マサラのポケモン図書館 カフェラウンジ2F(長めの作品用)
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  •   [No.1422] 滝の音の聞こえる場所2 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/27(Fri) 16:59:34     46clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    滝の音の聞こえる場所2



     四つ子を両腕に抱えている所為で廊下を塞いでいるモチヅキを、ウズは片手で追い払う。
     そしてモチヅキを先に行かせてウズが食事室に入ると、そこには果物の缶詰が開けられ、四本のスプーンが食卓の上に散らばっていた。
     ウズは黙って、缶詰を見下ろす。
     その傍で、モチヅキは小さな四つ子を、一人ずつ椅子に座らせていった。小さな四つ子はワンピースのようなものを着せられていた。そして四人とも三、四歳ではあろうに、首もすわっていないかのように、椅子や食卓になだれかかる。
     行儀の悪いことこの上ない。
     いや、それ以前の問題だった。
     モチヅキもまた椅子に腰を下ろし、小さいスプーンの一つを手にとっては、缶詰の中の果物の切れ端を掬って、四つ子の一人の口に運ぼうとしていた。
     ウズは重々しく口を開いた。
    「……モチヅキ殿、おやめくだされませ」
     モチヅキが振り返り、手を止める。口を開きかけていた四つ子の一人が、ぼんやりと宙を眺めていた。
     ウズは片手を振る。
    「……いかに庶子といえど、四條家の者に、かような物は食わせられませぬ」
    「缶詰は、駄目ですか」
    「既製品はなりませぬ。米と調味料は運んで参った。暫しその子供には我慢させましょう」
     ウズは息を吐きつつ、鞄の中から米の袋や、各種調味料を取り出し、台所の方へと歩いていった。
     ウズの予想した通り、炊飯器も、もちろん釜もない。しかし鍋はさすがにある。
     鍋さえあれば、米は炊ける。
     ウズは馴れきった手つきで、目測で米を鍋の中に流し込んだ。そして、水道の蛇口をひねった。
     しかし、水は一滴も出てこなかった。
     モチヅキが早足で台所に入ってきた。
    「申し訳ありません、ウズ殿。水道も電気もガスも止まっておりまして」
    「…………何じゃと」
    「四つ子の母親は、料金を滞納していたようでして。先ほど、私の携帯で再契約の申し込みを行ったところです」
     モチヅキが頭を下げる。
     ウズはますます鼻を鳴らした。
    「…………あのアホ息子の甲斐性を疑うわ。……モチヅキ殿、そのようにお手を煩わせてしまい、こちらこそ申し訳ありませぬ」
    「いえ」
     つまり四條家の当主の息子は、妾を囲っていたにもかかわらず、妾とその子供の面倒を見ていなかったのだ。そして、ウズに何も知らせないまますべてを押し付けた。そういうことなのだ。
    「……コケにしおって」
    「ウズ殿、いかがいたしましょう。果物が食べられないとなると、四つ子の食事は……」
     モチヅキに言われ、ウズは食事室を振り返ると、椅子に座らされた四つ子は無気力に食卓に脱力してもたれかかっていた。
     ウズは眉を顰めたまま、四つ子を見下ろす。
    「病気かなにかかえ。ものは申しませんのか?」
    「私が今朝がた家に入ったとき、四つ子は奥の座敷でぼんやり寝ていました。数日間ものを口にしていなかったようです。言葉は、一言も発しません」
    「知恵遅れか。……医者か……いっそ警察を呼んで児童養護施設にでも送るか」
    「おそれながら、ウズ殿。……四條さまのご意向で、四つ子はウズ殿と養親子関係になっております。児童養護施設行きにはできないかと存じます」
     ウズは胡散臭そうに顔を上げた。長く伸ばした銀髪が肩を滑る。
     黒髪のモチヅキは、黒い双眸でウズをまっすぐ見つめていた。


     モチヅキは現在、法科大学院生である。しかし学部在籍中に司法書士試験に合格しており、現在は院に通う傍ら司法書士事務所にも勤務するという、いわゆる秀才だった。
     その親に連れられる形で、モチヅキはかねてから四條家とも交流があった。現在の四条家当主の息子はそのような若い秀才と懇意にし、そして自分の婚外子に関する諸々の手続きをさせていたのだ。
     そのモチヅキが、淡々と語る。
    「四つ子の父君によって、養子縁組契約が整えられまして、現在四つ子の保護者はウズ殿でございます」
    「…………訳が分からぬ」
    「ウズ殿は、こちらへ何をなさりに来られたのですか?」
     ウズは鷹揚に頭を振った。
     むろん、この家に残された妾の子供の面倒を見るためだ。養子縁組だろうが何だろうが、ウズには関係ない。ただ四條家の子供を、四條家にふさわしい大人に育て上げることが、ウズの使命だ。
     ウズは改めて、幼い四つ子を見やった。
     四つ子の豊かな黒髪は、肩の下まで伸びている。けれどもう何日間その髪は洗われず梳られていないのか、傍目にも汚らしく乱れていた。
     手足は哀れなほどまでに細い。
     茫洋と見開かれた灰色の瞳は、母親譲りのものか。クノエの曇り空のように、無為といえば無為で、無垢といえば無垢な瞳だった。
    「……まず、体を洗うか」
    「水も湯も出ませぬが。早くても、明日までは……」
    「出湯に浸からせる。風呂屋は近くに?」
    「調べましょう」
    「食事処もな」
    「承知いたしました」
     モチヅキが食卓の上に置いてあった地図を広げ、風呂屋と食べ物屋を探し始めた。ウズは若い者を働かせつつ、四つ子を放置して、自分は家の中をゆっくりと見て回る。
     家はさほど広いというわけではないが、母親と子供四人という所帯では不便しないほどの空間が整えられていた。庭には池と、小滝まである。住む家を与えるだけ与えておいて、父親は母子を放置したのか。土地と家を持つだけで金がかかるということを当主の息子は知らなかったのか。なんにせよ、甲斐性なしに違いはない。
     ウズは瞑目して、暫し小滝の音に耳を澄ませていた。



     モチヅキに家の手入れをさせておいている間に、ウズは幼い四つ子を風呂屋へ連れて行った。
     しかし、四つ子は歩くことはおろか、立つことすらできないようだった。
     仕方なくウズは風呂屋まで汗をかきながら四つ子を抱えて連れて行き、そして苦労してワンピース然とした服を脱がすと、四つ子は下着を着ておらず、ウズはそのことに酷くぎょっとしつつも、脱衣が楽であることに安堵した。
     四つ子は立つことはおろか、座ることすらできないようだった。
     風呂屋の床に寝転ぶ四人に湯を浴びせ、石鹸を付ける。泡立たない。まったく泡立たない。
     どれほど体が皮脂で汚れているのか、想像するだにウズは怖気が走った。とはいえ、ウズの生まれた島でも石鹸などなかったのだから、考えてみればはるか昔の暮らしも今からすれば相当不潔だったはずだ――。そのようなことをぼんやりと思いながら、一人の体につき三回洗ってゆすいでを繰り返し、そしてまだあと三人、汚れた子供が残っている。
     湯船に浸からせるのは、危険すぎてできなかった。
     四つ子を一人ずつバスタオルにくるむようにして手早く水気をふき取り、浴衣を着せ、そして再び四つ子を抱えてひいひい言いながらウズは食事屋に行った。
     油脂分の多いリゾットを渋々と注文し、これまたテーブルにだらしなく突っ伏している四つ子の口に、スプーンで掬ったリゾットを差し出す。
     すると、ウズが息を吹きかけて冷ましたはずのリゾットがまだ熱かったのか、その四つ子の一人が急に泣き出した。
     そして、それにつられて、他の三人も泣き出した。
     四人で一斉に泣き出した。
     それは煩いどころの話ではなかった。道路工事もあわやという騒音である。先ほどまでのぼんやりとしていた子供のどこにそのようなエネルギーがあったのか、四つ子は暴れ、椅子から落ち、床でぎゃんぎゃん泣き喚いた。
     さすがのウズも狼狽するしかなかった。
     周辺の人に眉を顰められてしまいつつも、近くの席にいた婦人たちが四つ子を宥めに来てくれて、その場は何とか乗り切った。


     ――と思ったら、それ以来、四つ子はウズに抱き上げられると、ひたすら泣き騒ぐようになった。
     立たない、喋らない、座らない。
     寝るか食べるかだ。
     それも、ウズでは無駄だった。ウズが傍にいると四つ子は眠らないし、食事もとらない。
     大学院に通う傍ら事務所でも働いているモチヅキが、暇を見つけてウズの元を訪れ、そしてモチヅキが四つ子をあやすと、ようやく四つ子は落ち着くのである。モチヅキが食べさせると、四つ子はよく食べた。しかしウズが同じことをやっても、四つ子は頑として粥を口にせず、むしろ癇癪を起こしてスプーンや椀を床にはたき落とす。
     四つ子は、モチヅキにばかり懐いている。
     それはウズに罪悪感を抱かせたし、もちろんウズの矜持を傷つけもした。今まで四條家の子女を何十人何百人と面倒を見てきたウズは、いわば子育てのベテランである。四つ子の食事や着物を用意することにかけては、ウズ以上の適材はなかった。なのに、四つ子はウズの思い通りにはどうしてもならない。
     母親の血のせいだ、とウズなどは思う。カロスの女の血が混じったから、四つ子の気性は醜いのだ。
     モチヅキは四つ子の世話をする時間をとるために事務所を辞め、院の授業がない時間帯はほとんど四つ子の面倒を見に来た。そうして一方では司法試験にも合格しつつ、果たしてどうやったものか、モチヅキはとうとう幼い四つ子をまっすぐに座らせ、立たせ、歩かせ、言葉を教え込んだのである。
     なるほどモチヅキは秀才なのだろう。
     けれど、四つ子のねじくれた心根を矯正することはできなかったようだ。
     走り回るようになり、様々な言葉を覚えた四つ子は、ウズを嘲る。

    「ウズのばーか! しーね! ぶーす! ぎゃーははははは」
     最も攻撃性の強いのは、レイアである。ウズは自身への警告の意も込めて、レイアに赤い着物を着せている。

    「ウズってさぁ、優しいけど、けっきょく僕らのこと馬鹿にしてるよね? そうだよね?」
     いつも笑顔で、時折さらりと毒を吐くのは、キョウキである。しかしウズにとっては作り物のその笑顔だけでも癒しに感じられるので、キョウキに緑の着物を着せている。

    「ぎゃー! ウズだーっ! にげっ……ぴぎゃあああっ――おでこ打ったぁぁぁぁ――痛いよぉぉぉぉぉ――っ!!」
     ぴゃいぴゃいとひたすら喧しく、物覚えの悪いのは、セッカである。これはとても朗らかで無邪気だが、そのぶん馬鹿なことを素でやらかしがちなので、ウズは自身の注意を引くように、セッカに黄色の着物を着せている。

    「モチヅキさま、モチヅキさま、まってください」
     そして、モチヅキを特に慕っているのは、サクヤである。モチヅキにばかりくっつき、そしてウズをほとんど無視している。その冷淡さを表し、ウズはサクヤに青の着物を着せている。



     四つ子はウズの作った温かい食事と着物と、そしてモチヅキの世話によって、すくすくと育った。
     ユディという友達もでき、四つ子はクノエを駆け回って遊ぶ。
     しかし、ウズはどうしても四つ子が好きになれなかった。
     四つ子は成長しても、ウズに素直な笑顔を見せることはない。四つ子はウズの前では、嘲笑しか見せなかった。ウズを嘲り、殴り、悪戯を仕掛ける。
     四つ子は身勝手なのだ。
     その四つ子も、間もなく十歳を迎える。
     四つ子の将来を問うべく、ウズはエンジュの四條家に手紙を送った。
     ――しかし、返事はなかった。


      [No.1421] 滝の音の聞こえる場所1 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/27(Fri) 16:57:51     44clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    滝の音の聞こえる場所1



     ウズの記憶の底にあるのは、轟轟と流れ落ちる滝音だった。
     目を閉じれば、思い出す。


     その次の記憶は、貧しい海辺の村――胆礬。
     白銀の髪を持つ童子は、白銀の毛皮の海獣によって滄溟の彼方から送り届けられてきたのだった。その童子が銀色の羽根をその小さな掌に握りしめ、そしてその首には、かつて海神に嫁いだ胆礬の娘の持っていった海鳴りの鈴が掛けられていたことから、この童子は海神の子であると胆礬の島人は断じた。
     海神は胆礬の遠い沖、渦潮の島に棲み、胆礬の島に海の恵みをもたらすが、時折気まぐれに荒ぶっては、胆礬の島に津波だの高潮だの竜巻だのを叩き付ける。だから島人はそのたび海神の怒りを鎮めるため、乙女を差し出した。乙女は海神の妻となり、生贄となり、海を鎮める。島人は海神を畏れ敬い、祀ってきた。
     白銀の髪の童子は、海神と、捧げられた乙女との間に生まれた子なのだ。
     そうしてウズは幼い頃から、神子として、胆礬の社で勤めることになった。
     いつしか渦潮の島をもじり、ウズの名で呼ばれるようにもなっていた。


     胆礬での暮らしは貧しいながら、穏やかなものだった。
     海の恵みを糧に、月の巡りを目当てに祭りを催し、細々と島人は互いに助け合い生きてきた。
     ウズは海神の社で、その島人達の暮らしを見てきた。
     神子といわれても、ウズには神通力も何も備わっていなかった。ただ生まれつきの銀髪を敬われ、島人達が運び込んでくる海の幸を食って生きてきた。父だという海神からの便りも遣いも一切無かったが、それでも信心深い島人はウズを海神の子だと信じて疑わなかった。
     そうして、島に災厄は訪れた。
     ――疫病である。

     前兆はあった。
     渦潮の島の祭りの最中に、不吉な魔獣が現れたのだ。
     白い毛皮、黒い片角、紅い眼。
     その魔獣が渦潮の島に現れると、地が揺れ、津波が村を呑み、病が流行ると古くから伝えられている。
     大人たちが慌てて追い払ったが、実際に、災いは胆礬の島を襲った。

     多くの島人が死んだ。神子として崇められるウズも、島人に請われて、父なる海神の救済を願ったが、海神は依然として腐った魚しか島に贈りつけなかった。余計に病は広がる。
     神子と敬われたウズには、何もできなかった。
     だから、島人はウズを殺すことにした。
     表向きは、ウズを渦潮の島に送って父なる海神に直に慈悲を乞わせよう、という話であった。
     しかし本音は、そうでもしなければ島人の怒りは収まらないというところだった。
     神子と敬い、島人が総出で大切に養ってきたのに、いざ島が危難に見舞われても神子が何もしないなど、ありえない。何のための、海神の子か。否、真に海神の子だというならば、父神にその願いを叶えさせ、島を救ってみせよ。それができぬならば、ただの海の藻屑と消えるがいい。生贄の一人でも送れば、海神も気をよくするやも知れぬ――。
     そうしてウズは、重石をつけられ、崖から海に突き落とされた。




     次にウズが気が付いたのは、浅葱の浜辺だった。
     傍らにはやはり、白銀の海獣がいた。海獣はウズの気の付くのを見定めると、ウズの傍に食べられる貝やら腐っていない魚やら、美しい大粒の真珠やらを残して、渦潮の島へと去っていった。
     ウズは貝や魚で食いつなぎ、海藻のように垂れさがるぼろぼろの衣を引きずり、あてどなく陸地をさまよった。海獣に与えられた真珠が市でひどく高値で売れて、それがきっかけでいつの間にか美しい着物を着た人々に見初められ、そうしてウズはどういう経緯でか『ちはや』という家に奉公に勤めることになった。
     ウズは『ちはや』の屋敷に招き入れられた。
     美しい衣を着た男女が、座敷で踊りの稽古に励んでいる。
     『ちはや』の家は芸事の家らしく、踊りの他にも茶やら花やら、多くの弟子が出入りして、ひどく賑やかだった。ウズも下働きをするうち、そのうち当主に気に入られて芸事を習った。ウズの裁縫の腕がひどく重宝され、当主の寵愛いよいよめでたく、やがては『ちはや』の家の子女の養育を任されるまでになった。

     けれど、ウズは年老いることがなかった。
     あるいは海神の子というのは真実だったのかもしれない。『ちはや』の当主が没し、その子が当主となってやはり没し、さらにその子が老年で没しても、ウズは神子の頃の若い姿を保ち続けたのである。
     ――人魚ではあるまいか。
     そのような噂が立った。ウズは恐れられ、しかし人魚の血肉を食らえば不老不死を得られるなどという話も手伝って、奇怪な連中が『ちはや』の家のあたりをうろつくようになった。
     そうして『ちはや』の何代目かの当主の判断があり、ウズは屋敷の奥に閉じ込められることとなったのだ。



     『ちはや』の家の人魚は、座敷牢に軟禁されていた。
     日に三度の食事は届けられる。
     その代わり、繕い物も届けられる。ウズは日々針と糸を操り、着物を仕立て続けた。
     庭にあつらえられた、小滝の音を日々聞きつつ。
     ウズは時折、障子を細く細く開けては、座敷で行われる踊りや茶や花の稽古を見ていた。美しい色とりどりの着物を着た男女が、華やかな芸事を嗜む。男女は年月とともに色衰え、新たな蕾や花が現れ、やはり趣深く枯れていっては、新たな花の中に埋もれ、露のように果ててゆく。
     人魚は、それを見つめていた。
     小滝の音の中。
     幾百、幾千もの花が開いては枯れ落ちるのを見てきた。
     そして芸事にばかり興じることのできる平和な世も、永遠には続かなかった。
     『ちはや』の家は栄華を極めたが、頂点に花開くほど欲は深くなり、醜い権力闘争に血道を上げることとなった。父子兄弟は互いに憎み合い、『ちはや』の家は分かたれる。
     そしてとある夏の日、当時の当主の四男坊が、ウズの閉じ込められていた座敷牢の格子をぶち破り、ずかずかと牢に踏み込んできた。
    「……人魚。共に来やれ」
    「……不躾な」
     ウズは目を潜め、まだ若く色白な四男坊をじとりとねめつける。それでも針を持った指先は勝手に動き続ける。すると四男坊は、ウズから縫いかけの着物をむしり取った。
     ウズの腕を掴む。
    「そなたのためじゃ。兄上や我が弟どもは、そなたという人魚の血肉を上様に献上し、官位を得んとしておるぞ。そなたがまこと人魚か甚だ疑わしいが、醜き争いの贄となるのも詮無かろう」
    「あたしが人魚や否やは、あたしも知りませぬ。されど、あたしは抗うに飽いたのじゃ。ただ泡沫の如く、浮世の流れに身を任せるまで」
     ウズは淡泊にかぶりを振る。
     すると、四男坊は強引にウズを掴んで立たせると、背負った。
    「流れに身を委ねるというならば、大人しゅうするがよい」
     ウズもその通りだと思った。なるように任せるしかないならば、このまま四男坊に連れてゆかれるままにする他ない。
     滝近くの山奥の里に逃げ込んだ四男坊とその家族と、そしてウズは、そこで陰謀や戦乱を避けつつ、芸事を伝え続けた。
     『ちはや』――千剣破家は消え去った。百磯城、十束、一條、二條、三條、四條、五條、六條、七條、八條、九條の家に分かれ、そうしてその中のいくつもの家が破れていくのを、ウズは四條の家から見ていた。
     ただ、世の流れに身を任せ、そして四條の当主が芸事に励む傍ら、ウズはもはや座敷牢に囚われることもなく、ただ四條の子らの養育に努めた。着物を縫い、当主の若き妻らに奥方の心得を説き、代々の当主に助言を与え続ける。
     四條の家を護ってきたのは、ウズなのだ。
     時代は流れる。
     四條家はみやこへ戻り、いくつもの戦火を潜り抜け、そうして踊りを伝え続けた。戦なき平和な世をもたらす霊鳥を招く舞を。
     ウズはそれをすべて見てきた。





     ウズは跳ねるスーツケースを宥めつつ、曇天の下、クノエの石畳を歩いている。
     地図は頭に入っていた。見事な紅葉には趣を感じつつ、ただ慣れない土地の水でうまく暮らしてゆけるか、漠然とした不安はあった。ウズは現在に至るまで、ジョウトの地から出たことはなかったのだ。
     なぜ、このようなことになったのか。
     ウズは歯噛みする。
     自分は、四條の家を古から守り続けてきた。次期当主を養育し、芸事の稽古もつけ、華やかな衣装を縫ってやる。それがウズのすべてだった。
    ――それがまさか、庶子の面倒まで見させられるとは。
     ウズは何度目か、不機嫌に鼻を鳴らす。
     現在の当主とその息子は、ウズを奇怪な人魚か、あるいは便利な子守人形としか見ていない。しかしウズもそれに不満を唱えたわけでもない。ただ、不気味な人魚として、あるいは無害な人形として、振舞い続けてきた。四條の家以外に、居場所を見つけられそうになかったから。
     ウズが向かっているのは、現在の四条家の当主の息子の妾の家だった。
     当主の息子には、既に嫡子が数人ある。現代では子供が急死することなどほとんど見込めない。であれば、ウズにとって庶子など、まったくどうでもよかった。庶子など、いてもいなくても、四條家の存続にほとんど影響はない。それどころか、昨今の平等だとかいう言論に勢いづいて、四條家の安寧を脅かしかねない。近年にも非嫡出子の相続分が嫡出子と同じとするとかいう、ウズの価値観では理解できない法改正がなされたばかりだ。
    「……なぜ、あたしが、妾の子などを……」
     矜持を引きずり、ぶつぶつと毒づきながらも、ウズはその家の前に立つ。帯の間から鍵を取り出し、錠を開けた。
     スーツケースを玄関の中に入れ、ウズは下駄を脱ぎかけた。
     その家は存外、洋風の造りではなく、エンジュの歴史ある家のような造りをしていた。当主の息子が普請し、妾に与えたものだろうか。とりあえず、居住空間ではカルチャーショックを受けることはなさそうだと、ウズは僅かに息をつく。


     間もなく、一人分の足音が玄関まで、ウズを迎えに来た。
    「ウズ殿。失礼しております」
    「……モチヅキ殿か」
     ウズはわずかに顔を上げ、その人物の姿を認めた。
     腰ほどまでの黒髪を緩い三つ編みにし、ブラウスにスキニージーンズを身につけた大学院生のモチヅキが、両腕に何かを抱えて立っている。
     ウズは重い鞄を抱えて、上がり框に足袋の足を踏み出した。
     そして、モチヅキの両腕に抱えているものに目を留めた。
    「……それは」
    「この家の、四つ子です」
     よく見ると、モチヅキの右腕に二人、左腕に二人、子供が抱えられていた。
     両手両足を投げ出し、その身は痩せこけ、黒髪はぼさぼさ、灰色の眼は虚ろである。
     ウズは、どさりと荷物を取り落とした。
     開いた口が塞がらない。
    「……四つ子、じゃと?」
    「はい。……もしや、ウズ殿はご存知ではありませんでしたか」
    「……――あのアホ息子」
     ウズは歯噛みした。
     四つ子などと、聞いていない。ただ当主の息子から、愛人が亡くなったからその子供の面倒を見てほしいと、本当にそれだけ聞かされたのだ。
     小さな四つ子は、大人しくモチヅキに抱えられていた。ウズを見ることもなかった。


      [No.1420] 気が付くと、生きていた 1 投稿者:まーむる   投稿日:2015/11/27(Fri) 01:11:53     40clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

    頭の中の構想が、何か消えなかったからちょっと始めてみる。
    流血表現があります。
    -----------

     空は、青かった。
     それは、長い、永い時が過ぎようとも変わらない事だった。
    「どうだい?」
     デンリュウが話し掛けて来て、俺は答えた。
    「悪くない」
     風がなびく。無意識に翼を広げていた。
    「あ、どっか行っちゃうのは勘弁ね。マスターに言われてるから」
    「マスター?」
    「君を生き返らせた人間。僕の主人」
     へぇ。あんなか弱そうな奴に従ってんのか、こいつは。
    「少し位なら良いだろ?」
    「いやぁ、僕が追いつけなくなる場所まで行っちゃうと困るなぁ」
     デンリュウと呼ばれる奴の、手と足をじろじろ眺めて、俺は溜息を吐いた。
     二足歩行で、ぺたぺたとしか歩けなそうな短い足。腕も、そんなに長くない。不便そうだな。
    「ったく」
     俺が空を飛ぼうとすれば、すかさず拘束しようとでもするんだろう。
    「今は、いいか」
     名残惜しく、俺はまた空を眺めて、翼を収めた。

     デンリュウに連れられて、俺が生き返った建物の中に入る。正直、四方八方を壁で囲まれているのは狭苦しいと感じるが、仕方ない。
     生き返らせて貰った以上、そんなに文句は言えまい。
     それに、聞きたい事も沢山あった。
    「……なあ、俺が生き返った直後にお前、言ったけどさ、俺が生き返るまで、大体、二億年って言ったよな。億年って、どの位なんだ?」
     少し、聞くのが怖かった質問だった。
    「季節が、一周するのが一年って呼ぶのは、良い?」
    「……ああ」
     デンリュウは、短い腕で少しの幅を作った。
    「これが一年の長さだとしよう」
     そうして、片腕で、遠くにある山を指した。
    「あそこの頂上まで、この長さを延ばしても、全く、本当に微塵たりとも足りない位」
     ……。
     …………。
    「は? え、それは」
    「そう。君が想像出来ない程の、とにかく昔。僕、デンリュウと言う種族さえ、居なかった、人間という種族さえ、居なかった、今とは何もかもが違う、大昔」
     混乱する頭で、必死に考えようとした。
     長い、永い時だとは思ってた。だけれど、それほどだとは思わなかった。
     そして、デンリュウが言った一言。
     今とは何もかもが違う。
    「それは…………正直に答えてくれ。俺という種族は、今、この空で、飛んでいるのか?」
    「……いや」
     ……嘘だろ。

    「でも、君みたいに生き返った同世代のポケモンは今はそこそこ居るけどね。卵も出来て、この時代で生まれたのも少し居るよ」
     そんな事を聞かされても。
     混乱したまま、取り敢えずデンリュウに付いて行った。俺が生き返った場所にまで戻ると、デンリュウのマスターとやらの人間が、忙しなく何かを弄っていた。
     俺を生き返らせたモノなのだろうか、と何となく思う。
     ごうんごうん、と透明な壁で囲まれて、その中が液体で包まれている所がいくつかある。
     一つの中には、デカい骨と、その周りの土が入っていた。
     人間が何かを操作すると、うぃぃんと、不快な音を立てて、その骨と土が形を一気に変えて行った。
    「……俺も、ああやって、生き返ったのか?」
    「うん」
     デンリュウは、静かに答えた。
     それを見ている間は、少しだけ混乱を忘れられるような気がして、目を離さなかった。
     内臓から出来て行く。何となく、見た覚えがあるポケモンのような気がした。
     うぞうぞと、土が、液体と交り合い、骨の周りに肉を付けて行く。
     じじじじ、と音がする。ごうんごうんと言う音が一層強くなる。
     骨さえも、再生されていく。肉が出来上がった所から、表皮が象られていく。小さな手、太い足。首回りに白い鬣が出来て行く。
     ああ、あいつは。何となく思いだした。
    「ガチゴラス、って今では呼ばれてる。因みに、君はプテラって呼ばれてる」
    「……へぇ」
     プテラ、か。まあ、勝手に名前を付けられたのは余り好きじゃないが、そんなに悪くないかな。
     それに、俺は自分の名前さえも、思い出せない。
    「あいつら、凶暴だぞ? 大丈夫なのか?」
    「それを、僕が治めるんじゃん。僕は強いんだからね」
     両腕の先から、ぱりっ、と音を立てて電気の線を作って俺に見せてきた。
    「止してくれ。何か、凄く嫌な感覚がする」
    「ま、そりゃあね。君、電気苦手なタイプだもんね」
     デンリュウが両腕を離して電気を消した時には、ガチゴラスの形は殆ど完成していた。
     尻尾の先が、ちょっとまだ、欠けていた。

     ぷしゅぅ、と液体が抜けて行き、ガチゴラスが目を覚ました。
    「……?」
     デンリュウが、困惑しているガチゴラスの前に行き、俺にもしたようにぺらぺらと喋り始めた。
     デンリュウのマスター、人間の手によって、生き返った事。何をしたいか、という事。
     ガチゴラスは、驚いた様子も見せたが俺程でも無さそうで、デンリュウの問いに、取り敢えず動きたい、と言った。こんな窮屈な壁の中に居てられるかと、尻尾を壁に叩きつけ始めて、デンリュウが開けるから壊さないで、と咄嗟に宥めた。
     僕が怒られちゃうから。
     その言葉に、変な感覚を覚えた。どうして、こんなひ弱そうな奴にそこまで従順なんだか。
     俺やあいつを生き返らせた位の何かの力がある事は認めるが、歯も腕も足も、何も戦いにおいては役に立ちそうにもない。
     何だかな。
     ぷしゅう、と音を立てて、今度はガチゴラスを囲っていた壁が上にせりあがって行く。
     ガチゴラスは背伸びをして、体の調子を確かめるようにして、少し歩いた。
    「これなら、大丈夫だな」
     隣に居たデンリュウが、ん? と疑問があり気な顔をした。
     そして、ガチゴラスは次の瞬間、デンリュウのマスター、人間に向って一気に走った。
     人間が、固まった。何が起きているのか分からない、と言った顔のようだった。デンリュウが慌てて電撃をガチゴラスに飛ばした時、ガチゴラスは既に人間の目の前に立っていた。
     ばちばち、とガチゴラスの体に電撃が流れる。デンリュウが、逃げてと人間に叫ぶ。
     それでも人間は、動けなかった。足ががくがくと震えていた。ガチゴラスは電撃を耐えて、その大きな口を開いて、牙を見せつけた。
     人間が叫んだ。足がやっと動いた。けれどもう、遅かった。
     ガチゴラスの大きな口に、人間の頭がすっぽり入った。
     デンリュウが走りながら、ばちばちと体中から音を立てながら、ガチゴラスに更に電撃を飛ばした。
     けれどもう、遅かった。
     ガチゴラスが強く頭を揺らすと、ぶちぶちぶちぶち、と音がした。
     人間の胴体が落ちて、首から上を失ったそれが、どばどばと血を流し始めた。
     がりゅ、ごりゅ、とガチゴラスがその頭を噛み砕く音がする。
     デンリュウは攻撃も止めて、茫然としていた。
     ごくり、と飲み込んだ音が、変に大きく、響いた。


      [No.1419] 第八話「暗雲低迷」 投稿者:GPS   投稿日:2015/11/26(Thu) 18:22:34     51clap [■この記事に拍手する] [Tweet]

    『羽沢泰生、岬涼子と熱愛発覚!』
    『驚愕! 冷徹の鬼トレーナーも美女のメロメロには戦闘不能か?』
    『ゆうわく? じゃれつく? 064トレーナー事務所選手2人の密会を激写!』


    「何なんだよこれは!?!!?!?!」


    タマ大第二軽音サークルの学内ライブが成功を収めた翌日――朝の羽沢家に、そんな悲鳴が響き渡った。

    「待てよ、一体どういうことだよ!? 岬涼子……って、あの人と!? お前が!? 何したんだよおい!!」

    朝食が並べられた羽沢家の食卓に、スポーツ新聞を広げた悠斗が叫び声をあげる。泰生の声帯でなされたそれはびりびりと低く響き、隣に座っていた森田の腹部を圧迫した。彼の向かい側に腰掛け、森田同様ご相伴にあずかっている富田がさりげなく、髪に隠れた耳を両手で塞いでいた。
    そんな悲鳴の原因となったのは、今朝方森田が持ってきた、何社かの新聞の一面を揃って飾っている記事である。「なんか、面白いことになっちゃいましたよ」と、あまり面白くなさそうな顔をしながら新聞を差し出した森田から、それぞれ受け取った悠斗、泰生、富田は一様に目を丸くした。泰生に至っては、紙面を握る手に力を込めすぎて、紙の端をヒンバスの鱗の如くボロボロにしたほどである。
    あまり画質は良くないが顔などの特徴ははっきり特定出来るレベルの写真と、派手派手しいフルカラーフォントが躍るその紙面。それらはいずれも、『羽沢泰生のスキャンダル』を報じているものだった。

    「…………何したんだ、か。むしろそう言いたいのは俺の方だ」

    この世の不機嫌全てを煮詰めでもしたのだろうか、というような声で泰生が唸る。今にもゴングを鳴らしそうなオコリザルみたいな顔をする今の彼を、事情を知らぬ他の者が見れば、温厚な人間として知られている羽沢悠斗にこんな表情筋があったのかと驚くに違いない。
    が、それも無理はないだろう。新聞に載っている写真――神社の境内で、距離を密に詰めている羽沢泰生と岬涼子――カメラマンによる巧妙なアングルのせいで、見ようによっては唇を重ねているようにも思えるものすらある――はどれも、泰生に覚えがないものなのだ。つまりは、悠斗と入れ替わってから撮られたものということである。自分の身体でとんでもないことをしでかした悠斗に、ファイヤーに勝るとも劣らないレベルの眼光を泰生が放つ。
    「間違いなくお前のせいだろうが!」堪らず怒鳴った泰生に、ようやく思い至った悠斗は決まり悪そうに視線を逸らす。「落ち着いてくださいよ、まだ朝なんですから」お茶を飲んでいた森田が呆れたように泰生をなだめる。そのやり取りをぼんやり聞いている富田は、損害を被ったのが泰生であるためこの件にはそこまで興味も無く、既に思考を来週提出のレポートへとシフトさせていた。

    「あらあらあら」

    悠斗と泰生が険悪な雰囲気を醸し出し、富田がジム運営によって得られる社会教育的成果について考えている横で、羽沢家の母、真琴は呑気な声をあげている。「大変、大変」新聞の一つを手に取った彼女は、驚きながらもゆったりしたままの口調で言った。泰生と岬の姿が大写しになった一面を眺めて真琴が呟く。

    「スキャンダルなんて初めてよ。額に入れて飾らないと」

    どこか恍惚とした声色でそうのたまった真琴に、泰生がうんざりしたように「やめろ」と一言言い添えた。しかし真琴もそれだけでは引き下がらず、「だって、あなたがこんなニュースになったことないじゃない。せっかくのレア事件なんだから、記念にとっとかないと」と、いそいそと新聞を読み進める。泰生はもはや突っ込む気力も失ったらしく、憮然とした顔で漬物をかじる作業に没頭しだしてしまった。

    「こういうことって、よくあるんですか?」
    「そうよ。リーグが近づくと、特にね」

    真琴があまり驚いていないのと、『あなたが』という部分が引っかかり、富田がそんなことを聞く。頷いた真琴が「富田くんや悠斗はポケモントレーナーに興味無いから知らないでしょうけど」と言うと、森田が同意するようにうんうんと首を縦に振った。「芸能人やスポーツ選手と同じくらい、ありふれたことですよ」その森田が真琴の話を引き継ぐ。

    「トレーナーは実力主義、今強くさえあれば他は何も関係無い……っていうのは、必ずしも正しいようで正しくないんです。もちろん強いのが絶対条件、第一なのは当たり前ですが。とはいえ……」

    多かれ少なかれ、それ以外のものも大事なんですよ。溜息をついた森田に、何となく思い当たる節のあった悠斗と富田は微妙な顔をした。

    「性格。キャラクター。テレビやイベントに出た時の態度。見た目、ポケモンとの関係、使うポケモン、好きな食べ物家族構成SNSでの発言経歴恋愛事情年齢生まれ育ち生活レベル住んでる場所服装趣味バトル以外の特技…………その他、諸々ありますが。要するに『イメージ』ですね」
    「トレーナーって言っても、結局は人間だからね。ポケモンバトルを見ているようで、その向こうにある人間性を見てる人も結構いるのよ」
    「そうなんです。ポケモントレーナーとして、誰かに応援してもらうということは、つまるところその個人が問われるってことでもありますから。それが本当だとしてもそうでないにしても、トレーナーはそのトレーナーとしての『像』を求められてるんです。そんなのはアイドルみたいで許せないって怒る人も一定数いますが……スポンサーやマスコミが絡んでる以上当たり前の話ですし、バトルのパフォーマンス上、もう抜きには出来ませんよね」

    真琴の言葉に頷く森田に、「でも、羽沢さんは……」富田が何かを言いたげな顔をして泰生を見る。彼の言いたいことはわかっていないながらも、喜ばしくないことを思われているのは何となく察したようで、泰生が箸を止めてきっと富田を睨みつける。
    「そうなんですよ」が、森田は富田の言わんとすることを理解したらしく、特に渋ることもなくそう答える。「泰さんは確かに、強いだけ、って感じですもんね」

    「でも、それもまた、泰さんのキャラクターなんですよ。ただひたすら『強さ』だけを追求する、硬派で頑固なトレーナー。羽沢泰生っていうのは、そんなイメージでやってるんです。ま、やってるっていうか、泰さんの場合は本人まんまなんですけど」

    話が逸れましたね、一度お茶を口に含んだ森田が仕切り直すように言った。

    「とにかく、そういうのが大切なトレーナーに対して……邪魔してくるのがスキャンダル、ってわけです」
    「邪魔? マスコミがってことですか?」
    「まぁ、単純に数字稼ぎや売上目的のそれもありますけどね。でも、それ以上に多いのが、ライバルトレーナーからのタレコミなんですよ。そりゃあもう、有る事無い事何でもかんでも炎上炎上、火の無いとこにもブラストバーンの勢いで」
    「それが本当か嘘かは置いといて、こういう形で『イメージ』が崩れるとスポンサーが離れたり、サポーターが減ったりするかもしれないでしょ。そこまでいかなくても、相手のメンタルにダメージは与えられるでしょうし。カメラマンとか探偵とか雇って、ライバル付け狙って隙あれば証拠押さえて……」
    「で、週刊誌や新聞社に持ち込むんです。この時期多いんですよね……リーグが近いとこういう情報戦も過激になって、あー、馬鹿らし」

    童顔に似合わぬガラの悪さを珍しく発揮し、舌打ちまでかました森田に、泰生と真琴が揃って深い頷きを見せる。富田と悠斗も、土俵は違えど思うところがあったため、その件については心の底から同意した。
    「……でも、いいんですか」遠慮がちな悠斗の声に、四人が一斉にそちらを向く。「そんな時期に、こんなことになっちゃって……その、スポンサーとかって……」

    「ああ、それは全然大丈夫」

    一応は自分の行いから引き起こされた事件だけに、流石の悠斗も申し訳なさを感じているらしいが、彼の思いに反して森田の反応は軽いものだった。

    「ホテルから出てきたとことかならともかく、一緒に神社いた程度じゃ痛くも痒くもひるみも無いですよ。こんなんで切るスポンサーなんて、むしろこっちから願い下げってものでしょう。まさかの羽沢泰生のスキャンダルってことで世間的にはしばらく騒がしいかもしれませんが、所詮噂は噂、すぐ飽きられますって」
    「でも、岬さんにご迷惑が……」
    「あんな奴の心配など、しなくていい」

    憔悴した悠斗の声に、しかし泰生が斬り捨てる。「あいつは数年前まで、自分から他所の男トレーナーに近寄っては、自らこういうことを引き起こしてた奴なんだ」相手のイメージはどんどんダメにして、自分は悪女キャラで通すって戦法ですよらことごとく成功しててアレは笑えましたね。補足した森田に、「だからあいつのことは放っておけ」泰生が苦々しくそう吐いた。
    「でも、それって悠斗がハメられたってことじゃ……」富田が前髪に隠れた眉間にシワを寄せる。その呟きに、森田が「それは……」首を捻ってから、そこを横に振った。「無いでしょう。同じ事務所の人にあまいミツトラップ仕掛けるバカが、どこにいるっていうんですか」

    「ま、そういうことですから。岬さんのことは、そこまで気に揉むことはありませんよ。アイツだけはちょっとアレですが……いえ、なるようになるでしょ。社長やスポンサーの心配もいりません、むしろ社長は喜ぶでしょうね。なにせ、スキャンダルに一番縁の無い羽沢泰生のスキャンダルですから」
    「黒澤さん、こういうの大好きだものねぇ。でも、このくらいの盛り上がりはあってもいいと思うわよ。他のトレーナーさん達の事件が沢山ある中、あなたは大抵忘れられてるものね、いつも」
    「余計なことを言うな。とにかく、悠斗。お前は無駄な心配などする必要は無い。つまらんことを考えるくらいなら、バトルに集中しろ。変な噂が立つよりも、ポケモンに恥をかかせる方が余程許せんからな」

    きつい口調でそう言い含める泰生に、悠斗は何か言いたそうに憮然とした顔をしたが、やはり迷惑をかけている手前か素直に頷いてみせる。その様子を横目で見ていた富田が泰生に口を開きかけたが、「テレビでもつけましょうか」ちょうどリモコンを握った真琴の声により、彼が発言することは無かった。

    「いいですね。泰さんのスキャンダルが映像で観れるかもしれません」
    「そうそう。今なら『ねむけざましテレビ』やってるもの。どうしよう、録画しといた方がいいかしら」
    「今はYouTubeとかにアップされますから、大丈夫ですよ」

    勝手な会話をする真琴と森田に、泰生がギリギリと歯を鳴らす。「いい加減にしろ……」とうとう頭を抱えた泰生と、肩身の狭そうな悠斗と、どうするべきか図りかねている富田をよそに、真琴と森田はテレビに目を向けた。
    『今朝方から、064事務所所属のエリートトレーナー、羽沢泰生選手と同じく064事務所所属、岬涼子選手の不倫疑惑が話題となっておりますが……』画面に映ったニュースキャスターが、楽しそうな調子で原稿を読み上げる。「やってますねー」「どこも早いわねぇ」のんきなコメントをする二人に泰生が呻き声を上げた。気まずくなった悠斗が、テレビを消してくれないかと言おうと息を吸う。



    『そして今しがた入ってきたニュースですが……羽沢泰生選手はさらに、064事務所の若手イケメンホープこと相生翼選手との熱愛も……』



    「……………………」

    「……………………」

    「……………………」

    「…………………………」

    真琴が、森田が、富田が、そして悠斗が言葉を失った羽沢家ダイニング。ニュースキャスターがますます楽しそうに報じたそれに、「悠斗ッッッ!!!!!!」と泰生が激昂したのは言うまでも無い。





    「さっき森田さんが言ってた……『アイツ』って、誰のことですか?」

    どうにか泰生をなだめすかし(森田が)、その場をやり過ごした悠斗と森田は064トレーナー事務所へと向かった。

    森田の言う通り、064を運営する黒澤孝治社長は羽沢泰生のスキャンダルをまったく咎めることが無いばかりか、そんなに笑っては腹がよじれるのではないかというほどに笑い倒し、「よくやった」と謎の褒めコメントまで残したほどであった。ビリリダマとオコリザル、オニドリルを足したような顔つきとゴーリキーの如き身体つき――要するに街で会ったら関わり合いになりたくない感じ――をした黒澤だが、その器はホエルオーよりも大きいらしい。正義感に溢れ、義理と人情を重んじるという黒澤は過去、泰生の心意気に突き動かされて共に前プロダクションを辞め、そしてこの064事務所を立ち上げたという経歴の持ち主である。上等な黒いスーツに身を包んだその格好は誰がどう見てもロのつく組織の幹部か何かにしか思えないだろうが、その素敵なガタイの奥のハートはブースターよりも熱く、ウルガモスよりも強い光を持ち、そしてハピナスよりも優しいのだ。
    そんな黒澤を前にし、悠斗は内心怖くて仕方なかったのだが、黒澤は終始笑い飛ばしただけだった。彼は随分と羽沢泰生を買っているようで「お前はそのくらいでヘコむタマタマじゃない」と言い切るのみならず、「ハクがついた」などと喜んでいるみたいですらある。その意気や好し、とばかりに泰生の無鉄砲に乗った男なのだから、それくらい当然なのかもしれない。
    ともかく、悠斗が心配していたみたいなことにはならずに済んだようである。事務所にいる他のトレーナーも、「ずいぶん賑わってるな!」「羽沢さんにもそういうとこがあるなんて……」と驚きはしているものの、今の今まで一度もそういった弱みを見せなかった泰生がここにきてお騒がせしたことに、むしろ親近感を覚えているらしい。それに対する悠斗の受け答えがどうにもたどたどしいものであったため、結果的にトレーナー達は「羽沢さんって意外と危なっかしい面があるんだな」という感想を抱き、微笑ましい顔まで浮かべていたほどである。それを横目で見ていた森田は、意外と危なっかしい、というところはあながち間違ってもないな、などと思っていた。

    岬はトレーナーマガジンの取材、相生はイッシュのバトルフェスへの巡業ということで、肝心な相手はいなかったものの――とりあえず、肩の荷が少しは下りたような気がして、悠斗は幾分軽くなった声で森田に尋ねた。

    「アイツ? あ、ああ、さっきの……アイツってのはアイツですよ、この前ミツキさんと会った時にもお伝えした……」
    「ああ、ライバルとか言ってた人のことですか?」

    森田の答えに少し考えたあと、悠斗がまた尋ね返す。「そうですよ」苦い顔で頷いた森田が、ポケットから取り出した車のキーを力を込めて握り締めた。何かあまりよろしくない感情がそこに集約されたことをなんとなく察した悠斗は、自分の背中が少しばかり冷たくなるのを感じる。
    「根元信明……さんは、泰さんが昔の事務所にいた頃から、泰さんを一方的に目の敵にしてきた人ですよ。そりゃあもうネチネチネチネチ、本当嫌なヤツでして」あからさまな恨み節に若干ヒキつつも、悠斗は森田の話を黙って聞く。「この人です」と彼が携帯の画面に表示してくれた、その根元とやらの写真を覗き込むと、そこにはそこそこにハンサムなダンディ風の男が映っていた。事情を知らない悠斗は、俳優の誰かに似ているな、などとマイペースな感想を抱く。
    「特に泰さんに対してのアレがすごいんですけど、うちの事務所にいるトレーナー全員とも色々因縁持ってて」忌々しげに森田が言う。何なんだか知りませんけどね、本当、迷惑極まりないですよ。そう続けた森田に、悠斗は冷や汗を流しつつ頷いた。


    「で、悠斗くん」
    「何ですか?」

    唐突に呼ばれた名前に聞き返した悠斗に、森田がわざと勿体つけた調子で言う。064ビルの地下駐車場、反響の激しいそこに森田の声がやたらとうるさく響き渡った。白い車のドアを開け、悠斗に乗車を促しながら、彼は観念したような口調で言う。

    「今から行くのが、その根元のとこへのバトル申し込みです」

    助手席に乗りかかった悠斗が、「やだなぁ…………」と力無い声を漏らす。羽沢泰生とはかけ離れたその様子に、この事態を知らない者、それこそ根元あたりが見たら相当面白いことになるだろうなと思いつつ、森田は「諦めましょう」と肩をすくめた。
    自身も運転席に乗り込んで、シートベルトを締めている森田に悠斗は尋ねる。「でも、あいつや森田さんだけじゃなく……064の皆さんにまで嫌われてるだなんて、一体どんな方なんですか、根元さんは」先ほど見せてもらった外見から抱くイメージは、どちらかと言えば悪くない。いけ好かない感じはあるといえど、それに関しては愛想や親しみやすさの欠片も無い、泰生の方が悪印象というものであろう。しかしそこまで言われ、挙げ句の果てに先日は森田にこの一件の疑いまでかけられていたけれど、そこまで思われるとは一体どんなことをしでかしたのか。

    「説明するのもアホくさいですよ」

    が、それが気になった悠斗の期待に反し、森田の答えはそっけないものだった。別に、悠斗に対して意地悪をしているとかでななく、彼は本気で説明する気もないらしい。その態度にやや気圧されて、息をぐっと止めた悠斗にも気づかず森田は、ハンドルに置いた指を苛立ち紛れにトントンと動かして、吐き捨てるような短い溜息を一つついた。

    「話すほどのこともないです、あんなヤツ…………」





    「話す気にもならん。あんな男のことなど」

    一方その頃、タマムシ大学構内である。
    講義を終え、部室へと移動する最中に悠斗と同じことを尋ねた富田に対し、泰生もまた森田と全く同じ答えを返していた。

    「そう言われると余計気になるんですけど。そこまで言われるって何したんですか」
    「うるさい。何度も聞くな、だから話す価値も無いんだ、あんな奴には」

    部室がある棟へ向かうべく、キャンパス内を歩く二人はそんな会話を交わす。五限終了後の秋空はほぼほぼ暮れかけており、顔に当たる風はやや冷たい。フワンテの細い手を掴んで通り過ぎていく女子学生の長い髪が、その風に揺れて広がった。
    広大な敷地を持つタマ大キャンパス、イチョウ並木に挟まれた道を歩く富田は、泰生の態度に嘆息する。薄暗い視界に目を凝らし、銀杏を踏み潰さないよう注意しながら進む彼はギターケースを持ち直した。「どんな酷いことされたんですか」サークルに行く学生達の声にヤミカラスの声が被さり出し、ポッポとピジョンの群れがオレンジと紫の混ざった空を帰っていく。「森田さんもあんな顔してましたし」

    「そんなに気になるなら自分で調べろ。あんな奴のために、なんで俺が話さないといけないんだ」
    「なんでそこまで……どれだけ馬鹿らしいんですか、その人」
    「相当だね。こいつが怪しい、って森田さんに言われたからちょっと探りを入れてみたけど、本当に、本当に、本当に馬鹿だった」
    「だから言ってるだろう、馬鹿だ、って……」

    重い声でそう同意した泰生は、しかしそこで言葉を止めた。
    彼の視線がゆっくりと横を向く。それと同じタイミングで、富田も視線を動かした。「まさか……」内心で感じた嫌な確信に、彼は軽度の頭痛を覚えた。


    「どうもお世話になっております! こんバンギラス、あなたの街の便利屋さん、いつもご贔屓ありがとう真夜中屋ですどうも!! 補足として言っておきますと本日のトリックはもりののろいで……」


    「声が大きい目立ちすぎ!!」

    いきなりかつ自然な感じに割り込んできた声の主――黄金色のイチョウ並木の中で明らかに浮いている深緑のオーロット――を、通して騒いでいるミツキ――に勢いよく体当たりをかまし、富田が小声でそう叫んだ。その衝撃によって発された、ぐえ、という呻き声がミツキによるものなのか、それともオーロット本人(木?)によるものなのかは定かではないが、それどころではない富田は、通行する学生達から隠すようにオーロットを木々の間へ押し込める。「ちょっと! 潰れる、枝が折れる! 折れちゃう!」「静かにしてくださいよ、見た目は暗いからまだ隠せても喋ってるのバレたら面倒ですから」「わかったから! わかったから折らないで!」「もともと枯れてる老木なら折れてもいいでしょう」などと言い合う富田とミツキに、燈り始めた外灯へ向かおうとするモルフォンが不審なものを見る目をした。
    そんな彼らに胡乱な目を向けていた泰生が、ハッと気がついたような顔をしてオーロットに近づいていく。ようやく泰生の存在を思い出した富田は、喋る上に人並み以上にうるさいこのオーロットをどう説明したものか悩んだが、彼の心配などまったく他所に、泰生はオーロット(ミツキ)に抱きついていた。「ずっと前、旅先で懐かれて以来オーロットを見るとこうしたくなるんだ」言い訳するように彼がぼそぼそと呟く。

    「別に、誰も聞いてませんけどそんなこと。まああなたの勝手ですからいいですけど、あ、ちなみにそれは真夜中屋さんらしいので」

    オーロットを両腕で抱き締めている泰生――勿論のこと見た目は悠斗――という愉快な光景を、なんとなく携帯で撮影しつつ富田はそう言い添える。それを聞いているのかいないのだか、わかっているんだかいないんだか知らないが、泰生は「ああ、真夜中屋な」などと適当な答えを返した。幹に顔を埋められて枝を撫で回されているミツキは、「どうせこうされるならミニスカ女子大生にされたかった……」と、馬鹿正直な願望を垂れ流している。
    いつまでもこのカオスを放っておくわけにもいかないので、富田は本題に入るべく「で、そのトレーナーとやらがどうしたんです?」とミツキに尋ねた。「なんか調べてくれたみたいですけど」

    「ああ、そうだそうだ。森田さんがせっかく教えてくれた情報だからね、無駄にしちゃいけないから調べてみたんだ」

    どうやら仕事は必要以上にしっかりやるらしい、と富田は密かにミツキを見直した。が、そんなことを口に出した日には間違いなく調子に乗るため内心のものに留めておくことにする。
    「根元信明、53歳。マックスアッププロダクション所属、独身……」オーロットのどこから出ているのかわからない声が、その調査結果とやらを読み上げる。「バトルはトリッキーな戦法中心でなかなかのツワモノ、特にダブルバトルではかなり強い…………けど!」
    そこで、言葉を切ったミツキはウロの中の紅い眼をぎらりと光らせた。「なにせ、こいつ……」

    「女癖がヤバすぎる!! 隠す気も無いのか隠しててこれなのか知らないけれど、出てくる噂出てくる話女性問題ばかりじゃん!? バトルと同じくらいスキャンダル起こしてんじゃないの、っていうか絶対バトルしたトレーナーよりも問題起こした女の数の方が多いでしょ!?」
    「そういう奴なんだ。相手がトレーナーだろうが、そうじゃなかろうが、ポケモンセンターの職員でもフレンドリィショップの店員でもジムリーダーでも四天王でもコンテスト出場者でもミュージカルバフォーマーでもフレア団とやらでも……女を見て、あいつが声をかけなかったところを、少なくとも俺は見たことがない」
    「ミニスカートでもパラソルおねえさんでもポケモンごっこでもオカルトマニアでも、なんとたつじんでも……あ、なんかセンパイとコウハイは駄目だったっぽいですけど……とにかく、良く言えば恋多き男、悪く言えば浮気性というかスケコマシというかクズというか……某世界線のニビシティジムリーダーの断られないバージョンというか……どういうテクを使えばそんなことが出来るのかは謎ですが」
    「暇さえあれば女の尻を追いかけてるような奴だからな。マンタインにくっつくテッポウオの方が、まだ離れてる時間が長いだろう」
    「で、いろんな人に調子いいこと言うもんだから問題になるし、有名トレーナーや女優、パフォーマー、サイホーンレーサーにもホイホイ手を出すからスキャンダルにもなると……そういえば、羽沢さんの064事務所の女の人、岬さん、とかいう方とも何かあったみたいですよね。あれは遊ばれただけっぽいけど。おっと、これは羽沢さんも同じでしたっけ? だから気をつけないといけないって言ったじゃないですか、記者だけじゃなくて僕みたいなヤツとかも、いつ何時どこで誰を見てるかわかったもんじゃない輩は山ほどいるんですからね。壁に耳あり障子にメリープですよ」
    「やかましい、そんなことは悠斗に言え、気配に気づかずのこのこ撮られる方も悪いんだ……岬はむしろ、根元を引っかけてからかっただけだから構わん。勝手にすればいい。それより問題なのは、相生を女と見間違えてしつこく口説いて身体に触っていたところで勘違いに気づいたという一件だ」

    怒涛のように繰り広げられた話を、一通り聞いた富田は深く頷く。「バカですね」「バカなんだよ」「だからバカだって言っただろう」あんまりな言われようだが、この場に森田や064事務所のメンバーがいたら賛同の嵐だったに違いない。トラウマを刺激された相生に至っては、下手をすればまたしても泣きたくなるだろう。
    「もうさぁ、やってる途中で嫌んなったよね」呆れ返ったように言い、ミツキが両腕の位置にある枝をガサガサと揺らす。やっと気が済んだのか、そこから離れた泰生は苦フシデを噛み潰したような顔で「そういう奴なんだ。あいつは」と吐き捨てた。対外的にライバルトレーナーとして位置付けられる彼は、根元の引き起こす騒ぎに巻き込まれ、何がしかの形で迷惑を被ったことがあるのかもしれない。
    それにしても、と富田は思う。森田は根元のことを今回の事件の犯人として若干疑ったようだけれども、そこまでする頭がある奴にはどうにも思えない。別に本当に頭が悪いわけでもないのだろうが、こんな事態を引き起こし、起こり得るであろう泰生の悲劇を想定し、ミツキ曰く『強い感情が必要な面倒臭い呪い』を果たして彼がするだろうか。確かに、歳も近く実力が拮抗している相手を少しでも不利に立たせようという意味ではあり得なくもない話だが……そんなことをしている暇があったら、そこらのポケモンセンターでジョーイさんの一人や二人をナンパしていそうだというものだ、この、根元という男は。
    そんなこまを考える富田の隣で、ミツキも葉ずれの音を鳴らし鳴らし悪態をつく。「そもそも、それを許されてるってのもアレだよね」赤の瞳がきゅっと細まった。「メンタルハーブ知らずのMr.メロメロとか言ってる週刊誌もあってさ」

    「だけど、一個だけ、この男の…………」


    と、そこまで言いかけたところで、急にミツキが黙り込んだ。それまでは目立つのも構わず、おしゃべりオーロットとして騒いでいたにも関わらず、木々の一本を装うかのようにじっとしだした彼の様子に富田は訝しむ。オーロットの腹部に当たる幹を撫でていた泰生も、ミツキの沈黙に気づいたらしく富田に視線を送った。
    「あ」そんな泰生の二の腕を、ほんの僅かな動きでオーロットの枝先がつつく。別の枝が指す方を振り向いた富田と泰生は、同時に小さく声をあげた。


    「羽沢! 富田!」


    薄暗い道を、学生達の間を縫って駆けてきたのは二足歩行のバッフロン……ではなく、キドアイラクの誇るドラマーこと二ノ宮の姿だった。生まれつきの天然パーマと髪量の多さ故、トレードマークのアフロ頭を揺らして走り寄ってきた二ノ宮は、「今から第二練習室だよな?」と、息を弾ませて泰生達のところでストップした。

    「俺も五限あってさ、でも延びたから急いじゃったんだわ。お前ら何してたの? イチョウ狩り? それともマツタケとかでもあった?」

    謎にズレたことを聞いてくる二ノ宮に、富田は「そんなわけないだろ、ちょっと話してただけだって」と取り繕う。「マツタケなんか大学にあるわけないし。パラスがいたらいいレベルだ、ここは」彼のもっともな言葉に二ノ宮は、そうか、そうだよなー、と暢気な頷きを返した。
    おおきなキノコでもあればいいんだけどなー、などと言っている二ノ宮に適当な相槌を返しつつ、その二ノ宮のアフロをガン見しまくっている泰生の脛に蹴りを入れつつ、富田はさりげなく歩き出した。行き先である部室棟の上に、雲に覆われた半月が昇っている。そういえばあの人の名前は月から取ってるんだよな、と思いながら富田がミツキの方を振り向くと、先程までオーロットが鎮座していたそこには既に誰もおらず、イチョウの幹がひたすら並んでいるだけだった。逃げ足の速い人だ、というのが、富田がミツキに抱いた印象である。






    「この前の歌! 羽沢、超やばかったって!!」

    練習室に到着し、ドラムセットの調整をしながら二ノ宮が興奮したように言う。丸めのガーディ顔を輝かせ、彼は先日のステージを思い出して溜息をついた。

    「なんか、超大人っぽかったっていうか大人の色気? 哀愁? 切なさと心強さ? よくわかんねぇけど、そんな感じのが超出てた! 芦田さんのピアノともぴったりだったし、あの人のピアノもヤバいから、俺とか途中泣いちゃったって!」
    「ああ、いや…………」
    「いつもの、明るくて速い感じのも羽沢に合ってていいと思うけど、ああいうのも歌えるんだってすごいビックリした! キドアイラクにもああいうの作ってよ、絶対最高だって、何なら俺ウィンドチャイムとか買っちゃうよ!?」

    頬を上気させてそんなことを言い出した二ノ宮に、富田が慌てて「いや。とりあえず今のスタイルでいこう」と口を挟む。あのステージを作り上げたのは悠斗であって悠斗ではない、悠斗の声と泰生の精神なのだ。そりゃあ確かに、同じ声帯を持っている悠斗だってバラードを歌いこなせるだろうし、実際何曲か歌ってはいるけれど、あそこまでのものを悠斗が成し遂げるのはほぼ百パーセント無理な話だろう。不本意ながらも、富田はそれを認めざるを得ない。
    ともかく、そうわかっている以上、わざわざ不利な状況を自分達から作る道理もない。「とりあえず、オーディション乗り切ってから考えないか」適当に言葉を濁す富田に、二ノ宮は「そうだな」と頷いた。彼がケースから取り出したスティックの束がガチャガチャと音を立てる。

    「でも、富田の! あのときのお前の、ほら最後に弾いてたフレーズあんじゃん? アレすごい好きなんだけど」
    「ああ、これか?」

    一足先に準備を済ませていた富田が、アンプに繋いだギターを弾く。「それそれ!」と嬉しそうに言い、二ノ宮はドラムの向こうから身を乗り出した。

    「それめっちゃかっこいいからさ、それなら入れられるだろ? 『夕立雲』にもさー」
    「そうだな、コード進行も同じでいけそうだし、キーを変えれば……」

    まぁ、有原にも聞いてからにするか。まだ姿を見せていない、キドアイラクのベーシストの名前を富田は口にする。その富田のアイコンタクトを受け、泰生も首を縦に振った。
    「だなー」楽しそうにそう言って、夕立雲――数週間後に控えたオーディションで演奏する予定の曲――のリズムを刻み始めた二ノ宮のドラムに旋律を乗せながら、富田は前髪の奥にある目を細くする。「お前も、相変わらずすごかったけど」言われた二ノ宮は照れくさそうに笑いつつ、そうかな、と手を動かしたままはにかんだ。

    「そうだったら良かったけど。でも、二ヶ所失敗しちゃったからな、オーディションではそんなこと絶対無いようにしないと」
    「ん。それはお互い様だけど……俺もまだやりたいことあるし……」

    「でも、やっぱ二ノ宮はすごいよ」そう付け加えた富田の言葉に、二ノ宮は「サンキュ」と照れ笑いを浮かべた。
    その後、数分ほどスティックを操り様々なフレーズを打っていた二ノ宮だが、「あ」思い出したようにその手を止めた。「飲み物買いにいくの忘れてた、今から行って大丈夫かな」ドラム椅子から立ち上がり、時計の方を見遣った彼に富田が、いいんじゃない、と答える。

    「有原まだ来てないし。後から、やっぱりほしいって思って行くよりも」
    「そうかな、ごめん。羽沢と富田も、何かあったら買ってくるけどどうする? そこの自販にありそうなのなら」
    「あ。じゃ、ブラッキーの紅茶頼む。ミルクティーで」
    「ミックスオレの冬季限定ショートケーキ味ペロリーム風を……」

    富田に続き、好きな飲み物をリクエストした泰生の言葉に二ノ宮は目を剥いた。「何!? そのすごい甘そうなの!?」心底驚いたという顔をした彼は、富田から百円玉と五十円玉を受け取りながら叫び声を出す。「ただでさえ甘いところに甘いもの重ねて、さらに甘さって感じだけど、考えるだけで喉痛いんだけど」

    「っていうか、羽沢いつから甘党になったわけ? 前はミックスオレどころかコーラもジュースもブラック以外のコーヒーすら飲まなかったのに……」
    「あー、いや、ほら、最近? 好みが変わったらしくて、ほら、甘い歌詞を書いてたら甘いものが好きになってきた的な? なぁ、悠斗?」
    「は? …………ああ、まあ、そんなところだ」

    富田による無理のある誤魔化しと、泰生のワンテンポもツーテンポも遅れた返しはあまりにも怪しかったが、二ノ宮は別段気に留めた様子も無く「そっかー」とへらりとした笑顔になった。のうてんきなせいかくである。
    じゃあちょっと行ってくるわ、と言いながら二ノ宮が練習室を出ていくのを見送って、「気をつけてくださいよ」と富田が泰生にクギを刺す。「そういうところで、おかしいって思われるんですから」本来甘いものが苦手であるはずの悠斗を頭に浮かべつつ、富田は泰生による先ほどの発言に溜息をついた。

    「バッフロン……」
    「人の話を聞け」

    が、肝心の泰生は意識の全てを二ノ宮の頭部に持っていかれているらしい。彼が去った扉の方を見送りながらそう呟いた泰生に、富田は限界まで刺々しくなった声で言う。殴りたくもなったが、そこはギリのところで我慢した。
    「あと、あまりバッフロンとか言わないようにしてくださいよ」一応本人気にしてるっぽいですから、とも付け加えておく。実際のところ、あの、パーマのみならず中身もバッチリ天然な二ノ宮がどこまでそこに固執しているのかは不明であったが、とりあえず言っておくことにしたのだ。
    「しかし、あの学生は言ってたではないか……あの、もう一人の……」それを受けて、泰生が言う。「バッフロンだとかアフロブレイクだとか、それが当たり前だとお前も言っていたし」

    「ああ、有原か……有原はいいんですよ。あいつにだけは二ノ宮も言い返すし、冗談だってわかりきってるらしいですから。同じ高校の出身ですしね」
    「そうなのか?」
    「ええ、有原は一年浪人してるので、実質、先輩と後輩の関係になりますけど。どこだっけな……ホウエンの田舎だって言ってました」

    富田はそこで、壁にかかった時計をちらりと見遣る。二ノ宮が戻ってくる様子も、有原が扉を開ける気配も未だない。今後会話が噛み合わなくならないよう、少し喋っておくかと富田は泰生に視線を戻した。

    「二ノ宮はああ見えて……なんかふわふわしてるしもこもこしてますけど……ああ見えて、ドラムの天才なんですよ。本当は、いくらタマ大とはいえ音楽科でもない普通の学校に来るのもおかしいって言われるくらい。実際、イッシュの音大から声がかかってたらしいですから」

    ふぅん、と泰生は頷いた。音楽のことなど泰生にはよくわからなかったが、富田がそう言うのであればそうなのだろう、と考えて聞いておく。
    「前、有原に昔の動画……あ、二ノ宮と有原は高校時代吹奏楽部で知り合って、二ノ宮がパーカスで有原はコンバス兼ベースだったんですけど……その時のを見せてもらったことがあって」アイツ本当にすごいんだよ、という言葉と共に見せられた、吹奏楽コンクールだか文化祭だかの映像を思い出して富田は息を吐く。「本当、天才とは、あいつのような人を指す言葉なんでしょうね」

    「お前や、悠斗はそうじゃないのか?」

    泰生の素朴、かつストレートな質問に、富田は若干眉根にシワを作った。が、言葉以外の意は泰生にないことがわかりきっているため、すぐに気を取り直して答える。「悠斗の声にはとてつもない求心力がありますし、俺だって人並み以上に練習はしてますが」大きな頭部を揺らして、ドラムを叩く彼の姿を脳裏に描く。「二ノ宮は、次元が違うんですよ」
    有原曰く『百年に一度の逸材』で、しかもそれがあながち間違っていないような二ノ宮が、なぜ「羽沢悠斗とバンドがやりたい!」などと入学早々言ってきたのか、富田ら当初理解出来なかった。その理由はなんてことはない、高校生バンドフェスの生放送を見ていた二ノ宮が悠斗の歌に惚れ込んで、絶対にこのボーカルのドラマーになると決めたらしい。その時のインタビューで悠斗がタマ大を目指していると発言したことにより、二ノ宮の進路はそこで確定してしまったようである。サークル勧誘の猛攻を振り払い、真っ先に悠斗の姿を見つけて飛びついてきた時の彼の姿は、正直言ってバッフロンそのままだったと富田は記憶していた。
    「羽沢悠斗の最初のファン」を自称する二ノ宮と、そんな彼に連れられてきた(地元の予備校で再会し、同じ学校を目指すのならば一緒のバンドも目指そうと、悠斗の動画と共に説得されたらしい)有原が、キドアイラクのメンツである。高校生の頃に組んでいたバンドが受験を理由に解散してしまったこともあり、悠斗と富田にとっても渡りに船とばかりに結成したというわけだ。

    「二ノ宮は俺や悠斗、有原の音楽をとても好きだと言ってくれるのですが、二ノ宮の音楽を潰さないよう、俺たちも……」
    「その、有原っていう奴はどうなんだ?」

    言いかけた富田に、泰生がそう尋ねる。
    他意のない、彼にとってはただ単に気になっただけのことだろう。が、聞かれた富田は一瞬戸惑い、「有原は、」言葉を選ぶように呟いた。


    「有原は……有原も、相当なテクニシャンなんですけど……」
    「低威力のわざが強くなるのか?」
    「違います。そうではなくて、……かなりの腕前なんですが、でも……」

    富田が少し悩み、声を途切れさせたところでちょうど、「ただいまー、ちょうどそこでセンパイに会ったから一緒来たわ」「すまん遅くなった、便所が混んでて」防音製のドアが開き、二ノ宮と有原が顔を覗かせる。あーおかえり、などと富田が何でもない風な表情を作って出迎えた。
    「ごめん羽沢、ショートケーキ味とか無かったわ、代わりにこっち買ってきた」ミックスオレチョコナナ味、と書かれた茶色い缶を放りながら二ノ宮が言う。ん、と応えた泰生がそれを受け取った。自動販売機から出てきたばかりでまだ冷たいそれに泰生が軽く奮闘する横で、有原が「富田さ、髪染め直したほうが良くね?」と聞く。

    「上の方黒くなってるからさ。茶髪でいくんならちゃんとしたほうがいいだろ」
    「もうそんなに伸びたのか……ま、一回切りにいく予定だったからそうするか」
    「別に俺は黒でもいいと思うけど……とりあえず俺たちも一回、切っといたほうがいいだろうな。なぁ二ノ宮」
    「うるせー、誰がトリミアンにも真似出来ないアフロカットですか」
    「言ってねぇよ」

    いつものやり取りを繰り広げる二人に、毛先を無為にいじりながら富田は嘆息する。「じゃ、始めるか」と言った彼の横で、泰生は甘ったるいチョコレート味に人知れず、呑気に目を細めて味わっていた。





    トレーナープロダクションマックスアップ、つまり根元の所属する事務所は、ヤマブキの港に面した街並みにある、小洒落た建物の一つだった。当然のことではあるけれど、新設プロダクションである064事務所――タマムシ都内とはいえ割合家賃の安い、色々とガタの来ている古ビルを借りている――とは違って全体的に綺麗かつ新しい感じである。歴史もあり、規模も大きなプロダクションだけあって、古参の威厳を保ちつつも新しいシステムの導入も怠らない方針なのだ。
    そんな立派な事務所の、ガラス張りのエレベーターに乗りこみながら、悠斗と森田は憮然とした顔をしている。無理もないだろう。高速道路を走り、わざわざヤマブキくんだりまでやって来たのは根元にバトルを申し込むためである。にも関わらず、その根元本人が不在だというのだ。こんなにもやりきれない、みがわりを使ったら相手もみがわりを使ってきてみがわり人形パーリナイになったレベルのやりきれなさは、そうそう感じることが無いだろう。

    「ホンット信じられませんよ……だから行くのがイヤだったんです」

    面倒にも受付が設けられているのは最上階で、上り下りもひと苦労な上に無駄足甚だしい。エレベーターの窓の向こうに見える港と、そこで出航待ちをしているサントアンヌ号を睨みつけ、森田がイライラと悪態をつく。
    『根元は只今留守にしておりますが』そう言った受付嬢は、胸元につけたタブンネのバッジを光らせ、あからさまに同情する目を二人に向けた。根元にしつこく言い寄られているのか、それともこういった行いが常日頃繰り広げられているのか、あるいはその両方か。悠斗が抱いたその疑問は、そうですか、と答えた森田のこめかみに浮かべられた青筋に掻き消えた。

    「……アイツに対して、いつもこんな感じなんですか」

    膜にも思える、薄い灰色の雲に覆われた空の下では海が若干凪いでいる。羽沢泰生の視力は相当良いらしい、悠斗の眼は、波立つ海に浮かぶドククラゲの頭を一つ見つけた。
    「アイツ? ……ああ、泰さんですね」閉まるボタンを押しながら、未だ怒りが収まってない声で森田が答える。「ま、泰さんだけじゃなくて、ですけど」

    「ホント自分勝手なんですよ。どうでもいい相手……要するに男にはこうやって、自分の気が乗らないとすぐドタキャンするんです。逆に女だと、それはそれで相手の都合なんてお構いなしにグイグイアポ破ってきますよ」
    「そんなトレーナーがいるんですね……」

    呆れたように言った悠斗に、「064事務所の方々は、新設に飛び込んでくるだけあって熱心な人ばかりですから」森田が片耳を押さえながらそう答えた。どうやら急降下に耐えられなかったらしい。「プロのトレーナーだからといっても、みんながみんなきまじめというわけじゃ無いんですよ」不愉快さを隠せていない森田の横顔に、きまじめの具現化たる泰生を脳裏に描いた悠斗は、なんとも言えぬ気持ちになって頭を軽く振った。
    ポーン、というマヌケな音がして、エレベーターが一階に到着する。エントランスを抜けて建物外に出ると、自動ドアの前をマリルが二、三匹走っていった。それに視線を送り、森田は「不思議なことに、それでいて憎まれないんですよねぇ」と肩をすくめる。

    「それも一つの才能なんでしょうね。お偉いさんにはどういうわけか好かれるし、問題起こした女にも何故だか知りませんけどなんだかんだ嫌われませんし」
    「はぁ……で、その人がなんで、アイツをライバル視してるんです?」
    「あー、それね。歳が近いのと強さも拮抗してんのと……ま、一番の理由は二十年くらい前に、根元さんが目つけてた女の子が泰さんに惚れちゃって。で、そこで取り合いみたいになればまだ良かったのかもしれないけど、泰さんあんな調子でしょ? それは昔からそうみたいで、相手にもしなかったっていうか、そもそも気づかなかったっていうか……で、根元さんは勝手に、自分が格下に見られたって思い続けてるらしくて」

    あまりのくだらなさに閉口した悠斗に、「でも、まぁ、あの人バトル『は』強いからね。対策はきちんと練っとかないとね」と、森田がやけに一部助詞を強調して言う。「バトル『は』強いんだよ。だからこそモテてる部分はあるしね」不快感をあらわにした声を出しながら、森田は車の上で寝転がっていたニャースの首根っこを慣れた手つきでヒョイと掴む。驚きと共に目覚めたニャースは、鋭い鳴き声をあげたかと思うと身体をひねり、森田の手から抜けて走り去っていった。
    タマノスケにもあんな頃があったんですよ、束の間の癒しに和んでいる森田に、「そんな人が、こんな面倒なことをするんでしょうか」と悠斗は尋ねてみる。「なんていうか、呪いとか出来そうな脳味噌してなさそうじゃないですかね……」

    「いや、あの野郎はやりかねませんよ。僕たちの知らないところで、また泰さんに惚れ込んだ女の子がいたとしたら……泰さんのバトルを失敗させて恥をかかせようとか、スキャンダルを起こさせて騒ぎにしようとか、威厳を失わせて魅力を無くそうとか。そういうことを考えても、決して不自然ではありませんからね」

    割と失礼なことを言った悠斗に、森田はきっぱりと言い切った。その確信した口調に悠斗も「そんなものですか」と答え、すっかり慣れてしまった助手席へと乗り込む。
    これからまたタマムシまで戻って、ポケモンセンターでポケモン達の健康チェックである。064事務所との行き来を考えるとこの時ばかりは、ポケセンやらどうぐメーカーやらバトルにまつわるサービスを同じ建物内に集めているプロダクションマックスアップを羨まずにはいられなかった。





    「やっぱりさぁ、『夕立雲』がいいと思うんだよね。イメージ的にも、俺らに一番近いと思うし」
    「だな。歌詞的には高校生なのがちょっと『近い』っていうのはどうかと思うけど、悠斗も自信作だって言ってたし」
    「だよなー、まっすぐな青春! 初恋! 制服の白シャツ白ブラウス! 壁ドン! って感じで俺好きだよこの…………ん? 言ってた?」

    興奮したように話していた二ノ宮だが、はたと気がついた風に言葉を止める。「あ、いや」富田は慌てて首と片手を振り、「何でもない」としらを切った。余計なことを言わないよう釘を刺されている泰生は、知らぬ存ぜぬを突き通すべく、頭の中で歌詞の反芻に努めている。
    第二練習室に先ほどまで響いていたのは、キドアイラクオリジナル曲がいくつか。学内ライブの練習により、それなりに久々の合わせとなっていたため、オーディションで何の曲をやろうか改めて検討しているというわけだ。ファンやサークル員からの人気が高かったり、メンバー自身が好みだったりという基準で選んだ数曲を一通りやってみたものの、結局は当初からの本命であった『夕立雲』――恋に落ちていく高校生二人を描いた爽やか青春ソング――がベストだという認識に落ち着いている。「定番中の定番って感じもしなくはないけど」スティックを持った腕を組み、二ノ宮がうんうんと頷いた。「王道を突き進む、っていうのが一番いいかもしれない」

    「いや、ちょっと待ってほしいんだが」

    が、そこで有原が異を唱えた。「確かに、『夕立雲』はいいと思うし、俺たちに合ってるとも思うんだけど」膝に乗せたベースを軽く撫でながら、有原はやや遠慮がちな声で言う。

    「なんか、もっといい演奏が出来る曲があると思うんだ。いや、勿論『夕立雲』でも良いものは作れるけど、でも、それ以上に……」
    「もっと合う曲がある、ってことですか?」
    「そう、そうだ。二ノ宮。王道もいいんだけど、今の俺たちなら……この前の羽沢のバラードはすごい良かったし、あんな感じでも……」

    そんなことを言い出した有原に、富田は焦り声で「いや、それは」と止めに入る。有原の言う通り、学内ライブでの羽沢悠斗の歌をオーディションでも再現出来れば望ましい結果は確実だろうが、あれは泰生だからこそ出来たとも言えるのだ。もしもオーディションにまで二人が元に戻らなかったらそれも無理な話ではないが――そっちの方が、よほどごめんこうむりたい話である。
    「今からイメージ変えるのも、なんか、あんまりよくないだろ」富田が適当に誤魔化しを図る。「それに、この前のは芦田さんのピアノだったからってのもあるかもだし……俺たちバンドじゃ、あまりいい感じにならないかもしれないし……」どうにか話を逸らそうとする富田に、二ノ宮が「まぁ、そうだな」と首肯した。

    「アレは特別なステージだったし、うん。ここで路線変更するのは微妙かもな。『夕立雲』にするかどうかは、置いとくとしても」

    二ノ宮の言葉に、富田はほっとしたように頷いた。が、有原はまだ納得いかないところがあるらしく、「曲の感じは変えないにしても」と、難しい顔を崩さない。「今ある曲ってさ」

    「なんか、歌詞が、こう……別に悪いわけじゃないけど、あまり強くないっていうか……」
    「個性の問題ってことスか?」
    「うん。そう、個性。せっかく俺たちポケモン使わない、今時っつーか音楽史全体的に少数派のバンドなのに、そこがあまり出てないっていうか。なんでポケモンと一緒に音楽やってないのかとか、なんで俺たちなのかとか、そういうの出したほうがいいんじゃないかって思うんだけど」
    「歌詞にはポケモンの名前出てこないし、わざやとくせいにも触れてない。ポケモンに関係する単語は使われてない、それだけで結構個性的だと思うけど、それじゃダメなのか?」
    「駄目、ってわけじゃないけど、富田……でも、もっとさ、他のバンドよりも目立てるようにっていうか心に残るっていうか……それこそ、この前の学内ライブみたいな」

    太い眉をぎゅっとさせる有原に、「『夕立雲』じゃ足りないっスかねぇ」二ノ宮が考え込むポーズをとる。「作った羽沢的にはどうなの、その辺」そのままの流れで彼は、泰生へと話を振った。泰生の視界の端で、富田の顔がほんの僅かに苦々しいものへと変わる。
    「俺は、変える必要は無いと思う」が、聞かれた以上は仕方ないので泰生は正直な感想を述べる。「無理な挑戦をするよりも、今出来ているものを改善していく方がいいんじゃないか」それは今歌ってみての率直な思いと、トレーナーとしての経験則に重ね合わせてのものだった。当然ながら、泰生からしてみれば、羽沢悠斗としての発言ではない。

    「…………そうか」

    しかし、有原がそれをどう受け取ったのかはわからない。
    「ま、まだ時間はあるから。もう少し考えてみましょ」「そうだな、『夕立雲』にしても詰めなきゃいけないし」小さな声で言われたその返事に被せるようにして、二ノ宮と富田がコメントする。二ノ宮が踏んだキックの音が、四者の下っ腹へと重く響いた。ギターの弦をはじいた富田の「どっちにしても、今以上にしなきゃいけないのは変わんないし」という言葉に、有原はどこか安堵したように「ああ」と笑った。
    じゃー別の曲も合わせてみますかー、とスネアを打ち始めた二ノ宮の声に、それぞれ姿勢を正して楽器の位置を整える。有原の奏でる低音を響かせるアンプの方をちらりと見遣って、泰生は歌い出しに備えて息を吸った。


      [No.1418] 昼想夜夢 下 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:43:10     46clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    昼想夜夢 下



     老婦人のミホと、その孫娘のリセと共に、キョウキとサクヤはレストランで夕食をとった。
     幼いリセは上機嫌に、ゴジカの占いで教えてもらった内容や、祖母に買ってもらった神秘的なお守りをキョウキやサクヤに披露していた。キョウキの下衆さを綺麗に忘れ去ってしまったような少女の振る舞いに、キョウキは少なからず面食らっていた。
    「あのねー、このピンクのクリスタルねー、コスモパワーがつまってるの! きれいでしょー!」
    「なるほど」
     サクヤはぎこちない微笑を浮かべつつ、真面目に少女を見つめて頷いた。キョウキが面白さに肩を震わせていた。
     少女は満面の笑みを浮かべて、隣の席の祖母に人懐っこく甘えかかる。
    「だからね、リセね、ピッピちゃんがほしいなぁー。ねえいいでしょ、おばあちゃーん」
    「そうねぇ、リセちゃんがおばあちゃんのところに来てくれたお祝いに、ピッピちゃんにもおうちに来てもらいましょうねぇ。楽しみに待っててねぇ」
     ミホもまた幸せそうな笑顔を浮かべて、孫娘を甘やかす。
     席の反対側では、キョウキがこそこそとサクヤの耳元で囁いていた。
    「……ピッピって、やっぱりピッピ人形かなぁ? それとも本物を捕まえるのかなぁ? ねえねえ、カントー地方じゃピッピって、ゲームコーナーの景品らしいよ?」
    「お前ちょっと黙れよ」
     サクヤはキョウキの脛を蹴り飛ばした。
     ミホとリセは、とても仲がよさそうだ。ミホからも幼い孫娘が可愛くてしょうがないという雰囲気があふれ出ているし、リセも優しい祖母によく懐いている。
     この家族は悲劇に見舞われたが、この祖母と孫娘なら、幸せな暮らしを得られるのではないかとサクヤは思っている。ミホは見るからに裕福そうな身なりをしているから、リセにも十分な教育を受けさせ、そして幸せな将来を保証するだろう。
     ミホに任せれば、きっとリセは、母親のアワユキや、父親や、あるいは兄や姉のようにはならないだろう。
     サクヤは満足していた。幸せそうな人間を見ていると、心が温かくなる。
     一方でキョウキは、やはりくすくすと揶揄していた。まるでサクヤの心の中を読んだような口ぶりだった。
    「……いやあ、どうだろうねぇ。一緒に占いに行くようなおばあさんとその孫だよ? 何かうまくいかなくなったら、絶対すぐスピリチュアルなことにのめり込んじゃうんだ、そしてアワユキさんと同様、変な宗教にハマっちゃうんだよ、きっと」
     キョウキはサクヤの耳元で、ぼそぼそと楽しげに呟いている。
    「……リセちゃんはやっぱりメルヘン少女志望だね、フェアリータイプのピッピをご所望なところを見るに。で、思春期が来るとミホさんのことをババァって言うようになって、ミホさんもそういうの慣れてないから厳しくなっちゃって、で、結果リセちゃんはグレますね」
    「お前な……」
    「……リセちゃんの将来は奇抜なヘアースタイルのバッドガールか、オカルトマニアと見た」
    「お前、もう黙れ」
     サクヤは隣の席のキョウキにヘッドロックを決めた。
     キョウキの呟きは耳に入っていなかったらしいミホが、二人を見て朗らかに笑う。
    「仲がよろしいのね」
    「ええとても」
     サクヤが笑顔でそのように取り繕う傍で、キョウキが懲りずにくすくす笑っている。
    「……ミホさんって耳、遠いよね……」
     サクヤは無言でキョウキの首を本気で締めにかかった。


     そのような暖かく、一辺では薄ら寒い夕食を終え、四人はヒャッコクの日時計を見に行った。
     午後八時から、日時計は光を放つ。
     それが有名で、またこの謎の建造物が日時計と呼ばれる所以でもある。
     ヒャッコクに暮らすミホは、毎日自宅からその輝きを眺めるという。そしてその孫のリセは、今日初めて、輝く日時計を見ることになる。
     キョウキとサクヤは、彼女たちから数歩後ろに下がって、日時計を、あるいは彼女たちを見守った。
     夜の街は、寒かった。
     夜空には星々が煌めき、湖面は暗く静かに凪いで、深紅に沈んだ日時計は湖に眠っているように見えた。
     一条の光が差す。
     観光客から歓声が起き、シャッター音が上がる。
     リセが、わあ、と小さく声を漏らす。その隣で祖母のミホは微笑んでいる。
    「綺麗でしょう?」
    「うん、ミホのピンククリスタルみたい!」
    「ほんとに、そうね。今日から毎日、日時計がリセちゃんを見守ってくれますからね」
    「うん、おばあちゃん!」
     白いコートのリセが、祖母のスカートにくっつく。眠いらしく、そのままうつらうつらとし出した。
     燦然と輝く日時計を背景にして、ミホはキョウキとサクヤの二人を笑顔のままゆっくりと振り返った。
    「今日は本当に、ありがとうございました。フウジョからヒャッコクまで連れてきていただいて」
    「いえ。お役に立てたなら嬉しいです」
     サクヤは返事をする。
     キョウキが愛想笑いを浮かべて、何を考えたのかミホに申し出た。
    「リセちゃん、寝ちゃいそうですね。ご自宅までお送りしましょうか?」
    「いえ、大丈夫よ。私のポケモンに手伝ってもらうから……」
     ミホは微笑んで、バッグに入れていたモンスターボールを解放した。
     マフォクシーが現れる。
     キョウキが歓声を上げた。
    「おお、びっくりしちゃいました。ミホさんって、トレーナーではないんですよね? それにしたって、見事なマフォクシーですねぇ」
    「ありがとうございます。孫の……梨雪のポケモンなのよ」
     ミホはしみじみとそう語った。
     リセの姉にあたる、ミホの二番目の孫、何年も前に亡くなったという少女は、ポケモントレーナーだったのだろうか。梨雪のマフォクシーは戦い慣れた瞳でじっと数瞬キョウキとサクヤを見つめていたかと思うと、ミホのスカートに縋りついてうとうとしていた少女をそっと抱き上げた。
    「では、失礼いたしますわ。サクヤさん、キョウキさんも、良い旅を」
    「お気をつけて」
     ミホと、リセを抱き上げたマフォクシーは礼儀正しい会釈を残し、市街地の方へ戻っていった。



     キョウキとサクヤは、輝く日時計を二人並んで見つめている。
     周囲には観光客が絶えない。
    「やたらカップルが多いね」
     頭にフシギダネを乗せたキョウキが、日時計から目を離さないまま呟く。
    「そうだな」
     ゼニガメを両手で抱えたサクヤも相槌を打った。
     キョウキはくすくすと笑い出す。
    「確かに、おっきくってピンクで固いって、なんか、やらしいよね」
     サクヤの手刀がキョウキの脇腹を抉った。

    「ぐおおおおおお…………」
     キョウキはしゃがみこみ、悶絶する。
     サクヤの腕の中で、ゼニガメが爆笑している。
     先ほどの勢いでキョウキの頭上がら落ちてしまったフシギダネが、呑気に鼻先でキョウキの膝をつついていた。
    「だぁーねぇー?」
    「……痛いよう」
    「貴様は、本当に、変態だな。変態。この変態が……」
     サクヤは冷ややかな眼差しでキョウキを見下ろす。キョウキは蹲ったままにやにやとサクヤを見上げた。
    「え、サクヤちゃん、まさか今ので照れてんの? うっわぁ純情だね。さっすがモチヅキさんのお気に入り」
    「どういう思考回路だ。公共の場で卑猥な発言をするな」
    「はいはい。――ねえサクヤ、勝負しない?」
     キョウキからの突拍子もない申し出に、サクヤは半身を引いて、ますます眉を顰めた。
    「……何の勝負だ……」
    「やだなぁ、夜の勝負とかじゃないよう」
    「ふざけるな……」
    「だいたい、自分と同じ顔した奴に劣情を抱くほど自惚れちゃいないし。バトルだよ、バトル。ポケモンバトル」
     キョウキは軽く笑いながら立ち上がった。袴に着いた砂を叩き落とし、サクヤを見つめてにこりと笑う。
    「バトルしませんか」
    「なぜですか」
    「胸糞悪いから」
    「ますますわけがわからん」
     キョウキは笑顔のまま、二つのモンスターボールを取り出し、シャワーズとサンダースを繰り出した。数日前に進化させたばかりのキョウキの手持ちだ。
     緑の被衣の下で、レイアにそっくりな顔でにやりと笑った。
    「バトルすっぞ」
    「……キョウキ、お前いま、あの戦闘狂と同じ顔してるぞ」
    「同じ顔してんだよ。はよポケモン出せや」
     レイアの物真似が興に乗ったらしく、キョウキは険のある笑みを浮かべている。
     サクヤは溜息をつき、素直にグレイシアとイーブイを繰り出した。
    「……仕方ない。この機会に進化させるか」
     輝く日時計の前の広場で、二人は距離をとった。観光客がスペースを空ける。
     キョウキはへらりとした脱力した笑顔に戻った。
    「行くよ、瑠璃、琥珀。……まず、瑠璃は玻璃に体当たり。琥珀は螺鈿に体当たり。それ行け!」
     そう、丁寧な指示を下す。
     進化したて、さらにいえば生まれてから一週間も経たないシャワーズとサンダースは、キョウキのゆっくりとした聞き取りやすい指示を受けて、とてとてと走り出した。
    「玻璃は右、螺鈿は左に、躱せ」
     サクヤも指示し、グレイシアと、濃色のリボンを耳に巻いたイーブイは走り出した。
     すると、シャワーズとサンダースは、走るグレイシアとイーブイを、走って追いかけだした。
    「しゃうー!」
    「さんっ」
    「しあぁ」
    「ぷいー」
     そして間もなく、体当たりとそれを躱す、というただそれだけだったはずの一連の動作は、ただの鬼ごっこに早変わりした。
     キョウキとサクヤは互いに顔を見合わせる。
    「……真面目にやってよ」
    「……お前もな」
     そして、四匹のポケモンに視線を戻す。
    「瑠璃、琥珀に手助け! 琥珀は玻璃に体当たり!」
     キョウキの指示を受けて、シャワーズがサンダースに力を分け与え、その力を得たサンダースが加速し、グレイシアに向かって突進した。先ほどまでと勢いが違う。
     サクヤも、グレイシアとイーブイにそれぞれ命令した。
    「玻璃、琥珀に砂かけ! 螺鈿、瑠璃に尻尾を振る!」
     グレイシアが、突進してきたサンダースの顔面に砂をかける。サンダースは砂が目に入ったらしく、体当たりの勢いはどこへやら、きゃうきゃうと騒ぎつつ前足で目をこすっている。
     その一方で、イーブイがシャワーズに向かって尻尾を振り、シャワーズが戸惑いを見せる。

     それは稚拙な戦闘だった。
     体当たりと、尻尾を振ると、鳴き声と、手助けの応酬。
     何が技で、なにがそうでないのか、よく分からない。次第にシャワーズとサンダースとグレイシアとイーブイはおやの命令も待たずに、勝手に取っ組み合いを始めてしまった。もはやただの喧嘩になっている。
     キョウキとサクヤは、呆れ果てて同時に溜息をついた。
    「この子たち、まだまだ弱いね」
    「弱いし、頭も悪いな」
    「経験がないからねぇ」
    「明日からは、他のポケモンたちと模擬戦闘させるか」
     そして二人は、四匹のポケモンたちによる低レベルな争いを眺めた。
     シャワーズがイーブイの耳に食いつき、イーブイはぴゃいぴゃいぴいぴいと喚いてじたばたしている。サンダースはひたすらグレイシアを追いかけ、この二匹で先ほどからひたすら円を描いていた。
     埒が明かない。
     しかし面倒になったので、キョウキとサクヤは指示を出すのをやめて、二人仲良く広場の縁へ歩いていき、生垣の縁石に腰を下ろした。
    「かわいいねぇ」
    「かわいいな」
    「ふしやまさんやアクエリアスも、昔はああだったよねぇ」
     言いつつキョウキが頭上からフシギダネを抱えて膝の上に下ろすと、フシギダネはのそのそとキョウキの膝の上で向きを変え、キョウキの顔を見上げてにっこりと満面の笑みを浮かべた。
    「だぁーね」
    「ぜに! ぜにぜにー! ぜーにぜにっ!」
     一方でサクヤのゼニガメは、サクヤの腕の中から今に飛び出しそうな勢いで、四匹の稚拙な戦いに野次を飛ばしている。サクヤはゼニガメが乱闘に加わるのを防ぐため、しっかりとゼニガメの甲羅を両手で捕まえておいた。
    「……あれから随分と時が経ったな」
    「僕ら、あんなへなちょこトレーナーだったのに、今は随分バトルできるようになったよね」
    「まったくな。慣れとは恐ろしいものだ」
    「死に物狂いで、毎日バトルに明け暮れたからねぇ」
     ポケモンを貰って旅に出て、初めはトレーナーに勝負を挑んでも、負け続けだった。新人トレーナーだから、勝率は自然と五割を切る。すると金銭的に窮する羽目になる。
     仕方がないので、安くで生活できるポケモンセンターに籠るようになる。そして、自分よりも経験の浅い新人トレーナーを集中的に狙い、勝負を仕掛ける。
     本当に狩りをしている気分になった。そう、この世界は弱肉強食なのだ。狩らなければ、狩られるだけだ。
     そして勝てるようになってくると、調子に乗って格上のトレーナーにも勝負を仕掛けたりして、そして再び惨敗する。またもや金に困る。強さが必要なのだと、実感する。
     賞金の出ない野生ポケモンとの戦闘を地道に積み重ね、手持ちのポケモンに新たな技を習得させ、固い地面に横になりながらイメージトレーニングをして、そして開き直ってやけになってバトルをする。絶叫するように指示を飛ばす。そうするとだいたい相手トレーナーが怯むから、そうした心理戦も交えて、敵を狩る。
     夢中だった。
     夢中で、立ちはだかる敵を狩り続けた。
     いつしか、トレーナーである自分自身までポケモンであるような錯覚を覚えるようになった。
     ポケモンと心を一つにするとは、こういうことだろうか。命を懸けて戦う。生きるために戦う。バトル以外のすべてを捨てて、ただ食べて、寝て、戦って。
     およそ文化的でない生活を潜り抜け、気付いたら、今ここにいる。
    「そりゃあ、疲れるわけだ……」
     サクヤと同じことを考えていたキョウキがぼやいた。
     シャワーズとサンダースとグレイシアとイーブイは、いつの間にか疲れ果てて潰れていた。四匹の体が日時計の輝きに照らされている。この四匹は、まだまだ弱い。これから命を懸けて戦うことをその弱い体に叩き込み、完全に叩き潰さないように注意しつつ、それでも強く鍛え上げなければならない。
     夜空に満月が架かりつつあることに、キョウキとサクヤは気がついた。東に巨大にそびえる日時計のせいで、月が見えなかったのだ。
     満月は、日時計の鮮やかな輝きを嘲笑うかのように、冷酷に皓皓と輝いている。
     月光を浴び、濃色のリボンのイーブイの体が輝き出した。
     キョウキもサクヤも、植え込みの縁石に座ったまま、黙ってそれを見ていた。

     イーブイは月の光を集め、そして次いで闇を吸い込んで、ブラッキーに進化した。
     黒々とした毛並みの中で、金の輪が輝く。進化によって体力を得たブラッキーは軽い動作で立ち上がると、とてとてとサクヤの方に駆け寄ってきた。
     潰れていたシャワーズ、サンダース、グレイシアが首を持ち上げ、きゃうきゃうと祝福を投げかける。
     サクヤの足元に寄ってきて、その膝頭に頬を擦り付けるブラッキーの頭を、サクヤは撫でた。
    「おめでとう、螺鈿」
    「きぃ」
     喉を鳴らすブラッキーの顎の下を掻いてやる。キョウキが声を出して笑った。
    「さて、進化計画、こっちは完了だね」
    「あいつらもうまくやっていればいいが」
    「レンリに行けば会えるんじゃないかな?」
     キョウキは機嫌よく、体を左右に揺らしていた。
     サクヤがブラッキーを撫でていると、ずるいと思ったか、シャワーズやサンダースやグレイシアも元気に立ち上がって駆け寄ってきた。二人はそれぞれのイーブイの進化形を撫で回す。
     日時計が、宇宙の下で眩く輝いていた。


      [No.1417] 昼想夜夢 中 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:41:22     43clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    昼想夜夢 中



     ゴジカが静かに、シンボラーとゴチルゼルとモンスターボールに戻す。
     そしてゴジカは浮遊したまま、激戦を制したフシギダネやゼニガメをそれぞれ労っているキョウキとサクヤの方へ近づいてきた。宇宙を裏打ちした銀のマントが緩く翻る。
     重々しく口を開いた。
    「これは、光。――フシギダネとゼニガメ、あなたたちに心を開き従った、見事なバトルでした。そう、あなたたちの力」
     それぞれフシギダネとゼニガメを抱き上げたキョウキとサクヤは、ぽかんとしてゴジカを見上げた。
    「あー……えっと……?」
    「これからの道をもう一度見定めることは、できましたか」
     ゴジカは目元を緩ませ、うつくしい笑みを湛えている。
     緑の被衣のキョウキと、青い領巾のサクヤは、顔を見合わせた。
    「……これから、どうするか?」
    「まず、このあとは用事があって、その後ブラッキーに進化させて……さらにその後、という意味ですか?」
    「そうです。これは、道標。過去に迷い現在に失われた者を、未来へと導くもの。そう、占い。――あなたたち、未来を占いますか」
     え、とキョウキとサクヤは声を揃えた。しかしキョウキの腕の中でフシギダネはにっこりと笑って穏やかに鳴き、サクヤの腕の中でゼニガメは元気よく鳴きながら手足をばたつかせる。二人は相棒を見下ろす。
    「どうしたの、ふしやまさん。占ってもらえって?」
    「だぁーねぇー?」
    「……お前たちは占いに興味があるのか?」
    「ゼーに、ぜにぜにぜーに、ぜにーっ!」
     ゼニガメはサクヤの腕の中から勝手にぴょんと飛び出したかと思うと、床の上でぴょんぴょんと跳ねて、宙に浮遊しているゴジカの纏う不思議なマントに飛びつこうとしている。サクヤはすぐにゼニガメを拾い上げた。
    「失礼しました。……ええと、ゴジカさんは、会社のビジネス戦略も恋占いもぴたりと的中させてしまうとか」
    「どなたの未来も、視るわけではありません。だからこれは、異例。あなたたちの未来、その断片を知れば、これからの道が開けるかも。そう、スペシャルサービス」
    「つまり無料で占ってくださる、と」
     キョウキが笑顔で確認した。ゴジカは浮遊したまま、二人についてくるよう促し、ジムの裏へと入っていく。
     ゴジカの声はゆったりと深く、思わず聞き惚れるような艶やかさを持っている。
    「これは、使命。ジムを預かる者は、それに挑戦する者の道程を量り、これからの道を指し示すもの。そう、ジムリーダーの役目」
    「僕らのバトルの中で、何か読み取られましたか?」
    「……疑問。不安。不信。未来への、怯え」
     ゴジカはそう告げた。


     そうしてキョウキとサクヤの二人がゴジカに連れられたのは、華やかな舞台の裏側に期待してしまうような寒々しい殺風景な楽屋裏ではなかった。
     その占い部屋は、やはり天幕に星座が象られ、幻想的な雰囲気を醸し出していた。ゴジカが占い師として運勢を見る際に使う部屋だろう。
     テーブルの傍には椅子が三つ。ゴジカは、二人をこの占い部屋に連れてくることも予見していたというのだろうか。
    「どうぞ、お座りなさい」
     促されて、キョウキとサクヤはおずおずと腰を下ろした。丸テーブルを挟んで、ゴジカと向かい合うように座らされる。二人とも占いなどにまったく興味は持っていなかったので、このような場でどのようにふるまうべきか全くわからない。
     四つ子は、現実主義者である。基本的には科学的に証明された理論を信じるし、感覚的なものは妄信することはない。しかし、現実として直面したものはそのまま受け入れる用意はあった。
     この世界には、奇妙なものがたくさん存在する。
     ポケモンの存在然り、水ポケモンがどこから水を出すのか、岩ポケモンがどこから岩を出すのか、ゴーストポケモンがどこから来るのか、エスパーポケモンの能力の正体は何なのか。何一つ分かってはいない。
     そして、ポケモンだけではない。人間の中にも、霊感のある人間やら、サイコパワーを持つサイキッカーやら、波動なるものを操る波動使いやらが実在するのだ。
     さらにはこのゴジカには、万人に認められる確かな実績もある。いくら現実主義者のキョウキとサクヤでも、強いて説明のつかない摩訶不思議な現象を全否定しようとは思わない。
     ゴジカに促されるままに、二人は手を伸ばす。
     ゴジカの右手がキョウキの手を、左手がサクヤの手を取る。二人の手が、ゴジカの腕輪を通る。
     その腕輪は、テーブルと垂直に立っていた。まるで異世界へ繋がっているかのような。
     この腕輪に手を通すと、ゴジカにはその者の未来が見えるという。
     つまり、腕輪のこちら側とあちら側では、空間的に仕切られているのだ。それが現実と未来という隔たりなのか、物質と精神という隔たりなのかは、二人には分からない。占いとは、時空を超えるのか、心を見通すものか。
     ゴジカはしばらく二人の手を同時にとって、じっと何かを感じ取るかのように瞑目していたが、やがて息をついた。
     フシギダネとゼニガメが興味津々といった風に見守る中、キョウキとサクヤは恐る恐る手を引いた。
    「え、えーと……いかがですか」
    「これは、信頼。すべてのポケモンたち、あなたたちに心を開き従う。そう、それが八つのバッジの光」
    「それは、ジムバッジを八つすべて集めた際に分かっていたことだと思うんですけど」
     キョウキが口を挟むと、ゴジカはくすりと笑った。
    「そう。だから、どうしても人を信じられないとき、傍の仲間に頼りなさい」
     フシギダネがにっこりとキョウキに笑いかけている。キョウキもどこか釈然としない表情ながら、相棒のフシギダネの頭を撫でた。フシギダネが気持ちよさそうに、キョウキの手に頭を摺り寄せる。
     サクヤもゼニガメをしっかり抱え、そしてそのゼニガメに黒髪をぐいぐい引っ張られつつ、ゴジカに尋ねた。
    「……つまり今後、人が信じられなくなるということでしょうか? すべての人間が信じられなくなるのですか?」
    「信じる信じないは、道そのものではなく、道の歩み方の問題。だから、その問いには答えられません」
    「……では、お聞きします。今後、僕らは面倒事に巻き込まれるのでしょうか? 大きな事件に巻き込まれることはありますか? 僕らは、無事に旅を続けられるのでしょうか?」
     するとゴジカはテーブルに両の肘をつき、両手で頬を支えて、どこか悪戯っぽく微笑んだ。
    「あなたたち、旅を続けますか?」
    「えっ」
    「えっ」
     虚を突かれ、二人は瞠目して占い師を見つめた。ジムリーダーからそのように言われて、どうしようもなく動揺する。
    「……え、ど、どういう意味です? 旅、やめた方がいいんです?」
    「これは占い。未来を示唆し、進むべき方角を想起させるもの。そう、可能性。助言ではありません」
     旅をやめるべきと言っているわけではない、とゴジカは告げる。
     キョウキとサクヤは占いの解釈に頭をひねった。
    「うーん、えーと、じゃあ、旅をやめることも考慮に入れろってこと……? でも、ポケモンは信じるんですよね? つまり、トレーナーをやめるというわけではない……? 定住してトレーナーを続けろと?」
    「そもそも、僕は事件に巻き込まれることがあるのかとお尋ねした。それに対して、旅を続けるかとのご質問を頂いたんだぞ。それはつまり……厄介なことが起こる可能性があるということか……?」
     頭を抱えている二人のそっくりなトレーナーを、ゴジカは微笑んで見つめていた。
    「では、最後に一つ。あなたたち、滝を見にお行きなさい」
     キョウキとサクヤはますます眉を顰めた。
    「……レンリタウンに行け、ということでしょうか?」
    「なぜですか。その未来は決定事項か何かなんですか?」
    「これは助言。あなたたち、レンリに行くべきです。なぜなら、そこに大切な人がいるから」
     ゴジカは目を伏せている。
     キョウキとサクヤは一瞬だけ視線を交わした。
    「大切な人? レイアとセッカってことかな?」
    「さあ……しかしあいつらとは別れたばかりだし、会おうと思えばいつでも……いや、これは占いではなく、助言とのことだぞ」
    「え、つまりいま会いに行かなきゃレイアとセッカが危ないってこと?」
    「分からない。しかし、未来を予知なさるゴジカさんの助言だ、無視するのは怖すぎる」
     そう早合点すると、フシギダネを抱えた緑の被衣のキョウキと、ゼニガメを抱えた青の領巾のサクヤは、素早く椅子から立ち上がった。
    「ありがとうございます、ゴジカさん。ちょっくらレンリタウンに行ってきます」
    「お世話になりました」
     ゴジカはゆったりと頷いた。
     そして腕輪に通した手をすっと伸ばし、二人の背後の天幕を指す。すると、天幕がひとりでに割れ、占い部屋の外へと通じた。
     キョウキとサクヤはゴジカに会釈し、占い部屋を出ようとした。
     しかし、そこで逆に占い部屋に入ろうとした客と、鉢合わせした。
     キョウキが愛想笑いを浮かべる。
    「……おやおやおや」
    「ミホさん、リセさんも……」
     サクヤも軽く眉を上げた。
     そして、少女を連れて占い部屋に入ってきた老婦人は、口元に手を当てた。
    「あら、サクヤさん、キョウキさん。貴方がたも、占いに興味をお持ちでしたの?」
     キョウキとサクヤと入れ替わりに占い部屋に入ろうとしたのは、二人がフウジョタウンからこのヒャッコクまで護衛してきたミホと、その孫娘のリセだった。



     フシギダネを頭に乗せたキョウキと、ゼニガメを抱えたサクヤは、ヒャッコクの北辺、湖畔に佇むカフェに腰を落ち着けていた。
     日は天頂を回り、暖かい陽気の中、湖面は凪いでいる。
     キョウキはクッキーを貪りながら、にこにこと毒々しい笑みを浮かべていた。
    「ほんっと、腹立つよね」
    「何がだ」
     サクヤは澄ましてストレートの紅茶を啜る。キョウキは小さなクッキーを両手で持って、デデンネか何かのように前歯でかりかりとそれを齧り取っていた。
    「あのおばあさんとその孫の女の子に、占い好きだって思われたことがさ。ああ、僕、占いなんて別に信じないのに!」
    「だが、ゴジカさんの占いはすべての客層から定評がある。テレビや新聞でも運勢占いを担当されているぞ」
    「そういうことじゃなくてさ! ミーハーだって思われたくないの!」
     キョウキはかりかりかりかりとクッキーを貪り食らった。さながら音で苛立ちを表しているようでもある。
     サクヤは呆れたように目を細める。
    「お前は、意外と古い人間だな」
    「お前もね。ついでに言えば、レイアもセッカも相当古いよ。ウズの作った着物を旅立ちからずっと大切に着続けて、ブティックにも一切寄らないし」
    「それはお前、金が無いからだろう」
    「そうだよ! マネーがないんだよマネーが! だから占いなんて無駄っぽいことに使わないんだよ! 今日はたまたまゴジカさんがスペシャルサービスしてくださっただけなんだよ!」
     キョウキはぴゃあぴゃあと喚いた。少しだけ、四つ子の中でいつもは賑やかしを担当するセッカの真似をしているようだ。
     キョウキは大声を出したことに気付いたように、逆にぼそぼそと低い声になった。
    「……ほんとさ、占いとかしてもらいに来る人って、暇っつーか、裕福だよねぇ……。ほんと羨ましい。そんなお金あるのに、どんな悩み事があるってんだい……」
    「お前は情緒不安定か。……人の悩みは尽きない。金銭はもちろん、人間関係、将来のこと、果ては明日の天気まで」
     キョウキはぐったりとテーブルの上で項垂れた。
    「ほんと最悪。早くレンリ行きたい。――あ。もうやだ、忘れてたよ……僕ら、あのおばあさんと晩御飯食べなくちゃじゃん。……めんどくさいよう」
    「なら、お前だけ先にレンリに行けばいい」
    「やだ。せっかくタダでご飯食べれるチャンスだもん。よし、食えるだけ食ってこう」
    「卑しいぞ」
    「ねえサクヤ。いい子ちゃんぶるのって、疲れない?」
     キョウキが肘をついて、いつの間にかにっこり笑ってサクヤを見つめている。さながら甘い囁きをする悪魔のようである。
     サクヤは顔を顰めた。
    「お前がどう思おうが、僕自身も聖人君子を装っているつもりはない。僕は僕なりに、自分の思いに素直に行動しているだけだ。それが、ひねくれたお前の眼には、僕までひねくれているように見えるだけだ」
    「そうなんだろうね」
     キョウキははあ、と大きく溜息をついた。
     サクヤは片手で青い領巾を押さえつつ、片手を伸ばして、キョウキの被っている緑の被衣を頭から取り払ってやった。そうして、キョウキの黒髪をぞんざいに撫でてやる。
    「お前は不器用だ」
    「……ええ? そうかな? かなり気を配って立ち回っているつもりだけれど」
    「お前はぱっと見、いい奴だ。そして五分も話せば、ただの下衆だと分かる。――だがな、生まれた時からずっとお前と一緒にいれば、お前が本当に優しい奴だということくらい、分かっている」
     キョウキは項垂れて頭を撫でられながら、ちらりと上目遣いにサクヤを見やった。
    「……今、デレたね、サクヤ」
    「うるさい。ツンデレなのは僕ではなくレイアだ」
    「お前は本当に、素直だよ」
    「お前は本当に、愚図だな」
     サクヤがキョウキの髪をわしゃわしゃと掻き回しているその足元で、やんちゃなゼニガメは甲羅の上に穏やかなフシギダネを乗せて、喧しくお馬さんごっこをしていた。


      [No.1416] 昼想夜夢 上 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:39:32     45clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    昼想夜夢 上



     サクヤは、また見てしまった、と思った。
     ピンク色の、派手派手しい日時計をである。それはギラギラと高い太陽の光を受けて輝いていた。青い空と青い湖面の中でいやに目立つ。
     サクヤが目を細めてヒャッコクの日時計を眺めていると、プテラに乗って空を旋回していたキョウキが、ゆっくりと下降してきた。
    「よっ……と」
     キョウキがプテラの背から飛び降り、ボールをプテラにかざす。
    「ありがと、こけもす」
     フウジョタウンからここヒャッコクシティまで空路を運んでくれたプテラを労い、キョウキはプテラをボールに戻した。そして笑顔で片割れのサクヤと、サクヤがマンムーに乗せて護衛してきたミホと、その孫娘であるリセ、この三人を見回す。
    「――さて、どうします? 護衛はここまででいいですか?」
     すると上品な老婦人のミホは、笑顔になって頭を下げた。
    「ありがとうございました、サクヤさん、キョウキさん。……そうですね、まずはリセを家に連れて帰りたいと思います。ぜひお礼をしたいので、今日のお夕飯などご一緒なさらない?」
    「わあ、ありがとうございます。僕は何もしてませんけど、ありがたくあやかろうかな」
    「いえいえ、そんな。では、サクヤさん、キョウキさん。午後六時に、日時計の前で」
     そう言って、ミホは孫娘を連れて、観光客であふれかえるヒャッコクの街並みの中に消えていった。


     その姿が見えなくなると、フシギダネを頭に乗せた緑の被衣のキョウキは唐突に鼻で笑った。
    「素敵なおばあさんだね」
    「とてもその言葉通りに思っているとは思えないんだが?」
     青い領巾を袖に絡めてゼニガメを両手で抱えたサクヤは、溜息をつく。
     キョウキはふふふと愉快そうに笑った。
    「サクヤって、ああいう人、好きそうだね」
    「逆にお前は、どんな人間も嫌いそうだな」
    「そうだね。僕はサクヤとレイアとセッカ以外の人間を信じないからなぁ」
    「いつかお前にも、僕ら三人以外に大切な人ができればいいな」
     サクヤが小さく鼻を鳴らし、歩き出す。
     するとキョウキは拗ねたように、サクヤの腕にくっついた。
    「……ねえ、なんでサクヤ、そういうこと言うの? 僕にはお前らだけいればいいのに」
    「お前はヤンデレか。お前もいつか、兄弟から自立しなければならないだろう」
    「どうして? サクヤはいつか、僕らから自立しちゃうの?」
    「僕だけじゃない。セッカも、レイアも、そしてお前も変わる。キョウキ、変わるんだ」
     サクヤがそう淡泊に言うと、サクヤの腕を掴むキョウキの手の力が強くなった。
     サクヤは顔を顰め、立ち止まる。
    「おい。痛い。離せ」
    「……それは、嫌だなぁ」
     キョウキは項垂れていた。フシギダネがキョウキの頭の上から飛び降り、石畳に着地する。ゼニガメがサクヤの腕から飛び出し、フシギダネに飛びついた。そのままフシギダネとゼニガメがじゃれつき出す。
     キョウキの顔は、緑の被衣に隠れて見えない。
     サクヤはますます顔を顰めた。
    「なんだ。泣いているのか」
    「――んなわけないじゃん?」
     キョウキはぱっと顔を上げた。確かにいつものほやほやとした笑顔である。
     キョウキとサクヤは繋いだ手をぶんぶんと前後に振りながら、並んで歩き出した。キョウキがサクヤに文句を言う。
    「サクヤにはさ、モチヅキさんっていう大切な人がいるからいいよね。レイアも、ルシェドウさんやロフェッカみたいな友人がいる。セッカはユディと一番の仲良しだ。でも、僕には誰もいないんだよ?」
    「……知ったことか。友人でも恋人でもいくらでも作ればいい」
    「こんな性格の奴と、誰が付き合いたがるの?」
     キョウキは自嘲的に笑った。サクヤは嘆息する。
    「それは、自業自得だ」
    「僕のこの性格がお前らを守るためなの、分かってるよね? 僕ら四人は、互いを補完し合って生きてきた」
    「つまり、お前の人間嫌いは、僕ら三人のせいだ、と?」
    「僕はね、お前ら三人だけを信じているよ」
     キョウキは湖上の輝く日時計を見つめている。
    「……たとえ、セッカがサクヤやレイアが僕の知らないどこかへ行ってしまったとしても、三人は僕のことを忘れないって僕は信じてる。でも、もし僕を忘れたら……僕はお前らを殺しに行こう」
    「やはりヤンデレか。知ってたが」
    「ふふ。アワユキさんに影響されたかな」
     二人はのんびりと、暖かいヒャッコクの街を仲良く歩いていた。



     キョウキとサクヤが向かったのは、ヒャッコクジムだった。
     二人とも観光やショッピングに興味がないので、ミホたちとの約束の時間までポケモンを鍛えるしか特にすることがなかったのだ。
    「ここ、いつもすごいよねぇ」
    「いったいこのジムは何がしたいんだろうな」
     ヒャッコクジムの中は、宇宙空間のようになっていた。重力がめちゃくちゃで、純粋なアトラクションとしては楽しめるのだが、ここで平静を保ってバトルをするにはかなりの精神力を要する。
     エスパーポケモンがサイキッカーたちを宙に浮かし、そしてサイキッカーたちは瞑想している。
     天には幾万もの星々が煌めく。
     キョウキとサクヤは案内のジムトレーナーに導かれ、奥のバトルフィールドまで来た。
     黒いドレスに銀のマントのジムリーダー、ゴジカが、宙に浮遊してキョウキとサクヤを迎えた。
    「……これは、儀式」
    「ああ、これまでを振り返りつつ――」
    「これからの道を決めるもの、ですね」
     キョウキとサクヤはさっそくモンスターボールを手にしつつ、浮遊するジムリーダーを見据える。
     ゴジカは星形の耳飾りを揺らし、くすりと笑った。
    「――そう、ポケモン勝負。いざ、始めるとしましょう」
    「いつも話が早くて助かります」
    「どうぞよろしくお願いします」
     ゴジカは、キョウキとサクヤの二人が訪れることを予見していたらしい。ジムトレーナー達は既にバトルのための空間を空けて待機しているし、キョウキやサクヤが何も言わなくてもゴジカはバトルの用意を整えている。
     ゴジカは二つのボールを浮遊させ、解放した。シンボラーとゴチルゼルが現れる。
     キョウキの頭に乗っていたフシギダネが跳び下り、サクヤの腕の中にいたゼニガメが飛び出す。
    「頼むよ、ふしやまさん。アクエリアスも、よろしくね」
    「ふしゃー」
    「ぜにぜにぜにが! ぜにぜにーっ!」
     キョウキのフシギダネはのそのそと不思議な空間に足を踏み出し、サクヤのゼニガメは短い両腕をぶんぶんと振り回して気合十分である。
    「では……」
     ゴジカのその一言を合図に、キョウキとサクヤはそれぞれ指示を飛ばした。
    「ふしやまさん、シンボラーに眠り粉だよ」
    「アクエリアス、ゴチルゼルに威張る」
    「シンボラー、エアスラッシュ。ゴチルゼルは瞑想」
     フシギダネが背中の植物から噴き出した眠り粉を、シンボラーの巻き起こした風が吹き払う。
     一方では、ゼニガメが傍目にも鬱陶しく威張るのを、瞑想するゴチルゼルは軽く受け流した。
    「シンボラー、ゴチルゼル。サイコキネシス」
    「アクエリアス、ふしやまごと、守る」
    「ふしやまさんはその隙に、宿り木の種だよー」
     二匹のポケモンから放たれる念動力をゼニガメが防ぎ、その背後で身をかがめていたフシギダネが距離を測り、宿り木の種をシンボラーとゴチルゼルの両方に素早く植え付ける。

     その後もフシギダネが眠り粉をばらまき、ゼニガメが威張り、そしてシンボラーやゴチルゼルの攻撃をゼニガメが庇ってその陰でフシギダネが工作をする、という流れがもう一巡繰り返された。
     とはいえ、フシギダネの振りまく眠り粉はシンボラーの風に阻まれ、威張るゼニガメは冷静なエスパーポケモンたちには完全に無視されているようにしか見えない。
     一方では、向こうからの攻撃もゼニガメが全て防ぎ、宿り木の種で相手の体力も少しずつ削ってはいる。
     状況は、様子見の段階を終えようとしていた。
    「工作はそろそろ諦めようか、サクヤ?」
    「仕方ないな。もう面倒は見ないぞ、キョウキ」
    「お前もな」
     早口でそれだけ意思疎通をすると、二人はばらばらに指示を出した。
    「――ふしやまさん、ゴチルゼルにギガドレインだよ!」
    「アクエリアス、シンボラーにハイドロポンプ!」
    「シンボラー、光の壁。ゴチルゼルはフシギダネに、サイコキネシス」
     本格的な攻防の火蓋が切って落とされた。
     フシギダネは強力な念力にねじ伏せられつつ、奪われた体力をその分ゴチルゼルから吸収する。更にゴチルゼルに絡みついた宿り木から養分を吸収し、回復を間に合わせた。
     シンボラーが壁を張るその直前に、ゼニガメの吹き出した水流がシンボラーに叩き付けられる。
    「アクエリアス、ロケット頭突き」
    「ふしやまさん、身代わりで耐えて」
     ゼニガメは甲羅に籠り、そして光の壁を打ち破ってシンボラーにぶつかっていく。シンボラーがふらつく。ゴチルゼルの念力を、フシギダネは身代わり人形の陰でしのいだ。
     ゴチルゼルの動きに隙が大きい。ゼニガメの威張りは多少効果があったのか、そのゴチルゼルの隙を突いてフシギダネはさらにギガドレインで体力を吸い取る。
     シンボラーが、リフレクターを張る。
     二つの壁と、瞑想と。宿り木の種と、身代わりと、守ると。

    「もうやだ、持久戦とかめんどくさいよー」
    「嫌なら最初から悠長に工作などするな」
     ぼやくキョウキを、サクヤが叱咤する。
     相手が瞑想を積むたびに、相手の特殊攻撃力は増し、同時に特殊防御力も増す。更には、光の壁とリフレクターもあり、こちらのすべての攻撃の威力は半減する。
     宿り木の種のおかげで、常に一定量の体力をゴジカのポケモンからは奪うことができるが、決定打にはならない。
     ゴジカも、キョウキも、サクヤも、しばらく指示を控えて、四体のポケモンたちに彼らの思うままに戦わせていた。とはいえ、どのポケモンも攻撃の隙を窺って守りに回るばかりである。
     キョウキはなおもぼやいた。
    「はあ……サクヤと組むと、いっつもこれだ。ふしやまさんもアクエリアスも、割と耐久型だからさぁ」
    「レイアのサラマンドラや、セッカのピカさんがアタッカーだからな……」
    「レイアとセッカの二人が相手だったら、勝手に自滅してくれるんだけどなぁ。ふしやまさんの眠り粉宿り木身代わりギガドレ構成と、アクエリアスの威張る守るで完封なのにさ」
    「やはり、ジムリーダー相手にはアタッカーが必要だな…………というか、ふしやま、ソーラービーム忘れさせたのか?」
    「うーん、ギガドレインが必要なさそうなら思い出させようと考えてる。やっぱり今のままじゃ、火力不足気味なんだよなぁ……。アクエリアスの技はあと二つ何なのさ?」
    「ハイドロポンプとロケット頭突きだ」
    「あ、じゃあこっちの技構成は、全部ゴジカさんにばれてるねー」
     戦闘は膠着状態に陥りつつある。ゴジカの方も特に事態を打開するでもなく、挑戦者であるキョウキとサクヤに考える時間を与えてくれているようであった。
     キョウキとサクヤはぼそぼそと相談する。
    「確認しようか。シンボラーの技は、光の壁、リフレクター、エアスラッシュ、サイコキネシス」
    「ゴチルゼルは、サイコキネシス、瞑想……あとは未来予知か何かじゃないのか。あれはアクエリアスでも守れない」
    「あー、ゴジカさんの十八番かぁ。絶対、とどめさす用に残してるよ……」
    「どうする?」
    「さあ。宿り木の種でだいぶ向こうも消耗してる。来るならそろそろじゃないかな。未来予知が現実になる前に決着つけるか、一か八か耐えるか」
    「面倒だ。もう終わらせるぞ」
    「そうしよっか」
     二人の相談が終わるのを待っていたかのように、ゴジカは静かに指示を出した。
    「ゴチルゼル、未来予知」

     キョウキとサクヤは、間髪入れず叫んだ。
    「行くよふしやまさん、ゴチルゼルに眠り粉!」
    「アクエリアスはシンボラーに、ハイドロポンプ!」
     ゼニガメがシンボラーを水流で弾き飛ばす。その隙に、未来に攻撃を予知するゴチルゼルに、フシギダネが眠りへと誘う粉を振りかける。
    「――ゴチルゼル、寝言」
     ゴジカは静かにそう命じた。
     眠りについたはずのゴチルゼルが、腕を掲げた。キョウキが、うげっと妙な声を出す。
     フシギダネが、ゴチルゼルのサイコキネシスをまともに食らう。
     どうにか耐えきり、フシギダネから深緑の力が立ち上る。
     キョウキとサクヤは、同時に息を吐いた。
     詰みだ。
    「頑張れふしやまさん、ギガドレインだよ」
    「アクエリアス、シンボラーにロケット頭突き」
     フシギダネが力を振り絞り、ゴチルゼルから体力を吸い尽くした。
     一方では、ゼニガメがシンボラーをとうとう撃ち落とした。
     未来に予知されていた攻撃が、次元の狭間で消滅するのが、なぜかキョウキにもサクヤにも分かった。


      [No.1415] 朝過夕改 下 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:37:59     45clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    朝過夕改 下



     迷いの森を引き返しながら、ウルップは呟く。
    「この前、21番道路でも事故があっただろ。最近あれだな、騒がしいな」
    「騒がしい?」
    「あれだよ、ポケモンが暴れてるんだよ。あるいはトレーナーが暴れてるんだな」
     ウルップの声音は深刻そうではなかった。のんびりと大股に森を歩いている。
     レイアとセッカは同時に首を傾げた。
    「分かるんすか? 自然災害じゃないって」
    「そうだな。あれは、あれだ、人の仕業だ。でなければ村のポケモンたちがああまで怯える筈がねえからな」
    「ふうん……」
     群れで襲い掛かってくるオーロットを、レイアのヒトカゲが炎で脅して追い払う。レイアはまた、腕の中に桃色のリボンをしたイーブイを抱えていた。
    「珊瑚、つぶらな瞳」
     小さなイーブイは瞳を輝かせて、襲い掛かってくるすべてのポケモンを見つめ続ける。レイアは首を傾げた。
    「……効果あんのかね? っていうか、ちゃんと習得できてんのか、これ?」
    「あれだな、たしかに鳴き声とか尻尾を振るとか、変化技ってのは効果が分かりにくいよな」
     ウルップも唸る。
    「だが、まああれだよ、たぶんできてるってことでいいと思うよ」
    「ジムリーダーさんが仰るならそういう事で」
     レイアは小さなイーブイの頭をよしよしと撫でてやった。イーブイはぷうぷうと喜んでいる。
     襲い掛かってくるオーロットの群れを、レイアはヒトカゲとイーブイに次々と撃退させた。イーブイは相手をつぶらな瞳で見つめ、あるいはヒトカゲを手助けするばかりなのだが、バトルの場に出るだけでも経験値は得られる。
     そうして、何匹目かのモロバレルを追い払った時だった。
     ついにつぶらな瞳を完全に習得したイーブイが、眩い光を放ち始める。
    「あ――っ、れーや! れーや! れーや!」
    「うるせぇ。分かってる……」
     ぴゃいぴゃいと騒ぐセッカを制し、レイアはイーブイの進化を見守った。
     光の中、長いリボンのような触角が伸びる。
    「ふぃあ!」
     光が弾け、桃色のリボンを巻いていたイーブイの珊瑚は、ニンフィアに進化していた。


     レイアは拳を握りこんだ。うまく二匹のイーブイをそれぞれエーフィとニンフィアに進化させることに成功したのだ。
    「やったぞ珊瑚! おめでとう。やったな」
    「ふぃあふぃーあ!」
     ニンフィアもふわりと軽やかに跳んで、レイアに飛びつく。ヒトカゲも笑顔でそれを見守っていた。
    「しゅごい! れーやしゅごい! 完璧だ!」
     セッカも興奮して鼻息を荒くしていた。ウルップもうんうんと頷く。
    「あれだよ、進化おめでとうだな」
    「ありがとうございます、ウルップさん」
    「うん。大切にしてあげるんだよ」
    「もちろんっす」
     レイアはニンフィアを抱えて笑った。
     セッカも気合を入れる。
    「俺もばんがって進化させないと! 出といで翡翠!」
     セッカもボールから緑のリボンのイーブイを繰り出す。
    「いいかぁ翡翠、翡翠は草タイプに進化するんだぞ!」
    「ふむ、いいタイミングだな。そろそろあれだよ、苔むした岩だよ」
     ウルップが指さす。
     セッカは大喜びで駆けだし、森の奥の苔に覆われた大岩に飛びついた。苔はひんやりとして柔らかい。
    「よし、翡翠、ここでバトルやるぞ! 珊瑚に続け!」
    「ぷい!」
     緑のリボンのイーブイは、苔むした岩の周りの草むらを音高く駆け回り、バトルの相手を探す。
     そして、草むらが揺れた。

    「た!」
    「ま!」
    「げ!」
    「た!」
    「け!」

    「……あっ……お前ら――!」
     セッカとイーブイの前に飛び出してきたのは、五体のタマゲタケの群れである。先ほど大木に潰されていたところをウルップに助けられた五体だった。
     セッカは途端に涙目になった。
    「……だめ! 逃げて! お前らはもう、ゆっくり休んで……!」
    「た!」
    「ま!」
    「げ!」
    「た!」
    「け!」
     しかしセッカの言葉に耳を貸さず、タマゲタケの群れは戦闘意欲を燃やしている。
     セッカは涙を拭いつつ、声を震わせた。
    「だって俺……お前らには何もしてやれなくって……復活草だって出し惜しみして……っ」
    「た!」
    「ま!」
    「げ!」
    「た!」
    「け!」
     五匹のタマゲタケは盛んに鳴きたて、イーブイを威嚇している。そしてセッカはとうとう顔を上げた。
    「……わかった。お前らの気持ち、無駄にはしない! 行くぜ翡翠、ピカさんもアシスト頼む!」
    「ぴかっちゃ!」
    「ぷいい!」
     茶番は終わった。
     戦闘に集中したセッカは、ピカチュウとイーブイに指示を下し、容赦なくタマゲタケを追い散らす。
    「はっはー! どーだタマゲタケども!」
     そして戦闘直前までのしおらしい態度はどこへか、セッカは胸を張って勝利を宣言する。その後ろでレイアとウルップはにやにやとそれを見ていた。
     緑のリボンのイーブイは初めての激しいバトルに息を切らし、苔むした岩の上でへたり込んだ。
     柔らかい苔にイーブイが頬ずりしたとき、イーブイは光を放ちだした。
     セッカがガッツポーズをする。
    「来たっ! 来た来た来たぁ――っ! 行けぇ翡翠――!」
     木漏れ日が揺れる。
     木々がざわめき、緑のにおいが立つ。
     そうして緑陰に、リーフィアが降り立った。

     セッカは相好を崩した。
    「やったよ翡翠――っ」
     進化したてのリーフィアにセッカが抱き付く。瑞々しい緑のにおいがする。
     セッカは満面の笑顔で、片割れとウルップを振り返った。
    「やったよレイア! ついにやりました! ウルップさんも見て見て見てぇぇリーフィアだよぉぉぉ――」
    「おー、やったなセッカ」
    「うん、おめでとな。いいじゃねえか、お前さんもあれだ、そのうち、おれとバトルしに来なよ。楽しみだ」
    「そのうち! 気が向いたら!」
     二人からの祝福を受け、セッカはリーフィアとピカチュウと一緒に、苔むした岩の周りを踊り狂った。


     それから間もなく、ウルップの案内で無事に迷いの森を抜け出し、ウルップと別れてレイアとセッカは機嫌よくポケモンセンターへ戻った。
     分厚い雲の上で太陽はほとんど沈みかけているらしく、世界は深い青に染まっていた。雪は止むことなく、街を白に閉ざしている。
     そうしてレイアとセッカが震えながらポケモンセンターに駆け込むと、そこには黒衣の仏頂面の人間が、ロビーのソファで膝を組んで二人を待ち受けていた。
    「えっ」
    「あれっ」
     裁判官のモチヅキだった。
     二人は目を点にした。

     モチヅキとは昨日、ハクダンシティで会ったばかりだ。
     レイアとセッカを追いかけてきたのだろうか。
     二人は混乱して、ポケモンセンターの入り口で立ち止まってしまっていた。
     モチヅキは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
    「無礼な。じろじろ見るな。座れ」
    「……モチヅキさん、お一人で、ハクダンからエイセツに来たんすか?」
     セッカがぽかんとしつつ、そう尋ねる。
     モチヅキは自身の座っているソファの向かい側を顎で示した。
    「いいから座れ。今日は一人で来た」
    「……なんで」
     大人しく二人くっついてモチヅキの正面に腰を下ろしつつ、ぎこちなくレイアとセッカは視線を彷徨わせる。モチヅキがレイアとセッカの二人を追いかけてきたらしい事実に、二人とも違和感しか覚えない。
     珍しいことに、モチヅキはぶつぶつと文句を言った。
    「まったく、勝手に消えおって。……まあいい」
     モチヅキは普段よりも早口だった。
    「そなたら、暫し自粛せよ」
    「何を?」
    「――旅だ」
     レイアとセッカは目を見開いた。
    「は?」
    「えっ、なになに、何すかいきなり?」
    「問題が生じた。……そなたら、妙なトレーナーに付きまとわれておろう。色違いのアブソルの」
     モチヅキは静かに、まっすぐ二人を見据えたまま呟く。
    「なぜ知っている、などとは訊かぬことだ。簡単なこと、例のふざけたポケモン協会員が報せてきた」
    「……ルシェドウか」
     レイアが唸る。セッカはあたふたとレイアとモチヅキを見比べていた。
    「ねえ、ねえ、何なの? 俺ら、アブソルに付きまとわれてんの?」
    「そういうことだ。だから暫し、カロスをうろつくのは自重してもらう。……レンリへ行け。電車でミアレを経由し、キナンに籠っておれ」
     突然のモチヅキからのそのような話に、レイアとセッカは戸惑っていた。
    「……え、な、なんで? マジで、なんで? なんで急にそんな話になってんだよ?」
    「黙れ。レンリにウズ殿がおられる。キナン行きは決定事項だ。従え」
    「だから、なんで!」
    「そなたらが問題にばかり巻き込まれるからだ」
     モチヅキは有無を言わさぬ、強い口調でそう言った。
     静かな声だったが、レイアもセッカも虚をつかれて一瞬黙り込む。
    「ウズ殿は、そなたらを心配しておられる。ウズ殿はユディとかいう学生から、アブソルのトレーナーに付きまとわれるそなたらの話を聞き、随分と心配しておられた」
    「……なんで」
    「確かに、現在の研究によってアブソルが災いをもたらすというのは迷信に過ぎぬことが証明されてはいる。しかし、そなたら、少しはウズ殿の心労も和らげるよう努めよ」
     そうモチヅキはいつの間にか、いつものような説教口調である。
    「私とて、今さらそなたらを幼き童として扱うのはどうかとも思う。しかし、今回だけは、大人しゅう従え。それは私も、かのポケモン協会員も同意見だ」
    「ルシェドウか?」
    「左様」
     モチヅキは早口に言い捨てた。
    「詳細は協会員に聞くがいい。私からは話しとうない。……まったく」
     ルシェドウのことを思い出すだけで腹が立つのか、モチヅキは眉を顰めた。この黒衣の裁判官が感情をあらわにすることが珍しいので、レイアとセッカはにやついてそれを見ていた。
     モチヅキは二人を睨む。
    「キョウキとサクヤの二人にも、レンリに来るよう言え。よいな。……しかと申し伝えた」
     そうしてモチヅキはさっさと立ち上がり、腹立たしげに足早に去っていった。


     レイアとヒトカゲ、そしてセッカとピカチュウは、ぼんやりとモチヅキの後ろ姿を見送った。
    「なあセッカ、やっぱモチヅキってさ、サクヤと一緒にいる時以外、いっつもキレてね?」
    「あ、れーやもそう思う?」
     まずはそうのんびりと感想を漏らした。
     それから二人は顔を見合わせた。
    「レンリに来い、だってさ。どうする、れーや?」
    「……俺、レンリにゃ行きたくねぇんだけど」
    「どしたん。お化けでも出た?」
    「赤いのがな」
     レイアがにやりと笑ってそう言い放ってやると、セッカはぴゃああと悲鳴を上げた。スプラッタは無理とか言っている。レイアはぼんやりと、セッカとルシェドウは似ているなと思った。
     だから、ルシェドウと友人になったのかもしれないとも思った。
     レイアはルシェドウとは、レンリタウンで別れたきりだ。そしてあのアブソルのトレーナーのこともルシェドウに任せたはずだが、なぜかクノエでもハクダンでも、そのトレーナーと遭遇してしまった。
     レイアはがしがしと頭を掻いた。
    「……あー、わけわかんね」
    「ねえねえれーや、どうすんのさ? これ、レンリ行かなかったらウズに無理心中されるパティーンだよね?」
     セッカはそわそわと、ウズの怒りを気にしている。
     レイアもぼんやりと頷いた。
    「んだな。しゃーねぇ、行くか。レンリ」
    「……い、いい行くの? ……赤いのが出るのに?」
    「ばっかお前……俺がついてるだろ」
    「ちょっやべ惚れる」
     セッカは笑ってレイアにくっついた。
     レイアもしばらく思考に耽っていたが、すぐにそれを放棄し、セッカの頭に軽く頭をぶつけた。


      [No.1414] 朝過夕改 中 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:35:37     42clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    朝過夕改 中



     倒木の下に潰されたタマゲタケを目にし、セッカが唸る。
    「……ひでぇ」
    「うん、あれだ、助けてやらんとな。ユキノオー」
     ウルップがモンスターボールからユキノオーを繰り出す。ユキノオーはその太い腕で大木を抱えると、凄まじい怪力で大木を持ち上げ、動かした。
     大木の下では、五匹のタマゲタケの群れがいずれも目を回していた。レイアとセッカは困ったように目を見合わせる。タマゲタケはいずれも瀕死で、早く治療を受けさせなければ命にかかわる。しかし、四つ子が持つ復活草は貴重だ。野生のポケモンにおいそれとは使えない。
    「ほら、これだよ」
     屈み込んだウルップは、ポケットから元気の欠片を五つ取り出すと、惜しみなくタマゲタケに与えた。その外見だけでない太っ腹さに、レイアとセッカは敬服した。
    「……さすが」
    「ウルップさんかっけぇ!」
    「ん? ああ、あれだよ、まあありがとうな」
     元気を取り戻したタマゲタケは、ふらふらしつつも三人のトレーナーを恐れて、飛び跳ねるように茂みの奥へ逃げ込んでいった。ウルップはそれを見届けると、のしのしと立ち上がった。
    「……あれだな、近ごろ森が騒がしいな」
    「騒がしい?」
    「お前さんらもあれか、ポケモンを捕まえに来たのか?」
    「いや、苔むした岩を探してるんすけど!」
     セッカが訴えると、ウルップはセッカを見つめて、唸った。
    「苔むした岩か。それはあれだな、エイセツの近くだな。うん、まああれだ、送ってやるから、ちょっとおれに付き合いなよ」
     ウルップはユキノオーをボールに戻し、草をかき分けて、慣れた様子で森の奥へと進んでいった。
     道に迷っていたレイアとセッカも、エイセツジムのジムリーダーと巡り合えたのをこれ幸いに、ウルップにぴったりくっついて歩いていく。ヒトカゲとピカチュウも、それぞれの相棒の体によじ登った。


     ウルップはのんびりと歩いていたが、一歩一歩が大股で、レイアとセッカは自然と早足になった。ウルップはのんびりとした口調で話しかけてくる。
    「お前さんら、あれだろ、四つ子だろ。ピカチュウの奴には初めて会ったがな」
    「そうっす、俺はセッカって言います!」
    「よく覚えていてくださいましたね」
    「あれだ、ジムリーダーってのは、チャレンジャーをよく覚えてるもんだよ。なぜって、負けたらそりゃ悔しいからな」
     セッカはウルップの口癖がお気に召したらしい。上機嫌でウルップに話しかける。
    「それじゃああれっすね、何千人って数のチャレンジャーの顔覚えてんっすか?」
    「そうだよ、あれだ、うん、強いトレーナーはさすがだと思うし、未熟なトレーナーはこれから強くなってほしいって思うよな」
    「あれっすか、ジムリーダーって、記憶力よくないと務まんないんすか?」
    「いやあ、あれだよ、自然と覚えるもんだよ。なぜってあれだよ、ジムリーダーはバトルが好きだからね。好きなバトルの相手は好きになるだろ」
     セッカは息をついた。
     ポケモンが好きな人間、バトルが好きな人間、そしてバトルを仕事とする人間は多いが、そのいずれも兼ね備えている人間はそう多くはない。
     セッカはしみじみと語る。
    「……なんか、いいっすね、ウルップさんは好きなことを仕事にできて」
     ウルップは前を向いたまま、僅かに首を傾げた。
    「うん? お前さんは、トレーナーやっててつまんねえか?」
    「俺ら四つ子は、生きるためにはバトルするしかないんすよ。そういうプレッシャーがあるせいか、たまにすごく疲れるんすよ……」
     セッカがそう言うと、ウルップはふうむと考え込んだ。
    「お前さんな、あれだよ、確かにおれはポケモンバトルが楽しいけどな。でもやっぱり、バトル以外にも生き甲斐ってもんは見つけたほうがいいぞ?」
     その言葉に、レイアとセッカは立ち止まった。
     ウルップは振り返り、にっと笑みを浮かべる。
    「あれだろ、チャンピオンのカルネさんだって女優さんだろ。プラターヌ博士もバトルはするが、普段は研究なさってるだろ。おれ以外のジムリーダーも、あれだよ、ジムリーダーの仕事以外に色々と好きなことやってるだろ」
     レイアは、こくりと頷いた。
    「ビオラさんは写真、ザクロさんはロッククライミング、コルニさんはスケート、フクジさんは庭いじり、シトロンさんは機械、マーシュさんはデザイン、ゴジカさんは占い……っすね」
     ウルップはゆっくりとレイアとセッカの二人の前まで戻ってくると、同時に二人の肩をぽんぽんと叩いた。
    「バトルばっかじゃあ、確かに薄っぺらな人間になっちまう。だからあれだよ、ポケモン以外のことにも目を向けてみな。いろんなトレーナーが、どんなことに興味を持ってるか、ようく見てみなよ」
     そしてウルップは再び森の奥を見据え、のそのそと歩き出した。
    「あれだよ、ポケモンと関わらない生き方もあれば、ポケモンと一緒にバトル以外の道を探ることもできるんだな。ま、あんま余裕ねえかもしれねえが、ときどきひと休みして周りを見てみることも大事だよ」
     レイアとセッカは、密かに感動していた。
     今後ウルップを人生の師として仰ごうと決心した。



     ウルップは若い袴ブーツのトレーナー二人を連れて、森を抜けた。
     迷いの森をエイセツの向こう側へ抜けた記憶のないレイアとセッカは、思わず目を瞠った。
     日は傾き、山吹色の陽光に照らされ、黄色の一面の花畑が涼しい風に一斉にそよぐ。
     思わず感嘆のため息が漏れた。
    「……すげぇ」
    「さて、どうかな」
     ウルップは風の中でぼやいた。歩き出す。
     森の向こうの花畑は、静かだった。ウルップは花々を腹で押し分け、ずんずんと歩いていったかと思うと、花畑の中に設置されていたゴミ箱を開けてみるなどしている。
     セッカがその後を追いつつ、質問した。
    「どうしたんすか?」
    「あれだ、静かすぎるんだよ……」
     ウルップは立ち止まり、俯いて何かを考え出した。
    「……ここはあれだよ、ナイショの村、ポケモンの村だよ」
    「ポケモンの村って……どうしてもたどり着けないっつー村っすか」
     レイアが確認すると、ウルップがんーと唸った。
    「まあ、ここは悪い連中に酷い目に遭わされたり、心無いトレーナーから逃げ出したポケモンの場所だよ。心配でな、ときどき様子を見ているんだが」
     そう言って東屋の下などをうろうろと暫く歩き回ったが、ポケモンの村という割には、ポケモンの気配はなかった。
     ウルップはふむふむと唸りながら、ずんずん南へ歩いていった。坂を上がると、川が滔滔と流れていた。
    「出てこい、クレベース。波乗りだ」
     ウルップは川の中に氷山ポケモンを繰り出した。背中の平らなポケモンが川面に浮かぶ。
     ウルップは四つ子の片割れの二人を見やった。
    「まああれだよ、乗りなよ。座ったら少し尻が冷えるかもしれんが」
     そう言いつつ、ウルップはクレベースの背中に立つ。レイアとセッカは互いに手を繋ぎ、恐る恐る、流氷のように揺れるクレベースの背中に足を踏み出した。
     クレベースはゆったりと、けれど流氷とは異なり、力強く川を遡上した。ウルップは腕を組んだまま仁王立ちしているし、レイアとセッカは立ったままだとふらふらするのでとうとうクレベースの背中の上に座り込んだが、やはりウルップの言った通り、クレベースに尻をつけると二人の体は芯から冷えた。
     やがて滝の近くまで来たところで、三人はクレベースから降りる。
     そのままウルップは崖沿いに歩き、そして一つの洞窟の前で立ち止まった。

     その洞窟の奥は、闇だった。
     それを覗き込み、レイアとセッカは知らず唾を飲み込む。
     中に、何かがいる。
     ウルップも息を吐くと、二人を振り返った。
    「ここにいるのは、あれだ、強すぎて孤独になったポケモンだ。こいつは無事らしいな」
     ウルップは気負った様子もなく、ずんずんと名無しの洞窟へと入っていく。
     レイアとセッカはびくびくしつつ、それに続いた。ヒトカゲが落ち着かなげに動き、ピカチュウが微かに唸る。
     ウルップは慎重に歩き、そしてやがて立ち止まった。
    「……お前さん、あれ、他のポケモンたちを知らないかね」
     そのポケモンは、ゆっくりと振り返った。

     白い体が闇に浮かび上がる。
     濃紫の瞳。二本足で立ち、人型をしているが、長く太い尾をゆらりと揺らし、細い首を巡らせ、三人の訪問者をじろりと見やる。
    「………………」
     そのポケモンは、三本指の腕をついと洞窟の一辺へ伸ばした。そしてゆらりと指を動かすと、幻が消え去り、何もいなかったはずの空間に大勢のポケモンの姿が現れる。
     トリミアン、ニャスパー、ヤヤコマ。ゴチミルやプリン、カビゴン、ゾロアークなどもいる。
     ウルップは顔をほころばせ、白いポケモンに向かって礼を言った。
    「そうかあれだな、お前さんが助けてくれたんだな。ありがとうな。騒がしくしてすまんかった。ほらお前ら、出るぞ、もう安心だ」
     ウルップは隠されていたポケモンたちを引き連れ、ぞろぞろと名無しの洞窟から出ていく。
     レイアとセッカは、名前も知らない白いポケモンをじっと見つめていた。
     白いポケモンは、無言のまま二人を見つめ返している。
     ヒトカゲとピカチュウが唸り出すが、レイアとセッカはさっさと踵を返した。
    ――このポケモンには敵わない。
    ――何より、戦うことがこのポケモンのためにならない。
     二人が戦いを挑めば、そのポケモンも諦めて応じただろう。けれどそれは無意味な争いに過ぎない。レイアもセッカも、強いポケモンを倒すことそのものに興味はないし、強いポケモンを捕まえることに関心はあっても戦う気のないポケモンを戦わせるつもりもない。
     だから、立ち去った。
     闇の奥に佇む白い影は、二人を見送っていた。


      [No.1413] 朝過夕改 上 投稿者:浮線綾   投稿日:2015/11/25(Wed) 19:34:06     49clap [■この記事に拍手する] [Tweet]



    朝過夕改 上



     衣擦れの音に、セッカは目を覚ます。枕元で、相棒のピカチュウが伸びをしている。
     レイアが着替えていた。
     縹に蘇芳の着物を重ねて、袴を着け、黒い被布を着る。身支度を整えると、レイアはぺたぺたと裸足で床を歩いて、セッカの顔を覗き込んだ。
    「……んだよ、起きてんじゃん」
    「起きてるよ。外、雪、すごくね?」
    「まったくな」
     セッカはのんびりと寝返りを打つと、寝台の上で肘をつき、窓の外を覗き込む。
     空は一面灰色だ。
     そして大きな雪片が幾万も幾億も、音もなく降り注いでいる。
     エイセツシティの早朝は、静かだった。
     音が雪に呑まれる。
     ポケモンセンターの宿は温かい。セッカは降りしきる雪を見つめながら、贅沢に布団の中でもぞもぞしていた。するとレイアに布団を剥ぎ取られた。
    「起きろや」
    「やだエッチ!」
    「知りません。全裸で同じ子宮に一緒にいた仲でしょうが。起きなさい」
    「むう」
     セッカは仕方なく、のろのろと起き上がった。
     レイアとセッカがエイセツシティに来たのは、セッカのイーブイをリーフィアに進化させるためだ。つまりこの街に用事があるのはセッカだけで、レイアはそれに付き合ってくれているだけなのである。
     レイアはさっさとポケモンセンターのベッドを適当に整え、セッカの分まで荷物を整理している。セッカはもそもそと着替えを済ませた。
     そしてセッカはふとぼやいた。
    「……なあレイア、なんで俺ら、お揃いの服着てんだろな?」
    「知らねぇよ。ウズが量産しただけだろ」
    「……だってさ、昔は四人を見分けやすいように、れーやは赤、きょっきょは緑、俺は黄、しゃくやは青の着物を着せられてたわけですよ? なんで今はお揃いなんすかね?」
    「俺ら四人の性格がバラバラになって、ウズが見分けやすくなったからじゃね?」
    「そういうもんかぁ」
     などとどうでもいい会話をしつつ、レイアとセッカは階下へ降りていった。


     エイセツシティは、年中凍り付いた街だ。
     長年この街でジムリーダーを務めているウルップの人柄に頼んで、ポケモンジムから漏れる冷気のため凍り付いたなどとのユーモア溢れる噂もまことしやかに語られているが、それはもちろん冗談である。フロストケイブ方面から流れ込んできた湿った空気が、17番道路のマンムーロードを通り抜け、谷間を抜けてこのエイセツシティにじかに流れ込み、この街を氷雪で覆っているのだ。
    「でも実際、ジムの近くが一番寒くね?」
     セッカが朝食の温かいスープを、味噌汁の如く音を立てて啜りながらぼやく。レイアもパンをちぎりつつ答えた。
    「いやお前、よく見ろよ、ジムって窪地にあるじゃねぇかよ。冷たい空気は下の方に溜まるから、ジムが寒いのは当たり前だ」
    「そっかぁ。街で一番寒いところをジムにしてあげたんだな。ウルップさん超かっけぇ」
    「だろ。ウルップさんはメチャクチャかっけぇんだぞ」
    「他にはどこがかっこいいわけ?」
    「そりゃお前、あれだよ…………これだよ!」
    「わからん」
     セッカはハクダンジム以外のジムには挑戦していないため、ビオラを除いたジムリーダーの人柄は知らない。
     レイアは、はああと呆れたように大仰な動作で溜息をついた。
    「お前、もうバッジ集めれば?」
    「やだもん。貰える賞金減るし、支払う賞金増えるもん」
    「大会に出れば、トレーナーから貰うよりも多額の賞金を貰えるだろうが」
    「集めたくなったら集めるもん」
     セッカは取り合わなかった。ジムに世話にならずにここまでポケモンを強く育てたことは、セッカにとって誇りでもある。セッカにとってバッジを持つことは、人並みであるも同義なのだ。
    「……あっそ。まあ好きにしな」
    「うん、好きにするもん」
     セッカは気分を害したようだった。
     四つ子にとって、バトルに勝利し賞金を得ることは死活問題だ。一般的には各地のバッジを集め、ポケモンリーグに挑戦し多額の賞金を懸けて戦うようになる。そうしてバトルだけで十分生活できるようなトレーナーを目指すのだ。
     しかしセッカの金稼ぎ法は、特殊だった。ある意味では合法に実力を偽り、合法に多額の賞金をむしり取る。慣習という観点からみれば詐欺ともとれるような行為を、セッカは行っているのである。
     そのような稼ぎ方をするトレーナーを四つ子もセッカ以外に知らないから、それがおよそ一般的な方法ではないことはわかる。しかし、慣習的には詐欺ともとれるこの行為は、いつかポケモンリーグからも是正勧告が出されるともしれない。
     レイアがその可能性を示すと、セッカは鼻を鳴らした。
    「バッジ制度なんて、ポケモンをバランスよく育てるためのものなのにさぁ。なんでそんな理由でバッジ取らされなきゃなんないのかねぇ」
    「トレーナー間の公平を期すためだろ。真面目にトレーナーやれよ」
    「へいへい。真面目真面目」
    「……セッカお前、実はそんなに、バトル、好きじゃねぇのか?」
     レイアが問いかけると、セッカはパンをごくりと飲み込んだ。
    「そだね」
     短くそう答えた。
    レイアが目を見開く。
    「マジか。……え、そうなんか」
    「だって疲れるじゃん。ポケモンたちが傷つくのは見てて辛い。できるだけ仲間を傷つけないように考えつつ、相手を傷つける。俺のハートは傷だらけよ?」
    「でも、ポケモンは戦い、強さを望む生き物だ。俺らはその習性を利用してるんだ」
    「わかってるよ。俺はピカさんたちがいるから、戦うんだ。だから、俺自身のためには戦わない。……俺はピカさんたちのついでに生きている。いわゆる寄生生物なの」
     セッカは生パセリをもさもさと咀嚼した。
    「パセリうめぇ」
    「……よかったな」



     朝食を終えると、レイアとセッカはエイセツの南の20番道路、迷いの森の入り口に立った。道路と言いつつも自然のままにほとんど手が付けられていないから、道はあってないようなものであるし、頭上を樹冠に覆われた道は暗い。
     けれど森の中は温かく、ヨルノズクの声を聞きながら、二人はのんびりと森に入った。
     そして朝のうちに、見事に道を誤り、迷った。
     昼まで歩き続けて披露した二人は倒木に座り込む。
    「ゾロアークに化かされてんじゃねぇの」
    「あー、かもなー。どこだよ苔むした岩ー」
     レイアに抱えられていたヒトカゲと、セッカの肩に乗っていたピカチュウがぴょんと倒木から飛び降りる。
     二匹のポケモンが草むらをかき分け、木々の向こうに跳ねていくのを、レイアとセッカはぼんやりと眺め、それからそろそろと立ち上がって二匹を追いかけた。
     道とは思えないほどの細い道を通り、枝葉をかき分け、小さな空き地に出た。

     そこには、大男が屈み込んでいた。水色の上着を肩に掛けた、恰幅のいい壮年の男性である。
     レイアは早足になり、男に駆け寄った。
    「……ウルップさん? 大丈夫っすか!」
    「ん? ああ、あれだよ」
     レイアの声に、壮年の男はのんびりと屈んだまま振り返った。
     銀髪に銀の髭、そして上着の下はタンクトップである。豊かな腹のせいで屈み込むのがきつそうだった。
     ウルップはレイアを見上げた。
    「ええとね、あれ、あれだよ。これだよ」
     セッカが焦れて叫ぶ。
    「――どれっすか!」
    「タマゲタケだな」
     ウルップは視線を戻した。レイアとセッカもウルップの大きな体の向こうを覗き込み、息を呑んだ。
     巨大な樹木が根こそぎ倒れ、タマゲタケの群れが押しつぶされていた。


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