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そして、その次の日の放課後、カイトは家に帰る前にこっそりリンゴの樹の下に、図鑑を置きに行きました。
万一ポケモンのいる世界に飛ばされた時のことも、もう考えてありました。だから、突然周りの景色が変わっても、カイトはもう怖くありませんでした。
カイトはまた、あの公園か遊園地のような場所に立っていました。
けれど、今のカイトは怯えてリンゴの樹に寄りかかったりはしません。むしろ、ポケモンのいる世界をちゃんと見るんだ、と、背筋を伸ばし目をりんと張って周りを見渡しました。
通り過ぎる人たちは皆、とても楽しそうです。虫取り網のようなものを持って勢い良く駆けていく男の子の後ろを、色鮮やかなトンボのポケモンがついついと追いかけていきます。男の子の頭に止まって羽ばたいたら、そのまま一緒に飛べそうなくらいの大きさです。
カイトの前方、どうやらこの公園だか遊園地だかの入り口らしいゲートのあたりで井戸端会議をしているおばさんたちの足元では、青くて真ん丸なハムスターのようなポケモンと、茶色い大きな尻尾のポケモンがじゃれあって遊んでいます。
「いけ!コラッタ!」
元気のいい声がどこかから聞こえてきて振り返ると、奥の少し開けたところでカイトと同じくらいの年の子たちが離れて向かい合い、その中央で二匹のポケモンがぶつかり合ったり、追いかけあったり、跳びかかったり避けたり、何やら激しく争っていました。その周りに男の子や女の子が何人か集まって、わいわいとはやし立てています。やっていることはポケモン同士のケンカのようですが、それを取り囲んでいる人間たちはケンカの雰囲気ではありません。手紙にあった「ポケモンをバトルさせたり」という一文をカイトは思い出し、あれがそうかと納得しました。
「ガーディ、ひのこ!」
その声に答えた小さなトラのようなポケモンが、ボワッと小さな炎を吐き出したのが見えたので、カイトは目を見開いて驚きました。
(ポケモンって、あんなこともできるんだ…)
毒を持っていたり、火を吹き出したりするような生き物を、よくも同い年くらいの子供が面倒見ていられるなぁと、カイトは感心する反面、恐ろしくもなりました。どう考えてもあんな生き物を捕まえるのに普通の網なんかでは無理です。カイトのところだったら大人が何人もかからないと無理でしょう。本当にポケモンを捕まえたり面倒を見るときに佐渡君やあの子たちはどうしているのだろうと、カイトは不思議に思いました。
それからカイトはリンゴの樹の下で、少しだけ待ってみました。若草色の四本足の生き物が、大きな葉っぱを揺らして走ってくるのを。あるいは、紫色のトゲだらけのウサギが、角をふりふり飛び跳ねながらやって来るのを。そして、それを追いかけてやって来るであろう、しっかり者そうな男の子を。
でも、どれも起こりませんでした。いつまでもリンゴの樹の下でぼうっとしているカイトを、次第に周りの人がチラチラ見ていくようになりました。
(…やっぱりダメか)
カイトは2つの計画を立てていました。もしもここで少し待っていて、佐渡君がやって来てくれたら、手紙は無しでそのまま話をするつもりでした。持ってきた図鑑を見せれば佐渡君はカイトのことが分かるでしょうから、カイトはまず図鑑を返してくれたことと手紙のお礼を言い、手紙に書いてあった質問に答え、それから色んな話をしたいと思っていました。
でも、どうやらそれは叶わないようでした。ここにいつまでもいると今度はここの人たちにカイトが怪しまれてしまいます。なのでまた、図鑑を置いて学校に戻るしかありませんでした。
「ぽっぽう、ぽっぽーう」
あのもさっとした茶色い鳥のポケモンが、少し遠くの地面からカイトを呼ぶように鳴いています。白い眉毛のような羽がおじいさんみたいで、どこか親しみのある顔をしています。カイトはどうしてこんなのを怖がっていたんだろうと思いながら、そっとしゃがんで、その鳥に気を取られているふりをしました。チチチ、と舌を鳴らしたり、手招きでおいでおいでをしてみたり。茶色い鳥は不思議そうに首を曲げてカイトを見るだけです。でもそうしていると、周りの人もカイトがポケモンとじゃれているだけだと思うのか、不審そうな視線を向けてくることはなくなりました。
鳥ポケモンの相手をしながら、カイトはこっそり人の行き来を見計らいます。周りに誰もいなくなった瞬間、カイトはそっと「日本の昆虫図鑑」を地面に置きました。
そしてすくっと立ち上がると、思いっきり入口のゲートの方へ走り出しました。
そうしてカイトの周りは、テレビのチャンネルを切り替えるように元の校庭の風景に戻ったのです。
「やっぱり…」
カイトは立ち止まり、フェンスとリンゴの樹に囲まれたいつもの空間を、確かめるように一通り見渡しました。自分が立っている場所を見下ろし、振り返ればすぐ後ろにリンゴの樹があります。カイトは確信しました。自分がポケモンのいる世界にいられるのは、このリンゴの樹の下にいる時だけだということを。リンゴの樹の葉が届く場所から一歩出れば、元の学校に戻ってしまうのです。
でも、どうしてなのでしょう。考えてみれば、このリンゴの樹が、ポケモンのいる世界にあるものとそっくり同じなのも不思議ですし、カイトの他にこういう経験をしたという人も聞いたことがありません。特に今は「ニュートンの幽霊」騒ぎでこの樹を訪れる生徒が増えているのに、こんなことがあったら絶対に学校中に広まっているでしょう。
カイトは腕を伸ばして、リンゴの樹の葉っぱに触れてみました。何の変哲もない普通の緑の葉っぱです。不思議な力があるようには見えません。
(でも、もしかしたら、実はこの樹もポケモンだったりして…?)
葉っぱを静かに撫でながら、カイトはそんなことを考えました。火を吹いたり毒の角を持っていたりするポケモンが当たり前にいることを見知ったばかりのカイトです。人をワープさせる力を持ったポケモンがいてもおかしくないと考えるのも自然でした。もしもこの樹がポケモンだとしたら、もしかしたら実はよく側にいるカイトに懐いていて、カイトだけにこっそりワープの力を使わせてくれているのかもしれません。
誰もいない校庭で、カイトは小声でリンゴの樹に呼びかけてみました。
「ねぇ、君はポケモンなの?」
リンゴの樹は何も答えません。枝をカイトの方に差し出して頭を撫でてくれたりもしません。自然の風にまかせて、ざわざわと枝をなびかせるだけです。
カイトは自分の考えがさすがにいきすぎていたのを思い知り、一人で顔を赤くしました。でも、それでもこのリンゴの樹がただの樹だとは、どうしても思えなくなっていました。カイトはまず自分の友達に、リンゴの樹の下に行った時に変なことが起きなかったか、聞いてみなければならないと感じました。本当は佐渡君にこの樹の秘密を何か知っているか聞いてみたいのですが、今日はもう校門が閉まる時間が迫っています。カイトは何度も振り返りながら、校庭を後にしました。
***
7/6 6:00 PM
ユウマが公園からの帰りにその図鑑を見つけたのは、もう落ちかけの夕陽が遠くの山に触れる頃でした。
このところユウマの学校は早くに終わります。給食もありません。午後の時間割は、旅に出るための準備や、捕まえたりもらったりしたばかりのポケモンと触れ合う時間を作るために、丸々無しになるのです。だから、授業が無しになったからといってユウマ達は暇になるわけではありませんでした。ポケモンを捕りに行ったり、バトルしたり、旅のための道具を買いに行ったり手続きに行ったり、それぞれ色々と用事があるのです。
この日のユウマは、友達同士で「旅に出るときまでにポケモンを鍛えよう」ということになって、公園でちょっとしたバトル大会をしていたのでした。といっても、ユウマのチコリータは怖がりだし、ニドランは気まぐれ。うまい具合に言うことを聞かせるのも一苦労で、バトルの成績は全然ダメでした。
(ミナト君のガーディ、凄かったなぁ…僕もあんな風にバトルできればいいのに…)
とぼとぼうつむいて歩くユウマのちょっと前を、鼻高々に歩いて行くのが、今日のバトル大会で一番の成績、全戦全勝だったミナト君です。ガーディの入ったモンスターボールを両隣の友達に見せながら、捕まえた場所やら育て方のコツやらを得意気に話して聞かせています。別に仲が悪いわけではないけれど、今のユウマはその輪に混ざる気にはなれませんでした。
下を向いて歩くユウマの視界に図鑑が飛び込んできたのは、そんな時でした。
「日本の昆虫図鑑」
リンゴの樹の案内板の下に、いつもと同じように、図鑑が置いてあります。ユウマはそれを見た途端、自分が何を落ち込んでいたのかも忘れてしまいました。ユウマが立ち止まっても、ミナト君たちは何も気付かずにおしゃべりに夢中なまま、先へ歩いていきます。それはユウマにはかえってありがたいことでした。ユウマは周りを見回し、誰にも見られなようそっと案内板の前に立ちました。
景色が移り変わります。
ユウマは夕暮れの色に染まった校庭の隅、リンゴの樹の下に立っていました。地面に落ちていたはずの図鑑はやはり、最初からそうであったようにベンチの上に置かれています。そのこと自体も不思議は不思議なのですが、それを言えばリンゴの樹以外の全てが一瞬で全く違う景色になってしまっていることがそもそも不思議なので、ユウマは不思議で頭がパンクしないように、あまり難しいことを一度に沢山は考えないようにしました。
ユウマは図鑑を拾いあげます。表紙の写真に写っているのは、何かの樹の幹につかまっている虫です。その姿はヘラクロスを小さくしたような、いや、そんな言葉では足りません。まるでお菓子のおまけについてくるオモチャのようです。こんなに小さいのにちゃんと生きていけるのかと心配になるくらいです。
ともかく、ユウマが「日本の鳥類図鑑」に手紙を挟んで返したのが昨日の朝方のことでした。そして今「日本の昆虫図鑑」がこうしてここにある理由。それは一つしか考えられませんでした。
1ページ1ページを確かめるようにパラパラと図鑑をめくっていくと、あるページに半分に折られたノートの切れ端が挟まっていました。そっと開くとそこには「始めまして」から始まる長い文章がありました。
それを見たユウマがどんな気持ちだったか。嬉しい、驚き、どうしよう、どれも合っていて、それでいてどれとも違います。一つや二つの単純な言葉では足りません。全身が弾けそうで、まぶた一つも動かせません。ユウマは自分がちゃんと息をしているのかどうかもわかりませんでした。
どれくらいそうしていたか分かりません。随分長かったような気がします。我に返ったユウマが瞬きをすると、右目から涙がつうっと流れだしたので、慌ててそれを腕で乱暴に拭いました。それから手紙が落ちないように手紙を元のページに深く挟み、その図鑑を大事にリュックにしまいました。
案内板の前に戻ってきたユウマが家へ戻ろうと歩き出した途端、
「あ!!ユウマそこにいたんだ!」
ユウマの後ろから大きな声がしたかと思うと、あちこちから
「見つかったの?」
「佐渡君、いたんだ!」
という声と共に、今日のバトル大会で一緒だった友達がバタバタとユウマの周りに集まってきました。ミナト君も一番遅れて走ってきて、ユウマの前でゼイゼイと息をつきました。
友達の一人が
「佐渡君、どこに行ってたの?いきなりいなくなっちゃったから、みんなでずっと探してたんだよ」
と、心配そうに聞きました。ユウマはとっさにうまく答えられずに
「え、ええっと、ちょっとトイレに」
と口ごもりました。すると何故か言葉の代わりに涙が頬を伝い、ユウマはまた慌てて涙を拭って何でもないふりをしようとしました。何しろ友達の前なのです。泣くのは恥ずかしいのに、何故か涙は後から後から溢れてきます。
すると友達はみんな、ユウマがバトルで負けて悔しくて、隠れて泣いていたのだと思ったのか、口々に励ましの言葉をかけてきました。ミナト君などは、今度チコリータとニドランのトレーニングに付き合う、などと申し出をしてくるほどでした。
ユウマは元々は違う理由で泣いていたのですが、みんなの気持ちが嬉しくて、もう勘違いされてもいいような気持ちで、ミナト君に肩を貸してもらって泣きました。
ユウマは夕闇の中、友達に支えられながら、家に続く十字路まで一緒に帰りました。
7/6 8:00 PM
あれほど拭っても拭っても流れっぱなしだった涙は、何故か家に帰ると同時にピタリと止まってしまいました。ユウマは何でもないような声でただいまを言うと、手を洗うついでに顔を水でビシャビシャ洗い、涙を全部洗面所に流してしまいました。
この頃は、遅くなっても家族はあまりとやかく言いません。旅に出るような年になったらもう一人前の大人ですし、その証としてのポケモンだって連れているのです。
代わりにこんなふうに言われます。
「あなたももう大人と同じなんだから、自分のことは自分で面倒見られるようにしときなさいよ。旅に出たら、暗くなっても電気とご飯とお風呂があるお家に帰れるわけじゃないんだからね」
はあい、と生返事をしてユウマは温かいお味噌汁を飲み干します。お母さんの言っていることも大事なことですが、今のユウマにはそれ以上に大事なことがあるのです。
お風呂に入り、歯磨きをして、ユウマは自分の部屋に戻ります。
そしてリュックから「日本の昆虫図鑑」を取り出し、そこから一枚のノートの切れ端を丁寧に抜き出しました。
そしてユウマは手紙の返事を読みました。上から下まで、何度も繰り返して読みました。
ポケモンのいない世界。野生の動物は捕まえてはいけなくて、「ペット」の動物はお店で買ってくる世界。ユウマにはそれがどんなものか想像もつきませんでした。
けれど、今までの図鑑に載っている生き物たちがみんな、人間の方を向いていない、向いていてもキッと睨んだような目つきばかりだった理由は、なんだか分かった気がしました。
大沢君のいるところでは、野生の動物達と人間は、住む世界がはっきり分かれているのです。きっと人間と動物たちの間で、お互いにそれを侵してはいけない、ということになっているのでしょう。
不思議なことがありました。手紙に描かれていた「犬のゴロ」の絵に似た生き物を、ユウマは「日本の動物図鑑」で見た覚えがないのです。半分垂れた耳をした、強いて言えば「ホンドギツネ」を太らせたような感じのその絵につけられた説明は
「雑種犬」「4さいの時に近所の人にもらった」「色は茶色」「『待て』が得意、ずっとできる」「時々だっ走する」
というものでした。「雑種犬」とはまた、初めて聞く名前です。これまで読んできた図鑑には野生の生き物しか出てこなかったことと合わせて考えると、野生の動物を捕まえてはいけない代わりに、それとは別にペットの動物がたくさんいるのかもしれません。そして、その中には、ポケモンに似た生き物もいるのかもしれません。
(もしかしたらこの「待て」っていうのが技なのかもしれない…じゃあタイプは…書いてないからわかんないな…やっぱ無いのかな…)
ユウマはこの「犬のゴロ」の絵と説明から、なんとかポケモンに似たところを探そうとしてみましたが、これだけでは詳しいことは何も分かりません。文章の残りのほとんどは、ユウマがどういう暮らしをしているのか、というような質問ばかりでした。ユウマの方こそ、聞きたいことはたくさんあるのに、これでは何度手紙を送り合ってもきりがありません。それに、きっかり二週間後には、もうユウマは旅に出ることになっているのです。
大沢君の方でもなんとかこちらと連絡を取りたい、会いたいと思ってくれているようで、手紙の末には、エンジュシティへの行き方を教えてほしい、と書かれてありました。でもそんなのは、ユウマの方だって知りたいことなのです。
この間ユウマは、ジョウト地方のガイドブックを買ってもらいました。ポケモンセンターや宿泊施設の場所、どの道路にどんなポケモンがいて、どんな名所があるのか、そういうことが全部詳しく書いてある優れものです。でも「日本の京都」などという地名は確かどこにもなかったし、この書き方からするとおそらく地方からして違っていそうです。そうなると旅もこれからのひよっ子トレーナーが簡単に行き着ける場所ではないように思えました。
いえ、今のところ、確実に「日本の京都」にすぐ行ける方法が、一つだけありました。その方法は手紙を読むと、どうやらお互いに知っているやり方なので、うまくすればユウマと大沢君はきちんと会って話ができるかもしれません。けれどこの方法は、お互いに分かっていないことが多すぎて、うまくいくかも分かりません。
でも、ユウマにはその方法しか考えられませんでした。ユウマは決心すると、机からまたフシギダネの便箋を取り出し、返事を書き始めました。
「こんにちは。返事をくれてありがとうございます。
犬のことや大沢君の住んでいる場所のことを色々教えてくれてありがとうございます。
前にも書いたけど、旅に出なければいけないので、手紙はもうたくさんは書けないのでごめんなさい。
それから、京都からエンジュシティへ来るやり方は、ぼくも分かりません。ごめんなさい。
でもぼくも大沢君と話がしたいので、リンゴの木の下で待ち合わせをしたいと思っています。大沢君は、休みの日に校庭に来ても大丈夫ですか?もし大丈夫なら、今度の日曜日(7月11日)の午後1時に、何でもいいから図鑑を持ってリンゴの木の下に来てください。もしダメなら、いつが大丈夫か手紙を書いてください(長くても返事がかけないので短く書いてください)」
必要なことだけを簡単に書いた手紙です。書き終えてユウマは、そういえば大沢君の住んでいる京都と、エンジュシティのカレンダーは同じなんだろうか、と疑問に思いました。でも、ユウマが早朝に公園へ向かった時は、校庭でも朝日が登る頃だったし、昼も夕方も、ユウマのところと大沢君のところで違いがあるようには思えませんでした。
大沢君のところで雪が降っていたり、木々が紅葉していたり、というのも見たことがないし、昼が一番長いこの時期の格好であの校庭にいても、寒い思いをしたことはありません。ということは、時間や季節は大体同じ、と思っていいでしょう。日にちが一緒かまでは分からないけど、もしダメなら返事をくださいとも書いたことだし、多分これで分かってくれるだろうと思い、ユウマは鉛筆を置きました。
手紙を入れる前に、また一通り「日本の昆虫図鑑」を眺めてみます。今までも大沢君のいるところの生き物の小ささに驚いてきたユウマでしたが、今回の図鑑に載っている昆虫たちといったら、これが本当に生き物なのかと目を疑うほどでした。なんといっても、表紙に映っているオモチャのヘラクロスみたいなのが、昆虫の中では一番に大きい方なのです。ゴマ粒ほどの羽虫、指先ほどのてんとう虫、花に埋もれるくらいのチョウ。虫ポケモンがこんなのだったらモンスターボールにそのままの大きさで入ってしまいそうだし、その前にモンスターボールなんてものをぶつけたら、それだけで弱って死んでしまいそうです。
「小さな虫なら勝手につかまえても大丈夫」と手紙にありましたが、確かにこんなちっぽけな生き物たちまで捕まえるのを禁止していたら、きりがないでしょう。
もしもこんなに小さくて美しいものたちを捕まえてもいいのなら…ユウマはこの小さなチョウたちを両手の中に収めてみたいと思いました。てんとう虫が人差し指の先から飛び立つのを、見てみたいと思いました。スズムシやコオロギが美しい声で鳴くのに耳をすませてみたいと思いました。
ユウマはこんなきれいで神秘的な生き物たちに囲まれて暮らしている大沢君を羨ましく思いながら、一番きれいだと思った「アゲハチョウ」のページに便箋を挟み、またリュックに戻しました。
それにしても―
本当に、こんな面白い不思議な生き物のことをだれも知らないのでしょうか。本当に、こんな精巧な生き物たちはここにはいないのでしょうか。
シマリスやニホンアマガエルのことを聞いた時は、知っている人はいませんでしたが、あの時のユウマはちらりと名前を出しただけでした。
もし、もしも。
この図鑑を見せて人に聞けば、誰か一人くらいは「あ、モンシロチョウだ、知ってるよ!」と言ってくれる人がいるのではないでしょうか。こんなに小さな生き物たちならどこにだって隠れて数を増やせるだろうし、あるいは―
ユウマの心臓がドクンと鳴りました。そもそも、この図鑑はいつもリンゴの樹の案内板の下に堂々と落ちているのに、なぜ誰も気にせず通り過ぎていくのでしょう。なぜユウマだけがいつもいつも気づいて、拾っていくのでしょう。確かに案内板の前でいちいち立ち止まるのはユウマだけです。けれど、それにしたって、これまで本当に誰も気づかなかった、なんてことはないはずです。
ユウマは再びリュックから図鑑を取り出しました。そして便箋を抜き取り、また図鑑だけをリュックに入れました。
手紙はすぐにでも出したい気分ですが、その前にどうしても確かめたいことが会ったのです。
それからいつものようにポケモン達の世話をして、眠り、次の朝を迎え―
7月2日 午後0時57分
カイトは図書室で、物語の本を読んでいました。トガリネズミのおじいさんが、若いころにした冒険を孫のネズミ達に語って聞かせるお話です。でもなんだか、読んでいる、というよりも、開いた本を両手に持っている、という方が正しいようでした。簡単な文章のはずなのに、文字が目の上でつるつる滑って、頭の中まで入ってこないのです。
カイトは同じページの同じ行を見つめたまま、しばらくボーっとしていましたが、やがてその本を棚に戻し、別な本を持ってきました。映画にもなった有名な、魔法使いの男の子の物語です。けれど、これはさっきの本にも増して、今のカイトの手に負えないものでした。魔法使いたちの楽しげな授業も華やかなパーティーも、白いページの上の黒い模様の向こう側で、カイトのことなんか構わずに行われていることでした。
それでもなんとなくこの話の筋は覚えていたカイトは、この話がどのように始まったかを思い出した途端、背筋を冷たい手で撫でられたような気分になりました。
この話は、普通の男の子だと思っていた主人公のもとに魔法の世界から手紙が届いて、地下鉄の壁を通り抜けて魔法の世界へ行くところから始まるのです。
カイトの頭の中で悪夢のように大きなてんとう虫が飛び始め、茶色いもそっとした鳥が「ぽっぽぅ!」と鳴きました。その瞬間カイトの体中に鳥肌が立ちました。そして大慌てで本を戻し、今度は何も持たずに椅子に戻り、ぐったりと机にうつ伏せてしまいました。どんな物語の世界も、もう人事と思って楽しめる気持ちではなくなってしまいました。
リンゴの樹の下でオバケを見てから、カイトは一度もリンゴの樹の側へ行くことも、その姿を見ることすらも避けていました。だから昼休みもこうして、先生に見つからないことを祈りながら図書室にいるのでした。
とん、と肩を叩かれてカイトはびくりと体を震わせましたが、なんてことはない、クラスメイトのユウイチでした。ユウイチはヒソヒソ声でカイトに聞きました。
「なあ、ニュートンの幽霊見たってマジ?」
あのリンゴの樹はどうやら「ニュートンの幽霊がリンゴのオバケを連れて出る場所」として変に有名になってしまったようでした。もちろんこれはカイトの見たものとは全然違います。外に出たがらないカイトに、ハヤタがしつこく理由を聞くので、仕方なく
「変な黄緑色の、葉っぱが生えた動物を連れた子供のオバケをいつもいる樹の下で見た」
と答えたら、それがおかしな風に広まってしまったようなのです。あの生き物はリンゴとは似ても似つかない姿だったけど、じゃあ他の何に似ているかと言うとどうとも言えず、訂正するにしてもどう説明したらいいのかカイトには分かりませんでした。
「ニュートンじゃないってば…ただの子供のオバケだよ、多分」
カイトが面倒そうに言ってもユウイチは聞きません。
「絶対ニュートンだって!今から一緒に見に行こうぜ」
ユウイチの頼みを、やだよ、と跳ね除けて、カイトは再び机に突っ伏しました。
夏休みも目の前だというのに、梅雨の雨雲の中に引き戻されてしまったような気分でした。
***
7/4 8:00 PM
ユウマは自分の部屋で、ニドランの毛を慎重にブラッシングしてやっていました。少しずつ仲良くなってきたとはいえ、ブラッシングで力の入れ方を間違えると、ニドランはすぐに怒るのです。でも、何度か失敗を繰り返し、手痛いキックを何度も受けるうち、例え怒ってもその毒の角をユウマに向けるつもりはどうやらないらしい、ということが分かってからは、ずいぶんとこのニドランに対して余裕を持って接することができるようになりました。
「チコ!」
不服そうな声をあげて、チコリータがぴょこぴょこと飛び跳ねます。自分のことも構って欲しい、という合図です。
「チコリータは後でやってあげるね」
そう言って、側にあったモンスターボール柄のゴムボールを転がしてやると、チコリータはぴょいと飛びついて、前足で転がしたり葉っぱで仰いでみたりして、楽しげに一人遊びを始めました。
無心にポケモンの世話をしていると、あの図鑑のことを忘れられます。ユウマにとってつかの間の、ほっとできる時間でした。
図鑑を持って逃げた日から、ユウマはあの図鑑を開くことはおろか、見ることすらできずに机の奥に突っ込んだままにしてしまっていました。自分は大沢君の目の前で、あの図鑑を持って逃げてしまった。そのことが重く心にのしかかって、図鑑を見るたびにあの自分を呼び止める声が頭に蘇ってしまうのです。
「あの、その図鑑、僕の…」
この声が頭に響くたび、ユウマは心がズキンと傷んで、その場で胸を抑えたくなるほどでした。
でも、忘れたいと思うことほど、ふとした瞬間に思い出してしまうものです。ニドランのブラッシングを終えて、チコリータのブラッシング―というよりほとんどブラシで軽く撫でてあげるだけのものですが―のために柔らかいブラシを取りに立ち上がったユウマは、目線の先にあったカレンダーを見た瞬間に図鑑のことを思い出して、ずんと胸が重苦しくなりました。
日付が並んでいるその上には、青い海と山吹色の砂浜に、ゼニガメがサングラスをしてベンチに寝そべっている絵。カレンダーはもう7月になっていました。そして、1つだけ赤い丸で囲ってある日付が、夏休みの始まり、つまりユウマが旅に出る日です。それは20日のことですが、もう今は7月も4日の夜です。旅に出るまで2週間ちょっとしかありません。旅に出るために必要なものだって、いくつか用意し始めています。傷薬や状態異常を治す薬一揃い、地図、モンスターボール、そういうものが机の脇にまとめて置かれていました。
つまり図鑑を返そうと思ったら、もう時間が2週間くらいしかないのです。大沢君がその間にユウマを許してくれるか、どころか、そもそもユウマと会えるかどうかも分かりませんし、もしかしたらリンゴの樹の不思議な力が突然無くなってしまうかもしれません。でも、どうしても大沢君の怯えた顔と声が頭から離れてくれません。
カレンダーを睨んだまま動かず、大きくため息をついたユウマに、放っておかれたままのチコリータが腹を立てたのか、ユウマの足元にどんとぶつかってきました。よろけたユウマの視界がぐらりと揺れました。
「いたたっ」
ユウマがその痛みで本来の用事を思い出し、慌ててしゃがんでチコリータに謝ると、チコリータは「しっかりしてよ」と言うように葉っぱを一つ振りました。ふわりと優しい香りが部屋に広がります。
その瞬間、ユウマは思いつきました。大沢君に直接会わなくても、図鑑を返して、ちゃんと謝ることのできる方法があったのです。
「そうだよ!」
思わずユウマはチコリータに話しかけました。チコリータはちょっとびっくりしたような顔をしてユウマを見返しましたが、ユウマはドタバタと足音を立ててブラシを取りに行ってしまいました。
ユウマが考えた方法は、大沢君に手紙を書いて、図鑑に挟んで「あっちの世界」のベンチの上に置いておくというものでした。チコリータのブラッシングをしながら、ユウマは一生懸命文章を考えて、それが済むとすぐさま机に向かい、机の引き出しを片っ端から開けて、居眠り中のフシギダネの絵が描いてある薄緑色の便箋を取り出し、書き始めました。
「始めまして。
図鑑を勝手に持って行ってしまってごめんなさい。
ぼくはジョウト地方のエンジュシティに住んでいる佐渡有真といいます。
本当は会ってちゃんとあやまりたかったけど、ぼくは7月20日から旅に出ないといけないので、あなたに会えないと思うので、手紙であやまります。ごめんなさい。」
ここまでで手紙は終わるはずでしたが、注意深いユウマは一度読み返してから
(もしかしたら、旅って何だろうと思われるかもしれない。ポケモンがいない世界だから、旅もわからないかもしれない)
と考え、続きを書き始めました。
「旅とは、ポケモントレーナー(ポケモンを育てている人)がポケモンを連れて、いろんな町に行ったりポケモンをつかまえたり、バトルしたりすることです」
手紙はこれで終わりませんでした。そもそもポケモンがわからないだろうし、バトルだってそうだろう、と思ったユウマはどんどん説明を付け足していきました。
「ポケモンとは、ぼくたちの世界にいるいろんな生き物のことです。ぼくたちの回りにいるのはみんなポケモンで、あなたのところにいるような動物や鳥類はたぶんいません。ポケモンはバトルをして強くなるので、みんなそうしています。うちにもいます」
ユウマは余白にニドランとチコリータの絵を描きました。絵を描いたら説明もつけたくなって、説明も付けました。なんだか永遠に終わらないような気持ちになりましたが、便箋はいつかはいっぱいになるものです。書くところがなくなれば、手紙はおしまいです。
手紙を書ききったユウマは心からほっとして、もう謝るのが済んでしまったような気分になりました。そして初めて「日本の鳥類図鑑」をゆっくり眺めようと思えるだけの余裕ができたのでした。
「日本の鳥類図鑑」を一通り読み終えて分かったことは、やはりこの図鑑の生き物とポケモンは全然違う、ということでした。分類だけでなく名前自体がポケモンと同じでも、同じなのは名前だけで、後は全然違うのです。例えば「スズメ」と「オニスズメ」は見た目も大きさも、性質もちっとも似ていません。「ハシブトガラス」と「ヤミカラス」も全く似ていませんが、ユウマは「ハシブトガラス」の方がかっこいいな、と少し思いました。
それから、やっぱりどの鳥も、とてもとても小さいように感じられます。大きいものもいるけれど、100センチを超えるようなものはほとんどいません。ピジョンやオニドリルのような、少し旅慣れたトレーナーなら一羽は連れているような鳥ポケモンが、あちらの世界では相当珍しいのかもしれない、と考えてみるとなんだか変な気持ちです。
ほとんどの鳥は、あのフェンスに止まっていた茶色い鳥―スズメのように、片手の手のひらでも余るくらいの大きさしかありません。そういう鳥が大きな鳥に進化するのかと思えば、そもそも「進化」というもの自体が図鑑のどこにも書かれていないのです。スズメは一生小さなスズメのままで、なんだか育てる楽しみも…
そこでユウマはふと、思いました。あちらの世界ではこういう生き物を育てたりバトルさせたりするんだろうか、と。そういうことに役立つ情報、例えば覚える技やタイプ、どう育てれば進化するか、など何も書かれていないこの図鑑と、小さな鳥たちの精悍な瞳とキリリと結ばれたくちばしを見ていると、なんだかどの生き物も人間なんか必要としていないように見えたのです。
ユウマは何かに突き動かされるように図鑑の「コマドリ」のページに挟んだ薄緑色の便箋をもう一度机に広げ、その隅になんとか一文書き込めるだけの隙間を見つけ、こう書き足しました。
「あなたのところでは、動物や鳥類をつかまえて育てたりしますか?」
こんなことを書いて、自分がどうしたいのか、ユウマには自分でも分かりませんでした。返事が欲しくて書いたわけではないし、のんきに文通なんかしている暇はないのです。この手紙を送ってもうおしまい、のつもりだったのです。ユウマは消しゴムでこの文章を消しました。するとまわりの文章まで一緒に消えてしまったので、それはもう一度書き直しました。
終わりまで真っ黒になったフシギダネの便箋を、ユウマはその時改めて見返しました。この世界のことや旅のことやポケモンのことを伝えようとして、いっぱいになった便箋です。
(こんなに書くつもりじゃなかったんだけど…でも)
ユウマはその文章の奥に隠された、そして自分の中でいつの間にか見えなくなっていた自分の気持ちを見つけました。ユウマは大沢君に会いたい、話したいと思っていたのです。ポケモンのいない世界と、動物のいない世界のことを。
ユウマはさっき消した質問を、同じ場所にもう一度書き直しました。それから、いろいろ考えた末に、ある一文を書き直しました。
そうして、やっと眠りにつきました。
次の朝。ユウマはズバットがねぐらに帰るより早く起きて、公園へ走ると、済んだ空気の香りがする公園から、朝日に砂がキラキラ光る校庭へ渡り、ベンチに本を置いてすぐに戻りました。
***
7月5日 午前11時
カイトがその図鑑を受け取ったのは、2時間目の終わりのことです。
担任の先生に職員室に呼び出されて、何かと思って行ってみれば、先生の机の上に、記憶の彼方へやっていたはずの「日本の鳥類図鑑」があったのです。カイトはもう、言葉も出ないほどのショックを受けました。
「2年生の子が体育の時間中にベンチの下に落ちてたのを見つけてくれたんだと、山本先生が届けてくれたんだ。いやあ、ちゃんと名札をつけてあってよかったなあ。なあカイト」
先生がそんなようなことを言っていますが、頭が真っ白で何も入ってきません。小さく返事をしながら、人形のように首を縦にふるだけです。
「あんなリンゴの樹のところで、鳥の観察でもしてたのか?さすがカイトは勉強熱心だなあ」
先生はやっぱり太陽のような笑顔をしているなあと、カイトはぼんやり思いました。こちらの調子など構わずに、百パーセントの明るさで照らしてくるのがそっくりです。
「ほら、もう無くさないようにするんだぞ」
カイトは白昼夢を見ているような気持ちで本を受け取りました。どうして返ってきたんだろう。誰が戻したんだろう。死んだ犬のゴロが突然天国から戻ってきたら、きっと嬉しいより先に同じような気持ちになるでしょう。でも、ゴロだったらきっとその後泣きたいくらい嬉しくなるけど、カイトに悪夢やオバケを見せた図鑑が戻ってきても、素直に嬉しいとは思えませんでした。きちんとした四角いフォントの「日本の鳥類図鑑」というタイトルも、表紙に写された宝石のように美しいカワセミも、どこかこの世のものでないような感じに見えていました。
ポンと手渡された図鑑を持って、ぼうっとしたまま職員室を出たカイトは、廊下の静けさの中で、途方に暮れたような気分でした。力なく左手に図鑑をぶら下げて、おぼつかない足取りで教室に戻ろうとすると、パサリと何かが落ちました。
「え?何これ…」
2つに折られたその紙を拾い上げて開き、「始めまして」の文字を一番上に見つけた瞬間、カイトは再び頭を殴られたようなショックを受けました。
(オバケからの手紙だ!!)
カイトは一瞬、怯えてその手紙を床に投げ出しそうになりましたが、職員室の前の廊下でそんなことはできません。震える指先でその「始めまして」の文字をなぞると、鉛筆の粉が指先につきました。同じクラスの友達が頑張って丁寧に書いたらこんな感じだろうな、という文字の後に、二匹の生き物の絵が描いてありました。そしてそのうちの一匹は、まさにカイトが見た、あの黄緑で頭に葉っぱがあった、あの生き物とそっくりな形です。リンゴのオバケなんかじゃない、世界の何にも似ていない謎の生き物です。絵の周りにもたくさんの文字が書いてあります。
よく見ればそれの仲間のような、背中に球根のようなものを背負ったカエルみたいな生き物が、便箋の上の方で気持ちよさそうに居眠りしている絵がプリントされています。
(どうしよう、どうしよう)
カイトは今すぐ休み時間も授業も放り出して、家に帰りたくなりました。この図鑑と手紙をどうするにせよ、とにかくまず気持ちを落ち着けることが必要でした。何せ手紙の絵はなんとか分かっても、「始めまして」から先が全く読めないくらい混乱しているのです。
恐らくそんなカイトの顔は真っ青になっていたのでしょう。3時間目の授業が始まるとすぐさま、担任の先生はカイトの顔色が酷いのを見て取り、保健室に行くよう促しました。
保健室のベッドでしばらく横になっていたカイトは、いくらか落ち着いた気分にはなりましたが、帰りたいという強い気持ちは変わりませんでした。そんなわけでカイトは保健室の先生にそう言って、慌ててやって来たお母さんの車に乗って早退したのでした。
7月5日 午後1時
「カイト、本当に大丈夫なの?熱はない?病院に行く?」
家のベッドに横になったカイトに、お母さんは心配そうに声をかけました。
「ううん、気分が悪くなっただけだから、寝てれば治るよ」
カイトはお母さんを安心させるように笑って返事をして、お母さんがそっとドアを閉めて出て行くのを見守りました。
寝転んだカイトは、自分の右手の人差し指をしばらくじっと見つめていました。家に帰ってから手をきれいに洗ったので、もう鉛筆の粉はついていませんでしたが、あの文字を指先でなぞった時の感覚が、まだ残っているようでした。
(…オバケの文字だったら、鉛筆の粉なんか、つかないよね…)
カイトは自分の手を見つめ、それを鉛筆を握るポーズにしてみました。
(そうだ、きっと僕とおんなじだ、おんなじ人間なんだ)
カイトは自分に勇気を出させるように、気持ち悪いのを吹き飛ばすようにベッドから身を起こしました。そして図鑑をランドセルから取り出して、手紙を手に取り、再び布団に潜りました。
確かに心臓が飛び出しそうなくらい緊張してはいるけれど、怖い気持ちは少しずつ薄れていました。1人で、静かに、安心できる布団の中であれば、オバケの言葉とでも向き合える気がしていました。「始めまして」の文字とあの絵の間に何が書かれているかは分かりませんが、オバケはカイトにも分かる言葉を使ってくれている。それはとても大きなことでした。それでも手紙を開く前に何度も何度も目をつむって深呼吸をしなければいけませんでしたが…
カイトは手紙を読みました。うまく分からない言葉があったので、何度も何度も、隅から隅まで、漏らさないよう読みました。
カイトは、あのオバケたちの名前を知りました。彼らがどこに住んでいるのかも知りましたが、全く聞いたことのない地名でした。カイトは佐渡有真君というその子が、ポケモンという生き物たちと、どういう暮らしをしているのか想像しようとしました。たったの10歳で出なければいけない「旅」とはどんな感じだろうと考えてみました(ゴロを連れて一人旅に出る自分を想像してみましたが、頭の中で県境を超えただけで怖くなってきたので、やめました)。佐渡君の住んでいる町や自然はどんな感じなのか、頭の中に一生懸命描いてみました。鳥も動物もいない、ポケモンという生き物だけの世界とはどういうところなのか。
ふいに、あの「悪夢」の光景が思い出されました。あの両手で抱えられそうなくらい大きな鳥たちや、ピンク色のぬいぐるみみたいな生き物や、あくびしそうな顔のてんとう虫、そしてそういう生き物たちと、まるで家族や友達のように一緒に歩いていた人々を思い出しました。
(そっか、あれがみんな、ポケモンなのか…)
あの光景と手紙にかかれた文章と絵が一つに繋がり、まるでなかなか飲み下せなかった薬が突然喉から落ちたように、カイトの頭の中にスッと入ってきました。確かにカイトにとっては見慣れない光景です。第一にあんなに大きな鳥や虫や動物があっちこっちにいたら、車も走れないし、学校に行くのだって危ないでしょう。3年生の時、隣町に山からサルが一匹降りてきて、大騒ぎになったニュースを、カイトは家で見たことがありました。でも、小さい頃からそういう生き物がそこら中にいる世界にいた佐渡君や、この「ジョウト地方のエンジュシティ」の人々にとっては、そういう生き物が身の周りにいる光景が、きっと普通なのです。
佐渡君の家にいるという、2匹のポケモンの絵には、矢印で引いた説明があちこちに書いてありました。文と文の間にまで、無理矢理に文を押し込んで、ぎっしり書いてあったので、カイトは読むのがとても大変でした。
「チコリータ オス はっぱポケモン くさタイプ(分類はそのポケモンを大まかに表すもの タイプはそのポケモンの力のもとみたいなもの)
葉っぱはいいにおいがするからおちつく
緑の点点は進化すると花になるらしい(進化とはポケモンが強くなって大きくなることです)
まだ子どもなので小さい 36センチくらい(頭の葉っぱを入れるともっと大きい)」
「ニドラン オス どくばりポケモン どくタイプ
どくなのでむらさき色 あぶない トゲトゲもいたい(毛はだいじょうぶ)
角に強いどくがあるのでキケン!!さわっちゃだめ!!
すぐおこるけどかわいい 年はなぞ(たぶん子ども) 40センチくらい」
他にも背中やらお腹やらに矢印が引いてあって「ここをさわるとおこる」やら「ここをなでるとよろこぶ」だの、はたまた「ここはブラッシングの時にやさしくしないとおこる」などなど、とにかく沢渡君がこの2匹を大切にしていることが分かるようなことがたくさん書いてありました。
カイトはニドランの説明が気になり、何度か読み返しました。チコリータの方はもう自分の目で見たことがあるから、説明と合わせれば大体分かるのですが、それだけではなく、ニドランについての文に何か引っかかるものがあったのです。
「毒なので紫色…危ない…毛は大丈夫…」
口の中でぶつぶつ呟いているうちに、
(あっ!あれだ!)
カイトは頭の中で光が閃いたようになりました。そして急いで飛び起きると机の引き出しから小さなビニール袋を取り出しました。その中には紫色の毛玉が、ぎゅっと詰められて入っています。
(これが、きっとそうなんだ…)
カイトはベッドに座り、毛玉を見つめると、穏やかなため息をついて、目を細めました。まだ本物を見たわけでもないのに、まるで懐かしい友だちに会ったような気分でした。
紫の毛玉をビニール袋ごしに撫でながら、カイトはそのボサッとした毛玉と沢渡君の描いたトゲトゲで目付きの悪いウサギの絵を見比べ、頭の中で重ねあわせてみます。生き物の毛の感触は、ビニール越しでもどうしてもゴロのことを思い出させて、本物のニドランも触った感じはゴロに似ているのかな、でも犬とウサギじゃ全然違うよな、でも本当のウサギとこのニドランもきっと違うだろうな、と想像はどんどん進んでいきました。
(…本物を触ってみたいなあ)
カイトの想像は最後にそこに行き着くと頭の中で行き場をなくし、再びため息となってカイトの部屋にこぼれました。
でも、どうすればいいのでしょう。カイトは再び最初から手紙を読み返します。どこかに「ここに行けば僕たちに会えます」というようなことが書かれていないでしょうか。「ジョウト地方のエンジュシティ」への行き方のヒントなどは書かれていないでしょうか。しかしそんなことはどこにも書いてありません。あったのは
「20日から旅に出るので、あなたに会えないかもしれないので、手紙であやまります」
というカイトの希望を打ち砕く一文だけでした。カイトはがっくりと肩を落としました。佐渡君は、カイトに会える、会いたいなどとは始めから思っていないのでしょうか。
(…待てよ)
会えないかもしれない、ということは、会えるかもしれない、ということでもあります。それにこの一文は何やら変でした。後半の「会えないかもしれない」の部分が妙に詰まったようになっているのです。
(書き直したのかな…)
無理矢理に詰め込んだようなその文字列は、元々そこにあった文章がもっと短かったということを示していました。もしかしたら「会えない」の後に無理やり「かもしれない」を書き足したのかもしれません。
わざわざそんなことをした佐渡君の気持ちが知りたくて、カイトは探るように端から端まで手紙を読んでいきました。すると手紙の隅の方に小さく、本当に小さく、こんなことが書いてありました。
「あなたのところでは、動物や鳥類をつかまえて育てたりしますか?」
カイトは首を傾げました。それは奇妙な質問に見えました。一体どうしてこんな質問を、こんなところに書いたのでしょうか。
確かに手紙の本文、真ん中辺りには「ポケモンをつかまえたり」と書いてあります。と、すると、チコリータやニドランも佐渡君が捕まえたものなのでしょうか。でも、カブトムシやカエル、頑張ってもトカゲくらいならまだ網で捕まえられそうだけど、40センチ程もある生き物を一体どうやって捕まえるのか、カイトは全く分かりませんでした。
兎にも角にも、それはカイトへ向けられた質問でした。この文字でぎっしり埋まった黒い壁のような手紙の中で、これだけがカイトの世界と佐渡君の世界を繋ぐ小さな窓のようでした。
そしてカイトは、その窓から手を伸ばそうとしました。つまり、返事を書くことにしたのです。
書きたいこと、というよりも、聞きたいことは山程ありましたが、部屋に便箋はありません。仕方がないのでもう使わなくなったノートの最後のページを破り、そこに返事を書くことにしました。
「初めまして。
図鑑を返してくれてありがとうございます。大沢海斗です。
ぼくが住んでいるのは日本の京都府というところです。ぼくのところにはニドランやチコリータのようなポケモンはいません。スズメやサルのような鳥や動物ならいますが、野生動物をつかまえて育てるということはしません。
家でかう(ペットと言います)動物はペットショップで買うか、人からもらうか、すてられたのをひろいます。うちには、近所の人からもらった犬のゴロがいましたが、去年死んでしまいました。」
そこでカイトは佐渡君の真似をして、ゴロの絵を描きました。あまり似ませんでしたが、説明もつけて一生懸命描きました。
それが終わるとまた手紙の続きです。
「佐渡君は、自分でニドランやチコリータをつかまえたのですか?どうやってつかまえたのですか?つかまえる時に、ニドランたちはいやがりませんでしたか?
ニドランとチコリータはケンカしないのですか?エサは何で、どうやって毎日世話をしているのですか?」
質問ばかりが続くので、カイトは自分でもちょっと面倒になってきました。読む側の佐渡君はもっと面倒に思うでしょう。カイトは少し考えて、自分のした、あの体験について書くことを決めました。
あの事はこれまで家族にも友達にも、誰にも言っていなかったし、自分の中でも夢だと思って心にしまい込んでいたので、手紙に書きだすのにも勇気が要りましたが、自分のことで佐渡君に向けて書くべきことがあるとしたら、何よりもまず、この出来事以外に思いつきませんでした。
「ぼくは一度、ポケモンのいる世界?に行ったことがあります。ぼくの通っている学校にあるリンゴの木のところからワープしたみたいになって、緑がたくさんある公園みたいなところに行きました。大きな鳥や虫があちこちにいました。あれは全部、人がつかまえてもいいんですか?おこられたりしないのですか?ぼくのところでは野生の動物を勝手につかまえてはいけないことになっています(虫とか小さいのは大丈夫です)」
書きながらカイトは、名前を知る前の「オバケ」の佐渡君がベンチに座ってスズメを熱心に見ていたのを思い出しました。あの時は二人とも訳がわからなくなっていたけれど、カイトが来る前はきっと、佐渡君もカイトと同じように、この世界を夢のように思っていたのかもしれません。カイトはあの時の佐渡君がスズメを見てどう思っていたのか、とても知りたくなりました。手紙の最後には、自分の正直な気持ちを書くことにしました。
「ぼくのいるところでは、ポケモンのような大きな動物や鳥と毎日いっしょにいることはむずかしいです。世話が大変だし、しつけもむずかしいです。ぼくはゴロの世話もよくサボってしまっていました。だから2匹もそだてている佐渡君はすごいなと思います。ぼくはニドランの毛のかたまりが図かんにはさまっていたのを大切にしています。いつか本物のニドランをさわってみたいです。そちらへ行ってみたいので、エンジュシティへ行く方法があったら教えて下さい(リンゴの木からワープするやつは、どういう仕組みなのか自分でもよくわからないので、ちゃんとした行き方が知りたいです)。あと佐渡君がスズメを見てどう思っていたのかも聞きたいです。
最後ですが、手紙はなるべく学校が終わったくらいの時間に置いてくれると助かります(他の人に見つかるといけないので)」
カイトは一度読みなおして、一つうなずくと、その手紙を「日本の昆虫図鑑」に挟みました。佐渡君が読むかもしれない、ということが分かると、図鑑を選ぶのも楽しくなりました。人差し指の先くらいのてんとう虫の写真を見たら、どんなに驚くでしょう。
その時、ドアを静かにノックする音が聞こえたので、カイトは机についたまま振り向いて返事をしました。ドアを開けたお母さんに
「カイト、夕ごはんができたけど、気分が悪いのはもういいの?」
と尋ねられたカイトは、笑顔で
「うん、もうすっかりいいよ」
と答え、少し早い夕食に向かったのでした。
6月28日 午後2時40分
カイトはもうずっと困り果てていました。あの本を落とした次の日、学校に来てからすぐに職員室に行って、担任の先生に図鑑のことを聞いたのですが、先生は知らないというのです。裏にラベルが貼ってあるから、学校のどこかで落としたのならすぐに先生のところに届けられるはずなのに。
帰り道のどこかで落としたのでしょうか?そうするとカイトにとってはとても面倒なことになります。帰り道のどこで落としたにしても、交番に行かないといけないのです。10歳の子供にとって交番に行くのはとても勇気がいることです。家族に言って一緒に行ってもらえばまだ気持ちが楽かもしれませんが、おじいさんにもらった本を失くしたと言えば怒られるに決まっているでしょう。
どうすることもできないまま、カイトは重い気持ちで土日休みを過ごしたのでした。
週が明けても、どうしても気持ちが晴れないカイトは、放課後にもう一度リンゴの樹の下へ行ってみることにしました。この樹の下で過ごしている人を、カイトは自分以外に知りません。もしかしたら、もしかしたら、樹の影とかベンチの下とかに落としたのが、そのままになっているかもしれない、そんな儚い望みを抱いて、カイトはリンゴの樹の下へ走りました。
ところがなんと、その望みは叶えられたのです。しかも、「日本の動物図鑑」はきちんとベンチの上に乗っかっているのです。カイトは最初、走りすぎて疲れて幻を見たのかと思ったくらいです。ちゃんと触れて、裏にはラベルもあります。4年2組、大沢海斗。カイトはその名前を愛おしそうに指でなぞります。学年とクラスまでラベルに入れてくれたおじいさんに初めて感謝しました。
カイトは鼻歌を歌いながら、校庭を戻って行きました。
***
6/28 7:45PM
ユウマは家に帰ってからも、ぼうっとしていました。今日あったことが本当にあったことなのかどうか、ユウマには分かりません。もしかしたらエスパーポケモンがどこか近くにいて、その仕業だったのかもしれません。
学校が早く終わる日だったので、ユウマは学校帰りにまっすぐ自然公園に向かいました。あの本が落ちていたのはこの公園なのだから、公園に行けば持ち主の大沢海斗君に会えるかもしれないと思ったのです。
ところが、本を持って公園のリンゴの樹の下に来た途端、信じられないことが起きたのでした。
ユウマがいたのは自然公園のはずなのに、リンゴの樹の下、案内板の前に立った瞬間から、ユウマの周りは自然公園ではなくなっていました。
フェンスに囲まれた広い砂の地面、古くて錆びた遊具、半分だけ埋められたタイヤ、少し遠くに見える四角い建物。
「…学校…?」
ユウマはつぶやきましたが、でもこれはユウマの通っている学校ではありません。ここはどこなのでしょう。本当に学校だったら、この学校の子供じゃない自分がここにいていいのでしょうか。帰り道はどこなのでしょうか。
とても心細い気持ちになって、ユウマはあたりを見回しました。すぐ側にリンゴの樹があります。このリンゴの樹だけは自然公園にあったのとそっくり同じ形です。側に白いベンチがあるところは違うけれど、ユウマはそれを見て物凄く安心しました。そしてこの場所から離れることがとても恐ろしく感じられました。ここから離れたら、二度と自然公園にも、自分の家にも帰れない気がしたのです。
ユウマはひとまずベンチに座り、側に本を置きました。ユウマの他に、動く生き物の姿が何も見えません。人間も、ポケモンも。チチチ、ピピピとどこからか鳥ポケモンのような声がしますが、ポッポの声でもオニスズメの声でもありません。ユウマの学校にポケモンは連れていけないので、ポケモンは家に置いてきています。ユウマは世界で自分一人だけになってしまったような気がしました。
ユウマは途方に暮れて頬杖をつき、学校のような建物の方を見やりました。と、小さな人影がこちらへ向かってすごい勢いで走ってくるのが見えました。ユウマは驚いて立ち上がり、とっさにリンゴの樹の影に隠れようとしました。知らない子供が紛れ込んだと思われて、騒ぎになったら大変です。でもこの小さなリンゴの樹の向こう側にはフェンスしかありません。その先にはユウマの全然知らない町が広がっています。どこへ逃げよう、どうしよう、とあちこち目を泳がせているうちに、その人影はいつの間にかベンチの側まできて、それからユウマに気づかないまま遠ざかっていきました。
そっと覗いたリンゴの樹の影から、歩いて戻っていく後ろ姿が見えました。ユウマはホッとして、それからベンチに戻ろうとして、そこに置いていたはずのものが無くなっていることに気づきました。あの不思議な本が!
あの人影が持っていったに違いありません。ユウマはここが自分の知らない場所なのも忘れて人影を追いかけようと走りだしました。その途端。
ユウマは元の自然公園に戻っていたのでした。いつもと全然変わらず、大人や子供や色んな人が楽しげに行き来して、レディバが花壇の上を眠そうな顔で飛び回っています。空を見上げるとヤンヤンマが一匹ユウマの真上まで飛んできて、不思議そうにユウマをちらっと見てから180度旋回してどこかへ行ってしまいました。そんな風景の中でユウマは一人、ぽかんとした顔で立っていました。
そんなことがあったので、ユウマは何にも手がつきません。大好きなカレーだったはずの夕飯も何を食べたのやらだし、ポケモンの世話もどこか上の空です。怖かったはずのニドランの角に軽くつつかれても全然なんとも思いません。
あれは何だったんだろう。
考えても考えても、答えはすぐには出そうにありませんでした。
***
6月28日 午後7時45分
大事に図鑑を両手に抱えて帰ったカイトは、家で図鑑を広げてみて、おかしなことに気が付きました。図鑑のあるページだけが、変に開きやすくなっているのです。それはシマリスのページでした。左のページに簡単な説明があって、右は大きな写真が載っています。頬を膨らませて何かの種を両手に抱えている、いかにもシマリスといった写真です。
(シマリスを飼ってる人にでも読まれたのかな…)
カイトは首を傾げました。でも、もっとおかしなことがあったのです。そのシマリスのページの奥には、何かの毛のようなものが挟まっていました。一塊の毛玉と、バラバラの一本ずつのものが十数本。それは、とてもきれいな紫色をしていました。
カイトはそれを最初、絨毯や服、毛布、とにかくそんな感じのものの毛玉がこのページに落ちたのだと思いました。でも、もうすぐ夏になるというのに、こんな柔らかな毛玉の出るような服を着る人や、毛布にくるまって寝る人がいるのでしょうか。絨毯の毛だとしても、こんな塊の形で本に挟まるというのもおかしな話です。
カイトはしばらく指先で毛玉をいじくっていましたが、カイトの記憶にある中でその感触に一番似ていたのは、去年死んでしまった雑種犬の「ゴロ」の抜け毛でした。ゴロは夏と冬が来る度に毛がごっそり抜けて、あちこちに毛玉が落っこちて掃除が大変だとお母さんがよくこぼしていたものです。小さい頃のカイトはその毛玉を集めて丸め、雪玉のように大きくして遊ぶのが好きでした。
カイトは毛の塊をじっと近づけてみてみました。そもそもこれは作り物、なのでしょうか?
「でも紫の動物…ってなんだ?」
「日本の動物図鑑」をペラペラめくっても、紫の毛をした生き物なんか載っていません。みんな黒っぽいか、茶色っぽい地味な毛色ばかりです。野生の生き物の毛ではないのかもしれませんが、紫色の犬なんて聞いたこともありません。ネコにはロシアンブルーという種類のきれいな毛色をしたものがいますが、あれはもっともっと灰色っぽかったはずです。
カイトが知らないだけで、世界のどこかに、こんなきれいな色の生き物がいるのでしょうか。それとも新種の生き物?もう絶滅した生き物?
想像が未知の世界へ広がった瞬間、カイトは急にワクワクしてきました。その紫の毛玉がとても貴重なものに思われました。指でこねるなんて乱暴なことはもうできません。カイトは毛玉をそっと本の上に戻し、部屋中を引っくり返して、やがてタンスの奥から小さなチャック付きの空のビニール袋を取り出しました。元々何が入っていたのかは分かりませんが、今この毛玉がどこにも行かないよう閉じ込めておくにはぴったりです。
カイトは右手でそうっと毛玉をつまみ上げて、左手に開けたビニール袋の中へ降ろしました。残ったバラバラの毛も、本を机の上でトントン立てて全部落とし、これもビニール袋に入れました。それから袋の中の空気を追い出すようにしっかりとチャックをして、机の使っていない小さな引き出しにしまいました。
一仕事終えたカイトは大層満足していました。もしかしたら世紀の大発見になるかもしれない秘密を手に入れたのです。この謎の紫色の動物は、一体どこにいるのでしょうか。どんな美しい姿をしているのでしょうか。
しばらく想像に浸っていたカイトは、やがて素晴らしいことに気が付きました。この動物の毛が見つかったのは、図鑑が置かれていた場所―学校のリンゴの樹の下なのです。ということはこの動物はすぐ近くにいるのかもしれません。カイトは思わず立ち上がり、小さくこぶしを握りしめました。なんとしてもその未知の動物のことをもっと知りたくなりました。
そしてカイトは、ある計画を考えついたのです。それには木曜日まで待たなければなりませんでした。
7月1日 午後0時52分
計画の日がやってきました。この日の朝読書用にカイトは「日本の鳥類図鑑」を持ってきていましたが、この本の真の目的は、読むことではありませんでした。
昼休みがやって来るとカイトは、「日本の鳥類図鑑」を持ってリンゴの樹の下へ向かいました。そして、ベンチの上にその本をそっと置きました。言わばこの本は紫の動物をおびき寄せるための「罠」のつもりだったのです。何を食べるのか、どんな姿なのかもわからない紫の生き物についてカイトが知っているのは「図鑑の上に乗っかっていたらしい」ということだけですから、罠として使えるのはこれだけでした。動物図鑑を忘れた時、ページは開いていたか閉じていたか覚えていなかったので、汚れないように閉じたまま置きました。
そしてカイトはそっとその場を離れようとしました。
その途端。
カイトの周りは学校ではなくなっていました。
カイトは全然知らない場所に、一人で突っ立っていました。木々が立ち並び、きれいで大きな花壇があるところで、あちこちに大人や子供がいて、みんな楽しげに行き来しています。
でも、それよりも何よりもカイトの目を引いたのは、あちこちにカイトの知らない生き物がいたことでした。
人間の肩や頭の上に、ニワトリよりも少し大きいくらいの様々な色の鳥が乗っかっていたり、小さな子供がピンク色の人形みたいな生き物?と手をつないで歩いていたり。よく見れば花畑の側では物凄く大きなてんとう虫がのんびり飛び回っていて、カイトはぎょっとしましたが、歩いている人は誰も驚いていません。そこら中変な生き物だらけなのに、みんな当たり前のような顔をして通りすぎたり、肩に乗せたり、一緒に歩いたりしているのです。
カイトは自分がおかしな夢を見ているのかと思いました。そしてリンゴの樹に助けを求めるように後ずさり、体を幹に寄せました。するとカイトの足元で、けたたましい声が聞こえて、カイトは飛び上がるほど驚きました。
見れば茶色い鳥が2羽、リンゴの樹から少し離れた地面から、カイトのことを怪しげな目でじろじろ見上げています。そんなに大きくはありませんが、飛びかかられたら痛いに違いありません。カイトは鳥達の視線を受けて、リンゴの樹に張り付けられたように動けなくなりました。すると不意にその鳥のうちの一羽が、羽をバサリと広げて
「ぽっぽぅ!ぽっぽう!」
と大きな声で鳴きました。まるで、ここに怪しい奴がいるぞ!とみんなに知らせているようです。カイトは恐ろしくなって
「うわーっ!!」
と叫びながらそこから逃げ出しました。
すると、カイトは学校に戻っていました。おかしな遊園地のような場所に行ったのと同じくらい突然に。
カイトはしばらく呆然とそこに立ち尽くしていました。スズメの声がやけに大きく聞こえます。そこへ突然肩を叩かれたので、カイトはさっきの茶色い鳥を思い出して本当に飛び上がってしまいましたが、それは鳥ではなくて人間の友達で、
「お前、何でこんなとこでぼーっとしてたんだ?」
と、変な顔をされてしまいました。
「う、うん、ちょっと考え事」
と適当な返事をしながらチラリとベンチを見ると「日本の鳥類図鑑」はまだそこにありましたが、カイトはもうそこに近づく勇気はありませんでした。
***
7/1 2:25PM
ユウマはリンゴの樹の前で、どうしたものかとじっと立ち尽くしていました。
月曜日、あの不思議な場所で、誰かにあの本を持って行かれてから、ユウマは毎日学校帰りに自然公園に寄っていたのです。あの「日本の動物図鑑」がまたリンゴの樹の下に落ちていないか。もしくは「大沢海斗」君がやって来るんじゃないか。そう思って毎日リンゴの樹の側で、少しだけ待ってみたりもしたのです。
それが、どうでしょう。今ユウマの目の前にあるのは、「日本の鳥類図鑑」です。「日本の動物図鑑」とそっくり同じ形で同じ厚さですが、表紙に映っているのは、宝石のように輝く緑色をした、大きなくちばしの鳥ポケモン、ではないらしい生き物。
拾おうと一歩足を進めようとして、ユウマはふと歩みを止めました。頭の中にあの、どこまでも続く乾いた砂と、がらんどうのコンクリートの建物の光景が浮かんだからです。あの事件があってからリンゴの樹の案内板の側までは、ユウマはなるべく行かないようにしていました。あの光景を怖いと思う気持ちがずっとあったからです。
一度だけ、たったの一度だけ勇気を出して案内板の前に立ってみたことがありますが、なぜかその時は周りの景色も変わらず、まるでなんともなかったのです。と、なると、リンゴの樹の力も絶対ではないのかもしれませんが、もし今この図鑑を拾ってしまえば、またあの場所に行ってしまう。そんなほぼ直感めいた確信が、ユウマの足を地面に貼り付けていたのです。
けれど、「シマリスって知ってる?」とお母さんや友達に聞いた時の怪訝そうな反応や、ポケモン図鑑のどこにも姿を見せない奇妙な動物たちの写真、あの本を持って走り去った人影、そして今このリンゴの樹の案内板の下にユウマを誘うように落ちている「日本の鳥類図鑑」が、ジグソーパズルのように合わさってユウマの中である一つの答えを導き出していました。
つまりこの「図鑑」に載っているのはあの学校のような建物のある世界に住んでいる生き物。そしてあの図鑑を持って走り去ったのが「大沢海斗」君である、ということです。大沢海斗君のいる世界の生き物が、ポケモンとどう関係があるのかはわからないままですが、少なくともこの考えは確かな形をもって、ユウマの中で固まりつつありました。
あの事件から時間が経つうちに、心のどこかでもうあの図鑑は見つからないかもしれない、全部夢や幻だったのかもしれない、と思いたくなる気持ちも少しずつ生まれていました。しかし、「日本の鳥類図鑑」が目の前に現れた今、もうそんな事は言っていられなくなりました。この図鑑の謎を解くにも、大沢海斗君に会うにも、案内板の側まで行って、図鑑を拾ってこなければなりません。例えまたあの、寂しくて恐ろしい場所に飛ばされるとしても。
ユウマは大きく深呼吸をして、心を落ち着けました。そして、重要な事を思い出しました。自分は今、一人ではないということです。
もしもまたあの場所へ飛ばされても、心細い気持ちにならないように、あれからユウマはこっそりと、学校の決まりを破って、モンスターボールをリュックの底に入れて持ち歩いていたのです。
いざとなったら、ニドランとチコリータがいる。そう思うと怖いものがなくなりました。
ユウマは決心して案内板の前に歩いて行きました。そして周りの景色が、ふっと変わりました。
ユウマはまたあの学校のような場所に立っていました。リンゴの樹だけがやっぱり、自然公園にあったのと変わらずに側にあります。
「日本の鳥類図鑑」はベンチの上に置かれていました。ユウマはそれを拾い上げます。初めて来た時と違い、気持ちは不思議に落ち着いていました。
(やっぱりだ…)
たったの一度、何にも持たずに案内板の前に立った時のことをユウマは思い出していました。案内板の下から見る景色は全く普段と変わらない、平和な自然公園でした。ということはやはり、この図鑑こそがこの場所とあの場所を繋ぐ、パスポートのような役割をしているのかもしれません。
ユウマはゆっくりと周りを見回しました。自分以外に誰もいないような場所だと思っていたけれど、フェンスの向こう側を見ると、背の高い木が立ち並んでいて、その先には道路があるのか、沢山の車が行き来しています。そしてその手前側の歩道をユウマと同じくらいの年の子が何人か歩いているのも見えます。でも、ポケモンは誰も連れていません。
ユウマはそれを見ると急に寂しくなって、思わず背負ったリュックを開けて、モンスターボールを一つ、取り出してしまいました。そしてあたりを見回して、誰も見ていないのを確認すると、カチリとボタンを押しました。飛び出した赤い光が砂の上で、ユウマの知っている姿になりました。
「チコ?」
呼び出されたチコリータは、知らない場所でとても不安そうにしています。まるで初めてここに来た時のユウマのようです。ユウマは図鑑を自分の横に置き、代わりにそっとチコリータを抱き上げて膝の上に乗せました。爽やかな香りと暖かさがユウマを包みます。チコリータも少し安心したようで、膝の上で力を抜いて、ユウマの体にもたれかかりました。
それにしても、ユウマのいたところでは、生徒は学校にポケモンを連れてきてはいけないことにはなっているけれど、ポッポやオニスズメみたいな野生のポケモンはしょっちゅう校庭にやってくるし、そういうポケモンが危ないことをした時に追い払うために、先生がポケモンを連れてきたりもしているのです。でも今いるこの学校のような場所は、何にもいなくてまるで砂漠のようです。
いえ、ユウマは思い出しました。「日本の動物図鑑」のことを。あの図鑑に載っていた動物たちはどんな大きさだったか。その辺りの草花よりも小さな生き物が、沢山いたはずです。
きっと見えないだけで、人間以外の生き物もちゃんといるんじゃないのか。そう思った時、
「チコ!チコ!」
膝の上のチコリータが突然、落ち着きなくそわそわしだしました。チチチ、チチチと頭の上で鳴き声がしました。見ると、ユウマの手のひらほどもなさそうな小さな鳥が、ふるるる、と高く細かな羽音を響かせて、フェンスの上に舞い降りてきました。油断なく周りを見回して、ちゅん、ちゅん、とよく響く声で鳴いています。
ユウマはそれがどんな鳥なのかよく見たかったのですが、あまりに小さく、それに太陽の光が眩しいので、何となく茶色っぽい、ということくらいしか分かりません。草タイプのチコリータはこんな小さな鳥でも怖いようで、ぎゅっと伏せて身を固くしています。困ったユウマはそこで、自分の傍らにあるものの事を思い出しました。
今こそ、この図鑑が役に立つ時なのではないでしょうか。そう思って早速ユウマは図鑑を手に取りました。伏せたチコリータの葉っぱがうまい具合に本の支えになってくれます。が、表紙をめくったところに書かれていたのはこのような文章でした。
「野外で鳥を見た時、その鳥のおおよその大きさがわかると、その鳥の名前を知る良い手がかりになります。大きさの基準になる、身近にいる鳥を「ものさし鳥」といいます。本書では、スズメ、ムクドリ、カラス、ハト、トンビを基準に設定しました。例えばスズメくらいの大きさの野鳥を見つけた時には、右の検索欄の「スズメくらい」の横の四角が灰色になっているページをたどって探してみてください」
なるほどページの右には「スズメより小さい」「スズメくらい」「ムクドリくらい」「ハトくらい」…という見分け方の例と、灰色の四角いマークがずらりと縦に並んでいます。ページをパラパラめくってみると、右端にある四角いマークの色の場所で、鳥の種類が大きさから検索できる仕組みでした。
確かにこれはわかりやすいかもしれません。この世界で暮らしてきた人たちにとっては。でもユウマにとってはスズメもムクドリもカラスも、未知の鳥です。
いえ、スズメだったらオニスズメ、カラスだったらヤミカラスが、ユウマのいる世界には住んでいます。でも…
「オニスズメとヤミカラスって、そんなに大きさは違わないような…」
考えこんでいるユウマは、気が付きませんでした。ベンチの側に、背の小さな男の子が立っているのを。
***
7月1日 午後2時45分
放課後になってから、やっぱり昼間のことが気になってリンゴの樹の下へ戻って来たカイトは、呆然とその男の子を見ていました。
同い年、なのでしょうか。でも全然知らない子です。それに、あまりこの辺りでは見たことのない格好をしています。第一にランドセルではなくリュックを背負っているし、服も靴も、何となくユウマや友達のものよりしっかりした頑丈そうな感じのものに見えます。
そんな子が、ベンチに座ってとても熱心にカイトの図鑑を読んでいます。時々フェンスに止まっているスズメを真剣に睨んでいます。どうしてそんなにスズメが気になるのでしょうか。
それになんといっても、その膝の上に乗っている、へんてこな生き物は一体何なのでしょうか。全身黄緑色で、頭には大きな葉っぱが生えています。カイトは最初、その子が大きな野菜を抱えているのかと思ったほどです。大きな二つの赤い目があって、それがちゃんとまばたきするのを見て、やっと生き物だとわかったのでした。一体カイトの持っている、どの図鑑を読んだらこんな生き物が載っているのでしょうか。
変な夢の次は、見たことのない子。そしてあの変な夢から飛び出してきたような生き物。「日本の鳥類図鑑」をリンゴの樹の下に持ってきてから、おかしなことばかりが起きています。紫色の小さな毛玉一つで大発見だと喜んでいたのが、ずっと昔のようです。
とにかくこの子は、自分の図鑑を勝手に読んでいるのだから、声をかけないといけない、とカイトは思いました。
ところが声をかける前に、その子の膝の上の変な生き物が、鋭い声をあげてこちらを見たのです。
その生き物に睨みつけられたカイトも、カイトに気づいたその子も、凍りついたように動けませんでした。
おかしな黄緑の生き物は、子犬の遠吠えみたいな高い声で一声鳴いて、その子の膝の上から飛び降りると、頭から生えた葉っぱをぶんぶんと振りました。まるで、近寄るな!と言っているようです。でもカイトはその様子が恐ろしいとか怖いと思うよりも、へんてこすぎてどうしたらいいのかわからない、というのが正直なところでした。
だって、そんな変なことをする生き物なんて動物園でも見たことがないし、その生き物が必死に振り回している大きくて柔らかそうな葉っぱがカイトの体に当たったところで、全然痛そうには思えなかったからです。それどころか辺りに爽やかないい香りがしてきて、なんだかそのよく分からない生き物の様子が可愛らしいとさえ思えてきてしまいました。
が、その生き物はあまりにも突然に、カイトの目の前から消えました。その姿は一瞬で小さな赤い光になって、いつの間にか立ち上がっていた男の子の手元に吸い込まれていきました。
(ええっ?!どういうこと!?)
何が起きたのか全く分からず戸惑うカイトを、その男の子は怯えた目で見つめています。二人の間に風が一つ吹きました。先ほどまでのどこかほんわかした空気はいっぺんにどこかへ行ってしまい、恐れと緊張感に満ちた空気が二人の間をさえぎりました。
「ねぇ、」
先に声をかけたのはカイトでした。やっと出せたその声は震えています。変なことを言ったら自分も赤い光に消されそうで、とても怖かったのです。でもその子はカイトの呼びかけにびくりとして、真っ青な顔でカイトを見返しました。
「その図鑑、」
カイトは言葉を続けます。見ればその子もカイトの声と同じに、小さく震えています。けれどカイトの方だっていつ消されるかと気が気ではありません。だから次の言葉は勇気を振り絞って言わなければいけませんでした。
「僕の…」
だけどその子はカイトの言葉を聞かずに一目散にフェンスの方へ走りだしたかと思うと、不意にカイトの目の前から消えました。
「…?!」
カイトは目をこすりました。誰もいません。何もいません。目の前の光景が信じられないカイトは何度も瞬きをしました。ベンチの上には何もありません。あの子が穴が空くほど見ていたスズメも、いつの間にか逃げてしまったようです。自分が消されるかと思っていたカイトは、自分の体がそこにあることと、ベンチの上に何もいないことを、何度も確かめました。
「…オバケ?」
カイトは自分の独り言に、思わず震え上がりました。こんな真っ昼間にオバケなんておかしいような気もしますが、現に図鑑はそのオバケに持って行かれてしまったのです。あの黄緑色の変な生き物が突然消されたように見えたのも、あの生き物もオバケだからなのかもしれません。
あるいは、もう全部夢だったのかもしれません。リンゴの樹の下で見た悪い夢が、まだ続いているのかもしれません。カイトは今まで自分だけの場所を作ってくれた、頼もしいリンゴの樹が、急に、学校から打ち捨てられた幽霊のような、とても不気味なものに見えてきました。白く寂れたベンチも、字の薄れた看板も、もう何もかも怖くて仕方ありません。
カイトはぎゅっと目をつむって方向転換して、そこから一目散に逃げ出してしまいました。
***
7/1 2:50PM
ユウマは「日本の鳥類図鑑」を持っていつもの自然公園の、いつものリンゴの樹の側に立っていましたが、まるで、自分が自分でないような、世界が世界でないような気持ちになっていました。
頭の中ではサイレンのように、ユウマを責める声が響いています。
(ばか、ユウマ!これじゃあ、まるでドロボウじゃないか!人のものを持って逃げるなんて!)
今すぐにリンゴの樹の案内板の前に戻れば、あの場所に戻れるんじゃないか。この図鑑を返せるんじゃないか。そう思っても、足が地面に張り付けられたように一歩も動きません。
耳の奥にはまだあの震えてかすれた小さな声が残っています。
(ねぇ、その図鑑、僕の…)
その言葉を振りきって逃げ出してしまったユウマを、あの男の子―今では大沢海斗君だとはっきりわかったあの子はどう思ったでしょう。きっと怒っているに違いありません。
でも、それ以上に、戻れない理由がありました。それはユウマがあの場所から逃げ出した理由でもありました。
チコリータを見た大沢君が、どんな様子だったか。撫でようとも、話しかけようとも、ましてや自分のポケモンを出そうともせず、ただ困ったような顔でチコリータを見下ろしていた、あの、全身で「なんだ、こいつは?」と言っているような姿。チコリータをモンスターボールに戻した時の、あの真ん丸な目と真っ青な顔。もし4年生の大沢君がユウマと同じ10歳だとすれば、普通ポケモンやモンスターボールを見てあんな顔は絶対にしません。するとやはり、あちらの世界に、ポケモンはいないのです。
ポケモンのいないはずの世界でポケモンを出し、それを人に見られたこと自体も大変なのかもしれませんが、今はそれ以上に、あのチコリータを拒絶するような大沢君の様子がショックで、それだけでユウマの足はすくんでしまうのでした。
でも、手の中にある図鑑は、いつか返さなければならないものなのです。そしてそれができるのは「いつか」ではなく、「今」「すぐ」なのだと分かってはいるのです。なのに体はマヒにかかったように頭のいうことを聞いてくれません。そんなユウマを、通り過ぎる人たちは不思議そうな顔で見ていきます。
「ぽっぽぅ?」
いつの間にかポッポが数羽、ユウマの近くに寄ってきて、首を伸ばしてユウマの顔を覗きこんでいます。
(ポッポにまで心配されるなんて…)
ユウマは自分が情けなくなりました。そして決心しました。今から「あっち」に戻って図鑑を返し、用が済んだらすぐ戻ってくる。それでもうこのことはおしまいにしよう。
でも、もう遅かったのです。周りに人がいなくなったのを見計らって、案内板の前から大沢君の学校へ行った時には、もうそこには誰もいなくなっていました。ユウマはがっくりと肩を落とし、また図鑑を持って自然公園へ戻るしかありませんでした。
6月24日 午後0時55分
カイトの通う小学校の校庭の片隅には、小さなリンゴの樹が生えています。
リンゴの樹が校庭にあると聞いたら、小学校に上がったばかりの一年生はみんなこう思うでしょう。
「それってリンゴの実がなったら、食べていいの?食べたらおいしいの?」
だけど、残念ながらこの小学校で過ごしたお兄さんお姉さんの答えはこうです。
「食べられるけど、すっごくまずいらしいよ」
本当はちゃんとおいしいリンゴもなるのだそうですが、そういうリンゴは鳥達が真っ先に食べてしまいますし、リンゴがなる時期は夏休みの終わり頃です。食べられるようになった頃、この樹のリンゴは勝手に落っこちて腐ってしまうのだそうです。それにそもそもこの樹にリンゴがなること自体が、とても珍しいことでした。
リンゴの樹の傍らには、白くて古ぼけた看板が立っています。ニュートンという偉い博士が、万有引力の法則を見つけた有名な話と、そのきっかけになったリンゴがこの品種なのです、という説明が書いてあるのですが、ところどころ字が薄れているし、言葉も古めかしいので、その文をちゃんと読んだ生徒が学校中にいるかどうかも分かりません。
いえ、いました。この木のそばの小さなベンチでよく過ごしている、四年生のカイトです。
カイトは本当は図書室や教室で静かに本を読んでいるのが好きな、体の小さな大人しい子供でした。低学年の頃はずっと休み時間はそうやって過ごしていました。でも、今年はそうやって過ごしていると、担任の先生が真夏の太陽みたいな笑顔で言うのです。
「おいおいカイト、そんなところでじっとしていたら、もやしっ子になっちゃうぞ。男の子は元気が一番。ちゃんと友達と外で遊びなさい。いいね?」
時にはそのまま背中をドンと叩かれることもありました。そうされたカイトは、牧羊犬に追い立てられる子羊のようにおどおど校庭に出ていくのですが、あっちではドッジボール、こっちではサッカー、みんながっちりチームを組んでいて、とても楽しそうだし、それにみんなの背の高いことといったら!未だに3年生に間違われるカイトと比べたら、本当に大人と子供くらいに違う気がしてしまいます。そんなところに自分のようなちびの「もやしっ子」が加わったところで、チームのみんなに迷惑をかけてしまうだけのようにしか思えませんでした。
この校庭のどこにも自分の居場所がないように思えて、途方に暮れていたカイトがある日見つけたのが、この校庭の隅のリンゴの樹でした。
校庭の奥の方には、錆びたブランコや雲梯があるのですが、見るからに古くてそっけないので、一年生がちょっと使ってみるだけで、遊ぶ人はあんまりいません。リンゴの樹は遊具の並んでいる一番左端に静かに立っていました。側には小さなベンチがあって、そこから奥はもうフェンスしかありません。リンゴの樹がカイトだけの場所を作ってくれているように見えて、カイトにはその樹は小さいのになんだかとっても頼もしく見えました。
それでもリンゴの樹の側のベンチでただぼーっとしているのでは、いくらなんでも面白くありません。そこでカイトは「朝読書」の時間用に持ってきていた本を読んで過ごすことにしました。
「朝読書」というのは、毎週木曜日の朝、朝の会が始まるまでの20分間、静かに本を読んで過ごす時間のことです。カイトはその日、小さなサイズの動物図鑑を持ってきていました。家にある物語の本はもう、全部覚えるまで読みきってしまったのです。
「日本の動物図鑑」とは書かれていますが、ここに載っている生き物を、カイトはほとんど見たことがありません。鳥は別として、カイトの住んでいる街にいる動物は、動物園にいるものの他は、人間と、犬と、野良猫くらいしかいないような気すらします。そういえば夜に道路をちょっと太った野良猫みたいなのが横切ったのを見たことがあるけど、あれがタヌキだったのかな?などと思いながら、カイトはペラペラと図鑑をめくっていました。
「おーい、カイト!そこで何やってるんだ?」
突然名前を呼ばれてカイトが振り向くと、同じクラスのハヤタが大きく手を降ってカイトを呼んでいました。
「あのなー、ドッジボール一緒にやらねえ?」
「えっ…僕が入っていいのー?」
「全然いいぞー!昼休み終わる前に早くこーい!」
カイトはバサッと本を取り落として、立ち上がりました。静かに本を読んでいるのが好き、とは言っても、やっぱり友達に遊びに誘われるのは、とっても嬉しいのです。
カイトはハヤタたちの所に走りだしました。落とした本のことは、すっかり忘れていました。
***
6/24 3:00 PM
ユウマがよく遊びに来る自然公園には、小さなリンゴの樹が生えています。
リンゴの樹が公園にあると聞いたら、やって来た人はみんなこう思うでしょう。
「それってリンゴの実がなったら食べていいの?食べたらおいしいの?」
だけど、残念ながら公園に何度も来ている人の答えはこうです。
「ポケモンなら食べられると思うけど、人間はちょっと無理だね」
ポケモンと人間とでは、似ているところもあるけど違うところもたくさんあります。例えば人間にとっては火を噴くくらい辛い木の実や、口が曲がるくらい酸っぱい木の実でも、ペロリとたいらげてしまうポケモンがいるように。このリンゴも、渋いのや酸っぱいのが好きなポケモンにはいいけれど、人間にはちょっと合わない味でした。それに、この公園にリンゴの樹は一本だけです。リンゴの樹は一本では、ほとんど実をつけられないのです。
リンゴの樹の傍らには、自然公園の案内板が立っています。けれど、この公園に来る人は、みんな早くバトルをしたいかポケモンを探しに行きたいかでワクワクしているので、ほとんど素通りしていきます。
ちゃんと見ているのは、しっかり者のユウマくらいです。
ユウマは10歳の誕生日に、初めてのポケモンを貰いました。ワニノコは噛まれたら痛そう、ヒノアラシは炎が怖い、そんなわけで一番怖くなさそうなチコリータを選びました。小さな四本足でちょこちょこ歩く姿は、見ていて全然飽きません。この公園でも色んなポケモンを連れている人を見たけれど、自分のポケモン、というのはただ見ているだけと全然違います。いつも側にいてくれるのもそうですが、遊ぼう遊ぼうとせっつかれたり、ご飯をあげたりトイレの始末をしたり。まるで弟ができたみたいです。
ユウマは夏休みになったら、初めての旅に出ることになっていました。ジョウトの色んな所を回って、たくさんのポケモンやトレーナーに出会うのです。それを思うとワクワクしてたまりません。まだ7月にもならないのに、目が覚めたら夏休みになっていて欲しいくらいです。
そして注意深いユウマは、旅に出るのにチコリータ一匹じゃあ、きっと危ないだろうな、とも思っていました。トレーナーの基本は、色んなタイプのポケモンを連れ歩くこと。なので、自然公園にポケモンを捕まえに来たのです。もちろん、迷わないように公園の案内板を見るのも忘れません。
「…あれ?何これ」
ユウマは案内板の前にやって来て、そこに小さな本のようなものが落ちているのを見つけました。
「日本の動物図鑑」
このタイトルの中でユウマが分かった言葉は「図鑑」だけでした。何の本だろう。ずいぶん小さいけど、漫画かなぁ。ユウマはしげしげとその本を眺めました。表紙にはどこか遠くの知らない国の草原のような風景の写真が載っています。そこにはユウマの知らない生き物が写っていました。
「なんだろこれ…ポケモンなのかな…」
その生き物は一見、ロコンのようにも見えますが、随分きりっとした顔立ちをしているし、第一にあの可愛らしい巻き毛も6本の見事な尻尾もありません。
ユウマは本をひっくり返してみました。裏表紙に使われている写真は夜のようで、白い花の咲いた草に、ピカチュウとコラッタを足して2で割り、うんと小さくしたような生き物が掴まって、黒いビーズのような目でこっちを見ています。こんなオモチャみたいに小さな生き物を、ユウマは知りませんでした。
そしてその本の下の方には白いラベルが貼ってあり、こんな名前がプリントされていました。
「4年2組 大沢 海斗」
おおさわかいと、とユウマは頭の中で名前を読み上げました。それから自分の知っている中にそんな名前の友達がいたかどうか、できるだけ思い出そうとしてみました。が、どうしても思い当たりません。
(でも、僕が知らないだけで、そういう名前の子がいるのかもしれない)
ユウマのクラスは4年3組なのだから、2組の生徒に知らない名前の子がいてもおかしくありません。ユウマは自分の考えに一人で納得して、うんうんとうなずきました。
落とし物なのだから、警察か公園の係員の人に届けたほうがいいのかもしれない、という考えもありましたが、「大沢海斗」君が自分の学校にいるものだと結論を出したユウマは、自分でこの落とし物を返せるものだと思ってしまいました。そしてそれ以上に、この不思議な本への好奇心が抑えられなかったのです。
ユウマはしゃがんでリュックを降ろし、その本を大事に、一番底にしまいました。それから本来の目的だった、旅のお供にするためのポケモンを探しに公園の奥に向かって行きました。
***
6月24日 午後7時30分
カイトが本を失くしたことに気がついたのは、家に帰って自分の部屋の本棚を見て、そこにちょうど本一冊分の隙間があるのを見つけた時でした。
カイトの持っている図鑑は、動物図鑑だけではありません。魚、鳥、昆虫、それにもう日本にいない、絶滅した動物のものだってあります。これはカイトの10歳の誕生日に、カイトのおじいさんが一揃いのセットでプレゼントしてくれたものなのです。裏には名前のプリントされたラベルまで貼ってありました。(ただ、学年とクラスはいらなかったなぁ、とカイトは裏表紙を見る度に思うのでした。だって、4年生は1年で終わってしまうでしょう)
きれいに全部揃っているはずのものが、一つだけ欠けているのは、嫌なものです。それにこの本は、おじいさんがくれた大事なものなのです。勉強していても、テレビを見ていても、本棚に開いた一冊分の隙間が気になって仕方ありません。でも、学校のどこかで落としたのか、帰り道に落としたのかさえ、カイトはよく覚えていませんでした。リンゴの樹の下に行くまでは持っていた、ということだけは確かに覚えていたので、まず学校の先生に聞いてみよう、とカイトは考えながら眠りにつきました。
***
6/24 7:35 PM
ユウマは自分の部屋で寝転がり、「日本の動物図鑑」をしげしげ眺めていました。
「すごいなあ、こんなのどうやって作ったんだ」
どのページを開いてみても、ユウマが見たことも聞いたこともない生き物ばかりが載っています。全身真っ黒の毛むくじゃらで、目がどこにあるのか分からないようなのは、ヒミズという名前です。クッキーみたいな可愛い縞模様とフサフサの尻尾をした妖精のようなものは、シマリス。しかも、どれも絵ではなく、しっかりとした写真で、これがどういう生き物なのか、ちゃんとした説明までついているのです。確かに世の中には、まるで写真そっくりな絵を描ける人もいますが、この本に載っている生き物たちは、どれも絵とは思われないほど生き生きとした姿を見せており、そして強そうなものも、可愛らしいものも、どこか人間を寄せ付けない顔立ちをしていました。
(もしかしたら、これは全部本物そっくりの人形で、それを色んな所に置いて撮影したのかな?)
そうも思ってみましたが、だとしてもその「本物」はいったいどこにいるのでしょう?説明を読んでも「本州」「四国」「青森県」など、ユウマの知らない地名ばかりが出てきます。この本を作った人の想像の世界なのでしょうか?これらはユウマの知らない物語に出てくる生き物なのでしょうか?ユウマは頭がグルグル回ってしまうような気持ちになりました。
不意に、ふわりといい香りの風が吹いてきました。その香りをかぐと、頭の中のグルグルがピタッと止まり、目の前がちょっと明るくなったような感じがしました。風の吹いてきた方を見ると、チコリータが心配そうな顔でユウマを見つめています。チコリータはユウマと目が合ったのに気づくと、ユウマの顔をまじまじと見て、また頭の葉っぱを2,3回、ユウマに向かって仰ぎました。
「ありがとう、チコリータ」
チコリータの葉っぱの香りには、心や体を癒やす効果があるとユウマは聞いていました。チコリータはユウマが難しい顔をしているのを見て、どこか悪いのかと心配になったのかもしれません。ユウマはこの心優しいパートナーにお礼を言いました。すると、
「きゃう、きゃうきゃう!」
反対側から甲高い声がしました。それから床を乱暴に踏み鳴らす音がして、床が小さく震えました。ユウマがびっくりしてそっちを向くと、今日捕まえたばかりのオスのニドランが、ぶすっとした顔でこちらを見ています。いきなり知らないところへ連れて来られたと思ったら、ずっと放っておかれていい加減腹が立った、といったところでしょうか。
ニドランは紫色の毛をぶわっと膨らませ、ユウマを睨みながら、後ろ足で床を何度も、乱暴に叩きました。ドスン、ドスンと部屋が揺れ、机の上に積んである本が落ちそうになりました。
「わ、怒ってるの?ご、ごめんよ…」
ユウマは慌ててご機嫌斜めのニドランをなだめようとしました。本を開いたまま床に置いて、おずおずと両手を差し出します。ユウマはこの毒の角を持ったポケモンを、少し苦手に思っていました。強そうなポケモンだと思って捕まえたはいいけれど、怒らせてしまって角で刺されたらどうしようとか、撫でている時にじゃれつかれて、うっかり角が刺さったらどうしようとか、そういうことばかり考えてしまうのです。不安いっぱいに差し出した手はニドランの前で止まってしまい、どうしようかと空中をおろおろするだけでした。
すると突然ニドランが、ユウマの方に飛びかかってきました。
「うわあ!」
ユウマはすぐさま両手を頭にやり、殻にこもったゼニガメのようにぎゅっと縮こまりました。
でも、ニドランが飛びついたのは、ユウマではなくて、ユウマが床に置いた本の方でした。ニドランはぴんと耳を立て、ふんふんと鼻息を立てて、本を調べています。ユウマは腕の間からちらっとそれを見て、少し安心しましたが、今度は
(ニドランが本を食べたり汚したりしたらどうしよう?)
という別の心配事が頭に湧いてきました。これは他の人の本なのです。汚したり破いたりしたら弁償しなければいけませんが、いったいこの本はどこで売っているのか検討もつかないし、お小遣いで払えないほど高い値段だったらユウマにはどうしたらいいか分かりません。
「ニドラン、お願い、そこをどいて?」
ユウマが弱気な声でニドランに頼むと、チコリータも葉っぱを振ってニドランに何か呼びかけてくれました。でもニドランは本の上にどっかと座り込み、知らん振りをして毛づくろいなんかしています。
「ねえニドラン、お願いだから…」
「チコ!チコリー!!」
たまりかねたユウマが二度目のお願いをしようとした途端、チコリータの方がしびれを切らしてニドランに飛びかかりました。ニドランは器用にひょいとそれを避けて、ぴょんぴょんと部屋中を逃げまわり始めました。チコリータは一生懸命にニドランを追いかけます。
二匹の追いかけっこの隙にユウマは本を拾い上げました。とりあえず、本はどこも無事なようでした。二匹も追いかけっこのうちになんだか怒るより楽しくなってきたらしく、やがてちょっかいを出し合って遊びだしました。
ふと、ユウマは手の中の本を見て思いつきました。
(これが図鑑なんだったら、ニドランやチコリータのことも載っているんじゃないかな?)
ユウマは本をパラパラとめくりました。すると本のおしまいのところに索引のページを見つけました。早速ニドランのことを調べようと「に」のところを探し当てたユウマは
「あれ?」
と思わず声をあげました。「に」のところに「ニドラン」の名前がありません。「に」で始まる最初の生き物は「ニホンアカガエル」という聞いたこともない長い名前の生き物です。その次はニホンアナグマ、その次はニホンアマガエル、その後にもずっとユウマの知らないニホンナントカが果てしなく並んでいました。
目を真ん丸にしながらユウマは「た」行の生き物の欄を見ていきます。「ダルマガエル」の次はいきなり「ツキノワグマ」に飛んでいます。つまり「ち」で始まる生き物は載っていないということです。
「どういうことなんだ…」
ユウマはわけがわからなくなってしまいました。最近見つかったポケモンであるらしいチコリータはともかく、ニドランはその辺りの草むらにもいる、そんなに珍しくもないポケモンなのに。
遊びが一段落したらしいチコリータがもう一度香りの良い風を送ってくれましたが、ユウマの頭はずっとグルグルしたままでした。
この2度めのグルグルで、ユウマの頭は完全にノックアウトされてしまいました。
たまらず本を閉じ、ユウマは2匹のポケモンをモンスターボールに戻すと、ベッドに横になりました。途端、どっと疲れが襲ってきて、そのままユウマは眠ってしまいました。
6/25 7:35 AM
次の日の朝。
朝の支度をしながら、昨日捕まえたニドランのことや今日の予定、テレビのニュースの感想なんかをお母さんと話していたユウマは、ふと、こう聞いてみたのです。
「ねえお母さん、『シマリス』って知ってる?」
さり気ないようで内心、恐る恐るしてみた質問なのですが、
「さあ?お母さん知らないわよ。最近はそんなポケモンがいるの?」
という取り付く島もないあっさりとした答えに、ユウマはがっかりしたようなホッとしたような変な気分になりました。
それはもう学校へ行く出かけ際のことでした。ユウマはお母さんの答えに対する返事もろくろくできず、
「ううん、聞いてみただけだよ。行って来まーす」
とだけ言って、家を後にしたのでした。
学校でユウマが分かったことは、3つありました。
1つ目は、「大沢海斗」というクラスメートが4年2組にはいないということでした。これは2組の友達に聞いたことで、その時ユウマは本のことは言わず「そういう名前とクラスの刺繍が入った帽子を拾った」ということにしていました。本のことは秘密にしておきたかったのです。ユウマは「大沢海斗」君と直接会って、この本がいったいどういうものなのか聞きたいと強く思っていました。
2つ目は、誰もあの本に出てくる動物の名前を知らない、ということです。これは朝お母さんにしたように、話の流れや休み時間の終わり際などに、さり気なく聞いてみたことです。
ところが返ってくる答えはこんなものでした。
「ねえ、ところでさあ、『ニホンアマガエル』って知ってる?」
「何それ、新しいポケモン?新種?」
「なんか長い名前で強そうじゃん、伝説?」
「んなわけないだろ、そもそもそんな長い名前のポケモンいねえし。漫画のキャラか何か?」
誰にどの生き物のことを聞いても、答えは似たり寄ったりでした。ユウマは「前に何かの本で読んだのを思い出した」とだけ答えて、それ以上は言わないでおきました。
3つ目は、ポケモンの本や図鑑をどんなに読んでも、どこにもニホンアマガエルもツキノワグマも、シマリスも、あの本で読んだ生き物はどこにも出てこない、ということでした。
これは一人で、学校の図書館で解明したことでした。ポケモンの図鑑は、ジョウトで新種が見つかってから新しくなったものも読みましたが、やはりあの図鑑の生き物たちはどこにもいませんでした。
草原で出会えるポケモン、水辺に住むポケモン、街の近くにいるポケモン…など、なるべく近くで会えそうなポケモンのページをじっくり読んでも、火山や海の中、まだ詳しい生息地が分かっていないような珍しいポケモンのページを読んでも見つかりません。
水辺でみずでっぽうを放ち、虹を作って遊ぶマリルや、思いっきりかえんほうしゃを放つバトル中のガーディ、街の片隅で撮ったらしい、電気をまとった姿でこちらを見つめるコイルなどの写真を見ていると、逆に新たな疑問がユウマの中に浮かんできます。
「あの本に載ってた生き物のタイプは、何なんだろう…」
その週の土曜と日曜、ユウマは町の図書館に入り浸って過ごしました。
分かったのはまず「『日本の動物図鑑』に出てくる生き物にはタイプがないらしい」ということでした。ポケモンの図鑑には、名前の近くに絶対にタイプのことが書かれています。でも、「日本の動物図鑑」に出てくる生き物にはタイプのことや、使う技のことは何も書かれていません。前書きにもありません。書かれているのは住んでいる場所と大体の大きさ、食べるもの、繁殖期、冬眠するかしないか、など、その生き物が自然で生きていくのに関係の深いことばかりです。
それと「『日本の動物図鑑にポケモンは載っていないし、ポケモン図鑑に『日本の動物図鑑』の生き物は載っていない』けれど「分類で同じ名前を使っているものがいる」という、とても重要かもしれない事が分かりました。
例えば「ロコン」と「ホンドギツネ」はあまり似ていませんが、ロコンは「きつねポケモン」という分類をつけられているのです。
この2つのことから、ユウマは「もしかしたら、『日本の動物図鑑』の生き物は、ポケモンの先祖みたいなものかもしれない」という仮説を立てました。技もタイプもなかった頃の、ポケモンのご先祖様です。この仮説はユウマの中でとても有力なものになりました。そしてもし「大沢海斗」君に出会ったらそのことを聞いてみようかと思っていたのですが…
日曜の夜、山積みになった宿題を必死にこなしていたユウマは、大変なことに気づいてしまいました。
「『日本の動物図鑑』に載ってるのがポケモンのご先祖様ってことなら、化石ポケモンのプテラやカブトはどうなるんだろう?」
これはユウマの仮設を根底からくつがえすショックでした。思わず鉛筆をあらぬ方向に滑らせ、宿題のプリントに黒いギザギザ模様を描いてしまうほどでした。
もうこうなったらユウマにはお手上げです。「大沢海斗」君に直接聞いてみるしかありません。けれど、この子は一体どこに住んでいるのでしょうか?
始まりは、一冊の図鑑。
著者です。
書き始めてからもう1年たったんですね。
なんだか、最近、文章が意味不明になってきています。ごめんなさい。そのうち、もっとちゃんと読める文章にしたいと思います。
ストーリーとを進めて、完結させることしか考えていないのが悪いんだなとは思いますが、とにかく、まずは完結させようと思います。そのあとで、修正します。
今あげているのは、作成中のサンプル扱いということで…。
ストーリーは脳内ではだいぶ進んでいるので、完結はすると思います。
文章はひどいままだと思います。ごめんなさい。プロットを載せているのとほとんど変わりがないですね。
情景描写がほんの少しでもあればよいのですが。
次に長編を書くときは、すべて完成してからまとめてUpしたいなと思います。
今回は許してやってください……。
以上です。
【一部過激な描写が含まれます】
言葉と名前
◇
言葉という存在を説明する際には、「言葉」という名詞を使わなければならない。
言葉を理解し、言葉に対する説明をする際には、言葉という言葉の名前が必須になる。
名前がない状態で、それ自身を直接対象として議論するのは、不毛としか言いようがない。
何故ならば、その義論その物が、言葉によって構成されているからだ。
「で、何が言いたいんです」
私は禿げかかった中年の准教授に聞く。
「語りえないものは、沈黙すべきと言うことですね」
そう言って、彼は押し黙り、白衣を揺らしながら薄暗い研究棟の中をゆっくりと進んでいく。
蛍光灯の周りには蛾が集まり、廊下の左右には蛾の模様と区別のつかない汚い手書きのプレートが一定の間隔で張り付いている。プレートには各々研究室の名前が書かれていて、薄汚い木製の扉の中にいる学生の性格を想像させる。
ガラス張りの校舎のずっと奥にある研究棟。
終わりが見えない長く暗い廊下の先に、彼の研究室があるという。
◇
ゲームは終盤に差し掛かっていた。
優勝候補が何人かに絞られ、メディアは生き残ったプレイヤーを探すのに躍起だった。あまりにプレイヤーに近づきすぎたレポーターが殺されることもあったけれど、レポーターの命よりも視聴率の方大事らしい。
もちろん私は候補に入っていない。レポーターに追われることもない。何故か生き残っている弱小トレーナー。最後に負ける、弱小トレーナー。それが、私。
私はミミロルのミミをカバンの奥に隠し、死んでるみたいに、生きていた。
私は学校に通わなくなっていた。
人が多いということは、それだけプレイヤーだとばれる可能性が高まるということだ。人ごみは避けるに越したことがなかった。
それに、万が一、友達のエリに何かあったら、申し訳が立たない。
プレイヤーはプレイヤーとして、傍観者たちに迷惑をかけないよう、ひっそりと身をひそめていようと思った。
だから、狭いワンルームマンションから、なるべく外に出なかった。
食事はAmazonで買った。外出は近くのコンビニだけにした。一時期、誰かに後をつけられているような感覚に襲われたことがある。それ以来、輪をかけて外に出なくなった。
きっと、今、私はひどい顔をしていると思う。
家の中にいてさえも、突然ポケモンがテレポートしてきて、私を殺しに来るように感じた。
そんな時、私はミミを強く抱きしめ、布団をかぶり、ベッドの隅にうずくまる。
この小さな聖域の中では、誰にも殺されないような気がしたからだ。
見るともなくついているテレビから、ゲームのルールが読み上げられる。
3月ルール。
同じ色のプレイヤーが2人以上残っていたら、その色のプレイヤーは、みんな死ぬ。
後2週間。逃げ切ることができたご褒美に、私は死ぬ。
それが、このゲームの、ルール。
憎かった。
私を殺しに来るほかのプレイヤーが憎かった。
このゲームを遂行するゲームマスターが憎かった。
私をここまで追い詰めた、この世界が憎かった。
あまりにも多くのものを憎みすぎて、憎くないものを探すことが難しくなった。友達のエリでさえ、私が引きこもった後、連絡をほとんどよこさなくなり、そのことが憎かった。
連絡を控えるようにと私のほうから言ったのに。
私が自分から離れていったのに。
それでも、私から離れていく人がいるのがつらかった。
◇
ゲーム終了まで、あと1週間と3日残ったある日のことだった。
大きな音がした。
それは、何かが爆発するような音にも聞こえたし、地面が陥没した音のようにも思えた。
メディアはのちに、こう呼ぶようになった。
「世界が壊れる音」と。
世界から断絶された場所に生き、世界を憎み続けている私にとっては、世界が壊れることはむしろ嬉しいことだった。大きなハンマーが地球ごと木端微塵にしてくれたらよいと思った。
しかし、世界が壊れる音がした後も、世界は残った。
私にとっての世界の終りは、1週間後に迫っていたと、いうのにさ。
◇
ノックの音がした。
チャイムではなかった。ベルは押されなかった。その人は、私の家のドアを、コンコンコンと3回丁寧にノックした。
私の家を訪ねてくるのは、彼らしかいない。
私の世界は終わったのだと思った。
世界が壊れる音と比べると、びっくりするほど小さなノックの音で、私の人生はなくなるんだなと、そう思った。
私が反応しないでいると、再度ノックされた。
ミミが布団から飛び出して、臨戦態勢に入ろうとしたけれど、私が引き留めた。そして、ミミのふわふわした体を、力いっぱい抱きしめた。
これが最後だと思った。
終盤まで生き残っているプレイヤーに、ミミロルで勝てるはずがない。
なら、せめて、私が速く死んで、ミミがけがをしなくて済むようにしてあげたかった。
レアコイルに一方的にやられた後から、最後はこうすると決めていた。
「ミミ、ありがとうね」
それから、ごめんね。
私が、弱くて。
ノックの音がした。
それから、声が聞こえた。どこかで聞いたことがあるような、滑舌の悪い話し方だった。
「あのー、山崎さん、いらっしゃいますか。できればドアを開けてもらいたいんですけれど」
誰の声なのか、最初わからなかった。ドアなんて簡単に壊せる相手だと思っていた。
ドアを壊さないのは、私をいたぶるためだと思った。
ドアの向こうにいる声の主は、大きくため息をついてから、続けた。
「山崎さん、お願いです、ここを開けてもらえませんか」
そして気が付く。
この声の主は、大学の先生だ。たしか、生物か何かの先生だったような……。
「私はね、あなたの力になれると思いますよ」
力? なんの。あと1週間で死ぬことが決まっているプレイヤーを助けることなんて……。
「私はね、別にあなたのことが好きなわけじゃあ、ありません。でもね、私は、この世界が好きなんですよ」
私は、布団から顔だけ出して、声に耳を澄ませる。
「私はね、この世界のことをもっと知りたい。この世界の歴史を知りたい。この世界がどう変わっていくか見届けたい。この世界の仕組みを知りたい。世界を動かすルールを知りたい」
ミミが一人歩いてドアへ向かっていく。
私は止めなかった。
「だから、この世界を終わらせたくはないんですよ。あなたの人生も、きっと変えることができると思いますよ」
ミミがジャンプして、ドアのカギを開ける。
ゆっくりとドアが開く。
さえない風貌の、やせた小さな中年男性が、ドアの向こうに立っていた。
「さぁ、外に出てみましょうか。あなたは、この狭い場所にとどまる必要はありません。あなたはどこにだって行けるんですから。あなたが願う場所に、思うやり方で」
先生が部屋に入る。ドアがゆっくりと閉じられる。私は布団から顔を出して、尋ねる。
「……先生は、何をするつもりなんですか?」
先生は答える。
「私はね、このくだらないゲームを終わりにしようと思っているんですよ。傍観者代表としてね。おそらく、この世界は何度か壊れていたはずです。でもね、私は、もう嫌なんですよ。この世界が、また壊れるのが。
「私の古い友人に、警察官をやっている男がいましてね。それがどうしたかって? 死んじゃったんですよ。ゲームマスターに殺されました。でもね、彼はいい仕事を一つした。彼は、このゲームを十分に混乱させた。マナフィもとてもよくやってくれました。計画はすべて順調に進んでいます。
「とても大きな変化を食い止めるためにはね、小さな変化がたくさん必要なんですよ。生物が完全に消滅するという大きな変化を食い止めるためには、何回かの大量絶滅を起こす必要があった。その大量絶滅の後に、生物たちは大きく繁栄する。生物の消滅というとてつもなく大きな変化に比べれば、大量絶滅というのは小さなものです。そして、私は、それをやろうと思っています」
先生は続ける。
「山崎さん、あなたはこの世界がこのままでいいと思いますか」
私は首を横に振る。
「山崎さん、この世界を壊してみましょう。この世界を、守るために」
そして、彼は言う。
「やってみましょうか。心配はいりません。あなたは、このゲームに、勝てますよ」
__
カメテテにあげたお団子は高かった。ポケモンセンターの宿泊費割引は、海誕祭の一ヶ月前なのでなくなってしまった。
「よし、野宿しよう」
清流のそばに居を構え、テトの相棒のグレッグルはご機嫌である。が、テトとしては安物でもいいからベッドで寝たい。
グレッグルがバシャンバシャンと、川の水を蹴りあげている。
「毒は流さないようにね」
ケロケロという返事を聞き、テトは手元の端末に目を戻した。
『クイタランがいなくなりました』
『やぐら組みのお手伝い』
『みずタイプのポケモンがほしい』
宿泊費もだが、多少なりともお金を作らないと、この先厳しい。テトはもう一度グレッグルに目をやってから、仕事情報の吟味を始めた。グレッグルはあごを岩に乗せて、清流に洗われている。特に問題なさそうだ。
『やぐら組み』――海誕祭では組んだやぐらの中に故人の持ち物を入れ、海に送り返すのだそうだ。そのためのやぐら組みだろう。住み込みでお給料もいいけれど、グレッグルは大工仕事に向いてない。残念。
『みずタイプのポケモンがほしい』テトもほしい。
『クイタランがいなくなりました』――迷子のポケモン探し系の依頼は、結構多い。でも、やるなとトレーナースクールで言われた。範囲が広い上に、通り一遍の知識で見つけられるものではないからだ。それでも引き受けるなら、僥倖に頼るしかない。
仕事はたくさんあるけど、テトとグレッグルにできそうな仕事となると、難しい。テトはまた端末から目を上げた。
上流からクイタランが流れてきた。僥倖だ。
幸いダメージは大したことなかったようで、テトの手持ちの傷薬とポケモンフーズで元気になった。
テトは迷子情報の写真と、目の前のクイタランを見比べる。土色の頭に、赤と黄色の縦縞の体。細い頭からぷっくりしたお腹までのラインは土笛みたい。ポケモンはその笛の先っちょから細い火の舌を出して、ご飯を入れたお皿をしっかり舐めていた。
「ちょっと失礼します」
クイタランの二の腕に巻かれたリングを確認する。おや情報も、住所も、クイタラン探しの依頼と一致していた。
「クイタランさん、あなたの“おや”が心配していますよ。帰りましょう」
驚かさないように、膝をついてクイタランの太い前腕を取った。しかし、クイタランはすっと腕を抜いた。
「帰りたくないんですか?」
テトがそう問うと、クイタランのジト目が上流を見やった。
「上流に何かあるんですか?」
クイタランはおずおずとうなずいた。その目は半眼で、それだけ見たら目つきが悪いけれど、同じくジト目のポケモンを連れているテトにはわかった。クイタランは今、困っている。それを放って、クイタランを“おや”のところに引っ張っては行けない。
「クイタランさん、何か困ってるなら、ぼくが手伝いますよ」
クイタランのジト目が、ちょっと見開かれた。クイタランはテトをうかがうようにジッと見つめて、そして、うなずいた。
「その前に、スキンシップさせていただいても構いませんでしょうか」
テトの申し出にクイタランは一歩後ずさり面食らったようだったが、ジト目はイヤがってはいない、ように思える。よし。テトは敢行した。
まずは土色の頭に手を伸ばす。焼いた後の土のような乾いた感じと、きめの荒いザラザラした感じが手に残る。
手を一往復させようとしたら、そっと腕でさえぎられた。どうやら頭はイヤらしい。「ごめんなさい」と謝って続行する。
赤と黄色の縦縞部分に手を近づけた。温度を確かめつつ、前進。接触。マグマのような色合いから想像したよりは冷たいけれど、ほのおポケモンだけに、とても熱い。ずっと触っていたら低温やけどになるだろう。時々手を離しながら、しましまを撫でる。毛羽立ったザラザラで、毛の固いカーペットとか、変わった形の鉱石を触っているのに似ている。
テトがしましまを触っていると、クイタランが両腕を突きだした。
「触ってもいいですか?」
確認して手を取ると、クイタランが気持ちよさそうに目を細めた。
二の腕に対して、前腕はひょうたんのように太い。頭と同じ土色のリングが腕をグルリと囲っている。リングに等間隔に空いた穴の奥で、赤い光がゆっくりと揺れている。
リングを手で包んだ。土色の頭と同じザラザラした感触、でも、温度は体と同じで熱かった。クルクルと腕の周りを回るように撫でてやると、クイタランはますます気持ちよさそうな顔をして、火でできた舌をチロチロ出し入れした。
クイタランの土気なザラザラの皮膚を堪能した後。
「ありがとうございます。では、出発しますね」
クイタランが嬉しそうにうなずいた。ちょっぴり仲良くなった気がした。
クイタランを先頭に、川をさかのぼる方へ進んだ。赤と黄色の背中を見失わないように追う内に、道は急な坂になり、すぐ横に見えていた川は崖の下になった。たった数メートルの崖だけど、足が震えた。落ちないように足場を確かめながらの行軍。夕方の早い内から雲行きが怪しくなり、その日は近くに平坦な場所を見つけて野宿を決めた。
テントの幕を打つ雨は強く、心もとない夜となった。狭いテントの中に招き入れられたクイタランは、水滴が黒い影となってテントの表面を滑り落ちるのを、長いこと見つめていた。
「もう寝ますよ」
明かりを落とす。クイタランは土笛のような体をのっそりと横たえた。
朝日に自然と目が覚めた。幸いなことに雨は過ぎていて、新人トレーナーのテトも、足元に気をつければ無理なく進めそうだった。
一方で、崖下の川の水量は増していた。昨日まではちょうどよいBGMだった川のせせらぎが、暴力的な音量で逆巻いているのがわかった。
「落ちたらひとたまりもないね。昨日もだけど、今日は余計に」
気をつけよう、とグレッグルとうなずきあった。
先走りそうなクイタランの太い前腕を何度も引いて、テト達は先へ、上の方へと進んでいく。
クイタランが立ち止まった。
テトは無言でクイタランの視線の先を追った。崖の上に立つ一本の木。その梢で黒いものがバサバサと動いた。
双眼鏡のピントを合わせる。黒い鳥のポケモン。とんがり帽子みたいな頭と、箒みたいなしっぽが特徴のヤミカラス。
「あのヤミカラスがどうかしたんでしょうか」
気づかれないよう息遣いだけでクイタランに話しかける。激しく首を縦に振ったクイタランを、腕に手を置いて落ち着かせた。
「何かされたんでしょうか、って言ってもぼくにはわからないや」
テトの質問に、クイタランは腕をグルグルするジェスチャーで答えてくれたが。ポケモンの言葉がわかるのは、アニメやマンガの話。
「どうしましょう?」
ヤミカラスが飛び去った。クイタランが走りだす。慌ててテトもクイタランに続く。クイタランはヤミカラスがとまっていた木に抱きついた。
「この木に用があるんですか?」
テトは再びクイタランの視線の先を追った。密にしげった枝葉。特にヤミカラスの影も見当たらない。
クイタランが木にツメを立て、登りはじめた。止めようか、止めまいか、迷っている間にクイタランは枝をいくつも乗り越える。
カァ、と声がした。ヤミカラスが戻ってきた。黒い鳥はクイタランの鼻先をかすると、枝から枝へ駆けるように渡って、巣から何かを取りあげた。
木漏れ日に白く光る、一連の輪。ヤミカラスのクチバシに引っかけられたそれを認めて、クイタランが怒りの気炎を上げた。
「真珠のネックレス?」
もうテトの言葉にも答えない。クイタランは幹にグサグサとツメを突き刺し、猛然とヤミカラスを目指す。ヤミカラスはあざわらうように、クイタランの目前で飛び立った。
クイタランはツメを幹に刺したまま、茶色の頭だけ動かして火を噴いた。が、届かない。
「グレッグル、とりあえず“どくばり”!」
テトは迷いながらも指示を出した。もっといい方法があるかもしれない。でも、今のテトとグレッグルじゃ、これぐらいしかできない。ばらまいた“どくばり”の一本がヤミカラスの翼に当たり、ヤミカラスがバランスを崩す。崩れたバランスを取り戻そうと、ヤミカラスが木の枝を握る。そこへクイタランが猛進し、ネックレスを手に取った。
「やった!」
ヤミカラスが弾かれるように首を逸らした。
一連であった白の珠が、一つの線になり。まるで滴のように散らばったそれは、川の中へと吸いこまれていった。
白い珠をハンカチにくるんだ。見つかったのはクイタランのツメに残った一つと、木の根元に落ちた二つきりだった。
日の落ちた後の森を、クイタランの火の舌で照らして、ほうほうの体でキャンプ地まで戻った。再度テントを張る気力もなく、グレッグルと交代で夜の番をした。
次の日はあくびを噛み殺し、固くなった体をほぐしながらの進行だった。坂が緩やかになっていくと、昂ぶっていた気持ちもようよう落ち着いてきた。
町が近づくにつれ、テトは気持ちがはしゃいできたが、クイタランは逆に気落ちしていくようだった。なぐさめるのも謝るのも合わない気がして、テトは何も言えないまま、クイタランの“おや”の住所まで辿り着いてしまった。
端末の表示を照らし合わせて確認する。赤茶の壁の、瀟洒(しょうしゃ)な喫茶店だ。大きくガラスの入ったドアを押すと、チリンチリンとベルの音がした。
「いらっしゃいませ」
カウンターにいた白髪の男性が、テトの後ろを見るなり相好を崩した。
「クイタラン!」
身をひるがえしてカウンターの小扉を抜けると、男性はクイタランの腕を両手で包んだ。と同時に二の腕のリングも確認する。
「確かにうちの子です。見つけてくださり、なんとお礼を言っていいか。すいません、お客様を立たせたままでは」
さあ、と男性の大きな手にいざなわれ、テトは流されるままカウンター席に着いた。
「本当によかった。もう見つからないものかと思っていました。本当に」
「あの、これ」
テトはハンカチに包んだままの真珠を、背伸びして差し出した。男性は目を細める。目元にたくさんのシワが寄った。
「すいません、ネックレス、切れてしまって」
テトの手から、男性がハンカチを受けとった。三粒残った真珠を、丁寧に自分のハンカチへ移すと、テトのを持ち主に返して、そして。
「そうですか。そう……いえ、ありがとうございました」
言葉尻は明るかったが、肩は落ちていた。カウンターの内側で、細い炎の舌がチロリと照った。小さなテトからは見えない位置で、男性の手をクイタランが握っているのだと思った。
「クイタランを見つけてくれたお礼に」と、テトは白髪の男性――店長さんから喫茶店の二階の一部屋を貸してもらうことができた。
「亡くなった家内の部屋でよければ」と店長さんは言っていた。
真珠のネックレスも、彼女のものだそうだ。店長さんは一粒をカウンターの中に飾り、一粒をクイタランの二の腕のリングに飾り、一粒を自分の胸ポケットの中に入れた。
その様子を、テトはサービスのコーヒーを飲みながら、黙って見ていた。はじめて飲むコーヒーは、ひどく背伸びした味がした。
当初は夕方には帰宅するつもりでいたナズナだが、食事はどうするのかと何気無くした質問に対し、アデクに「自分が作る」と返されるや即刻予定を変更した。
(シュヒくんは知らされてないんだろうからしょうがないけど……チャンピオンに料理させるなんて、畏れ多過ぎるわ!)
彼の身分に遠慮をするなとシャガに、そしてアデク本人にも言われていたが、それはそれ、やはり礼儀を尽くして然るべきとナズナは考える。少年に出来ない分、自分が請け負うべきだとも。
そうした経緯で急遽ナズナが夕食を振る舞うこととなり、今晩は三人で和やかに食卓を囲んだ。後片付けも少女が名乗りを上げ、その合間に男たちは順に湯を浴びる。二人が風呂から上がりリビングに出揃う頃には、時刻は八時を回っていた。
「今日はどうもありがとう」
「ありがとう、ナズナさん」
「いえいえそんな。また明日来るね!」
玄関先で二人に礼を言われ、ナズナはそれぞれに一言ずつ返事をした。
日中はまだ暑さが残っているものの、この時間帯ともなると不意に吹く風が寒くすらあり、秋の深まりをひしひしと感じる。檸檬色のカーディガンを羽織った少女は、もう遅いし送って行こうかとのアデクの提案を笑んで制した。湯冷めして風邪を引きでもしたら大変だ。婉曲にその旨を伝え、三人は就寝の挨拶を交わし合った。
庭へ続くコンクリートの階段を下る。背後の扉が閉まり、屋内から零れていた明かりが周囲の闇に飲み込まれ、みるみる細くなってゆく。しかし完全に光源が無くなろうとしていたところに再び照明を当てられて、ナズナは何かと後ろを振り向いた。そこに、眉尻を下げたシュヒが一人で立っていた。
「ナズナさん。あの……」
言い難そうに語尾を濁して体をよじる彼に、ナズナは「なーに?」と小首を傾げて訊く。すると彼は思いも寄らぬ二の句を継いだ。
「メイテツとキューコ……元気かなあ……」
今も彼を巣食っているはずの、ポケモンへの悪感情。その原因を作り出したとも言える二匹を少年が案じている、と取れる言葉を紡いだのだ。彼女が二匹を引き取ってからというもの今日この時まで、シュヒが彼らの名を口にすることは一度たりとも無かったのに――。
ナズナは目を丸くし、それからすぐに胸中で嬉しい吐息を溢す。少年の、歓喜すべき心境の変化だった。
(アデクさんのお陰だよね)
やっぱりリーグチャンピオンともなると心の開かせ方も違うんだ、と密かに感動しつつ、返事を待つ少年に満面の笑みを向ける。
「うん! もうね、元気溌剌って感じ。昼間だって、シュヒくんの家に行って来るねって言ったら大騒ぎしちゃって、大変だったんだから……」
不安げに顰められていた少年の眉が微かに、ほんの微かにだけれど和らぐ。それに気を良くして話を続けようとしたナズナの耳に、どこか遠くから、小さな声が届いた。
「あら……?」
それは少女の耳にようく馴染んでいる声だった。間違い無い。今は彼らも自分と同じ家で暮らしているのだから、間違えるはずが無かった。だけどまさか、まさか……。
彼には聞こえなかったらしい。「どうしたの?」と呼びかけて来るシュヒを無視して家の前の砂利道へ出ると、ナズナは自宅がある方向の暗闇を凝視する。
(私の聞き間違いなら、いいんだけど)
けれど彼女の淡い希望は次の瞬間、いとも簡単に裏切られた。
ナズナの行動を不審に思い、彼女が見つめる先を眺めたシュヒは、その奥にぼんやりと現われた影に釘付けになった。見てはいけないものだと頭では解っているのに、眼は体は、縫い付けられたように一点から動かなくなった。
カナワを覆い隠す暗幕を潜り抜け、喜色を満面に携えて、まっしぐらにこちらへと走って来るそれは。
「めぇんめえーーん!!」
「ルルッグルッグーー!!」
見紛うこと無き、モンメンとズルッグであった。
「ひっ……!!」
「わわわわ……お、落ち着いて! テッちゃん! キューちゃん!」
遠くに見えたと思ったのも一瞬で、あっと言う間に二匹は二人との距離を詰める。ナズナは彼らの進行を止めるべく歩み寄りながら、シュヒに家へ入るように目配せした。が、顔面蒼白でわなないている少年が合図に気づく気配は無かった。
「どうしたんだ、二人とも?」
少年の戻りが遅いのに疑問を感じたのか、それとも少女の上げた声で異変を察したのか。家から出て来たアデクは二人が向いている方に視線を巡らせ、開眼した。
「あの二匹は!」
瞬時に状況を整理し、アデクは腰のモンスターボールに手をかけつつ硬直しているシュヒを己の背に隠す。これから解放する自身のポケモンをも、彼の目に触れさせぬために。
まだシュヒは、到底ポケモンを――彼らを受け容れられる状態になっていない。下手に近づけさせられなかった。
「クリムガン、バッフロン。モンメンとズルッグを足止めしてくれ!」
「りむがぁ」
「ブモォッ」
ボールから現われた大型のポケモンたちの迫力に、モンメンとズルッグは怖じ気づいて急停止する。
「ナズナさんは二匹を出来るだけ宥めてくれるかい!」
「は、はい!」
どうして彼らがここにいるのだろう、父は一体何をしているのか、と心中で父親を詰っていたナズナは翁の声に意識と姿勢を正し、ボールを外して宙に投げた。果たして中からゆったりと登場したドレディアへ、簡潔に指示を下す。
「テッちゃんたちに“甘い香り”よ!」
「ディ〜」
花冠から薄紅色の帯状の光を発生させ、風に乗せて標的へと送り込むようにドレディアは円舞する。対象となった二匹をすっかり包み込むと光はふわっと弾け、そこから甘い香りが一斉に放出された。
彼女の挿頭す大輪の花はチューリップのはずだが、季節柄だろうか。その香りは金木犀にとてもよく似ていた。
「シュヒくん、家に入ろう!」
甘い香りにうっとりとしている二匹を確認し、アデクはシュヒを抱き上げる。強引に頭を胸元に押さえ付け俯かせ、何も目に入らぬようにして。
「めぇん?!」
「ルググ!!」
取り囲んでいた芳香が薄れ二匹が我に返る頃には、少年を抱えた老翁は玄関に入り込み、扉を閉じようとノブに手をかけているところだった。
「ルルグゥーッ!!」
「めええぇ〜ん!!」
鮫肌竜と頭突き牛に進路を阻まれながらも、二匹は大声でシュヒを呼んだ。あらん限りの声で必死に呼んだ。だが、少年は最後までアデクの腕の中で顔を伏せて、一目でも彼らの方を窺うことは無かった。閉まりゆく扉の向こうへ少年は恐怖に縮こまったまま、消えてしまった。
扉の隙間から伸びていた光輝が失われ、夜の闇が、一層暗澹と濃くなる。
「………………」
何週間か前まで自分たちも共に暮らしていた家を前に、それ以上為す術も無く二匹は立ち竦んだ。少年だけでなく、沢山の思い出が詰まったこの家にさえ拒まれているように、今の彼らには思えた。
「テッちゃん。キューちゃん……」
彼らが悄然とした面差しをしていることは、その小さな背中を見るだけで簡単に読み取れた。ナズナはドレディアを共に、二匹に歩み寄る。途方に暮れた顔で少女に振り返った二匹の頭を、ナズナは優しく優しく、思いを込めて撫でる。
「大丈夫。シュヒくんは、あなたたちを嫌いになったんじゃないのよ」
隣でドレディアが、主人に同意してこくんと頷いた。
気持ちは通じたのだろう。モンメンもズルッグもややあってから相槌を返してくれたが、表情は少しも晴れず暗いままだった。
「ドレディア。ふたりを家まで送ってちょうだい」
「ディディア〜」
跪くため落としていた腰を上げ、同じく立ち上がった相棒にそう頼む。了解し、ドレディアは二匹の手を取ると暗い道を、慣れた足取りで歩き出した。
無言で三匹を見送るナズナとクリムガンたちの傍らへ、再度外へと出て来たアデクが寄り添う。
「……どうもありがとう、ナズナさん」
「いえ……」
家の中で一人、恐らく震えているシュヒの心情を測り、二人はしばし一言の言葉も交わさず、カナワの冷え冷えとした闇に身を浸していた。
真昼さながらに目映く照射されたリビングのソファに、シュヒは膝を抱え込んで腰を埋めていた。顔面は未だ蒼白、体はがたがたと揺れ続け治まる様子が無い。
忘れようとすればするほど鮮やかに、先の光景が蘇る。二匹の姿がくっきりと眼球に焼き付いて、離れなかった。
当然のことだ。忘却に帰すには、自分と彼らの関係は近過ぎて長過ぎた。あの巨大百足や小蜘蛛や甲虫のように、輪郭だけの恐怖に変じさせることが叶うはずも無い。
ポケモンが嫌いな訳じゃない。その気持ちに嘘偽りは無い。けれど怖れ戦慄く心と体は真だ。自分では治しようの無い、本能みたいなもの。
やはり無理なのだろうか。あの頃に戻りたいと願うのは、所詮は身の程知らずの高望み、儚い夢物語なのだろうか……。
見通しの利かない真っ暗闇。終わりの見えない無限回廊。そうした暗く長い思考からシュヒを掬い上げたのは、カタカタという音と仄淡い光だった。
「……?」
音と光の出所を追って横を向く。そこに、焔を思わせる模様に縁取られた白いタマゴがあった。
ずっと隣に確固として存在していたのに今し方まで、元より無かったように視界から隔絶されていた命の宿。それは静かに発光し、シュヒの体の震えと比例し揺れている。その様子を見ていると、不思議とシュヒの心は落ち着いてきた。
けれど少年が平静を取り戻したのとは対称的に、タマゴの明滅はだんだんと間隔を縮め、振動は強く激しくなってゆく。こうなってくるとシュヒも平然と見守ってなどいられず、慌てふためいて庭へと駆け出す他、仕方が無かった。
「じーちゃん! 大変だよ早く来て!!」
バタンッ、と勢いよく開け放たれた扉から焦燥感を丸出しにした少年が踊り出て、翁らの心臓は大きく飛び跳ねた。
「ぬおお?!」
「どうしたの?!」
「タマゴ! ポケモンのタマゴが、ずっとガタガタ言ってるっ! 生まれちゃうかも!!」
シュヒはわたわたと両の腕をばたつかせながら、半ば叫びに近い声を上げる。
「そうか! すぐ行く」
その返事を聞くと少年は踵を返し、再び家へと走る。それを早足で追い駆けかけて――アデクは、度重なる出来事に茫然としているナズナに振り返り、微笑んだ。
「“きっかけ”に、なるかもしれんぞ」
どういうことかと質す前に翁は身を翻して駆け出して、少女も慌てて家へと飛び込んだ。
*
リビングへ戻りシュヒの示す所を目視すると、なるほど確かに、タマゴは尋常ではない震え方をしていた。
一度はポケモンがタマゴから孵る所を目撃した経験のあるアデクやナズナならともかく、初遭遇するシュヒなら大いに動揺を掻き立てられるだろう激しさで、明滅と震動を繰り返している。
「ひびが入ってる!」
ソファに近寄りよくよく観察すれば、頂点には薄らと亀裂が走っており、ナズナは興奮して頬を上気させた。
「もう、すぐに産まれるな!」
アデクはケースの中からタマゴを取り出し、フローリングに胡座をかいた。ゆっくりと、落ち着かせるようにタマゴの腹を撫でさする。
「よし、よし……」
老翁の隣に正座し、ナズナは目を輝かせてタマゴを見つめる。それから離れた所でぼうっと成り行きを眺めているシュヒに笑いかけ、手招きした。
「シュヒくんもこっちおいでよ」
「でも……」
おどおどと視線を彷徨わせ、アデクと目が合う。翁は微笑を浮かべて、弱り顔の少年へ深く相槌した。それだけで、シュヒの心にはわずかな勇気が湧く。
タマゴの発光は益々強まり、ひび割れが大きくなる。次第に殻がパキパキと小気味良い音を立てて、少しずつ破られてゆく。
シュヒは足の裏を床にこすりつけるようにして、じりじりと近寄った。自分でも信じられなかったが、この歩みの遅さは、ポケモンに対する恐怖感に起因するものではなかった。
そうしてついに、タマゴはゴトンと強く震えて辺りに殻を舞い散らせると、一際目映い輝きを放った。
光が収まった後、アデクの腕の中には最早タマゴの跡形は無く。
「……ルバ……?」
白い毛皮と五本の赤い角を持った、虫型のポケモンが息衝いていた。
わあ、と感激に吐息して幼虫に見入るナズナの隣で、シュヒは生まれ出た命の、想像を越えた有り様に目を見張った。アデクの手の平と変わらないくらいの大きさの、少し力を入れたら壊れてしまいそうな、あまりに小さな体。
「可愛い……けど、見たこと無いポケモンです。何て言うんですか?」
「こいつはメラルバ。虫・炎タイプのポケモンだよ」
「メラルバちゃん、かあ!」
ナズナは教わった種族名を声に出して反芻し、幼虫の背中にそうっと触れた。少し湿った毛皮越しにトクトクと、命の脈動が伝わってくる。
傍から少女と幼虫とを見比べていたシュヒが、ふと思いついて開口する。
「ナズナさん、この子は男の子、女の子?」
「女の子ね!」
シュヒの突然の問いに戸惑うこと無くナズナが切り返し、アデクは目を屡叩かせた。訊けば彼女はポケモンの性別当てが得意なのだとか。
「ほう! それは実用的かつ面白い特技だね」
感心され、少女ははにかみ頭を掻く。曰く、彼女の鑑定はポケモンドクターなどと違い、少し見ただけで当ててしまうという手軽さのため、ナズナの元を訪ねる町民も少なくないらしい。何を隠そうシュヒ宅のズルッグ・キューコも、ナズナが一目見て指摘したことで雌だと判明したという。腕白で力自慢なので、シュヒの両親もそれまでは雄だと思い込んでいたそうだ。
(そうか。おまえも……)
アデクはふと懐かしむ目付きになる。半世紀ほど昔に出会った相棒も、今この手の中にいる命と“同じ”だった。偶然なのか必然なのかは知りようも無いが、ほんの少しだけ、別れの日の胸の痛みが去来して、瞼を伏せた。
「ラル〜」
感傷に浸る翁など構わぬ風に、産まれたばかりのメラルバは、抱きかかえられた腕の中で短い足を忙しなく動かしている。生まれ着いた世界を一刻も早く踏みしめたい。そう体で表現しているかのようだ。そんな小さく幼い彼女の姿が、シュヒにはとても眩しく、どこか格好良く見えた。
「そうだ! 産まれたてのポケモンには栄養満点の木の実を与えなきゃ。すぐに持って来ます!」
そのように発して膝立ちになった若きブリーダーを、翁は胸元の幼虫に考慮して緩慢に仰ぎ見た。
「有り難い。是非頼むよ」
ナズナも彼と同じくゆったりした動作でリビングを出て、シュヒの家を後にする。少女が居なくなると途端に部屋には静寂が戻り、少年はなんとなく所在無さげに立ち尽くした。
「ルバァ」
活発な性格らしい、なんとかアデクの腕の中から這い出ようともがいているメラルバに、自然とシュヒの目は引き寄せられていった。アデクはそのことに気がつくと幼虫をわずかに彼の方へ向け、
「シュヒくん。抱っこしてみるかね?」
「っ、……ううん」
訊ねてみたが、相手の返答はやはり消極的なものだった。
「そうか」
誘いを突っ撥ねた自身の台詞にシュヒは居心地が悪くなって、視線をふたりから逸らす。俯き、両足を交差させたり交互に浮かせたりして、与えられ過ぎた暇を埋めようと試みた。
けれども、こんなことをしている場合じゃない、という思念が不意に湧き上がり口を引き結ぶ。今を逃したら次に言える日がいつになるか、判らないのだ。
シュヒは充分に呼吸を整えてから、アデクに声をかけた。
「あのさ、じーちゃん」
「なんだね?」
穏やかな面持ちで、アデクは傍らに立つ少年を見上げた。彼は自分の右手の上でもどかしそうに動いているメラルバの背を、もう片方の手で撫でている。それを寂しい色をした目で見据えながら、シュヒは話を継ぐ。
「おれも……生まれた時、この子みたいにすごく小さくて……何も、知らなくてさ? 今、じーちゃんとナズナさんがこの子にしたみたいに……父さんと母さんがおれをなでてくれたり、抱きしめてくれたり……したんだよね」
少年が言い終えるや否や、アデクは今度は至極嬉しそうに顔つきを明らめて返事する。
「そうだよ! 沢山の人が祝福してくれたことだろう。それに、」
「いなくなればいいって、言ったんだ」
メイテツとキューコも。
そう続けようとしていたアデクは割って入った少年の、鋭く冷たい刃物に似た台詞に、口を噤んだ。
「父さんと母さんが死んだ日に、おれ……メイテツとキューコのこと、いなくなればいいんだって」
返信ありがとうございます! 遅くなってしまいすみませんでした……。
文章量の件ですが、この物語はどうしても1話1話が長くなってしまいます。その1話を更に細かい物語に分割してしまうと、物語がなかなか先に進まない事態となってしまいます。
その対策として、この小説は『一つの場所』『一日』を1話で終えるように区分しているのです。その為、文章を分けて投稿することは出来ません。今のままの方が上手く文章をまとめられるでしょう。
どこで物語を切れば読みやすいかはプロットで設定し終えているからです。
次に人称視点ですが、これもまた物語の都合上変更することは出来ません。
小説において、物語を語る担当者を主人公以外の第三者に一任することは普通です。
また、主人公以外の人間の思惑がどうしても介入してしまう都合上、主人公以外が物語の解説を行うことは仕方のない事なのです。
よって、両提案ともこちらの小説のお役立ての参考にすることはできません。ごめんなさい。
この小説は第三部最終回までおおよそのプロットを組んでおりますので、構成に何らかの無理が生じた時に変更を行おうと思います。
色々述べましたがコメントありがとうございました! 計画に不備が生じないかぎり執筆を続けていきます!
「……い、おい、かえん!」
ハッと目を覚ますと、そこは洞窟の中で、長老さんとみずきがオレの顔を覗きこんでいた。変身は解けていて、オレの首にはいつのまにか七色戦士に変身するためのパワーストーンが下げられていた。
「やっと気がついたか」
「かえん……大丈夫?」
「ああ……大丈夫だ。けど……長老さん。一体アイツらは何だったんですか? それからオレ、「フレアドライブ」を出せたんですが……」
「待て待て待て。そんなに矢継ぎ早に質問するな。ちゃんと答えるから」
長老さんは咳払いを1つすると、話し始めた。
「ーーまず、あのワルビル達はの、テレパシーで伝えた通り、作り物じゃ」
「作り物って、どういうことですか?」
オレの隣にいたみずきが、長老さんに詰め寄る。
「つまり、何者かがこの地を荒らすためだけに作った命の宿らぬ兵器……ということじゃな」
「兵器!? でも……一体、誰がそんなことを?」
戦った感触では、普通のポケモンとはなんら変わりないように感じた。そんな物をあんなに大量に作り出せるポケモンなんて……とオレとみずきが考えていると、長老さんが驚くべき名前を口にした。
「ーーアルセウス」
「アルセウス!? ……って、神話に登場する、この世界を作ったとされるポケモンのことですか?」
「そうじゃ」
神話によると、アルセウスは何もない所にあったタマゴから生まれ、この世界を作り出したポケモン……らしい。
「確かに、創造神と言われているくらいだから、ポケモンを作り出すことだってできるわよね……」
「でも、アルセウスって本当に存在するんですか? 神話でしか聞いたことないんですが……」
そこで長老さんが、本日2度目の爆弾を投下した。
「アルセウスは存在するぞ? わしは合ったことがあるからの♪」
一瞬の沈黙……そして、
「「えええええーーっ!?」」
洞窟にこだまする、オレとみずきの叫び声。
「……しまった、これは内緒の話じゃったな」
長老さんは気まずい顔をしている。
「あ、あったことがあるって、長老さんって本当に何者なんですか!?」
「テレパシーといい、気になるんですが!?」
オレとみずきの2匹で、長老さんに言葉を浴びせる。
「あー……ま、今のところは ひ み つ じゃ♪」
「秘密って……!」
……長老さんは本当に何者なのだろうか……。
「それよりもうひとつ、かえんが何故「フレアドライブ」を出せたのかじゃろ♪」
オレはハッとして、未だ長老さんに「つららばり」の如く言葉を次々と浴びせているみずきを押しのけ、長老さんに詰め寄った。
「そうです! なんでオレ、「フレアドライブ」を出せたんですか?」
「それはの、七色戦士の力の一つじゃ。七色戦士はそれぞれ「究極技」という物を持っておっての。ブイレッドの究極技が、「フレアドライブ」なのじゃ」
「究極技……」
「しかし、究極技は多大なリスクを伴う技が多くての……一回の変身で一回しか放てないのじゃ。 そして体力を大幅に消耗する上、変身が解けてしまうこともある」
「なるほど……」
オレは納得した。変身が解けていたのは、究極技を使ったからなんだな。
と、そこでオレはあることに気付いた。
「長老さん、あの……1つ質問いいですか?」
「なんじゃ? かえん」
「すっかり忘れてたんですが……らいどはどこにいるんですか?」
「……あ、らいど!」
オレが質問すると同時にみずきは走り去る。
「ああ、らいどはの。ワルビアルから受けた攻撃で気を失って、かえん、おぬしと共にみずきが運んできたのじゃ。今は別の部屋で休んでおるぞ」
「……部屋?」
「おや、気付かなかったかのう? この洞窟は案外広くての。 えーと、ここのすぐ隣の部屋じゃ」
「そうなんですか……痛っ」
オレが動こうとすると、体に痛みが走った。
「かえんはもう少し寝ているといい。 わしはらいどの様子を見てくるでの♪」
長老さんはそう言うと、いそいそと部屋を出ていった。
長老は部屋を出てらいどがいる部屋へ向かいながら、小さく呟いた。
「ふう、危なかった……。かえん達にはまだ、「あのこと」は秘密にしておかねばの……♪」
……中編に続く!
「グオオオオオオオ……!」
ワルビアルの巨大な咆哮が地に響く。それに連動するかのように、倒れていたワルビル達が次々に消滅していく。
「き、消えた!?」
レッドが驚愕し、叫ぶ。
その時、3匹の頭に声が響いた。
(レッド! イエロー! ブルー! 聞こえるか!?)
「長老さん!?」
一体どこから話しているのかと、ブルーはきょろきょろと辺りを見回す。
(聞こえているな! これはテレパシーじゃ!)
「テレパシー!?」
イエローは長老の言葉に、危うく木から滑り落ちそうになった。
(今はそんなこと、どうでもいい! 大変なことが分かったんじゃ! おぬし達が倒したワルビルは、作り物じゃ!)
「作り物!?」
(ああ、それ故にいくらでも作り出すことが可能なのじゃ! そこにいるワルビアルも作り物じゃが、それ故に普通のとは段違いに強い! 覚悟してかかるのじゃ!)
そこまで言うと、長老の声は聞こえなくなった。
「ええ!? ちょっと! それだけ言われても困るんですけど!?」
ブルーが抗議するが、長老からの応答は無い。
「とにかく、倒しゃいいんだろ倒しゃあ!」
イエローは木から飛び上がり、「ミサイルばり」を乱射する。ワルビアルはそれを受けた……が、何も感じていないようにイエローの方を向いて、自らの周囲に尖った岩を無数に生み出し「ストーンエッジ」を放った。
「うわあああ!!」
イエローはそれをまともに受け、地面に激突し、気を失った。
「イエロー! くっ……!」
ブルーは、「ハイドロポンプ」を至近距離から放つ。 ワルビアルはそれを間一髪の所でよけた。
「あっ……!」
「グオオオオ!!」
ワルビアルの叫びが耳を付く。
レッドは恐怖に震えていたが、なにかを決意するような眼差しで、ワルビアルをぐっと睨んだ。
「オレは……ここで負ける訳にはいかねぇんだ! 負けて……たまるかあああ!!」
その叫びと共に、レッドのバッジが真紅に輝き、レッドの体が赤い炎に包まれる。
「うおおおおお!!」
レッドは風のように疾走し、飛び上がった。そして。
「フレアドライブ!!」
……そう叫びながら、ワルビアルに激突した。
ーー薄れてゆく意識の中でレッドが見た物は、発光しながら消えていくワルビアルと、駆け寄ってくるブルーの姿だったーー
……続く!
「ほう、あれがサファリパークか。意外と賑やかだな」
10月24日の土曜日、午前9時。今日は部員達とサファリパークへやってきた。俺達の真面目には受付と入り口があり、その周りには屋台や売店が並んでいる。47、48番道路が未整備なのが気になるものの、周辺含めて良い環境だな。ゴミも落ちてない。
「先生、なんだか楽しそうですね」
「まあな。なにせ、随分野生ポケモンを捕まえることなんて無かったからな、俺は。たまには原点に戻ってみるのも悪くねえだろ」
「原点回帰と言うわけですね」
イスムカの指摘に、俺は機嫌良く答えた。最後にこんな経験をしたのはもう20年も前だからな、血がたぎるってもんよ。旅が終わった後はずっと研究続きで、世間を追われた後は若者の指導。最後には片田舎に流れ着いて……このまま、静かに暮らすのも悪くねえかもな。ま、んなこと考える程老けてはないのだが。
さて、物思いにふけるのはそのくらいに、俺は受付に向かう。
「おーい。ポケモン取り放題、大人4人頼む」
俺は4人分の入場券、計2000円を払い、部員達に配った。
「ほらよ。今回は俺が払ってやる。次からは自腹を切ることだ」
「わかりました」
「ありがとうございます、先生」
「おお、ありがたく頂くでマス。オイラには1回でも十分でマスよ」
……各々、準備はできたようだな。今日は皆私服だが、それぞれの性格がよく出ている気がする。イスムカはできたての角材の色をしたジーンズに黒い長袖のシャツ、赤いベスト。ターリブンは膝下10センチ程の紫のパンツに若草色の長袖。一方ラディヤは、股引に枯れ葉色のミニスカート、そして灰色のダッフルコートである。
俺達は入り口をくぐり抜け、サファリパークに足を踏み入れた。俺は部員達に、事前に説明した内容を確認する。
「それじゃ、行くか。ここからは各自でポケモンを捕まえてくるんだ。閉園時刻の5時には戻ってくるように。では解散!」
「しっかし、随分広いな。地平線の彼方まで続いてやがるぞ」
10分後。俺は道無き道をあてもなく歩いていた。お目当てのポケモンがいるわけでもなし、行ってみたいエリアがあるわけでもなし。ちなみに、今いる場所は木々が生い茂り、岩場が点在している。
そんな中、俺はあるポケモンが横切るのを発見した。腹に、ありがちな稲妻模様が描かれている。
「お、何かいるな。あれは……エレブーか」
俺の前を素通りしたポケモン、そいつはエレブーだ。エレブーは主に発電所近くに生息し、電気を食べるらしい。戦闘能力は上々、進化もできる。少なくとも、ポテンシャルがあるのは確かだ。
「電気タイプ、悪くはない。では遠慮無く、捕獲だ!」
俺はボールを握ると、ためらいなく投げつけた。だが、ボールはあらぬ方向に飛び、無駄になった。皮肉にも、当たってないからまだ気付かれてない。
「おろ、当たらないぞ。まあ、昔からこうなんだが」
ふん、下手な鉄砲も数撃てば当たるさ。30個しかないが、さすがにいけるだろうよ。俺は再び構え、エレブーを狙う。
「こんにゃろ、こんにゃろ!」
くそ、目に見えてボールが減りやがる。確か15個くらい投げたが、一向に捕まる気配すらねえ。もちろん、エレブーが手強いからではない。
「それではとても捕まりませんぞ!」
ふと、俺の右方からややしわがれた声が飛んできた。そちらを向いてみれば、年食った清掃員みたいな爺さんがいるじゃねえか。つくづくこの町は年寄りだらけだな。しかし、返事をしないのは失礼だ。返答しておくか。
「誰だあんたは?」
「おっと失礼、申し遅れた。私はバオバ、このサファリパークの支配人をやっている者です」
「ここの支配人か。こんな場所にいるのは、単にぶらぶらしている……わけではないよな」
「ご名答。園内の見回りはもちろんのこと、入園者の話に耳を傾けてより良い施設にしようとするためです。今は娯楽に溢れていますからね。少しでも気を抜こうものならすぐに破綻してしまいますから、こうした活動はやらねばならんのです」
作業服姿の支配人、バオバは胸を張った。よほど自分達の活動に自信を持っているのかね。まあ、これだけ立派な施設に客が大勢入っているしな。俺もついつい夢中になっちまったし。
「なるほど、地道な仕事が今の大ブームを支えているのか。では1つ、入園者として質問させてもらうが……どうやったら上手くボールを投げられるんだ? どうにも昔からコントロールが悪くてな、普通に捕獲した試しが無いんだ」
「おお、それこそ私の出番です。では実演してみましょう」
バオバ支配人は腕まくりをすると、懐から1個のボールを取り出した。それから身振り手振りで説明する。
「まず大事なのは、腕の振り方です。基本はこのように、まっすぐ振り下ろします!」
「腕をまっすぐ振り下ろす、だな」
俺はメモ帳に書き込んだ。こういう時はメモ帳が1番だからな、図が描けるからより分かりやすくなる。腕は……垂直に下ろすんだな。肘の位置はあまり変化せず、ボールの出所は高い。ボールを持たない手は振り子のように用い、球威を増すのに一役買っている。そして、股が裂ける程足を前に出し、胸を突き出す。こんなところか。俺のメモが終わると、バオバ支配人は続けた。
「また、手のひらは前に向けていることが重要です。手のひらが斜めだったりすると、力のかかりがおかしくなってまっすぐボールを投げられませんから。では、あなたもやってみてください」
「ああ。そりゃ!」
手のひらは、振り下ろす面と直交するようにすれば良いんだな。それもメモしたら、指示された通りボールを投じた。上体をやや左に傾け、右腕が地面に垂直になるよう気を配る。左腕を高く上げ、ボールを放す時は腰に引き付ける。そうして投げられたボールは、俺の予想した場所に、しかもかなりの威力で到達。ボールはエレブーを吸い込み、しばらく揺れ、そしておとなしくなった。俺の手持ちは既に6匹だから、そのままボールは転送された。
「……当たった。しかも捕獲できた」
「おめでとうございます。飲み込みが早いようで何よりです」
「こちらこそ助かった。この年になって、制球難を克服する兆しが生まれるとは思わなかったぜ」
「それは良かった。ところで、お名前を教えていただけますか?」
「名前? ……あー、タンバ学園のテンサイだ。今日はポケモンバトル部の活動の一環として来ている」
やや考え込んで、俺は名前を教えた。と言うのも、タンバ学園の者だと厄介者扱いされる可能性があったのと、俺の正体が知られる恐れがあったからだ。そして、バオバ支配人は想定内の反応を取る。
「なんと、あのタンバ学園! うーむ、そうですか……」
「……不満ならいくらでもどうぞ、支配人さん。俺達はどう言われても構わねえさ」
俺は開き直った。幸い、ここに部員達はいない。つまり、サファリ側は誰が部員か分からない。例え追い出されても、あいつらと連絡を取って引き上げれば良いだけの話だ。ところが……支配人の様子は思ったのとは違ってきたぞ。まるで、探していた獲物を見つけたかのような表情だ。
「いえいえ、そのようなことは微塵も考えておりません。むしろ、好都合とさえ思っているのです」
「と、言うと?」
「はい。現在我々はタンバ周辺の清掃ボランティアをしております。園内のみならず、園外環境も重要ですから。しかしタンバは広く、中々手が行き届かない場所もあります。そこで、タンバ学園ポケモンバトル部様にお手伝いしてもらえないかと考えた次第です。こちらは人手、そちらは信用回復や体力増進等に利があると思われますが、いかがでしょう?」
不意に出された提案に、俺は目を丸くした。当然、サングラスをかけているから外からは分からないが。さて、どうしたものかね。せっかくの話だ、できるだけ有利な条件を引き出してみるか。
「ボランティアか。周囲は実力で黙らせるのも悪くないが……俺がやるわけではない。あいつらのことを鑑みると、あんたの提案は魅力的だな。だが、もう一押し何かねえのか? 単なる体力増進なら訓練でどうとでもなる」
俺はやや強気に出た。仮に蹴っても痛手ではないし、このくらいはいつものことだ。
「いやはや、テンサイ様は手厳しくいらっしゃる。そうですね、園内でのポケモンバトルと書庫の利用許可でどうですかね? 書庫にはポケモン関連の書物がありますから、知識を深めるのにはもってこいですよ」
バオバ支配人は更に譲歩してきた。……上手くいったみたいだな。これだけ条件が整えば悪くない。学校は狭いからな、ここで訓練できるなら願ってもない話だ。俺は首を数度縦に振る。
「ふむふむ、それは中々良い話だ。よし、では来週の日曜から参加させてもらうと言うことで大丈夫か?」
「来週の日曜、11月1日ですね、わかりました。この件についての詳しい話はまた後日、お電話致します。ではそろそろ失礼します。どうぞごゆっくり」
バオバ支配人は深々とお辞儀をすると、そのまま別のエリアに向かっていった。また見回りだろうか。
「……行っちまったか。さて、またポケモンを探すかな」
いきなり色々起こって疲れちまったが、まだボールは残っている。もう少し楽しませてもらうとしよう。俺は大きく伸びをすると、ポケモン探しに奔走するのであった。
・次回予告
勉強の面倒を見ながら夕刊に目を通していると、派手に書かれた記事があった。最近はこんな奴もいるのな、なんと言うべきなのやら。次回、第21話「それはわがままなのか」。俺の明日は俺が決める。
・あつあ通信vol.86
ポケモン世界では、実体のあるものをパソコン通信で送り飛ばしますよね。若かりし頃の私はそれを「分子の構造を完璧に測定して、そのデータを送信。それを基に同じものを再現する」と解釈してました。後から知ったことなのですが、これは量子力学という物理学の分野で「テレポーテーション」というものらしいです。測定すると状態が変化してしまうので完璧な測定は極めて困難ですが、その欠点を克服する方法も研究されているようです。これを実用化しているポケモン世界は、インフラこそ不十分なものの、科学的に現代より進んでいると言えるでしょう。
あつあ通信vol.86、編者あつあつおでん
山の中へと続く坂道を、軽い足取りで進んでいく。うららかな春の陽気を含んだ空気が、やがてしっとりとした土の香りの空気に変わってきた。
ナツキが、祖母と一緒に暮らし始めて一ヶ月。両親が死んだ日、山から帰ってきた彼女は祖母に引き取られる事になった。今は、家の手伝いが一段落したので、山へと遊びに行くところである。生活は、祖母と暮らす前の習慣とあまり変わっていない。
こんな山奥で幼い女の子が、一体何をしようとしているのか。彼女のスキップの訳はとても単純な理由で、“友達と遊ぶから”。しばらく山の道をゆっくりと散歩していれば、大抵気が付くと目の前にいたりするのだ。
どこからともなく現れる、白昼から輝く銀色。
「やっほー、フウ!」
種族名が分からないので、フウ(風)と呼んでいる。女の子だったし、一番感じが合っていたから、自然とこう呼ぶようになった。
*
数週間前に遡る。ナツキは山の中で山菜を探していた。美味しいし、何よりも、沢山見つければ祖母が喜ぶからだった。小さい頃から親しんでいる、優しい祖母が彼女は大好きだったのだ。
しかし、あの美味しい春の山菜はなかなか見つからない。倒れた木を見つけて、その上にへたっと座り込んだ。
「ないよぉ……」
ぽろりと口から出てきた言葉、次に溜め息をつく。それから気合を入れ直す様に顔を上げた。なんとしてでも見つける、たとえ一つでも! そして、奇妙な事に気が付いた。
「……え」
目の前に、探している山菜が十数本程度、こんもりと置かれていたのだ。思わず声が出る。
まさに魔法のような一瞬の出来事に、ナツキは驚く他無かった。何故? どうやって? そう思っていると、すぐそばで生き物の鳴き声がした。
振り向くと、少々得意げな色を映した赤い瞳と目が合ったのだ。
*
それからのことだ。何かあって山に行くと、フウはナツキの目の前に現れるようになった。見守ってくれているような雰囲気と、人懐っこい性格を彼女は不審に思うこともなく、いつしか自然と遊ぶようになった。今ではフウの言いたい事も大体理解できる。言葉で会話するというよりは心で感じる、という方が近い。
(ナツキ、花畑って行った事あったっけ?)
「花畑? あるんだ?」
(うん、今が一番綺麗な時期なの。行きたい?)
「うん!」
笑顔でうなずいた彼女は、フウの背中にぴょんと飛び乗った。
その花畑というのは、山の中、木が生えていないちょっとした空間にできた小さな原っぱだった。それでも、白、桃、紫、様々な色の春の花が咲き乱れている。
さっきまでしゃがみこんでいたナツキが、地面に腹ばいになっていたフウの方を振り向いた。見て見て、と言いながらフウに手招きをする。フウが、ナツキの手を覗き込んで歓声を上げた。
(すごーい)
ナツキは色々な種類の花を使い、手のひらに乗るほどの小さな輪を作ったのだった。人間にしか、こんな事ができる手と指は無い。目を輝かせるフウの反応はナツキの予想以上のものだった。ナツキはふと思いつき、顔の横についた黒い角に手を伸ばす。
(え、なに?)
「ちょっと動かないで…」
曲がって生えた黒い角の根元に、小さな花が咲いた。ナツキが満足そうに笑う。
「フウかっわいい〜」
(私見えないんだけどぉー)
言葉とは裏腹に、フウの表情はとても生き生きとしていた。
「あとでさ、水溜りとか見てみればいいんじゃない?」
(雨、降らないかなー、なんてね)
二人は原っぱに寝転んで、空を見上げた。白んだ空が、少しばかり朱鷺色を映している。
「明日は晴れちゃうかも」
いつもなら憂鬱になる春の雨の日も、楽しみな事が一つでもあれば期待したくなるのだった。
(しおれちゃったらさ、また作ってくれる?)
「花があれば、すぐ作れるよ」
(ありがと! ふもとまで送るよ)
ここでフウが言う“送る”とは、背に乗って行くということである。村に続く坂道まで、フウにナツキは乗せてもらう。ほんの十分もかからないのだ。
家に帰ったナツキが、野菜を水で洗っていた時。
ふいに、家の外がざわざわと騒がしくなった。ほぼ同時に、ドンドン、と戸口が叩かれ、祖母が玄関に出たのをナツキは背後に聞いた。村で何かあったのだろうか。
手を止め、ガラス窓の外を見ると、日が沈んだ空は暗い藍色とも紫色ともつかない色だった。暗く透き通った空に、ぽつぽつと小さな星が輝き始めているのを、ナツキはガラス越しにただ眺めていた。
「なんだって!?」
直後、夕闇の空へと飛びかけたナツキの意識は、祖母が珍しく出した大声に引き戻されることになる。相変わらず玄関でざわざわと声がするが、祖母の声以外はよく聞き取れなかった。しかし祖母の声色から察するに、緊迫した状況らしいという事だけは感じられる。
ナツキは耳をそばだて、少しでも大人たちの会話を聞き取ろうと努めた。
「また……、“アブソルが出た”ってのかい!!」
「生き残りが…まだ……今年………」
あぶそる?
ナツキは聞いた事の無い単語を頭の中で繰り返す。会話の流れとしては、何か良くない事なのだろう。
久々に感じた冷たい胸騒ぎに、彼女は嫌な予感が湧き出るのを必死に押さえ込むしか無かった――。
―――――
スーパーお久しぶりです、生きてます。
訳あって前後編です。同時に上げたかったのですが、後編が完成しない(お
というわけで、せめて前編だけでも上げておこうかと。
今年に入るとますますスローペースになりますが、学業に負けずに頑張りたい…です……。
【好きにしていいのよ】
注意 残酷描写が含まれます。自分では大丈夫かどうか判断しかねますのでご了承ください。
これからはこの注意書き無しで残酷描写が含まれる場合がありますのでそちらもご了承ください。
「いじめられない事です」
皆驚いている。中には笑いを堪えている物やどう見ても悪意の篭った目で何か思案しているような幼稚な奴もいる。もう誰が何を考えているか聞かなくても良く分かる。何度も経験したのだから。
どうせ僕は噂だけはいっちょまえで、チビで、進化しないと何もかも劣っているイーブイで、それも目が殆ど真っ白で異常だ。それにすぐにいじめられる。
父さんがどうしても学校に通わせたのは僕は友達が居ないと一生このままだからである。だけどやっぱり友達なんぞ出来ない。馬鹿みたいな噂が一人歩きして、そこにこんな茶色い毛玉が来るのだから笑いものだしいいカモだ。後できっとカツアゲされる羽目になる。
なんて事を考えながらいつも通りの自己紹介を終え、先生の言葉は殆ど聞き流し、どの席へ座るかだけを聞く。指定された席を見る。見た事の無いポケモンが、他の人とは違う眼差しで見ている。その隣のモコモコした奴も同類を見るような目で見ている。こんな奴らは初めて見る。
不愉快だ。お前らにこの気持ちが分かるもんか。そう思いながら席へ向かう。
なんて強気なことを思うけど、目はきっといつものように虚ろなものだろう。情けない、嗚呼情けない。
気付いたら席についていた。四足用の高い椅子。どうやら無意識に席に座っていたようだ。たった10回程転校するだけでこうも慣れるのか。今気づいた。
「隣よろしくね。アルク君……私の種族分かる?」
突然話しかけられた。青いドラゴンタイプのポケモンのようで両腕に顔……がついている。
――分かるものか。
そう怒鳴りたくなった。けど初対面でそんなこと言えるほど肝が座ってないし、何より向こうは友好的に、真剣に聞いてきた。初対面であんな声で話しかけられるのは初めてだ。母さんの声に似ている優しい声だ。母さんは確か僕が5歳の頃に、死ん
波紋上に広がった を受けて、顔が消し飛んで肩から上が無く、鮮血を吹き出す を僕はただ見ている。体が勝手に動く。僕は文字通り た。
白い目で涙を流しながら、逆の い目でわら……う
突然鮮やかに蘇る記憶。ブンブンと頭を振る。僕は吐き気を抑えて何十年も前のように思える隣のポケモンの質問に答える。
「ごめん。知らない」
ただ質問に答えるだけでイライラしそうだ。でも昔の母に面影を重ねてしまうのだからその感情を露わにすることも叶わず余計イライラが募る。
「私はイッシュに居るべきポケモンよ。種族名はサザンドラ。名前はツグミ。これからよろしくね。あ、そうそう。私生徒会長もやってるからそこもよろしくね」
生徒会長、か。だからこんなに優しくしてるのかな? って確かイッシュは未だに真実を求めるレシラムと理想を求めるゼクロムはいつしか別れ内戦が勃発し、今もそれは続いている。確かそうだった。さっき僕を同類を見るような目で見ていたのは……
ここで思考を止める。
……すべての関心を捨てて自分の世界に引きこもっていたはずの自分はどこへ行ったのだろう? 今回は何かが違う。そんな気がする。とりあえずもう何も考えないでいよう。
「おい。今日は先生用があるから皆自習しとけ」
自習。言い方を変えれば自由。我ながら寒い。
やった。とかよしっ! とかそんな事をほざく奴が居る。先生が出てしばらく様子を伺ってから教室から出ていく奴もいる。教室から出るような奴は少数な上にさっき自分を悪意のこもった目で見ていたやつだが。
取り敢えず、参考書をパラパラと前足で捲る。何故か溜息が出る。
「どうしたの? 溜息ついて。幸せ逃げちゃうぞ」
いつの間にかツグミは自分の机を僕の机に接岸している。
「ちょ! いきなり何を」
「何ってただ仲良くなりたいだけだよ〜」
やっぱりいつも通りの筈のループが少し狂っているような気がした。
夜がすっかり更けてしまった頃のことであった。
ジョウト地方屈指の公園「自然公園」の一角で、一人の若そうな男がベンチに座り込んでいる。そのそばでは、一匹のムウマージがふよふよと浮きながら、彼の姿を心配そうに見つめている風だ。
白いベンチに程近いところに立っている電灯の光が、男とムウマージを辛うじて照らし出していた。
辺りにはほぼ人通りはなく、従って物音もほとんどしなかった。耳に入るものと言えば、ホーホーやヨルノズクの、寂しくこだましてくる鳴き声、そのくらいである。
男は前屈みになっており、顔を少し下に向けているままだ。一向に上げようとしない。ただ、タイル状になっている路面を目にしてばかりだ。目にも涙が堪っては、時折顔の輪郭を流れ伝い、静かに落ちてゆく。そして、右膝の上で作っていた右手の握り拳が、段々、きつく締まってくるみたいである。
そんな彼を見ていられなくなったのであろう、ムウマージは意を決したような表情になる。すると、閉じていた口を小さく開け、新鮮な空気を吸い込む。そうして呼吸と心の準備を整えると、何かしら気分の良くなってくるような声を出し始めた。聴く者を惹き付けるような透き通った声が、辺りに響き渡ってゆく。
その途端、青年がムウマージにゆっくりと顔を向けた後、すっかり重くなっている口を開いた。
「ムウちゃん……すまないが、今日は歌わなくて良いよ」
声を掛けられたムウマージは、思わず驚き、「歌」を止めた後、ムムゥ、と声をあげてしまう。同時に、この男のいかにも辛そうな顔を目の当たりにした。
これでは、せっかく続けようとしても、全くの無意味であるに違いない。このムウマージは、そのように悟らざるを得ず、引き続き歌おうとはしなかった。重苦しい空気を思わず読んでしまったらしい。
ムゥ、と小さく、ため息混じりに声を漏らすムウマージ。かなり不安のようである。
そんなマジカルポケモンに対し、青年はようやく言葉を続けた。
「どうしても、俺が、気になるんだろう。そうだな、俺が今、苦境にいるんだってことは、君にも嫌になるほど分かっているはずだ。だからこそ、ムウちゃん、君は歌おうとした。この俺を少しでも救おうと、幸せにしようとして、な。確かに君の歌は何度となく世話になってきた。その声によって俺がどれだけ救われてきたか、とても数え切れるものじゃない。でも、俺の今の顔を見れば分かってくれるだろ? 俺は今、君の楽しい調べを聞きたい気分なんかじゃない。今はただ、ムウちゃん、君に、そばにいて欲しい、それだけなんだ。つまり、それ以上でもなければ、それ以下でもない、ってことなんだよ。俺のことは、今日はそっとしておいてくれないか、なあ」
男の声は、歯切れが悪く、力のないものではあったが、ムウマージは何とか聞き取った。そして、これ以上は何もすまい、と思うしかなかった。
程なくして再び頭を下げた男、その様子を見つめるムウマージの視線は、何処か哀しく、儚いようであった。
その時、どこからか、重みのありそうな低い声が耳に入ってきた。
「もし、貴方たち、お困りですかな」
周りが閑静であるばかりに、男もムウマージも、その声をはっきりと聞き取った。聞こえてくる方へ両者の顔が向くと、声の主であろう、不思議な不思議な生き物が、徐々に近づいてくるではないか。
周囲に点在する電灯により、この生物の姿が眼に入ってくる。しかしながら、具体的になんなのか見当は付かない。周りが真夜中の暗さの中にある分だけ、不明瞭である。
ここで、ムウマージは怖じ気づいてしまったのか、青年の背後に慌てて逃げ込み、出来るだけ自分の身を隠そうとした。それでも、肩からひょこっと顔を出して、様子をじっと見つめている。
一方、青年は、すっかり潤んでしまっている目を向けるばかりである。悲哀あふれる表情は、まだ崩れはしないのだった。
「いや、なに、私はただ、お話を聞きたいだけなのですよ。貴方たちのその姿が、随分やり切れなさそうですからな」
再び同じ調子の声が、しっかりと耳に入ってくる。近づいてくる姿も次第に大きくなってきており、若者とムウマージはその姿を完全に認めるまでに、時間はほとんど要しなかった。
突然話しかけてきた生き物の正体。それは、隅から隅まで未知で溢れていると言うべき、「闇色の生命体」であった。
お初にお目に掛かります。
「稲羽」と書きまして、「いなば」と申します。
このサイトに投稿するのは初めてになります。
若干の期待と膨大な不安が入り交じった、初々しき心情であります。
さて、今宵お届けするお話は、少しばかり、暗くて重い展開になっております(予定)。
出来れば、心と時間に余裕を作った上で、少しずつお読み下さいませ。
それでは、お話を始めることにいたしましょう。
どうか最後までお付き合い下さいませ。
(こちらも、必ず完成させるよう、無理しすぎない程度に頑張ります)
R1 拍子抜け
「その話は本当なの?!」
「どうやらマジのようっす……俺らの担任が鬼だからってこっちに回さなくてもさぁ…」
私はミライ中学の生徒会長であるツグミ。種族はサザンドラ。あだ名はパペット。あだ名の由来は手が顔だから。それだけ。別に嫌いというわけじゃない。因みに見た目が男っぽいそうだが女だ。間違えた相手には先生だろうと容赦しないつもりだ。
話し相手はエルフーンのライク。女らしいが男であるこのエルフーンのライク。あだ名はモコ。あだ名の由来はいたって単純モコモコだから。こいつもあだ名に関しては結構気に入っているらしい。そしてライクは生徒会書記。私とは仲が良い。
因みに私達のあだ名は生徒会員が殆どのあるグループ同士の呼び名である。
さっき話していたのは今日から新しく私達のクラスに入ってくる転校生の話だった。
新しく入ってくる転校生の噂はまったく酷いものである。曰く目があっただけで気絶する、曰くそいつを見たら悪いことが起きる、曰くそいつの周りでは良くポケモンがどこかへ消える、曰くそいつはポケモンを食うらしい、
曰く、行く先々の学校で何度注意されても何度も不良共に喧嘩をふっかけて何度も戦闘不能にしては問題になり転校を繰り返しミライシティへきた。
「まともな噂は一つくらいかしらねー……しかも私の横の席が空いてると来た……モコ、この席変わって」
私は隣の列、ちょうど横に居るモコに頼む。
「ムリっす。先生に問い合わせてくだちい。ま、あの鬼教師に直訴できるならだけど……ん? みんなどうした? 俺の事見つめて。……ははぁーん。俺ってそんなイケメン」
イケメンまで言ってモコは気づく、皆の視線が自分の後ろだということに。そして後ろから殺気を感じる。
モコは直感的に悟った。
後ろを見てはいけないと!
しかしモコは後ろが気になる、しかし見てはいけない、しかし気になる。
「……さぁ、どーするモコ! ……って痛!」
モコは後ろにいたレイズ先生に教科書でチョップされた。レイズ先生はバシャーモで、すごく怖いが生徒を愛するいい先生だとみんな分かっているので結構人気がある先生だ。
「一人でナレーションすると気持ち悪がれるぞライク。それと……鬼教師上等だゴルァ」
……全文訂正。レイズ先生はバシャーモで生徒のことを大事にしているいい先生だが怖すぎて話しかけられないし、さっきのセリフの最後のゴルァは冗談だが冗談抜きで怖い。とにかく怖い。
「まーいい。皆席につけ。もう皆知っている通り、今日から新しく転校生が来る。良からぬ噂が出回っているが、その噂一体どこから拾ってきたのというくらい優しくて拍子抜けするからみんな仲良くしてやれ。だからツグミ、席を変えるように直訴しなくてもいいぞ。おーい、アルク君入れ」
そこまで話を聞いていたのか……ってあの先生のことだ、多分噂の転校生が優しいというのも嘘だろう。なぜならあの先生の冗談なんかは冗談になった試しはない。というより嘘から出た真になるし、先生があのポケモンは白だと言えば黒なのである。
皆そんな事百も承知なので固唾を呑んでドアを見つめる。一体どんな奴なのか、種族は一体なんなのか、どれだけデカイのか。
そんな事を考えていると、前の方の机で隠れて良く見えなかったが何か茶色い毛が横切ったような気がする。
――転校生? 机に隠れるほど小さいのか? 前の席では何やら驚きと拍子抜けしたような声が聞こえる。
そして、私は初めて見た。奥底に憂いを秘めた不思議な目を。胸の内で不思議な感覚がする。
どうしてあの子はあんなに悲しそうな目をしているんだろう?
どうしてあの子は……どうして……あなたの目は私の目と似ているの?
疑問が止まらない。
初めて見た彼の目は私にはとても神秘的にも見えた。私とモコ以外の皆は何か恐れを抱いてるようだったが。
そして、彼の自己紹介は皆をさらに拍子抜けさした。
「初めまして。これから一緒に過ごす時間は少ししかないですが、よろしくお願いします。この学校での目標は、
いじめられない事です」
R‐zero
6月X日 雨
今日からミライシティの中等学校へ転校することになった。お父さんにはとても申し訳ない。
自分はもう転校には慣れてしまったが、そんな事に慣れたということが悲しい。
取り敢えず、いじめられないよう頑張ろう。
自分は問題児で暴れん坊だという話が転校先でも伝わっている。
が、実際大人しすぎるくらいだと自負している。
それどころか、性格や雰囲気のせいでいじめられ易い体質である。
だから、いじめられたらアイツが目醒めない事を願うしかない。
取り敢えず、眼帯は外れないようしっかり身に付けるように注意し直そう。
新しい学校にもすぐに馴染めるよう努力しよう。
それに、この街は近代化が進み始めているので今までのなかで一番ポケモンが多い。
困ったら近くに大きな病院があるから診てもらえるし、カウンセリングもしてくれるだろう。
これ以上走ったら止まらなくなりそうなペンを止めてパタンと日記帳を閉じる。日記帳の表紙の真ん中にはアルクと書かれ、端っこにはイーブイと書かれている。
アルクは憂鬱だった。毎日欠かさず書いている日記はルーチンワークとなってきた。転校初日は街並みについてとか、馴染めるよう頑張るとかいじめられないようにするとかそんな事を書いて二、三日のうちは日常を書き綴る。しかし二、三日経つといじめられ……結果、また転校する羽目になる。
それに、とアルクは考える。――この不気味なオッドアイとアイツには困る。もうそろそろ何とか和解して早く普通な生活を送りたい……
そう言って、新たな家のドアを開けるのだった。
「行ってきます」
アルクが挨拶をしても家には返事をしてくれるポケモンは何処にもいないのだが。
アルクには母がいない。ブラッキーの父と二人で暮らしている。その上生まれつき目の色がおかしいのだ。
通常目には二色の色がある。角膜と結膜の二色。アルクの右目は普通のイーブイと同じ黒を基調として、真ん中に白目がある。が、左目はそれが逆だった。つまり広い範囲が白色で、ポケモンたちからすれば異様なものである。
詳しい事はまだ解明していないが、その目のせいでアルクは大変な思いをしてきた。だからアルクは自称悲劇の主人公だ。
因みにアルクは眼帯をしているが、何故か通常色の目を隠して異常色の目を晒している。そうなると勿論、
いじめられる。
また今日から長い長いルーティンワークの一部が始まる。そして、一見ループしているようで終おわりのある物語の幕を開けるのだった。
彼は、終の見えない道を歩き始める。
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