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非常に気分が悪かった。一人でいると、どうしてもロコ嬢の視線の意味を考えてしまう。あれはきっと、自分を非難していたのだと思う。彼女が自分を責める声が、はっきりと聞こえてくる。「あなたは未熟だ。タルト一族のなんの役にも立っていない。いてもいなくても同じだ」と。ジャグルの身支度は、誰よりも手早かった。まるで、声から逃げるかのように。
次の日、今回の遠征最後の村を訪れる。悩みを持つ住人の話を、ラッシュ、ローク、レガの三人で分担しながら聞いていく。ジャグルはレガのサポートに回る。このスタイルを、お決まりのパターンだと思えるようになったのは、少しはこの仕事に慣れてきた証拠だろうか。
レガは三人目にして、異様な真剣さを伴ってすがる女性に当たった。
「助けて下さい、タルト様」
女はかすれた声で言った。
「ご婦人、今まで辛かったのですね。まずは詳しい話をお聞かせいただいても、構いませんか」
話を聞く前に、まず相手の気持ちを救っておくこと。たとえハッタリでも、嫌な気持ちをする人間はまずいない。それが彼の編み出したテクニックなのだと、ジャグルは知っていた。
「はい」
そして、ゆっくりと彼女は話し始めた。レガは彼女の言葉を引き出せるよう、時々頷いたり、相槌を打ったりした。さっき聞いた概要に加え、何かに見られているような感覚がある、と彼女は新たに語った。
どうやら、彼女は不眠症を患っているらしかった。夜中、目を閉じていてもどうしても眠れない。おかげで、日中も何となく気だるい気分が続いている。それだけではない。夜中じゅう、誰かに見られているような気がするのだ。試しに起きて探しても、誰もいない。夫と一緒にベッドを共にしているが、彼はぐっすりと眠っている。何故自分だけなのか、納得出来ずに時折夫にも当たってしまうのだった。
「なるほど。分かりました。それでは早速あなたのご自宅へ行きましょうか」
レガは促し、彼女は快く応じた。
彼女の家に着く。レガは自分の小さな鞄を持ち出していた。レガ愛用の道具箱だ。ジャグルはこれまでに何度か見たことがある。中に入ると、男が立ち上がり、彼女とまじない師たちを代わる代わる見た。どうやら彼女の夫らしい。彼も事情は知っていたようで、どうか妻を助けて下さい、と告げた。任せて下さい、とレガ。そして、部屋全体を見回す。夕方、暗い室内はよく眠れそうにも思える。奥の扉をちらと見やり、レガは彼女に尋ねる。
「普段寝るとき、どこでどちらを向いていますか」
「え? ええと、こちらの寝室です」
「失礼ですが、見せて頂いても?」
「はい。どうぞ」
二つのベッドを繋げて、一つにしている。愛する夫と、夜を共にしているのだろう。
「こっちを頭にして」
窓のある方に頭を向けているようだ。朝に太陽の光を浴び、自然に目が覚めるようにしているのだろう。レガは鞄の中から小さな金属の板を取り出す。井戸水を拝借し、桶に張る。その上に金属板を浮かべた。それを見て、レガはうーんと唸った。
「南向き、ですか……」
レガの表情に、女性はひどく不安げな顔をする。
「おそらく、夢を食らう化物に、夢を食われているのでしょう。それらは南からやってくることが多いのです」
「そうなんですか」
「一般的には、北だと思われがちなんですがね。本当は、体に良い力は、北から南に向かって流れているのですよ。枕を逆にしてみてください。よく眠れると思いますよ」
「へぇ! ありがとうございました」
どういたしまして、とレガは落ち着き払った声で返す。知らなかった、とジャグルは少々の冷や汗をかいた。
家を出る。ひと段落したかと思ってレガの顔を見ると、予想に反して神妙な表情を浮かべていた。訳を尋ねようとするより先に、レガはジャグルに耳打ちした。
「いいかい。この件はこれで終わりじゃない。今後の予防にはなるが、根本的な解決はまだしていないんだ」
「そうなの?」
「あぁ。人食いの仕業だ」
人食い。その言葉が、胸に重くのしかかる。
「夢を食らう人食いが、近くにいるはずなんだ。矢、持ってるか」
ジャグルは鞄から取り出す。よし、とレガは頷く。
「そう言えば、人食いを見たことはないよな」
「うん」
ジャグルは頷いた。
「よし。今日で最後だし、ジャグルも一つ大仕事をしてみないか」
「大仕事?」
聞き返すジャグルに、レガは頷く。
「ああ。お前が、人食いを退治するんだ」
へ、と間抜けな声で返してしまった。どうやら自分は、ずっと見てばっかりで、自分でやることをすっかり忘れそうになっていたらしい。
「人食いを見つけるところまでは、俺がやろう。タイミングも、ちゃんと指示する。最後に、矢を放つのはお前だ。いけるか、ジャグル」
「……分かった」
手が震えているのが分かる。自分に出来るだろうか。またとない機会だ。自分に出来るだろうか、と不安な気持ちを押しのけて、とりあえずやってみよう。ジャグルは気を引き締めた。
その夜、ジャグルとレガは女性の家の南側にある広場の芝生に腰を下していた。人食いに感づかれない為に、灯りは点けない。今日は満月に近いため、月の光でよく見える。レガは女性の髪と爪を燃やして作った灰を中指から手首にかけて塗りつけた。今から使う道具の精度を高めるためだ。
「来るかな」
ジャグルは小さく呟いた。
「きっと来るよ。あの奥さんのことを、きっといい餌場だとか何とか思ってるはずだからな。きっと油断してる。こっちから罠を張ってやらなくても、来るだろう」
レガは手に紐を巻きつけている。その手の中で複雑に絡み合った糸は、まるで何かの模様のようだった。
「すごいな」
「この結びか? 紐に術力を与えて操作する、汎用性の高い結び方だ。今度教えてやるよ」
「本当?」
やった、と心の中で呟く。ああ、とレガは笑った。
「レガって、本当に何でも知ってるんだな」
「そう見えるかい」
「うん」
レガはジャグルの頭に手を置き、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。
「じゃあ、お前にずっとそう思ってもらえるよう、頑張んないとな」
「やめろよー」
そう言って、いたずらっぽく笑う。
レガはジャグルの指導係でありながらも、時には友達のように気さくに接してくれた。レガは今までの経験を話し、ジャグルは自分の考えや夢を話す。レガは決して、ジャグルの考えを否定しなかった。どんなに幼い考えでも、レガは大まじめに聞いてくれた。長かった七日間も、レガがこうして仲良くしてくれるから、乗り越えられたのだとジャグルは思う。きっと彼がいなければ、心細さに潰されてしまったに違いない。彼の笑顔を見るたびに、勇気づけられる自分がいる。いつか彼のようになりたい。彼のように、人に勇気を与えるまじない師になりたい。心の底から、そう思う。
「さて、来たぞ」
ふわふわと浮かぶ、自分の体よりも大きなピンク色しただ円形の物体。これを生き物と呼ぶには、あまりにも不気味すぎる。鳥のように羽ばたくこともなく、ゆっくりと空から降りてくる。背中を丸めて眠っているのだろうが、一切体を動かす様子もなく移動する様は異様だった。ピンク色のそいつは、おでこの辺りから煙を出し始めた。煙は風もないのに一定の方向に引き寄せられていた。その先にあるのは、彼女の眠る家の窓。どうやら、あの煙を通じて夢を食べるらしい。誰が言った訳でもないが、ジャグルにも想像がついた。
「動きを止める。矢を番え。まだ撃つな」
小さくレガが呟いたのが聞こえた。その瞬間、レガの手首から紐が伸び、ピンク色の巨体を縛り上げた。奇襲を受けたそいつは想像より大きな目を見開いた。頭から伸びる煙が方向を失ったことから、ひどく慌てているのだろう。
「お前たちに安全な餌場ってのはないんだぜ、ムシャーナ」
「どうして私の名前を」
ーー喋った、だと。
ジャグルにはそれが意外で、思わず矢を構える意識が途切れそうになった。こいつらは、ただ強い力を持って、人間を食らうだけの獣ではないのか。
「さぁ、どうしてだろうな。ジャグル、打て」
人間と同じように、言葉を持っている。とどのつまり、心も持っているということなのだろうか。人食いと言うのはもしや、ただ食らう対象がたまたま人間であるだけで、感情もちゃんと持っている。その辺を飛び回る虫や、歩き回る犬とは一線を画す生物なのではないか。
それに、だとしたら、我々は、このタルト一族はーー。
「ジャグル! 今は考えるな! 火矢を放て!」
レガの言葉にはっとして、ジャグルは矢じりに火を灯した。こいつらは人間より遥かに強大な力を持つ。いくらレガでも、動きを封じていられるのも僅かな間でしかない。生き物に向けて撃つのは初めてだということも忘れ、ただ的を狙うつもりでムシャーナに向かって火矢を放った。
火矢はムシャーナの体に突き刺さり、小さく爆ぜた。さっきとは違い、獣の叫び声が辺りに響いた。刺さった部分が黒く焼け焦げ、肉が抉れていたが、まだ致命傷とは言い難い。今の一発でレガの紐も千切れかかっていた。ムシャーナは暴れて、必死に逃げだそうとしている。
「ジャグル、もう一発だ」
「でも、もう懲りたんじゃ」
「やらなきゃ、こっちがやられるんだ。彼女がじゃない。人間が、だ」
レガの叱咤に目をぎゅっと閉じた。不意に、ロコの冷たい視線が浮かんだ。そして、彼女はジャグルに言い放った。「あなたは、役立たずなのね」。いや、違う。ジャグルは首を振った。目を開き、もう一度矢を構えた。おれは役立たずなんかじゃない。
「……やってやる」
半ばやけっぱちで、ジャグルはありったけの術力を矢に込める。術力が火力に変換されたとき、既に矢は燃えるような赤い光を放っていた。もしこれが術を用いた矢でなかったならば、高熱のあまり持つことさえできないだろう。
ジャグルは高熱の矢をムシャーナに放った。何の偶然か、矢はムシャーナの急所――おでこの煙を出す器官を貫いた。矢は大きく爆ぜた。人食いは叫び、ごろごろと地上と空中を彷徨いもがいた。だが炎は、人食いが身体を動かす度に執拗に追いかけ、焼き続けた。やがて表面は炭と化し、身体を中まで燃やし続ける。やがて声が消え、そのうち動きも止まった。今度こそ、ムシャーナの息の根を止めることに成功したのだ。
ジャグルは手に嫌な汗をかいていることに気付いた。明らかに、火矢の熱に当てられただけのものではない。ジャグルはもがく姿の中に、自身の心を揺さぶるものを見てしまった。涙だった。炎の中で人食いの目から雫が溢れるのを、確かに見たのだ。感情を持つ生き物が自分の死に直面したときに発露する、悲しみと、憎悪と、虚無。なぜ? という、自分に降りかかった理不尽へのやるせなさ。もしかすると、人間だって同じ表情をするのかもしれない。殺される寸前の人間を見たことはなかったが、きっと同じ思いが、その瞳から伝わってくるに違いない。
不意に、頭に何かが触れた。レガの手だった。暖かいその手が、くしゃくしゃの髪を優しく撫でた。
「よくやった、ジャグル。お前は、よくやったよ」
レガは、自分の上着をジャグルの頭に被せた。ムシャーナの亡骸を私に見せないように隠したのだ。ジャグルも見たいとは思わなかった。頭の中に浮かぶのは、あの大きく見開かれた目。最期の最期、自分を見つめるその視線を、ジャグルはいつまでも忘れることが出来なかった。
3
次の朝、ジャグルは少年たちの寝床で誰よりも早く起床し、レガのもとへ向かった。しかし、大人たちの誰よりも遅かった。筒のように丸めた紙を手に持つレガと、一緒に旅立つ二人の大人が既に馬屋で待機していたのを発見し、慌てて走った。
「すみません、遅くなって」
おうおう、遅いぞー、と笑ったのは、髪を伸ばした長身の男だった。もう一人、強面の男は腕を組んでしかめっ面をしている。悪意あってのことではないのだろうが、ジャグルは恐縮しきりであった。
「よし、これでメンバーが揃った訳だけど、新人もいることだし、自己紹介といこうじゃないか。改めて、俺はレガ。今回の遠征のリーダーをやらせてもらう。よろしく」
レガは手を差し出し、握手を求めた。ジャグルはそれに応じる。しっとりとした、落ち着きのある手だった。その後に、残りの二人が続いた。まず、長身の方が歩み出た。
「オイラはラッシュ。ラッシュ・タルトだ。ま、名字なんか言わなくても分かるけどね。みんなタルトだから。君もね。あはは」
ラッシュはへらへらと笑いながら、握手した。握手と言うより、振り回された感じがした。そして、強面が歩み寄る。
「ローク・タルトだ」
ロークの名乗りはその顔面に相応しい厳格さを漂わせていた。タルト姓を名乗ったのは、ラッシュとは違い明らかに意味があるように思われた。自分が一族の一員であることの自覚だろうか、それはジャグルには分からない。握手した手は分厚く、硬かった。多くの苦労を乗り越えてきたことを、物語っていた。
「ジャグル・タルトです。宜しくお願いします」
二人につられて、ジャグルもフルネームを名乗った。
「じゃ、早速予定を確認しよう」
明朗な声で、レガは告げた。
そこでようやく、持っていた紙の正体が分かった。伸ばして地面に広げると、山や森、家の絵と、それに伴う文字が描かれていた。地図だ。
レガの話によると、今回向かうのはクラウディア領の東北部にある村々だった。タルト一族が住まうハイラ山脈はそれより更に北に位置するので、ほぼ南下する形になる。周辺の村々を三、四件ほど回り、まじない方面の相談を解決していく。最初の村に着くまで丸一日。村一つ辺り二、三日滞在し、また移動する。多少の延期は最初から考慮の上だ。七日間、と言うのは、どうも比較的短い遠征を指す言葉であるらしく、おおよそ言葉通りの意味ではないようだ。八日か、十日か、それは状況とレガの采配によりけりである。
「では、行きましょう。長旅ですが、宜しくお願いします」
レガの一言が、全員の気を引き締めた。
四人は馬を走らせる。馬術の心得がないジャグルはレガの前に乗った。馬術が子供の教育カリキュラムに含まれていない訳ではないのだが、ジャグルは術を磨くことに熱心だった分、おろそかにしていたことは否めなかった。だからジャグルの体は終始カチコチに強ばっていた。それ以外にもいくらか原因はあるのだが、ジャグル自身、恐縮以外に理由を求めなかった。
村を出た後、ジャグルは一度だけ振り返った。見慣れた建物の群れが木々の間に隠れて、もうほとんど見えない。今までの自分の暮らしを、全て捨ててくるような気分だった。しっかりしなくては。どれだけ辛いことがあっても、村の少年用の宿舎で泣き寝入りすることは出来ないのだ。
やがて森が終わり、視界が広がった。まず目に飛び込んだのは、広大な麦畑だった。前方全てが平らで、ひたすらに開けた景色だった。初めて見る光景に、思わず声をもらす。外の世界は、これほどまでに広いのか。
空に少し橙色が混じり始めた頃、村が見えた。石造りの壁と木の屋根が集まっている。
「ジャグル」
不意に、ロークが呼んだ。手招きするので、レガは馬を近づける。
「いいか。町中に入ったら、お前の役割は一つだ」
「なに?」
「何もするな。勿論、返事もだ。村人に声をかけられても、反応するな。ただレガのやることをじっと見ていろ」
釘を刺すように彼は告げた。想像だにしなかった言葉に、ジャグルは面食らった。
「おいおい」
「何でさ」
レガが咎めるのとほぼ同時に、ジャグルが噛みついた。
「何でもだ」
まるで痛くもないと言わんばかりに、ロークはぴしゃりとはねのけた。
「ちぇ」
感情を滅多に露わにしないジャグルも、他の同世代とは一つ上の待遇を受けた直後だったせいもあり、内心むっとした。自分は他の子供らと違って、もっとレガの役に立てる。立たなければいけないのだと思った。
最初の村に到着するなり、小さな子どもがどこからともなく現れた。一人、二人、三人。いつの間にかわらわらと現れ、終いには大人も近寄ってきた。不思議そうな顔で見上げる小さな瞳、歓迎の眼差しを投げかける目、実に様々な視線があったが、総じて負の感情はなかった。ジャグルにしてみれば、初めて出会うまじない師以外の人間だった。歓迎されたことが嬉しくて、つい声をかけてみたくなったが、ロークの言葉を思い出しぐっとこらえた。
この村には三人ともよく来るらしく、案内されるまでもなく村長の家まで最短距離でたどり着いた。中から、髪も髭も白く染まった老爺が出て来た。
「これはこれは、タルト様。お久しぶりです。よくぞいらしてくれました。ささ、長旅でお疲れでしょう。お入り下さい。食事を用意させましょう」
「お心遣い、感謝します。短い間ですが、宜しくお願いします」
食事の間だけは人払いをしていたが、終わるやいなや村人がなだれ込んできた。皆、まじない師が珍しいのだ。彼らにしてみれば、我々の来訪は年に数度しかないイベントなのだろう。
「じゃ、元気いっぱいの子どもたちのために、いいものを見せてあげよう」
レガは立ち上がって、一枚の紙を開いた。手のひら程もない、小さな紙だ。
「これ、何に見える?」
レガが聞くと、子ども達は仕切りに手を上げて、自分の意見を言いたがっている。レガはぐるりと見回し、やがて一人の少年を当てた。
「じゃあ、君」
彼は元気よく、
「紙!」
と言い切った。
周りからは大ブーイングが巻き起こった。レガはそれを制す。
「まぁ、確かに紙だね。でも、ただの紙じゃあない」
一言一言を切っては、子ども達の顔を見渡すレガ。その語りに、いつしかその場の全員が引き込まれていく。ジャグルも、子どもと同じように、レガの手に見入っていた。
レガは手のひらに紙を貼り付けるように、指で押さえた。それを一度周囲に見せつけると、手のひらを自分の方に向けた。そして、押さえた指を離しながら、ふうっ、と大きく息を吹きかけた。バタバタと音を立てる紙が、風圧で手に引っ付いた。
少しの沈黙が訪れる。この後に何が起こるんだろう、その期待は最高潮に達した。
その瞬間だった。紙が、火花を吹いて弾けた。バチバチと、橙色の閃光が掌から飛び散っていく。爽やかな音が、鮮やかな光が、隙間なく次から次へとやってくる。
「おおおおお!!」
周囲が湧いた。火花が消えると、レガは両腕を開いて、怪しげな笑みを作った。
「ありがとう!」
一斉に、拍手が沸き起こった。
子供たちの興奮が、レガに質問や願いとなって浴びせられる。
「今のもまじないなの?」
−−そうだよ。まじない師は、こんなことだって出来るんだ」
「何で火花が出るの?」
−ー火花よ出てこい! っていうまじないを紙にかけたのさ。
「ぼくにもできる?」
ーーもちろん。紙にかかったまじないだから、息をふっと吹きかけさえすれば君にもできるよ。いくつか持ってきたから、お土産にあげよう。
やったあ、とまた子供たちの喜びが聞こえる。ジャグルはレガに群がる子供たちから離れ、ロークとラッシュのそばに寄った。二人はいつの間にか、部屋の隅に逃げていたようだ。
「あいつもよくやるよなぁ。なにが楽しいのか、俺には分かんね」
ラッシュがつまらなさそうに言った。
ロークは腕を組んで、レガと子どもたちを見ていた。レガの行いは軽薄である、と言わんばかりに、その顔は険しい。ロークはまだしも、ラッシュまで乗り気ではないことが少し意外だった。
それでも、ジャグルは思った。楽しそうだな、と。子どもたちだけではない、それを見ている大人も、そしてレガ自身も。いつか自分も、こんな大人になれるだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、最初の1日が更けていった。
次の日。初めてレガの仕事を見たジャグルは、すぐに自分の仕事に対する考えが甘いことに気付いた。ジャグルは大いに落胆した。
まず、依頼の多くは失せ物や人物の特定、将来の道筋、言葉の裏に隠された心理を読み解くといったものだったことだ。自分の出番などこれっぽっちもなさそうだったのである。火矢を放つ技術など、いつ使えばいいというのだろうか。術とは武器を用いて何かを駆逐するものだと思っていたジャグルにとって、これには面食らった。少年期に学ぶ術が弓矢や剣などを用いるのは、どんな場面でもまず己の身を守れるようにすることが大事であると説く一族の方針からであるが、あまり実際に即しているとも言えないことを悟る。なんとまあ非効率的なしきたりではないかと、ジャグルは心の中で吐き捨てた。
更に何日か過ごしてみて分かったことは、どれだけ術を知っていても、実際に人の悩みに立ち会ってみれば、どれを使えば解決するのか見当もつかないことが非常に多いと言うことだ。自分なりに、レガがどんな方法を用いるのか想像しながら聞いてみたが、まるで当たらない。なぜレガがそれを提案したか分からなくとも、終わってみればかなり的確に問題の要点を見抜き、解決に導いていたように見えた。ジャグルもまた、そこで新しいまじないを知り、術の使い方を記憶に留めていった。
ジャグルの役割は、術とは全く関係のないような雑用ばかりだった。水を汲んできたり、他の一行の荷物を代わりに持ったり。そんなことばかりを繰り返すばかりの生活だった。最初は不満もあったが、そんな気持ちは次第に薄れていった。と言うより、思い直した。自分は大人として独り立ちするにはあまりにも力が足りない。むしろどんな力を身につけなければいけないのかでさえ、はっきりとした答えを見出せずにいるのだ。それでも、分かることが一つだけあった。一つ依頼が解決した時の依頼人の表情を見れば、こちらもほっとした気持ちになり、その後胸の底が疼くのだ。いつか、こんな風にできればいい。レガのように、楽しく、堂々と。だからこそ、ロークの言葉通り、自分の今の仕事は大人たちの仕事をしっかりと見ることなのだと思った。
いくつかの人里を転々とし、六日目の昼に辿り着いた街は今までとは打って変わって都会だった。馬を下りて、宿を取る手はずを整えた。街の規模が大きいと、さすがに人の家に止めてもらうのも難しいのである。荷物を預け一通りの支度が整うと、レガは自由時間にしようと告げた。大きな町だし、ちょっとくらい満喫しても罰は当たらないだろう、とのことだった。お堅いロークが反対するかと思いきや、まんざらでもないようだ。
四人同時に宿を出て、そこから先は別行動になった。ジャグルはレガについて行こうとしたが、ラッシュが強引に引っ張っていった。
さすがに街は、規模が違った。家並みはとても綺麗だし、行き交う人の数も倍ほどあった。あれよこれよと目に留まった興味引かれるものの姿を追っていると、目が回りそうだった。
「おい、ジャグル。あの子どうよ」
「どう、って言われても……」
たった今目の前を横切った女の子を指さして、ラッシュは声をひそめて言った。言葉の意味がまるで分からない。ジャグルは困惑していた。
「そんなことないだろー。もうそろそろ、そう言うこと考え出すお年頃じゃないのか」
肘で体を突っつかれる。少しよろけた。
「どういうことを考え出すって?」
「なんだよ。面白くねぇな。まだまだお子様だってことか? まぁ、初めて森を出るんじゃ、しょうがないか。今まで女になんて、会ったことないもんなぁ」
そうなのである。タルト一族で「まじない師」としてやっていけるのは、男子だけだ。ジャグルの周囲には、女子は一人もいなかった。小さい頃から、何度も聞かされた言い伝えがある。女は術力を多く持つが、それを放出する術を知らない。だから、その髪や爪を灰にして男に使ってもらうことで、初めて己の術力を解放することが出来るのだ、と。そのため、タルト一族の森には、男が暮らす集落と女が暮らす集落は、全く別の場所にある。そして、特別な事情が無い限り、その行き来は許されないのだ。
ラッシュがひどく残念そうにつぶやいたが、しかしまたくるりと表情を変えた。行き交う女性の後ろ姿に夢中である。
「いやー、しかし街中の娘さんってのは、いいボディしてるねぇ」
「何それ」
「もっと大人になったら分かるだろ。早く大人になれよ」
楽しそうに語るラッシュのにやついた顔が、妙に癇に障った。
「あーあ。てっきりもっと色々なこと、出来ると思ってたのになぁ」
「お楽しみの話?」
「違うよ、まじない家業の話」
ジャグルは頭の後ろで腕を組み、不機嫌そうに言った。
「なんで大人たちって、子供に攻撃術ばっかり教えてんのかね。おれ、全然役に立たないじゃん。何に使うってんだよ」
「なんだ、そんなことか。気にすることないでしょー。これから覚えていけばいいんだし」
ジャグルのもやもやとした怒りにまるで気付いていないかのような口ぶりで、ラッシュは話す。
「まぁ、使うときだってあるんだぜ? 人食いが出たときとか。人食い退治は金になるんだよ。世間には知られてない、理屈の分からん問題の正体を、俺らだけが知ってるんだからさぁ。何も交渉しなくても、大体すげぇ額くれんのよ」
ラッシュはさも当然のように、あっけらかんと答える。何度もそういう場面に出くわしているのだろう。
「理屈は分からなくもないけどさ。稼がなきゃ生きていけないわけだし。分かってる、けどさ」
反論を試みるも、何も言えない。我々は、人にはない特殊な術力を用いて人々を助ける。助けて、報酬をもらう。そうすることでしか生きていけないのだ。分かってる。分かってはいるけど、ラッシュの物言いには何かが腑に落ちない部分があった。そんな思いだけがぐるぐると廻り、何も言えず、やがてジャグルは口を堅く結んだ。
ふふん、とラッシュは笑って、指先でジャグルを突っついた。おちゃらけたその感触がやけに癇に障った。
「お子様だなぁ、ジャグルは」
「レガんとこ行く」
ジャグルは言い終わらないうちに、早足で歩き去ってしまった。
とは言え、レガが今どこにいるのか、見当もつかない。行き交う人の数は、森を出たばかりのジャグルからすれば目眩がしそうだった。どこか休める場所はないかと探す。宿に戻ろうかとも思ったが、そこに行き着くまでが大変だ。できれば人通りが少なく、草木に囲まれたところへ行きたい。何気なくそんな風に思い、勘を頼りに歩いていると、建物の並びが終わって街道が横たわっていた。道の雰囲気からして、来た道とはまた別の場所らしい。人々の雑踏もほとんど聞こえない、爽やかな空気だけが通り抜けていた。街道の反対側には森が広がっている。その手前に黒い柵が張ってあるのは、恐らくその先が貴族の家の敷地だからであろう。大きな屋敷の屋根が、木々の上に少しだけ顔を覗かせている。
左側に、人影が見えた。門の前に立つ姿が、見覚えがあるもののような気がして近づいてみる。
「おーい、レガ!」
その正体が分かったとき、ジャグルは名前を呼んで大げさに手を振った。レガが振り返ると、同じように手を振って答えてくれた。
「街中、堪能してるかい」
「うん。まぁ、でも、ちょっと人が多すぎて疲れちゃった」
ふふ、と柔らかな笑みを投げかけるレガ。
「普段の俺たちからしたら、そうだよなぁ。ずっと森で暮らしてきたんだ。俺たちの肌に合うのは、きっとこういう森の中なんだと思うよ」
レガにとってのタルト一族とは、一体何なのだろう。そんなことがふと気になった。
「でもさ、ここに来ることがなかったら、そんな風に思うこともなかったし」
「それもそうだな。ところでジャグル、遠征はどうだ」
突然の問いに、ジャグルは言葉に詰まる。少し考えて、自分の気持ちを素直に語った。
「大変だね。体も、心もとにかく体力が足りない。まず、馬に揺られるだけでも相当パワーが要るだろ。その後すぐに村人相手にまじない師の仕事だろ。レガもラッシュもロークも、凄い体力。付いてくだけで精一杯だった」
ジャグルは肩をすくめてみせる。
「こういうのって、続けていれば慣れるものかな。もしそうなら、こんな大変さもいつかは報われるんじゃないかって思う。だからまだまだ、やっていきたい」
ジャグルの言葉を掬い取るように、レガは耳を傾けていた。何を言っても、レガはジャグルを否定するような言葉を出さなかった。だから思わず、ジャグルもつい、沢山のことを喋ってしまった。
「それはよかった。ジャグルを遠征に連れてきたのは正解だったかもしれないな。お前は出来た奴だよ」
ぽんぽん、と頭を優しく叩かれる。思わず嬉しくなって、頬が染まる。
そういえば、とふと思う。
「レガはここで何してたの?」
「あぁ。待ち合わせをしているんだ。丁度誘いがあってね。紙の鳥便が昨日届いたんだ。この屋敷の前で待つって。折角だから、ジャグルも来るか」
えっ、と思わず聞き返した。
「いいのか」
「いいと思うぜ? あいつはそんなに悪い奴じゃないからな」
悪戯っぽく、レガは笑った。
「しかし、遅いな。約束の時間は、とっくに過ぎている筈なんだが」
辺りを見渡していたその時、後ろで錠が外される音がした。門の向こうで、高潔な佇まいをした老人が話しかけてきた。
「遅くなってしまい申し訳ございません、レガ・タルト様。とそれから、お連れ様。中であなたのご友人がお待ちです。さぁ、どうぞ」
ジャグルはレガの顔を見上げた。と同時に、レガも困った顔でジャグルを見た。彼にも事情が良く飲み込めていないらしい。
「えーと、失礼ですが。私が待ち合わせしていたのはまじない師のディドル・タルトなのですが、何かの間違いなのでは」
そうレガが訊ねると、老紳士は不敵な笑みを浮かべる。
「ディドル・タルト様は、この中にいらっしゃいますよ。さあ、遠慮なくお入り下さい」
とにかく、ついて行くしかない。ジャグルとレガは、同じ結論に至った。二人頷き合い、門をくぐった。
レガの友人、ディドル・タルトとは何者なのか。ジャグルは逸る気持ちを抑えながら、一歩一歩を踏みしめた。
門の内側に広がる森は、ジャグルの知るそれとは趣が異なっていた。生えるがままに任せた荒々しい自然のそれではなく、歩きやすいように、あるいは日の光が地面にまで行き届くように剪定されていた。一族の集落でも枝を時折切り落とすことはあるが、人間の歩ける道を最低限確保するに留まっていた。人の手が細部まで入った森を、ジャグルは初めて見た。
更に進むと、視界が開けた。それは光り輝く緑の丘だった。なだらかな上り坂の上に、赤い屋根の大きな屋敷が立っている。その周りは、四角く刈られた木で囲まれていて、この広大な庭と建物のある空間を隔てる役割を果たしていた。きれいだ、と思った。それも、とても格調高い美しさだ。
そんな威風堂々とした空間にこれから立ち入るのだと思うと、急に気が小さくなってしまった。不安に駆られ、前を歩くレガの方を控えめに叩く。内緒話をするように手を口に添えると、レガは意図を察して耳を寄せた。
「なぁ、おれ、大丈夫かな。こんな格好であんな所に入って。こういう所の礼式とか全然分かんないよ」
「分かった。それなら、俺の真似しとけ。もしも駄目なら、俺が何とかするよ」
レガの声も、少し強ばっていた。レガも本当のところは礼式をよく知らない。それでもとにかく、ジャグルにだけは非難が行かないようにとのレガの配慮だった。おかげでジャグルは大船に乗ったかのような気持ちになれた。まじない師として恥のないように振る舞えれば、それでいい。やがて、屋敷の正面にやってくる。屋敷の大きな扉が開かれ、三人はその中に歩を進めた。
中にいたのは、黒い服を身に纏った、若い男だった。右手に、濃い茶色の杖を握っている。
「久し振りだな!」
レガとその男は熱い抱擁を交わした。お互いの抱きしめる強さが、再会の喜びの大きさを物語っていた。
「ドド、元気にしてたか?」
「あぁ、レガ」
「一体どうしてこんな凄い屋敷に?」
「あぁ。ちょっと前にこの屋敷の娘さんとご婦人を助けたことがあってね。以来、深いお付き合いをさせて貰ってるんだ」
「へぇー凄いな。お抱えまじない師になったってことかい?」
「そうとも言えない。有事に駆け付けるだけだよ。お嬢様に便箋を渡してるから、何かあれば投げてくれる。この家には殆ど問題はないが、付き合いのある他家には私達が必要になる家もあるみたいでね。まあ、自分の店もあるし、頻繁にくれる訳じゃないから、お抱えにはなれないよ。ところで、そっちの子は例の……?」
ドドはジャグルの方を見やった。
「あぁ。ジャグル・タルト。今回初遠征、期待の新人だ」
レガのあまりの誉めように思わず顔が赤くなった。そんなことない、とレガにかぶりを振った。
「ジャグルです。よ、よろしく」
声が上擦っていたかもしれない。
「君の噂はレガから聞いているよ。私はディドル・タルト。この街の外れでまじない師をやっている者だ。気軽にドドって呼んでくれ」
ふっと笑みを投げかけた。
「こいつがドドって呼ばれるのは、本当にちっちゃい頃に、自分の名前が言えなくてどうしてもドドルーになっちゃうからなんだ」
「お前、会う度にそれ言うよな」
おどけて楽しそうなレガと、呆れ顔のドド。こんなに無邪気なレガを見るのは初めてだ。
「そう言えば、キュウはどうした。いつもお前にべったりくっついているのに」
「あぁ。今はちょっとな」
そう言うと、一瞬女中の方に目をやった。女中はそれに気付かず、ただ預かった杖を大事そうに持っている。レガは何かを察したようで、それ以上この話題について話すことはなかった。
「そろそろ夫人たちが待っているはずだ。中に入れてもらおう」
ドドが言うと、執事が現れさっと奥の扉を開けた。中は食堂だった。暫く中で待機していると、二人のドレスを纏った女性が現れた。
「夫人、今日は無理なお願いを聞いていただき、感謝します。こちらが、申し上げていた友人、レガ・タルトと、ジャグル・タルトです 」
「初めまして。私、スージィ・クラウディアと申します。こちらは娘のロコです」
「初めまして」
ロコはスカートの両端を摘まんで、軽くお辞儀をする。参ったな、と思った。まるで別世界の住人ではないか。自分なんて場違いもいいところだ。そんな思いもあって、ジャグルの挨拶はひどくぎこちないものになってしまった。
「ジ、ジャグルで、す。よ、宜しく」
顔を上げた瞬間、ぎょっとした。ロコが、自分を睨みつけるような目をしていたからだ。きっと彼女はこの無礼者に呆れているに違いない。
だめだ。
レガに励ましてもらったが、やはり自分にはこんな格式張った場所は似合わない。逃げてしまえればどれだけ楽になれるだろう、と思った。そういえばレガの挨拶はどうなったのか。聞こえなかったが、他の四人は既に談笑し始めているので、いつの間にか終わってしまったらしい。緊張し過ぎて耳に入らなかったのだと気付くまでに、少しの時間を要した。
「そう、だからドドなのね」
夫人は笑った。レガ、名前のことをまた言ってる。さすがのドドも、貴族の前では大人びた対応で、微笑を浮かべるだけだった。
「森の中って、どんなところなのですか?」
ロコ嬢がレガに訊ねた。既にタルト一族のことについて、いくらか知っているらしい。
「以前からハイラ山脈の森に暮らしてらっしゃると言うことは聞いていたのですが、ドドさんは長らく森に帰っていないようなので」
「実は今日レガを呼んだのは、お嬢様に今の森のことを聞かせて欲しいからなんだ」
少し照れくさそうに、ドドは言う。
「良いですよ。何からお話しましょうか」
「それでは……家について、はどうでしょう」
期待に満ちた目で、夫人もロコもレガの顔を見つめる。レガは目を瞑り、上を向く。
「そうですね……タルト一族は、自分たちの住まいにもまじないをかけているんです。小さい建物の中に、多くの人が暮らす工夫が沢山施されています」
レガは喋り続けた。しかし、語るモノの焦点は、常にまじないのアイデアそのものに当てられた。家が広いと匂わす言葉を一言も発しなかったのは、貴族相手を考慮してのことだと、後で気がついた。彼は、上手く相手を立てていた。
その後も、和やかな雰囲気で会話は続いた。穏やかでないのはただひとつ、ジャグルの内心だけだった。気を使われたのか、時々質問を投げかけられるが、一言二言で終わってしまう。うまく話せない自分にもどかしさを感じる。
思えば小さい頃から、抑制、抑制の日々だった。一族にも、沢山の掟がある。よその人間が聞けば、ぞっとするような悪習もある。それに異を唱えようものなら、恐らく全てを敵に回すだろう。レガが語るタルト一族の生活は、まるで夢の国のように聞こえる。実際は、そうではないのだ。そう言ってしまいたかった。だが、それを言えば、ドドと屋敷の人々との間に築かれた関係の全てが台無しになる。そんなことをしたら、ますます自分が嫌になるだろう。これでいいのだ。これで。正しいことだけが、全てではない。一族の中に収まり切らない自分など、切り落としてしまえばいいのだ。
「あら、そろそろ日が傾きかけていますわね」
夫人が、ふとそんなことを言った。
「それでは、そろそろお暇させて頂きます。今日はこれほど素晴らしいお茶会にお招きいただき、ありがとうございます」
「私の我が儘を聞き入れてくれて、ありがとうございます」
と、ドド。
「いえいえ。また、宜しくお願いしますわね、タルト様」
「さあ、こちらへ。ドド様はこれを」
行きと同じ執事が切り出し、再び案内する。執事の手に、柄が獣の頭を模した杖があった。両手で、丁重に差し出す。
「あぁ、ありがとうございます」
ドドは同じように受け取った。そして、執事が先導する。レガとドドが振り返り、ジャグルもそれに倣う。
一礼して顔を上げると、冷ややかな視線がそこにはあった。ロコの瞳が、ジャグルの顔をしっかりと捉えている。出会い頭に突き付けられた顔だ。彼女は自分をどうするつもりだろう。最後の最後に、何かしらの罵声を浴びせるだろうか。それとも、後でタルト一族の一人が無礼を働いたとして、ドドの出入りを禁止するだろうか。何も告げない彼女が少し怖くなって、あらゆる方向に想像が働き、手が震えた。彼女はじっとジャグルを冷たく睨み続ける。落ち着きを取り戻そうにも適わず、もはやジャグルに出来ることは、そそくさとこの場所から立ち去ることだけだった。ただただ、申し訳がなかった。
屋敷を出たところで、執事にお礼を言う。それに答えた執事が戻っていくのを見送って、レガは切り出した。
「よし。ジャグル、お前は先に帰ってろ。場所は分かるな」
「ごめん、分からないよ」
ジャグルは首を振る。
「そうか。でも、簡単だぜ。そこの門を曲がって街中に入って、左に曲がって道なりに行けば着く」
「分かった。けど、レガは?」
「この昔馴染みともう少し喋りたいんだ。悪いな」
「ううん、いいよ。じゃ、行ってるね」
きっと、積もる話もあるのだろう。ジャグルはそう納得した。
「あと、くれぐれもここでドドと会ったことは内緒な!」
「分かった」
何故だろうか、ふと疑問に思ったが、聞かない方がいい気がした。あの男は、多分、わけありなのだ。ハイラの森で暮らさないタルトなんて、それだけでも相当変わってる。不思議で、少し不気味なはぐれまじない師。そんなレガの秘密の友達との時間を、無碍にすることなんてできない。
ジャグルは手を振って、宿場に戻って行った。
手を振って見送る、レガとドド。完全に見えなくなったところで、レガの顔は一気に真剣なものへと変わった。レガにとって、本題はここからだった。この話をするために、今日レガはドドと会ったのだ。決してまだジャグルには聞かせるべきでない、大事な話をするために。
切り出しは迅速だった。
「……ところで、その杖」
「うん?」
「キュウなんだろう。柄の頭の形、どう見たってそうじゃないか」
きっとドドを睨むレガ。声が荒げそうになるのを、必死で抑える。
「……さすがレガ。鋭いな」
ドドは、杖の柄の部分ーーキュウの頭を軽く撫でた。その顔は、どこか悲しげだった。
「大分弱体化してるな。何があったんだ」
レガがまじまじとキュウの顔を見つめる。ドドは屋敷の方を見やった。
「丁度、この屋敷でのことだった。屋敷の中に人食いが住み着いていたんだ。完全に葬ったつもりだったが、最後の最後で反撃してきたんだ。思った以上の毒を、口に直接ぶち込まれた。術力の強い木を接いで命を繋いではいるが、まだ復活にはほど遠い」
杖を握る手に、僅かながら力が込められた。
「それで、どうするんだ。もしキュウがこんなに弱ってるなんて族長にバレたら、一体どうなることか」
心配そうな声を出すレガに、ドドはふっと笑った。
「お前が一番そういうところから遠いくせに。らしくないことを言わないでくれよ。それからだ。レガはだからこうやって、いつも来てくれてるんだろう。お前なら絶対言わないだろ? 一族の連中には上手いこと言ってくれるって、信じてるよ」
レガはその手を取る。
「じゃあさ、信じるついでに、一つ頼まれてくれないか」
真っ直ぐなレガの瞳は、しっかりとドドを捉える。
「俺にもしもの事があったら……あの子を頼むよ」
「あぁ」
ドドは彼の瞳をまっすぐに見つめ、頷いた。
1
レガ・タルトは、弓矢を放つ構えをした。とは言え、手に握られる弓はない。弓を持つ手を模した体勢をとっているだけだった。身体を垂直に立て、左手を伸ばし右手を引く。両の人差し指をぴんと伸ばし、動かぬ的に狙いを定める。
これがただの「ふり」でないことは、見守る少年の誰もが知っていた。と言うより、誰の目にも明らかだった。
レガの引いた右腕には、一本の矢が浮いていた。術によって発生した見えない張力によって、宙に浮いたまま留まっている。射撃は、タルト一族に伝わる基本的な攻撃術だ。さらに、一人前の術師になると別の術と組み合わせることもある。
子どもたちは矢の羽根に注目した。周囲の熱が彼に吸い込まれていくかのように、一陣の風が吹く。その瞬間、羽根に橙色の火が灯った。驚きと、片時も目を離すまいとする気持ちが同時に現れ、おかしな動作をする子どもたち。そして、観客を息づかせる暇もなくレガは矢を放つ。術で浮かせた矢とは言え、その軌道、速度ともに本物の弓矢と遜色なかった。矢が正確に的の中央を貫いたその瞬間、矢の炎は消え、代わりに的が勢いよく燃え始めた。側に控えていた者が、すぐに消火する。レガが一つ息をつくと、周囲から歓声が上がった。
「十五歳までに矢を放つ。十六歳までに火矢を放つ。これが出来れば一人前だ。誰か、やってみるか」
レガの火矢を見ていた少年達の中でも、最年長は十四歳だった。矢を放てるほどの術力を得るにはまだ少し早い。そうと知りながらもレガが火矢を見せたのは、タルトの子どもたちは十六歳で火矢を大人たちの前で披露するという、通過儀礼を受けるからだった。
「おれ、やります」
矢に灯った炎のような、くるくると丸まった鮮やかな橙色の髪をした少年が手を上げた。
「ジャグルか。君は勇気があるな。よし、やってみろ」
周囲が興奮に沸き立つ。ジャグル・タルト。まだ十四歳だが、一部の仲間は彼の才能を知っていた。そういう仲間は、こいつならやってくれるのではないかという期待のまなざしを向けた。ジャグルは頷き、少し下に目線を落としながらレガの方へゆっくりと歩み寄る。自ら志願はしたが、緊張を隠しきれない子どもらしさがそこにはあった。レガは矢を一本、ジャグルに手渡した。
「大丈夫。自分のペースで、焦らずやるんだ」
レガはジャグルの背中を軽く叩いた。やがてジャグルも、意を決したように頷き、顔を上げた。
ジャグルは的の方に顔を向け、足を前後に開いた。沸き立つ声が止み、周囲は緊張感に包まれる。両手に神経を集中させ、矢に術力を込める。矢を持つ右手を開き、術力によって右手にくっついたまま落ちないことを確かめる。親指と人差し指をぴんと伸ばすと、人差し指に矢はくっついてきた。左手も同じ形を作り、矢を構える形を取る。
ジャグルは的を睨んだ。決して近くはない。だが、狙えない距離でもなかった。ジャグルにとって、矢を操るのはこれが初めてではない。既に何度も練習を重ねている。
ジャグルは矢に術力を込める。思わず肩に力が入った。本当は、矢を放つのに力を込めてはいけない。力が素直に伝わらず、ブレる原因にもなる。基本的なことだから、レガの注意が入りそうな気がした。
――だが、構うものか。
矢の先端に全ての力が集まっていくイメージを浮かべる。そして、ただひたすらに先端が赤く燃えるさまを見ようとする。本当なら、今誰もきっと火矢を放つことまでは望んでいないだろう。だがジャグルは、今こそがチャンスだと思っていた。何としても手に入れたいものが、少年にはあった。この集団の中で、いち早く実力を認められ、一人前としてやっていけるようになること。それが願いだった。
ぼっ、という音とともに、光がはじけた。矢の先端に、熱い炎が灯っている。周囲から、期待と困惑に満ちたどよめきが起こる。レガは何も言わない。見守る連中は次第にレガの沈黙の意味を悟り、声をあげるのを止めた。しんと静まったその空気に、ジャグルの心は固まる。次の瞬間、右手に集めていた非物質の張力を解放する。弦が支えを失い、その力は恐ろしいほど綺麗に伝わっていく。炎を帯びた矢がただ一点を目がけて、宙を駆ける。
すとん、と小気味の良い音が響いた。その直後、更に大きい音を立てて、矢が的を爆破した。黒い煙がもくもくと登る。術力を込め過ぎて、燃えるどころでは済まなかったらしい。流石にジャグル本人も予期しておらず、目を丸くした。周囲の少年たちも、同じ顔をしてその場に固まっていた。
沈黙を破ったのは、一人の手を打つ音だった。レガだった。何も言わず、ただひたすらに拍手を送っている。その笑顔の意味が称賛であると気付くまでに、時間はかからなかった。この時、ジャグルの評価は完全に決まった。歓声が上がる。誰もがジャグルを褒め、激励の言葉を投げかけ、肩を叩いた。きょとんとしていたジャグルも、皆の嬉しそうな、それでいて少し悔しそうな顔を見るうちに少しずつ笑みがこぼれ、最後は大笑いした。
――あぁ、自分は認められたのだ。これでもう誰も自分のことを疑う者はいない。一流のまじない師としての将来は、約束されたも同然だった。あとは、上り詰めるだけ。そう思うと、ジャグルは生まれて初めて、心から笑えた気がしたのだった。
2
火矢の一件はすぐさま大人たちの耳に入り、ジャグルは晴れて一足早い大人の仲間入りを果たすこととなった。今までの勉強に加え、レガの後輩として、大人になってからしか学べない術の数々や請け負った仕事の一部を、そばに付いて学ぶことが決まった。
これは、異例中の異例とも言えることだった。タルト一族は、子どもと大人とで完全に生活圏を分けていた。子ども達は、教育係である一部の大人以外の成人と関わる機会を持たない。一族が共同生活を営む村は、人食いの跋扈する深い森の中にある。中途半端に術を身に付けた者が勇んで森に入れば、逆に人食いに食われてしまうからだ。人食いは術力を持つ者を食らうと、その力を増大させてしまうことがある。共同生活圏内には守りの術がかけられており、人食いが侵入することはない。だが、力を増幅させた人食いが、人間の術力を上回らないとも限らない。たった一人の勇み足が、一族の生活を滅ぼすことになりかねないのだ。だからこそ、大人達は子どもの好奇心を統制しなければならなかった。
もちろん、ジャグルがそんな事情を知ることはない。ジャグルは目上の人間の言葉を良く聞く質で、集団に溶け込むのが上手だった。優秀で穏やかな、悪く言えば少々精神的に老成している人物であるとも言うが、大人たちの評価はおおよそ上々だった。だからこそ、ひと足早く実際のまじない師としての仕事を見る機会を与えられた。彼なら、恐らく危なっかしいことはしないに違いない。
その日、ジャグルは大人たちの集会に混じり、これから同じ道を歩む新人として挨拶をした。大人たちは噂だけはかねてより聞いていたらしく、彼がそうか、としきりに好奇の目を寄せていた。本人の置かれている状況だけでなく、見た目も少し変わっていた。燃えさかる炎のような、橙色でちぢれた髪の毛は、タルト一族でも珍しい。橙色か縮れ髪、どちらか片方が出ることはよくあるのだが、両方の特徴を持っている者はそういない。
「これからご指導ご鞭撻のほど、宜しくお願いします」
明朗な声で告げ、ジャグルは頭を下げた。
「それではジャグル。明日からこのレガの助手として、精進するといい。分かったね」
「はい」
「それでは、下がりなさい。詳しい話は後で本人と相談する時間を作るから」
ジャグルは、ひと足先に外で待った。話し合いは思った以上に長く続き、昼一番に始めたと思ったのにもう太陽が傾きかけていた。流石に待たされるだけの身はつらい、と思い始め、少しだけ散歩をしようと決めた。
子ども達の暮らす母屋と、大人たちの暮らす母屋は、小さな林で隔てられている。これが、大人たちと子どもたちの生活圏の境目だった。自分は今、林の向こう側に立っている――。数歩歩けば見知った風景が広がるはずなのに、まるで遠い国に来てしまったかのような感覚を覚えた。
ふと、林で誰かが動く影が見えた。
「おーい、誰だい」
ジャグルは呼んでみた。子ども達の生活で言えば、夕方から夕食にかけては自由時間だ。物珍しさに、年下の子が覗きに来たのかもしれない。そう思って、手を振ってみた。だが、林の方に動きは無かった。
「気のせい、かな」
ジャグルは訝しく思いながら、会議をしていた母屋を振り返った。雑然とした声が広がる。どうやら、そろそろ話し合いが終わるようだ。大人たちが集会室から出て行き始める。すれ違いざまに、がんばれよ、とか、期待しているぜ、とか、ジャグルに激励の言葉をかけていく。ほぼ出て行き終わった後、ジャグルは中に招き入れられた。中にいたのはレガと、ルーディという初老の男だった。族長の側近で、初対面ではあったがかなり強い発言力を持っているらしいことは集会の短い時間の間でもすぐに分かった。
「では早速これからの話をしよう。ジャグルよ、お前はレガの仕事の手伝いをするとは言え、まだ正式に大人として認められたわけではない」
「分かっています」
「十六歳になるまで、寝床も食事場所も変えなくていい。仲の良い子もおるだろうからな、こっちに来るときは一緒にくればいい」
レガはそこまで言うと、また険しい顔をしてジャグルを指差した。
「いいか、まだお前は大人として認められたわけではないんだ。将来、一族を背負っていく者として期待をかけておるんだ」
くどくど同じ言葉を繰り返すルーディに、ジャグルは内心呆れた。要は、調子に乗るなということか。何度も言わずとも、そんなことは分かっている。咎める言葉ばかり投げられては、これから頑張ろうとしている若者のやる気を削ぐとは思わないのだろうか。そんなジャグルの思いをよそに、ルーディはレガの方を振り返る。
「レガよ、明日は依頼はあったかな」
「明日から七日ほど、近くの村々を回る予定です」
「おお、丁度いいな」
興奮ぎみに、ルーディは相槌をうつ。
「早速ジャグルも、レガに同行しなさい。レガ、遠征の準備の仕方をこの子に教えてやれ」
「了解しました」
ジャグルは腹の底から、妙な感情が湧き上がってくるのを感じた。いきなり、七日もの長旅か。不安と期待が入り混じったようなそれは、どちらに転ぶとも分からない未来へ馳せる思いだ。
「後のことは、レガに任せよう。くれぐれも精進するんだぞ、ジャグル」
「はい」
ルーディがのんびりと歩いていくのを、二人厳かに見送った。
「俺たちも行こう。持って行くものは沢山ある。さあ、ついておいで」
レガに導かれ、大人たちの暮らす母屋に立ち入った。ジャグルにとって、初めて入る建物だった。
外から見るだけでは、五、六人程度しか寝泊まり出来そうにないほど小さな母屋。さっきちらと見た限りでは、一族の男全てがあの建物に収まり切っている。一体どれほどむさ苦しい空間なのだろうかと不安を覚えていたジャグルだったが、ひと足踏み入れてみればその考えは間違いだったことに気付かされた。一歩踏み入れた瞬間、領主の城にも引けを取らない豪華でゆとりある空間が広がっていた。天井は見上げなければいけないほど高く、正面に伸びる廊下の終わりが見えない。外から見たより、中の方がよっぽど広いのだ。
「どうだ、びっくりするだろう」
レガはにっと笑った。ジャグルはただただ言葉を失い、頷くしか出来なかった。
「空間を圧縮させる術がかけられているんだ。二人か三人で一部屋、共同で使う」
廊下の両側には、木製の扉が並んでいた。ドアには、部屋に住んでいる人間の名前が書かれた真鍮のプレートがかけられている。レガの部屋は左側、入り口から六番目だ。ネームプレートには、レガの名前しか書かれていない。
「だが俺は、一人で使わせて貰ってる」
「何で?」
「期待されてるんだよ」
レガはジャグルの頭をポンと叩いた。
部屋の第一印象は、「計算されつくしている」と言う感じだった。白い壁、白い棚に、ワインレッドの本が一列に並べられている。その他、衣服も壁にしっかりとかけられ、整理整頓が行き届いていた。部屋に置かれているもの全てが、直線的なフォルムを持っている。後世の学者が見れば、幾何学的、と表現するかもしれない。レガは壁の引き出しを開け、この生活感のない部屋からは想像もつかないような、くたびれた革の鞄を引っ張り出した。
「まずは、着替え。今の季節は汗もそんなにかかないだろうから、二組あれば十分だ。紙とペンとインク。そうそう使うことはないが……。それから、これとこれと……」
普段の生活に使うもの、仕事で使うものを分け、鞄の中に詰めて行く。ジャグルの分も、レガは一緒に用意した。
「よし、ここで揃えられるものは全て揃えた。灰は……まだあるな。これはいいだろう」
小瓶に詰められた灰は、人間の女性の髪の毛と爪を燃やして作ったものである。女性は一般的に男性よりも強い術力を体内に秘めていると言われ、髪や爪を灰にすることで万能の術具となる。聞いてはいたが、実際に見るのは初めてだ。初めて聞いたときは、思わずうえと苦い顔をしたが、いざ目の当たりにしてみるとただの灰にしか見えない。ジャグルにとっては少し意外なことだった。具体的な使い方は、これから知ることになるだろう。
必要な道具や、移動時の馬の乗り方など、暫く詳しい話を詰めていき、全てが終わる頃には日が暮れそうになっていた。
「今日はお疲れ様。少し早いけど、もう帰って寝るといい。明日から、長い旅になるから」
「ありがとう」
ジャグルは手を振り、レガもそれに応じた。
持っていくものを選別しなければと、子ども達の寝床に戻ったとき、ジャグルは異変に気付いた。所狭しと並べられたベッド。その一番奥の布団が、ズタズタに引き裂かれている。自分のベッドだ。手に取ってみると、刃物で乱暴に刺したり、引き回したりしたような跡が残っていた。目の前の無残な現実を、にわかには信じられない。
自失茫然となっていたジャグルを現実に引き戻したのは、後ろから聞こえた声だった。
「お前、一人前って認められたくせに、まだ寝床はこっちなんだって?」
「だから何だよ、タム」
タム・タルト。腕っぷしも強く、矢を難なく放てるくらいには術の扱いも上手いが、その性質は蛇のように陰険だった。子どもたちの間では、彼に逆らえる者は誰もいない。指導役の大人にはいい顔をして、喜ばせるコツも心得ているので、彼の悪行を報告したところで信じてもらえない可能性が高い。今だって、どうやってタイミングを計ったのか、寝床に自分と、タムの二人だけしかいない状況を作り上げた。普段なら、こんな風にあからさまに証拠を残すような真似はしない。何かあるな、とジャグルは思った。彼の脅しを受けて屈するつもりはないが、人をすくみ上がらせることに特化したような目つきとは、どうしても視線を合わせたくない。
「俺の前で勝手なことをしてると、どうなるか分からねぇぞ」
ジャグルにしか聞こえないぼそぼそとした声。なるほど。ジャグルは理解した。こいつは、火矢の一件で自分が称賛を浴び一目置かれる存在になったことを、腹に据えかねているのだ。昼間に林に紛れてこっちを見ていた子どもも、恐らく彼だろう。
一つ、ため息をついて、反論する。
「悔しいのか。悔しかったら、レガの前で俺より先にお前が手を挙げればよかったんだ。それだけだろう」
その態度がすかしているように見えたのか、タムは今にも掴みかかりそうなほどジャグルに近づいた。
「おーい、メシだぞー」
その時、誰かが二人を呼びに来たようだ。ほっとした。そういえばそういう時間だったのか。タムは舌打ちをして、入口の方へと向かっていく。全員で同じ行動を取っている間は、全員が同じ行動を取っている間は、あいつも手を出すことはない。
夜、引き裂かれた布団に入って考える。今日は、色々なことが大きく動いた。喜びだけかと言えば、嘘になる。むしろ、戸惑いの方が大きかった気がする。明日は、長旅になると言うこともそうだが、生まれて初めて、この森から出ることになる。外の世界は、どんなところなのだろう。外の世界には、どんな人たちがいるのだろう。彼らは、まじない師のことをどんな目で見るのだろう。色々なことが頭の中を駆け巡り、ついには止まらなくなってしまった。
タムのことは腹が立つが、そのうち布団は縫い合わせればいい。今は明日に最大限備えることが何より大切だ。ジャグルは大きく息を吸い込み、思考を吹き飛ばした。これから、長旅になる。
「チエ……チエなの!?」
「志郎……かえ?」
チエは、あまりにも、チエのままであった。
黄色い雨合羽に黒いおかっぱ髪。そして、あの日手渡した麦藁帽子を、頭の上に載せている。だが、それらより、それ以上に、チエが、チエであった理由があった。
「チエ……」
チエは……あの日から、まったく成長した跡がなかった。
あの、幼い時分に見たままのチエが、志郎の目の前に立っている。思わず、志郎は自分の姿を確認した。手で触れ目で見て、志郎は自分が成長している事を改めて認識した。その上でチエを見ると、あまりに「変わっていない」チエの様子に、少なからず戸惑いを覚えた。
志郎は十年間で背丈も伸び、体つきもがっしりし、声色も幾分低くなった。だが、チエは何も変わっていない。背丈も体つきも声色も、何一つとして変わったところが見受けられない。チエの姿は、志郎が記憶の中に止めていた「チエ」そのものであったが、だからこそ、志郎は眼前のチエが異様に見えてならなかった。
まるで、チエが時の流れから取り残されてしまったような──そのように感じられた。
「志郎……志郎、なんじゃな……」
「チエ……どうして……」
チエに、変わったところがあるとすれば。身に付けている雨合羽が、酷く痛んでみすぼらしくなっていること。被っている麦藁帽子が、薄汚れて方々に穴が開いていること。この二点だった。つまるところチエ本人ではなく、チエが身に付けているものは、正しく時間が経過していると言えた。
言葉を失う志郎に、チエが語りかける。
「志郎……おら、もう一遍……志郎に会えると思っとらんかった」
「本当に、志郎なのかえ……?」
弱々しい声。志郎は消え入りそうなチエの声を懸命に聞き取りながら、何度も首を縦に振って応じた。
「そうだよ、チエ。僕は、僕は志郎だよ」
「背も伸びて、顔つきも変わって、声も低くなったけど……僕は、志郎だ」
志郎の頬に、冷たい雫が一滴、ぽたりと零れ落ちてきた。落ち着き掛けていた空模様が、再び崩れ出していた。
チエを前にした志郎が、深々と頭を下げる。
「ごめん……チエ、本当にごめん……」
「僕は、チエの側にいるって約束したのに……! 僕は、よりにもよって、その日のうちに、約束を破った!」
「何もかも投げ捨てれば、すぐにでもここに来られたはずなのに! 僕には、それができなかった……!」
「側にいられなくて、ごめん……本当に、ごめん……!」
何度も謝罪する志郎を見つめながら、チエが涙を浮かべて顔を歪めた。泣きたいのを懸命に堪えて、何とか取り繕おうとしているのが分かる顔つきだった。鼻をすすり上げ、チエが涙を拭う。
「謝らんでくれえ、志郎」
「チエっ……!」
「おら、志郎にもう一遍会えただけで、もうええんじゃあ」
胸が熱くなった。これは夢ではないのか。あの日と変わらぬ様子のチエが、今自分の目の前にいる。そしてそのチエは、約束を破った、馬鹿で愚かな自分の言葉を受け容れてくれた。本当に夢ではないのか。これが現実だと言うのか。信じられない。本当に信じられない。
ならば。ならば今こそ、あの時の約束を果たすべきではないか。今ここで動かなくてどうする! これが、自分に与えられた最初で最後の贖罪の機会だ。多くの人を不仕合わせにしてきた自分が、大切な人を、チエを仕合せにしてやれる二度とない機会ではないのか!
……今しか、あるまい。
志郎は、震える手で胸ポケットに手を差し込み──そこから、小さな箱を取り出した。
「チエ、受け取ってほしいものがあるんだ」
一人暮らしの間、自分に使う金を切り詰め切り詰め、やっとの思いで買うことができたもの。随分高くついたが、今となってはその苦労さえも美しい思い出にしか感じられぬ。
志郎が箱の包を解いて、閉じていた蓋を開ける。
「見てよ、ほら」
「志郎……」
箱の中で鎮座していたもの。それは……
「指輪、だよ。婚約指輪……」
「僕が、チエに渡したいって言った……」
「チエに渡すって、約束した……婚約指輪だ」
小さな宝石のついた、婚約指輪だった。
(ぼく、大人になったら……チエに『指輪』を渡したいんだ)
二人の脳裏に、同時に昔の光景が蘇った。幼い日の他愛ない約束、けれども志郎にとっては、それがただ一つの「生きる支え」だった。この約束は、この約束だけは違えてはならぬ。絶対に破りはしない。必ず守って見せる──どんな辛い時もそのように言い聞かせ、歯を食いしばって生きてきた。
チエに今一度合間見えることができた今こそ、この約束を果たすときに他ならないと、志郎は信じて疑わなかった。
「志郎……指輪っ……!」
震える声で、チエが指輪を見つめながら言う。志郎は優しい口調で、チエに促した。
「受け取って、チエ。これが、僕からチエに伝えたい、思いだから」
その言葉を聞き取った、チエは──。
「志郎……」
──チエは。
「……だめじゃあ。おら、受け取れねぇ……」
──志郎の前に両手を差し出しながら、チエは……志郎の申し出に、悲しげに首を横に振って答えた。
「ち、チエ……! その、手……」
チエが志郎の指輪を受け取らなかったのには、理由があった。一目見ただけで、志郎はその理由を把握し、理解し、そして愕然とした。
「手に……水かきが、張ってる……!?」
チエは何も変わっていない、そう考えていた志郎だったが、十年という時間は、やはりチエを変えてしまっていた。チエの指の間には、カエルか亀のような水かきがピンと張っていた。指先を広げると、指と指の間に幕のような水かきができているのが明確に分かった。
「分かるかえ? おらの手では──指輪は、はめられねぇだ……」
その通り、チエの言う通りだ。こんな手では……指輪など、はめられまい。
あまりのことに事態が飲み込めないとばかりに、口元に手を当てる志郎を見やりながら、チエが、何が起きたのかを話し始めた。
「おら、おらのこと、普通の人の子だと思っとった」
「志郎と同じ、人の子だとばかり思っとった」
「でも、違ったんじゃあ。おらは、おらは──」
チエが口にしたのは、俄には信じがたい言葉だった。
「おらは──人と、物の怪の、相の子じゃあ」
人と、物の怪の、相の子。チエは、自分が人間とポケモンの間に生まれた子供だと、そのように言った。普通の人の子ではない、あってはならぬ禁忌の子だと──静かに口にした。
かつてチエが見せた様々な力。それらはすべて、物の怪、つまりポケモンが持つ力を使ったものであったという。説明できぬ超常現象も、人並み外れた馬鹿力も、魚のように水の中を舞う様子も、すべてはそこに行き着く。
チエは、人の子ではなかった。
「志郎がおらんようになったあと、おらの躰が、段々変わってきて……」
「手に、水かきが生えよった」
水かきの生えた手を悲しげに眺めながら、チエが呟く。
「その後、頭が敵わんくらい痛くなって……」
「こんなもんが、額に浮かんできよった」
麦藁帽子をずらし、志郎に額を見せる。チエの額には、紅い宝石のような小さな突起が表れていた。不気味な光を放つそれは、かつてチエと共に水底で見たあの「紅い光」と、寸分違わぬものであった。
あたかも、チエが人ならぬ存在であると、力強く主張するかのごとく。
「それから、最後に」
チエが両手を志郎に見せ、魂の抜けた瞳で言葉を繰る。
「おっ母と約束した、おらの親指と」
「志郎と約束した、おらの小指とが」
力なくつぶやき続ける、チエの手には。
「ぽろりと、零れよった」
薬指・中指・人差し指の、三本の指しか生えていなかった。
母親と約束を交わしたという親指も、志郎と幾度となく約束を交わした小指も、チエの手には残っていなかった。右手左手、その両方から、親指と小指が、抜け落ちていた。
「そんな……指が……」
影も形も、そこにはなかった。
「おら、志郎と赤い糸で結ばれとるって……そう言ったはずじゃあ」
「運命の人、おらの運命の人が、志郎じゃって」
「でも……その、糸が結ばれた小指が、おらから無くなっちまった」
「おらはもう、志郎と一緒にいることはできねぇだ……」
志郎が無意識のうちにチエの手を取る。チエの手の形は、すっかり変わってしまっていた。指切りをした小指は、今はもう痕跡すら残っていない。水かきの生えた武骨な指が三本、そこに残っているだけだった。
赤い糸は、解けて、消えてしまった。
「どうしてだろうなぁ」
「おら、何も嘘もついてないし、悪いこともした覚えがねぇのに」
「『指切り』、されちまった」
指切り・拳万・嘘吐いたら・針千本・飲ます。嘘を吐くと、これだけの罰が待っているということを意味する童歌。その筆頭には「指切り」が来ている。嘘を吐く者の指は、切り落とされてしまうと、この童歌は明示している。
では一体、チエが何の嘘を吐いたというのか。約束を破ったのは、自分ではないか。何故、チエがこんな目に遭わなければならないのか。
どうして、チエが。
「おら、分かったんだ」
「おらは人と物の怪の相の子で……人にも、物の怪にもなれんかった」
「じゃから、おらはずっと子供のままで、大人にも、物の怪にもなれん。今までも、これからも、永劫、ずっと」
人としても物の怪としても中途半端で、そのどちらにもなれなかった。死ぬときが来るまで、この姿のまま変わることなく、人としても物の怪としても生きられぬ、ちぐはぐな存在であり続けなければならない。チエは、自分の運命を誰よりも正しく理解していた。
チエは、永遠にチエのままで、チエ以外にはなれなかった。
「チエ……」
「泣かんどくれぇ、志郎。皆、おらが中途半端じゃったからいかんかったんじゃあ」
「でも……でも、チエは! チエはっ!!」
「志郎、仕方ないんじゃあ。おらみたいな人はいねぇし、おらみたいな物の怪もいねぇ」
人にも、物の怪にもなれない。それが、チエのさだめだった。
「おらはもう、おっ母とも志郎とも、約束を破っちまっただぁ」
「そんなの……そんなの関係ないよ! チエ、僕と一緒に……!」
「だめじゃあ、志郎。おら、もう決めたんだぁ。一人で生きて、一人で土に還る……そう決めたんじゃあ」
「どうしても、一緒にはいられないの……?」
「おらがおったら、志郎が人として生きられんようになる。志郎は人の子じゃあ。人として、生きなきゃいけねぇ」
チエの言葉を、志郎はただ受け容れるしかなかった。チエが、志郎とともに歩むことはできないと……そう言うのであれば、志郎はチエの思いを飲むしか、道は残されていなかった。
「おらは志郎が今来てくれて、良かったと思っとる」
「志郎が……変わっていくおらを見たら、志郎は、きっと悲しむじゃろうから」
「おら、志郎の悲しむ顔は……見たくないんじゃあ」
志郎のいない間、チエはあらゆる悲しみを背負い、それでもなお、「志郎の悲しむ顔を見ずに済んでよかった」と言っている。いなくなった志郎を恨むこともできたろうに、チエは、ただ一心に、志郎の幸せのみを考えていた。
「ありがとなぁ、志郎。おら……志郎に会えてよかった。志郎のおかげで、『人』の気持ちってもんが理解できた」
「チエ……」
「お別れじゃあ、志郎。いつまでもここにいたら、風邪引いちまうぞぉ。早く、『人』のところへ帰ったほうがええ」
目に涙をいっぱいに浮かべながら、チエが、志郎から離れて、森の奥へと歩んでいく。
「志郎……」
最後に一度だけ振り返って、チエが──。
「おらのことは……早く、忘れて……」
「幸せに……なってくれぇ……」
「志郎が、幸せなら……」
「おらは、それでええんじゃあ……」
そう言い残して、森の奥深くへと、消えていった。
──河童の伝承には、続きがあった。
河童は大人になると「水神様」と呼ばれ、池や沼、川を守る守護神となる。大人になった河童は、もはや河童ではなく「水神様」なのである。
だが──「水神様」になれなかった河童は、どうか。「水神様」になれなかった河童は、ずっと「河童」のままで、永遠に子供の姿のまま、朽ち果てる時を待つという。
河童。河の童。河と共にある童。その言葉を当て嵌めるのなら、チエはまさしく河童であった。いつまでも大人になれぬまま、子供の時の姿を留め、童のまま、死んでゆく。
──チエは、河童であった。
「チエ……」
後に残されたのは、ただ、志郎一人だけ。もうどこを見回しても、チエの姿は無い。黄色い雨合羽も、麦藁帽子も、黒いおかっぱ髪も、欠片もその姿を認めることはできなかった。
チエは、志郎の前から、姿を消した。
その手に、渡すことのできなかった指輪が入った箱を握り締めたまま、志郎は両膝と両手を付いて、ただただ涙を流しつづけた。
さめざめと泣く志郎の脳裏には、チエと過ごした掛け替えのない日々と、悲しさを押し殺して一人森へと消えていったチエの姿とが、激しく入り混じって幾度となく蘇り、その度に、志郎は涙をこぼした。
チエは、自分に幸せになってくれと言った。志郎が幸せであれば、自分はそれで良いと。自分のことなど早く忘れて、もっと幸せな時間を過ごして欲しいと。
その幸せな場所に、自分は居なくて構わない──チエは、そう言った。
「僕が、一番幸せだったのは……チエ。君と、君と一緒にいたときだったのに……!」
あの日々は、もう帰ってこない。どれほど願っても、叫んでも、思いが通じることはない。
「チエ……チエっ……チエぇっ!!」
すべては──深い水の底に、沈んでしまった。
──降りしきる雨が、一際、激しくなった。
ふっ、と目を開くと、目の前の風景が幾分田舎じみてきたことに気が付いた。どうやら、山道も終わりに差し掛かってきたようだ。ごしごしと顔をこすり、ぼやけた視界を明快にする。幾度か繰り返しているうちに体も温まり、意識をはっきり取り戻した。列車の座席に腰掛け直し、大きく息をつく。
夢を見ていたようだった。懐かしく甘美で、そして切ない夢。夢は記憶をバラバラに切り刻み、無秩序な形で投影して出来上がるものと言われている。だが、先程まで見ていた夢は完璧に秩序だっていて、記憶していた光景がありのままそのまま出てきていた。少なくとも、起きた直後はそう感じていた。
そっと胸に触れると、固い箱の感触がした。
時計を見ると、寝入る直前に見た時刻から三十分ほど進んでいた。随分長い夢かと思ったが、実際に眠っていた時間は思っていたよりもかなり短かった。夢の中では時間の流れが曖昧になると言うが、まさしくその通りである。
車窓には水滴が張り付いていた。予報で崩れる恐れがあるとの情報は仕入れていたが、本当に雨降りになるとやはりいい気持ちはしない。傘を持ってきているから、雨に濡らされる心配はせずともよいが、何にしろ面倒であることには一切の変わりはない。
今も、まだ泣いているのだろうか。
雨が降ると、つい「涙雨」という言葉を思い浮かべる。涙を流していたときは、いつでも雨が降っていた。瞳と空が鎖で繋がれているのか、などと他愛ない空想が働く程度に、涙と雨は互いに連想し合う関係にあった。
それから列車に揺られること、およそ二十分。雨の衣をまとった車両が駅のプラットフォームに滑り込み、定位置より気持ち後ろで停止した。荷棚からリュックを下ろし、人影のまばらな車両から下りる。胸ポケットに入った切符は少し折れていたが、人に手渡すのだから問題はないだろう。
切符を駅員に手渡し、改札をくぐる。ほとんど間を置かずに、呼び掛ける声が飛んできた。
「志郎くん! こっちこっち!」
「大叔母さん、ご無沙汰です」
白いミニバンを駆る登紀子の方へ、志郎が駆けていった。
──墓地。
「康夫ちゃん、兄さん。志郎くんが来てくれたわよ」
二つ並んだ墓石を前にして、志郎が膝を折って屈み込んだ。そのまま目を閉じ、一心に手を合わせる。隣の登紀子が、志郎が雨に濡れないようにと、そっと傘を差してやっていた。
志郎は、今の状況に至るまでの経緯を──そのほとんどは、登紀子から聞かされたものだ──、静かに思い返した。
怒りで我を忘れた健治は、まず自宅に戻ってきた志郎を工具で殴り飛ばして重傷を負わせた。止めにかかった康夫と義隆を振り切り、納屋に置いてあった猟銃を取って返すと、康夫と義隆を銃撃して致命傷を負わせた。そして、その足で地主の山科剛三の家まで出向き、剛三を撃ち殺して本懐を遂げた。
満足したのだろう、健治は最後に己の頭蓋に銃口を押し当て引き金を引き、熟れた柘榴のように血肉を弾け散らせた。惨劇に自ら終止符を打ったのである。この一連の狼藉──いや、復讐劇と言うべきか──の過程で、剛三の妾が下半身を不具にされ、制止しようとした警官が足に銃撃を食らう事となった。
義隆は惨いことに即死であったが、康夫はまだ辛うじて息があり、駆け寄ってきた登紀子に「志郎を頼む」とだけ言い残して息絶えた。登紀子は血まみれの志郎を医者へ担ぎ込み、医者は応急処置を済ませた後、直ちに小金大学病院に志郎を搬送した。
結論を言えば、あの出来事で、志郎は額に一生消せぬ傷跡が残るほどの大怪我を負い、さらに慕っていた父と祖父を一挙に失ってしまった。病院で目覚めた後、志郎は登紀子から事の次第を聞かされ、衝撃のあまり三日ほど口が利けなくなった。志郎が泣いたのは、それより後、ようやく気持ちの整理が付いたあとのことだった。
身寄りをなくした志郎を不憫に思った登紀子が大叔父と共に小金へ引越し、志郎の面倒を見てやった。元々利発な志郎は大叔母・大叔父との生活にも直ちに馴染み、不自由することなく暮らすことができたが、心にできたわずかな闇は埋めようもなく、時折悪夢となって志郎を苛んだ。
志郎は幾度か「日和田へ行きたい」とせがんだ。父と祖父の事もあったが、それ以上に、心を結んだあの少女の姿が、志郎の脳裏に焼き付いて離れなかったのである。だが、登紀子は志郎に色よい返事をせず、その都度その都度有耶無耶になっていた。
そして、中学に上がる頃。志郎は、日和田がどうなってしまったかを、大筋で把握した。それ以降、志郎が日和田へ行かせてくれとせがむことはなくなった。頼んだところでどうにもならぬと悟ったためである。
やがて高校に上がる頃になると、志郎は小金を離れ、一人桔梗市の全寮制の高校へと進学した。それからはほとんど小金に帰ることもなく、一人での生活を続けた。
「大叔母さん、お墓の面倒を見てくれて、ありがとうございます」
「いいのよ。志郎くんは、私がここに入ってから、面倒をみてちょうだい」
「悪い冗談は、よしてくださいよ」
順当に大学の四年に上がった志郎は、関東地方で働き口を見つけ、あと半年もすれば上京するという境遇にあった。当分静都には戻らぬと聞いた登紀子が、志郎に墓参りをするよう勧め、それに応じた志郎が小金まで──正確には、小金と日和田の間にある所まで──帰って来たというところである。
「あれから、もう十年も経つんだねえ」
「時間が経つのは、早いものですね」
「志郎くんも立派になって、康夫ちゃんも喜んでるわ、きっと」
「そうだと、いいんですが……」
志郎は、登紀子から「健治ちゃんは急に気が変になって、あんなことをしでかした」とだけ聞かされ、背景に何があったのかということについて、詳しい話を聞いていない。だが、意識を失う直前、健治が志郎に投げつけていた言葉の数々をつなぎ合わせれば、何が健治をあのような凶行に走らせたのかは、大筋で理解できた。
そうであるから、志郎は健治をそれほど恨んではいなかった。無理もない、同情に値する、とさえ思った。引いては──自分の責任であると、そのように考えてすらいた。
自分がいなければ、健治は狂わずに済んだ。そうとも言えたのではないだろうか。志郎は、そんな思いを抱いた。抜き難い罪悪感が、志郎を度々責め苛んだ。
「……僕は、何故ここにいるんだろう」
石の下で眠る康夫と義隆は、志郎の問いになんと答えただろうか。
それを知る術を、志郎は持たなかった。
墓参りを終えたあとのこと、志郎が登紀子に声を掛けた。
「すみません、大叔母さん。先に帰っていてもらえませんか」
「えっ? 志郎くん、どうしたの?」
「ちょっと、行きたいところがあるんです。夜までには、家に戻りますから」
登紀子に二言三言言付け、一応の了解を取ると、志郎は彼女と別れて一人歩き始める。駅をすり抜け、細い路地へ入る。目指す先は、それほど遠くはないはずだ。小康状態になった雨の様子を見て、志郎が傘を折りたたむ。
道はよく整備されていた。かつてはもっと険しい道だったと思うが、今は歩道がつき、コンクリートで塗り固められ、勾配も緩くなっている。自分自身があれから成長した、という点も加えていいだろう。殺風景な道だ、道草を食うこともない。
あれから随分といろいろなものが変わってしまった。人、環境、住居、精神。何一つとして変わらぬものはない。だから、あの少女もきっと大きく変わってしまっただろう。別の男と共にいたとて不思議でも何でもない。むしろ、そうであってほしかった。そうであれば、あの少女は新しい生き方を見つけたと言える筈だからだ。
日和田へは何度も行こうとした。だが、それが叶うことはなかった。一日たりとて忘れたことなどなかったが、足を運ぶことはできなかった。そうしている間に、こんなにも時間が過ぎてしまった。どう言い訳しても繕えぬほどの、長すぎる時間だ。
もうここには居まい。居たとて、受け入れてくれることなどあるまい。それでも、どれだけ変わってしまおうとも、約束は、約束だけは変わらぬと言い聞かせる。胸の中の箱は、過去の残滓にすがる惨めな自分の投影であると共に、最後の一線だけは絶対に踏みとどまって見せるという不屈の念の現れでもあった。
せめて約束を果たし、けじめをつけたい。志郎は、ただそれだけを胸に秘めて歩き続けた。
無心で歩き続けていたからだろうか、一時間ほどの行程は、ほどなく終わりを告げた。そこからさらに数歩歩み出て、志郎は眼下に広がる風景を、その瞳に映し出した。
「ああ、これが──」
「これが、『日和田ダム』か……」
並々と水を湛え、静都南部、特に小金市の貴重な水源となっているダム、それが日和田ダムであった。
かつてここに小さな村落があったが、高齢化と過疎化が深刻化し、村が消えるのは時間の問題であった。そこで、村の有力者の手によりダム工事が誘致された。新しいダムの建造と引き換えに、多額の立ち退き料を支払ってもらう、という構図を生み出したわけである。
多くの村民は粛々と決定に従い、続々と村を離れていったが、一人だけこの計画に反対する者がいた。家族の者が説得に当たったがどうしても応じず、決して意見を曲げなかった。挙句の果てに、計画を力づくで止めようと家族と村の有力者を殺害、最後は自殺するという最悪の結末を迎えた。
皮肉な事に、これで反対するものが誰一人としていなくなったために、ダムの建造は駆け足で進められた。家が取り壊され、周辺施設が整備され、水源が確保され、そして──
間もなく──日和田村は、地図上から姿を消した。
かつて存在した日和田村はもはやどこにも存在せず、知る者すら少なくなってきているのが実状である。今やその「日和田」という名前は、村を水底に沈めた張本人であるはずのこのダムに冠され、まるで何事もなかったような様子で今日に至っている。
「そうか、もう、日和田はないんだ」
改めて呟くと、空虚さがより一層強く感じられた。
中学の時分には既に工事があらかた終わっており、既に日和田は影も形もなかったという。登紀子が志郎を日和田へ連れて行こうとしなかったのは、そもそも日和田がその形を失っていたためであった。志郎はそのことを知り、登紀子にせがむことを止めた。
志郎の眼下には、ただ水ばかりが広がっていた。ここから見えた家も、神社も、小さな川面、何もかもが水に飲み込まれてしまった。取り返しなど、付きようもない。
呆然と水溜まりを眺める。これは現実の、現世の出来事なのだろうか。自分はまだ電車に乗っていて、長い夢の続きを見ているのではないか。いや、そうではない。義隆の家で、額に汗を浮かべながら畳で横になって、蒸し暑さがもたらす不快な夢を見ているだけではないのか。そうであれば──そうであれば、目覚めれば、またあの日々が戻ってくる。
目覚めたかった。これは夢であり、現実はそれとは程遠いものであると、そう思いたかった。分かっていても、喪失を丸ごと受け容れることなどできなかった。失ったものがあまりに大きすぎる。もう、何も残っていない。
頭が痛くなった。現実と願望と空想と記憶とがぐちゃぐちゃに入り混じり、まともにものを考えられない。頭痛と耳鳴りがしきりに起こる。頭が痛い、頭が痛い、頭が──
──頭が、痛い……?
「……!」
まさか。そんな、まさか。
体を捻る。振り返る。目を向ける。目を見開く。
目の前の光景、それは──
「──チエ……!」
──チエが、すぐ側に立っていた。
義孝の家に戻った志郎は、日が落ちて辺りがすっかり暗くなっているにも関わらず、家から何の物音もしないことに気が付いた。義孝が飯の支度をする音も、康夫が観ているテレビの音も、そして健治の喚き散らす声も聞こえない。
あるのはただ、不気味で寒気がするほどの静寂のみだった。
(お父さんとおじいちゃん、どうしたんだろう)
家全体を包み込む異様な雰囲気に気圧されながら、志郎が家の硝子戸を開けた。
「戻ってきよったか」
「……!」
刹那、灯りも付いていない家の奥、台所の辺りから、低く唸るような声が響いてきた。志郎が身を竦め、その場に立ち止まって動けなくなる。一体誰だ、誰が声を掛けてきた。いや、この声は。この声は聞き覚えがある。聞き覚えはあるが、何故このようなことになっているのかはまったく分からない。
ぎし、ぎしと音を立てながら、闇から這い出てきた声の主。それは……。
「忌々しい餓鬼め。僕が居ないと思って、のこのこ帰ってきたか」
鬼か悪魔かと見紛うほどに目を血走らせ、明らかに正気を失ったとしか思えぬ面構えの――健治であった。歯を食いしばりおぞましい唸り声を上げながら、志郎に向かってひたひたと歩み寄ってくる。
訳が分からなかった。一体何故、健治が殺意をむき出しにして自分に向かってくるのか。そもそも、健治は何に腹を立てているのか。志郎には、一切の心当たりがなかった。だからこそ、余計に健治のことが恐ろしくてならなかった。
「お前の、お前のせいで、お前のせいで」
「何もかも何もかも、お前のせいで」
「お前の、お前の、お前のせいでッ」
がたがたと拳を震わせる健治を視界に捕らえたまま、志郎は一切の身動きが取れなくなった。恐怖の余り体が震えて、歯がかたかた鳴っている。助けを呼ぼうとしても、掠れた声が上がるばかりで、何の言葉にもならなかった。
そして――次の瞬間。
「僕が、僕が成敗してくれるッ。姉さんの敵討ちだッ」
「――!!」
志郎は、健治の持っていた工具のような鈍器で頭を強打され、無抵抗のまま玄関から二メートルも吹き飛ばされた。受身を取ることも叶わず玄関の敷石に背中を強かに打ちつけ、胃の腑から熱い液体がこみ上げてきた。頭からは血がだらだらと流れ落ち、視界を赤く染めてゆく。
朦朧とし失われてゆく意識の中で、志郎は。
「この――」
「この、色狂いの狸の愚息めッ。何故、お前が、のうのうと、生きているッ」
――志郎は、目の前の光景を呆然と眺めていた。
「お前を産んだせいで、姉さんは気が触れて家を出て行って、獣と交わっただの、物の怪の子を産んだだの、ありもしない馬鹿げた下らない誹謗を受けることになったんだッ。お前のせいでッ」
「三年前に僕が姉さんを神社で見つけたときは、どうしようもない狐憑きになっていたッ。日照りを止めるだの、娘を助けるだの、水神の処へ帰るだの、皆目意味の取れぬとち狂ったうわ言たわ言ばかり吐いて、九尾の狐の亡骸の前で倒れていたッ」
「何が『めぐみの雨』だッ。村の連中は皆腐っている。姉さんの名前を、これ以上汚すなッ」
健治が、何かを喚き散らしている。
「挙句ッ……姉さんは、雨が降れば泣くだけの、廃人になったッ。僕の呼びかけにも、もう応えないんだッ」
「剛三が、あの狸が、姉さんにお前を孕ませたせいで、姉さんは狂った、気が触れた、心が壊れてしまったッ」
「兄さんは何故お前を引き取ったんだ。僕には分からないぞ。お前のせいで姉さんがああなってしまったというのに、兄さんはッ」
風景が二重、三重になって見える。健治の言葉をうまく処理できない。何か言っているのだが……その何かが、志郎には分からない。
この人は……何を言っているのだろうか。
「あの鬼畜は、このような醜悪な出来事を全部無かった事にしようとして、ここを水溜りにしようなどとほざいているッ」
「だから、僕が、僕が――あいつを、あいつを地獄に送ってやるんだッ」
「僕の決意は絶対だッ。何にも動かされないぞ、絶対の決意だッ」
口にまで血が流れ、鉄の味が口内に広がりかけた時。
「健治っ! 何をしているんだ! 志郎に何をした!!」
どこからともなく、父が、康夫が走ってくるのが見えた。志郎は声を出そうとしたが、体が受けた衝撃は想像以上に大きく、体をわずかに起こすのが精一杯だった。
「志郎を殴って何になる! 恵は志郎を己の意思で産んだんだぞ! 生まれてくる子に罪は無いと、そう言って!!」
「今更なんだッ。僕の気も知らないで、兄さんはどうしてこいつの肩を持つんだッ」
「志郎は、俺が恵から託された子だからだ! 俺が志郎を守ることは、恵から頼まれたことなんだ!!」
「五月蝿いッ。こいつのせいで、姉さんはおかしくなって出て行ったんだッ。この餓鬼の罪を、僕が裁いてやるッ」
「恵は気が触れたわけじゃない! 身を清めたいと、そう言って静かに出て行った! それだけのことだ!!」
「兄さんに僕の気持ちが分かるかッ。同じ部屋で共に過ごした姉さんが、あのようなおぞましい目に遭わされたという現実を突きつけられた、この僕の気持ちがッ」
朦朧とした目で、志郎が、父と健治の言い争いを濁った瞳に映し出していると。
「志郎くん! しっかりしてぇっ」
「叔母さん、志郎を頼む! すぐに医者に診せてやってくれ!」
「離せッ。僕が、僕があの餓鬼をッ、あの悪魔の子を血祭りに上げるんだぁッ」
登紀子の手が背中に回った感触を最後に――志郎の五感が、その機能を停止させた。
夏の朝の訪れは早い。月が消えるのを待たずして、太陽は燦々と輝く陽光の衣をはためかせ、未だ半覚醒状態の空を力づくで水色に染めてゆく。こうして、また新しい一日が始まるのだ。
志郎はいつもと同じように家の中で二番目に目を覚まし、昨日と変わりなく朝飯の準備をしている義孝におはようと挨拶をした。義孝は振り返っておはようと言い、志郎に顔を洗ってくるよう促す。志郎は義孝の言葉に素直に従い、少々寝ぼけ眼を残した顔つきをして、洗面所へ向かっていった。
顔を洗い用を足して戻ってくると、志郎は義孝に言われる間でもなく、朝飯の配膳を手伝い始めた。法蓮草のお浸しを一つずつ配り、浅蜊の味噌汁を汲んで隣に置き、大根おろしを載せた出汁巻き卵を並べる。炊き上がった豆ご飯を蒸らし終える頃に、平時通り康夫が姿を表した。
朝飯を食べている最中、康夫が志郎に声を掛けた。
「志郎」
「どうしたの? お父さん」
「もう少し、おじいちゃんの家にいることになると思うが、大丈夫か」
何の事はない。義孝の家で滞在する期間が延びるが、支障は無いかということであった。 これはとどのつまり、チエと一緒に居られる時間が増えるということと同義だ。願ってもないことである。志郎は即答した。
「大丈夫だよ」
「そうか、助かるな」
チエの顔が脳裏をよぎる。今日もまた、あの快活な姿を見られるのだ。自然と、志郎の飯を食う手が早くなった。
朝飯を食べ終えて、昨日と同じように義孝に簡素な弁当をこしらえてもらった後、志郎は麦藁帽子を被って外へと飛び出した。相も変わらず合唱を続ける蝉たちの声に耳を傾けつつ、志郎はチエの待つ、あるいはチエを待つための川へと走り出した。
外には、ポケモンたちの世界が広がる。かつては白かったであろう錆付いた軽自動車を寝床にするエネコ、金融会社の色褪せたホーロー看板を画布に見立てて絵画の練習に興じるドーブル、打ち捨てられた耕作地と知ってか知らずかしきりに動き回って畑を耕すディグダ。人の置き土産を、物の怪たちはある意味存分に活用していた。
寝そべったまま石榴の実が生るのを待っているナマケロ、鬼灯をつついて遊んでいるウソハチ、片喰の葉で尻尾を磨き上げるライチュウ。志郎が横を通りがかると、ライチュウが志郎に気付き、ぱたぱたと大きな尻尾を振った。
そのような風景を眺めつつ、定刻通り川へやって来た志郎であるが、そこにチエの姿は見当たらなかった。志郎は額に滲み出た汗を手拭いで拭き取り、チエの姿を探す。昨日と同じ時間帯であるから、先にチエが居てもおかしくないのだが。
斜面になっている河原を下り、志郎が川縁の見える位置までやってきた。
「あれ? チエ、そこにいるの?」
河原を下りた先にある草の生い茂った柔らかい土の集まっている付近で、いつものように黄色い雨合羽を身につけたチエがごろりと横になっていた。志郎は、無防備に寝転がっているチエの元へと恐る恐る抜き足差し足忍び足で近寄る。
チエは、横になってすやすや眠っていた。安らかな寝息を立てて、規則正しく胸を膨らませ萎ませを繰り返している。志郎は、まずチエが具合を悪くして横臥している訳ではないことを確認し、安堵の息をついた。朝早く来たのはよかったが、志郎を待っているうちに寝入ってしまったのだろう。
目を閉じて眠るチエの隣で、志郎がぐっと屈み込む。志郎とチエの顔と顔とが近寄り合い、チエの愛らしい寝顔が志郎の瞳に映し出される。豪胆でがさつな面ばかり目立つチエであるが、寝顔はこの年頃の少女相応のものである。志郎はチエの面持ちに、目も心も奪われたようであった。
「おっ母……おら、泳げるようになったぞぉ……」
「チエ……」
「おらも、おっ母の言ってた、おっ父みたいに、あっちこっち、泳いでやるんじゃあ……」
「お母さんの夢、見てるのかな……」
夢の中で、チエは恋しい母と共に過ごしているようだった。志郎は、チエの幸せそうな表情を微笑ましく思うと共に、今この瞬間、チエの夢の中に己自身が登場していない(ように思われる)ことに、ごくごく可愛らしい、他愛ない嫉妬の念を抱いた。とはいえ、母親相手では仕方あるまい。志郎は己にチエの事情を言い聞かせ、納得させるのだった。
こうして、ずっとチエの幸せな寝顔を見ていたいという強い欲求が湧き起こってきたが、チエのことだ。早く起こしてやらないと、遊ぶ時間が減ったと拗ねてしまうかも知れない。志郎は後ろ髪を力一杯引っ張られて禿げてしまうほどの名残惜しさを噛み殺して、チエにそっと声を掛けた。
「チエ、来たよ。ぼくだよ」
「くぅー……」
「ぼくだよ、チエ。そろそろ起きて」
「おっ母……」
「うーん、これじゃ、起きないか……」
眠るチエに何度か呼びかけた志郎だが、チエが目を覚ます様子はなかった。揺さぶったりして起こすという手も考えたものの、今ひとつ気が向かない。志郎は少々困ったと言いたげな顔つきで、草むらで横になるチエを見つめた。
その時──志郎にしてはなかなか珍しく、まるでエルフーンの如くむくむくと「悪戯心」が湧き起こってくるのを感じた。どんなものかと一瞬思案したが、何、もう既に一度したことの繰り返しである。気にする事はない。チエは未だ眠ったまま。男は度胸という言葉もある。志郎は意志を固めた。
「チエ、起きないの?」
「すー……」
「起きないなら……ぼく、悪戯しちゃうよ」
そう宣言してから、志郎は──
「ん……」
「……?」
──志郎は、チエの唇に、そっと己の唇を重ねた。
柔らかく、暖かく、そして何より、鼓動を感じる。初めて手を繋いだ時に伝わってきたチエの鼓動に、思わず胸の高鳴りを感じたのと同じように、唇から微かに伝わるチエの脈動に、志郎は心を奪われていた。
暫しの間、志郎はチエと口付けていたが、やがてそっと距離を置いた。少しばかり濡れた口元をそっと拭うと、改めてチエの姿を視界に捉えた。すると。
「……ん? 志郎……かえ?」
「起きたみたいだね、チエ」
チエが、ぼんやりとその瞼を上げた。
「志郎かぁ。おらを起こしてくれたんだなぁ」
「眠り姫を起こすのは、男の子の仕事だからね」
「なんじゃあ、志郎も気障なこと言うようになったなぁ」
ぴょんと体を跳ね上げて起こすと、チエがぐーっと大きく伸びをして、志郎にいつもの澄んだ瞳を向けた。何も変わらぬ、いつも通りの風景だ。
「おら、ちとびっくりしたぞぉ」
「やっぱり、チエも気付いてた?」
「途中からじゃけどなぁ。おかげで、いい塩梅に目が覚めたぞぉ。ありがとなぁ、志郎」
「どういたしまして。寝てるチエも、可愛かったよ」
「ははっ、照れるなぁ。褒めてもなぁんも出んぞぉ。朝からええ気分じゃあ」
頬をほんのり桜色に染め、顔を綻ばせるチエに、志郎もまた笑顔を見せるのだった。
二人は手を取り合い、連れ立って歩き始めた。今日は昨日・一昨日とはまた違う目的地があるようだ。チエが志郎を先導する形で、森の奥へ突き進む。
目指したのは、日和田を一望できる高さにあるという「丘」であった。チエは、そこから日和田の風景を見下ろすのが大好きで、志郎を是非連れて行きたいと言う。志郎が断るはずもなく、本日の遊び場は丘にすんなり決定した。道案内は任せろと胸を張り、チエが志郎を引っ張っていく。
目指す丘までの道は、少々険しい山道となっていた。急な段差になっているところを、志郎が先によじ登ってチエを引っ張り上げてやったり、細い吊り橋のみが架かっているような場所はそのままではまともに歩けぬため、チエが「お願い」をして吊り橋の動きを固定したりと、なかなかに骨の折れる道程であった。
道をのそのそと横切るナエトルとゼニガメの列が通り過ぎるまで待ったり、湖で小さなポケモンたちを載せて楽しそうに遊覧するラプラスの姿を目撃したり、日照りの元で益々活力旺盛となり取っ組み合いに興じるエンブオーとブーバーンの戦いの様を見物したりと、しばしば脇道横道にそれて道草を食いながらも、二人は丘の上を目指した。
待ち合わせ場所の川を発ってから、およそ三時間。
「着いたぁ! ここが丘だぞぉ」
「ふぅ、やっと着いたみたいだね……」
二人はようやく、目的地である丘の上に到着した。チエに引っ張り上げられるようにして、志郎が丘の天辺まで登る。刹那、志郎の眼前に広がる光景。
日和田は小さな村だが、それでも徒歩のみですべて回ろうとすれば一日では足らぬ程度の広さはある。つまりは何だかんだでそれなりの広さはあるのだが、丘の上からはその日和田が、端から端まで─日和田は四方を山に囲まれている、と述べたことを思い出していただきたい──一望できた。
豆粒かと見紛うほどに小さいが、チエと遊ぶ川も義孝の家も、前に遊んだ神社もすべて確認できる。これを壮観と言わずして何と呼べば良いのか。志郎は思わず息を飲んだ。日和田のすべてが己の手の中に収まった、そのような誇大な錯覚を抱かせるに、眼前の光景はありすぎるほどの説得力を持っていた。
「いい眺めだね……!」
「すんげぇだろぉ。ここはおらのとっておきの場所だぁ」
「チエがとっておきにしたくなる理由、ぼくにも分かるよ。ありがとう、チエ」
おかっぱ頭を撫でられたチエが、笑窪を作ってはにかんで見せる。志郎の手に一層の力と優しさがこもった。
この辺りまで人の手が及ばぬのはここまでの道程の険しさを思えば自明のことで、多くのポケモン、いや物の怪たちが住み着いていた。彼らは、外から遊びにきた珍しい来訪者に興味を示し、ぞろぞろと志郎とチエの元に集まり始めた。
「ねえ、チエ。この子、熊?」
「姫熊じゃあ。気立ての優しい、おっとりした物の怪だぞぉ」
「へぇー。ヒメグマ、っていうんだ」
「んだ。指先から甘い蜜が滲み出とるから、ひっきりなしに嘗めとるんじゃあ」
志郎の足元に擦り寄ってきたのは、まだ子供の小さなヒメグマだった。チエの口にした「指先をいつも嘗めている」という言葉の通り、しきりに指先を舌で拭っている。いかにも子供っぽい、愛嬌を感じさせる仕草だ。志郎がそっとヒメグマに触れてやると、益々志郎に興味を持ったのか、ヒメグマが小首を傾げて見せた。
「あははっ。この子、可愛いね」
「なんじゃとぉ。おらの方が可愛えぞぉ」
ヒメグマを「可愛い」と誉めそやす志郎の姿を見たチエが、自分の方が可愛い、と突っ張って見せた。ちょっとしたことで焼き餅を焼くチエがこれまた可愛らしく、志郎は笑ってチエを宥めてやった。
初めはこのように焼き餅を焼いていたチエであったが、ヒメグマに愛嬌を感じるのは変わらなかったようで、気がつく頃には結局ヒメグマを含めた三人でがやがやと遊んでいた。チエがヒメグマを抱きしめると、ふわふわした柔毛が頬に触れる。縫いぐるみか人形かと思うほどの肌触りであった。
小一時間ほどヒメグマと共に遊び、少しばかり疲れを覚え始めた頃、見計らったように都合良く昼時と相成った。適当な草むらに腰を下ろし、志郎とチエが昼飯の準備をする。それぞれ食べるものを取り出した二人の顔を、ヒメグマがじーっと覗き込んだ。
「ヒメグマ、どうしたの?」
「お前も腹減ったのかえ?」
ヒメグマが頷く。
「そうかそうかぁ。なら、おらの木の実を一つやるぞぉ」
「それなら、ぼくのおにぎりも少し分けたげるよ」
志郎から半分に割った握り飯を、チエから焼いた木の実をそれぞれ分けてもらい、ヒメグマが腕の中にそれらを抱き込んだ。くんくんと匂いを嗅いだあと、ヒメグマはそれらをぺろりと平らげてしまった。喜びの表情を見せるヒメグマ。お気に召したようだ。
昼食を終え、志郎とチエがヒメグマを交えて遊んでいたときのことだった。不意に、志郎が何者かの視線を感じ、さっと後ろを振り向く。
「誰かいるの?」
振り返った直後は、そこに誰の姿も認めることができなかった。だが、見つめたまま暫く待ち続けていると、不意にその正体が露になった。
ちらり。樹の影から半分ほど顔を出し、こちらを覗き込む小さな物の怪。志郎はその容貌と習性から、それがチラーミィであることをすぐに把握した。志郎と視線が交錯すると、チラーミィは何某か言いたげな目で志郎を凝視し始めた。
志郎は山勘を頼りに、チラーミィに呼び掛けてみた。
「一緒に遊ぶ?」
「!」
顔だけでなく全身を現したチラーミィの様子を見た志郎は、己の勘が間違っていなかったことを悟るのだった。
このような調子で、志郎とチエを囲む山の物の怪たちの数は徐々に数を増してゆき──
「小さい体の割に、すごく重いね」
「権兵衛は大食らいじゃからなぁ。おらでも両手を使わんと持ち上げられんぞぉ」
「それって、チエなら両手で持ち上げられる、ってことだよね……」
食べ物を探していたゴンベに、
「夏の間は、背中が新緑の色になるんだ」
「んだ。だから、おらは『色鹿』って呼んどるんじゃあ」
「季節で変わるから、『四季鹿』とも言えるね」
辺りを散歩していたシキジカ、
「どこからが尻尾なのか分からないって言われてるけど、ぼくは足の下からだと思うよ」
「いんやぁ、この紋様の辺りからに決まっとる。おらはおっ母にそう聞いたぞぉ」
「難しいね。どっちが正しいんだろう?」
ひょろ長い巣穴からひょっこり顔を出したオオタチ、
「どっちも、悪くはないんだけどなぁ……」
「こぉら、おらはそんな間抜け面はしとらんぞぉ。志郎も尻尾なんざ生やしてねぇ」
「メタモンもゾロアも、あと一歩ってとこかな」
変身合戦をしていたメタモンとゾロア──などなど。
代わる代わる訪れる物の怪たちと思う存分戯れ、志郎とチエは心ゆくまで遊んだ。物の怪たちも皆、志郎やチエと遊べたことで満足しているように見受けられた。
やれ遊べ、それ遊べ、陽の元に集う童たちよ。今の時間は今しか得られぬ。悔いを残さず思い出残せ。それがお前たちの成すべきこと也。
嗚呼、仲善きことは美しきこと哉。
時が経つのは早いもので、皆が参加したかくれんぼで最後まで隠れていたカクレオンが見つかる頃には、既に日が傾きかけていた。
「ち、チエ……危なく、ないの……?」
「志郎、怖がらんでも大丈夫じゃあ。姫熊と遊んでやってくれてありがとう、って言っとるからなぁ」
「そ、そうなんだ……ぼく、ちょっとびっくりしたよ」
娘のヒメグマを迎えにきたリングマ母さんが、遊び相手になってくれていた志郎とチエにお礼の言葉を──遺憾ながら、志郎には唸り声にしか聞こえなかったものの──述べた。なりは結構な強面だが、気のいい性格のようだ。
足元に駆け寄ってきたヒメグマを、リングマが大きな大きな手で撫でてやる。ヒメグマは母親の足に頬擦りして、感触をしきりに確かめている。ヒメグマの安心しきった表情が、母親の存在の大きさを物語っている。
手を振って二人の元から去っていくヒメグマを見送ると、丘の上には志郎とチエの二人だけが残された。
「行っちゃったね」
「んだ。姫熊、おっ母のこと好きなんだなぁ」
「お母さんのリングマの方も、ヒメグマを大事に思ってるみたいだしね」
丘の天辺に聳え立つ一本の大樹。その大樹の下で、志郎とチエが共に座り込んだ。日は少しずつ傾き、太陽と月が交代する準備を進めている様子が窺える。
青から赤へ移り変わる夏空を見上げ、チエが、おもむろに呟く。
「志郎」
「どうしたの? チエ」
「志郎も、おらと一緒で、おっ母がいねぇんだよな」
「……うん。ぼくも、チエと同じだよ。お母さんがいないのはね」
ヒメグマとリングマの親子。その風景を見たチエも志郎も、それぞれ胸に去来する思いがあった。どちらも母がおらず、志郎は父と共に、チエは一人で暮らしている。『母』を見て複雑な心持ちになるのは、至極当然のことであった。
チエは雨合羽の佇まいを直し、少し様態を改めてから、志郎に語りかけた。
「おらの名前は、おっ母の名前をとって、おっ母がくれたものじゃあ」
「名付け親、お母さんなんだ」
「んだ。あれこれ考えて、一番いい名前をつけた、って話してくれたぞぉ」
「ぼくも、いい名前だと思う。だって、チエは『チエ』以外考えられないからね」
「ははっ、志郎も言ってくれるなぁ」
なんでもはっきり言うチエのおかげだよ、と付け加える志郎に、チエは口元を綻ばせて応じた。
「おっ母はおらを生んでくれて、チエ、っていう名前までくれた」
「だから、おっ母はおらの大切な人じゃあ」
「もしかしたら、おらと志郎を引き合わせてくれたのも──おっ母かも知れねぇ」
訥々と大切な母への思いを語るチエから、志郎は一時も目線を外すことができなかった。
「けど、そのおっ母は、今はおらの側にはおらん」
「そう思うと、おらは寂しいんじゃあ」
「誰かと一緒に居たいと思っておっても、いつかまた、おらは一人になってしまう……そんな風に考えてしまうんじゃあ」
チエは、物の怪たちが側にいるとはいえ、普段は一人で暮らしている。誰と接するわけでもなく、一人で起床し、飯を食い、体を洗い、そして眠りに着いている。チエが五つの頃に母親がいなくなったというから、チエは少なくとも三年近く、こうやって一人の生活を続けている。
母親がいなくなったのは、チエにとって突然のことだった。一人きりで辛いことも山ほどあったに違いない。一人になってしまうことを恐れるのは、当たり前のことだった。
物憂げな表情を見せたチエに、志郎は。
「チエ」
「志郎……?」
すっくと力強く立ち上がると、チエを上から見下ろす形をとる。チエの志郎を見上げる視線に、志郎は、決然とした調子で続けた。
「ぼくが、チエの側にいるよ」
「お母さんの代わりには、ぼくはなれない。でも、ぼくが『ぼく』としてチエの側にいることはできる」
「ぼくがいれば、チエは一人じゃない。そうだよね」
惚けたように自分を見つめるチエに、大きく深呼吸をしてから、志郎は己の思いのたけをぶつけた。
「チエ──」
「ぼくは、チエのことが好きだ」
「ずっと、チエの側に居たい。ぼくは、そう思ってる」
「もう一度言う。ぼくは……チエのことが、好きだ」
そっとチエの前に手を差し出す。チエは志郎の顔と掌とを交互に代わる代わる見つめ、潤んだ瞳を向けていた。喜びと戸惑いを隠しきれない様子のチエに、志郎は優しい目を向けた。
「だめかな、チエ……」
「志郎……」
チエが志郎の手を恐々取ると、志郎はそっとチエを立ち上がらせた。照れ臭そうに鼻をかく志郎に、チエが静かに告げる。
「違うぞぉ、志郎」
「違うって何が?」
「こういうときは、『いいよね、チエ』って言うもんだぁ」
「ぼくには、もうちょっと押しの強さが要りそうだね」
志郎に導かれるまま、チエが志郎の胸へと引き寄せられる。志郎が雨合羽の上からチエを抱きしめると、チエは志郎の胸の中に華奢な身を委ねた。
「おらもだぞぉ、志郎。おらも、志郎のことが好きじゃあ」
「ハッキリ言われると……やっぱり、ちょっと恥ずかしいね」
二人は、各々の思いを伝え合った。志郎はチエが好き、チエは志郎が好き。他に何を足すわけでも、ここから何かを引くわけでもない。ただ、お互いがお互いを好いている。それだけで十分ではないか。一人だったものが二人になるのだ、何も悪いことはあるまい。
「志郎、知っとるかえ? 小指に絡まる赤い糸の話じゃあ」
「知ってるよ。男の人と女の人の小指には赤い糸が絡まってて、運命の人の小指に繋がってる。そんな話だよね?」
「そうじゃあ。赤い糸を手繰り寄せれば、一生連れ合う人に会える。おっ母に聞いた話だぁ」
「チエの赤い糸は、ぼくの小指に繋がってる?」
「きっと、そうに違いねぇ。おらは、志郎と繋がってるはずじゃあ」
水柱をぶち上げ、不思議な力で服を乾かし、志郎を投げ飛ばし、ヘラクロスと力比べをし、物の怪たちと平然と言葉を交わす──チエはやること成すことすべてが常識を外れていたが、その胸中にあるものは、ごくごくありふれた夢見る少女の願いに他ならなかった。赤い糸の話など、陳腐ここに極まれりといった具合だ。
破天荒で型破りなチエにしてみるとちぐはぐもいいところだが、だからこそチエにはこの上なく合っている。志郎はそのように思った。チエの特徴は何か。それは言うまでもなく、ちぐはぐなことだ。ありきたりな乙女心を宿す、雨合羽の奇天烈な娘。いかにも、チエそのものではないか。
「おらの親指はおっ母と繋がってて、小指は志郎と繋がっとる」
「いつも指切りするのも、小指だからね」
「そっか……分かったぞぉ、志郎。おらはもう、一人じゃないんだなぁ」
「うん。いつだって、側にぼくがいるよ」
「うん、うん……おら、うれしいぞぉ、うれしいぞぉ……」
「チエ……」
「志郎、志郎……!」
自分はもう独りぼっちではない。そのことに気づいたチエが、志郎の胸の中で落涙した。悲しい涙ではなく、嬉しい涙だ。涙を湛え零す瞳は、しかし同時に太陽のごとく輝き、笑っていた。
ぽつり、ぽつり。志郎の頬に、冷たい雫が落ちてくる。空を見上げると、夕陽が空を爛々と赤く染めているにもかかわらず、雨が降り出してきていた。先ほどまで一緒に遊んでいたゾロアではないが、まさしく『狐の嫁入り』と呼ぶべき事象だった。
「髪が雨に濡れちゃだめだね。ほら、チエ。これ、あげるよ」
「麦わら帽子……これ、志郎の大切なもんじゃろ?」
「大切なものだから、チエにあげたいんだ」
志郎は被っていた麦藁帽子を、雨に濡れかかっているチエに被せてやった。チエが麦藁帽子に触れて、その感触を確かめる。志郎の言った「大切なものだから、チエにあげたい」という言葉が、チエの心にじん、と沁み渡っていく。
「今日は、麦わら帽子だけど……」
「うん……」
「ぼく、大人になったら……チエに『指輪』を渡したいんだ」
「志郎……」
顔を上げた先に、志郎の顔が見える。指輪を渡したい……子供のチエとて、何を意味する言葉かは分かっていた。それはつまり、志郎がチエと男女の契りを結びたいと言っているに等しい。
「志郎……おらと、約束、してくれるかえ?」
「いいよ。じゃあ、いつもの、しようか」
「うん……」
チエ曰く、赤い糸が結ばれ合っているという二人の小指が絡み合い、お互いに固く引っ掛けるような形を取る。離すまいと力を込め、相手の存在を確かに認識した後。
「……せーのっ」
どちらともなく声を上げ――
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
徐々に沈み行く陽を背に、二人が、これからも共にあることを誓い合った。
「決めたぞぉ。おらとびっきりのべっぴんさんになって、志郎のお嫁さんになるんじゃあ」
「今だって、チエは可愛いと思うよ」
「いやぁ、可愛いだけじゃ足らん。おらにも『大人の魅力』が要るんじゃあ」
「無理に大人っぽくならなくても、チエは、チエのままでいいよ。ぼくが好きなのは、チエだからね」
二人の絆を断ち切れるものなど、何もありはしない。これからもずっと、二人で一緒にいられる。志郎もチエも、そう信じていた。
そう、信じていた。
先程まで休息を取っていた木陰で、濡れたおかっぱ髪を日なたで乾かしたチエと、元の服に着替えた志郎が、大樹に寄り掛かって休んでいた。物の怪たちは皆どこかへ行ってしまったようで、ここにいるのは志郎とチエの二人だけ。夏場にしては涼やかな微風が、池の中の大冒険で疲労した体を、ささやかではあるが癒してゆく。
志郎が時折左手に目をやると、穏やかな面持ちのチエがいた。チエは、いつも志郎が見つめ始めてから一拍遅れて、じっと此方を見つめる志郎に目線を返してやる。このような、傍から見ると何もしていないも同然のようなやり取りを、志郎もチエも飽きもせず繰り返していた。
池から上がった後、チエは志郎に「紅い光に『見つめられた』瞬間に、体が動かなくなった」と答えた。志郎の見立ては、ほとんど間違えようが無かったとは言え、合っていたわけだ。志郎が感情を爆発させてチエに飛び掛っていなければ、今頃どうなっていたことか。想像は簡単に付くが、したくもない。
「あの時、どんな感じだった?」
「おらもよう分からん。ただ、『こっちへ来い、こっちへ来い』って、しつっこく繰り返しとったのは憶えとる」
「そうやって、自分のほうに招き寄せていたんだね……」
「きっと、そうじゃろう。おらのこと取って食おうと考えとったのかも知れん」
恐慌状態に陥っていたせいか、チエは「紅い光」に縛り上げられた時のことを、すべては憶えていなかった。部分的にしか記憶は残っていなかったが、しかし、残っていた滓のような箇所だけでも十二分に恐ろしかった。そうであるから、皆まで覚えていなくて逆によかったのかも知れぬ。
チエが言うには、「紅い光」はチエに「こっちへ来い」と呼びかけていた、という。だが、チエは「紅い光」など知っている筈も無かった。知っていれば、わざわざ近寄るような真似はすまい。ああだこうだと可能性を並べることはできるが、答えは池の底。届くことは無かろう。
「とにかく、無事でよかったよ。ぼくも、チエもね」
「そうだなぁ……志郎が、おらに口付けてくれんかったら、おら沈んじまってただぁ」
「う、うん……ごめんね、あの時は、ああするしかなかったんだ」
「なぁにを謝ることあるんじゃあ。おらは、初めてが志郎で良かったと思っとるんだぞぉ」
「……〜っ!」
平気な顔をして爆弾発言を積み重ねるチエを前に、志郎はまるで形無しであった。火事場の馬鹿力でもって、呼吸困難のチエに口付けた瞬間は随分勇ましかったが、それからはまた元の志郎に巻き戻ってしまったようだ。いつも通り、チエがどんどん押してぐいぐい引っ張る構図である。
「それと、志郎。おらのこと……」
「チエのこと……? どうしたの?」
「『チエ』、って呼んでくれるようになったんじゃなあ」
「……あれ? 言われてみると、確かに……」
「なんじゃあ、気付いとらんかったんかぁ。ははっ、細けぇところで鈍いなぁ、志郎は」
チエは、志郎が自分のことを「チエちゃん」ではなく「チエ」と呼ぶようになっていたことに気付いていた。あの瞬間からだ。呼称から「ちゃん」が外れただけのこと――表向きはそうであるが、実際のところの意味はまるで違う。距離が大きく縮まった証だ。
どぎまぎしていた志郎であったが、ふぅ、と一息入れて呼吸を整え、こくりこくりと二度ほど頷いた。チエの言葉を受け入れ、理解したようだ。
「そうだね。なんか、呼び捨てのほうが……心が通じ合ってる気がするよ」
「おらは、初めっから呼び捨てじゃったけどなぁ」
「チエはそういう性格だから、それでいいよ。ぼく、結構人見知りしちゃうから」
「人見知りはよくねぇぞぉ、志郎」
ごく普通の少年・志郎と、雨合羽の破天荒な少女・チエ。何もかもあべこべで、悉くちぐはぐな二人だったけれど、心が通じ合っているというのは間違いの無い事実だった。最初からこうなる事が決まっていたように、二人はうまく噛み合っていた。
それで、よかったのだ。凸凹で、けれど憎からず想いあっている少年と少女。二人の間柄は、それでよかったのだ。
それで――よかったと言うのに。
夕暮れ時。そのまま、なんとは無しに時間は過ぎて。
「いろいろあったけど、楽しかったよ、チエ」
「おらもだぁ、志郎」
二人は森を抜け、いつもの別れ道まで辿りつく。落ち行く夕陽を眺めながら、チエが志郎に語りかけた。
「志郎」
「分かってるよ、チエ。指きりだよね?」
「ははっ、もう言わんでも分かるかぁ」
いつものように小指を絡め合わせ、志郎とチエが揃って拍子を取る。
「行くよ。せーのっ……!」
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
指きりを終えたチエの表情は、とても満足げなものだった。左手を広げて、指の一本一本をしげしげと眺めながら、しきりにこくこくと頷く。
「ありがとなぁ、志郎。これで、明日も一緒だぁ」
「約束だからね。明日も、必ずチエのところへ行くよ」
「ははっ、おらの親指と小指は宝物だぁ」
「親指と親指?」
唐突に「親指と小指は宝物」と口にしたチエに、志郎が率直な疑問を即座に投げかけた。きょとんとした表情の志郎に、チエが説明を始める。
「んだ。小指は志郎との約束で、親指は――おっ母との約束だからだぁ」
「お母さんとの?」
「そうじゃあ。おっ母が出て行くときに、おらとおっ母で親指を引っ掛けて、親指で指きりをしたんだぞぉ。おっ母が『必ず帰ってくる』って、おらに約束してくれたんじゃあ」
親指は、チエが母と交わした約束の証だった。親指でもって、志郎とチエがいつもしているような「指きり」をして、母が必ずチエの元へ戻ると約束したわけである。小指は志郎との、親指は母との約束。一人ぼっちのチエが「宝物」と言うのには、明確な理由があった。
チエを少し上から見下ろす形の志郎は、チエが三年も戻らぬ母との約束を信じている様を見て、例えチエの母がこのまま永劫帰らなくとも、己が約束を守り続けることで、チエに希望を持たせてやれるのではないか、チエの側にいてやることが、チエにとって救いになるのではないか。志郎はそう思案した。
我ながら、随分とこっ恥ずかしいものだ。志郎はチエに対して一方ならぬ思いを携えつつも、併せてそのような感情に対して、青臭いものだと嗤う己自身も同居していた。感情の板挟みを喰らった志郎は、夕陽が照らすから悪いのだなどと言い訳し、微かに赤面するのだった。
「大丈夫。チエのお母さんは、必ず帰ってくるよ。それまで、ぼくが側にいるから」
「志郎……ありがとなぁ。おら、志郎のこと頼りにしてんぞぉ」
志郎が、思いをそのまま言葉にして伝えた。嗤いたければ嗤え。ぼくは、チエと一緒にいるんだ。本音が体裁を蹴り飛ばし、素直な言葉を口にすることができた。この方がよい、下手に体裁ばかり取り繕った所で、何の益もない。志郎は、照れ臭さをねじ伏せた。
二人が視線を交わし、そろそろ別れの時間――互いに、そう認識し始めていたときだった。
「くわばら、くわばら。危うくあのもの狂いに絡まれるところじゃった」
志郎が使う帰り道のほうから、見ず知らずの壮年の男が、ぶつくさと一人呟きながら、志郎とチエの立っている別れ道のほうへ向かって歩いてきた。二人が声の発せられた側へ向き直り、その姿を確かめる。
男は、義孝と康夫の丁度中程の歳頃に見受けられた。髪の薄くなった禿頭を頻りに撫で回しながら、よたよたとした足取りでもって道を歩いている。腹は大きく出っ張っており、歪んだ面構えも相まって、こう言っては狸に失礼であるが、「狸親爺」という言葉を人の形に置き換えたような男だった。
志郎とチエが、のしのしと少しばかりだらしない足取りで歩いてくる男を眺めておると、進む道の先に二人がいることに気づいた狸親爺が、二人の姿を濁った目に入れた。
「ん? お前は……」
声を上げた男を前に、志郎とチエが思わず身を固くする。男が二人に絡んでくるとは、思いもしていなかったためである。立ち止まった男の姿を凝視しながら、志郎とチエが互いの身を寄せ合った。
「おっ、お前……!」
「なんじゃあ、お前ぇ。おらたちになんか用かあ」
チエが警戒心を露にした声を上げると、狸は額にじっとり冷たい汗を浮かべ、
「し、知らんぞ! お前んことなぞ、知らん知らん! あやつが勝手に決めたことじゃ、わしゃ知らんぞ!」
狼狽え声を裏返しながら、狸親爺は元来た道を引き返し、その場から逃げるようにして……というより、そこから慌てて逃げていった。腰を抜かしそうになりながら逃亡する男に、志郎もチエも揃ってさっぱり分からぬとでも言いたげな面持ちを見せた。
見ず知らずの不審な親爺に絡まれそうな二人であったが、親爺が何か汗を垂らしながら勝手に逃げていったために、結局関わらずに済んだ。二人が顔を合わせてほっと息をつく。
「何だろう? あの人」
「知らねぇ。でも、怪しいのは間違いねぇだ」
「そうだね。絡まれなくてよかったよ」
「ははっ、おらに恐れを成して逃げちまったんだなぁ」
それから、二人はいつものように別れ、各々の道を歩いていった。
義孝の家まで戻ってきた志郎がまず目にしたのは、開け放たれたままの玄関の硝子戸と、乱雑に脱ぎ捨てられた一揃いの靴であった。健治のものだ。志郎は少々うんざりした面持ちで、玄関を避けて縁側の方へと向かう。健治と顔を合わせてはならぬ。関わらぬ方が良い結果を齎すものは多いのだ。
縁側から和室に上がり、麦藁帽子を取って畳に胡座をかく。襖一枚隔てた茶の間の側では、例によってと言うべきか、健治が声を張り上げて康夫と義孝に喚き散らしていた。
「どういう領分だ、あの鬼畜に何故敷居を跨がせたッ」
「話をする必要があったからだ。事務的な話だ」
「僕は理由など訊いていない、あまりにも馬鹿げているッ」
例によって、と記したが、これは撤回させて頂く。健治の剣幕は、平時の比ではなかった。その口振りはさながら凶器の類を縦横無尽に振り回す物狂いの様相で、康夫も義孝も文字通り手がつけられぬといった有様であった。ドンドンと卓袱台を叩く音の出所も、勿論健治であろう。
隣の部屋で息を潜める志郎は、必然的に健治の狂騒じみた言の葉の数々を耳に入れることと成った。
「だいたい、何もかもがおかしい。僕が正義である為に、皆が寄って集って僕を陥れようとしているッ」
「そんな事はない。誰も、お前を嵌めようなどとはしていない」
「『めぐみの雨』などという言いぶりがそもそもおかしな話ではないか。どのように言い繕っても、あれが只の狐憑きだったことはごまかせないのだぞ。分かっているのかッ」
「ごまかそうとか、そういうのとは違う。断じて違う」
「違わないぞ。あのせいで、あの出来事のせいで、獣の真似事をしていたとか、池の周りを徘徊するようになったとか、気が触れたかのように言われている。もううんざりだ。こんな不憫なことが、あってたまるかッ」
「健治。無責任な世間の物言いを、いちいち真に受けるんじゃない」
「僕は戦うぞ。今ではもう、雨を見る度に涙を流すだけの廃人になってしまった。それもこれも、皆あの畜生の、糞ったれの穀潰しの、剛三の責任だ。あいつに責任を取らせるのが、僕の義務だ、使命だ、天命だッ」
「健治、少しは落ち着きなさい」
義孝が諫める声も、頭に血が昇った健治には一向届く気配を見せない。健治は憤怒の炎を燃え滾らせ、矢継ぎ早に康夫と義孝に激しい言葉の釣瓶打ちを浴びせた。
「大体だ。地主如きに何の権限がある。生まれの血だけでのさばっている、役立たずの碌でなしでしかないではないか。そのような屑に、婚前の大事な娘を三夜も委ねるとは、何たる悪習か。これは罪だ、大罪だッ」
「悪い風習だったということは、皆もう分かっている。二度と起こる事はない」
「既に起きたことにはどう落とし前をつけるのだ。まだ清算はされていないぞ。そもそも、男と女の情のことではないか。何故縁もゆかりも滓ほどもない、あの男がしゃしゃり出て来るのだ。合点のいく説明をしてみよ。できぬではないか。こんな茶番で丸め込まれていたような頃は、もうとうに過ぎたのだッ」
「あれは皆が間違っていたのだ。だから……」
「だから何だというのだ。知った風な口を利くな。いいか、今に見ていろ。この日和田の有様を、僕が洗い浚い表沙汰にしてやる。剛三に言い逃れなどさせぬぞ。僕はあの色狂いの獣と刺し違えてでも、正義を貫いてやるッ」
「表沙汰にして、苦しむのは山科だけではないのだぞ」
「道連れだ。道連れにしてやる。物の怪たちのように、死に際に仇敵を道連れにしてやるんだ。剛三の、あの腐れ外道の心の臓を抉り出して磨り潰してやらなければ、魂の行き場所がないッ」
いつに無く気を吐く健治に、志郎は背筋が寒くなる思いがした。健治の言葉が尋常でないものになっているのは、誰が見ても聞いても明らかであった。怒り狂う、という言葉がここまで相応しい様相もあるまい。意味はほとんど分からなかったが、時折飛び出す「道連れ」「死に際」などという言葉からも、健治の精神状態が均衡を欠いているのは嫌というほど判った。
「僕がこうして手を打ったから、剛三は慌てて何もかも『水に流そう』等と浅知恵を働かせている。そうは行くものか、僕があの糞ったれの画餅に墨を塗りたくってやる。絶対にだッ」
「それとこれとは話が違うと、前々から何度も言っているではないか」
「都合が悪くなったから、何処の馬の骨とも知れぬ都会の阿呆共の尻馬に乗って何もかも無かったことにしようなど、馬鹿の極致だ。水溜りなどこんなところに作らずとも幾らでもある。なんとしても阻止してやるんだッ」
「どうして分からぬのだ。そんなことをしても、何もならぬ」
「僕の心は満たされる。一矢報いてやらねばならぬのだ」
「健治、お前はどうして分かってくれぬのだ。必要なのは、もうこれ以上ことを荒立てないことだろう」
「兄さん、兄さんには分かるまい。どれだけ大切であったか、どれほど心を通わせていたか。同じ屋根の下に、ずっと一緒に居たんだ。だから僕は誓った。この身を捧げようと、滅私奉公に努めようと。もう一度笑顔を取り戻せるのは、僕しか、僕しかいないんだッ」
「健治」
「あのような目に遭わされて、平常でおれるか。兄さんは何も分かっていない。馬鹿に平然としている、体面ばかり繕っている。兄さん、あいつは、兄さんの――」
「いい加減にしろ、健治。今日はもう帰れ。これ以上触れてくれるな」
珍しく語気を荒げた康夫に、志郎はまるで己ばかりが取り残されたような心持で、不安ばかりが募るのだった。
(ああ、早く明日にならないかな。そうすれば、チエと一緒に遊べるのに)
思い浮かぶのは、当然と言うかやはりと言うか、チエの姿だった。家にいる時間とチエと共にある時間は、あまりにも対照的で違いがありすぎる。チエと一緒であれば、己の立ち位置に困ることなどない。チエは自分を慕い、そして自分はチエと一緒にいられることを純粋に喜べる。ややこしいことは、皆忘れられる。
明日になれば、またチエと遊べる。この家に居らずに済む。一刻も早く陽が落ち月が昇り、そして次の日が訪れればよいというのに。志郎は和室で息を潜めながら、只々時が過ぎるのを待ち続けた。
暫く間を置いて、健治が漸く出て行ったようだ。志郎がそのまま畳の上で寝転んでいると、すーっ、と襖が開いて、義孝が和室に顔を出した。志郎は起き上がり、軽く身なりを整える。
「お帰り、志郎」
「ううん、大丈夫だよ。叔父さん、もう帰ったの?」
「ああ。待たせてすまないね」
志郎はほっと息を吐くと、転がしていた手提げを手に取り、茶の間へ戻った。
晩飯に出された鯛飯と鯛の活け造り、そして粗汁を掻き込む様に食べ終え、軽く風呂を浴びて汗を流すと、志郎は昼間の出来事の疲れもあって、そのまま倒れこむように布団に入ってしまった。
「このままでは埒が明かない。堂々巡りだ」
「もうここに作るというのは決まっているのに……反対しておるのは、健治だけだ」
「悪い方へ転がらぬようにしなければ……」
未だ深刻顔で話し合う康夫と義孝の声は、夢へと落ちてゆく志郎にはもう届かなかった。
物の怪たちと池で戯れ、暫く思う存分遊んだあと、志郎とチエは風のよく通る木陰に腰を下ろし、小休止を入れていた。
「チエちゃん、ここ面白いね。池もそうだし、ポケモンもたくさんいるし」
「そうじゃろ、そうじゃろ。おら志郎を一遍連れてきてやりたかったんじゃあ」
「うん、ありがとう。ぼく、すごく気に入ったよ」
「ははっ、熱軍鶏も志郎のことが気に入りよったみてえだなぁ」
いつの間にやら志郎の隣にやってきて、ちょこちょこと戯れ付いてきたアチャモを軽く撫ぜてやりながら、志郎は顔を綻ばせた。そっと拾い上げて抱いてやると、暑さとは違うほんのりした『熱さ』が、じんと体の芯まで伝わってくるようだった。ヒトモシといいアチャモといい、火に絡む物の怪に懐かれる志郎である。
そうかと思うと、今度は頭上に何かが乗っかる感触がした。頭はそのまま視線だけを上に上げてみると、雲のような綿羽をくっつけた青い小鳥、もといチルットが、志郎の頭に座っていた。アチャモを抱えていた左手をそっと離して、ちょこんと乗っかるチルットを撫でてやると、うれしそうに体を振るわせる。人の頭に乗るのが好きと言うから、このまま放っておいてやるのが一番だろう。
物珍しさに、代わる代わる志郎に近寄ってくる物の怪たちの相手をしてやりながら、志郎はふと、チエに話したいと思っていたことがあったのを思い出した。
「ねえ、チエちゃん」
「ん? どしたぁ、志郎」
「物の怪の話なんだけどさ、チエちゃん、『河童』って知ってる?」
この問いかけを受けた、チエの答えはと言うと。
「かっぱぁ? おら胡瓜は嫌ぇだぞぉ」
「きゅうりって……ああ、『かっぱ巻き』のことだね。うーん、それとは、関係あるような無いような……」
チエは「胡瓜が嫌い」と答えた。志郎も言ったがかっぱ巻きのことだろう。あの「静都妖怪大全」には「河童は胡瓜を好む」と書かれていたし、「かっぱ巻き」の語源は河童にあるとも書かれていたので、まったくの無関係ではないのだが。
ともあれ、チエは河童を知らないようだ。これ幸い、とばかりに、志郎がチエに河童についての講釈を垂れ始めた。水に住んでいるところから始まり、不思議な力を持っていること、大の大人も敵わないような怪力を持っていること、大人になると「水神様」と呼ばれて水の護り神となること。登紀子から聞いた話を、丸々チエに教えてやった。
「へぇ、そんな物の怪がおるんかぁ。会ってみてぇなぁ。おらも水辺に住んどるからなぁ」
「そうなんだ。なんか、不思議な力があったり、水辺に住んでたり……河童って、チエちゃんとよく似てるね」
「そうかぁ? やっぱり面白ぇこと言うなぁ、志郎は」
でも、河童なんて知らないよ――それがチエの答えだった。チエがそう言うのであれば、正しいに違いない。
「この池、端から端までかなりあるね。深さも、結構あるんじゃない?」
「そうじゃと思うけどなぁ、おらも底まで潜ったことはねぇなぁ」
「チエちゃんって、池に潜ったりするの?」
「んだ。おら、一遍も息継ぎせずに十分は潜ってられんだぞぉ。息こらえはおらの得意技じゃあ」
「十分も!? それ、すごすぎるよ……」
池の底についての話を出した途端、チエの目の色が変わった。なにやら興味を示したようである。一体何を企んでおるのだろうか。
「そうじゃ、志郎! いいこと思いついたぞぉ」
「いいこと?」
「おらと一緒に、この池の底まで潜るんじゃあ」
「えぇっ!?」
突拍子もない、いやチエは常に突拍子もないことばかりしているが、それはともかく。志郎の声が素っ頓狂に裏返るほど突飛な提案をしてみせた。今から自分と一緒に、池の底まで潜ってみようなどと言い出したのである。チエの瞳はキラキラ輝いている。冗談では無さそうだ。
チエは問題ない。息継ぎ無しで十分も潜っておれるというのだから、水の中でも自由自在に動けることだろう。問題は、志郎のほうである。志郎はチエのような人並み外れた力を持っているわけではないから、そうそう長々と水中で活動できるものではない。
「チエちゃんは大丈夫だと思うけど、ぼくは無理だよ。そんなに長く潜れないし」
「心配すんなぁ。おらがお天道様にお願いして、志郎を潜れるようにしてやるぞぉ」
「ホントに? でも、どうやって?」
「おらが、志郎と水が『仲良く』なれるようにしてやるだぁ。ちと、服脱いでくれんかえ?」
「ふ、服脱ぐの!? ち、ちょっと待って。ぼく、水着に着替えてくるから……」
一言断り、志郎が手提げを持って木陰へ走る。ちらちらとチエの様子を横目で伺うような伺わないような中途半端な確認を繰り返しつつ、志郎は上下の服と下着を脱ぎ去り、水遊びに備えて持ってきてあった水着に着替えた。
戻ってきた志郎に、チエは「お天道様」にお願いするときに見せる、両手を差し出した体勢をとる。その後、両腕を空中で交差させ、目の前にいる志郎に向けて念を送り始めた。志郎は唾をごくりと飲み込み、これから己の身に何が起きるのかを注視していた。
暫くの間は何の変化もなかった。交差させた腕をピクリとも動かさず、チエが瞼を下ろす。何度か深呼吸をして、体の中と外界の「波」を同期させた後、チエが両手の指先を波のように上下へゆらゆら揺らし始めた。指先の動きを追っていると、志郎はチエが送ろうとしている「波」が、頭での理解よりも先に体に沁み込んでくるのが分かった。自然と目を閉じ、成り行きに任せることにする。
人の体のおよそ七割から八割ほどは、水分で成り立っていると言う。余り語弊のある言い方はすべきで無いが、人体と水が密接な関わりにあるということに間違いは無い。チエがそのことを体系的に知っているとは思えぬが、本能的には深いところまで理解しているようだった。
体が宙に浮いていく、これは正確ではない。水の中へ沈みつつ、浮かんでゆく。どちらだろうか。どちらでもない。水の中へ沈んでいくというよりも、水が中へ入り込んでいく。そちらの方が近い。志郎は夢を見ているかのような掴みどころの無い浮揚感に、その身をたゆたわせていた。
チエから送り込まれてくる念波。これは一体何かと考えたとき、志郎は脳裏に、水面を走る波の映像が浮かび上がった。『水の波動』、その言葉が適切に思えた。チエから送り込まれる『水の波動』に体が同期し、己が「水に近しい」存在となっていくのが分かる。
やがて、冷たく心地よい感触が、足のつま先を基点として徐々に徐々に上までせり上がり、内外共にその感覚で満たされた。ここまで来て、志郎が閉じていた目をすっと開いた。
「……よし。これで大丈夫じゃあ。志郎は今、水と仲良しになっただぁ」
「うん……うまく言葉にできないけど、今なら、水の中にも潜れそうな気がするよ」
地に足は着いている、だが、浮いているような感触がする。水袋にでもなったような心地だ。体の具合が変わり、今一つ歩き慣れない志郎の様子を察したチエがさっと彼の手を取り、共に池へと向かう。足から静かに池へと身を沈め、志郎とチエが、池の中へと沈み込んでいった。
水の中に入った、という感触は伝わってこなかった。自分自身が水のようなものになっているからに他ならない。地上での歩き辛さとは打って変わって、水中では上・下・左・右・前・後、どの方角に向けても自由に進めそうだった。隣にいるチエが、志郎に向けて笑う。
(どんなぁ具合じゃあ? うまく潜れそうかえ?)
心にチエが直接語りかけてくる。念力を使っているのだろう。志郎は口で答えようとしたが、水中ではうまく声が発せない。どうすればよいか思案したが、実はそれが正解だった。
(口に出さんでも大丈夫じゃあ。おらに言いたいことを思うだけでええぞぉ)
(ぼくの言葉、伝わってる?)
(伝わっとるともぉ。ぜぇんぶお見通しじゃあ)
チエが志郎に流した『水の波動』は、志郎の言葉をチエに伝える、音としての『波動』の意味も持っていた。志郎は頷き、チエと手をつないで池の底へと潜っていく。
中では池の周囲や水面付近では見られない物の怪たちが、至るところに姿を見せていた。墨を垂らしたような堂々たる紋様を持つアズマオウが鰭を揺らしながら悠々と泳ぎ、横ではハリーセンが水を多量に取り込み、小さな体躯を何倍にも大きく見せて威嚇している。近くにいたキバニアが、膨れたハリーセンに恐れをなしてそそくさと逃げていった。
(暗いね、ここ)
(そうじゃなあ。そんな深く潜っておらんはずなんじゃけど)
(水が濁ってるわけでもないし、どうしてだろうね)
まだそれほど深くは潜っていないにも拘らず、周囲に光が届かなくなってきた。水が濁っているわけではない。むしろ、ここまで清らかな水は珍しかろうというほどに、この池は澄んでいた。光が届かぬ理由が分からない。志郎は水中で首を傾げた。
一度も呼吸をせずとも悠々と泳ぎ回るチエに、志郎が心配して声を掛ける。
(チエちゃん。息継ぎしなくて、大丈夫なの?)
(全然平気だぁ。おら水の中の方が好きなくれぇだからなぁ)
(無理しちゃだめだよ。苦しくなったら、すぐに上がろうね)
(志郎は心配しいだなぁ。大丈夫じゃよ)
チエがそう言うのであれば――志郎はこれ以上心配するのは却ってよくないと考え、今は気にしないことにした。
二人は深く潜るのを止めない。チエは自分にも『水の波動』を流し、水圧を文字通り「受け流して」いるようだった。
(おぉ、見てみぃ、志郎)
(わ……あの魚、体が光ってる?)
(『蛍光魚』じゃあ。お天道様の光を溜め込んで、水ん中で光るんだぞぉ)
(そうなんだ……ぼく、初めて見たよ。きれいだね)
光の遮断された水底付近では、さらに独特な風貌の物の怪たちが暮らしていた。チエの言う『蛍光魚』、もといケイコウオ、共に発光しながら並んで泳いでいくネオラント、暗い水中で辺りを照らすチョンチーにランターン。そして、ランターンが照らした先に――
(あ、あれって……!)
――大きな横穴にずんと居座る、大きなナマズンの姿があった。
ナマズンを見た志郎は、思わずぎょっとした。物知りの級友から、「ナマズンは縄張り意識が強く、近づく者に攻撃する」という話を聞いた記憶があったためである。触らぬ神に祟りなし。そうとばかりにそそくさと離れようとしたが、直前になってナマズンがのっそりと薄目を開き、志郎と目を合わせた。
見つめられると目が離せぬもので、水底にでんと鎮座するナマズンとばっちり目が合ってしまう。隣にいたチエは、志郎が一点を見つめて動かなくなったことに気付き、その視線の先を追ってナマズンの姿を見つけた。固まっている志郎に対し、チエは平時通り、興味津々といった面持ちでナマズンを凝視している。気付いた志郎が、慌ててチエに呼びかける。
(のんびりした顔つきだなぁ。物の怪かえ?)
(ち、チエちゃん……! 怒らせちゃまずいよ、早く向こうに……)
(気にするでない、小僧。わしは、別に怒ったりはせんよ)
一刻も早くここを立ち去りたい志郎に、チエは相変わらずの調子で応じる……どうも、チエにしては口調が古めかしいし、声色もまるっきり異なっているような気はするのだが。
(もう、チエちゃん! こんな時に、そんなおじいちゃんみたいな口調で話してないでさ!)
(なぁに言ってんだ志郎。おら爺さんの真似なんかしてねぇぞぉ?)
(えっ? でもさっき、『わし』とかどうとか……)
(おおい、小僧。わしじゃよ、わしわし)
(……ナマズン!? ナマズンがしゃべった!?)
志郎に語りかけてきた声。それは、他ならぬナマズンであった。のっそりと這うように横穴から身を乗り出し、口を開けたままぽかんとしている志郎と再び目線を合わせた。ナマズンは、訳が分からぬといった面の志郎を可笑しげに眺め回し、しわがれた声を心へ流し込み始めた。
(驚いているようであるな、小僧。隣の小娘の方が、どっしり落ち着き払っておるではないか。男児たるもの、いつ何時も沈着さを失うてはならぬぞ。この、わしのようにな)
(ナマズンが……ぼくの心に……)
(鯰の爺さん、おらはチエっていうだ。爺さんも物の怪なのかえ?)
(いかにも見立て通り。その様子では、お前さんは普段から物の怪たちと話をしておるようであるな)
ナマズンは、ある意味当然とも言えるが、チエとも心中で会話していた。とりあえず現状を飲み込むことにした志郎が、軽く水中を縫ってチエとナマズンの間に立つ……立つというと語弊があり、実際には浮いておるのだが、ここは委細を問わず「立つ」とさせてもらおう。
(斯様な場所に遊びに来るとは、案外肝の据わった小童もいるものであるな。よい退屈凌ぎじゃ)
(ははっ、おらに怖いもんなんかねぇぞぉ。なぁ、志郎)
(えっと……ぼくには、それなりにあるんだけど……)
(なんじゃ、情けないのう、小僧。この小娘、チエと言うたか。お前さんもチエを見習うがよい。豪放磊落にして天真爛漫、これぞ小童の鑑であるな。初めから小さく纏まるのが粋と思うておるなら、大腑抜けの大間違いであるぞ)
(うぐ、そう言われても……)
いやいや、チエは容易に真似できるものでもないだろう……二人に探られぬ心の片隅で、志郎が小さく思いを零した。
(そういえば、ナマズンさんは、この池の『ぬし』なんですか?)
(いやいや、わしはこの童ヶ淵に住まわせてもらっている、しがない老いぼれに過ぎんよ)
(爺さん、ここの主じゃないのかえ? おらには一番偉く見えるけどなぁ)
(わしもそこそこは年季が入っておるがな、ミズガミには敵わぬよ)
聞きなれぬ名前に、志郎が鸚鵡返しで問い掛けた。
(ミズガミ? 誰ですか? その、ミズガミっていうのは……)
(知らぬのか、小僧。この童ヶ淵を護っておる物の怪じゃよ。わしも力では引けを取らぬが、あやつは不可思議な力を使う。物の怪というより、神様に近い存在であるな)
(うわぁ、なんだかすげぇのがいるみてぇだなぁ。おら、会ってみてぇなぁ)
(悪いことは言わぬ。止めておけ、チエ。ミズガミは人を好まぬ。連れ合いを亡くしてからは、特にな)
(連れ合い……もしかして、好きな人がいたんですか?)
(なんじゃ、意外に知りたがりな小僧であるな。やはり小童はこうでなくては。とは言え、わしもあやつが連れ合いと一緒にいるのを目で見たわけではないがな。わしの周りに、あれこれと噂を持ってくる小間使いがいるんじゃよ)
(そういうことなんですか……)
(噂話でよければ、お主らにも一つ教えてやろう。小間使いが言うには、この池に入水しようとしたところをミズガミが引き止めて、それから二人で連れ合うようになったそうな。羨ましい話であるよ)
話好きのナマズンから、『ミズガミ』についての面白い話を聞くことができた。自害しようとした相手を引きとめ、そのまま結ばれたというのである。真実かどうかは定かではないが、与太話の一つとしては面白かろう。
(ありがとなぁ、鯰の爺さん。また、遊びに来てもええかえ?)
(いつでも構わんよ。わしはこの通り、暇を持て余しておるからな)
(分かったぞぉ。それじゃ、おらたちそろそろ行くだ)
ナマズンにひらひらと手を振り、チエが去っていく。
(ナマズンさん、ありがとうございました。じゃあ、ぼくもこれで……)
(待てい、小僧)
続いてチエを追いかけようとした志郎だったが、後ろからナマズンに呼び止められた。
(えっ? あの、何か……)
(よければ、後でチエとやらに伝えておいてくれぬか。その心意気は大いに気に入った、また遊びに来て欲しい。じゃが――)
口元ににいっと笑みを浮かべて、ナマズンが志郎に言付ける。
(――わしは、こう見えても爺さんではなく婆さんだ、とな)
思わぬ告白をしたナマズンを前にして、志郎はその目を真ん丸くせざるを得ないのだった。
ナマズンの爺さん……ではなく婆さんと別れたチエと志郎は、水中の探索を続ける。潜ってからそろそろ五分が経とうとしているが、チエはまるで変わらず楽しそうに泳ぎ回っている。志郎に流した『水の波動』もまったく揺らぐ事無く、二人は池の中を泳ぎ続けた。
――そうして、暗い水中に時折現れる物の怪たちと戯れながら、志郎とチエが泳ぎ続けていたときのことだった。
(志郎、向こうが光っとるぞぉ)
(本当だ。赤い光だね)
池の底の、さらに窪んだ「奥底」とでも呼ぶべき場所。赤い――いや、紅い光が見えたのは、そこであった。ケイコウオやチョンチーの光にも既に慣れっこになっていた二人は、それまでにない「紅い光」に強く興味を惹かれた。何やら怪しげで、他とは違う匂いを芬々と漂わせている。
好奇心、という名前の紐に引き摺られ、志郎とチエが「奥底」を目指す。紅い光は初めて目にしたときから一瞬たりとも消える事無く、二人の前で煌々と輝き続けている。あれは一体何なのか。見たことの無い物の怪のものではなかろうか。二人は、紅い光の直ぐ近くにまで接近した。
泳ぐのを止め、志郎とチエが紅い光の前で動きを止める。紅い光は池の底、その奥に位置する洞穴から発せられていた。
(なんだろうね、あれ)
志郎がチエに問いかけた。チエにも分からぬと見えたが、見知らぬものを見てあれこれと仮説を立てるのは、往々にして面白いものであると――
(……呼んどる……?)
(……チエちゃん?)
――そのように考えていた最中のことであった。
(おらのこと……呼んどるのかえ……?)
(チエちゃん? どうしたの?)
様子がおかしい。チエの目つきが違う。志郎はチエの側まで寄り、様子を窺う。
(……い、いやじゃあ……おらの、おらの……)
(ち、チエちゃん? 大丈――)
直後。
(おらの……おらの中に入ってくるでねぇ!!)
――チエが、水中でもがき始めた。
(チエちゃん!? チエちゃん!)
(いやじゃあ、いやじゃあ……! やめとくれぇ、やめとくれぇ!)
(一体……一体どうしちゃったの!? チエちゃん!)
じたばたと暴れるチエを抑えようと、志郎がすぐさま近づく。とにかくチエを捕まえねばと、両手を差し出してチエを抱き込もうとする――だが。
(う……わっ!? し、痺れる……!?)
チエの体に触れた途端、毛が逆立つような電流が、志郎の全身を駆け抜けた。思わずチエから手を離す。今のは一体なんだ、静電気か何かか。先の現象は、志郎の理解を超えていた。ともかく言えるのは、チエが尋常ならざる状態に陥っているということだけだ。
もがくチエを横目で見ながら、志郎はあの「紅い光」に目をやった。紅い光は、先程見たときよりも一際輝き、見たことも無いような不気味な波動を発しているように思われた。直感的に、チエを苦しめているのはあの「紅い光」であると、志郎は考えた。あれを覗いて、近くに要因となりそうなものは何一つとして存在しない。
異変はチエだけに留まらなかった。隣にいた志郎も、頭がズキズキと痛み始めるのを感じていた。チエのときと同じ、あの不快で苦痛な、出所の分からぬ頭の痛みだ。あれに輪をかけて強い痛みが、チエのときと同じ間隔で志郎を襲う。苦痛に顔を歪めつつ、志郎はチエの声に心を傾けた。
(離しとくれぇ! おらを縛って、なんになるんじゃあ!)
(おらはおめぇのことなんて知らねぇぞぉ! だから、だからやめとくれぇ!)
縛られている、とチエは言った。縄や綱の類は見えぬから、本来の意味で「縛っている」わけではあるまい。そうなると真っ先に思い当たるのは、所謂「金縛り」の類か。志郎がチエに触れた直後に痺れが走ったのは、チエに掛けられている「金縛り」の霊力が漏出していたから――そのように考えられた。
鼓動が高鳴る。目の前で、チエがもがき苦しんでいる。志郎は何をどうすればよいのか、頭が真っ白になった。
(どうして、どうしてこんなことをするんじゃあ!)
(そんなの……信じねぇぞぉ! おらは……おらのおっ母は……!)
次の瞬間、苦しそうに胸を押さえながら、チエが体を丸め、口から大きなあぶくを吐き出した。恐慌状態に陥って、止めていた呼吸を無理に再開しようとした結果だった。このまま放っておけば、チエがどうなるかは――考えずとも、既に「目に見えて」いる。
真っ白になった志郎の頭に、畳み掛けるように飛び込んできたもの、それは。
(志郎、志郎、志郎……! おら、苦しいだぁ……)
(息が……おら、息できねぇ……!)
チエの悲痛な叫び。前後不覚に陥っているチエが、志郎に伝えようとしたものだ。チエの瞳はぼんやりと濁り、四肢は力なく水中に投げ出され、口から出てゆく泡は、だんだんとその数と分量を減らしてゆく。
志郎はチエの言葉を心に叩きつけられ、他のありとあらゆるすべての考えが粉微塵に消し飛び、ただ、チエのことだけしか考えられなくなった。
ただ――チエのことだけしか。
(だめ、だぁ……おら、もう、力が入らんぞぉ……)
チエ……
(苦しい……もう、息が、止まっちまいそうだぁ……)
チエ、チエ……
(助けてくれぇ、志郎……志郎、志郎……!!)
チエ、チエ、チエ、チエ……
(お願いだぁ……おら、このままだと――)
チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ、チエ……
(おら――死んじまうだ……)
チエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエチエ――!
(――チエっ!!)
猛然と水を蹴飛ばし、志郎がチエに突撃した。「紅い光」からチエを奪い取り、冷たくなり始めたチエの体を抱き抱えた志郎は、直後、寸分の迷いも無く――
(チエ! 目を覚まして!!)
(……!!)
――チエに、口付けた。
青紫色になったチエの唇を舌でこじ開け、志郎が口を覆いかぶせる様な体勢を取った。気を失いかけていたチエが、志郎の口付けで目を覚まし、文字通りの「眼前」にいる志郎を目を見開いて見つめる。志郎は優しい目でチエを見つめ、ゆっくりと、口から呼気を吹き込んだ。
チエの気管に、志郎から送り込まれた空気が流れ込んでいく。呼吸ができなくなっていたことで機能停止寸前にあった器官が、これまた文字通り「息を吹き返し」、徐々に徐々に落ち着きを取り戻していく。乱れていた脈は、やがて安定した律動で血液を送り始め、冷たくなっていた四肢が熱を取り返していった。
自然とチエも息を吐き、志郎に送り返していく。一方が息を吸うともう一方が吐き、一方が吐くともう一方が吸う。二人は一つとなって、三度文字通り「呼吸を合わせ」る。何度か繰り返すと、チエは完全にその意識を取り戻した。濁っていた瞳は輝きを、浮遊していた四肢は力強さを、絶え絶えになっていた呼吸は規則正しさを、それぞれ蘇らせた。
(志郎……志郎……!)
(もう大丈夫だよ、チエ。ぼくが、側にいるから)
(……うん。志郎、ありがとぉなぁ……)
ここは池の中、即ち水中。例え涙を流したとしても、それは直ちに池の水と入り混じり、姿を影も形も留めない。だからこそ……涙を流すには、都合のよい場所とも言えた。
チエを救って見せた志郎の姿を、「紅い光」はじっと見つめ続けていた。
(……触るな。これ以上、チエに触るな)
(触ったら……ぼくが、お前を許さない)
志郎は、横目でギロリと「紅い光」を睨み付けた。平時の温和な姿からは欠片も想像もできぬ、「殺意」に近い強烈な敵愾心を帯びた鋭い瞳だった。
だが、その瞳もひとたびチエを捉えると、今度はまた平時からかけ離れた、途轍もなく優しいものへと変貌する。チエはすっかり安心し、しっかりと呼吸を整えた。
(……志郎、捕まっとってくれんかえ)
(これから、何かするつもり?)
(おらがここから、一気に水面まで上がるんじゃあ。志郎、体を預けてくれえ)
(分かった。チエに、みんな任せるよ。さあ、始めて)
チエに全幅の信頼を寄せる志郎の瞳をじっと見つめた後、チエが志郎との口付けを止め、視線をわずかに光の見える水面へと向けた。目指すは、あの光の向こう側だ。志郎はチエの雨合羽に両腕を回してしっかりとしがみ付き、チエが上へ動き始めるのを待っている。
両目を閉じ両腕を重ね両足を絡めあい、チエが無音で念を唱えた――その直後。
(……!!)
絡めあった両足が水を強かに蹴り、チエと志郎が水面へ向けて一気に上昇していく。ぐるぐると渦を巻き、水をえぐるような動き。それはさながら、地面から大空へと飛び立つ『ジェット』の如く。チエは志郎を抱え、一心に水面を目指す。
(ぐっ……!)
(もう少しじゃあ……堪えてくれ、志郎……!)
チエの掛けた「水の波動」の効力が切れたのか、志郎が顔を歪める。水と近しい存在であった時間は終わり、今の志郎は、最早ただの生身の人間でしかない。チエは志郎が気を失わぬように念力の膜で保護してやりながら、あくまで上へ上へと突っ切っていった。
水底から「離陸」してから、およそ二十秒後――。
『ぷはぁっ!!』
二人が、一思いに水面から顔を出した。止めていた息を一気に吐き出し、自由に息が吸えることを確かめる。
「はぁっ、はぁ、はぁ……」
「はあ〜っ、はっ、はぁっ……」
あの瞬間から二十秒近く息を止めていたものだから、今度は志郎が倒れそうになる有様だった。顔面から少しばかり血の気が引き、いつもにも増して色白になってしまっている。チエはチエで、水底から一気に水面まで上昇する為にかなりの力を使ったようで、こちらも疲労の色が激しい。
水面近くをたゆたい、十二分に呼吸を整えた頃になってようやく、二人が顔を見合わせた。
「チエ、大丈夫?」
「志郎こそ、大丈夫かえ?」
「ちょっと息苦しかったけど、もう大丈夫。チエのおかげだよ」
「おらも……志郎のおかげで助かっただぁ。ありがとなぁ、志郎」
今こうして「口」で会話できる喜びを、二人は揃って噛み締めた。水の中では、こうは行かぬ。
「でも、チエはすごいよ。あんなに深いところから、一気にここまで上がって来れるなんて」
「『水推進』(すいすいしん)の業じゃあ。水ん中で体を捻って、道をこじ開けるって寸法だぞぉ。ちと力がいるけどなぁ、うんと速く進めるようになるんじゃあ」
「ありがとう、チエ。無理させちゃって、ごめんね」
「何の何のぉ。おらにとっちゃあ、こんくらい朝飯前じゃあ」
危機はもう過ぎ去ったのだ――二人は笑いあいながら、岸に向かって泳いでいった。
月が輝き星が瞬き、梟とホーホーが織り成す鳴き声の合唱が、帳に降りた夜に響き渡る。延々続くかと思われた合唱がひっそり幕を下ろす頃、陽が再び上り始めた。
志郎は例によって早く目を覚まし、いつものように先に起床して飯の支度をしている義孝の手伝いをする。義孝に早起きを褒められつつ、日の上りきっていないやや薄暗い中で時間を過ごすのは、志郎にとってなかなか気持ちのよいものであった。
刻んだキャベツに焼きあがった目玉焼きを盛り付ける頃に康夫が起き出し、朝食の時間と相成る。湯気を立てる白米と麦の混ぜ飯を右手に、雌株に淡口醤油を入れて掻き混ぜる志郎の横では、昨日も目にしたような、康夫と義孝による志郎不在の空中戦が展開されていた。
「健治をあのまま放っておいたら、山科のところへ怒鳴り込みかねない」
「止めねばならんのは分かっておる。もう、これより拗れるのは望んでおらんはずだ」
「それは俺も同じだ。だが、健治は違う。どうにかして、仮夜の件とか、狐憑きの件を、表沙汰にしようとしている」
「これ以上、恥を晒してどうするつもりなのか。家を取り崩したいなら、そう言えばええと」
「仮夜は、日和田全体の悪習で、狐憑きは誤解だ。それが家を取り崩すことになると、健治は理解していない」
「家は、もうええんじゃ。これも皆、儂が不甲斐ないばかりに」
竹輪と若布の入った澄まし汁を啜りながら、志郎は二人の会話にはこれといって興味を示さず、この後一緒に遊ぶであろうチエのことばかりを考えていた。今日もまたチエは、いつもと同じ黄色い雨合羽で川へやってくるに違いない。自分はチエと待ち合わせて、日が暮れるまで遊べばよい。難しいことは、考えなくてもよいのだ。
朝飯を食べ終えた志郎は、義孝に頼んで昼飯に握り飯を作ってもらい、昨日と同じ按配で手提げに突っ込んだ。出かける準備を整え、志郎が家から出て行く。康夫と義孝は一昨日にも増して深刻顔で話をするばかりで、正味な話、同じ部屋にいるとこちらまで気が滅入ってきそうだった。
縁側の下で眠りこけていたヒトモシを軽くつついてやると、ヒトモシはひょっこり目を覚ました。朝飯代わりに、冷蔵庫から失敬してきたカップ入りの水羊羹を渡してやる。昨日と同じように目を輝かせ、ヒトモシは一思いに水羊羹を平らげた。こやつの甘味好きはまさに筋金入りである。
傍らにヒトモシを連れ、チエと待ち合わせているいつもの川辺へと向かう。相変わらず蝉がみんみんと喧しく鳴き、耳にしているだけでじりじりと暑さが増してくるような感触がする。だが、これもまた夏の風物詩の一つではないか。蝉の鳴かない夏など、実に味気ない。少なくとも、ここ日和田においてはそうだ。
川が見えてきた。麦藁帽子のつばを少し上げ、志郎が遠方に目をやる。川岸で何かが動いているのが目に留まった。黄色い服を着た子供のようだ。間違いない。この時点で志郎は確信した。今日は相手方の方が一足早かったと見える。別に競争しているわけでもないのだが、どちらが早いか云々を意識するのは、子供の時分にはよくあることだ。
チエの姿が明瞭に見えるところまで歩いて、一旦そこで立ち止まった。チエが何をしているのか、声を掛ける前に見極めておこうと考えたためである。チエは、河原に無数に転がる石をあれこれと選別し、これはと思うものを拾い上げ、てけてけと川縁まで歩いていくと、ひょいと反対側に向けて投げる、ということを繰り返していた。そういうことか。志郎は得心し、チエの元へ駆け寄った。
「おはよう、チエちゃん。水切りの練習?」
「来たかぁ、志郎。んだ。昨日志郎に教えてもらったのを、おら特訓してんだぞぉ」
昨日志郎に見せてもらった「水切り」を、チエは熱心に練習していた。石の選び方、投石の構え方、力の入れ方。志郎は細々としたところまで手本を見せてやり、チエは一つ一つ聞き漏らさずに耳に入れていた。それを、今ここで実践しているというわけである。
チエは得意気な面を見せて、河原から平べったい石を一つ取り上げると、ごく軽く振りかぶって向こう岸へと向けて投げた。石は水平に飛び、やがて自重で川面に着水すると、ぱちゃんと小さな波紋を残して再び跳ね上がり、またも着水しては跳ね上がり……を二度三度と繰り返し、五度目の跳ねで勢いが足らずに入水した。
昨日は力任せにぶん投げて盛大な水飛沫を上げていたことを勘案すると、チエの上達ぶりには目を見張るものがあった。一日練習しただけでここまで様になる水切りをやってのけるのは、並大抵のことではない。志郎はチエの水切りの様子を見て、素直に拍手を送りたいという気持ちになった。
「すごいよ、チエちゃん! 一日でこんなに上達するなんて」
「ははっ、おらも嬉しいぞぉ。石が水ん上をぴょんぴょん跳ねてくのって、気持ちいいなぁ」
「さすがだね。よく練習したよ」
志郎が右手を差し出して、チエの平時と変わらぬおかっぱ髪を撫でてやる。くすぐったそうな表情を見せて、チエがやわやわと小さく身を捩った。照れているのである。難しい顔ばかりしている大人たちに比べて、チエの快さといったらなかった。側にいられることの幸せを、噛み締めずにはおれぬ。
暫くそうしてチエの側に立っておると、足元の小さな影が動いた。ヒトモシである。ごつごつした石が所狭しと居並ぶ河原で難儀そうに一つ一つ石を越えながら、ようやくチエの元まで辿り着く。額(ヒトモシは全身が顔のようなものなので、どこからどこまでが額と問われると答えに窮するが、とりあえず人の目から見て「額のような場所」である)に浮かんだ汗を拭い、チエの顔を見上げた。
「おぉ、火灯かぁ。志郎に甘いもんご馳走になったかえ?」
「(こくこく)」
「そうかそうかぁ。よかったなぁ」
「暗い所を照らしてくれて、すごく頼もしかったよ。ありがとう、ヒトモシ」
志郎から礼を言われて、ヒトモシは満更でもない、と言うべき表情を浮かべた。やはり愛嬌のある物の怪である。
「?」
「あれ? ヒトモシ、どうしたの?」
直後であった。不意に顔を上げ、ヒトモシがキョロキョロと周囲を眺め回し始めた。しきりに何かを探っているようである。志郎はヒトモシの意図を計りかね、とりあえず静観しておく、という対応を取らざるを得なかった。
のだが、すぐに対応を変えざるを得なくなった。ヒトモシは何か目星が付いたのか、川の下流に向けて猛然と走り出したのだ。志郎とチエは顔を見合わせ、爆走を始めたヒトモシの後を追って同じく走り始める。一体何がヒトモシを走らせたというのか。いや、あの一風変わったヒトモシであるから、ある程度説得力のある理由は即座に思いつくのであるが。
ヒトモシの後を追ってゆく。猛然と走り出したと言えど、ヒトモシの足は「出っ張り」かと見紛うほどに小さく短く、歩幅も猫の額か雀の涙かと思えるようなものであったため、チエと志郎が追いかけるのは容易いことであった。川縁にヒトモシが立っているのを認めて、二人が傍へと寄る。
「ヒトモシ、一体何があったの? 急に走り出したりなんかして……」
「志郎、あれじゃあ。あれ見てみぃ」
訳が分からぬといった調子で、チエが指差した方面を志郎が見詰める。志郎の目に飛び込んできたのは、水上で佇む一匹のアメタマであった。足の表面張力で軽々浮いて、時折滑るようにして水の上を颯爽と移動していく。アメンボのようなポケモンである。
それはともかく。チエが指差した先にはアメタマがいた。ヒトモシはアメタマを見つめている。これらは事実だ。問題はそこではなくて、何故ヒトモシはアメタマに熱い視線を向けていたのか、ということである。志郎が首を傾げると、隣にいたチエが答えを口にした。
「知らんのかえ? 雨珠は、頭の先っぽから甘い水飴を出すんだぞぉ」
「水飴……ああ、なるほど。だからヒトモシが走っていったんだね」
アメタマは頭に付いた触手のような突起から、水飴に似た甘い匂いを出す粘り気ある液体を分泌させている。これは別に毒があるとか体に悪いとかいう類のものではなく、本当に水飴のようなものであるとされている。これを使って、獲物となる微生物を呼び寄せたりしているそうな。
既にお判りかと思うが、ヒトモシはアメタマの出す水飴の匂いにつられて、ここまで走ってきたというお話である。物欲しそうにアメタマを見つめるヒトモシの思いとは裏腹に、アメタマはこの場に用がなくなったのか、特に気にせずすいーっと水の上を滑っていき、あっという間に姿を消した。
「ヒトモシったら、本当に甘いものが好きなんだね」
「こいつも食い意地が張っとるなぁ。雨珠がいたなんて、おらにも分かんなかったぞぉ」
アメタマがいなくなって残念そうにしているヒトモシを、志郎が慰めてやるのだった。
志郎とチエが川を離れ、昨日と同じように森へと向かう。昨日は大きな川へ出かけたが、今日はさらに奥まで進み、チエの遊び場であるという溜め池まで足を運ぶことと相成った。これが相当に深い池で、辺りには水棲のポケモンが数多く住んでいるという。
「じゃあね、ヒトモシ。また、いつでも遊びに来てね」
「甘いもんばっか食って、虫歯にならねぇようにするんだぞぉ」
森の入り口で、一晩連れ添ったヒトモシと別れた。手を振るヒトモシを背に、チエと志郎が奥へと歩を進める。
今日も日が差して暑い。木々のおかげで彼方此方に影ができ、日に焼ける度合いは幾分ましではあったものの、そこは日本の夏。湿気という忌々しい存在は遺憾ともし難い。噎せ返るような蒸し暑さの中を、二人は切れ切れの木陰を頼りにして歩いてゆく。
「あっついのう。おら暑いのは苦手だぁ」
「それは分かるけど、一つ訊いてもいい?」
「なんじゃあ、志郎。どうしたんかえ?」
額から大粒の汗を零すチエを前にして、志郎がこのような問いかけを行った。
「暑いなら、そのレインコート、着てこないほうがいいと思うけど……」
「『れいんこーと』? まぁた『はいから』なものを言いよってからに。これは『雨合羽』じゃあ」
「雨ガッパなら雨ガッパでいいけど、暑いの、そのせいじゃないかな?」
問い掛けの内容は、まあある意味至極当然のものであった。暑い盛りにも拘らず、チエは黄色いナイロン製のレインコート……チエの言葉を尊重して、雨合羽と言っておこうか。雨合羽を羽織っている。頭巾は付いていないので、おかっぱ頭は風に当たるし、靴を履いておらぬから足も外に出ているが、それら以外の部分は外気に晒されない。
ナイロンは、作りにも拠るが基本的に風を通さぬ。雨合羽のような通気性が求められるものであれば、尚更だ。そのようなものを着ていては、中が蒸して暑くなるのは道理である。それをもって暑い、暑いというチエに、志郎は少なからず疑問を覚えたわけである。
「そりゃあ、そうじゃけど。そうじゃけど、おらはこれを脱ぐわけにはいかんのじゃあ」
「何か、理由があるの?」
「あるともぉ。この雨合羽は、おっ母がおらに着せてくれたんじゃあ」
「お母さんが?」
「んだ。おらが倒れて、おっ母が出て行く段になった時に、おらに『雨に濡れんように』って言い聞かして、これを着させてくれたんだぞぉ」
「昨日の……あの話のときだね」
チエは胸を張って言う。不可思議な力を使ったり、言葉遣いが女子らしくなかったり、その割には綺麗なおかっぱ髪であったり、物の怪と普通に話したりと、いろいろとちぐはぐな所はあるが、チエは基本的に真っ直ぐで無理筋の無い性格である。チエが雨合羽を着ているのには、チエなりにちゃんと理由があった。
この雨合羽は、チエの母親がチエを助ける為に出て行った際に、チエに「雨に濡れないように」と気配って着せてやったものだという。病が進行していたということは、体力も衰えているはずであるから、雨に打たれて風など引くと命に関わりかねない。母親はチエに雨合羽を着せ、雨に打たれても大丈夫なようにしてやった、そういうことである。
病気の最中でも覚えていたのだ。雨合羽を着せてもらったというのは、チエにとってとてつもなく大きな「鍵」となっているに違いない。母親とのツナガリを確認するものと言えば分かりよいだろうか。雨合羽を着るということは、チエが母親の存在を思い返すために欠かせぬことなのだろう。
「そっか。チエちゃんのお母さん、優しい人なんだね」
「おらの自慢のおっ母だぞぉ。志郎にも会わせてやりてぇなぁ」
「ぼくも、一度会ってみたいな。チエちゃんのお母さん」
志郎は母親を知らない。いや、級友たちには普通に母親がいるから、母親というのが如何なるもので、子供たる自分にとってどのような存在であるかは、概念として知っている。だが、志郎には母親と呼べる者はいない。康夫ははぐらかすばかりで答えてくれぬが、多分、既にこの世の人ではないのだろう。
であるから、チエに対して優しかったであろう母親に会ってみたい、そう思った。チエがこれだけ慕っていて、三年も顔を見せぬのに尚もその気持ちが揺るがぬのだから、チエに対しては相当な愛を持って接したはずである。今も帰らぬのには、何がしか理由があるのだろう。そうとしか思えぬ。
「それで、チエちゃんはレイン……じゃなかった。雨合羽を着てるんだね」
「そういうことじゃあ。これ着てっとぉ、おっ母が傍におるような気がするんじゃあ」
「お母さんがくれたものだからね。その気持ち、分かるよ。ぼくの麦藁帽子も、お父さんがくれたものだからね」
「へぇー。その麦わら、志郎のおっ父のものだったんかえ?」
「うん。お父さんが、お母さんからもらったって聞いたよ。お父さんからもらった、大事な宝物なんだ」
「だからかぁ。いっつもその麦わらを被っとるんわ」
「うん。まあ、夏だし単純に外が暑いっていうのもあるけどね」
志郎の麦藁帽子も、チエの雨合羽に劣らず大切なものであったようだ。父から貰ったものであるが、これを選んだのは母であるという。母のいない志郎にとっては、それこそチエの雨合羽のように、母を想起することのできる掛け替えのない代物と言えよう。
とまあ、このような具合で調子よく歩いていたのであるが。
「あっちいなぁ。汗が止まらんぞぉ」
「そういえば……チエちゃん」
「ん? どうしたぁ、志郎」
「そんなに暑いならさ、脱がなくてもいいから、雨合羽の前だけでも開けたらどう?」
という、志郎のごく普通の提案に対して、チエは。
「馬鹿言うでねえ。おらにも『つつしみ』ってもんがあるんだぞぉ」
「……え?」
何やら、想像を絶する回答が帰ってきた。言葉は適当にぼかされているが、チエが何を言いたいのかは、簡単に察しがついた。志郎は若干どぎまぎしつつ、チエに問いかけてみる。
「あ……あのさ、チエちゃん。も、もしかしてその下って、何も着てないの?」
「素っ裸ってわけじゃぁねぇぞぉ。下帯はちゃぁんと締めとるからなぁ。おっ母に習ったんじゃあ」
「いや……いや、ちょっとごめん。とりあえず、脱いだり前開けたりするとよくない、っていうのは分かったよ」
これには聞いていた志郎のほうが赤面してしまった。志郎の言うとおり、雨合羽を取り去るのはいろいろとよろしくなかろう。腰布は巻いているというが、そういう問題ではない。いやはや、やはりチエは破天荒でちぐはぐである。人は見かけによらぬというが、チエはその度合いが凄まじい。いろいろな形で、常識を覆して叩き壊していく。
それでも――それでも、志郎にとってチエは大切な友達であった。チエがちぐはぐであればあるほど、志郎にとってはそれが新鮮な驚きであり、チエという少女をより明瞭に、明確に、明快に形作っていくからだ。ちぐはぐであることは、チエをチエらしくするものである、と言えた。
このようにして、色とりどり種々の言葉を交わしあいつつ、二人はチエの遊び場たる池に向けてずんずん進んでいった。累計して小一時間ほど歩き続け、漸く池に辿り着いた。鬱蒼とした森の小径から一気に視界が開け、眼前に水溜まりのような池が現れる。この池が、チエの言っていた「遊び場」であろう。
「チエちゃん、池ってここ?」
「んだ。ここはおらだけの秘密の遊び場だぞぉ」
清水を湛える大きな池が、志郎とチエの前に広がっていた。四方を木々が囲い、辺りに二人を除いた人影は欠片も見えない。池の周囲には大小多彩な蓮の葉が足場のように浮き、桃や紫に色づいた美しい花を開いていた。まるで人の手が入っていないにも拘らず、池は整然と整えられた庭園のような装いであった。
池には多くのポケモン、いや物の怪が集まっていた。蓮華に混じってハスボーやハスブレロが池に潜り、時折ひょっこり顔を出しては周囲を伺う。ハスブレロの頭上にはナゾノクサが乗り、池の水を吸い取りつつ光合成に興じている。その合間を縫って、コアルヒーがすいすいとすり抜けていく。水中からのっそり顔を出したウパーにも慌てず騒がず、適切に進路を買えて移動する。
志郎が池を覗き込んでみると、水面からマッギョがじっとこちらを見つめていた。無表情ながら剽軽な顔つきに、志郎は思わず噴き出してしまった。マッギョの面構えに笑う志郎の隣では、ヤドンが何食わぬ顔つきでもって、尻尾を池に垂らして釣りを楽しんでいた。本人は単純に暑いが為に、尻尾を水の中に浸けているだけなのかも知れぬが。
マリルとニョロモが水の掛け合いをする様を、其々の姉か兄かと思われるマリルリとニョロゾが見つめていた。木陰から楽しげな水遊びの様子をちらちら伺っていたミジュマルとばったり目が合ったマリルがこちらへ来るよう誘うと、内気なミジュマルはおずおずと姿を現し、水掛け遊びに加わるのだった。
炎を操る物の怪も、熱さではなく『暑さ』にはほとほと参っているようだ。木陰では、ヒノアラシとアチャモが背中を合わせてすやすや眠り、ヒトカゲは炎の燃え盛る尻尾の先のみを日向に出し、自分自身は日陰でぐにょりと伸びている。平時と変わらぬのは、元々全身が燃えているマグカルゴくらいのものである。
無論、元気に遊び回るものもいる。一際目立っていたのは、目隠しをしたピカチュウを手をつないで取り囲む、ピチュー・プラスル・マイナン・パチリス・エモンガという、電気袋を持つ物の怪たちの一団だった。ピカチュウを囲んでぐるぐると周り、後ろの正面だあれと問い掛ける。間違うと、お仕置き代わりに背中から電撃が飛んでくるという寸法だ。
此方では、地味ながら熱い戦いが繰り広げられていた。キャタピーとビードルが口から糸を吐き合って絡ませあい、綱引きならぬ糸引きで競り合っていたのである。ぐいぐい引っ張るキャタピーに、ビードルは劣勢を装いつつ冷静に戦況を読み、引っ繰り返す時を伺っている。音もなく激しさもないが、見れば焼けた鉄を叩くような火花が飛び散っているのは明らかなことだ。
皆、例外なく奔放で束縛なく、各々の望むことを思うようにやっている。池の中、池の周囲、水中で、物の怪たちは自由に夏を謳歌していた。平凡で野暮ったい言葉であるが、物の怪たちの楽園というのが、この場所を表現する上で、もっとも適切且つ素直な言葉に思えた。
「志郎、見てみぃ。大物同士の力比べじゃあ」
「うわぁ……すごい! カイロスとヘラクロスだ!」
「がんばれ、がんばれ、負けるでねぇぞ」
物の怪たちの空間に、志郎とチエは迷わず飛び込んでいった。彼らも二人を快く受け容れて、良き遊び相手として付き合ってくれた。
「ありゃあ、すっ転ばされちまったかぁ。よぉし、ならおらが仇討ちしてやるぞぉ。かかってこぉい!」
「ええっ!? チエちゃん、カイロスと力比べするつもりなの?」
「任せとけぇ。おらこう見えても力は大人にも負けねぇぞぉ。岩だってぐいぐい押すんじゃあ」
「それは知ってるけど、相手が悪いような……」
いやはや、これではどちらが腕白坊主か、分かったものではない。この剛毅さもまた、チエらしいと言ってしまえばまさしくその通りであり、否定する必要などどこにもないのであるが。
「てぇい! おら負けねぇぞぉ! そりゃあっ!」
「カイロスと正面から押し合える女の子なんて、絶対チエちゃんしかいないよ」
「こんのぉ、くうぅ、とりゃっ、せいやっ!」
「いいよ、チエちゃん。その調子その調子!」
鍬形虫を思わせる容貌の怪力自慢の物の怪・カイロスと互角に渡り合うチエ。どこからその馬鹿力が出てくるのかはとんと見当も付かぬが、それがチエであるというだけで、やけに強い説得力を帯びてくるのを感じる。顔を真っ赤にして押し合いを続けるチエを、志郎はそのような感想を抱きながら見詰めつづけていた。
結局三分ほど押し合って、僅差でチエが破れてしまった。尻餅を付いて座り込み、汗をたらたら流して呼吸を整えるチエに、志郎は水筒に池の水を汲んで持ってきてやり、頭の上から流し掛けてやった。チエは子犬のように顔をぷるぷる震わせ、水の清涼感に快い表情を見せた。
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