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「あれ、森田さんどこ行っちゃったんだ」
064事務所のロッカールームを出た悠斗は、今着替えたばかりのトレーニングウェアの裾を直しながら辺りを見回して呟いた。
貴重品を入れたロッカーの鍵を首から下げてTシャツの中に隠し、同じく首に下げたパスケースに収まったトレーナーカードを確認する……ここ最近ですっかり身についた、『羽沢泰生』としての生活に悠斗は無意識で苦笑する。「おはようございます、羽沢さん!」女性用のロッカールームから出てきた064所属トレーナーが声をかけてきた。特注のゴム手袋を嵌めたその手に、どくどくだまとかえんだまが握られているのに内心少しビビりつつ、「おはよう」と返事をする。慣れてしまったのは悠斗だけでは無いらしい、以前よりも随分と態度の柔らかくなった『彼』の様子に別段驚くこともなく、もう一度会釈をした彼女は早足で事務室へと戻っていった。
「トイレでも行ってんのか」
意味の無いことをまた呟いて、悠斗はそこまで広くもない廊下に立ち尽くす。先に階下のコートへ行っても良いのだけれど、ロッカールームに入る前に「ここで待ってますから」と言われたことを考えると、勝手に行動するのは気が引けた。
どうしたものか、と思いながら手持ち無沙汰に窓の外へと視線を向ける。タマムシの街並みを一望出来る……とはとても言えない六階からの視界は、昨日の深夜から降り続いている雨のせいで一様に灰色をしていた。雨がビルのひさしに打ち付けられる、硬く濡れた音が耳にうるさく鳴り響いている。いつもはピジョンやオニドリル、運が良ければ遠目にハクリュウなどが見える空は、重苦しい雲に覆われていてどうにも圧迫感と寂しさを覚えざるを得ない。
外に出れば、たとえばビルの庭などに行けばニョロモやニョロゾくらいいるのだろうか。ごく自然にそんなことを考えている自分がいて、悠斗はちょっと驚いた。以前は、少したりとも見たくないなどとばかり考えていたその存在を、知らず知らずに受け入れているなど昔の自分は思いもしないに決まっている。この一件によって、確実に自分は変わったのだと悠斗は思った。
そうであるならば、きっとこれには何かしらの意味があったに違いないだろう。
「あ、いたいた! 悠斗く……えー、泰さーん! すいません、パソコンの電源切り忘れてたんでちょっと向こう行ってました!」
事務室から出てきた森田が声を張り上げ、騒がしく自分に向かって走ってくる。それに片手を上げて応えた悠斗は、その手を下ろしたところで腰につけたボール三つにそっと指で触れた。
金属特有の冷たさと無機質さ、そして僅かに感じられる存在感。そこにいる彼らのことを確認する。
「じゃあ行きますか! 今日はマルチの練習でしたよねー、誰と当たることやら、また相生くんですかね、タイプ相性的にはまずまずなんでそうなるといいですけど」
「いやー、……それは…………」
いいのか悪いのか、変わってしまった相生のことを考えながら言葉を濁らせて、森田と共にエレベーターに乗り込む。重いドアがゆるゆると閉まって、廊下に響いていた雨音はすっかり聞こえなくなった。
◆
「ひどい雨ですね。どなたさんのせいなのかはわかりませんけど、ひどい雨ですね」
「二回言わなくてよくない? あと俺を見る必要もなくない?」
「流石はタマ大のカイオーガと名高い樂さんですよね……自分が仕切るイベントとか飲み会とか合同練の日には必ず雨を降らすだなんて、本当真似出来ないですよ! 恐れ多くてかみなり撃って差し上げたい気分です」
「まあね。巡君なんて所詮、よくてニョロトノレベルだもんね。自分がコンビニ行く時に限って雨が降るとかその程度だから、スケールが小さい人の言うことは一味違うね」
水滴に濡れた窓ガラスに映るお互いに向かって、パイプ椅子の背もたれに肘をついた守屋と芦田がテッシードみたいな声で悪態をつく。「お前らジメジメした日にジメジメすること言わないでくれよ」その様子に呆れたらしいサークル員が延長コードを解きながら言ったが、二人の放つ傍迷惑な険悪さは拭えないままだった。
「……カイオーガがどうかしたのか?」
そんな会話を聞いていたらしい泰生が、歌詞をプリントした紙から顔を上げて言う。聞かれた富田はギターの弦をはじきつつ、「どうもしません」などとおざなりな返事をした。芦田と守屋のコレは特段珍しいことでも何も無いため、部室にいるサークル員達は富田を含め完全に無視を決め込んでいる。二人のポケモンであるポワルンとマグマラシすら我関せずという顔でそれぞれの膝の上で寝ており、唯一言及したのは、さっき諫めようとした三年生くらいのものだ。
「ほっといていいんですよアレは。二人とも暇つぶししてるだけですから」まだ何か言い合っている芦田らに聞こえないよう、富田は一応声を落として言う。
「別に羽沢さんが気にすることないです、先に笑った方が負けとか先に言い返せなくなった方が負けとかそんな感じですから、特に意味は無いんですアレに」
「そうか……あの学生が本当はカイオーガだということではないのか……」
真顔でそんなことをのたまい、心なしかしゅんとしている泰生に、富田は『ピュアか?』と突っ込みたくなった。が、言っても無駄だとわかっているため彼は口を開けないでおく。タマゴから孵ったばかりのピィか何かかお前は、などと言いたくなる気持ちを抑えつつ、泰生相手にツッコミを放棄するのも何度目かと彼は内心で溜息をついた。
「また人前で歌うのか」
富田をよそに、勝手に話を終わらせそう尋ねてきた泰生に、富田は「はい」と首を縦に振る。ギターの音程を合わせながら、「嫌ですか」という質問も付け加えた。
泰生は少し考えるような間を置いて、「いいや」とゆっくり返事をした。「嫌ではないな」半分ほど独り言のようなその言葉に、富田は前髪の下の瞳を丸くしてギターから顔を上げて泰生を見る。が、その驚きもすぐに消えて、彼は変化に乏しい顔を僅かに緩めて短い息を吐いた。「そうですか」という富田の相槌は、未だに無為な言い争いを続けている芦田達の声と、音量調節を間違えた一年サークル員のマイクテストの爆音と、学校の中庭を叩く雨の音にかき消された。
◆
「……うん。今のとこ何も無いね。あ、店見えてきた……うん、うん……特に異常無しってヤツ? うん、大丈夫大丈夫」
骨が数本曲がったビニール傘を片手に、ミツキは雨のタマムシを歩いていた。
空いたもう片手に持った携帯に向かって話す彼はゴーストポケモンの姿を借りた状態ではない、ミツキ本人の、人間の姿のままだ。一応外出ということで気を遣っているのか、ヨレヨレとはいえジャケットを羽織ってはいるものの、その下に着たTシャツが、無駄にリアルなニャスパーのイラストと『SHARP EYE』の文字列(創英角ポップ)などという、壊滅的なダサさを誇っているせいで色々台無しである。ダメージ加工なのか本当にボロいのか見分けのつかないズボンも哀愁を誘っているのに加え、ただでさえくしゃくしゃの癖っ毛は湿気でますます酷い有様となり、そこらで雨宿りしているズバットの方が百倍身なりがいいという感じだ。行き交うタマムシボーイ・タマムシガールはそんな彼をチラーミィみたいに見遣り、揃って不審そうな顔をした。
「だからさー、そんな心配しなくていいって、こういうのは直々に行くのが礼儀ってものだし……そうだけどさ、大体アレだよ? 僕が来るかそりゃわかんないけど、うん、何も用意してないようなヤツなんだから……そんなのさ、大したことないって」
が、ミツキ本人はそれを全く気にすることもなく、のんきに喋り続けている。「わかったって、油断はしてないよ、ホントホント」軽い調子で話す彼はそこで、雨のせいで水の溜まった側溝に流れていくベトベターに気づいたらしい。視線を下げると共に携帯をポケットにしまい、ぼけっとしている生きたヘドロにミツキはヒラヒラと手を振った。
「うん、だからいいって。……店着いた。マジで何も無かったなぁ、うん、それね。むしろこんなシャレオッティな店に入る方が普通に不安だよね。ま、引き続き頼むよ……はいじゃーねー、また後で」
携帯をしまったにも関わらず話し続けるミツキは、ふう、と息をついて一軒の店の前で立ち止まる。それもそのはず、電話しているかのような様子は単なるポーズで、別の場所で待機しているムラクモとの念動力による会話、つまりはテレパシーをするにあたり、何も無いところにブツブツ話しかけている怪しい人扱いされないようにするための対策だったのだ。実際は彼の外見が絶妙に微妙だったせいで、結局不審がられてはいたけれど。
それはさておき、傘を閉じたミツキは店の看板を見て名前を確認し、若干気合の入った表情をする。店先にヒメリの花などを飾ってある、その小洒落たカフェの屋根を――彼の仲間であり、見張りをしているゴーストポケモン達が姿を隠している場所に視線を送り、彼は任務開始の合図を送った。
くっちゃりした前髪に隠れた、細い両眼が雨の薄暗さの中で一瞬だけ怪しい光を放つ。
『そういうのいいから早く行けそして真面目にやれ』
そんな自分にかっこよさを感じて、ガラス戸の前で無駄に立ち止まっていたミツキの頭にムラクモの声が響き渡る。死ぬほどどうでもいい思考をいち早く察知してツッコミを入れてきたその声に、ミツキは「はいはーい」などと答えてから、カランコロン、というチャイムを鳴らして扉を開けた。
◆
「みんな揃ってるの? 出る奴でまだきてないのいる? いない?」
「おい! やばい蒸し暑いんだけど、人多いんだから換気しろ換気! 窓開けろよ!」
「これから演奏すんのになんでわざわざうるさい外の音流れ込ませんだよ! 開けられるわけないだろ、こおりタイプじゃないんだから少し我慢しろ!」
「なー、赤井さん!? 一軽の奴らが見たいって言ってんだけど入れていい!? 二十人くらいなんだけど!」
「え? あー、大丈夫っちゃあ大丈夫! でもマジで狭いから覚悟してって言って!」
その言葉が聞こえるなり、一軽――第一軽音サークルの部員達が、「失礼しまーす」「あっつ! 暖房入ってんの!?」「めっちゃ楽しみだわ」ぞろぞろと部室に入ってくる。彼らと並んで、当然のような顔をして入室してきたバンギラスだのバシャーモだのシビルドンだの、一軽部員のポケモン達に、赤井と呼ばれたキーボードの三年生が「おい! 二十人じゃなくてプラス十人分のスペース必要じゃねぇか!」と誰かを怒鳴りつけた。
「いいだろ、別に。こいつらはただのポケモンじゃなくて大切なバンドメンバーでもあんだよ」
「ダメだとは言ってねぇよ、ただ狭いって……おい! 流石にハガネールは入らないからそれは無理!」
パンクなアクセサリーや血飛沫のボディペイントで全身を飾ったファンキーなハガネールが廊下から入り込もうとするのを見て、赤井が叫び声をあげた。
今日はタマ大第二軽音サークル主催で、急遽部室でライブをすることになっている。希望したチームも何組か出演するが、メインはキドアイラクの演奏だ。オーディションも目前ということで、リハーサルも兼ねてとサークル員達が企画したのである。いつもよりも片付けられている部室には二軽のメンバーは元より、一軽の部員およびそのポケモン達、話を聞きつけた騒ぎ好きの学生、そしてどこから入り込んだのかわからないが、大学に住み着いているコラッタだのパラスだのが隅っこに集まっていた。
「あー! もう始まっちゃうじゃん、めっちゃ緊張するんだけど!」
即興で取り付けられた暗幕によって隔てられたスペースに、二ノ宮の小声が響く。「こういう本番前の雰囲気、好きって奴もいるけど俺苦手だわ」アフロ頭を抱えて呻く二ノ宮は、自分を囲むように置かれたドラムセットに額をくっつけた。
キドアイラクは今日のメインにしてトップバッターであり、あと数分が経てば出番となる。本番直前になるといつもこうして騒ぎ出す二ノ宮に、有原がアンプの最終確認をしつつ「お前なぁ」と振り返った。
「いい加減慣れろって。大体これで緊張してたら次どうすんだよ」
「そうは言ってもセンパイ、緊張するもんは緊張するんスよ。あー、もう! ヤバいッスよマジで!!」
「いいから落ち着けって。いいじゃないか、そのおかげでとりあえずねむり状態にはならなくて済むぞ」
「うるせー、大丈夫ッスよラムのみ食べるから!!」
「ツッコめてねぇよ……ホントに落ち着け二ノ宮、あとカゴのみじゃないんだなそこ」
いつも通りなんだかそうじゃないんだかわからない会話を交わす二人のことは放っておくことにして、富田は隣に立つ、歌詞を小さく口ずさんでいる泰生へと視線を向けた。
「どうですか、調子は」
その問いに声を止め、泰生は「ん」と僅かに頷く。歌詞も声の出し方も、リズムの取り方も本物の悠斗に劣らないくらいまでになってきたし、体調も問題無い。ただ一つ、ノリだけはどうしても埋めようのないことだったが、そこには富田は目を瞑ることに決めていた。変に強制して違和感が生じるのもコトであるし、あまり多くを望む意義も見出せなかったためだ。
「今頃、ミツキさんが話をつけに行ってるはずです」肩に掛けたギターに指を添え、富田は目を伏せた。「悠斗と羽沢さんの件、この状態を引き起こした奴と」そこまで言って一度言葉を切り、彼は短く息を吸う。
「なんであの時、犯人のことわからないままでいい、って言ったんですか?」
そんな質問も全く聞こえていないのであろう、有原達はまだくだらない会話をしている。しかしそれで二ノ宮の緊張も大分ほぐれただろう、などと考えながら、富田は尋ねた。
「誰だか、気にならなかったんですか」あの日の夜、犯人がわかったのだと伝えにきたミツキに、泰生と悠斗は、犯人のことは知らないままで構わないと答えたのだ。富田にはそれが理解出来なかった。これほど大変な目に遭わされておいて、どうしてそんなことが出来るのか、まるで許してしまったような顔になれるのか。「直接怒ったりとか、しないんですか」なんで、それで済ませてしまえるのか。
「あえて知る必要も無いだろう」
泰生は、何も迷うことなくそう答えた。「元に戻れるようには、あのサイキッカーが話をつけてくれると聞いてる」強い意志を持った瞳が富田を見る。「なら、それで十分だ」
「俺と悠斗がそれ以上、そいつをどうこう言う意味は無い」
「………………」
「いつか、どうにかしなきゃならんことだったんだ。それをこのタイミングでしただけで、だから、呪いとやらをかけた奴は関係無い」
そうだろう、と富田のことを覗き込んだ泰生に、富田は少し時間を置いてから微かな笑みを浮かべる。「そうなんでしょうね」あんたと悠斗がそう言うなら、という言葉は喉の奥底へしまっておくことにした。
「えー、じゃあそろそろ始めにしましょうか!」暗幕の向こうから、司会進行を務める芦田の声が聞こえてきた。開始を告げるそれに、二ノ宮がぴくりと身体を震わせて会話を途切れさせた。「そろそろか」富田もギターを構え直し、両手を閉じたり開いたりして最後の準備にかかる。「今日も最高なの決めような」本番には強い有原がニッと笑って、三人に向けてガッツポーズした。
「では、早速登場していただきましょう! キドアイラクの皆さんです!」
マイクを通した雑音の混ざった口上が響き、暗幕が雑な感じで下ろされる。
黒の布が落ちて目の前が客席に変わるほんの刹那、富田と有原と二ノ宮は同時に、彼らがボーカルの方を見て頷いた。
◆
「いやぁ、申し訳ございません。遅くなりました」
身体についた水を払い落としながらミツキが入ったそのカフェは、外から抱くイメージ同様小洒落た印象に満ちていた。バケッチャやコータスを象った関節照明が輝く店内はちょうどよい薄暗さで、流れている音楽もシンオウの夜を思わせる感じでいい雰囲気である。「いらっしゃいませ」という店員の声も落ち着いていて品があり、思い思いに食事やお茶を楽しんでいる客の声もうるさすぎず静かすぎず、なかなかに素敵な空間だ。
そんな店で若めの男女が二人向き合ってコーヒーなどを飲む――そこだけ取り出してみれば、十人中九人はデートだと思うに違いない。(残りの一人はポケモン売買の現場だと捉える、考えすぎのジュンサーさんだ)。しかしミツキと、彼が迷わず歩いていったテーブルにいた女性を見てみても全くそんなことは思えず、むしろその対局、デートなどという浮かれた現場からは最もかけ離れた光景にしか考えられないだろう。それはミツキの服装が残念であることにも起因するが、それ以上に、彼の姿を見つけるなり険悪さを一気に醸し出した女性のオーラにあると言える。
「あ、先に頼んでらしたんですね。それはなんですか、オリジナルブレンドコーヒー? いいですねー、僕もそれにしようかな、ああでも、せっかくだし……すみませーん! キャラメルマキアートナナのみスペシャルチョコシロップがけLサイズでお願いします!」
テーブルに置かれた、湯気の立つコーヒーを見てミツキはペラペラと一人喋りまくる。かしこまりました、と店員が丁寧な礼を残してカウンターへ去っていくのを見送って、「せっかくだからすごいの飲みたいじゃないですか?」と、彼は無意味なことを底無しに明るい笑顔で言った。
「そんなこわいかおしないでくださいよ、何か下がるわけでもないんですから」
からかうような口調で言うミツキの視線の先、向かいに座る女性の表情が、ミツキの笑顔と同じくらいの底無しさで険しいのは、きっとミツキが前髪からテーブルに雨粒を落としまくっていることへの不快さからだけではあるまい。清楚系と揶揄されそうな服装に、ストレートの黒髪ロング、伸びた背筋からは育ちの良さが窺い知れるけれど、せっかくの『おじょうさま』然とした様子も憎悪の滲む顔のせいで台無しだ。ナチュラルメイクに彩られた目元はミツキを睨みつけ、グラエナよりも鋭い気迫で威嚇しているように見える。
「やっぱり、もうちょっとオシャレしてくるべきでしたか?」そんな彼女に向かって、何も気にしていないかのような明るさでミツキが続ける。「申し訳ないです、こういうの慣れてないんですよ、まあ見りゃわかるって感じでしょーけど」センスゼロのTシャツをわざと見せつけるようにジャケットの前をはだけ、彼はへらりとだらしなく笑った。「これでも頑張った方なんですよ、靴だってちゃんと洗いましたし」
「こんな可愛いお嬢さんと茶ーしばけるなんて、もう楽しみで楽しみで、三日前からなんと――」
「いい加減にしてください!!」
ダンッ、と机を叩いた彼女が、ミツキに向かって怒鳴りつける。机の上のコーヒーが波打って、他の客達が一斉に彼女の方を見た。
「あんなわけわかんないメール送ってきて、バラされたくなければここに来いとか……」が、それに気づかない様子で、彼女は声を震わせる。「本当わけわからないんですけど、何の用で、私を、こんな――」
「え? 本当にわかんないわけ?」
が、ミツキは彼女の苛立ちをぶつけられても全く動じることはなく、むしろ声と表情の明るさを増してさえいるようだった。
恐ろしいほどに楽しげに、愉快そうに、嬉しそうに、彼はキラキラした声で言う。
「まさか僕が、本気で君をデートに誘っただなんて思ってるの? 違うでしょ? それに『バラされたくなければここに来い』なんて、無視してもいいっていうか無視するべきメールだよ? だって危ないじゃん。そういうの学校で習わない? 僕は学校行ったことないから知らないけど。それなのに来るってことは、そこまで考えられないレベルで 、バレたくないことがあるんじゃないの? 君には、何としてでも隠し通さないといけないことがあるんでしょ?」
流れるように投げつけられる問いの連続に、彼女は言葉を失って黙り込んだ。俯いた目からは険しさが消え、怯えたみたいに視線をあちこちへさまよわせている。先ほどまで赤かった顔はみるみるうちに青に変わり、白い頬は小刻みに震えていた。
「まぁ、カマかけるようなこと言って悪かったよ」そんな彼女をなだめるようにして、ミツキはやや穏やかな声を出す。ただ、前髪の奥の目はちっとも優しさなど持っておらず、「君が何と言おうとしたとこで、もう全部調べ終わってるからさ。だから君を呼んだわけだけど」店内に響く音楽の如き落ち着いた声色で、彼女にとっての死刑宣告を言い渡した。
「そこにいるんでしょ? 『王者』にふさわしくない奴に、呪いをかけることが出来るコが」
言いながら、ミツキは何気ない仕草で彼女の鞄を指差した。それに彼女は一層強く震え上がって、声にならない叫びを飲み込むように呼吸を止めた。青を通り越して白くなってしまった顔の彼女に、ミツキは苦笑を浮かべて「落ち着いて」と優しく言った。
「時間はたっぷり……とまではちょっと言えないけど、ま、お互いゆるく話そうよ」テーブルの端に置いてある、オムナイトとカブトの形をした塩胡椒の入れ物を指先で弄びつつ、彼は言い聞かせるように続ける。あくまで穏やかで、静かで、しかし明るいその声に、客や店員達の注目はすっかり失われて各々の会話や仕事に戻っていた。当たり前の日常そのものの店内で、ミツキの正面の彼女一人だけが、この世の終わりのような顔をしている。「申し遅れたね。僕はサイキッカーのミツキ。普段は便利屋稼業とか、拝み屋とか言われるようなことやってる感じかな」
「じゃあ、今日はよろしく。お会い出来て光栄だよ」
湿った頭を片手で掻いて、彼は前髪越しに彼女をじっと見据える。
「羽沢泰生・悠斗の両人を呪った真犯人さん――――松崎春奈さん」
ごめんね、名前調べちゃって。
ちっとも悪びれていない声でそう言って、ミツキは絶句したままの彼女、松崎に向かってにっこりと笑いかけた。
◆
「また相生くんとペアらしいですよ。クジ引きってわかりませんよね、確率論的にどんな数値だろうと明らかに偏ったり、何度も同じ結果になったり」
まあそんなこと言ったらバトル学における二分の一なんてあてにならないの極みですが。などと森田は苦笑して、悠斗にボールを手渡した。
「対戦相手は……とりあえず初回は、岬さんと山内さんですね。岬さんはノーマルのプロなんで誰を出してもタイプは安定してます、山内さんは……シュバルゴかジャローダか、それかコジョンドでくると思います。リーグはそれで出るって話ですから」
「岬さんがノーマルタイプって決まってるなら、ミタマはやめた方がいい感じでしょうか?」
「うーん、シャドーボール以外の技もありますし、山内の出すのがシュバルゴとジャローダかもしれませんし……一概によくないとも言えませんよ、先発はある種の賭けですからね」
064事務所のコートでは、至る所でトレーナー達がバトルの準備に勤しんでいる。自分が直接戦うわけでなくともポケモンバトルは体力を使うのだ、ストレッチをしたり水分補給をしたり体調を整えている者が多い。もちろんポケモンの最終チェックに余念の無いトレーナーもあちこちにいて、練習前特有の、小さなざわめきが響いていた。
リーグまでの日も刻一刻と迫り、064事務所でもほぼ全ての時間をバトルトレーニングに割いている。そんな様子を報道したがるマスコミも多く、マックスアッププロダクションのような大手ほどでは無いにしろ、テレビや雑誌など数社のマスコミがコートの各所で撮影の支度に忙しい。撮られ慣れているトレーナー達は良いものの、悠斗はその非日常に若干そわそわせずにはいられなかった。
「今頃、ミツキさんがお話しに行ってる頃でしょうかね」
その悠斗を見かねてか、森田が何気ない調子で声をかける。「気になります?」冷えたスポーツドリンクのペットボトルにタオルを巻きながら、彼は悠斗の方を向く。
「僕は正直気になってるんですよね。いえ、気になってるというか気に障るというか気を確かに持てないくらいイライラするというか? どこのどいつがこんな馬鹿なことしやがったんだって感じで、まったく、泰さんと悠斗くんが『知らなくていい』とか言わなかったらそのアホンダラをぶっ飛ばせたかもしれないのに」
他のトレーナーには聞こえないように声を落としつつ、森田が早口で暴言を吐く。体中から毒素を分泌するベトベトンもドン引きであろう舌の悪さに、悠斗は「すみません」とつい謝った。
あの夜、ミツキに『犯人を知りたいか』と問われて断った自分を思い出す。どうしてそうしたのか、自分でもよくわからない。知りたいに決まっているだろう、そんなこと聞くまでもないのに、直接殴ってでもやらないと気が済まないと思う自分だって、頭の中にはいたはずなのだ。それなのに、ああ答えた自分は何を思っていたのだろうか。
「正直、よくわからないんですよね」
悠斗は気の抜けた声で言う。「ただ、そうしなきゃいけないって思った、っていうか」
「もし誰のせいかを知っちゃったら、多分この先、もしもまたアイツと何かあったとしたら、その時その、犯人のせいにしちゃいそうだと思ったんです。あの時にあんなこと言わないで、ずっと嫌ってやってればよかったのに、余計なことしなきゃよかったって思った時、じゃあそうなったのは誰のせいだって、あの状況を作ったヤツのせいだ。と、思ってしまわないかって」
「なるほど、…………」
「それはあまり、良くないことだと思うんですよね。俺らがロクに口聞いてなかったのは俺らのせいだし、それをやめようとしたのも俺らが決めたことだし、もしこれから何かがあったとしたら、それも俺らのことですから。そりゃあ、そうは思っててもそいつのせいにはしそうですけど……でも、少しでもそうしないように、誰だかはわからないようにしといた方がいいかな、と」
悠斗の言葉を聞いていた森田は、「真面目ですねぇ」と一言添えて、なんだか嬉しそうな笑みを浮かべた。
「羽沢さん! 今日は、よろしくお願いします!」森田の後ろから走ってきた相生が、やはり少しばかり裏返った声で言う。それに片手を上げて応えた悠斗の視界の端で、髪を結わえている岬が宣戦布告をするみたいに微笑んだ。「よし、じゃあそろそろ始めるぞー」所長の声がコートに響き、皆が慌ただしくそれぞれの持ち場につく。カメラマンが各々カメラをいそいそと構え、マネージャー達が壁のキレイハナと化していく。嬉しさと緊張が入り混じったような顔をしている相生の隣に立ち、悠斗はボールを一つ、手に取った。
「では、マルチバトル練習を始めます! 岬・山内ペア対相生・羽沢ペア、バトルスタート!」
「頼んだ、ヒノキ!」
「クラリス! 頑張って!」
「いってきなさい、シャウト!!」
「勝ちにいくぞ、リー!」
四つの声が木霊して、四つのボールが天に浮かぶ。
そこから飛び出した影が形をはっきり作るまでの刹那、四人は一斉に息を吸った。
◆
松崎春奈と呼ばれたその女は、しばらく唇を噛むようにして黙っていたが、やがて観念したように「そうですね」と失笑混じりに言った。
「まさか、そこまで調べ上げるものだとは思いませんでした。悪いことは出来ないってよく言ったもんですよね」
「まー、こっちはそれでご飯食べてる身分だからね。探偵稼業なんて便利屋の基本みたいなものだし、別に珍しいものじゃない。君が悪いことをしたとかしないとかじゃなくて、普通に生きてりゃ誰だって、いつ調査対象にされるかわかったものじゃないよ。僕みたいなのは特に、お金さえもらえればどんな目的だって調べるような商売だしさ」
肩を竦めたミツキに、松崎は口を歪めるようにして笑う。知性と皮肉っぽさが同居したようなその笑みが、彼女の目の前にあるブレンドコーヒーに移り込んだ。 この店のモチーフらしい、タネボーのシルエットが二、三描かれた白いカップに注がれた茶色い液体はなみなみと注がれたままで、どうやら手付かずの状態らしい。まだゆらゆらと湯気の立っているそれの香ばしい匂いを吸い上げつつ、ミツキは「とにかく」とやや真面目な声を出す。
「どうしてこんなことをしたのか、それを聞きたいんだよね。だって面倒くさかったでしょ? 呪いって。僕も仕事めんどいってよく思うし、君は生まれつき、なんか力があるわけでもないのにやったわけだから尚更だったんじゃないの?」
「面倒だったら初めからやりませんよ。そりゃあ手間は相当かかりましたけど……っていうか、理由なんてどうでもよくないですか? どうせアンタの目的なんて、私にあいつらを元に戻せっていうことなんでしょうし」
「そりゃあそうだけどさ」
ミツキが口をむにゃむにゃさせたところで、「お待たせいたしました」とウェイトレスが二人の会話に割り込んできた。タマ大生のアルバイトだろうか、栗色の髪をサイドテールにした女性店員は、「キャラメルマキアートナナのみスペシャルチョコシロップがけLサイズでございます」と流暢に言いながら大きなコップをミツキの前に置く。ヤドキングの頭の形のようなてんこもりの生クリームにかかったチョコレートよりも強烈な、キャラメルとナナの甘ったるい香りが鼻腔を突き、松崎は露骨に深いそうな顔をした。「ごゆっくりどうぞ」そんなことには目もくれず、ダーテングのシルエットが躍るモスグリーンのエプロンを翻し、店員はカウンターへと去っていった。
甘さの塊のようなそれにストローを突き刺し、美味しそうに一口啜ったミツキは「そりゃあそうだけどさ」と仕切り直す。「聞いておきたいわけ、一応ね」
「調べた中で大体それもわかっちゃってるけど。やっぱ、本人に確認とるの大切だし、それに松崎さん? どうせ素直にやめてくれるわけじゃないんでしょ」
ミツキの言葉に、松崎は馬鹿にするような笑みを浮かべたまま何も言わない。それをどう受け取ったか、ミツキはストローの先を噛み潰して「僕から言えってことなの」と前髪に隠れた眼をわずかに細めた。「別にいいけどさ」随分と悪趣味だよね、という言葉を続けそうになって、ミツキはそれをキャラメルマキアートと共に喉の奥底へ流し込んだ。
「じゃあ言うけど。まず、君はマックスアッププロダクション所属のエリートトレーナー、根本信明の娘だ。もっとも彼のプロフィールは生涯独身で子どももいないことになってるし、それは彼の身内だって疑ってないことだ。君以外に彼の血をひくヤツは存在していないしね。つまり君は、彼の隠し子っていうわけ」
言ってから、ミツキは「それはちょっと違うか」と首を傾げる。白い生クリームをスプーンですくい取り、「正しくは、」それを口に含んで言い直した。
「根本自身も知らなかったんだ。つい、一年前までは」
「一年と二ヶ月です」
「そうだね。そう、根本さん本人も、一年と二ヶ月前までは、君がいることなんて、自分の子どもがこの世に存在してるだなんて思ってなかったんだ。彼はそういうとこはちゃんとした上で遊んでるっぽいし、事実今まで、彼に妊娠を告げた女もいないから、それは無理もない。君のお母さんは言わなかったんだ、根本さんに。根本さんの子どもが出来たってことを言わないで、彼の前から消えてずっと君を育ててたんだ。父親の存在は全然出さないで、親からも離れて。一人で」
そうするくらいには、根本さんのこと好きだったんだろうね。ミツキは言い、机の上で組んだ指を無意味に組み替えたり動かしたりして息をつく。「そんで、君のこともね」ミツキにじっと見つめられた松崎は、平然とした表情のまま座っていた。
「ここから君の話だ。じゃあなんで、そのことを君が知ったのか。まー、この件に関してはホント、同業者として心底申し訳無いと思うけどね」
苦々しく鼻を鳴らし、ミツキは舌打ち混じりに続ける。
「お母さんとの喧嘩がきっかけで、君が半ば家出みたいな感じで旅に出たのが三年前。で、そいつに出会ったのが二年前。旅先で会った占い師……つーか、サイキッカーに自分の出自を見てもらった君はそこで、自分の父親のことを知ったんだ。そのサイキッカーの言うことは、まぁ本物のサイキッカーだけあって、そいつが知らないはずの君の思い出とかも言い当てられたから信じたんだろうね。で、君はそこでまずそいつに、よりにもよって弟子入りなんぞして、呪術のやり方をかじったと」
「先生は、才能があるって言ってくれましたよ」
「確かにね、たった一年の修行でここまでのレベルになれたんだからそれは否定しないよ。それはともかく……その後、サイキッカーと別れた君は根本さんのとこに向かうことを選んだ。深い意味なんて無かっただろうけどね、ただ飛び出してきた手前帰る気にもなれず、バトルの道にも限界が見えてきた からってだけで。あとは、まあ、父親は死んだって君に言い聞かせてきたお母さんに対する不信感? とにかくその辺の諸々で、軽い気持ちで君はお父さんのとこに行った」
銀のスプーンでナナを一つすくい上げたミツキの手元を、シシコがじっと見上げている。それに気づいたミツキは、シシコのトレーナーがパソコンとにらめっこをしてる隙をついてナナの欠片を小さな口に向かって放った。 喜んでそれに飛びつくシシコを横目で見て、ミツキは代わりに生クリームを舐める。
「いきなり尋ねてきた上に、自分の娘だと名乗った君に根本さんはびっくりしたけど……でも、君のお母さんの名前を聞いて、すぐに信じた。心当たりがあったのと、その上、急に音信不通になったものだから気にしてたんだろうね。で、自分の子どもがいたことを知った彼は責任を感じ、君のことを匿うことにしたんだ。姪だかなんだか、適当な理由つけて」
問題はここから。ミツキは言って、テーブルの下の足をぶらつかせる。雨に濡れた靴から飛沫が散った。
「生まれて初めて会った親子なんだから、ギクシャクするのは当たり前だろうに。というか根本さんは実際、かなり素晴らしい部類だと思うよ。ぎこちないながらも、ぎこちないなりに君の父親であろうとしてるんだから、僕、正直見直しちゃったよ。調べててさ。相当大変だろうに、表向きのキャラだって壊さずバトルもしっかりやって、あの人はすごいよ」
「わかりきったことを言わないでください」
「うん、だから、問題は君なんだ。君も、転がり込んだはいいものの、初めての父親との生活が楽しくて嬉しいものの、いまひとつわからなかった、どうしたらいいか。どんな娘であればいいか。自分がこの、根本さんっていうお父さんが好きなことはわかってるし、彼が自分を大切にしてくれてるのもはっきりわかってる。でもまぁ、時間ってのはなんだかんだ必要だから、その分はどうしても埋められなかったんだよね」
「……………………」
「オマケに、外に出れば根本信明としての父親を見なきゃいけない。家と違って自分だけを見てるわけじゃない、無数の女に愛想を振りまく、そしてポケモンに執心する父親を。それが許せないわけじゃないけど、君はどこかで嫌だったんだ。今まで一緒にいなかった分、そうしてる間にも、自分と話してくれればいいのに、って、思ってたんだ」
松崎は肯定も否定もせず、黙ったままミツキを見据えている。その目を見返して、ミツキはコップの表面の結露を無為になぞって指を濡らして遊んでみた。 「そこで止まってりゃよかったのに」軽く言って、彼は水で机に絵などを描く。
「そしたら、あとは時間が解決ってやつ、そうなれただろうにさ」
つり上がった大きな目と裂けた口に並ぶ歯、どうやらムラクモの顔らしいそれはテーブルに揺れるキャンドルでぬらぬらと光った。「君はそこで、他の奴を羨ましがることにしたんだよ」
「根本さんのトレーナー業を見てるうちに知った、一組の親子。生まれた時から一緒にいれて、ずっとお互い近くにいたのに、まともに会話出来ないレベルで仲が悪い。なんて馬鹿なんだ、なんて阿呆な親子なんだ。私だったらそんなことはしないのに。なんでこんな奴らが、こんな幸せの価値もわかってないような奴らが、私に無いものを持ってるんだ。君はそう思ったんだよね」
「それが間違ってるかどうかは問題にしない」水の落書きを手で拭い取り、ミツキは言う。「どんな気持ちになろうが、そりゃその人の勝手だし」
「ただね。実際に行動するっていうのが……そう思った君は羽沢さんと悠斗くんに呪いをかけたんだ。不届者を懲らしめる、みたいな名目でさ。心が入れ替わるだなんて、ある意味中途半端な呪いにしたのはアレでしょ? 下手に殺したり怪我させたり、意識失わせたり記憶喪失にさせたりなんかしたら足がつくかもしれないからでしょ。パッと見ではわからない、けど確実に困るし、他人にも言えないし。地味だけどかなりキッツいよね、しかもリーグだのオーディションだのの時期だから余計に」
「お父さんのリーグ制覇も狙ってたから、この時期にやるのは当たり前です。子どもの方にも何かあったっていうのは予想してなかった副産物ですよ。まあ、途中で私も焦って、直接手を出しちゃったんですけど」
きっと、あのフェスの夜に起きた事故のことを言っているのだろうとミツキはアタリをつける。「そうだね、アレはよくないよ」わざとふざけた調子でコメントして、「ああいう隙を見せるのは危ないからね」と、スプーンでコップを軽く打ち鳴らしながら場違いな助言をした。
「とにかくそういうことだ。羽沢親子への羨望、嫉妬、呆れ、苛立ち、怒り……そういうものが、君の呪いの原動力だった。別に珍しいことじゃないよ、むしろ僕みたいな、商売にでもしてない限りは個人的な感情とか事情から個人的にやるものだからね、呪いなんて。松崎さん。君は君個人の感情として、それこそ根本信明なんて何も関係無い領域の、君だけの思いから、あの二人を困らせて、苦しめてやろうと…………」
「それだけだと思います?」
そこで松崎が声を発した。 「どうだろう」ミツキは動じることなく答え、薄茶色の液体をストローでかき回しながら足を組み替える。
「それは、君の――そこにいるポケモンが知ってるんじゃないの」
「ああ、やっぱり全部わかってんじゃないですか。今までのも、怖いくらい当たってましたよ。サイキッカーってみんなそんなにすごい力があるんですね」
やや声を明るくした松崎にはあえてコメントせず、ミツキは彼女の隣の椅子に置かれた鞄を見続ける。「そうです、そうです」繰り返して、松崎はそこから一つのハイパーボールを取り出した。壊れものを扱うような手つきで彼女はそれを持ち、そこに向かって薄く微笑む。
「そうなんです。私のギルガルド――ナポレオンがやってくれたんですよ。王者にふさわしいかどうか、それを見極める力がこの子にはあるんです」 口許を歪め、黒と黄色に鈍く輝くボールをゆっくりと手で撫ぜた松崎に、ミツキは「やっぱりね」とだけ返事をする。
何百年も前のカロスで起きた、悪の王政をこらしめ市民社会をもたらした革命の英雄の名を冠したその『この子』とやらを思い描く。その名をつけることが適当かどうかは置いておくとして、嫌な名前だねなどと悪態の一つでも吐きたいところだったが、ミツキは再度キャラメルマキアートと一緒にそれを飲み込んだ。ナナの果肉がストローに詰まる。
「ギルガルドの力、アンタならわかってるでしょう」
奇妙な自信に満ちた声で松崎は言う。「普通なら、私レベルじゃ人の心を入れ替えるだなんて呪いはまだ出来ないのに、それが出来た理由」湯気が立たなくなってきたコーヒーに、彼女は弧を描く唇を映し出した。「ギルガルドというポケモンの力が、アイツらにうまいこと合ったんだって」
「そうだね。ギルガルド……ゴーストタイプとはがねタイプ併用のおうけんポケモン。その分類の『おうけん』のもう一つの意味。王の剣じゃなくって、『王の権利』。ギルガルドにはそれを見抜くことが出来る。王者になるにふさわしいかどうか、それを知ることが出来るんだ」
ミツキの答えに、松崎は満足気に目を細めた。「その通りです」白い指を胸元で組み、彼女は歌うようにして喋る。「だから、通じたんですよ。まだまだ未熟な私の霊能力でも、あの、二人に」 彼女の言葉に、ミツキは以前富田にした問いを思い出した。
オーディションに勝ち残る可能性はあるかどうか、という問いだ。泰生がポケモンリーグの頂点に立つ確率が高いというのは知っていたが、もう一人の被害者である悠斗にもその要素があるのかを知ろうとしたのだ。富田の答えはいまいち曖昧だったが、しかし呪いが通じたということはきっと、彼もまたそこにおいて、頂点……王者の座に立てる可能性があるということだろう。
実力面からみた場合には。
「羽沢泰生も羽沢悠斗も、王者になるにはふさわしくない。少なくとも、君のギルガルドはそう判断したわけだ。だから呪いが有効になれたんだ、あの、ただでさえ霊感がなくって下手すりゃゴーストポケモンの気配すら掴めないようなあの二人に、呪いが通じたのは、その条件を満たしてたからだ。呪術は通じないときは本当に通じないけど、その人やポケモンにある得意領域と条件さえ合致すれば、すさまじい威力に膨れ上がれさすことが出来るからね。そのことがわかった時は正直言って、恐れ入ったよ」
「ありがとうございます、って、素直に言っておいた方がいいんですか?」
「まぁとりあえず。どういたしまして……で、心が入れ替わったっていうのはギルガルドのもう片方の能力だよね。いや、正確には……『記憶が入れ替わった』って言うべきか。生き物の精神とか心とか気持ちとか考えとか人格なんて、そのほぼ全部が記憶から出来てるんだから。記憶喪失になったときに人格が変わるってのもその理由だよ。ギルガルドの、記憶を操る能力を使って、君は羽沢さんと悠斗くんの記憶を入れ替えた。その結果が、アレだ。王者にふさわしくない二人は、君の思惑通り呪いにかかった、そういうわけだ」
それで合ってるかな、と聞いたミツキに、松崎は小さく頷いた。細められた眼が、ミツキの頬を刺すように見る。
「その通りですよ」楽しそうに、松崎がそんなことを言う。「だって、あの人たちは頂点に立つにふさわしくないですもん」
「探偵さん。ポケモンリーグの頂点、……バトルの王様になるのにふさわしい、『品格』って、なんだと思います?」
唐突にそう尋ねた松崎に、ミツキは少々驚いた顔をした。「なんだろう」足を組み替えながら、彼は考え込むような間を置いてから答える。
「バトルが強いっていうのは当然で、あとはポケモンのことを考えてるとか、ポケモンとの信頼関係とか? そんなもんじゃないのかな」
尋ね返したミツキに松崎は笑う。「それはそうですけど、もっと他にありますよ」やや嘲るようなその口調に、へえ、なんだろう、などとミツキは首を捻った。
「それはですね」子どもに言い聞かせるみたいにして、松崎はゆっくりと話す。
「人の、夢になること。希望になること。背中を押してくれる、勇気を与えてくれる、そんな存在になることです。自分のバトルを通して、誰かの光になって力をあげること。それが、ポケモンリーグの王様に求められることなんですよ」
「…………羽沢さんには、それが無いと?」
ストローの先を奥歯で噛みながらミツキが聞く。「そうですよ。当たり前じゃないですか」 わざとらしさすらある、嘆かわしげな声で松崎が答える。
「自分の子どもにだってそれが出来ない人が、全てのトレーナーのためにいられるわけがないんですよ」
ミツキは、それに同意も反対もしなかった。ただ、甘い液体の付着した唇を一度舐めて、「なるほどね」と短い返事だけをする。「君の考えてたことはわかったよ」彼は頷き、ガラスのコップを指で弾く。ミツキの作った少しの間、二人の鼓膜を外の雨音と客の話し声と、あちこちで鳴り響く皿のぶつかる音が揺らした。
「確認したいことは確認出来た」数秒置いてそう言ったミツキが緩く息を吐く。
「とにかく、話はここでおしまい。時間とってもらっちゃって、悪いね。その埋め合わせは、必要だったら別にするから」
だから、とりあえず、そういうことで。 ミツキは直接的には何も告げなかったけれど、言外に含めた意味は前髪に隠れた眼の光となって松崎にも届いた。が、当の彼女はピクリと眉を動かして、「待ってくださいよ」と冷たい声を出す。
「え?」
残り少なくなってきたコップの中身を吸い上げていたミツキが、その言葉に語尾を上げた。隣のテーブル下で主人の食事を大人しく待っている、シシコがきょとんとした顔で二人を見る。
「おかしいんじゃないですか? なんで、そんな流れに……私が、呪いをやめるみたいな流れになってるんですか?」
色素の薄い唇を曲げて、松崎が淡々と問いかけた。窓の外、ガラスを叩く雨がいつの間にかより一層強くなっていた。 ミツキは何も言わず、松崎を見つめて次の言葉を待つ。テーブルで組まれた手も、その下にある足も、前髪の奥の瞳も動かないままだ。
「馬鹿にしてるんですか」そんな彼に、松崎は続けて言葉を放ち続ける。「こっちだって事情があって、そんなでもなけりゃあんなことしませんよ。それなりに色々あるってんのに」冷静で落ち着いたその早口は、しかし、確かな苛立ちと嘲笑を内在させていた。
「さっきから好き勝手言ってるみたいてすけど、私が大人しくやめるなんてわからないでしょう? あなたは私があなたに従って呪いを解くみたいな前提で話してるみたいだけど、そんな保障どこにあるんですか?」
「……………………」
「おかしいじゃないですか。そんな簡単に解くくらいなら、初めからこんなことしませんよ? こっちだってそれなりのリスクは覚悟の上ですよ、こんな、ちょっと説教されたくらいでやめると思います? やめさせたいなら、力ずくでやってください。こんな話すだけじゃなくて、ちゃんとお互い、闘って――」
「――――――いいよ。君が言うなら、そうしようか」
矢継ぎ早に発される松崎の言葉を不意に遮って、ミツキがそっと口を挟む。
「お互い闘って、ね。君が、それがいいって言うんなら、僕は喜んでお受けするよ」
「…………え?」
「シマ争いとか、仇打ちとか。あとは、腕試とかいう迷惑な道場破りとか。慣れてるからさ。お望みとあればいくらでも、僕でよければ相手になるよ」
そう言ったミツキの声は変わらず明るいものだったが、「でもさぁ」先ほどまで含まれていたようなふざけた調子は掻き消えていて、「ちょっと考えれば、わかんないかな」代わりに、氷すら及ばないほどに冷えきった色へと変わっていた。
そこで松崎は、自分達を取り巻く全てがおかしいことに気がついた。店にいる客も、店員も、キャンドルに灯った炎も、窓の外を歩く人やポケモンの姿も、ガラスに打ち付けられる雨粒も、その全部が刹那を切り取られたかのように動かない。自分とミツキを残して世界が時間を止めたという異常に、松崎は全身の血が一気に冷たくなるのをどこか他人事のように感じた。
「君が僕に――――生まれてこの方呪術で生きるしか道が無くて、普通の社会生活も出来なくて、まともに人間としていられなくて、名前も人生も権利も未来も一回全部捨てて、サイキッカー以外の可能性なんてゼロの僕に、勝てるとでも思ってるの?」
そう言ったミツキの表情は笑顔のままだったが、彼の後ろ、時間が止まったカフェの情景があるだけのそこには、禍々しい何かが渦巻いているようだ。目には見えないけれど、そこには確かに、いる。かじった程度とはいえ呪術に触れた松崎には、それが嫌でもわかってしまった。
「君はちゃんと家族がいて、普通に生活してきたんだよね」黒い前髪の陰の奥で、二つの瞳が鋭い光を放つ。「それを悪く言う気は毛頭無いけど、」暗闇の中に浮かび上がるそれは、酷く恐ろしい力を持っていた。「そんな人に見くびられるのは、ちょっと僕は我慢出来ない」
「あんなメールもらって丸腰で来ちゃうような、何の罠も仕掛けも策も用意しないような、のうのうと首謀者自ら顔見せちゃうような、そんなツメの甘さなのに、僕に喧嘩売るっていうの? 自分で言うのもなんだけど、僕はプロだ。プロのサイキッカーだ。個人的な恨みだの何だので動くようなものじゃなくて、他人のそれを生業にしてるようなヤツだ。そうするほかないから、呪いと魔術でこの世に縋り付いてきたようなヤツなんだよ。わかるよね? 君も、少しくらいは」
淡々とした、特段怒りも悲しみも滲まない、どちらかと言えば楽しそうにさえ聞こえる声にしかし、松崎は深い深い闇の底のような気迫を感じざるを得なかった。
この人は、まともな存在では無い。根拠はどこにも無いし何の証拠も無い考えだったが、それは確信に他ならなかった。
「それでも、君がそれでも僕と闘うんだって言うなら僕は何も言わない。何度だって相手してやるよ、君が何も出来なくなるまで、いくらでも返り討ちにしてやるよ。君が全部捨ててサイキッカーになって、僕を負かすまで何度でもやってやるよ! それくらい、君が考えてるっていうんなら!!」
周囲の空気が生温かく歪む。押し広げられるような、それでいて潰されるような不快感に、松崎は息をすることすら出来なくなってしまった。
止まるのではないかと思うほどに速くなった鼓動に見開いた目は、ミツキを見ることしかかなわない。「それが嫌なら、諦めなよ」残酷なまでにまっすぐな声が耳を撃つ。「だって、君は」彼の口許がゆっくりと動くのに、松崎は自分が意識を保てているのかわからないくらいに頭の中が白くなっているのを感じた。
「君はさ、きっと……サイキッカーなんかにならなくたって、もっといい選択肢がいくらでもある人間だから」
ふっ、と、ミツキが声を柔らかいものにする。途端、二人の周りの世界は動き出し、雨日のカフェは何事も無かったかのように音を取り戻していた。
「君がサイキッカーになりたい、って思うならそれでもいいけどさ」全身の力が抜けてしまったらしく、椅子にもたれたまま動けなくなった松崎にミツキは言う。「誰かのことを恨んだり羨ましかったりっていう理由だけで、なるもんじゃないと思うからさ」
「じゃあ、今日のところはとりあえずこれで。ギルガルドちゃんにもよろしくね」
もう会わないかもしれないけど、と付け足して、ミツキはコップの残りを吸い上げる。チョコの粉末が沈殿してまっ茶色になった液体と、側面にこびりついたクリームを若干未練たらしそうに見遣り、彼は椅子を後ろにずらして立ち上がった。
「あ、そうだ。一個言っときたいことがあったんだ」
ジャケットの前を軽く正したミツキが去り際、不意に思い出したように言う。
うなだれていた頭を僅かに上げて、松崎が彼の方を見た。その、光を失った目に向かって、ミツキはこの店に入ってきた時のような、軽い調子の声を出す。
「根元信明選手が、ここ最近とんと女性問題起こさなくなってるけど、その時期と君があの人のとこに来た時期が重なってるっていうのは、流石に君も気がついてるよね?」
「……………………」
「もしも、……根元さんが、今まで女の人にかけていたお金を使わなくなった分、貯めてる理由がさ。次のリーグでトレーナー引退して、君といる時間を作ろうとしてるっていうんだったら、君はどう思うかな」
それだけ言い残し、ミツキは片手を振りながらくるりと背を向け歩き出した。
ごく自然な動作で店を出てしまった彼に取り残され、松崎は一人、冷めきったコーヒーを前に座り込んだままである。窓ガラスを濡らす雨の音が頭の奥まで鳴り響く中、彼女はただ、穏やかな時間の流れる店内で俯いていた。
◆
「ヒノマル、ニンフィアにギガインパクト!」
「追い詰めてやるぞチャーム、ギガドレインだ!」
悠斗と相生、岬と山内のマルチバトルが始まって数十分ほど。良く言えば盛り上がるギリギリの戦い、悪く言えば泥試合となったこのバトルは、四者全てが残すとこら一匹という状況となった。
最初に沈んだのは岬のガルーラで、数度に渡るマリルリのばかぢからやじゃれつく、アクアジェットに押し切られて倒れてしまった。しかしマリルリもその間受けた、グロウパンチやけたぐりのダメージが蓄積していたところに山内のコジョンドによるとびひざげりを喰らってあえなく戦闘不能。交代で出てきたシャンデラのエナジーボールと、相生のサーナイトのサイコキネシスによってコジョンドは退けられたのだが、次に出てきたジャローダのリーフストームでサーナイトはぐったりと力尽きた。
「かわしてオーバーヒートだミタマ!」
悠斗が叫び、シャンデラが蒼い炎を勢いよく放つ。それは見事にジャローダを包み込んで燃やし尽くそうとしたが、しかし「うちのチャームは一発じゃ落ちん!」細い眼を輝かせ、炎の中から這い出たジャローダに、シャンデラは気圧されたようにして天井へと一時避難した。
「クラリス、ムーンフォースッ!」
「リーフストームだ、チャーム!」
相生のニンフィアが、神々しい光を頭上に集めて一気に放射する。しかしそれを凌駕する勢いで、ジャローダの放った葉々の奔流が聖霊の光線を打ち破った。撃ち込む度に威力を上げるその技に、ニンフィアが唖然と立ち竦む。
「シャドーボールで押し退けろ!」悠斗の声に応えたシャンデラが、ニンフィアの前に立ち塞がって紫の弾を高速で放つ。全身を黒い影に射抜かれたジャローダは長い体勢を崩しかけたが、「もう一度リーフストーム!」すぐにまた、威力をさらに増した十八番をシャンデラ目掛けて解き放つ。たまらず喰らったシャンデラの下で、「今よヒノマル、ニンフィアにギガインパクト!」岬が叫んで、ケッキングが力の限りを尽くした光の塊をぶん投げる勢いで放った。ぶっ飛ばされたニンフィアは、「ハイパーボイスだクラリス!」よろめきながらも大口を開けて大音量の声を喉からぶっぱなつ。
技と技が交錯する戦場で、誰が最初に力尽き、誰が最後に残るかわからない。互いの戦意と闘志と気勢だけが渾然一体となって、それ以外のものは何もかも、十六の瞳からは消え去っていた。
そして、それが、唐突にやってきた。
自分が飛ばす指示と、ポケモン達の鳴き声と、わざとわざがぶつかり合う音に紛れて聞こえてくる、今この場に存在しないはずのものが確かに耳に届く。
「ミタマ、よけろ! シャドーボールだ!」
巧妙なテクニックには人一倍自信があるという、有原のベースが細かく音を刻んでいる。自分の口から発された声に合わせて、シャンデラが闇の底から這い出るような音と共に深い紫をした魔弾を生み出していく。
「こっちには通じない、ヒノマル! ニンフィアにアームハンマーよ!」
耳をつんざくようなほどの鋭さと激しさを持った、しかし吹き抜ける一陣の風のような爽快さでもある、富田のギターソロが耳の奥を駆け抜けていく。岬の強かな声に弾かれて、ケッキングのぶっとい腕がニンフィアめがけて振り下ろされる。
「チャーム、こっちもいくぞ! 相性なんかもう気にするな、最大レベルのリーフストームッ!」
怒涛のように押し寄せるドラムの音、それは、楽器に隠れてあまり見えないが、こうしている時にはアフロ頭が物凄いことになる二ノ宮の得意技だ。畳み掛けるようなその音達に割り込んで、山内の大声とジャローダの美麗な葉音が交差する。
「ハイパーボイスだ、クラリス!」
隣に立つ相生が、芯の通った声をまっすぐに飛ばしていった。ケッキングの、暴力的な攻撃を跳躍して避けたニンフィアが四つの脚で着地すると共に大きく、大きく口を開ける。
その小さな身体のどこから生まれているのだと思うほどの、何もかもを揺るがしそうな叫声にコート中が震わされた。そのせいか、それとも違うのか、悠斗の視界がガクンとぶれてノイズが走る。痛みに似た衝撃が頭で弾ける中、それでも悠斗は戦場に向かって声を出した。
「今だミタマ、一気に終わらせてやれ、全力で――――」
そんな叫びが終わるよりも前に、悠斗は自分の意識がどこかへ引っ張られるのを感じた。
何より激しい戦いが繰り広げられるコートではなく、自分が本来立たなければならない場所へ、立ちたいのだと強く願ってやまない場所へ、誰かが自分を引っ張っているようだった。
長いこと聞き慣れた、ギターの音が聞こえてくる。
それに身を委ねるようにして、悠斗は真っ白に染まった視界を瞼で覆った。
ほんの僅かな刹那、全てが見えなくなって聞こえなくなって、そして、
「――――終わりに近づく、一駅分の二人旅を……」
次に目を開けた時、悠斗はキドアイラクのバンドメンバーが奏でる音の中、最後のサビを歌い上げていた。
高らかに、軽快に、優しく、それでいて少しだけの切なさを以て、そして愛おしく。マイクスタンドを越えて、目の前の客席すらも部室の壁すらも超えて、どこまでも自分の歌声を響かせるように、彼は歌う。富田のギターと、有原のベースと、二ノ宮のドラムと混じり合うように歌詞を追い、リズムを刻み、メロディーラインを駆けていく。
最後の言葉が口から溢れ、後奏は曲の終息へと向かっていく。背中に一筋の汗が伝い、落ちていくのを感じながら、悠斗は長い長い息を吐いた。
「悠斗、っ……」
無意識に振り向いた悠斗の視線の先で、富田が口の動きだけでそう言った。悠斗はそれに笑顔を返し、マイクスタンドから離した片手の親指を立てた。
富田が目を丸くして、それから笑う。続いて、悠斗のサインをどう受け取ったか、有原と二ノ宮も満面の笑みを顔中に浮かべてそれぞれガッツポーズを決めた。四つの笑顔が交差した中心、ギターの余韻が消えるその瞬間に、互いの視線が混じり合う。
「最高!!」
「キドアイラク最高!」
「絶対いける!!」
途端、部室中に割れるほどの拍手と歓声、口笛や足音などが反響した。演奏を聴いていた全ての者が、口々に賞賛の声を発して輝かんばかりの笑みを湛えている。人もポケモンも同じようにして、たった今披露されたステージに魅了され、夢のような時を送った顔をそこに浮かべていた。
上がった息を整えながら、悠斗は潤む視界でそれを見渡す。見知った顔も、知らない顔も、紫色の顔も毛深い顔も長い牙が突き出た顔も――皆が、自分達の音楽に拍手を送り続けていた。惜しむことのない、大きな拍手を。
悠斗は、喉の奥から溢れ出しそうな熱をぐっと抑えて息を吸う。
その、夢に見た、そしてこれからも夢見続ける、ここで生きていきたいのだと願ってやまないこの場所で、
「――――ありがとうございました!!」
彼はそう、声をいっぱいに響かせた。
◆
「えー、今日はお集まりいただき、ありがとうございます……」
少しの距離で仕切られた客席を見渡して、泰生はマイク越しに挨拶する。可能な限り物を取っ払った部室に押し込められているのはサークル員達のみならず、一軽の者が連れてきたポケモンも確実にスペースを取っている(一軽の部員曰く、彼らもバンドメンバーらしいが)。しかもそれに感化されたのか、二軽のサークル員までもがポケモンを出しているせいで、狭い部室は飽和状態を通り越して廊下に溢れかえっている者が出る始末だった。
「一曲だけの演奏ですが、聴いてください」シンプルな口上に、それでも皆は歓声や拍手などで盛り上がる。一軽のメンバーたるバシャーモが、首から下げたギターを長い爪で掻き鳴らして(フォークギターだけど)さらに場を沸かせた。彼らに一度軽く礼をして、泰生はマイクを握って言う。
「それでは、どうぞ……『始発電車を待ちながら』」
その言葉が終わると共に、二ノ宮がスティックを四度、打ち鳴らす。そして有原と富田がそれに乗るようにして両指を動かし始めて、部屋中に曲の始まりが告げられた。
勢いのあるスタートを切った前奏に、泰生はすっと息を吸う。あの後皆で話した結果、曲は結局変えなかったのだけれども、悠斗がかけ合って『始発電車』の歌詞の一部を変更した。ただ単にポケモンを登場させないのではなく、それに触れた上で、それでも自分達の足で駅一つ分の距離を歩いていく、という歌詞に変わったのだ。
その言葉を追いながら、泰生は歌う。歌詞を語り、リズムを刻み、音階に身を寄せているとどうにも、自分が何かと一体化しているかのような錯覚に陥った。富田のギターが低音から高音を一気に移動する。有原のベースが低く重い音で空気を震わせる。二ノ宮のドラムが軽快かつ着実なテンポで鳴り響いた。そこに音を載せていきながら、泰生は不思議な高揚感を覚え、首筋に汗を伝わせた。
それは、その時、急に訪れた。
富田達の演奏と、そこに乗せる自分の声と、サークル員達の手拍子と、少しばかり混じる機材のノイズ。
そこに見え隠れするようにして、ここには無いはずの声が聞こえてきた。
『ミタマ、よけろ! シャドーボールだ!』
凛と重く通った声に続いた、肌が粟立つ影の音。それを掻き消すようにして奏でられる、スラップベースのテクニカルな音の波。
『こっちには通じない、ヒノマル! ニンフィアにアームハンマーよ!』
空気を切り裂く女声と、空間全てをぶっ壊すような鈍い音。そこに被さるのは六つの弦を目にも留まらぬ速さで行き来する、派手な旋律のギターソロだ。
『チャーム、こっちもいくぞ! 相性なんかもう気にするな、最大レベルのリーフストームッ!』
勢いづいた男の声と、夏風のような涼しさを持った、しかし底知れぬ力を兼ね備えた葉擦れの音。それと競い合うように、また溶け合うようにして、両腕を限界まで動かすドラムセットの音達が耳に飛び込んでいく。
『ハイパーボイスだ、クラリス!』
爽やかな叫び声を押し退けたのは、どんなスピーカーを使ってもここまでの大音量は出せないのではないかと思われるほどの、鼓膜が破れそうになるくらいのとてつもない嬌声だった。
間奏が終わり、最後のサビに続くメロディーを泰生は歌う。視界がぼやけ、マイクに置いた自分の手も、少し前方にいる皆のことも、まともに見えなくなってきた。それでも口と喉は自然に動いて、彼をどこに連れていくように歌い続けた。ギターとベースとドラムの音に引っ張られ、引っ張るようにして、泰生の歌声が響いていく。
まるで、誰かと共にそうしているみたいに。
ギターの音と飛び交う指示と手拍子の波と轟音とドラムのリズムと誰かの悲鳴とベースの低音と高らかな咆哮と自分の歌声と、
そして彼の意志が大きく耳に響いて、
『今だミタマ、一気に終わらせてやれ、全力で――――』
一瞬だけ視界が真っ白に弾け、あまりの眩しさに刹那目を閉じて、泰生は大きく開いたその口で、
「――――オーバーヒート!!」
ポケモントレーナーとしての言葉を、064事務所のコートいっぱいに響かせた。
最後の最後とばかりに奮い立ったように、シャンデラが全身の炎を強めて高く舞う。恐ろしいほど大きなシルエットとなるまで膨れ上がった蒼い炎は、彼を包み込んでもまだ余りあるほどで、その標的となったケッキングとジャローダは、呆然として見上げるしかなかった。
「チャーム、よけ――」慌てた口調で山内が叫ぶが、「でんこうせっか!」間髪置かずに指示を飛ばした相生と、すかさず飛び出したニンフィアがそれを許さない。軽やかな体当たりをモロに喰らったジャローダは回避をすること敵わず、彼女が再び目を開けた時には既に、ケッキング共々自分達を覆い尽くす、視界いっぱいの蒼の炎が燃え盛って迫ってくるところだった。
「……………………」
その炎も収束し、煙を残して消えた中、コートには全身を焦がして倒れているケッキングとジャローダ、そして得意げに胸を張るニンフィアと、満足そうに宙を漂うシャンデラが残されていた。それに一度頷いて、泰生は後ろを、壁に沿ってバトルを見ていた森田がいる方を振り返った。
「泰さん……!?」
裏返った声で森田が言う。丸い目をいっぱいに見開いて、彼は口をぱくぱくさせた。
それに片手を上げて返し、泰生は深い頷きを返す。それから視線を移した先、自分の元にゆっくりと漂ってくるシャンデラに、彼はそっと手を伸ばした。
ふわりふわりと揺れる、不気味にして幻想的、そして美しさを持った蒼い焔。ある種恐ろしくも見える黄金の瞳にはしかし、泰生に向けるいくつもの感情が見え隠れする。言葉の代わりに炎を揺らした相棒の身体に泰生の手が触れて、抱きかかえるように腕を回した。
「羽沢さん! ありがとうございました、勝ちましたよ!」
「負けちゃったかぁ……お疲れ、チャーム」
「オーバーヒートには敵わないわね、流石だわ」
相生が、コートで喜びに踊っているニンフィア同様、飛び跳ねんばかりの勢いで泰生に笑いかける。山内が苦笑を浮かべながらしゃがみこんで、床に伸びたジャローダの背筋を優しく撫でた。岬は肩を竦め、目を回して倒れているケッキングの片腕をぽん、と軽く叩き「お疲れ」と告げた。
「ケッキング、ジャローダ、戦闘不能! よってこの勝負、相生・羽沢ペアの勝利!」ジャッジ役の職員が声を張り上げる。コートのあちこちでは未だバトルが続いていて、誰もが勝星を獲るべく前を見据えて闘っている。人もポケモンも一緒になって、ただひたすらに、より高いところを目指して進み続けている。
泰生は、頭の中に駆け巡る様々な記憶から意識を戻して息を吸う。
その、ここしか無かった、自分の唯一無二であった、ここで生きていくのだと決めてから一度も揺らぐことのないこの場所で、
「――――ありがとう」
彼はそう、心の底から生まれた言葉を口にした。
◆
「あームラクモ? 僕だよ、うん、終わったよ。え? 聞いてたでしょ、特に何も無かったよ、うん。まあ、わかってたけどね、アマの呪いにしてはいい方だって」
店を出たミツキは傘を持っていない方の手で携帯電話を取り出し、耳に当てるなり話し出す。勿論それはカモフラージュにすぎない、ムラクモとのテレパシーを隠すための手段だ。
『ひとまずお疲れ』携帯のスピーカーなどではない、ミツキの頭にムラクモの声が直接鳴り響く。『で、肝心の解除はしてくれそうなのか?』仕事にはいつでも真面目な相棒の言葉に、結論を急ぐその顔を想像しながらミツキは「まーね」と気の抜けた答えを返した。
「結構キツい感じで言ってやったし。アレだけ言われてそれでもやめないとか、それはバカでしょ。流石にあの子がそこまでの駄目な奴だとは思いたくないよ」
『それはなぁ。お前にあそこまでされて、まだ食い下がったらそれはマジモンの阿呆だよな。つーかお前大人気なさすぎだろ、腹立つのはわかるけど色々ぶちまけすぎ』
「ゴメンゴメン。一応、半分は脅しの演技だったんだけどね、ついいらっときちゃってやりすぎちゃった……とりあえず万が一、ホントに何もしなかったら本当に力ずくでいくけどね」
そこは心配いらんでしょ。軽い調子でそう呟いて、ミツキはビニール越しの雨空を見上げる。あの、それなりに恵まれててそれなりに恵まれなかった少女は今も、手つかずのコーヒーを前に俯いているのだろうか。水滴で滲んだ鈍色の視界に、そんなことを考える。
『それより、ミツキ』ムラクモの声が思考を遮って、ミツキは前方へと視線を戻した。黄色いお揃いのレインコートを着て、少年とジグザグマが水溜りの水を跳ねさせながら走っていく。その飛沫が数滴高く飛び、ミツキの頬をピシャリと濡らした。
「うん? なにかな、ムラクモ」
それを傘の柄を持った指先で拭いつつ、ミツキはタマムシのどこかにいるムラクモへ尋ね返す。『なんで、最後余計なこと言ったんだよ』返ってきたのはそんな疑問だった。『あのガキにあんなこと、教える必要も義理も無いだろ、俺らには』
「そうだけどさ。確かに、言わなくて良かったなって思うし」
『だろ? つーか、お前行く前は言わない気満々だったじゃねーか。絶対教えてやるもんかってくらいでさ』
その言葉に苦笑して、ミツキは「そうだね」と照れたように言う。「でもさ、あの子見てたら気が変わって」雨音に溶けるような声で、彼はそこに笑みを滲ませた。
『なんだよ。かわいかったからか? お前のタイプじゃないだろ、『おじょうさま』は』
「まぁ、僕はOLとかおねえさん系列属性だからね……それは違くて。――なんかさ、あの子にも、ちゃんと進んでほしいって思ってさ」
ミツキの返事に、ムラクモが黙る気配がした。「呪いって体力とか結構削るし、慣れてないなら尚更。その代償分はあの子だってもらっていいでしょ」前髪の奥に隠れた両眼を少し補足して、彼は半分独り言のように言う。「あとさ、」
「羽沢さんと悠斗くんが前に進めたんだから、あの子だって、まだ遅くなんかないし。せっかく生きてるんだから、後悔はなるべくしないように、してほしいなって思ったんだよね」
しばらく間を置いて、ムラクモは『なるほどな』と溜息と共に答えた。『お前はそういうヤツだよ』観念するような語調で、ミツキの相棒たるゲンガーは、ミツキに向かって言葉を送る。
『本当に優しい奴だよな、ミツキは』
「まーね!」
明るくそう言ったミツキに、間髪置かず『調子乗んじゃねえぞ』とツッコミが入る。すっかりトゲトゲしさと苛立ちを取り戻したそのセリフは、ミツキの頭にガンガンと響き渡った。
『優しい分の一億倍はお前、ただのクズでしか無いからな!? 俺知ってっからな、お前最後アイツが放心してんのいいことに、自分が飲んだ分の金払わないで出てきただろ!? 何ナチュラルにおごられてんだお前は!!』
「あ、バレた? いや〜人の金で食べる美味いものは本当においしい!!」
ぎゃあぎゃあと頭の中に響くムラクモの小言を慣れた調子でスルーして、ミツキは「あっ」と声を上げる。
鼓膜を揺らす雨音が聞こえなくなったと思ったら、いつの間にか空の隙間から綺麗な青が覗いていた。タマムシの道を歩く人々と同じようにビニール傘を閉じて、彼は大きく伸びをする。
「ムラクモー」
間抜けな声で呼びかけたミツキに、『んだよ』とムラクモが不機嫌に返す。「部屋の洗濯物干しといてー、あと今日の夕飯ラーメン食べに行こう」
至極どうでもいいその内容にムラクモは一瞬、呆れたように絶句したが、『わかったよ』と溜息混じりに答えた。それに満足げな相槌をして、ミツキは雨の匂いに満ちた空気を大きく吸う。そんな彼の横を、どこからともなく現れたバタフリーが五、六匹、雨の終了を喜ぶみたいに飛んでいった。
「これで虹でも出ればいい感じに綺麗な終わり方なんだけどなぁ。そこまで求めるのも贅沢かな」
益体の無いことを呟いたミツキに、ムラクモが『なんか言ったか?』と問いかける。なんでもないよー、とそれに声を返し、ミツキは携帯から響いた本物の通知音――森田と富田の名前が表示されたそれに少しだけ微笑んで、晴れていく町並みを仲間の待つ家へと向かい、上機嫌で歩いていった。
陰 下
四つ子がエイジに連れられてやってきたのは、さらに坂を上った先、高台にある池のほとりだった。
山の中、空気はひやりとして、街灯が周囲の地面に光を投げかける。
夜空は晴れ渡っていた。月はまだ登らない。星ばかりが瞬いている。
夜風が池のおもてを撫ぜる。
エイジは、池のほとりにあったベンチに四つ子を座らせた。そして自分はそのベンチの前に立ったまま、にこにこと喋り出す。
「いやぁ、マルチバトルお疲れさまでした……。素晴らしいバトルだったと自分は思いますよ」
四つ子は無言で青年を見返す。落ちこぼれのトレーナーにそのように称賛されても、誇らしくもなんともない。
青年は困ったように笑う。
「……四つ子さん、まだ自分のこと疑ってるんですか? なんでですか? 道案内も荷物持ちもしたのに」
「うさんくせ……」
「貴方、家庭教師っていう名目だったでしょうに。いつの間に僕らの従僕になったんです」
「役に立つからほっといたけどさ。あんた、けっきょく何者なのさ?」
「もうずっと貴様と行動を共にしているが、貴様が何をしたいのかさっぱり分からない」
四つ子はそれぞれの膝の上に乗せたヒトカゲ、フシギダネ、ピカチュウ、ゼニガメを撫でつつ口々にそう言った。するとエイジは、困ったように首を傾ける。
「だって、四つ子さん、自分のこと無視して、なんにも訊かないじゃないですか……」
「俺らのせいかよ。甘えてんじゃねぇよ、言いてぇことあんなら主張しろよ」
レイアが不機嫌そうに言いやる。ヒトカゲの尻尾の炎にその顔が赤々と照らされている。
エイジはくすりと笑った。
「……ねえ、四つ子さん。今日のシャトレーヌは、本調子じゃなかったんですよ。このところご多忙でしたからね……」
「へえ?」
「原因は三つほどあります。一つ目は、四天王の来訪。二つめは、反ポケモン派やポケモン愛護派の攻撃。三つめは、フレア団です……」
四つ子が黙っていると、エイジは勝手に話し出した。
「四つ子さんが遊び呆けてらしてる間にね、カロスリーグの四天王がバトルハウスに来られたそうです……。まあポケモンリーグも休閑期というか、まあとにかく今はリーグ関係者様にとってもバカンス日和なんですね。というわけで、四天王の皆さまもキナンに遊びに来られているようです」
サクヤが片眉を上げる。
「――で? 四天王の相手で疲れたから、シャトレーヌ四姉妹は本気が出せなかった、と?」
「まあ、四天王の皆皆様のおもてなしに追われたのは事実でしょうねぇ……」
しかしそれだけではありません、とエイジは楽しそうに続けた。
「反ポケモン派とポケモン愛護派の攻撃ですよ。まず、ポケモンバトルを対象に賭博をするなどけしからん、若いトレーナーの教育上、非常によろしくない。そのような賭博行為に国民の税金を投入されるのはまっぴらだ。ギャンブル依存症等の社会問題への対策をしろ、それができないならバトルハウスを取り壊せ――。……とまあ、バトルハウスで行われている賭博に対し、訴訟まで提起されかねない勢いでして」
「格好の攻撃材料だな」
サクヤは鼻を鳴らす。
「というわけで、若くしてバトルハウスのオーナーを務めていらっしゃるバトルシャトレーヌ様方は、大変苦労なさっているわけです。……そう考えると、今日きっかり皆さんの20戦目のタイミングでバトルの場に現れたことすら、驚くべきことですよ」
エイジはそう語った。
四つ子には、オーナーという立場の人間が何をするものなのかは全くわからない。しかし、バトルハウスは何やら面倒事に巻き込まれており、そのためにバトルシャトレーヌはバトルに集中できていないということらしかった。
それからエイジは嬉々として、バトルハウスの危機を語った。
バトルハウスはキナンシティの目玉だ。
上質のバトル、そして何より、それを対象とした大規模なギャンブル。実は賭博に興じていたのはあの大広間の二階にいた客たちだけではない、バトルハウスの別室ではその数十倍、数百倍もの客が大画面でのバトルの中継を楽しみつつ金銭を賭け合っていたのだ。一回で数十億単位の金銭がやり取りされるVIPルームなども用意されているという。
バトルハウスでの賭け事を楽しみにキナンを訪れる観光客は、かなりの数に上る。富裕層も多く引きつけられる。そうなると多額の入場料がバトルハウスに入り、バトルハウスを後援しているポケモン協会にも多くの利益が流れ、また国にも多額の税収がある。
バトルハウスはキナンの各施設の、稼ぎ頭なのだ。そしてバトルハウスを訪れた観光客がホテルやその他の施設に足を運び、キナン全体を潤す。そういう構造になっている。
だから国家も、ポケモン協会も、バトルハウスを潰すわけにはいかない。
一方で反ポケモン派やポケモン愛護派の人々は、バトルハウスを潰すことを目的としている。その手段として、そのような賭博に目をつけただけだ。
そのようなバトルハウス閉鎖に向けた運動に対抗するため、国家やポケモン協会は総力を挙げている。メディアに圧力をかけ、バトルハウスに関するきな臭い動向を秘し、また弁護士会に圧力をかけてそのような訴訟に協力しないよう迫る。
国家やポケモン協会による威嚇は、ときにカネだけでなく、実力行使も伴う。
ときにその地方で暗躍する犯罪組織と結託して、意に沿わぬ集団を潰すのだ。
例えば、カントー地方のロケット団などもそうだ。
ロケット団はゲームコーナーによって資金を集め、人のポケモンを奪ったり非人道的な研究を繰り返したりしているという噂がある。国家も、表面上はそれら犯罪組織による違法行為を取り締まっている。しかしそれは表面上に過ぎない。
国家も裏では、犯罪組織を利用する。
なぜなら、国家もロケット団のような犯罪組織も、所詮は同じ“ポケモン利用派”だからだ。
その目的である『強いトレーナーを育て、強いポケモンを保持すること』は共通している。そのやり方が合法か違法かの違いだ。
現代は自由民主主義社会だから、国家は表向き国民の望むような施策をしなければならない。ギャンブルを規制し、非人道的な研究を禁じなければならない。けれど、国家はわざと法に抜け穴を作り、犯罪組織を泳がせ、そして『国家の本当にやりたいこと』を犯罪組織にやらせるのだ。
確かに、国家が国民を傷つけるなどということは許されない。
しかし、犯罪組織が国民を傷つけたところで、国家の威信は傷つかない。
どの国も同じだから、国際的な地位にも変化はない。
どの国も、国の暗部たる犯罪組織を飼っている。
公然の秘密だ。
ただ国民はそれを知らない。
「――だから、ここにはじきにフレア団が来るんです。邪魔な反ポケモン派やポケモン愛護派を、潰すために。国の意向でね」
エイジは笑顔でそう言った。
いきなりそのような話を延々と聞かされても、四つ子も困る。
国だの、犯罪組織だの。
眉を顰めたのは、ゼニガメを抱えたサクヤだ。
「なぜ貴様はそれを知っている」
サクヤは顔を強張らせて、エイジを睨んでいた。レイアやキョウキやセッカにはまだエイジの話がつかみ切れておらず、そのような話を聞かされてもそうかとしか思えないのだが、サクヤだけはエイジを警戒し出していた。
エイジは両手を振る。
「いや……自分は以前反ポケモン派やポケモン利用派に属していたから、そういった後ろ暗いことも知れたんですよ……。あ、これ、内緒にしてくださいね、でないと自分もフレア団に消されますから」
そして本当にエイジは声を低めた。
夜の池のほとりは、無人だった。風の鳴る音ばかりが聞こえてくる。
サクヤの声はまだ固かった。
「なぜ、そのような話を僕らにした?」
「よくぞ訊いてくださいました」
エイジは微笑み、そして屈み込んだ。蹲り、ベンチに座っている四つ子をエイジが見上げる形になる。
「……こういう後ろ暗いことはね、まず、国民に広く知らせることが大事なんです。本当に、それが大事なんです」
エイジは寂しげに笑った。
「でも、メディアは国やフレア団に牛耳られています。告発しても、テレビも新聞も報道しない。むしろ告発した人間をマスコミが探し出して、こっそり当局に引き渡すんです。そして、司法という正当な手続きを踏んで刑罰が科される――と思いますか? とんでもない……闇の中に葬られるんですよ」
四つ子はまじまじとエイジを見つめて、その話を聞いていた。何か恐ろしい話を聞いているような気がした。
「フレア団にね、消されるんです。行方不明になるんです。そのまま見つからないから、死んだことにされるんですよ……」
蹲ったエイジは、四つ子の足元を見つめている。
「うっかりそういった後ろ暗い処分が表沙汰になって裁判になってもね、ポケモン協会が口裏を合わせるんですよ。そして、裁判になってもフレア団の人間を無罪にするんです。検察も、弁護士も、裁判官も、みんなして口裏合わせて、弱者を虐げ――」
「あの方はそのようなことはしない!」
鋭い声に、エイジは顔を上げる。
ゼニガメを抱えたサクヤが、鬼気迫る表情で立ち上がっていた。
「……そのような事が、あるはずがない!」
「サクヤ、落ち着いて」
穏やかな声をかけるのはキョウキだ。フシギダネも柔らかい声で鳴き、サクヤの緊張感を解す。
サクヤは顔を歪めてキョウキを睨んだ。エイジを顎で示す。
「こいつは嘘つきだ。でたらめを言っている。無視するぞ」
「ちょっと、サクヤ、落ち着いて。確かにモチヅキさんは、エイジさんが言うような人でない――と僕も思うよ。でも、モチヅキさん一人じゃ、やっぱり国やポケモン協会やフレア団といった巨大な組織には対抗できない。そういうことでしょ?」
キョウキは普段よりも早口にそう言った。サクヤが口を挟む暇もなかった。
「そうだろ、サクヤ? モチヅキさんは正しかった。でも、一人ではどうにもできなかったんだ。ねえ、サクヤ、そういうことなんだよ……」
さらにキョウキはそう言い募った。
サクヤが息を吐く。
セッカもサクヤに声をかけた。
「俺もモチヅキさんはいい人だと思うよ! モチヅキさんは、悪いことには加担しないよ! モチヅキさんの周りにいる奴がみんな悪かったんだよ!」
「……セッカ」
「だからさ、サクヤはモチヅキさんのこと信じてればいいと思うよ。俺もサクヤを信じるし、サクヤと一緒にモチヅキさんを信じてるからさ!」
ピカチュウを膝に乗せたセッカがにこりと微笑んでいる。膝の上のピカチュウも力強く笑って頷く。
やや肩の力が抜けたサクヤは、溜息をついた。
「……言う事だけは、立派だな」
「なにおう!」
「あー、セッカ落ち着け。サクヤも落ち着いたかよ?」
ヒトカゲを膝に乗せたレイアが口を開いた。
ゼニガメを抱えて立ったままのサクヤは目を閉じる。
「……わからない。急にそのような妙な話を聞かされても困る。…………今日はこのくらいにしてくれ」
その言葉は、長身の青年に向けられたものだった。
エイジは微笑んだ。
「わかりました。……今日の授業はこのくらいにしますか」
四つ子の前にしゃがみ込んでいたエイジは、にこりと笑って立ち上がった。
四つ子は街灯によって逆光になったその長身の家庭教師の顔を、見上げた。
陰 上
「ピカさん、おつかれ! アクエリアスもおつかれ!」
「ぴぃか!」
「ぜにぜーにっ、ぜにぃ!」
ピカチュウが元気よく相棒に応え、ゼニガメが元気いっぱいとばかりにサクヤの腕の中で暴れる。
順調だった。
セッカも、また青い領巾を袖に絡めたサクヤも、当然という顔をしている。レイアとキョウキにできるならば、セッカとサクヤにも必ずできる。その自信があるから、周囲の声援もヤジも気にならない。四つ子にとって何より信頼できるのは、同じ四つ子の片割れたちだからだ。
だいぶ午後も回っている。外の様子はわからないが、もうじき日没だろう。休憩を挟みつつ、二人はここまで連戦を重ねてきた。
セッカは、ミックスオレを飲むピカチュウを微笑ましく見つめている。サクヤは、ミックスオレを飲み干したゼニガメの口の周りを拭いてやっている。二人は完全にリラックスしていた。
セッカがサクヤに話しかけた。
「あのさー、サクヤ」
「何だ」
「次、シャトレーヌだね。なんか美味そうな名前だよな」
「お前、やる気あるのか」
「実を言うとあんまねぇなー」
「僕もだ」
そう、図らずもレイアやキョウキと同じような会話の流れになる。
セッカはぼんやりと眩いシャンデリアを見つめて、ぼやいた。
「……あのさ、さっきのれーやときょっきょのバトル観てて思ったんだけどさ。シャトレーヌ、マジでやる気ねぇよな」
「そうだな」
「なんでだろ。マルチが本分じゃないから? だから手ぇ抜くの? こんなに観客いるのに、よく平気でんなこと出来るよなぁ……って、俺はちょっとさっき感動したよ」
「実力を量られているんじゃないか」
サクヤは腕を組み、静かに答える。
「確かに、マルチは彼女たちの専門ではない。どうせただの見世物だ。しかし、僕らがどのようなポケモンを使いどのように戦うのか、彼女たちは見ているのでは?」
「ふーん。じゃ、マルチで勝って、その後が本番ってわけか」
「今も負けるわけにはいかない。負けたらまた19戦だからな」
「はいよ」
からんからん、とベルが鳴る。
大階段を行き来していた人々が会場に階下に消え、セッカとサクヤの二人だけが踊り場に取り残された。
しかしざわめきは消えない。この日二度目のバトルシャトレーヌの登場。
アナウンスが響き渡る。
「バトルシャトレーヌ、ルミタン様&ラジュルネ様、コンビの登場です!」
広間奥の大扉が、開かれる。
男たちの絶叫が響き渡った。
「ルミタン様ぁ! ルミタン様ぁぁ!! ルミタン様ぁぁぁ――!!!」
「ラジュルネ様ッ、サイッコ――ッ!!!」
緑と赤のドレスを纏った二人の姉妹が、登場とともにくるくると回転しポーズを決める。男たちの歓喜にむせび泣く声が聞こえてきた。
「感動じゃ感動じゃあ、とうとうルミタン殿が降臨なされたっ」
「本気でラジュルネたんに本気で踏まれたい」
セッカとサクヤは、大階段を下りてくる二人のバトルシャトレーヌをまじまじと見つめていた。
「……ボインだ」
「どこを見ているんだお前は」
緑のドレスのルミタン、赤いドレスのラジュルネが二人の前に現れる。
ルミタンがふわりと微笑んだ。そして柔らかい声で歌い出した。
「おヒマやったら寄ってきんしゃい♪ 退屈やったら見てきんしゃい♪ 思う存分戦いんしゃい♪ 勝負するなら♪ バトルハウス♪」
セッカとサクヤは目を点にした。
すると、ルミタンの隣に立つラジュルネが口を開いた。
「今の歌は、バトルハウスの公式キャンペーンソングでしてよっ!」
「あ、なんかどっかで聞いたことあるっす……」
「どうもはじめまして、バトルシャトレーヌのお二方。僕はサクヤ、そしてこちらはセッカと申します。本日はよろしくお願いします」
ゼニガメを抱えたサクヤがいち早く一礼した。セッカが慌ててそれに倣って頭を下げる。
ルミタンはふわりと微笑み、ラジュルネは胸を反らした。
「本日はバトルハウスに、ようお越しくださいました。ウチはバトルシャトレーヌ四姉妹の長女、ルミタンと申します」
「そしてわたくしの名はラジュルネ! バトルシャトレーヌ四姉妹の次女よっ!! マルチバトルに挑むなんて、その度胸褒めてあげる!」
「妹ともども、真心ば込めて精一杯おもてなしさせてもらうけん、よろしくお願いしますね」
「ではっ、貴方がたの力の程、直々に量ってやりましょうっ!!」
ピカチュウを肩に乗せたセッカはぽかんと口を開いて、傍らの片割れにこそこそと呟いた。
「……なんかさ、この上二人っていう安心感がさ、デジャヴってゆーの……?」
「確かに、赤と緑という配色はどこかの誰かさんたちを思い起こさせるな」
そのどこかの誰かさんたちも、階上の観客席からこのバトルを見ているのだろうか。男たちのひっきりなしの声援ばかりが響いてきて、その存在は定かではない。
一も二もなく、ルミタンとラジュルネがそれぞれモンスターボールを放る。
ルミタンが繰り出したのはマンタイン、ラジュルネが繰り出したのはエルフーン。
セッカとサクヤも目の前のバトルに瞬時に頭を切り替えた。
「ピカさん、頼むな!」
「ぴかちゃあ!」
「行け、アクエリアス」
「ぜーに!」
それぞれピカチュウとゼニガメが踊り場に躍り出た。
大広間は拍手と歓声に包まれた。
悪戯心を持つエルフーンが、素早くセッカのピカチュウに宿り木の種を植え付ける。
しかしセッカはそれにも構わず、嬉々として叫んだ。
「ピカさん、ぶっ放せ――!」
ピカチュウが落雷をマンタインに落とした。
マンタインは弱点をついた攻撃を受け、一瞬で焼け焦げ、目を回した。
観客が一瞬静まり返った。
ルミタンがあらあらと笑う。
「ソクノの実も持たせとったんけどねえ?」
「ピカさんの特攻は鬼っすから!」
セッカとピカチュウが笑う。セッカのピカチュウは何も道具を持っていないように見えて、その実、ある日うっかり飲み込んだ電気玉を腹の中に隠し持っている。その隙にゼニガメがラジュルネのエルフーンに向かって威張り散らし、エルフーンを動揺させた。
ルミタンはメブキジカを繰り出す。
エルフーンが半ば混乱しつつも、素早く味方のための追い風を巻き起こす。ピカチュウとゼニガメは強い向かい風を受けてたじろいだ。
そこにウッドホーンで猛スピードで突っ込んでくるルミタンのメブキジカに、ピカチュウは目覚めるパワーを飛ばす。
「ピカさん、電光石火だよー!」
目覚めるパワーの炎を頭から浴びつつ、メブキジカは突っ込んだ。ピカチュウは加速し、それを避ける。
「アクエリアス」
「エナジーボールよっ!!」
ゼニガメがロケット頭突きでラジュルネのエルフーンにぶつかっていくも、エルフーンのエナジーボールがゼニガメの正面に迫る。そこにピカチュウが電光石火で割り込み、仲間のゼニガメを吹っ飛ばした。
甲羅に籠っていたおかげで防御力の高まっていたゼニガメには、ピカチュウの電光石火のダメージなど痛くも痒くもない。逆に軌道が変わったおかげで、エルフーンのエナジーボールを躱すことに成功する。
「アクエリアス、守る」
続けてめちゃくちゃに飛んでくるエナジーボールを、ゼニガメがピカチュウの前に出て守る。
追い風を受けたメブキジカが、まっすぐゼニガメに向かっている。ウッドホーンだ。ゼニガメの背後から飛び出したピカチュウが、メブキジカに炎の目覚めるパワーをぶつけた。ゼニガメもハイドロポンプを撃つ。
間髪入れず、混乱して隙の大きいエルフーンに向かって、ピカチュウは目覚めるパワーをぶつけた。
ラジュルネのエルフーンが焼け焦げ、崩れ落ちる。
ピカチュウは宿り木に体力を奪われつつも、力強く吼えた。セッカも鼻を鳴らす。
「これで四対二! どーだ、ピカさんなめんな!」
「ふん……なかなかやるじゃない!」
ラジュルネが続いて繰り出した二体目のポケモンは、レアコイルだった。
ラジュルネのエルフーンが残したシャトレーヌ側の追い風はまだ吹き続けている。レアコイルはゼニガメに向かって10万ボルトを飛ばす。
しかしその10万ボルトは、ピカチュウに引き寄せられていった。電気を吸収したピカチュウがにやりと凶悪に笑む。
そこでセッカはぴゃいぴゃいと狂喜乱舞した。
「ぎゃははははははははピカさんの特性は避雷針で――っす! 電気ご馳走様でーっすピカさん雷!!」
ピカチュウがメブキジカに、さらに威力の増した雷を落とす。
メブキジカが膝を折る。しかし倒れはしない。ピカチュウに植え付けられた宿り木から体力を吸い取っているのだ。ピカチュウもまたふらつく。
ゼニガメはレアコイルのラスターカノンから身を守り、レアコイルの放つ金属音にひどく顔を顰めつつもハイドロポンプを放った。レアコイルがそれを躱そうとし、水流がその身を掠ったためバランスを崩した。
セッカはサクヤと顔を見合わせた。
「しゃくや、どーする?」
「倒せる方から倒せよ」
「じゃあ、ピカさんばんがれ! 雷だよー!」
セッカはぴょこぴょこと跳ねまわりつつ、ピカチュウに続けて雷を落とすよう命じる。大広間が何度も何度も閃く。いつの間にか風は止んでいる。轟音が満ちる。
メブキジカとレアコイルが沈む。
完封されても、緑のドレスのルミタンはのほほんと笑っていた。
「お二人ともお疲れさまでした。ラジュルネとウチのコンビネーション、お楽しみいただけたでしょうか?」
「全然! だって俺まだ全然本気出してないよ!」
セッカがぴゃいぴゃいと騒ぐと、ラジュルネがぎりりと歯を食いしばった。
「くっ……なんね……わたくしの本分はトリプルバトル……そしてお姉様が得意とするのはローテーションバトルですわ!!」
青い領巾のサクヤがゼニガメを拾い上げつつ、何でもなさそうにぼやく。
「敗北の言い訳ですか。……果たしてそれが言い訳になるのだろうか」
「そうそう! なんてゆーか、つまんなかった! あんたらさ、ほんとにやる気あるわけ? 昼間のレイアとキョウキの相手してた二人もだけどさ、こんな大勢のファンの前でさ、よくそんな適当なバトルできるね?」
ピカチュウを肩に飛び乗らせたセッカがぬけぬけとそう言い放つと、さすがにサクヤの手が伸びてきてセッカの頬をむにとつねった。幸いなことに大広間は男たちの嘆きで埋め尽くされていたため、彼らの耳にはセッカの失礼な発言は届かなかったようである。
ルミタンは笑顔を張り付けているし、ラジュルネは怒りに顔が赤くなっているも必死に何か言うのを堪えようとしている。
サクヤがぼそりと呟く。
「……次はもっとまともに戦っていただきたい」
「……お客様、誠に申し訳ありませんでした。これに懲りず、どうかどうかまたバトルハウスば来てくんしゃい」
ルミタンが申し訳なさそうに、丁寧に頭を下げる。セッカとピカチュウはふんとふんぞり返って鼻を鳴らすが、ゼニガメを抱えたサクヤは深いお辞儀を返した。
「いえ、こちらこそ失礼なことを申し上げました。次はまた別のルールにて挑戦させていただきます。その際はまたよろしくお願いします」
ラジュルネは苦い顔をしていたが、ルミタンに促されて頭を下げた。
「クッ……わたくしたちのコンビネーションを打ち破った程度で、調子に乗りませんことよ……見てらっしゃい……」
「ではお客様、これで失礼いたします……」
緑のドレスのルミタンと赤のドレスのラジュルネは、階段を上っていった。
からんからん、と休憩時間開始の鐘が鳴る。しかし大広間は未だに、男たちの阿鼻叫喚で埋め尽くされていた。
セッカとサクヤ、そしてピカチュウとゼニガメは顔を見合わせた。
そしてセッカとサクヤがとぼとぼと大階段を下りると、丸テーブルについて夕食代わりの軽食をつまんでいるレイアとキョウキ、そしてエイジを見つけた。二人はエイジを無視して、二人の片割れのところへまっすぐ歩いていった。
ヒトカゲを脇に抱えた赤いピアスのレイアが、苦笑する。
「よう」
フシギダネを頭に乗せた緑の被衣のキョウキが、ほやほやと笑った。
「酷いバトルだったね」
「俺はばんがったもん!」
「うんうん、セッカは確かに頑張ったよ。でもサクヤなんて守ってばっかで実質何もしてなかったし、お相手なんてなおさらお粗末なバトルだったねぇ」
ゼニガメを抱えた青い領巾のサクヤは、不機嫌に鼻を鳴らす。
「アクエリアスの威張るでエルフーンの動きを抑制したろうが」
「でもピカさんの一人舞台だったじゃない」
「……とりあえず出ようぜ。ここは空気が悪い」
レイアに促され、四つ子の片割れたちとエイジはバトルハウスの大広間から出た。四人にバトルシャトレーヌを倒されたことに怒りを覚える熱狂的なファンたちの殺気立った視線が、背中に突き刺さって痛かった。
玄関ホールを抜け外に出ると、山間の夜の風が吹き抜ける。四つ子は息をつく。
バトルハウスの中は空気が悪かった。そして暑かった。
煙草の臭いや酒の臭いや男たちの下卑た歓声に日々さらされて、バトルシャトレーヌは疲れないのだろうか。むしろ疲れて、あのようなバトルをしたのではないだろうか。ついそう思ってしまう。エイジは四つ子の後ろでにこにこと爽やかに微笑んでいる。
「……帰るか」
「そだね。一応これでバトルシャトレーヌは全員倒したことにはなるしね」
「なんか超拍子抜けなんですけど。19連勝する方がまだ大変だったしさー」
「これでシングルやダブルやトリプルやローテーションに挑む意義があるか、疑問だな」
四つ子はどこか悄然として歩き出した。今日という一日に意義があったのか分からない。BPはたくさん手に入れた。しかしあの空気の悪いバトルハウスには戻りたくない。BPショップはまた後日寄ることに四つ子はしていた。誰もそうとは口にしていないが、互いの顔を見れば同じことを考えていることが分かる。
そして夜のキナンをぶらついて、突然レイアが立ち止まった。
キョウキが笑う。
「あれ、もしかしてレイア、迷った?」
「……いや、なんでだよ。俺はお前らについてきてたんだけど」
四つ子は道に迷った。
別荘地を目指すべく坂を上っていたのだが、この通りには四人ともまったく覚えがなかった。四つ子はきょろきょろと辺りを見回した。確かにここは別荘地のようだが、四つ子やウズやロフェッカが借りている別荘はどこだろうか。まったく見当もつかない。
四つ子は顔を見合わせた。
そしてレイアがボールからヘルガーを出した。ヘルガーがのんびりと首をもたげる。レイアがそれを見つめ返す。
「……悪いインフェルノ、ちょっと俺らのにおい辿って、俺らの別荘見つけてくんね?」
「がう」
「あ、やだ、ちょっと待ってくださいよー……」
そこで口を挟んだのは長身の青年だった。四つ子はエイジの顔を見上げ、黙って凝視する。それまで無言でにこにこと四つ子のあとについてきていたエイジは、困り果てたような顔で両手を振った。
「いやぁ、道案内させるために四つ子さんが自分に声かけてくれるの待ってたんですけど……酷いじゃないですかー」
そうぬけぬけとのたまう。
四つ子は黙って、街灯に照らされるエイジの姿を見つめていた。
するとなおさらエイジは激しく両手を振った。
「ね、四つ子さん、ちょっとだけ寄り道しましょうよ。……ヘルガーさんを戻してください」
陽 下
バトルハウスで一番楽なのは、18戦目と19戦目だ。
それは、バトルシャトレーヌの登場を心待ちにする観客がこぞって連勝中の挑戦者の応援をしてくれるためだ。どうせ20戦目となれば手の平を返したように挑戦者側を攻撃するに決まっているのだが、広くはない会場で満場の応援を受ければさすがに心強い。
勝負の相手もどこかやる気がない。熱狂的な観客の分かりやすすぎる空気を読むならば、ここは負けなければならないのだ。
19戦目はただの前座に過ぎなかった。
「……あーほんと、やる気ねぇ奴を相手にするほど、つまんねぇことはねぇよな」
「ほんと頭が戦闘民族だね、君は」
「ま、その分、次は楽しめそうだがな」
「楽しいどころか、厳しいだろ。なにせ会場全体が敵なんだからさ……」
赤いピアスのレイアと緑の被衣のキョウキは、ろくにポケモンに指示も下さずのんびりとぼやき合っているだけで、19連勝を果たした。ヒトカゲがレイアの腕の中に飛びつき、フシギダネがキョウキを見上げてにこりと笑う。二匹ともろくに体力を削られていなかった。
レイアがにやにやと笑いながら肩を竦める。
「19連勝、か」
「だねぇ。次が大本命だ」
キョウキもふわりと微笑む。
からんからんとベルが鳴り、休憩時間に入る。マルチバトルの会場である大広間のざわめきはいよいよ大きく、他のルールのバトルが行われる広間からもさらに客が集まってきている。
次のバトルに、バトルシャトレーヌが登場するためだ。
そして赤いピアスのレイアと緑の被衣のキョウキは、大階段の踊り場の手すりにもたれかかって休んでいる。軽食をつまむこともできるが、そのような気にはならない。ここで負ければ、またこの雰囲気の悪い賭場で19戦もしなければならないのだ。二人とも集中していた。
バトルハウス内は相変わらず、騒がしい。
相も変わらず煙草臭いし、昼間からどことなく酒臭いし、コインをやり取りする音が休憩時間ごとにいやに耳につく。
そして暑い。静かに座って見物しているだけの観光客にとってはちょうどいい室温なのだろうが、踊り場で激しい戦闘に指示を下すトレーナーにとっては暑くてたまらない。室温からも、この施設が誰のためのものなのかが窺い知れる。
そして今や、その熱気はさらに高まりつつあった。
19連勝。
もちろん、19回ものバトルを連続で行ったわけではない。数日間にわたって挑戦を続けた結果、通算で19連勝をしただけのことだ。
レイアは額の汗を拭う。キョウキもぱたぱたと手で顔を仰ぐ。
「あー、周りの人間すべてが敵って、こういう状況かよ」
「いわゆる四面楚歌だね。レイア、緊張してる?」
「わかんね。緊張する気も失せたわ」
「やる気あるのかい?」
「実を言うとあんまない」
「なんで。次の相手は美人なのに」
キョウキが笑顔で問いかけると、レイアが溜息をついた。
「……俺はさぁ。女は清純派、男は爽やか系が好みなわけ」
「ほうほう。知ってた」
「でもさぁ、ぶっちゃけ、シャトレーヌって、なんか違くね?」
「お前の好みじゃないってわけだ」
「あざといっつーか……自分を見世物にしてるような女だぞ? どういう神経してんだよ。俺にはマジで無理」
「あんま大きい声では話せないね……」
「アイドルとして偶像崇拝の対象にすんならまだ分かるけどよ。ああでも分かんね、シャトレーヌってどういう気持ちでバトルやってるわけ?」
「彼女たちはきっと、純粋にバトルを楽しんでるんだよ。そして見られることを楽しんでもいる」
キョウキは囁いた。回復の終わったフシギダネを受け取る。
レイアもヒトカゲを脇に抱えつつ、顔を顰めた。
「……変態か」
「常人ではないってことさ。並ならぬ精神力だ。彼女たちから得るものは大きいだろう」
20戦目。
アナウンスが響き渡る。その瞬間、しんと大広間が静まり返った。
「バトルシャトレーヌ、ルスワール様&ラニュイ様、コンビの登場です!」
広間奥の大扉が、開かれる。
男たちの絶叫が響き渡った。
「うおおおおぉぉぉぉっ、ルスワール様ァァァァァァッ!!」
「ラニュイたぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」
青と黄のドレスを纏った二人の姉妹が、登場とともにくるくると回転しポーズを決める。男たちの歓喜にむせび泣く声が聞こえてきた。
「ああっ、ついにルスワール殿を拝めるこの日が来たのかっ」
「ラニュイたん超絶かわいいハアハアハアハア」
レイアとキョウキは、大階段を下りてくる二人のバトルシャトレーヌを苦笑して見つめていた。
「……やべぇ、勝てる気がしねぇわ」
「……僕はどちらかというと、勝っても嬉しくないかも」
青いドレスのルスワール、黄色いドレスのラニュイが二人の前に現れる。
「ぺろぺろりーん! ラニュイだよー! ようこそ! バトルハウスへー! ……んー、えっとー、なんやっけー、ルスワールおねーちゃん?」
「じ、じっ、自己紹介ば、せんと……」
「バトルシャトレーヌ四姉妹の末っ子! ラニュイばいー! いつもはシングルバトルを担当しとるよー! でも今日はー、ルスワールおねーちゃんとマルチバトルしちゃうばいー!」
ラニュイが元気いっぱいに自己紹介する。
しかしその隣のルスワールは、いつまでももじもじしていた。ラニュイが首を傾げる。
「あれー? ルスワールおねーちゃんは、自己紹介せんのー?」
「ご、ごっ、ごめんね……ラニュイちゃん……あっあの、うちはルスワールです……。よっ、四人姉妹の三番目で……ふっ、普段はダブルバトルの担当しとります……」
「――ってスキありー!! てやーっ!!」
ラニュイがルスワールの自己紹介に割り込み、モンスターボールを放った。レイアとキョウキが自己紹介をする暇もなかった。
ラニュイの投げたボールから、プクリンが現れる。
妹に置いていかれたルスワールはかわいそうなほど戸惑っていた。しかし思い切ったようにボールを投げる。パチリスが現れる。
男たちの歓声はひときわ高い。
レイアとキョウキは、げんなりした顔を見合わせた。同時に肩を竦め合う。
「……デジャヴっつーの? この、下二人っつー不安感がさ……」
「確かに、この黄色と青っていう配色を見てると、誰かさん二人を思い出すというか」
そのとき、二階の観客席から黄色い声援が飛んできた。
「れーや――! きょっきょ――! ばーんーがーれ――っ!!」
その素晴らしいタイミングに、レイアとキョウキは同時に吹き出した。空気を読まずにぴゃいぴゃいと騒ぐセッカが、周囲の観客からリンチされなければいいが。いや、どうせその隣にいる青い領巾のサクヤがどうにかするだろう。
レイアとキョウキは、ルスワールとラニュイを見据えた。
「頼むぞ、サラマンドラ」
「ふしやまさん、お願いね」
ヒトカゲとフシギダネが、踊り場に降り立った。
先に動いたのは、シャトレーヌ側だった。
ルスワールのパチリスが光の壁を張り、ラニュイのプクリンがチャームボイスを放つ。
フシギダネとヒトカゲは、その急襲を耐えた。
そして怯まずフシギダネが素早くパチリスとプクリンに宿り木の種を植え付け、牙を剥き出したヒトカゲがシャドークローでパチリスに襲い掛かる。
大広間は、バトルシャトレーヌへの声援だか悲鳴だかわからない絶叫に包まれていた。
「ああああああうっぜぇ!」
「集中集中」
レイアとキョウキは慎重に戦闘を眺めた。プクリンの気合玉が飛んでくる。フシギダネはそれを軽く躱し、プクリンに眠り粉を仕掛けた。プクリンがそれを吸い込み、ふらりと眠気によろける。観客席から絶叫が上がる。
プクリンが眠って動かない間、ヒトカゲとフシギダネ、パチリスはじりじりと睨み合った。宿り木の種がじわじわと相手の体力を奪う。その睨み合いはレイアとキョウキにとっては時間稼ぎだった。
光の壁が切れるのを見計らって、レイアが叫ぶ。ヒトカゲが大文字を繰り出す。フシギダネも続けてソーラービームを見舞う。宿り木の種のダメージも相まって、プクリンは眠ったまま倒れた。
これで、残るポケモンは四対三。バトルシャトレーヌ側に対し、一歩リードしている。
パチリスがボルトチェンジをフシギダネにぶつけ、ルスワールの元に戻っていく。次いでペルシアンが現れた。
ラニュイの二体目はブーピッグ。
現れざまに放たれたブーピッグのサイコキネシスを、フシギダネは身代わりの陰で耐える。
ペルシアンの滑らかな猫騙しで、ヒトカゲが怯んでしまう。その隙にペルシアンはパワージェムを繰り出した。
耐え切れず目を回したヒトカゲをすぐボールに戻し、レイアはそれを労う暇も惜しんでヘルガーを場に出した。観客の歓声などもう気にならない。空気を読んでやる気などない。
残りポケモンは三対三だ。
フシギダネが、ラニュイのブーピッグに眠り粉を振りかける。しかしブーピッグが眠りがけに放ったサイコキネシスを躱すことができなかった。フシギダネもまた崩れ落ちる。
「お疲れ、ふしやまさん。はあ……強いなぁ」
「知ってるっての。面白いじゃねぇか……」
キョウキはふうと息を吐いた。すぐに次のポケモンを繰り出そうとしないため、バトルに小休止が入る。
ラニュイがぴょんぴょんと跳ねて早く早くとキョウキを促しているし、ルスワールは落ち着かなげにそわそわしている。
これで二対三、挑戦者側が一歩不利だ。バトルシャトレーヌの二人はそれぞれ相手を見定めて、あたかもシングルバトルが二つ行われているようだった。
「シャトレーヌはマルチをやる気がねぇのか?」
「ラニュイさんは普段はシングル担当だそうだね。ルスワールさんはあんな感じだし、コンビネーションはほぼ無いものと思っていい」
「お前も大概えげつねぇな」
「勝つためだもの。――さあ頑張れ、こけもす。インフェルノも頑張って」
キョウキがプテラを繰り出し、ヘルガーと共に鼓舞する。
そしてプテラに先手を取らせ、大規模な岩雪崩を起こさせた。ラニュイのブーピッグと、ルスワールのペルシアンの二体を巻き込み、同時に怯ませる。その隙に悪巧みを積んだヘルガーが、悪の波動でブーピッグを吹き飛ばした。
「こけもす、ペルシアンにフリーフォール」
キョウキのプテラはルスワールのペルシアンを上空へと連れ去った。
ラニュイのブーピッグは、ヘルガーに向かってパワージェムを撃ってきている。
「もう一方にオーバーヒート!」
レイアが早口に叫ぶ。
その抽象的な指示を瞬時に理解する、レイアのヘルガーは知能が高い。
ヘルガーはパワージェムを躱した。更にブーピッグを飛び越え、プテラが地面に勢いよく叩き付けたばかりのペルシアンに容赦なくオーバーヒートを浴びせる。
ルスワールのペルシアンはそのまま目を回した。客席から悲鳴が上がる。
ルスワールは再び、パチリスを繰り出す。これで二対二だ。
パチリスが光の壁を張る。
プテラが岩雪崩を起こす。
一発目に岩雪崩を繰り出す、これもまたキョウキのプテラの中に定まった流れ。ラニュイのブーピッグがサイコキネシスで岩雪崩を押し戻す。
「そこだ」
そのブーピッグ自身が作り出した岩の隙間を狙って、レイアのヘルガーがブーピッグに悪の波動を撃ち込む。ブーピッグを仕留め、首を回してパチリスを睨む。悪巧みをさらに自身の判断で積んでいる。
シャトレーヌ側のポケモンの最後の一体となったルスワールのパチリスは、ヘルガーに怒りの前歯を突き立てるべく駆けた。
レイアは息をついた。
キョウキは微笑んだ。
「はい、こけもす、とどめだよー」
その背後から迫っていたプテラが、パチリスの死角からドラゴンクローを決めた。
うおおおおん、と観客席から男たちの嘆きが聞こえてきた。ブーイングも飛んでくるが、レイアとキョウキはそれらを華麗に無視し、それぞれヘルガーとプテラを労ってボールに戻す。
青いドレスのルスワールもどこか頬を上気させて、瀕死のパチリスをボールに戻した。そしてぺろぺろりーんとしている黄色のドレスのラニュイと共に、レイアとキョウキの傍に小走りに駆け寄ってきた。
「あっ、あの、お疲れさまでしたっ!」
「ラニュイ、ほんとーはシングルバトル専門やもーん! やけん、トレーナーしゃん、シングルバトルで待っとるけんねー! ぺろぺろりーん!」
そう舌を出して、ラニュイは階上へと駆けあがっていった。レイアとキョウキは呆気にとられてそれを見送っていた。男たちの歓声がラニュイを追いかける。
そして踊り場に取り残されたルスワールは、ひどくそわそわしていた。それでもバトルの余韻があるのか、興奮した様子で二人を称えてくれた。
「そっ、その、お客さま方は、ばり強かったとですっ!」
「どーも」
「ありがとうございます」
レイアとキョウキが礼を言うと、ルスワールは自分が大きな声を出したことに気付いたか、途端にもじもじと小さな声になった。その声が聞き取りづらく、レイアがいつもの癖で顔を顰めると、ルスワールはさらに身を縮こめる。キョウキがレイアの頬をむにと引っ張った。
「こらこら、威圧しないの」
「ひてねぇよ」
「……あ、あ、あっ、あの、ウチは普段はダブルバトルば担当しとります、ので……こっ、今度はウチ、もっと頑張るけん……でっ、ですからお願いです……また絶対挑戦しに来てください……」
それだけどうにか言い切ると、ルスワールは小走りで二階へと駆けあがっていった。やはり男たちの歓声やら嘆き声やらに迎えられている。
レイアとキョウキは踊り場で顔を見合わせた。
「なんつーか」
「彼女たちはまったく本気ではなかったね。ま、こんなもんじゃないの」
「……あー、疲れた」
「緊張したかい?」
「いや、そうでもねぇな」
「一人になれば、緊張するさ」
「そんなもんかね」
「そうだろ」
緑の被衣の下でキョウキが微笑む。回復を終えたフシギダネをボールから出し、そっと抱きしめた。フシギダネは微笑んでキョウキにそっと頬ずりした。
レイアも回復したヒトカゲをボールから出すと、先ほどのバトルを労って頭を撫でてやった。ヒトカゲはきゅうきゅうと甘えた声を出す。
二人はとりあえず挑戦を中断し、大階段を上がっていった。
そこで、ピカチュウを肩に乗せたセッカと、ゼニガメを抱えた青い領巾のサクヤと大階段の途中ですれ違った。
「……おー、おつかれ」
「じゃ、頑張ってね」
「うん! れーやもきょっきょもお疲れ! しゃくやと一緒にばんがる!」
「やるだけやるさ」
セッカとサクヤは踊り場へ降りていった。
陽 上
そして翌日、朝食を終えた後。
話がある、と昨晩ウズに言われていた。そのため、四つ子はもそもそと居間の三人掛けのソファにぎゅう詰めになった。実は四つ子は、狭い場所に四人でぎっちり詰まるのが大好きである。
エイジもまた、にこにことソファの一つに腰かけた。いっそ鬱陶しいくらいに爽やかな笑顔だった。
銀髪の四つ子の養親と、金茶髪の大男もソファに腰を下ろした。
四つ子。そして、ウズ、ロフェッカ、エイジ。
現在ポケモン協会から貸し出されたこの別荘に住んでいるのは、この七名だ。
四つ子は、女性政治家のローズから与えられた大金で日々遊びまわっている。それにいちいち同行するのは、ここキナンで出会ったばかりの長身の青年、エイジだった。
エイジは四つ子の家庭教師に任じられていた。エイジはキナンシティに詳しかった。バトルハウスだけでなく、ショッピングモールや遊園地の案内までこなし、四つ子の荷物持ちを買って出て、そして一日中遊び歩いて疲れ果てた四つ子を、毎晩正しくこの別荘まで連れて帰ってくれる。
家庭教師というよりも最早ただの子守然と化しているが、子供のように遊びまわる四つ子にとって、この父親あるいは兄のような年上の男性というのは、非常に便利な存在だった。
ただ、便利である。それ以上でもそれ以下でもない。
エイジは別荘の居候だった。滞在料の代わりに、エイジは四つ子の我儘に付き合う。四つ子も遠慮なく、エイジを我儘で振り回す。エイジはそれをすべて笑顔で受け止めてくれる。
それが数日続いても、エイジは幼い子供を見守る優しい兄の如く、文句ひとつ言わず、笑顔を絶やさず、四つ子に付き合っているのだった。
さすがに四つ子も、このエイジという青年の器の大きさを認めないわけにはいかなかった。たとえ本物の兄でも、あるいは雇われた熟練のベビーシッターでも、エイジほどの働きはなかなか出来ないと認めざるを得なかった。自分たち四人の我儘が相当のものであることも四つ子自身も意識はしていたのである。
エイジは朗らかで、物静かで、四つ子をどこまでも甘えさせてくれた。
いつの間にかエイジは、ウズやロフェッカともすっかり馴染んでいた。
エイジは一日中四つ子に振り回されても、毎朝早起きをして、ウズの家事をせっせと手伝う。別荘の家事を仕切っていたウズにとってそれは大変ありがたかった。大量の洗濯物を干しては取りこんで畳み、大量の食器を洗い、四つ子の計二十四匹のポケモンに食事を用意し、そして日中は四つ子の面倒を見る。
文句の付けどころのない主夫ぶりをエイジは発揮した。
そのように家の内外の用事にエイジは引っ張りまわされ続けていたから、比較的エイジとロフェッカの接点は少ないだろう。
ポケモン協会職員のロフェッカが毎日何をしているのかは、毎日外出する四つ子にはほとんど知りようがなかった。朝に新聞を読み、日中はポケモン協会の関係でどこかへ出かけているようだ。
本来なら、キナンで遊びまわる四つ子を見守るのはロフェッカの役目だったはずだ。その役目をエイジにとられてしまったロフェッカがその暇によって何をしているのか、四つ子には分からないし、また興味もない。
朝の光が眩しい。
無表情の銀髪のウズ、なぜかにやにや笑っている金茶髪のロフェッカ、そしてにこにこと日々の疲労の様子も見せずに微笑んでいる長身のエイジ。
その三人に黙って見つめられ、別荘の居間のソファで四つ子はもぞもぞした。買ったばかりのエスニックな洋服は洗濯に出してしまったので、四つ子はウズの作ったいつもの和服姿である。四つ子のそれぞれの膝の上では、ヒトカゲやフシギダネやピカチュウやゼニガメがまだ寝ぼけてうつらうつらしている。朝食を腹いっぱい食べて再び眠くなっているのだ。
四つ子の養親のウズが、重々しく口を開く。
「……このところ、バトルハウスには行っておらぬようじゃな」
その最初の一言に、緑の被衣のキョウキが首を傾げる。
「だから何?」
「挑戦して、バトルの腕を磨かんか。遊び呆けよって。童でもなかろうが」
「バトルハウスには行きたくないよ。それにさ、人生で一度もショッピングも遊園地も経験してない人間って、そもそも現代人としてどうなの?」
キョウキがすらすらと反駁する。
四つ子の中で最も達者に大人に対応できるのはキョウキだった。普段の調子で言葉が口からついて出る。他の片割れ三人にはこうはいかない。レイアとサクヤは口数の多い方ではないし、セッカはひたすら馬鹿だからだ。
キョウキの反論に、ウズは溜息を吐いた。
そして穏やかな声で尋ねた。
「バトルハウスに行きたくない、か。その理由を聞かしてもらえるかえ?」
「あそこじゃ、僕らはただのギャンブルの対象だ。バトルに勝てないことはないけど、勝ったら勝ったで、嫌なことを周りの知らないおじさんから言われる。それって気分がいいことではないよね」
ピカチュウを膝に乗せたセッカが、キョウキに同調してうんうんと頷く。ヒトカゲを膝に乗せた赤いピアスのレイアと、ゼニガメを膝に乗せた青い領巾のサクヤは、特にリアクションも示さなかったが、それでもキョウキの発言の正しさを裏付けるかのようにウズをまっすぐ凝視している。
ウズはロフェッカに視線をやった。
「確かにあのバトルハウスでは、バトルを対象とした賭博が横行していたようじゃな。ポケモン協会殿もそれを認めておられるのですか?」
「……そっすね。一応は腕利きのトレーナーしか来れないので、子供の立ち入りは少ないだろうってことで、バトルハウスでのギャンブルは政府にも公認して頂いてますね」
ロフェッカが肩を竦めて肯定する。さりげなくポケモン協会の直接の関与については言及していないが、もちろんポケモン協会も一枚噛んでいるのだ。
ウズはさらに嘆息した。
「……ギャンブルは確かに問題じゃな……」
「あんたは俺らに、何かバトルハウスに挑戦させたい理由でもあんのかよ?」
尋ねたのは、赤いピアスのレイアだった。
その隣で緑の被衣のキョウキが笑顔のまま小さく舌打ちしたが、レイアはキョウキを宥める。レイアは四つ子の中でも良心的だ――ウズの気持ちも尊重しようという心配りを見せている。ピカチュウを膝に乗せたセッカなどは、レイアの敏さと心優しさに敬服した。
レイアが軽く肩を竦める。
「……ま、おおかた俺らが遊んでばっかなのを、どうにかさせたいってとこだろ?」
「よう分かっておいでじゃな。が、それだけでもない」
ウズは微かに笑んだ。レイアの気配りがお気に召したようである。
「バトルシャトレーヌの四姉妹じゃが、彼女らのご両親は、そなたらの実家の四條家とも交流があっての」
そのウズの一言に、四つ子は一斉に気色の悪い笑顔を浮かべた。正確には、レイアとセッカとサクヤの三人がキョウキの笑顔を真似たのだ。
「……おい、おいおいおい。親の縁ってか?」
「親同士が仲が良いから、子供同士も仲良くしろ、とでも言うのかな?」
「どっちも四人きょうだいだからってか? 笑えねぇなー」
「何故そのような理由で、賭博の食い物になることを強制されねばなりませんか?」
口々に四つ子がそう言うと、ウズはソファの足元に置いていた紙袋の中から、そっと何かを取り出した。
それは木箱だった。しかしウズはその木箱を開けないまま自身の膝の上に置いて、四つ子を見据えた。
「そなたらのお父上からじゃ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
四つ子は揃って息を呑んだ。まさかここで父親の話題が出るとは。
「えっ、俺らの父親って、エンジュの?」
「僕らを生まれた時から無視し続けてきた、あの?」
「エンジュにも奥さんと子供がいるのに?」
「今さら、何ですか?」
「……落ち着きんしゃい」
ウズは静かな声で四人の養子を嗜める。
「そなたらの父親は、それはもうクズのボンクラでのう――」
そして唐突に四つ子の実父を貶し始めた。四つ子は目を白黒させた。四つ子の父親をぼろくそに言うこの若く見える養親が、本当は何歳なのかについて、四つ子は酷く頭を悩ませた。
ウズは静かに、一息に言い切った。
「――つまり、そなたらの父親は、シャトレーヌ四姉妹の親と、賭けをした」
「……はあ?」
「そなたらがキナン滞在中にシャトレーヌ全員を撃破すれば、そなたらの父親の勝ち。それが叶わなければ、四姉妹の親の勝ちじゃ。……親同士で、子を使って、そのような賭博を始めおった」
「……はああ?」
「あたしもその神経を疑った。しかし、四條家からはこのような褒美を預かっておる。――アホ四つ子よ、シャトレーヌ四姉妹は優れたトレーナーじゃ。修業と思うて、不躾な視線にも耐え、勝ち抜いてきんしゃい。さすれば、これをそなたらに授けよう」
ウズは言いながら、その木箱を指先で撫でた。
四つ子は絶句した。
エイジをこの別荘の居候に認めたときよりも、さらにひどい話だった。
レイアはヒトカゲを脇に抱え、閑静な別荘地で吼える。
「――ふざっけんなクソ親父! どういう神経してやがんだ!?」
「ほんと、頭おかしいんじゃないかな。……まあ、そういう恥ずかしい話をロフェッカやエイジさんの前でするウズもウズだと思うけどね」
フシギダネを頭上に乗せたキョウキも、毒々しく微笑んでいる。
ピカチュウを肩に乗せたセッカは、呑気にこてんと首を傾げた。
「……でもさ、父さんさ、一応は俺らのこと、子供だとは認めてくれてんだな?」
その呑気な一言に、セッカの片割れ三人は沈黙した。
ゼニガメを両腕で抱えたサクヤが、ぼそりと呟く。
「…………褒美、とは、何だろうな」
「だよな! それな! サクヤも気になるよな! 俺も気になるっ!」
セッカはサクヤの肩を掴み、喜びを分かち合った。がくがくと揺する。揺さぶられるサクヤは軽く顔を顰めてセッカの前髪を全力で掴み上げつつも、小さく溜息をついた。
「……僕らの父親は、今まで何もしてこなかった。でも、今回は……。僕はそれが気になる」
それにはキョウキが笑顔で食ってかかった。
「サクヤって実はファザコンなの? 会ったこともない父親のことが気になるの?」
「……違う」
「サクヤって確か前もクノエで、父親のことが気になるとか言ってたよね。サクヤは僕らの父さんに会いたいの? 今までずっと放置されてきたのに? 今さら僕らに何をしようっていうの? 僕らの父親もタテシバさんと同じ、屑野郎に違いないのに」
「キョウキてめぇ、ちょっと黙れや」
饒舌に毒を吐くキョウキにストップをかけたのは、レイアだった。レイアは眉を顰め、キョウキの首にヒトカゲを抱えていない方の腕を回す。するとキョウキは嬉しそうにきゃぴきゃぴ笑った。
「わあ、どうしたのどうしたの、レイア最近スキンシップ激しいね」
「てめぇマジで黙れよ」
「レイアも、パパからのご褒美が気になるの? ウズのただの演出かもしれないんだよ? 本当に僕らの父親があれを用意したとは限らないんだよ?」
キョウキは緑の被衣の中でにんまりと笑んでいる。心なしか、父親に興味を示す自分以外の片割れたちを軽蔑しているようにも見える。
赤いピアスのレイアは溜息をついた。
「……俺はどっちかってーと、退屈だ」
「退屈?」
「買い物も遊園地も、確かに楽しーですよ。でも俺はバトルが好きなんだ。バトルハウスも割と楽しみにしてた。ま、いくらか幻滅はしたが。……でも、強い奴とはやり合いたいし、四姉妹のバトルにも興味ある」
レイアはぼそぼそとそう呟いた。
キョウキとセッカとサクヤは、赤いピアスの片割れを凝視した。
「戦闘民族なの?」
「れーやって、脳みそ筋肉?」
「この戦闘狂が」
「――うるっせぇよ! 黙れよ!! ああそうですよどうせバトル馬鹿ですよ、でも俺には毎日のほほんと遊んで暮らすなんて無理なんだよ!」
レイアは怒鳴った。三人の片割れは首を縮める。
しかしレイアは本気で怒っていた。片割れたちのことを思うために、怒っている。
「なあ、遊ぶ金だっていつか必ず尽きる! 俺らは戦わないと生きてけないだろ!? 忘れたのかよ、てめぇらはよ!」
四つ子は真顔になった。真顔で沈黙し、互いを見つめ合った。
四つ子はまだ弱いイーブイの進化形だけは、毎日怠らずに少しずつ鍛えている。
しかし、バトルハウスの挑戦を中断して以来、他のポケモンたちの特訓は怠りがちだった。
バトルをしなければ、勘は鈍っていく。トレーナーも、ポケモンもだ。毎日ぎりぎりの思考で命をかけた戦いを続けなければ、平和ボケする。四つ子は思い出す。一ヶ月の謹慎が命じられた時のことを。
一ヶ月間、ポケモンに触れることすらできなかった。その間は生活が保障されているということもあって、どうにも緊張感が抜け、バトルの勉強や研究も怠ってしまった。その一ヶ月間のブランクを取り戻すのが、どれほど苦しかったか。ひと月ぶりのバトルでは思い通りに動けない。勝てない。自分はこんなに弱かっただろうか――?
そうした苦しい思いを乗り越えて、ようやく元の力を取り戻して、ほとんどぶっつけ本番でレイアとキョウキとサクヤの三人はカロスリーグに臨んだ。苦しい挑戦だった。後悔が残った。謹慎期間中、ポケモンに触れあえないまでも、何かできることがあったのではないか、と。
つまり四つ子が謹慎で学んだのは、ポケモンを育てるには日々の積み重ねが重要だということだ。
確かに、ショッピングや遊園地にうつつを抜かしている場合ではない。
レイアは片割れたちを見回した。
「メンタル強化にもなんだろ。まずマルチだ。その後、一人ずつで挑戦すっぞ」
キョウキは溜息をついた。
「面倒くさいなあ。……人生ってのは、面倒くさいもんだね」
セッカはぴょこぴょこと飛び跳ねた。
「分かった! ちょこっとだけやる気出てきた!」
サクヤがセッカを見やり、溜息をついた。
「お前はバネブーか」
優しく甘い 昼
キナンシティの別荘地は、実にのどかだった。
白い壁、橙色の屋根。そのコントラストが青空に映えて美しい。
別荘の窓際には色とりどりの花々が飾られ、統一された街並みを彩る。四つ子は並んでのんびりと歩き出した。今日から本格的に、キナンを巡ることになる。
とはいえ、四つ子のやることは決まっている。
ヒトカゲを脇に抱えた、赤いピアスのレイアが呟く。
「とりあえず、イーブイの進化形たちは育てる」
フシギダネを頭に乗せた、緑の被衣のキョウキが軽く首を傾げる。
「バトルハウスに挑戦するつもりだったけど、賞金は貰えないらしいねぇ?」
ピカチュウを肩に乗せたセッカがぴょこぴょこ跳ねる。
「でもさ、でもさ、トレーナーはたくさんいるから、そいつらに野戦仕掛ければいいんじゃね?」
ゼニガメを両手で抱えた、青い領巾のサクヤが囁く。
「賞金が貰えなくとも、何かしら代わりとなるものは得られるだろう。でなければ人が集まらない」
そこに、四つ子の背後から青年の声が追いかけてきた。
「バトルポイント――BPが貰えるんですよ……」
四つ子は同時に立ち止まり、軽くむっとして背後を振り返った。
そこには、茶色い短髪の長身の青年、エイジが肩で息をしながら立っている。別荘から走って四つ子を追いかけてきたようだ。黒のパーカーにジーンズを身につけた青年は、人懐こい笑みを浮かべる。
「ね、自分案内しますよ……。バトルハウスはこっちです」
そう笑いながらエイジが一人でどこかへ向かうので、四つ子は無視しようかとも考えた。
四つ子が無表情で道中に立ち止まっていると、エイジは子犬のようにいそいそと四つ子の元まで律義に戻ってきた。そして困ったような顔をして首を傾げる。
「あの、もしかして、自分のことまだ疑ってます……?」
「たりめぇだろ」
「エイジさんって、得体が知れませんもの」
「なんかあんた怖い」
「貴様はこのキナンで何をするつもりなんだ」
四つ子は警戒心も露わに、エイジを睨みつける。エイジはぱたぱたと両手を振った。
「ああ、じゃあ自分のこと、もっと詳しくお話ししましょうか……。――ああいや違うな、じゃあ……四つ子さんにいいものをお聞かせしましょう」
「いいもの?」
四つ子は揃って首を傾げ、長身の青年を見上げた。
エイジは咳払いをすると、朗々と歌い出した。
「おヒマやったら寄ってきんしゃい♪ 退屈やったら見てきんしゃい♪ 思う存分戦いんしゃい♪ 勝負するなら♪ バトルハウス♪」
四つ子は目を点にした。
四つ子は、青年を、まじまじと見つめた。
青年は咳払いした。
「…………おヒマやったら――」
「いやもういい」
「ありがとうございます」
「あんた割と歌うまいな」
「もう出てけよ」
四つ子は冷淡に言い放った。
エイジはわたわたと両手を振り、どこかへと歩き去ろうとする四つ子の前に立ちふさがった。
「すみません! 本当にすみません……!! 今のは、バトルハウスの公式キャンペーンソングなんです……」
「知らねぇよ」
「あの、次はちゃんと役立つ話をしますから……ね?」
四つ子は胡散臭そうな目で青年を見上げた。
「役立つ話……?」
「さっきも言いましたけど……バトルハウスでバトルに勝利すると、賞金ではなく、BPが貰えるんですよ」
エイジはバトルハウスへと歩き出しながら、そう説明を始めた。四つ子も仕方なくついていく。
BPはバトルハウス独自の通貨のようなもので、BPと引き換えに様々な役立つ道具を得ることができる。
何でもかんでもBPによって得られるわけではないが、トレーナーにとって貴重な道具と交換できるので、BP目当てにバトルハウスを訪れるトレーナーは多い。
また、バトルに負けたとしてもBPが奪われるというようなことはない。そこが通常の賞金をやり取りするバトルとは違うところだ。また、一戦ごとにポケモンは全回復され、ポケモンが使用した持ち物も補充される。すなわち、いくらバトルに負けても損失がないということだ。
とはいえ、あまりにも無様なバトルを繰り返すと、バトルハウスの運営側から注意を受けることがある。バトルハウスはただトレーナーの技術を磨き上げるために、無償で貸し出されているわけではないのだ。上質なバトルによって観光客を誘致しなければならない。基本的にバトルハウスでバトルに興じることができるのは、一地方のバッジを八つすべて集めた者だ。
エイジはそこまで、すらすらと説明した。
そこでセッカが顔色を失った。
「……俺、バッジいっこしか持ってない!」
「えっ……」
エイジが絶句した。
セッカはぴゃあぴゃあと騒ぎだした。
「うわああああどうしよぉぉぉぉ俺だけバトルハウスに挑戦できないよぉぉぉぉ――!」
「だからさっさと集めろっつったのによ……」
「セッカの実力は僕らと同等だから、普通に戦っていけると思うんだけどねぇ……」
「困ったな。どうにかこいつの実力を見せつけて、特例を認めさせるしか……」
口々に喚き合いつつ、そうこうしているうちにバトルハウスの前に着いてしまう。
セッカだけ挑戦できないというのは、どうにも気分が悪い。ヒトカゲを抱えたレイアは、勢い込んで玄関ホールを駆け上がり、受付に詰め寄った。
「おい! バッジ一個しか持ってねぇ馬鹿は、どうしても挑戦できねぇのか!」
受付の女性は目をきょとんとさせた。そしてレイアの隣にやってきたキョウキ、セッカ、サクヤに視線を滑らせる。
「トレーナーカードをご提示ください」
女性の笑顔に促され、四つ子は全員トレーナーカードを差し出した。
受付の女性は四人分のトレーナーカードを、次々と読み取り機に通していく。
そして笑顔で四人にカードを返却した。
「はい、レイア様、キョウキ様、セッカ様、サクヤ様の出場登録を受け付けました。どうぞお好きなバトルルールをお選びいただいた上で、各控室にお進みくださいませ」
「えっ」
声を漏らしたのは、ピカチュウを肩に乗せたセッカである。
ヒトカゲを抱えたレイアが受付にさらに詰め寄る。
「おい、マジで!? マジでいいのか、こいつは!? バッジ一個だけども!!」
「はい。セッカ様については、ポケモン協会の方から特例を認める旨のご連絡を頂いておりますので」
「てめぇかポケモン協会ィィィィィィィィ!!」
レイアは絶叫した。
キョウキとサクヤは、セッカの両肩をそれぞれ軽く叩いた。
「よかったね」
「出られるぞ」
「なんかよくわかんないけど、俺ってすごいな!」
セッカはふんぬと鼻を鳴らした。
紫の大広間は、今日も朝からバトルが続けられていた。
アーボック対チラチーノ。一般トレーナー同士のシングルバトルだが、客席も埋まり、大変な盛況ぶりである。
バトルの最中は、二階の観客席な選手の控室に移動することはできない。丸テーブルの上の軽食をつまむ四つ子に向かって、エイジが笑顔で解説する。
「ほら、こっちに別館への渡り廊下があるんですよ……。シングル以外にも、ダブル、トリプル、ローテーション、マルチといったルールで戦っているところがありますからね」
「……んむ、そうそう! 俺ら、まずはマルチで挑戦しようとしてたんだっけ!」
胡瓜のサンドイッチを飲み込んだセッカがぴいぴいと騒ぐと、同じく胡瓜のサンドイッチをほおばっていたレイアとキョウキとサクヤが顔を見合わせた。それぞれの相棒のヒトカゲとフシギダネとピカチュウとゼニガメも顔を見合わせ、首を傾げる。
エイジが慣れたように解説した。
「マルチバトルなら、一人二匹ずつで、二人一組での挑戦ですね……」
四つ子は顔を見合わせた。
赤いピアスのレイアと、緑の被衣のキョウキの視線が合う。
「……やるか?」
「うん。よろしくね、レイア」
セッカと、青い領巾のサクヤが互いを見やる。
「わぁい、しゃくやとタッグだぁ!」
「頼むぞ」
組分けは数瞬で終了した。
エイジの案内で、四つ子はマルチバトルを行う広間へと向かった。
四つ子はキナンシティの巨大ショッピングモールをぶらついていた。
その後を、長身の青年、エイジが追う。
エイジは四つ子の荷物持ちをさせられていた。両手いっぱいに紙袋を提げている。四人分のリボン付きプルオーバーだの、エスニックカットソーだの、ジョッキーブーツだの、ベルトアクセントバッグだの、下着だの、靴下だの。
重い荷物を抱えて、エイジはにこにこと笑った。
「四つ子さんて、クノエのブティックとかお好きなんですか? っていうか、レディースばっかお買い上げですけど、やっぱり女性なんですか? それとも女装趣味ですか?」
袴ブーツ姿の四つ子は、青年の問いかけをすべて無視した。そのままドーナツ屋を見かけて四人で突進する。四人揃ってチョコレートのたっぷりかかった大きなドーナツを一つずつ注文し、それぞれヒトカゲやフシギダネやピカチュウやゼニガメに分けてやりつつ、歩きながらかぶりつく。
そしてドーナツを飲み込んでしまうと、四つ子はアイスクリーム屋を見つけてそれに突進していった。四人揃ってミントアイスを注文し、やはり相棒と分け合いつつせっせと口に運んでいる。
エイジは、この四つ子はやけ食いをしているのかなぁ、とぼんやりと思った。
しかし実際のところ、四つ子はバトルに関していえば、特に問題を感じていなかった。
レイアとキョウキ、そしてセッカとサクヤという二人組に分かれてマルチバトルに挑戦し始め、もう数日経つ。
ただ、たったの数日で四つ子はバトルハウスに嫌気がさしていた。
その理由としてまず一つには、観客との距離が近い。周囲を観客に取り囲まれた大階段の踊り場では、そのざわめき一つ、ヤジ一つがトレーナーの気を散らす。
また、バトルハウスには様々な人間がいた。
バトルに勝つなり、相手に偉そうに押しつけがましくアドバイスをするトレーナー。
バトルに負けるなり、心無い暴言を吐き捨てていくトレーナー。
入れ代わり立ち代わり、様々なトレーナーが踊り場に現れる。
さらには、近い観客席から時折ヤジが飛んでくる。薄暗い片隅で賭博をしていた人々のうち、自分が賭けたトレーナーが負けてしまったために賭けに負けたのだと思われる者からも、たびたび暴言が飛んでくる。それらは直に吐きかけられても、また傍から聞いていても、とても気持ちのいいものではなかった。
優雅だと思われた屋敷の中は、割と放埓だった。粗野なトレーナーもいれば、粗野な観客もいる。ルールで規律されたバトルの聖地と思われた踊り場は、今や賭け事の舞台だった。大広間の隅のテーブルでひたすら多額の金がやり取りされている。
バトルハウスとは、ただの賭場ではないか。
次第に四つ子は吐き気を催した。
人間臭い。
バトルハウスの中は、においがこもっている。香水の匂い。煙草の臭い。アルコールのにおい。様々な人のにおい。
確かに繰り広げられるバトルは一流だ。
しかし、不健全だ。
ここではバトルは見世物だ。賭博の対象だ。ここは誰のための場所なのだろう。
紫の大広間が紫煙に霞む。
強さを値踏みしてくるギャンブラーたちの視線が、不躾で、嫌らしくて、気持ち悪い。
レイアもキョウキもセッカもサクヤも、そこまで人が好きではない。
それは四つ子の友達と呼べるような存在が、ユディやルシェドウやロフェッカぐらいしかいないことからも窺える。自分たち以外のトレーナーは、四つ子にとっておよそ狩りの対象でしかなかった。そしてトレーナー以外の人間は、およそいてもいなくてもどちらでも構わなかった。
しかし、たまにトレーナーを利用しようと近づいてくる、小賢しい人間がいた。
それは無学なトレーナーを搾取する詐欺商人であったり――おいしい水やコイキングでぼったくりを行う悪徳商法は有名だ――、バトルを賭け事の対象にするギャンブラーであったり。彼らにとってトレーナーとは盲目の奴隷であり、愚かしい愛玩動物に過ぎなかった。そのような人間はトレーナーの無知につけこみ、トレーナーから簒奪し、トレーナーを弄ぶ。
そうした汚い大人がこの世界にははびこっている。だからこそ、四つ子はそれぞれ一人旅をする中で利己主義者になり、懐疑主義者になったのだ。
そして、そうしたトレーナーを搾取せんとする汚い大人の巣窟が、まさにこのバトルハウスだった。
四つ子は汚い大人を嫌悪した。
バトルハウスに唾棄した。
そしてマルチバトルで連勝中だった挑戦を途中で切り上げ、さっさとその場を後にしたのである。それきり、バトルハウスには寄っていない。
仲良くミントアイスを舐めている四つ子に、エイジはにこにこと機嫌よく話しかけた。
「大丈夫ですよ……。バトルハウスは途中で抜けても、連勝記録は続きますからねぇ。多分十年くらい時間を空けなければ、記録も消されませんって……」
四つ子は無視して映画館に入った。
レイアが封筒から万札を取り出し、適当なチケットを購入する。四つ子は先ほどからショッピングモールでひたすら買い物に明け暮れていた。その資金は、レイアとセッカがハクダンシティで女性政治家のローザから受け取った大金だ。
四つ子は、山のような荷物を持ったエイジを一人だけ放置し、四人で映画館に入った。
レイアはヒトカゲを膝に乗せ、キョウキもフシギダネを膝に乗せ、セッカもピカチュウを膝に乗せ、サクヤもゼニガメを膝に乗せた。そして映画『ハチクマン』を鑑賞した。
そして四人で号泣した。
ハチクマンは日常では人情味あふれる、実に愛嬌溢れるいいキャラクターだった。ヒロインとの出会い。陰謀の芽生え。憎らしい敵役。繰り返される、迫真のポケモンバトル。ハチクマンは決めるところはしっかり決める。格好いい。クールだ。セリフにもいちいち痺れる。細かい演出もまたにくい。そして、別れ。ハチクマンは冷静に、これからも孤独に、戦い続けていくのだ。
レイアは目を片腕で覆って震えている。
キョウキは美しく微笑みながらはらはらと零れる涙を緑の被衣でそっと押さえている。
セッカは鼻水を垂らしてエンドロールの間じゅうおいおい泣いた。
サクヤはスクリーンをまっすぐ見つめたまま、堂々と涙の落ちるに任せていた。
ヒトカゲとフシギダネとピカチュウとゼニガメも、終始おとなしく映画を眺めていた。
四つ子は袖を絞った。ポップコーンの塩味がただ心に沁みた。
そして四つ子はハチクマン人形を迷わず四つ、お買い上げした。すべてポーズが違うやつである。
それから数日間、四つ子はイーブイの進化形だけはきっちりと毎日特訓をしつつ、遊び呆けた。バトルハウスには足が遠のいたどころの話ではない。とっくに愛想が尽きている。
買ったばかりの流行の衣装を身につけ、キナンの誇る遊園地であるポケパークにも遊びに行った。ギャロップやゼブライカの回転木馬に乗り、鳥ポケモンのフリーフォール――もちろん技ではなくアトラクションだ――に乗り、渦巻島のぐるぐるカップに乗り、アルトマーレの大ゴンドラに乗り、裂空のジェットコースターに乗り、星空の空中ブランコに乗り、そしてそれらのアトラクションを二、三周して、チュロスや林檎飴を四人でもさもさと貪り、大観覧車に乗った。
楽しかった。四つ子にとって着物以外のいわゆる洋服を身につけたのは初めてだったし、遊園地で遊ぶのも生まれて初めてだった。ミアレシティも夏には公園に移動式遊園地が来るという。所持金に余裕があれば行ってみたいと思った。遊園地がこんなに楽しいものだとは思いもしなかった。
観覧車はゆっくりと上昇する。地上に放置してきたエイジが点になる。
赤いピアスのレイアがぼやく。その膝の上ではヒトカゲがびくびくしながら窓の外を覗いている。
「カネの力ってすげぇな」
緑の被衣のキョウキがほやほや笑う。その腕の中のフシギダネも満面の笑顔である。
「来れてよかったね」
セッカがえへえへ笑う。ピカチュウはせわしなくゴンドラの中を駆け回っている。
「また、みんなで来たいな」
青い領巾のサクヤが静かに呟いた。ゼニガメは暴れないようしっかりと押さえつけられていた。
「そうだな」
それから四つ子は観覧車が一周するまで、飽きることなくしゃべり続けた。バトルハウスはけしからん、ショッピングモールをもっと見ていきたい、キナンじゅうの屋台巡りをしてみたい、ゲームコーナーも気になる。
幸せだった。政治家のローザから与えられた金はまだたくさん残っている。新品の色鮮やかな服も心を浮き立たせる。
そして、エイジの存在を無視しつつ、四つ子は別荘に帰った。
夜ももう遅い。
その日は遊園地でチュロスや林檎飴を夕食代わりにしてきた四つ子は、帰ってきた別荘の居間で、ウズとロフェッカが何やら深刻そうに向かい合っているのを目にした。
そして面倒事に巻き込まれるのを嫌って、そそくさと四人は二階に上がろうとした。
しかし、ウズに低い声で呼び止められた。
「――待たんか、アホ四つ子」
「……うす」
「なぁに、ウズ」
「なんだよー」
「いかがいたしましたか」
仕方なく、ヒトカゲを抱えたレイアと、フシギダネを抱えたキョウキと、ピカチュウを抱えたセッカと、ゼニガメを抱えたサクヤは立ち止まった。ほぼ半日中、四人で遊びまわっていたせいで、ひどく疲れている。ショッピングも遊園地もとても楽しかったが、いかんせん人の多いところでずっと過ごしていたため、疲労は大きい。
ウズは、四つ子の洋装を見て眉を顰めた。
「……服を買ったのか」
その呟きを四つ子は無視した。
ウズは和裁士だ。着物を仕立てることにかけては一流の腕を誇り、クノエのジムリーダーであり有名デザイナーでもあるマーシュとも懇意にしている。四つ子はこれまで、ウズの仕立てた着物以外を身につけたことはなかった。しかし今は、アウトレットモールで購入したばかりの洋服で着飾っている。
ウズは四つ子の洋服を黙って睨んでいる。
四つ子はもぞもぞした。四人揃ってエスニックな洋服を選んで図らずも四つ子コーデというものになっているのだが、ウズにとっては何か納得のいかないファッションなのだろうか。そもそもウズはファッションに聡い人間なのだろうか。それすらもわからない。
四つ子はウズのことをほとんど知らなかった。
ところが、ウズは無言で睨んでいた割には四つ子の服装については何も述べず、ただ冷淡に言いやった。
「話がある。まあ今日は遅いで、明日の朝にするかの」
優しく甘い 朝
翌朝。
一番に目を覚ました赤いピアスのレイアは、朝の陽射しを別荘の二階の寝室に招き入れるべく、窓のカーテンを開け――絶叫した。
「ぎゃああああああああああああああああああああ」
ベランダに、短い茶髪の長身の男が倒れ込んでいたのである。
レイアはよろよろと後ずさりした。
「……ぎ、ぎ、ぎ、ぎ」
「どうしたの、レイア……。ギギギギアルでも出た?」
レイアの絶叫を聞いて最初にむくりと起き上がったのは、キョウキであった。いつも頭から被っている緑の被衣はそこら辺の床に落ちたままで、キョウキは珍しくも黒髪を朝日に露わにしている。
レイアは絶叫してキョウキに飛びついた。
「ぎゃああああああああああああああああああああ」
「きゃあ。何だい、レイア」
柔らかい声で笑う寝起きのキョウキに、レイアはぶるぶると震えながらベッドの上でしがみつく。キョウキは内心では大喜びで、そっとレイアを抱きしめ返した。
「朝だよ、お化けなんて出ないよ?」
「……いたんだよ……ベランダにいたんだよ……!」
「何がいたのかな?」
そのキョウキの問いにはレイアは答えなかった。怯えて小刻みに震えている。
キョウキは怯え切った片割れを安心させるべく、レイアに思う存分に頬ずりをした。このような機会でもなければ、この意地っ張りな片割れはなかなかスキンシップを許してくれないためである。
そうこうするうちに、セッカとサクヤももぞもぞと起き出してきた。朝からベッドの上でぴったりと抱き合っているレイアとキョウキの二人を見つめ、二人ともきょとんとしている。
「……らぶらぶ?」
「そうだよセッカ。起きたら、なんかレイアがラブラブだったんだよ」
「……何があったんだ」
「何かが、ベランダにいるらしいよ」
キョウキは残る二人の片割れに、そう教えてやった。
セッカとサクヤは二人並んで仲良くベッドから降り、裸足でぺたぺたとベランダに近づいた。
そしてセッカは絶叫した。
「もぎゃああああああああっ」
「…………な……これは」
サクヤまでもが言葉を失う。セッカはぷぎゃあと悲鳴を上げた。
「変な人が凍死してるよぉぉぉ――!!!」
セッカはボロ泣きしながら、傍らのサクヤの肩を掴んだ。がくがくがくがくと揺さぶる。
「しゃくやぁ、しゃくやぁぁぁっ、変な人が死んでるよう――っ!!」
「…………落ち、着けっ」
サクヤはひどく顔を顰め、ベランダを視界に収めないようにしながら、ベッドの上でレイアと抱き合っているキョウキを見やった。唯一現場を目撃していないキョウキは、いつものようにほやほやと笑っていた。
「ベランダに誰かいるのかい?」
「……男だ……男が寝ている」
「まあ、夜這い目当てだったのかな。とりあえず、ロフェッカとウズを呼んでこようか。レイア、起きてー」
キョウキは自分にくっついているレイアの体を揺する。しかしレイアは腕が硬直したかのように、がっちりとキョウキに組み付いていた。先ほどからうんともすんとも言わない。
キョウキは幸せそうにサクヤに笑いかけた。
「レイアが僕にくっついちゃった。えへっ」
「えへ、じゃない……」
顔を顰めるサクヤも、セッカにぴったりとくっつかれているのである。セッカはサクヤに抱き付いて、サクヤの胸の中ですんすんと鼻を鳴らしている。可哀想なほどまでにすっかり怯え切っていた。
レイアとキョウキはベッドの上、セッカとサクヤは床に立ったまま、それぞれ膠着状態に陥っている。特に俺俺組の動揺が激しい。
やがて、四つ子の声で目が覚めたか、ベッドの枕元でそれぞれ丸くなっていたヒトカゲ、フシギダネ、ピカチュウ、ゼニガメが伸びをして起き出してきた。そして四匹揃って、二人ずつくっついている四つ子たちを見て目を白黒させた。
キョウキはにこりと彼らに笑いかけた。
「サラマンドラ、ふしやまさん、ピカさん、アクエリアス。一階にいるウズとロフェッカを呼んできて」
寝ぼけた四匹は、その髪型の崩れた発言者がレイアなのかキョウキなのかセッカなのかサクヤなのかいまいち判別しかねていたが、とはいえそのような指示を下したのが四つ子のうちの誰かであることから、おとなしくその指示に従った。
ぴょこぴょこと跳ねるように、ヒトカゲとフシギダネとピカチュウとゼニガメは別荘の階段を下りていく。
その青年は、エイジと名乗った。
椅子に座らせたエイジを、四つ子は抜け目なく包囲した。赤いピアスのレイアが背後から青年の首に腕を回し、緑の被衣のキョウキが青年の右腕をとり、セッカが食卓の下にうずくまって青年を睨み上げ、青い領巾のサクヤが青年の左腕をとる。
エイジは困り果てたように苦笑した。
「ええと……すみませんでした……?」
「すみませんで済む話じゃねぇだろ!」
レイアが鋭く怒鳴る。青年はひいと間抜けな声を上げながら首を縮めた。
キョウキがほやほやとした笑顔を浮かべて詰問する。
「エイジさん、貴方は確か昨晩、バトルハウスで、クイタランのトレーナーに突っかかっていかれましたよね?」
そのキョウキの指摘に、レイアとセッカとサクヤは軽く目を瞠り、改めてその青年を見やった。
四つ子に包囲されている短い茶髪の長身の青年は、気弱そうな、それでいてどこか食えない笑みを浮かべた。
「はは……そうです、あのクイタランのしたことは許せなかったので……」
「あんた、ポケモン好きなの?」
セッカが猜疑心に満ちた声音で、テーブルの下から問いかける。あながち確信からずれた質問と言えなくもないのだが、四つ子はエイジの人柄をまったく知らない。大勢の観客の前であれだけ目立ったことをするほどの度胸を持った人間だ、何をしないとも分からない。
エイジはにこりと笑った。
「そうですね……。自分、ポケモン愛護団体に所属していたことがありまして、その名残でつい……」
「ポケモン愛護団体?」
「ええ……。自分、元はただの一般人でして。訳あってトレーナーになり、ドロップアウトして、ときどき反ポケモン派として活動したり、ポケモン愛護団体に入ったりしてました。今はただのミアレ大学の学生やってます……」
エイジは笑顔でそのように経歴を披露した。しかし具体的なことは何もわからない。
サクヤが青年をねめつけ、低く尋問する。
「なぜ、ベランダにいた?」
「ここね、元は自分の家だったんですよ……」
エイジはそのように答えた。
四つ子は無言のまま先を促した。
「いやね、この家にそのまま住んでたってわけじゃなくてですね、別の家が建ってて、そこに住んでたんですが……かなり昔に、ポケモンにその家を壊されましてね……」
事故だったという。
トレーナーのポケモンバトルに巻き込まれ、ある日突然、エイジの家は破壊された。
エイジの幼い頃のことだった。
当時の制度でもトレーナーに損害賠償は請求できず、またポケモン協会からの見舞金は少額だった。その少額の見舞金を貯蓄と合わせても、新たに家を建て直すことは不可能だった。壊されたその家は新築で、ローンの返済もまだこれからという段だった。
一家は、狭いアパートに越した。
エイジの父親は、反ポケモン派の活動にのめり込むようになった。一家の幸せな暮らしを奪ったトレーナーに、簡単にいえば復讐するためだろう。幼いエイジもまた、父親に連れられて反ポケモン派の活動を行った。
しかし、反ポケモン派の活動を行ったことを理由に、エイジの父親は勤めていた企業を解雇された。しばらくは反ポケモン派の仲間の援助を頼っていたが、ローンの返済や、また反ポケモン派の仲間内での裏切り行為等によって援助が打ち切られたことなどが積み重なり、エイジの家計は火の車。そのような中、エイジの父親は、妻子を置いて失踪した。
母一人子一人。借金を背負い、とてもやっていけない。仕方なくエイジは、元手の不要なトレーナーの道を選んだ。トレーナーのせいで、トレーナーになることになったのだ。皮肉な話である。
しかし、エイジはポケモントレーナーとして、どうもぱっとしなかった。エイジは優しすぎたのだ。ポケモンが好きすぎて、ポケモンに傷つき傷つけるよう命じることに躊躇いがあった。そうなると、どうしてもバトルに勝つことはできない。
貯金尽き、ポケモンセンターの片隅の物乞いになりかけた。
その時、それまでの不運の反動かのようにエイジは凄まじい幸運に見舞われ、エイジは奨学金を受けて学校に通えることとなった。そしてポケモン愛護団体に加入もしつつ、大学まで進学している。チャンスをものにして懸命に猛勉強したおかげで、どうにか将来の展望が開けそうだ。母親にはまだ窮屈なアパート暮らしをさせているが、幸いなことにこれも健在だ。これから改めてやり直していこう。
そう希望を持てたところで、エイジは久々に故郷に戻って来てみた。が、故郷のキナンはリゾート都市として再開発されてかつての面影もない。懐かしい家のあったところは別荘地になっていた。
――という話である。
四つ子は黙って、青年の話を聞いていた。
また、食卓の向かい側では、ポケモン協会職員のロフェッカも黙ってその話を聞いていた。
そこに、ウズが粥の入った土鍋を運んできた。
「むつかしい話は後じゃ。とりあえず朝餉にするかの」
「あさごはん!」
セッカが食卓の下から飛び出しかけ、思い切り食卓の角に頭をぶつけた。
エイジはスプーンで熱い粥を一口啜り、人好きのする笑みをふわりと浮かべた。
「やさしい味ですね。……母の作ってくれたオートミールを思い出す……」
「俺はオートミール、嫌いだなー」
たんこぶを頭に作ったばかりのセッカが、何も考えずに自分の好みを主張した。
普段ならば、ここでレイアかサクヤあたりが、怒鳴るなり拳なりでセッカの不遜な発言を諌めただろう。しかし、この日はレイアもサクヤも、突如として食卓に闖入したエイジに対して不信感しか抱いていなかった。そのため、わざわざエイジのためにセッカの発言をフォローする気にもならなかった。
キョウキがそのような心配りと縁ないのは言わずもがなである。
その結果、食卓には微妙な雰囲気が流れた。ウズとロフェッカ、エイジの三人が、ただただ困ったような白々しい笑顔を浮かべているだけである。
レイアは澄まして粥を口に運んでいる。
キョウキは澄まして粥を口に運んでいる。
セッカは澄まして粥を口に運んでいる。
サクヤは澄まして粥を口に運んでいる。
彼らの足元では、ヒトカゲとフシギダネとピカチュウとゼニガメが脇目もふらずにポケモンフーズにがっついている。
四つ子は機嫌が悪かった。朝一番で死ぬほど驚かされ怯えさせられ、さらにはその不審者と朝食を共にとることになっているのだから。つまり、エイジの簡単な身の上話を聞いた上でも、四つ子のエイジに対する不信感は拭い去られていなかった。むしろ、どこかお涙頂戴のエピソードを図らずも語られてしまってげんなりしている。
白けた空気に耐え切れず、ロフェッカが口を開く。
「いやぁ、さっきの話聞いてたが、色々と大変だな。……まあ、ポケモン協会の人間にそうゆうこと言われたかねぇとは思うが」
「そんなことありませんよ、ロフェッカさん。仕方ないんです、そういう法律ですからね……」
エイジは礼儀正しく応じた。ウズも口を開く。
「ベランダに上がったというのはどうにも不審じゃが、そのご様子だと、もしや宿に困っておられますのか?」
「ええ、実は……。ベランダに上がってしまったこと、申し訳なく思っております……。あの、空き家だと思って、休めるかと思って、ちょっと中を覗こうとしたんです。そうしたら皆さんが来られて、出ていくにも出ていけず……そのままうっかり眠り込んでしまいました」
その空き家があればそこで休もうという発想が、どうもポケモントレーナーらしかった。しかしエイジは既にトレーナーカードを返却してしまい、ポケモンセンターに泊まることはできないのだという。一般人向けのホテルに宿泊するような金銭的余裕はない。けれど、できればまだしばらくキナンを見ていきたい……。
四つ子は顔を顰めた。
「何が言いてぇんだ。つまり、ここに泊めろってか?」
「泥棒にしては随分と図々しいですねぇ」
「っていうか、変態かもじゃん」
「まったくどういうつもりだ……」
四つ子が一斉に身を乗り出して詰め寄ると、エイジは慌てて両手を振った。
「い、いえ、いいえ、滅相もない……! 皆さんはトレーナーでしょう、大勢のポケモンがいますから、泥棒なんて出来っこありませんよ……」
「だが、てめぇは元トレーナーだ」
「だから、自分、落ちこぼれなんですってば……」
気弱げな長身の青年が、四つ子を相手に必死に弁明する。
不信感をあらわにする四つ子に、とうとう養親のウズが溜息をついた。
「……アホ四つ子。困ったときはお互いさまと申すじゃろうが」
「――おい、ウズ! マジでこいつここに泊める気かよ!?」
レイアが激しく怒鳴る。
ウズはそれを冷やかに一瞥した。
「こことて、あたしらの家ではない。ポケモン協会様にお貸し頂いておる別荘じゃ。そして元はこのエイジ殿のご実家。エイジ殿のお心に沿えば、快く受け入れるが筋じゃろう」
そしてウズはちらりとロフェッカに視線をやる。ロフェッカもにやにやと笑って四つ子を眺めながらも、頷いた。
「ポケモン協会的にも、ここに他の客を泊めたところで問題はないと思いますぜ。むしろ、このエイジには協会的にもいろいろと苦労をかけさせてるしな、ちっとは大目に見るべきじゃねぇの?」
「ロフェッカまで。……もう」
愛想笑いを浮かべつつ、キョウキが文句を垂れる。
セッカが頬を膨らませる。
「せっかく、四つ子水入らずで過ごそうと思ってたのにぃ!」
「……ウズ様や協会職員がそのように仰るなら、そのようになされば良いでしょう。しかしそれならば、僕らとしても無断でポケモンセンターなどに外泊するやも知れないこと、あらかじめお伝えしておきます」
そう静かに言い放ち、サクヤが気分を害したように箸を置いた。つまり、得体の知れない人間と同じ屋根の下で暮らすことに嫌悪感を覚えると、そう言っているのだ。
エイジが慌てて、四つ子に向かって頭を深く下げた。
「すみません、本当にすみません……! お詫びになるかわかりませんが……よろしければ、四つ子さんの家庭教師のようなことをさせていただきます!」
「家庭教師、ですって?」
そう声音を作ったのはキョウキである。緑の被衣を被り、にこにこと毒々しげにエイジを睨む。
「それってつまり、僕らに学がないとそう仰ってるんですよね? 僕らが馬鹿だから啓蒙してやろうと、そう仰るわけですよね? 確かにお偉い学生様からすれば事実そのようでしょうが、それにしたって思いあがりも甚だしいというか、礼儀に欠けると思いませんか?」
「これ、キョウキ」
毒を吐くキョウキを諌めたのは、やはり銀髪の養親だった。
ウズはこちらも大仰に、エイジに向かって深く頭を下げたのである。
「――勿体ないお申し出。エイジ殿、ぜひ、このアホ四つ子に学を授けてくださりませ」
四つ子は言葉を失った。
ロフェッカも苦笑している。
エイジは当の四つ子をちらちらと気にしつつも、ウズと何やら挨拶を交わしている。居候と家庭教師の契約の話か何かか。
四つ子は顔色を失っていた。
ウズは、四つ子の養親だ。しかし、四つ子は十歳を過ぎており、法的には既に成人として扱われるのだ。ウズの親権には服さない。教育についても、今更、ウズにとやかく言われる筋合いはない。
なのになぜ。
なぜ今更。
「――ざっけんな!!」
食卓を殴ったのは、赤いピアスのレイアだった。ヒトカゲがびくりとして顔を上げる。
レイアはウズに向かって怒鳴り散らした。
「ウズてめぇ、マジでふざけんなよ! 俺らを馬鹿にすんのも、大概にしやがれ! 何でもかんでも勝手に決めやがって、俺らの親でも気取ってんじゃねぇよ!」
ぎらぎらと敵意に輝く瞳でウズを睨む。
緑の被衣のキョウキも、セッカも、青い領巾のサクヤも、レイアに同調するようにウズをまじまじと見つめる。
四つ子に揃って睨まれて、ウズは息を吐いたかと思うと、穏やかな眼差しで四つ子を見回した。
「……差し出がましい真似と、思うであろうな。じゃが、あたしはそなたらに世界を広げてほしいと思うとる。……それだけじゃ」
ウズはそれだけ言った。
ロフェッカもエイジも、慎重に沈黙を守っている。
ふとキョウキが笑みを浮かべた。足下からフシギダネをそっと抱え上げ、レイアを見やる。
「レイアレイア。とりあえず、お試し期間ってことで、エイジさんの話を聞いてみようよ」
「……キョウキ」
「エイジさんがくだらない人間だと思ったら、即刻エイジさんを叩き出せばいい。もし、エイジさんが僕らが師と仰ぐにふさわしい人間だと思ったなら、エイジさんから搾り取れるだけ知識と知恵を搾り取ればいい。それが双方にとって合理的だろ?」
キョウキはにこにこと人のいい笑みを浮かべていた。その腕の中のフシギダネも、人の心を癒すような緩い笑顔である。
うまくレイアを収めたキョウキの手腕に、ウズやロフェッカやエイジは息をつきかける。
そこに四つ子は冷ややかな声を放った。
「だがてめぇらが次にふざけた事をしやがったら」
「僕ら、キナンを抜けますからね?」
「そんなの、おっさんも困るよな?」
「僕らは請われて仕方なくここにいるんですから」
四つ子は灰色の双眸を眇め、ウズとロフェッカとエイジを脅した。
そして四つ子は、それぞれの相棒と手持ちのポケモンたちを連れて、そそくさと別荘から出ていった。
優しく甘い 夜
バトルハウスでの勝ち抜き戦は、四つ子にとっては、慣れない雰囲気だった。
カロスリーグともまた違う、この空気。屋内であることによる密閉感、圧迫感、観客との近さ。
リーグよりも、まさに見世物の色が強い。
ある意味では、カロスリーグよりもプレッシャーは強いかもしれない。
であるからこそ、大階段の踊り場に上がるトレーナーはいずれも一流だということが窺い知れた。トレーナーは指示のミスなどしない。そしてポケモンの指示に対する反応も的確だ。凡ミス、というものがないのだ。
余裕の見られるバトルだった。
トレーナー達は簡単そうに、状況を見極め、冷静に指示を出す。ポケモンたちも、ごく当たり前のように戦い続ける。
簡単そうに見えるが、的確な指示と動作というトレーナーとポケモンの一連の動き、それはとても難しい。レイアもキョウキもセッカもサクヤも、立ったまま観客席の手すりを握り、無表情で階下のバトルを睨んでいた。無心にバトルを観察していた。ここで繰り広げられるのは、まさしく極上の試合だった。
あのようなバトルが、レイアやキョウキやセッカやサクヤにもできるだろうか。
カロスリーグで戦い抜く実力がある四つ子ならば、できるかもしれない。
踊り場には、様々なポケモンが繰り出された。
ドードリオ、ギルガルド、ネンドール、ノコッチ、デスカーン、クチート、ドリュウズ、メガニウム、レントラー、ブルンゲル、カイリュー、ピクシー、ルチャブル、ヌオー。
そういったポケモンが現れては、技を繰り出し合い、勝利の咆哮を上げ、あるいは力尽き、入れ代わり立ち代わりボールの中から現れる。
四つ子の初めて見るポケモンも大勢出てきた。そういったポケモンの名前やタイプ、特性などは、ロフェッカが教えてくれた。初めて見るポケモン、初めて戦うポケモンといきなりバトルの場で相対したとき、果たして四つ子は冷静に正しい指示を飛ばせるだろうか。
そう、出場しているトレーナーは皆、知識が豊富だった。どのようなポケモンが出てきても、そのポケモンのタイプが何で、弱点が何で、どのような技を使ってくるのか、すべて知っているようなのである。そしてすべて予定調和だとでもいうように、当たり前のように勝ち進み、当たり前のように敗れ去る。そこに新人トレーナーのような感情の浮き沈みはない。
だから、観客も安心して純粋にバトルだけを楽しめる。
ここはバトルのための施設。何年もここに入り浸り、毎日のように戦いに明け暮れる猛者もいる。そのようなトレーナー相手に、ぽっと出の四つ子がどこまで戦い抜けるか。
四つ子は、黙ってバトルを睨んでいた。
ヒトカゲもフシギダネもピカチュウもゼニガメも、四つ子の腕の中に納まって、じっとバトルを見下ろしていた。
何時間、経っただろうか。
夜もだいぶ更けたはずだ。
バトルごとに挟まれる五分間の休憩時間に、何度かウズやロフェッカがそろそろこの場を後にしたいと言い出した。しかし四つ子は何かと理由をつけてだらだらと居残っていた――次にフェアリータイプが出てきたら終わりにするから。あと三十分。お願い、あと一試合だけ見さして。
そうして、四つ子はクイタランとライボルトのバトルを見ていた。
双方のトレーナーの、いずれも最後のポケモンである。時間的にももうこれ以上は粘れない。四つ子の後方では椅子に腰かけた養親のウズが居眠りをしかけ、ロフェッカがそろそろ無表情になってきている。クイタランかライボルトか、いずれかが倒れたら、四つ子はもうバトルハウスを出なければならなかった。
クイタランに食いついたライボルトを、クイタランが腕で押さえつけ、至近距離から高熱の炎を吹きかける。ライボルトが悲鳴を上げる。しかし悲鳴を上げつつも、なかなか気を失わなかった。
それは長く続いた。
さすがの四つ子も揃って顔を顰めた。四人は性格はバラバラでも、ポケモンを大切に思う気持ちは同じだ。――何をしている、ライボルトはもう戦えないはずなのに、なぜクイタランはライボルトを早く倒しきってしまわないのか。周囲の観客も眉を顰めたり、顔を背けたりしている。
たまに、こういうことがあった。
バトルハウスで繰り広げられるバトルは激しく、厳しい。敗れ去るトレーナーは数多くいる。そうなると誰に対して恨みを抱いたものか、嫌がらせのようなバトルをするトレーナーが現れる。
バトルハウスは、観戦を楽しむための場所でもある。しかし、バトルを行うのはほとんどが一般のトレーナーだった。サービス精神などというものはほとんど望みえない。あまりに度が過ぎたバトルはバトルハウスの運営側がさすがに止めに入るが、まれにこのような、洒落にならない残酷な戦いをする者が踊り場に現れるのだ。
このバトルでも、さすがに、審判が動きかけた。
その審判の動きを見てか、クイタランが火力を強め、ライボルトを沈めた。それは見るも無残な焼け焦げの姿だった。
紫の大広間が、しんと静まる。白けた、とでもいうのか。
クイタランのトレーナーである中年の女性トレーナーは、まったく悪びれた様子がなかった。当たり前のようにクイタランをボールに戻している。
審判がクイタランのトレーナーに近づきかける。しかし、一歩遅かった。
踊り場に、闖入者があった。
「――このっ、鬼畜が!!」
二階の観客席から転がるように降りてきた長身の青年が、クイタランのトレーナーにつかみかかる。クイタランのトレーナーが悲鳴を上げる。慌てて審判が二人を引き離そうとした。
観客席では戸惑いのざわめきが広がり、大きくなる。
短い茶髪の青年が、踊り場で喚いている。
「……このっ、お前のようなトレーナーが! お前みたいなトレーナーがいるから! ポケモンが傷つくんだ! トレーナーやめろ! ポケモンはみんな解放しろ!!」
しかし、その青年の声に対して、観客席からさらにヤジが飛んできた。
「うっせぇ! 反ポケモン派は出てけ! ポケモン愛護団体は出てけ! バトルハウスに来んなっ!!」
そのトレーナーによる激しいヤジに、周辺にいたトレーナーたちがそうだそうだと同調する。
先ほどまでは、惨いバトルを見せたクイタランのトレーナーへの非難が空気を支配していたというのに、あっという間に非難の矛先は青年に向いてしまっている。
四つ子には訳が分からない。
騒ぎの中を、こそこそとクイタランのトレーナーは抜け出そうとしているし、踊り場の長身の青年に向かって怒り狂った熱狂的なトレーナーが群がっているし、バトルハウスの広間は混乱の様相を呈していた。
四つ子は困り果てて、後ろのウズとロフェッカを振り返った。
ウズは眠そうな目をこすっており、ロフェッカは肩を竦めただけだった。バトルハウスから出ようにも、階下へ降りるための大階段は暴徒に占領されている。
喧騒はバトルハウスを揺るがし、人々とポケモンはもみくちゃになり、混沌と化す。
その時、二階の奥の大扉が、バンと開かれた。
一般のトレーナーのための控室ではない。四つ子が観戦を始めてからは、今まで開かれたことのない扉だった。
大扉の中から、緑、赤、青、黄のドレスを纏った女城主が現れる。
途端に、踊り場に殺到していたトレーナー達の中からいくつもいくつも、熱狂的な声援が飛んだ。
「うおおおおおおっ、ルミタン様ァァァァ――っ!!」
「ラジュルネ様ぁぁあああおおおおおおおお」
「ルスワール嬢っ! ルスワール嬢のお出ましじゃああああ――っ!」
「ぐっほぉぉぉぉぉラニュイた――ん! ラニュイたんこっち向いて――ッ!!」
待ってましたとばかりに、太い男の声がいくつも響く。
ルミタン、ラジュルネ、ルスワール、ラニュイ。それぞれ緑のドレス、赤のドレス、青のドレス、黄のドレスを身にまとった、このバトルハウスの支配者然とした彼女たちの名だろう。
緑のドレスを纏った長女のルミタンが、ふわりと微笑む。
「こんばんは。皆様、本日もバトルハウスばご贔屓くださり、ありがとうございます」
「ルミタン様も今日もありがとぉぉぉぉ――!!」
「感激じゃ、感涙じゃああああ!」
男たちが叫んだ。
赤のドレスを纏った次女のラジュルネが、眉を顰める。
「まったく、何の騒ぎかしらっ!? このバトルハウスに乱闘はご法度だと、ご存知!!?」
「申し訳ありませぇぇんラジュルネ様ぁぁっ」
「踏んでくださいっ」
男たちが叫んだ。
青のドレスを纏った三女のルスワールが、もじもじと手指を弄ぶ。
「あっ、あの……えっ、えと、そのう……みっ、皆さん仲良くしてくださぁいっ!! ……あ、あうぅ」
「了解ですぞルスワール嬢!」
「ルスワール様こっち見てェェェェッ!」
男たちが叫んだ。
黄のドレスを纏った四女のラニュイが、きゅるんとポーズを決めた。
「ぺろぺろりーん! ラニュイだよー! あんねー、ケンカしたらあかんよー!」
「はいもうケンカしませんっ」
「ラニュイ様の仰せのままにィ――!!」
男たちが叫んだ。
魅惑的な四姉妹が奥から登場しただけで、大広間にいたほとんどのトレーナー達の統制がとれてしまった。
ぼろぼろになった、最初にクイタランのトレーナーにつかみかかった長身の青年が、よろよろと人混みの中から抜け出す。しかし、ドレス姿の四姉妹の登場に心を奪われたトレーナー達は気にも留めない。青年はとぼとぼと大広間を抜け出した。
ロフェッカが四姉妹を見つめたまま、にやりと笑う。四つ子の肩を順に叩いていった。
「……ほれ、よく見とけ。あのお嬢さん方がこのバトルハウスの主、バトルシャトレーヌのご面々だ」
ヒトカゲを抱えた赤いピアスのレイアも、フシギダネを抱えた緑の被衣のキョウキも、ピカチュウを抱えたセッカも、ゼニガメを抱えた青い領巾のサクヤも、言われるまでもなくその四姉妹を見つめていた。
華やかな四姉妹だった。
微笑を浮かべているルミタン、まなじりを吊り上げているラジュルネ、オドオドしっ放しのルスワール、自由奔放なラニュイ。
そのバトルの腕だけでなく、華やかな外見や人柄によって多くのトレーナーを引きつける。まさにキナンの華。
その魅力で、バトルハウスというこの狭い空間すべてを味方につけてしまう。
恐ろしい、と四つ子は思った。
彼女は半ば見世物として生きている。その中で輝く強さを誇っている。
しかし四つ子が四姉妹に見入っていると、ロフェッカに背中を押され、四つ子はそそくさと階下へ降り、バトルハウスから抜け出させられた。
バトルハウスの外は、冷えていた。さすがに夜も遅いのか、喧騒は静まっている。
ピカチュウを肩に乗せたセッカがぷぎゃぷぎゃと語る。
「バトルシャトレーヌって四姉妹なんだな。でもみんな髪と目の色が違ったな。四卵性かな?」
フシギダネを頭に乗せたキョウキが小さく笑う。
「彼女たちは四つ子じゃないから、四卵性なのは当たり前だよ」
「俺らは一卵性の四つ子だもんなー!」
セッカがえへへと笑ってキョウキにくっつく。
キョウキもまんざらでもなさそうにセッカにくっつかれながら、ヒトカゲを脇に抱えたレイアと、両腕でゼニガメを抱えたサクヤとを振り返った。
「どうだった? 二人はバトルハウスで勝ち抜けそう?」
「……まだ厳しいかもな。一人じゃ」
「シングル、ダブル、トリプル、ローテーションは一人で挑戦するらしい。だが、二人でマルチに挑戦することもできるようだ」
レイアが苦々しげに吐き捨て、サクヤがいつの間にか仕入れてきた知識を披露する。すると、キョウキにくっついていたセッカが元気よく叫んだ。
「じゃあさ、まずはマルチに挑戦しよう! ブイちゃんたちが強くなったら、一人ずつで戦うの!」
四つ子の手持ちには、タマゴから孵って間もないポケモンが二匹ずついた。その二匹を育てない限り、あのような厳しい勝ち抜き戦には耐えられないだろうという結論に四つ子は達する。
セッカが鼻息を荒くする。
「――んで、めっちゃ稼ぐ!」
「……気合入ってるとこ悪いが、バトルハウスじゃ賞金は貰えねーぞ?」
そこにロフェッカが苦笑しながら口を挟んだ。
せっかく意欲を燃やしかけていた四つ子は、急激に意気消沈した。燃え尽きた灰のような顔になった。
しょんぼりとする四つ子に、ロフェッカは慌てて取り繕う。
「い、いや、何も貰えねぇわけじゃなくて――ああもう、説明は後だ、あと! ウズ殿が眠りかけてる!」
そこで四つ子はようやく、キナンまでついてきてくれた養親の存在を思い出した。
銀髪のウズは、ロフェッカにもたれかかってうつらうつらとしていた。ロフェッカが苦笑する。
「んじゃ、もう今日はお前らがこれから暮らす家まで案内して、それで寝るから。キナンの事なら何でも明日話してやるから、な?」
そう適当に言いやって、ロフェッカはウズとウズの荷物を引きずりつつ、居住区の方へと歩いていった。
レイアのヒトカゲも、キョウキのフシギダネも、セッカのピカチュウも、サクヤのゼニガメも、興奮しすぎたせいか疲れて目をとろんとさせている。四つ子自身も眠くなってきた。
四つ子は互いに手を繋いで、ふらふらとロフェッカのあとを追う。
居住区に立ち並ぶ別荘の一つの前で、ロフェッカは立ち止まった。なにやら鍵を懐から取り出して、別荘の扉を開けようとしているのだった。
四つ子は眠い頭の中で、まさか別荘に滞在することになろうとは思わなかった、とぼんやりと思った。しかしもう眠い。今朝レンリに辿り着き、そしてレンリからミアレまで列車に乗り、ミアレからキナンにTMVでやってきて、そして何時間も激しいバトルを観戦して。疲労は溜まりに溜まっている。
ロフェッカに世話を焼かれつつ、四つ子は夢うつつで歯を磨き、軽くシャワーを四人まとめて浴び、そして二階のダブルベッドに四人でダイブした。仲良くくっつき合って眠る。
四つ子はひどく眠かった。
だから、二階の部屋の窓のカーテンの隙間から、男がその部屋の中を覗き込んでいることに気付いても、無視して眠った。一晩眠れば忘れてしまうであろう程に、まったく気にも留めなかった。
優しく甘い 夕
葡萄茶の旅衣を纏った袴ブーツの四つ子は、きらきらと目を輝かせてそれを見上げた。
ミアレシティ東端に位置する、広大な石造りのミアレステーション。その西側の窓から差し込む眩しい橙色の西日によって、その構内は燦然と輝いている。
その夕陽の中に停車しているのは、キナンシティへ向かう超高速鉄道――TMVだ。
赤白の車体に、青のライン。洗練された流線型。
レンリからの列車から降りたばかりの四つ子は、TMVを見上げては、ほおと感嘆の溜息ばかりを漏らす。
セッカのピカチュウも、キョウキのフシギダネも、サクヤのゼニガメも、レイアのヒトカゲも、それまで列車の中で散々ふざけ回っていたのが嘘かのように、夕暮れの中で輝くミアレステーションとTMVにまじまじと見入っていた。
四つ子はつい先ほど、列車というものに生まれて初めて乗って、このミアレに到着した。駅という場所にも生まれて初めて来た。そして、今、四つ子は人生で最高速度の移動を体験しようとしている。
四つ子の周囲でも、観光客らしき人々がTMVの写真をカメラやホロキャスターで盛んに撮影していた。ポケモントレーナーらしきポケモン連れの人々も、南の街キナン行きのTMVに続々と乗り込んでいる。そして四つ子も彼らと同じく、キナンへ向かうのだ。このTMVに乗って。
四つ子の養親であるウズは、黙ってTMVをどこか胡散臭げに眺めていた。観光客がウズの羽織袴姿をちらちらと気にするのにも全く構わず、泰然と仁王立ちしている。
一方で、彼ら養親子に同行するポケモン協会職員のロフェッカは、黄色い打刻機で六人分のTMVパスに打刻してきた。
金茶髪の大男は、笑って養親子に声をかける。振り返った拍子に、その笑顔に橙色の夕陽が落ちた。
「ほい、んじゃ、さっそく乗りますか」
「てぃーえむぶい!」
「ぴかぴっか!」
ピカチュウを肩に乗せたセッカがいち早く飛び出す。TMVに突進した。
キョウキとフシギダネ、サクヤとゼニガメ、レイアとヒトカゲがそそくさと続く。
金茶髪のロフェッカとウズが、大きなトランクを引きずりながら続いてTMVに乗車した。
「いきます! TMV! ――たたいて・むしって・べじたぶる!」
「なるほど。胡瓜を叩いて白菜をむしって、これからお漬物を作ろうという心意気が伝わってきますねぇ」
さっそくTMVに乗り込んだセッカが機嫌よくあいうえお作文をし、それにキョウキが笑顔で解説を付け加える。
TMV内の座席は、通路を挟んで左右に一列ずつ並べられていた。四つ子は向かい合わせの左右二列ずつの計四席のスペースを陣取る。進行方向に向かって右列にはセッカ、キョウキ。左列にはサクヤとレイアが向かい合って座る。
発車のチャイムが駅構内に流れ、TMVがゆるりと動き出した。セッカとピカチュウが歓声を上げる。
「動いたぁ! 動いたよピカさん、すっげぇなーっ!」
「ぴぃか! ぴかちゅ!」
「セッカ、ピカさんも、静かにね」
フシギダネを膝の上に乗せた緑の被衣のキョウキがやんわりと注意すると、セッカは抱きしめたピカチュウと顔を見合わせて、にへにへと笑った。TMVが加速する。しかし一方では、ゼニガメが素早くサクヤの腕の中から飛び出している。
「ぜにーっ!」
「こら…………おいキョウキ、ふしやまに捕まえさせろ」
サクヤの要請に、キョウキのフシギダネが笑顔のまま素早く蔓を伸ばした。他の車両へ駆け出しかけていたゼニガメを蔓が捕らえ、そしてサクヤの膝の上にゆっくりと戻す。
ゼニガメは喚き、文句を言った。
「ぜぇに! ぜにぜにぜにーっ!」
「痛い」
さっそく連れ戻されてしまったゼニガメは、癇癪を起こしてサクヤの黒髪を引っ張りまくった。サクヤは顔を顰めるが、目を閉じ、黙って耐えている。サクヤの凶暴さを身をもって知っている片割れたち三人は、そのようなサクヤの精神的な成長に思わず我が目を疑った。
その三人の不躾な視線に気付いたサクヤが、ゼニガメに頬をつねられつつますます眉を顰める。
「なに?」
「……いやぁ、人って成長すんだなぁ」
「言っておくが、僕はポケモンには暴力は振るわないぞ」
ヒトカゲを膝の上に乗せてにやにやと笑っている赤いピアスのレイアを真正面に見据え、サクヤは不機嫌にそう言い放つ。
レイアは窓枠に肘をついてけらけら笑う。
「サクヤってしっかりしてると思いきや、割とアクエリアスとか躾けきれてねぇよな? 甘やかし過ぎじゃねぇの?」
「こいつには何を言っても無駄だと学んだだけだ」
言いつつサクヤは、顔面からやんちゃなゼニガメを引き剥がしている。ゼニガメは短い手足を思い切り振り回し、全力の抵抗を示している。レイアの膝の上のヒトカゲが、それを見てきゅきゅきゅと笑う。
サクヤが鼻を鳴らす。
「おいアクエリアス、サラマンドラにも笑われてるぞ。恥ずかしくないのか」
「ぜぇーにぃ! ぜにぜーにぃっ!」
「ぴかぁーっ、ぴぃーかぴかぴかっ」
「だぁーねぇー?」
「……ほら、ピカさんやふしやまにも笑われてるぞ、アクエリアス。おとなしくしろ」
「ぜにが――っ!!」
サクヤはその後もしばらく、青い領巾を引っ張りまくるゼニガメと格闘していた。
レイアは膝の上で丸くなるヒトカゲの背を優しく撫でつつ、車窓からの景色を静かに眺めている。赤いピアスが微かに揺れる。
ピカチュウを膝に乗せたセッカは、あいうえお作文を懸命に捻り出していた。
「TMV! てぃー・えむ・ぶい! たえきれず・もっこり・びでお!」
「やだぁもう、セッカったら」
フシギダネを膝に乗せたキョウキが、セッカの正面で上品に笑っている。
サクヤが全力で投げつけたゼニガメが、セッカの顔面の右半分をその甲羅で圧し潰した。
四つ子はTMVでキナンに向かう間、矢のように流れる景色に目を瞠ったり、また別車両に設けられたバーに行ってソフトドリンクとバゲットサンドといった夕食をとったり、ゆったりとした座席に埋もれて眠ったりしていた。座席に座りやすいようにするためという理由もあって、腰につけていたモンスターボールはすべて外し、窓際に並べてある。四つ子のすべての手持ちのポケモンたちにも、車窓からの景色は見えているだろう。
夕映えの景色は飛ぶように流れる。
四つ子の後ろの席で、ウズは頬杖をついて静かに車窓を眺め、ロフェッカはリラックスした様子で本など読んでいる。四つ子が騒いでもやがてぷうぷうと寝息を立て始めても、二人は我関せずといった態度だった。これから一、二ヶ月も四つ子と関わり続けていくことになるのだ。少々のことにいちいち動揺していてはとても身がもたない。
太陽が沈みゆく。
列車は大河を辿り、平原を駆け抜け、青々と一面に広がる葡萄畑や牧場、数多の草原や荒野を見晴るかし、東にチャンピオンロードの山脈を眺め、谷川を越え、深い森の間を抜けて。
世界は赤から青へ染まり、星々が瞬き、夜に沈む。超高速鉄道は南東目がけて駆け抜ける。
景色は移ろう。
窓の外はすっかり暗くなった。
時折見えた街の光もとうとうまばらに、夜空には満天の星。TMVは宇宙を駆けているようだ。たまに目を覚ました四つ子は、明るく暖かい車内でそう思う。あれほど騒いでいたピカチュウやゼニガメもおとなしく眠り込み、フシギダネもヒトカゲも寝息を立てている。
欠けた月が昇り始める。
いつの間にか、TMVは山の間にあるようだった。
夢うつつに、アナウンスが流れる。四つ子の頬には、座席のシートの感触が馴染み切っている。
ロフェッカが、自分とウズの二人分のトランクケースを引っ張り出してくる。
そしてロフェッカは、うつらうつらとしている四つ子に声をかけた。
「おら、キナンに着くぞ。そろそろ起きやがれ」
膝にそれぞれの相棒を乗せた四つ子は、もぞもぞと動き出した。
六人は黙々とTMVから下車し、キナンステーションから出た。
途端に感じられたのは、冷たく吹きすさぶ夜の山の風。――しかし、そのような一抹の寂寥は瞬く間に蒸発した。
四つ子は言葉を失った。
光が、熱が、何もないと思われた山間に満ちている。
キナンシティは、一大高原リゾートである。
ポケモンセンターやバトルハウス、フレンドサファリといったトレーナー向けの施設も、ポケモントレーナーの間では有名ではある。しかしそういったトレーナー向けの施設だけではない。バトルハウスでのポケモンバトルを観戦に来た一般人観光客向けのリゾート施設が、キナンには揃っているのだ。
高級別荘地、大型ホテルはもちろん、大型アウトレットモールとショッピングモールを兼ね備えた商業施設がそれらに隣接している。
また、映画館、ゲームコーナー、文化ホール、ロープウェー、屋内外の大型テーマパーク。バトルスタジアムやコンテスト会場、ミュージカル劇場。ポケモンと触れ合える大動物園、貴重なポケモンの保護も兼ねた巨大な植物園、等々――山間に拓かれたリゾート都市、キナンにはエンターテイメント施設が充実しているのである。
トレーナー誘致を観光の柱とはしているものの、一流のトレーナーによるバトルハウスでのポケモンバトルをさらに呼び水に、一般観光客をも広く集めようという魂胆である。
キナンステーションから臨んだ“優しく甘い極上の街”は、夜の山間に、眩くそして幻想的にライトアップされていた。
四つ子はただただ圧倒され、息を呑む。
ミアレの夜景とはまた違った、ここは熱気に溢れた夢の街。
これが、カロス最南端の街。
道端にはリゾート気分を覚えさせる南国の植物。
通りは街灯で明々と照らされ、様々なポケモンを連れた様々な人々が、夜もまだまだこれからと活気にあふれ、混み合う道を行き交う。それは保養に訪れたトリミアン連れの優雅な老夫婦であったり、エネコロロとサーナイトを伴った幸せそうな家族であったり、チラーミィとプリンとマリルとピチューを抱えた華やかな女子学生の集まりであったり、トロピウスやギガイアスやヒヒダルマを連れた腕自慢のトレーナーの集団であったり。
少し広場に出れば、大道芸人が見物客を集めている。
チャーレムやアサナンといったエスパーポケモンが大量の水を念力で固定し、空中に生まれた巨大な球のプールの中を、ミロカロスやサクラビス、アズマオウ、トサキント、ネオラント、チョンチー、パウワウ、ラブカスといった水ポケモンが華麗に舞い踊り、水中ショーを見せている。
四つ子はそのショーに目を奪われた。まさかこのような場所で、美しい水ポケモンたちの舞が見られようとは。
かと思えば、広場で視線を転じれば、すぐさまキレイハナやドレディアやマラカッチによる花吹雪が人々の目を引き、美女が魅惑的なダンスを披露する。
他にもマルマインに乗りつつタマタマでジャグリングをする危険極まりない者、バリヤードと共にパントマイムに明け暮れる者、オタマロの軍勢を指揮して合唱させる者、数匹のミネズミにダンスを踊らせる者。時に息を呑むほど圧巻で、ともすれば思わず笑ってしまうほど滑稽だ。
まるで祭だ。
四つ子は互いにはぐれないように仲良く手を繋ぎ、広場を渡り歩いた。通りにはポケモンも食べられる料理や飲み物の屋台が並び、食欲をそそる音や香りを辺りに振り撒いている。クレープ、焼き栗、林檎飴、チュロス、アイスクリーム。甘味の屋台が多かった。
街の至る所には色とりどりの花々や緑が飾られ、花火や爆竹の音が山間の星空に時折響く。道は昼間のように明るい。
きょろきょろと落ち着かずに目を輝かせつつも、四つ子が多言語で表示された看板を辿ってとうとう立ち止まったのは、バトルハウスだった。
黄金の装飾の施された、大理石の豪邸。
お祭り騒ぎに囲まれて、けれどキナンシティの主でもあるかのように、その屋敷は荘厳に鎮座ましましていた。
ここがバトルハウスに間違いない。
小奇麗な服装に身を包んだポケモントレーナー達が、ひっきりなしにそのバトルハウスに出入りしている。他にも観客であろうか、タキシードとイブニングドレスの二人連れなど、美しく着飾った人々がその邸宅に集っていた。どうもただのバトル施設ではなさそうだ。
四つ子は躊躇した。
四つ子の服装はお世辞にも小奇麗とは言いがたい。十歳の時にウズから譲り受けた旅衣装の丈を調節して、現在まで着続けているのである。葡萄茶の旅衣やブーツなど擦り切れてボロボロだ。このような格好で、果たしてこのような屋敷に入ったものか。
しかし、四つ子のあとに続いてきていたロフェッカがこともなげに首を傾げた。
「なんだぁお前ら、入んねぇのか?」
「……え、入っていいんか」
「たりめぇだろが」
そして普段着に身を包んだロフェッカは、気負うこともなく豪邸にずかずかと踏み込んでいった。四つ子もきょどきょどしつつ、その後を追う。
そして玄関ホールの眩い内装に目が眩んだ。赤い絨毯。ロフェッカはやはり何の気負いもなく、ずかずかと重厚な赤い絨毯を踏んで荷物を預け、階段を上がっていった。受付に話しかけている。
受付の女性は一行を見やると、笑顔で言い放った。
「お一人様につき、入場料を1500円頂きます」
「えっ、お金とるの!?」
ピカチュウを肩に乗せたセッカがぴゃあと叫び、その頭をロフェッカが小突く。
「うるせぇ、たりめぇだろうが。今日はさすがにお前らはバトルは無し。バトルせずに観るだけの客は、入場料払うんだよ。ほれ、それでも観るってんなら金出せや」
「ロフェッカが払ってよ」
そう微笑んでロフェッカを見つめるのは、フシギダネを頭に乗せた緑の被衣のキョウキである。
「ほら、ロフェッカの代わりに、フウジョからヒャッコクまでミホさんとリセちゃんを送ってあげたじゃない。謝礼はするって、君、言ったじゃないか?」
ロフェッカはぐうの音も出なかった。
そしてロフェッカが渋々と全員分の入場料を支払い、四つ子は意気揚々と玄関ホール正面の大扉をくぐった。ウズが静々とそれに続いた。
紫の大広間に出る。
その幻想的な空間に、四つ子はまず一瞬度肝を抜かれた。
次いで、正面の階段の踊り場で繰り広げられるシングルバトルに、四つ子は目を瞠った。
バンギラス対ゼブライカ。
激しい咆哮が上がり、激しい砂嵐が舞い上がり、紫電が散る。
二階の観客席は超満員だった。どうやら観客席や内装は、エスパーポケモンの張った壁などで安全に防護されているようだ。二体のポケモンがぶつかり合うたびに、大きな歓声や拍手が起こる。
既に勝負は終盤に差し掛かっていたらしく、バンギラスがゼブライカをかみ砕いてとどめを刺した。
バトルの決着がついたところで、からんからんとベルが鳴る。
「……うし、終わったな。おら、こっちだ」
ロフェッカは立ち止まっていた四つ子の背を押し、そのバトルが終わったばかりの正面の大階段を上がり始めた。そのまま二階の客席に上がる。
バトルに負けたばかりのゼブライカのトレーナーも、二階の客席に上がっていった。敗れたトレーナーは、そのまま二階の観客に混じることもあれば、再びバトルに挑むべく出場選手の控室に戻ることもあり、はたまた挑戦や観戦に飽きればそのまま大階段を下りてバトルハウスを出ていくこともある。何にせよ、敗者は踊り場から去るのみだ。
そして一方のバトルに勝ったバンギラスのトレーナーは、大階段の踊り場の手すりにもたれかかって小さなサンドイッチなどを齧り、小休憩を入れている。勝者は、次々と訪れるトレーナーと勝ち抜き戦を繰り広げることになる。
また、観客が大階段を行き来する。新しくバトルハウスを訪れた者は上がり、十分に観戦を堪能した者は下りていく。一階にあつらえられた丸テーブルの軽食コーナーで、ポケモンと共に軽く食事をつまんでいく者の姿もある。
四つ子は二階の観客席から、紫の大広間をきょろきょろと眺めまわした。
紫の壁や柱は幻想的だ。豪華なシャンデリアや立派な燭台が煌々と広間を照らし、敷き詰められた絨毯は密である。しかしただ豪華絢爛なだけでなく、そのデザインには遊び心が散りばめられていた。金属光沢の華やかなリボンが欄干に飾られ、紫の壁紙は水玉模様やストライプである。
手に汗握るような激しいバトルを、軽い気持ちで観に来ることができる。バトルハウスはそのための場所なのだ。
そして、観客席の薄暗い一角では、何やらテーブルに集まってコインのやり取りをしている数人の紳士がいた。踊り場でのバトルでどちらが勝つかで、賭けをしているのか。四つ子は珍しげにその賭博の様子を眺めていたが、そこで養親にまるで見るなとでも言うように肩を叩かれた。
ざわついた休憩時間は、五分ほどだったか。
からんからん、と再びベルが鳴る。
休憩時間が終わったのだ。次のバトルが始まる。
四つ子は薄暗い賭博の様子より、すぐに階下に気を取られた。
正面の大階段に残っていた人々がはける。踊り場に残されたのは、先ほどのバトルに勝利したバンギラスのトレーナーだけ。このトレーナーはもたれかかっていた手すりからそっと身を離し、階上を見上げた。
二階から、次のバトルの相手が駆け下りてくる。エリートトレーナーの女性だった。相対した二人のトレーナーは握手をして何事か挨拶を交わしているが、ざわめく二階の観客席まではその言葉は届かなかった。二人のトレーナーがそのままバトルのための距離をとる。ボールからポケモンを出す。
一斉に拍手が巻き起こった。
階上の客席から降り注ぐそれが静まるまで、二人のトレーナーと二体のポケモンは睨み合う。スワンナ対ブーバーンだった。
しんと、一瞬客席が静まり返った、その刹那。
次の勝負が始まる。
わあ、と歓声がバトルハウスに満ちた。
「先日は、ご迷惑をおかけしました」
翌日、クチバシティのマックスアッププロダクション。そこに訪れている悠斗は、港町が一望出来る高層階に設けられた根元の控え室で、深く頭を下げた。
謝罪の理由は、一昨日行われた練習試合での悠斗の失態――表向きには体調不良でも真実は呪術による精神錯乱だが、どちらにしてもせっかく時間を割いてやっていたバトルを中断したことに変わりはない。その分の時間を無駄にした根元にも、バトルコートを空けてくれたマックスアッププロダクションにも申し訳無いことをしたのは事実である。そう考えた悠斗は、根元に挨拶をしに行きたいということを森田に頼んだのだ。
それにしても――と、悠斗の少し後ろで一緒に頭を下げながら森田は思う。こうして、スケジュールの合間を縫ってまで、足を運びたいと彼が言い出したのはどこからくる気持ちなのだろう。悠斗が元々持ち合わせていた、社交的にして世渡り上手、それでいて情に熱いところもあって一度抱いた信念は良くも悪くもなかなか覆せない頑固者、というところが多かれ少なかれそうさせているのは確かだとは思う。
しかしそれ以外にも、と森田は期待せずにいられない。たった数週間のことだけど、その数週間を通して、悠斗が少しでもポケモントレーナーというものの片鱗に触れることが出来たなら。長らく目を背け続けてきた存在がどんなものかを、父親が生きる世界はどんな感情に溢れているのかを、清濁共に垣間見れたなら。決して短いとは言えない間、泰生と悠斗の関係を見ていた森田は、そんなある種のお節介な願いを持たずにはいられなかった。
ところで泰生だったら同じことをするだろうか、とまで考えて、そもそも泰生は謝るべき状況など引き起こさないに違いない、という結論に思い至った。もっとも今回の件だって悠斗だけが悪いのでは無いけれど、もしも同様に呪いをかけられたとしても、泰生はあそこまで……バトルが出来なくなるくらい、取り乱すことも混乱することも無いだろう。だって彼は、そういう人間なのだ。
バトルコートを生き場所とした、そういう類の人間なのだから。
「…………迷惑、ねぇ」
そして、それはおそらく、この男だって同じなのだ。
膝に乗せたニャオニクスの白い毛並みを撫でながら悠斗の言葉を聞いていた、根元は気障ったらしい笑みを浮かべて片頬を掻く。カーペットの敷かれた床めくつろぐようにしていた、ミロカロスの流麗な瞳が悠斗と根元を交互に見た。根元の隣、ソファを一人分陣取っているミミロップが長い足を組み、興味無さげに欠伸をする。
「わざわざ此処までご足労してくれたのは悪いんだけどさ」顎に指を置き、根元は考え込むような顔を作る。
「でも、それってちょっと違うと思んだよね。僕は」
そうでしょ、羽沢君? 問われた悠斗は、根元の返答に言葉を詰まらせる。どういうべきかわからず、黙ってしまった悠斗をどう取ったかは定かで無いけれど、根元は穏やかな手つきでニャオニクスを膝から降ろして立ち上がった。「だからね」渋い声が部屋の空気を揺らす。悠斗の目の前に立った根元が、悠斗の顔をじっと見た。
バトルを生き様にするという、覚悟を決めた者の眼で。
「今度はさ、ちゃんと、ポケモンに報いるだけのバトルをしよう」
お互いに。
そう言った根元に、数秒遅れて悠斗は慌てて頷いた。気取った笑みを浮かべたまま、根元が悠斗の背中を二、三回軽く叩き、楽しそうな息を吐く。仕切り直しとなる練習試合の日取りを決めるためにスケジュール帳を鞄から取り出して、森田は二人には見えないところで苦笑した。
根元にもう一度礼をしながら、悠斗はわかったような気がした。あの時彼が言った『失礼だから』という言葉が、誰に向いていたのか、ということを。
◆
同じ頃――泰生はまだ家で、自分が歌うことになるかもしれない、キドアイラクの曲を色々と聴き込んでいた。
「大学には行かなくていいの?」
声をかけた真琴に、泰生は耳にはめていたイヤホンを外しながら答える。「今日は午後からだと言われたからな」ちなみにこの携帯プレイヤーは以前悠斗が使っていたもので、富田は口頭でのレクチャーに加えてA4のコピー用紙に使い方を懇切丁寧に書いて渡してきた。つくづく細かい、まるでポケモンの能力を分析する『ジャッジ』と呼ばれる職に就いているような男だ、というのが泰生の率直な感想である。「学校なんて何十年も行ってないし大学は行ったことすらなかったから、勝手がよくわからん」読めない楽譜を必死に睨みつけながら、泰生は憮然とした声で言った。
それを聞きながら、真琴は泰生の隣の椅子に腰掛ける。「悠斗とは大丈夫なの?」真琴はそう尋ねこそしたものの、その声と目は泰生の答えをわかっていそうな色をしていた。それを感じ取った泰生は、少々気恥ずかしさを覚えて「まあ、な」と口をモゴモゴさせる。
「本当は、もっと前から、どうにか出来たと思うのだが」
そう付け加えた泰生に、真琴は頷く。「わかってたわよ」穏やかなその声に、泰生は少しムッとしたような顔になって、「じゃあ、教えてくれても良かったじゃないか」と唸るように言った。
「何言ってんの。あなたと悠斗のことなのに、私がどうこう出来るわけがないじゃない」
「………………そりゃあ、」
きっぱりと言い切られ、泰生は返す言葉を無くしたように黙り込む。確かにそれはそうだけど、という思いを口の中だけで転がしていると、真琴が「まあ、私も」と申し訳なさの混じった声を出した。「悠斗の味方にもなりたくて、それにやっぱり悠斗の気持ちもわかるから」久々に聞く穏やかなその声が、羽沢家のリビングに響く。「あなたに、あんな態度を取り続けてたわけだし」
それを聞き、泰生はぽつりと呟く。「お前もやはり、俺の態度じゃわからないか」昨夜、悠斗に言われたことが頭の中に蘇る。自分が度が過ぎた口下手なことも人付き合いがひどく苦手なことも、どうしようもないレベルで不器用なことも、そのつもりはなくても与える威圧感が特性:いかくのポケモン以上であることも少なからず承知の上だけど、それでも不安になってしまったのだ。「俺のことがわからないと、そう、思うこともあるのか」悠斗の言葉を思い出しながら言った自分の声は、少しばかり震えを持っていた。
「一昨日、悠斗に『お前にはどうせわからない』って言われた時……本当に悲しかったんだ。自分でも驚いた。別に何ともない言葉なのに、聞き流すようなものなのに、信じられないくらい辛かったんだ」
トレーナーとしての才が極まるに比例して、散々言われてきたその言葉は、どれだけ言われても構わなかった。どんなに多くの者が自分を妬み、嫉み、憎み、才能だの実力だのを理由にして勝手に嫌って勝手に怒っても、泰生の気に留めるところでは無かった。自分に関係無い有象無象が外野で何を絶望しようとも、そんなのしったことでは無かったのだ。
だけど、例外があった。センパイにはそんなこと言われたくないんだ、という二ノ宮の声が頭をよぎる。自分も彼と同じだ、どれだけ浴びせられてもどうってことないはずの言葉が、全く同じ響きであっても、悠斗に言われるというだけでどうしようもなく重く悲しいものに変わる。
お前には、お前にだけは。そんなこと言ってほしくないのだと、必死に叫びたくなってしまうのだ。
「それは、お前……真琴も、そうだ。お前にも言ってほしくないし、思ってもほしくない。そんなことは……思わないで、ずっと。お前と、悠斗と、そしてミタマとヒノキ、キリサメには、そう思われないでいたいんだ」
全てを失ったと思っていた泰生に、残された数少ない存在。それが真琴であり、シャンデラ達であり、悠斗だった。
もう無くしたくない、せめてこの、自分に残されたものだけはもう失うようなことになってほしくない。それが泰生の、心の奥深くに根付いた願いだった。泰生自身すら気づかないほどの、奥にしっかりと根を張っている望みだったのだ。
「言われなくても」テーブルに乗せた拳を握りしめた泰生に、真琴はゆっくり笑みを浮かべる。「私は、約束を破ったりしないから」底無しの不安を埋める、天井知らずの安堵を与えるような声だった。
「あの子達だって、多分同じことを思ってるわよ」
「うむ…………」
ほんの僅かに顔を赤くして、小さく頷いた泰生は「そりゃあ確かに、もうちょっと、わかりやすくしてくれれば良いとは思うけど」という真琴の言葉に、う、と詰まる。「努力する」と呻くように言った彼は悠斗の見た目もあいまって、しかし悠斗本人よりもずっと幼い子どもにしか見えず、張った意地をどうにか解こうとしている様子に真琴は思わず吹き出した。
そんな真琴に少々不満を抱きつつ、泰生は「それにしても」と未だ不安そうな声で言う。まだ何かあるの、と問うた真琴に、彼は「いや、」とぼそぼそした口調で言った。
「お前も、ミタマ達も……本当は俺みたいな、バトル以外はロクに出来ないような、こんな奴のところにいるのは、勿体無いんじゃないかと思って……」
「当たり前じゃない」
自信なさげに言われたそれに、間髪置かず頷いた真琴に泰生は絶句した。
当たり前。今の流れでそれはないだろ。しかもそんなにハッキリと……。などとツッこむことも出来ず、ショックの大きさに口を震わせる泰生の顔をじっと見て、真琴はごくごく当然のように告げた。
「私は私が愛した人の妻で、あの子達はあの子達が愛したトレーナーのポケモンだもの」
惜しげも無くそう言ってのけた真琴に、泰生は数秒無言になる。「そうだな」ゆっくりと首を縦に振って、泰生は真琴へ笑顔を向けた。「どんなものだって、勝てないな」
真琴は楽譜を持つ泰生の手に、自分の手をそっと重ねた。久しぶりに見たような気がする、そのくせずっとそばにあったのだとも思えるその笑顔は、帰る場所を失った泰生に新しい居場所を作ってくれた、どんなときでも離れないと約束してくれたときの真琴と――――
「これからも、俺のそばにいてくれ。真琴」
同じように、美しかった。
◆
「この前は悪かった、有原」
その頃、タマムシ大学部室棟地下一階第二練習室――お互いに若干なんとも言えない顔をして集まったキドアイラクだったが、ガヤガヤとうるさい廊下と部屋とを隔てる扉を閉めるなり、富田がそう言って頭を下げた。無言で、しかし無条件にセッションの準備をしていた、アンプ脇の有原と、そして泰生と二ノ宮の顔が一斉にそちらに向く。
「言っていいことと、駄目なことがあるってわかってんのに、お前の嫌なこと言ったよな」ベースケースに手をかけたままの姿勢で、面食らったように目を丸くしている有原に、富田は迷いの無い口調で告げた。「本当に、ごめん」
「いや、いいって、別に……大体アレは、仕方ないことだろ? お前だって、好きであの、『シンクロ』だっけ? しちゃったわけじゃないんだし……」
「そうだけど。わかったからって、それを口に出していいわけじゃないから。だから、すまなかった」
きっぱりと言い切った富田に、有原はしばし逡巡するように視線をさまよわせる。数秒の間、彼はそうして言葉を選びあぐねていたらしいが、やがて「それは、俺も」と観念したように息と言葉を同時に吐いた。
「悪かったってのは、俺も同じだ。お前にひどいこと言ったのは俺が先だし、あんなの……言っちゃいけないよな」
「いや、俺もあんなに怒ってごめん、でも……俺は多分、お前の言った通りにしかなれないから。悠斗を理由にしてしか動けないから、これまでもだけど、これからも。それが俺なんだ。だから、」
富田がそこまで言ったところで、「うん」有原が片手を前に出してそれを止めた。「そうだな」そう言って少し笑った、有原の表情は穏やかだった。「わかってるよ」
それに富田が頷くと、有原は富田から視線を外して二ノ宮の方を見た。「お前にも。ごめんな」ドラムセットのネジを調整していた彼は、「えっ」と声を裏がらせて振り返る。「お前にはわかんないとか、……今回に限った話じゃないけど、あんなこと言って、ごめん」
「あ、それは俺も……」
「いや、違うんだ」
二ノ宮の言葉を遮り、有原は首を横に振る。「お前が思ってるようなものじゃないんだよ」ぽかんと口を開けた二ノ宮に、身体ごと向き直った有原が続けた。
「お前が思ってるようなのじゃなくて、勿論それもあるけれど、それより……俺は、お前見てると、焦るんだ」
「………………?」
「ほら、わかんねぇだろ……いや、すまん。俺は、お前のそういうとこがいいと思ってるし、それでいいっても思うけど。でも、さ……俺はお前が思ってるような人間じゃないから。もっと汚くて、馬鹿だし、カッコ悪いから」
「……センパイ?」と言葉尻を上げた二ノ宮に、有原は少し苦笑して、「お前のそういうとこが、お前と一緒にやれてて嬉しいって思うと同時にさ」複雑な感情が混じり合った声で言う。
彼らの会話を聞きながら、泰生は先日の一件で、富田が言ってしまったことを思い出した。『ベースのことも家族のことも勉強もうまくいってないからって』――ファミレスで聞いた二ノ宮の話に感じた違和感というか、どこか足りない感覚がピタリとハマって腑に落ちる。今まで自分に向けられてきた多くの言葉、そこに少なからず含まれていた成分。泰生はそれに覚えがある。
それは簡単なことで、しかし二ノ宮にはおそらくわからない、そして他に別のものを見続けている悠斗や富田、また泰生にも本当の意味での理解は出来ないかもしれない、『劣等感』という感情だったのだ。
「不安になるんだ。あと、嫉妬もする。嫌にもなる。自分にも、あと、ひどいと思うけど、お前にも。俺だって頑張ってるのに、なんでこうも、とかさ。才能とかそういうのでどうこう思うの、勝手に嫌いになったり憎んだりするの、したくないんだけど、でも、どうしても」
馬鹿みたいだろ? けらけらと笑って、しかしそのくせ、有原はつり目がちの瞳を床へと伏せた。「お前のドラムはすごい。俺はそう思う。お前の音楽が好きで、一緒にやれて嬉しいって思う」ジーンズの生地を握る手が震える。「でも、時々、消えたくなるし、消したくもなるんだよ」
「お前と意見が分かれたときとか。俺だけ違うこと言ってるときとか。俺は間違ってるのか、やっぱり俺は駄目なのか、とか、そういうこと考えるわけ。で、行き着く先はいつも一緒。俺なんかいなくなればいいのに、と、俺より上手い奴がみんないなくなればいいのに、って」
「……………………」
「だっさいだろ? でも、俺はその程度なんだよ。そんな器なんだ。だから思っちゃうんだ、お前にはわからない、ってさ。こんな汚くて、馬鹿みたいで、カッコ悪い奴のことなんか、お前には一生わかってほしくないし……わかろうとしたとこで、絶対、わかんないんだろうって思うから。……ごめんな、こんなこと言って」
「そんなこと、……俺だって、すい…………」
すいません、といつもの調子で言いかけて、しかし二ノ宮が口をつぐむ。黙って話を聞いていた富田が、おや、とま首を傾けた。二ノ宮はそれきり黙り込み、第二練習室には静寂が訪れる。時計の秒針が時を刻む音だけが響く中、有原は静かに二ノ宮の次の言葉を待っていた。
「センパイ」長い沈黙の後に、二ノ宮が言った。その目は何も迷っていなかったし、少しの躊躇の色もない。「俺は、それには謝りません」
「謝ったら、それを認めることになっちゃうんで。だから謝らないッス、ごめんなさいもすいませんも言わないッス。俺はセンパイが、どんなことを考えてたって汚いとか馬鹿みたいとかカッコ悪いとか、そんなの無いッスから」
「…………二ノ宮、」
「だから、俺が言えるのはこれだけです。センパイ、頑張りましょう。一緒に、俺らのバンドで。キドアイラク、で」
まっすぐな声で言われた二ノ宮の言葉に、有原は数刻、目を見開いたまま立ち竦んでいた。
その顔が、ふっと緩んで柔らかくなる。「そうかぁ」力の抜けた声で有原は言った。「そうだよ、お前はそういうヤツだもんなぁ」その時の有原が浮かべた笑みは、何かがほどけたような印象だった。「そうだったよ」
「そうスよ。俺はこんなんッス。センパイが何考えたって、俺はこんなままなんスから」
「そうだよな……うん。そうだよな、お前に焦るとか不安になるとか、そんなこと言っても始まらないもんな。それにほら、言っても聞こえないし」
「ちょっと! 特性ぼうおんでアフロのおかげでバツグンの吸音性ッスか!」
「言ってねーよ」
いつものやり取りをして、いつもの調子に戻った二人に、富田が前髪に隠れた両目を安堵に細めた。もう大丈夫だ、そう彼は思って、それも違うかと思い直す。もう、じゃなくて、初めから大丈夫なのだ。あるいは、これからも大丈夫というわけではないのだ。ただ、今よりも前に進んだというだけで、進むことが出来たというだけで。
「それと、羽沢」一通り軽口を叩き合って、有原が最後に泰生を見た。呼ばれた泰生は、悠斗らしいことも気の利いたことも言えないがどうすべきか、などと内心で場違いな、しかし真剣な不安を抱く。そもそも何を言われるか見当もつかないのだ、とりあえずあの時黙りこくるしかなかったのは謝るべきだろうか。泰生の脳内で、そんな考えがグルグルと回る。
が、そんな泰生を気にも留めず――「あのさ、羽沢」有原は、泰生の前に立って、少し微笑んだ。
「ありがとな。俺が、いや……二ノ宮と富田も、……俺たちが、ここで一緒にいるの、お前のおかげだから。本当にありがとう」
彼の言葉に、泰生はたっぷり五秒の間を置いて「ああ」、「ありがとう」と返した。
さっきの発言に対する返事としてはいささかビミョーとも言えるそれに、有原と二ノ宮は少しばかり不思議そうな顔をしたが、富田だけは口許だけでクスリと微笑む。泰生のありがとう、が誰に向けたものなのか――この場にはいないけれど、確かにキドアイラクを支えてくれている彼の息子に――それを、富田は何とはなしにわかったのだ。
「よーし、じゃあ始めますかぁ!」腕の関節を鳴らしながら、二ノ宮が威勢の良い声を出す。慌てて楽器を出しながら、「おう!」「おっけ」有原と富田もそれに応じる。間もなく響き出した三つの楽器と一つの声による四重奏は、音を隔てるはずの重い扉すらも超えて、どこまでも鳴り響けそうだった。
◆
地下の駐車場に車を入れてくる、という森田に事務所があるビルの前で降ろしてもらい、コートへ練習しにいこうと足を踏み出した悠斗はしかし、そこでその歩を止めた。
入り口の自動ドアを塞ぐようにして立っているのは、064事務所きっての美女トレーナー、岬だった。一つに結わえた長髪を冷たい秋風に揺らし、黒のトレーニングウェアに身を包んだ彼女は腕を組み、自分の存在に気がついた悠斗を睨みつける。怒っている、そう判断した悠斗は心当たり――先日でっち上げられたハタ迷惑極まりない熱愛スキャンダル――のことだと思い、内心がっくりしつつも覚悟を決めて岬の前まで進んだ。
「この前は、俺のせいで本当に迷惑を――――」
「何言ってるのよ」
が、誠心誠意で謝罪をしようとした悠斗の意に反し、岬の返事は予想だにしないものだった。きっぱりと言い切られた否定の言葉が何に向けられたのかわからず、悠斗は虚を突かれたように押し黙る。
「私が今更、スキャンダルごときで迷惑被るわけないじゃない」そんな悠斗の様子をどうとったか、呆れたような口調で彼女は言った。ルカリオにも似た、意志の強い瞳が悠斗を見上げる。「自分から散々やってきたの、羽沢さんだって知ってるでしょ?」溜息をつくような口調で話す岬に、「それは、まあ……」と悠斗は歯切れの悪い返事をする。それにまた息を吐いて、岬は「そんなことより」と、悠斗へ人差し指をびし、と突きつける。
「聞いたわよ。根元のヤツとのバトル、ボロボロだったって。具合悪かったらしいけど、もし、私とのアレを気にしてただなんて理由だったら承知しないからね」
「いや、え……それは、……」
「羽沢さん、アンタはいつでもいいバトルをしてくれないと困るわけ。勝ち負けとかじゃなくて、ステキな闘いをしてくれないと。私の初恋なんだから、羽沢さんは」
鼻先スレスレの、真っ赤なマニキュアに彩られた爪は悠斗が少しでも動けば刺さりそうだが、そうでなくとも悠斗は動くことが出来なかった。
耳が痛いお言葉に付け加えられるようにして、サラリと告げられた二つ目のセリフに、悠斗は超弩級の衝撃を受ける。別に自分に言われたことではないのだが、いや、むしろ自分ではなく泰生に対する言葉である分、彼の驚愕レベルはさながら、レックウザが住む天上よりも高いところまで突破した。「…………は?」どうにかそれだけ口にして、悠斗は硬直した身体に冷たい汗を浮かべる。
「だから言ったじゃない。羽沢さんは、私の初恋の人なのよ」
驚きで手先が震えていさえする悠斗とは対照的に、あっけからんとした様子で岬は言う。
「五歳とか、六歳の時に……ヨスガシティの大会で、あ、私はヨスガ生まれなんだけど。羽沢さんのバトルを初めて見て、それで、一目惚れよ?」
「はぁ………………」
「後ろなんか絶対向かない、馬鹿なくらいに前しか見てないようなバトルで、そこで私は決めたの。あなたみたいな強いトレーナーになって、必ずあなたに追いつくって。私は何があっても、アンタに並ぶ存在になるんだ、って」
「………………」
「それでその夢叶って、いざアンタと同じ事務所に入って、さぁやっと! これから! って思ったら……羽沢さん、昔みたいな戦い方しなくなっちゃってたけどね。もちろん強いのは変わりない、っていうかもっと強くなってたけど、あの時みたいな勢いっていうか向こう見ずっぷり? そういうのは、なくなっちゃってて。もう、冷めちゃったわよ。ニンフィアだってグレイシアになるレベル」
結婚したって聞いて、なるほどって思ったけど。冗談めかして口を尖らせ、悠斗の鼻先から指を離して岬は言う。「私が口出すことでもないって、わかってるけどね」
「でもね、もう流石にアンタに恋とか愛とかそんなのは無いけれど……でも、アンタのせいで、私は人生変わっちゃったのよ。ポケモントレーナーになるって決めて。もっといい人生あったかもしれないのに、トレーナーだけになっちゃったの」
「だから、責任取って」一方的に言葉を続け、岬はちょっとイジワルな笑みを浮かべた。「アンタは、いつでも、ずっと『強くてステキなトレーナー』でいてくれないと困るわけ」鮮やかな紅をした唇が綺麗な弧を描き、焼きつくような美しさがそこに現れる。
強くてステキな、トレーナーの笑顔だった。
「私だけじゃなくて、結構たくさんいるのよ、アンタに惚れてトレーナー志望したヤツ。成功してようがしてまいが。どうせアンタは全然気づかないんでしょうけど、アンタは、色んな人の人生を変えて……たくさんの人の、きっかけになってるの。だから、さぁ…………それだけのトレーナーで、いてほしいわけよ」
私はね、と付け足した岬は、少しだけ自嘲したように笑う。「言ってやるつもりはなかったんだけど、最近の羽沢さん見てると、言っとこうかなって思って。なんでかわかんないけど」風に流れて僅かにほどけた髪を耳にかけて、彼女は悠斗から一瞬視線を外し、事務所のあるビルの上方に目を向けた。
「あっ、……もしかして、」
しどろもどろになる中で、悠斗の頭の中の冷静な部分が、一つのことに思い至る。いつか森田が言っていた、『岬さんは自分からスキャンダル起こして相手の評判を下げてる』という情報から考えるに、もしかすると先日の一件も岬が誘発したものなのではないか――。先程の言葉が本気だとすると、彼女が羽沢泰生との熱愛報道をされたところで受けるデメリットも重くない。あの写真を撮ったカメラマンも岬が雇った者で、望ましくない今の羽沢泰生を陥れるためにあんなことをしたのではないだろうか?
そんな、悠斗の抱く疑念を察したらしく、岬は「何よ」と綺麗に走る眉をひそめる。「まさか私が、いつもみたいにスキャンダル仕組んだとか思ってるのかしら」
「あ、いや……そんなことは……」
「流石に、同じ事務所のトレーナーにまでそんなことしないわよ。アレは私じゃないわ、私も知らない別の誰か」
どうせ余所の事務所の差し金でしょ、マックスアップあたりが怪しいんじゃない? と溜息をついた岬があまりにはっきりとした物言いをするものだから、悠斗は肩透かしを食らったように返す言葉を無くした。「ああ、はい……」気の抜けた声が彼の口から漏れる。そう言われてみればそうか、という思いが今更頭に浮かんできて、悠斗は顔が熱くなった。「そう、だな……失礼……」
「あ、でも」
が、悠斗が謝りかけたところで岬が思い出したような声を出す。え、と彼女の顔を見た悠斗に、岬は顎を片手で撫でながら首を傾けた。
「一つ、気になることがあって」
「気になること?」
「いつも私がタレコミしてる編集部からね、連絡があって……私が持ち込んだわけじゃないのに、私のスキャンダルが入ってきたけどいいのか、って」
一瞬、岬の言っている意味がわからず黙った悠斗に、「出版社とコネがあればその辺ごまかしてくれたりもするのよ」とさらりと岬は言う。そこでやっと、彼女の言葉の何たるかが若干わかったような気がしたが、それ以上詮索するのはやめておいた。世の中には知らない方がいいことがたくさんあるのだ。そだてやにあげてしまったタマゴの行方とか、インドぞうとは何たるかとか、真夏の観覧車で何が起きたかとか。
それよりも今は、その先だ。「まあ、だからそこは一応やめておいてもらったんだけど、結局いろんな場所に持ち込まれてたから無駄だったけどね」と肩を竦め、彼女は続ける。「ただ、そのタレ込んできた奴っていうのが」
「ハタチ前後くらいの女の子だったっていうのよね」
「ふぅん……?」
「それも、全然そういうことに疎そうな……スキャンダルとか週刊誌とかそういうのと縁の無さそうな、よく言えば箱入り娘のお嬢さん風、マッスグマ直球に言えば地味めで垢抜けない感じ、らしいわよ」
「そんな子がタレコミしてるなんて不自然だって、その編集部も首ひねってたんだけど……」複雑そうな表情をして、岬は言う。
「もっとヤバいネタならともかく、されどトレーナー、たかがトレーナーの熱愛報道程度に運び屋使う意味も無いし。なんでそんな人がわざわざ……」
「羽沢さんっ!!」
思案するように岬が口ごもったタイミングで、二人の間に飛び込んでくる声があった。「あら、相生君じゃないの」片手を上げて岬が言う。「イッシュに巡業行ってたんだっけ? お疲れ様」
「はい、ありがとうございます……あっ、あの、羽沢さん!」
「え!? あー、うむ……なんだ」
「あの、先日の、その……ニュースのアレのことなんですけど!」
微妙に裏返った声で言われたそれに、悠斗は数秒遅れて思い至る。岬のことに気を取られて忘れていたけれど、そういえば相生とも厄介な報道がされていたのだ。
「あー、それは、本当に……」迷惑をかけた、と言うため、悠斗はかなり気まずくなりながら口を開く。が、
「いえ! いいんです!!」
「…………え?」
勢いよく言葉を発した相生の声に、悠斗のセリフは掻き消された。口を開けたまま呆然と相生を見据える悠斗に、相生はその呆然さに気づかず話し続ける。
「今回は、トレーナーとして大切なことを教えていただき、本当にありがとうございました!! こういうアクシデントが起こっても、平常心を失わずにバトル出来てこそエリートトレーナーですものね……! 何も無くても緊張してすぐ固まっちゃう僕に、羽沢さんが、身を以て伝えてくれたんだって!」
「はい…………?」
「正直、あのニュースが流れて、そのことでいっぱい突っ込まれて……ただでさえイッシュとかいう遠くにいて、僕、もう駄目かと思ったんですけど……でも、羽沢さんがご自分さえ犠牲にしてまで、教えてくれたことですから! なんとか、頑張れたと思います!」
ヨーテリーのような目を輝かせてくる相生に、悠斗は絶句するしかない。そんなつもりはどこにも無かったし、その悠斗だってスキャンダルのせいではないにしろ、根元とのバトルに負けているのだ。
多大な勘違いをしていることを悠斗はどうにか伝えたかったが、顔を上気させた彼を止めるタイミングは掴めそうにない。「羽沢さんが応援してくれてるんだって思ったら、バトルにも勝てました」とても嬉しそうにそんなことを言う相生に、なんでこんなことになってしまったのか、と悠斗は思わずにいられなかった。
「羽沢さんのおかげで強くなれたんです。今回のことで、羽沢さんみたいに強いトレーナーに一歩、近づけたような気がします! もちろん、そんなの僕の思い上がりだと思いますが……でも、少しずつ! 少しずつ、羽沢さんのようになりたいです、僕!!」
一人で突っ走っている上によくわからない方向へこうそくいどうしていく相生に何か言おうとした悠斗の肩に手を置いて、「ほっときましょ」と岬は軽く言った。え、でも、と戸惑う悠斗に彼女は首を横に振り、「本人がいいって言ってるんだし、別に悪いことでもなさそうだし」と肩を竦める。
何と返すべきかわからず、人知れず冷や汗を流した悠斗の顔を、「それに、私もだけど」岬はじっと覗き込んだ。
「なんだかんだ、みんな羽沢さんのこと好きだから。ウソでもアンタと話題になって、嫌がる人は少なくとも、ウチの事務所にはいないと思うわよ」
どうせ気づいてないんでしょうけどね。ちょっとだけバカにするようにそう言って、岬はくるりと背を向ける。「そろそろ戻りましょ」と悠斗に声をかけ、「相生君も」相生に視線だけを向けて彼女は伝えた。
はい! と相変わらず緊張感の拭えない声で答えた相生は、ビルに向かって進み始めた岬を小走りで追いかける。「羽沢さんも、早く」と促した岬の声と、自分を待つような相生の目に悠斗は刹那表情を止めて、
「ああ」
浅く頷き、二人の間を歩き出した。
◆
その夜――公園脇に車を停めて、森田はエンジンを切った。悠斗を送るついでにタマムシ大学に寄って拾ってきた、助手席の泰生に「着きましたよ」と声をかける。後部座席の悠斗と富田にも、シートベルトを外しながら「少し待っててください」と振り返った。
鞄から取り出した三つのボールを手に、森田と泰生は車外に降りる。
「あー、やっぱり天井の無いとこはいいですね。広々してて」
いつものように、半端な時間の公園に人気は無い。ポケモンに関してもそれは同様で、昼間なんやかんやと騒がしいポッポやオニスズメ、むしポケモン達がいなくなるため大分静かだ。植林の根元などを漁ればマダツボミなどが見つかるのだろうけれど、とりあえず今目視出来る範囲で、動く影は見当たらない。
黒く染まった空に、ボールから放たれたシャンデラが浮かび上がっていく。それを追うように飛び立ったボーマンダの、翼を広げたシルエットが薄く地面に落とされた。マリルリはマイペースに、時間帯のせいかどこか哀愁を漂わせていたブランコなどに乗って遊んでいる。
「どうです? ミタマ達の調子は。僕だとわからない部分もありますから、チェックしといてくださいね」
冷えた土の上に立ち、そんな彼らを見ている泰生に森田はそう言った。仏頂面のまま視線を三匹全員に、そして森田にスライドさせた泰生は「……ヒノキの明日の食事に肉を少し増やす。ミタマは良好。キリサメは、……ちょっと痩せてもらいたいかも、しれん」と返す。的確かつ迅速、そして冷たさすら感じるほど客観的なコメントに、森田はいつも通りの泰生を感じて内心で安心感を覚える。了解です、と慣れた調子で答えた彼は、胸ポケットに入っていた手帳に二言三言を書き付けた。
「…………が、」
と、そこで泰生がまだ何か言葉を続けるようだった。なんだ、と思って森田は泰生の方を見る。
「コンディションはかなりいい、と思う。バトルでしたケガのケアもちゃんと出来てるし、それに、皆この前よりも元気だ。だから、……よくやってる、と思う」
オコリザルもびっくりの仏頂面(もっとも今の見た目は悠斗であるため多少緩和されてるようにも見えるが)はそのままだったが、その奥に確かに内在しているものがあった。今までに一度も見たことのない、初めて目にするそれに森田は丸い瞳をさらに丸くする。
しかしその驚きをすぐにどかして、森田は不思議なまでの安堵と喜びを自分が感じていることに気がついた。「それはそれは、ありがとうございます」
「でもですね。泰さん。それは、悠斗くんにも言った方がいいと僕は思いますよ」
「…………む」
唸り声にもならないくらい短く答えた泰生に、森田は思わず吹き出しそうになる。一回りも離れた泰生が(そりゃあ、何度もいうようだけど、見た目は悠斗だが)いじっぱりな子どものような仕草をしたことに、彼は内心こみ上げる笑いを必死に噛み殺した。
それでも、自分は多分、嬉しいのだ。平静を装う森田は思う。泰生の頑なさというものが、今まで何度も目にしたそれが、確実に柔らかさを持っていることが。彼がやっと、何かを手にすることが出来たのが。
「あのですね、泰さん」微妙に視線を外してしまった泰生に、森田が穏やかな声で言った。なんだ、と泰生は不機嫌そうに答えたが、慣れに慣れを重ねた森田は何もためらうことなく声を続ける。
「悠斗くん、バトルやったことないらしいですけど。でも、ちゃんと言ってたんですよ。自然な感じで、ちゃんと」
「…………?」
「ありがとう、って、バトル終わった後のミタマ達に。当たり前のことなんですけど、意外と出来ない人、多いんですよね。本職のトレーナーでも。だけど悠斗くんが普通に出来てたのっていうのは、多分」
多分、泰さんがそうしてるのを、どこかでわかってたからだと思うんです。
そう言って笑った森田に、泰生は一瞬だけ目を大きく開いたがすぐに、ふい、とそれを逸らしてしまう。「俺がいたからじゃない」ぼそぼそと、自嘲を滲ませた声で彼は言う。「真琴の育て方が良かったんだ。それに、富田とかみたいに、悠斗の近くにいてくれた奴らのおかげで」森田から背けられた顔が、薄い雲の浮かぶ夜空を飛んでいるシャンデラを見上げて息を吐く。冷えた空気に溶けるそれは、うっすらと白い色をしていた。「俺じゃない」
「そんなもんですかねぇ」
その息を目で追って、森田は穏やかな声のままで答える。「そうだったとしても、今からでもいいんじゃないですかね」気の抜けた声で、森田は泰生の顔を覗き込んだ。
「それにですね……やっぱり、泰さんは、悠斗くんの中にいますよ。あの無鉄砲さというか直進加減というか。泰さんを嫌いだって思うあまりああなったのかもしれませんけど、それはそれで、泰さんがいてこその、今音楽に打ち込める悠斗くんがいるわけじゃないですかね」
「少なくとも、僕はそう思ってますよ」そう言い、笑みを浮かべた森田に泰生は目を向ける。空を飛んでいるボーマンダの影が、年の割に幼く見える童顔を横切った。
その顔に、泰生は口を開く。「森田、」喉の奥、そのまたもっと奥から、言葉はひとりでに出てくるようだった。
「俺は、な。森田……昔、自分と、ミタマ達さえいれば、他に誰もいなくて良いと思ってたことがあったんだ」
呟くようにして話し出した泰生に、森田が「泰さん……?」と怪訝そうに声をかける。泰生がこんな、自分のことについて話すなど初めてだった。
「今度、お前にも話す」心配そうな顔になった森田を手で制し、彼は森田の目を前から見る。「話したいと思ったんだ」
「誰もいなくていいと思った時があった、が……真琴がいて、悠斗がいて、そう思えなくなったんだ。いなくていいなどと、少しも思えなかった。俺は、ずっと……そうだったんだ」
「はい、…………」
「それは、多分。……お前も、そうなんだと思う」
静かに告げられたそれに、森田は返事をなくした。
「いらないなどと思ったくせに、俺はすごい勝手な奴だ」自責するように泰生は言って、深くて白い息を吐いた。「だけど」
「俺は、お前がマネージャーでいてくれて、……嬉しいと、思う」
言葉を一つ一つ選ぶようにして、それだけ言い終えた泰生に、森田はずっと昔のことを思い出した。
まだ若かった頃、自分はいつかポケモンリーグの頂点に立てるのだと、疑いもせず思ってた頃。そんな甘くて青臭い考えを残さず消し去ったのは、気まぐれで出場したバトルフェスの一回戦で当たった対戦相手の、泰生だった。
瞬く間に技を叩き込まれ、地に倒されたペルシアンを前に立ち尽くしたあの時に、その向こうで勝利宣告を受ける泰生に抱いた思いは、どうしようもないほどの嫉妬と憎悪と、決して自分には越えられないのだという絶望。そして、それを上回るくらいの、希望。
こんな強いトレーナーがいるなんて、こんなすごい人がいるなんて、自分が生きるこの場所は、どれほど素敵なところなのかと思い知ったのだ。そして次に抱いたのは一つの願いで、そんな人の力になれたなら、この輝きを支えられたなら、どんなに――
「当たり前じゃないですか」
震えそうな、しかし堂々とした声で森田は言う。「言われなくても、そうしてますって」いつもの、人懐こい笑顔になった森田に、泰生もつられたように口元を緩めた。
その表情に、森田はつくづく思いふける。この人の近くにいれて、本当に良かった、と。
「任せといてくださいよ」おちゃらけた調子で、ガッツポーズを決めた森田に、泰生が「調子に乗るな」と平素の様子に戻って苦々しげに言った。しかし森田はちっともめげることはなく、嬉しげな顔を少しも曇らせない。力にモノを言わせ、ブランコをめちゃめちゃに揺らしていたマリルリがそんな彼を遠目に見る。
あの日の思いは、何も間違っていなかった。そんなことを頭に浮かべ、森田は一際明るい声を出す。
「僕は、泰さんのマネージャーなんですから!」
◆
「調子どんな感じ」
「まあ、それなり。この調子でいければ」
「俺も早く戻りたいなぁ」
「早く戻ってくれよ、ホント」
「やっぱバレそう? 気づかれてる感じ?」
「気づかれてるってわけじゃないけど、イメチェンってことにしてるから。でも守屋に超不評で、そのイメチェンキモいから元の羽沢の方がいいからやめて、って」
「また意外なとこから……あいつ言うときは言うからな」
「あ、でも有原と二ノ宮には割と。そのルックスで硬派、いや硬派通り越していぶし銀? キッサキ男子って感じでいいんじゃないかって」
「キッサキとか言ったことすらないし、そもそもあいつだって別にシンオウ出身じゃないし意味わかんねぇよ……」
泰生と森田がシャンデラ達を放しに外に出てる間、車内に残された悠斗と富田は取り留めもない会話を交わしていた。微妙にくすんだ色をした、窓ガラスの向こうの視界は暗く、シャンデラが発する青白い炎と、断続的な明滅を繰り返す街灯だけが光源となっていた。
「あいつらはそれでいいのかよ」ぐったりした調子で悠斗は言う。シートに背中をもたれさせ、彼は想像上のバンドメンバーに文句を吐いた。「気づかれないのは助かるけど、流石に傷つくわ」
「完全にアリって流れだけど。二ノ宮なんか、『俺もイメチェンしようかな』ってそわそわしだしちゃってるし」
「あー、それでどうせアレだろ? 『お、フォルムチェンジか? それともメガシンカ?』だろ? わかるよ」
「ま、大体そんな感じ。で、『うっせー、誰がしゅくもうきょうせい使用でストレートフォルムッスか!』」
「『言ってねーよ』な。毎度毎度、よく飽きないよマジ……久しぶりに聞きたいな、アレも。なんだかんだ、無きゃ無いで懐かしい」
「あー、そうだ。有原が今度、バイト先みんなで来てって言ってた」
「あいつのバイトってどくタイプカフェだっけ? 行くか、サークルのみんなも誘って、売り上げに貢献しよう」
ごくごく自然に返ってきたその答えに、富田は前髪の向こうにある目を数度瞬かせる。「そうだけど」低めの、どちらかといえば平坦な声はいつも通りの彼のものであったけれど、僅かな動揺を含んでいることが富田自身にもわかった。「合ってるけど、そこで」
本当に行くって言ったのか、という富田の問いは言葉にならなかったが、悠斗はその沈黙の意味するところを悟ったらしい。「行こうよ」当たり前のようにそう言って、彼は少し照れたみたいに笑う。「みんなでさ」
「うん、…………」
「富田」
「うん」
「ありがとな」
その言葉に、富田は少し俯いて、「俺は何もしてない」と呟いた。自分では悠斗を助けられないことを、前からわかっていたにも関わらず、己のわがままで先延ばしにし続けていただけなのだ。それを、やっと諦められただけの話にすぎない。シートに置いた左手を、悠斗には見えないように握り締める。
「そうじゃないって」が、悠斗はそんな富田の言葉を否定した。
「お前は、俺の力になれないとかあいつやポケモンの代わりにはなれないとか言ってたけど、……確かに、お前はあいつやポケモンの代わりにはならないけど。でも、俺はずっと、お前が助けてくれてたんだけど」
「……………………」
「あいつとか、ポケモンとかから逃げてて、多分俺は、お前がいなきゃ駄目になってたと思う……お前のおかげなんだ、今、俺が何か出来てるの」
だから、ありがとなっつってんだよ、と少しだけ語調を強めた悠斗に、富田はしばらく黙ったままだった。しかし少しの間を置いた後、彼は呼吸の続きのような声で、小さく「うん」とだけ返事をした。
「なあ、悠斗」富田が静かに口を開く。「もし、俺がもっと……半分ぐらいブラッキーだったら、今どうなってたと思う」
問われた悠斗は、数秒言葉と動きを止めて富田の方を見ていたが、やがて苦笑と共に「お前、それはずるいよ」と答えた。すまん、と謝る富田に彼は、何の飾り気もない声で言う。
「そんなのわかるわけないだろ。大体、ハーフだったらタマムシの公立なんかいないだろ、だってカントーだと色々大変だからあまりいないらしいし。そしたら俺ら、そもそも知りもしないんだから」
「そういう正論が聞きたいんじゃねぇよ。マジで返してこないでいいから、たとえ話だから」
機嫌を若干損ねたような口調で富田が言うと、悠斗は「わかってるよ」と口を尖らせた。「んなこと、わかった上でのボケだって」などとぶつくさ呟いている悠斗を、じゃあ真剣に答えてみろよという念を視線に込めて富田はじっと睨みつける。
その視線に怯むことも臆することもぼうぎょを下げることもなく、悠斗はどこかあっけからんとした笑みを形作る。「変わんないんじゃねぇの」狭い車内に響く声は羽沢泰生のものだけれども、富田が初めて話した時の悠斗と同じ、前だけに通るような色をしていた。
「お前があの時みたいに、俺の前に現れてくれたら、たとえ百パーブラッキーだったとしたって今と変わってないと俺は思うよ」
「……………………」
「瑞樹は、俺がお前を見つけたみたいな感じで思ってるんだろうけど。実際逆だから。あの時、ダメになってたかもしんない俺を見つけたのがお前なんだよ」
そう言った悠斗に、富田は何かを反論しようとして口を開きかけ――たが、やめた。
その代わり、彼は前髪に隠れている、夜の暗さで影になった赤い瞳を細く細く、瞼が触れる限界まで細めた。「うん」それだけ答えて、力の抜けていく身体をシートに預ける。「よかった、見つけといて」冗談っぽさが混じった、しかし安らかな口調で、富田は悠斗にそれだけを告げた。
「そうだ悠斗、あの歌うたってくれよ」
富田の申し出に、悠斗は「え、アレ?」と少し戸惑った様子を見せる。「この喉じゃ上手く歌えねーし、ピアノもアコギも無いんだけど。まさかお前がそれ弾くってわけにもいかないし」富田が脇に置いたエレキギターの収まっているケースを横目で見ながら、悠斗は渋るような声で答えた。
「いいじゃん。頼むよ」それでも、富田は淡々とした口調のままで食い下がる。俺がハモるからさ、という、代替案になっているのかいないのかよくわからないコメントを添えた彼は、両眼で悠斗の目を真っ向から見据えた。
「な、悠斗」
「……わかったよ」
鼻を鳴らして了承した悠斗が、すぅ、と息を大きく吸う。続いて車内に響き出したのは、七年前に流行った歌謡曲だ。
出会えたことの奇跡と、その幸福を歌ったそれは富田が悠斗と初めて言葉を交わしたあの日、悠斗が帰り道で歌っていたものだった。あの時と同じように、何の伴奏も効果も無い歌だったけれど。あの時と違って、悠斗の声は低くて通らないし富田の声が重なっているけれど。だけどその歌は、確かにあの日の延長線上にあった。
「ちょっとちょっとちょっと!! 何、なんかいい感じに終わらようとしてるわけ!? その、いつもより長めのエンドロールとスタッフロールとフルバージョンのエンディング流れそうな感じの雰囲気は!!」
突如、車内にやかましい声が響き渡る。
いつかもあったその登場に、正直なところ『そろそろ来るだろう』と頭の片隅で考えていた悠斗と富田は揃って歌をやめ、揃ってうんざりした顔をした。そんな二人の様子に構うことなく、声の発生源である黒い影――森田がいない運転席に勝手に腰掛け(足が無い者に腰掛けるという表現を使うのは正しいのか不明だが)て、赤い一つ目で振り向いているヨノワールは、でかい図体に似合わぬ仕草でぷんぷんと怒ってみせる。魂を霊界に運ぶなどという逸話と、縁起のよろしく無さそうな見た目からは結構な恐怖心を与えるそのポケモンはしかし、決して大型車とは言えないこの車に詰め込まれている今、窮屈な座席にもどかしさを覚えるマヌケ者にしか見えなかった。
「そんなところで、なあなあなハッピーエンド適当に迎えられちゃったら、この僕の存在意義がなくなっちゃうでしょう! この僕、そう! あなたの街の便利屋さん、落とした財布探しから、堕としたい人への呪い代行までなんでもござれ、毎度ご贔屓にありがとうございます〜……の、真夜中屋のいる価値がないじゃん!? ゲームコーナーでわざわざケーシィもらう方がまだ意味あるよ! 厳選しやすいからね!」
もはや説明する気も失せるところだが、このヨノワールは単なるてづかみポケモンではなく、ミツキが何らかのサイコパワーによって一部憑依し、媒介とすることで遠隔的にコミュニケーションをとったり感覚を働かせたりすることが可能になっている、という状態のヨノワールなのだ。悠斗達にはよく、というかまったくわからない話だが、本人が直接行動するというのはサイキッカー界隈ではあまり褒められた行為ではないらしい。自分の気を隠せないだとか、力をわざわざ知らしめてしまうだとか色々と面倒なのだという話だが、とりあえずはサイキッカーも大変なのだということだ。
それは置いておいて、至極ストレートに会話を邪魔されることになった富田は、あからさまに不機嫌な声で問う。「何の用ですか」「えっ痛い痛い!? 目が大きいからって指五本使って目潰しするのやめてくれない!?」それなりの巨体を狭い車内でバタバタさせたミツキの、身体の右四分の一くらいが運転席にのめり込んだ。実体が無いから当然とはいえ、正直気持ち悪い。
「痛い……なんで……? なんで実体無いのに目潰しは効くわけ? おかしくない……? かぎわける? かぎわけるなの? ブラッキーってかぎわける覚えるんだっけ……?」
「つべこべ言ってないでとっとと要件言ってくれませんかポケダンでちょっと優遇されたからって調子乗んないでください輝石で人気下がったくせして」
割と多くの人を敵に回す発言をした富田に、ミツキが「うう」と情けない声を出す。泰生の用が済んだか、それとも話し声を聞きつけたか、車に戻ってきた森田が、シートに身体の三分の二ほどをめり込ませているミツキを見つけて「うわっきもっ」と率直な感想を述べた。受けたショックに比例して、ミツキののめり込み度がさらに上がる。
「もういいですから、何なのか早く教えてくださいよ」丁寧なのか酷いのかわからない頼み方を悠斗がする。三匹を連れた泰生が戻ってきて、あまり状況を把握していない顔で「ヨノワール……」と呟いた。車の室内灯の薄暗さでもわかる、目の奥の密やかな、しかし確かなときめきを帯びた輝きはその場の皆に無視された。
「ったく、サイキッカー遣いが荒いんだから……わかったよ。そもそも悠長にしてる意味も無いし、ね」
諦めたように、口調を真面目なものに変えてミツキは言う。後部座席に並んで腰掛けた悠斗と富田、半分開けた運転席のドアに手をかけている森田、助手席の窓から車内を覗く泰生が、黙ってミツキの言葉を待った。
「要件なんだけど、簡潔にいくね」それはいつものように飄々とした声だったが、夜の公園に響くそれは不思議なことに、どこか奇妙な色を帯びている。「まあ、ここまで待たせて申し訳なかったんだけど」
「この事件の犯人、見つかったよ」
九割の驚きと、一割の想定内に、返事を選びあぐねた四人は一斉に口ごもる。
よかった。やっとか。じゃあ元に戻れるのか。どこのどいつが。どうやってやったんだ。いつ戻るのか。なんでこんなことをした。彼らの頭の中に様々な考えが浮かんでは新たな思いに流されていく。怒涛のような思考に脳裏が一時停止をしたらしく、黙ってしまった四人にミツキはさらなる言葉を投げかけた。
「そう、見つかったんだけどさ――」
あくまで軽く、自然な口調で彼は問う。
「誰だか、知りたいと思う?」
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