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弱くてへなちょこなダメヒーロー、ファイブイジャー。
それよりもずっと弱い僕が、リーダーに選ばれちゃった!?
どこからかさっきの男の声がする。
「中途半端な奴だ。死ぬと決めてから慌てて……」
目の前は真っ暗なまま、しかし首を絞められる感覚はすでになかった。
「これが最後のチャンスだ。生きたければ振りかえろ。そして覚悟しろ!」
さっきと同じ、私に迷いはなかった。生きられるのならなんだってする。なんだって覚悟する。
「いいんだな」
私は、見えない体を動かして後ろを振り返った。
目の前が急に明るくなり、眩しさに思わず怯んだ。
目を細めて、光に慣れてくるのを待つ。時間が経つにつれてぼんやりしていた周りの様子がはっきりしてくる。
「あ、あぁ……」
だだっ広い空き地。夕日に染まったヤマブキの高層ビル群が遠くに見える。この場所がどこかはすぐに分かった。昔、私がまだポケモントレーナーとして旅立つ前、よく遊んでいた場所だ。状況もすぐに納得できた。セキエイリーグに来た時と同じだ。
「おじさん、ねぇ、おじさんってば!」
「えっ、あ、何かな?」
すぐ近くで呼ばれる声がするのに気づいて、はっとなった。目の前には10歳前後といった年頃の男の子がいた。
「おじさんそこで何してるの?」男の子は純粋に、不思議そうに聞いてきた。
「あ、いや、ちょっと……ね」
「ちょっと何なの?」
この子は空気を読むということを知らないらしい。割とうっとうしい。
「懐かしい風景だなぁって眺めてただけだよ。おじさん、ずいぶん長い事遠くにいたから」
「おじさんもこの街の人なの?」
「そう。ポケモントレーナーになってから旅に出ちゃったんだけどね」
「えっ!! おじさんポケモントレーナーなの!? ねっ、じゃ、ポケモン見せてよ!」
男の子の好奇心は暴走を始めていた。
「ごめんね。今、ポケモン持っていないんだ」
「えぇー……そんなぁ」
あからさまにがっかりした顔をする。ちょっとかわいそうなくらいだ。
「ねっ、じゃあさ、おじさんがどんな旅してたのか教えて!」
訂正。全然かわいそうじゃない。なんなんだこの立ち直りの速さ……。
ここで振り切ろうととしてもしつこく付きまとわれ続けることは分かっている。しかし、だからといって、今の私はとても自分の旅を振り返る気になれなかった。
「分かったよ。でもその前に座らないかい? 立ちっぱなしじゃ疲れる」
空き地の道路側の端にはボロいベンチが置かれているを覚えていた。
「分かった!」男の子は言うが早いかベンチの方へ小走りで進んでいった。
前を行く男の子をゆっくり追いかけつつ、その様子をなんとも言えない気分で見ていた。洗いすぎてプリントがボロボロのTシャツ、ポケットのところが異様に膨らんだ短パン、遊び過ぎてドロドロのスニーカーという格好。彼の幼さを見ていると私は何やら面白いような、ちょっと切ないような気分になってくる。
それは私が失ったものを持っている彼が羨ましく感じたせいかもしれないし、彼が着ているTシャツのプリントが好きなアニメキャラクターであることも、ポケットの中身が大量の木の実であることも、スニーカーが誕生日に買ってもらったもので、一週間でドロドロに汚してしまったことも全部知っていたせいかもしれない。
ベンチに着くと、男の子はすでに座って準備万端という様子だった。
「はやく! はやく!」そうやって私を急かし、足をバタバタさせる。
ベンチのペンキはほとんど剥げてしまっていて、座るとズボンが汚れそうだなと、つかの間躊躇させる。しかし、すでに深く腰掛けている男の子を見て、私もベンチに座った。
「んー……まず、先に君の事教えてよ」
「僕の事?」
「うん。君がどんな人なのかまだおじさん何も知らないんだよ」
「んー……僕の事かぁ」困ったような顔をして唸る。
「君の好きなものとか?」
「好きなもの? そりゃ、ポケモンだよ! 僕ももうすぐポケモントレーナーになるんだ」得意満面という様子で言った。
「へぇ! それはすごいね。じゃあ、最初のポケモン何にするかもう決めた?」
「それがさぁ、まだ迷ってるんだ。カメックスもかっこいいし、リザードンも捨てがたいし……かといってフシギバナもなぁ。そうそう! この間のポケモンリーグ準決勝見た!?」急に話が変わった。
「あ、いや……」見たことは見た。ただし、20年以上前に。もちろん全然覚えていない。
「うっそ! ありえねー! もうめちゃくちゃすごかったんだぜ! ラストのフシギバナ対カイリュー。フシギバナが体力ぎりぎりで動けなくなって、そこにカイリューがぶわぁーって突っ込んできて、もうこれで終わりかって思ったら、フシギバナがつるのムチ使ってこうガって避けてさ、もうとにかくすごかったのに、おじさんもったいないなぁ」両手をぶんぶんと振り回しジェスチャーを交えて私に解説する。正直勢いだけで全然伝わらない。
「そっか、それはすごかったんだねぇ」
「おじさんホントにポケモントレーナー? もっとちゃんと強い人のバトル見て勉強しなきゃだめだよ」偉そうに男の子は言った。この子には私がチャンピオンであったなんて、知る由もない。
――いや、むしろ知らなくていいんだ。
「おじさん?」
「あっ、なにかな?」私はまたぼーっと沈んでいた。
「おじさん、さっきからぼーっとしすぎじゃない? 僕の話ちゃんと聞いてる?」
「ちゃんと聞いてるよ。でも、おじさんちょっと疲れちゃったみたいだ。今日はもう遅いし、そろそろ帰ることにするよ。君も暗くなる前に帰った方がいい」
卑怯なことをしている気はしたが、どうしても今私は自分の旅を振り返る気になれなかった。特に、この子の前では。
「えー! やだよ! まだおじさんの話聞いてないし」男の子はやだやだという風に首を振る。
「ごめんね、また明日ここに来るから。その時に、話してあげるから。それに、君も早く帰らないと、お母さんにまた叱られるんじゃない?」私は嫌らしい調子で付け足した。
「うっ……うん……じゃあまた明日ね。ぜったい、明日おじさんのこと聞かせてね! ぜったいだよ!」何度も何度も念を押してくる。
「絶対くるよ。また明日ね」
私が約束すると、彼はようやく納得したようで帰って行った。すでに日は暮れかかっていた。日没前に家に戻らないと、彼の母親が怖い事は、身を持って知っている。
私は彼が見えなくなるまで立ったまま見送った。そして、彼の姿が見えなくなると、私はまたベンチに座りなおした。
太陽が暮れかかって、あたりがオレンジ色に染まっていく。うつむくと、その中に長く伸びる自分の影が見えた。
ここはもう、何年前の過去になるんだろう。旅に出る前の私がいることからして、20年は昔で間違いない。人生の本編が旅に出てからポケモンリーグ優勝までだとするのなら、ここはさながら人生のプロローグというところか。私は、捨てた人生をどんどん遡ってきている。
――はぁ……。
やるせなさは、ポケモンリーグ決勝戦に戻った時よりも強くなっていた。まざまざと過去を振りかえらされるというのはこうも辛い事なのか。
私は結局死ぬ間際だったところから生き延びることはできたものの、あの控室にあるはずの優勝トロフィーを見ることはできなかった。しかし、ついさっき半狂乱になって求めたはずなのに、今は全く未練を感じない。トロフィーよりも私は、まだ今の私の半分ほどの背丈しかない子供の「私」の事が気になっていた。
彼は夢中になって見も知らぬ私に対しポケモントレーナーになると語っていた。彼はポケモンが好きだし、私が失ってしまったピカピカと輝く新品ものの夢を持っている。今更それが欲しいとはこれっぽっちも思わないが、出来るものなら、私は彼からその夢を奪ってしまいたいと思った。
――そういえば。
彼は私に対して一切見知ったような接し方をしなかった。やたらと人懐っこい感じではあったが、自分が今話している相手が“自分本人”であることに気付いている様子はなかった。自分同士に働く第六感があるのかと思っていたが、どうもそういう訳ではなさそうだ。……まぁ、昔の自分が鈍感なだけかもしれないが。
日がどんどん暮れていく。東の空はすでに夜だった。
――今晩どうしようか……。
どこかで一夜を過ごさなければならないが、ポケモンも図鑑も持っていない状態でポケモンセンターは利用できないだろうし、野宿しかなさそうだった。
旅していたころに何度か野宿したことはあったが、もちろんテントやら寝袋やらがあったうえでのことで、完全な野ざらしは初めてだ。
太陽が完全に暮れて、辺りは一気に冷えてきた。一晩で凍死することはないだろうが、きつい一夜になりそうだ――。
「おじさん、まだいたの?」
ふいにさっきの子供――もとい、昔の私の声がして驚いた。
「あれ? 君の方こそどうしたんだい? 家に帰ったんじゃなかったの?」
「それが、こっちにボール忘れてきちゃってさ」
確かに、少年の脇の下には泥汚れの激しいゴムボールが一つ挟んであった。
「そっか、それじゃあ、もう暗いから気を付けてお帰り」
「おじさんは? 今日どこ泊まるの?」
「えっ、まぁ、ポケモンセンターかな……」予想外の質問に焦りつつ、とりあえず答えた。
「ポケモン持ってないのに?」
「うっ」
空気の読めない鈍感なガキかと思っていたのに、こういう時には鋭い奴。ますますもってかわいくない。
「ポケモンセンターに預けているんだ。だから大丈夫だよ」
「ふーん……」
ちょっと沈んだ感じの返事をする。
「ねぇ、おじさん?」
「うん?」
彼は先ほどまでと打って変わって、下を向きぼそぼそと喋っていた。
「よかったらさ、今日ウチに泊まっていかない?」
「えっ!?」
驚いた。確かに昔の私は多少見知らぬ人間に対しぶしつけな所もあったし、疑いを知らないといった感じの部分もあった。そのせいで、よく母からは「知らない人について行ってはダメ」と注意されていた。だが、さすがに、今さっきであったばかりの、30過ぎのおっさんを家まで招待するほど危険知らずだっただろうか。
「君のお母さんはいいって言ったの?」
「……うん。旅のトレーナーさんに宿を貸すのはマナーだって」
彼は嘘をついている。私の母は確かに、ある時期までは、それが旅人へのマナーだとしてよく家にトレーナーを泊めていた。だが、私が旅に出る2,3年ほど前、トレーナーに成りすました凶悪な強盗事件が発生し、それからは一切トレーナーを泊めなくなった。
彼がどうして嘘をついてまで私を家に泊めようとするのか分からない。だが、正直なところ、防寒具無しの野宿を覚悟していた私にとって、彼の話はまさに渡りに船。願ってもない話だった。にも拘わらず、私は、彼の家に泊まりたい気持ち半分、あまり気の進まない思い半分といった状態だった。
「うーん。ありがたい話だけど、今日はポケモンセンターに部屋をもう借りちゃってるからなぁ」
「そんなのキャンセルしちゃえばいいんだよ! だからさ、ね? いいでしょ?」
まくしたてるように迫ってくる。母親の許しがあると嘘をついて、さらに部屋のキャンセルまでさせようとは、私はここまで意固地な子供だったのだろうか。
「分かった。じゃ、お言葉に甘えて今日は君の家に厄介になろうかな」半ば身を乗り出して私に迫ってきている彼の頭をぐしゃっと撫でて言った。
「ホント!?」一気に声が明るくなる
「あぁ、ホントだ。でも、その前にポケモンセンターに部屋をキャンセルすることを言ってこなきゃいけないからちょっとここで待っててもらえるかな」
「分かった」
彼が再びあのベンチに座るのを見て、私はポケモンセンターへ向かって歩き始めた。
広場から離れ、彼の姿が見えなくなったところで、私はポケモンセンターから行先を変えた。特に目的地はないが、ぶらぶらと歩き続けた。もともとポケモンセンターに部屋など借りてはいないし、こうやっていれば考える時間が稼げる。
彼の家に泊まるということは、つまり幼い頃の私の家に泊まるということだ。そこには私が自分の命と一緒に振り切ってきたありとあらゆる物がある。小さなボロアパート、脱ぎ散らかされた靴、誰も見ていないテレビの音、私を出迎える母の姿……。
きっとさっきベンチへと向かって走っていく「私」を見ていた時以上の、切なさに襲われることだろう。私はどうしてもそれらに耐えられる気がしなかった。
今、私には三つの選択肢がある。一つはこのまま広場へと戻り彼と一緒に自分の家に泊まる。もう一つは、彼の元へは戻らず、黙ってどこか適当な場所で一夜を明かす。最後は――。
――また、死ぬ。
それが一番いいのかもしれない。
初め私は、退屈な余り物の人生を避けて自殺した。次に私は、かけがえの無い夢を失っておきながら、それを幸福に感じていたことを知り、安心しつつも自分の人生が馬鹿馬鹿しくなって自殺した。
どれもこれも、くだらない、他人からしてみれば理解しがたい理由だろう(もちろん私にとってはどちらも十分な理由であったが)。
だからこれは初めての、最もまともな自殺の理由かもしれない。
――逃げるのだ。
今目の前まで迫ってきている、恐怖、私の心をかき乱す耐え難い脅威から、「死」を利用して逃げるのだ。
「結局、死ぬんだな。お前は」
突然の声にはっとし、辺りを見ると私は見覚えのない路地裏に来ているのに気付いた。 声はまたあの男のものだ。一瞬どきっとしたものの、私はすぐに冷静になった。
「余計なお世話だ。ほっとけ!」
「そうだな。だが、ついさっき、あれほど生き延びたいと泣きついていたお前が、もう死ぬ気でいるのは何とも滑稽じゃないか?」男の口調は嘲るように笑っていた。
「うるさい! 私は生き延びるにしたって、さっきのあの場所に居続けたかったのに、これじゃ何にも意味がない」私は怒りを抑えきれず怒鳴った。
「そんなことは知らんな。生き続けたいと言うから、その通りにしてやったまでだ」なおも男は私を笑っていた。
「……やっぱりか」
気が高ぶって、いっそ振り返って男に一発お見舞いしてやりたいとすら思っていたところだったが、これでも一応「一流」と呼ばれたポケモントレーナー、バトル以外のやり取りの中でも大切な部分は見逃さなかった。
「何が、『やっぱり』なんだ?」男が聞き返す。
「お前が、私をここまで連れてきたんだな。初めから、全部、お前の仕業だったんだな!」
「……」男は黙っている。
初めて現れた時から何となくそんな気はしていたが、今の発言ではっきりした。一体どんな方法を使っているのか想像すらつかないが、今私の背後で話している男こそが、私を過去に送り返し苦しめている元凶で間違いない。
「どうしてこんなことする!? 私はちゃんと死にたかった。自分の過去なんて思い出したくない! 今までのことなんて全部消してしまいたかったのに! それをお前は……」 私は再び怒りで我を失いかけていた。
「……初めにあった時言ったことを覚えているか?」男の声は冷静そのものだった。しかし先ほどまでと違い嘲るような調子はなくなっていた。
「何のことだ?」
「振り返ったらこの地獄をもっと味わってもらうと、そう言ったはずだ」
「はぁ?」
何言っているんだコイツは。地獄? コイツは頭のイカレたマッドサイエンティストか? 人の記憶を操る機会でも発明して、神になった気でいるのではないか。
「バカバカしい。他人の人生弄んで何が楽しい? いい加減こんな悪ふざけ止めるんだ」
「偉そうなことを抜かすな。与えられた時間の価値を省みず、手前の勝手で捨てた人生だろうが。今更捨てた人生を我が物のようにほざくな」
私はあたかも図星を突かれたような気になって、言葉を失ってしまった。
「きっとお前は何も後悔してないのだろう。ならばしょうがない」
男の言葉が終わるかいなや、後頭部を鈍器で思いきり殴られたかのような衝撃が走った。視界が歪み、私はその場に崩れ落ち思わず頭を抱えた。
――あれ……?
何ともない。確かに凄まじい衝撃を感じたはずだが、後頭部は何ともなっていなかった。それどころか、別段痛みすら感じない。そっと首筋のほうをさすってみたが、確かに手の触れる感覚はある。衝撃のあまり皮膚感覚を失ったのかと思ったが、そういう訳ではないようだ。
「うっ……何だったんだ今のは……」
俯いたまま目をしばしばさせ立ち上がった。すると、すぐ目の前に何か巨大なゴツいもの二つが見えた。
いきなり頭を上げると痛み出す気がして、私はゆっくりと視線をそのゴツいものの先へ移動させていった。
鮮やかな青色した、二つのそれは一本が私の胴ほどもある足だということが分かってきた。
――足?
でかすぎる。人間じゃない。巨像か? いつのまに?
さらに上を見上げていくと、足の主の胴体と思しき部分が見えてきた。その大きさにも驚きだが、何より目を奪われたのは胴体の中央部分で輝いている巨大な宝石だった。
――これは……ダイヤモンド?
しばらく私はその美しさに見惚れてしまっていた。それほどまでに、ある種神々しい輝きを放っていた。
「私のことは知っているか? カントーチャンピオン」
さらに頭上から声がした。
シンオウの知り合いから借りた古い本に、伝説上の神として名前と姿が載っているのを見たことがある。しかし、あれはあくまで伝説の話、ほとんど空想のものと思っていた……。
「ディアルガ……なのか?」
その圧倒的な存在感に気圧され、私にはそれだけ言うのが精一杯だった。
「ほう、さすがチャンピオン。他地方のことまでよく勉強しているじゃないか」
私は本物の神を目の前にし、混乱した頭の端っこで、こいつが神になったつもりのマッドサイエンティストだった方がどれだけマシだろうと、そんなことを考えていた。
「馬鹿は死んでも治らないとはよく言ったものだな」
突然後ろから声がした。脳みそが震えるような威圧感と重々しさのこもった声だった。
私は何事かと思い振り返ろうとした。が、
「おっと、振り返るなら覚悟するんだな」
首の動きを止めた。
「振り返ったらもうお前は死ねなくなる。私が死なせない。そしてこの地獄をもっともっと味わってもらうことになる」
「地獄ってなんだよ? というか、あんた一体なんなんだ?」
首の位置を再びまっすぐに向き直し、空に向かって質問した。
こいつは一体何者だ? さっきの「私」と同じで私のことに気付けるみたいだ。威圧的な声のせいか、なぜだか一瞬強盗かと思ったが、人質相手に「死なせない」はおかしなセリフだ。
「振り返れば教えてやろう。だが振り返るなら覚悟しな。後悔したくなければまた死ねばいい。そこのクローゼットに丈夫なベルトが何本かある。ドアノブを使えば多少苦労するだろうが十分死ねるはずだ」
正体不明の男(?)の返答からはまったく状況がつかめない。意味不明だ。
「さっきあんた『馬鹿は死んでも治らない』って言ったな?」鎌をかけてみることにした。
「あぁ、言った」
「ということは……私が今“どうして”ここにいるのか知っているわけだな?」
「知っている。……ふふっ、もちろん、知っているとも」堪えきれないという風に男は笑った。
「もちろん? もちろんってどういうことだ?」
「ふふっ、これ以上答えることはない。さ、どうする? 死ぬか?」男は相変わらず面白げであったが、言葉には有無を言わせない重さが込められていた。
謎だらけだが、選択に迷いはなかった。私は何も言わずクローゼットへまっすぐ向かった。扉を開くと大量の衣装が目に入った。そして内側のレールには確かに、様々な種類のベルトが並んでぶら下げられていた。私は中でも金具の少なくて、出来るだけ新しそうなものを一つ選び手に取った。
黒い革のベルトを握りしめて、私は驚くほど冷静だった。さっき死んだ時にはいろんな思いが頭の中を巡ってぐるぐるしていたというのに、今はまるで空っぽだ。なぜだろう? きっと安心したからだろう。さっきの質問で、あの時自分が幸福の絶頂にいたことを確認できて、それはつまり私が、私の人生において大きなものを一つ残せたということで、安心したのだ。それが分かればもう、いい。
さっきから男の声がしない。気配も感じない(もともと大して感じていなかったが)。まぁ、その方が都合がいい。自分が死ぬところを誰かに見られているというのは、あまり気分のいいものではない。
ベルトで輪っかを作り、私は少し悩んだ。つりさげられたロープなら、首をひっかけて重力に任せるだけでいいが、ドアノブは位置が低すぎてどうしても床に体がついてしまう。これで本当に死ねるだろうか。とりあえずL字のドアノブにベルトをひっかけ首を通してみた。
――思ったより締まるな……。
上体の重みだけでもかなり首の締め付けれる感じがあった。これならもう少し体重をかければ十分そうだ。
私は、最初に首を吊った時と同じように、またあたりを見渡してみた。どうやらさっきの男はすでにいないらしい。どうやって消えたのか、なんていうことは今の私にとってどうでもよかった。
目の前におかれた化粧台の鏡にちらっと自分の顔が映っているのが見える。無様だった。無抵抗のまま死んでいく姿というのがこんなに醜いものとは思わなかった。
最期に自分が残したものをもう一度見たくなり、優勝トロフィーを目だけで探した。
――見つからない。
もう一度見渡してみた。しかし、ない。この部屋においてあるものとずっと思っていた。
探している間も徐々に意識が薄れていくのを感じていた。知っている。これが死に向かっているということだ。
私はひたすら目で探し続けた。それはもう眼球が飛び出してしまうのではないかと思うほどに、ぐるぐるぐるぐると……。
――ない!
まるで目が覚めたような気分だった。焦る。なぜない!?
体が思うように動かせない。意識がどんどん遠のいていく――
――死にたくない!
狂気。指一本動かせないというのに、私は心の中でもがいていた。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない!
目を開けていられなくなった。視界が真っ暗になる。
――あと少し……あと少しだけ……生きていたい……。
私は再び死んだ。
そこから先はまるで二度目の映画だった。
見覚えある試合が目まぐるしく進んでいく。最後に私のサンダースが紙一重でワタルのカイリューの『ドラゴンダイブ』をジャンプでかわし、空中の不安定な体勢から放った『かみなり』がうまい事ヒットし試合が決するところまで全く同じだった。
試合後、ワタルと私(?)はバトルフィールドの中心で互いの健闘を称え固い握手を交わし、決勝戦は終了した。
もうここまで来ては一片の疑いの余地もない。
――ここは、過去の世界なんだ。
なんてことだ。死んだはずの私は、天国でも地獄でもなく、どこか宇宙の彼方でもない、自らの過去に来てしまった。
なんだか無性にやるせない。オマケの人生を避けて死んだのに、本編までさかのぼって来たのじゃ、まったく意味がない。
閉会式が終わり、次々と観客が会場を出ていくのを眺めながら、私は一人座って考えていた。
この世界から抜け出すにはどうしたらいいのか。試しにもう一度死んでみるか? 次こそ今度こそ天国か地獄か、とにかく死者が向かうべき“それっぽい”所へ行けるかもしれない。
いや、やめておこう。というか、嫌だ。だいたい死ぬ生きるなんて、ほいほい決めるような問題じゃない。死ぬのだって大変なんだ。怖いし、痛いし。さっきのもずいぶん悩んで決めたことだった。やっと覚悟を決めて死んだのに、過去に戻ってきてしまうなんてホント迷惑な話だ。
私は自分で考えてイライラして、この状況に八つ当たりしていた。
とにかく死ぬのはやめておこう。もう少しこのまま生きてみて、それからまた悩もう。
ギャラリーはすでに閑散としはじめていた。試合会場は、兵どもがなんとやらといった様相で、無茶苦茶に荒れたフィールドだけが先ほどのバトルのすさまじさを物語っている。
ぼーっとフィールドを見ていてふと思った。
――今頃、あの「私」はどうしているだろう。
ふと思った瞬間から、気になってしょうがなくなった。
確か、試合が終わった後私はポケモン達をポケモンセンターに預けて、そこで大量の記者に取材責めにあって、疲れ切って部屋に戻ったはず。オーロラビジョンの横にあるデジタル時計は午後4時前を指している。
――行ける!
今らならまだ『私』は取材責めに遭っている最中のはずだ。控室に戻ってくる前に部屋の前で張り込んでおけば……。
思い立ったらいてもいられず、すぐさま控室へと向かった。場所は覚えている。
控室の近くまで来た。が、それ以上近づけなかった。
控室までの道は一本の細い通路で、会場のコンコースとつながっている。そこまでは何も問題は無いのだが、コンコースと控室までの道の間に警備員が一人立っているのだ。選手だったころは特に意識したこと無かったが、当然と言えば当然。あの道は関係者以外立ち入り禁止なのだ。そして今、私は関係者ではない。しかも、選手そっくりの顔した私が道を通ろうとして何か騒がれても厄介だ。
絶対引き止められると思いつつ、とりあえず向かうことにした。何か言われた時には選手の親戚とでも言っておけばいい。実際、似たようなものだ。
「あ、あのー……」警備員に近づきつつぼそぼそと声をかけた。
「……」気づいていないようだ。声が小さすぎた。
「あのー」もう一度声をかけた。今度はもっと大きな声で、すぐ横から。
「……」反応してくれない。
「すみません!」今度は耳元でもっと大きな声で呼んだ。
「あっ! どうしました?」まるで今さっき気づいたかのように、びっくりした様子で警備員がようやく反応を返した。
「その……私チャンピオンの従兄弟でぜひ、今回の優勝のお祝いをしたいのですが」私は今の反応を訝しみつつ頼んでみた。
「だめだめ。ここから先は選手以外立ち入り禁止ですから。親戚でも家族でも、選手が出てくるまでは待っててください」
「あ、はい。分かりました……」やっぱり駄目だった。
再びコンコースの端に戻った。あっさり引き下がりすぎたかもとは思ったが、まだあきらめたわけじゃない。私は今さっきの現象について考えてみた。
さっきのあの警備員の反応は絶対おかしい。私は存在感ばりばり出してるようなタイプじゃないが、それにしたって真横から話しかけて無視されるほど影の薄い人間じゃない。あの気づかなさは異常だった。無視されたわけじゃなさそうだし、本当に大声で呼びかけるまでそこにいることにも気づかれてないようだった。
私はもう一度警備員に近づいてみた。こんどは一切話しかけず、こっそりと。と言っても視界に入りずらいよう、入口の正面からではなくコンコースの壁に沿って近づいただけで、これでも普通なら十分気づかれるはずだ。
しかし警備員は気づかなかった。最後彼と壁の間ををすり抜けて控室までの通路に入った時も、彼は相変わらず退屈そうな顔をしてぼんやり遠くを眺めていた。
通路半ばまで行き控室の扉の横で、「私」が帰ってくるのを待ちつつ、さっきのことを振り返ってみた。
やっぱりあの無視のされようは普通じゃない。気づいていないというより、見えていないって感じだ。
だとしたら、さっきギャラリーにいた時のことはどういうことだろう? 確か会場のギャラリーにいた時、私は椅子に自分一人で座って、そこに誰か座るわけでもなく、閉会式の後だって周りの人間は座ったままの私を皆避けて左右に分かれたり、前を通っていった。
――今の私って何なのだろうか?
過去の世界にとって、私は本来いないはずの人間だ。それはいったいどういうことなのだろう。ここにいるのは間違いない。でも、何だか妙に影の薄すぎるような、他人に気付いてもらうのにこんなに苦労するのはなぜだろう。
「幽霊」
もちろん本当の幽霊じゃないが(本当の幽霊がどんなものかは知らないが)、それが一番近いのかもしれない。直感的に存在を感じられても、意識されることがない。集合写真の中の一人のようなものだ。特別に注意をひかないないかぎり、私は景色全体を構成する一部分でしかいられない。
誰にも意識されないというのはなんとも寂しい感じがするが、これは便利だ。これで誰にも気づかれずどこへでも行くことができる。
それなら何も外で待っている必要はない。私は控室の中に入った。後で、あの「私」が来た時、勝手に部屋にいる不審者と騒がれたらと思ったら、とても中まで入る気になれなかったが、気づかれないならそんな心配はない。
控室は私だけが使う専用の部屋で、入口から入って右へ横に長い形をしている。入口の正面には化粧台が設置してあり鏡の中には少し疲れた顔をした私が映っていた。ちょっと陰気くさいのは否定できないが、幽霊にしちゃ元気な顔をしている。
「あとでまたお話聞かせてくださいね。今日はホント、優勝おめでとうございました」
「ありがとう。それじゃ、また今度」
ドアの外から声がした。一人はこの大会で知り合った選手の女の子……のはず。今じゃ名前も覚えていない。とにかく、私が優勝した後から急に馴れ馴れしくなってきた者のうちの一人だ。
もう一人は間違いない、「私」だ。とうとう帰ってきた。私は生唾を一度ゴクリと飲み、ドアが開くのを待った。
――バタン。
ドアが閉まるのとほぼ同時に女の子を見送っていた「私」が振り向き、こちらに顔を向けた。
私はまっすぐ「私」を見た。
ついさっきまではそれなりの笑顔を浮かべていたのだろうが、今の「私」は無表情でいかにも疲れ切ったという様子だ。
「私」はすぐにでも部屋のソファに座りに行くかと思ったが、意外にもそのままじっとこちらを向いて突っ立っていた。私のことは見えていないはずなのに、じーっとこちらに顔を向け続けている。
「あれ? 見えてる?」
「私」の大きく見開かれた両目は、まっすぐ私に向けられていると気づいた。
「あ……」
「私」は口を半開きにしてそのまま二、三秒ほど突っ立っていた。
「あ、その……」
私も似たようなものだった。目の前の「私」にいったいなんと切り出せばいいのか分からず、しかし何か喋らないといけない気がして、酸素のなくなった水槽でもがく魚のように口をパクパクさせていた。
「あなたは……?」初めにまともに口を聞けるようになったのは、過去の「私」のほうだった。未来の私が、過去の「私」に後れを取ってしまった。
「私」がどういうつもりで「あなたは?」と聞いたのか知らないが、そのままの意味でない事はなんとなくわかった。
「あー……」私はまだまともに話せないでいる。
「その、これにはいろいろ事情があって……」
「はぁ……、と、とりあえず座りますか」部屋の真ん中に置かれたソファを指して言った。
「ああ」私はなんともあいまいな返事をして、ソファを見やった。座ろうかと言われたものの、なかなか動きだせず、「私」が動き出すのに合わせてあとを追った。
ソファに座るとまたしばらくお互い何もしゃべらない時間が続いた。お互いなんと切り出したらいいのか分からないのだ。
自殺したはずが気が付いたら過去に来ていました、とは言いづらい。突拍子もない話だし、百歩譲って信じてもらえても、自分が自殺したと言うのはなんだかマズイ気がする。なんといっても、目の前の男は“私自身”なのだ。
一方、「私」の方もこちらをじっと見つめつつ固まっていた。先ほどから瞬き一つしない。なんとなく、目の前の「私」が、私を誰だか分かっている、そんな気がした。これといった根拠はないのだが、同一人物同士だからこそ働く第六感というのか、そんな感じがする。自分と私が同一人物であると分かっていて、だからこそ混乱しているのだ。
「えー……」今度は私から先に口を開いた。
「はい?」
「とりあえず、初めまして……でいいのかな」ぎこちない笑みを浮かべつつ、挨拶した。自分に向かって“初めまして”なんて、心底笑えないジョークだ。
「あ、初めまして……?」目の前の「私」の挨拶にも疑問符が付く。
「あの、変なこと言うようだけど、君と僕って、なんていうかなぁ……あなたと私は似てるというか……鏡の前にいるみたいで、初めて会ったような気がしないです」
「そ、そうなんだ」変な汗が首筋を流れる。
「ところで、その、あなたはどうしてここに?」“我”ながら落ち着いている。私とは大違いだ。
「あー……」また私は言葉に詰まってしまった。
もともとなんで過去の私に会ってみようと思ったのだっけか。たしか、ここが過去の世界だと気づいて、ただ無性に会ってみたくなったのだ。しかし、実際に会って何を話そうかなんて全く考えていなかった。
――沈黙が続く。
何を話すか。考えてみてもサッパリ思い浮かばなかった。せっかくの機会なのだ。未来を知っている私から、過去の私がこの先生きていくのにウマイ情報をたっぷりあげるのもいいかもしれない。
――生きていく?
生きるのをやめてここにいる私が、なにを言っているのだろう。私は自殺した時にすべて捨ててきた。親も名誉も過去の私も――。結局全部捨てるのに、何かを与えるなんてまったく無駄なことだ。
「ちょっと、聞きたいことがありまして……」質問に切り替えた。
「なんでしょうか?」
――なんだろう?
ここまで来て何も話さず、かといって言うべき言葉も思い浮かばず、苦し紛れに質問してみたがいよいよ追いつめられてしまった。
――コンコン。
ドアをノックする音が背後から突如響いた。
「あっ! 申し訳ない、ちょっと待っててください」
「は、はい」
「私」は慌て気味に立ち上がるとドアの方へ向かっていった。振り返ってみるとドアの向こうにいるのは、姿は見えないが若い男のようだ。話の内容からして大会の役員だろうか。
「お待たせしました。大変申し訳ないのですがこのあとすぐにテレビ取材が始まるそうで、実は今すぐ向かわないといけないそうなのです……」「私」が戻ってきて言った。
「そうですか……」自然と口調が沈んでしまう。私は今、二度とない絶好のチャンスを失いつつある、そんな気がした。
「向こうの取材がどれくらいかかるのか分からないのですが、それまでお待ちいただけますか?」
「そんな! これ以上お時間いただくわけには……」思ってもないことが口をついて出る。ホントはもっと話がしてみたい。私には聞きたいことが――。
――あれ? 聞きたいことってなんだ?
苦し紛れに言っただけのことが、いつの間にか本当の事になっていた。あの時の、そして今目の前に立っている私にどうしても聞いておきたいことがある。しかし、それが何なのか分からない。
――コンコン。ノックの音が再び響いた。
「はい、もうすぐ行きますんで、もうちょっと待ってください!」
「私」が扉の向こうの男に返事する。残された時間は少ない。
「あ、あの……」
「なんでしょう?」
口をパクパクさせても伝えるべき言葉が出てこない。舌がカラカラに乾く。まるですべての唾液が蒸発してしまったみたいだ。
「あ、あなたは今……幸せですか?」
沈黙。過ぎたのは一秒程度の時間だったかもしれないが、私には一年にも近い時間に感じられた。
「ふふっ、もちろんですよ」面喰って硬直していた「私」の顔が、満面の笑みに変わった。
「……よかった」かすれた声がこぼれた。
「私」が去った後もしばらくソファに座ってぼーっと宙を眺めていた。
――よかったってなんだよ……。
自然と口から出た言葉であったが、欠片も私は「よかった」とは思っていなかった。
ずーっと頑張って、何度も諦めかけて、でも諦めないでまた頑張って、それでやっと叶えた夢。あの時の私は夢が叶って幸せだって、本当にそう思っていたんだ。
でも叶ってしまった夢なんて、クズだ。タチの悪い燃えないゴミだ。役に立たないくせに、捨てることもできない。心の中でいつまでも図々しく幅を取り、感傷という名の腐臭を放ち続ける。そんな粗大ごみを抱えた俺は、本当は世界一の不幸者だったんだ……。
「あーぁ、そろそろまた死んでみようかなぁー!」
空しさを振り払いたくて、わざと大声で言ってみた。しかし、この声に気付く者は誰もいない。一人の部屋に響く声がより大きな虚しさになって返ってきた。
これが死後の世界であるなら、私は地獄に落ちたのだろうか? それともここは天国なのだろうか? いや、天国でも地獄でもないSF小説に出てくるような宇宙の彼方へ飛ばされたのかもしれない。目の前の光景を見てもさっぱり見当がつかない。
そこは見覚えのある場所だった。
「さぁ、間もなく始まりますカントーポケモンリーグ決勝戦! いよいよやってきた運命の時に、会場のボルテージは最高潮に達しておりますっ!」
あんたのボルテージが一番高いよ、とツッコミたくなるテンションで司会の男が叫ぶ。
ここはセキエイ高原。かつて選手としてフィールドで戦っていた私は、その周りに設置された観客席に座っていた。あたりは大量の人、人、人……、それらが発する黄色い声援に埋め尽くされとてつもなくうるさい。
と、ふと大事なことに気付いて自らの格好を確認した。しかし確認してすぐに安心した。私は下着一丁の姿ではなく、普段外出する時のみ着る、よれた黒のTシャツに左の膝のとこが破けたジーパンという姿だった。見苦しいことには変わりないがまだ社会で許される範囲だ。
私は全く今の状況がつかめずスタンディングオベーションの中一人座って考えていた。
確かに私は死んだはずだ、下着だけの姿で、首を吊って。そう思って首筋をさすってみた。絞められた跡はない。
それにいったいどうして今私はセキエイ高原にいるのだろう? ついさっきまで自宅の、自分の椅子の上で自殺していた私がどうして。
――どーーん!
会場が爆発した。
少なくとも私にはそう感じた。試合会場に全く目を向けず一人考えていた私は、会場が一斉に歓喜の声を上げたのに驚き心臓が止まる思いだった。……すでに止まっているはずだが。
「来ました! ポケモンリーグカントーチャンピオン、ワタル! 黒のマントをたなびかせ今、堂々の登場ですっ!」
会場の反対側、大量のスモークとレーザーを使った派手な演出の中からワタルが出てきた。ここから見るとまるで黒い米粒だが、自分の周りにいる者たちは皆大声で名前を叫んだり、ちぎれんばかりに手を振っている。
私はワタルの真上に設置されているオーロラビジョンを目を細めて見ていた。
――おかしい。
ワタルはチャンピオンじゃないはずだ。なぜなら私が彼を倒したから。すでにチャンピオンの座を退き、トレーナー業からも引退したはず。なのにこれはいったいどういうことだろうか。
私はここで突拍子もないこの事態について一つの予想をしていた。予感、という方が正しいかもしれない。ナンセンスにもほどがある予感だったが、そもそも死んだはずの私が今ここで生きている(?)事自体ありえないのだから、あながち的外れでないのかもしれない。
「続いて挑戦者の登場ですっ!」司会が絶叫する。私はいったい誰が挑戦するのか、じっとオーロラビジョンを見つめていた。
挑戦者側にもスモークとレーザーの無駄に派手な演出がなされていた。おかげでなかなか姿が見えない。
「ヤマブキシティ出身、30歳遅咲きの新星――」
司会の絶叫も、観客の声援にほとんどかき消されてしまう。ワタルの時よりも心なしか声が大きいような気がする。
じっと画面を見つめていると、やっと煙の中から人影が浮かびあがってきた。
「幾多の困難を乗り越え、今、カントー最強を決める戦いに臨みます――」
だんだんと顔がはっきりしてくる。まだぼやけた感じだったが、私にはそれで十分だった。見慣れた顔。これで事態がはっきりした。
「チャレンジャーの名は――」
とうとう全身をスモークから出し、緊張でこわばった顔をした――
私が出てきた。
木造一軒家の一室、男が一人黙々、ある作業をしていた。
男の有様は酷いものだった。下着のみの格好で、黄ばんだタンクトップとトランクスを着て、その間からたるんだ腹が、溶けかかったチーズのように垂れ下がっていた。作業中はボサボサの髪から大量のフケが、天井からぶら下げられたロープを確認する度床へと降り落ちていった。
「よいしょっと」
ロープの真下に置かれた派手な椅子の上に立った。これは男がポケモンリーグで優勝した時にテーブルとセットで親からもらったものだ。優勝記念がテーブルセットなのにも疑問だが、なによりこのデザインが気に入らなかった。有名デザイナーの作品だそうが、自分にはこの真っ赤な色も歪んだ形も全部派手すぎて気に入らなかった。
自殺する準備は整った。後は死ぬだけ。
死に別れた大切な人がいるわけでも無く、返しきれない借金を抱えているわけでもないが、男は自死を決意した。つまらなくなったのだ。
男には長年追い続けてきた夢があった。そしてその夢はつい最近やっと叶った。叶った時は、それはもう有頂天になって喜んで、子供みたいに連日はしゃいでいた。だが、一週間、二週間と経つにつれ余韻は冷め、一つの疑問に囚われるようになった。
――この先は?
お笑いでいう所の、芸人が話終わったあとに意地悪な司会から「ほぉ、それで?」と言われた時と同じだ。先が続かない。夢というのは人生のネタだ。完結すればその先は無い。オチの後に「それで?」なんて言われても、何も出てはこないのだ。
だから死ぬ。そんなバカげたことで、と思われるかもしれないが、男は死ぬことに決めた。オマケの人生をだらだら生きるのは非常につまらない。
首にロープを巻くと繊維がチクチクと刺さって痛かった。何でもいいやと思って家にあった古いロープを使ったのが間違いだった。まぁ、どうせこれから死ぬのだから大した問題じゃないが。
首にロープをかけた状態で、出来る限り部屋をぐるっと見渡してみた。汚い部屋だ。掃除なんて一度もしていない。リーグ優勝した時のトロフィーが右の棚の中に見える。夕日に当たってピカピカ輝いているはずが、棚の窓が汚くてひどく曇って見えた。
未練はない。
――目をつむった。
未来もない。
――重い椅子をどけるのに片足を降ろした。
最後の瞬間ギュッと強く目をつむり、降ろした足に力を込めた。
――さようなら。
例えばの話をしよう。
一つの夢を追い続けて、やっとの事で叶えられた者がいたとする。それは幸せなことだろうか? ホントに手放しで喜べることなのだろうか? ちょっと穿った見方をしてみれば、夢を叶えることは、追っていられる夢を失うということだ。それは悲しいことではないのか?
大して気にすることでないのかもしれない。何も気にせずその先を生き続けていくのが普通だろう。
でも、もしそれが出来ない人がいたら? どのようにして「その先」を見出していくだろうか?
これはそんな人がいたらという、例えばの話。
初の連載です
人が死にます。残酷描写はないと思いますが、苦手な方は両手で顔を隠して指の隙間から覗くといいかもしれません
2.町の御神木と、銭湯の娘
まず間違っていたことは、もろの木さまを見つめていた少女は、座敷童でもなければ「八百万の獣」でもない、ということだ。
「社(やしろ)です。社、美景(みかげ)」
彼女は人間だった。しかも、中学二年生。タメだ。
駅前広場のベンチ。私はフルートを脇に置いて、彼女と一緒に座った。道行く人々ともろの木さまがよく見える。
しゃべろうとしてもなかなか声が出て来ない私に、彼女は淡々と自己紹介をしてくれた。もろの木さまを見ていたときの彼女の瞳は、どこか温かくて、まるで子供を愛でる母親のようだったけど、今はなんだか表情が冷え切っている。しゃべっていても、顔のパーツがほとんど動かない。小さな鼻と、小さな耳をしている。真っ黒な瞳は深く澄んでいて、とても綺麗だけど、たぶん癖なのだろう、常にじと目だ。睨まれているとまで感じないけど、心証としては、軽蔑が三分の一程度含有されている。なんとなく、こっちが普段の社美景なんだろうと思った。
彼女のコートの下は、制服だった。天原町からは電車で八駅先の御堂鹿(みどうろく)まで、片道四十分。彼女の通う麗徳学園は、御堂鹿駅からさらに二十分バスに乗って、やっと辿り着くところにある。中高一貫の私立中学だ。
それを聞いて、私は目を丸くした。偏差値を考えると、麗徳は冗談抜きでスーパーエリート校だった。雲の上にあるような大学に毎年卒業生を送り出し、そのまま彼らは国家公務員とか医者とか弁護士とか、とにかくハイスペックな人間でないとなれない職業に就いていく。私からすると、異次元で生活しているような人々だ。
麗徳なんかに通う子たちは、小さい頃から英才教育を受けているような、都会の子供をイメージしていた。小学生のうちから毎日塾に通って、色んな教材に囲まれて、二カ月に一回模擬試験がある。試験の結果で親の機嫌とその日の晩ごはんのメニューが変わる――ちょっと穿った見方かな。
とにかく、まさか天原町から麗徳に通っている子がいるなんて、思ってもみなかった。
彼女の綺麗に切り揃えられた黒髪は、着物を羽織ると確かに座敷童の風貌そのものだ。美術部の佐渡原くんが描いた絵画みたいな風景も、彼女がモデルならば、実際に再現できそうだと思った。
この夏から秋にかけて天原中の三面記事となっていた「座敷童、現る」の発信源は、間違いなく彼女なのだろう。社美景にそのことを伝えようかと一瞬思ったけど、結局口にしなかった。そんなことをしたら、今度こそこの黒曜石のような鋭い目で睨まれてしまうかもしれない。いや、きっと睨まれる。
そして、私は実際それどころではなかったのだ。
社美景の頭の上。ときどき宙返りをしながらふわふわと漂う“こいつ”は何だ?
「美景、ちゃんと説明してやってよ。この子、まるで突然家に見知らぬ請求書が届いたみたいな顔してるよ」
その生き物が言った。社美景は苛立ちを隠そうともせず目を瞑り、「だから今ひとつひとつ順序立ててるんじゃないですか」と、早口で呟いた。
「あ、あの」やっと思いで、私は声を絞り出す。
「何ですか?」
「あ、えっと。もしかしてこの」私は失礼かなと思いながら、この生き物をなんと呼称していいか分からず、指をさした。「八百万の、獣。ですか?」
彼らは顔を見合わせた。緑色の生き物は「ふーん。一応、義務教育程度の知識はあるんだ」と言った。ほんのちょっとみたいだけど、彼は感心してくれたようだった。
「その通りです」相変わらずの無表情で、社美景は言う。「彼はコノ。もろの木さまのお付きの獣(しし)です。あなたが呼んだように、『八百万の獣』とも言います。ええと、彼の正式な神名は、そう、確か――」
彼女に「コノ」と紹介されたその生き物は、頬を膨らませた。
「コノハナノトキツミノミコト! 何回言ったら覚えんのさ!」
「あんまり興味の無いことは、すぐに頭から抜けるので」
コノは手足をばたばたさせた。おもちゃを買って貰えなくて駄々をこねる五歳児みたいだ。
「あの、コノさん。たぶん私、この前あなたを見ました。えっと、正確には見たというよりは、感じたというか――あの、とっても強い光だったので」
ユズちゃんと張り込みをした、あの夜の出来事だ。あの光の玉から感じた熱は、ほんのり緑色だった。熱に色があるのは変だけど、でも、確かに緑だった。
「ああ、やっぱりあのときの女の子だったんだ!」コノは嬉しそうに笑って、上空に円を描いた。「そりゃそうだよね。ひとつの町にそんなに木行の気質を持ってる人間がいるわけないし」
社美景が、その「木行」についても説明してくれた。どうやら、コノのような「八百万の獣」の声を聞くことのできる、一種の特殊な能力らしい。
「五行思想では、この世界のすべてのものが、木、火、土、金、水の五つの元素からなる、という考え方をします。“この世のすべて”ですので、人間も、神様も、この五つから出来ていると考えます。あなたのように『木行』に一段階開いていれば、同じ『木気』のコノみたいな獣(しし)の言葉を聞くことができます」
そんなことを、麗徳学園では習うのだろうか。いや、そんなはずはないか。
「じゃあ、社さんもその『木行』っていうのが開いてるの?」
「いえ。私は土行(どぎょう)です。幸いにも二段階開くことができたので、他の五気に属する獣(しし)とも対話ができます。どれか一つの五行を二段階開くと、その人は『神子』と呼ばれる存在になり、あらゆる獣(しし)の声を聞くことができるのです。ですから、さっきコノがあなたのことを『神子』と言ったのは、厳密には間違いです」
「なんだよ、実際その辺の定義なんて曖昧だろ?」コノが口を尖らせた。
「まあつまりは」彼女はコノをきれいに無視する。「あなたも私も、今、神的なものを『口寄せ』している、ということになります」
「くち、よせ?」
聞いたことのない言葉が次々出てくる中で、「口寄せ」は、一応聞いたことがあった。死んだ人の言葉を聞くことのできる、いわゆる「降霊術」だと思ったけど、口寄せって自分自身に霊が乗り移るんじゃなかったっけ? 前にテレビで霊媒師の特集をやっていたのを見たが、イタコのおばあちゃんが「キェー」とか叫んでて、ずいぶんと胡散臭かったような記憶がある。そのことを言ったら、社美景は鼻で笑った。
「マスメディアで取り上げられている霊媒師の類は、概ねヤラセです。本当の霊媒師は、『繋ぐ者』なのですから、功利主義者の経済人に加担することはしません」
「繋ぐ者?」
「ええ。細かいことは、話すと長くなるので。それに、身体に憑依させるのが通常なのでは、ということですが、その役目はコノが担ってくれています。コノの言葉は、そのままもろの木さまの御言葉となります。それが神と獣(しし)の本来の関係ですので」
霊媒師とは、つまり自分自身が「八百万の獣」になる術を使う者なのだという。今はコノがいるから、実際に「もろの木さま」を自分に憑依させる必要がない、ということらしい。なんだかややこしい。
「大体分かった? お譲さん?」コノがひらりと宙返りして、私の目の前まで降りてきた。
「うん。一応」
「よしよし。物分かりの良い子は好きだよ。名前はなんて言うのさ?」
「茉里(まつり)です。津々楽(つづら)茉里」
「茉里だね。良い名前じゃん。美景より素直そうだし、美景より優しそうだし。期待の新人ってとこだね」
素早く伸びてきた社美景の手を、コノはひょいっとかわして、一気に五メートルほど上空まで羽ばたいた。
「――とにかく、本題です」彼女は真っ黒な瞳を私に向けた。「私たちは今、あなたのその木行の気を必要としています」
そういえばさっきも彼女、言っていた。私を指して「この人は、きっと力になります」と。
「えっ、でも……」
私は苦笑いで返した。いくら私が人にはない特殊な力を持っていたとしても、こうやってコノみたいなもののけさんたちとお話できるとしても、何かその道で役に立てるとは、到底思えない。だって私は、ちょっと横笛が吹けるだけの、ごくごく平凡な中学二年生だ。
「その、社さん。申し訳ないけど、私にはなんにも……」
言いかけたそのとき、妙なことが起こった。突然頭の中に、声が響いたのだ。
(すまない)
ぎくりとして、私は目を見開き、辺りを見渡した。近くには、こちらを見向きもせず通り過ぎていく人々と、私を見て不思議そうにしている社美景意外に、人はいない。
そして、コノの姿が消えていた。
(すまない。巻き込むつもりはなかった。でも、君しかいなかった)
声は、回線不良のトランシーバーみたいにところどころ途切れて、聞こえづらかった。
そして唐突に、大きなエネルギーを感じた。
それは光だった。ユズちゃんと張り込みをしたあの夜に感じたものと同じだ。緑色の、まるで生まれたての命が呼吸しているみたいな光。それでいて、すぐそこまで太陽が降りてきたかのような、眩い光。
いつの間にか、何も見えなくなって、何も聞こえなくなった。社美景も駅前広場の道行く人々も、そしてもろの木さまも、何も見えない。声も出ない。
だけどなぜか、全然不安を感じたりはしなかった。むしろ心地が良い。このまま気持ちよく眠ってしまえそうだった。柔らかな熱を感じる。ほのかに、草の香りがする。青々と茂った芝生に、仰向けに寝そべっている気分だ。
(ここ天原は、神域なのだ。この町にいる限り、私は君を守ることができる)
また声。今度はさっきより、よく聴きとれた。男の人の声だ。チェロみたいな低い声だけど、老人のような声にも、二十歳くらいの若い男の声にも聞こえる。
次第に光が弱くなっていった。ゆっくりゆっくり、目の前の景色が晴れていく。感じていた熱も冷め、草の香りもいつの間にかしなくなった。
夕日を浴びた、駅前広場がまた現れる。そしてすぐに、違和感に気付く。
セピア色の駅前広場が、止まっている。
(目を凝らして、広場にいる人たちを見てごらん)声が私に促す。
一時停止して微動だにしない人々は、なんと白黒だった。
まるでそこだけまだ着色していない、未完成の風景画みたいだ。ただ白黒というだけでなく、彼らに当たっているはずの太陽の光も、彼らから長く伸びているはずの影もない。
そこだけ、人型に切り抜かれてしまっている。
すぐそばを通り過ぎようとしている老夫婦は、ほとんど白に近い灰色をしていた。母親に手を引かれている小さな男の子は真っ白で、その母親は白と黒の中間くらいのグレー。駅の改札を見ると、サイズの合わない上着を羽織った、無精髭の男がいた。ほとんど黒に近いグレーだ。
(切り離されてゆくごとに、人は黒くなってゆく。私の力ではもう人々を守ってゆくことができない。大きな力が、もうすでにこの天原に入り込み、人と人を切り離し、また彼ら自身にそうさせるよう、働きかけている。私がふがいないばっかりに、この有様だ)
切り離された人。不思議なことに、私はその声の言うことを、その意味を、すんなりと理解した。切り離す。その言い方が、すとんと腑に落ちた感じがした。
この光景は、気分が悪い。あまり見ていたくなかった。相手の陣地を攻め倒すことでしか存在意義のないチェス盤の上のコマたちのように、大小様々、モノクロのグラデーションを纏った人々が、駅前広場に転がっている。
ふと、私は自分の掌を見た。白い。けど、純白ではなかった。その色にはわずかに濁りを感じた。私も幾分か切り離されたのだろうか。それとも、自分で切り離したのか。いつ? 一体何本? 分からない。覚えがない。
それが、怖かった。一度切れたら、元通りにはならないのだろうか。
家族がいて、恋人がいて、友達がたくさんいても、独りぼっちの人は山ほどいるんだよ――お父さんがそう言っていた。私は、自分が独りぼっちだなんて感じたことはない。けど、決して一度も「切れた」ことがないわけではなかったのだ。頭がくらくらして、目の前の白黒の人たちがぐるぐると回った。そして私は、隣りに一緒に座っている物体に気が付く。
私は思わず口を抑えた。
(私は、彼女を助けたいと思っている。彼女は、より多くの声を聞こうとし、より多くの人を、繋げようとしている。それなのに、今の私は、彼女に何ひとつ出来ないでいるのだ。なんと、もどかしいことか)
社美景は真っ黒だった。まるで原子爆弾の放射能で焼かれたように、光を失った黒だった。
動悸がする。息が苦しい。汗がどっと噴き出すのを感じた。少しだけど、吐き気もした。社美景から、少しでも離れたいと思った。でも、体は動かない。
その人型の物体は、絶望の象徴でしかなかった。黒々と染めらてしまった彼女の顔を見る。常に軽蔑を含んだ目つきだと思っていたその瞳は、今は何も映していない。
さっき彼女と話しているときは、何にも思わなかったのに。どうしてだろう。彼女は、今にも泣きそうなくらい悲しい表情をしていた。
(人々を切り離す、大きな力。その力を持っているのも、また人なのだ。しかし、もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている)
停止しているその世界で、もろの木さまがざわりと葉を揺らした。
◆ ◆ ◆
「ちょっと津々楽さん。どうかしたんですか?」
いつの間にか目の前の景色に、色が戻り、雑踏が戻ってきた。私は駅前広場のベンチに座っていることを思い出した。社美景は怪訝な目で、私の顔を覗き込んでいた。黒くはない。近くで見ると、白い頬が寒さで少し赤らんでいた。
「私、今何してた?」
「魂が抜けてました。ほんの十秒くらいですけど」
さっきの声は、もうしない。コノが社美景の上で、穏やかな頬笑みを浮かべていた。
ほんの十秒くらい――そんなことはなかったはずだ。あの白黒の人々がいる、静止した世界を、彼女は経験していない。あの声を聴いたのは私だけで、白黒の人々も、私しか見ていない。
座敷童がタメの女の子で、一緒にもののけさんがいて、しかも彼は日本語をしゃべって、彼女は「神子」だという。私にとってそれだけでも摩訶不思議な出来事の連続なのに、さっきの声や、あの異常な世界は、その彼女すら知らない世界なのだろうか。
そうだとしたら、私、ちょっと巻き込まれ過ぎじゃないか。
方程式の解き方をやっと完璧にしたと思ったら、実は二次方程式もあるんですと言われた。それは、私にはまだ早い。それは二年生で習うんです。まだ私は一年生。方程式までをきちんと解ければ、誰にも文句は言われないはずです。
「津々楽さんは、吹奏楽部ですか?」
彼女は脇に置かれたキャリーケースを見て言った。
「うん」
担当楽器も訊かれた。フルートだよ。木管の――そう、横笛。
「今日は練習ですか?」
「ううん。香田で演奏会があって。その帰り」
「そうでしたか」彼女はベンチに座り直し、正面を見た。「あまり音楽には詳しくありませんけど、機会があれば、聴いてみたいです。津々楽さんの演奏」
口ぶりは、やっぱりどこか冷たい。本当に聴きたいと思ってくれているのか怪しいものだ。
でも彼女にしては、丁寧な言い方だった。ぎこちなくて、無理をしているのが分かる。気を使ってくれているのだ。きっとそういうのは苦手なんだろうなと、私は思った。たぶんそういう場面が、日常にないのだ。
私はこの子とやっと普通の話題で話すことができたのが、ちょっぴり嬉しかった。
「もろの木さまの力が、弱まっています」話が戻る。とても強い口調だった。「目に見えない、色んな種類の“毒”が、少しずつ、この天原町に入り込んでいます」
彼女は「毒」と表現した。さっきの声も言っていた。「大きな力」が入り込んでいる。それは、人と人とを切り離す。
「今日も、コノを介してもろの木さまの声を聞こうとしました。でも、『カミクチ』は、やっぱり五気が同じ気質でないとだめなようです。コノも全く役に立ちません」
僕のせいじゃないやい――コノが憤慨した。
神様に直接お伺いをたてる口寄せを「カミクチ」というらしい。「カミクチ」によって、初めて神様の「御言葉」を聞くことができる。「御言葉」は、コノのような八百万の獣を介した口寄せでは、聞くことができない。土行の社美景では、木行の気質であるもろの木さま本人とは“直接”話すことができないのだ。
対する私は木行。もろの木さまの声を、直接聞くことができるのだ。
いや、“できた”のだ。私はさっきまであの、時間の流れない、白黒の人々の世界で、「カミクチ」をしていた。
あの声は、もろの木さまの、御言葉だったんだ。
「何とかしてもろの木さまにお伺いをたてて、力が弱まっている原因を探って、天原を“元通り”にしなければなりません。それは、津々楽さんにしかできません」
私はすっかり怖気づいてしまった。私は既に、彼女の希望通り、もろの木さまの声を聞いた。お伺いを、たててしまった。彼女の知らないうちに、あっさりと。
そして私は、そのことを彼女に言えない。切り離されていく人々のことを、言えない。少しずつ黒くなっていく人々のことを、言えない。
あなたがひどく切り離されて、真っ黒になってしまっているだなんて、言えない。
私は守られていると、もろの木さまは言った。でも同時に、社美景に何もしてやれないとも言った。私が木行で、彼女が土行だからなのか。それとも、あまりに切り離されてしまっている人は、神様にはどうにもできないのだろうか。
神様にどうにもできないのに、私にどうにかできるのだろうか。
「――私には、たぶん無理だよ」
「それはやってみないと分かりません」
社美景は、真っ黒な瞳でこちらを見た。
「そうかも知れないけど……」
この天原町は、毎日同じことの繰り返しで、退屈で仕方なくて、そしてとっても平和だ。テレビ画面で繰り広げられている「物騒なこと」は、まだこの町には辿り着いていない。みんなそう思っている。私も、そう思っていた。何か「大きな力」がこの町の平和を脅かしているだなんて言ったところで、町の人たちは誰も信じない。実際に何か大きな事件が起こったわけでもない。今日も駅前広場は夕日で照らされているし、きっと明日も照らされる。何も変わったりしない。
「コノだって、しっかりサポートしますから」
社美景は、どうしてここまで必死なのだろう。私は不思議に思った。天原町に入り込んでいるという「大きな力」のことも、どういう経緯で知ることになったのだろう。そして、なぜ彼女は真っ黒になるほどに「切り離されて」しまっているのだろう。
彼女のことをもっと知りたい。そう思った。力になれるかどうかは分からない。力になりたいと、私自身思っているのかどうかも、正直ふらついている。
だから、それらの判断も、彼女を知ってから。それからでは駄目だろうか。
「美景ちゃん」
私は立ち上がって、キャリーケースを肩に掛けた。突然名前で呼ばれた“美景ちゃん”は、口をぽかんとさせていた。
「また、会おうよ。今度は友達も連れてくる。あと、フルートも聴かせてあげる」
「なんですかそれ。出来るのはあなたしかいないって、言ってるじゃないですか」
美景ちゃんも立ち上がった。コノは何も言わずにぷかぷかと上下に動いている。何だかとても嬉しそうだ。
「私ね、一人じゃ何も出来ない自信があるよ」
なんですかそれ。美景ちゃんは同じ台詞を繰り返した。
そう言えばと、私は思い出した。「私ね、ユズちゃんと話してたの。あなたに、友達になってくれるように頼んでみようかって。来週も同じ時間、ここにいる?」
訳が分からないという顔をしている美景ちゃんを見ているのは、ちょっと楽しい。
「そりゃいいや!」コノが両手を広げて言った。「もちろんいるともさ。その子も連れて、茉里もまたおいでよ。僕らは大歓迎だよ」
「ありがとう、コノさん」
「どういたしまして、それから僕のことはコノでいいよ」
そんな会話を交わす隣りで、美景ちゃんは何か言いたそうにしていたけど、最後には「午後四時です。時間通りに、必ず来て下さい」と言った。ユズちゃんを連れてくることに関しては、好きにしてください、だそうだ。
もろの木さまも言っていた。「もう一度繋ぎ直すことができるのもやはり人であると、私は信じている」って。
私も、そう信じたい。
天原町は、へんてこな町だと思う。何が変かって、変なことが起きても、もう次の日には、それも案外普通のことかもしれないと思えてしまうところだ。
私はただの横笛吹きではなく、木行の気質を持ち合わせた横笛吹きだった。座敷童――もとい社美景、美景ちゃんと出会い、もののけさんと名前を呼び合う仲になり、神様の声も聞いた。そして、頼まれごともされてしまった。巻き込んでしまってすまない、とまで言われた。
これほどおかしな案件を持ち帰ってきたというのに、次の日にはもうどこから手をつけようかと、冷静に考えている自分がいた。この天原に忍び寄っている「大きな力」とは何なのか、静かに推測していた。
なんだか忙しくなりそうだ。私は思った。
このときはまだ、知らないでいた。今年一番の出来事が起こっていたのを、私は知らない。
それは唐突に、そして全然違う方向からやってくる。
振り返ってみると、私は神様にお願い事をしたことなんてなかった。初詣のとき、お賽銭を入れて手を合わせたりはするけど、あれはお願いではない。どうにもならないほど切迫して、本気で手を合わせることなんて、今まで一度もなかった。私はそれだけ、恵まれた生活をしてきたのかもしれない。
神様、どうにかしてください――十月ももう終わろうとしていた頃、私は生まれて初めて、神様にお願い事をした。
月曜の朝、チャイムが鳴り終わってもユズちゃんの席が空いていた。
担任の三橋先生が入ってきて、日直が号令をかける。先生はちらりとその空席を見た。眼鏡越しに見える目は、いつもの優しい目だったけど、すこし強張っていた。礼が済むのを待って、先生は口を開いた。
杠さんは、ご家庭の都合により、今週はお休みされます。授業のノートは、皆さん交代で取ってあげて下さい。それから――
「ノートとプリントを持っていく係は、津々楽さん、お願いできますか?」
三橋先生は、まるで最初から決めていたように、私を見た。
「――はい」
「ありがとう。では、出席を取りますね」
いつもの穏やかな声で、淡々とクラスメイトの名前が呼ばれていく。さしたる連絡事項もなく、先生は出席簿を教卓にとん、と立てた。
朝のホームルームが終わった後、私は職員室に呼ばれた。
「すぐですよ。もちろん、説教なんかじゃありませんから」
先生はにっこりと笑顔で言ってくれたけど、やっぱりちょっと目が強張っている。 教室から職員室までの廊下は、いつもより長く感じられた。三歩前を歩く三橋先生の背中が軽く左右に揺れている。
「先生。ユズちゃんに何かあったんですか?」
耐え切れなくなり、職員室のドアの前で、私は訊いた。
「杠さんからは、何も?」
「聞いてません」
演奏会に来てくれると言っていたことも、先生に話した。おばあちゃんと一緒に来てくれると、ユズちゃんは言ってたんです。でも、結局来なかったんです。
「大丈夫。心配しないで下さい」
職員室は、いつものコーヒーの匂いと、給湯室から来るたばこの臭いが入り混じっていた。一応分煙するために、吸い殻入れが給湯室にだけ置いてあるのだ。職員用の机のうち七割以上の席が空いていたけど、その机の大半はずいぶんと散らかっていた。
添削中の理科の小テストとか、付箋やプリントが挟まって分厚くなった教科書、コンビニ袋に入った菓子パンもあった。英語の筒井先生の机には、ワークが三クラス分、うず高く積み上がっていた。
三橋先生は自分の席へ歩いていき、椅子に座った。他の机と違って、三橋先生の机はとてもよく整理されていた。
先生は、私を振り返った。
「先週土曜日の朝、杠さんのおばあ様が病院に運ばれたそうです」
私は先生の言葉を頭の中で反復した。無言で十回くらい、「病院」と「運ばれた」を反復した。
「昨日の夜、お母さんから電話がありまして、今はもう落ち着いているようですが、しばらく目が離せないそうです。そういう状態なので、杠さんも、学校には来れません。分かりますね?」
ほとんど息を吐いただけのようなかすかすの声で、私は「はい」と言った。
あの演奏会の日の朝、ユズちゃんのあばあちゃんは倒れた。他でもないユズちゃんがそれに気が付いて、すぐに救急車を呼んだらしい。今は柿倉市の総合病院に入院しているという。先生が状況をそんなふうに話してくれたけど、それ以上のことには言及しなかった。
土日の二日間、杠家は大変なことになっていたのだ。変な噂ばっかり早く広まるくせに、こういうことには「天原町の噂好き」も、てんで役に立たない。
そして、先生は私に訊いた。
「津々楽さんは、杠さんの、一番のお友達ですね」
無意識に、私は頷いた。そのつもりです。
「会いに行ってあげてください。ノートやプリントを渡すだけでなく、話を聞いてあげてください。今の杠さんには、それが大切ですよ」
穏やかな声だったけど、三橋先生はとても真剣だった。
「はい、分かりました。でも、会いに行くなら私だけじゃなくて、バスケ部の友達とか、他の子からも元気づけたりしてあげた方が」
先生は、かぶりを振った。それではいけません、と。
「“みんな”が相手では、恐らく杠さんはみんなに心配されないように、作り笑いをしてやり過ごしてしまうでしょう。それでは、杠さんへの“お見舞い”の意味がないのです。今回のことで、杠さんが一人で抱え込んでしまっていることがあります。それについて、私が詰め寄っても逆効果ですし、大人がただ事実を言い当てようとしたところで、やはり意味がないのです。それを吐き出せるように、津々楽さんだけで、行ってあげてください」
私は黙って頷いた。どこか、含みのある言い方だった。そもそもユズちゃんと仲が良いというだけで、わざわざ職員室で状況を話してくれるのも、よく考えたらちょっと変だ。
ユズちゃんは強い。強いけど、今はすごく心配だった。そう思う私の気持ちを、三橋先生は察してくれたのだろうか。
放課後、私は部活を休んでユズちゃんのおばあちゃんが入院している病院へ向かった。家には、学校の電話を借りて連絡を入れた。お母さんの耳にも入ってなかったようで、三橋先生がかけてくれた電話口から、びっくりするほど大きな声が聞こえた。
お母さんと先生との会話の中で、「脳梗塞」という病名が聞こえた。それを聴いたとき、背中がざわりとした。先生は声を小さくして、出来るだけ私に聞こえないようにしていたみたいだけど、残酷にもそれが、一番はっきりと聞こえた。
柿倉市立総合病院のある柿倉駅は、天原駅から上り電車で三駅だった。演奏会のあった香田市とは逆方向になる。正面の改札口から出て、道路を挟んだすぐ目の前に、その病院はそびえ立っている。小さい頃、水疱瘡にかかったときにこの病院に通っていた。ただっ広い駐車場と、くすんだクリーム色の外壁を、うっすら覚えている。
あんなに大きな声で笑い、あんなに元気に竹ぼうきを振り回し、あんなに柔らかい笑顔だったユズちゃんのおばあちゃんは、小さく縮んて病室のベッドに横たわっていた。
言葉を失うほど、小さく見えた。色も、黒ずんで見えた。老いた身体の臭いと、消毒薬の臭いが混ざり合っていた。
「ちょっと、茉里ちゃんじゃない!」
ベッドの脇には、ユズちゃんのお母さんが座っていた。おばあちゃんほどではないけど、どこか小さく見える。病室を訪れた私を見るとすぐに立ち上がって、駆け寄ってきてくれた。
おばさんの明るい二重の瞳や、笑うといたずらっぽくなる口元は、ユズちゃんとそっくりだ。すらりと背が高くて、綺麗な人だった。会ったときはいつも、優しくて魅力的な笑顔を分けてくれる人だった。でも、今近くで見るおばさんは、白髪と皺がすごく目立った。笑っているけど、悲しげな笑顔だった。
「部活があるんでしょ? 休んで平気なの?」
「はい。顧問の先生には言ってあります」
「そうなの――ごめんなさい、津々楽さんのところには、すぐにきちんとお知らせしなきゃと思っていたんだけど、ばたばたしちゃってて。本当に、びっくりさせちゃったわね」
ありがとう、来てくれて。おばさんは言った。
私はベッドの僅かな膨らみと、静かに呼吸する皺だらけの顔を見た。ユズちゃんのおばあちゃんに取り付けられた人工呼吸器のチューブが、本当におばあちゃんは倒れてしまったんだと、私に実感させる。息が詰まりそうになり、鼻の奥がつんとした。
おばさんは病室の隅に重ねてあったスツールをひとつ出し、私に勧めてくれた。お礼を言って、私が座ったのを見届けてから、彼女も自分の椅子に座り直した。
おばさん訊いて下さい。
金曜日、お風呂に入れてもらいに行った時は、全然こんなんじゃなかったんです。
いつも通りすごく元気で、ユズちゃん――奈都子さんを怒鳴りつけるくらいだったんです。
本当にこんなふうになるなんて、私信じられません。
どうしてこんなことになっちゃったんですか?
おばあちゃんは、どこが悪かったんですか?
大丈夫ですよね?
助かるんですよね?
まさか、死んじゃったりしないですよね?
「私、また元気になるって信じてます」
言いたかった言葉を全部飲み込んで、気付いたら私は、そう口にしていた。
私は津々楽茉里だ。杠家の親戚や、まして家族ではない。余計にうろたえたり、余計に悲しんだり、してはいけない。
そうしても許されるのは、孫のユズちゃんだけだ。
「――そうね。茉里ちゃんが来てくれて、お母さんも喜んでるわ」
おばさんは、弱々しく微笑んだ。
これは後から知ったことだけど、ユズちゃんのおばあちゃんは脳卒中だった。
かかりつけののお医者さんに、以前から血圧が高いことを心配されていた。高血圧と加齢からくる動脈硬化もあり、乳製品やマグネシウムを含む食品を勧められていた。おばあちゃんはお医者さんの言うことを守って、ごまを使った料理を多くしたり、苦手だった乳製品も、出来るだけ食べるようにしていた。きちんと予防していたのだ。
それなのに、おばあちゃんの動脈は硬くなり、弾力を失っていった。
土曜の早朝、おばあちゃんの心臓でできた血栓は血液中を流れていき、脳に到達した。血管が詰まり、脳卒中を引き起こした。
急性期の心原性脳梗塞だ。元気だと思っていたユズちゃんのおばあちゃんは、導火線付きだった。
「すみません、奈都子さんは?」
私はおばさんに尋ねた。ユズちゃんの姿がなかった。
「ああ、そうよね。奈都子は先に帰ったわ。やらなきゃいけないことがあるって。一人で帰すのも心配だったんだけど、お母さんのことも一人にしておけなくて」
おばさんが迷っていると、ユズちゃんは言ったそうだ。私は一人で大丈夫、と。
大丈夫なもんか。つよがり。
「今日の授業のノートとプリント、持ってきたんです」
そう言えば、家族以外の大人と話すときはいつからか敬語になっていた。でも、ユズちゃんのおばあちゃんと話すときだけは違った。小さい頃からの言葉づかいが、今でもそのままになっていた。
「茉里ちゃんは優しい子ね。何だか申し訳ないわ。どうもありがとう」
おばさんは大袈裟すぎるほどのありがとうを、たくさん私に浴びせた。
「ノート、私が預かっておくわね」
「いえ。私、直接渡します。奈都子さんに用事もあるので」
「あらそう? いやだわ、何から何まで本当に迷惑ばっかり――そう言えば土曜日も奈都子たち、茉里ちゃんの演奏会に行く予定だったのよね? ごめんなさい。すっぽかしちゃったわね――」
おばさんは目を伏せる。私はかぶりを振った。
「また年明けにあります。演奏会。その、すごく楽しみにしてくれてたんで、次は来てほしいなって、思います」
今日は音楽室に置きっぱなしにしてきたフルート。彼はケースに入って、部屋の奥の棚で、静かに眠っている。私程度のレベルの演奏者なんてたくさんいるし、耳の肥えた人からすれば、中学生の吹く横笛なんて、聴くに堪えないのだろう。
でも、私のフルートを聴きたいって、言ってくれる人がいるのだ。孫の友達だというだけで、応援してくれる人がいるのだ。
明日は部活に行こう。きちんと、練習しよう。そう思った。
病院を後にした頃には、もう十七時を回っていた。
陽が落ちるのがどんどん早くなる。柿倉の駅の周りは新興住宅地で、天原と比べれば二世代くらい若い街だ。真新しいマンションがドミノ見たいに並んでいる。
背の低い建物がごちゃごちゃしている天原とは違い、計画的に区分けされ、優れた外観にデザインされ、ゴミ捨て場さえも清潔で、自分と他人とは、セキュリティという壁できちんと仕切られていた。
マンションとマンションの隙間から、ぎりぎりの太陽が最後の力を振り絞って、街に光を浴びせていた。横断歩道を渡る私の東側に、長い長い影が伸びている。
柿倉駅のホームで電車を待ちながら、私は考えた。
どこか違和感がある。今朝、職員室で三橋先生と話した時から、うっすら感じていた。ユズちゃんのお母さんに久しぶりに会って、話して、その違和感はますます膨れ上がった。大人たちの話す言葉のその行間から、妙なぎこちなさを感じる。
ただの杞憂に終わってくれればいいのだけど。
◆ ◆ ◆
夕闇の中、「銭湯ゆずりは」の明かりが灯っていた。
暖簾の隙間から漏れ出す光が、アスファルトを照らしている。入口のすぐ前に突っ立って、私はしばらくその光を見つめていた。
通い慣れた銭湯が、急に年老いてしまった気がした。主を失くした今の彼は、悲しいほど無表情だった。
今まで気付かなかったけど、えんじ色の暖簾は擦り切れてほつれが目立つし、黒くくすんでしまっているところも多かった。時折強いがぜが吹くと、曇りガラスの引き戸はかたかたと乾いた音を立てる。煙突のてっぺんからは、何も吐き出されていない。灰色の身体を木枯らしに晒して、震えていた。
今分かった。私にとって、ここはすごく大切な場所だったんだ。
ここは、私の一部だった。銭湯ゆずりはがなくなってしまう。それは、自分の手や足がもぎ取られるようなことだ。ユズちゃんのおばあちゃんがいなければ、この銭湯はやっていかれなくなる。今、私の身体は部分的に凍傷にかかってしまっていて、腐食が始まっているのだ。
放っておいたら、切断しなければ生きていけなくなってしまう。
急に生暖かいものが、頬に流れた。外気で冷たくなった顔を伝って、それは次々溢れ出て、紺色のマフラーに染み込んでいった。
私は銭湯ゆずりはの前で、ひとしきり泣いた。
鞄からポケットティッシュを取り出して、三回洟をかんだ。幸い通りに人影はなく、私は入口横の小さな植込みのところで、誰にも気づかれずに涙を拭き取った。
ユズちゃんのこと、何にも言えない。
私は静かに手を合わせた。もろの木さまを思い浮かべて、湯の神さまを思い浮かべて、それからコノのことも思い浮かべた。
どうかまた、ユズちゃんのおばあちゃんが元気になりますように。
真っ赤になった顔を冷ましてから、私は入口の引き戸を開けた。がらがらと、けたたましい音を立てる。
「あ、すみませーん! 今準備中なんです!」
少女の声が、番台の陰から聞こえた。ユズちゃんの声。私が聞きたかった、ユズちゃんの声だ。その声は、拍子抜けするほど明るく響いた。
番台の上に、ユズちゃんがひょこっと顔を出す。私を見て、彼女はとたんに目を丸くし、口を大きく開いた。
「茉里!」木製の天板に手を突っ張って、ユズちゃんは番台から飛び降りてきた。
「ごめんね! 土曜の演奏会行けなくって! うちのばあちゃんがさ、朝なかなか起きだしてこないと思ったら、ふすまのところにぶっ倒れてて」
ユズちゃんはあっさりと言った。彼女の頬には黒い煤が付いていた。頭にはいくつか綿埃が乗っかっている。
「急いで救急車呼んだんだけど、これがまたうちまで来るのに馬鹿みたいに時間かかってさ。やっと病院に着いたと思ったらあれよあれよと個室に入れられて。なんだっけ、集中治療室? とにかくずっと隔離されてて、そっからほとんど一日中手術。一応今はなんとか落ち着いてる。茉里にはすぐ連絡しなきゃと思ったんだけど、もうそれどころじゃなくなっちゃって、それで――」
そこまで一気に言ってから、ユズちゃんは急につっかえた。
「――ユズちゃん?」
自分が子供すぎて嫌になる。友達がこういう状態のとき、どうしたらいいのか見当もつかない。
「ご、ごめん。とにかく、今はお風呂無理なんだ」
弱々しい笑顔で、彼女はまた謝った。みるみる顔が赤くなって、眉間にきゅっと皺が寄った。目を伏せ、両手で口を抑える。手には、軍手がはめられていた。
少しのあいだ、沈黙が訪れた。風の神様はお構いなしに、入り口の引き戸をかたかたと鳴らしていた。脱衣所の灯りが一定の間隔でちかちか点滅している。三色の牛乳が入った冷蔵庫が、ぶーんと鈍い音を発している。
ユズちゃんは泣かなかった。代わりに小さな声で、「ごめん、大丈夫だから」と言った。
「ほんと?」
「うん、本当。大丈夫ったら大丈夫――全くなんで茉里なんかに心配されなきゃなんないのよ」
ユズちゃんは軍手を外して、番台の上に放った。
そりゃあ心配する。あなた、気丈に振る舞うのは十八番なんですから。
「ノートとプリント、持ってきた。今日の数学、図形のところに入ったよ。いる? いらないか」
「あ、いるいる! ごめんって茉里!」
「――あとね、病院に行ってきたよ。ユズちゃんのお母さんが、ユズちゃんならもう帰ったって教えてくれた。やらなきゃいけないことがあるって――銭湯のお湯、沸かそうとしてたの?」
ユズちゃんの風貌は、まるで建設現場の棟梁みたいだった。首にタオルを巻いている。履いているぶかぶかのジーンズも、羽織っている紺のダウンも、よく見ると煤でかなり汚れていた。綿ぼこりも、そこかしこに付いている。
「だってほったらかしにしておけないし。釜場にまだ雑燃が残ってたから、なんとか火をつけようと思っていじってたんだけど、ボイラーの使い方なんて全然分かんなくて。説明書みたいのがないか探してたとこなんだけど、どこにもそんなものないんだよね」
もうこんなことならばあちゃんに訊いておくんだった――ユズちゃんは番台に座り直し、だらりと両手を投げ出した。
「勝手にボイラーなんていじったら、それこそおばあちゃんに叱られるよ」
「それでも」ユズちゃんは天板に突っ伏したまま、静かに言った。「それでも、この銭湯はちゃんと経営してかないと、あの人に潰されちゃう」
潰される。ユズちゃんは力を込めた。
「何? あの人って?」
ユズちゃんの「あの人」の言い方には、はっきりと敵意が現れていた。
潰される? そんなの、初めて聞いた。
「いいの。茉里には関係ない話」
ちくりとくる言い方だった。子供はもう寝なさいと、子供にそう言われた気分だ。
「関係なくなんかないよ。私だってこの銭湯が潰れちゃったら嫌だもん」
「潰れるとか簡単に言わないで!」
彼女は突然、がばっと起きだした。空っぽの脱衣所に、大きな声が響いた。私は面食らってしまい、その場に固まってしまった。
荒れてる。めちゃくちゃだ。先に言ったの、ユズちゃんじゃないか。
「ばあちゃんが回復するまで、あたしはなんとかこの銭湯を守らなきゃいけないの。じいちゃんが建てた、夢なんだから。それをばあちゃんが、一人で守ってきたんだから。なんとかしなきゃなの。なんとか――」
勢いよく話し始めたのに、どんどん声がしぼんで、最後の方は、くぐもった息づかいしか聞こえなくなってしまった。
相当滅入ってる。
「――茉里、ごめん」
また謝られた。幽霊みたいな声だ。やっぱり、大丈夫じゃない。
ユズちゃんのおじいちゃん。確か、六年前だと思う。小学校の低学年。うっすらだけど、覚えている。当時、着慣れない礼服を着て、よく状況が分からないまま斎場に連れて行かれた杠家の葬儀で、写真を見た。
でも、写真だけだ。私が「銭湯ゆずりは」を初めて訪れた頃には、すでにおばあちゃんしか番台に立っていなかった。生前のユズちゃんのおじいちゃんには、会った記憶がない。
その頃には、すでにどこか悪かったのだろうか。当時からユズちゃんも、ほとんどおじいちゃんの話題は出さなかった気がする。口を突いて出てくるのは、いつも「ばあちゃん」の方だった。
そうなのだ。ユズちゃんは生粋のおばあちゃん子だった。おばあちゃん想いの、優しい女の子だ。その彼女は今、番台の上に顔を乗せて、うーうー唸っている。
ユズちゃんが抱え込んでいることを吐き出せるように。三橋先生はそう言っていた。私一人で会わなきゃ、それができないのだと。一番の友達の、私じゃなきゃ、できないこと。バスケ部の同級生や、クラスの他の女子ではいけない。私だからこそ、できること。
津々楽茉里として、杠奈都子にしてあげられること。
「ユズちゃん、今日さ、うちのお風呂に入りにおいでよ」
私は提案した。
「お風呂? 茉里んちの?」
「うん。もちろん銭湯と比べるとうちのは狭いし、二人入ったらもうぎゅうぎゅうになっちゃう。でも、ほら――」私はユズちゃんの頭に付いた埃をつまんだ。「ユズちゃん汚い」
また怒られるかなと思って、ちょっと構えた。けどユズちゃんは、じっと私のことを見ていた。真剣な顔で、ちょっと照れ臭そうに。
「――ごめん」
この子、またごめんって言った。
「今日はもう謝るの禁止」
ユズちゃんちに書き置きを残して、私たちは杠家を後にし、津々楽家の方へ足を向けた。歩いて十分とかからない。ほとんど目と鼻の先の距離だった。
「久しぶりだなあ、茉里んち」ユズちゃんが白い息を吐いた。
点々と灯る水銀灯の小道。私たちは冷たい風に顔をしかめて、身を縮め、足早に歩いていく。立ち並ぶ民家が途切れて、アスファルトが砂利道になり、そしてすぐに畦道に変わる。既に作物の収穫時期が終わり、辺りには裸ん坊の田んぼが広がっていた。土と草の匂いがほのかに風に混ざり込んでいる。街灯もなくなり、隣を歩いているユズちゃんの顔も、ぼんやりとしか見えなくなった。
お母さんは、私が連れてきた煤だらけの女の子を見て、弾かれたピンボールのようにてきぱきと動き始めた。
「あらいらっしゃい! ちょっと寒かったでしょ! 早く上がって、ストーブの前で温まりなさい。やだちょっと二人で何してたの? 奈都子ちゃん埃だらけじゃない。さあ、いいから早く」
私とユズちゃんが居間のストーブで指先をほぐしているあいだ、上着を脱がされ、バスタオルを渡され、おばあちゃんが「大変だったねぇ」とユズちゃんの頭をわしゃわしゃやり、熱いお茶が出され、お母さんが病院とユズちゃんちに電話をかけ(ユズちゃんちはまだ留守だったらしく、伝言を残していた)、夕飯は一人分多く支度され、お風呂のお湯が沸き、早く入りなさいと急かされ、お父さんは一度ビールを冷蔵庫から出したけど、ちょっと迷ってすぐに戻し、ユズちゃんの分の布団とパジャマが準備され、ユズちゃんはうちに泊まることになった。
「奈都子ちゃんのお母さんには電話でお話したから大丈夫よ。服はお洗濯しておくから、明日はうちからゆっくり病院に向かえばいいわ。ただ茉里は明日も学校なんだから、夜更かしはだめよ。さあ早くお風呂に入っちゃいなさい」
ばたばたと浴室に追い立てられて、気付けば私とユズちゃんは裸になり、湯気の立つ浴槽の前に立っていた。
「ユズちゃん」
「なに?」
「うちね、テレビのチャンネル権はお父さんにあるの。だから今日の『探偵☆森ガール』は、見れないかもしれない。お父さんいっつも『世界遺産大絶景』見るから」
月曜夜九時と言えば「探偵☆森ガール」だ。今学校でも大流行りのドラマだった。主役の女優さんのヘアスタイルやファッションがとっても可愛くて、うちのクラスにもぽつぽつとレプリカが現れ始めている。
「大丈夫。あたし先週見逃してから、もういいやって思ってたから。茉里先に入りなよ」
あたしは身体洗うからと、ユズちゃんは一番風呂を私に勧めた。涌いたばかりのお湯は入るには熱すぎたので、私は蛇口をひねって水を足しながら、浴槽を洗面器で掻き混ぜた。
「森ガール。一応、録画してるけど。先週分のも」
リアルタイムではなく、録っておいたものを次の日の夜に見る。お父さんのせいで、毎週そうする羽目になっていた。本編を見る前に、ストーリーの大事なところをうっかり聞いてしまってはいけないから、学校ではドラマの話題を避けるのに一苦労だ。
「ほんと? それ、見たいかも」
お湯はちょうど良い温度になり、肩から身体にざぶりとお湯を被ってから、私はゆっくり湯船に沈み込んだ。はーっ、と息が自然と漏れる。
「じゃあ、またうちにおいでよ。今日の分も録っとくよ」
「うん、ありがと」
熱いお風呂を目一杯楽しみながら、石鹸を泡立てるユズちゃんを見つめていた。「腕も脚も細くていいなあ」なんて、ぼんやり思う。
そのとき私の耳に、突然別の声が飛び込んできた。
「こりゃ驚いた。茉里が連れてくるつもりだった子って、湯の神の姉さんとこの子だったんだね」
聞き覚えのある、無邪気な男の子みたいな声だ。私の頭上に、いつの間にかコノがプカプカ浮いていた。
「やあ茉里」
「コノ!」
彼はひょろりと長い腕を組んで、小さな羽根をぱたぱたさせている。対してユズちゃんは、私をじっと見て、不思議そうな顔をしていた。
「え? なに茉里、どうかした?」
こんなへんてこな生き物が突然民家の浴室に現れたというのに、平然と身体を洗い続けている。
私ははっとした。彼女には、コノが見えていない。
「えっと、あのねユズちゃん、今ここに」私は人差し指を天井に向ける。「来てるの。コノっていうもろの木さまのもののけさんが」
「もののけ、さん?」
ユズちゃんは天井を見上げる。目を凝らし、そこにあるものを見つけようとしているが、やはり何も見えないようで、すぐに苦笑いを浮かべた。けど、無意識に両手で胸のところを隠していた。
「ちょっと、冗談やめてよ茉里」呆れたように言う。
「うーんと――」
確かに、冗談みたいな状況だ。彼の存在を、どうやって伝えればいいだろう。
「しょうがない。今日は特別に『端境(はざかい)』を解いちゃおう。茉里、僕に触ってみてごらん」
コノが促した。駅前広場のときと違い、彼はは今手を伸ばせばすぐに届くところに浮かんでいる。私は恐る恐る、コノの左足の先っぽに触れてみた。犬や猫と全然変わらない触感だった。緑色の体毛はふわふわとしていて、ほのかに温かい。
「きゃあっ!」ユズちゃんが叫び声を上げた。「やだ! なに? なんなのそいつ?」
彼女は顔を引きつらせて、泡だらけの身体をぎゅっと小さく丸めた。その目は、今度はしっかりとコノを捉えていた。
「同じ木行だからね。茉里は僕に触ることができる。そして人間が僕に触れば、他の人たちにもしばらくのあいだだけ、僕の存在を共有してもらえる」
その後、パニック状態のユズちゃんを落ち着かせるまでに、しばらく時間がかかった。
私はなんとか、あの駅前広場の出来事を話そうとした。けど、途中ふざけて急接近するコノに、ユズちゃんは悲鳴を上げながら石鹸を投げつけた。外れた石鹸は後ろの窓ガラスに当たって跳ね返り、私の後頭部を殴打した。
その二十秒後、ユズちゃんは再びいたずらしようとするコノに対し、今度はシャワーのお湯で応戦した。コノがひらりと身をかわす。私は頭からお湯を被った。「いい加減にして!」と私が叫ぶと「なに先から遊んでるの!」と、浴室の外からお母さんに叱られた。踏んだり蹴ったりだ。
もろの木さまとコノの関係。五行、口寄せ、神子。そして天原に忍び寄るという「大きな力」のこと。私はコノの言葉を借り、途中行ったり来たりしながら、ゆっくり説明した。ただ、あのモノクロ人々の世界のことだけは話さなかった。私には、あの光景を言葉にすることができなかった。
座敷童の正体が中学二年生の子供だと知ったら、ユズちゃんはがっかりするだろうなと思っていた。でもそんなことは、人語を介する緑色の獣の前ではもうどうでもよくなったらしい。美景ちゃんについて話したときは、一言だけ「麗徳とか、すごい」と呟いただけだった。
「大丈夫、もう驚かない。なんでだろう。確かに信じがたいけど、有り得ないことだとは思わない」
やっと落ち着きを取り戻し、ざぶりと湯船に浸かった彼女は、どこか神妙な顔つきをしていた。
「あたし、ちょっと思ったことがあるの」
ユズちゃんは、じっと自分の膝を見つめている。
「うちのばあちゃんともろの木さまって、似てるなって」
コノが「ほう」とフクロウみたいな声を出した。ユズちゃんと入れ替えで身体を洗っていた私も、思わず手を止めた。
「もろの木さまは天原を守ってくれてる。でもそれだけじゃなくてね、この町の人たちを、きちんと繋いでくれてる気がするんだ。いつもはみんなもろの木さまのことなんて全然見向きもしないで、あの広場を通り過ぎていくかもしれないけど、もしもろの木さまが突然なくなっちゃったら、町中大騒ぎでしょ? それと同じで、ばあちゃんはあの銭湯をずっと守ってきたの。あの銭湯に来たお客さんは、お風呂の中で顔を覚えて、脱衣所で名前を覚えて、一緒に牛乳を飲んで、知り合いになるの。そんなにたくさんはいないけど、来た人たちは、みんな繋がっていった。だから、もろの木さまとばあちゃんは似てるなって。そっくりだなって思うの」
ユズちゃんは照れ臭そうな笑顔を、私に向けた。
「わかるよ。ユズちゃんのおばあちゃんも、もろの木さまも、『そこにいる』って思うだけで、ほっとするもん」
大きなふところで、大きな安心感を与えてくれる。そんな彼らの見てくれは、ちょっと大きい古ぼけたスギの木だったり、竹ぼうきを振りまわす年老いた番頭だったりする。
「そして、今の状況もそっくりだね。もろの木さまも、銭湯の主も、弱ってしまっている。残念だけど」
コノが言う。私とユズちゃんは同時に彼を仰いだ。
「そんな、『そういえばお前何しに来たんだ?』っていう目で見ないでくれよ。僕だって、用もないのにこんなところ来ないさ」
こんなところだんなんて、失礼な。
「まあ僕らとしてもね、あの銭湯がなくなっちゃうのはちょっと痛いんだ。天原でも特に大切な場所のひとつだからね。それに――」
コノは腕を組んだまま、湯船の縁に着地した。
「あそこ潰れちゃうと、湯の神の姉さんがホームレスになっちゃう」
1.噂の座敷童と、横笛吹きの中学生
それは確か、ちょうど九月の始まる頃だった。
あっという間に過ぎ去った夏休みの後に、嘘かと思ってたけど、やっぱりちゃんと二学期が始まって、久しぶりに教室でユズちゃん以外の友達とも会って、早速二年生最初の実力テストの範囲表が配られて、呆気にとられていたあの九月の始まる頃だ。 うちの中学校――天原中学校では年に五回定期試験があって、生徒たちはいつも苦々しい顔をしてそれを歓迎していた。その隙間に挟み込まれる「じつりょくてすと」とはいったい何者なのだろう? 今回はどういう顔をしてこれを迎えたらいいのか、みんな迷っているようだった。
担任の三橋先生が言うには、二年生はどうやら「中だるみの時期」とかなんとか揶揄されているようで、試験の平均点は下がるし、生徒たちのやる気も下がるし、点数を見た親の気分はもっと下がる。そしておまけに、家庭によってはお小遣いも下がる。最初はこれが中二病ってやつなんだと思って「たいへんな時期だね―」なんておしゃべりしていたら、ユズちゃんにデコピンされてしまった。
ユズちゃんのデコピンはすごく痛くて、ヒットした直後は涙が出たし、五時間目の社会の時間中ずっとおでこが赤くなっていた。女子バスケットボール部のユズちゃんは握力がとても強かったのだ。もう知ったかぶりしておしゃべりしないように気をつけよう。そんな風に思った九月の始まる頃のことだった。
座敷童(ざしきわらし)がこの町に住み着いたという噂が、どこからともなく流れ始めたのだ。
「近頃は座敷童なんてもうほとんど人前に出て来なくなったから、噂が本当ならちょっとしたニュースね」
ユズちゃんはそんな風に言っていたけど、私は座敷童なんて見たことがなかったし、昔はごく普通に現れるものだったのかとか、どんな背格好をしているのかとか、実際のところ何ひとつ知らない。そんな私の困惑をよそに、噂にはどんどん情報が追加されていった。
私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしている、らしい。その子は夜になると天原(あまはら)駅に現れる、らしい。そして駅前広場に佇む「もろの木さま」と、なにやら話をしていた、らしい。
十月の一週目が終わる頃には、目撃証言をもとに、美術部の佐渡原くんが座敷童の絵を描いた。
「噂自体にはあんまり興味ないけど、みんな盛り上がってるからさ。でも描いてみると、なかなか風情のある光景だよね。もろの木さまと座敷童」
佐渡原くんがキャンバスに描いた、タイトル「静かな秋の、御神木のある風景」は、素人目から見ても完成度が高く、素敵な絵だった。青空と紅葉のコントラスト、座敷童(赤い着物を着た、おかっぱ頭の女の子だ)のせつなげな表情、繊細なタッチ。見事な作品だ。佐渡原くんは、天原町の生んだミケランジェロだ(と、美術部の顧問の堂阪先生は言っていた)。
天原町は、小さな小さな田舎町だ。だから、八百屋のカズくんの誕生日から、町内会長のタケじいちゃんの好物まで、みんなが知っていた。そういう町なのだ。噂なんて、あっという間に広まっていく。お寺の鐘の音が町中に響き渡るみたいに、隅から隅まで知れ渡ってしまう。何にもない町だから、新しい話題には、みんなすぐに夢中になるのだ。
「その座敷童さんは、もろの木さまに何か用事があったのかな?」
学校の昼休み、いつものように机を向い合せにして、私はユズちゃんとお弁当を食べていた。
十月ももう半ばを過ぎて、町はすっかり秋色に模様替えしてしまった。濃い緑色をした葉っぱの匂いも消えたし、ニイニイゼミで始まってツクツクボウシで終わった蝉たちの声ももうしない。夏服の期間が終わり、久しぶりに引っ張り出したブレザーを見ると、なんだが物悲しい気分になった。アイスを食べながら「あついあつい」と文句ばかり言っていたけど、私、夏は結構好きだった。
「茉里(まつり)は何をしてたんだと思う? その座敷童」
ユズちゃんが、お弁当の卵焼きをもぐもぐさせながら箸を私に向けた。お行儀が悪い。
「なんだろう? なにかお願い事かな?」
「座敷童ってさ、災いをもたらしたりとかはしないけど、結構悪戯好きなんだって」
ユズちゃんは、にやりとして言った。彼女の言うことはいつもテキトーだけど、そのかわり、いかにも本当のことのように話すのが上手だった。
本人は「茉里がぼーっとしてるだけだよ」って言う。けど前に朝の職員室で、もっともらしい「宿題を忘れた理由」を語り、国語の山内先生を言いくるめていたのを見かけたことがある。そういう才能があるから、ユズちゃんはきっと、将来は人前で話すような仕事に着くんだろうなあと、漠然と思ったことがあった。
「悪戯なの? それ、困るなあ。うちのキャベツとか大根があんまり虫に喰い荒らされないで済んでるのはもろの木さまのおかげだって、お父さん言ってたし」
駅前広場に立っているもろの木さまは、天原町の守り神だ。この町にあるどの木よりも長生きしていて、おばあちゃんやおじいちゃんたちからは、敬意を込めて「御神木」と呼ばれていた。
「うちの銭湯だって、なんとか閑古鳥が鳴かない程度にやっていけてるのはもろの木さまのおかげなんだって。もしそんな座敷童がこの町に住みついてたら、うちのばあちゃん黙っちゃいないわね。竹ぼうき持って飛んでいくと思う」
町の人たちにとっては、もろの木さまは特別な木だった。私たちが生まれて、ずっと住み続けて、育ってきたこの町を、もろの木さまは守ってくれている。どんなふうに守ってくれているのかは知らないけど、でも、小さいときからずっとそう教えられてきた。
だから、私もユズちゃんも、町の人たちはみんなもろの木さまに感謝してる。見た目はちょっと大きいだけの、古ぼけたスギの木だ。でも、それがもろの木さまなのだ。もしもろの木さまが、厳かで、立派な佇まいで、嘘みたいに背が高くて、この町をしかめっ面で見下ろすような木だったら、私はちょっと嫌だ。
「もし、もろの木さまに悪戯しようとしてるなら、相手が座敷童だって関係ないわ。今日部活終わったら駅に寄りましょう? 噂が本当かどうかも、確かめなきゃね」
ユズちゃんが真面目な顔をしてそう言った。私はぎくりとした。こういうときのユズちゃんはとっても分かりやすい。今までも、ユズちゃんと一緒にツチノコとか河童とか木霊とか、いろんな生き物を探しに行った。噂好きな天原町だけど、どういうわけかこの町には「胡散臭い噂」が立ちやすくて、ユズちゃんはそれをいつも見に行きたがる。もちろん、ツチノコも河童も木霊もいやしなかった。
今回もたぶん、ユズちゃんは座敷童を見てみたいだけだ。
「えー、でももしホントにいたらちょっと怖いな。お化けなんでしょ? 座敷童って」
「お化けでもなんでも、会ってみなきゃどんなやつなのか分からないじゃない。それに、座敷童サンのためにも、行って止めさせた方が良いわ。うちのばあちゃんがシバきに行く前にね」
放課後、ユズちゃんとは校門で十七時半に待ち合わせをして(私はちょっと溜息をついて)、いつものように音楽室へ向かった。
ごく普通の田舎の農家に生まれて、一人っ子だからか少々甘く育てられて、勉強は悪くもなければ良くもなく、身長が低めで(「ちび」って言われるのには慣れたけど、「ガキ」って言われるのはちょっと傷つく)、運動神経は絶望的。そんな私が唯一「特技」と呼べるものがあるとしたら、今、吹奏楽部で担当しているフルートだった。
小学校の頃からリコーダーを使う音楽の授業が好きだった。通信簿では、音楽は六年間ずっと「よくできた」だった。いつも「がんばろう」と励まされていた体育とは対照的だ。下校のときや家にいるときだって、私はいつもリコーダーを吹き鳴らしていた。
そして小学五年生の時の誕生日。お父さんとお母さんからのプレゼントを開けると、箱に入っていたのは銀色の横笛だった。とっても嬉しかった。私は、遊び盛りの子犬みたいに、家中を転がりまわって飛び跳ねて喜んだ。
最初は全然音が出なくて、一日中その強情な横笛と格闘した。リコーダーとは勝手が違う。ほんの少し吹きこむ息の角度が違うだけで、それは全く反応してくれない。すかすかと空気が通り抜けていくだけだ。
やっと鳴らすことができたフルートの音は、リコーダーよりも透き通っていた。それは、時々うちの畑を吹き抜ける風の声にも似ていた。
それから私は「横笛吹き」になった。この町にはあまりいない「横笛吹き」になれたのは、私のちょっとした自慢だ。
吹奏楽部では、週末の演奏会に向けて全体練習を繰り返していた。ただ、曲の後半の転調するところが全然合わなくて、顧問の富岡先生がその小節ばかりを何度も調整していたから、前半のソロだけの私はすごく暇だった。シンバルの田口くんにはもうちょっと落ち着いて叩いてもらって、ホルンの堤さんが音量を抑えてくれるだけで、上手くまとまるのに。
なんて、ちょっとした不満を頭の中に巡らせていたら、だんだん眠くなってきた。なにせ、暖房を効かせた音楽室はぽかぽかで、寝るのには申し分のない環境なのだ。シンバルの音もホルンの響きも、少しずつ遠退いていった。壁にかかっていたモーツァルトやベートーヴェンも、私から目を逸らした。そしてとうとう舟を漕ぎ始めた私を、隣に座っていたのんちゃんが小突いた。
「富岡にバレたら殺されるよ、茉里」
はっとして、私は目を擦り、椅子に座り直した。
「――うん、ごめん。ありがと」
「私だって暇なんだから。一人だけ譜面台に隠れて寝るなんてずるいからね」
そういえばのんちゃんのクラリネットも、転調のところは全く出番がなかった。
「分かってるー。でも、眠くもなるよ」
「分かってない。横笛吹きは、もっとしゃきっとしなきゃ。少なくとも、縦笛吹きよりはね」
「――そうなの?」
「そうなの。ほら、頭から通すって」
富岡先生が指揮棒を振り上げ、私は一時間ぶりにフルートを構えた。
吹奏楽部の練習が終わったあと、私はユズちゃんより先に校門に着いた。辺りはもうとっぷりと夕闇に包まれていた。グラウンドではサッカー部が最後のシュート練習を切り上げ、ダウンのストレッチをしている。野球部はもう練習を終え、残りの数人がげらげらと大きな声で笑いながら、駐輪場の奥にある更衣室へと向かっていた。
体育館の方から掛け声が聞こえる。校門側からはちょうど校舎の裏にあり、体育館の錆付いた屋根だけが辛うじて見えた。掛け声は女子たちのものだったけど、バスケ部かどうかは分からなかった。
学校の裏側にあるなだらかな丘は、夏はあんなに原色の緑だったのに、今はもうすっかりくすんだ茶色だった。そこから吹き下ろしてくる風は枯れ葉と土の匂いがして、おまけにすごく冷たかった。私はお母さんに編んでもらった紺色のマフラーをきつめに縛り直した。
少しして、ユズちゃんとバスケ部の二年生たちが、おしゃべりしながら現れた。私に気付いたユズちゃんは、遠くから手を振ってくれた。少しはにかんで、私も小さく手を振り返す。
バスケ部の女子たちは、互いに押し合ったり、体を触り合ったりして、何度も大笑いしていた。その中には、ユズちゃんも含めて、小学校も一緒だった子が何人かいる。
中学に入ってから、一気にみんなが大人になったように見えた。特に、バスケ部はみんな「早い」子たちだった。制服の着崩し方も、可愛い髪型も、化粧を覚えるのも、それに、男の子の話も。彼女たちは前に進む速さが全然違うんだという気がした。私なんかよりもどんどん前に進んでいって、そのうち全然知らない街に出て行って、後姿さえも見えなくなってしまうような気がした。
ユズちゃんもやっぱり、そのうちこんな小さな町から、さっさと出て行ってしまうのだろうか。
ときどき、本当にときどき、そんなことを考える。将来、この町での生活にはあっさり背を向けて、立ち去ってしまうのかな。私のところからは全然見えないところまで、遠く離れていってしまうのかな。
そんな日が来ても、私たちって、友達でいられるのかな。
「ごめんごめん、結構待ってた?」
それは、誰にも分からない。たぶん、もろの木さまだって分からない。それはきっと、私たち次第なんだと思う。
「もう、すっごく寒かったんだよー。早く行こう、ユズちゃん」
学校から天原駅まではそう遠くはなく、校門からすぐの橋を渡って、河川敷に沿って歩いて、商店街のあるところで曲がると五分ほどで着く場所にある。でも、家のある方向とは真逆にあるせいで、普段はあまり行くことはなかった。もろの木さまに会うのも、夏のコンクールで吹奏楽部のみんなと電車に乗った時以来だった。
久しぶりに歩いた河川敷は、校門よりもさらに風が強くて、その冷たさで頬がひりひりした。ユズちゃんの赤いマフラーが、大きくはためいている。闇の中で流れる川はどぽどぽと音を立て、少し不気味だった。
「会えるかな? 座敷童さん」
商店街に入って風が弱まり、私はやっとしかめっ面を元に戻した。
「目撃情報は、大体このくらいの時間帯よ。ちょっと寒いけど、条件は整ってるわ」
商店街は早くも眠りに就いているようで、もうほとんどのお店がシャッターを下ろしていた。薄暗い通りは人影も少ない。精肉店のおじさんと、呉服屋さんの若い店長さん。あとは駅から流れて家路を急ぐ人たちと数人、すれ違っただけだった。
「――会ったら、なんて言うの?」
「そうね、いきなり問い詰めるのも失礼だし」ユズちゃんは、にやりとして言った。「『よかったら、友達になって下さい』って、シタテに出てみようか」
座敷童と友達かあ。もしなれたら、それはちょっと面白そうだけど。でも、どうなんだろう。
「思ったんだけど、座敷童って、誰が最初に言い出したんだろう。ホントに座敷童なのかな」
「あたしは最初、野球部の古川から聞いたけど。まあ、ホントかどうかを確かめに行くんだから、その問いは無用よ」
古川くん――同じクラスの野球部で、ショートを守っていて、休み時間も授業中も、とにかく人を笑わせることに命をかけている、あの古川くんかあ。なんだか噂の信憑性に翳りが見えた。
商店街を抜け、私たちはとうとう駅前の広場に到着した。もともと小さな駅で、止まる電車の本数も少ない。それでも、町の中では人の集まる方だ。ただもう辺りは真っ暗で、人影はほとんどなかった。そして、真ん中にぽつんと佇むもろの木さまに目をやっても、そばには誰もいない。もろの木さまは一人で夜の空を見上げていた。
「いないみたい」
広場をぐるりと見渡してみても、座敷童らしい人影は見当たらなかった。駅から出てくるところの老夫婦と、ちょうど店仕舞いをしていたお弁当屋のおばさん。そして私たち二人だけだ。やっぱり、そう簡単に噂の大元と遭遇することはできない。会うことができなかったのはちょっぴり残念だけど、正直、ほっとした。
「しょうがない、張り込むわよ」
「――え、本気?」
耳を疑って、私は聞き返したけど、振り向いたユズちゃんの目は紛れもなく本気だった。
冷静になってみると、ツチノコのときも、河童のときも、木霊のときも、ユズちゃんは諦めが悪かった。そういえばユズちゃんはバスケ部で、ディフェンスとリバウンドの粘り強さに相当な定評があるらしい。悪さをする輩は竹ぼうきを持ってどこまでも追いかけるおばあちゃんと言い、このしつこさは「血」なのかもしれない。
私たちは、駅の改札口のそばにあるベンチに座り、もろの木さまを監視することにした。ぶるぶる震えながら、まるで雪山で遭難した登山者みたいに身を寄せ合って、座敷童が姿を現すのを待った。
佐渡原くんの描いたあの絵と同じ場所だとは、とても思えない景色だった。秋晴れの青空も、鮮やかに染まった紅葉もない。もちろん、あの不気味なほど表情豊かな着物姿の女の子もいない。どんよりとして、どこまでも暗い空。申し訳程度に等間隔で光る水銀灯。人気のない広場。一応石畳で舗装されているものの、それもずいぶん昔のもののようで、隙間からところどころ雑草が覗いているのだった。
もろの木さまは、時々吹きつける冷たい風に葉を揺らすだけで、じっと動かない。寒空の下、静かに、本当に静かに、佇んでいた。お年寄りには「御神木」と呼ばれるほどの由緒正しい木のはずなのに、見れば見るほど、やっぱりどこかみすぼらしい。幹はところどころ禿げているし、くねって伸びた枝も、全体的にちょっと傾いている。緑色の葉は、そのうち山の木々たちのように茶色に染まり、冬になれば落葉し、もろの木さまは素っ裸だ。真冬のもろの木さまは本当に寒そうで、見ているととても不憫になる。
第一「御神木」って、神社の境内とか、もっと相応しい場所に立っているもののような気がするけど。どうして、お世辞にも「神聖な場所」とも言えない殺風景な駅前の広場なんかに、ひとりぼっちで立っているんだろう。
張り込みを始めてから、三十分が経ち、一時間が経ち、まもなく時計は十九時を指そうとしていた。冷たい空気が頬を刺し、マフラーは意味をなさなくなり、足先の感覚がなくなってきた。
さすがのユズちゃんも「今日はもう……限界ね」と呟き、女子中学生二人の刑事ごっこはあえなく終了した。座敷童らしき人影は、とうとう現れなかった。気配さえも、なかった。
「なによもう! 噂なんてもう信じないんだから!」
広場を猛ダッシュで駆け抜けながら、ユズちゃんは後悔をぶちまけていた。
「ユズちゃん、それ毎回言ってるよ」
「だってー! 古川がかなり詳しくしゃべってたから、今度こそと思ってー!」
「古川くんの話だよー。三分の一も真に受けちゃダメだよ」
走ると顔にぶつかる風が冷たくて涙が出た。駅前広場を横切り、真っ暗闇の商店街に入る。
まさにそのときだった。
背中に、熱を持った何かを感じたのだ。
「えっ?」
びっくりして、振り返った時には、それはもう消えていた。背後には、さっきまでと全く変わらない、駅前広場と、もろの木さま。
「何、どうしたの? 座敷童?」
急に立ち止まった私に気付いて、ユズちゃんが言った。
「――いや、なんか」
それは、光だ。確かに、光だった。突然太陽が背後から照り付けたかのような、温かい、光の玉だ。
紛れもなくそれは、もろの木さまの辺りから向けられていた。方向的に、そうに違いなかった。それは、ぱっと輝いて、一瞬で消えてしまった。今はもう真っ暗闇に戻っている。
けど、私の身体にはその温かさが残っていた。それは、ほんのり緑色の、命の脈動のような、生き生きとした光だった。驚いたことに、さっきまであんなに寒くて凍えていたにも関わらず、背中にじんわりと汗をかいていた。百メートル走でゴールした直後みたいに、息が苦しかった。
「茉里? どうしたってのよ?」
「ユズちゃん、今の――今の、感じなかった?」
「今のって、何のことよ?」
「今のは、今のだよ!」
たとえ一瞬だとしても、あんなに煌々とした輝きだったのに、ユズちゃんは気付いていないようだった。そんなはずはない。私はたった今起きた出来事を、ユズちゃんに説明した。出来るだけ詳しく、分かりやすく説明しようとした。
なのに、なぜか話そうとすればするほど、説明が曖昧になって、やがて本当にそんなことが起きたのか、自分でも疑わしくなってきた。記憶には、きちんと残っている。残っているのに、それは事実のはずなのに、ところが振り返ると、冷え切った暗闇と孤独な御神木があるだけなのだ。
心臓が、どくどくと鳴っている。
「私、もしかしたら座敷童よりすごいもの見ちゃったのかも」
「えー! ズルい茉里だけっ! 一体何見たの!?」
考えた挙句、私のおつむでは、なんとも幼稚な言葉しか思いつくことができなかった。
「――妖精さん?」
◆ ◆ ◆
もしかしたら駅前広場での出来事は、一晩寝てしまうと全て忘れてしまうのではないか。そんな考えが頭を巡り、ちょっぴり床に着くのが怖くなったけど、翌朝目が覚めても「妖精さん事件」は、きちんと私の頭の中に残っていた。
むしろ、息を切らして家に帰って来た昨日の夜よりも、あの光の記憶は鮮明になったような気がした。人は寝ている間に脳の情報を整理するのだと、何かの本で見たことがあるけど、おおよそそんな感じで、朝食の席に着いた私の頭はとてもすっきりしていた。
「そりゃあ、茉里、あんた『八百万の獣』を見たんだぁ」
おばあちゃんがしわがれた声で発した言葉は、途中まで聞き覚えがあった。
お父さんとお母さんには、昨晩のことを話していない。私はちゃっかり、帰りが遅くなったときのために(突然、ユズちゃんに連れ出されてもいいように)、吹奏楽部の練習が長引くことがあると言っていた。昨日も家に帰ってきた時は、駅前で張り込んでいたことなんて、一言も口にしなかった。嘘をついていることはちょっと後ろめたいけど、でも、部活をサボって悪いことをしているわけじゃないもの。このくらいの「方便」は、女子中学生にも許可して欲しい。
ただそれに対しておばあちゃんには、なんでも話してしまうのだった。おばあちゃんは、門限に厳格だったり、規則や慣習に口うるさかったりするわけではない。むしろ、いつも穏やかで優しくて、時々私から見ても甘すぎるんじゃないかと思うくらいで、それ故に、何を考えているのか分からないこともあるような、そんなおばあちゃんだ。
学校の通信簿で下がってしまった教科のこととか、ユズちゃんとくだらないことで喧嘩し、口を利かなくなった一週間のこととか、横笛が上手に吹けなくなってしまったときのこととか、人に話したくないようなことも、おばあちゃんに「どおしたの?」と訊かれてしまうと、全部しゃべってしまいたくなる。溜めこんでいたものが、まるで砂時計の砂が落ちるみたいに、するすると口からこぼれていく。そして、そのことをゆっくりゆっくり話す私は、不思議と優しい気持ちになる。それはたぶん、ゆっくりゆっくり話を聞いてくれるおばあちゃんが、優しい気持ちの持ち主だからだ。
すっかり話してしまった私に、おばあちゃんは頷くだけか、時にはなんにも反応がない時さえある。でも、なんだか私は「もう大丈夫かな」って気持ちになるのだから、本当に不思議だ。
実は昨日のことも、おばあちゃんにだけはすぐ言おうと決めていた。なんだか今回のことは、そうしなきゃいけないような気がした。
だからこうして、朝ごはんにきちんと起きて、お父さんとお母さんの目を盗んで、私はおばあちゃんにこっそりと話したのだ。
「やおよろず? 神様なの?」
「いんや、神様とはちと違うんだけんどね。一人の神様に必ず一匹、お手伝いのもののけがいんだぁ。神様なんて全然見るこたぁねえけど、八百万の獣たちは、ばあちゃんも昔は時々見たもんだぁ」
やおよろずの、けもの。
「でも、全然獣っぽくなかったよ。ぴかって光ったと思ったら、すぐ消えちゃったし」
「そりゃあ、茉里、いろーんな獣がいるんだよ。なんせ、神様の数だけいっからねぇ」
じゃあ、私が昨日見た「八百万の獣」さんは、たぶん、もろの木さまのお付きの「八百万の獣」さんなんだろう。でも、どうして昨日の「八百万の獣」さんは、ユズちゃんには見えなかったんだろう。逆に、私には見えなくて、ユズちゃんには見える「八百万の獣」さんはいるのだろうか? いや、そもそも私だってちゃんと「八百万の獣」さんを肉眼ではっきりと見たわけではないわけで――
これは、私に何か特別な力があるのだろうか。でもその前に、どうしても気になってしまうことがある。
「おばあちゃん、やおよろずのけものって長いよ。『もののけ』さんでいいかな? そういう言い方って、失礼じゃない?」
おばあちゃんは、とたんに目を丸くした。それから大きな声で、まるで神社の鈴を思いっきり鳴らしたみたいに、がらがらと笑った。
「そーんなことで八百万の獣は怒ったりしねぇよ。大事なのは気持ちだかんねぇ」
そう言って、おばあちゃんは茶碗から白いごはんを多めに取り、ぱくりと食べた。いつもにこにこしているおばあちゃんだけど、何だか今日は余計に嬉しそうだった。
その日の朝、教室で会ったユズちゃんは、おはようの代わりに大きなくしゃみをした。
「もう踏んだり蹴ったり。昨日張り込んだおかげで風邪拗らせるし、帰り遅くなってばあちゃんに竹ぼうきで叩かれるし、茉里ばっかり何か見えたとか言って興奮してるし」
「なんかごめん――でも、きっとそのうちユズちゃんにも見えるよ。もののけさんは、神様の数だけいるんだって」
私は今朝おばあちゃんから聞いたことをユズちゃんに話した。
「そう言えば、うちのばあちゃんも似たような話前にしてた。『湯の神さま』がいて、その『八百万の獣』っていうのと一緒に、うちの銭湯を守ってくれてるんだって。まあでも、神様とか、茉里のいう“もののけ”とか、ホントにいるかどうか正直微妙だよね」
噂はすぐ信じるくせに、根は結構リアリストなのだ。
ユズちゃんは銭湯の娘だ。この天原町には全部で四つ銭湯があるけど、ユズちゃんちの「銭湯ゆずりは」は、私の家から一番近いところにある銭湯だった。ユズちゃんは大きくて古い木造家屋に三世帯で住んでいて、同じ敷地に銭湯もある。その建物から長い長い煙突が生えているのが、私のうちからも見えた。
杠(ゆずりは)家のおじいちゃんが亡くなってからは、ユズちゃんのおばあちゃんがほとんど一人でお店を切り盛りしていた。杠家のお父さんは小さな問屋さんを営んでおり、仕事であまり見かけない。お母さんは専業主婦だけど、その問屋さんの方の手伝いに出ていることが多くて、あんまり銭湯の経営の方まで手が回っていないらしい。
でも銭湯の経営くらい、ユズちゃんのおばあちゃんなら、あのおばあちゃんだったら、当分一人で元気にやっていけそうな気がした。あと二十年くらいは大丈夫なんじゃないかと思う。そのくらいユズちゃんのおばあちゃんはパワフルで、若々しさに満ちていた。
「今日、久しぶりにユズちゃんちのお風呂行こうかな。明日演奏会だから、あんまり遅くまではいられないけど」
「いいよ。ばあちゃんに言っとく。六時でいい?」
「うん」
小さい頃から、私はずっと「銭湯ゆずりは」の常連客だった。洗面器とタオルを抱えて、よくうちのおばあちゃんに手を引かれて出掛けていた。お風呂から上がるとおばあちゃんは決まって、ユズちゃんのおばあちゃんと井戸端会議を始める。番台のところで立ち話程度のときなら十五分くらいで済むけど、お客さんの入りが少ない時なんかは、休憩所になっている畳の小上がりに座って、小一時間以上も話しこんでしまう。
それを退屈そうに見ながら牛乳を飲んでいる幼い私の横で「ああいうのって、『湯端会議』とでも言うのかな」と、呆れた様子で私に話しかけてくれた少女がいた。私と同じくらいの歳の子だ。頭一つ分私より背が高くて、いたずらっぽい二重をしていた。ちょうど浴場から上がったところなのか、濡れた細い髪が頬にはりついている。そして、ずいぶんとつまらなそうな表情だ。
ユズちゃんだった。
中学生になって、さすがにおばあちゃんと手を繋いで行くことはなくなったけど、ときどきユズちゃんと時間を約束してお風呂に入りに行く。年季の入った浴槽と、曇りの取れなくなった鏡。観光客向けの旅館の温泉と比べれば、確かに劣るところは多いけれど、私は「銭湯ゆずりは」が大好きだ。ユズちゃんのおばあちゃんが毎日丁寧に手入れしている大きなお風呂で、ユズちゃんとおしゃべりをする。勉強のこととか、町に広まっているの噂のこととか、まだほんの少ししかしたことはないけど、好きな人の話とか。
学校の教室や帰り道では話せないこともある。でも不思議なことに、銭湯の湯船の中だとそれができる。ひょっとしたら「湯の神さま」が湯けむりで、余計な心の壁を隠して、見えなくしてくれているのかもしれない。
「演奏会って、どこで?」
ユズちゃんが、教室の時計をちらりと見て言った。
「香田市だよ。電車でここから四駅だったと思う。去年も香田の市民ホールでやったの」
「見に行こっか?」ユズちゃんが提案した。「ばあちゃんに演奏会のこと言ったら、きっと連れてってくれる。茉里のこと、お気に入りだから」
自分で言うのはちょっとおかしいけど、私もユズちゃんと同じ意見だった。ユズちゃんのおばあちゃんは、私のことを実の孫のように可愛がってくれていた。
たぶんユズちゃんのおばあちゃんは、演奏会でやるクラシックの曲なんて聴いたことないだろうし、有名な西洋の作曲家も、クレッシェンドもピアニッシモも、何ひとつ知らないだろう。
それでも、「茉里ちゃんが出るんだったらねぇ」と、香田まで足を運んでくれるのが想像できた。
市民ホールの観客席に、彼女はちょっぴり居ずらそうな顔をして座っている。でも舞台上に私を見つけると、大きく手を振る。隣りでユズちゃんが恥ずかしそうにその手を下ろさせようとしている。私はちょっとだけ笑って、富岡先生の指揮棒に集中し、横笛を構える。
「どっちでも。お店で忙しいと思うし」
「何言ってんの。あのボロ銭湯が忙しい時なんて、ほとんどないんだから」
そうかもしれないけど……と言いかけて、慌てて止めた。ちょうど良いタイミングで、朝の学活を知らせるチャイムが鳴った。
その日の夜、「銭湯ゆずりは」の暖簾をくぐった私を、ユズちゃんのおばあちゃんは顔をくしゃくしゃにして迎えてくれた。
「やあやあ茉里ちゃん、いらっしゃい! 待ってたんよぉ」
いつもの年季の入った番台の上で、いつもの年季の入った笑顔を見ると、とっても落ち着く。彼女の声はしわがれていて、ときどき早口で聞き取りづらい。けど、太くて、柔らかくて、丈夫そうな声だった。口からと言うより、身体全体から発せられているみたいだった。
「こんばんは。おばあちゃん久しぶり。お邪魔します」
「はいどうぞ。もうすっかり寒くなってきたからね。風邪ひいちゃわないように、ゆっくり温まっていきなさいね」
「うん。ユズちゃんもう来てる?」
「ああ奈都子と待ち合わせだったよねぇ? 全くあの子ったらねぇ。もうすぐ来ると思うから、待っててくれるかい?」
「私もちょっと早く来たから大丈夫」
女湯の脱衣所には先客が一人、畳の小上がりで休んでいた。甘味屋のおばちゃんだ。
「あら、津々楽さんところの。こんばんは」
私も「こんばんは」と会釈を返した。こじんまりとした脱衣所には、壁際の棚に脱衣籠がたくさん並べてある。竹で編んだ、こげ茶色の丸い籠だ。ほとんどが空っぽなところを見ると、今日も浴場はかなり空いているみたいだった。浴場の入り口には、曇りガラスの上から入浴マナーの黄色いポスターが貼られていた。その脇の冷蔵庫の中で、三色の牛乳がきんきんに冷えている。
部屋の隅っこのブラウン管テレビを見上げると、ちょうど六時のニュースが始まったところだった。
東京で五店舗目となる大型の商業施設の売り上げが、前年比の一・七倍を記録した。地域住民の反対を受けて見送られていたダムの建設は、来年四月の着工で押し切られた。一週間前の男子中学生の自殺は、級友によるいじめが原因だったことを、学校側が認めた。自殺した男の子の両親は、学校を相手取り起訴するのだという。
目のつり上がった、無機質な顔の女性キャスターが、坦々と原稿を読み上げていった。彼女の読む言葉たちには、全然現実味がない。テレビのニュースには、いつもそう感じていた。読み上げられた出来事が、悪いことなのか良いことなのか、私には判断できないときがある。極端に言うと、本当にあったことなのかどうかも、疑ってしまう。お母さんはよく居間でニュースを見ながら「世の中物騒ねぇ」なんて言っているけど、私はいつも思う。
お母さん、安心して。それは、テレビの中だけで起こっていることなんだよ。お母さんの言う「世の中」と私たちがいる「世の中」は、違うんだよ。「物騒」は、まだこの天原町には侵入していないんだから。
「ごめんごめん! お待たせーっ!」
ユズちゃんがお風呂道具を抱えて、更衣室に転がり込んできた。おばあちゃんの「奈都子! あんた約束も守れんのかい!」という怒鳴り声も、同時に響き渡った。
「あーやば! 茉里ごめんホント! ばあちゃんが竹ぼうき装備する前に、お風呂逃げ込もう!」
ユズちゃんはすごい速さで上着のフリースを籠に放り込み、もうティーシャツも脱ごうとしている。番台の上ではおばあちゃんが湯気を立てている。甘味屋のおばちゃんは、口を抑えて笑っていた。
「私は別に逃げ込む理由ないんだけど」
向こう側の「世の中」も色々賑やかだけど、こっち側の「世の中」だって、十分すぎるほど賑やかだ。意味合いは大分違ってくるんだろうけど、私はやっぱりこっち側の賑やかさの方が好きだ。
◆ ◆ ◆
ある一つの仮説が私の頭をよぎった。
よぎった瞬間は、それがほとんど確信に近いくらいに感じていたけど、前にお父さんが「人間、自分で思いついたものをすっかり“名案”だと思い込みがちなんだ。だから、いつも自分の考えを疑っていなきゃだめなんだよ」と言っていたことを思い出した。
そう言えば、その言葉と一緒に「お父さんも、お母さんが本当に最愛の人なのか、何度も疑ったもんだよ」という台詞もくっついていたことを思い出したけど、それにはすぐに蓋をした。お父さんの性格だと、本当に時間をかけて吟味をしたような気がして、娘の私としてはちょっと複雑なのだ。まあ、お母さんの性格だと、そんなことは笑って許してしまうんだろうなと思うけど。
とにかく、お父さんのアフォリズムの影響によって、私は自分の“名推理”を言いふらさずに思いとどまった。よくよく吟味をして、これはもう確実であろうとなったとき、初めて口にしよう。
その“名推理”とは、噂になっていた「座敷童」は、「もののけさん(もとい八百万の獣)」のうちの一人なのでは、ということだ。
恐らく第一目撃者が、もののけさんを見ることのできる力を持っていて、本人がそれに気付かずに、その風貌からてっきり座敷童だと思ってしまった。しかし実際には、もろの木さまのお付きのもののけさんで、おばあちゃんは昔はよく見たという「八百万の獣」の類だった。
そして、私があのとき見た、もとい感じた「光の玉」が「八百万の獣」だとすると、やっぱりあの場所には「座敷童」がいたのだ。どういった理由なのか、私の前では光の玉となって現出していたけど。
演奏会の日の朝。フルートの入ったキャリーケースを背負い、私は吹奏楽部の友達と一緒に天原駅のホームで電車を待っていた。
からりと晴れた秋の空は、とても高い位置に千切れた雲が残っているだけで、綺麗な水色がずっと遠くまで続いていた。この季節になると、晴れの日ほど放射冷却で朝が冷える。吐く息も白い。こんな時期からコートを着て、マフラーを巻いて、膝小僧を真っ赤にしている私は、果たしてこの冬を乗り切れるのだろうか。
吹奏楽部のみんなにはあの日のことを全く話していないけど、噂の「熱」自体はまだまだ残っているようだった。駅の構内に入るとき、みんな揃ってもろの木さまの根元を凝視していたし、「朝の六時から夕方までは姿を隠してるから、現れないんだって」とか「ジャシンのない、清らかな心の持ち主じゃないと見えないらしいよ」とか、まだ私が聞いたことのなかった追加情報を、みんな口々に話していた。ここまでくると、なんだか勝手に脚色されている座敷童がひどく不憫になる。必要の無いところにもたくさん尾ひれが付いてしまって、当の座敷童本体はすっかり見えなくなってしまっているような気がした。ところ構わずにょきにょき生えた、不格好な尾ひれを見ると、正直喉元まで来ていた「光の玉」も「座敷童もののけ説」も、全然言いふらしたりするような気分ではなくなってしまった。
「そう言えばさ茉里、今日見に来るの? 杠さんとこのおばあちゃん」
クラリネットののんちゃんが眠そうな声でそう言った。
「うん。昨日演奏会のこと話したら、そう言ってた」
演奏会の前日だというのに、結局昨日はうんと長風呂を楽しんだ。お風呂上がりにフルーツ牛乳を飲みながら、まだ眉間にしわのよっているユズちゃんのおばあちゃんに演奏会のことを話すと、あっという間にしわが口元に移動した。
「あのおばあちゃん、今も一人で銭湯やってるんでしょ? 元気だよねホント」
天原中の生徒達の中でも、ユズちゃんのおばあちゃんは有名だ。小学校の「体験入浴」で、みんな一度は「銭湯ゆずりは」に入ることになるからだ。
うちのお母さんがよくテレビを見ながら「物騒ねえ」と言っている事件は、本当に色んなものがある。けど、前に家族でニュースを見ていたとき、お父さんがお母さんに言っていた。昔に比べ、犯罪は加速度的に「個人主義」化していると。
強盗や強姦、殺人などの重犯罪が低年齢化している、なんて書き立てて、今や若い世代は「腫れ物」扱いだけど、実際に青少年の犯罪の件数が突出しているわけではないらしい。マスメディアがこぞってそういう事件を報道するのは、四十代の無職の男が「ついにやってしまった事件」よりも、毎日学校に通い、成績も悪くはなく、友達付き合いも多い、ごくごく普通の少年が「突然変貌した事件」の方が、目を引くからだ。まるで時代を象徴しているようなセンセーショナルさがあるからだ。
「人は自由で平等で、個人として尊重される。そういう教育をずっとずっとこの国はやって来たんだから、若い人も、四十五十のおっさんも、根っこの考え方は大して変わらないんだ」
お父さんは言っていた。事件は今、「個」の問題になってきている。本当は、人は自由でもなければ平等でもなく、個人として尊重される保障はどこにもない。それは、ちょっと考えれば当り前のことなのに、憲法はそれを否定しているのだ。それを勘違いしたまま、「個」を「公」に押し広げてしまったとき、事件は起こる。
昔は、例えば学生運動みたいに、ある考え方の集合体が勝負を仕掛けることで紙面を賑わせた。そこには、何か強い意志が働いていた。新聞やテレビは、それを伝達する役目を果たしていた。でも、今は様相を異にしている。
「最近のニュースなんかではさ、『どうしてこんなこと起こっちゃったんだろう』って思う事件が多いよね。そういう事件を起こしてしまう人は、大抵独りぼっちなんだよ。そして、当人にどうしてそんなことをしたのか訊いてみても、自分でも分からないって言うんだ」
お父さんは農家になる前、裁判所の職員として働いていたらしい。
「その人たちには、家族とかもいなかったのかな?」私は不思議になって訊いてみた。
「家族がいて、恋人がいて、友達がたくさんいても、独りぼっちの人は山ほどいるんだよ」
ふーんと、そのときの私は曖昧に返事をした。
お父さんの言葉の意味が全然分からなかったわけではない。ただ、全部分かったわけでもなかった。とりあえず私は独りぼっちだなんて感じたことはないわけだし、今のところはセーフだろう。私の想像力では、せいぜいそうやって安心することぐらいしか出来なかった。
話がかなり逸れたけど、「体験入浴」はつまり、大人になっても独りぼっちにならないようにするための練習なのだ。公共マナーをきちんと守って、みんなで裸になって、全員で同じことをするのは、「俺はこうだから」とか「私はそうじゃないから」とかいう「個人」が肥大してしまっては成り立たない。そういう「個」が最小化した場が、本来あるべき「銭湯」なのだ。
ユズちゃんのおばあちゃんは入浴マナーには厳しかった。かけ湯をしなかったりとか、男湯と女湯にひとつずつしかない五右衛門風呂を長時間独占したりとか、浴場内を走り回ったりとか、そんな不届きな輩は、一回目はイエローカード、二回目は永久追放となる。私が小学生のときに行われた体験入浴では、湯船でクロールした男の子が、まるでしゃぶしゃぶのゆで上がった肉みたいにお湯から引っ張り出されて、脱衣所に放り投げられていた。昨日あんなにバタバタと騒いでいたユズちゃんも、服はきちんと籠の中に入れていたし、浴場内ではいつもスロー再生されているみたいにおとなしかった。
ユズちゃん曰く、「もろの木さまと湯の神さまが監視してるから」なのだそうだ。 浴場の奥の壁面には、一枚の大きなペンキ絵が描かれていた。男湯と女湯で一枚の絵になっているらしいから、私は女湯側、ペンキ絵の右側しか見たことがない。
ペンキ絵と言うと、普通は富士山が描かれるものだと思うけど、「銭湯ゆずりは」の場合は違った。
女湯側には、薄い紫色の浴衣を着た女性が描かれている。それを着て歩くにはとても不便そうなほど丈が長い浴衣だ。古い家屋の縁側のようなところに彼女は立ち、少し上の方を見上げていた。男湯の方にはもろの木さまが描かれているというから、位置関係的に、きっと彼女はもろの木さまを見上げているのだろう。口元に少し笑みを浮かべ、とても上機嫌そうだった。右手には木製の柄杓を持っている。
彼女が湯の神さまだ。
そして、昨日ユズちゃんとお風呂に浸かりながら、なんとなくそのペンキ絵を眺めているとき、私がずっと不思議に思っていた謎がひとつ解けた。
湯の神さまの傍らに、一匹の大きな亀がいるのだ。縁側でひなたぼっこを楽しんでいるかのように、前足を畳んで寝そべっている。たぶんこいつは、前に動物番組で「ガラパゴス諸島特集」をやっていたときに見た、ガラパゴスゾウガメだ――そう思っていたけど、あんな地球の裏側の、閉じ込められた生態系からペンキ絵の題材をチョイスするなんて、甚だおかしかった。
それにペンキ絵の方の亀は、目は土偶みたいな横線で描かれているし、灰色の甲羅の隙間からは湯気(銭湯のペンキ絵だから、たぶんそうだと思う)が立ち昇っている。その湯気が湯の神さまの姿を四割ほど隠しているので、彼女の妖艶さを一層引き立たせる役目を果たしていた。この亀は、見れば見るほど似ていない。ガラパゴスゾウガメとは全然、似ていない。
きっとこの亀は、湯の神さまの「八百万の獣」に違いない。
大発見だと思ってユズちゃんにそう話したら、彼女の反応は随分とあっさりとしたものだった。
「まあ、湯の神さまと一緒にいるんだから、そうだろうね。ばあちゃんに訊いて確かめてみたら?」
「ユズちゃんは、この亀のこと気にならないの?」
「うーん。なんで亀なんだろうとは思うけどさ。これがその“八百万の獣”っていうのだとしても、へーそうなんだって感じ?」
銭湯の娘は、いるかもしれない噂の生き物には夢中になっても、実在しないとなれば、興味のかけらも沸かないらしい。
「ユズちゃん、バチあたるよ」
「バチよりも、ばあちゃんの竹ぼうきの方がずっと恐ろしい」
それも、一種のバチなんじゃないかなあと思った。
香田市の市民ホールで行われる演奏会には、付近の中学校の吹奏楽部が招かれ、毎年それなりの賑わいを見せる。天原中も六年前から招待されていた。一応プロの演奏家や音大の学生などが審査員となり、参加中学校の中で順位も付くので、長年吹奏楽部の顧問をしている富岡先生はこの十月に入り、少しずつ、しかし確実に笑顔が消えていった。
富岡先生は白髪頭もかなり後退してきた年配の先生だけど、音楽の授業ではとても優しいから生徒にも人気がある。だが、吹奏楽部の「顧問」としての富岡先生は、ときどき別人かと思うほど、生徒に罵声を浴びせる。グラウンドの隅にはナナカマドの木が植えてあるけど、演奏がボロボロだったときの富岡先生の顔は、ほとんどナナカマドの実の赤色に匹敵するだろう。ホルンの堤さんは、もうほとんど毎日泣いていた気がする。
ホルンって肺活量いるし、ボリュームを調整するのが難しいんだよね。「女子中学生に吹かせる楽器じゃない」ってのんちゃんが言ってたけど、一理あるかもしれない。
でも今日の演奏会、そんなホルン担当の堤さんにとって素敵なエンディングが待っていた。
我が天原中吹奏楽部の演奏は、富岡先生に檄を飛ばされ飛ばされ練習してきた甲斐あって、見事銀賞を受賞することができた。私のフルートのソロも、のんちゃんのクラリネットも華麗に決まり、繰り返し合わせた転調も上手く整い、拍手喝采で緞帳が下りた。富岡先生が解散時のミーティングで「堤、お前良かったぞ」なんて言うものだから、堤さんは最後の最後でまた泣いた。
みんなで肩を叩きあって、本当に感動的な場面だった。けど、私は別のことに気が取られていて、半分上の空だった。
ユズちゃんも、ユズちゃんのおばあちゃんも、結局会場には現れなかったのだ。
演奏の直前、舞台の上から客席を見渡した。うちのお母さんとおばあちゃんが中段の右端に並んで座っているのが見えた。お母さんは最近買って異様にハマっているポラロイドカメラを構えていた。部員の父兄や先生方など、知っている顔がいくつかあったけど、ユズちゃんたちを見つけることはできなかった。
昨日は「前の方の席、早めに行って取っとかなくちゃねえ」とまで言ってくれていたのに、どうしたんだろう。何か、急な用事が入ってしまったんだろうか。
帰り際のロビーで、お母さんが走り寄ってきて、ポラロイド写真三枚と千円札をくれた。
「お友達と寄り道してくるなら、あんまり遅くならないようにね」
銀賞おめでとう。お母さんは言ってくれた。おばあちゃんも隣りに来て、大したもんだねぇと、大きな声で笑った。
「うん、ありがとう」
写真三枚のうち、二枚はブレてしまっていて、残りの一枚も、ソロを吹き終わってほっとしている私の、隙だらけな表情の写真だった。私が目を細めて写真を見ていると、「お母さん、まだ修行中だから」と、撮影者は言い訳しながら笑った。
「ねえユズちゃん来てない? 昨日見に来るって言ってたんだけど」
お母さんにも訊いてみる。そのときちょうど、入口の方からのんちゃんたちの催促の声が聞こえた。みなっちとマコもいる。同じ吹奏楽部二年の、仲の良い三人だ。
「あら、そうなの? 私は見てないけど。月曜日に学校で訊いてみたら?」
杠さんのところは忙しいからねぇと、隣りでおばあちゃんが言った。
やっぱり、来ていないのだ。
「ほら、お友達呼んでるわよ」
「うん。じゃあね」
のんちゃんたちと合流して、私は市民ホールを出た。
今朝の冷え込みが嘘のように、ぽかぽかの陽気が町を温めていた。空気は冷たくても、陽のあたるところはコートなんていらないくらいだった。
散々迷った挙句、結局香田駅の前にあるチェーンのドーナツ屋さんでティータイムすることに落ち着いた。去年の演奏会の後も、同じメンバーで来た記憶がある。
とりあえずの話題は、九月にあった実力テストの結果に向けられた。私は思いのほか国語の点数が良かったけど、一年生の頃の単純な数学の公式がいくつか頭から抜けてしまっていたことが発覚した。塾にも通っているのんちゃんは五教科安定して八割をキープしていたらしいけど、みなっちもマコも結果は散々だったと聞いて、私は少し安心した。
十一月に入ると、すぐに二学期の中間試験が待ち構えている。その次は間もなく期末試験で、ぼーっとしてるとすぐに学年末。そして、あっという間に受験生だ。受験生になってしまったら、きっとこんなところでのんびりチョコレート・チュロスをかじったりする暇もないんだろうなと思うと、ちょっと気分が暗くなった。
勉強の話から、今日の演奏の話になり、最近聞いている音楽の話になり、芸能人やアイドルの話になった。四人ともすっかりしゃべり疲れて、帰りの電車では、天原駅までの四駅だけでも寝過ごしてしまいそうになった。
天原駅前の広場は、夕焼けでオレンジ色に染まっていた。
少しずつ暖色に衣替えしているもろの木さまも、夕日に温められて心地よさそうに葉を広げている。やっぱり今も一人だ。
土曜日の夕方というだけあって、広場には人が多かった。家族連れやカップルも意外に多く、商店街の方も、こじんまりとはしているけど、それなりに活気があった。あの張り込みをした夜と比べると、広場全体に命が吹き込まれたみたいだ。
楽器を背負った四人の中学生は、疲れ切ってふらふらしながら広場を横切り、途中各々の家路に分かれ、じゃあまた学校でと、私は三人に手を振った。
のんちゃんは頭が良いから、たぶんこの町でも一番レベルの高い天原高校に行くんだろう。彼女が通っている塾は、ほとんど天高に合格するために開業されているような個人塾だ。毎年教室の窓ガラスに、昨年度の合格率が張り出されている。
みなっちとマコも、三年の夏からは塾に行くと言っていた。
「天高まではいかなくとも、柏高や緑が丘高あたりには、この身を繋ぎとめとかないとね。うちのお父さんやたら学歴主義でさ、それ未満は認めないって言われてる。成績によってはこの冬からもう塾行かされるかも」
マコはさっきのお店で、そんなふうに愚痴りながら、ため息をついていた。
受験。私はどうなるんだろう。もちろん全く何も考えていないわけではないけど、きっとちゃんと考えている人からすれば「考えてない」に等しいんだと思う。自分の進路を自分で決めるという実感は、まだ全然ない。
フルートの奏者になって、人のたくさんいるホールで、プロの楽団の人と一緒にコンサートを開く。拍手喝采の中、私は満面の笑みで礼をする。会場を見渡すと、見に来てくれた知り合いがたくさんいて、私はますます笑顔になる。
そんな妄想をしたことがあったけど、一方で、私は思っている。そんな出来過ぎた夢は、九十九パーセント夢で終わるんだろうなと。そして私は知っている。その夢が挫かれたとき、きちんとした仕事に就いて、それなりにまっとうな人生を歩んでいくためには、やっぱり勉強しなきゃいけないことも。
広場を見渡してみた。大人も子供も、男の人も女の人も、たくさんいる。この人たちの中で、一体何人くらいが残りの一パーセントを掴み取ったのだろう。もしくは、これからその一パーセントを掴み取る気のある人は、どのくらいなんだろう。
そんなことを考えながら、夕焼けの駅前広場に佇んでいる私の目に、あるものが映り込んだ。心臓がどくりと一回鳴いて、私は息を呑み込んだ。
もろの木さまの傍らに、忽然と少女が現れたのだ。
ほんの少し前まで、もろの木さまの近くには誰もいなかったはずだった。道行く人は多く、雑踏の中に見え隠れして確認しにくいけど、私たちと同じくらいの年齢の女の子で、短く切り揃えた黒髪をしていて、まるで何か語りかけているかのようにもろの木さまを見上げている、あの少女を見逃すはずはない。
噂は嘘じゃなかった。座敷童は本当にいた。
もろの木さまから十五メートルほど離れたところに突っ立って、私はその少女を見ていた。その姿から、目が離せなかった。雑踏が消えて、視界が狭くなる。
彼女は真剣な眼差しでもろの木さまを見つめていた。祈りを捧げているようにも見えたし、孤独な御神木を憐れんでいるようにも見えた。西の空から照りつける夕日を浴びて、その白い肌と、黒い瞳が輝いていた。
でも、座敷童がこんな時間帯に出現するという話は聞いたことがない。目撃情報では陽が落ちてから現れるということだったし、今はとても人通りが多い。白昼堂々と「噂」の当事者がこんな目立った行動に出ていいのだろうか。
そう言えば、噂では座敷童の服装については言及されていなかった。見たところ、真紅の着物を着て、綺麗な鼻緒の下駄を履いている――わけではなく、ベージュのダッフルコートに紺のスカートという出で立ちだった。
私の視線を感じたのだろう(なにせ、まるまる一分間くらい、じっと彼女を見つめていたのだ)、座敷童もこちらを見た。まともに目が合ってしまい、私はたじろぎ、一歩後ずさりしてしまった。彼女は着ているダッフルコートのボタンをちょっと触り、またもろの木さまを見上げたかと思うと、私に向かってつかつかと歩いてきた。
大丈夫だ。座敷童は悪戯好きだけど、災いをもたらしたいはしないって、ユズちゃんが言ってた。大丈夫だ。「もののけさん」って呼んでも、そんなことじゃあ八百万の獣たちは怒ったりしないって、おばあちゃんが言ってた。大丈夫だ。私はなにも失礼なことをしていない。何か被害を受ける謂われはない。何も――
「あなたは木行(もくぎょう)が一段階開いてるんですね」
座敷童は言った。私はぽかんと口を開けたまま、息もしていない。
「だからあなたには見えるんです。コノの端境(はざかい)で、普通の人に今の私は見えないのに」
学校の教室で、ゲームやアニメ好きの男子が全く意味不明な言語で会話しているのをよく見る。彼らの間でしか通じない異世界の言葉なので、随分真剣だけど、何がそんなに重要なのか分からない。大爆笑していても、何がそんなに面白いのか、皆目見当が付かない。
今、まさにあの感覚だった。この少女は一体何を言っているんだろう。
そんな状態の私を察したのか、分かりました、しょうがないですねえというふうに、彼女は口元で笑った。最初から投げ捨てるような感じのしゃべり方だったけど、笑い方もちょっと冷たい。幼げな顔とこじんまりとした背丈に不釣り合いな、大人びた微笑だった。
私は、そのときちょっと期待したのだ。きっとこの座敷童は、私にも納得できるように「専門用語」を説明してくれるんだ。見えるとか見えないとか、モクギョウがどうとか、ちゃんと分かる言葉に置き換えてくれるんだ。最近では実はこういう意味で使われているんですよ。ご存じなかったですか。高校で習いますよ。
「コノ。隠れてないで姿を見せてください。この人は、きっと力になります」
その期待は、次の瞬間、きれいに消し飛んでしまった。
彼女の頭の上の、何も無い空間。何かがまるでカーテンをめくるように、ひらりと姿を現した。
唐突に、しかしあまりに自然で、何も珍しいことじゃない出来事みたいに、その物体は登場した。
声が出ない。叫び声って、どうやって上げるんだっけ。私は息を呑みっぱなしだった。一体いつから呼吸をしていないだろう。
現れたそれは、生き物だった。背中に羽の生えた獣だ。うっすら緑色がかった体毛に覆われいる。胴とは不釣り合いなほど大きな頭は、球根……嘘ではない。本当に、球根のような形をしていた。
そして、その生き物は“言った”のだ。
「どうして最近の神子(みこ)って、こんな子供ばっかりなのさ?」
あら、これはこれはとっても流暢な日本語で。
私はもう、卒倒しそうだった。
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