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日進月歩 下
キョウキとサクヤがフロストケイブを出ると、日は随分と傾いていた。
空の雲は転々とし、微かに色づいている。
ロフェッカとミホとリセの姿は見えない。そのことに心なしか安堵しつつ、キョウキとサクヤはまっすぐ、フウジョタウンのポケモンセンターへ戻った。
しかし、そのポケモンセンターの中にこそ、ロフェッカとミホとリセの姿はあった。
キョウキは三人の姿を認めると、咄嗟ににこりと笑った。
「娘さんは、くだらない自殺を思いとどまりましたか?」
「おいこらくそガキ、ちっと黙れや」
開口一番に毒を吐いたキョウキを、ロフェッカが軽く小突く。
老婦人とその孫娘は、暖かいポケモンセンターのロビーでソファに腰かけ、疲れたように背を丸めていた。
サクヤは進化したばかりのグレイシアを腕に抱えたまま、そっとミホの傍へ寄った。
「……ミホさん、大丈夫ですか」
「……ああ、サクヤさん。ごめんなさいね、大丈夫ですよ。……ただ、急に、いろんなことが起こったものだから……」
帽子とコートをとったミホは、グレーのスーツに身を包み、上品に背筋を伸ばしていた。銀髪も綺麗に結いあげられているが、その顔に刻まれた皺は苦悩を映している。
サクヤはゆっくりと、ミホの隣のソファに腰を下ろした。
「……僕は、アワユキさんに、お会いしたことがありまして」
サクヤはソファに座ると、静かにそのように切り出した。
ミホも小さく頷く。
「ええ、リセのことをポケモン協会から伺った時、あのフロストケイブで何があったかはお聞きしましたわ。……私の娘が、本当にご迷惑をおかけしました」
「……ええと、息子さんの奥様なんですよね、アワユキさんは?」
「ええ、そうです。……私が息子夫婦と縁を切った後に、離婚したみたい」
ミホは疲れているのか、笑顔は薄かった。けれどかつてヒャッコクシティでサクヤと話をしたということもあってか、比較的容易に事情を打ち明けてくれた。
「私はこのリセのことは、つい先日までまったく知らなかったのよ。息子夫婦の離婚後に生まれたんでしょうね……」
「リセさんをヒャッコクに引き取られるのですか?」
「そのつもりよ。息子とは連絡が取れないし、この子の家族は私だけ……だもの」
ミホはそっと孫娘の肩を抱いた。少女は泣いていたのか顔を腫らしていたが、いつの間に眠っていたものかそのまま祖母の膝の中に倒れ込み、寝息を立てる。
ミホは孫娘を見つめて、小さく笑みを漏らした。
「……可愛いわ。リセが帰ってきたみたい」
「――はい?」
「梨雪よ。もう5,6年前に亡くなった、私の孫娘」
サクヤは何も言わなかった。
「リセって、同じ名前よね。アワユキさんは、梨雪がいなくなってショックだったのかしらね。……離婚したなら、いえ、離婚したって、私のところへ来てくだされば良かったのに……。そうしたら、リセを置いていかせなどしなかったのに……」
ミホは孫娘の黒髪を優しく撫でている。
サクヤは俯いたまま質問した。
「……失礼ですが、リセさんやアワユキさんは、宗教にこだわっているように見受けられますが……」
「そうね。きっと梨雪がいなくなって、アワユキさんは、ゼルネアスの伝説に縋ったんだわ。……きっとそうよ」
アワユキは娘を亡くしたから、ゼルネアスの力でその娘を生き返らせるべく、自分やもう一人の娘であるリセの命を捧げようとした。
サクヤの腕に鳥肌が立つ。フロストケイブの深奥で聞いた、アワユキの耳障りな叫びが蘇る。
愛娘を生き返らせるために、もう一人の娘や自分の命さえ捨てるのか。
そんなことは、間違っている。
娘の命はもちろん、自分の命すら、時には自分の思うままに処分してしまっていいとはいえないのだ。アワユキはリセのためにも、もちろんリセを殺してはならなかったし、また自分自身をも殺してはならなかった。
――でも、愛する娘が死んでしまったから。
――そして、命を与える力を持ったポケモンがいると知ったから。
サクヤなら、もし片割れの誰かが急に死んでしまったら、命を与える伝説のポケモンを求めはしないだろうか。ゼルネアスでも、そして父方の故郷であるジョウトはエンジュシティで語られるホウオウでも、その力を求めて彷徨わないだろうか。そして自分の命を投げ出すことを躊躇うこともないのではないか。
大切なものを失うのは、つらいことだ。
アワユキが梨雪を求めたように、リセもアワユキを求めることになる。そうなれば、最悪、不幸は連鎖する。
――神話や伝説を信じることが、人の不幸に繋がるのか。
――それとも。
ミホは黙ったまま、リセの髪を優しく撫で続けている。何も事情を知らない者がこの光景を見れば、ただ微笑ましいばかりの祖母と孫娘のふれあいに見えるだろう。
けれど、この家族には欠落がある。
ミホの息子であり、リセの父親である人物は行方不明だ。
そして、梨雪を死なせて一家を不幸に叩き落とした人物は、罰せられることもなく、今も世界のどこかを自由に旅している。
「……アブソルの呪いだわ」
ミホが小さく呟いた。
キョウキがロビーのどこかで、鼻で笑った。
「…………たいへん申し上げにくいんだが」
ロフェッカの苦々しげな声が降りかかり、キョウキとサクヤ、そしてミホが顔を上げる。
ロフェッカはホロキャスターを懐にしまいつつ、キョウキとサクヤの二人を落ち着かなげに交互に見やった。
「お前ら二人さ、ミホさんとリセさんのお二人を、ヒャッコクまで送って差し上げてくんね?」
「はい?」
緑の被衣のキョウキが、笑顔のまま目を剝いた。サクヤも訝しげに首を傾げる。
キョウキの凶悪な威嚇顔に、ロフェッカは慌てて手を振った。
「いやいやいや、ちゃんと謝礼はする! 俺、急用が入ったの! 緊急事態なの! 頼むこの通り!」
ロフェッカが手を合わせてキョウキとサクヤを拝む。キョウキが困った顔になった。
「いやだなぁ、僕、ミホさんにもリセちゃんにも嫌われてるんだけど」
「自業自得だろう」
サクヤが鼻を鳴らす。キョウキは笑った。
「僕は嫌われててもいいんだよ。でも、僕のことが嫌いなミホさんやリセちゃんは、僕と一緒にマンムーロード越えなんて嫌なんじゃないかと思っただけさ」
「……そもそも、本当に急用なのか」
サクヤがロフェッカを睨むと、ロフェッカは焦ったように頷いた。
「ほんと! マジ! 相方が死にかけてんの! 今すぐミアレに戻って電車でレンリ行かねぇと!」
「相方って、ルシェドウさんですか?」
「ああもう誰でもいいわ! とにかく俺は行くから! んじゃな、よろしく!」
ロフェッカは慌ただしく手を振った。そしてミホに何やら細々と挨拶をすると、本当に慌てたようにポケモンセンターを出ていってしまう。
キョウキとサクヤとミホは、ぽかんとロフェッカの背中を見送っていた。
「……行っちゃったよ」
「……そうですねぇ、びっくりしましたわ……」
「ミホさん、僕らでよければ、ヒャッコクまでお送りしますが……」
サクヤが遠慮がちに尋ねると、老婦人はサクヤに向かってちらりと微笑んだ。
「そうね。私はバトルはできないから、トレーナーさんに守っていただかないと、ヒャッコクには帰れないわね」
「分かりました。このキョウキについては無視してくださって構わないので。こいつは一人だけ空飛ばせるんで」
「あっ、その手があったか」
キョウキがぽんと手を打つ。
「なるほどね。僕だけ空を飛んでいけば、ミホさんもリセちゃんも僕を視界に入れずに済むよね! なるほど妙案だよ、サクヤ!」
「ああ、いえ、違うのよキョウキさん、よかったらぜひご一緒に――」
「大丈夫です、ミホさん。どうぞこいつのことは無視なさってください」
サクヤがキョウキを押しやる。キョウキは剽軽に頬を膨らませる。
ミホはくすりと笑みを漏らした。
「……サクヤさんの四つ子の片割れさん、本当にサクヤさんによく似てらっしゃるけど、本当に個性があるのね」
「そうですね。一人は意地っ張り、一人は気まぐれ、一人は能天気、一人は冷静ですねぇ。ただし、四人とも血の気は多いですが。――つまり正確には、性格はバラバラでも、それぞれ個性に違いはないですね」
キョウキが口を挟むのを、サクヤはまたもや押しやった。
「本当に、こいつはただの下衆野郎なので、無視なさってください。こいつは有害生物です。あと二人の片割れはまだマシなので、ミホさんにもいずれご紹介できたらと思います」
「そうなの。楽しみにしていますわ」
「やだっミホさん今、僕のこと完全にディスった!」
「お前いいかげん黙れよ」
くすくすと笑うミホを置いて、サクヤはキョウキの首に腕を回して引きずって行った。
キョウキとサクヤは、ポケモンセンターの階上にとった二人部屋に入った。
フシギダネとゼニガメを放し、トレーナーの二人もそれぞれのベッドに腰かける。
キョウキはそのままごろりと横になった。
「サクヤ、面白いね、タテシバ家」
キョウキはごろごろと転がりながら、そのようにのたまう。サクヤはぼんやりと、確かミホの名字はタテシバというのだったと思い出していた。
そして眉を顰めた。
「面白いなどと、不謹慎な。ミホさんはお孫さんを一人と、息子さんの奥様を亡くされているんだぞ」
「だって面白いじゃない」
キョウキは仰向けになり、くすくす笑う。
「僕ね、ミホさんの息子さん――つまりリセちゃんのお父さんのこと、たぶん知ってるんだ」
「……なんだと」
「たぶん今頃、クノエの刑務所にいるんじゃないかな、窃盗罪で」
そしてサクヤの見下ろす前で、キョウキはけらけらと笑った。
「そんな父親に、たぶんリセちゃんは育てられないし、ミホさんも許せないと思うなぁ。でもよかったじゃない、リセちゃんにはミホさんがいたんだ。あと一つ心配事があるとすれば、ミホさんがどのみち老い先短いことかな?」
「……お前な」
サクヤは嘆息した。相変わらずのキョウキの毒舌に呆れ果てる。
キョウキは寝転がったままもぞもぞ動き、サクヤのベッドの方まで這い寄ってきた。
「でも、アワユキさんがリセちゃんを殺そうとしたり自殺しちゃったりしたのは、確かに、納得いったかも」
「……へえ」
「僕も、もしサクヤやレイアやセッカが死んじゃったら、アワユキさんと同じことをしないとも限らないなぁって」
「ブラコン」
「お前もだろ?」
キョウキはサクヤの膝まで這い寄り、上目遣いでサクヤを見つめてにやりと笑っている。
サクヤは、キョウキの前髪を思い切り掴み上げた。
「しゃくや、いちゃい」
「勝手に死なすな」
「死なせないさ。僕が」
「ふん」
サクヤはキョウキの前髪を離した。やがて日が暮れ、夜が来る。
夕食前にひと眠りすることにした。
サクヤがごろりとベッドに転がると、頭をキョウキの頭に思いきりぶつけ、二人は仲良く悶絶した。
日進月歩 中
フロストケイブの中は寒い。
それだけではなく、警戒心の強いポケモンが多く潜んでいる。
トレーナーとして旅をしているキョウキやサクヤや、ポケモン協会員のロフェッカはまだしも、一般人であるミホやその孫のリセにとっては危険な場所だ。その二人を下手にフロストケイブに入れるわけにはいかない。
サクヤは困り果てて、ゆっくりと雪の上で屈み込んだ。少女と視線を合わせる。
「……貴方のお母さん、とは、アワユキさんのことか」
「おかあさんのとこ、いく」
「……貴方のお母さんは、ここにはいない」
「――いくったらいくの!」
少女は悲鳴を上げた。ミホがはらはらし、ロフェッカも苦い顔である。おそらく先ほどからこの少女は、フロストケイブの中に行くと言い張ってずっと駄々をこねていたのだろう。
キョウキが寒そうに足踏みをしている。
サクヤは根気良く、少女に質問することにした。
「なぜ、お母さんがここにいると思う?」
「おかあさんが、ここは『せいいき』だって。いのちのかみさまにささげるばしょだっていってた」
少女は真剣に、サクヤにそう訴えかける。
サクヤは戸惑い、老婦人を見上げた。少女の祖母は小さく嘆息した。
「サクヤさんには、ヒャッコクで私の家族のこと、少しお話ししましたね。……本当にお恥ずかしい話ですが」
「いえ。……ミホさん、いったい何が?」
「リセは、私の三番目の孫なのです。私もつい先日、ポケモン協会の方から、この子のことで連絡を頂きましたの……」
そしてそこから先は、ミホも言いにくそうにしている。
キョウキが退屈そうに雪を蹴っている。
サクヤは困惑した。フロストケイブに用があるのは自分であり、キョウキはそれに付き合っているだけだ。キョウキのために、早く用事を終わらせたい。しかし、どうにもミホとその孫娘――アワユキの娘を放っておけそうな状況ではない。
ロフェッカも困ったように顎を触っている。
ミホも泣きそうな顔になり、そしてリセはサクヤにしがみついたまま離れようとしない。
とうとうキョウキが口を開いた。
「ねえリセちゃん。面倒だから、僕、厳しいこと言うね」
サクヤは溜息をついた。とうとうキョウキが出しゃばってしまった。それは即ち、キョウキが随分と苛立っているということである。苛立ったキョウキは老若男女問わず誰に対しても毒舌だ。
けれどサクヤにもこの状況はどうにもしようがないから、キョウキを黙らせることはできなかった。
サクヤにしがみついたまま黒い瞳でじっとキョウキを見上げる少女を、キョウキも真顔で見返した。
「君のお母さんは、頭がおかしい」
そう端的に、キョウキは言い放った。
あまりの言いように、サクヤは額を押さえた。
以前クノエで四つ子全員が集まった際に、フロストケイブでの出来事はキョウキやセッカにも共有していた。そのためキョウキも事情は知っている。そして間接的に知っているだけだからこそ、キョウキは平然とこのようなことを言う。
「フロストケイブで死ぬ? 命の神の聖域? 命の神ってゼルネアスかな。ゼルネアスに対する生贄ってこと? ねえ、リセちゃん、君のお母さんは間違ってるよ」
キョウキは笑顔を浮かべていた。
少女は顔色を失っていた。
「……お、お、おかあさんは、かみさまにいのちをささげて、すくわれるって。だからリセ、おかあさんといっしょに……。そしたら、このひとがじゃまして。このひとがわるいの!」
そう叫んで少女は、屈み込んでいるサクヤの肩を小さな拳で叩いた。
少女の小さな手で殴られ続けるサクヤは、戸惑い、ただ少女を見つめる。
するとますますキョウキは笑みを浮かべた。
「ほんっと、くだらない。神様って何。ただのポケモンだろ」
「かみさまに、いのちをささげれば、しあわせになれるの!」
「ミホさん、貴方の息子のお嫁さんとその娘さん、頭おかしいですよ? 母子揃ってメルヘン少女なんですか? それともまさか、三世代揃ってメルヘン少女なんですかね?」
キョウキはけらけらと笑い、老婦人に陽気に話しかけた。
「ねえ、ポケモンに命を捧げて何になるんです。くだらない。くだらないくだらない。前近代的ですね。宗教とか。迷信とか。そういうのってほんとくだらない」
「キョウキ、いい加減にしろ」
さすがにサクヤが口を挟む。キョウキがやっているのは、ただの人格の否定だ。
ロフェッカも顔を顰め、ミホとリセの二人はすっかり蒼白になっている。
しかしキョウキは口を閉ざさなかった。
「そういうくだらない思い込みに、他人を巻き込むな。迷惑なんだ。ねえリセちゃん、そういう思い込みが、人を不幸にするんだよ。リセちゃんは、リセちゃんの幸せのために、僕らを不幸にするの?」
「……ち、ちが、ちがうもん」
「キョウキ」
「リセちゃんはわがままです。そんなに死にたがらなくても、百年後にはリセちゃんも確実に死んでるから大丈夫! 心配しなくていいよ。――じゃ、サクヤ、行こっか」
それだけ言い捨てると、キョウキはさっさと洞窟の中に消えていった。
少女は泣き出している。ミホも辛そうな顔をしていた。
サクヤは頭を下げた。
「すみません。キョウキがたいへん失礼なことを」
「いえ、いえ、サクヤさん、早くご兄弟のあとを追って差し上げて。早く」
ミホは震える早口で、サクヤを追い払うようにそう言った。
ゼニガメが甲羅から顔を出し、首を傾げ、サクヤを見上げる。
サクヤはロフェッカを見やった。けしてこの男を頼りにしているわけではないが、これも彼の仕事なのだろうから、任せてもいいだろう。サクヤもサクヤで、これ以上キョウキを怒らせるわけにはいかない。
「……貴様」
「行けって。ったく、だから早く行けっつったのによ……。お前さんも随分な間抜けだな、サクヤ?」
ロフェッカは片眉を上げて苦笑した。サクヤはむっとした。
「黙れ」
「もういいから行けって。お前はさっさとキョウキの機嫌直しといてくれ」
サクヤは仕方なく、老婦人と少女から逃げるように、そそくさと洞窟の中に入った。
洞窟内で、すぐにサクヤはキョウキに追いつく。
キョウキはにこりと笑ってサクヤを振り返った。
「おつかれ」
「……お前な」
サクヤからは溜息しか出なかった。
キョウキは飄々として、左手の階段を上っている。
「ねえ、サクヤは伝説とか信じる?」
「命を与えるゼルネアスと、命を奪うイベルタルのことか?」
「そう。神様っているのかなぁ」
「ポケモンとしてなら存在するのではないか」
「ポケモンを神様って崇めるのって、どうなんだろうね」
キョウキは白い息を吐く。
「ゼルネアスは他の生き物に命を与えると、長い休息の眠りにつくらしいよ。僕、ゼルネアスの命を捧げる感じの宗教の話、聞いたことあるかも。ゼルネアスの復活を早めるため、自分の命を捧げるっていう」
「……アワユキさんも、その宗教にのめり込んで?」
「でも、フロストケイブってのはないなぁ。確かに幻想的な空間だけどさ、一応は観光名所なわけだし? そんなところで自殺とか、やめてほしいな」
キョウキはぼやきながら、階段を上っていく。凍り付いてすべる床の上をよろよろと歩き出した。
サクヤも慎重にその後に従いつつ、息を吐く。
「……そうか、生贄か。それでアワユキは娘を連れてフロストケイブにこもり、そして僕も殺されかけたわけだ」
「そうそう。サクヤも危うく無駄な生贄にされちゃうとこだった。で、結局そのアワユキさんは『聖域』でも何でもない薄汚い牢屋の中で自殺しちゃったんだよね。はてさて、それでゼルネアスの復活は早まるのかなぁ?」
キョウキはそう言いながら、凍った床の上をつるると滑っていった。サクヤもその後を追うと、フロストケイブの奥から、深い藍色の水が流れ込んでくるのが目に入った。
「危ない。川に落ちるとこだったね」
「さて、この川を渡ればいいのか」
とはいえ、キョウキもサクヤも波乗りを使えるポケモンを所持していない。仕方がないのでキョウキはプテラに乗り、サクヤはチルタリスに乗って、急流の上を超えた。
道なりに進み、慎重に階段を下ると、より一層冷気が強まった。
凍り付いた岩が見えた。
サクヤは黙って、モンスターボールの一つから、水色のリボンを付けた小さなイーブイを出した。
「玻璃」
「ぷい? ……ぷいいっ」
急にボールの中から出されたイーブイは、寒さに縮こまる。サクヤはイーブイを叱咤した。
「大丈夫だ、すぐに慣れる。バトルだ」
サクヤの視線の先には、氷に覆われた岩がある。そして、その冷気に惹かれるのか、岩にはバニプッチの群れがくっついていた。
状況を察したイーブイが威勢よく鳴いて宣戦布告をすると、バニプッチの群れは一斉に岩から離れ、臨戦態勢に入る。
キョウキがサクヤにのんびりと声をかけた。
「手伝うよ」
「当たり前だ」
「それ行け、ぬめこ、濁流だよ」
キョウキはボールからヌメイルを出し、すかさず指示を下した。
ヌメイルが、泥水をバニプッチの群れに叩き付ける。
「玻璃、体当たり」
サクヤが指示を飛ばす。泥水を被って右往左往するバニプッチの一体に、小さなイーブイが思い切りぶつかり、はね飛ばした。
「いいぞ玻璃、他のバニプッチにも、続けて体当たりだ」
「ぬめこ、玻璃が危なくなったら竜の波動でサポートね」
ヌメイルが先制してバニプッチの体力を大幅に削り、イーブイにとどめを刺させる。以心伝心の連携により、群れバトルを制する。
最後のバニプッチを沈めたイーブイが、得意満面で氷に覆われた岩の上に飛び乗った。
キョウキもヌメイルを労ってボールに戻す。
そしてキョウキとサクヤは、改めてイーブイに近寄った。
「さて」
「よくやったな、玻璃」
サクヤが水色のリボンのイーブイを撫でてやると、イーブイは誇らしげに頬をその手にすり寄せる。そしてイーブイが一声鳴いたかと思うと、その体が眩い光を放った。
「おお」
「……来た」
イーブイは冷光を放った。
凍り付いた岩の冷気を吸い込み、吐息のように放出する。
そして光の収まった後、そこにはグレイシアが佇んでいた。
「しあぁ」
すっかり寒さも平気になったグレイシアが、サクヤを見つめて微笑んでいる。
サクヤも笑い、腕の中のゼニガメを肩までよじ登らせると、青い領巾を引きつつ腕を伸ばし、そっとグレイシアを抱き上げた。グレイシアの寒さを防ぐ毛並みは密で、固いけれどしなやかな手触りをしている。
「進化おめでとう、玻璃」
「しあ」
一回りしっかりした体つきになったグレイシアが、誇らしげに尾を振る。
キョウキも笑いながらグレイシアを軽く撫でると、笑顔のまま歩き出した。サクヤもそれに続く。
フロストケイブでの用事を済ませ、二人は並んで歩いた。洞窟の出入り口に向け、引き返していく。
「やったね、サクヤ。あとはブラッキーか」
「そうだな。夜に育てれば、螺鈿もすぐにでも進化するだろう」
四つ子がタマゴから孵したイーブイは、生まれた直後からたいへん四つ子に懐いていた。育てる時間帯さえ間違えなければ、ブラッキーへ進化させるのは難しくはない。
「レイアがエーフィとニンフィア、だよね。二匹とも光り輝くイメージのポケモンだね。あいつに合ってる」
「で、お前がシャワーズとサンダース。お前のパーティは全体的にじめじめしてるな」
「ちょっと、じめじめはなくない? 雨パとお言い」
「で、それに対してセッカが、ブースターとリーフィアか。晴れパか?」
「そうだね。そして、サクヤがブラッキーとグレイシア。うん、暗いイメージだね。お前に合ってる」
「暗いか?」
「暗いっていうか、闇を背負ってて冷静で、みたいな。ふふふ」
「何を笑ってるんだ」
キョウキもサクヤも、無事にグレイシアの進化が済んで機嫌がよかった。四つ子のイーブイ進化計画は着実に進みつつある。
キョウキのシャワーズとサンダース、セッカのブースターは、既にミアレの石屋で購入した進化の石で進化を遂げた。
残る五種類のイーブイの進化方法はややこしい。特に、エーフィとニンフィアに育て分けることを目標としているレイアは大変だろう。けれどレイアも馬鹿ではないので、うまく目標を達成できると片割れたちは信じている。
二人は静かながら上機嫌に、フロストケイブから出た。
日進月歩 上
ミアレシティ北東にのびる16番道路は、トリスト通りとも呼ばれる。
ミアレ近郊に存在する釣りの名所として、知る人ぞ知る有名な道路である。特にバスラオがよく釣れるのだ。
フロストケイブから湧き出た水は、フウジョタウン、15番道路を経由してこの16番道路に流れ込み、湖を形成している。フロストケイブで生まれたバスラオが川を下り、この16番道路の湖に辿り着くころには、若々しく力強い魚ポケモンに成長しているというわけである。
咲き誇る黄色の花畑、流れ落ちる滝、そして湖上に架け渡された桟橋の上で穏やかに釣り糸を垂れる釣り人。また、色づいた木々の林は分厚い落ち葉の絨毯を作り、その林の中を散策するだけでも楽しい。
フシギダネを緑の被衣ごと被いたキョウキと、青い領巾を袖に絡めた腕でゼニガメを抱えたサクヤは、二人並んでこのトリスト通りを北東に向かっていた。日は高く、空気も暖かく、歩くのが気持ちいい日和である。
「釣りというのは、バスラオばかり釣るものなのか?」
サクヤが尋ねる。
「まあ、フロストケイブ系の川で釣れるのはほとんどバスラオじゃないかなぁ」
キョウキがのんびりと答える。
サクヤがなおも疑問を投げかける。
「バスラオには青筋と赤筋がいるそうだが、何か違うのか?」
「さあ。僕ら人間に白い肌と黒い肌があるってくらいの意味じゃないの?」
「筋の色ごとに群れを作り、違う色の群れとはいがみ合うらしい」
「人に似てるかもね。同じ種族なのに、違いが許せないのかな。……よく分かんないな。僕らは同じだからね」
「お前の言う“人”とは、僕ら四人のみを指すのか?」
「少なくとも僕には、僕ら四人だけで十分だとしか思えないよ」
フシギダネはのんびりと目を閉じ、キョウキの頭の上で日向ぼっこをしている。
ゼニガメはやがて飽きて、川に飛び込んだ。見事な滝登りを見せている。キョウキとサクヤはゼニガメを追うような形で、北東へと川岸の林中を歩いていた。
川面には色づいた木の葉が散り、水上に錦を織りなし、これもまた風情ある景色である。
サクヤはキョウキに問う。
「ならお前は、世の中に人間は僕ら四人だけになればいいというのか?」
「どうだろう。食料を作ってくれる人がいると便利かな。服も。家も」
「四人だけの世界か。どんなものだろうな」
「僕はよく想像するよ。山奥に、僕ら四人だけで隠遁するのさ」
「今の旅の生活と何が違う? どうせ金銭を求めてバトルをするほかないのに?」
「ただの幻想さ。何者にも脅かされない、静かな世界……」
「お前は結局、人が嫌いなだけか」
「人は嫌いだよ。でも、レイアやセッカやサクヤのことは大好きだよ」
「知っている」
「うん」
そこで二人はふと黙り込んだ。
キョウキがふとうっとりとした声を出す。
「……ふふ、俺俺組はうまくやってるかなぁ」
「あいつらのことか」
「僕らは僕僕組だよね」
「そういうことになるか」
「なんで僕らの一人称って、こんな風になったんだろうね?」
「昔は四人とも、モチヅキ様やウズ様と同じ『私』という一人称だったはずだが」
「そうだ、ユディに釣られたんだよ。ユディが昔自分のことを『僕』って言ってたから、あの時僕らは四人とも一人称が『僕』になったんだよ。やがてユディがイキって『俺』を使い出すようになって、レイアとセッカだけ釣られたんだ」
「釣りの名所だけにな」
キョウキは吹き出した。呆れて、サクヤに向かって苦笑する。
「……ナンセンスだね?」
「黙れ」
キョウキとサクヤは、ゆるゆると会話を続ける。
キョウキは柔らかな笑みを浮かべ、サクヤは澄ました表情ながら、言葉は流れる川の水のように淀みない。
「昔は一人称も『私』だったし、髪の毛も伸ばしてたから、女としか思われなかったよね」
「そうだな。一人称を変えて、髪も切った後は、割と男だと思われるようになったな」
「で、結局どっちなんだろうね」
「何が」
「僕らの性別さ」
キョウキとサクヤは一瞬だけ顔を見合わせた。しかし足を止めることなく、すぐに前を向く。
サクヤが呟く。
「……胸はないな」
「でも髭も生えてこないし、声も変わらないし」
「かといって、女に来るものもない」
「サクヤ、ちょっと下世話なこと尋ねてもいい?」
「却下だ。お前に有るものは有るし、無いものは無い」
「よくわかんないな。僕らって男なのかな、女なのかな」
「レイアとセッカと同じだろう。以上」
「ねえサクヤ。よく考えてみたらさ、僕、ウズやモチヅキさんやルシェドウさんの性別も、知らないんだよね……。サクヤは知ってる?」
「……いや」
そこで二人は黙り込んだ。
なぜ自分たちの身内や知り合いには、こうも性別不明が多いのだろうかと大いに悩んだ。
しかし自分たちの性別さえ分からないのだから、どうでもいいかとも思った。
川岸の林を遡っているうちに、いつの間にか15番道路のブラン通りに入ったらしい。
「もうすぐフウジョタウンかな」
「だろうな。廃墟が見えてきた」
「いわくつきのホテルかぁ。不良のたまり場になってるし、早く撤去すればいいのにね」
「所有権云々の権利が絡んで、そう強制撤去もできないんじゃないか」
「それより、何か呪いがかけられたりしてるとか」
「面倒だな。ゴーストタイプは本気を出すと何をしでかすかわからん。厄介だ」
言い合いつつ二人は荒れ果てたホテルを素通りし、フウジョタウンに入った。
フウジョタウンは涼しく、空は快晴である。南のポケモンリーグから吹き降ろす風は強く、街のシンボルである北の風車はゆったりと大きく回転していた。
街の南には畑が広がり、冷涼な気候でも育つ穀物や野菜が育てられている。フウジョの土壌は肥沃で、昔から多くの作物がとれた。乾燥した気候において草ばかりが生え、その草が枯れる冬は寒冷であり、有機物の分解が進まない。そうした年月を重ねて肥沃な黒土が生まれるのだ。
フロストケイブから流れ込む水がまた豊かな作物を作り、下流の森林を育んでは豊富な燃料や肥料をもたらした。フウジョは穀物を作り、それを風車を動力とした臼で挽いて粉にし、日々の糧たるパンを焼く。伝統ある営みだ。
フウジョで作られた作物は、多くが近郊の大都市ミアレシティへ出荷され消費されることになる。フウジョは大都市、あるいはカロス全体を支える重要な穀倉地帯である。
「なんかさぁ、僕、フウジョって好きなんだ。こう、穀物畑が一面に広がって」
緑の被衣のキョウキが、ポケモンセンターの近くで立ち止まり、穀倉地帯を見つめている。青い領巾のサクヤも頷いてやった。
「……他の都市は、観光とトレーナー誘致にばかり力を入れているからな」
「そう。自然や建造物といった観光資源も、それは確かに美しいよ。でもだよ、やっぱりこう、農業って、命に直接繋がってるって意味で、美しいよね」
「……きのみ畑とかメェール牧場とか好きそうだな、お前」
「うん。やっぱり、モノに飢えてるからかなぁ。物資の豊かな農業牧畜には憧れる」
「移動型の狩猟民族より、定住型の農耕民族になりたいというわけか……」
「それが人類の歴史だよね。ほんとトレーナーなんてさ、時代に逆行してるよ。原始的で、特権的で」
「確かに、まったく前近代なことだ。……もういいか」
サクヤはさっさとポケモンセンターに入っていった。キョウキもそれに随った。
そこでサクヤは、正面から大男とぶつかった。
「……っ」
「うおっと、すまんすまん!」
サクヤとぶつかったのは、金茶髪の髭面の大男である。ポケモン協会の腕章をつけたロフェッカは、キョウキやサクヤに気付かないかのように、慌ただしくポケモンセンターから出ていった。
フシギダネを頭に乗せたキョウキが小さく首を傾げ、ゼニガメを抱えたサクヤは鬼の形相になる。
「ロフェッカ、だったね?」
「…………あの野郎…………」
「まあまあサクヤ、ロフェッカなんかに構うことないよ。ちょっと一休みして、午後からフロストケイブに行こう」
キョウキは微笑みながら、酷いしかめっ面のサクヤの肩を押した。
二人はフウジョのポケモンセンターで足を休め、温かい茶を飲み昼食をとった。
サクヤはポケモンセンターのロビーでフロストケイブの大まかな地図を見つけ、凍り付いた岩の位置を調べてきた。
「洞窟に入って左の階段を上がり、川を渡って今度は階段を下った先だ」
「わかった」
そしてキョウキとサクヤは午後、粉雪の舞い出したフウジョタウンを歩く。
フシギダネは寒さが苦手であるので、いつもとは違ってキョウキの黒髪の上に直接乗り、フシギダネの上からキョウキは緑の被衣を被って雪を凌いだ。サクヤの腕の中のゼニガメも、寒さを嫌って甲羅の中にこもっている。
二人が大きな石橋で川を渡ると、渡った先の川岸には雪が積もっていた。もう一本細い川を木橋で渡るとき、フロストケイブ内から流れ落ちる滝が、左手の方向にいくつも見えた。
川面に淡雪が吸い込まれて見えなくなる。
川岸には、雪を戴いた針葉樹林が広がっている。
そしてさらに北東を見やれば、万年雪に固められた山脈が連なっている。
フロストケイブは、その山の一つに穿たれた巨大な洞窟だ。氷タイプのポケモンの重要な生息地でもある。
そして洞窟が見えてきたところで、キョウキとサクヤは立ち止まった。
大男のロフェッカ、そしてコートを着込んだ老婦人、そして白いコートを身につけた少女。三人がフロストケイブの前に立ち尽くしていた。
サクヤがひどく顔を顰める。
しかしキョウキはのんびりと三人の方へ歩み寄った。三人に何か声をかけるつもりはなく、ただ本来の目的を達成するため洞窟に入ろうとしたのである。
ところが三人の中のロフェッカは目ざとくキョウキを見つけ、声をかけた。
「おう、四つ子の」
キョウキはほやほやとした笑みを浮かべた。
「やあ、ロフェッカ」
ロフェッカにつられて、老婦人と少女がまた顔を上げる。
「あら」
老婦人が、ゼニガメを抱えた青い領巾のサクヤを見つめ、どこか寂しげな微笑を浮かべる。
「……サクヤさん。またお会いできましたね」
「……ミホさん」
サクヤは固い声で呟いた。すると、少女と手を繋いだミホはそれきり沈黙し、俯いてしまう。
どうにもこの三人を無視できなさそうな雰囲気に、キョウキは微かに嘆息した。
「ロフェッカ、僕ら、用事があるんだけど」
「フロストケイブにかぁ?」
「そう。だから失礼するよ」
そう淡泊に言いやって、キョウキは面倒を避けるべくロフェッカの隣をすり抜けた。
サクヤもキョウキの後を追おうとしつつ、しかし後ろ髪を引かれるように、老婦人と、そして白いコートの少女を見つめる。
ミホは、サクヤはヒャッコクシティで出会った老婦人だ。
そして、老婦人の孫娘らしき白いコートの少女は。サクヤには、この少女もまた見覚えがあった。
暗く寒い記憶が蘇る。
この少女は、キリキザンに刃を突きつけられて泣いていた少女、アワユキの娘ではないか。
「サクヤ」
キョウキが声をかける。サクヤは半ば混乱して、老婦人と少女を見比べていた。
――どういうことだ。
以前、フロストケイブに来た時のことをサクヤは思い出す。あのときはポケモン協会員のルシェドウにうまい具合に丸め込まれて、行方不明になっていた女性トレーナーを捜していたのだ。そして見つけたのがアワユキというトレーナーと、その幼い娘。
アワユキは自分の娘を人質にしたが、様々な経緯を経て、無事にアワユキは警察に連行され、アワユキの娘も保護された。
そして、そのあと。
アワユキは署内で自殺した、というニュースを見た。
残されたアワユキの娘がどうするのか、サクヤは一瞬だけでも案じていたはずだ。
そのアワユキの娘が、ミホと一緒にいる。
「サクヤ」
キョウキが再び、サクヤの名を呼んだ。
「寒い。行こうよ」
キョウキの声音は穏やかで緩やかだったが、暗に面倒事に巻き込まれたくないという意思を込めているのが片割れのサクヤには分かった。
サクヤが混乱を振り切るようにミホをちらりと見やると、老婦人は沈痛な面持ちで少女を見つめていた。
少女は、まっすぐにフロストケイブだけを見つめていた。
サクヤが戸惑い、キョウキが立ち止まっていると、ロフェッカが口を開いた。
「あー、いいから、行けよガキども」
「――あたしもいく」
幼い娘の声がした。
白いコートの少女だ。
黒髪を美しく切りそろえた色白の少女は、サクヤの顔をまっすぐに睨みつけていた。
「あたしもつれてって」
「リセちゃん……」
ミホが困り果てたように、孫娘を宥める。
「いけませんよ、人様にご迷惑をおかけしては……」
「いや。うるさい。あたしもおかあさんのとこ、いくの」
「だめよリセちゃん!」
ミホが悲鳴のような声を上げる。ミホは屈み込み、孫娘の肩をそっと抱いた。
「おばあちゃんが一緒よ。一緒に、ヒャッコクに行きましょう。ねえ、お願い、リセちゃん」
「いや」
少女は祖母の手の中から駆け出し、サクヤに向かって突進した。
リセ、という名らしい少女は、不貞腐れた様子でサクヤの袴にしがみつく。ロフェッカが苦笑し、ミホはすっかり狼狽し、キョウキは音もなく舌打ちし、サクヤは混乱していた。
五人は雪の中、立ちつくしていた。
一朝一夕 下
日は高く昇りつつあった。
迷いの森を目指すという当初の目的はどこへやら、レイアとセッカは、黒衣のモチヅキをハクダンシティの中で捜している。
そうしてハクダンの中央広場から聞こえてきた大音量に、二人は同時に首を竦めた。
『ハクダンシティの皆様、こんにちは! 与党候補のローザ、ローザでございます!』
スピーカーによって拡大された音声が、ポケモンセンターのあたりからでもよく聞き取れる。
セッカは、耳を押さえるピカチュウを支えつつ、あ、と声を上げた。
「れーや、ローザってあれだよ、さっきのロズレイドとシュシュプの人だよ! ポスター!」
「あー……貴族趣味……」
レイアも小さく頷く。そしてセッカと視線を交わした。
大音声は続く。
『本日は、次回の選挙に向けまして、この場をお借りして、皆様に、わたくしローザからのご約束を、述べさせていただきます! ぜひとも、ローザ、ローザをよろしくお願いいたします!』
一言一言を区切ってゆっくりと話される。聞こうとしなくても勝手に耳に入ってくる言葉だった。
セッカはちらりとレイアを見やった。
「なあなあれーや、美人さん見ていく? 見ていく?」
「え……いや、別にいらねぇよ、うるさいし……」
「――あ、モチヅキさん見っけ!」
セッカが明るい声を発し、その示す方向にレイアが首を伸ばすと、モチヅキは当の中央広場にいた。
ハクダンの中央広場にそびえる、ロゼリアを模した噴水。その噴水の一辺を陣取り、政治家による街頭演説が始められていた。
マイクを手にする女性は、短い茶髪、メガネ、真っ赤な口紅、大ぶりの金のイヤリング。薄紅色のスーツを着込み、そして傍らにはロズレイドとシュシュプを伴っている。
『本日は、わたくしの大切な仲間である、ロズレイドと、シュシュプを、連れて参りました。この子たちは、わたくしと共に旅をした、大切な相棒です。わたくし、バトルシャトーでも侯爵、すなわちマーショネスの爵位を、持っております!』
朗々と演説を行うローザの周囲には、聴衆が集まってきていた。
そしてその聴衆に混じるとはいかないが、中央広場に面するカフェのテラス席に、長い黒髪を三つ編みにしたモチヅキが腰かけている。
モチヅキはテーブルに頬杖を突き、件の胡散臭そうな目つきでローザの演説を眺めているのだった。
『わたくしもかつては、トレーナーとして旅をし、傍にいてくれるポケモンたちや、トレーナーを支えてくださる、多くの方々の親切なおもてなしに、いたく感動をいたしました。ですので、今度は、わたくしが、若きトレーナーの皆さまを、お支えしたいと、思います!』
ローザが言葉を切ると、傍らに立っていたロズレイドが花咲く腕を振り、薄紅色の花吹雪を華麗に巻き起こした。
拍手が起こる。
ありがとうございます、とローザの声が繰り返す。
レイアとセッカはモチヅキの方へ歩み寄りつつ、それを見ていた。
「すっげぇ!」
「ポケモンコンテストかよ」
レイアが苦々しげに囁く。セッカが鼻をひくつかせる。
「いいにおいだな。シュシュプかな?」
「……おいモチヅキ、これも全部あの女のパフォーマンスか?」
レイアがぞんざいに声をかけると、モチヅキはじろりと視線だけを二人に寄越した。そしてすぐに演説するローザに視線を戻し、その演説の声と噴水の音に紛れてしまいそうな低い声で囁いた。
「……あの女のパフォーマンスに決まっておろうが」
「この匂いもか?」
「嗅覚は記憶と密接だ。香りを振りまき、印象付ける……政治家としては利口なポケモンの利用法であろう」
噴水広場では、ローザのロズレイドが優雅に一礼していた。一般人だけでなく、その美しいロズレイドと芳香を放つシュシュプに惹かれてポケモントレーナー達もローザの周りに集まってきている。
ローザのロズレイドとシュシュプは、実際によく育てられていた。戦い慣れた身のこなしをしていることが、やはり戦い慣れたレイアやセッカには分かる。
ローザは両手でマイクを包み、そして聴衆の一人一人と視線を合わせて語りかける。
『わたくし、ポケモントレーナーの育成を、第一に考えております。才能あるトレーナーの、育成。これは後々、産業の発展に、大きく貢献します。具体的には、優れたトレーナーが、頭の良いポケモンを、育成しますと、このポケモンは、新たな技術の開発に、携わることもできます。人をはるかに超えた、ポケモンの知能を、こうした研究分野にも、応用することで、産業発展は、加速します!』
「一般人向けの演説だ」
モチヅキが淡々と言葉を挟む。
『優れたポケモンが、国を発展させます! 景気が向上し、かつ暮らしを豊かに、より安全なものにいたします! ポケモンは、我々の生活に、なくてはならない存在です!』
レイアとセッカは、ぼんやりとローザの街頭演説を聞いていた。
曰く、ポケモンの育成は重要だ。そのポケモンを鍛えるトレーナーの育成が、国家にとって最重要事項である。具体的には、すべてのポケモントレーナーについて毎月3万円の金銭給付を行い、トレーナーがよりポケモンを育てやすくなるように、トレーナーの生活をより手厚く保障していく。云々。
「さんまんえん!」
それを聞いて、セッカはぴゃあと跳び上がった。ピカチュウもよく分からないながら、上機嫌に鳴いている。
ローザを取り囲んでいた聴衆の中で、トレーナーは盛んに拍手している。
ヒトカゲを抱えたレイアは、ちらりとモチヅキを窺った。
頬杖をついたモチヅキは、じろりとレイアを睨んだ。
「何か?」
「え、いや……あんた、あれ、どう思う?」
「月々三万の給付のことか。どこからそのような金をひねり出すか、聞きたいものだ」
モチヅキは軽く鼻で笑っている。
「そなたらにとっては良い知らせであろうが。あの女に投票してはどうだ?」
「……いや……なんで」
「何が給付だ。所詮ただの人気取りに過ぎぬ。……無知な若いトレーナーに付け込んで票を狙う者が、近年増えた」
モチヅキは感情のこもらない声でそう言い捨て、席から立ち上がる。そのまま立ち去った。
21番道路へのゲートが封鎖されているということで、レイアとセッカもハクダンシティで足止めを食らうほかなかった。仕方なくポケモンセンターに部屋をとり、手持ちのポケモンの特訓に繰り出す。
手っ取り早い方法は、ハクダンジムに行くことだ。
レイアもセッカも既に、ハクダンジムのジムリーダーであるビオラには勝利し、バグバッジを手に入れている。しかしかといって、その後ジムに出入り禁止となるわけではない。ジムはトレーナーの修行の場だ。トレーナーとバトルし、ポケモンを鍛えつつ、そして賞金を稼ぐにはうってつけの場所である。
「どーも」
「こんちは」
レイアとセッカがそれぞれ六匹の手持ちを連れてハクダンジムに入ると、休憩していたジムトレーナー達の注目を集めた。初心者向けのジムであることもあって、まだまだ初々しそうな短パン小僧やミニスカートが多い。
「ビオラさん、いる? ジムリーダーに稽古つけてほしいんすけど。賞金ありのバトル」
セッカが彼らに声をかけると、ミニスカートが走ってジムの奥に走っていった。
間もなく、肩からカメラを提げ、ブロンドをバレッタで留めた女性が、ジムの奥から走ってでてきた。
「はいはいはい! お待たせしましたー……って、四つ子ちゃんじゃない! ……の中の二人? だよね?」
ビオラは朗らかに笑いながら、レイアとセッカの前まで歩み寄る。レイアとヒトカゲ、セッカとピカチュウもビオラに挨拶した。
「どうも、ご無沙汰してるっす」
「ども!」
「双子のイーブイの記事見たよー! あと姉さんから聞いたわ、君たち爵位持ってないって? もったいないなぁ、あたし推薦するよ!」
ビオラはにこにこと笑いつつさっそくファインダーを覗き込み、レイアとヒトカゲとセッカとピカチュウの写真をぱしゃぱしゃと数枚撮った。レイアとセッカは一枚目を撮られるや否や、真顔になった。
ビオラが頬を膨らます。
「こら、もう、笑ってったらー。……むー。君ら写真嫌いなわけ? 姉さんの記事ではいい顔してたのにさぁ!」
「……なんかパシャパシャ鳴ったり、光ったりすると、身構えるっつーか……」
「んーうんうん慣れだよ慣れ! さ、バトルでしょ、ポケモン出して出して! シングル? ダブル? トリプル? ローテーション? それともマルチ?」
そう自信ありげに微笑むビオラは、つまりどのルールのバトルでもレイアやセッカと渡り合えるほどのパーティを用意してきたのだ。
レイアとセッカは一瞬だけ顔を見合わせた。
「せっかくなんで、俺ら二人でダブルで。ビオラさんの方はお一人でもお二人でも」
「オッケー! じゃあ私一人でやったろうかな!」
ビオラは笑いながらリストバンドを直した。そして、セッカとレイアがそれぞれボールを構えると、ビオラは待ち構えていたかのようにカメラを手にして、写真を撮りまくる。
「ぎゃあー!」
「うわっ」
「うん、いいんじゃない、いいんじゃないの! 強くなったんだよね、四つ子ちゃん! じゃあ前とは違うとこ、見せてもらおうかしら!」
ビオラはボールを二つ手に取ると、同時にそれらを高く投げ上げた。
「シャッターチャンスを狙うように、勝利を狙っていくんだから! アメモース、ビビヨン!」
「行くぞ、アギト」
「がんばれ、真珠」
そしてセッカはガブリアスを出した。
レイアは、薄色のリボンを耳に巻いた、小さなイーブイを出した。
小さなイーブイを、ジムリーダーとのバトルの場に出した。
小さなイーブイが、てちてちと細い足で、おっかなびっくりといった様子でバトルの場に立った。
あら、とビオラが表情を崩す。
セッカは顎を落とし、そして赤いピアスの片割れに詰め寄った。
「なんで!? ねえなんで!!?」
「サポート頼むぞ、セッカ。とりあえずアギトに地震撃たせたら、シメる」
「ダブルじゃ撃たないけども! ねえ、なんでイーブイなの!? どうして!!?」
セッカは涙目になるも、レイアはどこ吹く風である。
ビオラが笑顔でパシャパシャと小さなイーブイの写真を撮ると、イーブイはとうとう足をぷるぷると震わせた。
大勢のジムトレーナーの注目を集めていることもあるし、また目の前の二体の蝶形のポケモンはえもいわれず恐ろしい。花園の模様のビビヨンの羽ばたきはイーブイにとって十分威圧的であったし、何よりアメモースの目玉模様の触角にイーブイは怯え切っている。
セッカは絶叫する。
「――ほらぁっ、ろくに立てもしないじゃあああんっ」
「ようし、そろそろ始めましょ! アメモース、銀色の風! ビビヨンは蝶の舞!」
「真珠、手助け!」
「ああもうっ、アギト、真珠を庇って! ストーンエッジ!」
ビオラがいち早くアメモースとビビヨンに指示を飛ばす。二体の虫ポケモンは宙を華麗に舞い、そしてアメモースは鱗粉を乗せた暴風を巻き起こした。
セッカのガブリアスが、レイアのイーブイの前に立ちはだかる。銀の突風からその巨躯でイーブイを庇った。
そのガブリアスの尻尾に飛びつくように、イーブイが手助けの力を流し込む。ひどく緊張はしていたが、レイアの声に励まされてどうにか動けたというところであった。
ガブリアスが跳躍する。その尻尾に、イーブイが吹っ飛ばされてころころ転がる。
「ビビヨン、シャッターチャンス!」
ビオラが鋭く叫んだ。
花園の模様のビビヨンが、暴風を巻き起こす。ガブリアスをその複眼で捉え、押し戻す。
しかし、イーブイの力を得たガブリアスは、暴風に吹き飛ばされつつも怯むことなく岩を生み出し、黄金の瞳で敵を見定めると、風速や敵の動きを読んで岩を打ち出した。
数多の尖った岩が、アメモースを巻き込みつつ、ビビヨンをも吹き飛ばす。
ビオラが唖然とした。
「……あ……っと、暴風の中でそんな」
「真珠、尻尾でも振っとけ」
「アギトまだだぞ、ドラゴンクロー!」
レイアはイーブイの緊張を解すためにも適当な指示を下し、セッカは油断なくガブリアスに追撃を命じる。
「――アメモース、冷凍ビームよ!」
地に着き、再び大きく跳躍したガブリアスに、体勢を立て直したアメモースが照準を合わせている。
ガブリアスが早いか、アメモースが早いか。
「ビビヨン、イーブイにフォーカス! サイケ光線!」
ビオラはアメモースを信じ、もう一方で体勢を整えていたビビヨンに攻撃を命じる。
「砂かけ」
小さなイーブイが硬直する間もなく、レイアは短く、しかしはっきりと指示を下した。
イーブイは死に物狂いで、後ろ足で砂を巻き上げた。砂煙がもうもうと立ち上る。
一方では、アメモースの放った強い冷気が、ガブリアスを飲み込む。
ビビヨンの複眼が、砂煙の中にイーブイを一瞬見失う。
凍り付きながらも、ガブリアスの跳躍の勢いは止まなかった。
イーブイはとうとうへたり込む。
ガブリアスが宙のアメモースを叩き落とし、自身が地に下りる勢いでビビヨンを爪にかけ、そして地に叩き付けた。
二体の蝶形のポケモンは、地に伏し目を回している。
ああ、とビオラが息をついた。小さく項垂れる。
「…………あたしの負け、か。……お疲れさま、アメモース、ビビヨン」
そしてレイアとセッカも、大きく息をついた。
「ああ、あっぶねー……!」
「ほんと、やばかった……!」
体の大半を氷漬けにしながらも、ガブリアスがのしのしとセッカの傍に戻ってくる。セッカはガブリアスの鮫肌も気にせず、飛びついた。しかしさすがにピカチュウはセッカの肩から飛び降りた。
「アギト、かっこいいよー! ほんと大好き!」
「ぐるるるる」
「お疲れさん、真珠」
薄色のリボンのイーブイは、まだフィールド上でぺたりと座り込んでいた。それにレイアが近づき、ひょいと両手で背後から抱え上げる。
くるりと小さなイーブイを反対向きにし、正面から向き合った。レイアは笑顔を浮かべてやる。
「真珠、いいバトルだったぞ。よくやった。この調子で頼むな」
「……ぷい!」
小さなイーブイが笑顔になり、小さく頷く。
そしてその小さな体が、レイアの手の中で白い光を放ちだした。
「あ――」
「進化だぁ!」
セッカが笑顔で叫ぶ。ビオラが息を呑んでカメラを構え、シャッターを切る。
レイアの手の中の温かく柔らかい感触は、光に包まれ、変わらないような、分からないような。ただ輝く影は形を変え、ハクダンジムの天窓から射す光を吸収した。
そして真珠は、エーフィに姿を変えた。
「……ふぃい?」
「…………おお」
レイアは嘆息した。
ビオラが笑顔で拍手をすると、ハクダンジムのトレーナー達もそれに倣って拍手し、進化を称える。
セッカがガブリアスの腕の中で飛び跳ねて喜ぶ。
「エーフィだ! どうれーや、ふわふわ? ふにふに?」
「ふわふわ……だ……」
エーフィの毛並みは、朝の東雲のような薄紫色である。額には太陽を思わせる赤い結晶。濃紫の瞳は神秘的に深く透き通っている。
「…………うおお……おめでとう、真珠」
「ふぃいい?」
エーフィは暫く、長く細く伸びた自分の尻尾をゆらゆらと振って首を傾げていたが、やがてレイアの胸に頭をこすりつけた。
セッカも、ビオラも笑顔になる。
「やったーっ!」
「おめでとう、レイア君! あたし、エーフィに進化するとこ初めて見たわ!」
ビオラは胸元でカメラを大切そうに抱える。
「今日は来てくれてありがと。いい写真がいっぱい撮れて、すっごくよかった! あなたたち、ポケモンたちともサイコーのコンビだし、あなたたち二人もサイコーのコンビだよね!」
レイアとエーフィ、セッカとガブリアスは照れたように笑う。その表情をすかさずビオラはカメラに収めた。
「今日は負けちゃったけど、次は四つ子ちゃんのコンビに負けないようバトルの腕を磨いてるわ。バトルシャトーにもぜひ寄ってね!」
「うす」
「ありがとーございます!」
「はい、二人に賞金。シャトーでもいいけど、絶対にまたバトルしてよね! もうすっごく悔しいんだから!」
ビオラはレイアとセッカに笑いかけると、レイアの腕の中のエーフィに小さく手を振った。
「おめでとね、エーフィちゃん。じゃあ四つ子ちゃん、次までには写真に慣れておいてよね! 元気で!」
レイアとセッカはビオラに会釈し、ジムから出ようとした。
しかし踵を返したところで、一人分の拍手が鳴り響いた。
二人は目を点にする。
ハクダンジムの入り口近くに立っていたのは、噴水広場で演説を行っていた女性政治家、ローザだった。ロズレイドとシュシュプを連れている。
シュシュプの芳香が辺りに漂う。
ローザはコツコツと靴音を響かせながら、笑顔でレイアの前に立った。ヒールのある靴を履いているせいかもしれないが、背の高い女性だった。
「先ほどのバトル、最後だけでしたが見ていましたよ。小さなイーブイも強敵を相手に素晴らしい健闘ぶりで、さらにはエーフィへの進化。本当におめでとうございます」
「あ……どうも」
レイアは気まずげに応える。てっきり、エーフィへの進化の祝福は先ほどひと段落ついたとばかり思っていたのだ。
ローザは政治家らしく、よく通るしっかりとした声をしていた。
「わたくし、政治家をしております、ローザと申します。エーフィへの進化をお祝いして、わたくしからもほんの気持ちです。どうぞ受け取ってください」
短い茶髪の女性はそう言うと、手にしていたバッグから封筒を取り出した。レイアが何気なくそれを受け取ると、それは随分な厚みがある。
レイアが奇妙な顔になる。レイアの足元にいたヒトカゲが、不思議そうにレイアを見上げてきゅうきゅう鳴いた。レイアはしゃがんでヒトカゲも片手で抱き上げる。
ピカチュウを肩に乗せたセッカも、それを覗き込んだ。息を呑み、唾をごくりと飲み込む。
「……まさか……お金?」
「セッカ……!」
両腕にヒトカゲとエーフィを抱えたレイアが眉を顰めて諌めるが、ローザは小声で笑った。
「ええ、ほんの気持ちです。素晴らしいバトルでした。よかったらポケモンセンターまでご一緒しても構いませんか? 才能あるトレーナーさん」
ローザは眼鏡の奥で、美しい笑みを湛えていた。
レイアとセッカ、そしてローザはポケモンセンターの食堂で、夕食を共にした。
そしてローザはまずセッカに向かって頭を下げた。
「ピカチュウを連れた貴方は、セッカさん、ですね。妹が無礼をしました」
「へ?」
セッカはぽかんとして首を傾げる。レイアも何事かと目を白黒させている。
するとローザは苦笑した。
「ショウヨウシティの、セーラを覚えておいでですか? わたくしの妹です」
「え? ええっ!? セーラのお姉さんっすか!!?」
「はい、セーラの姉です」
ローザがにこりと微笑む。
セッカは一人でぴゃああと騒ぎだし、レイアがその頭を小突いた。
「おいてめぇ、説明しろや」
「ああうん、セーラはね、セーラは……うん、好敵手……かな」
「は?」
「俺はセーラを認めてはいる!」
セッカはガッツポーズを作った。食卓にあることも忘れて語る。
「奴とは自転車や10万ボルトやビンタや罵詈雑言、そして痴漢逮捕、ジャージの上着……によって語り合った、因縁の間柄だよ」
「んだよセッカお前、セクハラしたのか?」
「してないもん!」
セッカがぴゃあと叫ぶ。喧嘩の始まりそうなレイアとセッカの間に、ローザが割って入った。
「ええ、セッカさんの仰ったことは真実です。セッカさん、セーラは深く反省していました。どうか妹をお許しください」
「え、いや、まあ過ぎたことっつーか」
セッカは頷き、その件については気にしていない意を示した。
レイアが軽く首を傾げる。
「ああ、じゃああんた、それでセッカのこと捜してたわけだ? この金にセッカへの謝礼も含まれてる?」
「いえ。こちらはセッカさんと話をしてから、お渡ししようと考えていました。遅くなってすみません。どうぞ、セッカさん」
そしてローザは、セッカにもレイアと同様の厚みを持った封筒を差し出したのである。
セッカは唖然とした。
「……え?」
「妹が、大変ご迷惑をおかけしました」
「え、だから、いいって……」
セッカが突然降ってわいた大金に戸惑っていると、ローザは話題を変えてしまった。
「エイセツシティ方面へのゲートが封鎖されているそうですね?」
「あ、そうっす。落石だそうで、俺らも足止め食らってて……」
レイアがそう相槌を打つと、ローザは溜息をついた。
「……そうですか。実は、わたくし、とあるホープトレーナーとこの街で待ち合わせをしていまして。そのホープトレーナーがエイセツシティの方から来る予定で。このままだと……」
ローザは苦笑していた。セッカは無頓着に疑問を投げた。
「ローザさんは、トレーナーと仲良し?」
「そうですね。そのトレーナーは、両親に見放されてしまったのです。なので、わたくしが後援しているエリートトレーナー事務所に掛け合い、ホープトレーナーとして援助を受けられるよう働きかけた子でして……」
セッカは既にローザの話についていけなくなっていた。
レイアが溜息をつく。
「つまり、ローザさんが面倒を見ているホープトレーナーが、このままではハクダンに来れねぇ、と」
「そうなのです。しかもあの子、今時ホロキャスターも持たない……というか、持たせてもすぐ壊してしまいまして、連絡も取れません。……21番道路の落石に、巻き込まれていなければいいのですが」
レイアとセッカは、今時のトレーナーはホロキャスターを所持するのが当たり前であるらしいことにショックを受けていた。古風な養親に育てられたためか、どうにも四つ子は世間知らずな部分があって、旅先でたびたび困惑することがある。
しばらく三人は、黙って夕食を口に運んでいた。
ローザは、ほぼ見ず知らずの相手にもポンと大金を渡せるような人間だった。そのような人間に支援してもらい、さらにはホープトレーナーに認定してもらえるなど、幸運の極みだろう。
レイアもセッカも、そのホープトレーナーが妬ましかった。
四つ子も、両親から見放されたようなものだ。養親のウズや、細々としたことについて面倒を見てくれるモチヅキはいても、この二人は四つ子に肉親の愛情を注いでくれることはない。四つ子に、厳しく貧しい旅の暮らしを強いているのだ。
同じ見放された子供の中にも、不平等は存在する。
そのことが、レイアとセッカには辛かった。ローザから何気なく受け取った大金が重かった。
しかし、二人がシンクロして気落ちしかけていたときである。
「あら?」
ローザが腰を浮かせた。
レイアとセッカも顔を上げる。
ポケモンセンターの食堂に、少年がのろのろと入ってくる。
赤髪。褐色の肌。水色の瞳。裸の上半身にホープトレーナーの制服を申し訳程度に引っかけ、裾の広いズボンはボロボロである。
びくりと、レイアとセッカの二人は同時に肩を揺らした。
深紅のアブソルのねじくれた鎌が、二人の脳裏によぎる。
ローザが赤髪の少年に近づき、明るく声をかけた。
「よかった、――リュカ」
「ああ?」
リュカ――榴火はのんびりと首を巡らせた。顔を上げ、ローザを凝視した。そしてヒトカゲとピカチュウをそれぞれ膝に乗せた互いにそっくりな二人のトレーナーを認めると、彼は目を閉じた。
そのまま何も言わず、くるりと振り返って食堂からさっさと出ていった。
それだけだった。
「どうしたの、リュカ」
ローザが心配そうな声音で、少年を追う。レイアとセッカを振り返る。
「ごめんなさい、わたくしはリュカを。……本当にすみません! お支払いは済ませておくので、どうぞごゆっくり」
それだけ言って、薄紅色のスーツの女性は、勘定を済ませるなり、赤髪の少年の後を追って食堂から出ていってしまった。
レイアとセッカは、呆気にとられていた。
ヒトカゲとピカチュウが不安そうに鳴いて、ようやく二人は、互いに同じ顔をしていることに気が付いた。
レイアは、崖から落ちる時に見たあの顔、夜の窓ガラスに張り付いたあの顔を思い出している。
クノエで四つ子の片割れたちと再会して、ようやくまともに食事が喉を通るようになり、安眠できるようになった。二手に分かれても、いつも二人は一緒だ。独りは怖いからだ。
セッカは、燃え盛る図書館の中で見たあの顔を思い出している。
禍々しい、色違いのアブソル。あれに出会うと、災厄に巻き込まれる。人も死ぬ。ポケモンも死ぬ。
遠く懐かしい昔、ウズが、逃げろと言っていた。
セッカは早口で囁いた。
「レイア、逃げよ」
「……セッカ」
「逃げよう。早く逃げよう。アブソルだぞ」
セッカはレイアの手を握る。
「21番道路の落石だって、どうせあいつのアブソルがやったに決まってるんだ……。なあ、レイア、ローザさんがあいつ捕まえてる間に、行こう、今なら大丈夫だから」
「でもセッカ、もう日が暮れる」
「逃げる、んだ」
セッカはぐい、とレイアに詰め寄った。
レイアは顔を歪めた。
「……お前、あいつ、嫌な感じするか?」
「レイアが思ってんのと同じだよ。さ、行こう。猛ダッシュでエイセツに行こう」
そう言い切ると、セッカは夕食はしっかりと最後までかきこんだ。レイアとヒトカゲとピカチュウを急かし、立ち上がる。
レイアの手を引っ張るように、さっさとポケモンセンターにとっていた部屋を解約して、荷物を持ってハクダンシティを出た。
日が沈み、月が昇る。
ヒトカゲを脇に抱えたレイアと、ピカチュウを肩に乗せたセッカは、手を繋いで夜の道路を渡る。野生のポケモンは無言のうちにヒトカゲやピカチュウが追い払い、ただひたすら二人は東を目指す。ゲートを守るトレーナーはいなくなっていた。21番道路のデルニエ通りに出る。
月明かりを頼りに、整備された道を下り、橋で川を渡る。一切の寄り道をしなければ、一、二時間も歩き続ければエイセツシティには着く。
雪。
ブーツで雪を踏んだ。きしきしと音がする。
寒かった。
レイアとセッカは逃げるようにして、とうとう夜のエイセツに辿り着いた。
一朝一夕 中
ポケモンセンターのロビーには、様々なものがある。
旅で疲れたトレーナー達が足を休めるためのソファは幾列にも連なり、広い面積を占めている。低いテーブル、観葉植物、テレビ、新聞や雑誌、パソコン、公衆電話。掲示板には、ポケモンリーグの告知や、ポケモンのための各種コンテストの案内、トレーナー向けの種々の企画の案内やアルバイト情報などが掲げられている。
しかし、その日の掲示板では、類似するポスターが目立っていた。
スーツを着込んだ若い男性が、翼を広げたウォーグルと並んで、笑顔でガッツポーズを決めている。そしてその男性の名前が大きい文字で示されている。
他にも、エネコを上品に抱いて微笑む年配の女性のポスター、貫禄のあるヤドキングを伴った知的な男性のポスター、等々。
いずれもスーツ姿の人間が、ポケモンと共にポスターに載っている。そして、人間の氏名が大きく書かれている。そうした趣向はいずれのポスターも共通する。
そのようなポスターが、掲示板を埋め尽くしているのだった。ポケモンの姿のないポスターは、ない。
セッカはソファに座ったまま、それらの目立つポスターをなんとなく眺めていた。
「トレーナーかな?」
「……ちげぇだろ。選挙だよ」
レイアが呆れたように口を挟んでくる。セッカは首を傾げた。
「選挙?」
「……お前、行ってねぇ――よな。……俺も選挙行ってねぇわ」
レイアが小さく溜息をつく。
この国では現在、十歳で成人とされ、選挙権も持つことになる。
判断力の十分でない青少年に選挙権を与えることは、ときに危険である。力を持った大人が青少年に、特定の政党への投票を強制し、青少年の権利を害することが考えられるからだ。
しかし、成年と見なされる以上、選挙権を認めなければ逆に国が権利を奪うことになる。だから十歳以上の国民には、選挙権があった。
レイアはポスターを見つめている。
「……議員を選ぶんだよ、こいつらの中からな」
「よくわかんない! 俺、政治とか無理!」
「――ですよねぇ」
レイアはへらりと笑った。トレーナー仲間の間でも、真面目に選挙に行って票を投じているという話はほとんど聞かない。
そもそも選挙に行ったところで意味はないのだ。なぜなら、現在この国の与党政権――より厳密には、トレーナー政策が崩壊する可能性など、万に一つもないからだ。
ポケモンセンターの掲示板に掲げられるポスターも、すべてトレーナー政策を一様に掲げる政党の候補者ばかりだ。トレーナー政策に反対するポスターなど、一枚もない。
それはそうだ。
トレーナー政策に反対している“反ポケモン派”の野党は、弱い。
人材的にも、金銭的にも弱い。トレーナー政策に反対するから、そもそもの話、支持層も薄い。更にいうならば、トレーナー政策の恩恵をまさに受けているトレーナーの集まるポケモンセンターに選挙ポスターを掲示したところで、まったくの無意味なのだ。
逆に与党は、強すぎた。
この国のほとんどの人間は、与党のトレーナー政策を歓迎している。つまり万人からの支持を受けているのだ。
今や、政権を握ろうとする政党は、“反ポケモン派”の政党を除いては、こぞってトレーナー政策を支持するようになっている。それだけトレーナー政策の支持は厚い。
もちろんトレーナー育成以外にも、国家のとるべき政策は山積している。各政党が争うのは、ほとんどトレーナー政策以外の争点となってしまっている。どの政党を選んだところで、トレーナー政策自体は変わることがない。
即ち、トレーナー政策の恩恵を受けているトレーナーとしては、どの政党が勝利しようが、どうでもいいのだ。
だからトレーナーは選挙に行かない。
レイアはセッカの隣で肩を竦めた。
「ま、どうせ選挙とかお前、行く気ねぇだろ?」
「ないなぁ。……なあレイア、どの人が好き? ポケモンでもいいけど」
セッカはポスターをまじまじと眺めていた。旅の中でこのようなポスターは幾度も見てきたはずだが、改めてじっくりと眺めてみると、なかなかうまく撮られたいい写真ばかりである。
「なんか、鳥ポケモンとか格闘タイプとか多くね?」
「タイプやポケモンごとのイメージってのがあるからな。知的な奴はエスパータイプ、行動力が取り柄の奴は格闘タイプ、爽やかなイメージの若手は飛行タイプ、ぶっちゃけ顔で売ってる女はフェアリータイプ、ベテランだとドラゴンタイプとかな……」
「へえ」
「逆に、悪タイプとか毒タイプとかゴーストタイプとかと一緒に写ってる奴はいねぇだろ」
「確かに、怖い感じするしな」
セッカはレイアの講義を聞きながら、ポスターを順に眺めていった。
そして、一つの与党のポスターに目を留めた。
「あ、この人、美人だわ」
「あ?」
「これこれ。ロズレイドとシュシュプ連れてる、このお姉さん」
セッカはソファから立ち上がり、そのポスターを指し示した。
茶髪を短く切り、眼鏡をかけた、真面目そうながら美人の女性だった。真っ赤な口紅、大ぶりの金色のイヤリング。
見事なロズレイドと背中合わせに、凛々しい立ち姿だった。さりげなくシュシュプを伴っている。
レイアはそのポスターを見て、一言評した。
「貴族趣味だな」
「ほげぇ?」
セッカは間抜けな声を出した。レイアが肩を竦める。
「ロズレイドとか、光の石なんてどんだけ貴重だと……。極めつけはこのシュシュプだ。シュシュプだぞお前。いったいいつの貴族だっての……」
そう呆れたように言い捨てる。
しかしセッカには光の石の貴重さも、シュシュプを連れていることの意味も分からなかった。分からなかったが、片割れには同調してうんうんと頷いておいた。
そうしたら、セッカはレイアにデコピンをお見舞いされた。
「分かったふりすんな」
「むぎゅう」
「確かに美人だが、俺は気に入らねぇ。……ローザ、っつーのか……」
「れーやが美人を嫌うなんて、超珍しい! あ、でもそのくせ名前を確認してるってことは、やっぱ気になってるわけ?」
「うっせ黙れこの」
「むみぃ!」
レイアはセッカの頭をぐりぐりした。
セッカは笑顔でえへえへ言っていた。
そのまま二人はポケモンセンターで昼食をとり、東の22番道路、デトルネ通りに向かう。
ヒトカゲとピカチュウはハクダンシティまでの道中で遊び疲れ、今やそれぞれの相棒にくっついて、二人の移動するままに任せていた。
レイアは小さなイーブイ二匹を出し、草むらの野生のポケモンたちと戦わせた。尻尾を振ってから体当たり、という単調なバトルを何度も繰り返し、やがてイーブイたちが砂かけの技を習得したところでレイアは二匹をボールに戻して休息をとらせる。
ここ22番道路は、新人トレーナーの修行場でもある。チャンピオンロードから下山してきたベテラントレーナーやエリートトレーナーとの交流の機会もあって、そうした先輩トレーナーから様々なことを教わりつつ、新人トレーナー同士で腕を磨き合い、そうしていずれはハクダンジムに挑むことになるのだ。
四つ子もかつてはこの道を通った。
四つ子は独学ながら、旅立つ前にポケモンの鍛え方についてある程度の準備はしていた。そのためこのハクダン周辺で世話になった期間は短かったが、ひたすら自分と同じような新人トレーナーとのバトルに明け暮れ、金銭のやりくりに窮したかつての日々は懐かしく思い出される。
そうしてチャンピオンロードへとつながる、バッジチェックゲートにレイアとセッカが差し掛かったところだった。かの場所を守るエリートトレーナーが二人を呼び止めた。
「待て。今は通行止めだ」
「バッジなら八つあるっつの……通せよ」
ヒトカゲを脇に抱えたレイアが、エリートトレーナーを睨んで低く唸る。そしてバッジを一つしか所持していないセッカも、片割れに便乗してうんうんと頷いた。
しかしそのエリートトレーナーは慌てたように両手を振り、弁明した。
「……い、いや、だめだ、21番道路のデルニエ通りは今、落石で道が塞がれているんだ。ポケモン協会の方が今、ホルードで岩の撤去作業中だ」
「ポケモン協会? またおっさんかな?」
ピカチュウを肩に乗せたセッカが呑気に首を傾げる。レイアが首を振った。
「いや、ねぇだろ。おっさんもルシェドウもホルードは持ってな…………あ」
レイアが21番道路方面を見つめたまま、硬直した。その脇に抱えられたヒトカゲがもぞもぞと動き、そちらを見ようと足掻く。
セッカは肩の上のピカチュウごと、びくりと肩を跳ねさせた。
「ぴゃあ。しゃくやは、いません!」
「尋ねておらぬ。……そのルシェドウだかロフェッカだかも、ここにはおらぬ」
「こっちこそ、なんにも、訊いてねぇがな」
レイアは苦々しげに吐き捨てた。
セッカも心なしかびくびくしつつ、レイアの陰に隠れる。
黒衣に身を包んだ、黒髪のモチヅキが、相変わらずの仏頂面で二人を見下ろしていた。
モチヅキは無言である。
レイアはますます顔を顰めた。
「……どーも、フウジョタウン以来じゃねぇですか」
「左様」
「……サクヤなら、フウジョタウン行ったぞ」
「何故」
「……あ――ああああああうっぜぇ! やっぱうぜぇわこいつ! グレイシアだよ! イーブイを進化させるために凍り付いた岩探しに、モチヅキ様の可愛い可愛いサクヤちゃんはフロストケイブに行きました! 以上!」
「また、フロストケイブ、だと?」
モチヅキが剣呑に目を細める。
レイアは赤いピアスをちりちり鳴らしながら怒鳴った。
「あーそうですよ止めませんでしたよ! なあ、あいつもガキじゃねぇんだよ! しかも今はキョウキも一緒ですしぃ! モチヅキ様様がご心配することはなんもねぇよ!」
「キョウキ、だと?」
その名を聞いたモチヅキは、ますます眉を顰めた。
レイアは大きく溜息をついた。
呆れたように顔を歪め、言い捨てる。
「……あんたさ。キョウキのこと、嫌いだね?」
「あれは特に好かぬ」
モチヅキは鼻を鳴らした。レイアはますます笑った。
「で、サクヤのことは特に好いてらっしゃるってわけだ?」
「そうとは申しておらぬ」
「――申してなかろうが仰ってなかろうが態度でバレバレなんだよ!!」
レイアは喚いた。ああ、と嘆いて頭を抱える。
「マジで何なの。なんでこいつ、会うたんびにますますサクヤのこと好きになってんの? もう結婚すれば!?」
そこにセッカが呑気に口を挟んだ。
「えっ、しゃくやとモチヅキさん、結婚すんの?」
「うるせぇよ黙れよセッカァ! 誰が、あいつを、こんな奴に!」
「れーやってほんとブラコンだよなぁ……」
「そなたら、男兄弟だったのか? 姉妹ではなく?」
「ちょっと黙っててくれませんかねぇ!」
レイアは吼えた。セッカの頭を腕に引っかけ、ぴいぴいと泣き騒ぐセッカを引きずってモチヅキから遠ざかり、バッジチェックゲートの隅に寄る。
「……おいセッカ、お前、もうモチヅキの前でサクヤの話はすんな。キョウキの話もするな」
ヘッドロックを決められているセッカは、呑気に尋ねる。
「なんで?」
「てめぇは本物の馬鹿か! めんどくせぇからに決まってんだろうが! もうやだあいつ、口を開けばサクヤサクヤサクヤ。キョウキに関してはもはや名前を耳にしただけでブチ切れやがる!」
「なんでモチヅキさん、きょっきょのこと嫌いなんすか?」
セッカは能天気に、当のモチヅキにそのまま話題を振った。そしてますますレイアに締め上げられた。
モチヅキは不機嫌そうな表情をそのままに、レイアとセッカを見つめていた。
「あれは性根が腐っている」
「きょっきょはいい奴ですよ。きょっきょの仮面を三回剥がしたら、しゃくやみたいなツンデレになるんですよう!」
「あれは悪意の塊だ」
「違うっす! きょっきょは俺らを守ってくれてんですよ! 俺らが馬鹿だから!」
セッカはぴゃあぴゃあと叫び、キョウキを擁護した。
「きょっきょはそりゃ怖いけど、いい奴なんすよ! 俺ら四つ子は心は一つ! だから、きょっきょのこと、嫌いにならないであげてくださいよぉ……」
「私は、あれに次いで、そなたが気に食わぬ」
モチヅキの不機嫌そうな声音に、セッカは目を見開いた。
「えっ、じゃあモチヅキさん、……しゃくやの次に、れーやのことが好きなんすか!?」
「えっ、マジで!? なんで!? どこをどうしたらそうなんだよ説明しろやモチヅキ!」
モチヅキはひたすら不機嫌そうに二人を見下ろしていた。
レイアとセッカの二人は、モチヅキの趣味趣向についてひどく混乱していた。
「えっ、俺、マジで分かんねぇ。なんで? モチヅキのやつ、サクヤが好みなら、なんで次点が俺なわけ?」
「頭いいからじゃねぇの? ん、でも、れーやよりきょっきょの方が賢いしなぁ。ていうか、きょっきょはしゃくやより賢いぞ?」
「つまり賢さは基準じゃねぇんだ。……なんだ? 電波なとこか? モチヅキはツンデレが好みなのか? ――俺のどこが電波でツンデレだ!」
「いい加減にしろ」
モチヅキはとうとう鼻を鳴らし、一人でハクダンシティの方面に歩いていった。
レイアとセッカは慌ててモチヅキに追いすがった。
「おい待て、てめぇ、俺のどこが好きなんだよ!」
「好いても嫌ってもおらぬ」
モチヅキは振り返らなかった。
ピカチュウを肩に乗せたセッカが鼻息を荒くする。
「マジすか! じゃあモチヅキさん、俺のどこが駄目なんすか!」
「愚かなところだ」
「頭悪いって意味かよ!」
ヒトカゲを抱えたレイアが早足でモチヅキを追いつつ吐き捨てると、セッカはショックを受けた。
「ひどい! じゃあ、なんでモチヅキさんは、きょっきょのことは嫌いなんすか!?」
「下衆な点が」
「だから、きょっきょは下衆じゃないもんっ」
セッカは涙目になりつつも、早足のモチヅキを追いかける。
レイアが息を切らしながら、最後に尋ねた。
「じゃあ、サクヤの、どこがいいんだよ!?」
「素直なところが」
モチヅキは素直に返答した。
レイアとセッカは、立ち止まった。デトルネ通りに立ち尽くした。
モチヅキは凄まじい早足で、ハクダンシティに入っていった。二人はその後姿を見つめていた。
モチヅキの姿が見えなくなった。
レイアとセッカは視線を交わした。
「誘導尋問」
「――大成功!」
そして二人はげらげら笑い出した。ヒトカゲとピカチュウは不思議そうにしている。
「ぎゃっははははサクヤが素直だぁ? サクヤが素直なのはてめぇに対してだけじゃねぇよ!」
「サクヤなんてツンデレすぎて、ツンツンしてる時点で俺らにとっちゃデレも同然だもんな!」
レイアとセッカはハイタッチする。とても仲良しである。
「もうさ、今度あいつに会ったらサクヤの物真似してやろうぜ」
「そうしよそうしよ。よっしゃ、モチヅキさん捜そう、れーや!」
「行くかセッカ!」
そして二人は意気揚々と、ハクダンシティに舞い戻った。
一朝一夕 上
ミアレシティ南東にのびる4番道路は、パルテール街道とも呼ばれる。
平らな石畳、丁寧に刈り込まれた生垣、そして黄赤の花々が咲き乱れる花壇のすべてが美しく管理されているこの道路は、カロスの庭園と呼ぶにふさわしい。パールルとタッツーを模したペルルの噴水は清冽な水を湛え、心地よい音を立てて空に虹を架ける。
朝日さす中、庭園の中を散策でもするように、レイアとセッカはのんびりと南東へ向かって歩いていた。いつもは彼らにそれぞれくっついているヒトカゲとピカチュウも、食料集めにいそしむミツハニーやレディバを二匹で追いかけまわして遊んでいる。
のどかな、暖かい日だった。
ところで、大抵の観光客はミアレシティに来ると、この南東の4番道路ではなく南西の5番道路へ向かってしまう。コボクタウンのマナーハウスや、パレの並木道の先にあるパルファム宮殿の観光が特に有名なためだ。
そういうわけで、そのパルファム宮殿の前庭ともいうべきパルテール街道は、多くはミアレシティやハクダンシティの地元の市民によって楽しまれている。それが早朝となればなおさらだった。
朝のパルテール街道に見られるのは、散歩をする人、ランニングをする人、ハクダンシティからミアレシティへ通勤通学をする人。人の流れはやはり、大都市ミアレへ向かう動きが大半だ。
そうした通勤通学の者の流れに逆らって、四つ子の片割れの二人はただただのんびりとハクダンシティを目指す。
セッカがぼやく。
「ここ、すげぇ綺麗だよなー。とても道路とは思えない」
レイアが大きな欠伸をする。
「ふあぁ……観光客誘致のためじゃねぇの……ハクダンシティも頑張るよなー、観光客がみーんなコボクに流れっから」
セッカは、花畑で戯れる数匹のフラベベを目で追っている。
「ハクダン? ここハクダンシティだっけ?」
レイアは雲の切れ間から差した朝日に目を細める。
「絶対ハクダンが管理してるだろ、ここ……。カロスの町ってのはだいたいどこも観光都市だかんなー。町同士で観光客の取り合いになってんだと……」
「うひゃあ。えげつないなー」
「アサメとかメイスイはぶっちゃけ何もねぇけどな、森の向こうだし。ハクダンは街の美化に努めてるが、ジムやスクールもあってトレーナー育成にも力を入れてんな」
レイアは特に何も考えず、友人であるところのポケモン協会員たちからいつの間にか吹き込まれていた知識を片割れに披露する。
「ハクダンはポケモンを始めるのに適してる。ジムリーダーのビオラさんも優しいしな。初心者トレーナーの育成の場になった暁には、トレーナーを標的にして観光アピールしてんだと」
「あー、俺もハクダンは好きだぞ」
「街をトレーナーに気に入ってもらえれば、旅をするトレーナーが旅先やホロキャスターなんかでハクダンを持ち上げる。そうすっと、口コミで観光客が増える」
「なるほど」
「ってわけで、地域振興のためにジムを誘致したがる街は多いらしいぞ」
「うん」
「ま、どんだけ初心者トレーナー集めたところで、そのトレーナーはその直後にコボク方面に行って宮殿とかに感動すっから、結局はそっちに観光客とられんだがな……」
「むなしー」
「観光しか産業のねぇほうが悪いんだよ」
ハクダンシティはトレーナー政策の恩恵を多く受けているのは事実だ。新人トレーナーをターゲットとした人集めに力を入れている街だからである。
しかし、実はそれだけではない。緑豊かで花々の咲き誇るハクダンは、住みやすい街としてミアレで働き学ぶビジネスパーソンや学生たちを惹きつける。ハクダンはトレーナーのための観光地であると同時に、一般人を対象にした閑静な高級住宅地でもあるのだ。
先ほどからの南東から北西への人の流れが、それを物語っている。さらに日が高くなればこのパルテール街道はさらに多くの通勤通学者で埋め尽くされるだろう。
ヒトカゲとピカチュウが、笑いながらトレーナー二人を追い越して走っていく。
レイアとセッカは並んで歩きながら、それをぼんやりと眺めていた。
「セッカお前さ、観光とかしてんの?」
「え。しないし。トレーナー狩りしてるし。れーやはすんの?」
「そりゃ、有名なとこは一応見るけどよ」
「ふーん。どっかオススメある?」
「え……ミアレのプリズムタワーだろ、コボクのショボンヌ城、パルファム宮殿、コウジン水族館、輝きの洞窟……10番道路の列石だろ、セキタイの変な岩、現身の洞窟、シャラのマスタータワーに……メェール牧場、アズール湾に」
「あ、あ、もういいわ。俺、興味ないわ」
セッカは頭の後ろで腕を組み、淡泊に首を振った。話を遮られた赤いピアスのレイアは眉を顰める。
「――んだよ! てめぇが言えっつったんだろうが!」
「いやぁ俺、そういう建物とか自然とか、心底どうでもいいわ……」
「んじゃ、てめぇは何に興味あんだよ!」
「食いもんだなー、やっぱなー」
セッカはのんびりと嘯いた。レイアががっくりと項垂れる。
「……あー、そうだな、お前はそうだったな」
「トキサに奢ってもらったミアレのレストランとか、カフェのクロックムッシュは美味かったなー。ミアレガレットとモーモーミルクも美味かったなー、マジで俺の火傷まで治っちまったしな。あ、シャラサブレも美味かったなー。あー腹減ってきたなー」
などとは言いつつも、二人はミアレのポケモンセンターで朝食を済ませてきたばかりである。昼時まではまだまだ時間があった。
セッカは腹を抱えた。溜息をつく。
「はあ……ひもじいなぁ。外食のし過ぎでお金ないし、しばらくノーマルタイプ用ポケモンフーズ生活かぁ……」
「――てめぇいつもそんなモン食ってんの!?」
レイアが怒鳴る。
セッカはびくりと肩を縮め、レイアを睨んだ。
「うるさいもん! ポケモンフーズはおいしいもん!」
「そういう問題じゃねぇだろ! 人とポケモンじゃ必要な栄養素は違ぇんだぞ!」
片割れ同士の二人は立ち止まり、朝からぎゃんぎゃんと正面から喚き合った。
「でも、きのみだけより、よっぽどマシじゃんか!」
「ああああああ頼むからまともなもんを食え!」
「金ないもん!」
「真面目に稼げ!」
「ばんがってるもん! 外食しすぎてお金ないだけだもん!」
「真面目に金稼いでパンとか肉とか野菜とか食えよ! 進化したブースターの炎で加熱とかできるだろうが!」
「あっそうか。瑪瑙がいるのかぁ」
セッカは能天気にぽんと手を打った。
現在のセッカの手持ちの中には、イーブイを炎の石で進化させたばかりのブースターがいた。セッカにとっては初めての炎タイプである。
レイアはセッカの両肩をしっかと掴み、その顔を覗き込んだ。
「いいかセッカ、炎タイプはものすっごく、便利だ。肉に火を通せる。湯も沸かせる。あったかいもんが食える。寒い日はカイロ代わりになる」
「うん! ばんがる!」
「今までのお前の手持ちって、電気にドラゴンに地面にフェアリーか……ほんと燃費の悪い手持ちだな」
「ブースターの炎タイプは、燃費いいの?」
「――いいわけねぇだろ! いいかセッカ、食費浮かしたけりゃ草タイプだ草タイプ! 草タイプは光と水さえありゃ生き延びる!」
レイアに両肩を掴まれ、そして正面から顔を覗き込まれていたセッカは、瞳を輝かせて大きく頷いた。
「うん! くしゃタイプ!」
「そうだ。草タイプだ」
レイアも片割れをまっすぐに見据えたまま、大きく頷いた。赤いピアスが揺れる。
ゆっくりと、穏やかな声になってセッカに言い聞かせた。
「いいなセッカ、お前のもう一匹のイーブイは、草タイプに進化させるぞ」
「うん! くしゃタイプ!」
「リーフィアなら、ブースターとも相性いいだろ。いいか、俺らは20番道路の迷いの森へ行く。まずハクダンへ行って、東の22番道路、21番道路を通って、エイセツシティだ。いいな?」
「おっけ! くしゃたいぷー!」
セッカは朗らかに笑い、くるりと身を翻してレイアの手から逃れ、南東へとハクダンを目指して走り出した。ピカチュウが元気よく駆け出し、相棒のセッカを追いかける。
レイアはうまく片割れを焚きつけることに成功し、小さく息を吐いていた。観光の話からなぜ草タイプの話に飛んだのかはレイア自身にもよく分からなかったが、ここぞというタイミングを捉えて馬鹿なセッカをうまく扇動する術に、四つ子の片割れたちは長けている。
ヒトカゲがぴょこぴょこと走ってきて、レイアの足元に飛びついた。
レイアも相棒を拾い上げて脇に抱えると、小走りになって片割れを追う。
それから間もなくレイアとセッカの二人はハクダンに到着し、とりもなおさずポケモンセンターに向かった。
ハクダンシティの家々は、緑色の瓦で葺かれている。そしてすべての家の扉や窓は、ことごとく美しい花々で飾られていた。
閑静な高級住宅地である。洒落たカフェも多く、街の中心広場では、ロゼリアを象った噴水がのどかな陽光に煌めいている。
ハクダンシティの南東に、その街のポケモンセンターはあった。
新人トレーナーの多く集まるハクダンのポケモンセンターとあって、センター内には年若いトレーナーや小柄なポケモンの姿が多く見られた。ここまでポケモンセンターの利用者に特徴がみられるのも珍しい。
トレーナーズスクールに通うスクールボーイやスクールガール、高い声の園児たち。そして短パン小僧やミニスカートの姿も多い。いずれもまだ旅に出ておらず、ハクダンでポケモンの基礎を学んでいる最中のトレーナーだ。でなければ、短パンやミニスカートと言った怪我をしやすい格好はしないはずである。
そういった新人トレーナーの中でも異彩を放っているのが、ホープトレーナーの面々だった。
彼らホープトレーナーは、旅を始める前からそのバトルの才能に期待され、金銭や物資を給付されている、いわばエリートトレーナー候補生なのだ。白地に青線の入った制服に身を包んだ彼らは、ポケモンの知識が豊富なのはもちろん、他の新人トレーナーに対してもどこか居丈高である。
ホープトレーナーとして援助を受けられれば、旅の間の金銭面について苦労をすることはほぼない。支給される金銭や物品はおよそ返済の必要がないためだ。国やポケモン協会、そしてエリートトレーナー事務所が総力を挙げてホープトレーナーを支援しているのである。
四つ子も、ホープトレーナーとして認められていたなら、現在のような苦労はなかっただろう。
けれど、ホープトレーナーに認定されるには、ポケモンの専門教育を受けられるような学費の高い学校で、好成績を収める必要があるのだ。金銭の乏しい四つ子は、当然そのような学校には入れない。そこに入学するためにさらに奨学金を得る必要が出てくるが、四つ子の養親のウズも、また小難しい手続きについて四つ子を助けているモチヅキも、四つ子のためにそこまですることはなかった。
そして、四つ子は貧乏な旅暮らしを余儀なくされている。
そのような事情もあり、四つ子はホープトレーナーが大嫌いである。そして、多くホープトレーナーの中から輩出されるエリートトレーナーも、基本的には大嫌いであった――金銭を惜しまず四つ子に食事を奢ってくれた、彼を除いては。
そうしたわけで、レイアとセッカの二人は、ホープトレーナー同士で群れている少年少女を無視しつつ、ポケモンセンターのロビーの一角のソファを占領した。
そしてレイアはモンスターボールからイーブイを二匹、セッカもイーブイとブースターを繰り出した。
セッカはイーブイとブースターを撫で回す。
「瑪瑙は炎タイプになって、あったかいなぁ。翡翠も待ってろよ、すぐに草タイプに進化させちゃうからなー」
「しゅたぁ?」
「ぷいい?」
ブースターと緑のリボンのイーブイは首を傾げている。
レイアは二匹の小さなイーブイを両膝に乗せ、薄色のリボンのイーブイを右手でブラッシングしつつ、桃色のリボンのイーブイには左手でポケじゃらしを操って構ってやる。
「ぷいいー」
「ぷいーっ! ぷいー、ぷいっぷいっぷいっ、ぷやぁぁー!」
薄色のリボンの真珠はうっとりと目を閉じ、一方で桃色のリボンの珊瑚は興奮してソファの上を走り回る。こうすることにより、真珠を“懐かせ”、珊瑚と“仲良くなる”ことが可能になるらしい。ちなみにレイアに『懐き』と『仲良し』の違いはさっぱり分からない。分からないが、カロスを代表するポケモン博士であるプラターヌ博士の直々の教えには素直に従うほかない。
「……もう既に、つーか生まれた時から、懐いてるし仲良しなんだと思うがな……。真珠はそろそろバトルに日中だけ出すか……。で、珊瑚もフェアリータイプの技を覚えるまで育てて……いや、それまでにエーフィかブラッキーに進化しちまったら困るから……あー」
レイアは右手でイーブイを撫で回し左手でイーブイに構いつつ、一人でしばらくぶつぶつと呟いた末に、両手を止めて自分の荷袋の中を漁り出した。
セッカが声をかける。
「れーや? 何やってんの?」
「……『懐き』と『仲良し』は違う…………エーフィに進化させたい奴には道具を使って、ただし漢方薬は与えないように気を付ける……」
そのように、カロスの誇る大女優にしてカロスリーグの現チャンピオンであるカルネの直々の教えをレイアは復唱した。
そして、ミアレの漢方薬局で買ったばかりの力の根っこを取り出し、その端を小さくちぎった。
漢方薬を知らないレイアのイーブイたちは、力の根っこに興味津々である。
レイアは桃色のリボンのイーブイを見下ろした。
「珊瑚、口を開けな」
「ぷや?」
信頼するおやに言われて、いとけないイーブイは、その小さな愛らしい口を開いた。
レイアはすかさず、桃色のリボンのイーブイの小さい口の中に、力の根っこの欠片を押し込んだ。
たいへん苦い漢方薬を飲み込まされ、泣きながら悶絶するイーブイを、レイアはひたすら抱きしめていた。
「許せ珊瑚……お前が俺に懐かなくなったとしても、俺とお前は仲良しだ……っ!」
「ぷううう、ぷううううー……っ」
「れーや、ひでぇー」
セッカがけらけらと笑っていた。
白い制服のホープトレーナーの群れは、そうしたレイアとセッカのイーブイたちとのやり取りや奮闘を、ときに面白がりときに批評しつつ、楽しげに眺めていた。そしてそれぞれホロキャスターを出しては、しきりに何かを入力している。
ポケモンバトルを他人に見られることに慣れっこのレイアとセッカは、彼らホープトレーナーの視線をひたすら無視した。
更には機械のことなど何もわからないから、ホープトレーナー達がホロキャスターを使って何をしているかなど、レイアとセッカの知ったことではなかった。
バトルコートの片側、白線の外に立った悠斗は奥歯を強く噛み締めた。
右手に握ったボールに、無機質な電子音を立てて戦闘不能となったマリルリが吸い込まれていく。対峙するトレーナー、064事務所所属の中年男性もまた、倒れたポケモンを同じようにボールへ戻した。
これでお互い残されたポケモンは一匹だけ。悠斗の繰り出したマリルリは相手トレーナーのエレザードの十万ボルトにあえなく沈み、次に突撃したシャンデラの猛攻はエレザードを制し、次鋒のオーロットをも破ったかに思えたが、その直前にオーロットが発動していたみちづれで共倒れした。三対三で両者共々二匹を失うという、観客側からすれば最高に盛り上がる展開に、二人のマネージャーや、すでにバトルを終えた他のトレーナーたちは固唾を飲んで見守っている。
「行ってこい、メカブ!」
その、緊張感を少なからず含んだ空気の中、相手トレーナーが野太い掛け声と共に残り一つのボールを振り投げた。
球体の放つ赤い閃光が描いたのは、ガタイの良いそのトレーナーよりも少し大きい、丸みを帯びた竜の姿だった。可憐とも言えるパステルカラーの紫に彩られた体躯と、くりくりと愛嬌の溢れる緑の瞳。コートに降り立ったその竜は、主人に呼ばれたのが嬉しくてたまらないという風に、短い前足を天井へと向けて喜んだ。
「ヌメルゴン……」
人好きのする笑顔を、トレーナーにも悠斗にも周りの者達にも、惜しみなく振りまいている紫の竜を見て、悠斗はその名を呟いた。ヌメルゴンについては、森田のレクチャーを受けた覚えがある。見ての通り人間が好きな種族で、全体的に穏やかであるため他のポケモンに対しても優しく接するという傾向にはあるものの、その気性とは相反するかなりのレベルの強さを持っている、という内容だ。手懐けるのも他のドラゴンタイプに比べて難しくは無いために、多くのトレーナーが使ってくるだろうから気をつけろ、と森田は言い含めた。
種族の性質故にトレーナーへの忠誠心も厚く、もし繰り出されたら厳しい相手。せめてマリルリが残っていれば良かったのだろうけれど、あいにくそれは無理な話だ。
険しい顔で腕組みする相手トレーナーと、にこにこ笑顔で尻尾を振っているヌメルゴンを前にして、悠斗はボールを握る手に力を込める。タイプ相性からして、決して有利とは言えない状況。しかしそれは相手も同じことで、つまりは不利というわけではない。
「頑張ろう、ヒノキ!」
どうなるかはここから次第だ。そう自分に言い聞かせ、悠斗はモンスターボールを天へと投げる。それを突き破るかのような勢いで現れたボーマンダは、威勢の良い咆哮をあげながら、広いコートをぐるりと旋回してみせた。まだバトルをやっている、他のトレーナーやポケモン達が何事かと顔を引きつらせて視線を上に向ける。
ようやく悠斗の前に戻り、紅の翼で風を生み出しているボーマンダに、相手トレーナーは苦々しい顔を作った。恐らくそれは、悠斗と同じ心境ゆえのものだ。ドラゴンタイプとドラゴンタイプ、お互いに効果抜群となるタイプ同士で、勝負の行方は今ひとつ予想しづらい。悠斗達を取り囲む観客も、難しい顔でコートの中を見る。
「メカブ、りゅうのはどう!」
先手必勝、とばかりに火蓋を切ったのはヌメルゴンのトレーナーだった。
主の指示に瞬時に応え、ヌメルゴンは柔らかそうな口を大きく開けた。鋭い呼吸音がして、次の刹那にそこから現れたのは炎とも水ともつかない光の塊である。質量を帯びたその波動は、瞬く間に広がってボーマンダへと迫っていった。
「避けろ、ヒノキ!」
が、ボーマンダも負けていない。持ち前の素早さと瞬発力で、放たれた攻撃を見事に回避してみせたおお、とギャラリーの一人が感心したような声を出す。
「次は当てろ、もう一回だ!」「何度でもかわせ! 右! 次は上!」各々のトレーナーの指示に合わせ、二匹の竜は絶えず動く。一時の間も置かずに繰り広げられる戦いに、コート外の森田は隣の者に気づかれない程度に口許を緩めた。この数日間、泰生さながらの真剣さでトレーニングに取り組んだ成果は確実に、今の悠斗に現れている。前二匹のバトルの時にも感じられたが、戦闘の流れを感覚で掴めるようになっているのだ。
心からバトルが好きで、強くなりたいと願う者でもなかなか身につかないその技術を、まともにポケモンと関わったことも無い悠斗がこうも短時間で会得してしまったのは、やはり泰生の子だからと言うべきか。世間一般では『才能』と呼ばれるのだろうものの現れに、森田は少々複雑な気持ちにならざるを得なかったが、トレーニング中の彼の態度を思い出して心中で苦笑する。本気で、真摯に、まっすぐに向かったからという理由がたぶん一番大きいのだ。彼のうたう歌や作る曲が素晴らしいのと、きっと同じことなのだろう。
「うろちょろしやがって……メカブ! もっと広範囲狙え!」
「飛んでかわして、じしん!」
そんな森田の思考を現実へと戻すように、悠斗は鋭くそう告げた。何発目かのりゅうのはどうを避けたボーマンダが、空中で方向を変えたかと思うと床に向かって急降下する。ハッとして構えの体勢をとったヌメルゴンだが、その予想に反してボーマンダは、全く別の場所へと突き刺さるようにぶつかった。
「ッ……メカブッ!」
その震動がヌメルゴンの全身を襲う。足をもつれさせ、よろめくヌメルゴンが思わず目を瞑るのを上空から眺め、ボーマンダは得意気に羽を動かした。
ダメージを先に与えられたことで、悠斗は僅かに笑みを浮かべる。ふらふらとバランスを立て直すヌメルゴンと「メカブ、しっかりしろ!」と声をかけるトレーナーは対照的に悔しげな表情になりそうだったがしかし、揃って口許をにっと歪ませた。それに気づいた悠斗が、怪訝に思って眉根に皺を寄せる。
「よし、メカブ……上に向かってヘドロウェーブだ!」
「ヒノキ、かわしてもう一発じしん!」
体勢を立て直したヌメルゴンが、今度は毒々しい紫色をした液体を噴射する。ボーマンダは先程と同じように翼を広げてそれを避け――――られなかった。
「ヒノキ!?」
思わず声をあげた悠斗の頭上で、ボーマンダに紫の毒液が激突する。悲痛な叫び声をあげて床に墜落した彼女は、長い牙の覗く口許から呻きを漏らした。どく状態。みるみるうちに悪くなっていく顔色が、そのことを如実に表していた。
どうして、と悠斗が呆然と呟く。どうして、さっきと同じように避けられなかったのだ、と。
「あ、『ぬめぬめ』……」
思わぬ形勢逆転に、呆気にとられていた森田がそんな言葉を口にする。歯噛みする彼の隣で、相手トレーナーのマネージャーが森田を横目に薄く笑った。
ぬめぬめ、ヌメルゴンの特性とされるそれは、全身を覆う粘液を、接触してきた敵に付着させるというものだ。粘液が付いてしまうと身体が滑って動きづらくなり、本来のスピードを出せなくなってしまう他、不快感によって集中力を失うこともある。
その手法に、まさにボーマンダが今ひっかかった。加えて毒を負ったことで、旋風のような鋭い動きに鈍りが生まれていく。「慌てるな、そらをとぶ!」焦りを抑えた悠斗の声に、ボーマンダはどうにか体勢を整え高く飛ぶ。その勢いで衝突されたヌメルゴンは、確かに顔を痛みに歪めこそしたけれど、さしたるダメージは負っていないように見えた。むしろ、衝突時のぬめりによって受け流されたことでボーマンダの方が遠くへぶっ飛ぶ羽目になり、低く唸って床を舐めている。「今のうちだメカブ、十万ボルト!」相手トレーナーの声と共にヌメルゴンが放った強力な電流が、ボーマンダの翼の先まで痛めつけた。
「ヒノキ!」
「とどめさしてやれ! メカブ! りゅうせいぐん!!」
全身に走る痺れに、ボーマンダは四肢を投げ出してのたうち回る。それでも悠斗の声を聞き、残った力を振り絞って彼女はどうにか翼を操った。青い巨躯が床を離れ、まだ戦えるというようにヌメルゴンを睨みつける。が、相手トレーナーの言葉は無慈悲な宣告となってコートを震わせた。
床につくかつかないかという低さに浮かび、両翼を重そうに動かすボーマンダを、ヌメルゴンが丸い瞳で見下ろす。にっこりというその笑顔からは、愛嬌と、同じくらいの殺意が滲み出されていた。
紫色の両手と緑色の両眼が天を仰ぐ。低重音を響かせながら、天井付近の空中に隕石が生み出される。紅や蒼の閃光を纏ったその岩達は、険しい肌を露わにして空気を割る音を立てる。
「やっちまえ、メカブ――」主の声を合図にして、ヌメルゴンが目を鋭く光らせた。二本の角が力を誇示するように長く伸び、天へ向かって聳え立つ。高らかな鳴き声が空間をつんざいて、その全身から粘り気のある汗が飛んだ。
「…………ヒノキッ!」
ぐらりと揺れて、自身の方へと落下を始めた隕石に、ボーマンダが目を閉じる。当たればひとたまりも無いだろうその一撃がしかし、始まるか始まらないかのところで、悠斗の声が彼女の鼓膜を貫いた。
「大丈夫だ! ……りゅうのまい!!」
ヌメルゴンのそれより何倍もよく響いたその声が聞こえるなり、ボーマンダの目に力が再度宿る。
「舞って避けろ!!」
悠斗が叫ぶ。ボーマンダが慟哭する。その気迫に押されたのはヌメルゴンとトレーナーだけじゃない、宙から落ちる隕石達も同じに見えた。
ボーマンダの翼が大きくしなり、ここに無いはずの風を切って動き出す。確かに彼女を押し潰すはずだったのだろう隕石を、奇跡的なタイミングで次々と避けてはそのたびに、彼女の纏う闘気や熱気は増しているようだった。失われていた勢いが取り戻され、床を撃つだけに終わった岩々の落下音をボーマンダの雄叫びがかき消していく。
悔しさに顔を歪めたヌメルゴンが、負けてられないとばかりに新たな隕石を呼び出しては落とす。しかし「何度でも避けろ!」繰り返されるりゅうのまいは、その全てを華麗に避けては無駄撃ちと化していき、ボーマンダの闘志とヌメルゴンの苛立ちだけがひたすらに積もるだけだった。
「っそ……! びびるなメカブ、りゅうのはどうだ!」
「空を飛べ!」
焦燥感の滲む声で、相手トレーナーが指示を出す。間髪置かず、熱量のある波動がヌメルゴンから放たれる。
しかしそれをものともせずに発された悠斗の声に、ボーマンダは天井高く飛翔した。繰り返しのりゅうせいぐんによって精度を失ったヌメルゴンの攻撃は、いとも容易くかわされる。不甲斐なさと怒りからであろうか、可愛らしい顔がサザンドラのそれよりも恐ろしいものに変わる。
「げきりん!!」
そしてその顔は、一気に恐怖に彩られた。
頭上から突進してくるボーマンダは、戦闘当初よりもその速さを増していた。あまりの気迫にヌメルゴンの全身が引きつり、次の行動をとれなくなる。皮膚から、翼から、腕から、瞳から。身体中から立ち昇る、『お前に勝つ』という意志は凄まじいくらいの強さを持って、ヌメルゴンの闘志など呆気なく凌駕する。愛くるしい丸顔を、縮こまってしまった角を、大きく膨らんだ腹部を長く弾力のある尻尾を短い足を、その全てをボーマンダは、全体重をかけた打撃で襲った。
「メカブっ…………」
「畳み掛けろ! いける! 俺たちなら勝てる! 一気にいけ、そうだ、大丈夫だ!!」
取り乱され、指示を出しそびれた相手の声を遮って悠斗は言う。ヌメルゴンへ猛攻を連発するボーマンダと、悠斗の呼吸が重なった。
「…………勝つんだ、」
最も大きな叫び声をあげたボーマンダが、最大限の力で以て両翼を動かす。それと同時に丸太のような両腕がヌメルゴンを抱え上げ、彼女はそのまま高く飛び上がった。
床から引き離されたヌメルゴンが、顔を青くして抵抗する。その動きが一段と大きくなった瞬間、彼の纏う粘り気がボーマンダの鱗に滑ったその時に、ボーマンダはあっさりと、紫の巨体を手放した。
慌ててしがみつこうにも、互いを隔てるぬめりが働いて何もできない。支えを失ったヌメルゴンは、突然の解放に対応しきれず落下する。受身も何も取れていない姿勢のまま、彼の姿は床へと叩きつけられる。
「ヒノキ!!」
その衝撃と同時に、ボーマンダが最後の攻撃を叩き込んだ。逆鱗。竜族の怒りが物理的な力を帯びて、同じ竜へと打ち込まれる。耳を殴り殺すような轟音と、視界を覆う粉塵に、バトルを見ていた誰もが息を呑んだ。
空気の揺れが無くなって、そこに現れたのは二本の足で立つヌメルゴンと、宙に浮かんでいるボーマンダだった。その、ヌメルゴンがゆっくりと時間をかけて、糸が切れたような動きで倒れ伏す。床にぴったりとくっついた彼は、もう指一本も動かさないようだった。ヌメルゴンのトレーナーが、額を抑えて溜息をつく。
「あ、……勝て、た…………」
その正面、どこか信じられないというように、悠斗は気の抜けた声で呟いた。肩から、越しから、脚から、全身の力が抜けていく。それと入れ替わるようにして込み上げてきたのは言いようの無い達成感と興奮と、そして嬉しさだった。
森田がガッツポーズを作って飛び跳ねて、隣にいた別のマネージャーが驚いたようにビクリと震える。相手トレーナーが肩を竦めながら苦笑して、床に転がって目を回しているヌメルゴンをボールに戻した。「今なら泰さんに勝てると思ったんだけどなぁ」彼はそう口を尖らせながらも、「楽しかったよ」と笑顔を見せる。緊張の糸が解け、拍手などをしているトレーナー達の傍で、一連の様子を見ていたらしい岬がふん、と鼻を鳴らした。
そんな光景をぐるりと見渡して、息を整えていた悠斗に、大きな影が近づいてくる。
「あ、…………」
勝ち星を挙げ、満足そうな顔で悠斗のところへボーマンダが戻ってくる。身体中に傷を作りながらも悠々とした雰囲気を失わず、凱旋を決めた彼女に、悠斗は大きく息を吸ってこう言った。
「ありがとう、ヒノキ……!」
その一言に、ボーマンダは一瞬、ぽかんとしたまま強面を固まらせた。翼の動きが止まり、悠斗の目の前にストンと降り立つ。
と、同時に、彼女はこれ以上無いほど嬉しいのだというような勢いで、全身を使って悠斗に飛びついた。「!?」という感嘆符を頭上に浮かべた悠斗は慌てて受け止めようとするが、あまりの重量と大きさと、そして勢いづいているせいでとても敵わない。
「ちょっ、……ヒノキ! なんだよ、降りてくれ!」
結局、あえなく下敷きになった彼が森田などに救出されるまでボーマンダはずっと、溢れんばかりの笑顔で悠斗にひっついて離れなかったのである。「泰さんがあんな風にされてるのも珍しいなぁ」「ですねぇ」青い腹の下から引っ張り出され、息を切らす悠斗を横目に、相手トレーナーは彼のマネージャーとそんな会話を交わした。
◆
「もうすぐかぁ」
学内ライブ当日――タマムシ大学中庭にセットされた、簡易ステージの裏から客席の様子に視線をやって、芦田がそわそわした調子で呟いた。
今現在、ステージ上で演奏しているのはベース二本というなかなか珍しいスタイルを取り入れた、五人組のサークル員達だ。ギターとドラムとシンセサイザーを担当する学生がむしろ裏方となり、メインに据えられたダブルベースが見事なスラッピングを交互に披露する。まるでバトルにも思える奏法の応酬に、集まった学生達は盛り上がりを見せていた。
「いつもと違う組み合わせだから、みんなはっちゃけてるなぁ」苦笑し、芦田が背後の泰生を振り向く。その横で、彼のポワルンが同意するように頷いた。あいも変わらず、どういうことだか常時あめバージョンの姿をした彼だったが、芦田を応援しているらしいその顔は晴れやかである。「僕たちもあのくらいの勢いでいこうね」熱意を表すように両手を握りしめた彼は、気合い十分という風に泰生へと笑いかけた。
「……そんな曲でも、無いでしょう」
一方、冷静沈着を絵に描いたような図になっている泰生は、芦田の言葉にそう返した。「そりゃあそうだけどさぁ」あっさり流された芦田はむくれ、拗ねたようなことを言い出す。「そりゃあ、まぁ、そういう曲だけどさ」
選んだのはあんただろ、口を尖らせる芦田にそう言いたくなったところで、泰生は一つの疑問を頭に浮かべた。自分と彼の会話、また彼について富田から聞いた話などを振り返り、泰生はその問いを口にする。
「俺以外にも、色んな人の曲選んだりしてるらしいけど」
「え? うん、そうだけど。羽沢君もそれは知ってるでしょ」
いや知らない、と返しかけた泰生はギリギリのところでその言葉を飲み込んだ。「そうでしたね」誤魔化すように、ぎこちなく笑った彼に芦田は怪訝そうな顔をして首を傾ける。芦田がこれ以上何かを不審がらないよう、泰生はさっさと本題に入ってしまうことにした。
「どうやって、そういうの選んでるんですか」思ったことをそのまま彼は聞く。「その人に何が合うか、とか」羽沢君はこれが似合ってるよ、などというようにして、芦田はそれぞれの個性を見極めコメントしていた。その姿を見ていた泰生からすると、どんな基準を以て選んでいるのかよくわからなかったのだ。他人にあまり興味を持たず、そんなことの出来そうにない泰生だから、尚更。
「うーん……? そうだなぁ、改めて言われると。なんだかんだ、直感かな」
その人のこと、いつも見てればなんとなくわかってくるもんだよ。だから俺だって初対面の相手に同じことやれって言われたら無理だし。
そう続いた芦田の答えは、なんとも具体性に欠ける、はっきりしないものだった。「いつもの感じとか、好きなこととか、喋り方とか雰囲気とか。そんなのを見てれば、大体」そういったことをずっとやってきた芦田は、特に困難を感じることもなくそんなことを言う。
が、それに泰生が不満を抱くことは無かった。「そうですか」芦田の方を見て、泰生は少しだけ笑みを浮かべる。伴奏者を見上げる、僅かに細くなったその瞳は、どこか懐かしむような色をしていた。
「昔……旅に出た先で、あんたみたいな奴に会ったことがある」
「旅!? は!? えっ!? 羽沢君って旅に出てたの!?」
その色にも、安定しない言葉遣いにも突っ込むよりも先に、芦田は聞き捨てならない情報に目を剥いた。
言うまでも無いことではあるが、羽沢悠斗は大のポケモン嫌いで通っている。その上、それは彼を知る者や本人の証言により、昔からのことだということも広まっているのだ。その羽沢悠斗が、なんと旅に出ていた過去があるとは。「っていうか羽沢君、ポケモン持ってたんだ……」「当たり前だろう」「び、びっくり……ここ数ヶ月で一番驚いてる……」明らかにおかしい発言を真に受けた芦田と、自分の失言に全く気づいていない泰生は、中途半端な意思疎通のまま会話を続ける。
「とにかく……旅先で、よく似た人がいた。トレーナーに会うと、そのポケモンを見ると、すぐに……どうしたら良いか、っていうのがわかるらしいんだ」
泰生がまだ若い頃、トレーナー修行の旅の最中に出会ったその男には、不思議な力が備わっていた。
彼は仕事を引退した老人で、小さな村で妻と娘夫婦と、その子供である孫と共に暮らしていた。彼の生きがいは、そこに訪れる数々のトレーナーとポケモンと会い、話し、心ばかりの助言をするということだった。
その男は少し話を聞くだけで、トレーナーとポケモンの様子を眺めるだけで、彼らの通ってきた道が見えるようだった。それは泰生もまた例外ではなく、老人は当時の彼が抱えていた悩みを言い当ててみせたのだ。
どうしてそんなことが出来るのか、と問うた泰生に、男は穏やかな笑みと共にこう答えた。「わかろうとすれば、自然にわかる」掴み所のないその答えに、泰生は何一つ理解を得ることは出来なかったが、男がそれ以上何かを教えてくれることは無く、ただ、そんな泰生とまだ第二進化系だった三匹を見ているだけだったのだ。
「よくわからないが……その男の答えが、さっきの答えと、似てるような気がした」
「そっかぁ、そんな人もいるんだ」ようやく驚愕(誤解である)が収まってきたらしい芦田は、泰生の話に感心したようにそう言った。「いいよね。旅に行けば、色んなところの色んな人と、色んなポケモンが見れるからね」眼鏡越しの目で、ステージ上のベーシストコンビを見守りながら彼はそう続ける。すぐに、っていうのは無理かもしれないけど。苦く笑い、芦田が泰生へと視線を戻す。「俺も、旅に出たらそんな人になりたいな」
「…………旅は、行かなかったのか?」
芦田の発言に、泰生はそう尋ねる。問われた芦田は「うーん」頬を軽く掻きながら、「そうだね。一回も行ったことないや」今更気づいたかのような物言いをした。
「なんでかと言われると……なんでも、無いんだけどさ。僕、父が転勤族でしょっちゅう転校してたから、あえてどこかに行かなくても色んなところを見れてたし。バトルとかもそこまで興味があったわけじゃないし、あと、子供心に……せっかく旅に出るならお金貯めて、好きなところにいっぱい行く方が楽しいかなって思ってたから」
「…………そんなことを……」
「行きたいとはずっと思ってたけどね。今も。さっき言ったみたいに、色んな人に会って、色んなポケモンにも会って、あとその場所のおいしいもの食べたりさ。色んなものも見たいし。まだまだだけど、バトルももうちょっと強くなりたいし」
でもさ。芦田はそこで、頭上のポワルンに一瞬だけ視線を向けて言った。
「旅に出るよりも、やりたいこととか、したいことがあったんだよ。ちょうどパソコンやり始めたくらいだったし、観たいテレビも聞きたいラジオもあったし、家族といるのも学校に行くのもまぁ楽しかったし。……その頃は嫌だったけど、ピアノ教室に行き続けてたのも、今は良かったな、とも思えるし」
ステージの方から、ギターがラスサビ後の見せ場をバリバリに弾き鳴らす音が響いてくる。「今も同じかな」秋の高い空はあいにくの曇天だったが、ギターソロはまるでそこに轟く急な雷鳴のようだった。「旅にも行きたいけど、大学があるし、サークルは楽しいし、タマムシだけでも知らないことは山ほどあるし」そこに被せるようにして、一年のドラマーがスティックをめちゃくちゃに操っては軽重様々な打撃を繰り返す。「巡君は、旅なんか嫌だって言うだろうしさ」シンセを駆使する学生の指が高速でキーを行き来して、二本のベースが最後の決め技を披露して、ギターの高音がステージ中をつんざいた。「だから、今はいいかなって思うんだ」
「でも、……こうやって、『ここにいよう』って思えるような……そういうのがあるのって、もしかしたら、ものすごいいいことなのかもしれないよね」
あ、終わったみたい。そろそろ行こうか。
拍手と歓声、口笛などの音に振り向いて、芦田が声のトーンを変える。楽しもうね、と言った彼の笑顔に、泰生は僅かな間を置いた後、首肯とともに一歩足を踏み出した。
有原達が下手側へとはけていき、泰生と芦田はそれと入れ替わりで上手から中央へ進む。ステージに現れた羽沢悠斗の姿に彼を知る者達が、観客席(と言っても、数十脚のパイプ椅子以外は立ち見だが)の方で歓声をあげた。手を叩いたり、「悠斗ー!」と名前を叫んでいるのは大学の友人だが、その他にも、どうやらメンバーが演奏する機会らしいとどこからか聞きつけてきたキドアイラクの熱心なファンも数人、目を輝かせながら出迎える。
それなりの盛況を見せる中庭を一望し、泰生はマイクスタンドの前に立つ。芦田は既にキーボードの準備を始めており、あれこれとボタンを押したり音を確かめたりと忙しい。そちらを一瞥し、泰生もマイクを手に持ちスイッチを入れる。その辺りの度胸は泰生個人の元々の人格と、ニュース番組やらトレーナーイベントやらへの出演を重ねたことでなんら問題無いようだ。
「こんにちは、今日は来てくださってありがとうございます」
少しも緊張した様子を見せず、泰生は客席に向かって喋りだす。マイクを通してもノイズに負けず、よく響くその声に何人かがどよめき立った。
それにも動じず、泰生が続ける。
「今日はいつもと違って、ピアノに合わせて歌います。短い時間ですが、楽しんでいってください」
それだけ言い、泰生はマイクをスタンドへ戻してしまった。客席にいる者達が視線を交わして囁き合う。普段の羽沢悠斗はMCもウリの一つであり、その場その場に合った挨拶を日毎にこなすのが当たり前なのだ。こんなにもシンプルで、お世辞にも気が利いているとは言えないコメントは今までに無かったかもしれない。まだ続きがあるのではないか、そう感じた客達はその意を込めてステージを見たが、やはりそれ以上、彼が何かを言う様子は無かった。
ざわめきを他所に、泰生は軽く呼吸を繰り返す。準備を終えた芦田が泰生へと目配せし、人差し指で白鍵をそっと押さえた。音程を確かめるその一音に、数秒の間を置いて泰生は頷く。
「もう始めるの?」「今日の羽沢なんか静かだな」「いつもあんなもんじゃない?」「いつも何見てるん……」完全にMCが終わったことを示すその行動に、客席でそんな言葉が交わされた。
が、それは、次の瞬間には少しも残らず掻き消えていた。
ステージを超え、中庭に響いた歌声。
キーボードの音を伴わない、男声のアカペラは高く、伸びやかに、それでいて重く確かな芯を持ち、泰生を中心に広がっていく。客席の誰かが、声にはならなかった悲鳴をあげたらしく、短く息を吐いた音がした。
少し遅れて入ってきた芦田の伴奏が、零れ落ちる水滴のように鳴り響き始める。それと絡み合い、冷たい風さえも自らの音楽に取り込んで、泰生は歌っていた。
ステージ上から響く歌は、何十年前かに流行った歌謡曲のカバーである。自分の人生を振り返り、深い後悔に沈んでいく、そんな歌詞。およそそこらの若者になど、二十年そこそこ生きただけの者になど歌いこなせるはずの無いだろうその歌を、羽沢悠斗は恐ろしいくらいに自分のものにしてみせた。羽沢悠斗のはずなのに、羽沢悠斗ではないみたい。ある種、曲に入り込んでいるどころではないほどの彼の気迫に、ステージ脇から見ていたサークル員は、何かが取り憑いているようだという感想を抱いた。
切なく、哀しく、どうしようもなく愛おしい歌声。伸びる高音が僅かに掠れたその刹那、彼があまりに儚い存在に思えてしまって、客の一人は無意識のうちに自分の胸を掴んでいた。
そんな泰生の背中へ視線を向けて、芦田は数日前のことを思い出す。鍵盤をなぞる指の動きは止めないまま、彼はあの時の羽沢悠斗を脳裏に呼び戻した。自分が間違っていたのだと頭を下げた後、一つお願いがあるのだと言ってきた彼の『お願い』を。
『曲を選び直してほしい』
羽沢悠斗が芦田に頼んだのは、ライブで歌う曲の再選だった。
初め、ただでさえ残された日数が少ないのに曲を変えるなど、これ以上負担を増やしてどうするのかと芦田は戸惑わざるを得なかった。が、そう言った羽沢悠斗の真剣な目と揺るぎない態度、いつになく強さを帯びている彼の声に、芦田の内心は大きく傾いた。本来羽沢悠斗が歌う予定である曲が、彼の心中で鳴り始める。
『今の俺が、一番、期待を超えられるような曲を選んでほしい』
凛とした彼の声がそう告げた瞬間、芦田の心中に流れていた本来の曲は既にストップしてしまい、代わりに流れ出したのは今の羽沢悠斗に見合いそうな新たな候補曲達だった。
あの時、彼がああ言ってくれて良かった。
芦田は心からそう感じると同時に、自分の選曲にも満足感を抱く。急な申し出だから慌てたけれども、この曲を選んで、羽沢悠斗に歌わせることに決めた数日前の自分に彼は深く感謝した。元々歌うつもりだったアップテンポの明るい曲でも、羽沢悠斗は難なく歌いこなしたであろうが、今の彼には間違いなくこっちの方が向いている。雰囲気、歌い方、纏うオーラ、その全てがものすごく急激な変化を遂げて芦田は焦らずにいられなかったが、それが逆に功を奏して、他の若者にはそうそう歌えないであろうこの歌をここまで魅力的に歌い上げているのだから。
ちなみに、この古い歌謡曲は母の影響で芦田が好んでよく聴くものであったが……今の羽沢悠斗にある人格を完全に見極めた選曲であるのに加え、泰生がちょうど悠斗の年齢だった頃に流行った曲だということを考えると、それを選び抜いた芦田の『直感』はいよいよ恐ろしい。が、そのことに思い当たる者は芦田本人を含め誰もおらず、ただただ羽沢悠斗の歌声に皆は魅了されるのみだった。
悔恨に打ちひしがれ、嘆くような歌声が観客達を包み込む。まるで慟哭の如きその響きは、言い表せないほどの哀愁と狂おしいほどの愛慕を伴って、今この場にいる誰もの心臓を強く掴んで離さなかった。
三回目のサビが過ぎ去って、曲の終わりを飾る長い長い高音が曇り空の果てまで昇っていく。その裏で白鍵と黒鍵をとめどなく連打する芦田が泰生を見遣り、こめかみに冷たい汗を伝わせた。怒涛のような打鍵の音が、皆の鼓膜を揺さぶっていく。
キーボードの音と共に、空の向こうに溶けるようにして、泰生の声が甘く消えた。無音になった中庭は世界の全てに取り残されたように静まり返り――そして、溢れるほどの拍手に満ちた。
食い入るように自分を見つめ、手を叩いている者でいっぱいになった客席を、泰生はまっすぐに見返した。空いた口を塞がない者、何度も繰り返し頷いている者。圧倒され、自分の頬が濡れていることにも気づいていない者。その全てに、深く深く頭を下げて、泰生はもう一度彼らを見渡した。
「楽しかったよ」
ステージの裏に引っ込むなり、芦田が悠斗にそう言った。「本当に、楽しかった」
「いえ……こちらこそ、」
言葉を返した泰生に、芦田は微笑んで片手を差し出した。未だ鳴り止まない拍手が、鉄骨で組まれたステージの向こうから聞こえてくる。
「君の伴奏を出来たことを、本当に幸せに思う」伸ばされた手をとった泰生に、芦田は深く礼をした。泰生の手を握る大きな右手に力がこもる。眼鏡越しの二つの瞳が、少なからず潤んでいた。
「あんな素敵な歌の、あのステージに君といれて良かった。羽沢くん。とても楽しかった、本当に、ありがとう……」
と、芦田がそこまで言ったところで、「芦田ぁー」と機材の置いてある方から彼を呼ぶ声がした。泰生達を包んでいた、得体の知れない余韻が一挙に霧散する。「わりー、ちょっと来てくれ」とヘルプを求めるその声に今行くよ、と答えてから「ごめん、ちょっと行ってくるよ」と申し訳無さそうな顔をして、芦田は小走りで去っていく。頷いた泰生は彼を見送り、富田のところに行くべきかと考え客席へと歩き出した。
「あの、悠斗くん」
と、そこで、泰生を一人の女子が呼び止めた。
泰生の知るところでは無いが、彼女は悠斗と同じ学部学科の学生であり、ゼミも一緒のところに所属している友人である。サークルは異なるものの音楽好きだということで、キドアイラクの出番があると頻繁に足を運んでくれる子だ。パーマをかけたふわふわの茶髪、白のポンチョに合わせた焦げ茶色のフレアスカートと、優しげな印象同様おだやかなせいかくである。
そんな彼女は、泰生を前にして何やらもじもじとした態度をとっている。なんかエルフーンに似てるな、と、なんでわざわざ舞台裏まで来たんだろう、などという思いを頭に浮かべた泰生は、女子学生が何を言い出すのか黙って待った。言いたいことがあるならさっさと言えばいいのに、などと色々ぶち壊しなことも思っていた。
「あ、あの、悠斗くん」
何やら今までに無く偉そうなオーラを放っている羽沢悠斗に若干気後れしていたものの、とうとう彼女は口を開く。ステージを作る鉄骨を背にした彼女は、頬を紅潮させて「あのね、もしも今度のオーディションで悠斗くんたちが優勝したら」熱を帯びた声で、泰生をじっと見つめて言った。「私と、デートしてくれない、かな」
「いや、それは無理だ」
「…………!!」
泰生は『妻子がいるし悠斗の身体で勝手なこと出来ないしそもそも今はそんなことしてる場合じゃないし』という意味合いで言ったのだが、当然そんなことが彼女に伝わるはずもなく(伝わったらそれはそれで大問題だが)、単に振られた形になってしまった彼女はいたくショックを受けて表情を固まらせた。無理もない。結構な覚悟を決めて告げた想いを、即答かつきっぱりと退けられたのだから、絶望の一つや二つしてしかるべきだろう。
「そ、そうか……無理なんだ……」女子学生は、明らかに涙混じりになった声で言う。「そうだよね……私なんか……私なんか、悠斗くんは……」柔らかそうなスカートの裾をぎゅっと握りしめ、彼女は声を震わせた。
「やっぱり、悠斗くんは富田くんが一番だよね……みんな言ってるもん、悠斗くんと富田くんはそういう……」
「は? 何言ってるんだ?」
「いつも一緒にいるもんね、悠斗くんが大切なのは富…………え?」
ショックのあまりか、一人突っ走ったことを言い出した彼女が言葉を止めた。濡れた頬を押さえた彼女に、泰生は「あんな奴が一番大切だと!?」と、こちらも一人突っ走って声を荒げる。誤解とはいえ至極ばっさり斬られた上に『あんな奴』呼ばわりされた富田がもしもこの場にいたのならば良かったのだが、あいにく彼は何も知らない。ツッコミを入れられることも止めてもらうことも叶わずに、泰生は今の自分が誰であるのかを忘れているままだった。
「あんな奴じゃなくて、俺が大切なのは……」
「え……? もしかして、彼女がいるとか」
「ポケモンだ!!」
…………泰生は、自分自身のまっすぐな想いを伝えたかったにすぎない。が、女子学生にとってはそうだと受け取れず、また失恋によるショックの混乱もあって、彼女は渦巻いた思考の果てにとんでもない解釈をしてしまった。
「そ、そんな……」女子学生が、ガタガタと震えながら言う。ハブネークに睨まれたミネズミだって、ここまで激しく震えはしないだろう。「そんな、悠斗くんが……」
「悠斗くんが、ポケフィリアだったなんてーーーーーー!!」
そう叫んで、疾走してしまった彼女の背中を眺めながら、泰生は「ぽけふぃりあ、とは何のことだ……?」と純粋な疑問に首を傾げた。ポケモンバトル一筋四十年、どちらかと言わなくても俗世間に疎い彼は、一人ぽつんと取り残されて腕を組む。後で森田に聞いてみようか、などと考えながら。
その後、ポケモン嫌いで有名な羽沢悠斗は実際のところ携帯獣性愛者であるという噂が各所で広まることとなったが、もちろんのこと、泰生が気づくはずもなく、次の演奏者であるサークル員のかき鳴らすギターの音をぼんやり聞くだけの彼がそこにいたのだった。
◆
「富田くん」
一方――自分のあずかり知らぬところで勝手に振られた挙句、親友に特殊性癖疑惑が立っていることなど露知らず、次の演奏を見ていた富田に声をかける者がいた。一年生のギターボーカルが歌う、地下バンドのカバーにリズムを刻んでいる二ノ宮の、ドラムを叩くたびに揺れるアフロから視線を外して後ろを振り向く。
「森田さん」
大きな学者を背にして立っていたのは森田だった。にこにこと片手を上げたその童顔は、ライブを見にきた他の学生達と並んでも何ら不自然ではなく、見事なまでに溶け込んでいると富田は思う。丁寧に着たスーツが少々浮いてはいるものの、就活中だと言えば十人中十人が納得するだろう。
「来てたんですか」学生の群れから少し距離をとり、富田は森田の横まで近づく。「うん」頷いた森田は、間奏のギターソロに苦戦しているボーカルを横目で見遣り、答えた。「聞いてたよ。泰さんの」
「いやあ、さすが悠斗くんの身体はすごいね。歌が好きっていうのは知ってたけど、うん、僕が思ってたよりもずっと」
「………………」
「二人が元に戻ったら、また聴きたいよ。本物の悠斗くんの歌、今度は富田くんもいるバンドで」
そう言った森田に、富田は少し間を置いて「本当に、悠斗だからってだけだと思ってますか」とゆっくり尋ねる。「うん?」その問いに首を傾げた森田は何かを答える代わりに、細めた両目を富田の方から僅かに逸らした。それに富田も微笑で返し、瞳を隠す前髪を風に揺らす。
「この前、ミツキさんに言われたんですけど」沈黙を破り、先に切り出したのは富田だった。
「これは、悠斗と……羽沢さん、二人がどうにかしないと解決しない問題だって」
森田の視線が、無意識的な動きで富田へと移る。数回瞬き、彼は「そうか」また視線を富田から外してしまった。ちょうど晴れてきた雲間から刺し込んだ光で影になり、黒く染まった森田の顔にどんな表情が浮かんでいるか、読み取ることは不可能だ。茶に染めた髪の先を輝かせ、富田は森田の言葉を待つ。
「そうかぁ」
だけど、森田は富田が求めていたような、何か明確な答えを返してくれたわけではなかった。そうかもね。二ノ宮によるキックの音が足元から響いてきて、森田のそんな言葉を掻き消した。そうなんじゃないかな、穏やかな声が富田の鼓膜へ僅かに届く。
期待していた言葉を返してくれなかった森田に、しかし富田は怒る気にはなれなかった。自分も、同じ答えを返すのだろうと思ったのだ。森田の立場で、同じ質問をされたのならば。多分同じことを考えて、昔から同じことを思っていたのだから。あの一歩後ろから常に見ていて、自分も、森田も。
「悠斗くんなんだけどさ」声の調子は変えないまま、森田がそんなことを言う。
「来ないかって誘ったんだけど。行かないって言われちゃったんだ、行きたいけど行けない、って」
なんでだと思う? 逆光になった顔のうち、森田の口元だけが動くのが見えた。
「バトルの練習でしょう」
「うおう、さすがだね。やっぱりわかるもんなんだなぁ、そういうのってあるんだろうなぁ」
森田はけらけらと笑い、「そうだよ」と首を縦に振る。「今、自分は羽沢泰生だから。羽沢泰生のすべきことをしないといけない、ってさ」そう言った森田に、富田は泰生の言葉を思い出す。
彼が芦田に謝った後、どうしていきなりそう決めたのかと尋ねた富田に、泰生は迷わず答えたのだ。悠斗に合う曲を選んだ芦田や、ステージを用意してくれた人たちに報うだけの歌をうたうことは、悠斗のしなくてはならないことだと。そして、今の悠斗は自分だから、それは自分の使命だと。
「森田さん」きっと、悠斗も泰生の顔をして、同じように言ったのだろう。そう思いながら富田は言う。「悠斗が、歌が好きな理由は」
何か言うのに、一番いいじゃん。
どうして歌が好きなのか、と尋ねた富田に、まだ中学生だった頃の悠斗はそう答えた。
『言葉だけでも、別に出来るけど。曲だけでも、インストとか、出来ると思うけど。でも、その両方があればさぁ』少しも飾った様子の無い、まっすぐな声だった。心の奥からそのまま出てきたようなその声は、きっと今まで一度も変わっていないのであろう、彼の信じるもの、そのものなのだろうと富田は思った。
「自分の言葉で、自分の曲で……、自分の、歌で。誰かに何かを伝えられて、誰かの何かを変えられたら、そうなったらいいじゃん。っていうのが、悠斗です」
あの時、泰生に言わなかった、言いたくないと思ったこの記憶が、当たり前のように口をついて出てくることを、富田は自分のことだというのにまったく理解出来なかった。何故だろうか、今なら泰生にも言っても良いと、いや、言う必要など無いとすら感じるほどだった。泰生の歌う姿に感服したから? 真剣さを認めても良いと思ったから? きっと違う。違うのだろうということはわかったが、だというのならばどうしてか、ということは考えつかなかった。
「悠斗は」言いながら、富田は自分の声が、僅かに掠れているのに気がついた。ステージの方から響いてくるベースの重低音と、マイクのハウリングに掻き消されてしまいそうなほどの声だった。
「でも、悠斗は…………本当は、悠斗は、悠斗が伝えたいって思ってるのは、変えたいと思ってるのは」
そこで、富田は言葉を切る。何を言えば良いのかわからなくなり、黙り込んでしまったらしい彼へと森田は視線を動かした。それでも、富田は何も言わないまま俯いてしまう。
「うん」数秒の沈黙の後、森田は小さな声でそう応えた。「そうだね」マイクに口を近づけすぎているのだろう、ボーカルの割れ気味な高音が二人の鼓膜を刺激する。そちらを少しだけ見遣ってから、再度富田の方へと目を戻した。
冷たい空気を吸って、森田は言う。
「僕も、それは――――」
「あなたの町の便利屋さん! どうもお世話になっております、真夜中屋でございます!!」
その言葉を上から残らず塗り潰すような声と共に、森田と富田の周辺に白い粉が舞い飛んだ。刹那、一瞬にして全身に走った悪寒と冷気に、二人は揃って身体を震わせる。
「っひ……!? な、何!?」
自分の肩を両手で抱いて、森田が上擦った声で言う。完全にパニックになっている彼は、背筋の凍りそうな寒さを振り払おうと無意識に頭を動かして、「うわっ!?」背後に見つけた影にまた、素っ頓狂な声をあげた。
「ミツキさんですよね」一足先に状況を把握したらしい富田が、白い粉、もといごくごく局地的な吹雪に負けずとも劣らぬ冷たい物言いをする。その視線は彼の下方、腹部あたりにある頭部へと向いていた。氷で出来たその頭部の下に続くのは、ガラス細工のように細い首と浴衣姿によく似た身体。赤い金魚帯にも見える腹部をひらひらさせて、二人のことを見上げている影――ユキメノコを睨みつけ、富田は低い声で言う。「何やってるんですか、今度は」
「いや、こないだと同じで途中経過報告だけど。せっかく大学に潜入することだし、この子に頼んでみた」
「どうなってるんですかそれは。っていうか、大学とユキメノコにどんな関係があるっていうんですか」
「あやしいひかりベースの幻覚だよ、雪山で遭難すると幻覚見るじゃん? あれはユキメノコの仕業でもあってね、そのメカニズム。ま、ほとんどの場合が単なる疲労と体力消耗、神経衰弱による見間違いだけど……このビジュアル、なんか女子大生っぽいじゃん。JDだよJD」
元も子もないことを言いながら、袂のような腕を振ってみせたユキメノコ、あらためミツキを「どこの大学に、そんな和の心に目覚めた仮面女子大生がいるんですか」富田はあっさり切り捨てた。「えー、なかなか溶け込めてると思うんだけど」「ユキメノコが大学にいるって時点で全然目立ちますよ」「そうかな。まぁかわいいからなこの子」「問題はそこじゃないです」他の学生に気づかれないよう、気の抜ける会話が小声で交わされる。
「え……何……? ユキメノコ、が? ……あの、え?」突如現れ、表面上は人語を話しているようにしか思えないユキメノコに、事情を呑み込めていない森田が目を白黒させた。「深く考えちゃダメです。とりあえず、これがあの便利屋の代わりってことです」雑な説明をし、富田は学生達からユキメノコを隠すようにしゃがみ込む。が、そんな気遣いなどまったくわかっていないらしいミツキは、氷に空いた穴から覗く鋭い目で、辺りの様子を見渡した。
「それにしても、大学って楽しそうなとこだよね。いいなぁロゼリアの右手色のキャンパスライフ。僕も行きたいなぁ」
「それはどうでもいいですから、早く本題に入ってください」服に付着した雪を払いのけつつ、ミツキがイライラとした調子で先を促した。わかったよ、とつまらなそうに言い、ミツキが渋々といった調子で話始める。
「そんな進んだわけじゃないけど……あ、でも結構な手がかり。今回のコレに使われた呪いはね、純粋な魔力じゃなくて感情によるもの。つまり、僕みたいに霊力あって何に対しても呪術が使えるんじゃなくって、強い気持ちを向けてる対象にだけ有効ってことね。それで、……手口は海の向こうのモノだよ」
「海の向こう?」
「あ、って言ってもシンオウとかホウエンじゃなくてね。カロスやイッシュの方……あっち側のやり方だと思う。こっちじゃ無いよ。あんなの」
ミツキは確信したように言ったが、その辺りの話は富田にはよくわからない領域であるため「はぁ」と適当に受け流す。その態度にムッとしたらしく、ミツキは片手に冷気を纏ったが、それを放つよりも話の続きを優先した。
「でもさぁ」白い両腕がお手上げのポーズをとる。「今のところ、そこまでしかわからなくてさ。そもそも呪術の種類が確定したところで、絶対そっちに住んでる人っていうわけでもないし」嘆息したミツキの口許が白くなり、空気が一瞬凍りつく。
「誰か心当たり無いの? どっちでもいいからさ」
「それは……俺たちだって、まあ、他のバンドに恨まれたりはあるかもしんないけど……羽沢さんクラスならもっとだろうし」
「うーん、それはわかるけど。もっとピンポイントで、そういうんじゃなくてもっと個人的なやつ。ない?」
「あ、個人的かどうかわからないけど……」
と、そこまで黙っていた森田がハッとしたように声を発する。ミツキが嬉しそうに「誰?」と食いつきの良さを見せた。
「根元信明っていう、泰さんと同じ歳くらいのエリートトレーナーです。リーグの優勝候補筆頭で、名実ともに泰さんのライバルですから、もしかしたら……」
「あぁー、ライバルか……」しかし森田の説明を聞いたミツキは一転した落胆ぶりを露わにする。
ライバルとかじゃなくってさ、もっと別に、なんかドロドロしてるさぁ。そういうの。魔力とか持ってない人間がそういうことするって、強い気持ちに頼るしかないんだよ。入れ替わりだなんて『奇跡』起こせるレベルの、そういう、ドロドロ。それだよ。
そんな要望を語るミツキに、森田は「そんなの、無い方がいいですよ」と溜息を吐いた。富田も黙って頷いたが、ミツキは納得がいかないらしくむくれた声を出す。だって呪いってそういうものだからさ、そういった類のことを本業にしている便利屋は、物騒なことをのたまった。
「呪いの代行依頼とかも時々あるけど、やっぱりそういうのって本人の気持ちがドロドロしてるほど上手くいくんだよ。恨みとか憎しみとか怒りとか悲しみとか、強い愛情ってこともあるけど。とにかく、単なるライバルとか、そんな爽やかなものじゃ……ただでさえあの親子は呪いにくそうなのに、よっぽど強い何かがないと」
「そう言われても……もう一回考えてみますけど。でも、もしそうだとしたらかなりの身内ってことですよね? 行きすぎたファンとかでは無い限り」
「なるほど、過激派ね。その線は思いつかなかったよ、そっちも当たってみることにする。……でも悔しいなぁ、海の向こうの呪術で、強い感情を元にやったってことしかわからないなんて」
あとちょっとでいけそうな気もするんだけど。歯がゆそうにミツキが呻いた。あともう少しのところなんだけどさ、と、鋭利な瞳が殊更に細くなる。
「なんとなくイメージは掴めてるんだよ、呪いに使ったポケモンの……シュッてしてて、キュリュキュリュしてて、シュキュルーンってなってるんだけどシュバッとも出来て……」全く的を射ない発言に、富田は「えらくふわふわしてますけど」と呆れに満ちた率直な感想を告げた。森田も沈黙によって同意を示す。が、ミツキには全く響いた様子が見られず、「ふわふわっていうよりがしゃがしゃだ」などと不毛な説明が続けられた。
「あ、そういえば……瑞樹くんに一つ、聞きたいことがあるんだけど」
そこで、思い出したようにミツキが言った。唐突な指名に、富田は首を傾ける。
「何ですか?」
「客観的に見て、瑞樹くんたちが今度出るオーディション。客観的に、君らのバンド、正直言って勝ち残れそう?」
歯に衣着せない、あまりにストレートなその質問に、富田は言葉を失った。ある種残酷だともとれる問いかけには森田も驚いたらしく、口をぽっかり開けた状態で固まった。
「ええと、それは……」なんとか気を取り直した富田が、冷静を装いつつ考え込む。しばらく思案した彼は、ネット掲示板の前評判や他の出演者の演奏、風の噂などを頭の中で整理し、答えを出した。「下馬評ですけど」平坦な声で、富田は言う。「大穴の、優勝候補です」
「ふうん」
対するミツキの返事はあっけないものだった。そっかぁ、と、さしたる興味も無さそうに言った彼は、赤の腹部を冷たい秋風にはためかせる。
そんな反応に、肩透かしを食らった富田と森田は今度こそ無言で硬直した。そんな二人を放り出し、ミツキの意識はすでにステージの方へと向かっている。「ねえ見てみなよ、あの人やばいって」
「すごいね。手がいっぱいあるんじゃないの、エテボースみたいにさ」
よくわからない感想を述べたミツキが視線を向ける先、未だ続行中の学内ライブステージでは、至極楽しそうな笑顔の守屋がバンドをバックにピアノの鍵盤を猛スピードで叩きまくっていた。
◆
その頃。事務所ビルの地下、今は人の少ない体育館で悠斗は一人トレーニングに打ち込んでいた。
事務所の運営やビルの維持費のため、このコートは時間次第で一般にも解放している。現に何人かのトレーナー達が、各々練習に励んでいるが、その実全員が羽沢泰生の姿に意識を持っていかれてしまうという間抜けな状況だ。が、そんなことに気づく様子も無い悠斗は次のバトルのため、三匹と共に特訓を続ける。
シャンデラの火力の強さを、寸分違わず見抜けるように。マリルリの持つ力を全部、外側へと引き出せるように。ボーマンダの飛距離と相手の技の攻撃範囲を、瞬時に判断出来るように。
自分がポケモンバトルに対し、こんなにも熱心に向き合うことになるだなんて、数週間前までには考えられなかっただろう。それでも、悠斗はそうせずにはいられなかった。
いつか、前に、それまでの人生のどこよりも本気で歌が上手くなりたいと望んだ時と同じ気持ちであった。一緒に進む者達に、彼らに見合うだけの力を手に入れなくてはと思ったあの時と。並んで前へと向かっていけるくらいに、自分も強くなりたいと願ったあの時と、同じなのだ。
「じゃあ、少し休憩にしよう」
キリの良いところで切り上げ、悠斗は三匹に声をかける。それぞれ頷いたポケモン達は、自分でボールに触れて戻っていく。マリルリが丸い尾の先をボールとくっつけ、球体へと収まったのを見届けて、悠斗はボールを拾い上げる。自力でこうするというのは、どうやら泰生が身につかせた風習らしい。
他のトレーナー達の視線を知らず知らずに受けながら、悠斗はコートの外へ出る。秋も深いというのに地下は奇妙な蒸し暑さと湿気で満ちており、彼は額の汗を拭った。外の空気を吸おう、悠斗はそう考えて、エレベーターの前に立ち、上向き三角のボタンを押した。
「あ、相生さ……」
「羽沢さん!」
と、上ったエレベーターから降りた悠斗は、ビルのエントランスに見つけた人影に呟いた。それと同時に、悠斗に気づいたその人影が名前を呼んでくる。
「コートで練習中だって、森田さんから聞いたんです」ぺこりと頭を下げた相生によると、偶然ではなく泰生に会おうとしていたらしい。嫌でも目につく、綺麗な顔が柔らかな笑みを形作る。「今、ちょうどコートまで行こうと思ってたところなんです」
そう言う相生に、外に行こうとしていたのだと告げると、少し時間をもらえるかという問いが返ってきた。構わない、と頷きながら悠斗は考える。この前話したときよりも、相生の態度は随分和らいでいた。いきすぎた緊張は見られないし、羽沢泰生を前にしても以前ほどの怯えは無くなっている。彼の変化した理由をしばし考え、もしや、と悠斗は一つの心当たりを思い出した。
「この前は、ありがとうございました!」
自動ドアを潜り抜け、ビルの庭へ出るなり、相生は悠斗に深く頭を下げた。次に上がってきた顔は晴れ晴れとしていて、数日前に彼が悠斗へ見せていたようなオドオドしっぷりはもう抜けている。
「いや、……そんな、大袈裟にすることでは無いだろう。何か良いことがあったなら、それは君自身の……」
「そんな……いえ、羽沢さんのおかげです。羽沢さんのおかげで、僕は、初めて、バトルを楽しむことが出来たんです」
森田とバトルをした日、悠斗は相生に相談を受けた。何か思い詰めたような顔をしている相生に、先に声をかけたのは悠斗は、どうにも泰生を苦手にしているのであろう態度から断られるかと思ったのだが、予想に反して相生が話を切り出してきたのである。
相生の話とは、バトルになると緊張してしまい、思うように戦えないというものだった。正直なところ相生に言われなくともそれは誰の目にも明らかだし、悠斗を始め恐らく皆が感じていることだろうが(泰生は例外で気づいていないと思われる)、あえてそこには触れず悠斗は彼の話を聞いたのだ。相生は、野生ポケモンと戦うのは難無く出来るけれども、いざ相手トレーナーと顔を合わせると、一気に萎縮してしまうのだと言った。
ポケモンの向こうにいるトレーナーの、明確な勝負心。本能のままである野生ポケモンの闘志とは異なった、『こいつを負かしてやろう』という感情を目前にすると、相生はどうしようもなく怖くなってしまうのだという。自分を倒そうと、押し潰そうとするその気持ちに圧倒されて、何も出来なくなってしまうのだと。
「そんなのは、バトルなんだから当たり前だって。それはわかってるんですよ。わかってるんです、けど」反響の激しい地下の廊下で、相生は泰生にそう漏らした。どちらかといえば中性的な見た目も相まって、そのときの彼はとても弱々しく――バトル中に見せる、何かに怯える顔をしていた。
「ずっと、怖くて仕方なかったんです。……でも! 羽沢さんが、それを、助けてくれたんですよ!」
その相生に、悠斗は言ったのだ。
コートに立ったら、自分がこの世で一番強いと信じ込め、と。
一緒に戦うポケモン達は、誰より頼れる仲間だと考えろ、と。
怖いものなんか何もない、全てが自分を待っているのだ、と。
「羽沢さんにそう教えてもらって……それを考えたら、ふっ、て、身体が軽くなったんです。いつもは震えて立てないくらいの足がちゃんとしてて、泣きそうにもならないで、相手の方の顔も見れて。ボールを投げて、中からクラリスが出てきてくれるのが、今までで一番嬉しかったんです」
それは悠斗がいつも、ステージに立つ前に自分に言い聞かせていたこと――この世で一番自分が上手くて、バンドメンバーは最強の奴らなんだと――ではあったが、相生に効果はてきめんであったらしい。今まで(と言っても、悠斗が彼と知り合ってから十日も経っていないが)に見せたことの無いような笑顔を向けてくる相生に、悠斗は内心で若干驚きながらも「だから、それは俺の力じゃなくて」とあくまで憮然とした口調で返した。
が、相生は珍しく引き下がる様子を見せず「いえ、羽沢さんのおかげなんです」とはっきりと告げた。形の良い、大きな瞳が真っすぐ自分を見つめてきて、悠斗は思わず言葉に詰まる。「ちゃんとバトルに向き合おう、って、思えましたし。バトルが楽しいってわかりました。それに」涼しげな風に乗せ、相生が凛とした声で言う。
「僕、羽沢さんのバトル見て、ポケモンバトルするようになったんですよ」
相生の言葉に悠斗は、え、と眉を上げる。「いや、始めたって言うのもおかしいんですけど」そう言いながら苦笑した相生は、片頬を掻きながら目を細めた。
「実は僕、一回ポケモントレーナー挫折してるんです。十歳で旅に出て、それで、十五歳の時に」
「………………それは、」
無意識に言葉を失った悠斗に、相生は申し訳無さそうな笑みを見せる。次のセリフを選ぶような間を置いて、彼は「僕って、この見た目ですから」少し話題を変えるような調子で言う。
「女の子っぽいとか、弱っちいとか。キルリアってあだ名つけられたり。小さい頃よく言われて……いや、今もですけど。なんか、弱く見られることばっかりで」
それは悪いことじゃないと思うけれど。悠斗は心の中でそんな感想を抱く。線が細く、色白で、どこぞの王子様かと思うような美貌。黙って立っていればモデルか何かとしか思えない相生のルックスは、確かに中性的で女性らしさはあるが、間違いなくかなりのレベルに分類されるものだ。バンドマンは見た目じゃないとはわかってはいるものの、しかし見た目が良ければそれだけ興味もひきやすいということを否応無く理解している、割合平均的容姿の悠斗としては、相生を羨まずにはいられなかった。こんな男がボーカルを務めていれば、いやギターだろうが何だろうがメンバーにいるバンドは確実に注目を集めるだろう。
そんな不服は勿論表出せず、悠斗は黙って相生の話を聞く。目を伏せた彼は物憂げで美しく、次に出すシングルのジャケットを飾ってくれやしないか、という邪念は必死で頭から振り払った。
「昔からそうやっていじめられてて、でも僕は、それが怖くて何も出来なかったから……だからせめて、ポケモンバトルで強くなりたいって思ったんです。強いポケモンと、かっこいいポケモンと一緒にいれば、僕だってもう弱虫だなんて言われないよな、って思って」
だから旅に出たのか、と悠斗はぼんやりと考える。トレーナー修行の旅など悠斗はしようとも思わなかったから、友達がどれだけ旅立とうと、そして戻ってこようと関係の無い話だった。思えば、初めてまともにこんな話を聞いた気さえした。
「旅に出る時に、お前なんかにポケモンバトルは無理だって何度も言われましたけど……絶対誰にも勝てないって言われましたけど……」苦々しい顔をしつつも相生は言う。「でも、僕なりに頑張って、自分で言うのもなんですけど、結構強くなったんですよ! バッジもちゃんと、あ、僕はホウエン出身なんですけど、八個集めましたし」
「ポケモン達も進化して、気づいたらたくさんの人に勝ってて……少しは、自分に自信も持てました。僕は少しは強いのかなって、弱いって言われなくていいのかなって、……」
バッジの価値もトレーナーの強さも今ひとつ理解していない悠斗だが、相生がその旅とやらで、かなりの努力を積んだことは何となく感じ取る。自分には想像もつかないほどの苦しさと辛さがあったのだろうと、そう思うだけの険しい道を通ってきたのだろうと、そんな想いを抱いて悠斗は、
「でも!」
しかし、そこでいきなり声を(彼なりに)荒げた相生にびくりと肩を震わせた。唐突な逆接接続詞を口にした彼は、驚きのあまり少し引いてる悠斗には気づかず、整った形の眉をぎゅっと寄せる。
「やっぱり、なんか弱く見られるんですよ! 僕達はかっこよくて、強くて、たくましい感じになりたかったのに!」
「はぁ…………」
「ブラッキーに進化させたかったクラリスは突然ニンフィアになるし、エルレイドに進化させたかったダニエル、あ、キルリアはレベルが上がりすぎちゃったのかサーナイトになるし、ジャッキー、家の庭にいたから連れてきたウソッキーはなんかオーロットに進化するかなって思ってたらならないし! 僕も旅をしてればムキムキになれるかなって思ってたのにならなかったし、女の子に間違われるのは直らないし! 全然強っぽくならなかったんですよ!」
ここで、たとえば森田などが聞いていたのなら「どうして夜の進化を狙わない?」「なんでめざめいしを早く使わない?」「何をどう間違えばウソッキーの進化系がオーロットとか思うわけ?」と、ごもっともなツッコミを入れただろう。が、あいにくここにいるのはポケモン知識が先週まで皆無だった悠斗一人である。唯一最後の件についてのみ「旅してるだけでムキムキとは限らないのでは」と疑問を感じただけで、相生の謎の天然っぷりを指摘するには至らなかった。
そういうこともあるのか、と素直に頷いている悠斗に、相生は「でも」と、先程と同じ言葉を繰り返した。それは同じ言葉ではあったけれど、口調はまったく違っていて、静かに、自分に言い聞かせるような声だった。
「でも、本当は――そうじゃ、ないんですよね。そりゃあ見た目もあるんでしょうけど、そんなの本当はどうとでもなって、僕が弱虫だって言われるのは、弱く見られちゃうのは……そう言われて、何も言い返せないくらいに、僕が本当に弱いからだったからで」
「……………………」
「それを、ポケモン達にまで責任転嫁してたから。だから、僕は負けちゃったんです。あいつに、バトルに、自分に……バトルの時の、恐怖に」
確かな力を身につけながらも、抜けきらない弱さに悩んでいた相生は、八つ目のバッジを手に入れたところでとある男と再会した。その男は、かつて相生と同じ町に住んでいた者で、相生を取り囲む子供たちの中でもより激しく相生を傷つけた者でもあった。
有無を言わせず持ち込まれたバトルで、相生は何度も言われてきた言葉を思い出し、手に入れたはずの力の全てを失ってしまった。お前は弱い。誰にも勝てない。真正面に立つ、闘志と敵意を露わにしたトレーナーがとても恐ろしいものに見えて、相生は何も出来なくなった。何も出来ない、弱虫の子供に戻ってしまった。それはその男が相生を完膚無きまでに叩きのめし、「やっぱり、お前は弱っちいんだよ」と吐き捨てながら去っていってからも同じだった。
「旅をやめて、町に帰って……それからしばらく、ポケモンバトルは一度もしませんでした。いえ……出来なかったんです。怖くて。負けたくなくて。負けるのが怖くて。僕は弱いから、そんなものは出来なくて」
「ですけど」相生は、少しだけ滲んだ声で言う。「羽沢さんの、バトルを見たんです」
大学受験のためにカントー地方を訪れた相生は、そこで偶然、羽沢泰生のバトルを見た。そして、もう一度ボールを投げたい、と思った。
「まるで自分と、自分のポケモンだけしか味方じゃないような――いえ、実際そうで、その中で、前に進んでいくバトルを。そんなバトルでした。長かった夜とか嵐とかが、ふって終わったみたいでした。僕も、また、ポケモンバトルをしたいと思ったんです。羽沢さんみたいに、戦いたいって」
大学進学をやめ、家族を説得し、ポケモンバトルの道に復帰した相生は必死にブランクを取り戻し、さらなる高みを目指して猛特訓を積んだ。その成果は確かに現れて、二十歳を迎えると同時にエリートトレーナーの称号を得、期待の若手と注目されて、憧れのトレーナーたる羽沢泰生と同じ事務所に所属した。いくつもの勝利を収め、彼を弱いなどという者は圧倒的少数意見として扱われる。今の彼は、ポケモンリーグ優勝候補のダークホースとすら言われるほどの存在だ。
「でも、いつだって、僕は弱かった。勝った分の何倍も負けた。僕のせいです。相手の方が、僕を倒そうとしてるのが怖くって。それが本当に怖くて。いつでも、僕は子どもの頃と何も変わらない、弱虫のままだったんです」
何度も挫けそうになり、何回となく泣きじゃくり。「そうするといつも、羽沢さんのバトルを見て、どうしようもなく、辛くなりました」いつになっても強くなれない自分が死ぬほど嫌いで、それでも恐怖は微塵もなくならなかった。「だけど、それ以上にすごいなって思って、がんばろうって思えるんです」この人のように、素敵なバトルを。「そのたびに、僕はまた、モンスターボールを握れるんですよ」
「だから、羽沢さん」相生は、まっすぐに羽沢泰生を見つめて言った。
「僕は何度でも羽沢さんに助けられて、何度でも羽沢さんに引き上げてもらって、何度でも、羽沢さんに、ポケモントレーナーにしてもらったんです」
悠斗は、何も言わずに相生を見返した。そうするのが、一番良いと思ったのだ。
「この前、羽沢さんにアドバイスをいただいた後のバトルは、怖くなかったんです。クラリスと、ジャッキーと、ダニエルと、初めて全部、力を出せたと思います。あなたのおかげです。羽沢さんがいたから、僕は怖さを抑えられていたんだし、怖さに勝つことが出来たんです」
「…………ん」
「実は、リーグに『あいつ』が出るって知ってから、怖いのがよけいに酷かったんです。……でも、もう大丈夫です」
むしろ、倒してやろう、って思えるくらいですからね。そう言って、少しばかりイタズラっぽく笑った相生に、悠斗も僅かな微笑を浮かべる。それを見た相生はあからさまに驚いた顔を見せたが、それすらもすぐに笑顔へ戻った。
そうしてしばし笑った後、「でも、僕も駄目ですね」と相生が詫びるような言い方をした。「何がだ」悠斗がそっけない問いを返す。
「この前教えていただいたこと、羽沢さん、昔もおっしゃっていたのに。僕は初めて、ちゃんと聞いたんだな、って」
「………………え?」
思わず聞き返した悠斗に、相生が首を傾げながら「あれ、ずっと前ですけど、僕がここに入ったときに……」と呟いた。慌てた様子で「ああ、うむ」と悠斗はごまかす。相生はそれ以上不思議がることもなく、「あのとき」と、悠斗に向かって笑いかけた。
「同じこと、言っていましたよね。あれは僕にではなく、森田さんに大してですけど」
「………………」
「どんなときでも、ポケモン達は裏切らないし、自分もそうすることは無いって。それはどんなことよりも強いから、バトルに勝てない理由なんて無い、そう信じるんだって……」
喉の奥に、何かが詰まったような感覚。それを不意に抱いた悠斗の、一時静止した思考は次に返すべき言葉を見失っていた。
「羽沢さん?」押し黙った悠斗の両目を、相生が不思議そうに覗き込む。それではっと我に返った悠斗は、「あ、いや――――」と慌てて取り繕う。「とにかく、また何かあったら。俺で良ければ」泰生らしさを悠斗なりに醸し出しながら言葉を続けると、相生は「はい!」と目を輝かせて頷き、悠斗の両手を握りしめた。
流石にそれには彼も気恥ずかしくなったらしく、「あ、すみま、……つい……」焦った様子で、いつものようなどこか頼りない姿に戻って手を離す。気にするなと言いつつ、何だか妙に懐かれてしまったなぁと悠斗は心中で肩を竦めた。本来自分よりも年上の相手だが、小さなヨーテリーのように思えてしまうのはどうなのだろうか。
「あれ、今…………」
その時、何か乾いた音が聞こえたような気がして、悠斗は反射で辺りを見回した。が、「どうかしましたか?」何も無かったような顔をしている相生と、結局何も見つからなかった周囲の様子に、気のせいかと思い直す。ビルの周りに植えられた木にはオニスズメやバタフリーが行き来したりしているし、きっとその羽音か何かだろう。そう、悠斗は結論づけた。
戻るか。タイミングがちょうど良いと思って、彼は相生に声をかけた。色素の薄い、滑らかな髪を揺らして頷いた相生の笑顔と横に並び、悠斗はビルの入り口へ向かって歩き出す。
二人分の影を飲み込み、よく磨かれた自動ドアが音を立てて閉じていく。ガラス製のそれにうっすらと映り込んでいる、黒いカメラをそれぞれ構えた男とカクレオンの姿に、彼らが気づくことは無かった。
不知火 夜
そしてカルネが刻限になったと言ってカフェ・ソレイユを出たのは、日暮れごろだった。
それをきっかけに、プラターヌ博士も四つ子もカフェを出る。メディオプラザのプリズムタワーの点灯を見て、そして研究所前で博士と四つ子は別れた。
「これからは、ちょくちょく顔を見せてくれると助かるな。ポケモンのことでも、人間関係の悩みなんかでも、ボクでよければ相談に乗るからね。じゃ、四つ子ちゃん、良い旅を!」
「どうも」
「ありがとうございます」
「ありがとーございましたー!」
「では、今日は失礼します」
街灯に照らされたミアレの街を、四つ子は歩き出す。
ピカチュウを肩に乗せたセッカが、のんびりと囁く。
「博士、いい人だったなー。カルネさん、超美人だったなー」
四つ子は思いがけず美女に遭遇できて、ほくほくしていた。とはいえ、四つ子は女性が好きというわけではない。単に、外見と内面の両方の美しい人間が大好きなのだ。プラターヌ博士と再会して話をできただけでも、四つ子は随分と心を癒されていた。
ヒトカゲを脇に抱えたレイアも息をついている。
「ほんと、トキサのことで責められたらどうしようかと冷や汗かいたけどな。……ふつーにいい人たちで助かったわ」
フシギダネを頭に乗せたキョウキは爽やかに笑っていた。
「ま、博士はたくさんの若いトレーナーを見てるし、カルネさんは女優だし。演技は得意だと思うよ。やっぱり本心ではどう思ってるかはわからないね。まあ僕らの知ったことではないけど」
ゼニガメを両手で抱えたサクヤが溜息をつく。
「なんにせよ、イーブイの進化のことで収穫があったのは、喜ばしいことだろう」
四つ子は観光客たちの間を縫って、プランタンアベニューを北上していた。メディオプラザで西北西へ向かい、ローズ広場の傍のポケモンセンターに戻ろうとして、セッカがキョウキの袖を引っ張った。
「ねえねえ、あのカフェ気になる!」
四つ子は立ち止まり、ローズ広場の向こう側に会ったカフェを見つめた。
真っ赤なカフェだった。
キョウキは眉を顰める。
「……え、趣味悪くない?」
「目に痛え店だな」
「あんなところで休めるか」
いやそうな顔をする片割れ三人を尻目に、セッカはぴょこぴょこと跳ねるように、真っ赤なカフェに入っていった。
「ふら……だ……れ……カフェ?」
「フラダリカフェ……」
サクヤが看板を見つめて囁く。セッカは真っ赤な外装のカフェに突入していった。
「こんちは!」
「いらっしゃいませ……」
そのカフェは内装まで真っ赤だった。床も壁も深紅に塗られている。店内は静かだがぽつぽつと客があり、コーヒーの香りが漂っている。
四つ子はきょろきょろしながら、奥へ入った。
そして、カフェの奥に、目立つ人物が席についているのが、四つ子の目に入ってしまった。
四つ子は思わず立ち止まった。いや、足が竦んだと言った方が正しいか。
先ほど、カルネに会った時とは、同じようで、どこか違う。
太陽のごときカリスマ性とでもいうべきものは似ている。けれど、まったく違う。
カルネが蒼穹に天高く輝く白銀の太陽だとすれば、その人物はあたかも暗黒宇宙の深遠で燃え滾る太陽の紅焔。
同じもののはずなのに、こうも印象が違う。
燃え盛るような真っ赤な髪と髭、銀灰色の瞳。黒いスーツに包まれた大きな体躯。カエンジシのような印象を与える男だった。
その男が、カフェの奥の席から、四つ子をまっすぐ見つめてきていた。
四つ子は痺れたように、動くことができなかった。
その男は不意に相好を崩した。低い声で、四つ子に声をかける。
「そう怯えないで。こちらに来たまえ」
獰猛な獣の牙の奥に誘い込まれているような、錯覚がした。しかしその男の声の力に引きずられるように、四つ子は素直に従い、男の傍まで歩み寄ってしまう。
「私はフラダリ。このカフェのオーナーだ」
「……カフェに自分の名前付けてんすか……」
「いや、ラストネームだが」
「あ、あー……」
最もプレッシャーの影響を受け付けないセッカが間抜けな質問をして、どうにか凍り付いたような空気を砕きかける。
フラダリが自分の傍の席の椅子を引く。その有無を言わせぬ様子に、四つ子はもう後戻りできずに席に着いた。店内からちらちらと視線を投げかけられている気がする。
四つ子はおっかなびっくり、フラダリの傍で縮こまった。
レイアの膝の上のヒトカゲはあからさまに男に怯えている。キョウキの膝の上のフシギダネは無表情になっている。セッカの膝の上のピカチュウはわずかに低く唸っている。サクヤの膝の上のゼニガメは甲羅の中にすっかり引っこんでしまった。
フラダリが四つ子に話しかける。
「私の傍だと、緊張してしまうかね。どうもいつも、私は周りに圧迫感を与えるらしくてね……太ったのかな?」
緊張感の薄いセッカが、たまらず吹き出す。
「えっ、フラダリさん超体格いいじゃないっすか。脱いだら筋肉やばそう。太ってる体型じゃないっすよ!」
「はは、これでも鍛えているからね。ポケモンと一緒に」
フラダリは四つ子の分のコーヒーを、店員に持って来させた。四つ子は熱いコーヒーをありがたく受け取る。
フラダリは目を細めた。
「四つ子のトレーナー。噂は聞いているよ」
その低い声にこもった感情が読めず、四つ子は沈黙した。
レイアは軽く眉間に皺を寄せて腕を組み、キョウキもいつもの愛想笑いを浮かべず、セッカは落ち着かなげにもぞもぞし、サクヤは俯いている。
そうした四つ子の様子を見て、フラダリはさらに声を低めた。
「……もちろん、このカフェの目の前のローズ広場で起こしたこともな」
四つ子は一斉に顔を顰めた。
もちろん、それは触れられたくないことだ。忘れ去ってほしいと願っていることだ。
だから、四つ子にとってこの男は敵だった。
がちゃん、と高い音がする。四つ子が一斉にコーヒーのカップを床に叩きつけたのである。
「すんません」
「つい」
「手が」
「滑りました」
陶器のカップは砕け、熱いコーヒーが湯気を上げながら紅い床に飛び散った。
四つ子は警戒心も露わに、フラダリを睨みつける。
フラダリは愉快げに笑った。
「はははは、そう怒るな。確かに私は君らが嫌いだが」
「俺らのこと嫌いな連中に、にこにこ笑えってか?」
レイアが顔を顰め、低く唸る。フラダリは四つ子を嘲るように笑う。
「……君たちが、哀れだな」
「なぜです」
「奪うことしか知らない、愚かな子供たちよ……」
フラダリは席から立ち上がった。椅子に座ったままの四つ子を見下ろしてくる。
「我が友人、プラターヌから受け取ったポケモンたちを、破壊の道具にして。未来ある有望なエリートトレーナーの夢を奪った。それだけでない、そのエリートトレーナーの両親の夢も、友人たちの夢までも奪った」
「だからなんだよ!」
セッカが立ち上がり、叫ぶ。
「悪かったと思ってる! だから傷つけないように、あれからバトルも工夫してる! だから、なんで、今さらあんたにそんなこと言われなきゃなんないんだ!」
「私はフラダリラボの代表をしている」
フラダリは突拍子もなく、そう言った。混乱するセッカを見て面白がるかのように、笑いながら続ける。
「ラボでは、ホロキャスターを始めトレーナーのための様々な製品を開発している。そしてその利益の一部を、トレーナーのために寄付しているのだ。私は与える者だ。だが、私の与えられるものには、限界があるのだ!」
フラダリは演説ぶり、紅い床の上を歩き出した。
「際限なく奪う者がいるのだ。それが、君たち四つ子のような、欲深いトレーナーだ! 私はそれを容認できない、君たちのようなトレーナーを許すわけにはいかない」
今やレイアもキョウキもサクヤも立ち上がり、セッカと共に、フラダリを強く睨みつけていた。
「……欲深いだと? どういう意味だ」
「君たちは、『我唯足るを知る』という言葉を知らないか。他者から与えられる物を取れるだけむしり取り、決して満足することがない。そうして奪い合うから、餓える者が減らないのだ」
「――何も知らないくせに!」
セッカが絶叫する。
「そんなの、金持ちの奴らに言えよ! 何もしないでものうのうと生きていける、そのくせポケモンバトルが野蛮だとか何とかうるさいこと言ってる奴に言えよ! 俺らは、こうしないと生きてけないんだよ!」
「愚かな、哀れな子供たちだ」
フラダリは鼻で笑った。
そしてフラダリは店員を呼び寄せ、店員の持ってきた盆の上に乗っていた、四つの小型の機械を手に取った。
その機械を、四つ子に差し出す。
「受け取りなさい」
低い声で、四つ子に命じる。
四つ子はフラダリを睨んだまま、警戒して動かない。
フラダリはにわかに声を和らげた。
「受け取りなさい。君たちの気分を害したお詫びだ。わがラボの誇る製品、ホロキャスターを贈ろう」
四つ子はまじまじと、フラダリの手の中の卵型の機械を見つめる。そして、一様に首を振った。
「俺ら、機械は無理なんで」
「すいませんねぇ、なにぶん愚かな子供たちなので」
「滅びのキャタピーとかいらねぇよ!」
「受け取りかねます」
レイアもキョウキもセッカもサクヤも、後ずさった。ヒトカゲもフシギダネもピカチュウもゼニガメも、今や瞳を敵意に燃やし、フラダリを睨みつけている。
フラダリは笑顔を消した。
「なら、立ち去りなさい」
四つ子はさらに、後ずさった。
フラダリを警戒しつつ、出入り口まで下がる。
フラダリはすぐに再び柔らかい笑顔になり、カフェから出ていこうとする四つ子に最後に優しい声をかけた。
「トキサ君はまだ生きている。……花を現場に供えるような真似は、よしなさい」
四つ子は、逃げた。
四つ子は走る。
夜のミアレを走る。街灯や店から漏れる光で街は照らされ、夜空の星々は煌めき、プリズムタワーは煌々と輝いている。
ただ、街は色あせて見えた。
あの真っ赤なカフェにいたせいで、四つ子の色覚が狂っているのだ。あの頭のおかしいオーナーにとっても、この世界はこれほど色あせて見えているに違いない。
あんなカフェの傍にはいられない。忌まわしいローズ広場を数秒で走り抜け、ポケモンセンターに飛び込み、息をつく。
ヒトカゲやフシギダネ、ピカチュウ、ゼニガメが、心配そうにそれぞれの相棒を見つめている。
レイアとキョウキとセッカとサクヤは、苦々しい顔を互いに見合わせた。
「――何なんだよ、あのおっさんは!」
レイアが叫ぶ。赤いピアスが鳴る。
大声を出したレイアを諌めるように、緑の被衣のキョウキは声を低めた。
「確かに、わけわかんない人だったね……」
「いきなり説教とか! マジ勘弁っつーか、非常識だよな!」
セッカがぴゃいぴゃい怒る。
サクヤは神経質に青い領巾を弄る。
「……まったく、あのような大人もいるのだな」
「マジでそれな! もう、せっかく博士とカルネさんに癒されてたのに!」
セッカがサクヤに便乗して騒ぐ。それを黙らせようとサクヤがセッカの前髪を引っ張ると、セッカは尚更ぴいぴい泣き騒いだ。
レイアとキョウキは苦笑する。
「……ま、いろんな考えの大人がいるっつーことで」
「そうだね。フラダリラボの代表があんな人とはね。……あんな人がホロキャタピーを作ってるとか、恐怖でしかないね……」
キョウキは溜息をついた。レイアとセッカとサクヤの三人は首を傾げる。
「恐怖って?」
「あの人、絶対やばいよ。思い決めたら、何でもやりそうな気がする。……ああいう人こそが周囲の人々を不幸にするのだと、僕は思うけれど」
そしてキョウキはちらりとポケモンセンターのロビーを見やった。
多くの人間が手元の機械を使って、ホログラム映像に見入っている。フラダリラボのホロキャスターを使っているのだ。
ホロキャスターはインターネットにも接続できる。メールの送受信はもちろん、調べ物や友達との手軽なやり取りや、動画を閲覧することも可能だ。そしてそれを手軽なコミュニケーションアプリで拡散していく。
「…………怖いよね」
キョウキは囁いた。
レイアもセッカもサクヤも、ロビーでホロキャスターに心を奪われているトレーナー達を、ぼんやりと見つめた。
フラダリラボは、カロス最大の通信事業者である。ホロキャスターで一大成功を収め、またホログラムメールを利用したニュースを放映するというように、マスコミ産業にも進出した。現在カロスで最も注目を集めるメディアなのだ。
国もまた、フラダリラボに巨額の補助金を与えている。
それは、フラダリラボがトレーナー政策に大きく貢献しているためだ。
政府与党とつながりの深いポケモン協会の財源の一部も、フラダリラボからの寄付金によって占められている。それだけでなく、フラダリラボは政府与党そのものにも政治献金を行っている。
政府とポケモン協会とフラダリラボと。
政治と財界とメディアが結びつく。
それほど恐ろしいことはない。
けれど、その本当の恐ろしさを認識している人間はほとんどいない。なぜなら、ほとんどの人間は政府与党のトレーナー政策を歓迎しているからだ。
そして、その与党に対抗できる力を持つ野党もいつまでも成長しないから、政権は替わることはない。何も変わらないから、人々は政治に興味をなくす。
そうすれば、監視の目を失った国の上層は、自然と腐敗するだろう。
けれど、この国の人々の大半は既に政治から興味を失っている。ただ漫然とトレーナー政策をよしとしているから、この国は何も、変わらない。
権力とカネと情報が結びついた恐ろしさを孕んだまま。
人々はまだ何も、知らない。
不知火 夕
漢方薬局に寄って、石屋で目当てのものを手に入れた。
あとは四つ子は、イーブイの進化のために特定の場所へ行かなければならなかった。正確にはそれを要するのはセッカとサクヤの二人なのだが、レイアとキョウキはそれぞれに付き合うと決めている。
すなわち、もうこれ以上はミアレシティには四つ子は用はなかった。
しかし、そこでごねたのがセッカである。
「ね、今日だけ四人でいさして。お願い!」
そう往来の真ん中で片割れの三人を拝み倒し始めるのだから、残る三人としてもセッカを宥めないことにはどうにもならないと判断せざるを得なかった。
ぴゃあぴゃあと人目も憚らずに喚くセッカを引きずり、ミアレシティ南西の、カフェ・ソレイユに入店する。
そしてレイアとキョウキとサクヤは、瞬時にしまったと思った。セッカは目をぱちくりさせた。
逆に、ヒトカゲとフシギダネとピカチュウとゼニガメは、それぞれの相棒から離れて飛び出し、大喜びで鳴きながら、その人物に駆け寄る。
「かげぇ! かげぇ!」
「だーねー?」
「びがぁ! ぴかちゅう!」
「ぜにぜにぜにぜに! ぜにぜにぜーに!」
「おおう、久しぶりだねぇー! 元気だったかい?」
四つ子はカフェ・ソレイユの入り口で、呆然と立ち止まった。
四つ子の相棒の四匹が駆け寄った人物は、カフェ・ソレイユの隅で超絶美貌の女性と相席していた。
普段研究所では身につけているはずの白衣を脱いでおり、外出の最中だったようだ。
プラターヌ博士である。
博士はひとしきり、研究所でかつて暮らしていたヒトカゲ、フシギダネ、ピカチュウ、ゼニガメの四匹との再会を喜んでいた。相席の女性も微笑み、そして四つ子に視線をやった。
「…………あら」
純白の衣装に身を包み、ペンダントを胸元に煌めかせ、ブラウンの髪を上品に結いあげた、カリスマ性あふれる女性。その女性が四つ子に目を留め、小さく嘆息する。
「四つ子さんね?」
「そうだよカルネさん! この子たちがボクの研究所の誇る、四つ子のトレーナー達だよ!」
プラターヌ博士が、傍らの女性に紹介する。カルネと呼ばれた美貌の女性は、この世のものと思えない慈愛に溢れた笑顔を四つ子に注ぎかけた。
さすがの四つ子も、言葉が出なかった。
何という気品、何というプレッシャー。住む世界が違う。
ああ、そうだ。この人と関わり合いになるべきではなかった。
四つ子はそわそわと、この眩しいカフェを後にしようとした。しかしヒトカゲとフシギダネとピカチュウとゼニガメはプラターヌ博士の全身にまとわりついてしまって、そう簡単には引き剥がせなさそうだ。
四つ子はたいへん戸惑い、店内でもじもじしていた。店じゅうの客の視線を集めている気がする。それはそうだ、四つ子はたった今、世界的な大女優に微笑みかけられているのだから。
その女性の美しさに、称賛の溜息しか漏れない。
四つ子は目が眩んだように、もじもじと俯いた。床しか見ることができない。
ここまで住む世界の違いを思い知らされる人間が、世の中には存在するのだ。
四つ子は立ったまま、どんどん卑屈になっていった。駄目だ、自分たちはこの女性の視界に入るべき存在ではない。無視してほしい。どうか無視しろ。無視してください。
しかし、大女優は心優しくも、無視してはくれなかった。輝かんばかりの美貌をさらに明るくし、眩しいばかりの笑みを零す。
「貴方たちのポケモン、とってもすてきね。ね、そんなところで立っていないで、どうぞこっちにお座りなさいな」
「そうそう、そーしなよ! いやぁ、旅立ち以来じゃないか! 元気そうだね、レイア君!」
「僕はサクヤです」
プラターヌ博士に肩を叩かれ、青い領巾のサクヤがやや不機嫌に応じる。プラターヌ博士は眉を上げ、きょろきょろと見渡した。そして緑の被衣の片割れの肩を叩いた。
「えっと、キミがレイア君だったかな?」
「僕はキョウキですよ、博士」
キョウキはにこりと微笑む。プラターヌ博士は赤いピアスの片割れに目をやった。
「あ、じゃあ君がレイア君だ!」
「違うっすよ」
本物のレイアは意地悪く笑った。
プラターヌ博士はあたふたと取り乱し、セッカの両手を掴んだ。
「すまない! 本当にすまない、レイア君!」
「いや、俺セッカっすけど」
「なに! じゃあキミがレイア君か!」
プラターヌ博士はわたわたと、顔のそっくりな四つ子を順に見回した。
「サクヤだと、申したはずです……嘘っす俺がレイアっす」
「嘘ですよ博士、その子は……だって俺がレイアだかんな!」
「ふざけんなよ俺がレイアだよ!」
「お前らいい加減にしろよ! 博士、俺がレイアなんで、覚えてください!」
四つ子は寄ってたかって、プラターヌ博士に自分こそがレイアであると主張した。
博士は目を白黒させ、そしてとうとう大きく笑い出した。
「ははっ、こりゃやられたなぁ! ……そうだそうだ、思い出したよ! キミたち、十歳の旅立ちの時もそうやって、ボクのことからかったよね?」
四つ子はにやにやと笑う。その四つ子のそれぞれの装身具を見分けて、ヒトカゲはレイアに、フシギダネはキョウキに、ピカチュウはセッカに、ゼニガメはサクヤに飛びついた。プラターヌ博士はにやりと笑う。
「そうそう、臆病なヒトカゲのトレーナーがレイア君。穏やかなフシギダネを貰っていった子がキョウキ君。勇敢なピカチュウを連れて行ったのがセッカ君。やんちゃなゼニガメを選んだのがサクヤ君、だ」
「そうっす」
「当たりです」
「だいせーかい!」
「よく覚えていてくださいました」
四つ子はプラターヌ博士に向かって笑いかけた。博士も目を細め、そしてその隣の大女優もくすくすと面白そうに笑っている。
「ふふ、ふふふ……面白いのね、四つ子さんって。ねえ、この前のカロスリーグにも出てらしたわよね?」
席に着いた四つ子に向かって、カルネが問いかける。セッカが大きな声で答えた。
「はい! きょっきょは予選、しゃくやは本選行きました! そしてそして、なんとれーやはベスト4です!」
「そうそう、貴方、ガンピ君を倒したでしょう? ズミ君には負けてしまったけれど」
「……あ、それは単純に、当時の俺のパーティーが炎タイプ中心だったためだと思ってて……」
ヒトカゲを抱いたレイアが、ぼそぼそと答える。カルネはうんうんと大きく頷いた。
「そうそう、色々なタイプのポケモンを育てるのって案外難しいのよね。あるタイプのポケモンを育てると、同じタイプの他のポケモンも育ててみたくなっちゃうの」
「あ、そうっすね、確かに……」
「そのうちそのポケモンに愛着が湧いちゃって、パーティーから外すに外せなくなってしまうのよねー」
「あ、そうそう、そんな感じっすね」
レイアも頷いた。
そこでプラターヌ博士が両手を広げた。
「四つ子ちゃん、何か食べるかい? いい機会だ、カロス地方のチャンピオンのカルネさんに色々伺うといいんじゃないかな。今日はカルネさんも夜までこちらでゆっくりされるそうだよ!」
「いえ、僕らがいるとカルネさんもごゆっくりできないのでは?」
フシギダネを抱いたキョウキが卑屈に笑う。するとカルネは悪戯っぽく笑った。
「もう、そんなこと気にしないの。あたし、四つ子さんなんて見たの、初めて。それもガンピ君を倒した子がいるんだもの。四人揃って強いなんて、すっごくわくわくしちゃう。いつかあたしの育てたポケモンたちとバトルしてほしいな」
そう絶世の美女に笑いかけられるのだから、もう四つ子はしどろもどろになった。カルネと平然と相席しているプラターヌ博士も相当の人物なのだということを思い知った。
セッカがぽそぽそと呟く。
「……博士、すごい人だったんすね……」
「え? なんでだい?」
「何つーか、遠い世界の人だったんすね……」
「それは違うよセッカ君!」
プラターヌ博士は大仰に手を広げ、身を乗り出して朗らかに笑う。
「確かに大女優のカルネさんは、庶民のボクらにとっては遠い存在に感じられるかもね。でもね、ポケモンというつながりがあるから、ボクらは様々な人と仲良くなれるんだ!」
「そうそう。あたしもお芝居の関係以外に、ポケモンバトルを通じて、本当に色々な大切な人に出会えたもの」
カルネも微笑んでいる。
彼らのその言葉に、それぞれの相棒を膝に乗せた四つ子は視線を伏せた。
カルネが軽く首を傾げ、プラターヌ博士もまた机に肘をついてやや深刻そうな表情になった。
「なにか、心配事でもあるのかい?」
「……ポケモンを持っていたせいで、人を傷つけちまったら、どうしますか?」
赤いピアスのレイアが静かに問いかける。
プラターヌ博士とカルネは同時に言葉を発した。
「謝ればいいのさ」
「謝ればいいのよ」
「おおっと、これは失礼」
「いえいえ」
カルネの言葉に自分の言葉をかぶせてしまった事態にプラターヌが笑顔で謝る。カルネも笑顔で応じる。実に優雅な雰囲気の二人だった。
セッカが小さい声になる。
「でも、謝ったくらいじゃ済まないかもしんないっす」
「貴方たちは、本当にその方に申し訳ないと思っているのね?」
「俺らはほとんど事故だと思ってました。でも、相手はどう思ってるかわかんなくて。……本当はトキサ、俺らが旅してカロスリーグに出てるの、嫌なのかもしれないなって」
セッカがその名を出すと、プラターヌ博士は真顔になった。
博士の様子をちらりと見た四つ子は、一様に全身を緊張させた。カルネが首を傾げる。
「博士、どうなさったの?」
「……トキサのことは……残念だよ」
プラターヌ博士は手元のカップを持ち上げ、ゆっくり静かにコーヒーを飲んだ。
カップをソーサーにそっと戻す。
博士は、寂しげに微笑んでいた。
「トキサは四つ子ちゃんたちより前に、ボクの研究所からハリマロンと共に旅立っていった。エリートトレーナーの事務所に勧誘されてね、学業でも優秀な成績を収め、このミアレでもそのスタイリッシュさで有名になってねぇ……」
「すみませんでした」
レイアが固い声で謝罪する。キョウキとセッカとサクヤは俯いたまま、黙り込んでいる。
プラターヌ博士は寂しげな表情ながら、四つ子に語りかけた。
「それで四つ子ちゃんはボクの研究所に寄りづらかったのかな。ボクもあの事件というか、事故のことは聞いたし、トキサのお見舞いにも行ったよ。……そうだ、四つ子ちゃん、トキサから伝言があるんだった」
四つ子は緊張した目で、プラターヌ博士を見つめた。博士の隣でカルネは背筋をまっすぐ伸ばしたまま、静かに目を伏せていた。
「――“寿司を奢る約束、忘れてない”、だってさ」
プラターヌ博士はわずかに瞳を潤ませていた。
それを見てしまった途端、四つ子までどうにも切なくなり、体裁を保つのに難儀した。
それから、カフェ・ソレイユで、四つ子はプラターヌ博士とカルネと暫く談笑した。
四つ子の旅の話、故郷で学生をしている幼馴染の話、養親の話、気難しい裁判官の話、愉快で呑気なポケモン協会の職員たちの話。
四つ子がクノエシティでタマゴから孵した四組の双子のイーブイのことを、プラターヌ博士とカルネは知っていた。
「そうそう、ミアレ出版の雑誌で有名になってたよねぇ!」
「ええ、あたしも見た! ビオラちゃんのお姉さんの、パンジーさんの記事だったよね」
「今、そのイーブイたちを進化させようとしているところなんです」
「現在イーブイの進化系は八種類確認されていますので。八匹をそれぞれ違う形態に進化させようと思ってて」
キョウキとサクヤが説明する。それが面白いのか、プラターヌ博士とカルネは笑顔をほころばせた。
「いいねぇ、面白いねぇ! あ、じゃあさてはミアレの石屋に、進化の石を買いに来たんだね?」
「そういうところです。シャワーズとサンダースとブースターにはもう進化させまして。これから二手に分かれて、リーフィアとグレイシアに進化させに行こうかな、と」
「うんうん、苔むした岩と凍り付いた岩だよね。捜すのちょっと大変かもしれないけど、頑張って!」
カルネが声援を送ると、さすがの性悪のキョウキまで心洗われたような笑顔になった。
しかしレイアが苦い表情で、プラターヌ博士に尋ねる。
「で、そこまではいいんすけど……。博士、“懐く”と“仲良し”って、どう違うんすかね……?」
「ああ、エーフィとブラッキーは懐き進化で、ニンフィアは仲良し進化だと言われているねぇ!」
プラターヌ博士はうんうんと大きく頷いた。
「そうそう、その違いが難しいんだよね。一般的には、ブラッシングやマッサージなんかをしてあげると“懐いて”、一緒に遊んであげると“仲良くなる”そうだよ」
「……違いが分かんねぇ!」
レイアは頭を抱えた。カルネが笑いかける。
「そうね、エーフィやブラッキーに進化してほしい子は、あまり瀕死にはさせないこと。道具を使ってあげて、漢方薬は与えないように気を付けてね」
「……うっす」
レイアは頭を抱えたまま頷いた。
不知火 昼
キョウキは不機嫌だった。フシギダネを膝の上に乗せ、フシギダネの背中の植物を弄っている。フシギダネはされるままになっている。
セッカはキョウキの肩に無邪気にしなだれかかった。
「ねえ、きょっきょー……」
「なに」
「おなかしゅいたぁー……ごはん食べよぉー……」
「レイアとサクヤと、食べておいで」
「きょっきょもいっしょに行くのぉー……」
セッカがいやいやと駄々をこねると、キョウキはとうとう溜息をついた。セッカにデコピンを食らわす。
「セッカ。僕はミアレが、本当に嫌いだ」
「俺も好きではないけど。でも、お腹すいたもん」
「僕はここを早く出たい。お昼を食べたらすぐ、僕はサクヤと一緒にフウジョタウンに向かってもいいかな?」
するとセッカは目を見開き、小鼻を膨らませた。キョウキの肩を揺すってぴゃあぴゃあと叫ぶ。
「今日は一緒にいようって言ったじゃん!」
「でも、ここだと休めない。本当に腹立つことばかりだ……」
キョウキは両腕をセッカの首周りに回した。優しくセッカを抱きしめつつ、ぼやく。
「本当に、なんで、ただポケモンを育てて戦うばかりの生き方しかしてないのに……。どうして騒ぎ立てられるのかなぁ。世の中にはトレーナーはたくさんいるのに……」
「……きょっきょ?」
「セッカ、僕はね、怖いんだよ。たぶんね」
セッカは瞬きした。睫毛がキョウキの頬をくすぐり、キョウキは軽く笑う。
「ちょっと、くすぐったいから目ぇパチパチしないで。……あのね、僕は人が怖いんだ。特に怖いのはマスコミだね。メディアだ」
「マスコミ? ……メディア?」
「新聞とか雑誌とかテレビとかさ。特に最近は、ホロキャスターなんてものがあるから……」
キョウキがふうと溜息をつく。
セッカはキョウキにくっついたまま、ひどく深刻そうな表情になった。
「――滅びの……キャタピー…………?」
「ホロキャタピーか。かわいいね。ホロキャタピーはフラダリラボの製品だよ。受信したホログラムの映像データをいつでも観れる装置さ」
キョウキはセッカに腕を回したまま、ロビーいた他のトレーナーを顎で示した。
メェークルを連れた女性のトレーナーが、機械から立体映像を出してそれを覗き込んでいる。電話でもしているようだ。映像だけでなく、音声も出せるらしい。
「セッカも見たことくらいあるよね」
「あ、あるかも。滅びのキャタピー!」
「あんまり他人のホログラムメールをじろじろ見ないんだよ」
「あい」
セッカはおとなしく首を縮め、キョウキにすりすりと頬ずりした。キョウキもまんざらでもなさそうにしている。レイアとサクヤはロビーのテレビで、ぼんやりとニュースを眺めていた。
キョウキは静かに囁く。
「僕はホロキャタピーは嫌いだな。キャタピー……じゃなかった、キャスターのお姉さんがね、怖いからね」
「キャタピーのお姉さんなんて超かわいいと思うけどなー」
セッカはのんびりと呟いた。
ポケモンセンター内の食堂でそそくさと食事を済ませ、四つ子は再びミアレの街に出た。
メディオプラザを通り過ぎ、南のプランタンアベニューに入る。
不思議なにおいのする漢方薬局で、四つ子はそれぞれ力の根っこと復活草を購入した。
ここはバッジを一つしか所持しないセッカでも効果の大きい薬を購入できる、貴重な店である。店中の壺や瓶にいっぱいの乾燥した葉や根などが詰められており、ミアレでも特に面白い趣の店だ。
レイアの小脇に抱えられたヒトカゲは嫌がって身をよじり、レイアの腕に爪を立てる。キョウキの頭の上のフシギダネは無表情になっている。セッカの肩の上のピカチュウはセッカの頬をいやというほど引っ張って拒絶を示している。サクヤの両手に抱えられたゼニガメは大騒ぎし短い手足でじたばたと暴れまわる。しかし四つ子は有無を言わさず、とても苦い漢方薬を購入した。
続いて、漢方薬局の隣の石屋に四つ子は入った。
キョウキが歌うように注文する。
「水の石、雷の石、炎の石を一つずつくださいな」
「6300円、頂戴します」
「高っ」
セッカが呟く。漢方薬局でも多額の出費を強いられたと思ったら、進化の石も大概である。
店の奥の棚の中には、キラキラと輝く色とりどりの進化の石が並べられていた。宝石のように美しいのに、ポケモンに力を与えるエネルギーを秘めている。いや、エネルギーを秘めているからこそ、美しい色彩を放って輝くのか。
「お買い上げになりますか?」
「買います。セッカ、2100円出して。僕が4200円だ」
「あううー……はい……」
セッカは渋々と財布から大金を取り出し、キョウキに渡した。キョウキを経由し、店員に手渡される。
そしてキョウキは三色の進化の石を手にした。泡沫の湧き出る水の石、稲妻の走る雷の石、灯火の揺らめく炎の石。
キョウキは炎の石をセッカに渡した。
「はい、セッカ」
「うん。これで進化できるな、イーブイたち」
セッカは離れていった大金のことはさっさと忘れて、にこりと笑った。そして店内で、ボールから赤色のリボンを耳に巻いたイーブイを出した。
「瑪瑙、出といで」
「瑠璃、琥珀」
キョウキも二匹のイーブイをボールから出す。青色のリボンのイーブイ、黄色のリボンのイーブイである。
それぞれのリボンの色に応じた進化の石を近づける。
小さなイーブイはその美しい煌めきに惹かれるように、細い前足を伸ばした。
石に触れる。
三匹の小さなイーブイが、眩い光を放った。
「しゃう」
「さんっ」
「しゅたー」
小さなシャワーズの瑠璃、サンダースの琥珀、ブースターの瑪瑙が、きょろきょろと自分たちの変わった姿を見回している。
四つ子は久々に目の当たりにした進化に、表情を輝かせた。
「うおおおおっ、超いいじゃん!」
「ああもうかわいいかわいい――可愛さの中にかっこよさがにじみ出ているね!」
「超いかす! もふもふ! もふもふもふもふ!!」
「ああ、随分と頼りがいのある見た目になったな」
キョウキは両腕でシャワーズとサンダースを抱き上げる。セッカはブースターを抱き上げる。そして再びひとしきりきゃあきゃあと騒いだ。
「わああシャワーズちゃんつるっつる! ほんとすべすべお肌! 潤いやばいね! サンダースちゃんは滑らかでぴしぴしで鋭い感じ! なのにふわふわ!」
「あったかブースターちゃんやっべぇもふもふもふもふもふもふ!!!」
はしゃぐキョウキとセッカの二人をまじまじと見つめ、レイアとサクヤの二人は、早く自分のイーブイ二匹も進化させようとひそかに心に決めた。
プランタンアベニューの突き当りに、ポケモン研究所が見えてきた。
つい先ほど進化によって思いっきりテンションを上げていた袴ブーツの四つ子は、途端にテンションを下げた。
真顔になったのは四つ子のトレーナー達だけである。四つ子のそれぞれの相棒であるヒトカゲ、フシギダネ、ピカチュウ、ゼニガメはかつて育った研究所を目にして、逆にそわそわしだした。
「……んだよ、博士に会いてぇのかよ……?」
レイアが歩きながら、脇に抱えたヒトカゲに問いかける。ヒトカゲはうんうんと頷いた。
「プラターヌ博士かぁ。旅立ちの日以来、お会いしてないなぁ」
頭にフシギダネを乗せたキョウキがほやほやと笑う。フシギダネも笑顔である。
「会いたいかも。でも……博士、ミアレでの事件のこと、絶対知ってるよなぁ……」
肩にピカチュウを乗せたセッカは、思わず肩を縮めてピカチュウに文句を言われている。
「それに、博士から頂いたまさにこのゼニガメたちで、事件を起こしたからな。……何と思われているやら、だな」
はしゃぐゼニガメの甲羅を両手で抑えるサクヤが、静かに囁く。
四つ子はプランタンアベニューの中ほどで、一瞬立ち止まった。
そして何も言わず、四人揃ってそそくさと早足になった。
プランタンアベニューの突き当りに近づくほど騒がしくなるヒトカゲとピカチュウとゼニガメを押さえ、泰然としているフシギダネだけはそのままで、四つ子は素早くサウスサイドストリートになだれ込み、滑らかに右折した。西へ向かう。
プラターヌ博士の研究所が、背後に遠ざかっていく。
ヒトカゲはきゅうきゅううと涙声で鳴き、フシギダネは珍しく僅かに低い声で鳴き、ピカチュウは怒り心頭でセッカに電撃を浴びせ、ゼニガメは喚きながら手足を思い切りばたつかせた。
しかし四つ子は、旅立ちの世話をしてもらった研究所には、近づかなかった。
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