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草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre3-2. 収穫月のシャラシティ
7月上旬 シャラシティ
7月から8月いっぱいまでの二か月間は、カロスの学校は夏休みに入り、街に子供が溢れかえる。
大人たちも長期休暇をとり、待ちに待ったバカンスを楽しむ。庶民に人気なのはやはり海辺のコーストカロスだ。カロスの家族が大挙して太陽光の降り注ぐ海浜に押し寄せ、賑わいを見せる。
それは中世祭が行われているここシャラシティも、同じだった。
シャラには蔦に覆われた白い壁を持つ木組みの家が立ち並ぶ。曼荼羅のようにごちゃごちゃと込み入った印象の海辺の街だ。その大通りを、その日は中世風の格好をした人々が盛んに練り歩いていた。
広場で大きく枝を伸ばす菩提樹は鈴なりに花をつけ、強い香りを放っている。
からりと晴れた陽気の下。
満ちた潮の中に浮かぶマスタータワーに向かって、リズはファイアロー、セラはオンバーンの背に乗って海を渡っていった。
足元の観光客たちが羨ましそうに2人を見上げてくる。
満潮にもかかわらずマスタータワーに行きたい、あるいは海の中に浮かぶマスタータワーを空から見たい、という観光客のための飛行ポケモンサービスのアルバイトをしているトレーナーなど、ごまんといる。実入りもいいだろうが、リズやセラが勝手にそのような商売に参入すれば、おそらく先から同商売を行っている者に目の敵にされ、面倒に巻き込まれるだろう。小遣い稼ぎも選ばなければならない。
空からマスタータワーに入る。
大陸側の市街地も中世祭のためにすさまじい熱気だったのだが、マスタータワーの方も大して変わらない。
騎士の鎧を身に着けた者がギャロップに乗って石畳を駆け抜けたり、広場ではシュバルゴ同士が決闘をしていたり、街角では中世の楽器による演奏が喝采を浴びていたり。どこもかしこも伝統衣装に身を包んだ人々がポケモン連れで歩き回っており、まるで中世へとタイムスリップでもしたかような気分になる。
「これは中世の大市を模した祭りでね。シャラはかつてはカロス随一の貿易港で、商業が盛んだった」
セラが、ゴーゴートに乗っている観光客に目を細めつつそう解説を加える。
言われてリズも視線を転じてみれば、市場で見られそうな商人や職人、芸人の姿が見分けられる。
ヒトモシを連れた蝋燭職人、ヒトツキを連れた鍛冶屋、チリーンを連れたガラス細工屋、ムクホークを連れた鷹匠、シュシュプを連れた香水職人、ムウマージを連れた占い師、メェークルを連れた農民、ウソハチを連れた庭師などなど、手持ちのポケモンに合わせた仮装をしているのがいかにも面白い。
2人の連れているシシコとニャスパーも賑やかな祭りの雰囲気に興奮しきりで、みゃあみゃあにゃあにゃあと2匹で騒ぎながら勝手にあちこち走り回る。リズとセラはのんびりとそれについて言っていた。
そしてとあるレストラン前でセラはニャスパーとシシコの足を止めさせ、リズを振り返った。
「リズ、せっかくだしマスタータワー名物のオムレツでも食べていかないか」
「おお、甘いもんじゃないんだな」
セラの先導で、マスタータワーの城壁内のとあるレストランに入っていく。
案内されたテーブルには小瓶に可憐な白い雛菊が飾ってあった。
そしてそこで出されたのは、巨大なふわふわのオムレツだった。
リズはフォークでそれを突っつき、首を傾げる。
「オムレツというよりは…………なんだこれ」
「マスタータワーは潮の満ち引きがあるために、中世の頃はシャラ市街地から食材を運ぶということがかなり難しかったんだ。それで、少ない食材で訪問客を最大限もてなそうとして考案されたのが、この、密度の極端に削ぎ落とされたオムレツというわけ」
「……ほぼ気泡だな、こりゃ」
「一人分は玉子二つで出来ている」
「……それでこのサイズか……そしてこの値段か」
「まあ、カロス人なら一度は食べた経験があってもいいんじゃないか?」
ふわふわとしたオムレツをあっという間に片づけてしまってから、食後のティータイムに入る。2人分の菩提樹の花茶とシャラサブレが運ばれてきた。
「菩提樹の花の香りは夏を思わせる」
「……今まさに夏なんだが」
「シャラサブレって美味しいよな、リズ。シャラ産の塩とバターを使用しているんだぞ。同じく塩キャラメルも有名だな、どこかで探してポケモンセンターに買って帰ろう」
「……ほんとに甘いもん好きだね、アンタ」
レストランの窓から、石畳の通りを見やる。
マスタータワーは修道院であり、砦だ。蔦の這う城壁に囲まれ、その内部にも石造りの街が広がっている。今はその巨大な塔の内部まで中世の服装に扮した人々でひどく賑わっているけれど、本来はマスタータワーはポケモンのメガシンカの研究施設であり、通常は関係者以外の立ち入りを制限している。
セラはその琥珀色の巨塔を眺めながら、テーブルに頬杖をついた。
「……ちょうど去年の今頃だ。久々にこのマスタータワーに、キーストーンを受け継いだトレーナーが現れた」
シシコにシャラサブレを与えていたリズも、顔を上げる。頭の中で何かが繋がった。
「……そういえば……そうだったな……」
「プラターヌからポケモン図鑑を託された五人の子供たち。その中の一人が、メガシンカの継承者となったわけだ」
セラのその声音には、憧憬などが含まれていたわけではない。憎悪も無い、嫉妬も無い、懐古も無い、ただ淡々と思い出に耽っている。
セラにとってのフレア団として活動していた一年前は、すでに遠い過去であるようだった。
「そもそもフラダリ様は、去年の春にプラターヌからポケモン図鑑を託された五人の子供たちのことを、当初から気にかけておられたようだった。かのお方はプラターヌのご友人だったからな、プラターヌが目をとめた子供のトレーナーに……何かしら期待を抱いておられたのかもしれないな」
「どんな期待だよ」
「……あのお方には視えていたのかもな。その五人の子供の中に、いずれメガシンカを継承し、伝説のポケモンを手懐け、そしてフレア団の野望に仇なす者が現れるということを」
「代表はそれを期待していたってか? んな馬鹿な……」
「――だが少なくとも、ホロキャスターを持つ子供がメガシンカを使ってくれることによって、我々のメガシンカの研究は捗った」
セラは白磁のカップを持ち上げ、菩提樹の花の香りの茶を優雅に啜る。
「所詮は子供だ、手に入れた力は使わずにいられない。多い日は一日に十度ほどもメガシンカのデータを提供してくれた。子供の持つホロキャスターから発信されるメガシンカの情報を、私たちは貴重なサンプルとして大いに活用することができたわけだからな」
「……メガシンカも研究してたのか、アンタは」
「厳密にはモミジのチームが。私は一時期その応援として加わっていただけだ」
モミジ、というのは確かセラと同じ科学班の人間だ――とリズは思い出す。たしか髪の青い女性だ。
科学者というのは、リズが思うよりもフレア団内で多彩な仕事を受け持っていたらしい。
「アンタって何でもできるんだ?」
「まあオールマイティーな部類だったな。クセロシキの直属で……あの野郎の所為でよくあちらこちらのチームにたらい回しにされたが、まあ……電力の窃盗やボール強奪といった野蛮な作戦に駆り出されなかっただけマシか」
「お、おう……おつかれさん」
「何でも研究したな……メガシンカ、伝説のポケモン、最終兵器、生体エネルギー、そして……AZのことも」
セラは基本的に隠し事はしない性質らしい。それでも『AZ』のことは言いづらそうな様子を露骨に見せてきたので、リズは心優しくもそれは聞き流してやった。
「メガシンカって、何の役に立つんだよ?」
「お前は神秘科学を知っているか。アゾット王国のエリファスという大科学者が大成させたものだが」
「……は?」
「500年前にマギアナという名の人造ポケモンを造った技術でな。それを応用したネオ神秘科学の発明品であるところのメガウェーブは、強制的にポケモンのメガシンカを引き起こすことができる」
「……は、はあ」
「私は、“メガシンカによるポケモンの生体エネルギーの変化”について研究していた。独自に編み出したメガウェーブを使って、ポケモンを強制的にメガシンカさせてだ」
セラは花茶のカップを置き、無表情で語った。
***
ハッサム、ライボルト、カイロス、バンギラス、チャーレム。
対応するメガストーンなど無かった。フラダリからキーストーンを拝借するまでも無かった。メガウェーブを照射することによって、これら五種類のポケモンがメガシンカすることをケラススは突き止めた。
しかし、実用段階までは至らなかった。研究途中でメガシンカの研究チームから外されたためだ。
「…………クセロシキの嫌がらせだ。確実にそうと言える。あの男、部下であるこの私に何が何でも成果を出させたくないんだ、そうとしか思えない」
「……おう……ド、ドンマイ」
とある7月の夕暮れ時である。終業直後で黒スーツを着たままのオリュザはミアレシティのとあるバーで、こちらも白衣を着たままのケラススの愚痴を聞いてやっていた。
ケラススは早いペースで飲んでいた。シャラ産のシードルを一気にあおり、机に突っ伏して呪詛を吐く。
「しねくせろしきしねくせろしきしねくせろしきしねくせろしきしね」
「……こ、怖い、怖いぞケラスス! しねしねこうせんでも出そうだぞアンタ!」
「あの腐れブルンゲル野郎が……呪われボディで朽ち果てろよ……」
「それはブルンゲルに失礼だろ。本気で大丈夫か? トイレ行かなくて平気か?」
「すみませんムッシュー、シャラ産のカルヴァドス、持ってきてください」
「おいやめろもう飲むなやめろ! おちつけケラスス! 潰れるまで飲むなんて、学生じゃあるまいし!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、オリュザはケラススを押さえ、何とか注文を取り消させようとする。
そのとき、オリュザに両肩を掴まれたケラススの紫水晶の瞳から、ぼろぼろと涙が零れた。
オリュザは文字通り跳び上がった。
「うぎゃあ! なに泣いてんだ! いい歳した男が! 泣き上戸かアンタ!」
「…………――だ、だってぇぇぇぇぇぇー…………!」
「え、えええええ――…………」
ケラススがボロ泣きしながらだだをこね始めるのを、オリュザは成す術なく見守っていた。
「せっ、せっかくいいところまで行ったのに、これからだったのに、なんで、なんでなんだよおおー!!」
「……お、おう、そうだな、その通りだな」
「畜生クセロシキめ悔しかったらてめぇの手でメガウェーブ実用化しやがれってんだ」
「……おいアンタそれNGワードだろ、お外で喋っちゃダメ!」
「だめだ。駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。無理だ。トレーナーとの“絆”無しに強制的にメガシンカさせられたポケモンは、生体エネルギーを大いに損なう。メガシンカを果たしたところでほとんど使い物にならない」
ケラススの瞳が、涙を零しながらどんどん剣呑な色に染まっていく。その顔から表情が消えていく。
「だが、その“絆”とは何かが、私にはどうしても分からない」
がっくりとケラススは項垂れた。灰色の目元に短い白髪が張り付く。
「私も分かってたんだ。私には無理だと。クセロシキにも分かってたんだ。私は限界だと」
彼らしくない諦めの言葉だった。
オリュザは精一杯、友人らしくケラススを元気づけようと試みた。その白衣の肩を少し強めに叩いてやる。
「……そんなことないって。カネと設備と材料と、あと良い上司がいりゃ、アンタにだって」
「もともと心理学は専門外なんだ。心だなんて不確定なものを、厳密さが要求される理論科学の対象に出来るわけがない、と、少なくとも私はそう考えている。だから無理だ。……ポケモンの心なんて知るか。知ったことか……」
「……うん、アンタが知ろうとしなけりゃまず無理だろうな。でも、メガシンカの研究のことは、もう終わったんだ。次の研究で頑張れよ、な?」
「――知ったような口をきくな、夢想家が!」
怒鳴られ、思わずオリュザもぎくりとする。こうも面と向かって他人に罵倒されたのは生まれて初めてだった。
「好きなことを好きなだけ喋っていればいいお前のような夢想家とは違うんだ、私に求められているのは結果だ! 結果が出せなければどうなる? 研究費が下りない、ますます研究ができず結果が出せない、私は要済みだ、私は棄てられる」
「……まあ、そうかもなあ」
「今回の件で、代表の私に対する信用は下がっただろう。次があるか分からない。お前にだけ言うが、私はラボに来て以来、結果らしい結果を出せていない。そんなの……金を出すだけ出して何もできない、下っ端どもと同じじゃないか」
怜悧さを増すケラススの言葉を聞きながら、オリュザは半ば感動していた。
他人の本音というものを聞かされるのも、生まれて初めてだった。
もしかして今、自分はケラススに頼りにされているのかもしれないと思うと、鼻が高くなった。
そして、これはますますケラススに対して的確なアドバイスを返してやらなければならないなとオリュザは意気込んだ。
オリュザはケラススに向かって、にっこりと笑んでやった。
「アンタは……本当にプライドが高いんだな」
「馬鹿にしているのか」
涙目のケラススにぎろりと睨まれる。
「結果を出せないと首を切られ、“その時”に殺されるんだぞ」
そう冷たく言い放たれて、オリュザも考え込んだ。
「……でも、アンタは若いだろ、他の科学者連中よりも。代表はさ、アンタのその、若さを見込んで、ラボに呼んだんだと思うんだわ。だからさ、結果が出せてなくても、これから出せるってことをアピールすりゃ、いいんじゃね?」
そのような事を、ケラススに向かって訥々と語りかけた。
ケラススは終始黙り込んでいた。
***
「アンタって泣き上戸だったよなあ」
レストランの窓ガラス越しにマスタータワーを眺めながらぼそりと言い放ったリズの顎に、セラの拳がめり込んだ。
「いッ……!」
「すまない。唐突にハイタッチがしたくなってしまってな」
「……いや完璧にグーだったよな?」
顎を押さえながら、リズはにやにや笑う。
セラは開いた拳をひらひらさせながら、苦笑した。
「何を思い出すかと思えば……」
「セラちゃんってば意外と感情的だよね」
「知ってる。……まあ、ああして私の愚痴を聞いたり私に色々アドバイスをしようとしたり、そういう事をしてくれる存在はお前しかいなかったから、助かった、とだけは今言っておこう」
「『しようとしたり』ってアンタね。もしかしてアドバイスになってなかったのか、あれ」
「残念ながら」
「真面目に考えてアドバイスしたのに」
「天才のアドバイスなんかあてにならないさ」
「アンタだって天才のくせに」
「厭味か」
「天才に天才って言われてんだからおとなしく受け入れろよ」
「そうか」
二人で揃って菩提樹の花の茶を啜る。
「で、それっきりメガシンカのことはもうアンタの管轄外になっちゃったわけだ」
「そう。そして、私は伝説のポケモンの調査の方に回された」
「……ふうん……ラボ、辞めさせられなくてよかったな」
「フラダリ様にドゲザしたからな」
「…………アンタ、実は、俺が教えたドゲザ、気に入ってるだろ?」
「そうかもな。私はMだから」
「………………あ、あー、そ、そう? そうかなあ?」
リズは乾いた笑い声を上げた。
セラは爽やかに笑っていた。
Chapitre3-2. 収穫月のシャラシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre3-1. 収穫月のレンリタウン
6月下旬 夏至 レンリタウン
朝の6時には明るくなり、夜の22時まで暗くならない。
そんな長すぎる昼が来た。
サクランボがたわわに実り、葡萄の木も若い実をつけ始める季節。
空はすっきりと青く晴れ渡っている。
気温もちょうど肌に心地よく、風は爽やかだ。
その過ごしやすい気候からカロスへの観光客が増える季節であるが、当のカロスの人々も近づいてくるバカンスに向けて心躍らせる時期である。
夏至にカロス全土で音楽祭が開かれるのは、その浮かれ具合の先駆けだろうか。
19時過ぎ。当然まだまだ昼間のように明るい。
リズとセラはポケモンセンター内のビストロで夕食を終えると、レンリの街をふらふらと歩きまわっていた。
木骨組みの民家、赤茶の屋根、窓辺には華やかなゼラニウムが飾られている。
街のシンボルである東の巨大な滝が、涼しげな水音を街中まで響かせていた。
そして、夏至の音楽祭だ。
レンリの広場という広場にはライブ会場が設置され、通りという通りにはミュージシャンが立ち、美味しそうなにおいを漂わせる食べ物の屋台が並んでいるのだった。
クラシック、ジャズ、オペラ、ロック、ポップ、シャンソン等々、ジャンルはなんでもありだ。ミュージシャンもプロからアマチュアまで。
あちらで激しく頭を振りまくるコンサートがあったと思えば、そちらでは民族楽器が賑やかな音色を奏で、かと思えばこちらではオーケストラが豪壮な交響曲を披露している。人間だけではない、ルンパッパがサンバを踊り、プリンが眠気を誘う甘い歌声を響かせ、キレイハナとドレディアが夕陽に向かってゆったりと舞い踊り、オタマロのチームが合唱する。
各演奏者の周りには人だかりができ、どこもかしこもかなりの賑わいだ。
レンリだけではない、カロスのすべての街が同じように夏至の音楽祭に盛り上がっていることだろう。
リズとセラの2人は通りを抜けるごとにジャンルの目まぐるしく変わる一角を彷徨っていた。その行く先は、2人の足下をじゃれ合いながら走り回るシシコとニャスパーに委ねている。
「……ちゃんぽんもいいとこだよなあ」
「どんなジャンルの音楽が好きな人でも楽しめるんだからいいじゃないか、リズ。クグロフ食べるか?」
「また甘いもんか、アンタは!」
リズは右隣りでクグロフを抱えてにこにこしているセラの頭を、ぺしりとはたいた。歩きながら。
「ほんっと、どこ行っても甘い菓子ばっかり食ってんなーアンタ」
「クグロフは『パルファムのばら』略してパルばらでも有名なマリー・アントワネットが毎日朝食に出させたという、由緒あるレンリの伝統菓子だぞ」
「どうでもいい……。寄越せよ、アンタが生活習慣病になったら困る……」
「お前も大概、甘い物好きだろ?」
クグロフはレーズン入りのブリオッシュ生地の山型に盛り上がったケーキで、粉砂糖が上品にかかっていた。セラが笑いながら、ニャスパーに念力でクグロフを切り分けさせる。粉砂糖ひとつこぼれなかった。2人と2匹でクグロフを頬張る。
その街角で、放浪の音楽師が歌っていた。
「美しいと言われるカロスもかつて一度荒れ果てた
愚かな戦は終わらずポケモンも人も疲れ果てた
3000年昔のこと
多くの命が消えた
多くのポケモン、多くの人
悲しい別れがカロスの大地を覆った
カロスの戦は終わった、雷によって終わらされた
雷は人が生み出した哀しみの光
雷はポケモンが生み出した怒りの轟き
男は彷徨う、今もポケモンを探して
男は彷徨う、自分の心を失ったまま
だけどようやく男の心の泉に優しさあふれ、ポケモンと男は巡り会った」
もの悲しい竪琴のメロディーと相まって、美しい旋律だとリズは思った。
けれどセラはクグロフをもふもふやりながら鼻で笑った。
「あの男、本当に他人に話していたのか。自分の身の上を。まあ、だからこそフレア団は彼を見つけられたのか…………それにしても同情でも買うつもりだったのか、彼は」
その冷徹な、どこか哀れむような声音に、リズもクグロフをもぐもぐしながら振り返った。
「……誰のことだ?」
「推定3000歳のご老体さ」
「……AZ?」
「本当のことを言うと、彼に出会った時、なるほど長く生きていても良いことばかりじゃないんじゃないかという、予感はしたんだ。当時はよく分からなかったが」
セラはクグロフの残りを口の中に突っ込み、咀嚼しながら俯く。半ば独り言のように。
リズはへえと相槌を打った。
「ああ、そこでアンタは、フレア団だけが永遠の命を手に入れようとしてることに疑問を持って、俺と一緒にフレア団を脱走しようとしたクチ?」
「……さて、どうだろう。もっと早く私がその違和感を自覚し、よく考えていればよかった、と、悔やまれてならないよ。今も」
セラは寂しげに微笑むと、早足でその音楽師の傍を離れた。リズもその後を追い、歩き出す。シシコとニャスパーはくるくると取っ組み合いをしながら、2人を転がるように追いかけた。
レンリの滝を背に、女性歌手がシャンソンを歌っている。チェリンボとロゼリアを連れていた。
『サクランボの実る頃』という、初夏に似合うロマンチックな歌だった。チェリンボが歌手の肩の上で一緒に歌っている。涼やかな滝音を背に。
そのひときわ落ち着きのある一角で、2人と2匹は足を止めることにした。
しっとりとしたシャンソンに耳を傾けつつ、リズはちらりとセラの横顔を横目で窺う。
「……なあ、去年も俺らはこのレンリで音楽祭を楽しんだわけか?」
「まさか。そんな暇なかったさ」
「は? え、じゃあ、ここは俺らの思い出の土地じゃねえじゃねえか!」
「今のボケはスルーさせてもらう。――いいか、リズ。私はお前に、『去年のオリュザ』になってもらいたいとは微塵も考えていない。つまり、記憶を辿るばかりではなく、今を楽しめという意図を持っている」
セラは視線をシャンソン歌手の背後の滝に固定したまま、クグロフをもぐもぐやりながらそう応えた。
リズは口を止めて、変な顔になった。
「それはつまり、アンタと楽しい思い出を作れってことでしょ? 何なの? これって丸っきりデートってことじゃないの? アンタは俺とどういう関係になりたいの?」
「こちらにも意図があるんだよ。察しろ」
「ぶふっ……つ、つまり俺にアンタを惚れさせようって意図だろセラちゃん?」
「お前などお断りだ。黙ってシャンソン聴いてろよ」
「セラちゃんってときどきキザっていうか、イタいよね……」
セラは仏頂面になって、返事もしなくなった。
その懐かしい表情に、リズは温かい気持ちでニヤニヤする。
***
音楽に満ちた夏至が来た。
けれどオリュザもケラススも、夕暮れの音楽祭に繰り出す余裕などない。フラダリに与えられたそれぞれの課題をこなさなければならない。というわけで、ミアレシティはフラダリカフェ地下のフラダリラボに2人はそれぞれ缶詰めになっていた。
その休憩室で、2人は鉢合わせした。
「おお……ケラスス……」
「ああ、お前か。夏至だというのに残業とはご苦労なことだな」
「アンタこそ。奴隷みたいにくそまじめなこって」
「ブーメラン刺さってるぞ」
2人以外にフラダリラボには人は残っていなかった。カロスの人間はプライベートの時間をひじょうに大切にする。残業などめったにしないのは、悪の組織であるフレア団のメンバーでも同様だった。
なのにオリュザとケラススが終業後も、夏至のイベントにも構わず勤勉に仕事を続けているのは、ひとえに2人が生粋のカロス人ではない移民だからだ。さらには大切にすべき家庭も、共に飲みに行くような友達もいない、寂しい人間だからだ。
黒スーツで隙なく全身を固めたオリュザは、休憩室に備え付けられていた冷蔵庫からレンリ産の辛口白ワインを取り出した。よく冷えた細長い暗緑色のボトルを、白衣姿でソファにだらけているケラススにも掲げてみせる。
「……とりあえず一杯、どう」
「御相伴にあずかろう」
他人がいるのに自分一人だけ酒を飲むのは礼儀に反する。それに、相手は愛すべきぼっち仲間、移民仲間、フラダリ様直々スカウトされ仲間である。ここで酒を酌み交わすのも悪くない。
オリュザはグラスを2つ用意すると、ワインをどぼどぼと適当に注いだ。レンリの白ワインのつまみにはレンリの名物タルト・フランベを持参してきていた。これはベーコンや玉葱、チーズをのせたシンプルなピザだ。
ケラススと2人きりでグラスを傾けつつ、オリュザはタルト・フランベを指でつまんで口に運んだ。
「最近会わないと思ったら。アンタ今、何の仕事してんの」
「ああ……化石復元の原理を、独力で再現したところだ。生体エネルギーの研究の一環で気になって」
「え。再現した、んだ。再現済みなんだ。コウジンの化石研究所の極秘技術を?」
「あれくらい誰にでもできる。設備と材料さえあればな」
「……材料?」
「化石ポケモンの復元は、死体が生き返るとかレシラムやゼクロムが石から復活するとか、そういうのとは全く別の話だ。単純に化石に残されていた遺伝子情報から、肉体を復元しているだけさ。つまり化石ポケモンは、死んだポケモンそのものが蘇ったわけじゃない。ただのクローンだ」
セラはワイングラスを揺らしながら、そう説明した。
するとオリュザは安堵したように息を吐いた。
「そうか。よかった」
「何が、良かった?」
「――死んだ奴が蘇らされるんだったら、最低だろ?」
オリュザは煙水晶の瞳を淀ませ、吐き捨てた。
ケラススはグラスから視線を上げる。瞳を瞬かせ、オリュザを見つめる。
「……死者を蘇らせるというのは、古代からの全人類の悲願だ。その願いが反映された伝説も、同様に世界中で見られる。ジョウト地方のホウオウの伝説然り、ここカロスのゼルネアスの伝説然り」
「でも、最低だろ? 命に対する冒涜だ」
「死者が蘇ることが?」
「そう。死んでも生き返るってんなら、死ぬ意味なんて無いだろ。それなら生きる意味も無いじゃねえか」
「……いつか生き返るという望みがあるから死の恐怖に立ち向かえるという者も、この世には存在するだろう」
「それは、客観的にはどうせ復活しないからいいんだよ」
無神論者であるところのオリュザは、ばっさりと切り捨てる。
「死んだら終わりだから、生きてることに価値があるんだ」
「……でもお前によると、生きている意味がないと、生きている価値が無いんだろう?」
「死んでも蘇るんなら、生きてる意味がないだろ」
「…………悪い、頭がこんがらかってきた。オリュザの話は難しいな」
ケラススは苦笑する。
オリュザもにやりと笑った。
「俺も今は口から出まかせに喋ってるだけだ。詳しくは俺の本を読んでくれ。フレア団の思想と理想の全てをそこに記してる」
「本を書いたのか」
「絶賛バリバリ仕事中すよ。今んとこ半月に論文10本くらいのペースで、随時まとめ直して書籍として出版中だ」
「驚異的な速筆だな」
「三日に一度しか寝ないから」
「道理でお前の頭がおかしいわけだ」
「おい」
そのような雑談をしながら、ボトルを空けてしまう。
つまみも切れたところで休憩も終わりとなりかけた。ところが、立ち上がったケラススは白衣の裾を翻し、オリュザを振り返った。
「ああそうだ、今すぐ酒のお礼をしよう。ついてこい」
オリュザにとっては初めての、地下深くにある科学班のスペースへの進入だった。共用のカードキーでも入れる区画まで一緒に立ち入り、さらに奥へと入ってしまったケラススが戻ってくるのを待つ。
そして再び戻ってきたケラススは、二つのモンスターボールをそれぞれ右手と左手に持っていた。同時に開放する。
そこに現れたのは、復元された化石ポケモン二体。
チゴラスと、アマルスだった。
「ああ、アンタが復元したっつー化石ポケモンか」
「健康状態、能力値、共にコウジンの化石研究所で復元された個体と同水準だ。どちらか一体、お前にやる。好きな方を選べ」
「ドラゴンタイプ欲しかったんだよね。チゴラス貰うわ。Merci」
ケラススからモンスターボールを受け取り、オリュザはチゴラスを収納してベルトのホルダーに装着した。
それから手帳をポケットから取り出し、メモを書きつける。
「ポケセン行ってチゴラスの所有権登録しないとな。こいつ今、アンタのポケモンってことになってるから」
「……そうなのか?」
「そうだろ、今現在アンタのボールに入ってんだし、俺がチゴラスの占有を開始したところで、あんたの所有権がチゴラスに及んでることに変わりはねえよ。もし仮にチゴラスが盗まれたら、俺はその泥棒に対してチゴラスの返還を請求できなくなる」
「……そうなのか」
「だからアンタと一緒にポケセン行って、きちんとチゴラスの譲与契約が履行されましたってことを公示しねえと。念には念を、だ」
「……私も一緒に行かないといけないのか」
「不動産の登記とかと一緒だよ、契約によって不利を被る債務者が一緒に行かなくても登記が受理されるんじゃ、不当な登記が成される恐れがあるだろうが」
「…………お前はまず、自分の知識をひけらかしたがるそのムカつく性格をどうにかしろ」
「ごめんね、性分だから。じゃ、また今度、一緒にポケセン行こうな、ケラスス」
オリュザはひらひらと手を振りながら、颯爽と科学班の領域から立ち去った。
***
気づけばシャンソンが途切れていた。滝の音と、周囲の聴衆の歩き回る音ばかりが続いている。
リズはいつの間にか閉じていた瞼をゆっくりと開く。
真横からセラとその腕の中のニャスパーが、じいとリズの顔を覗き込んでいた。
リズはびくりと飛び上がった。いつの間にかリズの肩の上によじ登っていたシシコがびゃあと文句を言う。
「う、わ、何」
「寝てただろうリズ、今」
「ね、寝てない、起きてた」
「退屈か?」
セラは真顔でそう尋ねてくる。怒っているのか、何かを試しているのか、あるいは探りを入れているのか、それとも単にかつてのケラススの無表情の名残りなのか、判然としない。
「リズが音楽とか祭りとかが好きなのかよく分からなかったからな。退屈していたのならすまない、ポケモンセンターに戻ろうか」
「……いや、寝てないって、思い出してただけだし。アンタにチゴラス貰った時のこと」
そう正直に話すと、踵を返しかけていたセラが立ち止まり、リズを振り返った。
音楽祭の人混みの中、向かい合う。
「…………そういえば……夏至だったな」
「そうだよ、アンタと2人でレンリの辛口白飲んでさ。それでレンリ繋がりで思い出したんかもな」
「………………リズ、無理して思い出さなくてもいい」
「……は?」
そのセラの一言には、リズも目を点にせざるを得なかった。
「……な、な、何をぬかすかセラ、今さら?」
「思い出してくれるのは大変結構。ただ、『今』も楽しんでくれ。頼むから」
「……どうしたセラ、やっぱアンタ、俺に気が……!」
「最近、思ったんだ。お前と私は、お前の記憶を取り戻すことを目的に旅をしている。しかし、記憶に囚われてはいけないんだ」
「……意味がわからないぞ」
混乱するリズに向かって、セラはちょいちょいと手招きした。方向を変え、滝の方へと歩き出す。
水際の草地の上に、ニャスパーを抱えたセラはどさりと座り込んだ。無言のまま、視線でリズも座れと促す。
リズもシシコが水に濡れないように気を配りつつ、涼しい水辺に腰を下ろした。白い野バラが咲いている。思わずお気に入りの花切鋏を取り出し、棘に気を付けながらいくつか摘み取った。一輪をシシコの耳に挿し、残りは花束にして、手に。
日が傾いた空は、深い青に染まっていた。
一年で最も長い昼だ。もう21時ごろだろうに、まだ明るさが残っている。
涼やかに流れ落ちる滝を見つめて、セラは息を吐き出す。
「最近は、お前が昔を思い出すのが、少し怖いな……」
「……どういうことだよ。冬とか春の間は、さんざん『早く思い出せ』ってせっついてきたくせに」
「このままだと、お前はかつてと同じ選択をするのではないだろうかと思うとな……」
「……いや、意味分かんないぞ、アンタ。なに意味深なこと言って格好つけようとしてんだよ」
リズはただ青い闇に浮かび上がる手中の白い野バラを見つめてぼやくしかない。
どうやら、セラはリズについて随分と悩ましい思いを抱えているようだ。
しかし、リズはその肝心な部分の記憶を取り戻してはいないのだ。だからセラが何に悩んでいるかも分からないし、セラを手伝ってやる事もできない。
リズは野バラから顔を上げた。
「……俺、何か忘れてる記憶の中で、アンタに酷いこととか、したか?」
「したな。これ以上ないくらい酷い裏切り行為を働いたな」
「……あっそう。……えっ、暴行とか?」
「お前も大概私のことが好きだろう。お前に手籠めにされるほど私も落ちぶれてはいない。すり潰すぞ」
「いや、ジョークだって」
どうやら本気でセラを怒らせてしまったらしい。さすがに冗談の質が悪かったかとリズも反省した。
しかし、かつてリズがセラに一体どのような『裏切り』を働いたというのか。
全く想像がつかなかった。
もしかしたらAZというやたら長命の老人が関係しているのかもしれない――ということくらいはリズも考えるが、やはり肝心の裏切り行為の内容について見当もつかないのだった。
だから、セラに対しても反省のしてやりようがない。この割と繊細で執念深いらしい友人を、これから失望させることがないように気を付けなければならないななどとは思うけれど。
――それとも、その『裏切り』について、これから思い出すのだろうか。
それは少し怖いけれど、リズが勝手に記憶を失って、にもかかわらず『裏切り』の加害者であるリズを助けてここまで共に旅をしてくれているセラを、一度ならず二度までも裏切るというのはいくらなんでも人でなしが過ぎる。
そしてセラもまた、リズが『裏切り』の内容を思い出し、謝罪することを望んでいるからこそ、リズの傍にいるはずなのだ。
できれば早く思い出して、早く謝れたらいいとリズは思う。
やがてセラは滝を見つめたまま、小さく苦笑した。
「まあ、心配してどうにかなるものでもないがな。私はお前を信じよう……」
「……あっそう、頑張ってね」
「ただ、これだけは覚えておいてくれ、リズ。お前は去年のお前とは違うのだということを」
そうしんみりと呟かれて、リズははあと頷いた。
「…………俺が今度こそアンタのことを裏切らないように、か?」
「そう。……私はこの旅には、かなりの覚悟と賭けと、勝負をしている。それが無駄にならないことを祈る」
長い長い昼の終わる空の下、次のシャンソンが始まった――『野ばらの人』だ。
セラが、野バラの花を手にするリズを見つめてきた。
リズは手にしていた白い野バラをセラの耳元に挿してやった。セラは目を細め、穏やかに微笑んだだけだった。
Chapitre3-1. 収穫月のレンリタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre2-3. 牧月のコウジンタウン
5月下旬 コウジンタウン
――水族館が見たい。
というセラの唐突な我儘により、リズとセラは8番道路“ミュライユ海岸”の砂浜に広がる海岸松の林を通り抜けて、石灰岩の崖下を南へ下り、コウジンタウンまでやってきた。
ここ一ヶ月で日はめっきり長くなり、今や春真っ盛りであった。
日の出は6時半、そして21時を過ぎてようやく日没だ。
街のあちこちでは藤の花房が長くしなだれ、林檎は木全体に白い花が満開になり、みずみずしい薔薇が家々の窓辺を飾り、紫のライラックが芳香を漂わせ、畑の葡萄は新緑の葉を広げ、菜の花の黄色い絨毯が郊外に広がり、マルシェには旬のホワイトアスパラが並ぶ。
街角では『リラの花咲く頃』のシャンソンが流れ始める。
虫ポケモンやフェアリーポケモンが活発に活動し、タマゴから孵ったばかりであろう小さな鳥ポケモンが腹を空かせて巣から親を呼んでいる。
街を行く人々は半袖姿が目立ってきていた。
そのような季節の移ろいが反映されているのかいないのか分からない、コウジン水族館にリズとセラは入った。
さっそく、正面ホールで黄金の巨大なコイキングの像が2人を出迎える。
シシコを肩に担ぎ、手に野のスイートピーで花束を作ったリズは、金のコイキング像を見て絶句した。
「……なんだこりゃ……」
ニャスパーを抱えたセラは、笑いながら振り返る。
「見覚えは無いか?」
「……ま、まさか俺らは水族館デートもこなしていたというのか……!」
「例の如く仕事でだけどな。マンムー捕獲とドゲザお城クルーズの件以来、すっかりお前と私はセットで扱われるようになってしまってね。当時は本当にいい迷惑だったよ」
「……だろうな。何が悲しくて科学者と思想家が一緒にいなきゃならねえんだって話だよな」
「まさしく」
セラはさっさとコイキング像の傍の階段を登っていった。リズもそれに続く。
そこには南海のポケモン、北海のポケモン、深海のポケモン、浅海のポケモン、川のポケモン、湖のポケモン、沼のポケモンがそれぞれの水槽の中で泳いでいた。
魚ポケモンを見て、リズは唾を飲み込んだ。
「……美味そうだな」
「リズ」
「……ケラスス・アルビノウァーヌス、俺の持論を聞かせてやる。意味も無く生きるぐらいなら死んだほうがマシだ」
「…………つまりお前は、ポケモンを見世物にするぐらいなら食ってしまえと、そう言うわけだ」
セラの声音はどこか面白くなさそうだった。
「リズ、確かお前はクルーズ船の上で、ポケモン肉は食べたくないと言っていなかったか? それと今のお前の言動は矛盾していないか?」
「それでも俺があの肉を食べたのは、屠られたポケモンの命に意味を付加せんが為だ。――そいつが、残飯として捨てられるために生かされていたんじゃなくて、俺の血肉となるために生きたという、その証になるように」
「……なるほど。ポケモン食はリズにとって、家畜とされたポケモンへの弔いというわけだ」
セラは腕を組み、俯いていた。水槽の光がその顔の上に揺らめく影を作る。
リズはそれを振り返って、肩をすくめてやった。
「アンタは俺の考えが気に食わないか。俺は別にそれでも――」
「いや。……じゃあリズ、お前が一年前にフロストケイブで、私と一緒に、あの野生のウリムーやイノムーの群れを殺戮したのは? あれこそ無意味な死を与えただけではないのか? あれはどういう事だったんだ? 説明してくれ」
顔を上げたセラの、銀紫の瞳がリズを射抜く。真剣に問いかけてきている。
記憶を失ったリズを試そうだとか、導こうだとか、そういった意図はそこには無い。
セラはオリュザ・メランクトーンに質問をしているのだ。
リズも金茶の瞳を細めた。
「前にも言ったが、俺はポケモンを世界から絶滅させたかった」
「……それはポケモンという種族すべての命の意味を否定することにはならないのか?」
「ポケモンには、絶滅させるに値するほどの価値があった」
「…………意味がわからない、リズ」
「セラ、“ポケモン一般”と“家畜として飼育されているポケモン”を混同するな。“一般的なポケモン”は強い力を持つ、価値ある存在だ。それに対し、“家畜とされているポケモン”はそうした能力をそぎ落とされ、肉を蓄えること以外の価値を持たない」
リズは知らず身振りにも力が入る。手にしていたスイートピーの花を握りつぶし、語気も強く訴える。
「俺に言わせれば、力を持たない“家畜のポケモン”には生きている価値など無いから、せめて人間の餌にしてしまおうという発想になる。だが、あのウリムー達のような力を持っている野生の“ポケモン一般”は、無限の可能性を秘めた価値ある存在だ」
「…………では、その価値ある“一般のポケモン”であるウリムー達を、なぜお前は殺したんだ?」
「“ポケモン一般”の価値は、無限の可能性を持つことにある。――だが、人類には、無限の可能性など、必要ない!」
リズは言い放った。
爽快だった。自分の思想を主張する快感をすっかり取り戻してしまった。フレア団の思想家であるオリュザがリズの中に還ってくる。
「ポケモンがいるから、戦争のたび、何百万何千万という単位で、人が死ぬ! ポケモンは危険だ、ポケモンは無限の可能性を秘めている――すなわちポケモンは世界を人類を滅ぼす可能性を秘めている。だからポケモンは人類の敵なんだ」
「………………そうか」
「言ったろ、セラ。俺は平和主義者だと」
リズはそう言い放ち、ふわりと微笑んでみせた。
セラもくしゃりと微笑んだ。どこか苦しげに。
「…………変わっていないな、オリュザ」
「我らが代表に大いにウケた考え方なんだがな。俺の思想はフレア団の思想だぞ?」
「そうだろうとも。団員の思想統一を図り、新世界の新たな規範と秩序を生むこと、それがお前のフレア団における存在意義……だったな」
「なのにあの男、失敗したんだもんな。あーつまんね。俺の見込み違いだったか」
リズはけらけら笑う。
セラは視線を逸らす。
「……お前は本当に相変わらずだよ、夢想家」
「アンタは自分の研究の為ならポケモンを何万匹殺そうが平気なんだろう、理論家」
皮肉な笑みを向け合う。
結局は、互いを非現実的だと詰り合う結果になる。かつてと同じように。いつもと同じように。
***
黒スーツのオリュザと白衣のケラススは、人の気配の少ない春のコウジン水族館で、水槽の中の薄汚れた水の中で苦しげに呼吸を繰り返す水ポケモンをただただ眺めていた。
オリュザは水族館が嫌いである。
ケラススも水族館は嫌いである。
なのになぜこの2人が揃ってコウジン水族館にいるのかというと、ひとえにそれが上司命令だからだった。まったく分野を異にする2人に共通する上司など、一人しかいない。フラダリラボ代表にしてフレア団ボスである人物、フラダリだ。
フレア団は現在、コウジンタウン東の“輝きの洞窟”で、ポケモンの化石の盗掘を行っている。
厳密には盗掘とは言えない。化石の発掘にはなんら行政の許可を得る事を要しない。そのことはオリュザがお墨付きを与えている。
しかし、ポケモンの化石はみんなのものだという、暗黙の了解というものがカロス地方には存在した。にもかかわらず化石を独占しようとすれば、それも研究目的でなく金儲け目的で行えば、たちまち各所から批判が殺到するだろう。だから、そのような後ろ暗いことは『フラダリラボ』でなく『フレア団』の仕事だ。
「……なあケラスス、フラダリラボとフレア団の違いは何だと思う」
オリュザは退屈を紛らわすため、やや離れた右隣りで佇んでいるケラススに小声で質問を投げかける。
ケラススは鼻で笑った。
「またどうせ、認可を受けた法人だとか、訳の分からない法律知識を披露したいだけなのだろう、お前は」
「あちゃ、ばれたか。だが俺は披露するぞ。フラダリラボは、我らが代表が無限責任を負っておられる無限会社だ。一方、フレア団は、フラダリラボという実在する企業を隠れ蓑にした――いわばフラダリラボの真の姿とでも言うべきか」
ケラススはそれ以上は相槌を打とうとしなかった。腕を組んで聞き流している。
しかしオリュザは構わず話し続ける。その手に弄んでいるのは近くの岩場に生えていたのを摘み取った、ツツジの花である。
「フラダリラボは世のためになる製品をお届けする、ごくごく一般的な超優良企業だ。株式会社でないために外部の第三者の目が行き届かないというコーポレートガバナンス上の問題点はあるにしても、やはり代表であるフラダリ氏の手腕と人柄から、数多くの銀行が競って融資を行おうとするほどの、まさにカロス第一の企業なわけだよ、きみ」
ケラススは頷きさえしなかった。
しかしオリュザは構わない。
「――しかしそのフラダリラボという薄い外皮の内側にあるのは、純利益を怪しげな研究の費用にばかり回している、テロリスト集団たるフレア団だ」
話がフレア団に及ぶと、ケラススの視線がちらりと動いた。
それに気付いたか気付いていないか、オリュザの小声も熱を帯びる。
「フレア団は完全紹介制、あるいは例外としてもスカウト制だ。500万円を支払った奴だけが加入できる。フラダリラボの方に所属しない政治家や他企業の社長なんかもフレア団に所属してるっつー噂がある。つまりフレア団は、完全にはラボに内包されてないんだ」
「そうか」
「一方、何も知らずにフラダリラボへの就職を希望する者は、フレア団の仕事には一切触れられず、フラダリラボの下請企業の業務に回されるという寸法だ」
「お前の話は心底どうでもいいな」
ケラススは退屈そうに欠伸をした。白衣の袖の下の腕時計を確認し、舌打ちする。
「下っ端どもが、化石採集はまだ終わらないのか。どれだけ掘り起こすつもりだ……」
「ポケモンの化石は一個あたり、数万円から数千万円の値段はつくからな。タダで採掘できるなんて最高だろ。ホルードとかで壁砕きつつ掘れる限り掘り進んでんじゃねえの」
「以前から化石による資金獲得の動きはあっただろう?」
「大規模な採掘を始めたのは一昨日からだな。代表の野郎、カネ作りを急ぎにかかってんな。さては“樹”と“繭”の居場所のめどが立ったか……」
そのとき、オリュザとケラススのホロキャスターが同時にホログラムメールの着信を告げた。2人とも無言のまま手早く操作し、ほぼ同時にメールを開く。
待ちに待った、フレア団の下っ端からの報告が流れてきた。
最後までメールを見終えると、2人はすぐさまそのデータを端末から完全削除する。それから顔を見合わせた。
そしてオリュザも、ケラススも、同時に吹き出した。
「子供に邪魔されて引き上げたとか――」
「――馬鹿か、こいつら」
2人はひとしきり腹を抱えて笑い転げていた。とんだ笑い話である。
「ぶっ、はは、はははははははははははっ、ちょ、待っ、ありえなくね、ショボすぎだろ!? 子供にやられました、だ? どんだけヘタレだよお坊ちゃんよ!」
「あはははは、これだから温室育ちは困るんだ。500万円払うだけ払えば後は安泰だとでも思っているのか。フラダリ様も新規メンバーの加入条件を見直された方がいいだろうに」
「まあまあケラスス、今はカネと人手が大事な時期よ。無能な末端のクズどもはそこら辺の一般人と同じく、最終兵器でボンしちまえばいい。真面目に働いてるフレア団員たちもそれで文句は言うまいさ」
「それもそうだな。ああ、久々に笑った……」
「やっぱボンボンが慌てふためいてんの見るのは愉快だわー」
「実に最高の気分だよ」
それからもオリュザとケラススは暫く、ふつふつとこみ上げてくる笑いをこらえきれずにいた。
――ざまあみろ。さんざん移民だ何だと難癖をつけてオリュザやケラススを軽蔑してきた、金持ちの白人の子弟どもは、ただの子供トレーナーにプライドをへし折られた。最高だ。
オリュザはケラススの肩を叩く。
「あー、俺も久しぶりにいい気分だわ。やっとこの臭え水族館からも出られるし、とっとと帰ろうぜケラスス。飲むか?」
「付き合おう」
「せっかくだし、コウジンの赤ワイン試飲しに行くべ」
「それはいいな」
言いながらも2人は足早にコウジン水族館を後にした。早くも手にしていたモンスターボールを、晴れ間の覗く空に高く投げ上げる。
「ヘスティア、葡萄畑もってるシャトーまで飛んでくれ」
「メルクリウス、お前も頼む」
現れ出たオリュザのファイアローも、ケラススのオンバーンも、主人たちがすこぶる上機嫌なのを目の当たりにして、不可解げに首を傾げていた。
***
そんなこともあったっけな、とリズは思う。
あの時から、コウジン水族館の蒼い水槽の中をぐるぐると回り続けているポケモンの顔ぶれはほとんど変わっていない気がする。
無為に泳ぎ続ける魚ポケモンたちを、上司の言いなりに動くことしか能のないフレア団の下っ端たちを、オリュザもケラススも軽蔑していた。そしていつの間にか、2人で過ごすうちにお互いに仲間意識のようなものを抱いて、友達のような関係になっていた、はずだ。2人は専門分野も考え方も全く異なる人間だったけれど、だからこそ珍しく意見が一致したときは面白かった、ような記憶がある。
懐かしい。
「懐かしいな」
リズの心を読んだかのように、ニャスパーを抱えたセラは水槽を見つめながら呟いた。
「オリュザとはいつもどこへ行っても、口喧嘩をしていたような気がする。いや口喧嘩というより、私にはお前の言っていることが理解できず、反論もできずに一方的に反感を募らせていただけだったがな」
「……あー、まあ、俺もアンタの理系の話とかは全然ついていけねえし」
「お前の話を聞いていると、無性に腹が立つんだ」
「…………そ、りゃ、すみませんね」
セラはニャスパーの毛並みを撫でながら苦笑した。
「今まではそれすらもただただ懐かしかったんだが、さっきは久々にイラッと来たな……」
「え、何が癇に障ったんだよ?」
「ポケモンには価値があるから殺してしまえ、というくだりだよ。まったくもって理解できない」
シシコを担いだリズも興味深げに眉を上げ、前髪を耳にかけた。
「お、なんだなんだ? 意見を聞かせてくれ、気になるぞ」
「リズの言うポケモンの価値って、すなわち人間の役に立つかどうかってことだろう?」
「……は? いや、意味もなく生きているポケモンが、価値が無いのであって」
「しかしお前の定義する“意味もなく生きているポケモン”とは、肉にされる以外に価値のない“家畜のポケモン”だろう。つまり、お前の言うポケモンの価値とは、人間の役に立つかという基準によって計られているんだよ」
「…………お、おう」
「それなら、ポケモンに価値を見出すか否かは、人間に依存するだろう?」
「………………あー」
「つまり、結局フレア団がポケモンを滅ぼすというのは、人間のエゴに過ぎないってわけさ」
「……………………そうなるね」
「だからポケモンが滅ぼされるのをポケモン自身の責任に帰結させようとする、フレア団の思想即ちオリュザの考えは、不当ではないか?」
リズは自らの掌の内で潰れたスイートピーを無感動に見つめ、ふむと考え込んでしまった。
「つまりアンタは、責任のないポケモンまで滅ぼすのは不当だと考えてるってわけか?」
「そう。でも、フラダリ様によるとそのエゴの塊である人間も滅ぼすという話だったから、それなら許容できるかと、当時は何となく思っていたんだけど。……よくわからないな。Merci, Riz, 私の要領を得ない話を聞いてくれて」
セラはにこりと笑うと、さっさと早足で歩き出した。
「さて、この水族館にもう用は無いだろう。コウジン名物のカヌレでも食べに行こうか」
リズは吹き出した。
「……また、甘味かよ」
「カヌレはワインの澱取りで余った卵黄を使用しているらしいな。いやはや、さすがは『ワインの女王』と名高い高級赤の名産地、コウジンだ。名物の菓子まで洒落ている」
わくわくとコウジンの街へ繰り出すセラを、リズも苦笑しつつ追いかける。
蜂蜜色の石積みの街並みが、ツツジの花咲く崖に張り付くように広がっていた。
Chapitre2-3. 牧月のコウジンタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre2-2. 花月のショウヨウシティ
4月下旬 ショウヨウシティ
ひと月かけて大河を西へ下るクルーズは順調だった。
のどかな田園風景、森の中に佇む古城、緑増す丘陵とそれを彩る七色の花畑。『カロスの庭園』とも称される一帯である。
ショボンヌ城やパルファム宮殿、バトルシャトーなどはポケモントレーナーにもなじみ深い城館だ。しかし美しい城はそれだけではない。船は数十にも及ぶ城下町に停泊を繰り返しては、それぞれの街で産するワインが観光客に振る舞われる。この流域は多彩・良質・安価と三拍子そろった白ワインの一大産地だ。
水辺に棲む水ポケモンの機嫌もいいもので、クルーズ船がギャラドスやシザリガーに襲撃されるということはなかった。おかげでセラとリズをはじめとする船の護衛を担うトレーナーも、交代で周辺の見張りをする以外は観光客に混じって美しい風景と美酒をゆったりと楽しむことができた。あるいはトレーナー同士でバトルをして賞金をやり取りしたり、ポケモンに簡単な芸などさせてみせたりして見物客からのチップを稼いでいる。
春の曇り空は地平の丘をぐるりと取り囲み、果てしなく広がっている。
幸い、雨は少ない。
カヌーで河を下る者がいる。気球で空からの眺めを楽しむ者もいる。あるいは河岸をゴーゴートの背に乗ってのんびりと散歩する観光客、魚ポケモンの背で釣り糸を垂れるトレーナー、鳥ポケモンに乗ってどこかの街へと空路を急ぐトレーナー。そういった人々とクルーズ船の乗客は互いに手を振り合う。
河は穏やかだ。
ヤヤコマのさえずりが聞こえてくる。
夕暮れ時、険しい西の山脈に刻まれた深い渓谷を抜けると、遠くに西の大海が広がるのが見えてきた。
甲板で野生ポケモンの見張りに立っていたセラとリズは目を眇める。
「ああ……もうショウヨウだ」
「……長かった……」
ほのかに西日が射している。
4月も後半だが、まだ気温は10℃を下回ることが多い。やはり空にも雲が多い。
リズは高い体温を持つシシコをしっかと抱きしめ、その炎のたてがみで顎を焼きそうになっていた。その右隣のセラはいつも通り涼しげにニャスパーを抱えて、背筋を伸ばして立っている。
「楽しかったな、リズ」
「河見て城見てワイン飲んだ記憶しかないけどな」
「思い出さないか?」
「……お決まりの質問だな。ときどき城の形には見覚えがあると感じたが」
「まあ、なかなか思い出せないのも無理はない。去年の今頃のリズと私は、お世辞にも仲が良かったとは言えないからな」
セラはくすくすと思い出し笑いをする。
「私は生命エネルギーの研究に没入したかったんだ。なのに、いつの間にか頭のおかしい夢想家とコンビを組まされて、こともあろうかお金持ちに頭を下げて資金援助をお願いして回る羽目になってな」
「…………その『頭のおかしい夢想家』のほうもきっと、『頭のおかしい理論家』に付き合わされて、さぞやうんざりしたことでしょうよ」
「だろうな。当時のことは悪かった」
セラは夕陽を映す河の色を眺めながら、肩をすくめた。
「科学班班長のクセロシキという男と喧嘩をしてね。雑用を押し付けられたというわけだ」
「…………俺もかよ」
「お前は違う、お前は……よく分からないな。お前の仕事に私は興味がなかったから。リズはフレア団で何をしてたんだろうな」
「そこは自力で思い出せってことか……」
19時半ごろだった。日が沈む。
この頃は急激に日没が遅くなる。ショウヨウの街の光が青い闇の中で宝石のように煌めいている。今日はこの眺めを楽しみながらの夕食になるだろう。
冷たい風の中、温かいシシコを抱きしめつつリズは目を閉じていた。
去年もリズと共に船上にあったはずだ。
ヒントは与えられている。セラはリズと共に、貴族にフレア団への資金援助の要請をしていたのだ。船の上から見た城の一つ一つに立ち入って、城主と話でもしたのだろうか。
***
「アンタも移民なのか」
「今さらか? この肌の色を見て分からないのか? それともお前は目が見えないのか? 目が見えないのに私の前を歩かないでくれるか、危険でしょうがない。ほら、見えるか? 見えてるか? 見えてないのか?」
不機嫌に言い募り、ケラススはずいとオリュザの目の前に灰色の掌を突き出してきた。血色の見られない、黒曜石のような肌の色だ。
ケラススの銀紫色の瞳はぎらぎらと高圧的に輝いている。
随分と感情的な男だ、とオリュザは呑気に思った。
「見えてる。アンタって煙突掃除夫だったんだな。ちゃんとシャワー浴びろよ、顔面まで煤だらけだぞ」
オリュザの冗談は黙殺された。
受け流されたわけではない。ケラススは憎悪を込めてオリュザを睨みつけてきている。
「お前のふざけた話に付き合うつもりはない」
「じゃあ、下ネタ話には喜んで付き合ってくれるわけかな?」
「もういい。私もお前も所詮は移民だ、だがそれがどうだというんだ? 私はフラダリ様直々の要請でラボに招き入れられたんだ。……貴族がなんだ、クセロシキが何だというんだ? なぜ私がこんな事をしなければならないんだ?」
「ご不満だな」
オリュザにもケラススの怒りは理解できないでもない。
2人はただ、河岸に立つ立派な古城に暮らしている老婦人に向かって、フラダリラボへの資金援助を折り目正しくお願いに行っただけなのだ。
なのに一笑に付された。
――“わたくしのもとに移民などを遣わすなど、わたくしもフラダリに軽んじられたものですね”、と。
件の古城から丘を下りた河岸の草地に、黒スーツのオリュザと、白衣のケラススは立っていた。
怒り心頭の様子で城館を後にしたケラススを、オリュザが揶揄いついでに追いかけてきたのだ。同行人の気を鎮めるべく、気安くその肩に手を置いて慰める。
「元気出せよ、ケラスス。ただの移民ノイローゼの婆ちゃんの言う事だろ」
「フラダリ様の尊厳が傷つけられたんだぞ。なのに私にはどうも出来ないんだ」
「そうだ、どうしようもない。だから元気出して次行こうや、な?」
「無理だ。クセロシキめ。あの男……フラダリ様の評判を下げることを計算に入れた上で、この私にこのような仕事を押し付けたか。紛う事なき裏切り行為だろう……!」
ぷりぷりと怒っているケラススの背中を、オリュザはぽんぽんと軽く叩いてやった。
「……俺らが嫌われんのはしょうがねえやな。俺もアンタも、入団料500万円を支払わないで、フラダリ様直々にスカウトされた“特別な存在”なんだから。努力や才能や血統をごっちゃにした勘違い野郎どもの妬みを浴びるのは、俺たち優秀な移民の運命だ」
「お前などと一緒にしないでもらおうか」
「そうは言うけどな、フレア団の大多数は500万をポンと出せる白人の貴族どもだろう。俺もアンタも少数派に属するって意味じゃ、確かに同類項だわな」
「――だからといって“移民”という立場に甘んじ、平気で白人貴族に頭を下げることのできるお前の奴隷根性を、私は心から軽蔑する」
ケラススの視線は冴え冴えとしていた。
オリュザも冷酷に笑った。
「……アンタもプライドなんかにしがみつくのか。白人貴族と同じだな」
「何が同じなものか」
「大局を見るべきだろう。――アンタの目的を思い出せ、ケラスス・アルビノウァーヌス」
そう言ってオリュザはやれやれと首を振ると、河岸の草の上に腰を下ろした。黒スーツが汚れるかもなどとは気にもかけずに。
そして可憐な花をつける鈴蘭の花を傍らの草地に見つけ、オリュザはいそいそとお気に入りの花切鋏を取り出し、葉と共にそれを摘み取る。手の中に清雅な白と緑の花束を作って、うっとりと眺めた。たしか毎年5月1日は大切な人に鈴蘭を贈る日だったな、などとのんびり思いながら。
河には白いクルーズ船が停泊している。
それはなかなか豪華な客船だったが、一ヶ月もずっと気難しい同僚と共に船上で過ごすというのは気づまりなことこの上なかった。オリュザの楽しみは美しい風景と美味い酒、そして野に咲き誇る季節の花々ぐらいだ。
ケラススは河岸の草地に立ったまま、波立つ河面を睨んでいた。
「…………どうせ……滅びる…………」
「そゆことだよ。あんなもん、墓石だとでも思ってドゲザでも何でもしてやんな」
オリュザは軽く笑いながら、ケラススの白衣の袖をぐいと引っ張る。草の上に座らせ、鞄の中から古城のワインセラーで買い付けたばかりの白ワインのボトルを取り出す。
「まあとりあえず一杯。明日はショウヨウに着く。地に額こすりつけてでも、アンタの研究費は搾り取ってやるよ」
微笑んで、オリュザは戯れにケラススの耳元に鈴蘭の花を挿してやった。
ケラススは無表情のまま、すぐさまそれを叩き落とした。
***
翌日には朝靄の中、ショウヨウシティに入った。
河口にはニレの林、海浜には海岸松の林が西の海風を受けて揺れている。
崖の上には貴族の城館がそびえていた。その眺めに、船の上のリズは既視感を覚える。たしかあの時も、セラことケラスス・アルビノウァーヌスと共に、あの城へと続く階段を黙々と登った、ような。確かにそんな記憶がある。
リズはシシコを抱きしめ、息を吐いた。
「…………ドゲザはしたんだっけか」
「お前は、したな。神に礼拝するがごとき勢いだった。ところがそのオリエンタルさが逆に気味悪がられて、けっきょく援助は得られなかった」
「……マジかー」
セラはすべて心得ているように、淡々と思い出を語る。
「ただ、そのあと私がクセロシキにドゲザしたら、とりあえず研究費は回してもらえるようになった」
「……え? アンタもドゲザしたの?」
「お前の清々しいドゲザっぷりを見て、自分が恥ずかしくなってな。お前は私のために地に額を擦り付けてくれたのに、私一人がぼんやり突っ立っているわけにはいくまいよ」
「…………そりゃ、漢だな」
意外も意外である、まさかあの冷酷なケラススに頭を下げようなどという発想が生まれようとは。やはりドゲザは人の心を動かすのだなとリズは思った。遥か東洋の島国の風習も多少は役に立つようだ。
セラは懐かしげに目を細めた。
「私がオリュザ・メランクトーンを尊敬したのはあの時が初めてだったな……」
「……………………俺は今初めてアンタを尊敬した」
「ふふ、それは光栄だ」
ニャスパーを抱えたセラは恥ずかしげもなく、海風の中で爽やかに笑っている。
一日ショウヨウの周囲を周遊し、船は夕方には無事にショウヨウの港に停泊した。
セラとリズも一ヶ月分の護衛の報酬を現金で受け取った。観光客は夜景を楽しみつつ、ぞろぞろとホテル・ショウヨウへとなだれ込んでいく。
しかしセラとリズはしがないポケモントレーナーである。ポケモンセンターに泊まる方が圧倒的に安上がりだ。
ポケモンセンターを求めて、2人は歩き出す。
ところがさほど行かぬところでショコラトリーを見かけて、セラがそのショーウインドーを指さし華やいだ声を上げた。
「見ろリズ、そういえばもうイースターだぞ」
「……あー、そうね……」
そこにはチョコレートで出来たイースターエッグがウインドーの中に飾られていた。かわいらしい籠の中に飾られた卵は一つ一つ緻密な模様に彩られ、華やかだ。多産を象徴するホルビーやミミロル、マリルリの愛らしいショコラもある。
2人の腕の中のシシコとニャスパーも、ショコラトリーの彩り豊かなイースターエッグに興味津々だった。せいいっぱい首を伸ばしてよく見ようとしている。
そんなニャスパーの頬を撫でながら、セラはリズを振り返った。
「イースターが来るならすっかり春だな。せっかくだし買っていこう、リズ」
「勝手にどうぞ。ただし脂質と糖質の過剰摂取には気を付けろよ、この甘党野郎」
「無論」
セラはいかにも楽しそうに、Bonsoir, Madameなどと挨拶しながらショコラトリーに入っていく。
シシコを肩に担いだリズも顔を顰めつつそれに倣った。――まったく、記憶の中のケラススと目の前のセラとの整合性が取れない。こいつはイベント物に心を躍らせるようなタイプの男だっただろうか?
店内で山盛りにされている美しいイースターエッグの数々を、ニャスパーやシシコと共にうっとりと眺めながら、セラはリズに話しかけてきた。
「普通のカロスの人間は、ノエルとイースターは家族で過ごすものと相場が定まっているが。ちなみにリズ、自分の家族のことは覚えているのか?」
「…………いや、思い出せない」
「そう。私も昔のお前から、お前の家族のことを聞いたことはないんだ。今頃……ご家族がお前のことを心配しているかもしれないな」
「……つっても、仮に今の状態のまま家族と再会したって、傷つけるだけだろうがな。何も覚えていないんじゃあ……」
リズはイースターエッグよりも、店内に飾り付けられている甘い色合いのチューリップの花を見つめている。白やクリーム色、淡いピンク、紅色。美しい春の彩りだ。このあたりに咲いているのだろうか、そればかりが気になる。
家族という単語を聞かされても、リズの胸には何の感慨も湧かない。会いたい人間も、思い出したい人間も、影すら浮かばなかった。――と同時に、リズは幻滅した。
「……たぶん、昔の俺はかなり人間関係に淡白な人間だったんだ」
「ああ、そうだろうね。なにせお前ときたら、この私以外に友達がいないのだもの」
セラは身をかがめてニャスパーと一緒にイースターエッグを熱心に見比べながら、ごく適当にリズをからかってくる。
まったくセラの言う通りだった。リズと繋がりのある人物は、今のところセラしかいない。
それが気持ちが悪かった。明らかに異常だった。
「…………なあ、アンタさ、俺と共通の知り合いとか、いなかったか?」
「フラダリ様とか? 科学者連中とはお前は面識ないだろう? ……それともAZのことを言っているのか?」
「AZ?」
リズがその名をオウム返しに呟くと、セラは再び背筋を伸ばし、こちらを振り返った。
その表情も、目さえも笑っていなかった。
ぞくりとするほど冷ややかな紫水晶の瞳だ。
「ああなんだ、勘違いか。悪い。忘れてくれ」
セラはぶっきらぼうに言い放つ。
リズはただ、おおと思っただけだった。セラは今まさに、リズの記憶の中のケラススと同じ仏頂面をしている。ついに知っている人物を見つけた気がして、あるいは親しい人間の懐かしい本性を暴き出せた気がして、思わずにやりと笑う。
「いや、そんなカワイイ顔で忘れろなんて脅されてもな。――何だ? 今まで散々思い出せって言っときながら、何を忘れろって? これ以上俺の頭に空っぽになれってか? そりゃ残酷すぎるだろ、セラちゃんよ?」
「私の顔が可愛いのは自明のこととして。とにかく私には、お前に今すぐ思い出してほしい事と、今はまだ思い出してほしくない事があるんだよ。それだけは言っておく」
「……え、何それ、要するにアンタは、アンタ好みの俺を作ろうと企んでるってわけ?」
「うるさいな。いずれはすべて思い出してもらうと言っているんだ、オリュザ」
「なあなあセラちゃん、AZって誰? 誰よ? お前の恋敵か何かかい? まさか俺を巡ってラブコメでもしたのかね?」
「なぜ、さも当然のようにお前自身がヒロインになろうとするんだ」
「……セラは俺を独り占めしたいんだな……」
「ははは。相変わらずの夢想家だな」
セラは手籠の中にイースターエッグを片端から放り込み始めていた。何かに苛立っているかのように。
それから苦笑を浮かべて、リズを振り返る。
「……サービスで教えてやる。AZは、御年推定3000歳のご老体だ」
「何それ、ポケモン? キュウコン三体分? 尻尾が27本生えてたりする?」
「それは……さぞやエノキダケにそっくりだろうな……」
「最高でジラーチに3回会えるじゃん、何それ羨ましい」
「なぜこの世に存在するジラーチが一体だけだと思っている?」
「えっあれ沢山いんの」
「という説もある」
セラは甘い香りのするイースターエッグを60個お買い上げした。
確実にリズの担当分も含まれている。
Chapitre2-2. 花月のショウヨウシティ END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre2-1. 芽月のメイスイタウン
3月下旬 メイスイタウン
遠くまで、早春の丘は背の低い葡萄の木に覆われている。
芽が出る前に剪定作業が済まされ、数本残されただけの黒い枝は刺々しく、葡萄畑は荒涼とした荒れ地のようになっていた。
その中で背伸びをして抜け目なく周囲を睨みまわしているミルホッグは、葡萄畑を野生のポケモンから守る役目を担う農家のポケモンだ。フウジョの畑と同じだった。
春の気配はある。
野には真紅のアネモネの花畑が一面に広がり、花にしがみついた小さな野生のフラベベがふわふわと漂い始めている。
新緑の森の地面には黄水仙が群れ咲き、道端には淡い色のチューリップが花開く。
メイスイタウンの街角は華やかな黄金色のミモザの花に飾られていた。微かな芳香に誘われ、早くも雄のミツハニーが街中を飛びまわっている。とはいえ、まだ3月のメイスイは昼間も気温が10℃を超えることはない。寒さを苦手とするミツハニーが凍え死にしないことを願うばかりだ。
澄んだ河面。
淡い空色のコアルヒーや純白のスワンナが数羽、ぬるむ水に遊んでいる。
その傍を、いくつか白いボートが行き交う。
河畔に立ち並ぶ糸杉は、天を支える氷柱のよう。
昼下がりである。曇り空の下、その河岸には昼休憩中の学生だろうか、若者たちがたむろし昼食のバゲットサンドイッチや赤ワインのボトルを手に手に語り合っている。
そんな透明水彩画のようなのどかなメイスイの風景を、リズとセラの2人は河岸を歩きながら眺めていた。
「……メイスイって、河の印象しかねぇな……」
シシコを肩に担いでぼやくリズの手の中には、柔らかな色彩溢れる花束が生まれている。野で春の花を見つけるたびに片端から花切鋏で摘んでいたら、いつの間にかこうなっていた。
「実際、今のメイスイは運河クルーズの中核都市として有名だからな」
ニャスパーを抱きかかえたセラが微笑んで相槌を打つ。
リズはふうんと鼻を鳴らした。
「……クルーズか。楽しいのか?」
「嫌だなリズ、去年も一緒に川下りを楽しんだだろう?」
「……マジかよ。俺とアンタで?」
「そうだよ。お前と私で、立派なクルーズ船に乗ってだ」
セラの銀紫色の瞳は、リズとは反対側、右手の大河に向けられている。その水面には糸杉の影がいくつも連なって映っていた。
リズは気まずく肩をすくめる。記憶にないのだから仕方ないが、さすがにセラに対して申し訳ない。
「……悪かったな、覚えてなくて」
「いいんだよ。ただ、楽しかったな」
「……俺らって一緒に観光するぐらい、仲良かったんだな……」
「厳密には観光ではなかったな。営業活動だ」
一言ぼそりと呟くと、セラはリズを振り返った。にっこりと笑みを浮かべる。
リズは思わず半身を引いた。
「…………な、なんすか、ムッシュー……?」
「思い出したか?」
セラはただそれだけ、笑顔でリズに尋ねた。
リズは渋面を作り、手元に作った美しい色とりどりの花束に視線を落とす。
「…………思い出さねえぞ。俺は先月のフウジョで既に学んだ。アンタは俺に、フレア団時代の思い出の土地を巡らせてんだろ、そうだろ?」
「さすがだな。その通りだ」
「…………だとすると、アンタの誘導に従って思い出していっても、ロクな記憶が戻らねえだろう?」
実際、先月セラに連れてこられたフウジョタウンでリズが取り戻した記憶といえば、野生のウリムーやイノムーを大量虐殺した上、その群れを守っていたマンムーを必要以上に痛めつけて生贄用に捕獲する――という胸糞悪いことこの上ないものだった。
一度思い出した記憶は、昨日のことのようにまざまざと瞼の裏に蘇る。
一面の白雪に、手にした早春のミモザの花に、セラがその手で操るヒトツキに、リズが連れていたフラベベに、こびりついた赤錆色。
唾を飲み込み、リズはさらに一歩退くと、微笑んでいる元同僚を睨みつけた。
「俺らが悪人だってことはもう分かった」
「いや、お前は分かっていない。何一つ大事なことを思い出せていないよ、お前は」
「これ以上のことを俺らはしでかしたってのか。そんなことを俺に思い出させてどうなる? そのうち…………お前のことも、嫌いになるぞ」
「私のことを心配してくれるのか、リズ? その気持ちは有り難く受け取っておくが、あいにく私はお前に嫌われることなどとっくに覚悟の上だ。大事なことはそれではない」
セラは背筋を伸ばしたままリズをまっすぐ見つめ返し、微笑を浮かべたまま、けして揺れることのない声音でそう言い放った。
やはりリズがこのような反応を示すのも、セラの想定通りだったということだ。
ただ、セラがぶれないという事実に対して、少なからず安堵している部分もリズにはあった。リズは自分の失われた記憶に関心がないわけではない。セラがそれを妨げないのはむしろ好都合だった。
――そうはいっても。
リズはかぶりを振る。セラの向こう側に横たわる、大河に映る糸杉の影を見つめる。
「セラ…………アンタにとっての、アンタの言う、『大事なこと』ってのは何なんだ?」
「何度も言っているだろう、リズが私のことを思い出してくれることだ。その結果お前が私を愛そうが憎もうが、私は一向に構わない。すべてを思い出した上でお前がけじめをつけてくれることだけを、私は望んでいる」
「……俺はアンタと、何か約束でもしたのか?」
「さて、どうだろう? ただ、去年のこの時期、お前が私と運河クルーズを楽しんだことは間違いがない。――行こうリズ、行けばきっと思い出すさ」
そう笑いかけて、ニャスパーを抱えたセラはさっさと歩き出してしまった。
リズは釈然としないながらも、ぶうぶうと鳴いていたシシコを肩に担ぎ直すと、セラの斜め後ろをついていく。
はぐらかされている、という感じはしなかった。
セラの目的ははっきりしているし、それはリズ自身の目的とも合致している。結局は自分が思い出さなければ、過去のセラのことも、そして現在のセラのことも何一つ分からないのだ。
***
それから時間を合わせて、河岸へと2人は向かう。
メイスイタウンから船で河を西に下っていくと、ハクダンの森を抜け、どこまでも広がる葡萄畑や花畑を見渡し、そしてショボンヌ城やパルファム宮殿、バトルシャトーをはじめとする美しい古城の数々を目にすることができる。カロスらしさの濃縮された風景を心行くまで堪能できる、超人気観光プログラムである。
今は3月、森や野に早春の花は咲き始めているものの、まだまだ強烈な寒さだ。ところがその観光客の少ない時分を見計らって観光クルーズを楽しむ者も、必ず一定数はいる。
それに含まれるのがリズとセラ、――ではない。
セラが観光会社の人間と何やら話をしている後ろで、リズは腕の中のシシコと共に、河畔からぼんやりと船溜まりを眺めていた。
「船、でけえな」
シシコが毛づくろいの動きを止め、ぶむうと鳴いて相槌を打つ。
それは想像していたような、ボートのような小さな舟ではない。
ホエルオーほどもありそうな、白い巨大なクルーズ船が停泊していた。船内に立派な寝室もレストランも備え付けられているものだ。海でも渡れそうだ。
「どうだリズ、この船のクルーズ代金は一回数十万円もするらしいぞ。それにタダで乗れるだなんて私たちはラッキーだな」
いつの間にか観光会社との話を終えていたセラが、リズの右隣りに並び立つ。2人の腕の中のシシコとニャスパーがみいみいにいにいと船を見つめながら鳴き交わし始める。
リズは溜息をついてみせた。やはりこれは見せかけだけでない、本物の豪華客船のようだった。
「……ペアチケットが抽選で当たった、ってわけでもないんだろ?」
「そう。ところで運河クルーズというのはこの通り、沢山のお金を貰う代わりに最高のサービスを提供するビジネスだ。だから顧客の安全というのは死守すべきポイントになる」
「…………――俺らは、獣払いってとこか」
「相変わらず察しが良くて助かる、腐っても天才学者オリュザ・メランクトーン様だな」
セラに茶化されても、リズは溜息をつくばかりだった。
セラは首を傾げる。
「なんだ、せっかく人が褒めてるのに」
「うるせえな、俺は腐っても天才学者オリュザ・メランクトーン様だぞ。……この時期のセントラルカロスからコーストカロスにかけての川沿いに生息するポケモン、考えただけで眩暈がするわ」
「ほう、参考までに聞かせてもらおうか。何が懸案事項だ?」
「…………これから春にかけて多くのポケモンが繁殖期に入り気性が荒くなる……シザリガーやギャラドスに船底を破られる可能性もあるだろうよ……あと目の血走ったゴルダックに念力で船体丸ごと持ち上げられるとか、スワンナの群れに空襲されるとか……河口付近じゃ、ドラミドロが最大の難敵だ…………」
「なるほど、そりゃ大変だ。頑張ろうな、リズ」
セラは緩く笑っていた。
リズは片手で額を押さえた。
「………………いや、マジで無理だって、アローラ地方のハギギシリとかいないと無理だって………………」
「ちなみに、船の護衛を務めるトレーナーが私たち2人だけとは、私は一言も言っていない」
「畜生この野郎」
そしてメイスイタウンからショウヨウシティまで、一ヶ月かけて大河を下るクルーズの旅が始まった。
***
クルーズの開始は正午だった。
メイスイの船溜まりを離れ、土色の大河を、純白の豪華客船が突き進む。
セラとリズはその甲板の縁にもたれかかり、のんびりと周辺ののどかな田園風景を眺めていた。
河岸にはポプラやオーク、ニレ、ハシバミ、カラマツなどから成る混合林。
メェークルやミルタンク、ポニータの群れがのんびりと春草を食む牧場。
ヒナゲシやアネモネの真紅の絨毯、やわらかな緑にうずもれる純白の雛菊、青紫の矢車草、黄色のキンポウゲ、淡青のリネンの花畑。川沿いの村にはアーモンドや林檎、梨、杏、桃、ミモザが花盛りだ。
リズはお気に入りの花切鋏でそれら美しい花々を摘みに行きたくてたまらないのだが、次から次へと現れる花畑にこれは摘み切れないと諦め、おとなしくセラと2人で広い甲板での見張りを務めている。
進化したばかりであろう野生のバタフリーや花園の模様のビビヨンが広々とした花畑にひらひらと舞い遊び、2人と同じく甲板に出ていた観光客が盛んに写真を撮っている。
時折森の向こうに、おとぎ話に登場するような美しい古城が現れる。
夕方ごろには、ハクダンの森を抜けていく。
銀灰色の幹を持つ春のブナは上方でぱらぱらと若葉をつける。また、この地方に産するワインやコニャックの熟成に欠かせない樽の材料となるナラの大木がいくつもそびえ立っている。それらの枝葉の間を、野生のピカチュウの黄色、バオップの朱色、ヒヤップの薄青が時折かすめる。新緑色のヤナップを森の中に見つけられる者は稀だ。
薄紫のヒヤシンス、黄水仙、純白の鈴蘭などの花畑が木漏れ日の下でそよ風に揺れる。
森は新緑に満ちている。
ハクダンの森を抜ければ、どこまでも広がる丘陵地帯に一面に葡萄畑が広がっていた。ハクダンシティの周辺はワインの一大生産地だ。
その夜は船はハクダンシティに停泊する。
河はハクダンの西側で西へと屈曲し、そのまま西へコボクタウンを通り抜け、7番道路“リビエールライン”に沿って流れ、ショウヨウシティの北で西の大海に流れ込むことになる。
***
日没は20時ごろで、その頃に船内のレストランで夕食となった。
船内の豪華なレストランで、純白のテーブルクロスの敷かれたテーブルにリズとセラは向かい合って座っていた。
レストランには豪奢なシャンデリアがまばゆい光を放つ。
卓上にはリズを呆けさせる美しい早春の花々が飾られている。
燦然と輝くワイングラスやら銀器やらは規則正しく並べられている。
2人がボールから出して連れ歩いていたシシコとニャスパーは特別待遇を受け、背の高い椅子に座らされて2人と同じテーブルについていた。
セラは気取る様子も気後れする様子もなく、真白のナプキンをジーンズの膝の上に広げる。そして正面の席のリズに美しく微笑みかけた。
「緊張するか、リズ」
「……いや、そうでもねえけど」
「だろうな。お前のことだ、学界だとかフラダリ様の紹介だとかで、パーティーなんて日常茶飯事だったろうさ」
「……覚えてねえがな」
「ところで、もしかして私たちは周囲からはゲイカップルに見えてやしないだろうか?」
「…………気にしたら負けだ」
周囲のテーブルを見ても、このような洒落た運河クルーズに参加しているのはたいてい夫婦や恋人同士という男女のカップルだった。国外からの観光客ならまだ家族連れや同性の友達同士も多かったのだろうが、季節が季節だけに、カップルで休暇を取ってきた国内観光客が多かったのである。
食前酒と前菜が運ばれてくる。ハクダン産赤ワインと、ハムとパセリのゼリー寄せだった。
乾杯してから、おもむろに食事を開始する。
「ちなみにリズは、ポケモン肉は平気か?」
「……多分、大丈夫だっただろうな。あんな事を平然としでかす人間だったんだもんな、俺は」
「そうだな。私も、今も昔もポケモン肉に抵抗はない。あまりこういう公共の場では大きな声では話せないが、秋の狩猟解禁でとれたジビエなんかは好きだね」
「……カモネギとかケンホロウとかホルビーとかメブキジカとかイノムーとかな……」
「コウジンの名産になっているコダックのフォアグラは、さすがにあの肥育は少し可哀想だとは思うけど、美味いものは美味いから仕方がない。ノエルのメイン料理の定番になっているし。果ては世界三大珍味と持ち上げられちゃ、国としても引きようがないだろう」
前菜に使われているハムは、バネブーだった。
他のテーブルを見れば、肉や魚を拒否し野菜だけで作られた前菜を口にしている者たちも少なくはない。そうした者たちは肉を口にする人々を見ないふりして、一流シェフの手によるカロス料理を堪能していた。
リズの中に眠っていた知識が、はらりと紐解かれる。
「…………ポケモン畜産法がポケモン愛護法に優先することについて、法学会では長年激しい論戦が交わされてきた」
「らしいね。しょっちゅう訴訟にもなるし、よく聞く話だ」
セラは優雅に赤ワインのグラスを傾ける。
リズは香草と共にゼリー寄せにされたバネブーの肉を切り刻みながら、知識を辿る。
「……カロス地方は人権発祥の地だ。ポケモンの知能の高さが科学的に立証されるにつれ、ポケモンの権利を主張するポケモン愛護派の思想が台頭するのは当然の流れだった」
「そうだな」
「……だが、同様にカロス地方においては古代からポケモンを家畜として飼育しその血肉を利用する伝統が根付いている。ポケモン愛護派の主張は携帯獣愛護法となってカロスの法体系にも組み入れられたが、一方でカロスにおけるポケモン畜産業は聖域とされた。いやカロスだけじゃない、どの国だってそうだ」
「で、オリュザ先生のご見解は?」
「許容されるべきだ。なぜなら、一つには国内世論の動向、ポケモン畜産を許容する市民が今なお大多数を占めており、現実問題として現在の愛護法改正に至ることはないだろう。二つめに、ポケモン畜産業を制限することはカロス経済に計り知れない打撃を与えることになるからだ。三つめには、経済のみでなく、ポケモンの畜産を行うことによってカロスの生態系が保たれているという点も看過できない。また四つめには、仮に畜産を制限するにしても、その線引きの難しさが挙げられる、ミルタンクを殖やして乳を搾るだけ搾り取るのはなぜ許されるかという問題だ。さらに五つめ、国外からのポケモン肉の輸出入を制限するとなれば諸外国との軋轢は必至。次いで六つめ――」
「あ、うん、もういいぞリズ、声が大きくなりかかってるからな」
リズとしてはまだ自分の主張の根拠はあと十ほどは挙げられたのだが、セラに止められてすぐに口を噤むほどの理性はあった。
なかなかきわどい話題を口にしていたのだが、僅かに顔を顰めていたのは給仕係のみだった。幸い周囲の観光客はそれぞれのおしゃべりに夢中で、リズの話のせいで興を殺がれた様子は見られない。
落ち着き払って静かにナイフとフォークを皿の上に置き、リズはまたもや溜息をついた。
「あー…………俺は自分が怖い…………」
「私は好きだけどな」
「……あのねセラ。俺は、ポケモンは好きだ。死ぬためだけに生かされるポケモンが可哀想だとも思う。でも、俺はどうやら、ポケモンと人間の間に一線を引いているようだ……」
「私に言わせれば、お前は常にポケモン一般と人間一般というものを観念しているように思われるな」
セラもまた食器を置く。
「お前は自分の好みでものを語ることをしない。それはそうだ、自分の趣味を主張するのは学問ではないからだ。お前は普遍なる真理を探求しようとする根っからの学者だというだけだ」
「……アンタの言う通りだろうよ。俺はこの世界の意味不明さ、気に食わなさ、理不尽さが憎い。暴き立てて指弾して糾弾して全部ぶっ壊したいんだ」
「へえ。お前は、そういう……」
「ポケモンがいなくなれば、誰もポケモンを食わなくなるだろう? 俺も、食わなくて済むだろう? せっかく俺のために死んだ命だからだなんて訳の分からない理屈を自分の中でこねて自己矛盾に苦しまなくても済むだろう?」
リズはそう言って笑った。
自分がフレア団に加担した理由が、一部だけ分かった気がする。
セラは笑顔で頷いた。
「そうだな。お前が割と感情的な人間だということが分かって、私は新鮮な気分だ」
「……アンタ、俺の話聞いてた?」
「聞いていたよ。大丈夫さ」
リズ自身には何が大丈夫なのかよく分からなかった。
「じゃあ、アンタはポケモン食についてはどう考えてんだよ」
「私はポケモン肉は大歓迎だもの、今のままでいいさ。――なあリズ、肉にされるポケモンを少しでも減らしたいなら、お前は哀れなバネブーの命を無駄にしないようにするんじゃなくて、あちらのベジタリアンと同じに肉を拒否すべきじゃないのか。需要を減少させろよ。神の見えざる手によると、価格が下がって供給も減るんだろう?」
「……おいこの理系野郎、経済学勉強しろや」
「そうさせてもらうとするかな。お前がわかりやすい教科書を紹介してくれるのなら」
セラは楽しげだった。
ところが、2人が品のない話題により担当の給仕係の機嫌を損ねたため、その日の夕食はいやに冷めていた。
Chapitre2-1. 芽月のメイスイタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre1-3. 風月のフウジョタウン
2月下旬 フウジョタウン
猛烈な強風をものともせず、ファイアローとオンバーンは飛翔する。
どこまでも連なるなだらかな白銀の丘陵。
雪を蹴散らすグラエナとポチエナの群れ。
葉を落とした、密な針山のような森林。
農家のミルホッグが見張りをしている、白雪に覆われた葡萄畑、小麦畑、野菜畑。
ポニータの駆ける牧場。
石造りの小さな村。
コアルヒーの遊ぶ、紺碧に泡立つ土色の大河。
景色は流れる。
風はひどく冷たく、酷く強い。
点在する村の教会の祭壇から東の方角を確認しつつ、北東へ、北東へとファイアローとオンバーンを駆る。
冬空はただひたすらに灰色の曇天。雪でも降りそうだ。
草木は寒風に揉まれ、人の気配を示す石垣も寒々しい。
けれど時折、視界の端には村々の薄黄のミモザや、淡紅のアーモンドの花の色が閃く。
セラはオンバーンの背で姿勢を低くしながら、先行するファイアローとその背にしがみついているリズを見やった。
常に羽ばたき続けて高度を一定に保っているセラのオンバーンと異なり、リズのファイアローは羽ばたいて上昇しては翼を休めて滑空しというふうに、波のように常に上下に揺らめいていた。
滑空中は羽ばたく必要がないために体力が温存されるのかもしれないが、その背で揺られるリズは気分が悪くならないのだろうかとセラは思う。リズは伸ばしっぱなしの黒髪を風に吹き散らされながら、ファイアローの緋色の背中の羽毛にもっふり埋まっている。暖かそうだ。少し羨ましくなった。
前を行くファイアローの熱の恩恵には、セラのオンバーンも与っている。オンバーンは寒さを苦手とするから、ファイアローが風を作りしかも空気を温めてくれるとかなり体力が温存できるのだ。だからオンバーンはファイアローに競争心を煽られることもなく、楽な二番手を堅持しているのである。
行く手に、白銀の山嶺が見えてきた。フロストケイブを抱く北東の山脈だ。
頬に氷の破片がぶつかってくる。
「あと少しだ、メルクリウス。頑張ってくれ」
セラは鞄から手探りでヤチェの実を取り出すと、前方の宙に投げる。それをオンバーンが上手に顎で捉えた。これで氷雪を凌いでもらうしかない。
降り始めた雪の向こう、フウジョタウンの光は既に見えている。
18時頃だった。遥か背後に日が沈む。
***
フウジョタウンの中央広場にファイアローとオンバーンを折り立たせ、それぞれのトレーナーは疲労の溜まった飛行ポケモンをモンスターボールに休ませてやった。その足でポケモンセンターに入っていく。
空を飛んだ二体はバトルをして傷ついたわけではないから、回復機械にかけるほどの消耗具合ではない。ボールの中でゆっくりさせれば足りるだろう。
セラは受付で宿舎のツインルームの鍵を受け取ると、どこかぼんやりとしているリズを引き連れてエスカレーターに乗り、ポケモンセンターの階上へ向かった。
ポケモンセンターというのは不思議な施設だ。病院とホテル、レストラン、カフェ、図書館、役所、トレーニングジム等々が一体になったようなものだ。
農業と水運と観光を産業の基盤とするところのフウジョタウンも、立派なポケモンセンターを持っていた。
正面ホールは3階まで開放的な吹き抜けになっており、1階の受付のカウンターは広い。左右の明るく清潔なロビーでは低いテーブルとソファに数多くのトレーナー達が憩い、ポケスロンの様子を映す大画面のテレビの前は大人気で、また壁面に沿っては巨大な書架がずらりと立ち並びポケモンに関連する書籍が豊富に揃えられている。水ポケモンを放すためのプールもあるし、炎ポケモンを温めるための暖炉もある。奥には格闘ポケモンも満足の室内トレーニング施設が供えられているはずだ。
2階にはレストランやカフェやビストロやバー、フレンドリィショップ、人間のための診療所、各種行政手続きの窓口などもある。
そして3階から上は、ポケモントレーナーのための宿舎だ。
ホールにはポケモンの鳴き声が満ち、吹き抜けには空飛ぶポケモンがのびのびと飛び回っている。
「……ミアレのとあんま変わらないんだな」
「ポケモンセンターは都市の一等地を買い上げて建てられるから、敷地面積などによって構造を変える必要があまりないんだろう」
「でも朝起きた時、今どこの町にいるか分からなくなりそうだな」
「トレーナーを安心させるためだから仕方ない。ポケモンセンターは“どの町からでも帰れる家”である必要があるから」
ツインルームに入り、2人はひとまずそれぞれのベッドを見定めて荷物を置く。ベッドはけして上等とは言えないけれど、十分安眠はできそうだ。なにより部屋は乾いてしっかり暖められている。
とりあえず当面の宿に満足すると、セラはリズに笑いかけた。
「まだ十年くらい前じゃなかったか、ポケモン協会はカロス各地の立派な教会とか貴族の城館とかを壊して、近代的で巨大なポケモンセンターを大都市に造った」
「……そりゃ、さぞや反対の声もでかかったでしょうね」
「そう、景観保全や文化遺産保全などを理由として、ポケモンセンター建設反対運動はカロスじゅうで大規模な盛り上がりを見せた。けれど、それもいつの間にか封殺されてしまった」
「……おー怖い怖い。ミアレにプリズムタワー造った時と同じか?」
「まさしく。まあそのプリズムタワーも、万国博覧会後にミアレジムに接収されたわけだが」
「酷いオチだ」
「あの照明塔は今でこそミアレのシンボルになっているが、そんなところを預からされるジムリーダーにはむしろ心から同情するよ、私は」
言いつつセラは黒のジャケットを脱いでハンガーにかけ、クローゼットに収納した。それからモンスターボールからニャスパーを出し、そのふわふわの毛並みを楽しみつつそっと抱き上げる。
つられるようにリズもシシコをボールから出すが、こちらは膝の上に乗せたまま立とうとはしない。
「私はビストロで夕食にしてこようかな。リズはどうする?」
「……うーん、寝る」
「わかった。カーディガンは脱いでおけよ。Bonne nuit, Riz」
早くもシシコと共に横になっている友の肩をぽすぽすと軽く叩いてやって、セラはニャスパーと共に部屋を出た。
リズの記憶が戻らない。
セラのことを覚えていない。
今年の1月にミアレの病院で目覚めてから一ヶ月、リズはずっとこの調子だ。昔のように面白おかしく冗談は口にするものの、ぼんやりとしている時間帯が多い。一日の半分ほどを睡眠に費やすのも、かつては三日に一度しか眠らなくても怒涛の勢いで論文を生産していた彼を思えば、異常でしかない。記憶障害の副作用なのだろうか。
ビストロでニャスパーと一緒に肉と白インゲンの煮込みとバゲット、赤ワインという夕食をとりながら、セラはうっかり頭を抱えた。
うーんと唸りつつ地元産のワインをあおって、セラは考えるのをやめた。
――リズを信じるしかない。刺激はいくらでもあるのだし、一つずつ反応を試してみればいい。
ポケモンセンターの宿舎の、ガラス窓の向こう。
蒲公英の綿毛のような雪が、風に煽られて舞い飛んでいる。
風車のある石造りのフウジョの街並みは、フラスコ画のようだった。
朝の8時ごろだろうか、ようやく山脈の向こうで冬の太陽が昇り始めたような気配がある。
薄暗い朝の部屋の中。
ニャスパーが耳の傍で微かに、みうと鳴く。
うつ伏せに眠っていたセラは、枕元にリズがぼんやりと突っ立っていることに気付いてびくりとした。ちなみに2人とも寝起きのため下着くらいしか身に着けていない――多くのカロスの人間は冬ですら寝るときにほとんど服を着ないものだ。
「うわ。どうしたリズ、目覚めのキスでもしてくれるのか?」
「目が……覚めたんで……」
「なるほど。いいぞ、ほら来いよ。私の頬はいつでも空いている」
セラが上体を起こして右頬を差し出すと、リズの人差し指がぶすりと刺さった。
「リズ、それはキスとは言わない」
「なんかモモンの実みたいだと思ってつい」
「お前はモモンを見たら指先で押すのか。あれはつついたところから腐り出すんだ、まったく迷惑極まりないなお前は。金輪際、果物屋には近づいてくれるなよ」
金茶色の瞳を瞬いているリズを、セラはベッドに腰かけたまま見上げる。
リズはぼんやりとセラを見下ろしてきている。パンツ一丁で。友人とはいえ、そしてセラも同じ格好とはいえ、なかなか衝撃的な目覚めだ。
とりあえず見つめ合ってみた。パンツ一丁で。
「どうした。何か思い出したか、リズ?」
「…………ずっと前にも、アンタとここに来たということは……思い出した」
「そうだな。……ずっと前にも、お前は私のベッドに――」
「……そしておもむろにアンタは意味深な手招きをし――」
「一夜の過ちを捏造するな」
「あー怒られた。アンタが先に悪乗りしたのに、怒られた。………………思い出せない。俺たちはここで何をした?」
リズが力なく苦笑している。
その目が混乱に陥っているのを見て取って、セラはあーあと首を振った。
「推理してごらん。私に聞くまでもなく分かるはずだ。この街のことを調べれば」
「アンタに訊いた方が早いのに」
「私は教えたくないな、お前が苦しむ姿をもっと見ていたい」
「俺はアンタが愉悦に浸っている姿を見たくない」
「朝から私の笑顔が拝めるなんて最高だろう? さて、ブーランジェリーで朝のバゲットでも買ってこよう」
セラは立ち上がって大きく伸びをすると、未だにぼんやりとしているリズを振り返って笑った。
「ほら何をぼさっと突っ立ってるリズ、服を着ろ。それとも目覚めのキスをご所望か?」
ヒャッコクシティ方面から流れてきた河と、南のチャンピオンロード方面から流れてきた河の合流地点にフウジョタウンは作られている。
この地は水はけのよいケスタ地形で、葡萄の栽培が盛んである。スパークリングワインが特に有名だ。
また北側に広がる針葉樹林が北風と霜を防ぎ、二つの河のもたらす湿度が寒さを中和し、さらには石灰岩まじりの泥土が広がる――という恵まれた環境が、穀物や野菜を育てる。中世から大規模農業が続けられてきた、フウジョはカロスの誇る一大農業都市だ。そうした豊富な農産物は水運によってカロス各地に運ばれている。
雪の降る中、ニャスパーを抱えたセラとシシコを担いだリズは傘もささずに、焼き立てのパンのにおいを辿ってフウジョの街を歩く。
街そのものは大きくはない。広場から少し歩けば、合流する二つの大河と、雪に覆われた田園風景が見られる。畑には枯木のような背の低い葡萄の木が並んで、綿雪を浴びてしんと静まり返っていた。
地元の人々に立ち混じって焼きたてのバゲットを二つ買い求め、むき出しのまま手に取り持って帰る。
雪と寒風の中、香ばしいバゲットの端を齧りながらセラとリズは並んで歩いた。石畳は凍って滑りやすくなっているので、足元に注意しながら。シシコとニャスパーにもそれぞれのバゲットの反対側の端を齧らせてやる。
「……かたいな」
「リズ、本格的に頭は大丈夫か? ……これで殴れば、正気も記憶も取り戻すのか?」
「やめとけ、セラ。アンタが傷害罪で起訴されるところは俺も見たくない」
「お前はヘタレだな」
「むしろイケメンじゃなかったか、今のは」
「私をダシにして己の身を守ろうという浅薄さが気に入らなかった」
「ああ言えばこう言う……」
二人仲良く並んでバゲットの端を齧りつつ、雪の残る畑の傍の道を歩く。
そして道端に早春のミモザの黄色い花を目に止め、リズが立ち止まった。もくもくとバゲットを齧りながら。
「どうした?」
「……綺麗だな」
言いつつリズはバゲットを口にくわえると、のんびりとミモザの木に寄っていった。ベルトから銀の花切鋏を取り出し、いとも自然な動作で黄金の花束を手の中に生み出す。慣れた手つきだった。
セラは溜息をついた。
「相変わらず、だな」
「……ひえいあああああ」
「そうだな、綺麗な花だな」
「……ん」
リズとシシコはバゲットを咀嚼しつつ、手の中のミモザの花にじいと見入っている。ほのかな甘い早春の香りを嗅ぎ取り、目を閉じる。
その時、近くでグラエナの吠え声が聞こえた。
雪を蹴る音。
また、何かのポケモンの、喉を引き絞るような悲鳴。
リズとセラはバゲットから口を離さないまま、ちらりと視線を交わす。
「……こんな人里近くで、グラエナか。遠吠えは聞こえなかったよな。物騒な……」
「ミルホッグぽかったな、今の鳴き声は。ちなみにミルホッグといえばフウジョ辺りには、農家が農作物を野生ポケモンから守るために、ミルホッグを畑の見張りに立てるという伝統がある」
セラが知識を披露すると、リズはバゲットを食いちぎった。つまみ食いのつもりが、すでに半分ほどをそのまま食べてしまっている。たまたま立ち寄ったブーランジェリーだったが、かなりの当たりだった。次は焼きたてのクロワッサンなど買ってみたいところだ。
「……つまり、野生のグラエナに、農家のミルホッグが襲われた、と」
「十中八九そうだろう」
「……グラエナが農家を襲ってまで、農作物を奪いに来たわけか? 秋まき小麦の芽でも狙っているのか? グラエナが?」
「いやむしろ、ミルホッグそのものが獲物だった可能性の方が高いだろうさ」
セラが意見を述べる。
バゲットをもぐもぐやりつつも、リズの金茶の瞳が思案に沈む。手の中のミモザの花を見つめる。
「……フウジョ付近に生息するグラエナは、冬季は一般的には、野生のミネズミやウリムーを群れで襲い食す……らしい」
「そうなのか。ミネズミの匂いがしたからミルホッグが狙われたんだろうか」
「だがグラエナは賢い、人が飼うポケモンを襲うことは滅多にしない。最近のグラエナはポケモントレーナーの脅威を群れの内部に伝達しているから、人間を避けるようになっている。……にもかかわらず今、農家のミルホッグを襲ったわけだ……」
「ちなみにだ、リズ。人の所有権の及ぶポケモンが危害にさらされている場合、それを察知できたトレーナーにはそれを救助する義務があるということを知ってるか?」
「……トレーナー法第23条第1項だろう、新人トレーナーでも知っている。当該条項に定められた義務の履行を怠ったトレーナーには1万円以下の罰金の支払いが命じられる。善意無過失の証明責任はトレーナー側に存するが、その証明は一般に非常に困難だ。――で、アンタは俺を誰だと思ってるんだ、セラ」
リズは鼻を鳴らした。これでもミアレ第一大学の法学者なのだ。
「……リズは、リズだな」
セラもくすりと笑った。
2人はグラエナの遠吠えと、ミルホッグの悲鳴の聞こえてきた方角を見やった。雪が舞い上がっている。
グラエナは複数いるようだ。
セラとリズはモンスターボールをそれぞれ一つずつ、開く。
「行こうか、マルス」
「……頼む、クローリス」
セラはギルガルドを、リズは赤い花のフラージェスを繰り出した。
セラのよく通る声が響く。
「マルス、“影討ち”で先手を取れ。“聖なる剣”でグラエナを追い払え」
盾を構えていたギルガルドが抜身の状態になり、盾を振り回す勢いで自らの刀身でグラエナに斬りかかっていく。
「クローリス、“ムーンフォース”」
リズの半ば直感に基づく指示に、フラージェスは素直に従った。ごく当然のように、むしろどこか嬉々として。
深紅の花弁を揺らしながら、眩い光を放つ。
唐突に割り込んできた第三者の攻撃をさばけるほど、その野生のグラエナの群れは経験を積んでいなかった。群れの連携を乱され、統率を失って逃げ回る。
グラエナの群れの集中攻撃を受けていた農家のミルホッグは、ぐったりとはしているがどうやら瀕死で済んだらしい。早めにポケモンセンターに連れていけば問題なく回復するだろう。
騎士の如きギルガルドと女帝の如きフラージェスの優雅な戦いぶりを、2人は畑の傍の道路でバゲットを齧りつつのんびり眺めていた。
「リズ、思い出したか?」
「何をだ?」
「お前と私で、光の石と闇の石を交換したな。それでフラエッテだったお前のクローリスと、ニダンギルだった私のマルスが進化したんだ」
「そんなこともあったっけな。……その、すごく……と、友達っぽいな……」
「そこは照れるんだな」
もぐもぐ。2人とも、シシコとニャスパーにも齧らせているにしても、今朝買ったばかりのバゲットを既に3分の2ほど消費してしまっている。もぐもぐもぐもぐ。
「そ、れは置いといて……セラ、なんでグラエナが農家のミルホッグを襲ったんだとアンタは考えてる?」
「さて。ところで、フウジョ付近のグラエナの最大の天敵って、マンムーじゃないか? もちろんマンムーは草食だけど、グラエナが獲物のウリムーを襲撃した際、往々にしてその仲間のマンムーに返り討ちにされることってあるよな」
それだけ答えを与えておいて、セラは相手の反応を窺う。
リズはバゲットから口を離した。顎の動きが止まる。
ギルガルドとフラージェスはグラエナの群れを追い払い終えて、倒れたミルホッグの傍で2人の指示を待っている。
リズの表情が緩やかに変わっていく。
「…………マンムーが減ったのか…………?」
その金茶色の瞳が翳るのを、セラは満足げに見ていた。
「当たり」
「ウリムーを守る大人のマンムーがいなくなったから、グラエナがウリムーを食い尽くしたんだ。そして去年はグラエナが増えて……それで獲物が足りなくなったのか……それで人のポケモンを襲うようになった? …………いや、何か違う?」
セラはますます笑った。
「思い出したか?」
リズは手の中のミモザの花に視線を落とした。
「…………ああ……ちょうど一年前、このフウジョで……マンムーを狩ったのは俺たちだったな」
その時もリズはこのミモザの花を美しいと嘆じ、切り取った。それを記憶の引き金に、2月の記憶が蘇る。
「…………10番道路の列石に繋ぐ生贄にしたんだ」
***
2月は末でも、雪は深かった。
早朝、空はまだ深夜のように暗い。
フロストケイブに通ずる雪道、一面に雪化粧を施されたモミやトウヒの針葉樹林、その中の小さな空き地。
五頭の野生のマンムーが倒れていた。
白衣を身に纏った科学者――ケラススが、瀕死のマンムーを一頭ずつハイパーボールに押し込めていく。無表情だった。機械的な作業だった。
が、その銀紫の瞳の色から、苛立っていることをオリュザは見抜く。
オリュザは全身を黒いスーツに身を包んでいた。その手の中には、摘んだばかりの黄金色のミモザの花束。つい先ほどフウジョの街の道端で見つけて、その美しさに心奪われ、ついついお気に入りの花切鋏で切ってきてしまったのだ。
ミモザの花の甘い香りを楽しみながら、オリュザはのんびりとケラススに声をかけた。
「おい、また捕獲率の曲線とやらが想定と違ったのか?」
「……やはり非自発的情動モデルの限界か、だがそうなると性質固定理論との整合性がとれなくなる、やはり特防の法則が、いや成長曲線との均衡点が右方にシフトすることによってまた抵抗値が下がるということか、しかしその場合には次元効率との対応の説明がつかない、ここで以前の母集団平均の検定結果を参照すると、……ああそうだ駄目だ棄却だ棄却駄目だ駄目駄目駄目じゃあいちど個性変数を固定して」
「そうか、俺には理数系はよく分からんが。ポケモンを対象とした実験については、携帯獣愛護法第52条においてポケモンに過重な負担を課してはならないということが定められているが、俺の解釈によると、我が国の憲法においてポケモンはカロスの発展に寄与すべしとされていることと、ベトベター解剖事件の最高裁判例との整合性を鑑みるに、まず当条項におけるポケモンの過重な負担というものの定義は」
そこでオリュザは口を噤んだ。
ケラススが、自らの腕にヒトツキの青布の部分を巻き付けている。
憑りつかれたように白衣の科学者はヒトツキの刀身を振り上げ、一体だけボールに収納されずにいた瀕死のマンムーに向かって容赦なく振り下ろした。
オリュザはその背後で片眉を上げる。
「……何をしている、理論家。それ以上は携帯獣愛護法第6条に抵触する恐れがあるが」
「黙れ、夢想家。私はいま標本収集と測定に忙しい、抵抗理論の修正が迫られている……」
三度切り付け、ケラススはこともなげにヒトツキの青布を腕から引きはがすと、深く傷ついたその不運なマンムーをハイパーボールに収めた。元よりそのマンムーに抵抗する力など微塵も残されていないだろうとオリュザは思うのだが、すっかりおとなしくなったボールを手に、ケラススはご満悦のようだった。
「そうだろうな。そうだろうさ。わかっていたことだ。つまらないな」
「アンタが楽しそうでよかったよ……いっちょ景気づけに踊るか? うちのクローリスが花吹雪してくれるってよ」
オリュザは、傍らに浮遊している自分のフラベベを見やった。血色の花にしがみついている小さなフラベベは、先ほどから血の雫のような花弁を撒き散らしながらくるくるくるくるくるくると同じところを何度も回っている。
はてフラベベの頭は大丈夫だろうかとオリュザが首を傾げているところに、ヒトツキの柄を片手で握ったままのケラススの冷笑が浴びせられる。
「お前はポケモンが傷つけられても、ずいぶん平然としているんだな」
「そりゃアンタな、人間がポケモンのために生きてどうするよ。アンタだって同じだろ。どうせこのマンムーどもも生体エネルギーを吸い尽くされて死ぬんだろう、別に今さらどうも思いやしねえよ」
「お前は、ポケモンの権利は否定派か」
「そうだな。むしろポケモンは世界から絶滅させるべきだとも思うしな。ポケモンがいなければ戦争の犠牲者は9割方減るだろうよ。俺は平和主義者なんだ」
オリュザは手の中のミモザの花束を掲げ、肩をすくめてみせる。
ケラススは鼻で笑う。
雪もミモザの花もヒトツキもフラベベも、仲間のマンムーを助けようとして逆に命を奪われたものたちで赤く汚れていた。
そのにおいを嗅ぎつけたグラエナの群れの遠吠えが、近くなっている。
Chapitre1-3. 風月のフウジョタウン END
草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre1-2. 雨月のミアレシティ
1月下旬 ミアレシティ
――カロスを守ったポケモントレーナーたち、そして新しいチャンピオンのため、多くの人がミアレシティに押し寄せた。
凍て空の下。
メディオプラザ、そしてそこから北西の方角にかけては凄まじい人だかりだった。
冬の分厚い雲の切れ間から黄金の斜陽が差し込んで、ノエルの名残りのあるミアレの白石の街並みを栄光の色に染め上げている。街頭にはカロスエンブレムの縫い取りをされた旗が無数に閃き、祝福の紙吹雪が寒風に舞い、色とりどりの風船が氷空に上がる。
絢爛豪華なファンファーレと熱狂的な歓声の渦の中。
通りに敷かれた深紅の絨毯の上を、五人の子供たちが悠々と歩いてゆく。
ローズ広場から、ミアレを貫く河を西北西へ下り、未来を象徴する新ゲートへと。
そこではカロスのポケモン研究者を代表するプラターヌとその助手二名が、五人の子供たちを待ち受けている。
そう、これはパレードだ。
リズは相棒のシシコを膝の上に抱えて、傍らでニャスパーを抱えているセラと共に、そんなパレードの狂乱ぶりを見下ろしていた。
ミアレの中心広場にそびえ立つプリズムタワーの頂上から。
無数の七色の風船が西風にあおられ、ローズ広場の方角から2人のいるプリズムタワーの方まで流れてきていた。――この大量の風船はきっと、ミアレシティの東部でゴミになる。しかし誰も構いはしない。近代には既に、都市内の工場の煙が流れ込むミアレ東部は貧民街と設定されており、その名残でか現代もミアレ東部には貧しい移民しか住まない。早朝の街のゴミ集めはもっぱら移民の仕事だ。だから、効率のいい事この上ないのだ。
幾万の風船が風に吹き流されるその光景はまるで、夕暮れに漂うフワンテの群れのようだった。何かが連れ去られるような。弔われる魂のような。野辺の煙のような。
押し寄せる観衆の熱狂。
歓迎される幼い英雄たち。
年越しの残りのフウジョ産シャンパンのボトルが、あちこちで勢いよく開けられる爆音。
空を飛び交う、飛行ポケモンやドラゴンポケモンに騎乗した、見物のトレーナー達。
テレビ局や新聞社のヘリコプターの轟音。
それらに追い散らされ羽ばたくヤヤコマの、火の粉のような羽毛の煌めき。
遠いファンファーレ。
警戒に当たる黒い制服の警官たち。
微かにスピーカーに乗って聞こえる、遠いプラターヌの声。
酔狂どもの宴。
黄金の斜陽、白銀の曇天。
リズとセラは、それらすべてをプリズムタワーの天辺から見下ろしていた。
「…………終わったんだな…………」
叩き付ける厳冬の風の中、片膝を抱えたリズがぼやく。懐でまったりしているシシコの耳の後ろを掻いてやりながら。
「そう、終わった。でも私たちの日常は続いていく」
その隣で膝の上にニャスパーを乗せ、ぷらぷらと足を蹴り上げていたセラが、冷然とした笑顔を崩さないまま相槌を打つ。
「フレア団の理想も、儚い徒花に過ぎなかったというだけだ」
「五人のガキに踏みにじられた、さしずめ道端の雑草ってとこか……」
「“たった五人の子供”という点を執拗に強調しているのは、あの純粋無垢な子供たちを神格化したがっている政府やポケモンリーグやマスコミのプロパガンダに過ぎないが。――実際には無名の人々による無数の工作があったんだろう。はてさて、その仕事料と口止め料のカネは、どこの誰が出したものやら」
「どうせ、あっこでふんぞり返ってる大博士でしょうよ……」
「プラターヌか。あの優男にそんな力があったとはね、いやはや昨今の高名なポケモン学者の政治力にはまったく恐れ入る」
セラは短く切り整えられた白髪を風に揺らしながら、どこか楽しげにそう囁いた。その灰色の指先は、ニャスパーのやわらかい胸毛をを絶えずふにふにと弄んでいる。ニャスパーは眼を閉じ、くるくると微かに喉を鳴らす。
シシコが伸びをし、毛づくろいを始めた。そこにニャスパーが飛びかかり、そのまま二つの毛玉はじゃれ合い始める。
リズは溜息をついた。セラの話にまったく現実味が感じられなかった。
横目でリズを一瞥したセラは、苦笑した。
「本当に忘れてるんだな、リズ…………」
リズは肩をすくめた。
「ごめんね?」
「忘れたものは仕方ないさ。思い出していけばいいだけだ」
セラは拗ねているわけでも、残念がるでも面白がるでもなかった。ただ淡々と、その視線の先をパレードに固定させたまま。
そのセラのことすら、リズは覚えていないのだ。
「リズもといオリュザ・メランクトーンは、フレア団のせいで、全人生の記憶が消えてしまった」
「……はい、仰る通りです。だから、それを自業自得って言われてもピンと来ない」
「冤罪をなすりつけられているとしか思えないか?」
「そ。だから、これは陰謀だー。アンタも俺を嵌めようとしてるんだー」
リズは伸ばしっぱなしの黒髪を強風に吹き散らされながら、諸手を挙げて大欠伸をする。
シシコも、つられて大欠伸をした。
それにつられて、ニャスパーが欠伸をする。
さらに、セラもつられて欠伸をした。目を擦りながらゆったりと笑う。
「そう言われるのは心外だな。ミアレ第一大学の学術リポジトリを見てみるか? 文責がオリュザ・メランクトーンの、フレア団の思想の正当化を試みた論文が腐るほど出てくるぞ」
「マジか。誰だ、そんなことをしくさった不届き者は」
「お前だよ」
***
昨年の、とある晩秋の日。まだ今から二ヶ月くらい前のこと。
フレア団は壊滅した。
追い詰められたフレア団のボスのフラダリは、エネルギーの装填が不完全な最終兵器を起動させた。その結果、最終兵器もろともフレア団の秘密基地とセキタイタウンを破壊し、自らを含む多くのフレア団員を死傷させた。フラダリの消息は依然として不明である。
フラダリが最後の悪足掻きで最終兵器を動かしたせいで、当時そのセキタイのフレア団秘密基地にいたリズも、地中に生き埋めにされた。
リズは昏睡状態で救助され、やがて病院で意識を取り戻したものの、その時には既にこれまでの全人生の記憶を失ってしまっていた――というわけである。
リズは覚えていない。――自分がフレア団の一員として、何をしていたのか。自分がフレア団に何を求めていたのか。最終兵器が起動した日、フレア団が壊滅した晩秋の日のことも、まったく覚えていない。
そしてフレア団での同僚だったという、セラの事すら、今のリズの記憶には残っていなかった。
気づいたらリズは病院にいて、傍にはセラと、ポケモンたちだけがいた。
吹き荒れる冬の風の中、無表情でパレードを眺めるリズの側頭部を、セラの灰色の指先がつついてくる。
「いつまでも冤罪をかぶせられた被害者面をしているわけにはいかないだろう。なに、私だってお前と傷の舐め合いをしたいわけじゃない。私はただ、お前に思い出してほしいんだ。――私のことを」
「なんで? 俺はアンタにプロポーズでもしたわけ?」
「……酷いなリズ、本当に忘れたのか……愛してるって言ったくせに……」
「マジで? PACS契約申請しなきゃな。で、出産予定日はいつだ、セラ?」
すると、ニャスパーを撫でていたセラはとうとう噴き出した。背を丸め、口元に片手を当ててくつくつと笑い転げる。
「…………や、やっぱり、お前は変わらないな、リズ……」
「体は大事にしろよ、俺の子猫ちゃん」
「悪い。許してくれ。誓って私は男だし、お前とそういう関係になったことも一度もない。つまり妊娠の余地は無い」
「“セラ”なんて完全に女の名前なのにな」
「ちなみに、私のケラスス・アルビノウァーヌスという本名からセラという呼び名をつけたのは、他でもないお前だ」
「マジか。セラね、ケラススより数億倍は良い名前じゃん。よかったな」
「おま……何をぬけぬけと……」
セラはひとしきり、鉄骨の縁で腹を抱えてぷるぷる震えていた。うっかりプリズムタワーの頂上から転落しないか、ニャスパーが瞬き一つせずにセラを見守っている。
毛づくろいに勤しむシシコを抱えていたリズは、真顔を張り付けたままセラを観察していた。この感覚には覚えがある。――たしか、自分はこんな風にセラを笑わせるのが好きだったような。たぶん、ごく普通に仲の良い友達だったのだと思う。
その事故の起きた晩秋の日までは。
ごうごうと風が渦巻いている。
***
破壊の炎は潰えた。
さながら、灯火が凍てつく冬の大風に吹き飛ばされるように、呆気なくかき消えた。
五人の若き勇者たちの手で、悪は滅ぼされた。
この新年のパレードは、その勇者たちの功績を讃えるもの。そして利己的なテロリストを冷酷に断罪するものだ。
カロスじゅうを席巻した文明の利器・ホロキャスターを生み出したフラダリラボは、テロリストの温床だった。
フラダリラボの代表がまさにその首謀者であったという事実は、カロス地方を震撼させた。
と同時に、鮮やかな掌返しがあちらこちらで見られた。
政府も、ポケモンリーグも、経済界も、マスコミも、フラダリラボのこき下ろしに躍起になった。
実に鮮やかな手際だった。
全員、共犯者だったくせに。――とセラは笑っていた。
政府もポケモン協会も経済界もマスコミも、暗黙の了解とでもいうのか、互いに互いのフレア団とのつながりを告発するようなことはなかった。そんなことをすればカロス地方はお終いだからだ。もちろん、カロス地方の人々のことを考えたわけではなく、誰も彼もが自らの保身を第一に考えて最適行動を選択した結果に過ぎないのだろうけれど。
そんな政治と経済と報道の全員一致の協力により作り上げられた、その中で最も目を引く催し物が、この“パレード”なのである。
五人の子供たちを英雄化する。
フレア団を絶対的な悪とする。
フラダリラボに便宜を図っていた政治も経済も報道も、全責任をフレア団に転嫁する。
世間の批判の目を、フレア団だけに向けさせる。
そのためのパレードだ。
警察もメディアも、リズやセラに見向きもしない。
フレア団がカロスの社会に根付いているということを一般市民に認識させたくないのだろう、とセラは言う。
この盛大なパレードで区切りをつけて、それきりフレア団の記憶を風化させて、政治や経済や報道の後ろ暗い部分を探られないようにしようという魂胆なのだろう。
そうして、フレア団は忘れられていく。
フレア団の理想を描いてみせた思想家も、フレア団の技術を生み出した科学者も、誰しもの記憶から消えていく。
「世間から忘れ去られるのはむしろ好都合だが、お前にまで忘れられるのはおかしいだろう。だから早く私を思い出せ、リズ……そして一緒に恥かいて泣こう。それが今の私の望みだ」
セラはそんなことを言いつつ、脇に置いていた紙袋の中からがさごそと何かを取り出している。
不意に漂ってきた甘い香りに、リズは身を引いた。
「……待て、なんだそれは」
「え、ガレット・デ・ロワだろう? 今年に入ってから何個目だと思ってるんだ?」
「それはこっちの台詞だ。今年に入ってから何個目だと思ってるんだ」
ガレット・デ・ロワは新年を祝うためのカロスの伝統菓子で、ミアレで見られるのはアーモンドクリームを挟んだパイ生地の丸いケーキである。年明けからカロスじゅうのブーランジェリーやパティスリーで見られるようになるが、セラがこれをいそいそと紙袋から取り出すのをリズが目にするのは、年明けに病院で意識を回復してから実に5度目だった。
ひと月足らずで、もう5個目だ。
「今回はおしゃれな月桂樹の模様のにしてみた」
「見れば分かるわ」
その直径は20cmはある。確実にリズの分もある。
げんなりしつつ、リズはガレット・デ・ロワから視線を逸らした。
「……さてはアンタ、俺を肥育して肝臓をフォアグラにして食っちまおうってハラだな」
「人を食人鬼みたいに」
「説明がつかねぇだろ。俺とアンタって、そんなに仲良い……と、友達、だったのか?」
「なぜそこでどもる。さてはお前、友達いないだろう」
言いつつセラはニャスパーにガレット・デ・ロワを念力で四つに割らせている。パイ生地は崩れないし、クリームは少しもはみ出なかった。見事な合同形の90度の扇形のケーキが2人と2匹に分け与えられる。リズとシシコと、セラとニャスパーと。
さっそくガレットに豪快に食いつき、一口飲み込むと、セラはからかう調子で言葉を継いだ。
「そうだな、私たちは友達だった。一緒に食事をしたり、噛み合わない会話をしたりする程度には仲が良かった」
「お、おお……友達だな」
「友達が困っていたら助けるのは当然だ。とりあえず今はそういう事にしておこう」
「含みのある言い方が気になるんだけど」
「色々あるんだよ。でもそれもお前が思い出してくれないと意味がないんだ。察しろ」
無茶を言い放ち、セラはもさもさと甘いパイを飲み込んでいる。
リズは深く溜息をついてみた。――つまり、セラが自分を助けてくれる理由も思い出せという事か。
そこでセラは、素敵な玩具でも見つけた子供のように華やいだ声を上げた。
「見ろリズ、やっと私が当たりだ」
その灰色の指先がパイ生地の中から、陶器製の小さなサーナイトの人形を取り出す。フェーヴと呼ばれる、ガレット・デ・ロワの中に一つだけ仕込まれているくじのようなものだ。様々なデザインのものがあるが、今回はたまたまサーナイトだった。
アーモンドクリームのたっぷりくっついた精巧な人形を、リズは隣から凝視する。
「背徳的な気分になるのはなぜだろうか……」
「お前の心が汚れているせいだ。マダム・カルネのメガサーナイトに滅されてこい」
そう笑いつつセラは銀紫の瞳を細めて、フェーヴを西の空にかざした。
「今年はいいことがあるだろう」
「俺はもう既に4つフェーヴ当てたがな」
「ならお前は、私の四倍の幸福に恵まれるだろうよ。おめでとう。きっとその中で私のことも思い出してくれるだろうね」
「アンタの俺への熱い想いに、感動とドン引きを通り越して恐怖を覚える。マジでどんな関係だったんだろう、俺ら……」
甘いケーキを咀嚼する。薄く苦い思考が強引にとろかされていく。
リズとセラはフレア団での同僚だった、という。そして信頼し合う友人同士であった、らしい。でなければ、記憶喪失になったリズをセラがこうまで熱心に面倒を見てくれることの説明がつかない、はずだ。
なのにリズはセラのことを忘れてしまった。
「…………アンタのことを思い出さないと、なんか死ぬより酷い目に遭いそうな気がするんだ」
「終いにゃオーベムを捕まえてきてお前の脳みそいじってでも思い出させるよ」
「……なんで俺はこんな物騒な奴と組んでたんだろうな……」
「私の方が聞きたいな」
セラは銀紫の瞳を細め、風の中で笑っている。
その優雅な横顔から視線を外し、リズは唇を舐めた。鼻を鳴らす。
「………………ド甘いな」
「カフェに寄って茶でも飲むか?」
「そうだな、いいかげん寒い」
「明日もソルドを見たいな。旅の用意をしよう……あちこち回れば、きっとお前も思い出す」
そうだな、とリズも頷いた。今のリズの行動の重大な指針はセラなのだから、従う以外の選択肢が存在しない。
年明けのカロスでは、ソルドと呼ばれる年に二度しかない大安売りが行われている。古い在庫商品が安くで売られるため、高価なブランド物などが特に人気で、毎回カロスじゅうのお洒落好きがデパートに押しかけることになる。
今日の昼間だって、リズはセラに連れられ、ミアレのソルドを見て回った。
そこでリズが買ったものは、ブランド物などではなく、ただの――花切鋏だった。
なぜそれを買おうと思ったのかは、わからない。
ただリズはその花切鋏を見た時、自分はこれを手にし、季節の美しい花々を切り取り、手の中に収めたり花瓶に挿したりして楽しんでいた、それだけが鮮烈に思い出されたのだ。それがリズの最初に取り戻した“自分”だった。
手に取ればますますしっくり来て、リズはそれをこっそり買ってしまったのだ。
今この時も、銀色の花切鋏の持ち手を右手で握っていると、ひどく心が安らぐ。
美しいものを手に入れたい。
自然のない街中でなく、カロスの美しい野原や森へ出かけていきたい。きっと季節ごとに美しい花が咲いているだろう。その花々を摘み取って手中に収めたい。
その感覚が、記憶を失った今のリズの数少ない拠り所の一つなのだった。
セラと、花切鋏だけが、今のリズの心を動かす。
雨の降りそうな厳冬の曇天の下、プリズムタワーの天辺でパレードを眺めながら、リズは右手で手慰みに鋏を弄んでいた。
「じゃあ行こうか」
そう言ってニャスパーを抱えたセラが軽い動作で立ち上がるので、シシコを肩に担ぎ上げたリズものんびりとそれに倣い、大通りを見下ろしつつ立ち上がる――花切鋏を手にしたまま。
ぽん、と右肩を叩かれた。
振り返ると、リズは、セラに右手を掴まれていた。
手にしていた花切鋏を、奪われそうになっていた。
「え? アンタ、何を――」
驚いてセラと押し合いになりかけ、あ、と思った時には、リズは足を滑らせていた。
プリズムタワーから落ち、た。
背中から、墜落する。
その時、プリズムタワーが点灯した。
ばつん、と大きな音がした。
日没に合わせて照明塔全体が銀色に発光すると同時に、五色の光がきらきらと眩く点滅する――のを、プリズムタワーの頂から突き落とされたリズは見ている。
ダイヤモンドフラッシュだ、などと、シシコを抱きしめ、花切鋏を右手に握りしめ、落下しながら呑気に思う。
間髪入れず、ニャスパーを抱えたセラもまた鉄塔から飛び降りている。
はて、無理心中であろうか。
パレードの行われている大通りも、遥かに広がる光の都ミアレの街並みも、街灯が点され光の河となっている。
ノエルの名残りのイルミネーションが街を彩っている。
街路樹は黒い針のような枝をさらして寒々としているけれど、叩き付ける強風は肺まで凍らせるけれど、その輝く街はまるで雲の上の星空を丸ごと地上にうつしたような、幻想的な光景で。
かつてリズとセラがフレア団の一員として壊そうとした光景だ。
きっと何かが憎くて、壊そうとしたのだ。だからこの美しさには、きっと裏がある。
しかし、2人にはそれを壊せなかったのだ。それにも何か、理由があったはずで。
リズがそれを忘れているだけで。
リズの左手は自然と動いた。腰のベルト、後ろから二番目の位置のモンスターボールを一つ手に取る。セラの無理心中に素直に付き合ってやるほどお人好しではない。ロックを解除し開放する。
「ヘスティア」
直感と寸分違わず、ファイアローが現れる。
赤く燃え盛る翼が、煌めくプリズムタワーと夜の境界を焼き尽くす。疾風の翼を持つ烈火ポケモンの背に抱き止められ、リズはその自由に飛翔するに委ねた。
同じく落下したセラなど心配にも及ばない。無音だ。が、おそらくセラの手持ちのオンバーンの背で安穏としていることだろう。かすかに残っていたリズの記憶の残滓がそう告げる。
おそらく、セラとしてもちょっとしたショック療法のつもりだったのだろう。セラなりのお茶目だ。残念ながら、プリズムタワーの天辺から落ちたくらいでは、リズの記憶が戻るほどの大した刺激にはならないらしいのだが。
ファイアローとオンバーンの翼が冬風を縫う。
ダイヤモンドフラッシュを起こす、鉄とガラスの五角柱。
黄金や虹色の電飾に飾られた、枝ばかりのプラタナスやマロニエの並木。
白い石造りの7階建てのアパルトマン群。
青鈍色の屋根。
ぼこぼことキノコのように突き出た茶色い煙突。
閃くカロスエンブレムの旗。
広場の人だかり。
通りの影。
石畳。
色々な人の顔。
暗雲と幽かな金の残照。
リズはファイアローの背から見ていた。
オンバーンの背にあるセラと視線が交錯する。ふと、彼に微笑まれた。どこか寂しげに。
思い出せたらいいな、とリズは花切鋏を握りしめ、呑気に思った。
唯一の知り合いであるセラに、あまり寂しそうな表情はさせたくない。
Chapitre1-2. 雨月のミアレシティ END
※警告※
案件文書#83550のアーカイブからのデコード時に、一部のデータが欠落しました。欠落箇所は [データ破損] で示される代替テキストに置換されています。
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Subject ID:
#83550
Subject Name:
[データ破損]
Registration Date:
1996-06-23
Precaution Level:
Level 3 → Level 0(2014-07-20時点)
Handling Instructions:
オブジェクト#83550は、カントー地方トキワシティ第十二支局の中異常性オブジェクト収容室37に収容されています。オブジェクト#83550からは生体反応は検出されていませんが、不明なタイミングで移動することが確認されています。収容室は案件担当者及び拠点監督者双方の承認を得て、かつ警備員が同伴した状態でのみ解錠が許可されます。オブジェクト#83550が生体反応のない特異な生命体であることを鑑み、オブジェクト#83550の破壊を伴う検査は倫理委員会の裁定に基づき無期限に禁止されています。この裁定への不服申し立てを行う場合、案件担当者の承認を得なければなりません。
本案件の案件担当者は、オブジェクト#83550について、後述する種族#83550とは完全に別個の存在であるとの明確な認識を持たなければなりません。種族#83550に関する知識を持たないことが推奨されますが、オブジェクト#83550と種族#83550が別個の存在であるという知識があれば、オブジェクト#83550による情報災害は防止することができます。
本稿において種族#83550の名称を記述することは固く禁じられています。過去の版には種族#83550の名称が記載されているものがありますが、特定の版以降はオブジェクト#83550の情報災害の影響を受けて内容が改変されています。二次災害を防止するため、過去の版は暗号化の上アーカイブされています。
[2014-07-20 Update]
当局の倫理委員会の裁定に基づき、案件#83550は管理が終了されます。本案件は案件登録を解除され、現存するすべてのドキュメント並びに資料はアーカイブされます。案件#83550の警戒レベルは「0」に再設定され、これ以上の対応は行われません。オブジェクト#83550として収容されていた携帯獣は、収容終了となり解放されます。
案件担当者及びオブジェクト#83550として収容されていた携帯獣の双方が合意したため、携帯獣は案件担当者に引き取られることとなりました。以後、オブジェクト#83550は一般の携帯獣として取り扱われます。オブジェクト#83550収容中の取り扱いに関して、案件担当者の適切な措置が評価されました。
Subject Details:
案件#83550は管理が終了し、案件登録が解除された案件です。以下のドキュメントはアーカイブされたものであり、案件担当者またはより上位のセキュリティクリアランスを保持する局員のみがアーカイブ化を解除することができます。かつて案件担当者から「変更」以上のセキュリティクリアランスを付与されていた局員については、一律で権限が剥奪されています。
案件#83550は、外見上ある携帯獣(案件の性質を鑑み、便宜上種族#83550と呼称します)に類似した特徴を持った未知のオブジェクト(オブジェクト#83550)と、それに掛かる一連の案件です。
1996年4月下旬頃、当局がトキワシティに設けている複数の窓口に「トキワの森の入り口近くに種族#83550の幽霊がいる」との通報が殺到する事案が発生しました。局員数名が通報のあった地点へ向かったところ、道端に座り込んでいたオブジェクト#83550を発見、成功裏に確保しました。このとき、オブジェクト#83550の性質がある程度明らかになり、後の取扱手順策定に反映されています。オブジェクト#83550の確保時に3名の局員が軽度の情報災害を負いましたが、いずれも数日以内に回復しました。
オブジェクト#83550は、種族#83550を思わせる風貌をした未知のオブジェクトまたは生体です。頭部から着ぐるみのような由来不明の布地を着用し、一般に「落書き」と形容されるような粗雑さの種族#83550の顔が描かれています。布地を引きずるようにして移動し、時折内部から空気を発生させ、風船のように布地を立たせることがあります。目に相当する器官は下部に存在し、布地の下から手または触手と思われる器官が露出しています。
一般的な検査では、オブジェクト#83550から生体反応を検出することはできませんでした。携帯獣である可能性を踏まえた情報化試験は、いずれも失敗に終わっています。得られたデータはオブジェクト#83550が携帯獣また携帯獣の性質を部分的に備えた存在である可能性を示唆していますが、少なくとも現時点でオブジェクト#83550を情報化するための完全な手順は確立されていません。オブジェクト#83550は食事や睡眠を必要としておらず、これまでに要求がなされたこともありません。
オブジェクト#83550の特徴は、対象を「種族#83550に似ている」という認識の元で視認した場合、対象を純粋な種族#83550と誤認させることにあります(事象#83550)。しかしながら外見的特徴の顕著な差異から、事象#83550に巻き込まれた人間及び携帯獣には著しい認識の混乱が生じます。認識異常の顕著な事例として、オブジェクト#83550を「種族#83550の幽霊」と呼称することが挙げられます。事象#83550は、オブジェクト#83550を視認してから少なくとも72時間継続します。
事象#83550は、種族#83550に関する知識を持たないか、種族#83550とオブジェクト#83550を明確に個別のものであると認識している人間または携帯獣であれば発生しません。確保時には四人の局員が立ち会いましたが、その内の一名は他の支局から異動した直後であり、種族#83550に関する一切の知識を持っていませんでした。確保終了後の検査でこの局員のみが情報災害検査で陰性の反応があったことからヒアリングを実施し、オブジェクト#83550の性質が判明しました。
オブジェクト#83550の由来は不明です。種族#83550に類似した外見的特徴を持つ理由も明らかになっていません。外見に由来すると思われる事象#83550の原因も分かっていません。オブジェクト#83550については不明な点が非常に多く、慎重な取扱いが必要となります。オブジェクト#83550は初期収容に当たった局員に対し敵意を示しておらず、局員もオブジェクト#83550の収容に同意したため、案件担当者として割り当てられました。
[2014-07-14 Update]
オブジェクト#83550について、再度の情報化試験を行った結果[データ破損]地方由来の携帯獣であることが明らかになりました。携帯獣学会で携帯獣であるとの承認がなされ、全国図鑑のNo.[データ破損]に種族名[データ破損]として登録されます。この結果を受けて、数日中にオブジェクト#83550の取り扱いについて倫理委員会で協議が行われる予定です。
Supplementary Items:
本案件に付帯するアイテムはありません。
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