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『みんなー、今日は来てくれてありがとうー!!』
『はじめましての人もそうじゃない人もー、はじめましてのポケモンもそうじゃないポケモンもー! 楽しんでってねー!!』
『それじゃーいくよー! Music S.T.A.R.T!!』
きゃぴきゃぴのボイスと共に湧き上がる歓声。サイリウムで彩られた満杯の客席の前方に位置するステージには、華やかな衣装に身を包んだ九人のアイドルと、同じモチーフを使ったアクセサリーで飾られたイーブイ族。同じ数、九匹のポケモン達が、流れた曲に合わせてアイドルと一緒にキュートなジャンプを決めると、客達はより一層幸せそうな声をあげる。
人間とポケモンが共に作り上げるライブステージ――そんなコンセプトの元開催された、多くのアーティスト達が集まるこのフェスに、
「あれか、この人たちって最近流行ったアニメだかゲームの……」
「みたいだな、声優とは違うのか……? アイドルが声優務めてるとかそういう感じなのか、俺はよくわかんないけど」
「あのサンダース……身のこなしにキレがあるな。跳躍力も高そうだ」
「泰さんよくそこまで見えますね……僕は九色が忙しく動いてるのしかわかんないですよ……」
どういうわけか、悠斗と富田、泰生と森田は遊びにきていた。
◆
事の発端は今日の朝――この頃習慣化しているように、羽沢家を訪れた富田と森田の言葉だった。
「泰さん、悠斗くん。ライブとか行ってみたりしませんか?」
「最近、色々立て込んでたし。気分転換もかねて、たまには」
昨日の今日で、口論こそしないものの気まずい雰囲気をめっちゃくちゃに溢れさせ、口の一つも聞けない悠斗・泰生は、それぞれ頬張っていた朝食を飲み込んで「はぁ?」と揃って首を傾げた。
「今夜のなんですけど、知人が行けなくなっちゃったみたいでくれたんですよ、チケット。家族分だから、ちょうど四枚」鞄から取り出した封筒の中身を示しつつ森田が言う。「今日は練習室取ってないし有原がバイトだから何もありません。悠斗の方も、夜なら平気だろ? チケット無駄にするのもよくないしな」もはや行くことが決定しているような富田の口ぶりに、悠斗と泰生は自然と顔を見合わせかけたが、すぐ気がついたみたいにパッと視線を背け合う。食べ終わったフーズの皿を台所に返しに来たらしい、長い耳を揺らしながら食堂に入ってきたマリルリが辟易した様子の顔で通り過ぎていった。
「いや、瑞樹……急に言われても、さ」
「そんなものに行ってる暇あったら、もっと他に……」
「いいじゃないの。楽しそうだし、行ってきなさいよ」
いい歳こいてギクシャクといじっぱりをかまし、情けない感じになっている二人に横槍を入れたのは、一口サイズに切ったロメを運んできた真琴だった。「せっかくの機会なんだし、もったいないじゃない」夫と息子を同時に黙り込ませた彼女は、彼らの顔を交互に見遣る。
「羽沢さんも一緒にいかがですか」「私はいいわよ、悠斗たちをよろしくね」富田に笑ってそう返し、真琴の目が悠斗と泰生に再び向いた。
「楽しんでらっしゃい。お土産はケーキでよろしく」
流れるように話を誘導し、もはや嫌とは言えない雰囲気をあっという間に作り上げてしまった真琴に何も言えることはなく、まんまと丸め込まれた羽沢親子はだんまりを決め込むしかない。富田と森田は若干呆れを感じつつも、どうやらうまくいったらしいことを察して机の下でガッツポーズを決めたのだった。
◆
そんなこんなでライブに連れ出された二人と連れ出した二人は、タマムシ某所の野外ステージにやってきている。今日のライブはいわゆるフェス、様々なアーティストが入れ替わり立ち替わりでステージを披露するという形式のもので、現在会場を沸かせているアイドルグループも何組目かの出演者だ。
「それにしてもすごい客入りだな」来るのが遅かったこともあり、ほぼ最後列に立っている悠斗が気の抜けた声で言う。羽沢泰生という有名トレーナーの見かけをしている以上一応は、という森田の至言があったため、今の彼は帽子と伊達眼鏡による簡易的な変装スタイルだ。あまり、というかほとんど全然隠せていない気もするがいいのか、と富田は思ったが、それは口に出さないでおいた。「フェスってこんなデカい規模なのかよ」
「出る人たちの種類が多いからな。ファンの母数がまず違うせいだろ」
「ああ、なるほどな。人気すごいやつばっか出てるもんな、今日の」
「あと、会場内でポケモン出せるってのもあるだろうけど。珍しいよな、いくら今日のコンセプトがそれだからって言っても」
普通はライブだとボール必須だろ。人間と同じくらいにポケモンの客で溢れている客席を見渡す富田の言葉に、森田も感心したように頷いた。「ポケモンバトル見せる大会ですら、大きさやタイプとかで制限ありますからね」そう考えると自由ってのはすごいですよ、と、彼は驚き混じりの口調で呟く。
せっかくここまで自由なのに、羽沢泰生だと特定されると面倒だからという理由でシャンデラ達を出せないことがただただ残念であった。暮れた空を天井にした会場内は人とポケモンが連れ添う様子で溢れている。ジャニーズ系グループのツアーTシャツをお揃いで着ている女性とカメール、物販で売られたタオルを一枚ずつ振り回している合計数二十を超えた人間とミルホッグ・ミネズミの家族連れ、アイドルソングなのに全力でヘドバンをかましている、ヘビメタ風の男とフェイスペイントが目立つクイタラン、飛んだり跳ねたり騒ぎつつも、連れたプラスルとマイナン同様片時も手を離さない制服姿のカップル……。そんな者達から少し離れ、のんびりとライブを楽しんでいるのは、ニドキングとニドクインに並んでビールを飲んでいる中年の夫婦だ。
『それでは次の曲、聴いてください……いつものアレ、よろしく!』
『オッケー、任せて! お願いジョルノ、……こなゆき!!』
響いた歓声に、悠斗達はステージへと視線を戻す。メンバーの一人、水色の衣装を着たアイドルが足元のグレイシアに指示を出したらしく、ステージ一面が白銀の雪で輝いていた。ピアノ音によるイントロが流れ出し、客席のサイリウムが白へと変わる。
雪をモチーフにした曲が始まったステージを、泰生は先程から真剣に見つめていた。それに気がついた森田は彼に声をかける。「まさか泰さんがここまで楽しそうになさるとは思いませんでしたよ」
「さっきの、グラエナの被り物してるバンドもすごい集中して見てましたし。音楽とか結構聴いてるんですか?」
「いや、森田……アレを見てみろ、エーフィの動きだ、回避に優れてそうだと思わないか」
……完全にポケモンしか見ていない泰生に、森田は呆れ半分、通常運転ぶりへの安心半分で「はぁそうですね」と適当な言葉を返した。その横で悠斗と富田が、あの仏頂面で『楽しそう』なのか、などと内心で首を捻る。
そんな彼らのことなど気にも留めないで、泰生の隣にいた客が「うっちー!!」とメンバーの名前を叫ぶ。ニンフィアの缶バッジをいっぱいにつけた上着を羽織った彼が、白のタオルを頭に巻いたユンゲラーの念力で浮いているのを目ざとく見つけた係員が「お客様! ステージ見たいからって浮遊するのはおやめください!」と飛んできた。えらく気の抜ける光景に、悠斗と富田は微妙な笑いをするしかない。
「喉が渇いた。何か買ってくる」
と、数分後、曲が終わったタイミングで泰生が言った。ステージでは、これで出番が終了したらしいアイドル達がそれぞれのカラーリングに応じたイーブイ族を抱き上げ、『ここから先も、楽しんでねー!』などと締めの挨拶をしている。オレンジ色の衣装に身を包んだリーダーと見えるアイドルが、イーブイの前足を掴んで手を振るポーズをとらせて歓声を浴びた。
舞っていた雪が消えると同時に白から九色へと光を変えた、目が痛いほどに鮮やかなサイリウムが輝く中、笑顔を振りまきつつステージから去っていく彼女らから視線を外し、「あ、僕も行きますよ」と森田が泰生に返事をする。
「実はさっきから小腹がすいてて……ちょうど入れ替えですから出やすいでしょう、僕もご一緒します」
「あ、ここで買うと高いし混んでますから、もし焦らないなら外行った方がいいですよ。五分くらいのとこにコンビニありますし、チケット見せれば再入場出来るんで」
幕間にガヤガヤ騒がしくなるアリーナで、富田がそうコメントした。「それもそうか、……泰さんどうします? 僕はどちらでも構いませんが」「空いてる方がいいだろう。森田、俺の分のチケットは」「ちゃんと持ってますよ。じゃあ、僕たちちょっと行ってきます」それを受け、ライブにそこまで執着の無い二人は客達の間を縫って出口へ向かう。見た目の年齢差からすれば奇妙であるやり取りに、泰生と森田の近くにいた客が何人か振り返ったが、そこまで追求する者もいなかった。
残された悠斗、富田は特に意味もなくセット中のステージを眺める。前の客が頭に乗せたヤンチャムと共に食べているポップコーンの匂いが、二人の鼻腔をくすぐった。食べるものもすることもなく、何となく手持ち無沙汰さを感じた富田は隣にいる、彼らと同い年くらいの若者が連れのエビワラーと額を寄せ合って見ているパンフレットを覗き見た。
「次、アレだ。多分あの曲やるだろ、タイトル忘れちゃったけど今やってる映画、『週刊少年とびはねる』でやってた漫画原作の、その主題歌になってる」
「あー、MV話題になってるアレか。『新幻島』ね」
「そうそれそれ、五人の周りにエモンガがばーって出てくるヤツ」
「アレ、なんかいいよな。ちょっとレトロっぽくて俺好きだわ」
見てて楽しいんだよな。そう笑った悠斗に、富田は少し驚いたように言う。「悠斗、あのMV見たのか」
「なんだよ、見ちゃ悪いってか」
「だって、ポケモン出てるから」
「それはさぁ、あんだけ話題になってりゃ、ネットの広告でも出てくるし音楽は好きだし、それに、……」
苦笑いと共にそう言った悠斗の言葉が途切れる。彼の視線の先、入れ替え準備がほとんど終わったステージでは、スタッフの腕章をつけた人達と一緒に数匹のゴーリキーがあくせくと働いていた。その近くに陣取ったカメラマンが、カメラを数台首から下げたフライゴンに上空からの撮影を指示している。広い客席のあちこちで、人とポケモンが隣り合って笑顔を浮かべていた。
ステージのライトと、数箇所の人工灯による半端な明るさの中、悠斗の表情はちょうど影になっていて見えない。準備が済んだように見えたステージだが未だ何か調整中らしく始まる気配が無く、どうやら今は休憩時間のようである。だらだらと交わされる与太話で満ちた客席で、富田は「あのさ」と口を開いた。
「悠斗、お前さ。俺のこと初めて助けてくれた時のこと、覚えてるか?」
唐突な問いに、悠斗は何度か目を瞬かせた。が、すぐ「あー、お前がポケモン使っていじめられてたときね」苦々しさの混じる声で返事をする。「あれは胸糞悪かったな。今思っても腹立つわ、あいつら今頃何してんだろ」
苛立った口調に鼻で笑い、「さーな」と富田は軽く返した。「タマムシにはもういないらしいけど」そう言ってから、「いや、あいつらのことはどうでもいいんだよ」と富田はステージに目を向けたまま言う。
「あの時さ、悠斗が偶然いて、俺はよかったって思ってるわけ」
「なんだよ、恥ずかしいからやめろそういうの。それに、それは俺だってそうだよ、あの日放送委員の仕事無かったらあそこ通ることも無かったんだからさ。そしたら、お前みたいなギタリストずっと捕まえられなかったかも」
「そうか? お前のことだから、いくらでも見つけられんじゃないのかよ」
「違うって。俺の歌にそこまで合わしてくれんのは瑞樹くらい」
そうまで言って、悠斗は「なんでいきなりそんなこと言うんだよ」と笑い混じりに尋ねた。「まさか解散しようとか言わないよな、絶対元に戻るから勘弁してくれ」ふざけ半分、本気の心配半分で言われたそれに思わず吹き出してしまいながら、富田は少しの間だけ、あの日の記憶に意識を向けた。
中学に上がったあたりからのことだ。それまでも富田の、ポケモンの血が混じっていること、不気味な赤をした両眼、歓迎しがたい能力故に彼を遠ざけたがる者は多く、彼が必然的に独りだったのも昔からのことだった。が、彼や周囲が年を重ねるにつれ、そこには次第に暴力や悪意が付与するようになり、富田を苦しませるようになっていた。
特に酷かったのが彼が中学二年生の頃で、四月から同じクラスになった数人の男子生徒がポケモンを使って富田に暴行を加えるようになっていった。別に富田が何か実害を加えたりしたわけでは勿論無いが、彼が持っていた『違う』ということ、その特異性はやり場のない苛立ちや衝動をぶつけてしまうのに、格好の標的だったのである。彼らはバトルもそれなりに強く、どれくらいの加減をすればバレないくらいに抑えられるかをよく心得ていた。富田が一人になる隙を見極めて彼を連れ出し、人気の無い場所でこんなことを言い、酷な仕打ちをするのだった。
「なんでお前みたいなさぁ、ポケモン混じりがここにいるわけ」
侮蔑と嘲笑の混じった声が響く中、ブーピッグの重い足が背中を踏む。逃げられないよう突きつけられたキリキザンの刃が額を掠って血が滲む。シャツを引っ張られ、服の上からでは見えない背筋に突き刺さったニドリーノのツノから、死なない程度に弱くて、数日苦しむ程度に激しい毒が身体中に回っていくのがわかった。
「どく状態になってやんの! はは、口の中に土入ってるし、キモいなマジ」
「つーかお前さ、ポケモンならバトルやれないの? いっつもやられてばっかじゃん、俺たちもつまんないんだけど。なきごえとか、はねるとか、そんくらいできるっしょいくらなんでも」
「あー、無理でしょそんなん! せいぜい、がまんくらいだって、出来るの。発動は無理だけどな」
毎日のように行われる、富田に対するこの仕打ちは一応人目につかぬ場所で起きていたことだけれど、勘付いている者や気づいている者も少なからずいた。が、自分の身を同じ危険に晒してまで富田を庇おうとする人はいなかったし、また、富田の態度がそうさせていた面もある。関わるな。自分に寄るな。そんなオーラを終始出している富田にあえて近づこうとする者なんて、彼をストレスのはけ口にしているこの生徒くらいしかいなかったのだ。
事実、富田自身もまた、余計な煩わしさになるくらいなら誰にも関わってほしくなどなかった。彼にとってはこの、直接痛めつけてくる輩どもも、黙って見ているだけのクラスメイト達も、そしてそれ以外の人間も全部、全員同じようなものだった。『お前は違う』その言葉の通り、みんな、自分とは違う存在だったのだ。自分のことなどわかってくれない、別の世界に生きている、そんな存在しかいなかった。
「ポケモンはポケモンらしく、トキワのもりにでも帰ってくれりゃいいのに」
「お前みたいなキモいヤツが、人間の学校にいていいわけないんだよな!」
「でもさ、コイツみたいに弱くてバカなヤツ、ポケモンに囲まれたらすぐひんしだろ? たった三匹にも何もできねーもん、このバカ」
「言えてるなそれ! ポケモンセンターに相手してもらえるかもわかんねぇし、どこ行ってもすぐダメになるって!」
世界なんて、わかってもらえないものだった。わかってやる意味も感じなかった。
痛みの程度の多少はあれど、人間なんて皆等しく、異端な自分を責め立てる存在でしかないのだと、そう思うほか無かったのだ。
その日までは。
「何やってんだよお前ら」
悠斗が現れたのは、その日、いつものように富田が数人の同級生達に、手酷い暴力を受けていた時だった。
後で聞いた話によると、悠斗は放送委員の仕事(とは本人が言っているだけで実際は機材を触らせてもらっていただけっぽいが)があったようで、帰宅部の彼の日頃の下校時間よりも少し遅い、しかし大抵の生徒達は部活中という、中途半端な時間に学校にいたらしい。校内のほぼ全てから死角になる、中庭の日陰で行われていた暴行に悠斗が気がついたのも、機材がしまわれている放送準備室の窓などという誰も開けないような場所を気紛れにいじったからである。そこから垣間見えた不自然な光景、同じ制服を着たものが数人と数匹のポケモンに何やら取り囲まれている様子を不審に思い、部屋を出て見にきたということだった。
「それ、何? ポケモン使っていじめでもしてるわけ?」
身体のあちこちに傷を作り、地面に倒れている富田を見た悠斗は、ごくごく当たり前のような、かつ不機嫌な口調で尋ねた。当時の悠斗と富田の関係は、名前と顔だけは知っている同学年の男子生徒同士という、ただそれだけのものだった。大のポケモン嫌いと、ブラッキーの混血という、やや目立つプロフィールをお互い持ち合わせていたため知ってはいたが、面識は無いし喋ったことも無い程度である。
だから、悠斗がこの状況に物申すというのはいささか妙なことともいえた。「なんだよ」闖入者に一瞬怯んだものの、数の利に気を持ち直したニドリーノのトレーナーが挑発気味に言い返す。「お前、なんか文句あるわけ?」粘ついた、その不快な声を頭上に聞きながら、富田もそれに関してだけは同感だった。どうせこの羽沢悠斗とやらも、自分と違う存在なのだ。ただ興味本位で引っ掻き回すくらいなら、余計な首を突っ込まないで欲しかった。
「あ、お前も混ざりたい感じ? ポケモン嫌いなんだもんな、こいつもポケモン入ってっからそういうことか? そんなら羽沢も、……」
「いや、無理なんだわ」
ブーピッグのトレーナーのセリフを遮り、きっぱり言い切った悠斗に加害者生徒達も、そのポケモン達も、そして富田も言葉を失った。「お前らがそうやってんの。俺、すげぇ嫌なんだよね」淡々と、だけど確固たる意志を持ったその声は、目には見えない圧力で反論を何一つも許さない強さがあった。
「俺、ポケモン嫌いだからさ。そうやって、ポケモンが人傷つけてんのみると単純に腹立つんだわ。は? 何してんの? って感じなわけ。フツーにムカつくし死んでほしい。ポケモンに」
かなり酷い上に直球すぎる言葉だったが、いっそ清々しいレベルの直球ぶりだったため、その場の誰も言い返すことは出来なかった。
黙り込むしかない皆の中、悠斗だけが何のためらいもない。「だから、こういうのやめろよな」極めて一方的なその言葉の答えを聞かないうちに、悠斗は力の抜けている富田を抱え起こして立ち上がらせ、立ち尽くしているポケモン達に冷たい視線を向けた。「絶対すんなよ」そこまで語調が強いわけでも荒いわけでもないのに不思議と逆らいがたい重さを孕んだその声に、男子生徒達は各々のポケモンをボールに戻し、決まり悪そうな舌打ちを残して立ち去っていったのだった。
「なんでお前、やられっぱなしでいるわけ」
その同級生達と別れた後、なし崩し的に帰り道を共にすることとなった悠斗は富田にそう尋ねた。余談だが、結果的に富田への暴行を咎める形になった悠斗がその後反感を買ったり新たな標的になったり、ということは起こらなかった。もちろん悠斗とて、人並みの正義感は持ち合わせていただろうし、彼が富田の事情をもっと早く知っていれば別の止め方をしたのだろうが、あの場で彼が平然と言った、『俺ポケモン嫌いだから』たとえそれがトレーナーの命令であっても『そうやってポケモンが人間傷つけてんの見ると単純に腹立つんだわ』という、あまりにまっすぐな理由故に加害者生徒達も呆れ返ったらしい。まさか彼らだってそんな、ある種自分勝手極まりない言い分で、自分達の行為に口を出されるとは思いもよらなかっただろう。彼らはそれを機に興が冷めたらしく、それ以来富田に何かをしてくることもなくなった。
そんなことになるとはまだ知らない、富田は無愛想な声で返す。「別にお前には関係無いだろ」いつも通り、全てを拒絶し、突っぱねるように。「どうせ、お前だって俺のことキモいとか意味不明とか、わけのわかんないヤツとか言うんだ」だって、俺は。何度も繰り返した、何度も繰り返された、あの言葉が口をつく。「だって、俺は違うから」
「はぁ? 何言ってんのお前」
しかし、悠斗はぽかん、とした顔で言った。
富田が何を言ってるのか、心底不思議だという顔をして、彼はあっけからんとした調子で言ったのだ。
「違うものは違うんだから、しょうがないじゃん」あまりにも軽く言われたそれは、しかし富田にとっては、初めてのものだった。今まで一度だってそんなことを言われたことなどないし、自分で思うこともなかった。それを、目の前にいる、大して知りもしない親しくもないこの同級生は軽々と言ってのけたのだ。「俺が聞きたいのは、お前がそれをどう思ってんのかだよ」何の迷いも無い、直実な瞳が富田の赤い両眼を射抜く。
「嫌なら、嫌だって言やいいんだ。もしそうなら、お前がちゃんと教えてくれんなら、」
日の暮れかけた、タマムシシティの住宅地。
忘れもしないあの日の光景で、悠斗は富田に笑いかけた。
「俺は、お前のことをわかんないなんて、絶対言わねえよ」
彼がそう言った瞬間に、自分の世界が広がった。それまで閉じていた、閉ざしていた世界が一気に広くなったようだった。忌々しい、赤い両眼から見る何もかもが、その瞬間に変わったと思ったのだ。
彼の言葉がは光となって、道標となって、何より勝る希望となったあの瞬間に。恐らくずっと色褪せない絶対が現れた世界は、そこから遠く遠くに広がっていった。
それと同時に、自分の世界の広さはもう、そこで決まってしまったのも事実である。悠斗の言葉は富田の閉ざされた世界を広げた反面、彼の世界の限界をも決めたのだ。
それは富田自身の選択であった。自分の世界は悠斗を起点として、悠斗を終点とすることを決めたのは富田本人だった。無限の宇宙よりも広くモンスターボールよりも狭いような世界を、その場で、悠斗にそう言われた瞬間に決めたのは。
だから、わかったのだろう。
自分の『世界』である、彼の抱えた確かな歪みに。
「悠斗さ、お前がポケモン嫌いな理由、前に教えてくれたよな。高一ぐらいの時だっけ、俺が聞いたら、思ってたよりあっさり言われてちょっとびびったけど」
自分の質問には答えてくれず、新たな思い出話を始めた富田に悠斗は怪訝な顔をする。が、それについては特に触れず、「高一の夏くらいだな、部活の帰りにアイス食ってた時だと思う」富田の言葉に返事をする。「別に隠す理由もなかったし、まあ流石に付き合い無いヤツにはあまり言いたかないけどお前だしさ」
その返しに富田は少し笑って、さらなる問いを重ねた。その時の理由、今も変わってないんだろ。そう言った彼に、悠斗は「そりゃあな」と頷き返す。こういった話をする時の、いつも通りの悠斗そのままだ。どんな時の彼よりも、落ち着き払った声色と表情。
「ポケモンなんて、何考えてるかわからないし、こっちの気持ちだってわかりゃしないからな。関わるだけ無駄なんだ、だから――――」
「悠斗さ、それ、マジで百パーそうだと思ってる?」
その声色と表情に、富田は問うた。
「え、………………?」
「マジで、ポケモンはみんなそうで、何も通じないヤツだと思ってるわけ?」
唐突にそんなことを尋ねた富田に、悠斗は「瑞樹……?」と呆けたような声を出す。二人の斜め前で携帯をいじっていた若い男の客とその肩に乗ったスピアーが、揉め事だろうか勘弁してくれ、という疑惑を含んだ目で振り返った。
が、それを気にすることもなく富田は続ける。「わからないっていうのは」握った拳の上、袖口の隙間から入り込んだ秋風のせいで、彼の皮膚に冷たさが走った。
「俺もそう思ってた時あるよ。相手はポケモンじゃなくて人間だったけど。ポケモンはどっちでも良かったからな、そこまでかかわることもなかったし。……人間はどいつもこいつも、家族以外は全部、俺のことわかってくれないしその気もないんだなって本気で思ってたよ。目が赤くて、ポケモンの血が入ってる俺なんてさ。…………だけど違ったじゃん。お前がいたんだよ」
「……………………」
「俺のこと、わかってくれるって言ってくれたお前がいたから。人間は全員、俺をわからないなんて嘘だって、お前が証明したんだよ。ただ、俺がそれに気づかなかっただけで、わかってもらおうとしてなかっただけで、……わかろうとしなかっただけで。俺がポケモン混じりだっていう理由だけで、俺のこと好き勝手言ったり好き勝手したりした奴らのことを許す気は微塵も無いけど、…………そうじゃないヤツも、本当は山ほどいたんだ、って」
教えてくれたのは、悠斗なのだ。
富田を取り巻く問題が消えゆくに従って声をかけてくるようになった同級生達、高校に入ってて出来た友人、バンドを組んでいた仲間、有原や二ノ宮……富田に流れる血がどうであれ、そんなことは関係無しに、わかりあえる人間はたくさんいたのだ。ただ、富田が変わるだけで。わかってほしい、と伝えるだけでよかったのだ。
だから、それと同じことではないのだろうか。
富田は、悠斗に、そんなことを思ってしまった。
「そりゃあ勿論、わかれないポケモンだっているだろうよ。わかりあえない奴はわかりあえないんだから、それはどうしようもないから。でも全員がそうだって、お前は本気で思うか? バトルしたんだろ、羽沢さんのポケモンで。お前のこと、あのシャンデラ達が無視したり裏切ったり攻撃したりしたか? いくらお前の見た目がそうだからっていっても、奴らはお前にとっての分からず屋だったわけか?」
「……おい、…………」
「本当に、羽沢さんのポケモン達はお前をわかんない奴だったか? あいつらだけじゃない、森田さんのポケモンはどうだ? ミツキさんのとこにたむろしてる、ミツキさんの手伝いしてるゴーストポケモン達は? 芦田さんのポワルンとか、守屋のマグマラシは? ついさっき踊ったりしてた、イーブイ達はどうなんだよ?」
「だから、………………」
「さっきお前が見てるって言ってた、あのMVに出てるエモンガたちもみんな、話の通じない相手だと、悠斗はそう、本気で思ってるのか?」
畳み掛けるようにしてそう尋ねた富田に、それまで気圧されたように聞いていた悠斗は、「っ、だよ……」と苛立った声を出す。
「なんだよ、……なんでそんな、嫌味なこと言うんだよっ、……」
「嫌味じゃねぇよ!!」
お前はアイツの信者だよなとか、神か何かだと思ってんのかよとか、何度も言われたことがある。
それは否定するつもりも無い、あの日から彼は自分の、ただ一人きりの神様なのだから。
彼は、あの日まではこの世に神なんていないと思っていた自分が、何よりも信じて疑わない存在なのだ。
「そうじゃねぇよ、そんなわけないだろ、俺はお前にそんなこと言えるわけ無いんだから、……」
だって彼は神様なのだ。
そして自分は彼の信者なのだ。
何があっても、どんなときでも、彼という唯一神を信じて生きる、それがあの日からの自分の姿なのだから。
「だってお前は、悠斗は、俺の、……」
だからこそ、彼が神で、自分が彼の信者だからこそ――
――――自分の神様には、幸せであってほしいと思うのだ。
「だから言うんだよ! だから、言ってんだよ! お前には、お前だけには、そんな風な顔してほしくないんだよ!!」
彼に助けられた自分は、それ以来ずっと彼のことを助けたいと思っている。
彼のためになれたら、彼の救いになるようなことが出来たら、自分がそうだったように、彼の世界を少しでも明るくすることが出来たなら……。そう思って、あの日からの自分は生きてきたのだ。
助けてるつもりで縋ってるだなんて重々承知で、彼のために何かをすることを自分の存在意義に置き換えているのも確かなこと。それは構わない。ハナからそのつもりなのだ。自分を導いてくれる彼が幸せでいてほしい、その彼に自分はついていく、その図式は表裏一体なのだから。
「俺は、悠斗に何かを出来ればいいって思ってた。お前が悲しいとか、そういうこと思わないように、助けたいって思ってるんだ、……お前が辛くならないよう、俺に出来ることなら、って」
だから、ずっと彼を助けようとしてきたのだ。
父親に、ポケモンに背を向けて――世界の半分を見ないと決めてしまった彼の、その深い穴を埋めるように。
でも、それは。
「だけどそれは、俺には出来ないんだよ!!」
ずっと感じていたのは歯がゆさともどかしさと無力感、そして僅かな優越感だった。
悠斗が抱く、父親やポケモンとの橋を絶ってしまったことへのどうしようもない虚無感は自分には埋められないとわかってはいる一方で、それほどまでの虚無を抱えた彼がその分だけ自分と過ごしていることを、喜んでいなかったといえば嘘になる。だから自分とて、ずっとわからないフリをして、埋められもしない悠斗の欠落を支えたいという大義名分を掲げて、彼に不足があるのをいいことに隣を確保し続けてきたのだ。
それでも良いと思ってた。別にこのままでも今の状態が続くだけであれば、悠斗と泰生の関係が決定的に崩壊するわけじゃない。ただ険悪かつ冷たい関係性のまま、時間が流れていくだけで、時の経過と共に段々と二人の距離は開いていずれはそのまま終わりが訪れるだけだろう。それでも構わなかったのだ。富田個人の望みとしても、客観的に見て最も合理的かつ平和的な選択であるという意味でも。
それでも。悠斗が時折見せる、父の話題を避けたがる顔に隠れた寂寥や、ポケモンに向ける優しくも冷たい視線、ポケモンとトレーナーが共にいる姿に浮かべる何かを求めるような表情を目にするたびに、それでは駄目なのだと思わずにはいられなかった。
今のままでは、悠斗は結局、辛いだけなのだとわかってしまったのだ。
「俺じゃ無理なんだよ、俺じゃ、お前の、……お前の中の羽沢さんにもポケモンにもなれないんだよ!!」
それは悠斗と泰生が入れ替わってから、彼らの歪みを今まで以上に目の当たりにしてから、より一層感じることだった。
悠斗が何を考えているのかも、それが自分にはどうすることも出来ないのも、今まで漠然と思っていたそれはここ数週間でよりはっきりとした形をとって、自分に訴えてくるのだ。お前には無理だと。お前は何も出来ないと。
助けてるつもりも何も無く、それすらにもなれないのだと。
「こんなの俺の勝手な我儘だって思うかもしれないけど、実際そうだけど、俺はお前にこれ以上苦しんでほしくも悲しんでほしくも自分を責めてほしくもない。お前が羽沢さんのことを本当に嫌いで、ポケモンともポケモントレーナーとも絶対関わりたくないって本気で思ってんなら、それでいい。それならそうで、お前がマジでそうなら、俺は何も言わないし、言うつもりもない」
準備のために点けられていたステージのライトが一斉に落とされる。始まりを告げるその合図に、黄色い悲鳴が会場に走っていく。
「でも、そうじゃないんだろ、本当は」
泰生に対しても。ポケモンに対しても。
「お前は、」メンバー五人に当たった白いスポットライトが五つ。MVの様子を再現するらしい、何十匹ものエモンガに囲まれた五人が即席の階段から一歩、一歩と降りるたび、観客席は怒濤のような声に満ちた。
明るくなったステージの光を浴びて、逆光になってしまったその顔で、富田は言う。溢れる歓声とエモンガ達の羽ばたく音と、流れ出した演奏に乗せるように、その中に溶け込むことがないように、悠斗にやっと、その思いを告げる。「わかってほしいし、わかりたいって、思ってるんだろう」
「なんでお前が、そんな、……」
「わかるっての!!」
奥歯を噛み締めた顔で悠斗が苦々しげに言った言葉はしかし、富田の怒鳴り声に掻き消された。
「なんで俺がこんなこと言えるのかって? なんで俺にこんなことわかるのかって? 当たり前だろ、だって俺は、この六年間ずっと、お前の一番近くにいたんだぞ!?」
親友。ギタリスト。同級生。信者。
関係性を呼び表す言葉がどれであったとして、自分は彼の隣に立ち続けてきたのだ。それくらいのこと、わからないはずもない。当たり前だ。「ふざけんなよ」自分を誰だと思っているのか。自分がどれほど近い場所にいたのか、わからないとでもいうのだろうか。
わからずにはいられない。気づかずにいるなど、無理な話なのだ。それはもしかするときっと、この前髪の奥で彼を見る、この瞳が紅い所以なのかもしれないが……だとしても、もしそうだったとしても。
彼の、一番奥深くにあるものを知ってしまったそのときから、自分はずっと願い続けてきたのだ。
「俺じゃ不満か!? 俺の言うことじゃ、俺が考えてることじゃ、足りないっていうのかよ! 俺じゃあお前のことをわかってないってか!? 俺じゃ、わかれないとでも思ってんのか!?」
言葉をきらした悠斗に、富田は叫ぶ。
観客席は沸き上がり、誰もその声を咎めることは無い。ステージで舞うたくさんのエモンガが発した電気の光が、照明と混じり合ってキラキラと輝いた。
「俺は俺なりに、……違う、誰よりも! どんなヤツよりもお前のことをわかってるし、どんなヤツよりもお前をわかりたいと思ってるし、そうしてきたつもりだよ! それは違うか!? もし違ったら悪い、でも俺は、…………お前を一番知ってると思ってんだよ」
テレビや広告などで散々耳にしてきたフレーズが鳴り響く。静かな海にそれだけが聞こえる、一隻の船が奏でる汽笛のような、そんな声。マイクを通して拡散するそれに、客席の皆がときの声をあげる。
「それとも何だ、俺の中の、十六分の一のポケモンが悪いのか!? そうだったらどうしようもねぇな、でも、俺は俺の全部をかけてお前と一緒にいたつもりだよ! 俺は俺の人間もポケモンも全部使って、お前のこと見てきたんだよ! その俺が言ってるんだよ!!」
――このまま、君を連れていくよ……
白く輝いたステージから、そんな歌声が響き渡る。悠斗はそちらに目を向けて、ただ何を言うわけでもなく、少しの間その輝きを見つめていた。絶え間なく動く光の粒子が彼の顔を照らし、奇妙な斑点を描き出す。
荒くなっていた息を整えながら、富田はそのマダラ模様をじっと眺めた。ステージライトがぐるりと回った瞬間に、赤く染まった口が開く。「お前、それはずるいよ」観念したように言った、富田の方に向き直ったその顔は、羽沢泰生のものではあったけれども――そこにいたのは、紛れもなく、富田にとっての羽沢悠斗だった。
彼は、力が抜けたように笑う。お前にはかなわねぇよ、と呟いた悠斗は、会場中を満たす人とポケモン全てが作る、歌声と演奏とSEと歓声のどれにも消えることのない声で、富田にこの言葉を告げた。
「ありがとう、瑞樹」
◆
「あ、悠斗くん達どうしたんですか? 今戻ろうと思ってたとこなんですよ」
会場を一旦抜け出た悠斗と富田に、ちょうど帰ってきたらしい森田が、近くのコンビニのものと思われるビニール袋を片手に下げてもう片方の手を振った。「ちょっと人波に酔ってしまって」「ぎゅうぎゅうですからね、あの中……僕も正直キツかったです」などと富田は彼と言葉を交わす。「だからですね、実は、ちょっと休んでから戻ろうかなって泰さんと話してたんです」
なら、ちょうどよかったですよ。そんなことを言いながら、富田は森田の少し後ろにいる泰生へと視線を向ける。イベント真っ最中の会場外はひどく閑散としていて、係員も入り口付近にしかいないらしく姿が無い。大通りに面していない裏側だという理由もあるだろうが、人通りは皆無でホーホー一匹、イトマル一匹いやしない。会場の中から見るよりも暗く、重い色をした夜空にヤミカラスの声が響いてはいるものの、その姿はどこにも見えなかった。
「じゃあ、少し休んでいきますか。いや、泰さんが……ミタマ達にも聞かせたいっていうから出してみたんですけど、何分まだあの子たちはわかってないですから。微妙な空気になってたとこなんです」
今は無人であるものの、昼間は何かの補強中の工事現場らしい会場裏で、シャンデラとマリルリ、ボーマンダの近くに泰生は立っている。しかしその姿は悠斗なのだ、まさか中身が入れ替わっているなどと思いもしないであろう三匹は、未だ状況を理解していないため、泰生から少し距離を置いている。
シャンデラは浮遊し、ボーマンダは着地の姿勢で、マリルリは落ち着きなく二本の足でうろつきながら、それぞれ泰生の動向を伺うような視線を向ける。その様子に泰生は流石に慣れたようだったが、やはり自分のポケモンにそんな態度を取られるのはなかなか堪えるらしく、仏頂面に僅かなシワを刻んでいた。「どうにかしてあげたいんですけどねぇ」森田が溜息混じりに言って肩を竦めた。
そうだ、確かに今の泰生と、ポケモン達のことはどうにかしたい。富田だって鬼でも悪魔でもギラティナでもないんだから、そうしたいと思っていないわけじゃない。
でも、今は、シャンデラ達には悪いけれども、それより先に――――
「行ってこいよ、悠斗」
そう言って自分の背中を押してきた富田に、悠斗は何か言いたげな顔をして振り返る。しかし富田の、前髪に隠れた二つの目があまりに強い色をしていたものだから、彼は黙って頷きを返すだけだった。
「おい」言いながら、悠斗は泰生へと一歩を踏み出す。富田が手で合図したのを受けて、森田が泰生から離れて悠斗に道を開けた。主人の姿に喜色を帯びたシャンデラ、ボーマンダ、マリルリも、何かを察したらしく親子から遠ざかる。中途半端に欠けた月の浮かんだ曇り空に、ボーマンダの不思議そうに鳴いた声が消えていった。
「なんだ」
ただ一人、泰生だけがいつも通りで、憮然としたまま問いかけた。「何の用だ」彼は不機嫌そうな声で言う。いつもと同じ、悠斗が彼に背を向けてから何も変わっていない、その声で。
悠斗の腹の底で嫌な感情がぐるぐると回る。やっぱりこんな奴に自分が何を言う必要も意味もないんじゃないか、そんな思いが悠斗の胸に渦巻いた。しかし、さっきの富田の言葉が頭をよぎり、続いて駆け巡ったいくつもの記憶に、彼は拳を握り締める。「おい」もう一度その言葉を繰り返し、悠斗は短く息を吸う。
「俺、は…………」
その、時だった。
「――――――――悠斗ッ!!」
悠斗の頭上、『工事中』『立ち入り禁止』の看板が設置された、組まれた鉄骨。
そこから悠斗目掛けて、積んであった支柱が落ちてきたのは。
富田の叫び声が空気を切り裂く。
瞳孔を極限に開いた森田が言葉を失う。
ミタマが、ヒノキが、キリサメが、揃って身体を凍りつかせる。
「え?」
ほんの僅か遅れて、上を見た悠斗がそう言ったか言わないかの、
刹那、彼の視界いっぱいに広がったのは、
濃紺の空から降ってくる灰色の鉄柱たちと、
自分に猛然と覆い被さる泰生の姿で、
「え?」
まるでスローモーションになったかのような時間の中。
富田の腕が伸ばされるが届かない、森田が悲鳴をあげようと口を開ける、ミタマの炎が広がって、ヒノキが全身を震わせて、キリサメが地面にへたり込んで、
悠斗と泰生の目が合って、
勢いよく降り注いだ鉄骨が、泰生の身体を滅茶苦茶に突き刺――――――――
「あなたの街の便利屋さん――――」
さなかった。
落下してきた鉄柱が、泰生にぶつかる寸前で、一時停止ボタンを押された動画のように、空中に浮いたままピタリと止まったのだ。
皆が揃って硬直する中、ただ一つだけ動く影。
重なり合った悠斗と泰生の少し後ろで、赤い両眼を輝かせているゲンガーは、大きく裂けた口を歪ませた。
「いつもお世話になっております、真夜中屋ですどうもこんばんは!!」
お決まりのセリフが、空に向かって響き渡る。
「毎度ご贔屓にありがとうございます!」身体を固まらせたままの皆の鼓膜を、いつも通りのハイテンションボイスが震わせた。富田の口がどうにかこうにか、『ミツキさん』の形に動いたが声は出ていない。そんな彼にゲンガーは、ばちん、とウィンクを決めてから「いやぁ、いやぁ」とわざとらしい調子で言う。
「空気読めなくってごめんね? こういうときってさ、身を呈して守って救急車ピーポーピーポーで心電図がゼロになって叫んでお前が大好きなんだー! ってのが筋書きでしょ? 生きても死んでも。邪魔してごめんね? でも一回邪魔したから最後まで邪魔するよ、なんてったって僕は街の便――」
『俺の身体で無駄口叩いてるな。ふざけんなよクソ野郎、あと、そろそろいくぞ』
ミツキの長ゼリフを叩っ斬るように響いた電子音声、ムラクモことゲンガーの操るタブレットが読み上げたその言葉に、ミツキは「クソ野郎って……」と割と本気で哀しそうな声を出してから「ま、オッケー」と返事をする。
『ったく、曇ってるし満月じゃねーし、オマケに相性悪いっぽいし、時間かかっちまったな。そのせいで逃がしちまった、最悪』
「しょうがないよ、おかげでわかったこともあったじゃん?」
『まーな、間に合っただけで上等か』
「そうだよ!」交錯する二つの声が、真面目な色に切り替わる。
「いくよムラクモ――」『任せろミツキ――』先程までのやり取りからは想像出来ないほどの剣呑さを帯びたそれと共に、紫の指先が目映い光を纏い出した。天高く突き上げられたそれは、その真ん中に位置する月の輝きを集めているかのように眩しくなって、場違いな美しさをこれ以上無いくらいに解き放って、
「ムーンフォース!!』
その声と共に光を散らして、鉄骨達を木っ端微塵という言葉でも足りないくらいに、吹き飛ばして消してしまった。
「あ、あの…………どういう、ことなんですか……」
数分後。ミツキの誘導により、とりあえず工事現場から離れて安全な場所に移動した一行は、しばらく呆然と立ち尽くし、今この現実、自分が地面に立っていること(シャンデラは浮いているが)を理解するくらいしか出来ることがなかった。
開いたまま塞がっていなかった口からようやく言葉を発した森田の横では、富田が魂の抜けたような顔をして虚空を見つめている。危機一髪を乗り越えた羽沢父子は、未だにその実感が今ひとつ無いらしく、ふわふわした面持ちで立っていた。シャンデラが心ここに在らずといった風に、両腕の燭台から無意識に炎を吐き出している。地面にぺたりと身を投げ出したボーマンダの隣で、動く気力も湧かないとでもいうようにマリルリが丸腹を仰向けにして転がった。
救出の礼も言えずに呆けている一同の中、真夜中屋両者だけがただ楽しげだ。「ん? あー、そうね」などと軽い調子で森田の声に応えたミツキが、ケラケラと笑い混じりの言葉を発する。
「そうだよねー、ゲンガーはムーンフォースなんて使わないもんね。いや、さ。実はこれ話すと長くなるんだけど、ムラクモには秘密が」
「今はそんなことどうでもいいんですよ! なんで、……なんで真夜中屋さんがここに!? 間に合った、って、知ってた、……アレが降ってくるってこと知ってたみたいじゃないですか!」
混乱を抑えきれない様子の森田に、ミツキはようやくふざけるのをやめて「あーね」と笑った。『ま、俺たちだって依頼人に死なれちゃ困るからなぁ』「そうそう、ある程度の警備をつけとくのは当然だよね」そう言った彼らの言葉に合わせ、何もない暗闇から数匹のヨマワルが浮かび上がる。
確かに警備だろうが、これは言い方を変えれば監視とか盗撮の類ではないだろうか……しかも、今回は違うとしてもそういう使い方も全然出来るのでは……そんな思いが、ミツキ・ムラクモ以外の頭をよぎっていった。が、「でも、今回はさ」と、やや声のトーンを落としたミツキに、そのことを口にはしないことにする。ミツキはヨマワルのうちの一匹を紫色の腕で指し示し、「この子が教えてくれたんだ」と言った。
「君たちを狙ってる、呪術師の気配があるってね。だから心配で僕たち自ら来たんだよ、もっとも僕の『本体』が来ると時間かかるから、飛んでこれるムラクモにくっついてだけど」
「え!? じゃあ、さっきのは事故じゃなくて……わざと、なんですか……!?」
「あんな、良くも悪くもあんなタイミングで事故起きるなんてそうそうないよ。マンガじゃあるまいし、現場の人たちの安全管理だってそんな雑なわけないじゃん。アレは事故じゃなくて、呪術で起こした、れっきとした故意の事件だよ」
『あのレベルのピンポイントなんぞ、サファリゾーンで色違いラッキー捕まえるより無理な話だからな。全く無いとは言えないけど、とりあえず今回は違う』
口々にそう言ってのけたミツキたちに、悠斗は短く身震いした。先程、視界にスローで流れた鉄骨の落下が頭の中で蘇る。あれが自分に向けられた、明確な殺意の顕在したものだと思うと、助かったのに生きている心地がしなかった。
その隣で、それまで黙っていた富田がぽつりと呟くように言う。「それって、……悠斗を殺そうと、ってことだよな」静かでいつも通りの平坦さを持ったその声はしかし、そこに孕んだ怒気が抑えきれずに溢れ出していて、森田と泰生、ポケモン達は微妙に顔を引きつらせた。「いいって、瑞樹……」慌てたように声をかけた悠斗に、「そうだよ。下手にこっちから手を出すと共倒れになるかもしれないからね」『不用意に動くより泳がせとこうぜ』などと、ミツキ達が若干ずれたフォローをする。
「まぁ、思わぬ収獲もあったしね。今日は何も無かっただけでいいってことにしよう」
「収獲?」
『さっきの呪いをやらかした奴、多分本人なんだ。似てるとかそういうんじゃない、お前らにかかってるのと、バッチリ一致』
「悠斗くんたちに変化があって、焦っちゃったんだろうね。馬鹿だよねー、大将自らノコノコ出てくるなんてさ、まぁそれ以外どうしようも無かったんだろうけど、おかげで僕たちは直接、奴さんの質を掴めたわけだし。流石に今は取り逃がしちゃったけど、使ったポケモンも大方予想がついたし、ね」
思わぬ進展に、え、そうなんですか、と森田が期待の混じった声を出す。
「そうそう! ムラクモのムーンフォースの効きが悪かったからさ、それでゴーストポケモンで今回のに合致するようなっていうと、それは、…………」が、ミツキはそこまで言って言葉を切った。赤い瞳が、その場に居合わせた者達をぐるりと見渡す。「ま、それはちょっと、置いとくとしてさ」言いながら歩き出した彼は、森田と富田を自分の方に来るように手の動きで示しながら、まるで小さい子どもを見守るような、温かく優しい溜息をついた。
「アレが降ってくる前にしようとしてたこと。ちゃんと、やっちゃいなよ」
◆
「何の用なんだ」
会場外に取り残される形になり、泰生はイライラした口調でそう尋ねた。フェスの真っ最中であるため相変わらず人の気配はなく、ポケモンすら姿を見せないほどの静けさである。ニャースやコンパンらしき声が、小さく響いてくる歌声や歓声に混じって時折聞こえるからいるにはいるのだろうけれど、動く影は見えなかった。少し離れたところで悠斗達をうかがう、シャンデラ達三匹をおそれて隠れているのかもしれないが。
ともかく、そんな静寂で――泰生は、何も言わずに突っ立っている悠斗に苛立っているようだった。「用があるなら早くしろ」そもそも昨日の今日で、悠斗と二人でいることだって避けたい状況なのだ。「何も無いなら、俺はミタマ達と戻ってるからな」シャンデラらの方をちらりと見て、泰生は不遜な声で言う。
が、悠斗の方はその苛立ちなどかまっていられなかった。
またそれか、そんな思いが腹の底で唸る。泰生は何気無く言っただけなのであろうけれど、その何気無さも自然さも無意識も全て、悠斗は苦しくてならなかったのだ。
そう、今まで、ずっと。
「…………っで、助けたんだよ」
絞り出すような声で言った悠斗に、泰生が視線をそちらへ戻して首をかしげる。「は?」彼が何を言ったのかわからず、聞き返した泰生に、悠斗は今度こそ我慢がならずに叫んでしまった。
「じゃあなんで、どうして俺のこと助けたのかって聞いてるんだよ!!」
抑えられなかった。
今まで長いこと、あの日を境に溜め込んできた感情は、あまりに力任せな言葉となって喉奥と口をこじ開けた。
「俺なんか助けなくていいだろだってお前はポケモンの方が大切なんだから!! ポケモンがいればいいなら俺を助ける必要なんてないだろ!? むしろよかったじゃないか、そりゃ結果的にミツキさん達が来たけど来なかったら、俺が死んだ方がお前はもっと長い間ポケモンといられたんだからそっちの方がいいに決まってんだろ!? だってお前は俺なんて必要無いんだから!!」
違う。言いたいのはそんなことじゃない。そうじゃない、自分はこんなことが言いたくてここに残されたんじゃないんだ、富田に背中を押してもらったんじゃないんだ、今の今まで気持ちを抑えつけてきたんじゃないんだ。そんな焦りだけが頭の奥をぐるぐると駆け巡った。だけど口から溢れ出ていくのは馬鹿みたいにつたなく不格好な言葉ばかりで、蓄積した想いはいつの間にやら不器用に屈折して形を歪ませてしまったのだと思い知らされた。
こんなの。こんなの違う。そう何度も叫びたいのに、自分を止めたいのに、そう出来ないでいる悠斗の吐き続ける言葉を、泰生は黙った聞いていた。
「お前はポケモンといれればいいんだ、わかってるよ!!」
そうなんだよ。わかってるんだよ。
悠斗は、心の中で絶叫する。
俺は全部、わかってたんだ。
「ポケモンだけいれば、それだけでお前が満足だって!!」
自分が本当は、父にどうしてほしかったのかも。
ポケモンとどうありたかったのかも。
どれくらい、彼らに自分を見てもらいたかったのかも。
「俺のことなんか、嫌だけど俺はお前の子どもだけど、それでも俺のことなんかいらないんだよなわかってんだよ!!」
普通の親子みたいに、父に笑ってほしくて、叱ってほしくて、当たり前のような顔で一緒にいたかった。
普通のポケモンとトレーナーのように、力を合わせて、楽しくすごして、色々なところに行ってみたかった。
羽沢さんのおかげで今の僕があるんです、なんて相生がためらいの欠片もなく言ったとき、それがどれほど羨ましかったか。
泰さんの姿を見てこの人についてこうって思ったんですよ、なんて森田が心の底から出ているような声で言ったとき、それがどれほど眩しかったか。
相生や森田だけじゃない、世界中の無数のトレーナー達が、羽沢泰生という人間に希望を見出し、夢を求め、素直に憧れていくそのことが、どれほど羨ましくて眩しくて妬ましくて苦しくて――どれほど、そうなりたいと望んだか。
どれほど、自分だって、泰生から、ポケモンから。
何かをもらいたいと思っていたのか。
「わかってるよ、そんくらい!!」
そんなこと、全部、自分はわかってた。
「違う」
そうだ。
そのことだって、知ってるんだ。
「それは違う、悠斗」
本当は、とっくの昔からわかってた。
父の、自分を見る目のことも。
至る所で見かけるポケモンとトレーナーの並ぶ姿が、どんなものであるのかも。
自分が捨てたと思い込もうとした世界なんて、本当はそんなに悪いものじゃないことくらい、全然、理解出来てたんだ。
「俺は、そんなことを考えたことなど、今まで一度だってない」
泰生がただ、自分の気持ちを伝えるのが人並み外れて下手なだけだということも。
ポケモンは自分と一緒にいることの出来る、一緒にいてくれる存在だということも。
あの日のシャンデラが自分に炎を発したのは単に怪我した部位を触られて驚いただけだということも、駆けつけた泰生は怒っていただけでなくむしろ悠斗が再度危険な目に遭わないよう注意喚起したにすぎないことも、彼らに拒絶などこれっぽっちもされてないことも。
本当は、わかろうとしないのは泰生でもポケモンでもなくて、自分だけだということも。
「もしもお前が、俺がポケモンだけいればいいと思ってるのならば、……それは、悠斗。お前の勘違いだ」
全部、全部、わかってたんだ。
そのくらい。
「…………わからなかった、のか?」
「わからねぇ、よ…………、」
悲痛な色を帯びた、悠斗の張り裂けるような声が口から逃げていく。
だってずっと不安だったのだ。
怖くてならなかったのだ。
もしもそうじゃなかったとしたら、と考えるたび、もしも本当に泰生が自分のことを嫌いだとしたら、ポケモンは皆自分のわからない存在だったとしたら。
そう考えるだけで、世界は本当に半分しかないと思うだけで、深い闇の底に叩き落とされるような気持ちになったのだ。
「わかりたかったけど、無理だったんだよ……! 俺はそれが出来なかったんだ、出来ないまま、そのまま、ここまできちゃったんだよ……俺は、ずっと、お前に、」
周りの人達には恵まれていた。
音楽を始めてからはファンもついて、自分を必要としてくれる人も現れた。
何があっても自分から離れない富田に、不安で空いた穴の分を埋めてもらおうとして、彼が自分を求めてくるのをよいことに自分も彼に求めていた。
だけど、結局、無理だったのだ。
富田の言うように、泰生に拒絶される恐怖もポケモンとわかり合えない絶望も、それ以外で消し去ることは出来なかったのだ。
自他共に見せつけるため、ポケモンから離れても。
トレーナーの泰生へ言外の抗議をするように、旅にも出ず、ポケモンを伴わない音楽を選んでも。
どれだけ他のことに意識を向けて、世界は半分で十分なんだと言い聞かせた、ところで。
「悪かった」
結局のところ、自分はずっと、その言葉か聞きたかっただけなのだ。
ずっとずっと、泰生に、そう言ってもらえればよかったのだ。
「俺は、お前が何よりも大切だ。今の俺はきっと、お前がいなければ何も出来なくなるししたいとも思わなくなる、お前が生まれてからずっとそうだ。お前がいない世界なんて考えられないし、お前に嫌われたくない、お前といられなくなるのはきっと無理なんだ。俺は」
喉の奥から目にかけて、熱が急速に昇ってくるような感覚に悠斗は声を出せなくなる。何も言えない悠斗へと、泰生は言葉をさらに続けた。
「お前や、お前の友人が言うように、俺は真琴に会うまでポケモンとだけ生きてきた人間だし、それを選んだ人間だ。だから人間と生きてきてこなかった。だからお前に何かを伝えたくてもうまく出来ないし、伝えてるつもりで伝えられてないというのもあるに違いない。それに俺はポケモントレーナーだから、ポケモンのことも大切だ。それは譲れないし、プロの選手として生きてく以上そうしなくてはいけないから、ポケモンに対して気を抜いたりぞんざいにしたりというのは出来ない。何よりポケモンは、真琴やお前と会うまでの俺にとっては唯一だったんだ。そこを比べて、お前とどっちが大事とかそういうことは、考えられない」
それでも、と強く言って、泰生は悠斗の眼を見据える。
「俺は、悠斗が大事なんだ」
わかってくれ。熱を持った声でそんなことを言った泰生に、悠斗は「おせぇ、よ……」と震える息で返事をした。「遅えんだよ…………!」その怒りともどかしさと、抑えられないほどの激情が、果たして父と自分のどちらに向けられているのか、悠斗自身にもわからなかった。
「すまなかった」泰生は静かに呟いた。「悪かったな、悠斗」言いながら泰生は悠斗へと歩を進め、悠斗の首にそっと手を回した。自分を抱きしめているのは他でも無い、今の自分よりもいささか小さく細身な悠斗の身体だったけれども、それでも、父の身体をそう出来るくらいに自分が大きくなっていたことに、悠斗はとても驚いた。
いつの間にそれほどの時間が経っていたのかと思ってしまうくらいには、久方ぶりのことだった。
それくらい、自分達は先延ばしにしていたのだ。
こうして言葉をぶつけ合うのも、お互いのことを見るのも自分を見るのも、相手のことを抱きしめるのも。
何もかも。
「遅いんだよ…………」
自分の目よりも若干下にあるつむじを右手で引き寄せ、そこに顔を埋めるようにして悠斗は声を揺らした。「ずっと、こうしたかったのに」背中に回された泰生の手が、温かな動きでそこを撫でる。「ずっと、こうされたかったのに」十何年前に戻ってしまったように、悠斗は途切れ途切れの言葉を吐く。どうしようもない我儘を言っていると頭の片隅で理解はしたけれど、もはや抑えられるものではなくなっていた。「ずっと……、!」
「悠斗、ごめん。悠斗」そんな、小さい子どもみたいな悠斗を、泰生はただただ抱きしめていた。最後にこんなことをしたのが一体どれほど昔のことなのか、わからなくなってしまったのがひどく悲しかった。今自分がこうしていられること、自分の息子が、父である自分を腕に収めることが出来るほど育っていたのだと、今更知ったことが、底無しに不甲斐なかった。
「悠斗、悪かった、すまなかった、本当に……今まで、ずっと」
埋めることも取り戻すことも出来ないくらい長い時間に、泰生はその言葉を繰り返す。肩に預けられた悠斗の頭がふるふると横に振られて、「俺だって」と消え入りそうな声がした。「俺だって、ごめん」
「ずっと何もしなくて、ごめん」
肩を掴み、そんなことを言った悠斗に、泰生は「遅かったな」と少しだけ笑った。自分の肩のところで、悠斗が頷いたのかわかった。
しばらくそのまま顔を埋めていた悠斗が、ゆっくりと泰生から離れて照れ臭そうに視線をさまよわせる。「これでいいなら、」少しだけ高いところにあるその目に向けて、泰生は迷いのない口調で言いきった。
「今までの分も今からやる。いくらでもやる。お前がわかってくれるまで、何度でも言う。何度でもこうする。毎日、何回でも、俺はお前が大事だって言ってやる」
真剣な顔で、小さな子どもみたいなことを言い出した泰生に、悠斗は思わず苦笑した。
「いいよ、もう」笑い混じりの声で悠斗は返す。「もう言わないでも」即答で断られた泰生は、何を、とあからさまにムッとした顔をした。「お前は本当に、こんな時に……」
泰生が呻くように文句を吐く。その、どうしようもないほど不器用で口下手で、しかし何よりまっすぐな姿を見ているのが苦しくて、悠斗は俯いて視線を逸らした。これ以上直視していたら、さらなる何かがもっと溢れ出してきて、きっと立っていられないと思った。
「もう、いいから」目を伏せたまま、悠斗は言う。怪訝そうな顔で首を傾けた泰生にだけ聞こえる声で。「もう言わなくていい」
「もう、わかったから」
だから、もういい。
それだけ言った悠斗のことを、泰生は二、三秒黙って見つめていたが、それから数歩近づいて、今の自分のそれよりも少し高いところにある頭を数度、優しく叩いて頷いた。
と、彼らの様子を遠巻きに見守っていた三匹が、何やら落ち着いたらしい雰囲気を察して遠慮がちに距離を詰めてきた。ボーマンダの羽ばたく音と、マリルリのぴちゃぴちゃという足音が、会場の方からうっすら響いてくるノイズ混じりの歌声と絡み合う。
すう、と空中を滑るようにして、シャンデラが悠斗と泰生の顔の真横まで飛んでくる。やや無機質ともいえる、ぽっかり空いた金色の瞳を丸く開いた彼は、二人のことを交互に見遣った。自身のトレーナーの形をした悠斗と、十二年間自身を疎み続けてきた者の形をした泰生。そのことがシャンデラにわかったかどうかは計り知れない。魂を燃やしているという蒼い炎が宿ったその頭の中で、彼が何を考えたのかは他の誰の知るところでもない。
ただ、彼がそこで、二人の間で何かが進んだということを理解したのは確からしい。
「…………ミタマ?」
しばらく二人を見ていたシャンデラだったが、少ししたところで、すぅと悠斗の方へ身体を寄せた。泰生が若干面白く無さそうな顔になり、悠斗は困ったような笑みを浮かべる。やはりそういう認識なのか、と二人が思ったその時、だった。
シャンデラは悠斗の両目をじっと見つめて、自分の身体の右側、右腕にあたる燭台を悠斗へと差し出した。金色の瞳は穏やかで、あの日から何一つ変わっていない、そもそもあの時だって本当はきっとそうだったのだろう、彼がずっと、悠斗に向けていたものだ。ただ、悠斗が見ていなかっただけで、本当はずっとこの眼をしていたのだ、彼は。
悠斗がその場所に手を伸ばすと、シャンデラは嬉しそうにその瞳を細めた。きゅう、と緩んだ彼の笑顔が、悠斗に向けられたものか泰生に向けているものかはわからない。それでも、彼があの時触らせなかったその場所に、悠斗のことを受け入れたのは紛れもない事実だった。
柔らかに揺れる蒼の炎が燃える、丸い身体を両手で抱き寄せて、悠斗はシャンデラの顔に自分のそれを押し当てた。「そうだよなぁ」そう呟いた悠斗に、シャンデラは軽く身体を揺らす。
二人を包むようにボーマンダが大きな翼を広げて、マリルリがそれぞれの足に一本ずつ腕を伸ばした。顔の見えない悠斗の背中に、泰生は再度手を回す。かける言葉はそれ以上、お互い持ち合わせていなかったけれど、今まで顔を突き合せるたびに陥っていたそれとはまるで違う、居心地の悪くない沈黙だった。
「いやー、生のぬめりんステージは最高だったね! あのバカっぽさというか微妙に出来てないMCとか、ぬめりんにしか出来ないもんね!」
『うるせぇアホミツキ、ぬめりんよりもサナ様だろ! 女子アナ並の知的美人なんだからな、サナ様こそ至高だって』
「ムラクモ脚フェチだもんねー、自分が昔無かったからってさ! 確かにサナ様も綺麗だけどー、それだったらろっぷたんの方がさー」
『ろっぷたん美脚だけどちょっと毛深いからな。俺は女の子は、いや、アイドルだけでいい、アイドルには毛が生えてないで欲しい派なんだよ』
「お二方とも詳しいですね……人間のアイドルもポケモンアイドルも全然わからなくてすみません、っていうかムラクモさん、ろっぷたんさんは毛深いとかそういう次元ではないのでは……?」
賑やかな話し声に二人が振り向くと、フェスをちゃっかり楽しんできたらしい真夜中屋両氏、および若干取り残され気味の森田、「悠斗!」と駆けてくる富田が会場の方から向かってくるところだった。
「悠斗、…………」
富田は悠斗の横まで走ってきて止まり、もう一度名前を呼ぶ。次いで彼は、何か聞こうとしたようだったが、その必要が無いのだと感じ取ったらしかった。
悠斗と視線を合わせ、富田は表情をふにゃりと緩めた。安堵と、喜びと、ほんの僅かな寂寥と、確かな嬉しさが入り混じったその顔は、悠斗が初めて見るものだった。ふわ、と浮かび上がったシャンデラの炎が二人の頭に光を落とす。手のかかる子どもを見守る大人のように笑った森田の横で、ミツキとムラクモが紅い目を細くした。ごほん、と咳払いをした泰生はしかし、その口元を確かに緩ませる。
「あー、……あのさ、真夜中屋さん」
そんな雰囲気が恥ずかしくなったらしく、少し経ってから悠斗が遠慮がちな声を出した。「さっき、アレが落ちてきたのが呪いのせいって言ってて、それはわかったんですけど」
「犯人の気配を直接……みたいなこと言ってたじゃないですか」
「ああ、うん。言ったね?」
「根元さんじゃないんですか? 犯人、って」
そう尋ねた悠斗に、先に発声したのはムラクモだった。ただし、それは『おい、お前言ってなかったのかよ』というミツキへの呆れ声ではあったけれど。
ダメ出しされたミツキは、「あぁー」と情けないような呻き声を上げる。瑞樹くんたちには言ったんだけど、タイミング掴めなくってさ、などと言い訳をしつつ悠斗に説明する。
「実は調べてみた結果さ。あの人じゃなかったんだよね、あの人今まで一度も呪いなんかやったことないっぽくて」
「え、そうだったんですか!? 俺完全に、あの人だってつもりでいたんですけど」
「だよね、悠斗くん! 僕もそう思って……」
「何言ってるんだ、お前達」
驚く悠斗と、それに頷いた森田の声に、突如泰生が口を挟んだ。え、と皆が同時に首を捻る。不思議そうな顔をする面々の中、泰生は当たり前のような声で言った。
「あいつがそんなこと、するはず無いだろう。あの男は本当に馬鹿でどうしようも無いが、そんなやり口で、お互いのバトルが不十分なものになるような真似は絶対にしない」
「え、泰さん、……?」
「そこだけは真剣なんだ、あいつもポケモントレーナーだからな。いくら阿呆でも、戦法がねちねちと汚くても、バトルコートに立つことだけは、……認めがたいが、俺の知ってる中では一番、……真剣な奴だから」
もー羽沢さん、それならそうと早く言ってくださいよ。ミツキはプリプリと怒ったように言い、富田はがっくりと脱力する。悠斗は泰生が珍しく、曲がりなりにも人を褒めているということに内心驚いた。
その脇で、森田は黙って頭の中だけで考えを巡らす。どれだけスキャンダルを重ねても、不思議と落ちない根元の評判。いつだって一定数から減ることの無い、彼が抱えるファンの数々。コートの彼を困り顔になりつつも見守っていた、マックスアッププロダクションのスタッフ達。
「そうだったんですか」
なんとなく答えへの道が見えた気がして、森田は泰生に、どこか独り言のような声でそう言った。
「あっ」
不意に泰生が声をあげる。何事か、と皆の視線が泰生に集まり、そして彼が見ている先に移動した。
そこにいたのは、一匹の小さなコラッタだった。丸い耳をぴくぴくさせ、会場案内の看板に隠れている様子は、泰生達のことを伺っているものと見える。
「珍しいですね、一匹だけなんて」
「街中だと少なくないよ、群れで動くのはどちらかっていうと草とか木とかあるとこだし」
そんな言葉を交わす森田とミツキの横で、泰生がコラッタに一歩を踏み出す。が、そこで彼は足を止めた。数週間前のタマムシ大学構内で、同じように近づこうとして逃げられたのを思い出したのだ。
しばし考えて、泰生はその場にしゃがみ込む。「泰さん?」森田が不思議そうに尋ねた。それには答えず、泰生はコラッタと目を合わす。
「おいで」
コラッタに向けて手を伸ばし、泰生が言った。
「お前と、一緒に遊びたいんだ」
その声を聞き、コラッタがおそるおそる、しかし一歩ずつ泰生の方へ近づいていく。やがて鼻先で手に触れてきたコラッタを泰生が抱き上げると、紫の小鼠は嬉しそうに目を細めた。
「こうすれば、良かったのか」その背中を撫でてやりながら、泰生が独り言のように呟いた。「これだけのことだったのか」顔を埋めるようにして俯き、少しだけ震えた声でそう言った泰生に、森田が言葉を伴わない笑みを向ける。富田がやれやれというように溜息をつき、ミツキとムラクモの両者の総意で裂けた口許がニッと歪んだ。シャンデラが炎を優しく揺らして、ボーマンダが楽しげな咆哮をあげて、マリルリが青い拳を天高く突き上げる。
そして、悠斗が泰生の隣に立ってそっと告げた。「そうだよ」彼は言う。
「そうだったんだよ」
空に浮かぶ月は相変わらず中途半端に欠けていたけど、いつの間にか雲は晴れていた。イベントが終わった余韻と寂しさと、満ち足りた幸せに浸りながら会場から出てきた客達の声が響き出す。
冷たくも穏やかな風が走っていく秋の夜は、ちょうど心地の良い柔らかさを以て、皆を包んでいるようだった。
朝。冷涼な空気に浸された台所の中央でシュヒは、数回目になる食事の支度に勤しんでいた。
右手には小さな泡立て器を握り、傍らに使い終えたまな板とナイフを置き、そして正面には白いホーローのボウルを据え――ボウルの中には様々な種類の、半ば液状化した木の実が混ぜ合わされていた。
「木の実は私が育ててるのを分けてあげるから心配しないでね。何も難しいことは無いわ。木の実をさっと水洗いして細かく切って、少し塊が残るくらいに擦り潰したら、お水をちょっとだけ加えるの」
数日前、一つのモンスターボールを手に弱り果てていたシュヒの元をナズナが朝一番で訪れた。事情を聞いても特に慌てる素振りも無く、少年が持ったボールの中にいるポケモンの、餌の作り方を教えてくれた。
目を覚ましてみれば老翁は忽然と姿を消し、自分の元に生まれたばかりのポケモンが残されていた――。思わぬ展開に困窮せざるを得なかった少年だがしかし、嘆いたところで事実は覆らないことを解すや、戸惑いを隠せぬまま、無理矢理に納得したのである。
「他に困ったことがあったらライブキャスターに連絡して! すぐに駆けつけるわ。家に直接来ると、テッちゃんとキューちゃんが大騒ぎしちゃうもん」
「分かった……ナズナさん、ありがとう」
彼女に手伝ってもらい作り上げた木の実のペーストを、幼虫が黙々と食べるのを横目に見ながら、少年は相槌し。
「シュヒくんは一人じゃないわ。私も精一杯手助けするからね!」
「……うん」
消沈している少年を勇気づけようと声高に言ったナズナに、シュヒは再度頷いた。
「メラルバ、ごはん、だよ」
完成した餌を載せた皿をフローリングに置き、シュヒは緊張した面持ちでモンスターボールのボタンを押す。
昨夜までは、餌の時間には必ずナズナが傍についてくれていた。だから別段怖がることも無かったのだが、彼女は幼虫の聞き分けの良さを見て「もうシュヒくん一人でも大丈夫よ」と、少年にとっては不安でしかない英断を下したのだ。
ボールの中に入れたまま放置していても、ポケモンが空腹になったり病気になったり、落命することは無いと聞く。告げさえしなければ、世話をしていなかったとしてもそうそう勘づかれることは無いのだろう。
しかしシュヒはそうしない。そうすることは、出来ない。もうこれ以上、ポケモンとの間に刻まれた溝を深めたくないと願うから。何より、そんなことを一度でもしてしまったら……アデクに、顔向けが出来ないから。
彼は自分を信じて、この幼い命を残して行ったのだろう。だからそんな卑怯な真似は出来なかった。したく、なかった。
「ルバ〜」
「わっ……こ、来ないで!」
ボールから登場したメラルバは、目の前にシュヒが一人座っているのを見つけると、一散に彼に近寄って行く。それを少年は言葉と、両手をそちらへ突き出すことで留めた。
「おれのほうに来なくていいから! ごはん、食べて……!!」
「ルバ〜?」
元より鈍い足取りをぴたっと止めて、幼虫は体ごと頭を傾げる。
「ご……ごめんね。まだ、怖いから……でも、きみが悪いんじゃ、ないからね……」
「……ルバッ」
不思議そうにシュヒを見上げていたメラルバはその内、彼の言い分に了解したように鳴くと横に置かれている皿へと向かい、盛られた餌を食べ始めた。シュヒは困り顔でふぅ、と息を吐く。
(じーちゃんはどうしてメラルバをおれに……? おれは、メラルバを上手く育てられないのに……)
ナズナが太鼓判を押した通り、確かにメラルバは聞き分けが良く、指示に忠実に従ってくれる。故にシュヒは、余計に彼女に申し訳無い心持ちになった。自分ではない他の人間と共にいる方が、彼女は幸せに暮らせるのだろうなと、そんな風に考えてしまう。
アデクから与えられた信頼には答えたいし、その想いを有難いと、嬉しいと思う。と同時に、少年は自ら非力さを浮き彫りにさせる。
自信が無かった。まだ自分は、ポケモンが怖い。老翁が居ない今、果たして自分はこの深淵を跡形残さず埋めることが出来るのか。
判らない。解らない。
(じーちゃん……)
考えるほど頭が重くなる。リビングの窓に寄りかかって両膝を抱え込み、間に顔をうずめる。初めてアデクと会った時と同じように、シュヒは縮こまった。硬い卵の殻の中に閉じ籠もるみたいに丸く、小さく。
こうしていれば、彼が戻って来てくれると盲信しているかのように。
「ルバ〜ルバ〜」
何事か訴えるような幼虫の鳴き声に、シュヒは顔を上げた。少し離れた所でメラルバが窓に張り付き、前足で硝子を掻いている。食事はどうしたのかと皿を見ると、綺麗に空になっていた。
「どうしたの……」
そう溢してシュヒは、彼女の動きに注目した。じっと見ていると、なんとなく自分に伝えようとしている事柄が解った気がして、確かめるべく問うてみる。
「……外? 外に行きたいの?」
「ルバ〜ッ」
窓に足を掛けたまま、幼虫は顔だけを少年へ向けた。正解と、いうことらしい。しかし答えが当たったことに喜びを感じる暇も無く、シュヒは表情を曇らせる。
「でも外には他にもポケモンが……」
少しはポケモンが近くにいる環境に慣れたとはいえ、それは多分メラルバが、幼く小さく動作がゆったりとしていて危険性が少ないからだろう。屋外には彼女とは違い、体が大きかったり、動きが素早かったりするポケモンがきっといる。出来れば、そういったポケモンにはシュヒはあまり近づきたくなかった。が。
「………………」
そのようなことを言っていてはいつまで経っても、溝は無くならないではないか。
そう思い至って、シュヒは自身を奮い立たせた。
「メラルバちゃんは虫タイプだもんね。葉っぱも食べたいのかも知れないわ」
「そっか……」
のそのそという擬音がぴったりな足取りで歩むメラルバの後ろを、シュヒとナズナが話をしながら横並びでついて行く。幼虫の声と足運びは常より心なしか軽快で、気分良さげだ。楽しそうな彼女の後ろ姿にナズナはうふふ、と頬笑む。
「今日は沢山散歩させてあげましょ!」
外出したいと言うメラルバの希望に答えるために、シュヒは迷わずナズナに連絡を入れた。訳を聞いた若きブリーダーはすぐに少年の家へと飛んで来て、一緒に町中を散策しようと誘ってくれた。
二人と一匹はまずカナワの中心街へ向けて進行し、途中で閑静な住宅街へと分け入った。郊外の方がメラルバは喜ぶだろうが、そうすると野生ポケモンとまみえる確率が高まってしまう。ナズナは幼虫よりもシュヒの気持ちを優先し、町中を選んだ。出会う数は多くなるけれど、町に暮らすポケモンであれば人間の指示を聞く分、安全だと判断したのだった。
少年宅を出てからここまで、実に十匹以上のポケモンと擦れ違い、その都度シュヒはびくびくと肩を震わせた。しかし決して逃げ出したり、目を逸らしたりはしない。ポケモン、そして怯える自分自身に挑みかかるように、彼らを注意深く観察していたようだった。
「アデクじーちゃん、どうして何も言わないで行っちゃったのかなあ。まだ話したいこと、いっぱいあったのになあ……」
民家の生垣を左に曲がった辺りでナズナの右隣から、そんな呟きが聞こえて来る。少女が振り向くと、発言者は寂しさを宿す双眼で、前を行くメラルバに見入っていた。
突如老翁に去られた少年の胸には、裏切られた、などという冥(くら)い気持ちは一切無かった。ただどうして、どうしてと、純粋な疑問が蔓延っていた。彼が居なくなった状況にただただ戸惑い、そして怯んでいた。
――わしに出来ることは、もう無い。役目を終えた老兵は去るのみさ。あとはきみと、ポケモンたちに任せるよ。
その時ナズナの念頭に去来したのは、昨晩、翁が自分に言った言葉だった。
「メラルバを、シュヒくんに譲ろうと思うんだ」
耳許で囁かれた台詞に少女は驚き、ぱっと翁から距離を取ると彼の顔を凝視した。冗談かと勘繰るがアデクの面差しにそれらしき影はわずかも見当たらない。ナズナはしばらく瞬きを繰り返したのち、訊ねた。
「どうして、そんなことを……?」
両親の遺したポケモンたちとすら満足に触れ合えぬ少年に、生後間も無いポケモンを譲渡するなんて、正気の沙汰とは思えない。彼が彼という人間でなければ、ナズナはきつく詰ったことだろう。
しかも、彼は明日朝早くにシュヒに知らせぬまま、この町を発つと抜かすではないか。そんな馬鹿なことがあって良いのだろうか。
不信感がありありと顔に表われた少女にアデクは、順を追って説き明かしていった。
シュヒがメラルバのタマゴに興味を示し、しばしばその様子を窺う仕草を見ている内に、とある仮説が翁の中に浮かび上がってきたのだと言う。
人に飼われているものでも、ましてや野に生きるものでもなく、もっとまっさらで、か弱く小さなもの――これからタマゴから孵るポケモンが相手ならば、シュヒの硬い警戒心も緩むのではないだろうか、と。
実際、計らずもメイテツとキューコに遭遇して萎縮したはずの少年が、メラルバ誕生の瞬間には間近に居合わせることが出来た。そうして、生まれたばかりの幼く脆い命が周囲に与える力が、彼にも備わったのではないだろうか。
このか細い命を守り支え、救ってやりたいと切に願う、愛しさという力が。
メイテツとキューコも、産まれてすぐのシュヒを目にした時、その力を手に入れたのだ。どれだけ彼に嫌われ避けられ傷つけられても、二匹は少年を嫌わない、避けない、傷つけない。それは傍観する第三者がやめてくれと懇願したくなるほどに深く、哀しい愛情だ。
かと言って、少年がポケモンを警戒していることは変わらないが、関心があるというのは強みだ。自分の存在を抜きにして、シュヒをメラルバに慣れさせようと、アデクは考えたのである。
「それに。わしはこいつの意志も汲み取ってやりたくてな」
と言って翁が指し示した先には、黙々と餌を食べる幼虫の姿。
「メラルバちゃん?」
「ああ。メラルバ自身が、シュヒくんを選んだのだ」
「シュヒくんを……選んだ?」
少女は目をぱちくりとさせ、うむと頷くアデクに注視する。
「普通、人間とポケモンは、人間の方がポケモンを好きに選んで仲間とする。しかし、ポケモンの方が人間を好きになって、共生や道連れを求む時もあるのだ」
新人用ポケモンを博士から貰う場合にせよ、野生ポケモンをモンスターボールで捕える場合にせよ、人間は自分好みのポケモンを自由に選択出来る。トレーナーでもそうでなくても、始まりはいつも、人間が持つモンスターボールによるものだ。
だが稀に、立場が逆転する場合がある。新人トレーナーが新人用ポケモンの一匹に気に入られ、済し崩し的に相棒にする。野生ポケモンが勝手について来たり、その人間が持っていた空のボールに自ら入ってしまう。そんな奇妙な馴れ初めも発生し得るのだと。
アデク自身、少々事情は異なるが、初めてのパートナーであったポケモンに選ばれた側だと言う。
ナズナは先刻自宅から戻ってすぐの幼虫を思い起こした。二階へ去る少年に手を伸ばしていた仕草。今思えば、あれはまるで彼について行きたそうな動作ではなかったか、と。
「メラルバちゃん。シュヒくんと一緒にいたいの?」
「ルバァ!」
問うと、メラルバは餌の容器からぱっと顔を上げて鳴いた。彼女がシュヒを気に入ったのはどうやら事実らしい。ナズナは驚きと感心の目をアデクに向ける。彼は続けた。
シュヒには他の多くの人々と同等に、ポケモンと心を通じ合わせ、仲良く生きる権利がある。そうやって、この世界から祝福を受けていることを己の頭で知れば、倖せに生きてゆける方法も見つけられるはずだと。
「人間がポケモンと離れたいと望んでも、ポケモンがそれを望まないこともある。ポケモンが何を求め願うのか。言葉が解らないからこそ、しっかりと見極めなければな」
長年の経験の賜物だろう。勝負だけでなく、ポケモンの気持ちすら造作無く捉えてしまうイッシュリーグチャンピオンを、少女は憧れの眼差しで見つめた。
「シュヒくんが助けを求めてきたら頼むよ、ナズナさん」
遥か高みの存在からの直々の頼みを、今更断われるナズナではなかった。
「はいっ」
きりっと顔つきを改める少女の肩をアデクは、よろしくな、と言いながら優しく叩いた。
「でも……、もう少しくらいカナワに居てもいいんじゃ? シュヒくんも、ちゃんとお別れを言いたいだろうし」
それからふと口を開き、そう伺いを立てた少女に対し。
アデクは屈託の無い青藍を向け、くだんの言葉で応じたのであった。
「きっと、他にも行く所があるんだわ。シュヒくんが会いたいって思うなら、絶対また会えるよ!」
自身が漏らした言葉に明るい台詞が投げ返され、シュヒは左隣を振り返った。発言したナズナの双眸は力強い確信に溢れていて、シュヒの心はなんとなく慰められる。小さく頷き、微笑する。
そこへ。
「なあなあお前ら聞いた?! なんか最近さ、カナワにチャンピオンが来てたらしいぜ!!」
唐突にかまびすしい大声を脇から浴びせられ、二人は仲良く肩をびくつかせた。
「な……えええええ?! チャンピオンが?!」
「ねーよ!! チャンピオンがこんなヘンピな所に来るワケねーじゃん!!」
辺りを見れば、いつの間にか二人と一匹の足は公園前にまで達しており、騒がしく会話している主たちは園内の一角にいた。雲梯の手前にある、半分地中に埋まった三つのタイヤ椅子を占領し腰かけた、シュヒより上、ナズナより下と思しき年齢の少年たちである。
「無くねーよ! マジだっつーの!!」
「こんな所に来てたらそれ既にチャンピオンじゃねーっつーの!」
「チャンピオンはリーグにいるからチャンピオンなんだよ!」
「いやマジでマジだから! 交番のおっちゃんがチャンピオンのトレーナーカード見たって言ってたんだよ!!」
「マジでマジかよ!」
喧々囂々と言い合う三人の傍らでこちらもギャンギャンと、少年たちの相棒であろう三匹のポケモンが吼え立てている。シュヒもナズナも、彼らの勢いに飲まれてぽかーんと口を開けた。ポケモンはトレーナーに似る、というやつである。
「ナズナさん……チャンピオンって?」
「え? あ、ああ、えっとね、」
騒ぎたくなるのも解るがあまりに騒々しくないか。思わずこめかみの辺りを押さえ付けていたナズナは、シュヒの質問にすぐに反応出来なかった。そんな誰でも知っているようなことを訊かれるとは、思わなかったからだ。
これくらいの基礎的知識も持たない少年にポケモンを任せるなんて、やっぱり無謀だったのでは……と一瞬過った不安を笑顔で隠し、ナズナは答えた。
「チャンピオンって言うのは、ポケモンリーグチャンピオンのこと。その土地で一番強いポケモントレーナーなのよ。全トレーナーが憧れる存在ね」
「ふうん、すごいんだね。本当にカナワに来てたのかな」
そう感想を述べる少年にナズナは空惚け、悪戯っぽく笑いかけた。
「さあ? どうかしらね?」
あの少年トレーナーたち、ひいてはイッシュ中のトレーナーが、一目見れば夢中になり大騒ぎすること必至の存在が、先日までずっと自分の傍にいてくれたことを知った時、彼は一体何を思うのだろう。ナズナはその時が来る日が、少し楽しみになった。
まだまだかしましそうな公園の脇を抜け、二人と幼虫は要所要所で小憩を挟みながら町を西へ、カナワ名物転車台を望む高台へと向かって行った。
途中、ふと路地に目をやったナズナがあっ、と嬉しそうな声を上げる。
「ごめんシュヒくん、ちょっとメラルバちゃんとここで待っていてくれる?」
彼女が手を振る先を見やると、三軒ほど奥の家屋の前に青年が一人立っており、彼もちょうどナズナに気づいて手を振り返したところだった。青年の隣には青い体に黒の翼を備えた大きな蝙蝠、ココロモリが羽撃いている。
シュヒが頷くのを見届け、彼に再度謝ってから、ナズナは青年らの方へ足取り軽やかに駆けて行った。
「……メラルバ。待ってよう、ね」
「ルバ?」
少女を見送り、シュヒは背後で下生えを嗅いでいる幼虫に声をかけた。呼ばれ、メラルバが縦長の水色を少年へ向ける。
近くの家の低い煉瓦の塀に座り、シュヒは去った少女を伺う。何を話しているのかはさておき、青年と共にココロモリを囲み、少女はとても楽しそうに笑っていた。
(おれもポケモンが怖くなくなったら、友達が出来るのかな……)
どこへ行っても人間の隣には必ず、ポケモンがいる。世界はきっとポケモンを中心に回っているんだと、シュヒは思う。人間の方が物理的支配力は優れているけれど、その人間の心、精神を、ポケモンが完全支配しているのだ。
シュヒはポケモンと関わらないがために、両親やナズナ以外の人間とも交流しなかった。同年の子供たちは皆、ポケモンを忌避する彼をつまらない奴と判断し疎外した。大人たちも似たり寄ったりだ。表面上は優しく接してくれるが、一線を越えて関わろうとはしない。自分たちが愛して止まない存在を嫌う少年に、どう接すればいいのか解らないから。
ポケモン、それは人間から切り離そうとしても決して切り離せない、影のような存在だ。人間の言動にいつでもどこまでも付きまとう。だからポケモンと触れ合えるようになれば、世界は一気に拡がろう。様々な人と巡り会い、孤独も癒やされよう。
カナワの狭く暗い車庫から転車台に乗せられ、広い広いイッシュの彼方へ駆け出す列車のように、いつか自分も、ここから旅立てるだろう。しかしそれは、いつのことなのか。
方法が解っていても踏み出せない一歩がある。とても小さいくせに、果てしなく遠い一歩がある。期待と不安が混ざり合い、静かな焦りが、シュヒの中で頭をもたげていく。
「ルバッ!!」
そんな思案の闇から少年を掬い上げるように、メラルバが鋭く鳴いた。シュヒが驚いて目をやると、間髪入れずに彼女が突然走り出した。
「えっ……メラルバ?」
六本の小さな足を駆使し、彼女に出来得る限りの全速力で、北に伸びる路地へ駆けて行く。このくらいの速度なら、シュヒほどの年齢であれば引き止めるのは容易だ。けれど、彼にはそれが出来ない。追い駆けるしか、今の少年に可能な術は無かった。
「どこ行くのメラルバ! ナズナさんがここで待っててって、」
「ラルバッ! ラルバッ!」
呼び声にちっとも気づかぬ風で突っ走るメラルバに追い縋る内、シュヒの抱いていた焦りは元から無かったように雲散していった。
「馬鹿は死んでも治らないとはよく言ったものだな」
突然後ろから声がした。脳みそが震えるような威圧感と重々しさのこもった声だった。
私は何事かと思い振り返ろうとした。が、
「おっと、振り返るなら覚悟するんだな」
首の動きを止めた。
「振り返ったらもうお前は死ねなくなる。私が死なせない。そしてこの地獄をもっともっと味わってもらうことになる」
「地獄ってなんだよ? というか、あんた一体なんなんだ?」
首の位置を再びまっすぐに向き直し、空に向かって質問した。
こいつは一体何者だ? さっきの「私」と同じで私のことに気付けるみたいだ。威圧的な声のせいか、なぜだか一瞬強盗かと思ったが、人質相手に「死なせない」はおかしなセリフだ。
「振り返れば教えてやろう。だが振り返るなら覚悟しな。後悔したくなければまた死ねばいい。そこのクローゼットに丈夫なベルトが何本かある。ドアノブを使えば多少苦労するだろうが十分死ねるはずだ」
正体不明の男(?)の返答からはまったく状況がつかめない。意味不明だ。
「さっきあんた『馬鹿は死んでも治らない』って言ったな?」鎌をかけてみることにした。
「あぁ、言った」
「ということは……私が今“どうして”ここにいるのか知っているわけだな?」
「知っている。……ふふっ、もちろん、知っているとも」堪えきれないという風に男は笑った。
「もちろん? もちろんってどういうことだ?」
「ふふっ、これ以上答えることはない。さ、どうする? 死ぬか?」男は相変わらず面白げであったが、言葉には有無を言わせない重さが込められていた。
謎だらけだが、選択に迷いはなかった。私は何も言わずクローゼットへまっすぐ向かった。扉を開くと大量の衣装が目に入った。そして内側のレールには確かに、様々な種類のベルトが並んでぶら下げられていた。私は中でも金具の少なくて、出来るだけ新しそうなものを一つ選び手に取った。
黒い革のベルトを握りしめて、私は驚くほど冷静だった。さっき死んだ時にはいろんな思いが頭の中を巡ってぐるぐるしていたというのに、今はまるで空っぽだ。なぜだろう? きっと安心したからだろう。さっきの質問で、あの時自分が幸福の絶頂にいたことを確認できて、それはつまり私が、私の人生において大きなものを一つ残せたということで、安心したのだ。それが分かればもう、いい。
さっきから男の声がしない。気配も感じない(もともと大して感じていなかったが)。まぁ、その方が都合がいい。自分が死ぬところを誰かに見られているというのは、あまり気分のいいものではない。
ベルトで輪っかを作り、私は少し悩んだ。つりさげられたロープなら、首をひっかけて重力に任せるだけでいいが、ドアノブは位置が低すぎてどうしても床に体がついてしまう。これで本当に死ねるだろうか。とりあえずL字のドアノブにベルトをひっかけ首を通してみた。
――思ったより締まるな……。
上体の重みだけでもかなり首の締め付けれる感じがあった。これならもう少し体重をかければ十分そうだ。
私は、最初に首を吊った時と同じように、またあたりを見渡してみた。どうやらさっきの男はすでにいないらしい。どうやって消えたのか、なんていうことは今の私にとってどうでもよかった。
目の前におかれた化粧台の鏡にちらっと自分の顔が映っているのが見える。無様だった。無抵抗のまま死んでいく姿というのがこんなに醜いものとは思わなかった。
最期に自分が残したものをもう一度見たくなり、優勝トロフィーを目だけで探した。
――見つからない。
もう一度見渡してみた。しかし、ない。この部屋においてあるものとずっと思っていた。
探している間も徐々に意識が薄れていくのを感じていた。知っている。これが死に向かっているということだ。
私はひたすら目で探し続けた。それはもう眼球が飛び出してしまうのではないかと思うほどに、ぐるぐるぐるぐると……。
――ない!
まるで目が覚めたような気分だった。焦る。なぜない!?
体が思うように動かせない。意識がどんどん遠のいていく――
――死にたくない!
狂気。指一本動かせないというのに、私は心の中でもがいていた。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない!
目を開けていられなくなった。視界が真っ暗になる。
――あと少し……あと少しだけ……生きていたい……。
私は再び死んだ。
そこから先はまるで二度目の映画だった。
見覚えある試合が目まぐるしく進んでいく。最後に私のサンダースが紙一重でワタルのカイリューの『ドラゴンダイブ』をジャンプでかわし、空中の不安定な体勢から放った『かみなり』がうまい事ヒットし試合が決するところまで全く同じだった。
試合後、ワタルと私(?)はバトルフィールドの中心で互いの健闘を称え固い握手を交わし、決勝戦は終了した。
もうここまで来ては一片の疑いの余地もない。
――ここは、過去の世界なんだ。
なんてことだ。死んだはずの私は、天国でも地獄でもなく、どこか宇宙の彼方でもない、自らの過去に来てしまった。
なんだか無性にやるせない。オマケの人生を避けて死んだのに、本編までさかのぼって来たのじゃ、まったく意味がない。
閉会式が終わり、次々と観客が会場を出ていくのを眺めながら、私は一人座って考えていた。
この世界から抜け出すにはどうしたらいいのか。試しにもう一度死んでみるか? 次こそ今度こそ天国か地獄か、とにかく死者が向かうべき“それっぽい”所へ行けるかもしれない。
いや、やめておこう。というか、嫌だ。だいたい死ぬ生きるなんて、ほいほい決めるような問題じゃない。死ぬのだって大変なんだ。怖いし、痛いし。さっきのもずいぶん悩んで決めたことだった。やっと覚悟を決めて死んだのに、過去に戻ってきてしまうなんてホント迷惑な話だ。
私は自分で考えてイライラして、この状況に八つ当たりしていた。
とにかく死ぬのはやめておこう。もう少しこのまま生きてみて、それからまた悩もう。
ギャラリーはすでに閑散としはじめていた。試合会場は、兵どもがなんとやらといった様相で、無茶苦茶に荒れたフィールドだけが先ほどのバトルのすさまじさを物語っている。
ぼーっとフィールドを見ていてふと思った。
――今頃、あの「私」はどうしているだろう。
ふと思った瞬間から、気になってしょうがなくなった。
確か、試合が終わった後私はポケモン達をポケモンセンターに預けて、そこで大量の記者に取材責めにあって、疲れ切って部屋に戻ったはず。オーロラビジョンの横にあるデジタル時計は午後4時前を指している。
――行ける!
今らならまだ『私』は取材責めに遭っている最中のはずだ。控室に戻ってくる前に部屋の前で張り込んでおけば……。
思い立ったらいてもいられず、すぐさま控室へと向かった。場所は覚えている。
控室の近くまで来た。が、それ以上近づけなかった。
控室までの道は一本の細い通路で、会場のコンコースとつながっている。そこまでは何も問題は無いのだが、コンコースと控室までの道の間に警備員が一人立っているのだ。選手だったころは特に意識したこと無かったが、当然と言えば当然。あの道は関係者以外立ち入り禁止なのだ。そして今、私は関係者ではない。しかも、選手そっくりの顔した私が道を通ろうとして何か騒がれても厄介だ。
絶対引き止められると思いつつ、とりあえず向かうことにした。何か言われた時には選手の親戚とでも言っておけばいい。実際、似たようなものだ。
「あ、あのー……」警備員に近づきつつぼそぼそと声をかけた。
「……」気づいていないようだ。声が小さすぎた。
「あのー」もう一度声をかけた。今度はもっと大きな声で、すぐ横から。
「……」反応してくれない。
「すみません!」今度は耳元でもっと大きな声で呼んだ。
「あっ! どうしました?」まるで今さっき気づいたかのように、びっくりした様子で警備員がようやく反応を返した。
「その……私チャンピオンの従兄弟でぜひ、今回の優勝のお祝いをしたいのですが」私は今の反応を訝しみつつ頼んでみた。
「だめだめ。ここから先は選手以外立ち入り禁止ですから。親戚でも家族でも、選手が出てくるまでは待っててください」
「あ、はい。分かりました……」やっぱり駄目だった。
再びコンコースの端に戻った。あっさり引き下がりすぎたかもとは思ったが、まだあきらめたわけじゃない。私は今さっきの現象について考えてみた。
さっきのあの警備員の反応は絶対おかしい。私は存在感ばりばり出してるようなタイプじゃないが、それにしたって真横から話しかけて無視されるほど影の薄い人間じゃない。あの気づかなさは異常だった。無視されたわけじゃなさそうだし、本当に大声で呼びかけるまでそこにいることにも気づかれてないようだった。
私はもう一度警備員に近づいてみた。こんどは一切話しかけず、こっそりと。と言っても視界に入りずらいよう、入口の正面からではなくコンコースの壁に沿って近づいただけで、これでも普通なら十分気づかれるはずだ。
しかし警備員は気づかなかった。最後彼と壁の間ををすり抜けて控室までの通路に入った時も、彼は相変わらず退屈そうな顔をしてぼんやり遠くを眺めていた。
通路半ばまで行き控室の扉の横で、「私」が帰ってくるのを待ちつつ、さっきのことを振り返ってみた。
やっぱりあの無視のされようは普通じゃない。気づいていないというより、見えていないって感じだ。
だとしたら、さっきギャラリーにいた時のことはどういうことだろう? 確か会場のギャラリーにいた時、私は椅子に自分一人で座って、そこに誰か座るわけでもなく、閉会式の後だって周りの人間は座ったままの私を皆避けて左右に分かれたり、前を通っていった。
――今の私って何なのだろうか?
過去の世界にとって、私は本来いないはずの人間だ。それはいったいどういうことなのだろう。ここにいるのは間違いない。でも、何だか妙に影の薄すぎるような、他人に気付いてもらうのにこんなに苦労するのはなぜだろう。
「幽霊」
もちろん本当の幽霊じゃないが(本当の幽霊がどんなものかは知らないが)、それが一番近いのかもしれない。直感的に存在を感じられても、意識されることがない。集合写真の中の一人のようなものだ。特別に注意をひかないないかぎり、私は景色全体を構成する一部分でしかいられない。
誰にも意識されないというのはなんとも寂しい感じがするが、これは便利だ。これで誰にも気づかれずどこへでも行くことができる。
それなら何も外で待っている必要はない。私は控室の中に入った。後で、あの「私」が来た時、勝手に部屋にいる不審者と騒がれたらと思ったら、とても中まで入る気になれなかったが、気づかれないならそんな心配はない。
控室は私だけが使う専用の部屋で、入口から入って右へ横に長い形をしている。入口の正面には化粧台が設置してあり鏡の中には少し疲れた顔をした私が映っていた。ちょっと陰気くさいのは否定できないが、幽霊にしちゃ元気な顔をしている。
「あとでまたお話聞かせてくださいね。今日はホント、優勝おめでとうございました」
「ありがとう。それじゃ、また今度」
ドアの外から声がした。一人はこの大会で知り合った選手の女の子……のはず。今じゃ名前も覚えていない。とにかく、私が優勝した後から急に馴れ馴れしくなってきた者のうちの一人だ。
もう一人は間違いない、「私」だ。とうとう帰ってきた。私は生唾を一度ゴクリと飲み、ドアが開くのを待った。
――バタン。
ドアが閉まるのとほぼ同時に女の子を見送っていた「私」が振り向き、こちらに顔を向けた。
私はまっすぐ「私」を見た。
ついさっきまではそれなりの笑顔を浮かべていたのだろうが、今の「私」は無表情でいかにも疲れ切ったという様子だ。
「私」はすぐにでも部屋のソファに座りに行くかと思ったが、意外にもそのままじっとこちらを向いて突っ立っていた。私のことは見えていないはずなのに、じーっとこちらに顔を向け続けている。
「あれ? 見えてる?」
「私」の大きく見開かれた両目は、まっすぐ私に向けられていると気づいた。
「あ……」
「私」は口を半開きにしてそのまま二、三秒ほど突っ立っていた。
「あ、その……」
私も似たようなものだった。目の前の「私」にいったいなんと切り出せばいいのか分からず、しかし何か喋らないといけない気がして、酸素のなくなった水槽でもがく魚のように口をパクパクさせていた。
「あなたは……?」初めにまともに口を聞けるようになったのは、過去の「私」のほうだった。未来の私が、過去の「私」に後れを取ってしまった。
「私」がどういうつもりで「あなたは?」と聞いたのか知らないが、そのままの意味でない事はなんとなくわかった。
「あー……」私はまだまともに話せないでいる。
「その、これにはいろいろ事情があって……」
「はぁ……、と、とりあえず座りますか」部屋の真ん中に置かれたソファを指して言った。
「ああ」私はなんともあいまいな返事をして、ソファを見やった。座ろうかと言われたものの、なかなか動きだせず、「私」が動き出すのに合わせてあとを追った。
ソファに座るとまたしばらくお互い何もしゃべらない時間が続いた。お互いなんと切り出したらいいのか分からないのだ。
自殺したはずが気が付いたら過去に来ていました、とは言いづらい。突拍子もない話だし、百歩譲って信じてもらえても、自分が自殺したと言うのはなんだかマズイ気がする。なんといっても、目の前の男は“私自身”なのだ。
一方、「私」の方もこちらをじっと見つめつつ固まっていた。先ほどから瞬き一つしない。なんとなく、目の前の「私」が、私を誰だか分かっている、そんな気がした。これといった根拠はないのだが、同一人物同士だからこそ働く第六感というのか、そんな感じがする。自分と私が同一人物であると分かっていて、だからこそ混乱しているのだ。
「えー……」今度は私から先に口を開いた。
「はい?」
「とりあえず、初めまして……でいいのかな」ぎこちない笑みを浮かべつつ、挨拶した。自分に向かって“初めまして”なんて、心底笑えないジョークだ。
「あ、初めまして……?」目の前の「私」の挨拶にも疑問符が付く。
「あの、変なこと言うようだけど、君と僕って、なんていうかなぁ……あなたと私は似てるというか……鏡の前にいるみたいで、初めて会ったような気がしないです」
「そ、そうなんだ」変な汗が首筋を流れる。
「ところで、その、あなたはどうしてここに?」“我”ながら落ち着いている。私とは大違いだ。
「あー……」また私は言葉に詰まってしまった。
もともとなんで過去の私に会ってみようと思ったのだっけか。たしか、ここが過去の世界だと気づいて、ただ無性に会ってみたくなったのだ。しかし、実際に会って何を話そうかなんて全く考えていなかった。
――沈黙が続く。
何を話すか。考えてみてもサッパリ思い浮かばなかった。せっかくの機会なのだ。未来を知っている私から、過去の私がこの先生きていくのにウマイ情報をたっぷりあげるのもいいかもしれない。
――生きていく?
生きるのをやめてここにいる私が、なにを言っているのだろう。私は自殺した時にすべて捨ててきた。親も名誉も過去の私も――。結局全部捨てるのに、何かを与えるなんてまったく無駄なことだ。
「ちょっと、聞きたいことがありまして……」質問に切り替えた。
「なんでしょうか?」
――なんだろう?
ここまで来て何も話さず、かといって言うべき言葉も思い浮かばず、苦し紛れに質問してみたがいよいよ追いつめられてしまった。
――コンコン。
ドアをノックする音が背後から突如響いた。
「あっ! 申し訳ない、ちょっと待っててください」
「は、はい」
「私」は慌て気味に立ち上がるとドアの方へ向かっていった。振り返ってみるとドアの向こうにいるのは、姿は見えないが若い男のようだ。話の内容からして大会の役員だろうか。
「お待たせしました。大変申し訳ないのですがこのあとすぐにテレビ取材が始まるそうで、実は今すぐ向かわないといけないそうなのです……」「私」が戻ってきて言った。
「そうですか……」自然と口調が沈んでしまう。私は今、二度とない絶好のチャンスを失いつつある、そんな気がした。
「向こうの取材がどれくらいかかるのか分からないのですが、それまでお待ちいただけますか?」
「そんな! これ以上お時間いただくわけには……」思ってもないことが口をついて出る。ホントはもっと話がしてみたい。私には聞きたいことが――。
――あれ? 聞きたいことってなんだ?
苦し紛れに言っただけのことが、いつの間にか本当の事になっていた。あの時の、そして今目の前に立っている私にどうしても聞いておきたいことがある。しかし、それが何なのか分からない。
――コンコン。ノックの音が再び響いた。
「はい、もうすぐ行きますんで、もうちょっと待ってください!」
「私」が扉の向こうの男に返事する。残された時間は少ない。
「あ、あの……」
「なんでしょう?」
口をパクパクさせても伝えるべき言葉が出てこない。舌がカラカラに乾く。まるですべての唾液が蒸発してしまったみたいだ。
「あ、あなたは今……幸せですか?」
沈黙。過ぎたのは一秒程度の時間だったかもしれないが、私には一年にも近い時間に感じられた。
「ふふっ、もちろんですよ」面喰って硬直していた「私」の顔が、満面の笑みに変わった。
「……よかった」かすれた声がこぼれた。
「私」が去った後もしばらくソファに座ってぼーっと宙を眺めていた。
――よかったってなんだよ……。
自然と口から出た言葉であったが、欠片も私は「よかった」とは思っていなかった。
ずーっと頑張って、何度も諦めかけて、でも諦めないでまた頑張って、それでやっと叶えた夢。あの時の私は夢が叶って幸せだって、本当にそう思っていたんだ。
でも叶ってしまった夢なんて、クズだ。タチの悪い燃えないゴミだ。役に立たないくせに、捨てることもできない。心の中でいつまでも図々しく幅を取り、感傷という名の腐臭を放ち続ける。そんな粗大ごみを抱えた俺は、本当は世界一の不幸者だったんだ……。
「あーぁ、そろそろまた死んでみようかなぁー!」
空しさを振り払いたくて、わざと大声で言ってみた。しかし、この声に気付く者は誰もいない。一人の部屋に響く声がより大きな虚しさになって返ってきた。
これが死後の世界であるなら、私は地獄に落ちたのだろうか? それともここは天国なのだろうか? いや、天国でも地獄でもないSF小説に出てくるような宇宙の彼方へ飛ばされたのかもしれない。目の前の光景を見てもさっぱり見当がつかない。
そこは見覚えのある場所だった。
「さぁ、間もなく始まりますカントーポケモンリーグ決勝戦! いよいよやってきた運命の時に、会場のボルテージは最高潮に達しておりますっ!」
あんたのボルテージが一番高いよ、とツッコミたくなるテンションで司会の男が叫ぶ。
ここはセキエイ高原。かつて選手としてフィールドで戦っていた私は、その周りに設置された観客席に座っていた。あたりは大量の人、人、人……、それらが発する黄色い声援に埋め尽くされとてつもなくうるさい。
と、ふと大事なことに気付いて自らの格好を確認した。しかし確認してすぐに安心した。私は下着一丁の姿ではなく、普段外出する時のみ着る、よれた黒のTシャツに左の膝のとこが破けたジーパンという姿だった。見苦しいことには変わりないがまだ社会で許される範囲だ。
私は全く今の状況がつかめずスタンディングオベーションの中一人座って考えていた。
確かに私は死んだはずだ、下着だけの姿で、首を吊って。そう思って首筋をさすってみた。絞められた跡はない。
それにいったいどうして今私はセキエイ高原にいるのだろう? ついさっきまで自宅の、自分の椅子の上で自殺していた私がどうして。
――どーーん!
会場が爆発した。
少なくとも私にはそう感じた。試合会場に全く目を向けず一人考えていた私は、会場が一斉に歓喜の声を上げたのに驚き心臓が止まる思いだった。……すでに止まっているはずだが。
「来ました! ポケモンリーグカントーチャンピオン、ワタル! 黒のマントをたなびかせ今、堂々の登場ですっ!」
会場の反対側、大量のスモークとレーザーを使った派手な演出の中からワタルが出てきた。ここから見るとまるで黒い米粒だが、自分の周りにいる者たちは皆大声で名前を叫んだり、ちぎれんばかりに手を振っている。
私はワタルの真上に設置されているオーロラビジョンを目を細めて見ていた。
――おかしい。
ワタルはチャンピオンじゃないはずだ。なぜなら私が彼を倒したから。すでにチャンピオンの座を退き、トレーナー業からも引退したはず。なのにこれはいったいどういうことだろうか。
私はここで突拍子もないこの事態について一つの予想をしていた。予感、という方が正しいかもしれない。ナンセンスにもほどがある予感だったが、そもそも死んだはずの私が今ここで生きている(?)事自体ありえないのだから、あながち的外れでないのかもしれない。
「続いて挑戦者の登場ですっ!」司会が絶叫する。私はいったい誰が挑戦するのか、じっとオーロラビジョンを見つめていた。
挑戦者側にもスモークとレーザーの無駄に派手な演出がなされていた。おかげでなかなか姿が見えない。
「ヤマブキシティ出身、30歳遅咲きの新星――」
司会の絶叫も、観客の声援にほとんどかき消されてしまう。ワタルの時よりも心なしか声が大きいような気がする。
じっと画面を見つめていると、やっと煙の中から人影が浮かびあがってきた。
「幾多の困難を乗り越え、今、カントー最強を決める戦いに臨みます――」
だんだんと顔がはっきりしてくる。まだぼやけた感じだったが、私にはそれで十分だった。見慣れた顔。これで事態がはっきりした。
「チャレンジャーの名は――」
とうとう全身をスモークから出し、緊張でこわばった顔をした――
私が出てきた。
木造一軒家の一室、男が一人黙々、ある作業をしていた。
男の有様は酷いものだった。下着のみの格好で、黄ばんだタンクトップとトランクスを着て、その間からたるんだ腹が、溶けかかったチーズのように垂れ下がっていた。作業中はボサボサの髪から大量のフケが、天井からぶら下げられたロープを確認する度床へと降り落ちていった。
「よいしょっと」
ロープの真下に置かれた派手な椅子の上に立った。これは男がポケモンリーグで優勝した時にテーブルとセットで親からもらったものだ。優勝記念がテーブルセットなのにも疑問だが、なによりこのデザインが気に入らなかった。有名デザイナーの作品だそうが、自分にはこの真っ赤な色も歪んだ形も全部派手すぎて気に入らなかった。
自殺する準備は整った。後は死ぬだけ。
死に別れた大切な人がいるわけでも無く、返しきれない借金を抱えているわけでもないが、男は自死を決意した。つまらなくなったのだ。
男には長年追い続けてきた夢があった。そしてその夢はつい最近やっと叶った。叶った時は、それはもう有頂天になって喜んで、子供みたいに連日はしゃいでいた。だが、一週間、二週間と経つにつれ余韻は冷め、一つの疑問に囚われるようになった。
――この先は?
お笑いでいう所の、芸人が話終わったあとに意地悪な司会から「ほぉ、それで?」と言われた時と同じだ。先が続かない。夢というのは人生のネタだ。完結すればその先は無い。オチの後に「それで?」なんて言われても、何も出てはこないのだ。
だから死ぬ。そんなバカげたことで、と思われるかもしれないが、男は死ぬことに決めた。オマケの人生をだらだら生きるのは非常につまらない。
首にロープを巻くと繊維がチクチクと刺さって痛かった。何でもいいやと思って家にあった古いロープを使ったのが間違いだった。まぁ、どうせこれから死ぬのだから大した問題じゃないが。
首にロープをかけた状態で、出来る限り部屋をぐるっと見渡してみた。汚い部屋だ。掃除なんて一度もしていない。リーグ優勝した時のトロフィーが右の棚の中に見える。夕日に当たってピカピカ輝いているはずが、棚の窓が汚くてひどく曇って見えた。
未練はない。
――目をつむった。
未来もない。
――重い椅子をどけるのに片足を降ろした。
最後の瞬間ギュッと強く目をつむり、降ろした足に力を込めた。
――さようなら。
例えばの話をしよう。
一つの夢を追い続けて、やっとの事で叶えられた者がいたとする。それは幸せなことだろうか? ホントに手放しで喜べることなのだろうか? ちょっと穿った見方をしてみれば、夢を叶えることは、追っていられる夢を失うということだ。それは悲しいことではないのか?
大して気にすることでないのかもしれない。何も気にせずその先を生き続けていくのが普通だろう。
でも、もしそれが出来ない人がいたら? どのようにして「その先」を見出していくだろうか?
これはそんな人がいたらという、例えばの話。
初の連載です
人が死にます。残酷描写はないと思いますが、苦手な方は両手で顔を隠して指の隙間から覗くといいかもしれません
2.町の御神木と、銭湯の娘
まず間違っていたことは、もろの木さまを見つめていた少女は、座敷童でもなければ「八百万の獣」でもない、ということだ。
「社(やしろ)です。社、美景(みかげ)」
彼女は人間だった。しかも、中学二年生。タメだ。
駅前広場のベンチ。私はフルートを脇に置いて、彼女と一緒に座った。道行く人々ともろの木さまがよく見える。
しゃべろうとしてもなかなか声が出て来ない私に、彼女は淡々と自己紹介をしてくれた。もろの木さまを見ていたときの彼女の瞳は、どこか温かくて、まるで子供を愛でる母親のようだったけど、今はなんだか表情が冷え切っている。しゃべっていても、顔のパーツがほとんど動かない。小さな鼻と、小さな耳をしている。真っ黒な瞳は深く澄んでいて、とても綺麗だけど、たぶん癖なのだろう、常にじと目だ。睨まれているとまで感じないけど、心証としては、軽蔑が三分の一程度含有されている。なんとなく、こっちが普段の社美景なんだろうと思った。
彼女のコートの下は、制服だった。天原町からは電車で八駅先の御堂鹿(みどうろく)まで、片道四十分。彼女の通う麗徳学園は、御堂鹿駅からさらに二十分バスに乗って、やっと辿り着くところにある。中高一貫の私立中学だ。
それを聞いて、私は目を丸くした。偏差値を考えると、麗徳は冗談抜きでスーパーエリート校だった。雲の上にあるような大学に毎年卒業生を送り出し、そのまま彼らは国家公務員とか医者とか弁護士とか、とにかくハイスペックな人間でないとなれない職業に就いていく。私からすると、異次元で生活しているような人々だ。
麗徳なんかに通う子たちは、小さい頃から英才教育を受けているような、都会の子供をイメージしていた。小学生のうちから毎日塾に通って、色んな教材に囲まれて、二カ月に一回模擬試験がある。試験の結果で親の機嫌とその日の晩ごはんのメニューが変わる――ちょっと穿った見方かな。
とにかく、まさか天原町から麗徳に通っている子がいるなんて、思ってもみなかった。
彼女の綺麗に切り揃えられた黒髪は、着物を羽織ると確かに座敷童の風貌そのものだ。美術部の佐渡原くんが描いた絵画みたいな風景も、彼女がモデルならば、実際に再現できそうだと思った。
この夏から秋にかけて天原中の三面記事となっていた「座敷童、現る」の発信源は、間違いなく彼女なのだろう。社美景にそのことを伝えようかと一瞬思ったけど、結局口にしなかった。そんなことをしたら、今度こそこの黒曜石のような鋭い目で睨まれてしまうかもしれない。いや、きっと睨まれる。
そして、私は実際それどころではなかったのだ。
社美景の頭の上。ときどき宙返りをしながらふわふわと漂う“こいつ”は何だ?
「美景、ちゃんと説明してやってよ。この子、まるで突然家に見知らぬ請求書が届いたみたいな顔してるよ」
その生き物が言った。社美景は苛立ちを隠そうともせず目を瞑り、「だから今ひとつひとつ順序立ててるんじゃないですか」と、早口で呟いた。
「あ、あの」やっと思いで、私は声を絞り出す。
「何ですか?」
「あ、えっと。もしかしてこの」私は失礼かなと思いながら、この生き物をなんと呼称していいか分からず、指をさした。「八百万の、獣。ですか?」
彼らは顔を見合わせた。緑色の生き物は「ふーん。一応、義務教育程度の知識はあるんだ」と言った。ほんのちょっとみたいだけど、彼は感心してくれたようだった。
「その通りです」相変わらずの無表情で、社美景は言う。「彼はコノ。もろの木さまのお付きの獣(しし)です。あなたが呼んだように、『八百万の獣』とも言います。ええと、彼の正式な神名は、そう、確か――」
彼女に「コノ」と紹介されたその生き物は、頬を膨らませた。
「コノハナノトキツミノミコト! 何回言ったら覚えんのさ!」
「あんまり興味の無いことは、すぐに頭から抜けるので」
コノは手足をばたばたさせた。おもちゃを買って貰えなくて駄々をこねる五歳児みたいだ。
「あの、コノさん。たぶん私、この前あなたを見ました。えっと、正確には見たというよりは、感じたというか――あの、とっても強い光だったので」
ユズちゃんと張り込みをした、あの夜の出来事だ。あの光の玉から感じた熱は、ほんのり緑色だった。熱に色があるのは変だけど、でも、確かに緑だった。
「ああ、やっぱりあのときの女の子だったんだ!」コノは嬉しそうに笑って、上空に円を描いた。「そりゃそうだよね。ひとつの町にそんなに木行の気質を持ってる人間がいるわけないし」
社美景が、その「木行」についても説明してくれた。どうやら、コノのような「八百万の獣」の声を聞くことのできる、一種の特殊な能力らしい。
「五行思想では、この世界のすべてのものが、木、火、土、金、水の五つの元素からなる、という考え方をします。“この世のすべて”ですので、人間も、神様も、この五つから出来ていると考えます。あなたのように『木行』に一段階開いていれば、同じ『木気』のコノみたいな獣(しし)の言葉を聞くことができます」
そんなことを、麗徳学園では習うのだろうか。いや、そんなはずはないか。
「じゃあ、社さんもその『木行』っていうのが開いてるの?」
「いえ。私は土行(どぎょう)です。幸いにも二段階開くことができたので、他の五気に属する獣(しし)とも対話ができます。どれか一つの五行を二段階開くと、その人は『神子』と呼ばれる存在になり、あらゆる獣(しし)の声を聞くことができるのです。ですから、さっきコノがあなたのことを『神子』と言ったのは、厳密には間違いです」
「なんだよ、実際その辺の定義なんて曖昧だろ?」コノが口を尖らせた。
「まあつまりは」彼女はコノをきれいに無視する。「あなたも私も、今、神的なものを『口寄せ』している、ということになります」
「くち、よせ?」
聞いたことのない言葉が次々出てくる中で、「口寄せ」は、一応聞いたことがあった。死んだ人の言葉を聞くことのできる、いわゆる「降霊術」だと思ったけど、口寄せって自分自身に霊が乗り移るんじゃなかったっけ? 前にテレビで霊媒師の特集をやっていたのを見たが、イタコのおばあちゃんが「キェー」とか叫んでて、ずいぶんと胡散臭かったような記憶がある。そのことを言ったら、社美景は鼻で笑った。
「マスメディアで取り上げられている霊媒師の類は、概ねヤラセです。本当の霊媒師は、『繋ぐ者』なのですから、功利主義者の経済人に加担することはしません」
「繋ぐ者?」
「ええ。細かいことは、話すと長くなるので。それに、身体に憑依させるのが通常なのでは、ということですが、その役目はコノが担ってくれています。コノの言葉は、そのままもろの木さまの御言葉となります。それが神と獣(しし)の本来の関係ですので」
霊媒師とは、つまり自分自身が「八百万の獣」になる術を使う者なのだという。今はコノがいるから、実際に「もろの木さま」を自分に憑依させる必要がない、ということらしい。なんだかややこしい。
「大体分かった? お譲さん?」コノがひらりと宙返りして、私の目の前まで降りてきた。
「うん。一応」
「よしよし。物分かりの良い子は好きだよ。名前はなんて言うのさ?」
「茉里(まつり)です。津々楽(つづら)茉里」
「茉里だね。良い名前じゃん。美景より素直そうだし、美景より優しそうだし。期待の新人ってとこだね」
素早く伸びてきた社美景の手を、コノはひょいっとかわして、一気に五メートルほど上空まで羽ばたいた。
「――とにかく、本題です」彼女は真っ黒な瞳を私に向けた。「私たちは今、あなたのその木行の気を必要としています」
そういえばさっきも彼女、言っていた。私を指して「この人は、きっと力になります」と。
「えっ、でも……」
私は苦笑いで返した。いくら私が人にはない特殊な力を持っていたとしても、こうやってコノみたいなもののけさんたちとお話できるとしても、何かその道で役に立てるとは、到底思えない。だって私は、ちょっと横笛が吹けるだけの、ごくごく平凡な中学二年生だ。
「その、社さん。申し訳ないけど、私にはなんにも……」
言いかけたそのとき、妙なことが起こった。突然頭の中に、声が響いたのだ。
(すまない)
ぎくりとして、私は目を見開き、辺りを見渡した。近くには、こちらを見向きもせず通り過ぎていく人々と、私を見て不思議そうにしている社美景意外に、人はいない。
そして、コノの姿が消えていた。
(すまない。巻き込むつもりはなかった。でも、君しかいなかった)
声は、回線不良のトランシーバーみたいにところどころ途切れて、聞こえづらかった。
そして唐突に、大きなエネルギーを感じた。
それは光だった。ユズちゃんと張り込みをしたあの夜に感じたものと同じだ。緑色の、まるで生まれたての命が呼吸しているみたいな光。それでいて、すぐそこまで太陽が降りてきたかのような、眩い光。
いつの間にか、何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。社美景も駅前広場の道行く人々も、そしてもろの木さまも、何も見えない。声も出ない。
だけどなぜか、全然不安を感じたりはしなかった。むしろ心地が良い。このまま気持ちよく眠ってしまえそうだった。柔らかな熱を感じる。ほのかに、草の香りがする。青々と茂った芝生に、仰向けに寝そべっている気分だ。
(ここ天原は、神域なのだ。この町にいる限り、私は君を守ることができる)
また声。今度はさっきより、よく聴きとれた。男の人の声だ。チェロみたいな低い声だけど、老人のような声にも、二十歳くらいの若い男の声にも聞こえる。
次第に光が弱くなっていった。ゆっくりゆっくり、目の前の景色が晴れていく。感じていた熱も冷め、草の香りもいつの間にかしなくなった。
夕日を浴びた、駅前広場がまた現れる。そしてすぐに、違和感に気付く。
セピア色の駅前広場が、止まっている。
(目を凝らして、広場にいる人たちを見てごらん)声が私に促す。
一時停止して微動だにしない人々は、なんと白黒だった。
まるでそこだけまだ着色していない、未完成の風景画みたいだ。ただ白黒というだけでなく、彼らに当たっているはずの太陽の光も、彼らから長く伸びているはずの影もない。
そこだけ、人型に切り抜かれてしまっている。
すぐそばを通り過ぎようとしている老夫婦は、ほとんど白に近い灰色をしていた。母親に手を引かれている小さな男の子は真っ白で、その母親は白と黒の中間くらいのグレー。駅の改札を見ると、サイズの合わない上着を羽織った、無精髭の男がいた。ほとんど黒に近いグレーだ。
(切り離されてゆくごとに、人は黒くなってゆく。私の力ではもう人々を守ってゆくことができない。大きな力が、もうすでにこの天原に入り込み、人と人を切り離し、また彼ら自身にそうさせるよう、働きかけている。私がふがいないばっかりに、この有様だ)
切り離された人。不思議なことに、私はその声の言うことを、その意味を、すんなりと理解した。切り離す。その言い方が、すとんと腑に落ちた感じがした。
この光景は、気分が悪い。あまり見ていたくなかった。相手の陣地を攻め倒すことでしか存在意義のないチェス盤の上のコマたちのように、大小様々、モノクロのグラデーションを纏った人々が、駅前広場に転がっている。
ふと、私は自分の掌を見た。白い。けど、純白ではなかった。その色にはわずかに濁りを感じた。私も幾分か切り離されたのだろうか。それとも、自分で切り離したのか。いつ? 一体何本? 分からない。覚えがない。
それが、怖かった。一度切れたら、元通りにはならないのだろうか。
家族がいて、恋人がいて、友達がたくさんいても、独りぼっちの人は山ほどいるんだよ――お父さんがそう言っていた。私は、自分が独りぼっちだなんて感じたことはない。けど、決して一度も「切れた」ことがないわけではなかったのだ。頭がくらくらして、目の前の白黒の人たちがぐるぐると回った。そして私は、隣りに一緒に座っている物体に気が付く。
私は思わず口を抑えた。
(私は、彼女を助けたいと思っている。彼女は、より多くの声を聞こうとし、より多くの人を、繋げようとしている。それなのに、今の私は、彼女に何ひとつ出来ないでいるのだ。なんと、もどかしいことか)
社美景は真っ黒だった。まるで原子爆弾の放射能で焼かれたように、光を失った黒だった。
動悸がする。息が苦しい。汗がどっと噴き出すのを感じた。少しだけど、吐き気もした。社美景から、少しでも離れたいと思った。でも、体は動かない。
その人型の物体は、絶望の象徴でしかなかった。黒々と染めらてしまった彼女の顔を見る。常に軽蔑を含んだ目つきだと思っていたその瞳は、今は何も映していない。
さっき彼女と話しているときは、何にも思わなかったのに。どうしてだろう。彼女は、今にも泣きそうなくらい悲しい表情をしていた。
(人々を切り離す、大きな力。その力を持っているのも、また人なのだ。しかし、もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている)
停止しているその世界で、もろの木さまがざわりと葉を揺らした。
◆ ◆ ◆
「ちょっと津々楽さん。どうかしたんですか?」
いつの間にか目の前の景色に、色が戻り、雑踏が戻ってきた。私は駅前広場のベンチに座っていることを思い出した。社美景は怪訝な目で、私の顔を覗き込んでいた。黒くはない。近くで見ると、白い頬が寒さで少し赤らんでいた。
「私、今何してた?」
「魂が抜けてました。ほんの十秒くらいですけど」
さっきの声は、もうしない。コノが社美景の上で、穏やかな頬笑みを浮かべていた。
ほんの十秒くらい――そんなことはなかったはずだ。あの白黒の人々がいる、静止した世界を、彼女は経験していない。あの声を聴いたのは私だけで、白黒の人々も、私しか見ていない。
座敷童がタメの女の子で、一緒にもののけさんがいて、しかも彼は日本語をしゃべって、彼女は「神子」だという。私にとってそれだけでも摩訶不思議な出来事の連続なのに、さっきの声や、あの異常な世界は、その彼女すら知らない世界なのだろうか。
そうだとしたら、私、ちょっと巻き込まれ過ぎじゃないか。
方程式の解き方をやっと完璧にしたと思ったら、実は二次方程式もあるんですと言われた。それは、私にはまだ早い。それは二年生で習うんです。まだ私は一年生。方程式までをきちんと解ければ、誰にも文句は言われないはずです。
「津々楽さんは、吹奏楽部ですか?」
彼女は脇に置かれたキャリーケースを見て言った。
「うん」
担当楽器も訊かれた。フルートだよ。木管の――そう、横笛。
「今日は練習ですか?」
「ううん。香田で演奏会があって。その帰り」
「そうでしたか」彼女はベンチに座り直し、正面を見た。「あまり音楽には詳しくありませんけど、機会があれば、聴いてみたいです。津々楽さんの演奏」
口ぶりは、やっぱりどこか冷たい。本当に聴きたいと思ってくれているのか怪しいものだ。
でも彼女にしては、丁寧な言い方だった。ぎこちなくて、無理をしているのが分かる。気を使ってくれているのだ。きっとそういうのは苦手なんだろうなと、私は思った。たぶんそういう場面が、日常にないのだ。
私はこの子とやっと普通の話題で話すことができたのが、ちょっぴり嬉しかった。
「もろの木さまの力が、弱まっています」話が戻る。とても強い口調だった。「目に見えない、色んな種類の“毒”が、少しずつ、この天原町に入り込んでいます」
彼女は「毒」と表現した。さっきの声も言っていた。「大きな力」が入り込んでいる。それは、人と人とを切り離す。
「今日も、コノを介してもろの木さまの声を聞こうとしました。でも、『カミクチ』は、やっぱり五気が同じ気質でないとだめなようです。コノも全く役に立ちません」
僕のせいじゃないやい――コノが憤慨した。
神様に直接お伺いをたてる口寄せを「カミクチ」というらしい。「カミクチ」によって、初めて神様の「御言葉」を聞くことができる。「御言葉」は、コノのような八百万の獣を介した口寄せでは、聞くことができない。土行の社美景では、木行の気質であるもろの木さま本人とは“直接”話すことができないのだ。
対する私は木行。もろの木さまの声を、直接聞くことができるのだ。
いや、“できた”のだ。私はさっきまであの、時間の流れない、白黒の人々の世界で、「カミクチ」をしていた。
あの声は、もろの木さまの、御言葉だったんだ。
「何とかしてもろの木さまにお伺いをたてて、力が弱まっている原因を探って、天原を“元通り”にしなければなりません。それは、津々楽さんにしかできません」
私はすっかり怖気づいてしまった。私は既に、彼女の希望通り、もろの木さまの声を聞いた。お伺いを、たててしまった。彼女の知らないうちに、あっさりと。
そして私は、そのことを彼女に言えない。切り離されていく人々のことを、言えない。少しずつ黒くなっていく人々のことを、言えない。
あなたがひどく切り離されて、真っ黒になってしまっているだなんて、言えない。
私は守られていると、もろの木さまは言った。でも同時に、社美景に何もしてやれないとも言った。私が木行で、彼女が土行だからなのか。それとも、あまりに切り離されてしまっている人は、神様にはどうにもできないのだろうか。
神様にどうにもできないのに、私にどうにかできるのだろうか。
「――私には、たぶん無理だよ」
「それはやってみないと分かりません」
社美景は、真っ黒な瞳でこちらを見た。
「そうかも知れないけど……」
この天原町は、毎日同じことの繰り返しで、退屈で仕方なくて、そしてとっても平和だ。テレビ画面で繰り広げられている「物騒なこと」は、まだこの町には辿り着いていない。みんなそう思っている。私も、そう思っていた。何か「大きな力」がこの町の平和を脅かしているだなんて言ったところで、町の人たちは誰も信じない。実際に何か大きな事件が起こったわけでもない。今日も駅前広場は夕日で照らされているし、きっと明日も照らされる。何も変わったりしない。
「コノだって、しっかりサポートしますから」
社美景は、どうしてここまで必死なのだろう。私は不思議に思った。天原町に入り込んでいるという「大きな力」のことも、どういう経緯で知ることになったのだろう。そして、なぜ彼女は真っ黒になるほどに「切り離されて」しまっているのだろう。
彼女のことをもっと知りたい。そう思った。力になれるかどうかは分からない。力になりたいと、私自身思っているのかどうかも、正直ふらついている。
だから、それらの判断も、彼女を知ってから。それからでは駄目だろうか。
「美景ちゃん」
私は立ち上がって、キャリーケースを肩に掛けた。突然名前で呼ばれた“美景ちゃん”は、口をぽかんとさせていた。
「また、会おうよ。今度は友達も連れてくる。あと、フルートも聴かせてあげる」
「なんですかそれ。出来るのはあなたしかいないって、言ってるじゃないですか」
美景ちゃんも立ち上がった。コノは何も言わずにぷかぷかと上下に動いている。何だかとても嬉しそうだ。
「私ね、一人じゃ何も出来ない自信があるよ」
なんですかそれ。美景ちゃんは同じ台詞を繰り返した。
そう言えばと、私は思い出した。「私ね、ユズちゃんと話してたの。あなたに、友達になってくれるように頼んでみようかって。来週も同じ時間、ここにいる?」
訳が分からないという顔をしている美景ちゃんを見ているのは、ちょっと楽しい。
「そりゃいいや!」コノが両手を広げて言った。「もちろんいるともさ。その子も連れて、茉里もまたおいでよ。僕らは大歓迎だよ」
「ありがとう、コノさん」
「どういたしまして、それから僕のことはコノでいいよ」
そんな会話を交わす隣りで、美景ちゃんは何か言いたそうにしていたけど、最後には「午後四時です。時間通りに、必ず来て下さい」と言った。ユズちゃんを連れてくることに関しては、好きにしてください、だそうだ。
もろの木さまも言っていた。「もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている」って。
私も、そう信じたい。
天原町は、へんてこな町だと思う。何が変かって、変なことが起きても、もう次の日には、それも案外普通のことかもしれないと思えてしまうところだ。
私はただの横笛吹きではなく、木行の気質を持ち合わせた横笛吹きだった。座敷童――もとい社美景、美景ちゃんと出会い、もののけさんと名前を呼び合う仲になり、神様の声も聞いた。そして、頼まれごともされてしまった。巻き込んでしまってすまない、とまで言われた。
これほどおかしな案件を持ち帰ってきたというのに、次の日にはもうどこから手をつけようかと、冷静に考えている自分がいた。この天原に忍び寄っている「大きな力」とは何なのか、静かに推測していた。
なんだか忙しくなりそうだ。私は思った。
このときはまだ、知らないでいた。今年一番の出来事が起こっていたのを、私は知らない。
それは唐突に、そして全然違う方向からやってくる。
振り返ってみると、私は神様にお願い事をしたことなんてなかった。初詣のとき、お賽銭を入れて手を合わせたりはするけど、あれはお願いではない。どうにもならないほど切迫して、本気で手を合わせることなんて、今まで一度もなかった。私はそれだけ、恵まれた生活をしてきたのかもしれない。
神様、どうにかしてください――十月ももう終わろうとしていた頃、私は生まれて初めて、神様にお願い事をした。
月曜の朝、チャイムが鳴り終わってもユズちゃんの席が空いていた。
担任の三橋先生が入ってきて、日直が号令をかける。先生はちらりとその空席を見た。眼鏡越しに見える目は、いつもの優しい目だったけど、すこし強張っていた。礼が済むのを待って、先生は口を開いた。
杠さんは、ご家庭の都合により、今週はお休みされます。授業のノートは、皆さん交代で取ってあげて下さい。それから――
「ノートとプリントを持っていく係は、津々楽さん、お願いできますか?」
三橋先生は、まるで最初から決めていたように、私を見た。
「――はい」
「ありがとう。では、出席を取りますね」
いつもの穏やかな声で、淡々とクラスメイトの名前が呼ばれていく。さしたる連絡事項もなく、先生は出席簿を教卓にとん、と立てた。
朝のホームルームが終わった後、私は職員室に呼ばれた。
「すぐですよ。もちろん、説教なんかじゃありませんから」
先生はにっこりと笑顔で言ってくれたけど、やっぱりちょっと目が強張っている。 教室から職員室までの廊下は、いつもより長く感じられた。三歩前を歩く三橋先生の背中が軽く左右に揺れている。
「先生。ユズちゃんに何かあったんですか?」
耐え切れなくなり、職員室のドアの前で、私は訊いた。
「杠さんからは、何も?」
「聞いてません」
演奏会に来てくれると言っていたことも、先生に話した。おばあちゃんと一緒に来てくれると、ユズちゃんは言ってたんです。でも、結局来なかったんです。
「大丈夫。心配しないで下さい」
職員室は、いつものコーヒーの匂いと、給湯室から来るたばこの臭いが入り混じっていた。一応分煙するために、吸い殻入れが給湯室にだけ置いてあるのだ。職員用の机のうち七割以上の席が空いていたけど、その机の大半はずいぶんと散らかっていた。
添削中の理科の小テストとか、付箋やプリントが挟まって分厚くなった教科書、コンビニ袋に入った菓子パンもあった。英語の筒井先生の机には、ワークが三クラス分、うず高く積み上がっていた。
三橋先生は自分の席へ歩いていき、椅子に座った。他の机と違って、三橋先生の机はとてもよく整理されていた。
先生は、私を振り返った。
「先週土曜日の朝、杠さんのおばあ様が病院に運ばれたそうです」
私は先生の言葉を頭の中で反復した。無言で十回くらい、「病院」と「運ばれた」を反復した。
「昨日の夜、お母さんから電話がありまして、今はもう落ち着いているようですが、しばらく目が離せないそうです。そういう状態なので、杠さんも、学校には来れません。分かりますね?」
ほとんど息を吐いただけのようなかすかすの声で、私は「はい」と言った。
あの演奏会の日の朝、ユズちゃんのあばあちゃんは倒れた。他でもないユズちゃんがそれに気が付いて、すぐに救急車を呼んだらしい。今は柿倉市の総合病院に入院しているという。先生が状況をそんなふうに話してくれたけど、それ以上のことには言及しなかった。
土日の二日間、杠家は大変なことになっていたのだ。変な噂ばっかり早く広まるくせに、こういうことには「天原町の噂好き」も、てんで役に立たない。
そして、先生は私に訊いた。
「津々楽さんは、杠さんの、一番のお友達ですね」
無意識に、私は頷いた。そのつもりです。
「会いに行ってあげてください。ノートやプリントを渡すだけでなく、話を聞いてあげてください。今の杠さんには、それが大切ですよ」
穏やかな声だったけど、三橋先生はとても真剣だった。
「はい、分かりました。でも、会いに行くなら私だけじゃなくて、バスケ部の友達とか、他の子からも元気づけたりしてあげた方が」
先生は、かぶりを振った。それではいけません、と。
「“みんな”が相手では、恐らく杠さんはみんなに心配されないように、作り笑いをしてやり過ごしてしまうでしょう。それでは、杠さんへの“お見舞い”の意味がないのです。今回のことで、杠さんが一人で抱え込んでしまっていることがあります。それについて、私が詰め寄っても逆効果ですし、大人がただ事実を言い当てようとしたところで、やはり意味がないのです。それを吐き出せるように、津々楽さんだけで、行ってあげてください」
私は黙って頷いた。どこか、含みのある言い方だった。そもそもユズちゃんと仲が良いというだけで、わざわざ職員室で状況を話してくれるのも、よく考えたらちょっと変だ。
ユズちゃんは強い。強いけど、今はすごく心配だった。そう思う私の気持ちを、三橋先生は察してくれたのだろうか。
放課後、私は部活を休んでユズちゃんのおばあちゃんが入院している病院へ向かった。家には、学校の電話を借りて連絡を入れた。お母さんの耳にも入ってなかったようで、三橋先生がかけてくれた電話口から、びっくりするほど大きな声が聞こえた。
お母さんと先生との会話の中で、「脳梗塞」という病名が聞こえた。それを聴いたとき、背中がざわりとした。先生は声を小さくして、出来るだけ私に聞こえないようにしていたみたいだけど、残酷にもそれが、一番はっきりと聞こえた。
柿倉市立総合病院のある柿倉駅は、天原駅から上り電車で三駅だった。演奏会のあった香田市とは逆方向になる。正面の改札口から出て、道路を挟んだすぐ目の前に、その病院はそびえ立っている。小さい頃、水疱瘡にかかったときにこの病院に通っていた。ただっ広い駐車場と、くすんだクリーム色の外壁を、うっすら覚えている。
あんなに大きな声で笑い、あんなに元気に竹ぼうきを振り回し、あんなに柔らかい笑顔だったユズちゃんのおばあちゃんは、小さく縮んて病室のベッドに横たわっていた。
言葉を失うほど、小さく見えた。色も、黒ずんで見えた。老いた身体の臭いと、消毒薬の臭いが混ざり合っていた。
「ちょっと、茉里ちゃんじゃない!」
ベッドの脇には、ユズちゃんのお母さんが座っていた。おばあちゃんほどではないけど、どこか小さく見える。病室を訪れた私を見るとすぐに立ち上がって、駆け寄ってきてくれた。
おばさんの明るい二重の瞳や、笑うといたずらっぽくなる口元は、ユズちゃんとそっくりだ。すらりと背が高くて、綺麗な人だった。会ったときはいつも、優しくて魅力的な笑顔を分けてくれる人だった。でも、今近くで見るおばさんは、白髪と皺がすごく目立った。笑っているけど、悲しげな笑顔だった。
「部活があるんでしょ? 休んで平気なの?」
「はい。顧問の先生には言ってあります」
「そうなの――ごめんなさい、津々楽さんのところには、すぐにきちんとお知らせしなきゃと思っていたんだけど、ばたばたしちゃってて。本当に、びっくりさせちゃったわね」
ありがとう、来てくれて。おばさんは言った。
私はベッドの僅かな膨らみと、静かに呼吸する皺だらけの顔を見た。ユズちゃんのおばあちゃんに取り付けられた人工呼吸器のチューブが、本当におばあちゃんは倒れてしまったんだと、私に実感させる。息が詰まりそうになり、鼻の奥がつんとした。
おばさんは病室の隅に重ねてあったスツールをひとつ出し、私に勧めてくれた。お礼を言って、私が座ったのを見届けてから、彼女も自分の椅子に座り直した。
おばさん訊いて下さい。
金曜日、お風呂に入れてもらいに行った時は、全然こんなんじゃなかったんです。
いつも通りすごく元気で、ユズちゃん――奈都子さんを怒鳴りつけるくらいだったんです。
本当にこんなふうになるなんて、私信じられません。
どうしてこんなことになっちゃったんですか?
おばあちゃんは、どこが悪かったんですか?
大丈夫ですよね?
助かるんですよね?
まさか、死んじゃったりしないですよね?
「私、また元気になるって信じてます」
言いたかった言葉を全部飲み込んで、気付いたら私は、そう口にしていた。
私は津々楽茉里だ。杠家の親戚や、まして家族ではない。余計にうろたえたり、余計に悲しんだり、してはいけない。
そうしても許されるのは、孫のユズちゃんだけだ。
「――そうね。茉里ちゃんが来てくれて、お母さんも喜んでるわ」
おばさんは、弱々しく微笑んだ。
これは後から知ったことだけど、ユズちゃんのおばあちゃんは脳卒中だった。
かかりつけののお医者さんに、以前から血圧が高いことを心配されていた。高血圧と加齢からくる動脈硬化もあり、乳製品やマグネシウムを含む食品を勧められていた。おばあちゃんはお医者さんの言うことを守って、ごまを使った料理を多くしたり、苦手だった乳製品も、出来るだけ食べるようにしていた。きちんと予防していたのだ。
それなのに、おばあちゃんの動脈は硬くなり、弾力を失っていった。
土曜の早朝、おばあちゃんの心臓でできた血栓は血液中を流れていき、脳に到達した。血管が詰まり、脳卒中を引き起こした。
急性期の心原性脳梗塞だ。元気だと思っていたユズちゃんのおばあちゃんは、導火線付きだった。
「すみません、奈都子さんは?」
私はおばさんに尋ねた。ユズちゃんの姿がなかった。
「ああ、そうよね。奈都子は先に帰ったわ。やらなきゃいけないことがあるって。一人で帰すのも心配だったんだけど、お母さんのことも一人にしておけなくて」
おばさんが迷っていると、ユズちゃんは言ったそうだ。私は一人で大丈夫、と。
大丈夫なもんか。つよがり。
「今日の授業のノートとプリント、持ってきたんです」
そう言えば、家族以外の大人と話すときはいつからか敬語になっていた。でも、ユズちゃんのおばあちゃんと話すときだけは違った。小さい頃からの言葉づかいが、今でもそのままになっていた。
「茉里ちゃんは優しい子ね。何だか申し訳ないわ。どうもありがとう」
おばさんは大袈裟すぎるほどのありがとうを、たくさん私に浴びせた。
「ノート、私が預かっておくわね」
「いえ。私、直接渡します。奈都子さんに用事もあるので」
「あらそう? いやだわ、何から何まで本当に迷惑ばっかり――そう言えば土曜日も奈都子たち、茉里ちゃんの演奏会に行く予定だったのよね? ごめんなさい。すっぽかしちゃったわね――」
おばさんは目を伏せる。私はかぶりを振った。
「また年明けにあります。演奏会。その、すごく楽しみにしてくれてたんで、次は来てほしいなって、思います」
今日は音楽室に置きっぱなしにしてきたフルート。彼はケースに入って、部屋の奥の棚で、静かに眠っている。私程度のレベルの演奏者なんてたくさんいるし、耳の肥えた人からすれば、中学生の吹く横笛なんて、聴くに堪えないのだろう。
でも、私のフルートを聴きたいって、言ってくれる人がいるのだ。孫の友達だというだけで、応援してくれる人がいるのだ。
明日は部活に行こう。きちんと、練習しよう。そう思った。
病院を後にした頃には、もう十七時を回っていた。
陽が落ちるのがどんどん早くなる。柿倉の駅の周りは新興住宅地で、天原と比べれば二世代くらい若い街だ。真新しいマンションがドミノ見たいに並んでいる。
背の低い建物がごちゃごちゃしている天原とは違い、計画的に区分けされ、優れた外観にデザインされ、ゴミ捨て場さえも清潔で、自分と他人とは、セキュリティという壁できちんと仕切られていた。
マンションとマンションの隙間から、ぎりぎりの太陽が最後の力を振り絞って、街に光を浴びせていた。横断歩道を渡る私の東側に、長い長い影が伸びている。
柿倉駅のホームで電車を待ちながら、私は考えた。
どこか違和感がある。今朝、職員室で三橋先生と話した時から、うっすら感じていた。ユズちゃんのお母さんに久しぶりに会って、話して、その違和感はますます膨れ上がった。大人たちの話す言葉のその行間から、妙なぎこちなさを感じる。
ただの杞憂に終わってくれればいいのだけど。
◆ ◆ ◆
夕闇の中、「銭湯ゆずりは」の明かりが灯っていた。
暖簾の隙間から漏れ出す光が、アスファルトを照らしている。入口のすぐ前に突っ立って、私はしばらくその光を見つめていた。
通い慣れた銭湯が、急に年老いてしまった気がした。主を失くした今の彼は、悲しいほど無表情だった。
今まで気付かなかったけど、えんじ色の暖簾は擦り切れてほつれが目立つし、黒くくすんでしまっているところも多かった。時折強いがぜが吹くと、曇りガラスの引き戸はかたかたと乾いた音を立てる。煙突のてっぺんからは、何も吐き出されていない。灰色の身体を木枯らしに晒して、震えていた。
今分かった。私にとって、ここはすごく大切な場所だったんだ。
ここは、私の一部だった。銭湯ゆずりはがなくなってしまう。それは、自分の手や足がもぎ取られるようなことだ。ユズちゃんのおばあちゃんがいなければ、この銭湯はやっていかれなくなる。今、私の身体は部分的に凍傷にかかってしまっていて、腐食が始まっているのだ。
放っておいたら、切断しなければ生きていけなくなってしまう。
急に生暖かいものが、頬に流れた。外気で冷たくなった顔を伝って、それは次々溢れ出て、紺色のマフラーに染み込んでいった。
私は銭湯ゆずりはの前で、ひとしきり泣いた。
鞄からポケットティッシュを取り出して、三回洟をかんだ。幸い通りに人影はなく、私は入口横の小さな植込みのところで、誰にも気づかれずに涙を拭き取った。
ユズちゃんのこと、何にも言えない。
私は静かに手を合わせた。もろの木さまを思い浮かべて、湯の神さまを思い浮かべて、それからコノのことも思い浮かべた。
どうかまた、ユズちゃんのおばあちゃんが元気になりますように。
真っ赤になった顔を冷ましてから、私は入口の引き戸を開けた。がらがらと、けたたましい音を立てる。
「あ、すみませーん! 今準備中なんです!」
少女の声が、番台の陰から聞こえた。ユズちゃんの声。私が聞きたかった、ユズちゃんの声だ。その声は、拍子抜けするほど明るく響いた。
番台の上に、ユズちゃんがひょこっと顔を出す。私を見て、彼女はとたんに目を丸くし、口を大きく開いた。
「茉里!」木製の天板に手を突っ張って、ユズちゃんは番台から飛び降りてきた。
「ごめんね! 土曜の演奏会行けなくって! うちのばあちゃんがさ、朝なかなか起きだしてこないと思ったら、ふすまのところにぶっ倒れてて」
ユズちゃんはあっさりと言った。彼女の頬には黒い煤が付いていた。頭にはいくつか綿埃が乗っかっている。
「急いで救急車呼んだんだけど、これがまたうちまで来るのに馬鹿みたいに時間かかってさ。やっと病院に着いたと思ったらあれよあれよと個室に入れられて。なんだっけ、集中治療室? とにかくずっと隔離されてて、そっからほとんど一日中手術。一応今はなんとか落ち着いてる。茉里にはすぐ連絡しなきゃと思ったんだけど、もうそれどころじゃなくなっちゃって、それで――」
そこまで一気に言ってから、ユズちゃんは急につっかえた。
「――ユズちゃん?」
自分が子供すぎて嫌になる。友達がこういう状態のとき、どうしたらいいのか見当もつかない。
「ご、ごめん。とにかく、今はお風呂無理なんだ」
弱々しい笑顔で、彼女はまた謝った。みるみる顔が赤くなって、眉間にきゅっと皺が寄った。目を伏せ、両手で口を抑える。手には、軍手がはめられていた。
少しのあいだ、沈黙が訪れた。風の神様はお構いなしに、入り口の引き戸をかたかたと鳴らしていた。脱衣所の灯りが一定の間隔でちかちか点滅している。三色の牛乳が入った冷蔵庫が、ぶーんと鈍い音を発している。
ユズちゃんは泣かなかった。代わりに小さな声で、「ごめん、大丈夫だから」と言った。
「ほんと?」
「うん、本当。大丈夫ったら大丈夫――全くなんで茉里なんかに心配されなきゃなんないのよ」
ユズちゃんは軍手を外して、番台の上に放った。
そりゃあ心配する。あなた、気丈に振る舞うのは十八番なんですから。
「ノートとプリント、持ってきた。今日の数学、図形のところに入ったよ。いる? いらないか」
「あ、いるいる! ごめんって茉里!」
「――あとね、病院に行ってきたよ。ユズちゃんのお母さんが、ユズちゃんならもう帰ったって教えてくれた。やらなきゃいけないことがあるって――銭湯のお湯、沸かそうとしてたの?」
ユズちゃんの風貌は、まるで建設現場の棟梁みたいだった。首にタオルを巻いている。履いているぶかぶかのジーンズも、羽織っている紺のダウンも、よく見ると煤でかなり汚れていた。綿ぼこりも、そこかしこに付いている。
「だってほったらかしにしておけないし。釜場にまだ雑燃が残ってたから、なんとか火をつけようと思っていじってたんだけど、ボイラーの使い方なんて全然分かんなくて。説明書みたいのがないか探してたとこなんだけど、どこにもそんなものないんだよね」
もうこんなことならばあちゃんに訊いておくんだった――ユズちゃんは番台に座り直し、だらりと両手を投げ出した。
「勝手にボイラーなんていじったら、それこそおばあちゃんに叱られるよ」
「それでも」ユズちゃんは天板に突っ伏したまま、静かに言った。「それでも、この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう」
潰される。ユズちゃんは力を込めた。
「何? あの人って?」
ユズちゃんの「あの人」の言い方には、はっきりと敵意が現れていた。
潰される? そんなの、初めて聞いた。
「いいの。茉里には関係ない話」
ちくりとくる言い方だった。子供はもう寝なさいと、子供にそう言われた気分だ。
「関係なくなんかないよ。私だってこの銭湯が潰れちゃったら嫌だもん」
「潰れるとか簡単に言わないで!」
彼女は突然、がばっと起きだした。空っぽの脱衣所に、大きな声が響いた。私は面食らってしまい、その場に固まってしまった。
荒れてる。めちゃくちゃだ。先に言ったの、ユズちゃんじゃないか。
「ばあちゃんが回復するまで、あたしはなんとかこの銭湯を守らなきゃいけないの。じいちゃんが建てた、夢なんだから。それをばあちゃんが、一人で守ってきたんだから。なんとかしなきゃなの。なんとか――」
勢いよく話し始めたのに、どんどん声がしぼんで、最後の方は、くぐもった息づかいしか聞こえなくなってしまった。
相当滅入ってる。
「――茉里、ごめん」
また謝られた。幽霊みたいな声だ。やっぱり、大丈夫じゃない。
ユズちゃんのおじいちゃん。確か、六年前だと思う。小学校の低学年。うっすらだけど、覚えている。当時、着慣れない礼服を着て、よく状況が分からないまま斎場に連れて行かれた杠家の葬儀で、写真を見た。
でも、写真だけだ。私が「銭湯ゆずりは」を初めて訪れた頃には、すでにおばあちゃんしか番台に立っていなかった。生前のユズちゃんのおじいちゃんには、会った記憶がない。
その頃には、すでにどこか悪かったのだろうか。当時からユズちゃんも、ほとんどおじいちゃんの話題は出さなかった気がする。口を突いて出てくるのは、いつも「ばあちゃん」の方だった。
そうなのだ。ユズちゃんは生粋のおばあちゃん子だった。おばあちゃん想いの、優しい女の子だ。その彼女は今、番台の上に顔を乗せて、うーうー唸っている。
ユズちゃんが抱え込んでいることを吐き出せるように。三橋先生はそう言っていた。私一人で会わなきゃ、それができないのだと。一番の友達の、私じゃなきゃ、できないこと。バスケ部の同級生や、クラスの他の女子ではいけない。私だからこそ、できること。
津々楽茉里として、杠奈都子にしてあげられること。
「ユズちゃん、今日さ、うちのお風呂に入りにおいでよ」
私は提案した。
「お風呂? 茉里んちの?」
「うん。もちろん銭湯と比べるとうちのは狭いし、二人入ったらもうぎゅうぎゅうになっちゃう。でも、ほら――」私はユズちゃんの頭に付いた埃をつまんだ。「ユズちゃん汚い」
また怒られるかなと思って、ちょっと構えた。けどユズちゃんは、じっと私のことを見ていた。真剣な顔で、ちょっと照れ臭そうに。
「――ごめん」
この子、またごめんって言った。
「今日はもう謝るの禁止」
ユズちゃんちに書き置きを残して、私たちは杠家を後にし、津々楽家の方へ足を向けた。歩いて十分とかからない。ほとんど目と鼻の先の距離だった。
「久しぶりだなあ、茉里んち」ユズちゃんが白い息を吐いた。
点々と灯る水銀灯の小道。私たちは冷たい風に顔をしかめて、身を縮め、足早に歩いていく。立ち並ぶ民家が途切れて、アスファルトが砂利道になり、そしてすぐに畦道に変わる。既に作物の収穫時期が終わり、辺りには裸ん坊の田んぼが広がっていた。土と草の匂いがほのかに風に混ざり込んでいる。街灯もなくなり、隣を歩いているユズちゃんの顔も、ぼんやりとしか見えなくなった。
お母さんは、私が連れてきた煤だらけの女の子を見て、弾かれたピンボールのようにてきぱきと動き始めた。
「あらいらっしゃい! ちょっと寒かったでしょ! 早く上がって、ストーブの前で温まりなさい。やだちょっと二人で何してたの? 奈都子ちゃん埃だらけじゃない。さあ、いいから早く」
私とユズちゃんが居間のストーブで指先をほぐしているあいだ、上着を脱がされ、バスタオルを渡され、おばあちゃんが「大変だったねぇ」とユズちゃんの頭をわしゃわしゃやり、熱いお茶が出され、お母さんが病院とユズちゃんちに電話をかけ(ユズちゃんちはまだ留守だったらしく、伝言を残していた)、夕飯は一人分多く支度され、お風呂のお湯が沸き、早く入りなさいと急かされ、お父さんは一度ビールを冷蔵庫から出したけど、ちょっと迷ってすぐに戻し、ユズちゃんの分の布団とパジャマが準備され、ユズちゃんはうちに泊まることになった。
「奈都子ちゃんのお母さんには電話でお話したから大丈夫よ。服はお洗濯しておくから、明日はうちからゆっくり病院に向かえばいいわ。ただ茉里は明日も学校なんだから、夜更かしはだめよ。さあ早くお風呂に入っちゃいなさい」
ばたばたと浴室に追い立てられて、気付けば私とユズちゃんは裸になり、湯気の立つ浴槽の前に立っていた。
「ユズちゃん」
「なに?」
「うちね、テレビのチャンネル権はお父さんにあるの。だから今日の『探偵☆森ガール』は、見れないかもしれない。お父さんいっつも『世界遺産大絶景』見るから」
月曜夜九時と言えば「探偵☆森ガール」だ。今学校でも大流行りのドラマだった。主役の女優さんのヘアスタイルやファッションがとっても可愛くて、うちのクラスにもぽつぽつとレプリカが現れ始めている。
「大丈夫。あたし先週見逃してから、もういいやって思ってたから。茉里先に入りなよ」
あたしは身体洗うからと、ユズちゃんは一番風呂を私に勧めた。涌いたばかりのお湯は入るには熱すぎたので、私は蛇口をひねって水を足しながら、浴槽を洗面器で掻き混ぜた。
「森ガール。一応、録画してるけど。先週分のも」
リアルタイムではなく、録っておいたものを次の日の夜に見る。お父さんのせいで、毎週そうする羽目になっていた。本編を見る前に、ストーリーの大事なところをうっかり聞いてしまってはいけないから、学校ではドラマの話題を避けるのに一苦労だ。
「ほんと? それ、見たいかも」
お湯はちょうど良い温度になり、肩から身体にざぶりとお湯を被ってから、私はゆっくり湯船に沈み込んだ。はーっ、と息が自然と漏れる。
「じゃあ、またうちにおいでよ。今日の分も録っとくよ」
「うん、ありがと」
熱いお風呂を目一杯楽しみながら、石鹸を泡立てるユズちゃんを見つめていた。「腕も脚も細くていいなあ」なんて、ぼんやり思う。
そのとき私の耳に、突然別の声が飛び込んできた。
「こりゃ驚いた。茉里が連れてくるつもりだった子って、湯の神の姉さんとこの子だったんだね」
聞き覚えのある、無邪気な男の子みたいな声だ。私の頭上に、いつの間にかコノがプカプカ浮いていた。
「やあ茉里」
「コノ!」
彼はひょろりと長い腕を組んで、小さな羽根をぱたぱたさせている。対してユズちゃんは、私をじっと見て、不思議そうな顔をしていた。
「え? なに茉里、どうかした?」
こんなへんてこな生き物が突然民家の浴室に現れたというのに、平然と身体を洗い続けている。
私ははっとした。彼女には、コノが見えていない。
「えっと、あのねユズちゃん、今ここに」私は人差し指を天井に向ける。「来てるの。コノっていうもろの木さまのもののけさんが」
「もののけ、さん?」
ユズちゃんは天井を見上げる。目を凝らし、そこにあるものを見つけようとしているが、やはり何も見えないようで、すぐに苦笑いを浮かべた。けど、無意識に両手で胸のところを隠していた。
「ちょっと、冗談やめてよ茉里」呆れたように言う。
「うーんと――」
確かに、冗談みたいな状況だ。彼の存在を、どうやって伝えればいいだろう。
「しょうがない。今日は特別に『端境(はざかい)』を解いちゃおう。茉里、僕に触ってみてごらん」
コノが促した。駅前広場のときと違い、彼はは今手を伸ばせばすぐに届くところに浮かんでいる。私は恐る恐る、コノの左足の先っぽに触れてみた。犬や猫と全然変わらない触感だった。緑色の体毛はふわふわとしていて、ほのかに温かい。
「きゃあっ!」ユズちゃんが叫び声を上げた。「やだ! なに? なんなのそいつ?」
彼女は顔を引きつらせて、泡だらけの身体をぎゅっと小さく丸めた。その目は、今度はしっかりとコノを捉えていた。
「同じ木行だからね。茉里は僕に触ることができる。そして人間が僕に触れば、他の人たちにもしばらくのあいだだけ、僕の存在を共有してもらえる」
その後、パニック状態のユズちゃんを落ち着かせるまでに、しばらく時間がかかった。
私はなんとか、あの駅前広場の出来事を話そうとした。けど、途中ふざけて急接近するコノに、ユズちゃんは悲鳴を上げながら石鹸を投げつけた。外れた石鹸は後ろの窓ガラスに当たって跳ね返り、私の後頭部を殴打した。
その二十秒後、ユズちゃんは再びいたずらしようとするコノに対し、今度はシャワーのお湯で応戦した。コノがひらりと身をかわす。私は頭からお湯を被った。「いい加減にして!」と私が叫ぶと「なに先から遊んでるの!」と、浴室の外からお母さんに叱られた。踏んだり蹴ったりだ。
もろの木さまとコノの関係。五行、口寄せ、神子。そして天原に忍び寄るという「大きな力」のこと。私はコノの言葉を借り、途中行ったり来たりしながら、ゆっくり説明した。ただ、あのモノクロ人々の世界のことだけは話さなかった。私には、あの光景を言葉にすることができなかった。
座敷童の正体が中学二年生の子供だと知ったら、ユズちゃんはがっかりするだろうなと思っていた。でもそんなことは、人語を介する緑色の獣の前ではもうどうでもよくなったらしい。美景ちゃんについて話したときは、一言だけ「麗徳とか、すごい」と呟いただけだった。
「大丈夫、もう驚かない。なんでだろう。確かに信じがたいけど、有り得ないことだとは思わない」
やっと落ち着きを取り戻し、ざぶりと湯船に浸かった彼女は、どこか神妙な顔つきをしていた。
「あたし、ちょっと思ったことがあるの」
ユズちゃんは、じっと自分の膝を見つめている。
「うちのばあちゃんともろの木さまって、似てるなって」
コノが「ほう」とフクロウみたいな声を出した。ユズちゃんと入れ替えで身体を洗っていた私も、思わず手を止めた。
「もろの木さまは天原を守ってくれてる。でもそれだけじゃなくてね、この町の人たちを、きちんと繋いでくれてる気がするんだ。いつもはみんなもろの木さまのことなんて全然見向きもしないで、あの広場を通り過ぎていくかもしれないけど、もしもろの木さまが突然なくなっちゃったら、町中大騒ぎでしょ? それと同じで、ばあちゃんはあの銭湯をずっと守ってきたの。あの銭湯に来たお客さんは、お風呂の中で顔を覚えて、脱衣所で名前を覚えて、一緒に牛乳を飲んで、知り合いになるの。そんなにたくさんはいないけど、来た人たちは、みんな繋がっていった。だから、もろの木さまとばあちゃんは似てるなって。そっくりだなって思うの」
ユズちゃんは照れ臭そうな笑顔を、私に向けた。
「わかるよ。ユズちゃんのおばあちゃんも、もろの木さまも、『そこにいる』って思うだけで、ほっとするもん」
大きなふところで、大きな安心感を与えてくれる。そんな彼らの見てくれは、ちょっと大きい古ぼけたスギの木だったり、竹ぼうきを振りまわす年老いた番頭だったりする。
「そして、今の状況もそっくりだね。もろの木さまも、銭湯の主も、弱ってしまっている。残念だけど」
コノが言う。私とユズちゃんは同時に彼を仰いだ。
「そんな、『そういえばお前何しに来たんだ?』っていう目で見ないでくれよ。僕だって、用もないのにこんなところ来ないさ」
こんなところだんなんて、失礼な。
「まあ僕らとしてもね、あの銭湯がなくなっちゃうのはちょっと痛いんだ。天原でも特に大切な場所のひとつだからね。それに――」
コノは腕を組んだまま、湯船の縁に着地した。
「あそこ潰れちゃうと、湯の神の姉さんがホームレスになっちゃう」
1.噂の座敷童と、横笛吹きの中学生
それは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
あっという間に過ぎ去った夏休みの後に、嘘かと思ってたけど、やっぱりちゃんと二学期が始まって、久しぶりに教室でユズちゃん以外の友達とも会って、早速二年生最初の実力テストの範囲表が配られて、呆気にとられていたあの九月の始まる頃だ。 うちの中学校――天原中学校では年に五回定期試験があって、生徒たちはいつも苦々しい顔をしてそれを歓迎していた。その隙間に挟み込まれる「じつりょくてすと」とはいったい何者なのだろう? 今回はどういう顔をしてこれを迎えたらいいのか、みんな迷っているようだった。
担任の三橋先生が言うには、二年生はどうやら「中だるみの時期」とかなんとか揶揄されているようで、試験の平均点は下がるし、生徒たちのやる気も下がるし、点数を見た親の気分はもっと下がる。そしておまけに、家庭によってはお小遣いも下がる。最初はこれが中二病ってやつなんだと思って「たいへんな時期だね―」なんておしゃべりしていたら、ユズちゃんにデコピンされてしまった。
ユズちゃんのデコピンはすごく痛くて、ヒットした直後は涙が出たし、五時間目の社会の時間中ずっとおでこが赤くなっていた。女子バスケットボール部のユズちゃんは握力がとても強かったのだ。もう知ったかぶりしておしゃべりしないように気をつけよう。そんな風に思った九月の始まる頃のことだった。
座敷童(ざしきわらし)がこの町に住み着いたという噂が、どこからともなく流れ始めたのだ。
「近頃は座敷童なんてもうほとんど人前に出て来なくなったから、噂が本当ならちょっとしたニュースね」
ユズちゃんはそんな風に言っていたけど、私は座敷童なんて見たことがなかったし、昔はごく普通に現れるものだったのかとか、どんな背格好をしているのかとか、実際のところ何ひとつ知らない。そんな私の困惑をよそに、噂にはどんどん情報が追加されていった。
私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしている、らしい。その子は夜になると天原(あまはら)駅に現れる、らしい。そして駅前広場に佇む「もろの木さま」と、なにやら話をしていた、らしい。
十月の一週目が終わる頃には、目撃証言をもとに、美術部の佐渡原くんが座敷童の絵を描いた。
「噂自体にはあんまり興味ないけど、みんな盛り上がってるからさ。でも描いてみると、なかなか風情のある光景だよね。もろの木さまと座敷童」
佐渡原くんがキャンバスに描いた、タイトル「静かな秋の、御神木のある風景」は、素人目から見ても完成度が高く、素敵な絵だった。青空と紅葉のコントラスト、座敷童(赤い着物を着た、おかっぱ頭の女の子だ)のせつなげな表情、繊細なタッチ。見事な作品だ。佐渡原くんは、天原町の生んだミケランジェロだ(と、美術部の顧問の堂阪先生は言っていた)。
天原町は、小さな小さな田舎町だ。だから、八百屋のカズくんの誕生日から、町内会長のタケじいちゃんの好物まで、みんなが知っていた。そういう町なのだ。噂なんて、あっという間に広まっていく。お寺の鐘の音が町中に響き渡るみたいに、隅から隅まで知れ渡ってしまう。何にもない町だから、新しい話題には、みんなすぐに夢中になるのだ。
「その座敷童さんは、もろの木さまに何か用事があったのかな?」
学校の昼休み、いつものように机を向い合せにして、私はユズちゃんとお弁当を食べていた。
十月ももう半ばを過ぎて、町はすっかり秋色に模様替えしてしまった。濃い緑色をした葉っぱの匂いも消えたし、ニイニイゼミで始まってツクツクボウシで終わった蝉たちの声ももうしない。夏服の期間が終わり、久しぶりに引っ張り出したブレザーを見ると、なんだが物悲しい気分になった。アイスを食べながら「あついあつい」と文句ばかり言っていたけど、私、夏は結構好きだった。
「茉里(まつり)は何をしてたんだと思う? その座敷童」
ユズちゃんが、お弁当の卵焼きをもぐもぐさせながら箸を私に向けた。お行儀が悪い。
「なんだろう? なにかお願い事かな?」
「座敷童ってさ、災いをもたらしたりとかはしないけど、結構悪戯好きなんだって」
ユズちゃんは、にやりとして言った。彼女の言うことはいつもテキトーだけど、そのかわり、いかにも本当のことのように話すのが上手だった。
本人は「茉里がぼーっとしてるだけだよ」って言う。けど前に朝の職員室で、もっともらしい「宿題を忘れた理由」を語り、国語の山内先生を言いくるめていたのを見かけたことがある。そういう才能があるから、ユズちゃんはきっと、将来は人前で話すような仕事に着くんだろうなあと、漠然と思ったことがあった。
「悪戯なの? それ、困るなあ。うちのキャベツとか大根があんまり虫に喰い荒らされないで済んでるのはもろの木さまのおかげだって、お父さん言ってたし」
駅前広場に立っているもろの木さまは、天原町の守り神だ。この町にあるどの木よりも長生きしていて、おばあちゃんやおじいちゃんたちからは、敬意を込めて「御神木」と呼ばれていた。
「うちの銭湯だって、なんとか閑古鳥が鳴かない程度にやっていけてるのはもろの木さまのおかげなんだって。もしそんな座敷童がこの町に住みついてたら、うちのばあちゃん黙っちゃいないわね。竹ぼうき持って飛んでいくと思う」
町の人たちにとっては、もろの木さまは特別な木だった。私たちが生まれて、ずっと住み続けて、育ってきたこの町を、もろの木さまは守ってくれている。どんなふうに守ってくれているのかは知らないけど、でも、小さいときからずっとそう教えられてきた。
だから、私もユズちゃんも、町の人たちはみんなもろの木さまに感謝してる。見た目はちょっと大きいだけの、古ぼけたスギの木だ。でも、それがもろの木さまなのだ。もしもろの木さまが、厳かで、立派な佇まいで、嘘みたいに背が高くて、この町をしかめっ面で見下ろすような木だったら、私はちょっと嫌だ。
「もし、もろの木さまに悪戯しようとしてるなら、相手が座敷童だって関係ないわ。今日部活終わったら駅に寄りましょう? 噂が本当かどうかも、確かめなきゃね」
ユズちゃんが真面目な顔をしてそう言った。私はぎくりとした。こういうときのユズちゃんはとっても分かりやすい。今までも、ユズちゃんと一緒にツチノコとか河童とか木霊とか、いろんな生き物を探しに行った。噂好きな天原町だけど、どういうわけかこの町には「胡散臭い噂」が立ちやすくて、ユズちゃんはそれをいつも見に行きたがる。もちろん、ツチノコも河童も木霊もいやしなかった。
今回もたぶん、ユズちゃんは座敷童を見てみたいだけだ。
「えー、でももしホントにいたらちょっと怖いな。お化けなんでしょ? 座敷童って」
「お化けでもなんでも、会ってみなきゃどんなやつなのか分からないじゃない。それに、座敷童サンのためにも、行って止めさせた方が良いわ。うちのばあちゃんがシバきに行く前にね」
放課後、ユズちゃんとは校門で十七時半に待ち合わせをして(私はちょっと溜息をついて)、いつものように音楽室へ向かった。
ごく普通の田舎の農家に生まれて、一人っ子だからか少々甘く育てられて、勉強は悪くもなければ良くもなく、身長が低めで(「ちび」って言われるのには慣れたけど、「ガキ」って言われるのはちょっと傷つく)、運動神経は絶望的。そんな私が唯一「特技」と呼べるものがあるとしたら、今、吹奏楽部で担当しているフルートだった。
小学校の頃からリコーダーを使う音楽の授業が好きだった。通信簿では、音楽は六年間ずっと「よくできた」だった。いつも「がんばろう」と励まされていた体育とは対照的だ。下校のときや家にいるときだって、私はいつもリコーダーを吹き鳴らしていた。
そして小学五年生の時の誕生日。お父さんとお母さんからのプレゼントを開けると、箱に入っていたのは銀色の横笛だった。とっても嬉しかった。私は、遊び盛りの子犬みたいに、家中を転がりまわって飛び跳ねて喜んだ。
最初は全然音が出なくて、一日中その強情な横笛と格闘した。リコーダーとは勝手が違う。ほんの少し吹きこむ息の角度が違うだけで、それは全く反応してくれない。すかすかと空気が通り抜けていくだけだ。
やっと鳴らすことができたフルートの音は、リコーダーよりも透き通っていた。それは、時々うちの畑を吹き抜ける風の声にも似ていた。
それから私は「横笛吹き」になった。この町にはあまりいない「横笛吹き」になれたのは、私のちょっとした自慢だ。
吹奏楽部では、週末の演奏会に向けて全体練習を繰り返していた。ただ、曲の後半の転調するところが全然合わなくて、顧問の富岡先生がその小節ばかりを何度も調整していたから、前半のソロだけの私はすごく暇だった。シンバルの田口くんにはもうちょっと落ち着いて叩いてもらって、ホルンの堤さんが音量を抑えてくれるだけで、上手くまとまるのに。
なんて、ちょっとした不満を頭の中に巡らせていたら、だんだん眠くなってきた。なにせ、暖房を効かせた音楽室はぽかぽかで、寝るのには申し分のない環境なのだ。シンバルの音もホルンの響きも、少しずつ遠退いていった。壁にかかっていたモーツァルトやベートーヴェンも、私から目を逸らした。そしてとうとう舟を漕ぎ始めた私を、隣に座っていたのんちゃんが小突いた。
「富岡にバレたら殺されるよ、茉里」
はっとして、私は目を擦り、椅子に座り直した。
「――うん、ごめん。ありがと」
「私だって暇なんだから。一人だけ譜面台に隠れて寝るなんてずるいからね」
そういえばのんちゃんのクラリネットも、転調のところは全く出番がなかった。
「分かってるー。でも、眠くもなるよ」
「分かってない。横笛吹きは、もっとしゃきっとしなきゃ。少なくとも、縦笛吹きよりはね」
「――そうなの?」
「そうなの。ほら、頭から通すって」
富岡先生が指揮棒を振り上げ、私は一時間ぶりにフルートを構えた。
吹奏楽部の練習が終わったあと、私はユズちゃんより先に校門に着いた。辺りはもうとっぷりと夕闇に包まれていた。グラウンドではサッカー部が最後のシュート練習を切り上げ、ダウンのストレッチをしている。野球部はもう練習を終え、残りの数人がげらげらと大きな声で笑いながら、駐輪場の奥にある更衣室へと向かっていた。
体育館の方から掛け声が聞こえる。校門側からはちょうど校舎の裏にあり、体育館の錆付いた屋根だけが辛うじて見えた。掛け声は女子たちのものだったけど、バスケ部かどうかは分からなかった。
学校の裏側にあるなだらかな丘は、夏はあんなに原色の緑だったのに、今はもうすっかりくすんだ茶色だった。そこから吹き下ろしてくる風は枯れ葉と土の匂いがして、おまけにすごく冷たかった。私はお母さんに編んでもらった紺色のマフラーをきつめに縛り直した。
少しして、ユズちゃんとバスケ部の二年生たちが、おしゃべりしながら現れた。私に気付いたユズちゃんは、遠くから手を振ってくれた。少しはにかんで、私も小さく手を振り返す。
バスケ部の女子たちは、互いに押し合ったり、体を触り合ったりして、何度も大笑いしていた。その中には、ユズちゃんも含めて、小学校も一緒だった子が何人かいる。
中学に入ってから、一気にみんなが大人になったように見えた。特に、バスケ部はみんな「早い」子たちだった。制服の着崩し方も、可愛い髪型も、化粧を覚えるのも、それに、男の子の話も。彼女たちは前に進む速さが全然違うんだという気がした。私なんかよりもどんどん前に進んでいって、そのうち全然知らない街に出て行って、後姿さえも見えなくなってしまうような気がした。
ユズちゃんもやっぱり、そのうちこんな小さな町から、さっさと出て行ってしまうのだろうか。
ときどき、本当にときどき、そんなことを考える。将来、この町での生活にはあっさり背を向けて、立ち去ってしまうのかな。私のところからは全然見えないところまで、遠く離れていってしまうのかな。
そんな日が来ても、私たちって、友達でいられるのかな。
「ごめんごめん、結構待ってた?」
それは、誰にも分からない。たぶん、もろの木さまだって分からない。それはきっと、私たち次第なんだと思う。
「もう、すっごく寒かったんだよー。早く行こう、ユズちゃん」
学校から天原駅まではそう遠くはなく、校門からすぐの橋を渡って、河川敷に沿って歩いて、商店街のあるところで曲がると五分ほどで着く場所にある。でも、家のある方向とは真逆にあるせいで、普段はあまり行くことはなかった。もろの木さまに会うのも、夏のコンクールで吹奏楽部のみんなと電車に乗った時以来だった。
久しぶりに歩いた河川敷は、校門よりもさらに風が強くて、その冷たさで頬がひりひりした。ユズちゃんの赤いマフラーが、大きくはためいている。闇の中で流れる川はどぽどぽと音を立て、少し不気味だった。
「会えるかな? 座敷童さん」
商店街に入って風が弱まり、私はやっとしかめっ面を元に戻した。
「目撃情報は、大体このくらいの時間帯よ。ちょっと寒いけど、条件は整ってるわ」
商店街は早くも眠りに就いているようで、もうほとんどのお店がシャッターを下ろしていた。薄暗い通りは人影も少ない。精肉店のおじさんと、呉服屋さんの若い店長さん。あとは駅から流れて家路を急ぐ人たちと数人、すれ違っただけだった。
「――会ったら、なんて言うの?」
「そうね、いきなり問い詰めるのも失礼だし」ユズちゃんは、にやりとして言った。「『よかったら、友達になって下さい』って、シタテに出てみようか」
座敷童と友達かあ。もしなれたら、それはちょっと面白そうだけど。でも、どうなんだろう。
「思ったんだけど、座敷童って、誰が最初に言い出したんだろう。ホントに座敷童なのかな」
「あたしは最初、野球部の古川から聞いたけど。まあ、ホントかどうかを確かめに行くんだから、その問いは無用よ」
古川くん――同じクラスの野球部で、ショートを守っていて、休み時間も授業中も、とにかく人を笑わせることに命をかけている、あの古川くんかあ。なんだか噂の信憑性に翳りが見えた。
商店街を抜け、私たちはとうとう駅前の広場に到着した。もともと小さな駅で、止まる電車の本数も少ない。それでも、町の中では人の集まる方だ。ただもう辺りは真っ暗で、人影はほとんどなかった。そして、真ん中にぽつんと佇むもろの木さまに目をやっても、そばには誰もいない。もろの木さまは一人で夜の空を見上げていた。
「いないみたい」
広場をぐるりと見渡してみても、座敷童らしい人影は見当たらなかった。駅から出てくるところの老夫婦と、ちょうど店仕舞いをしていたお弁当屋のおばさん。そして私たち二人だけだ。やっぱり、そう簡単に噂の大元と遭遇することはできない。会うことができなかったのはちょっぴり残念だけど、正直、ほっとした。
「しょうがない、張り込むわよ」
「――え、本気?」
耳を疑って、私は聞き返したけど、振り向いたユズちゃんの目は紛れもなく本気だった。
冷静になってみると、ツチノコのときも、河童のときも、木霊のときも、ユズちゃんは諦めが悪かった。そういえばユズちゃんはバスケ部で、ディフェンスとリバウンドの粘り強さに相当な定評があるらしい。悪さをする輩は竹ぼうきを持ってどこまでも追いかけるおばあちゃんと言い、このしつこさは「血」なのかもしれない。
私たちは、駅の改札口のそばにあるベンチに座り、もろの木さまを監視することにした。ぶるぶる震えながら、まるで雪山で遭難した登山者みたいに身を寄せ合って、座敷童が姿を現すのを待った。
佐渡原くんの描いたあの絵と同じ場所だとは、とても思えない景色だった。秋晴れの青空も、鮮やかに染まった紅葉もない。もちろん、あの不気味なほど表情豊かな着物姿の女の子もいない。どんよりとして、どこまでも暗い空。申し訳程度に等間隔で光る水銀灯。人気のない広場。一応石畳で舗装されているものの、それもずいぶん昔のもののようで、隙間からところどころ雑草が覗いているのだった。
もろの木さまは、時々吹きつける冷たい風に葉を揺らすだけで、じっと動かない。寒空の下、静かに、本当に静かに、佇んでいた。お年寄りには「御神木」と呼ばれるほどの由緒正しい木のはずなのに、見れば見るほど、やっぱりどこかみすぼらしい。幹はところどころ禿げているし、くねって伸びた枝も、全体的にちょっと傾いている。緑色の葉は、そのうち山の木々たちのように茶色に染まり、冬になれば落葉し、もろの木さまは素っ裸だ。真冬のもろの木さまは本当に寒そうで、見ているととても不憫になる。
第一「御神木」って、神社の境内とか、もっと相応しい場所に立っているもののような気がするけど。どうして、お世辞にも「神聖な場所」とも言えない殺風景な駅前の広場なんかに、ひとりぼっちで立っているんだろう。
張り込みを始めてから、三十分が経ち、一時間が経ち、まもなく時計は十九時を指そうとしていた。冷たい空気が頬を刺し、マフラーは意味をなさなくなり、足先の感覚がなくなってきた。
さすがのユズちゃんも「今日はもう……限界ね」と呟き、女子中学生二人の刑事ごっこはあえなく終了した。座敷童らしき人影は、とうとう現れなかった。気配さえも、なかった。
「なによもう! 噂なんてもう信じないんだから!」
広場を猛ダッシュで駆け抜けながら、ユズちゃんは後悔をぶちまけていた。
「ユズちゃん、それ毎回言ってるよ」
「だってー! 古川がかなり詳しくしゃべってたから、今度こそと思ってー!」
「古川くんの話だよー。三分の一も真に受けちゃダメだよ」
走ると顔にぶつかる風が冷たくて涙が出た。駅前広場を横切り、真っ暗闇の商店街に入る。
まさにそのときだった。
背中に、熱を持った何かを感じたのだ。
「えっ?」
びっくりして、振り返った時には、それはもう消えていた。背後には、さっきまでと全く変わらない、駅前広場と、もろの木さま。
「何、どうしたの? 座敷童?」
急に立ち止まった私に気付いて、ユズちゃんが言った。
「――いや、なんか」
それは、光だ。確かに、光だった。突然太陽が背後から照り付けたかのような、温かい、光の玉だ。
紛れもなくそれは、もろの木さまの辺りから向けられていた。方向的に、そうに違いなかった。それは、ぱっと輝いて、一瞬で消えてしまった。今はもう真っ暗闇に戻っている。
けど、私の身体にはその温かさが残っていた。それは、ほんのり緑色の、命の脈動のような、生き生きとした光だった。驚いたことに、さっきまであんなに寒くて凍えていたにも関わらず、背中にじんわりと汗をかいていた。百メートル走でゴールした直後みたいに、息が苦しかった。
「茉里? どうしたってのよ?」
「ユズちゃん、今の――今の、感じなかった?」
「今のって、何のことよ?」
「今のは、今のだよ!」
たとえ一瞬だとしても、あんなに煌々とした輝きだったのに、ユズちゃんは気付いていないようだった。そんなはずはない。私はたった今起きた出来事を、ユズちゃんに説明した。出来るだけ詳しく、分かりやすく説明しようとした。
なのに、なぜか話そうとすればするほど、説明が曖昧になって、やがて本当にそんなことが起きたのか、自分でも疑わしくなってきた。記憶には、きちんと残っている。残っているのに、それは事実のはずなのに、ところが振り返ると、冷え切った暗闇と孤独な御神木があるだけなのだ。
心臓が、どくどくと鳴っている。
「私、もしかしたら座敷童よりすごいもの見ちゃったのかも」
「えー! ズルい茉里だけっ! 一体何見たの!?」
考えた挙句、私のおつむでは、なんとも幼稚な言葉しか思いつくことができなかった。
「――妖精さん?」
◆ ◆ ◆
もしかしたら駅前広場での出来事は、一晩寝てしまうと全て忘れてしまうのではないか。そんな考えが頭を巡り、ちょっぴり床に着くのが怖くなったけど、翌朝目が覚めても「妖精さん事件」は、きちんと私の頭の中に残っていた。
むしろ、息を切らして家に帰って来た昨日の夜よりも、あの光の記憶は鮮明になったような気がした。人は寝ている間に脳の情報を整理するのだと、何かの本で見たことがあるけど、おおよそそんな感じで、朝食の席に着いた私の頭はとてもすっきりしていた。
「そりゃあ、茉里、あんた『八百万の獣』を見たんだぁ」
おばあちゃんがしわがれた声で発した言葉は、途中まで聞き覚えがあった。
お父さんとお母さんには、昨晩のことを話していない。私はちゃっかり、帰りが遅くなったときのために(突然、ユズちゃんに連れ出されてもいいように)、吹奏楽部の練習が長引くことがあると言っていた。昨日も家に帰ってきた時は、駅前で張り込んでいたことなんて、一言も口にしなかった。嘘をついていることはちょっと後ろめたいけど、でも、部活をサボって悪いことをしているわけじゃないもの。このくらいの「方便」は、女子中学生にも許可して欲しい。
ただそれに対しておばあちゃんには、なんでも話してしまうのだった。おばあちゃんは、門限に厳格だったり、規則や慣習に口うるさかったりするわけではない。むしろ、いつも穏やかで優しくて、時々私から見ても甘すぎるんじゃないかと思うくらいで、それ故に、何を考えているのか分からないこともあるような、そんなおばあちゃんだ。
学校の通信簿で下がってしまった教科のこととか、ユズちゃんとくだらないことで喧嘩し、口を利かなくなった一週間のこととか、横笛が上手に吹けなくなってしまったときのこととか、人に話したくないようなことも、おばあちゃんに「どおしたの?」と訊かれてしまうと、全部しゃべってしまいたくなる。溜めこんでいたものが、まるで砂時計の砂が落ちるみたいに、するすると口からこぼれていく。そして、そのことをゆっくりゆっくり話す私は、不思議と優しい気持ちになる。それはたぶん、ゆっくりゆっくり話を聞いてくれるおばあちゃんが、優しい気持ちの持ち主だからだ。
すっかり話してしまった私に、おばあちゃんは頷くだけか、時にはなんにも反応がない時さえある。でも、なんだか私は「もう大丈夫かな」って気持ちになるのだから、本当に不思議だ。
実は昨日のことも、おばあちゃんにだけはすぐ言おうと決めていた。なんだか今回のことは、そうしなきゃいけないような気がした。
だからこうして、朝ごはんにきちんと起きて、お父さんとお母さんの目を盗んで、私はおばあちゃんにこっそりと話したのだ。
「やおよろず? 神様なの?」
「いんや、神様とはちと違うんだけんどね。一人の神様に必ず一匹、お手伝いのもののけがいんだぁ。神様なんて全然見るこたぁねえけど、八百万の獣たちは、ばあちゃんも昔は時々見たもんだぁ」
やおよろずの、けもの。
「でも、全然獣っぽくなかったよ。ぴかって光ったと思ったら、すぐ消えちゃったし」
「そりゃあ、茉里、いろーんな獣がいるんだよ。なんせ、神様の数だけいっからねぇ」
じゃあ、私が昨日見た「八百万の獣」さんは、たぶん、もろの木さまのお付きの「八百万の獣」さんなんだろう。でも、どうして昨日の「八百万の獣」さんは、ユズちゃんには見えなかったんだろう。逆に、私には見えなくて、ユズちゃんには見える「八百万の獣」さんはいるのだろうか? いや、そもそも私だってちゃんと「八百万の獣」さんを肉眼ではっきりと見たわけではないわけで――
これは、私に何か特別な力があるのだろうか。でもその前に、どうしても気になってしまうことがある。
「おばあちゃん、やおよろずのけものって長いよ。『もののけ』さんでいいかな? そういう言い方って、失礼じゃない?」
おばあちゃんは、とたんに目を丸くした。それから大きな声で、まるで神社の鈴を思いっきり鳴らしたみたいに、がらがらと笑った。
「そーんなことで八百万の獣は怒ったりしねぇよ。大事なのは気持ちだかんねぇ」
そう言って、おばあちゃんは茶碗から白いごはんを多めに取り、ぱくりと食べた。いつもにこにこしているおばあちゃんだけど、何だか今日は余計に嬉しそうだった。
その日の朝、教室で会ったユズちゃんは、おはようの代わりに大きなくしゃみをした。
「もう踏んだり蹴ったり。昨日張り込んだおかげで風邪拗らせるし、帰り遅くなってばあちゃんに竹ぼうきで叩かれるし、茉里ばっかり何か見えたとか言って興奮してるし」
「なんかごめん――でも、きっとそのうちユズちゃんにも見えるよ。もののけさんは、神様の数だけいるんだって」
私は今朝おばあちゃんから聞いたことをユズちゃんに話した。
「そう言えば、うちのばあちゃんも似たような話前にしてた。『湯の神さま』がいて、その『八百万の獣』っていうのと一緒に、うちの銭湯を守ってくれてるんだって。まあでも、神様とか、茉里のいう“もののけ”とか、ホントにいるかどうか正直微妙だよね」
噂はすぐ信じるくせに、根は結構リアリストなのだ。
ユズちゃんは銭湯の娘だ。この天原町には全部で四つ銭湯があるけど、ユズちゃんちの「銭湯ゆずりは」は、私の家から一番近いところにある銭湯だった。ユズちゃんは大きくて古い木造家屋に三世帯で住んでいて、同じ敷地に銭湯もある。その建物から長い長い煙突が生えているのが、私のうちからも見えた。
杠(ゆずりは)家のおじいちゃんが亡くなってからは、ユズちゃんのおばあちゃんがほとんど一人でお店を切り盛りしていた。杠家のお父さんは小さな問屋さんを営んでおり、仕事であまり見かけない。お母さんは専業主婦だけど、その問屋さんの方の手伝いに出ていることが多くて、あんまり銭湯の経営の方まで手が回っていないらしい。
でも銭湯の経営くらい、ユズちゃんのおばあちゃんなら、あのおばあちゃんだったら、当分一人で元気にやっていけそうな気がした。あと二十年くらいは大丈夫なんじゃないかと思う。そのくらいユズちゃんのおばあちゃんはパワフルで、若々しさに満ちていた。
「今日、久しぶりにユズちゃんちのお風呂行こうかな。明日演奏会だから、あんまり遅くまではいられないけど」
「いいよ。ばあちゃんに言っとく。六時でいい?」
「うん」
小さい頃から、私はずっと「銭湯ゆずりは」の常連客だった。洗面器とタオルを抱えて、よくうちのおばあちゃんに手を引かれて出掛けていた。お風呂から上がるとおばあちゃんは決まって、ユズちゃんのおばあちゃんと井戸端会議を始める。番台のところで立ち話程度のときなら十五分くらいで済むけど、お客さんの入りが少ない時なんかは、休憩所になっている畳の小上がりに座って、小一時間以上も話しこんでしまう。
それを退屈そうに見ながら牛乳を飲んでいる幼い私の横で「ああいうのって、『湯端会議』とでも言うのかな」と、呆れた様子で私に話しかけてくれた少女がいた。私と同じくらいの歳の子だ。頭一つ分私より背が高くて、いたずらっぽい二重をしていた。ちょうど浴場から上がったところなのか、濡れた細い髪が頬にはりついている。そして、ずいぶんとつまらなそうな表情だ。
ユズちゃんだった。
中学生になって、さすがにおばあちゃんと手を繋いで行くことはなくなったけど、ときどきユズちゃんと時間を約束してお風呂に入りに行く。年季の入った浴槽と、曇りの取れなくなった鏡。観光客向けの旅館の温泉と比べれば、確かに劣るところは多いけれど、私は「銭湯ゆずりは」が大好きだ。ユズちゃんのおばあちゃんが毎日丁寧に手入れしている大きなお風呂で、ユズちゃんとおしゃべりをする。勉強のこととか、町に広まっているの噂のこととか、まだほんの少ししかしたことはないけど、好きな人の話とか。
学校の教室や帰り道では話せないこともある。でも不思議なことに、銭湯の湯船の中だとそれができる。ひょっとしたら「湯の神さま」が湯けむりで、余計な心の壁を隠して、見えなくしてくれているのかもしれない。
「演奏会って、どこで?」
ユズちゃんが、教室の時計をちらりと見て言った。
「香田市だよ。電車でここから四駅だったと思う。去年も香田の市民ホールでやったの」
「見に行こっか?」ユズちゃんが提案した。「ばあちゃんに演奏会のこと言ったら、きっと連れてってくれる。茉里のこと、お気に入りだから」
自分で言うのはちょっとおかしいけど、私もユズちゃんと同じ意見だった。ユズちゃんのおばあちゃんは、私のことを実の孫のように可愛がってくれていた。
たぶんユズちゃんのおばあちゃんは、演奏会でやるクラシックの曲なんて聴いたことないだろうし、有名な西洋の作曲家も、クレッシェンドもピアニッシモも、何ひとつ知らないだろう。
それでも、「茉里ちゃんが出るんだったらねぇ」と、香田まで足を運んでくれるのが想像できた。
市民ホールの観客席に、彼女はちょっぴり居ずらそうな顔をして座っている。でも舞台上に私を見つけると、大きく手を振る。隣りでユズちゃんが恥ずかしそうにその手を下ろさせようとしている。私はちょっとだけ笑って、富岡先生の指揮棒に集中し、横笛を構える。
「どっちでも。お店で忙しいと思うし」
「何言ってんの。あのボロ銭湯が忙しい時なんて、ほとんどないんだから」
そうかもしれないけど……と言いかけて、慌てて止めた。ちょうど良いタイミングで、朝の学活を知らせるチャイムが鳴った。
その日の夜、「銭湯ゆずりは」の暖簾をくぐった私を、ユズちゃんのおばあちゃんは顔をくしゃくしゃにして迎えてくれた。
「やあやあ茉里ちゃん、いらっしゃい! 待ってたんよぉ」
いつもの年季の入った番台の上で、いつもの年季の入った笑顔を見ると、とっても落ち着く。彼女の声はしわがれていて、ときどき早口で聞き取りづらい。けど、太くて、柔らかくて、丈夫そうな声だった。口からと言うより、身体全体から発せられているみたいだった。
「こんばんは。おばあちゃん久しぶり。お邪魔します」
「はいどうぞ。もうすっかり寒くなってきたからね。風邪ひいちゃわないように、ゆっくり温まっていきなさいね」
「うん。ユズちゃんもう来てる?」
「ああ奈都子と待ち合わせだったよねぇ? 全くあの子ったらねぇ。もうすぐ来ると思うから、待っててくれるかい?」
「私もちょっと早く来たから大丈夫」
女湯の脱衣所には先客が一人、畳の小上がりで休んでいた。甘味屋のおばちゃんだ。
「あら、津々楽さんところの。こんばんは」
私も「こんばんは」と会釈を返した。こじんまりとした脱衣所には、壁際の棚に脱衣籠がたくさん並べてある。竹で編んだ、こげ茶色の丸い籠だ。ほとんどが空っぽなところを見ると、今日も浴場はかなり空いているみたいだった。浴場の入り口には、曇りガラスの上から入浴マナーの黄色いポスターが貼られていた。その脇の冷蔵庫の中で、三色の牛乳がきんきんに冷えている。
部屋の隅っこのブラウン管テレビを見上げると、ちょうど六時のニュースが始まったところだった。
東京で五店舗目となる大型の商業施設の売り上げが、前年比の一・七倍を記録した。地域住民の反対を受けて見送られていたダムの建設は、来年四月の着工で押し切られた。一週間前の男子中学生の自殺は、級友によるいじめが原因だったことを、学校側が認めた。自殺した男の子の両親は、学校を相手取り起訴するのだという。
目のつり上がった、無機質な顔の女性キャスターが、坦々と原稿を読み上げていった。彼女の読む言葉たちには、全然現実味がない。テレビのニュースには、いつもそう感じていた。読み上げられた出来事が、悪いことなのか良いことなのか、私には判断できないときがある。極端に言うと、本当にあったことなのかどうかも、疑ってしまう。お母さんはよく居間でニュースを見ながら「世の中物騒ねぇ」なんて言っているけど、私はいつも思う。
お母さん、安心して。それは、テレビの中だけで起こっていることなんだよ。お母さんの言う「世の中」と私たちがいる「世の中」は、違うんだよ。「物騒」は、まだこの天原町には侵入していないんだから。
「ごめんごめん! お待たせーっ!」
ユズちゃんがお風呂道具を抱えて、更衣室に転がり込んできた。おばあちゃんの「奈都子! あんた約束も守れんのかい!」という怒鳴り声も、同時に響き渡った。
「あーやば! 茉里ごめんホント! ばあちゃんが竹ぼうき装備する前に、お風呂逃げ込もう!」
ユズちゃんはすごい速さで上着のフリースを籠に放り込み、もうティーシャツも脱ごうとしている。番台の上ではおばあちゃんが湯気を立てている。甘味屋のおばちゃんは、口を抑えて笑っていた。
「私は別に逃げ込む理由ないんだけど」
向こう側の「世の中」も色々賑やかだけど、こっち側の「世の中」だって、十分すぎるほど賑やかだ。意味合いは大分違ってくるんだろうけど、私はやっぱりこっち側の賑やかさの方が好きだ。
◆ ◆ ◆
ある一つの仮説が私の頭をよぎった。
よぎった瞬間は、それがほとんど確信に近いくらいに感じていたけど、前にお父さんが「人間、自分で思いついたものをすっかり“名案”だと思い込みがちなんだ。だから、いつも自分の考えを疑っていなきゃだめなんだよ」と言っていたことを思い出した。
そう言えば、その言葉と一緒に「お父さんも、お母さんが本当に最愛の人なのか、何度も疑ったもんだよ」という台詞もくっついていたことを思い出したけど、それにはすぐに蓋をした。お父さんの性格だと、本当に時間をかけて吟味をしたような気がして、娘の私としてはちょっと複雑なのだ。まあ、お母さんの性格だと、そんなことは笑って許してしまうんだろうなと思うけど。
とにかく、お父さんのアフォリズムの影響によって、私は自分の“名推理”を言いふらさずに思いとどまった。よくよく吟味をして、これはもう確実であろうとなったとき、初めて口にしよう。
その“名推理”とは、噂になっていた「座敷童」は、「もののけさん(もとい八百万の獣)」のうちの一人なのでは、ということだ。
恐らく第一目撃者が、もののけさんを見ることのできる力を持っていて、本人がそれに気付かずに、その風貌からてっきり座敷童だと思ってしまった。しかし実際には、もろの木さまのお付きのもののけさんで、おばあちゃんは昔はよく見たという「八百万の獣」の類だった。
そして、私があのとき見た、もとい感じた「光の玉」が「八百万の獣」だとすると、やっぱりあの場所には「座敷童」がいたのだ。どういった理由なのか、私の前では光の玉となって現出していたけど。
演奏会の日の朝。フルートの入ったキャリーケースを背負い、私は吹奏楽部の友達と一緒に天原駅のホームで電車を待っていた。
からりと晴れた秋の空は、とても高い位置に千切れた雲が残っているだけで、綺麗な水色がずっと遠くまで続いていた。この季節になると、晴れの日ほど放射冷却で朝が冷える。吐く息も白い。こんな時期からコートを着て、マフラーを巻いて、膝小僧を真っ赤にしている私は、果たしてこの冬を乗り切れるのだろうか。
吹奏楽部のみんなにはあの日のことを全く話していないけど、噂の「熱」自体はまだまだ残っているようだった。駅の構内に入るとき、みんな揃ってもろの木さまの根元を凝視していたし、「朝の六時から夕方までは姿を隠してるから、現れないんだって」とか「ジャシンのない、清らかな心の持ち主じゃないと見えないらしいよ」とか、まだ私が聞いたことのなかった追加情報を、みんな口々に話していた。ここまでくると、なんだか勝手に脚色されている座敷童がひどく不憫になる。必要の無いところにもたくさん尾ひれが付いてしまって、当の座敷童本体はすっかり見えなくなってしまっているような気がした。ところ構わずにょきにょき生えた、不格好な尾ひれを見ると、正直喉元まで来ていた「光の玉」も「座敷童もののけ説」も、全然言いふらしたりするような気分ではなくなってしまった。
「そう言えばさ茉里、今日見に来るの? 杠さんとこのおばあちゃん」
クラリネットののんちゃんが眠そうな声でそう言った。
「うん。昨日演奏会のこと話したら、そう言ってた」
演奏会の前日だというのに、結局昨日はうんと長風呂を楽しんだ。お風呂上がりにフルーツ牛乳を飲みながら、まだ眉間にしわのよっているユズちゃんのおばあちゃんに演奏会のことを話すと、あっという間にしわが口元に移動した。
「あのおばあちゃん、今も一人で銭湯やってるんでしょ? 元気だよねホント」
天原中の生徒達の中でも、ユズちゃんのおばあちゃんは有名だ。小学校の「体験入浴」で、みんな一度は「銭湯ゆずりは」に入ることになるからだ。
うちのお母さんがよくテレビを見ながら「物騒ねえ」と言っている事件は、本当に色んなものがある。けど、前に家族でニュースを見ていたとき、お父さんがお母さんに言っていた。昔に比べ、犯罪は加速度的に「個人主義」化していると。
強盗や強姦、殺人などの重犯罪が低年齢化している、なんて書き立てて、今や若い世代は「腫れ物」扱いだけど、実際に青少年の犯罪の件数が突出しているわけではないらしい。マスメディアがこぞってそういう事件を報道するのは、四十代の無職の男が「ついにやってしまった事件」よりも、毎日学校に通い、成績も悪くはなく、友達付き合いも多い、ごくごく普通の少年が「突然変貌した事件」の方が、目を引くからだ。まるで時代を象徴しているようなセンセーショナルさがあるからだ。
「人は自由で平等で、個人として尊重される。そういう教育をずっとずっとこの国はやって来たんだから、若い人も、四十五十のおっさんも、根っこの考え方は大して変わらないんだ」
お父さんは言っていた。事件は今、「個」の問題になってきている。本当は、人は自由でもなければ平等でもなく、個人として尊重される保障はどこにもない。それは、ちょっと考えれば当り前のことなのに、憲法はそれを否定しているのだ。それを勘違いしたまま、「個」を「公」に押し広げてしまったとき、事件は起こる。
昔は、例えば学生運動みたいに、ある考え方の集合体が勝負を仕掛けることで紙面を賑わせた。そこには、何か強い意志が働いていた。新聞やテレビは、それを伝達する役目を果たしていた。でも、今は様相を異にしている。
「最近のニュースなんかではさ、『どうしてこんなこと起こっちゃったんだろう』って思う事件が多いよね。そういう事件を起こしてしまう人は、大抵独りぼっちなんだよ。そして、当人にどうしてそんなことをしたのか訊いてみても、自分でも分からないって言うんだ」
お父さんは農家になる前、裁判所の職員として働いていたらしい。
「その人たちには、家族とかもいなかったのかな?」私は不思議になって訊いてみた。
「家族がいて、恋人がいて、友達がたくさんいても、独りぼっちの人は山ほどいるんだよ」
ふーんと、そのときの私は曖昧に返事をした。
お父さんの言葉の意味が全然分からなかったわけではない。ただ、全部分かったわけでもなかった。とりあえず私は独りぼっちだなんて感じたことはないわけだし、今のところはセーフだろう。私の想像力では、せいぜいそうやって安心することぐらいしか出来なかった。
話がかなり逸れたけど、「体験入浴」はつまり、大人になっても独りぼっちにならないようにするための練習なのだ。公共マナーをきちんと守って、みんなで裸になって、全員で同じことをするのは、「俺はこうだから」とか「私はそうじゃないから」とかいう「個人」が肥大してしまっては成り立たない。そういう「個」が最小化した場が、本来あるべき「銭湯」なのだ。
ユズちゃんのおばあちゃんは入浴マナーには厳しかった。かけ湯をしなかったりとか、男湯と女湯にひとつずつしかない五右衛門風呂を長時間独占したりとか、浴場内を走り回ったりとか、そんな不届きな輩は、一回目はイエローカード、二回目は永久追放となる。私が小学生のときに行われた体験入浴では、湯船でクロールした男の子が、まるでしゃぶしゃぶのゆで上がった肉みたいにお湯から引っ張り出されて、脱衣所に放り投げられていた。昨日あんなにバタバタと騒いでいたユズちゃんも、服はきちんと籠の中に入れていたし、浴場内ではいつもスロー再生されているみたいにおとなしかった。
ユズちゃん曰く、「もろの木さまと湯の神さまが監視してるから」なのだそうだ。 浴場の奥の壁面には、一枚の大きなペンキ絵が描かれていた。男湯と女湯で一枚の絵になっているらしいから、私は女湯側、ペンキ絵の右側しか見たことがない。
ペンキ絵と言うと、普通は富士山が描かれるものだと思うけど、「銭湯ゆずりは」の場合は違った。
女湯側には、薄い紫色の浴衣を着た女性が描かれている。それを着て歩くにはとても不便そうなほど丈が長い浴衣だ。古い家屋の縁側のようなところに彼女は立ち、少し上の方を見上げていた。男湯の方にはもろの木さまが描かれているというから、位置関係的に、きっと彼女はもろの木さまを見上げているのだろう。口元に少し笑みを浮かべ、とても上機嫌そうだった。右手には木製の柄杓を持っている。
彼女が湯の神さまだ。
そして、昨日ユズちゃんとお風呂に浸かりながら、なんとなくそのペンキ絵を眺めているとき、私がずっと不思議に思っていた謎がひとつ解けた。
湯の神さまの傍らに、一匹の大きな亀がいるのだ。縁側でひなたぼっこを楽しんでいるかのように、前足を畳んで寝そべっている。たぶんこいつは、前に動物番組で「ガラパゴス諸島特集」をやっていたときに見た、ガラパゴスゾウガメだ――そう思っていたけど、あんな地球の裏側の、閉じ込められた生態系からペンキ絵の題材をチョイスするなんて、甚だおかしかった。
それにペンキ絵の方の亀は、目は土偶みたいな横線で描かれているし、灰色の甲羅の隙間からは湯気(銭湯のペンキ絵だから、たぶんそうだと思う)が立ち昇っている。その湯気が湯の神さまの姿を四割ほど隠しているので、彼女の妖艶さを一層引き立たせる役目を果たしていた。この亀は、見れば見るほど似ていない。ガラパゴスゾウガメとは全然、似ていない。
きっとこの亀は、湯の神さまの「八百万の獣」に違いない。
大発見だと思ってユズちゃんにそう話したら、彼女の反応は随分とあっさりとしたものだった。
「まあ、湯の神さまと一緒にいるんだから、そうだろうね。ばあちゃんに訊いて確かめてみたら?」
「ユズちゃんは、この亀のこと気にならないの?」
「うーん。なんで亀なんだろうとは思うけどさ。これがその“八百万の獣”っていうのだとしても、へーそうなんだって感じ?」
銭湯の娘は、いるかもしれない噂の生き物には夢中になっても、実在しないとなれば、興味のかけらも沸かないらしい。
「ユズちゃん、バチあたるよ」
「バチよりも、ばあちゃんの竹ぼうきの方がずっと恐ろしい」
それも、一種のバチなんじゃないかなあと思った。
香田市の市民ホールで行われる演奏会には、付近の中学校の吹奏楽部が招かれ、毎年それなりの賑わいを見せる。天原中も六年前から招待されていた。一応プロの演奏家や音大の学生などが審査員となり、参加中学校の中で順位も付くので、長年吹奏楽部の顧問をしている富岡先生はこの十月に入り、少しずつ、しかし確実に笑顔が消えていった。
富岡先生は白髪頭もかなり後退してきた年配の先生だけど、音楽の授業ではとても優しいから生徒にも人気がある。だが、吹奏楽部の「顧問」としての富岡先生は、ときどき別人かと思うほど、生徒に罵声を浴びせる。グラウンドの隅にはナナカマドの木が植えてあるけど、演奏がボロボロだったときの富岡先生の顔は、ほとんどナナカマドの実の赤色に匹敵するだろう。ホルンの堤さんは、もうほとんど毎日泣いていた気がする。
ホルンって肺活量いるし、ボリュームを調整するのが難しいんだよね。「女子中学生に吹かせる楽器じゃない」ってのんちゃんが言ってたけど、一理あるかもしれない。
でも今日の演奏会、そんなホルン担当の堤さんにとって素敵なエンディングが待っていた。
我が天原中吹奏楽部の演奏は、富岡先生に檄を飛ばされ飛ばされ練習してきた甲斐あって、見事銀賞を受賞することができた。私のフルートのソロも、のんちゃんのクラリネットも華麗に決まり、繰り返し合わせた転調も上手く整い、拍手喝采で緞帳が下りた。富岡先生が解散時のミーティングで「堤、お前良かったぞ」なんて言うものだから、堤さんは最後の最後でまた泣いた。
みんなで肩を叩きあって、本当に感動的な場面だった。けど、私は別のことに気が取られていて、半分上の空だった。
ユズちゃんも、ユズちゃんのおばあちゃんも、結局会場には現れなかったのだ。
演奏の直前、舞台の上から客席を見渡した。うちのお母さんとおばあちゃんが中段の右端に並んで座っているのが見えた。お母さんは最近買って異様にハマっているポラロイドカメラを構えていた。部員の父兄や先生方など、知っている顔がいくつかあったけど、ユズちゃんたちを見つけることはできなかった。
昨日は「前の方の席、早めに行って取っとかなくちゃねえ」とまで言ってくれていたのに、どうしたんだろう。何か、急な用事が入ってしまったんだろうか。
帰り際のロビーで、お母さんが走り寄ってきて、ポラロイド写真三枚と千円札をくれた。
「お友達と寄り道してくるなら、あんまり遅くならないようにね」
銀賞おめでとう。お母さんは言ってくれた。おばあちゃんも隣りに来て、大したもんだねぇと、大きな声で笑った。
「うん、ありがとう」
写真三枚のうち、二枚はブレてしまっていて、残りの一枚も、ソロを吹き終わってほっとしている私の、隙だらけな表情の写真だった。私が目を細めて写真を見ていると、「お母さん、まだ修行中だから」と、撮影者は言い訳しながら笑った。
「ねえユズちゃん来てない? 昨日見に来るって言ってたんだけど」
お母さんにも訊いてみる。そのときちょうど、入口の方からのんちゃんたちの催促の声が聞こえた。みなっちとマコもいる。同じ吹奏楽部二年の、仲の良い三人だ。
「あら、そうなの? 私は見てないけど。月曜日に学校で訊いてみたら?」
杠さんのところは忙しいからねぇと、隣りでおばあちゃんが言った。
やっぱり、来ていないのだ。
「ほら、お友達呼んでるわよ」
「うん。じゃあね」
のんちゃんたちと合流して、私は市民ホールを出た。
今朝の冷え込みが嘘のように、ぽかぽかの陽気が町を温めていた。空気は冷たくても、陽のあたるところはコートなんていらないくらいだった。
散々迷った挙句、結局香田駅の前にあるチェーンのドーナツ屋さんでティータイムすることに落ち着いた。去年の演奏会の後も、同じメンバーで来た記憶がある。
とりあえずの話題は、九月にあった実力テストの結果に向けられた。私は思いのほか国語の点数が良かったけど、一年生の頃の単純な数学の公式がいくつか頭から抜けてしまっていたことが発覚した。塾にも通っているのんちゃんは五教科安定して八割をキープしていたらしいけど、みなっちもマコも結果は散々だったと聞いて、私は少し安心した。
十一月に入ると、すぐに二学期の中間試験が待ち構えている。その次は間もなく期末試験で、ぼーっとしてるとすぐに学年末。そして、あっという間に受験生だ。受験生になってしまったら、きっとこんなところでのんびりチョコレート・チュロスをかじったりする暇もないんだろうなと思うと、ちょっと気分が暗くなった。
勉強の話から、今日の演奏の話になり、最近聞いている音楽の話になり、芸能人やアイドルの話になった。四人ともすっかりしゃべり疲れて、帰りの電車では、天原駅までの四駅だけでも寝過ごしてしまいそうになった。
天原駅前の広場は、夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
少しずつ暖色に衣替えしているもろの木さまも、夕日に温められて心地よさそうに葉を広げている。やっぱり今も一人だ。
土曜日の夕方というだけあって、広場には人が多かった。家族連れやカップルも意外に多く、商店街の方も、こじんまりとはしているけど、それなりに活気があった。あの張り込みをした夜と比べると、広場全体に命が吹き込まれたみたいだ。
楽器を背負った四人の中学生は、疲れ切ってふらふらしながら広場を横切り、途中各々の家路に分かれ、じゃあまた学校でと、私は三人に手を振った。
のんちゃんは頭が良いから、たぶんこの町でも一番レベルの高い天原高校に行くんだろう。彼女が通っている塾は、ほとんど天高に合格するために開業されているような個人塾だ。毎年教室の窓ガラスに、昨年度の合格率が張り出されている。
みなっちとマコも、三年の夏からは塾に行くと言っていた。
「天高まではいかなくとも、柏高や緑が丘高あたりには、この身を繋ぎとめとかないとね。うちのお父さんやたら学歴主義でさ、それ未満は認めないって言われてる。成績によってはこの冬からもう塾行かされるかも」
マコはさっきのお店で、そんなふうに愚痴りながら、ため息をついていた。
受験。私はどうなるんだろう。もちろん全く何も考えていないわけではないけど、きっとちゃんと考えている人からすれば「考えてない」に等しいんだと思う。自分の進路を自分で決めるという実感は、まだ全然ない。
フルートの奏者になって、人のたくさんいるホールで、プロの楽団の人と一緒にコンサートを開く。拍手喝采の中、私は満面の笑みで礼をする。会場を見渡すと、見に来てくれた知り合いがたくさんいて、私はますます笑顔になる。
そんな妄想をしたことがあったけど、一方で、私は思っている。そんな出来過ぎた夢は、九十九パーセント夢で終わるんだろうなと。そして私は知っている。その夢が挫かれたとき、きちんとした仕事に就いて、それなりにまっとうな人生を歩んでいくためには、やっぱり勉強しなきゃいけないことも。
広場を見渡してみた。大人も子供も、男の人も女の人も、たくさんいる。この人たちの中で、一体何人くらいが残りの一パーセントを掴み取ったのだろう。もしくは、これからその一パーセントを掴み取る気のある人は、どのくらいなんだろう。
そんなことを考えながら、夕焼けの駅前広場に佇んでいる私の目に、あるものが映り込んだ。心臓がどくりと一回鳴いて、私は息を呑み込んだ。
もろの木さまの傍らに、忽然と少女が現れたのだ。
ほんの少し前まで、もろの木さまの近くには誰もいなかったはずだった。道行く人は多く、雑踏の中に見え隠れして確認しにくいけど、私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしていて、まるで何か語りかけているかのようにもろの木さまを見上げている、あの少女を見逃すはずはない。
噂は嘘じゃなかった。座敷童は本当にいた。
もろの木さまから十五メートルほど離れたところに突っ立って、私はその少女を見ていた。その姿から、目が離せなかった。雑踏が消えて、視界が狭くなる。
彼女は真剣な眼差しでもろの木さまを見つめていた。祈りを捧げているようにも見えたし、孤独な御神木を憐れんでいるようにも見えた。西の空から照りつける夕日を浴びて、その白い肌と、黒い瞳が輝いていた。
でも、座敷童がこんな時間帯に出現するという話は聞いたことがない。目撃情報では陽が落ちてから現れるということだったし、今はとても人通りが多い。白昼堂々と「噂」の当事者がこんな目立った行動に出ていいのだろうか。
そう言えば、噂では座敷童の服装については言及されていなかった。見たところ、真紅の着物を着て、綺麗な鼻緒の下駄を履いている――わけではなく、ベージュのダッフルコートに紺のスカートという出で立ちだった。
私の視線を感じたのだろう(なにせ、まるまる一分間くらい、じっと彼女を見つめていたのだ)、座敷童もこちらを見た。まともに目が合ってしまい、私はたじろぎ、一歩後ずさりしてしまった。彼女は着ているダッフルコートのボタンをちょっと触り、またもろの木さまを見上げたかと思うと、私に向かってつかつかと歩いてきた。
大丈夫だ。座敷童は悪戯好きだけど、災いをもたらしたいはしないって、ユズちゃんが言ってた。大丈夫だ。「もののけさん」って呼んでも、そんなことじゃあ八百万の獣たちは怒ったりしないって、おばあちゃんが言ってた。大丈夫だ。私はなにも失礼なことをしていない。何か被害を受ける謂われはない。何も――
「あなたは木行(もくぎょう)が一段階開いてるんですね」
座敷童は言った。私はぽかんと口を開けたまま、息もしていない。
「だからあなたには見えるんです。コノの端境(はざかい)で、普通の人に今の私は見えないのに」
学校の教室で、ゲームやアニメ好きの男子が全く意味不明な言語で会話しているのをよく見る。彼らの間でしか通じない異世界の言葉なので、随分真剣だけど、何がそんなに重要なのか分からない。大爆笑していても、何がそんなに面白いのか、皆目見当が付かない。
今、まさにあの感覚だった。この少女は一体何を言っているんだろう。
そんな状態の私を察したのか、分かりました、しょうがないですねえというふうに、彼女は口元で笑った。最初から投げ捨てるような感じのしゃべり方だったけど、笑い方もちょっと冷たい。幼げな顔とこじんまりとした背丈に不釣り合いな、大人びた微笑だった。
私は、そのときちょっと期待したのだ。きっとこの座敷童は、私にも納得できるように「専門用語」を説明してくれるんだ。見えるとか見えないとか、モクギョウがどうとか、ちゃんと分かる言葉に置き換えてくれるんだ。最近では実はこういう意味で使われているんですよ。ご存じなかったですか。高校で習いますよ。
「コノ。隠れてないで姿を見せてください。この人は、きっと力になります」
その期待は、次の瞬間、きれいに消し飛んでしまった。
彼女の頭の上の、何も無い空間。何かがまるでカーテンをめくるように、ひらりと姿を現した。
唐突に、しかしあまりに自然で、何も珍しいことじゃない出来事みたいに、その物体は登場した。
声が出ない。叫び声って、どうやって上げるんだっけ。私は息を呑みっぱなしだった。一体いつから呼吸をしていないだろう。
現れたそれは、生き物だった。背中に羽の生えた獣だ。うっすら緑色がかった体毛に覆われいる。胴とは不釣り合いなほど大きな頭は、球根……嘘ではない。本当に、球根のような形をしていた。
そして、その生き物は“言った”のだ。
「どうして最近の神子(みこ)って、こんな子供ばっかりなのさ?」
あら、これはこれはとっても流暢な日本語で。
私はもう、卒倒しそうだった。
タグ: | 【何してもいいのよ】 |
カフェラウンジ1Fに投稿中の「天原フォークテイル」の改稿、訂正版になります。
長くなった話数をまとめてこちらにストックしていく形になります。
気が向いたら、また頭から読んでみてください(^^)
よくやってしまうパターンをやってしまった名無しです。
はい、これからはちゃんと親記事に返信します。
さて、「なろう」様にて「ポケモンヒストリー」の最新話を23日午前0時に予約投稿しました!
今回はゲストとして、あのキャラを出しました。ほら、いつもルカリオと一緒にいるあの方です。
では、もしよろしければ上の《URL》からお入りください!直接「ポケモンヒストリー」へ繋がります。
感想もお待ちしておりま〜す!あ、なんならここの掲示板に書いてもらっても良いかも………
優しげな音色が水面上に響き渡る。
夕凪(ゆうなぎ)を迎えたばかりの海を、ぼくはじっと眺めている。
静かで、心地よかった。潮のにおいも薄い。肌をさする風はまだ少しだけ冷たくて、それでも緑に小さく彩られた森林をかき分けていく。さらさらと、どこかはかなげな風景なのに、夕日を包もうかとしている海の茫洋さはいつも通りだった。
ゆっくりと深呼吸を重ねる。そうだよなぁ、とあいつの顔を空に思い描きながら、顔をほころばせる。耳に淀(よど)む音色のひとつひとつを、できるだけはっきりと聞き分けていく。胸の中が少しだけ落ち着いた。海を見ていたつもりなのに、いつの間にか視線は空に送っている。ぼくの真上を通り過ぎる雲はひたむきに東を進んでいく。目を閉じれば、このまま眠りにつけるような気がする。
サメハダ岩の岬で振り子のように体を揺り動かしながら、何かを待っていた。
だれかを待っているという言い方でも当てはまるだろうし、もしくは時間が過ぎるのをただ肌を伝って、感じているだけなのかもしれない。それでも、待っているという意識が身に沁みついていた。その意識すらもが、今では曖昧になっている。
せわしく立ち上がった。おいおい、と自分に言い聞かせながら、額を一度、二度と強く叩いてみる。じんわりと痛みが頭の中に響いてくる。白く薄れていった音の余韻を、何とか耳に蘇(よみがえ)らせた。
さらさらとしていた。静かで、心地よかった。
これで最後だと言わんばかりに一息落として、夕日の沈んでいく海を眺める格好に戻す。
※
コト、と言います。はじめまして。今作「雲の行方(ゆくえ)」はポケモン不思議のダンジョン(時、闇、空の探検隊)の世界を舞台と定め、その中での四季を取り入れた作品となっております。
なお、一季ごとに四話を収録するつもりですので、つまりは全一六話の構成となります。基本的にこの形式を筋として、話を展開するようにしますので、ご理解よろしくお願いします。何らかの事情で変更があった場合は、投稿した一話の中にその内容を明記することとなりますので、あしからず。
ご一読いただきありがとうございます!そして感想まで書いていただけるとは……嬉しい限りです!
前の記事で申しましたように、この続きはこちらの掲示板ではなく、「小説家になろう」様の方へ投稿させていただいております。ですので、よろしければ上の《URL》からお入りくださいませ。「ポケモンヒストリー」へ直に繋がっております。ちなみに現在、「第21話」を執筆中です。
そしてできればですが、感想と評価もお待ちしております。閲覧も感想も評価も全部「無料」ですのでお気楽にどうぞ。
「言うだけタダ」ってやつですね(違うか)。
しかしながら当然、読んでいただけるだけでも嬉しいので、こんな駄文でよろしければこれからも読んでやってください!
では失礼いたします。
面白かったです(‘o‘)~ 続きも期待してます☆
ハイ。第一話「プロローグ:旅立ちと始まり」投稿させていただきました。
いかがでしたでしょうか?
もしも、「続きが読みたい!作者ムカつくけど!」や「まぁショボい匂いがプンプンするけど、「なろう」に行けばもっと面白い小説見つかるかもしんねーし、行くだけ行ってやるか」等という、暖かい気持ちになってくれた方は、上の《URL》よりお入り下さいませ。作者は寂しい気持ちでいつでもお待ちしております。
また感想や評価もすがる様な気持ちでお待ちしております。ちなみに現在、キャラ紹介も含め第20話まで投稿しております。
なお、今後については最初に申しました様に、「更新のお知らせ」のみの投稿となります。小説本文の投稿は行いません。
しかし、作者がこちらでも小説管理ができるまでレベルアップした時には、この掲示板にも本文投稿をさせていただくかもしれません。まぁ最初は様子を見ながらですね。
それでは私、今後も小説完結を目指して頑張りたいと思いますので、「ポケモンヒストリー」を何とぞよろしくお願いいたします!
待ってるよ〜!
夜………
とある地方のとある街の高いビル……
???「……………………」
その屋上から街を見下ろす人物が一人…………
黒いローブを纏い、表情も頭からすっぽりかぶったフードで見えない。
まさしく…………漆黒………………………
夜空に浮かぶ月の光が無ければ、その姿は夜の闇に完全に紛れていただろう……………
???「………………………………」
バタバタ………………
夜風がローブを撫でる……………………
その漆黒の人物はただただ、摩天楼の上から眼下に広がる街を見下ろしていた……………………
カントー地方・マサラタウン。
一言で言えば、田舎町。
大きなビルや建物はほとんど無い。それどころか車や人通りもまばらである。
唯一、この町の特徴をあげるとするならば、ポケモン研究の権威、「オーキド」の研究所があるという事ぐらいだろう。
だが………都会では決して手に入らないものもいっぱいある。
数年前、そんな町から一人の少年が旅立った。
彼の夢は「ポケモンマスター」。ポケモントレーナーの頂点に立つこと。
彼はその夢を叶えるため、多くの人々やポケモン達との出会いと別れを繰り返し、バトル&ゲットの日々を送った。
そんな彼も今では、カントーでは1、2を争うほどのトレーナーに成長していた。
だが、「ポケモンマスター」になるという目標は未だ達成されていない。彼の選んだ道はそれだけ険しいものなのだ。
そして、その夢の実現のため、少年は相棒のピカチュウと共に、再びここマサラタウンから旅立とうとしていた…………………
サトシ「じゃ、行ってきます!」
ハナコ「まったく忙しないわね……。もう少しゆっくりしていけばいいのに…………」
サトシ「そんなじっとしてらんないよ!俺はもっと……もっと強くなるんだ!!」
ピカチュウ「ピカチュウッ!!」
帽子の少年………サトシの肩に乗るピカチュウが「同じく!!」と言わんばかりに鳴く。
空は快晴。ポッポやピジョンといった鳥ポケモン達が気持ちよさそうに飛んでいる。
新たな旅立ちの日にはもってこいの朝だ。
ハナコ「ホント、あんたはソレばっかりね。10歳の頃とちっとも変わってないんだから………。」
サトシの母………ハナコが呆れ気味に言う。
サトシ「何だよ母さん。もっと明るく見送ってくれよ……。愛しい息子の決意の朝なんだぜ?」
ハナコ「ハイハイ。じゃあ、気をつけて行ってらっしゃい。身体は大事にね?」
サトシ「おう!行ってきま〜す!」
ハナコは遠ざかっていく息子の背中を見る…………もう何度こうやって送ったことか……………
小さい頃から二言目にはポケモンマスター、ポケモンマスターって………耳にタコができるくらい聞かされたっけ。まぁ今もだけと。
でも、もうあの子も17か……………ずいぶんたくましくなったわね………………
嬉しいような………寂しいような…………………
ハナコ(………さて。次あの子が帰ってきた時は何を作ってあげましょうかね?)
ハナコはその背中が点に見えるほど小さくなるまで見つめ、やがて家に入っていった……………
サトシ「う〜ん。ちょっと早すぎたかなぁ……」
ピカチュウ「ピカ〜……」
ハナダシティの駅の西口。
駅構内はサラリーマンやらトレーナーやらと、多くの人でごった返している。
そんな中、サトシはある人物達と待ち合わせをしていた。
時計を見る。待ち合わせ時間15分前。サトシにしては早い。
サトシ「しっかし変わったなぁハナダシティも………。」
いわゆる高層化。元々そんなに田舎町というわけではなかったが、10歳のころ自分が初めて訪れた時と比べれば、高層ビルやらなにやらが多く建ち並ぶ様になり、大分印象が変わっていた。
サトシ「この駅も昔は小さ………あっ!お〜いカスミぃ〜!!」
サトシは人混みの中に見覚えのあるオレンジ色を見つけ、大声で叫んだ。
それに気づいた少女がやや恥ずかしそうにしながら急ぎ足で近づいて来る。
カスミ「ちょっと!そんな大きな声出さないでよ!恥ずかしいじゃない!」
サトシ「いやだって、こんな広い所これくらいじゃなきゃ聞こえないだろ?」
サトシはまるで悪びれていない………………
カスミはそんなサトシに多少イラつくも、
サトシ「いやぁ〜でも久しぶりだなぁカスミ!ちょっとは女らしくなったんじゃね?」
サトシがそんな事を言ってきたので、とりあえずさっきのは帳消しすることにした。
カスミ「へぇ〜?あんたも少しは成長したじゃない。このアタシの魅力に遅れながらも気がついたなんて。」
サトシ「まぁ、だって元がアレじゃあさ……ってウソウソ、ジョーダン……ソレ当たったら怪我………」
カスミが近くの小石を拾おうとしたので、サトシは続きを言うのをやめた。
せっかく帳消しにしたのに…………マイナスに逆戻りである。
カスミ「ったく…………ん?あれタケシじゃない?」
カスミが向こうを見ながら言う。サトシもカスミが見る方へ目を移した。
サトシ「あ、ホントだ!お〜いタケシィィ!!こっちだこっち〜!!」
タケシ「おお二人とも!久しぶりだなぁ!」
細目の男。タケシの登場だ。
雰囲気は昔とあまり変わらないが、いくぶんか背が高くなったようだ。
サトシ「久しぶりだなタケシ!どうだ?彼女できたか?」
冗談気味に言うサトシ…………………が、
タケシ「サ、ササササササトシが…………彼女って……………言った……!?」
いきなりしどろもどろになるタケシ………無理もない。
それだけ目の前のサトシと言う少年は、そういう事に関しては超鈍感だという印象が強かったのだから。
サトシ「何だよ〜、そんなびっくりすんなよ〜!冗談だって!」
タケシ「サトシからその部類の冗談が出るとはな…………。この数年の月日は伊達じゃないってことか……。」
カスミ「アタシもちょ〜っとだけビックリしたわ……。でも行動が突飛なとこは今でも変わんないわね。」
タケシ「だな。いきなり「初心に戻りたいから最初のメンバーで旅しよう」だなんて……。まったく、人のこと考えてるのかよ。」
溜め息混じりに言うタケシ。
だがそうは言うものの、タケシもカスミもまんざらでもない様だ。
サトシ「ハハハ。でも二人とも来てくれたじゃん。やっぱ仲間だよなぁ〜俺たち!」
サトシは数日前、かのカントー最強のトレーナー、ドラゴン使いのワタルとバトルした。
何故そんな変則マッチが実現したかと言うと……………
カントーリーグ協会がサトシの有望性を買い、何とポケモンリーグ、四天王リーグともにすっ飛ばし、特別にワタルへの挑戦権を与えたのだった。
勿論それに勝てばチャンピオン………なわけではなく、あくまで腕試しの意味合いでという事だ。
そして当然サトシも意気揚々とそれに挑戦した。
だが結果は…………完敗。
何とか三体を戦闘不能に追い込んだものの………最後はワタルのカイリュー相手に手も足も出ず、ストレート負け。
その圧倒的な力の差にサトシは愕然とした。
だが………………
ワタル『君の再挑戦を心から待っている…………』
その言葉でサトシは吹っ切れた。
世界は広い…………俺はまだまだ強くなれる……………!
というわけで初心に戻り、一番最初のメンバーで修行の旅を再会しようというのだ。
サトシ「まっ!回るのはカントーだけだからさ!それまでの間つきあってくれよ!」
ピカチュウ「ピッカチュウ〜!」
ピカチュウが「ごめんね〜」と言わんばかりに可愛らしく鳴く。
カスミ「しょうがないわね。可愛いピカチュウに免じて、つきあってやるわ!」
タケシ「まぁ俺たちにとってもためになるかもしれないしな。ブリーダー修行の旅、再開だ!」
サトシ「そうこなくちゃ!よろしくな二人とも!」
バンバン!と、満面の笑みで二人の肩を叩くサトシ。
カスミ「イタ!?もうちょっと加減しなさいよ〜!」
サトシ「ハハハ!悪い悪い!」
やはり悪びれる素振りも見せない………………
カスミ「………で、カントー回った後はどうするつもりなのアンタ?」
サトシ「う〜ん、まだ決めてない。ホウエンにでも行ってみようかなぁ〜……。」
カスミ「ほぉ?ホウエンねぇ……。」
カスミは何故かニヤニヤしている……………
サトシ「何ニヤついてんだよ。気持ちわりぃなぁ。」
カスミ「アンタいつからそんな毒舌になったわけ!?」
サトシ「そんなのカスミの影響に決まってんだろ!」
カスミ「はぁ!?アタシそんなキャラじゃないわよ!」
タケシ「懐かしいなぁこの光景………。」
まるで姉弟喧嘩を見ている様だ…………前はこれが当たり前だったっけなぁ…………
などとタケシが遠い目をして物思いにふけっていると、
サトシ「ッッッッ!ああ〜もうっ!さっさと行くぞ!?」
喧嘩を強引に中断し、ズカズカと進んで行くサトシ。
カスミ「ちょっ、行くってどこ行くのよ!………ってもう聞いてないし……。」
タケシ「やれやれ、お前ら全然変わってないなぁ。」
カスミ「あんなお子ちゃまと一緒にしないでくれる?アタシはアイツと違って、もう青春をエンジョイしてるんだからね!」
意味深な発言をするカスミ………その顔はさっきサトシをからかった時と同じニヤけ顔である。
タケシ「え?……それってどういう…………」
カスミ「フフフ。ヒ・ミ・ツ!」
タケシ「……おいおいまさか…………?」
サトシとは間逆で、こういう事には悲しいくらいに敏感なタケシは何かに感づいた様だ。
カスミ「ハーイハイ、この話はここまで。さっ、サトシ追いかけましょ?このままじゃアイツ迷子になるから。」
そう言ってサトシを追いかけるカスミ。
タケシはそんな彼女の背を唖然としながら見る………………
タケシ「…………こりゃ、俺たちもうかうかしてられないな。サトシよ。」
そう静かに呟くタケシ。
とにもかくにも、こうして再び彼らの修行の旅が始まったのであった。
どこかの街のビルの地下……………………
???「…………状況は?」
低い。地獄の底から響いてくるかの様な声。
部下?「はっ!先程、監視の者から入った連絡によりますと、ターゲットは今朝マサラタウンを出発。現在はハナダシティ駅にてトレーナーと思われる仲間二名と合流したとの事です!」
部下と思われる男が軍隊じみた口調で報告をあげる。
???「仲間というのは?」
部下1「はっ!ニビシティジムリーダー・タケシ、ハナダシティジムリーダー・カスミと思われます!」
???「なるほど。昔のメンツと言うわけか……。監視を続けろ。動くのは奴らに隙ができた時だ。その際、他の者は適当に追っ払っておけ。目的はあくまでサトシ君のみだからな。」
部下1「はっ!」
???「よし。お前はもう下がれ。次の報告を。」
するともう一人の部下が前へ出てくると、先程の部下と同様に軍隊口調で、
部下2「はっ!解析は現在35%完了。このペースでいきますと10日後には完了いたします。」
???「思ったよりかかっているな。急げ。」
部下2「はっ!すぐに伝令を!」
バタン………部下達が扉を閉める音……………
もう部屋にはボスと思われる男一人しかいない。
少し手間取ったものの、こちらは近い内にメドがつくだろう…………………
後は………………
???「……『ワダツミ』…………か……………」
ポケモンマスターを目指し再び故郷を旅立つ少年、サトシ。
様々な陰謀が渦巻くこの世界を、彼はどう歩み、そして、何を見出すのか。
今………新たな歴史が刻まれようとしていた………………
どうも初めまして。「名無し」と申します。
私、現在「小説家になろう」様にて二次創作小説を連載しておりまして、それを一人でも多くの方に読んでいただきたく思い………ぶっちゃけ宣伝しに来ました!
本文はこちらには置かずに、「なろう」様の方をメインに投稿させていただこうと思います。
「なろう」様へ最新話を投稿時に、こちらの掲示板にその旨を伝える記事と小説のURLを置いていく………ってな具合です。
しかーし!
ここは小説投稿サイト。なのに本文は置かずにURLだけ置いてってヨロシクとはいきませんので、「小説紹介」や「あらすじ」、「キャラ紹介」、そして「第一話(プロローグ)」のみこちらに置かせていただきたいと思います!
という訳で、以下小説紹介です!↓↓
タイトル:ポケモンヒストリー
ジャンル:ファンタジー(ギャグも大事)
《あらすじと簡単な紹介》
さまざまな地方を巡り歩いてきたサトシは、その実力を買われ、なんとカントー最強のトレーナー・ワタルへの挑戦権を得る!しかし、世界は広かった……。
もっと強くなりたいと闘志を燃やすサトシは、初心に戻るため再び各地方への旅を開始する!熱いバトル、さまざな陰謀、そして恋………。
はたして、彼に待ち受けるものとは!?*****アニメの数年後の世界を舞台にしています。サトシ17歳です。映画との連動有り。オリキャラ&オリポケ有りです。物語的には「主人公が悪を倒しに行く」というものではなく、もう少し難しい感じにしたいと思っています。
《キャラ紹介1》
サトシ 17歳
「気合い」と「根性」でできた若きポケモントレーナー。相棒はずっとピカチュウ。そして夢もずっとポケモンマスター。
そんな彼も成長し、トレーナーとしての実力は今やカントーでは1、2を争う程に。しかし、調子に乗りやすい所や無鉄砲さなどは変わらず、精神面の成長はあまり見られない…………と思いきや、可愛い女の子を前にするとたま〜に赤面することも。でも周りと比べるとやはりまだまだ鈍感。
ハルカ 17歳
「ホウエンの舞姫」の二つ名を持つ。コーディネーターとしての実力はもはやトップクラス。
当然外見も成長し、だんだん「可愛い」から「綺麗」になってきた。何とファンクラブまでできたとか。内面的にもすっかり大人……………になった訳ではなく、同年代のヒカリや弟のマサトにまでいいようにからかわれるなど、「大人の女性」までの道のりはまだまだ遠い(笑)。
最近はコンテストどころか、周りを完全シャットアウトして猛特訓しているらしい。
タケシ 21歳
ポケモンブリーダーにしてニビシティジムリーダー。その幅広い知識でサトシ達をかげながら支える。皆のお兄さん的存在。しかし「お姉さあああああん!!!」なのは今でも変わらない……。
カスミ 19歳
自称「世界の美少女水ポケモンマスター(長っ)」。水ポケモンをこよなく愛するハナダシティジムリーダー。軽そうなイメージとは裏腹にジムリーダーとしては誰もが一目置く存在。
サトシだけでなく、ハルカやヒカリにもよく相談を受けるなど皆に頼られている。タケシがお兄さんなら、彼女は皆のお姉さん役と言ったところ(?)
マサト 14歳
ハルカの実弟。相変わらず生意気だが、彼ももう立派なトレーナーに。尊敬する父の様なジムリーダーになるべく、今は修行のため各地方へ旅に出ている。
姉であるハルカのことは気にかけていない様に見せてても実はお姉ちゃん子だったり(多分)。
ヒカリ 17歳
今をときめく「シンオウの妖精」。その人気はもはやアイドル並。同じコーディネーターであるハルカのことは良き友人兼好敵手として今でも慕っている。
超おしゃれ好きで人懐こく、今で言う「守ってやりてぇ」タイプ。でもカスミと一緒にサトシやハルカをからかうなど、以外と人を扱うのが上手いところも(良い意味でだよ?)。
同じくライバルであるノゾミと共にトップコーディネーターを目指し精進中。
□主な登場キーワード
・バトル&コンテスト、恋愛、オリジナルポケモン、オリジナルキャラ、水の民、波導使い、悪の組織
以上、小説紹介は終わりです。なお、他にもキャラは出ます。
では次の更新で第一話である「プロローグ」を投稿したいと思います!
興味の有る方はぜひご一読を!よろしくお願いいたします!
「うわあああ!」
レッドが驚き、
「おー!」
イエローがなぜか歓喜の声をあげ、
「えー……」
ブルーは若干冷めた声で呟く。
それもそのはず、3匹の目の前では大勢のワルビルが暴れていのだ。
その内の1匹と目が合うとそのワルビルが他の奴等に呼びかけ、ワルビル達が一斉にこちらへ目を向けた。 その目は血走っていて、レッドは先程のグラエナ達を思い浮かべた。
「こいつらを蹴散らせばいいんだな……イエロー、ブルー、行くぞ!」
レッドはそう叫ぶと、真紅のマントをはためかせワルビル達に向かって走っていく。
「うおっしゃー! いくぜぇ!」
「いちいちうるさいわね! まったく……」
イエローの叫びにブルーがすかさずつっこむと、2匹もレッドに続きワルビル達に向かっていった。
「グオオオオ!」
ワルビル達に飛びかかったレッドはその地の底から響くような唸り声に一瞬怯んだが、大きく息を吸い込み気を引き締め、自分に噛み付こうとしたワルビルに「かえんほうしゃ」を放つ。
その隙をついて地中から「あなをほる」を繰り出したワルビルをさっとかわし、尻尾にググっと力を入れ渾身の「アイアンテール」をお見舞いする。
その時レッドは気付いた。 なんだかいつもより力強い気がするのだ。 これが七色戦士の力だろう……これで「フレアドライブ」が出せればな、と一瞬思ったが今はそれどころではない。
レッドは4、5匹で襲い掛かってきたワルビル達を蹴散らす為、形だけでも……と覚えた「ニトロチャージ」でぶつかった。
同じ頃、他の2匹もいつもと違うことに気付いていた。
イエローは飛ぶように走ってワルビル達を翻弄し、木の枝に飛び乗ると「ミサイルばり」を連射する。 ワルビル達はそれを受け、倒れた。 しかしまだ沢山いるワルビルにイエローは舌打ちをしながら木から飛び降り、その急降下の勢いで「ずつき」をぶちかました。
ブルーはワルビルの攻撃をまともに食らっていたが、その体には傷1つ付いていない。 ブルーは体をかがめて「アクアリング」を発動し、とどめとばかりにワルビル達が繰り出した「すなじごく」をやり過ごして、「なみのり」で一気に吹っ飛ばした。
そうしてワルビル達をあらかた倒した時、先程と同じ振動と地響きが聞こえた。 3匹が聞こえた方を向くと、そこにはーー
イエローが口角を上げて呟く。
「……へっ、ボス登場……ってか?」
赤と黒の縞模様の体、大きく伸びた顎。 ワルビルと似ている目つきだが、威圧感はこちらの方が何倍もある。
ーーそこには通常の2倍はありそうな巨体の、ワルビアルが鎮座していた。
後編に続く!
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