永遠に生きなきゃいけない新世界が始まるってことがないんなら、数十年くらいの人生なら、特に意味が無くてもぼんやり生きてやるしよ」
「……そうか。数十年なら、お前も耐えてくれるんだな」
セラは微笑んではいたものの、それはからかう口調にしては、力が無かった。
Chapitre3-4. 実月のヒャッコクシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre3-3. 熱月のキナンシティ
8月下旬 キナンシティ
「バカンスだ。キナンに行こう」
例の如くセラのわがままにより、リズはセラと共にミアレシティから超高速鉄道TMVに乗り、カロス南部の大都市キナンにやってきた。
快晴の空に、太陽が輝いている。
風はからりと乾いている。
白銀の葉を茂らせたオリーブの木立に囲まれた小路。
一面に広がる、鮮やかな向日葵の黄色。香り立つ紫のラベンダーの花畑。
緑の草原に点々と咲く深紅のヒナゲシ。
赤茶けた崖と松林との強いコントラスト。
糸杉に囲まれた果樹園。
庭の月桂樹。
赤い屋根の家々。
桃色の野バラやブーゲンビリアで飾られた窓辺。
テッカニンが喧しい声で鳴いている。
ザ・南カロス。
「おいでませ、キナンへ」
「……お、おう」
「キナンは有名政治家や映画スターもお忍びで訪れる高級保養地だ。こんなところにバカンスで来れるなんて私たちはついているな」
「……普通に金払ってTMVに乗ってきただけなんですが」
「というわけでリズ、バカンスを存分に楽しんでくれたまえ」
「……なんのこっちゃ」
いつものごとく、シシコを肩に担いだリズは、ニャスパーを抱えたセラに引きずられるようにして、見覚えのあるようなないようなキナンの市街地に繰り出していった。
照り付ける陽射しの下。
8月、バカンス日和。
保養地キナンではオペラ祭、演劇祭、音楽祭、映画祭などが催されている。
野外劇場、大聖堂、教会の中庭といった場所で、オペラや管弦楽、室内楽、声楽、独奏といったコンサートが盛んに開かれ、現代演劇やダンスが披露され、話題の新作映画から古典的フィルムまでが上映される。
ポケモントレーナーはいずれも無料でそれら芸術に触れることができる。トレーナーの文化的教養を高めることに関するカロス政府の熱意は他の地方の追随を許さない。
ポケモンコンテストも、ポケモンミュージカルも、トライポカロンも、ポケスロンも、この時期だけでキナンでいくつも開催される。
ショウヨウシティをスタート地点としてカロスを一周する自転車レースも開幕する。
リズとセラもポケモンセンターを拠点としながら、夏真っ盛り、それらを巡った。
料理も酒も美味しい。
夏野菜のラタトゥイユや肉詰めにしたファルシを、作り方をマルシェの売り手から教わって自分たちで作ってみる。オリーヴオイルやニンニク、種々のハーブの香りが豊かで、南カロスの太陽の味がする。
甘く汁気たっぷりのロメやカイス、ズア、フィリ、ブリー、モモンも毎朝マルシェにたっぷりと山積みにされている。これはポケモンたちにも齧らせると喜ぶ。
食前酒にはアニスの香り高いパスティスを。キナンは安価なロゼワインも有名で、きりりとよく冷やしたものを飲むと、夏の強い日差しに火照った体に心地よくしみわたる。
セラはポケウッドのホラー映画を好んで観た。
「夏といえば怪談だな、リズ」
「か、怪談をホラーと一緒にするな!」
冷房がききすぎてむしろ寒いくらいの映画館で『恐怖!悪夢の赤い霧』と『ゴーストイレイザー』を立て続けに全編観させられ、リズはシシコと一緒に座席に縮こまったままガタガタ震えていた。
一方、こちらは平然としているニャスパーを抱えて、セラはくすくす笑う。
「へえ、リズはああいうのは苦手なんだな。……ギオッ! ギオウンッ! グギャアッ!」
「ば、馬鹿、いい歳した男が何やって」
『恐怖!悪夢の赤い霧』に登場した顔の無い真っ赤な人形の物真似をしてみせるセラから、リズは飛びのく。
しかしセラは嫌がらせをやめなかった。
「ギョッ! ギョッ! ギョッ!」
「ま、マッギョか!」
「グギャース! ゴボッ! ゴボボボォッ!」
「やめろ! 荒ぶるな!」
脱兎のごとく映画館から逃げ出したリズを、セラが楽しげに笑いながら追いかける――喉から血を噴くような不気味な笑い声を立てながら。
「ゴボッ! ゴブボッツ!」
「セラちゃん、お願いだから周りを見てッ! 貴方、いま、不審者よッ!」
「ブルルン! ブヒュルル、ブバア!」
「――よく化け物のセリフなんか一言一句違わず覚えてんな!?」
「はは、それを言うお前こそ」
数日後には、リズはセラに連れられてバトルハウスへ観戦に行った。
「珍しいポケモンを連れたトレーナーが出てるらしいから」
「……いや、俺そんなにポケモンバトルに興味は」
「お前は見ておくべきだよ」
セラは妙にそう言い張って聞かなかった。
水を湛えた見事な堀に囲まれるようにして立っている、美しい城館がバトルハウスだ。
大理石の正面ホールをセラはさっさと突破し、シングルバトルの行われている奥の広間へと入っていく。そこではちょうどバトルの切れ間だったか、大勢の人の行き交う大階段を2人も登り、観覧席である二階テラスへ上がった。
アンティークのベルベットの椅子にセラと並んで腰かけて、シシコを抱え直したリズは息をつく。そして欄干越しに、吹き抜けの階下に見える、バトルフィールドである大階段の踊り場を見やった。
そこに立つ挑戦者は、何の変哲もない。
どこにでもいそうな。
そんな、少年のトレーナーだった。
どくり、とリズの心臓が脈打つ。
わかってしまった。
服装、髪型、髪色、瞳の色、すべて違うが、あの顔は。
――フレア団を滅ぼした子供。
リズの右隣りで椅子に寛ぐセラは、涼しげに笑った。
「間に合ったな」
「……アンタ、これを見せたかったのか……」
「そう。――あそこに立つ挑戦者の彼こそが、フレア団を壊滅させた張本人、カルム君だ。もっとも、随分と全体の印象を変えてカモフラージュしてるみたいだけど。リズも分かったみたいでよかったよ」
セラはいつの間に手にしていたのか、そのあたりのテーブルで配られていた軽食のキュウリのサンドイッチをむしゃむしゃやっている。リズもセラの手の中にあったそれをいくつか奪い取って口の中に放り込んだ。
咀嚼しつつ、渋い顔でその少年トレーナーを見下ろす。
「……カロスチャンピオンが、優雅にキナンでバカンスか」
「まあ、順当に行けばチャンピオンを倒したら、次はバトルシャトレーヌ撃破だろうよ」
セラが言うが早いか、二階テラスの奥の扉が、ばんと両側に開いた。
黄色のドレスを身に纏った幼い雰囲気の残るバトルシャトレーヌが、くるくると舞い踊りながら姿を現した。
野太い声援が一段と強くなる。
「ラニュイちゃーん! 愛してるー!」
「うおおおおラニュイたーん!」
「ラニュイ様あああああああああああああ」
声援にひとしきり応えてから、ラニュイは大階段をヒールで優雅に駆け下りていった。
セラは涼しい顔で笑っていたが、リズはたまらず両耳を塞いでしまった。
「……ロリペド野郎がキモい……あとここ、なんか酒と煙草くせえ……」
「カロスで小児性愛は社会問題だね。この一戦だけ観たら出るから少しだけ我慢してくれ、リズ」
二階の観覧席は超満員になっていた。セラやリズの背後からも、立ち見客がぎゅうぎゅう押してくる。
ラニュイがプクリンを繰り出す。
そして、それに対する挑戦者の少年トレーナーも、モンスターボールを投げた。その
中
から
カロス地方の伝説のポケモン、ゼ
ルネアス
が
現れた。
「――う……うう」
ずきりと、リズのこめかみが痛む。
Xの文字の刻まれた碧の眼、黒の華奢な体躯、背に浮かぶ五色の斑点、そして七色に輝く角。
美しい確かに美しい生き物だけれど
――いやだ。いやだ。きもちわるい。
リズは強烈な吐き気に襲われる。
それまで散々ラニュイちゃんラニュイちゃんと騒がしかったバトルハウス内が、一気にしんと静まり返る。
少年のゼルネアスの発するフェアリーオーラに、すべてが圧倒されている。
それと相対するラニュイもプクリンも、強敵にまみえて好戦的な目を輝かせているものの、心なしか気圧されているような気配がする。
二階の観覧席のリズは手足の震えが止まらなくなっていた。冷や汗が噴き出る。
見たくないのに、ゼルネアスから視線を外すことがどうしてもできない。
頭が痛い。
痛い。頭が痛い。
ぽん、と右隣りの席のセラに肩を叩かれて、弾かれたように顔を上げた。
リズの肩を掴んだセラは、リズを見てはいなかった。こちらもゼルネアスに視線が釘付けになっている。
「……よく見てろ、リズ」
ゼルネアスは速かった。
そして圧倒的だった。
七色の光を散らした瞬間、その能力が飛躍的に上昇したように思われた。持っていたパワフルハーブを使用して、大地のエネルギーを一瞬で吸収したのだ。
ゼルネアスは一瞬で、プクリンを切り伏せた。
続くブーピッグも、“辻斬り”の前にあえなく敗れた。
ラニュイの三体目のブニャットは、ゼルネアスの放った月光に一閃され目を回した。
ゼルネアスがボールから現れてから、勝負がつくまで、観客は誰も一言も発しなかった。
ただ、少年とラニュイのポケモンに指示を飛ばす声と、審判の宣告だけが小さく響いていた。
ゼルネアスが場に出ていた時間は、5分も無かっただろう。
バトルシャトレーヌを圧倒的な力で破るなり、挑戦者の少年トレーナーは何事も無かったかのようにすたすたとバトルハウスを去っていった。
それからにわかに、少しずつバトルハウスはざわざわとし出した。
リズの手の震えもいつの間にか止まっていた。しかしその肩を掴んでいるセラの手が痛かった。
「…………おい、もう離せよ……」
「……あ、ああ、悪い。……あっという間だったな」
顔を上げたセラの顔も蒼白である。
リズとセラはしばらく顔色の悪いお互いを見つめ合って、そそくさと椅子から立ち上がった。
無言のまま、他の観客よりも素早く、出入り口が混む前にバトルハウスを抜け出した。
キナンシティの北の丘を登っていく。
2人ともふらふらしていた。
真夏の昼間の陽射しが、眩しくて暑い。
そこには大きな美しい湖が澄んだ水を湛えており、その傍には菩提樹の木陰になったテラスを持つ、景観のいいおあつらえ向きのカフェがあった。
8月はバカンス中のためカロスのほとんどの店は閉まっているが、この店は暑い中も営業していた。それは貴重なことで、暑さに疲れた観光客たちが数多く涼んでいる。
リズとセラはカフェに入店する。
菩提樹の木陰のテラスから、湖を見つめる。
とにもかくにも、すっきりと冷たい薄荷水をギャルソンに持ってこさせる。
それを2人揃ってごくごくと飲み干して、がっくりと大きく息をついた。
――とんでもないものを見てしまった。
「……あのポケモン、絶対、バトルハウス出入り禁止になるぞ」
「だろうな。バトルシャトレーヌを瞬殺なんて、抗議どころじゃ済まなかろう」
口を揃えて、伝説ポケモンはバトルハウスでの使用を禁止されるであろうことを断言する。そうして本題から話を逸らしていた。
心臓の動悸が未だに止まない。
2人とも、ゼルネアスを見たのは初めてではなかった。
セキタイタウンの地下で、見たのだ。
しかし思い出そうとすると、リズの頭は痛みを訴えた。
呻いて頭を抱える。
するとセラの怪訝そうな声が降ってきた。
「……大丈夫か、リズ。どうした。何か思い出したか」
「…………おもい、だせない…………俺たちは……ここで何をした?」
「ああなんだ、勘違いか。――このキナンで私たちがやったことか。それは、発見した“樹”と“繭”の調査と確保だ」
リズが頭痛に苦しんでいることには興味などないかのように、セラは淡々と語る。
「メガシンカの研究を切り上げさせられた私は、キナンへ向かった。キナン近郊の山中で“樹”と“繭”を発見したという報告があったからな。それが本当に伝説のポケモンなのか調べていた。そこにお前も、なぜか来ていた」
「……なんでだよ……」
「さあ、お前が自分の記憶に訊いてみるしかあるまいよ。……でも、そうだな……推測するに、お前はカロスの伝説のポケモンに興味を抱いていたようだった」
セラはさらに一口、淡い緑色をした薄荷水で喉を潤した。
菩提樹の木陰は涼しかった。
リズの頭痛もようやく収まってきた。しかしそれと同時に、腹の奥底から恐怖が背筋を這い上がってきた。悪寒がする。震える手で前髪をかき分ける。そのまま頭を抱えた。
「…………いやだ……あのポケモンは……いやだ……」
「落ち着け、リズ。あれはもうここにはいない。トレーナーの持つモンスターボールに封じられている」
「…………だ、だめだ…………いやだ…………え? なんでだ?」
初めて見たもののように、リズは前髪に触れていた自分の右手を見つめる。
何かがおかしい。
なぜ、こんなにもあの伝説のポケモンが怖い。
わからない。
思い出せない。
思い出したくもない。
怖くて怖くてたまらない。
気づくと、テーブル越しにセラに両肩を掴まれていた。
身を乗り出したセラの銀紫の瞳が、リズをまっすぐ見据えている。
「今はまだ思い出さなくていい」
リズはぽかんとして、ただテーブルの上に虚ろな視線を投げていた。
「…………なにを?」
「何も、だ。やはりお前にあれを見せるのは性急すぎたな。でも、この期間のバトルハウスでもないとあれを確実に見ることはできないんだ。すまなかった」
「…………あれは……何だったんだ…………」
「あれはゼルネアス。生命を司るカロスの伝説のポケモンだ。“樹”から蘇った。昨年の晩秋に、セキタイタウンの地下で、最終兵器へのエネルギー移送の最中に」
そうセラに説明されても、その情報が頭に入るだけで、記憶は刺激されない。
リズには実感が湧かなかった。
恐怖の正体も分からない。リズは自分の肩を抱きしめる。
「…………あれを見るとすごく怖いんだ」
「そうかもしれないな」
「…………なんでなんだ?」
「あれが、神だからだ。お前が嫌う物の最たるものだからだ」
セラの手が、ぽすぽすとリズの頭を軽くはたいてくる。
「大丈夫だ。もう、これ以上、あれが私たちを害することはない。リズは余裕のある時に、過去の記憶と、今の現状を、受け入れればいい」
「でもすごくこわい」
「私だって怖い。……そういえば去年のお前も、“樹”を見ただけで怖がっていたな」
***
暑さに喘ぎながらも、黒スーツは着崩さず、キナン市街にほど近い山の中を歩いていく。
そしてその白く枯れたような“樹”を目にしたとき、オリュザは吐き気を覚えた。熱中症かもしれないが、そうでないかもしれなかった。
とりあえず茂みの陰で吐瀉した。
眩暈と痙攣が無いことを確認してから何食わぬ顔で現場に戻ると、涼しげな顔をした白衣のケラススが、べたべたと気色の悪い“樹”に触って計測機械らしきものをその木肌にくっつけていた。
ケラススが集中しているのにも構わず、能天気を装って声をかける。
「……よう、元気そうだな、ケラスス・アルビノウァーヌス」
「オリュザ・メランクトーンか。相も変わらず、バカンスもとらないで仕事に精の出ることだな。奴隷か」
「ブーメランぶっ刺さってんぞー」
軽口を叩きながらも、オリュザの視線は“樹”に釘付けになったまま動かない。
ケラススは計測機械の調整に熱心である。部下の科学者をこき使って、てきぱきと作業をこなしているようだ。
「……なあケラスス、これ、ポケモンなの?」
「十中八九そうだ」
「俺にはウソッキーにしか見えねえな」
「悪いがお前の頭の健康状態を計測している暇はないんだ」
本当に忙しそうにしているので、しばらくリズはそのあたりに転がっていた松の倒木に腰かけて、ケラススの作業を眺めていた。
すぐ近くに濃い紫のタチアオイの花が美しく咲いているのにも、気付かないまま。
ケラススがホロキャスターで誰かに何かを報告し終え、下っ端に計測機器の撤収を命じたところで、オリュザは再びケラススに声をかけた。
「当たり、か?」
「ばっちりだ」
「そうか。じゃあ、この“樹”が、ゼルネアスなんだな…………」
優に5メートル以上の距離を空けて、オリュザは恐々としてそれを見上げる。
静かな樹木だ。
何の気配も感じない。
途端に馬鹿らしくなって、オリュザの腹に憎悪が渦巻いた。
「…………焼き潰したい」
「おい、やめろ。そんなことをすれば、重大な裏切り行為だぞ」
ケラススに神経質に咎められても、オリュザは口を止めなかった。
「憎い。こいつが憎い。何が生命を司る神だ。ふざけるな」
「おい……いいかげんにしろ」
「ふん。好きにしろよ。アンタらがこれをどう使おうが知ったことか」
オリュザは吐き捨てて、山を下っていった。腹いせに、タチアオイの紫の花を引きちぎりながら。
それから数時間経った後だっただろうか。
夕暮れ時、オリュザがキナンシティの湖畔のカフェで頬杖をついてぼんやりしていると、やっと山を下りることができたらしい白衣を脱いだケラススが真っ直ぐこちらに向かって歩いてくるのが見えた。相変わらずの無表情が一歩ごとに大きくなってくる様を眺めていて、オリュザはとうとう噴き出した。
「よう、ケラスス」
「人の顔を見て笑うとはいい度胸だな、オリュザ」
ケラススは苦笑し、テラス席のオリュザと同じテーブルの、向かい側の席に腰を下ろした。ギャルソンに冷たい薄荷水を注文してから、オリュザに向き合う。
「さっきは、どうした」
「どうって、別にどうも」
「やけにゼルネアスを敵視していたな」
「ああ、あれ? 俺、ゼルネアスって気に食わないんだよね。イベルタルもだけど」
にやにや笑いながら、オリュザはテーブルに行儀悪くだらりと寝そべる。
「特にゼルネアスとイベルタルは憎むべき対象だが、基本的に伝説のポケモンは全般的に嫌いだ。伝説のポケモンを捕獲しちまう現代技術も嫌いだ」
「……それはまた……ラディカルだな」
「だって、モンスターボールが発明されたせいで、人間は神の力も手にすることができるようになっちまった」
オリュザは寝そべったまま伸びをした。
「なあケラススよ。この世はいずれ、神の力を持ったカリスマに支配されるだろう」
「……それも、お得意のお前の持論か?」
「そうだ。ただ、カリスマ人間もいつかは必ず死ぬ。古代帝国の皇帝が死んだように。そうなると、だいたいは王位は世襲って話になるが、カリスマ王の子孫は往々にして無能なんだよな。貴族が権力を簒奪し、政治が腐敗し、市民が怒る。それがいわゆる近代市民革命だ」
しかしそれで終わりではない、とオリュザは言葉を継いだ。
「ところが、市民ってのもお利口さんばっかじゃない。市民による民主性は多数決原理を採用するが、それは衆愚制に陥る危険性を孕んでいる。では、どうするか?」
「――それを打破するための、『不死の王』……か」
「へえ、俺の本、読んでくれたんだ? ありがとさん。――その通りだケラスス、『死なないカリスマ』がいれば万事解決だ」
オリュザは地面に下ろしていた鞄の中をひっかきまわすと、一冊の書籍を取り出した。『不死の王』という題の、オリュザが在学中に執筆した本の一つだ。
学界からは批判ばかりを浴びせられた論文の塊だが、フラダリは気に入ってくれた。
そしてそれをきっかけに、フラダリはオリュザをフレア団に招じ入れたのだ。
オリュザは姿勢を崩したまま、その本の表紙を指の背でコツコツと叩く。
「現代科学の発展により、人間は生命の神であるゼルネアスをも御すことができるようになった。あるいは、ポケモンの生体エネルギーを自在に操ることも可能になった」
「厳密には現代科学ではないな、3000年前には既にAZ王によってその技術が確立されていたから」
「あ、そうなの。まあとにかく、ゼルネアスを使えば……『不死の王』が生まれる」
「それが……我らのボスというわけか……」
「そうだ。――世界中の人間の大多数をイベルタルの力で吹き飛ばしたあとは、我らが代表にはゼルネアスの力により不死になっていただく。そして『不死の王』による、誤謬の無い、唯一絶対の意思により統率される、新世界がここに始まる」
オリュザはテーブルの上にべったりと潰れたまま、そうフレア団の理想を語った。
まったく格好がついていない。
ケラススは軽く眉を顰めただけだった。
「……お前はやる気があるのか?」
「俺にやる気はありません。やるのはアンタらです。ばんがってください」
「……無責任だな」
「思想家の責任は煽動することだけにあるんだよ。モンテスキューの三権分立がイッシュ独立に影響したように。ルソーの国民主権がカロス革命に影響したように。分かるだろセラ、ミアレ第十一大学行ったアンタならそれくらいコレージュやリセで習ったよな? バカロレアの試験対策で勉強したよな?」
「…………ああ」
「で、同様に、俺に出来るのはフラダリ氏の情熱の赤き炎を煽り立てることだけだ。ついでに周辺のアンタらの心も動かせれば、それだけフラダリ氏が動きやすくなってめっけもんだがな」
そうぼそぼそとオリュザは言い募った。
ケラススは溜息をつく。
「……勿体ないな。お前にはポケモンバトルの腕もあるし、頭も回る。その気になれば、フレア団上層部までも登りつめられるだろうに」
「残念ながらケラスス、俺がムッシュー・フラダリと共に行くのは、最終兵器が火を噴く時までなのさ」
オリュザはテーブルの上で金茶の瞳を細め、にやにやとケラススを見上げていた。
ケラススはまたもや表情をこわばらせた。
「……まさか、お前はやっぱり裏切りを――」
「違う違う、そうじゃない。――俺は、フラダリに、最終兵器で、殺してもらう。フレア団員じゃない一般市民と同じにな」
ケラススはどこまでもぽかんとしていた。
初めて見る間抜け面だった。
「………………え?」
「だから、俺は、アンタと一緒に永遠の命に恵まれた新世界に行くことはできんのよ、ケラスス」
そうオリュザは笑った。
Chapitre3-3. 熱月のキナンシティ END
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