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時は過ぎて陽は沈み――辺りを、寂しげな夕闇が覆う頃。
「暗くなってきちゃったね。チエちゃん、そろそろ帰ろうか」
「んだ。今日も楽しかったぞぉ、志郎」
「ぼくもだよ、チエちゃん。水切り、うまくできるようになったね」
「はっはっはぁ! 志郎のおかげだぞぉ。おらもっと練習して、十回くらい跳ねるようにしてやるぞぉ」
遊びつかれた二人が手を取り合い、家路に着こうとしていた。辺りは日が落ちてすっかり暗くなっていたのだが、不思議と、志郎とチエの周囲だけはぼんやりと光が灯っていた。そのおかげか、志郎もチエも夕闇に怯える事無く、行きと同じように意気揚々と歩いていた。
光源を辿り、二人を照らす道標となっている存在を追う。すると――火の付いた蝋燭に、蝋が溶けて出来た手足……と呼ぶには些か頼りない突起の付いた、得体の知れぬ生き物が、二人を先導するように歩いていた。それだけでも十分怪事なのだが、灯っているのは赤々とした火ではなく、霊妙な青白い炎だった。
この珍妙な生き物が現れたのは、ごくごくつい先程のことである。
「この子、ヒトモシって言うんだね」
「んだ。火灯はおらの友達だぞぉ。こうやって、暗い道を照らしてくれる物の怪なんじゃあ」
「へぇー。ろうそくみたいな見た目、そのままだね」
「そう思うじゃろ? 実はな……そんだけじゃあないんだぞぉ」
歩いていた蝋燭の物の怪、もといヒトモシをさっと抱えて、何やら口調を改めて話し始めた。
「火灯は、こうやって暗い道を照らしてくれとるけどなぁ……」
「ち、チエちゃん……?」
「実はなぁ……周りの人や獣や、物の怪の命を吸って燃えとるんじゃあ」
「……えぇっ!?」
「そんでなぁ、其の儘、黙って火灯に付いてくと……」
チエが抱いていたヒトモシを顔の下へ持って行くと――
「霊界に引きずり込まれてしまうんじゃぁああぁ〜!」
――陰影が度の過ぎた形で強調されたチエの顔が、志郎の眼前に迫ってきた。
「う、うわぁっ!?」
驚いて思いっきり仰け反った志郎を見たチエが、ヒトモシを地面に置いて、いつものように豪快に笑って見せた。
「はっはっはぁ! 志郎、たまげたかえ?」
「び、びっくりしたというより、ぼく、寿命が縮まったよ……いろいろな意味で」
「にししっ。志郎は面白ぇなぁ」
「もう、ぼくはチエちゃんのおもちゃじゃないんだから」
「堪忍堪忍。火灯の中にはそんな怖いのもおるけど、この火灯はちと違うんだぞぉ」
「違うって、どういうこと?」
「火灯にも好き嫌いがあってなぁ。こいつは、人や物の怪の命なんかより、甘い物に目がないんじゃあ」
「そうなの?」
志郎がヒトモシに問い掛けると、ヒトモシが頭の青白い炎を守りつつ、ちょこんと律儀に頷いた。
「へぇー、珍しいね。あ、そうだ。ぼくの家におじいちゃんの作ったあんみつがあるんだけど、食べに来ない? おいしいよ」
「!」
「ははっ、喜んどるなぁ。いいぞぉ、火灯ぃ。志郎に餡蜜食わしてもらえ」
あんみつ、という言葉に如実に反応して見せたヒトモシに、志郎は愛らしさを覚えた。蓼食う虫も好き好き、十人十色。生命を吸わず甘味に生きがいを見出すヒトモシがいても、またよいではないか。
ヒトモシの灯りを頼りに、二人が森を抜ける。後を付いて行った先は、禍々しい霊界などではもちろんなく、鄙びた日和田の見慣れた風景だった。例によって、ここでお別れとなる。
「チエちゃん、ありがとう。今日も楽しかったよ」
「おらもだぁ。明日もまた遊べるかえ?」
「もちろん。何なら、指きりしたっていいよ」
志郎がチエに先んじて小指を差し出すと、チエは迷わず左手の小指を絡めてきた。
「志郎は分かっとるなぁ。指きり、してほしかったんじゃあ」
「昨日もしたから、今日もしなきゃね。じゃあ、いくよ。せーのっ!」
威勢のいい志郎の掛け声に続いて、二人が声を重ね合わせる。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
一昨日と、そして昨日と同じように、二人は指きりをして、また明日も一緒に遊ぶことを約束し合った。無論、指きりなどせずとも、明日も志郎とチエが一緒に遊ぶことなど分かりきっている。明日が来れば、二人がまた会えることは間違いない。
小指を絡め合わせて、他愛ない呪文を交わすだけのやり取り。けれども、それでも指きりは必要なのだ。約束を守るために、欠かすことができない儀式なのだ。
「よぉし、これで大丈夫だぁ。志郎、明日も来てくれよなぁ」
「もちろん。絶対に遊びに行くよ。ぼく、チエちゃんと遊ぶのすごく楽しいから」
「うん、うん。おらも同じだぁ。またなぁ、志郎」
志郎とチエは、これまでと同じように明日も会う約束をして、二手に別れて家路に着いた。
日もとっぷり暮れて、辺りは夕闇から夜闇へ移り変わろうとしている。そのような中にあっても、志郎の周りのみはぼうっとした鈍い光に包まれ、闇が志郎を抱き込むことを阻んでいた。志郎に餡蜜をごちそうしてもらえると聞いたヒトモシが、意気揚々と炎を上げているためである。
ヒトモシを隣に連れて、志郎は何も恐れること無く義孝の家まで辿り着くことができた。志郎はそっと中の様子を伺うが、どうも父も祖父もまだ帰っておらぬ様相だった。予想はしていたが、多分叔父がまたああだこうだと口数多く喚いて揉め事を起こしているのだろう。あの叔父だけは、いまいち訳が分からぬ。
志郎は、下手をこくと外よりも暗い家の中へと入っていく。本来不気味なはずのヒトモシの青白い光が、ここにおいてはとても頼もしいものに思えてならなかった。青白い炎が灯す光を頼りに進み、廊下の明かりを点灯させる。蛍光灯に通電するピカンピカンという音と共に、パッと周囲が明るくなった。
足元でピョンピョン飛び跳ねているヒトモシの為に、志郎は台所へ向かう。こちらの灯りも点けると、ごごごごごと低い唸り声を絶えず上げ続ける冷蔵庫の前に立ち、真正面の大扉を開けた。カランカランとビール瓶がぶつかり合う音が聞こえ、冷蔵室から氷の匂いがした。
「あったあった。これこれ」
奥に小分けして硝子の器に盛ってあった餡蜜を取り出し、志郎がラップを剥がす。ここまで灯りを点けてくれていたヒトモシに感謝の気持ちを込めて、志郎はいつの間にか隣に座り込んでいたヒトモシに餡蜜をご馳走してやった。硝子の器にでんと盛られた餡を見たヒトモシが目を輝かせ、早速餡蜜を食い始めた。
見た目からは想像も付かぬほどの速さで餡蜜を食べていくヒトモシの姿に、志郎が隣で微笑む。この餡蜜は、料理好きの義孝が志郎のためにこしらえたもので、おやつ代わりにいつでも食べてよいということになっていた。そういうものであるから、ヒトモシに食べさせてやったところで別段何の問題も無いわけである。
あれよあれよと言う間に餡蜜を平らげたヒトモシが、満足そうな表情で志郎に擦り寄る。義孝お手製の餡蜜はとても気に召したようである。じゃれて来るヒトモシの体を撫でてやると、ほのかに暖かい。青白い炎はともすると冷たい印象を与えるが、炎は炎である。小さなヒトモシにも三分の魂。ちゃんと命が通っているのだ。
しばしヒトモシと戯れていた志郎だったが、ふとヒトモシが志郎の元を離れ、灯りの点いていない廊下の奥へとちょこまか駆けていった。灯りを頼りに追うと、ヒトモシは廊下の奥、別の言い方をすると、上階へ繋がる階段の前で志郎を手招きしていた。
そういえば、この家には二階があった。暗さ故に一度も階段を登ったことはないが、今になって何故か急に興味が湧いてきた。上には康夫や健治が使っていたという部屋があるらしい。面白いものを発掘できるかも知れぬ。志郎は、階段の上へ行こうという気になっていた。
「ヒトモシ。ぼくと一緒に、階段を登ってくれる?」
「(こくり)」
お安い御用、とばかりにヒトモシが頷く。頭の炎を一際大きく燃やし、辺りを青白く照らし出した。繰り返すが、本当はこれは実に不気味な光景であるはずなのだが、その光はヒトモシによるもので、ヒトモシが志郎にとても懐いているという前提に立つと、却ってとても頼もしいものに見える。そこいらの半端な幽霊やお化けなど、逆に縮み上がって退散してしまいそうなほどだ。
ヒトモシの灯りを頼りに、志郎が階段を登る。階段はかなりの急勾配になっていて、手摺りを使わねば厳しいほどの高さがあった。一段一段確認するように登り、その都度、階段につかまってよじ登ろうとするヒトモシを助けてやる。志郎でも高いと感じるほどなのだから、ヒトモシが苦労するのは当たり前のことである。
階段を登りきると、暗い廊下の先に扉が二つ並んでいるのが見えた。康夫と健治の部屋だろう。どちらに入ろうか迷う志郎。扉には誰某の部屋などというような親切な注意書きはなく、殺風景そのものだった。どちらがどちらの部屋か、見ただけでは分からなかった。運を天に任せ、と言うほどではないにしろどちらでも構わないという心境で、志郎は向かって手前の部屋の扉を開いた。
この部屋は長らく使われていなかったようで、埃っぽく噎せ返るような湿気がこもっていた。志郎が軽く咳払いをして、飛び交う埃をぱたぱたと手のひらで払う。鼻から息を吸うたびに、湿った木の匂いが入り込んでくる。最後に使われてから一体どれほどの時間が経ったのか、見当も付かなかった。
部屋には学習机が二つ並べて置いてあった。志郎は、この部屋が康夫の(或いは健治の)部屋で、今しがた入らなかったもう一つの部屋が健治の(或いは康夫の)部屋かと思っていたが、実はそうではなく、二人で一部屋を使っていたということのようだった。向こうの部屋は義孝の部屋か、そうでなくても物置が関の山だろう。どちらにしろ、あまり見る必要はあるまい。
暗がりで委細は掴めなかったが、ヒトモシのおかげで中を探索することは出来そうだった。何か面白いものはないかと目を凝らす。まず見えてきたのは――中々珍妙なものだった。壁に貼られた、すっかり色褪せた男性のアイドル・グループのポスターである。ローラー・スケートを履いて舞台を駆け回る演出で、一昔前に一世を風靡したなどと聞いた記憶がある。そう言えば康夫が時折その話をしていたから、これは康夫の趣味であろう。最初は面食らったが、これも十人十色。餡蜜が好きなヒトモシがいれば、男性のアイドル・グループに熱を上げる男がいても別段おかしなことでもあるまい。
次に見えたのは、学習机の片隅にある写真立てに入れられた、若々しい健治と思しき男性と、健治の連れ合いとしか見えぬ女性が写った写真だった。あの様子で、健治も隅に置けぬ性格のようである。もっとも、志郎は健治が真っ当に話をしている姿など一度も拝んだことがなかったから、いまいち想像がつかなかったのだが。
その繋がりだろうか。写真立ての側に、猫のマスコット人形が取り付けられたシャープ・ペンシルが転がっていた。見ると明らかに女物である。健治が件の連れ合いから貰ったか、若しくは借りるかしたに違いない。健治のあの様を思うと、このようなものを持っているとは考えも及ばぬ。ああなるまでには、大人しい時期もあったのだろうか。
暫く辺りを探っていると、ヒトモシの青白い灯りの先に、本棚があるのが見て取れた。志郎が近づく。その本棚には、高等学校のものと思しき教科書や、古びた車雑誌に混じって、一際埃を被った「静都妖怪大全」なる、背表紙に怪奇な字体で馬鹿でかく書かれた分厚い本があった。
妖怪というと、物の怪のことであろうか。となると、今のポケモンに通じるものがあるかも知れない。興味が湧いてきた志郎は、埃塗れの「静都妖怪大全」を本棚から抜き取る。舞った埃を手で振り払いながら、序でにこびり付いた埃も手で払っていく。大分綺麗になった所で、志郎が改めて本を手に取った。
これはじっくり読んでみたい所である。ヒトモシのように見知った顔がいるかも知れぬ。そう考えた志郎は、側にいたヒトモシを伴い、階下へと向かうことにした。例によって急な段差になっている階段を前に、進めずにまごついていたヒトモシを肩に載せてやって一段ずつ下り、志郎が一階まで辿り着く。
「ごめんなさい。志郎くん、いる?」
硝子戸を叩くドンドンという音が聞こえたのは、その直後だった。その声色を聞いた直後、志郎はそれが、すぐ近くに住んでいる親戚の、登紀子であることに気がついた。志郎は肩の上に乗っていたヒトモシに隠れるよう言付けて、直ちに裏口へと走った。
登紀子は義孝の妹で、夫と二人で暮らしている。義孝の家にはこのように頻繁に出入りしており、伴侶に先立たれた義孝に対して甲斐甲斐しく世話を焼いてやっていた。志郎も時折顔を合わせていたから、お互いに顔は知っている。
ガタガタと音のする硝子戸を引き開くと、思ったとおり、紙袋を提げた登紀子が立っていた。
「こんばんは、登紀子おばさん」
「はい、こんばんは。志郎くん」
志郎が後ろへチラリと目を向けると、既にヒトモシの姿はどこにも見当たらなかった。多分、押入れかどこかの影にでも隠れてくれたのだろう。登紀子に見つかるといろいろ厄介であったから、何かと都合がよい。
玄関へ上がった登紀子が、ここへ来た事情を志郎に聞かせた。義孝から登紀子に電話があり、今晩は帰るのが遅くなりそうだ、留守番をしている志郎がお腹を空かせているだろうから、何か作ってやってほしい──そのように言われたという。志郎は、父たちがまず時間通りに帰って来るとは思っていなかったから、これといって驚いたり落胆したりすることもなく、登紀子の言葉を額面通り受け止めた。
台所で登紀子が晩飯の支度をしている間、志郎は縁側で康夫と健治の部屋から持ち出してきた「静都妖怪大全」の埃を丹念に叩いていた。表紙は日に焼けて大分色褪せているが、中の頁は問題なく読み取ることができそうだった。あらかた綺麗にし終わった所で、志郎が適当に頁を開く。そこにつらつらと書かれていたのは……。
「『人の恨みを食って大きくなる照る照る坊主の化け物』」
「『俊足で走る三つ首の翼を持たない怪鳥』」
「『出会った人間を眠らせ悪戯する風船妖怪』」
「『割れた卵の殻を着た赤子の霊』」
志郎の想像していた通りの、いやいや想像以上の面白本のようであった。明らかにポケモンとしか思えぬ自称『妖怪』が、元の形を残しつつ、無闇矢鱈におどろおどろしく描かれているのである。志郎はあまりの内容に冗談でやっているのかとさえ思ったが、「静都妖怪大全」はあくまで真摯に『妖怪』を取り上げている。
それぞれ特徴は上手く捉えているが、何せ『妖怪』としての紹介であるため、根拠不明で荒唐無稽な尾鰭があちらこちらに付いていた。「夜な夜な歩き回る足の生えた草」は「引っこ抜くと恐怖の悲鳴を上げて抜いた者を呪い殺す」となどと書いてあるし、「岩石に顔と両腕の生えたお化け」は「子供が石を投げているときに知らない間に混ざっている」と堂々と述べている。どれもこれも、一見合っているようでその実合っていない。
馬鹿馬鹿しいほどに陰影を強調したソーナンス(「叩くと膨らんで何倍も痛い仕返しをしてくる起き上がり小法師妖怪」と銘打たれている)らしき絵面を見て笑い転げていると、台所から登紀子の呼ぶ声が響いてきた。晩飯の準備ができたようだ。志郎は本を閉じ、登紀子の元へ駆けてゆく。
金糸卵に胡瓜の千切り、水で戻した若布に干瓢、彩りに缶詰の蟹の解し身を添えて、上から半解けの氷が混じった出汁つゆをぶちかける。登紀子が用意したのは、具沢山の素麺であった。大きな容れ物に麦茶を注いでもらい、志郎は冷たい素麺に舌鼓を打った。登紀子も自分の分を用意して食べている様子を見るに、亭主はどこかへ飲みにでも出たようだ。
ひとしきり素麺をすすり、志郎がご馳走様を言うと、登紀子は笑ってそれに応じた。後片付けを手伝い、風呂を沸かす手筈を整えてから、志郎は縁側へと戻る。目的はもちろん、あの面白本の続きを拝むために他ならない。
「面白いなあ。昔の人は、ポケモンを妖怪だって思ってたんだ」
怖がらせようという魂胆を丸出しにした絵の数々を面白おかしく鑑賞しつつも、志郎は同時に、この本の書かれた時分には、ポケモンは妖怪という文脈で定義されていたのだと実感した。現代において、ポケモンは「変わった動物」として受け容れられている節があるが、古来においてはより距離を置いて、神仏に近しいものとして認識されていたようだ。
ふと、志郎はチエがポケモンを『物の怪』と呼んでいることを思い出した。『妖怪』とほぼ同じ意味合いを持って使われるが、それよりもさらに畏れを抱いている様を思わせる言いぶりだ。チエはポケモン、いや物の怪たちと、どのように付き合っているのだろうか。少なくとも、仲良くしてやっているのは分かるが──
「あら、立派な河童だねえ」
「えっ?」
上の空で頁を送っていた志郎は、そこに「河童」と題された妖怪が描かれていることに気が付いた。それまでの、若干子供騙しの匂いを隠し切れていなかった絵とは随分色合いが異なり、筋骨隆々とした、しかしすらりとした見事な体躯の妖怪であった。側にやってきた登紀子が、志郎の隣に付く。
無駄のない線形の躰、両手の指から張り出した立派な水掻き、額に埋め込まれた紅玉を想起させる石。人とも、獣とも、勿論物の怪とも取れる風貌は、不思議と志郎を惹き付けて止まなかった。姿絵は白黒の二色刷りであったが、隣の説明書きには律儀に「本来はコバルトブルーに近い色合いである」と記されていた。
「おばさん。河童って、どんな妖怪なの?」
「そうだねえ。池や、川や、沼に住んで、水を守ってくれるんだよ」
登紀子から河童についての講釈を聞かせてもらう。その名からある程度察しが付くように、水場に住んで水を司る、土着の妖怪として知られているようだ。各地に多様な形で伝説・伝承が残っており、ここ日和田にも河童に纏わる話が幾つか伝えられている。その大部分が、何らかの形で水に関わるものだ。
性格は概ね天真爛漫で、人間の子供に混じって遊ぶのを好む。ただ、何分力が強いものであるから、相撲など取った日には一人で何人も投げ飛ばしてしまい、まるっきり勝負にならぬという。その代わり、時折水の中に入って体を湿らせてやらないと、体力が尽きて弱ってしまうそうな。
河童は生まれ付き、人の理から外れた『神通力』を備えている。小さな力で渦潮を巻き起こしたり、川の流れを一人で付け替えてしまったりするような、人の常識がまるで通用せぬ力だ。河童の神通力が発揮されるとき、周囲の人間は目が眩んだり、頭に痛みが走ったりするという。
「それとね」
「うん」
「河童はね、泣くと雨を降らせられるんだよ」
「雨を降らせられるの?」
「そう。河童の涙は、雨を降らせる力があるんだよ」
不思議な力の一つに、泣くと雨が降り出す、というものがある。河童の鳴き声(泣き声と言うべきか)が実は雨乞いの呪文になっているとか、河童は涙を見られることを好まぬから雨を降らせてごまかすとか、いやいや河童の心は雨雲に通じているとか、ほどほどの説得力を伴う他愛ない与太話は幾つかあるが、何分河童本人が語らぬので、どれが正しいということは無いようである。
ただ、多かれ少なかれ尾鰭が付きつつも、河童が悲しさ故に涙を流すとき、空から雨が降り出す、という言い伝えの骨組みは、河童について語られるどの地域にも在るという。与太話の数々はさておき、河童が泣くと降雨が始まるというのは、どうやら何がしかの根拠があるようだ。
涙雨、という言葉がある。人の涙を降りしきる雨に例えたものだ。河童が泣くと雨が降るというのであれば、それもまた一つのナミダアメと言えよう。
河童は何故泣くのか、何故雨を呼ぶのか――考え事をしつつ頁を捲り、志郎が河童の風貌について気に止まった点を、隣で楽しそうに目を細めている登紀子に問うてみる。
「あれ? 河童って、手の指が三本しかないんだね」
「そう。そこに水掻きが張って、泳ぐときにすいすい水を掻いていくんだよ」
「それって、生まれ付き?」
「いいや。初めのうちは、人様のように五指揃ってるんだけどねえ。大きくなると、小指と親指が落ちるんだよ」
「ふぅーん……小指と親指、なくなっちゃうんだ」
河童は水と縁深い妖怪である。時が経つにつれて、徐々に水と『近しい』存在になっていく。その一つが、成長すると落ちてしまう二つの指だ。手の両端に位置する親指と小指は、河童が成長すると徐々に退化してゆき、最終的に痛みも無く落ちるという。指が落ちる頃には、残りの三指の間に立派な水掻きが張り出し、水を掻くのに都合のよい形となる。
親指と小指の落ちた手は、やがて全体的に細く引き締まり、亀の足のような形に落ち着く。こうなることで、人のように水掻きがなく五指で水を掻いていくよりも、格段に早く泳ぐことが出来るようになる、という寸法だ。
河童の頁が終わり、次に出てきた「絵描きの魂が乗り移った立って歩く犬の怪物」の内容(またどことなく可笑しな絵柄に戻っている)を読み始める前に、志郎が再び登紀子に問うた。
「河童って、『川』の『子供』っていう意味だよね」
「志郎君はお利口さんだねえ。その通りだよ」
「じゃあ、河童が大人になったら、なんて言うようになるの?」
「いい質問だねえ。河童は大人になれるとね、『水神様』って呼ばれるようになるんだよ」
文字の率直な意味を取ると、河童は「川の子供」と言い換えられる。では、大人はどうなるのか、という問いだが、その答えは「水神様」になる、と登紀子は答えた。水の神様であるから、水神様。川の子供であるから、河童。いやはや突っ込みどころの無い潔い名づけである。
河童は大人になることができると、水の神様、即ち水神様として新たな段階を向かえ、水と一つに交わってその水場を守護していくという。描かれていた筋骨隆々とした河童の絵は、大人になり「水神様」と呼ばれるようになった河童の姿である。体色は水を思わせる青になり、流線型の体は水とよく馴染んですいすい泳ぎ回る。水神様と呼ばれるのも納得であろう。
大人になった河童は、水神様と呼ばれる。それが、登紀子の答えであった――というのはよいのだが、よく見ると頁の片隅に、「成人した河童は、水神様と呼ばれる」と堂々と書かれているではないか。ちゃんと読めばよかった、と志郎は少しばかり気恥ずかしい思いをするのだった。
それはともかく、志郎は登紀子から河童に付いて随分込み入った話を聞かせてもらった。どれをとってもまあ実に興味深い話ばかりだ。こうして得た知識を、誰かに聞かせてやりたい。人として当然の欲求だろう。誰か、誰か……。
……ああ、そうだ。適役がいるではないか。チエだ。チエがいる。明日会ったら、チエにこの河童の話を聞かせてやろう。既に知っているかも知れぬが、それはそれで、話のネタにはなろう。
他の妖怪とは少し毛色の異なる、込み入った河童の紹介。志郎は、純粋に「面白いな」と感じた。この本で得た知識を、誰かに聞かせてやりたい。誰か、誰か……ああ、適役がいるではないか。チエだ。明日会ったら、チエに河童の話を聞かせてやろう。既に知っているかも知れぬが、それはそれで、話のネタにはなる。
それにしても、不思議な力があるとか、川に縁が深いとか――河童は、何かチエを思わせる節がある。もちろん、チエが河童などと言う馬鹿げた話をするつもりが在るわけではない。ただ、チエは何の変哲もない「人の子」とも思えなかった。人と物の怪の丁度狭間に居る、そのような雰囲気を感じる。それがまた、チエの面白いところであるのだが。
チエに思いを馳せながら、志郎が何の気なしに、隣で一緒に「静都妖怪大全」を読んでいた登紀子に目を向けた時である。
「あれ? おばさん、これ何?」
「これかい? 結婚指輪だよ」
志郎が指差したのは、登紀子の左手薬指に嵌められた、鈍い輝きを放つ「結婚指輪」だった。志郎は今の今までそのようなものを目にしたことが無かったから、それが何なのか単純に分からなかったというわけである。
「結婚したときに、男の人と女の人が嵌めるものだよ」
「へぇー、そうなんだ」
「そう。それと、結婚の約束をした時には、男の人から女の人へ『婚約指輪』を渡すんだよ」
もう随分前のことだから、よくは憶えてないけどねぇ。笑って言う登紀子に、志郎もつられて笑った。
「さて、ちょっと待っててね。西瓜を切ってくるよ」
「うん。分かった」
冷やした西瓜を切ってくると言い、登紀子が茶の間から台所へと引っ込む。志郎は「絵描き犬」の頁を開いていた「静都妖怪大全」をパタリと閉じ、裏表紙を見る形となった。
志郎は、ここで少々変わった点に気が付いた。
「あっ。この本、日和田東図書館って書いてある……」
裏表紙には、ビニールテープを貼り付けて補強されたシールの上から油性ペンで手書きされた「日和田東図書館」の文言が見て取れた。表紙共々色褪せているが、表記はしっかりと残っている。この書籍は、元々図書館に収蔵されていたものであったようだ。
件の図書館が、今はどうなっているか。志郎は、それを既に康夫から聞かされていた。大分前──康夫が、中学に上がるか上がらないかという時期だ──に、利用者の減少を表向きの、予算の確保が困難になったことを実際の理由として、閉館・取り壊しという憂き目に遭ったのである。
普通であれば、収蔵されている書籍は引き取られ、別の図書館へ引っ越すなどして続けて利用されるべきであるが、日和田東図書館の蔵書たちはそれすら叶わず、最終的に「本を欲しがっている人に無償で提供する」という形で、村民たちに配布された──そのような話を聞いた記憶があった。
であるから、この本は康夫が図書館から借りたまま返さなかったなどというわけではなく、蔵書が放出された際に、康夫が引き取ったものであろう。本の年季の入り具合が結構なものなのも、納得のいくはなしである。
「あ、貸出カードが入ってる。雨宮めぐみ、西尾りょう、南野やすし、雨宮めぐみ……あっ、また雨宮めぐみさんだ」
入ったままの貸出票には、多くの利用者の名前が書かれていたが、その中でも『雨宮めぐみ』なる利用者は、何度もこの本を借りていた形跡があった。名前から推測するに、恐らく女子であろう。妖怪や物の怪の類に興味を示す女子はさして珍しくもないから、気に留める必要もなかろう。
図書カードの末尾も、やはり『雨宮めぐみ』であった。よほどこの本が好きだったのだろう……
(……あれ?)
はて? そう言えば、康夫は図書館からの蔵書放出の際に、最後の貸し出し者の──
――と、そこへ。
「……(そぉーっ)」
「……あっ。ごめんね、ヒトモシ。急に隠れさせちゃって」
押入れの襖をちょこっと開いて、中に隠れていたヒトモシがひょっこり顔を覗かせた。茶の間の押入れの奥で隠れていたようだ。志郎が手招きすると、ヒトモシは志郎の懐へとぴょんと飛び込んだ。体を撫でてやると、ヒトモシは志郎の太ももにすりすりと顔をこすり付ける。何とも愛嬌のある蝋燭である。
恐らくそう間を置かずに戻ってくるであろう登紀子のことを考え、志郎が次の隠れ場所を思案する。しばし辺りを見回し、志郎の面持ちが変わる。顔つきを見ると、良案が浮かんだようだ。志郎はヒトモシを抱えて、縁側へと向かう。どうやら、縁側の下へ隠す心積もりのようだ。ヒトモシを離すと、志郎はなるだけ奥に隠れるよう言付け、さらに。
「そうだ、ヒトモシ」
「?」
ついでに、こう付け加えた。
「ヒトモシは、すいかって食べられる?」
「!」
――その後、ヒトモシは縁側の下で、志郎がちょくちょく持ってくる切った西瓜を、たらふくご馳走になるのだった。ヒトモシにとって文字通り『甘露』な時間であったことは、ここにわざわざ記すまでもあるまい。
結局、登紀子は志郎が先に寝入るまで面倒を見てやり、もうすぐ日が変わろうかと言う頃になってようやく帰ってきた康夫と義孝と入れ替わるように、義孝の家を後にした。
長針が九度ほど回った後、志郎がパチリと目を開けた。心地よい目覚めだ、気怠さとか眠気だとかが微塵も感じられない。真正面に見える年季の入った柱時計は、六時を少し回った時刻を指している。起きるのには丁度良い時間だった。気が変わらぬうちに上体を起こし、手を組んでぐっ、と体を起こした。
昨日と同じように、義孝は志郎より遥かに早起きして、朝飯の支度に精を出していた。志郎が、おはよう、と挨拶すると、味噌汁を煮立てていた義孝がクルリと振り返り、おはよう、と応じて見せた。冷蔵庫から麦茶の入った瓶を取り出し、小ぶりな硝子のコップに注ぎ、額にうっすら汗を浮かべた志郎に手渡した。
義孝は気立てのやさしい、穏やかな性格の爺さんだった。一年前に連れ合いの文江に先立たれてからは、一人でこの家を守っている。見た目に似合わぬ料理好きで、志郎は義孝の家に遊びに行く度に、義孝が用意してくれる質素なご馳走にありつけるのを楽しみにしていた。
麦茶を飲み干した志郎が容れ物を置き、厨で用を足して出て来たときのことだった。志郎の斜め手前に、家の上階へ繋がる階段が見えた。いつ見ても薄暗く、奥の様子が一向に知れなかったので、志郎は階段に近づくことさえしなかった。義孝が言うには、二階には康夫と健治が子供の時分に使っていた部屋があるという。興味はあったが、やはり薄暗いのが先に立って、積極的に踏み込もうと気はついぞ起こらなかった。
志郎が律儀に義孝の手伝いをしていると、寝室で眠っていた康夫が起き出してきた。お父さん、おはよう。志郎が呼びかけると、ああ、おはよう、志郎。康夫はそのように応えた。今柳葉魚が焼けたところだと言い、義孝が食卓に皿と茶碗・汁椀を並べていく。こうして、今日も朝の時間が流れ出すのである。
黄金色の卵掛けご飯を掻き込む志郎の隣で、康夫と義孝は時折ぽつぽつと二言三言、断片的な言葉を交わしていた。その内容はと言うと、やれ、健治を拾って行くための道順はどうなのかとか、見舞いの品は要らないのかとか、車の運転は一人で大丈夫なのかとか、例によって志郎の手の届かない、言わば空中戦の様相を呈していた。拾った言葉を繋ぎ合わせると、父と祖父は今日、叔父と一緒にどこかに誰かの見舞いへ行くらしい。そして恐らく、自分は関係ないだろう。志郎はそう考えた。
茄子と玉葱の味噌汁を啜り、箸休めの黒豆をつまんでいると、社会面を広げていた康夫がバサリと新聞紙を閉じ、志郎に向かっておもむろにこう言った。
「志郎。今日、おじいちゃんと一緒に出かけて来る。留守番を頼めるか?」
「留守番? 大丈夫だよ。何時に出て行くの?」
「朝からだ。家の鍵は預けておくから、外で遊びたいなら遊んできてもいいぞ。夕方には帰ってくるからな」
「済まないね、志郎。帰ってきたら、おじいちゃんがまたご馳走を作ってやるから、いい子で待ってておくれ」
「うん、分かった。鍵はぼくが閉めとくね」
何もかも、予想通りだった。康夫と義孝は、朝から――康夫も義孝も口に出しては言わなかったが、間違いなく「お見舞い」に、だろう――出かけるらしい。その間の留守番を、志郎に任せたいと言う。このような事は前々からまま繰り返されていたから、志郎は特に驚くこともなかった。遊びに出ていいと言われているから、家にはきちんと鍵を掛けて、チエのところへ遊びに行けばいい。それくらいの考えだった。
康夫と義孝が身支度を整えて、康夫の運転する車で走り去っていくのを見送ってから、志郎は志郎でいそいそと準備を始めた。よく絞った布巾で麦藁帽子を拭い、水筒によく冷やした麦茶を詰める。昨日は昼飯を食べ損なった――正確に言うのであれば、昼飯を食べるのも忘れるほど、夢中で遊んでいたのけれど――ので、釜に残っていた飯を幾らか失敬し、中に梅干を入れて海苔を巻いた大きな握り飯を二つ作って、ラップで巻いて袋に入れた。腹が減っても、これがあれば問題なかろう。
例によって麦藁帽子を被り、手提げに水筒と握り飯を入れて、志郎は家を出た。チエのところへ早く行きたい余りにうっかり鍵を掛け忘れ、家から五十歩ほどのところで気付いて慌てて引き返したのは、まあご愛嬌。元々泥棒の出るところでもあるまい。泥棒とて、このような人気の少ない田舎に張り付いているほど、暢気な稼業では無い筈である。
昨日より少し出るのが遅くなったものの、それでも、朝の早い時間に外を歩いていると言うことに変わりは無い。志郎が目をやると、またあちらこちらで、ポケモンたちののどかな営みの風景光景を見ることができた。
いつぞやの大樹の下で寝そべっていたニャースが、茶・黒・白の入り混じった三毛猫と、これまた団子になって眠っている。化け猫と猫はいがみ合うかと勝手に思っていたら、そうではないらしい。右手では、小さな雀とそれより二周りほど大きなスバメが、地面に転がる虫を啄ばんでいる。時々取り合いになるが、それも束の間。忽ち別の獲物を見つけて、そちらに向かっていく。何だかんだで、互いに上手くやっているようだ。
小さな蒲公英と戯れるポポッコ、野芥子にくっついて擬態する子供のバチュル、紫陽花の花をちょこちょこと齧っているスボミー、鳳仙花の茎に絡まっているフワンテ。夏に開花する花々は人の目を楽しませるだけでなく、ポケモン達にとっても惹かれる存在なのだろう。紫陽花を朝飯にしていたスボミーが通りがかった志郎に気付き、天辺の角だか手だか分からないものを振ると、志郎も手を振って応じてやった。
川までは難なく辿り着いた。清流から少し離れた場所に手提げ袋を置き、志郎がサンダルのまま水の中へ足を踏み入れる。一番乗りかと思いきや先客がいたようで、対面の岸でマリルとルリリが水面に浮かんで遊んでいる姿が見えた。体よりも大きな尻尾の浮き袋に恐々身を預けているルリリに、見たところ姉に思われるマリルが、自ら泳ぎの手本を見せてやっている。
水鼠、の異名を戴くだけあって、マリルは小柄ながら泳ぎに長けたポケモンだった。立泳ぎに始まり、背泳ぎに平泳ぎ、果ては申し訳程度にくっついている手足を目一杯稼働させて、人並みにクロウルまでやってのける。ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせ、マリルは楽しげに泳いでいた。
快活に泳ぎ回る姉の姿に気持ちを解されたルリリが、恐る恐るしがみ付いていた尻尾の浮き袋から手を離し、清流に華奢な体を預ける。マリルはルリリが溺れぬように躰を抱えてやり、まずはルリリが水と近しくなれるようにしてやる。初めは少々怯えていたルリリも、やがて慣れてきたのだろう、姉に掴んでもらいながらバタ足の練習をし始めた。
ルリリの表情が綻ぶまでは、さして時間は掛からなかった。妹の躰を支えつつ、マリルがゆるゆると後ろへ身を引いてゆく。こうして、姉が妹に泳ぐこつを教えてやるわけだ。おそらくはマリルも、父母か兄か姉かは定かでないが、年長者に同じようにして泳法の手解きを受けたのだろう。
楽しそうにバタ足を続けるルリリを、遠巻きに見物していた志郎だったが──不意に、ふっと、目の前が暗くなった。知らぬ間に瞼が下り、視界が闇に染め上げられる。不思議に思った志郎が顔を左右に振り向けてみるが、どうにも、いつもと勝手が違って思うように動かない。
「あれ……?」
「にっしっしっし。うーしーろーのしょーうめんだーれじゃ?」
そういうことか。待ち人来たりて目を塞ぐ。水鼠の姉妹に見とれている間に、後ろから近づかれていたようであった。志郎は胸いっぱいに息を吸い込んで、はぁー、と一思いに吐き出す。十分に気を落ち着かせ、志郎が平時通りの調子で、後ろの正面に立つ者の名を口にする。
「分かったよ。チエちゃんだね」
「ははっ、当ったりだぞぉ、志郎」
後ろに立つは、おかっぱ髪に雨合羽の少女、お馴染みチエであった。視界の開けた志郎が振り返ると、向日葵か蒲公英かと思うような晴々とした笑みを見せるチエの顔があった。志郎はほっと息を吐いて、自分の顔を少し上目で見つめる形になっているチエに眼差しを向けた。
安心するのである。チエの姿を見ていると。義孝の家では、健治が日がな一日己の主張をのべつ幕無しに口走り続けている。康夫と義孝は、健治の訴えをほとんど黙って聞き入れている。そのやり取りの間に、志郎が入る余地は微塵も無い。分かり良く言うと、居場所が無いのだ。まったくもって、どこにも在りはしない。
チエは、そうではない。自分と会えるのを心待ちにして、真っ直ぐな気持ちを向けてくれる。チエと戯れていると、自分がここにいても良いような気がしてくる。一昨日かそこらに顔を合わせたばかりなのに、不思議とチエは他人の気がしない。馬鹿馬鹿しいことであるが、実はチエが志郎の親戚だった、などと言われても、さして驚き無く受け入れられるような気さえするのである。
「いきなり目隠しされちゃって、ちょっとびっくりしたよ」
「うん、うん。おら、志郎がたまげるのを見たかったからなぁ」
「チエちゃんが、どーん、って水をぶちまけた時が、一番驚いたかな」
「あれかぁあれかぁ。おらはかーるく叩いたつもりだったけどぉ、打ち所が悪くて大水になっちまったからなぁ」
昨日遊んでいるときに、チエは前の日に志郎の前でぶち上げた巨大な水柱も、チエの力によるものだと教えてもらった。あれは「お天道様」にお願いしたのではなく、普通に水面を叩いたらああなったそうな。彼女の見た目に拠らぬとんでもない馬鹿力は、服を一瞬で乾かして見せたあの力と、また別物らしい。
川の中でしばらく話していた志郎とチエだったが、ふと、チエが肩から編んだ藁の紐を提げているのが見えた。すーっと紐に沿ってなぞっていくと、チエの腰辺りに、これまた藁で編んだ小さな鞄が迫り出していた。ちょうど、志郎が持っている水筒のような位置にある。
「チエちゃん。そのかばん、何か入ってるの?」
「入っとるともぉ。見てみるかえ?」
チエが鞄に蓋をしている藁の紐をくるりくるりと巻いて取り外すと、鞄の口を大きく広げて、中に入っているものを志郎に見せた。興味を惹かれた志郎が、中をずずいと覗き込む。チエの鞄の中には、笹の葉で包まれた大きな塊が二つと、露を吹いた水入りの小ぶりな瓶が一つ入っていた。瓶は蓋に布が巻かれていて、口を紐で縛ってある。
笹の葉で包まれているのは、焼いた木の実だとチエは言う。木の実を蒸し焼きにした後、保存のために笹の葉を幾枚も重ね合わせて包んでいる。趣旨としては、概ね、今日志郎が持ってきた昼飯と同じ位置付けだろう。それにつけても、なんとも野趣溢れる弁当ではなかろうか。やはり、チエはちぐはぐだ。そしてそのちぐはぐさが、チエという少女の印象をより鮮烈にするのである。
中身を見せてもらった後、志郎とチエは手を取り合って近くの岸へ上がる。何をしようかと思案していた最中、チエが「もっと大きな川があるところを知っている」と口にし、その「大きな川」とやらへ行きたいと言い出した。日和田の地理にはとんと疎かった志郎は「大きな川」とやらが何処にあるのかさっぱり分からなかったものの、チエがせがむからには面白い場所に相違ないと考え、チエにそこまで案内してもらうことにした。
昨日遊んだ鎮守の森を左手にすり抜け、奥に鎮座する鬱蒼とした森の中へ分け入っていく。時折オニスズメが囀る声が聞こえ、不用意に縄張りへ侵入する不届き者を追い払う姿が見える。短い羽を忙しなく羽ばたかせ、体のなりの割に鋭い目を向けてきたりするものの、志郎の隣を歩くチエの姿を認めるとそれ以上深追いはせず、巣に戻っていく。
「チエちゃん、オニスズメに怖がられないんだね」
「んだ。鬼雀は自分の住処の番をするのが仕事じゃあ。おらが『おめぇたちの所に行く気はねぇぞ』って言うと、それで満足するんじゃよ」
「そうなんだ……オニスズメに話ができるのも、神様のおかげ?」
「いんや。おら、なぁんもせんでも物の怪の言葉が分かるぞぉ。志郎には分からんのかえ?」
「うん。また、ポケモンが話している所を見たら、何を話してるか教えてほしいな」
「構わん構わん。おらに任せとけぇ」
これといって特別何かせずとも、チエにはポケモンの言葉を理解して、さらに自分の意志を伝える能力が備わっているらしい。志郎が読んだことのある児童向け文学にも、獣の言葉を解し繰る少年少女はぽつぽついはしたが、それは志郎にとって、あくまで紙の上でのみ生きる、肉を持たない存在だった。
チエは、どうか。手を伸ばせば、いや今なら伸ばさずとも容易に触れることが出来、自分の隣で息をしている。チエはここにいるのだ。志郎はそれを実感する事ができる。チエは間違いなくここにいて、断じて記憶の断片などではない。実体を伴い、確かに側にいる。人の理にそぐわぬ力を持っていても、チエはここにいるのだから、それを否定することなど、土台無理なことである。
志郎がチエの手を取ると、チエも志郎の手を握り返す。無邪気に笑うチエの姿を見て、志郎は何やら無性に嬉しくなってきた。浮き浮きしたその気持ちに任せるまま、チエと共に森の奥深くへとずんずん踏み込んでいった。
して、その先で二人を待ち受けていたものと言うと。
「うわぁ……! 大きくて綺麗な川だね。ここがチエちゃんの言ってた川?」
「ははっ、たまげたかえ? でっけぇ川だろぉ。おら、こん川で遊ぶのが大好きなんじゃあ」
二人が待ち合わせに使っているあの河川が餓鬼の遊びに見えるほど、連れてこられた先の川は大きいものだった。浅瀬から数歩踏み出せば、志郎ほどの背丈では川底に足が着かずすっぽり水で覆われてしまうだろうと思えるほど深い場所があり、川面にたゆたう落ち葉の流れる様を見ても、流れの方も相応に速かろうことが分かる。
とは言え、踝まで水嵩が届かぬ程度の所で遊ぶのであれば、深さも速さも恐るるに足らず。今日は底意地の悪い雨雲が出張ってくるとの予報もなく、川は終日穏やかに流れるばかりであろう。つまるところ、川で遊ぶには絶好の状況と言えるわけである。
二人は河原の隅に手提げと鞄を寄せ固めて置くと、すぐさま川の畔に向けて駆け出した。ザアザアと止む事無しに水が流れる音を聞かされていると、身が疼くのが子供という生き物である。志郎が澄み切った川の水を手桶で掬ってバシャバシャと顔を洗うと、チエも彼に倣って顔をゴシゴシと洗った。じめじめと顔や額に纏わり付いていた汗を清水で跡形も無く吹き飛ばすと、志郎とチエが顔を見合わせて笑った。
川の周りにも、物の怪、もといポケモンたちの姿があちこちに見られた。畔ではジグザグマやビッパが水浴びに興じていたし、少し奥にまで目をやると、トサキントやコイキングが川面から跳ね上がる姿がしばしば目撃できた。せせらぎの音に心惹かれたか、河原と森の接する辺りで、ピッピとタブンネが揃って座り込んで耳を傾けている。白か灰色かという河原で、これら少々目に眩しい桜色の物の怪たちが寛いでいる光景は、ともすると珍妙なものであった。
「この辺り、タブンネも住んでるんだね」
「んだ。多聞音は怖がりじゃから、人様の住んどるところには寄り付かんのじゃあ」
一時、タブンネがポケモントレーナー達に「狩られ」、その数を大きく減らした時期があった。日和田も例に漏れずタブンネが姿を消した時期があったが、その後それより早く人間の、特に子供・若者の数が減り切ったために、徐々に元の形に戻りつつあるらしい。
タブンネから視線を外して森に目をやると、背の高い草が無数に生えているのが見えた。何やら玩具にできそうな装いである。思い立ったが吉日吉報、志郎はサンダルで石ころを踏みながら走り、適当に一本草を引きちぎって、チエのところへとって返してきた。
何をする気なのかと不思議そうに見つめるチエを横手に、志郎が持ってきた草を捏ね繰り回し始めた。待つこと数分、不意に志郎が顔を上げ、弄くっていた草を――否、草だったものを高々と掲げた。
「志郎、ひょっとしてそれ、草船かえ?」
「そうだよ。よく知ってるね。お父さんに作り方を教えてもらったんだ」
志郎の手のひらに載っているもの、それは、草を折って作った小さな船だった。小さいなりにうまく船の形を成していて、なかなかの出来栄えに思えた。川で遊び道具として使うにはうってつけだろう。向こうには同じような草がぼうぼう生えており、これを流してしまっても新しい船はいくらでも作れそうだった。
いつだったかは忘れたが、志郎は草船の作り方を康夫から教わった。その時に、康夫も義孝から作り方の手解きを受けたと聞いたような気がする。義孝・康夫・志郎と、草船の作り方が連綿と受け継がれているわけだ。自分にも子供ができたら、同じようにして作り方の手本を見せてやろう──志郎は、そのように考えるのだった。
「そうかぁ、志郎も草船作るんじゃなぁ」
「ぼくも、ってことは、チエちゃんも作れるの?」
「おらだって作れるぞぉ。ちと待っとれい」
チエは志郎が草を摘みに行ったところまで駆けていき、同じようにして手近な草を取ってくると、てけてけと志郎の元まで帰ってきた。早速、草船を作る──と、思いきや。チエは草を石畳の上へ置いて、そのまま屈み込んだ。バサア、という雨合羽の擦れる音が聞こえ、チエが草を一心に見つめだした
今度は志郎が不可思議だという顔つきをする番だった。チエは志郎の服の裾を掴んだあの時のように、目を閉じて念仏のようなものを誦じ始めた。そのまま、しばし待ってみる。すると、草が不意にピンと立ち上がったかと思うと、頭の先からクルクルと自分自身を折り畳み始め、形を成し始めた。
手を伸ばして念を草に送ると、草がチエの願いに応えてあれよあれよと言う間に形を変えていく。志郎は草の変貌する様を、目を見開き固唾を呑んで見守る。額に珠のような汗を光らせながら、チエは作業に没入した。そして待つこと凡そ三分。チエが、向けていた手をすっと下ろし、顔を上げて志郎に視線を向けた。
「できたぞぉ、志郎。おらの草船だぁ」
「すごいなあ、チエちゃん。手を触れずに作っちゃうなんて」
「はっはっはぁ! おらの十八番だからなぁ。おっ母に仕込んでもらったんだぞぉ」
「へぇ……お母さんに教えてもらったんだ」
父から草船作りを習った志郎とは対照的に、チエは母親に草船の作り方を仕込まれた、らしい。となると、母親さんのほうもチエのように摩訶不思議な力を使うのであろうか。チエがこのような型破りな娘であるから、母親とて型破りであっても何らおかしなことは無い。志郎はそう考えた。
完成した草船を互いに持ち寄り、即席の品評会を行う。チエの手がけた草船を手に取って見た志郎は、直ちにあることに気が付いた。草船の作りが、志郎とチエのものでピタリと一致していたのだ。折り方から仕上げに至るまで、美に入り細に入り同じである。
志郎がチエにそのことを伝えると、チエは面白がって志郎の草船を取った。自分のものと志郎のものを見比べてみて、確かに同じ作りになっていることを認めた。草船は幾つか作り方があるが、志郎のものはあまり見かけない、やや手の込んだ作りだった。珍しいと言って差し支えないだろう。
「チエちゃん、珍しいなぁ。ぼくと同じ作り方だったなんて」
「珍しいのかえ? おら、この作り方しか知らねぇぞぉ」
「何種類かあるみたいなんだ。ぼくも、これしか知らないけど」
何はともあれ、草船が出来たことに変わりは無い。さて、では次はどうするかと言えば、言うまでも無く進水式である。作ったまま放置されて置かれるのは、草船としても文字通り『浮かばれない』。清流に身を委ねさせ、流れる様を鑑賞するところまで含めて、草船遊びと言えよう。
チエと志郎が仲良く並んで川縁に屈み込む。目を合わせて頷き合った後、草船を川面に漂わせた。船は僅かに揺らぐも直ちに体勢を立て直し、流れに沿って川を悠々と下っていく。二人はすぐに立ち上がると、流れ行く船を視界に捉えつつ追いかけ始める。
徐々に加速し、草船が視界から遠ざかっていく。気ままな川の流れに弄ばれてくるくると回り、迫り出した岩場に船体をぶつけ、時折顔を出すハスボーの水飛沫に揺らされたりしつつ、それでも船は転覆する事無く、一心に川下に向けて航行を続ける。
やがて船の姿を追う事は出来なくなり、志郎もチエもその場に立ち止まった。船が沈没せずに出航したことを受けて、満足そうな顔つきをしている。
「うまくいったね、チエちゃん」
「いい塩梅に流れて面白いなぁ。おらもっと流すぞぉ」
「よし、ぼくだって。チエちゃん、行こっか」
せせらぎと木陰が涼を醸し出す鬱蒼とした森の奥で、二人は気の趣くままに遊び続けた。人の手が入らぬこの場所は、志郎とチエだけの私的な遊び場と化した。時が経つのも忘れて遊ぶ二人を見ては、時渡りの神様とて時間の存在を知らしめることは難しかろう。
それでも――時は流れる。
チエと共に草船流しを飽きもせず五度ほど繰り返した後、志郎は少し腹の虫が疼いてくるのを感じた。時計は持っておらぬが、体感的にはちょうど昼時である。日の高さも昼時の証明となるだろう。川縁で手を洗っているチエに、志郎が後ろから声を掛けた。
「チエちゃん、そろそろお昼にしない?」
「んだ。おらもそう思っとったところじゃあ」
同意が取れた。志郎は立ち上がると、隅に置いてあった自分とチエの鞄を片手ずつに取り、元居た場所までさっと戻った。都合よくチエも戻ってきて、志郎から鞄を受け取る。手近に腰掛けられそうな大きな石が、ちょうど二つごろりと転がっていたので、二人はそれぞれ石の上に腰掛けた。
手提げから大きな握り飯を取り出す志郎に、チエも鞄から笹の葉を巻いた焼き木の実を取り出す。握り飯も木の実も都合よく――いや、最初から図っていたのかも知れないが――二つ在ったから、志郎もチエもどちらともなく、互いに持ち寄った食べ物を相手に手渡す。
「はい、チエちゃん。ラップを外して食べてね」
「ははっ、旨そうだなぁ。おらからも渡すぞぉ」
「ありがとう、チエちゃん。葉っぱで包むって、なんだか面白いね」
受け取った握り飯に、小さな口を目一杯開けてかぶりつくチエを横目で見ながら、志郎はチエが持ってきた笹の葉巻き焼き木の実の葉を一枚一枚丁寧に剥がしていった。葉を一枚取り去るたびに、笹の葉と木の実の芳醇な匂いが広がる。思い切りかぶり付きたい気持ちを無理くり抑え、志郎は落ち着き払って一口齧った。
果実の類は焼くと味が大きく変わると言われているが、志郎が食べたそれは元の味が何なのか考えがまったく及ばなかった。決して不味い訳ではない。火に炙られた果実は確かに柔らかく、口の中でスッと溶けるような感触がする。それでいて、口に入るまでは元の形を保っている。甘味は痺れるほど強く、口内に瞬時に広がるが、それはあくまで一瞬のこと。まるで尾を引かず、しつこさとは無縁であった。そして、甘さが引いた後にほのかに残る林檎のような酸味が、二口目・三口目と果実を食べさせる原動力として働くのである。散々長々書いたが、端的簡潔に言うと、旨いのである。
一心不乱に果実を食べる志郎の様子を見たチエが、口元に米粒をくっ付けたまま無邪気に笑う。目ざとい志郎が自分の口元を指して米粒の存在を教えてやると、チエは照れたように頬を赤くし、米粒を取ってはにかんで見せた。
志郎が持ってきた麦茶を二人で分け合って飲み干し、水筒を川の水で満たした後、志郎とチエは一服入れることにした。四方を木々に囲われた川辺で胸に空気を満たすと、臓腑が浄化されていくような感触が味わえる。志郎が住んでいるところは別段空気が濁っている訳ではないが、ここと比較すれば雲泥の差がある。どちらが雲かは、言うまでも無い。
「気持ちいいね、ここ。ねえ、チエちゃん……あれ?」
空気に身が洗われていくような快さを味わいながら、志郎が隣に居たチエに向き直った。
そこまではよかった。問題は、その後である。
「あたたたた……やめい、やめい、暴れるでねえ、暴れるでねえ」
「チエちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
座っていたチエが頭を抱え、蹲るようにして体を丸めていた。何事かと立ち上がった志郎がチエに寄り添うと、チエが苦しそうに顔を上げた。
「駄目じゃあ、駄目じゃあ。志郎、おらに近寄るでねえ。頭が、頭が割れちまうぞぉ」
「頭が……? チエちゃん、一体何が……」
志郎がチエの体を支えると――不思議なことが起きた。視界が揺らぎ、右の目と左の目で見ているものがずれてくるような感触がしたかと思うと、心の臓が頭に移ったかと錯覚するほど、どくんどくんと脈を打ち始めたのである。
初めは気にならなかったそれが、瞬きもせぬうちに大きくなり、やがてはっきりと伝わる『痛み』の波動として広がり始めた。思わず顔を歪め、志郎が片目を瞑る。あれよあれよと言う間に、志郎は頭痛に見舞われ始めた。
「痛い、痛い、こらぁ、やめろと言うておるんじゃあ」
「ぐっ……! チエちゃん、頭が痛いの……?」
止まない頭痛を抱えながらも、苦しむチエを見た志郎は決然と立ち上がり、チエの体を横たえてやった。頭を痛めているのにごつごつした石の上に頭を置くのは理に敵わぬと判断した志郎は、すぐさまその場へしゃがみこみ、己の膝をチエの枕としてやった。
横になり、志郎に膝枕をしてもらったチエが、少し表情を緩める。きゅっと閉じていた目を薄く開くと、心配そうな視線を志郎に向けた。
「志郎……」
「チエちゃん、しっかりして! 大丈夫? 横になってた方が、楽だと思うけど……」
「堪忍なあ、志郎。おら、時々頭が割れそうになってなぁ、そん時は、おらの周りに居る人も、同じように頭が痛いと言うようになるんじゃあ」
「やっぱり、チエちゃんも頭が痛くなったんだね……」
力なくこくりと頷くチエに、志郎は己の頭の痛みなどとうにどうでもよくなって、一心にチエの目を見つめ続けた。頭が酷く痛むせいか、チエの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。彼女の豪放磊落な面ばかり見ていた志郎は、今にも萎れそうな花を思わせるチエの姿に、ただならぬものを感じ取っていた。
チエは、泣いていた。
ポツリ、ポツリ。志郎の頭に、冷たいものが降ってきた。チエを起こさぬようにそっと顔を上げると、あれほど晴れ渡っていたはずの空に、黒い雨雲が被さっているのが見えた。弱い、ごく弱い雨を降らせ、志郎とチエの頬に雫を垂らす。ぼうっと空を見つめながら、志郎は惚けたように口を開けていた。
短パンのポケットからハンカチを引きずり出して、チエの額にじっとりと浮かんだ汗を拭ってやる。志郎自身も頭の痛みはあったが、今はそれよりチエの具合の方がずっとずっと心配であった。水筒から冷えた水を容れ物に汲んで、口から少し飲ませてやった。こくん、と水が喉を通る音が聞こえた。
幸いにして、チエと志郎の頭の痛みはそれ以上酷くなる事はなく、一度山を越えた後は波が引くようにごく静かに鎮まってゆき、チエは落ち着いた呼吸の律動を取り戻した。志郎が頭を撫でてやると、チエは安堵した表情を見せ、そっと目を閉じる。
「落ち着いた? チエちゃん」
「まだ、ちぃと痛むけど、もう心配せんでも大丈夫じゃあ」
受け答えはハッキリしていた。チエはまだ少し痛むようだったが、先ほどのような激しい痛みとは程遠い、しつこく居残った弱い痛みのようだった。
「よかった……チエちゃんが苦しそうだったから、心配だったんだ」
「堪忍なぁ、志郎。おら、もう大丈夫じゃけど……」
「うん。どうかした?」
「もうちっとばかり、横になっててもええかえ?」
「いいよ。ぼく、チエちゃんが起きるまでこうしてるからね」
志郎の膝の上が気に入ったのか、もう少し横になっていたいと言うチエに、志郎は即座に構わないと答えた。チエは弱々しいながらも笑顔を取り戻すと、しばし目を閉じた。
そうして半時ほど、志郎もチエも互いに何も言わずに過ごしていた。そこから先に沈黙を破ったのは、志郎の膝の上で横になっていたチエのほうだった。
「堪忍なぁ、志郎。頭、痛かったじゃろ?」
「ううん、ぼくは平気だよ。チエちゃんこそ、大丈夫?」
「うん、うん。おらも大丈夫だぁ。志郎、ありがとうなぁ。志郎のおかげで、おら随分楽になっただぁ」
「そっか……よかった。ぼく、チエちゃんが倒れちゃうんじゃないかって、心配で……」
「すまんなぁ、志郎。おら、昔のことを思い出しちまったんだぁ」
「昔のこと?」
昔のことを思い出した、と呟くチエに、志郎は先を聞かせてくれ、という意味をこめて問い返した。チエは志郎の言葉の裏の意味まで読み取って、訥々と続きを話し始めた。
「志郎がくれた握り飯を、志郎と一緒に食ってたら、おっ母がいた頃のことを思い出して、おら悲しくなってきて……そんで、気が付いたら、頭が痛くなっとったんじゃあ」
「チエちゃん、お母さんがいないの?」
「そうじゃあ。おらが五つのときに、おらの病気を治すために出て行ってしまったんだぁ」
「病気?」
「んだ。おらもよく覚えてねえけど、体が燃えとうみたいに熱っこくなって、前も後ろも見えんようになったんじゃあ」
チエはその昔、重い熱病に罹ったという。その病を治すために、母親は出て行ったと言う。
「おっ母がいなくなって、ちっとすると……体が楽になっただぁ」
「お母さんがいなくなって……」
「そうだぁ。それで、おら、おっ母、おっ母って何遍も呼んで、でも、おっ母は帰って来なんだんだぁ」
「チエちゃん……」
「時々思い出すんじゃあ。雨ん中で、ずっとおっ母、おっ母って叫んどったのを」
「そんなことが……じゃあ、チエちゃん。お父さんは?」
「知らねぇだ。おらが生まれたときは、おっ母しかいなかっただぁ」
「そっか……チエちゃんも、一人なんだね」
「『も』? 志郎も、一人ぼっちなのかえ?」
「うん。お母さんがいなくて、お父さんはいるけど、よく家を空けて留守にしちゃうから」
チエの境遇は、志郎にも痛いほど理解できるものだった。父と母が共におらず、一人ぼっちで過ごしているという。この様子では、普段から一人で過ごしているのだろう。志郎には康夫がいたが、康夫もしょっちゅう家を空けて志郎を一人にしてしまう。だから、志郎は一人ぼっちの寂しさがどれほどのものか、その身をもって理解していた。
寂しげな目を向けてくるチエに、志郎は居た堪れなくなって、雨に濡れたおかっぱ頭を撫でてやった。頭が痛いと言っていたのだ、撫でてやってもいいじゃないか。そのように言い訳を作っていたが、本心ではそんな瑣末なことより、チエが不憫でならなかったのである。
生まれつき父親がおらず、慕っていた母親もいなくなってしまった。そのような境遇で、チエは一人暮らしている。 一人きりのチエのために、何かしてやれることはないのか──自問自答した志郎が、無意識のうちに、チエに向かってこんな問いを投げかけていた。
「チエちゃん」
「ん? どうしたぁ、志郎」
「チエちゃんは、ぼくと一緒にいると楽しい?」
チエの、答えは。
「当ったり前だぁ。おら、志郎と顔合わせてから、毎日早起きしてんだぞぉ」
「チエちゃん……それ、ぼくも同じだよ。早く起きれば早くチエちゃんに会える、って思ってさ」
「なんだぁ、志郎も同じだったのかぁ。おらたち、よく似てんなぁ」
膝の上のチエの顔に、いつもの屈託のない笑顔が戻ってきた。雨降りのような雫を零しているより、太陽のように爛々と輝いていてほしい。志郎は、チエがそうあってほしいと願った。
空を見上げる。先ほどまで張り出していた薄汚れた雨雲はとうの昔にどこかへ消え去って、また夏らしい青空が広がっていた。ただの通り雨だったようだ。通り雨にしては勢いも激しさもないしょぼくれたものだったが、まあ、大雨に降られてずぶ濡れになること思えば在り難いものである。
志郎がチエを介抱していると、先程川縁で字面通り『耳を傾けて』いたタブンネが、とことこと二人の元へ歩み寄ってきた。チエが薄目を開けると、タブンネがずずいと彼女の顔を覗き込む。チエが横になっているのを見かけて、何事かと心配したようである。
「多聞音かえ? おらはもう平気だぞぉ。志郎が面倒見てくれたんだぁ」
「心配してくれたんだね。でも、チエちゃんは大丈夫だよ。もうすぐ立ち上がれるようになると思うから」
タブンネは二人の前に立つと、クルリと巻いてある耳元の触角をスルスルと伸ばして、チエと志郎の額にピタリと触覚の先端を当てた。行動の意味合いはよく分からないが、もしかするとあれは医者の持っている聴診器のようなものであろうか。二人共々頭が痛いと言っていたから、タブンネがそれを聞いて頭を調べてくれているのかも知れぬ。志郎はタブンネの触覚を見つめながら、とりあえずそのように考えておくことにした。
ひたひたと何度か当てて外してを繰り返し――調べている間一度だけ驚いたような表情を見せたが、その瞬間川からドジョッチが飛び出したので、水の跳ねる音に驚いたのだろう――、必要なことを調べ終えたようだ。タブンネが触手を元の形に巻き直す。タブンネの表情を見る限り、問題は無さそうである。
「ねえ、タブンネ。ぼくたち、大丈夫だったよね?」
「タブンネー」
「おぉい、多聞音ぇ。『多分』じゃ加減が分からんぞぉ」
チエが起き上がり、タブンネの「多分ね」という曖昧な回答に笑って突っ込みを入れる。無論、タブンネとしては「まず大丈夫」という意味を込めて言ったわけであり、間違っても「多分大丈夫、だけど危ないかも」という意味ではないのだろうが、この答えではまあ致し方ないところである。
手短ながら診察してくれたタブンネを、志郎とチエが揃って撫でてやる。日和田のタブンネは人を怖がるようになったと言うが、このタブンネはチエによくしてもらっているのか、まるで怖がる気配を見せない。目を細めるタブンネの姿が、曇りかけた心を晴らしていくのを感じる。
優しいタブンネから心地よい「癒しの波動」を掛けてもらい、すっかり元気を取り戻した志郎とチエが立ち上がった。いやはやまだまだ日は高い。帰ってしまうには惜しい晴天である。
「よし、チエちゃん。また遊ぼっか」
「賛成だぁ。おらももっと遊びてぇぞぉ」
憂鬱な時間はお終いだ。さあ、もっと遊ぼうではないか――志郎がチエの手を取り、川へと向かう。
「チエちゃん、『水切り』って知ってる?」
「いんや、おら知らねぇだ。手で水をぶった切るのかえ?」
「うーん、ちょっと違うかな。こうやって、石を投げて……それっ!」
「おぉ? 石が水の上を跳ねてってるぞぉ?」
「これが水切りだよ。石を投げて、川の上を跳ねさせる遊びなんだ」
「面白そうだなぁ。おらもやってみるぞぉ」
木漏れ日の差す森の奥、物の怪たちの住む川で、水切りに興じる童たち。地と水の入り混じる狭間に立ち、無邪気に石を投げてゆく。
「ち、ちょっとチエちゃん、そんなに振りかぶらなくても……」
「なぁに、ちぃと加減すれば、おらだってぴょんぴょん跳ねさせられるぞぉ」
「うわっ、この角度っ……!」
「見とれよぉ。えぇいっ!!」
力任せに投げた石は、いつぞやの出来事を想起させる、派手な水柱をぶち上げた。
「ありゃあ、石が跳ねずに水が跳ねちったなぁ」
「けほっ、けほっ……チエちゃん、力任せに投げればいいってもんじゃないよ……」
「そうなのかえ? 志郎、おらに投げ方教えてくれぇ」
「いいよ。ちょっと、顔を拭いてからね」
びしょ濡れになるのも、これでもう三日連続。志郎はそう考えると共に、チエと邂逅してまだ三日しか経っていないということを思い出し、些か驚くのだった。たったの三日で、ここまで仲良くなれるものなのか。前にも思ったが、昔からの知り合いのような気さえする。
それが錯覚に過ぎぬということは、志郎自らの記憶が明瞭に物語っていたが。
そうしてまた日が昇る頃に、志郎は目を覚ました。重い瞼に閉ざされそうになる目をこすり、顔を洗おうと洗面所に向かうと、炊事場から音が聞こえてきた。洗面所の冷たい水で顔を洗い、志郎が炊事場へ向かうと、義孝が既に起きて飯の支度をしていた。
「おじいちゃん、おはよう」
「おお、志郎か。おはようさん。早起きだね」
「うん。何か、お手伝いすることある?」
志郎は義孝に言われるまま、朝飯の支度の手伝いをした。炊き上がった米飯を混ぜて蒸らし、食卓を水に濡らした布巾で拭い、焼いた鰆の切り身を小皿に盛り付け――一通りの作業をして、志郎と義孝が朝飯の準備をした。
手際がいいのは、志郎の家の都合があった。志郎と康夫は二人暮らしで、志郎の母、あるいは康夫の妻と呼ぶべき女性は家にいない。家事の類は父である康夫が請け負っていたが、志郎にその手伝いが回ってくることも多々あった。具体的にいつからそうだったのかは判然としないが、少なくとも幼稚園に通う頃から、志郎が家事の一端を担っていたのは事実だ。
時折、康夫に対して母親のことを訊ねることもあった。その都度、康夫は少々答え難そうな顔をして、穏やかに諭すような口ぶりで「お前の母さんは、遠くへ行ってしまったんだ」とはぐらかすばかりだった。今年に入っても、志郎は一度康夫に問うてみたが、答えは一向に変わらなかった。
答え難そうな表情や、濁すような言葉から、志郎は、子供なりに自分の「母親」がどうなったのか、ある程度察するようになっていた。つまるところ、母親は既に手が届くところにはおらず、有体に言えば亡くなったのだろう、父はそれを分かっていて、あえてはっきりとは言わないのだろう。そのように解釈するようになっていた。
「志郎、おばあちゃんのところへ行って、仏飯をお供えしてやっておくれ」
「分かった。ぼくがやっておくね」
疑問に思うところが、まったく無いわけではない。義孝の家には、かつて義孝の連れ合いだった文江の遺影と仏壇が据え付けてあったし、級友の家にも同じように仏壇が置かれているところがあった。だが、志郎の母親には、そのような「生きていたことの証跡」が見当たらない。写真の一枚でもあるものだと思うが、それすら見当たらない。
亡くなったというより、初めからいなかったのではないか。そう考える方が、むしろ、自然ですらあった。
まだ眠っている康夫を尻目に、志郎と義孝は先に朝飯を食べ、一足早く朝の支度を済ませた。義孝が留守番をしてくれると言うので、志郎は待っていたとばかりにその言葉に乗った。麦藁帽子を被り、水筒に冷えた麦茶を詰めた後、志郎は義孝の家から走り去っていった。
川へ続く道の最中、志郎は時折横手に目をやる。枝に片足でしっかりしがみついているホーホー、美しい花々から悠々と蜜を集めて回るバタフリー、キマワリに混じって夏季の晴天に歓喜するチェリム。ポケモン、あるいは物の怪たちは今日もまた日和田という楽園の中で、思い思いに活動しているようだった。
こんな光景もあった。打ち捨てられた自転車に絡み付いて眠っているマダツボミ、錆び付いた鉄骨を骨で軽く叩いて遊んでいるカラカラ、光の届かぬ湿った廃屋で茸を養うパラス。かつて人がその地に残していった『文明』の残滓を、ポケモンたちは無邪気に自然の色に染めていく。
文明あるところに、物の怪は現れぬ。だが、ひとたび文明がその足を止めたとき――帰ってきた物の怪が、文明を自然へと溶かしていくのだろう。
昨日チエが魚獲りを練習していたあの小さな河川までは、志郎の足で歩いて三十分ほどのところにあった。志郎が辺りを見回してみるが、チエはまだ来ていないようだった。さらさらという清流を湛える涼やかな音が耳に届き、身の丈より大きな葱を担いだカモネギが、向こう岸へすいすい渡っていく様が見えるばかりだった。
志郎は川縁に水筒を置くと、サンダルのまま川へと踏み込んだ。冷たい水が足を包み込み、そこから生じた心地よい寒気が背筋を駆け上る。日和田の暑さは相当なもので、何かにつけ涼を得なければ、とてもではないが過ごせたものではない。志郎は束の間の涼を得て、ほう、と息を吐いた。
川から顔を出す小さな砂利場の上で、兄弟と思しきソーナノが二匹、押し競饅頭をして遊んでいる。負ければ川に落ちてずぶ濡れになってしまうから、どちらも必死の形相だ。もっとも、ソーナノがどれだけ必死の形相をしても、結局のところいつもの朗らかな笑顔を崩すことは無かったから、傍から見ると楽しげであるとしか見えなかった。
ぐいぐいと互いを押し合う。兄弟であるからにはどちらかが兄でどちらかが弟だと考えるのが自然だが、ソーナノ二匹の実力は拮抗していた。一方が押されたかと思うと力強く押し返し、あわや、というところで、なにくそとばかりに反撃に打って出る。真面目であり、真剣であり、それでもやはり朗らかさは変わらない。
やがて、押し競饅頭を続けていた二匹が共々疲れてしまったのか、小さく息を吐いて体を弛緩させた。しばらく揃ってぼうっとしていたが、やがて右側にいたソーナノが自ら川へ飛び込んだ。ささやかながら水飛沫が上がり、砂利場に残っていたソーナノに雫が飛ぶ。にこやかに笑う兄弟の姿を見た相方も、負けじと川へ身を投げた。暑い盛りに押し競饅頭などしていたから、ここらで一服涼もうという腹積もりなのだろう。
「あれ、楽しそうだなあ……」
「んだ。おらもそう思うだぁ」
「うわっ!? チエちゃん、いつからいたの?」
「ついさっきからだぁ。押し競饅頭の終いくらいだったかえ」
志郎の横からひょっこり顔を出すチエに、志郎はまたしても驚かされてしまった。チエは昨日と変わらず純朴そうな顔を志郎に向け、時折ぱちぱちと目を瞬かせている。なんとか気を取り直し、志郎がチエから一歩引く。
チエは、昨日と何ら変わらぬ装いで川に現れた。電気鼠のピカチュウを思わせる黄色の雨合羽に、つややかな黒のおかっぱ髪。下履きは無く、昨日と同じく裸足だった。志郎はチエの様子を一通り確認して、目の前にいるのが紛れも無くチエであることを確かめた。
「志郎、よく来てくれたなぁ。おら嬉しいぞぉ」
「うん。ぼく、チエちゃんと遊びたかったから」
「そうかそうかぁ。おらも同じだぁ。今日はうんと遊ぶぞぉ」
「そうだね。じゃあ、何して遊ぶ?」
「おら、さっきの押し競饅頭やってみたいだぁ」
「向こうでソーナノがやってた、あの押し競饅頭?」
押し競饅頭がしたいと要望を出すチエに、志郎は先程までソーナノがいた川の砂利場に目をやる。そこにはもうソーナノはおらず、使おうと思えば使える状態だった。二人が立つには少しばかり手狭だが、いやいやむしろそれくらいの方が押し合い圧し合いも面白かろう。志郎はこくりと頷いた。
はしゃぐチエと共に砂利場へ向かい、志郎が上に立つ。次いでチエが隣に立ち、準備は整った。二人が体をくっ付け合うと、志郎は横目でちらりとチエの様子を窺った。
「チエちゃん、これでいい?」
「おらはこれでいいぞぉ。始めるかえ?」
「うん、わかった。行くよ? せーのっ……!」
掛け声を上げて、志郎とチエが押し競饅頭を始め――
「それぇいっ!!」
「うわっ!?」
――た、直後。チエが志郎にお尻から体当たりを敢行して、隣にいた志郎を一撃で吹き飛ばした。志郎は軽く浮き上がって砂利場から投げ出され、無抵抗のまま川へと飛び込んだ。派手な水飛沫が上がり、志郎が川面に叩きつけられる。それほど深い川でもないから、志郎は川底に遠慮なく腹を打ち付けることになった。
昨日の比ではない程にずぶ濡れになった志郎が、何とか体を半分起こしてみると、チエが得意気に胸を張って志郎を見下ろしていた。呆気に取られた志郎が、ふるふると濡れた顔を震わせ、チエの目をまじまじと見つめた。
「い、今の……何?」
「はっはっはぁ! おら普通に押しただけだぁ。志郎こそどうしたんだぁ?」
「うーん……ぼくも、普通に押しただけなんだけど」
「ありゃ、ちと強かったかえ? おら加減したつもりだったんじゃけどなぁ」
「どう考えても、全力だったとしか思えないよ……」
チエ曰く、志郎を吹き飛ばした体当たりは「加減したつもり」だったらしい。全力でぶつかられたら、志郎は反対側の岸まで吹き飛んでいたかも知れない。チエは見かけによらず、結構な力持ちのようだった。
川の水で顔を洗い、志郎はざぶざぶと音を立てながら立ち上がる。下着も含めて全部が全部びしょ濡れになってしまったが、おかげで涼しくなった。チエの立っている砂利場に戻ると、再び彼女の隣に立った。
「よし、二回目だ。今度は負けないぞ」
「なんのなんのぉ。おらだって負けねぇぞぉ」
「始めるよ。せーのっ……!」
こうして、志郎は再びチエに押し競饅頭の勝負を挑んだわけだが――。
――して、かくも華々しきその結果は、と言うと。
「……チエちゃん、ものすごい力持ちだね。ぼく、全然敵わないや……」
「はっはっはぁ! おらの勝ちだぞぉ!」
最初のものも含めて五回戦ってみて、そのいずれも初めと同じ負け方を繰り返したのだった。全身ずぶ濡れになった志郎がシャツの裾を絞って水を切りながら、チエの力持ちぶりに驚くやら気圧されるやら、とにかく呆気に取られていた。人は見かけによらぬ、と言うが、ここまで如実な例は珍しい。
志郎と押し競饅頭をして大勝ちしたチエは、機嫌よく鼻歌を歌っていた。多聞に漏れず、自分の思うように歌っているために少し調子外れであったが、それがまたとても楽しそうなのだった。志郎はサンダルの中に入り込んだ砂利を川の水で洗い流してから、ご機嫌なチエに話しかけた。
「楽しそうだね、チエちゃん」
「はっはっはぁ! そりゃぁそうだぁ。志郎がおらと遊んでくれるからなぁ」
「ぼくと遊べたから、嬉しいの?」
「そうだぞぉ。おらと同じくらいの童ぇなんて、日和田には誰もいねえからなぁ」
「そっか……そういえば、子供が全然いないね」
日和田は老いた村だ。志郎やチエのような子供は、とんと見かけなくなって久しい。だとすると、チエはこれまで長い間、一人きりで遊んでいたのだろう。一つか二つ年かさであるとはいえ、志郎は誰が見ても子供――チエの言葉を借りるなら『童』――だ。チエがはしゃぐのも、分かることだろう。
前にも触れたが、日和田の過疎と高齢化は止めようが無いほどに進んでいた。一番の若者が、義孝の家にやってくる健治という時点で、その様相が窺い知れるというものである。老いた村は、人と同じ運命を辿る様にゆるやかな衰退に入り、やがては顧みる者もいなくなってしまう。日和田はゆるやかな下り坂を降りている真っ最中だった。
「あーあぁ、志郎、ずぶ濡れになっちまっただぁ。おらが乾かしてやるぞぉ」
「うん。昨日と同じように、お願いするね」
志郎のシャツの裾を掴むと、チエが昨日と同じように、言葉にできない念仏のようなものを誦する。始めは何も変わらぬ様態だったのが、チエが顔を顰めた直後、また水がチエの指先へと導かれ、手の甲を伝って砂利場へ零れ落ちていった。見る見る内に、水浸しだった服が乾いていく。
すっかり水を出し切ってしまうと、チエはほとんど止めていた呼吸を、ぷはぁ、という大きく息を吐く音と共に再開した。何度見ても不思議な業だと、志郎は目を見開かずにはおれなかった。チエは額に汗を浮かべ、志郎に笑顔を向けた後、川の水で顔をごしごしと洗った。
チエの不思議な力、つまりは水を集める力が働くのは――昨日もそうだったが、チエが顔を顰めたすぐ後のことだった。あの力を行使するためには、少しばかり表情を歪めることが欠かせないのだろうか。疑問を抱いた志郎が、すぐさま、チエに声を掛けた。
「チエちゃん、一つ訊いてもいい?」
「なんだぁ、志郎? おらに訊きたいことがあるのかえ?」
「うん。昨日もそうだったけど……ぼくの服を乾かすときに、なんだかちょっと辛そうな顔してたけど、あれ、どうかしたの?」
「それかぁ。大したことないんじゃけどなぁ、おら、お天道様にお願ぇするときに、ちと『頭』がずきずきするんじゃあ」
「頭が痛くなるの?」
「うん、うん。頭が痛くなるのが先かぁ、お天道様がおらの頼みを聞いてくれるのが先かは、おらにも分からんけどなぁ」
チエは言う。あのような力を行使する時、チエは頭がずきずきと痛むのだと。それを合図にして、不可思議な力が顔を出すという仕組みになっているのだと。頭が痛くなるから力が使えるのか、力が使えるから頭が痛むのかは、チエにも分からないらしい。
頭痛が先か力が先か、というのは、鶏が先か卵が先か、その言い合いをするのに等しい。どちらとも取れるから、どちらとも言えなかった。確実に述べられるのは、チエの「お天道様へのお願い」というのは、チエの頭痛と切っても切れない関係にあるということだけ、だった。
「そっか、頭が痛くなるんだね。ごめんね、チエちゃん。無理させちゃって」
「気にするなぁ、おらは平気だぞぉ。でも、志郎は優しいなぁ」
「頭が痛くなるのは、ぼくもなったことがあるから、分かるよ」
一回り上からチエを見下ろす形になっていた志郎が、ほとんど無意識のうちに、チエのおかっぱ頭の上に右手を乗せていた。チエは不思議そうに目をパチパチさせてから、上目遣いでもって、自分の頭の上に乗っかった志郎の手を見つめた。
「痛いの痛いの、飛んでけーっ……なんてね」
「こぉら、志郎。おら、くすぐったいぞぉ」
志郎が優しい手つきでチエのおかっぱを撫でてやると、チエはくすぐったそうにしながら、はにかんで笑顔を見せるのだった。愛嬌のある仕草で、チエが微笑む。
楽しい。久しぶりにそう思った。志郎は日和田に来てからというもの、日々が退屈でならなかった。一週間ほどしか経っていないはずなのに、その何倍も、この何も無い寂れた村に留まっているような錯覚を覚えていた。あまりにも無為で、途方も無く倦怠で、呆れるほど空疎。挙句、泊り込んでいる義孝の家では、父の康夫と叔父の健治が沈鬱な言い合いを延々続けているから、余計に気が重かった。
チエは、鬱屈した夜空の如き志郎の心に流れてきた、箒星のような存在だった。とかくキラキラと輝いて、彼女の一つ一つの仕草に、志郎は強く惹かれていく。昨日会ったばかりだというのに、まるで、昔からツナガリを持っていたような、言い知れぬ親しみを感じる。それはもちろん、チエの屈託の無い性格に起因するものだ。少なくとも、志郎にはそう思えた。
楽しい気持ちに任せて、ただチエと遊ぶ。どうせ、家に帰っても健治が居座っているのだ――このまま、日が暮れるまで遊べばいい。志郎は、そう考えた。
チエの紅葉のような手を取り、強く握り締める。それにしっかり応えてくれるチエの指先が、志郎には快く、心地よく、心強かった。
「チエちゃん、もっと遊ぼうよ」
「当ったり前だぁ。おらまだまだ遊びてぇぞぉ」
二人は手を取り合って川から上がると、川から少し歩いたところにある鎮守の森へと向かう。人の手が入らなくなって久しい神社を守るように取り囲む、ごく、小さな森だ。階段を一段一段上り、志郎とチエの姿が、鎮守の森の中へと消えていく。
喧しいほどに響き渡る、蝉たちの命を賭した吟詠の合間を縫って。
「行くよ。だーるまっかが、こーろんだっ!」
少年と少女が、鎮守の森を遊び場に変えていった。
「あちゃあ……おら、捕まっちまっただ」
「えへへっ。鬼ごっこなら負けないよ。それじゃチエちゃん、今度はぼくを追いかけてね」
「よぉし、おらが鬼だぞぉ。志郎、覚悟せぇよぉ」
「そんな簡単に、つかまらないよっ」
「待て待て志郎ぉ、とっととおらのお縄を頂戴するがええわぁ」
「おーにさーんこーちら、てーのなーるほーうへっ!」
太陽は爛々と輝き、地表をその絢爛たる光で揚々と焼いてゆく。己が存在を十二分に誇示した後は、控える月に光の衣を覆い被せ、自らは冷たい海に沈んでその身を休める。
時に延々とその身を晒して人に手を焼かせ、時に雲を被って人を恋焦がれさせる。太陽以上に気まぐれな者がおろうか。咄嗟には思いつかぬ。
「こぉら、志郎。お稲荷の影に隠れるのは卑怯だぞぉ」
「どうして? だって、ちょうどいい場所だし」
「おらは玖魂って狐の物の怪が大っ嫌ぇなんだぁ。夢にまで出てきて、おらを干からびさせようとするんじゃあ」
「なるほど、チエちゃんはキツネが苦手なんだね。だったら、ぼくはここからてこでも動かないよ」
「なんじゃあ、狐みたいに悪知恵働かせよってからに。もういい、おら知らね」
「ごめんごめん。冗談だよ、チエちゃん」
ああ、太陽のなんと奔放なことか。奥ゆかしい月とは対照的な、かくも壮麗たる有様よ。
陽の色が赤みを増すころに、志郎とチエは別れることになった。
「チエちゃん、ありがとう。すごく楽しかったよ」
「おらも楽しかったぞぉ。明日も、遊べるかえ?」
「大丈夫だよ。今日と同じように、川で待ってるね」
「分かっただぁ。志郎、また明日なぁ」
「うん。さよなら、チエちゃん」
明日もまた、遊ぼう。そのように約束を取り付け、志郎が立ち去ろうとする。
「あ、志郎、待っとくれえ」
「どうしたの? チエちゃん」
「指きり、してくれんかえ」
「えっ? 昨日もしなかったっけ?」
「昨日は昨日、今日は今日じゃぁ」
小指を差し出し指きりをねだるチエの姿を見た志郎は、仕方ないな、と、口では言わなかったけれど明らかにそれと分かる苦笑いを浮かべて、ぴんと伸びたチエの小指に、己の小指を引っ掛けた。
蛇の喧嘩のように絡み合った小指の接点から、志郎はチエの鼓動を微かではあるが、しかし確かに感じ取れた。チエの澄み切った瞳に自分の姿が映し出されていると思うと、志郎は何だか照れ臭くなって、そっと視線を外してしまった。それでも、触れ合った指から伝わる鼓動は、志郎にチエの存在をハッキリと自覚させるのだった。
志郎はわざと二、三度咳払いをしてから、さも何事も無かったかのように、指きりの呪いを口にした。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
絡め合っていた指を解くと、それと同時に志郎はチエの鼓動を感じとることができなくなり、一抹の寂しさが胸に去来する感覚を覚えた。チエは志郎の胸中を知ってか知らずか、無邪気な笑顔を志郎に向けつづけていた。
「うれしいなぁ。これで、明日も志郎と遊べるぞぉ」
「明日も必ず行くよ。一緒に遊ぼうね」
「うん、うん。楽しみにしとるよぉ」
鎮守の森の前で、チエと志郎が二手に別れる。志郎は、当然であるが元来た道を帰っていく。一方のチエはと言うと、鎮守の森の横をすっと通り過ぎて、そのもっと奥に見える、鬱蒼とした大きな大きな森へと吸い込まれてゆく。志郎は足を止めて、去り行くチエの姿を見つめた。
向こうに人家らしいものは見えない。あるいは、森を抜けたもっと向こうに、チエの住処があるのだろうか。日和田は山と森に囲まれた村だ。そのような場所に家があったとて、何らおかしなことはあるまい。何ら、気に掛けることはあるまい。
さて、一刻も早く戻らねば。早く帰れば早く飯の時間になり、早く飯を食い終われば早く眠ることができる。早く眠れれば、早くチエに会うことができる。今歩みを速めることは、遠回しにチエと早く会えるということを意味する。志郎は、ずっと被っていたが故に、少しばかり汗臭くなった麦藁帽子を改めて被り直すと、一目散に義孝の家へと駆けていった。
チエのことばかり考えていた志郎であったが――義孝の家まで戻ってくると、また、玄関に靴が三足並んでいる様が見えた。ふっと我に返る。夕暮れ時になっても、健治はここに居座っているらしい。関わりの薄いあの叔父が何をしているかなど、目で見ずとも易々と想像がつく。
そろりそろりと忍び足で、志郎は縁側へと向かった。開け放たれた窓から、室内で繰り広げられる、胃の痛くなるようなやり取りの一部始終が響いてきた。
「父さん、父さんだって分かっているはずだ。僕がサナトリウムに通い詰めなきゃいけなくなったのは、あいつの、あいつのせいだってッ」
「分かっておる。言いたいことは分かっておる」
「あれからもう三年も経っているんだ。それなのに、何一つ変わらない。窓の外を日がな一日見つめ通しで、たまに雨が降れば涙を流す。何も変わらない。変わらないんだッ」
「変わらない、のか」
「ああなってしまったのは、あいつの、剛三のせいだ。あの、外道の、鬼畜生の、人非人が、何もかも変えてしまったんだッ」
「それと、これとは、関係の無いことだと言っている」
「違うッ。そうじゃない。兄さんも父さんも、嵌められているんだ。これは、あいつの仕掛けた罠なんだ。騙されている、謀られている。正しいのは僕だ、僕の方なんだッ」
「例え山科がいなくとも、皆も賛成している。合意の上だ」
「何の為だ。水溜りなんて、あちこちに莫迦みたいに作っているじゃないか。どうしてここに作る必要がある。さっぱり分からないぞ。理屈が通らない。無理を通そうとしても、道理は引っ込まないぞッ」
健治の剣幕は、日を追うごとに増していっていた。中身が、志郎には分からない単語ばかりであったから、健治が何に憤怒し激昂しているのか、理解しようが無かった。意味も分からぬことを喚き続ける健治は、志郎にとって途轍もなく苦手な存在だった。康夫や義孝が辛抱強く真っ当に相手をしてやっていることが、正直に言って信じられぬほどだった。
理解できないことと言えば、チエが見せる「お天道様の力」だって理解できない。だが、あれは別に不快でも苦痛でもなかったし、チエが「お天道様にお願いすると願いが叶う」と言うのであれば、それは額面通り、チエの言うままなのだろうと思えた。理解できなくとも、何とも思わない。何故なら、チエというあの少女のことは、志郎は理解できるからだ。
縁側から家へ上がり、志郎が麦藁帽子を脱ぎ去る。蒸れて少し痒くなった頭を掻きながら、襖の向こうにいる叔父の気が静まるのを、じっと待ち続けた。
半時ほど経って健治がようやく引き上げたのを確認した志郎が、襖を開いて茶の間に姿を表す。志郎のことを意識の埒外に放り出していたのか、康夫も義孝も志郎の顔へ揃って視線を傾けた。少し居心地の悪い思いをしつつ、志郎は構わず茶の間へと出た。
千切った舞茸、輪切りの蓮根、刻んだ人参に湯掻いた牛蒡、洗った蓬、ざく切りの玉葱、大ぶりの薩摩芋と馬鈴薯、薄く切った南瓜、串に刺した獅子唐やら隠元豆、変り種に蒟蒻に昆布に紅生姜。鮮やかなタネを薄手の衣でからりと揚げた天麩羅を囲み、志郎らは夕飯を取った。昼飯を食うのも忘れてチエと遊んでいた志郎は、義孝の揚げた天麩羅の山を見るや今頃になって腹の虫が疼き、手当たり次第に天麩羅を食っていった。
湯を浴びて汗を流し、程々に涼んだ志郎が、茶の間で昼の続きをしている二人に先んじて布団に入った。目を閉じると、下ろした瞼を上げるのがひどく億劫に思え、そのまま闇に身を任せているうちに、体の末端から徐々に重さを感じ始め、やがて志郎は眠りについた。
暗い池に月が浮かぶ。台座の上に据えられた宝石か、闇にとらわれた姫君か。月はただ在るがままそこに浮かんでいるだけで、月は己の浮かぶ意味を知らない。人や獣、あるいは物の怪たちが、己の生き様に応じた、月の在り方というものを決めるのだ。
ふっ、と目を開くと、薄汚れたプラスチックの猫が結わえられた蛍光灯の紐が、志郎の前にぶら下がっていた。
ああ、そうか、ぼくは昼寝をしていたんだ――志郎はまどろみながら、大儀そうに体を起こした。畳の上で二つに折った座布団を枕にして眠っていたからだろう、背中から腰にかけて鈍い痛みが伝わってきた。ぐるりと体を捩り、痛みの元である凝りを解す。
志郎は父親の康夫と共に、日和田村に住んでいる祖父・義孝の実家に泊まっていた。平時の二人は日和田村から車で一時間半ほど走った先にある小金市に住居を構えているが、康夫が「おじいちゃんと大事な話をするから」という理由で志郎を連れ出し、ここ日和田村まで連れてきたという経緯がある。
日和田は四方を山と森に囲まれ、これといった産業を持たない典型的な田舎町だった。このような有様であるから、若い衆が根付くことも寄り付くことも無く、過疎と住人の高齢化が止め処なく進んでいた。侘しいことであるが、しかし他を当たれば、このような滅び逝くさだめにある地域は両手に余るほど見つけられよう。日和田は、所詮その中の一つに過ぎなかった。
志郎が体を起こしてぼうっとしていると、すぅ、と襖が開いて、祖父の義孝が顔を見せた。
「志郎、今起きたのかい」
「うん。おじいちゃん、お父さんは?」
「叔父さんと話をしているよ。少し掛かりそうだから、外で遊んでくるといいよ」
義孝の家に厄介になり始めてから間もなくして、志郎の叔父である健治が訪れてくるようになった。健治は康夫と話をするばかりで、志郎の前にはろくに姿も現さなかった。口をきいたことも無い。だから志郎にとっては、叔父であると言われても今一つ実感が湧かなかった。まったくの赤の他人が、父親と話をしている。それくらいの認識だった。
促されるまま、志郎は隣に置いてあった麦藁帽子を被り、縁側から外へと出て行った。玄関へ向かうには茶の間を通る必要があり、そこで康夫と健治が話をするものだから、二人の邪魔にならぬよう、志郎はこうして縁側から外へと出てゆく。義孝に見送られ、志郎は出かけていった。
抜けるような、という些か使い古された言い回しの似合う青空が、果てる事無く延々と広がる。青のカンバスに誘われた白い入道雲が、背丈を競うように伸び伸びと育ってゆく。照り付ける太陽の強い日差しの元で、乾き切った地面が只管に焼かれていた。
群れを成した向日葵が畑を形作り、陽の光を浴びて天に伸びている。向日葵の間に混じって、ばたばたと喧しくはしゃぎ回るキマワリの姿も見える。向日葵の陰からキマワリが顔を覗かせ、キマワリの後ろから向日葵が首を出す。似たもの同士の花とポケモンが交わる様を、志郎は少し笑って眺めていた。
寂れた田舎町。そんな形容が誂えたかのように似合う日和田だったが、村に広がる風景自体は決して悪いものではない。人が寄り付かないということは、即ち人の手が入らないと言い換えることもできる。刈り取られなかった草にハネッコたちが集い、切り倒されなかった木々にポッポやピジョンが巣を作り、七色に染められなかった池沼や河川にニョロモやハスボーが住み着く。ポケモンたちにとって日和田は消えゆく町などではなく、命が芽吹く優しい庭に他ならなかった。
舗装されていない土色の道を忙しなく歩くコラッタ。枝につかまって羽を休めるネイティやマメパト。涼を求め木陰の元で体を伸ばすニャース。仲良くじゃれあう兄弟のオタチ。日光浴に興じるナゾノクサやヒマナッツ。今となっては、ポケモン達の数が人の数を悠々上回っていた。何処を見てもポケモンがいる。野生のポケモンの多さは、その地域がどの程度廃れているかを示す一つの指標と言えた。
志郎は空を眺める。額に浮かんだ珠のような汗をシャツの袖で拭うと、水色の空が視界いっぱいに広がった。夏はもうすぐ半ばを迎えようとしていた。日差しの強さはピークに達し、遠くの道にゆらゆら揺れる陽炎が昇っている様が見える。セミの鳴き声に感化されたと思しきツチニンが、幹にしっかとしがみ付いていた。
行く当てもなく辺りをぶらついていると、どこからともなくさらさらという川のせせらぎの音が聞こえてきた。右に曲がって少し行けば、細い川があったっけ──遠慮のない夏の暑気に些か辟易していた志郎は、きわめて自然な足取りでもって、川に向かって歩き始めた。
段々ハッキリ聞こえてくるせせらぎの音に束の間の涼を見出しつつ、志郎は思考を今自分の置かれている境遇に移した。
(残す、残さないって、何のことだろう)
襖越しに聞こえてくる康夫と健治、そして時折加わる義孝のやりとりは、志郎にとって理解し難い、どちらかと言うと理解できないものだった。健治は「残せ」と繰り返し言い張り、康夫と義孝が「残すことはできない」と突き返している。それは話し合いと言うより口論に近く、特に健治はしばしば声を荒げて二人に言い立てていた。健治が何を残したいのか、志郎には皆目見当もつかなかった。
腰抜け、愚か者、俗物、意気地なし。健治の言葉には、しばしば罵倒が混じっていた。語気を強めて叩きつけるように言うものだから、隣の部屋にいる志郎はその都度身を竦めた。父の康夫は穏やかな性質で、志郎にも──志郎が聞き分けのよい性格だった、ということももちろん加味せねばなるまいが──手を上げたことは一度として無かった。言葉を選ばぬ弟の罵詈雑言にも、康夫は決して色をなして言い返すことなど無く、シェルダーのように押し黙ってただ耳を傾けるのみであった。
大人の考えていることはわからない。今の志郎の偽らざる気持ちだった。健治が義孝の家にいるときの、あの言葉にし難い居心地の悪さが、志郎には苦手だった。こうして外に出られて、本心ではほっとしていた。清流のすぐ側にまで足を運んで、志郎が川縁に立つ。
淡色で統一された夏の田舎町のありふれた風景にそぐわぬ、目に痛いほどの『原色』がずかずかと瞳の中にあがりこんできたのは、まさに、その時だった。
目をまん丸くした志郎が、清流の真ん中に立つ人影に焦点を合わせた。異質なものや初見のものを目にした際に、それが一体何なのか、既存の枠組みで考えようとするのが人という生き物だ。当然、志郎もそれに倣った。結果として分かったのは、川の中に立っているのは、黄色い『雨合羽』らしき外套を羽織っている、己と同い年か或いはそれより一回り年下の子供、だということだった。
雨合羽というのは、その名に「雨」なる字があることを踏まえても踏まえなくとも、雨天の際に用いるものだというのは論を待たない。志郎の頭上には大きく隆起した入道雲が躍動しているが、雨を降らせる気配は微塵もない。そして今まさにこの瞬間、雨が降っているということもない。川の中に立つ子供は、雨でもないのに雨合羽を羽織っている。そういうことだ。
志郎はとかく風景から『浮いた』雨合羽の子供に目を奪われていたが、その子供が何やら大きく腕を振り上げ、川面に叩きつけようとしている様に気が付いたのは、子供が腕を振り下ろし終えた後のことだった。
腕が水面に触れた瞬間――そこから、凄絶な間欠泉が立ち上った。
「……うわぁっ!?」
工事中に誤って温泉を掘り当てたか、はたまた水道管の破裂か。活火山からの溶岩噴出を想起させる高い高い水柱が川面から立ち上り、ぶち上げられた水が一気に周囲に撒き散らされた。川縁に立っていた志郎の元にも当然のように水飛沫が飛び、志郎はびしょ濡れになってしまった。唐突なことに志郎は驚き慌てふためき、その場に尻餅をついてしまった。
志郎が上げた声は、水飛沫を上げた雨合羽の子供にも届いていたようだった。
「なんだぁ? 誰かぁそこにおるんかぁ?」
聞こえてきた声の色、そしてこちらへ振り向いたその姿から、志郎は雨合羽の子供が、雨合羽の少女であることに気がついた。顔に掛かった水飛沫を夢中で払い除けながら、志郎は少女の姿を瞳の中に収めた。
少女は――黒い髪を真一文字の『おかっぱ』に切り揃え、真っ黄色の雨合羽を羽織っていた。川の中に隠れているのでハッキリとは見えないが、裸足のようだ。背丈は十歳の志郎より一回り小さい。当て推量だが、八つか九つだろう。雨合羽に頭巾は付いておらず、少女の髪は外気に晒される形となっていた。
見てくれは、おかっぱ髪の大人しそうな少女だった。だが、彼女の語り口は、外面の印象からは些か乖離したものに思えた。
「そこで何してるだぁ? すっ転んで頭でも打ったのかえ?」
「えっと……水飛沫が上がってきたから、転んじゃったんだけど……」
凡そ少女らしさが感じられない、ごつごつとした少しばかり粗野な物言いだった。声色が見た目相応の朗らかで明瞭なものであったから、その懸隔ぶりがより一層際立ったものに感じられた。声の主が少年で、色ももう少し濁ったものであれば、まだ、多少は違和感を減じられたかも知れないのだが。
ともかく、志郎と雨合羽の少女の顔合わせとなったわけだが、志郎にとってはまず面食らう要素が多すぎて、何から手を着ければよいのか見当も付かなかった。少女は志郎に興味を持ったようで、ざぶざぶと川面を揺らしながら、未だに尻餅をついたままの志郎の元へ歩み寄ってきた。
「濡れたかえ? そのままにしてっと、風邪ひいちまうぞぉ」
「それはそうだけど、ぼくが濡れたの、君が水しぶきを上げたからだよ」
「ありゃ、おらが濡らしちまっただかぁ。堪忍なぁ」
堪忍なぁ、と口では殊勝に謝って見せているものの、目元口元その他諸々、顔はちっとも悪びれる様子を見せていない。少女が川から上がって志郎の隣に立つと、志郎もまたどうにか体を起こしてすっくと立ち上がった。
立ってみると、志郎が予め考えていたのと同じ程度の身長差があった。一回りほど小さい少女は、志郎から見れば下級生か、はたまた妹のような見てくれだった。背丈はともかくとして、とにかくその奇抜な容貌が志郎の目を引き付けて離そうとしなかった。
頭巾の無い黄色い雨合羽と、人形のような真一文字のおかっぱ髪。雨合羽は既製品のよくあるナイロン製のもので、取り立てて変わったところがあるようではない。少女が打ち上げた間欠泉のような水飛沫は、当然と言うかその発生源たる彼女の髪にも大きな雫を幾つも残し、日の光を跳ね返してキラキラと輝いていた。
「濡れとったら風邪ひくぞぉ。おらが乾かしてやらぁ」
「乾かす? でも、どうやって?」
「なぁに、ちょっとお天道様の力を借りるだけだぁ」
少女は左手で志郎の着ていた半袖のシャツの袖をぐいっと掴むと、おもむろに目を閉じ、何やら口元で念仏を誦し始めた。志郎は少女が何と言っているのか聞き取ろうとしたのだが、聞き取ったところでただの鼻歌か繰言にしか聞き取れず、意味の取れるものでない、ということが分かるのみだった。
びしょ濡れになった袖をしっかと掴んだまま、少女が一人詠唱を続ける。内容が込み入ってきたのか記憶があやふやになってきたのか定かでないが、少しばかり顔を顰めているのが見える。
(どうしよう……乾くまで外にいなきゃ駄目なのかな)
服が濡れてしまった上に珍妙な少女に捕まり、何やら怪しい念仏を唱え始めている。涼を求めて川まで足を運んだは良いが、とんだ災難を被ってしまった。水に濡れて涼しくはなったが、それとこれとは、あまり関係ない。乾くまでは帰らないほうがいいか、志郎がそう考え始めたときだった。
ぽたっ、ぽたたっ。乾ききった川縁の石の頭上から、不意に水滴が降り始めた。水が石に当たって砕ける音を耳にした志郎が、はっと視線を少女から外して、音源の方向へと向ける。
「こ、これは……?」
「ちと静かにしとってくれぇ。おら、五月蝿いと集中できねぇだ」
服の繊維を水がなぞって、もぞもぞと中を通り抜け、袖を出口にして外へと生まれ出で、最後に少女の手を伝って、そこから地面へ転がり落ちていく。水は、服に何の痕跡も残すことなく吸い出され、引っ切り無しに少女の手にやってきては零れていく。水が少女によって、ぐいぐい集められているようだった。
絞られているのか、いや、それとは違う。雑巾は、どれだけ力を込めて絞っても、水気が跡形も無く完全になくなるということはない。服もまた、同じことだ。濡れた服を絞れば、確かに水は出てくるが、絞っただけでは服は乾かない。今、少女が志郎の服にしているのは、水を絞り出しているのではない。
あえて言うなら、水気を一所に集めている。その方が、正しい。
目を閉じ顔を顰め、ひとしきり念仏を誦し終えると、少女はようやく瞼を上げた。志郎はただただ驚くばかりで、袖を掴んでこちらにくりくりとした瞳を向けてくる少女に、呆けたように口を開けて応じるしかなかった。
「どうじゃあ、服、乾いたろ?」
「う、うん……本当に乾いてる……」
少女の言葉通り、志郎の服はすっかり乾いていた。あれほど濡れていたはずのシャツには、水気はわずかばかりも残っておらず、志郎が半信半疑のまま指で触れてみると、さらさらと乾いた音と感触がした。洗濯した後、日に当てて干したかと勘違いするほどだった。
服は、少女の言葉通り乾いてしまった。志郎は、目の前の雨合羽の少女がどうやってずぶ濡れの服をあれほど短い時間で乾かすことができたのか、俄かに気になり始めた。
「すごいよ……ねえ、これ、どうやったの?」
「お天道様にお願ぇしただけだぁ。おら、こうやって目ぇ閉じると、いろんなことができるんじゃあ」
自慢げに「目を閉じてお願いすると、いろいろなことができる」と豪語する少女だったが、志郎にしてみれば先程目の前で「服に染み込んだ筈の水が一箇所に集まってきて零れ落ちて、服が乾いてしまう」という現実離れした光景を見せられただけに、動かしようの無い説得力があった。
魔法か、妖術か、超能力か……それがどんな括りであったとしても、少女が「人ならぬ力」を使った、その事実だけ揺るがなかった。
「おらは『チエ』って言うだぁ。お前は誰だぁ?」
「ぼくは、志郎。服部志郎。チエちゃん、って呼んでいい?」
「はっはっはぁ! 好きに呼べばえぇ。じゃぁ、おらは志郎って呼ぶだぁ」
かんらからからと豪快に笑う少女、もとい、チエの姿に、志郎はすっかり圧倒されていた。おかっぱ頭に黄色い雨合羽に男子のような口調と、チエを形作るものはすべてがちぐはぐだったが、そのおかげで、志郎はより強く『チエ』という少女の存在を認識できていた。
チエに興味を持った志郎が、彼女に尋ねた。
「チエちゃん、ここで何してたの?」
「魚獲りの練習さぁ。おらの家の近くに、魚がうんといる川があるんだぁ」
魚獲りの練習をしていた、らしい。チエが言うには、家のすぐ裏手に大きな川があり、そこにたくさんの川魚が住んでいる。淡水に住むポケモンも同様だ。川にいる魚を捕まえるために、チエはこの小さな川――魚が住んでいない訳ではないが、住んでいるのはごく小さな稚魚ばかりだ――で練習を重ねていたという。
「魚獲りは難儀するんだぞぉ。物の怪達に怪我させちゃぁ、おらに罰が当たるからなぁ」
「物の怪?」
「知らんのかぁ? 蓮坊やら銭亀やら尾立やらのことだぞぉ」
「はすぼう、ぜにがめ、おたち……あっ、ポケモンのことだね」
「『ぽけもん』? なんじゃあ、えらく角ばった言いぶりじゃなぁ。おら『はいから』なのは苦手だぁ」
チエが『物の怪<もののけ>』と言ったのは、志郎の知るところのポケモンたちのことだった。ハスボー・ゼニガメ・オタチ。いずれも自然の多い地域、特に美しい清流を湛える地域に生息するポケモンだ。チエはそれらを「物の怪」と呼んでいた。
言われてみると、ポケモンを「物の怪」――つまりは妖怪や化け物と呼ぶのは、あながち間違っているとは言えない、志郎はそう思った。人でなく、さりとて動物でもなく、不思議な生態を持つ彼ら・彼女ら。どっちつかずなポケモンたちを「物の怪」と称するのは、むしろ自然であるとも言えた。
「服、乾かしてくれてありがとう。ちょっと涼しくなったよ」
「気にするなぁ。暑い時は冷や水を被るのが一番じゃからなぁ」
「そうだね。それじゃ、ぼくはこれで……」
麦藁帽子を被り直し、志郎が川から立ち去ろうとする。
「志郎」
「どうしたの、チエちゃん」
「また、遊びに来んかえ?」
そんな志郎に、チエは「また遊びに来てほしい」と口にした。少し物欲しそうな顔を志郎に向け、また志郎に会いたいという意思を見せている。志郎はそんなチエの顔を、またまじまじと見つめながら、落ち着いた調子で、チエに答えを返した。
「いいよ。ぼく、また明日ここに遊びに来るよ」
「本当かえ? おらと遊んでくれるのかえ?」
「嘘じゃないよ、本当だよ。約束破らないように、指きりしよっか」
「分かっただぁ。志郎、小指出してくれぇ」
「うん。いくよ」
志郎とチエが、互いに小指を絡め合う。
「ゆーびきーりげーんまーん……」
「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーます……」
「ゆーびきった!!」
指きりが済むと、チエはにっこり笑い、目の前にいる志郎の顔を見つめた。
「ははっ、うれしいなぁ。おら楽しみにしてるぞぉ」
「ぼくもだよ。じゃあね、チエちゃん」
「うん、うん。また明日なぁ」
嬉しそうに手を振るチエを背にして、志郎は川から離れていった。
気の向くままに辺りを歩き回り、さすがに歩き疲れた志郎が義孝の家へ戻ってきたときには、既に夕刻になろうとしていた。門扉をくぐって敷地の中に入った志郎が、玄関の前に立つ。
開け放たれた玄関には、三足の靴が置かれていた。
「兄さん、兄さんは……この家が、この村が、日和田が無くなって、何とも思わないのかッ」
「何とも思わない訳が無い、辛いのは同じだ、だがな……」
「だが何だって言うんだ。戻る場所を無くしたら……悲しむに決まってるッ」
昼ごろにやってきた健治は、今尚康夫と言い争いを続けているようだった。玄関の硝子戸越しに、語気を強める健治の鋭い声が響き渡った。志郎は肩を竦め、おずおずと縁側へと移動する。
「立て直さなきゃいけないんだ。間違いを認めて、悪い因子を排除しなきゃいけない。そうだろうッ」
「間違っているというのは、分かる」
「あいつがいなければいいッ。あいつのせいで……不仕合わせな目に遭わされた者がどれだけいるか。兄さん、兄さんだって、あいつの肩を持つ気は無いだろうッ」
「……それも、そうだ」
「何もかも無くそうったってそうは行かない。あいつの、あの悪鬼羅刹の、今までしでかしてきた悪行の数々を白日の下に晒して、あいつが死ぬまで業を背負わせなきゃいけない。それが、それが僕の務めだッ」
健治は、これは毎度のことであるが、酷く気を立てていた。喚くような、叫ぶような声色で、何かを訴え続けている。志郎と康夫が義孝の家にやってきてから、毎日この光景が繰り返されている。
縁側から恐る恐る家に上がると、志郎の帰りを待っていた義孝が出迎えた。
「帰ったかい、志郎」
「うん。叔父さん、まだいるの?」
「すまないね、まだ言い足りないみたいで。麦茶を持ってきてあげるから、そこにいなさい」
「分かった。ぼく、ここで待ってるね」
健治が出て行ったのは、それからさらに小一時間ほど経ってからだった。出て行く間際にも言葉を吐いていたから、おそらく、満足などしていないだろう。明日もまたきっと、義孝の家にやってくる。
義孝の作った山菜お強と澄まし汁、そして岩魚の塩焼きを食べた後、志郎は康夫、義孝と共に寝床へもぐった。康夫と義孝は間もなく眠ってしまったようだったが、昼寝をしていた志郎はすぐには寝付けず、思いのほか目が冴えてしまっていた。
渦を巻いた蚊取り線香を焼く紅い火をぼうっと見つめながら、志郎は、昼に出会った少女チエに思いを馳せる。晴れでもお構いなく着ている黄色い雨合羽に、規則正しく切り揃えられたおかっぱ髪、透き通った声色に似つかわしくない粗野な言葉遣い。チエは、志郎が見てきたすべての女子、ひいてはすべての人間の中で、間違いなく、もっともちぐはぐだった。そのちぐはぐさが、志郎の心にかえって強い印象をもたらした。
明日、チエと遊ぶ約束をしている。また家に健治がやってきて、やれ村を残すだの、天罰が下るだの、敵討ちをするだのの、身の縮こまるような話を延々していくに違いない。それを思えば、チエと一緒に遊んでいるほうが幾倍もましだ。
そうだ、明日は早めに家を出て、川でチエを待っていてやろう――志郎はそう心に決めて、ぎゅっと瞼を閉じた。
陽の光を借り受け、静かに夜道を照らし、光を元の持ち主に返しつつ、そっとあるべき処へ帰っていく。月は借り物の衣を纏った、奥ゆかしい乙女……そうとも言えるのではなかろうか。
2011年の夏コミにて頒布した小説同人誌「プレゼント」。
頒布より丸二年が経過しましたので、こちらに収録した書き下ろし作品である「雨河童」を公開致します。
※公開に当たり、本文を十一編に分割し、それぞれ新規のサブタイトルを設定しました。
いい忘れました。落とし物にTake care of yourself.
巳佑さん、よ!マレシアにすんでいるティンです。はじめまして、私はあなたの話し読んだ。あなたはすごい。あなたはきっと有名なサッカになる。
私はあなたを尊敬する。私は日本の文化が好きです。アニメ、マンガは私の国でも有名だ。
私は大学で日本語をべんきょうし、いつか日本に行って、コミックマーケットに行きたい。だからいま私は貯金している。
そこで会おう!
はじめまして、ハエ男です。趣味は占いです。今日のあなたの運勢を占ってみました。
あなたの今日のラッキーカラーは若草色です。そうすれば色っぽい人生があなたを待ち受けています。
はじめまして、中村房枝、58才主婦でございます。はじめましてこのサイトを訪れ、少々戸惑いを覚えながらも、はまってしまいそうです。老後の楽しみが一つ増えました。
みすけさん、今日は狐日和ですね!ところで、好きな食べ物は何ですか?私は鍋です!
素晴らしい!また書いてくださいね!できれば最後は、ハッピーエンドか、バッドタイミングで
目を開けて入って来た光景は、白い天井と手足に巻かれているガーゼだった。少しの間ながめていると、桃色のラッキーが顔を覗き込んできた。
ここは病院なのか。ザフィールが体を起こすと、ラッキーに止められた。まだ安静にしてろということか。どうやってここに来たのか聞きたかったが、ラッキーは赤いバンダナをきれいに折り畳んでベッドの側に置いていっただけだった。
それを見て思い出す。ガーネットはどこにいったのかと。マグマ団の連中に手荒なことされてなければいいが。それで反撃してマグマ団を壊滅させてなければいいが。それよりも無事でトンネルを抜けたのか。そもそもここはどこなのだ。たくさんの疑問が浮かんでは消え、一つとして解決しない。
横を向けば窓が開いてる。そこから見えるのは、新緑の美しい光景だった。ここはカナズミシティではない、きっとカナシダトンネルの向こう側。シダケタウンだろう。穏やかな風が入ってきて、ザフィールの髪をなでる。もうお昼頃だと思うのだが、あれから何日経ったのだろう。きっと何日も食べてない。だからか意識がはっきりとするにつれて空腹を感じた。
カナシダトンネルは大騒ぎになっている。完成が長引いていた上に崩落と来た。責任者はマスコミに囲まれ、ずっと記者会見をしている。
その原因たちはかなり離れた公園で座っていた。隣でミズゴロウのシリウスが日差しが気持ちいいのか昼寝している。ガーネットは持っていたミックスオレの缶を開ける。冷やされたそれは喉のかわきを潤した。そしてため息をつくと、横のミズゴロウを見る。
マグマ団に突き飛ばされたところまでは覚えている。そして気付いたら全身びしょぬれ、そしてミズゴロウが服をくわえていた。隣にはザフィールがいて返事がなかった。
なんで濡れてるのかもわからなかったが、とりあえず彼を病院につれていった。そしてそのままでは熱が出てしまいそうだったから、濡れた服を乾かした。ポケモンたちを休めたかったし、乾燥機もあるポケモンセンターに行った。
じっとしていると、揺さぶっても返事一つしなかったザフィールを思い出しそうで、ずっとポケモンセンターをうろうろしていたのである。このままだったらどうしよう。そうはっきり思った瞬間、それを否定した。
考えても仕方ないと、今日は外に出て来たのである。
シダケタウン。カナズミシティとトンネルを通していた小さな町。穏やかな風と、恵まれた緑で作られている町だった。
話す相手がいないと思考がどうも負の方向に向かってしまう。けれどミズゴロウ相手にしたってあまり変わらない。誰でもいいから話したい。来たばかりの地方で、知り合いなんていないけれど。トレーナーなら少しくらい話せるに違いない。次にポケモンセンターから出てくる人に話しかけよう。軽く考えてポケモンセンターに足を運ぶ。
「あれ、こんにちは」
話しかけてきた人物。緑色の短い髪と、足元のラルトス。トウカシティで会ったミツルだ。引っ越すと言ってたけど、シダケタウンだったとは。しかもこのタイミングで。良く聞けばポケモンコンテスト会場に行くというので、ついていくことに。
「今日はどうしたんですか?何か変ですよ」
「うん、まぁ、その、知り合いがね、ちょっと今は治療中で」
「行ってあげなくていいんですか?」
「まあ面会は午後からだし、それからでも大丈夫だから、うん」
暗い表情を読み取ったのか、ラルトスも下を向いている。ミツルはそれ以上詮索しようとはしなかった。ただ一言「回復したら僕もお見舞い行きますね」とだけ言って打ち切る。無言で歩いた。その間の話が見つからない。コンテスト会場までずっと黙りっぱなしだった。
ポケモンコンテストは、ポケモンの魅力を最大限に引き出すものが勝つというもの。その種類は5種類に分けられ、かっこよさ、たくましさ、うつくしさ、かしこさ、かわいさとなっている。ミツルが見たいといったのはかっこよさ。ラルトスがお気に入りのようで、何度もかっこよさコンテストを見に来ているのだとか。
チケットを手に会場に入る。多くの人が始まるのを今か今かと待っているようだった。舞台の幕はまだ上がっていない。まっすぐ見ることのできる席を取った。座ったのと同時に会場がどよめく。開演アナウンスが入り、幕が上がった。
「さぁ始まりましたポケモンコンテストノーマルランク!今回はかっこよさを競うコンテストとなります!出場されるトレーナーとポケモンの皆さんはこちら!」
会場がさらにざわめく。司会と審査員の後ろに4人のトレーナーが後ろに構えている。
「エントリーナンバー1番、ゲンキさんのぽちです!かっこよさは吠える!」
拍手がかかる。ボールからポチエナが出てきて、さらにボリュームは上がる。かっこよさをアピールするかのように立つ。
「エントリーナンバー2番、ノブヒロさんのライガンです!えーと、かっこよさはばちばち、だそうです」
ラクライだ。ボールから出た瞬間、静電気をまとってアピールしている。会場のあちこちから感嘆が聞こえる。
「エントリーナンバー3番、アキヒロさんのプンプンです!かっこよさは空手チョップ!」
少しもり下がったようだが、そんなことは気にしていないようだ。マクノシタが出て来て腕を振り回す。
「エントリーナンバー4番、ミズキさんのアーチェです!かっこよさは竜巻!」
あれ、とガーネットは思った。同じくミツルも。ラルトスを捕獲した時、ミツルが起こした喘息を沈めたあの女の人だ。
ポケモントレーナーで、しかもカイリューを持っているとは。他のポケモンが小さいため、カイリューの大きさが目立つ。会場は盛り上がり、嬉しいのかカイリューは小さく羽ばたく。
「さあポケモンの紹介が終わりました!1次審査に入りましょう!会場のお客様によるポケモンの人気投票です!お手元の投票用紙のエントリーナンバーに丸をつけるだけ!終わったら係員が順次まわりますので入れてくださいね!では、早速始めましょう!」
会場は一瞬静かになる。どれにいれるか真剣に悩んでいるようなのだ。どれもかっこよく見える。悩みに悩み、ガーネットは一つのポケモンに入れる。ミツルは何かとても心に残ったように記入している。
「さあ!今、投票が終わりました!集計をしている間に2次審査に移りましょう!2次審査はいよいよお待ちかねのアピールタイム!ポケモンたちの技によるアピールです。では張り切ってどうぞ!レッツ!アピール!!」
司会と審査員が舞台の横に移動する。出場者たちがよく見えるようになった。そしてスタートの合図と共に、アピールが始まる。最初は緑のライオン、ラクライのライガン。思いっきり吠えた。審査員は次の順番をどうするか迷っているようだ。会場はそのかっこよさに盛り上がる。
「次の順番が解りません!これはコンテストにどうつながるのか楽しみです!」
次はコロコロとした体格のマクノシタ、プンプン。気合いパンチだった。その気合いパンチは次のアピールのための準備。一番最後に持って行くようにアピールする。
「おっとここで次のアピールはプンプンが一番最後というのは確定しました!」
黒い犬のようなポチエナのぽちは前に出ると上を向き遠吠えを始めた。その調子はばっちりで、次からのアピールが上手く行きそうだった。かっこいい遠吠えに会場は再び盛り上がる。
「あの人、何で来るのかな」
ミツルはつぶやく。すぐに会場のざわめきに消されてしまった。アーチェは大きな体で巨大な炎を作り上げる。竜の怒りだった。最後にアピールすればするほど目立つというもの。その通り、ほとんど注目もされてなかったアーチェが一気に脚光を浴びる。
「おおっと!さすがドラゴン、威力も派手さも違います!」
審査員が一度止めた。次のアピールの準備だ。次はアーチェから。竜の舞で会場を盛り上げる。かっこよさに会場は味方し、最高のアピールポイントをもらえたのである。ところが、次のライガン。スパークを放ち、驚かそうとしたのである。アピールに成功していたアーチェは思わず飛び上がってしまった。次のぽちは何事もなく体当たりでアピール。そしてプンプンもアピールして2つ目のアピールは終了する。
「ねえミツル、これって何回アピールできるの?」
「えっと、確か通算で5回できます。その間に技の組み合わせとか技の持ってるアピールポイントを稼いで、最後に1次審査と2次審査が勝っていた人が勝ちです」
3回目のアピールに移る。会場はそこそこ盛り上がっていた。プンプンは体当たりをはじめる。アーチェが竜巻を起こした。審査員は再び次の順番が狂う。ぽちはおかまい無しに遠吠えをした。会場がもりあがってきた。テンションがマックスに近い。そんなとき、ライガンはかみなりでアピール。
「おおっと、コンボを決めてきたライガン!かっこよさが引き立ちます」
2回目のアピールとコンボになっていた。そのかっこよさ、アピールのコンボ。会場のテンションは一気に突き抜ける。一瞬にして最も注目されているポケモンに変化した。
4回目、アーチェが先頭。激しい竜の舞を踊る。調子をあげたのだ。プンプンは地球投げで驚かそうとした。アーチェは驚いて声をあげる。いい気味だ、とプンプンは思っていたようだが、次のライガンが見事に電磁波を行なったためにプンプンのアピールはマイナスに。しかもライガンのアピールがかっこよく、会場は盛り上がる。ぽちといえば、体当たりでアピールし、3回目とコンボとなり、大量の得点を稼いでいる。
「ねえ、もう最後?」
「そうですね、次で勝負が決まります。」
ぽちが吠える。会場がもりあがった。調子がよかったのでかなりの得点に。そして次のライガンは雷でアピール。その為にぽちは驚いてポイントが減ってしまった。ライガンはしてやったりという顔をしている。しかしここでアーチェが予想外の行動に出た。
「逆鱗だぁ!」
みんなのアピールをジャマしまくる技、げきりん。そのかっこよさは他と比較するまでもなかった。審査員も会場も逆鱗にテンションが上がる。上がるだけではなかった。会場が全てアーチェの味方をしたのである。一気に会場の目を引きつけたアーチェ。その後のプンプンの起死回生はがんばったのだがほぼ盛り上がらず。
「はぁい、そこまでぇ!アピールタイム終了です!みなさん素晴らしいアピールでした。おつかれさまでした!」
惜しみない拍手が送られる。その拍手に囲まれ、ポケモンたちはみな満足したような顔をしていた。ガーネットもミツルもそのかっこよさに気分はとても盛り上がっている。できれば自分の応援していたトレーナーとポケモンが優勝して欲しいが、それよりもとてもかっこいいポケモンたちを見ることが幸せだったのだ。
「さて、残るはドキドキの結果発表ですね。発表は審査員の方から行なわれます」
審査員がマイクを通し、結果を読み上げる。マイクを持った手がそのままであれば。審査員がその方向を見上げる。黒いローブを来た何かが宙に浮いてる。一斉に会場はパニックになり、非常口の方向へ押し寄せる。黒いローブのそれはポケモンたちを狙っていた。特に大きなカイリューのアーチェに。
「アーチェ、翼でうつ!」
近寄ってきたそいつを翼で叩く。思わぬ反撃に一旦身を引く。そして構えるとアーチェに向かって最大限の力を放出する。その力は圧倒的。それらの強さに怖いのかガーネットもミツルも動けない。
「やっと姿を現しましたね!」
黒いローブの放出した力を簡単に受け止め、消失させる。ステージの上に、一人の男性が乗って黒いローブの人に食ってかかろうとしている。勝機がないと解ったのか、黒いローブは帰ろうと向きを変える。そして会場にとけ込むようにして消えた。
ここは、破れた世界。この世とは正反対の場所にある、ということで、別称は「反転世界」となっている。
そして、本来、ここに住んでいるのは、霊竜ギラティナだけのはずだ。なのに、
「いってえなあ、ここは一体どこなんだ」
「何か、地面が天にあるようで、いろいろと分からない場所みたいだね」
男が2人、迷い込んでいた。
彼らはマイコ達とともに、田舎にあるロケット団のアジトに潜入しようとした、テレビクルーのモリシマとカザマだ。アジトの映像を撮るために、ロケット団を次々蹴散らすマイコ、オオバヤシ、トキ、ハマイエの4人を見捨て、2人だけで先に進んだところ、トライ・バリア・キャノンの罠にかかり、肉体を失ってしまった。(その11前後編参照)
アジトでの戦いで活躍したポケモン達は、今はもう、手元にいない。楽園にでも行ってしまったのだろうか。
そして、彼らは今、どちらかと言うとあの世側の場所にいる。そんな彼らの前に、
《どうしたのだ、2人の男よ》
ギラティナが姿を現した。
「ギ、ギラティナ……」
「生で見るのは初めてですね」
「ちくしょう、カメラさえあれば……」
伝説と謳われるポケモンが目の前にいる。しかし、それを写真に収められないのが悔しくてしょうがない2人。その様子を見た霊竜は、こうボソリ、と呟いた。
《我なんかを写して、得はないだろうに、なぜ彼らはこうも拘る?》
そして、ギラティナはこう言った。
《お前達はなぜ、ここに来たのか?》
それに対し、2人は答えた。
「ロケット団とかいう奴に、訳の分かんねえ機械で飛ばされたんだよ!」
「同行した人達の助けを断ってしまったことで、僕達はここに飛ばされました。助けようとした彼らはひょっとしたら、僕達を助けられなかったことを後悔してしまっているかもしれません……」
このことを聞き、反骨ポケモンは言った。
《では、その彼らに会いに行かせてあげようではないか。》
「「本当ですか!?」」
《但し、条件がある。お前達はもう、現実の世で生きるための体を持たない。そして、我にはこの破れた世界に迷い込んだ人間の一時的な蘇りをサポートする役目を持つが……、体がないのは痛い。そこで、だ。ポケモンの姿を貸してあげようではないか。》
ギラティナとしても、本当は人間の姿で帰してあげたかったのだが、仮の体を与えるしか方法はなかったのだ。もっとも、そのタイムリミットが来た暁には、彼らを死者の楽園、つまり、天国に成仏させるという約束はしてある。
そして、2人は眩しい光に包まれ、この世に行ったのだ……。
同じ頃、オオサカのある劇場の一室。
2人の青年、オオバヤシとトキが部屋に入ると、そこには手招きポケモン・サマヨールが1匹、もの言わずそこにいた。このポケモン、先程まではいなかったのだが、気がつくと存在していたのだ。それを見て、戸惑う2人。
「さっきまで……おらんかったはず、ですよね?」
「どっかから入ってきた?こいつはゴーストタイプやし、壁をすり抜けるとか平気でやりかねんからな……」
そう話しこんでいると、
ゴオオオオッ!!!
「体が浮いてるっ!?」
「アカン、あいつに、吸われるっ!!!」
手招きポケモンが口と思われる場所を開け、とんでもない吸引力をもって2人を吸い込んだのだ!!!
「「うわあああああっ!!!!」」
「おい、トキ、お前、大丈夫か?」
「お、オオバヤシ、さん……?」
「良かった……。意識はあるみたいやな。それにしても、周りが真っ暗で自分の周りぐらいしか分からへん」
サマヨールの中の空間は、ただただ真っ黒い世界になっていた。しかし、幸い、2人とも近くに倒れていたために、お互いを認識するのに時間はかからなかった。
どこに続くかも分からない空間に、しかし、明かりのようなものが2人の目に入った。それは、人間の形をしていた。しかも、2人の知り合いの人。
「モリシマさんに、カザマさん?」
「やとしても、うまく出来すぎていて怪しいで。あんまり触るな……」
オオバヤシが注意した、その時だった。
ズボズボッ
「言うた傍から引っこ抜くな!!!」
何か抜けた音がして、オオバヤシが音の方向を向くと、トキがその人型の明かりを両方とも引っこ抜いていた。当然ながら、オオバヤシは怒り、無意識のうちに叫んでいた。
2人は知らなかったのだが、このサマヨールこそ、モリシマとカザマがギラティナから与えられたポケモンなのだ。彼ら2人を一緒にして1匹のゴーストポケモンにした、というのがギラティナのしたことなのである。
明かりは人の形(それでも足がないのだが)をとり、オオバヤシとトキの周りをぐるぐる、浮遊しながら回っていた。
「お前ら、よく気付いたな!」
「ただの偶然だったんですけど、ね」
「オオバヤシが『引っこ抜くな』って言ったのを聞いて、むしろ引っこ抜いた方がいいのに、とか言いたかったけれど」
「……俺の判断ミスってことやな。無駄に怒ってもうたなあ」
「いや、いいんですよ。俺の方が実際、アカンことしてもうてるから」
話し込んでいると、カザマがあることに気付いた。
「オオバヤシ、トキ、いいかな?」
「はい」
「何でしょう?」
「どうやって出るのかな?僕らはともかく、2人はここにいちゃいけないんじゃないかな?」
「「……」」
全くそのことについては考えていなかった。しばらくの間考えた結果、オオバヤシが出した案はこうだ。
「……サマヨールが傷つくことを承知するなら、尖った物質……例えば、ストーンエッジとか……をぶつけて、穴を広げて出る、というのは?」
それを聞き、モリシマが言った。
「いいぜ」
「モリシマ君!?正気か、キミは!!」
あまりにも潔い快諾ぶりに、カザマは驚き、詰め寄った。
「何故だよ」
「僕達がいられなくなるということだ!分かって言っているのかい!?」
「未来あるこいつらをここで潰すより、もう既に死んでいる俺らが潰れる方がまだマシなんじゃあねえのか?」
「……仕方ないね。2人のために、ここは僕達が引こうか」
そして、オオバヤシとトキは、作戦実行のためのポケモンを出した。
「……トキ、野暮なこと聞いてええか?」
「何か文句があるんなら聞きますよ」
「コジョフーはサマヨールを突破できそうな技を持ってるんか?」
ストーンエッジで突破しようということになってそれぞれが繰り出したのは、アーケンとコジョフー。岩技を覚えそうになさそうなコジョフーを見て、オオバヤシは思わず、トキにこう聞いていた。
「大丈夫です。格闘のポケモンは、大体岩タイプの技を使えるんです。こいつも例外ちゃいますから」
「……分かった」
そして、作戦は実行された。
「アーケン!」
「コジョフー!」
「「ストーンエッジ!!」」
最古鳥と子オコジョから出てきた鋭い石のかけらが飛んでいき、穴を穿っていった。しかし、穴の開く面積が小さい。
「思ったより開いてない……」
「このままじゃ、2匹の方がへばってまう……どうすれば……」
と、その時だった。アーケンとコジョフーが光り出したのだ!
「進化するんやな!」
「タイミングがぴったりや。これなら、威力も上がるかも、な」
それによって、最古鳥のアーケンが、飛行能力を得たアーケオスに、子オコジョのコジョフーが、紫色の毛皮のオコジョ、コジョンドへと進化したのだ!!
「じゃあ、改めて!アーケオス!」
「コジョンド!!」
「「ストーンエッジ!!!」」
進化のパワーはやはり絶大で、穴が猛スピードで開いていった。そして、男性2人が通れるくらい開いたところで、2人はポケモンを戻し、走った。
「モリシマさんも、カザマさんも、ついて来て下さい!」
「いいんだ!俺らは」
「俺らの我が儘かもしれませんけど……とにかく!来て下さい!出ましょう!」
2人は走り、しばらく振りの元の世界に出た。
……が。
「ちょっと、どーしたの、2人ともっ!?……きゃあああっ!!!」
穴の開く先までは調節できなかったようだ。マイコに降ってくる形となった。
ドッスーーーン!!!
「いててて……」
「ああ、やってもうた……」
「あ、あの、さ……重い」
マイコがオオバヤシとトキの下敷きになっている状態だ。本当はマイコもムシャーナを出して何とかギリギリで止めようとか思っていたが、若干間に合わずにこうなってしまった。
「分かった。2人とも何か大変だったのはこっちも理解したから。……頭上に降ってくるのはどうにかしてほしいなあ」
「「ごめん」」
そんな3人を見て、モリシマとカザマは言った。
「こいつら、吹っ切れているみたいだな」
「安心して成仏できるよ。サマヨールも元の場所に帰って行ったし」
彼らには、どうやらもう、心配すべき部分は、モリシマとカザマが見る分にはないらしい。ただ、これから起こる、ある大きな戦いのことだけが不安だった。
ロケット団は下火になったが、日本の政治の中枢地が、プラズマ団という巨悪に蝕まれつつあること、そして、近いうちに、ここにいる彼らがその巨悪と戦わなければならないということを……。
おしまい
マコです。
何とか事態を収めることに成功したオオバヤシさんとトキくん。
マイコちゃんの頭上に降ってきたことだけは予定外だったらしいですが。
最後の文は、近いうちに書くであろうポケリア第2部(仮)の予告です。
ということは、トウキョウで……?
【書いてもいいのよ】
【描いてもいいのよ】
キモリの攻撃がはじかれる。弱点のはずの草が全く効かない。レベル差がありすぎる。まだ間に合ってなかった。
サイホーンの攻撃がキモリの腹に当たる。突進だった。柔らかい急所を突かれ、体ごと飛ばされた。ザフィールが上手くキャッチする。キモリはほとんど体力が残ってなさそうな顔をしている。すでにスバメは瀕死の重症だった。これ以上ポケモンがいない。キモリをボールにしまうのと同時に後ろを向いて走り出す。
事前に確認しなかったのが不幸か。後ろには、別のアクア団がいたのである。2対1、勝ち目は無い。なるべく二人が視界に入るよう、ザフィールは立ち位置を取る。後ろは壁だ。狭いトンネルの中、二人の男に囲まれる。
「こいつがマグマ団の裏のエースとか言われてるやつか」
「間違いない、俺は一度こいつを見たことがある。こいつをやっちまえば、マグマ団の戦力は大幅に削げる」
一人の男が指の関節を鳴らした。ザフィールはため息をついた。避けるだけなら、きっとキモリ以上に動けるとは思う。
「そんな風に評判になってくれて嬉しいけどな、俺はそんなに簡単にやられねえよ」
自分に言い聞かせるようにザフィールは言った。アクア団達は少しずつ距離を縮めてくる。後ろは壁だ、逃げ場は無い。けれど攻撃の瞬間、隙が生じる。そこから逃げればいける。せめてマグマ団の応援が来るまで無事でいればいい。
突如、ザフィールの体は右に跳ぶ。そこにいたら顔が持ってかれたのではないか。耳に残る、拳が風を切る音が物語る。そうと思えばもう一方が押さえつけようとザフィールの腕を掴もうとする。寸でのところで逃れた。アクア団たちの包囲網から外れる。
今しか走るチャンスがない。道さえあれば勝ったも同然。地面を蹴りだし、走る。
いきなり揺れた。地震があったかのように。立っていられずに、前に転んだ。そして目の前に見たものは、道を分けるように深く割れた地面。後ろにいるのはサイホーン。そのまま走っていたらこの地割れに飲み込まれていた。そして、完全に退路を経たれていた。
跳ぶのも考えたが、それより先に首根っこをアクア団につかまれる。
「さてと、簡単にやられないか試してみようか」
トンネルに響く音は、年齢にふさわしいものではなかった。壁に押し付けられ、腹部に重い一撃が来る。声も出ず、息苦しい。首をじわじわと締められ、抵抗しようにも子供の力では大人に敵わない。
そしてもう一発、今度は顔に。後ろの壁にもぶつけ、視界がぼやける。口の中を切ったようで、血の味がした。アクア団が楽しそうに笑う。反論したくても、息がまともにできない。そして反対の顔にも拳が入る。二人のアクア団が獲物をいたぶる捕食者に見えた。
その様子をエネコは物陰から見ていた。あの時、助けてくれた人間に興味を持ち、ずっとついてきていた。大きな人間二人は、今まさにその人をいたぶって楽しんでいる。動くべきか動かないべきか。動こうとしても、足が震えて動けない。敵うわけがない、人間とあのサイホーンには。けれど、ここで出て行かなければあの人は死んでしまうかもしれない。
大きな人間はさらに思いっきり腹部を殴りつけた。指先はほとんど動かない。助けてくれた恩があるのに、なぜそれを返せない。恩を返すのは群れのルール、それをリーダーが守らなくてどうする。
エネコは決意したように跳ぶ。そして男の後ろ足に噛み付いた。手加減なしで。けれど男はエネコに反撃することもできずに倒れる。パンチを出したら右に出るものはいないエビワラーのような素早いパンチが男二人の頬を捕らえていた。
男たちは殴られた方向に飛んでいった。エネコが見上げると、赤い服を着た人間が大切なものを壊されたような目で男たちを見下ろしていた。
「遅いっすねえ」
一通りのアクア団は排除した。けれどさっきからザフィールが見当たらない。カナシダトンネルにアクア団が逃げたから追うと報告を受けてからだいぶ経つ。さすがのマグマ団もざわつき始めた。
「まさかやられたとか・・・」
「いやそれはないだろ、ザフィールだぞ、簡単に捕まるわけもない」
逃げ足には定評があり、誰にも出来ないことをやってきた。それに器用なやつであるから、捕まっても逃げられるだろう。そういう評価があるからマグマ団たちも一人で追わせたのである。
「そうですね。そういえば、この前のトウカの森で、アクア団に食って掛かってた女いたじゃないっすか。あいつが入って行くのを見たんですよ」
「なぜそれを言わない!ザフィールが危ない!」
間違って一緒にボコされたらどうするんだ、とマグマ団たちはカナシダトンネルへと入って行く。
「歩ける?」
簡単な質問にも答えられないようだった。目だけで訴えてくる。息をするのも苦しそうだった。開いた口から、血が滴り落ちる。
その赤が目の奥に染み渡るようだった。頭がふらつく。頭痛もしてくる。体が受け付けてくれない。全てを吐きそうだった。けれどここで何とかしなければ、また目の前で死んでしまう。奥歯を噛み締め、じっとザフィールを見た。
「ガーネット、なんで、来たんだ」
「なんでって、教えてくれたでしょ!ほら喋らないで」
頭のバンダナをほどくと足の傷口を押さえるようにバンダナを巻いた。口から出る血は、少し小さいハンカチを当てる。青いハンカチがすぐに赤く染まっていった。
そしてそのままザフィールの体を支えて立ち上がる。彼の足には力が入っていなかったが、重いとも思わなかった。待機していたポニータに乗せる。落ちないように支えながら。そして地割れの前で止まる。
この地割れくらいなら、ポニータがジャンプすれば届いてしまう。けれど、今のザフィールにシルクから落ちないようにしているのは難しいし、二人乗ってしまえばジャンプ力がなくなる。
考えたところで、ザフィールの容態が悪くなるのは解っている。すでに口元のハンカチは色がかわってしまっていた。顔色も悪い。ポニータの足並みにそろえるように、エネコがくっついてくる。ザフィールのものなのか、ずっと心配そうに見上げている。
「大丈夫、お前の主人は助けるよ」
とは言うものの、妙案は浮かばない。ここは一か八かに賭け、跳んでもらうか。縄みたいので体を固定できればいいが、そうしたら次は自分が出られない。壁を伝うことも思いつくが、キモリでは人の体重を支えることはできないだろうし、そもそも瀕死に近い。どうしたものかと自分のボールを見る。ジグザグマとミズゴロウのボール。
「しょうきち、シリウス。壁に穴をほって通り道つくって」
2匹はすぐさま作業に取りかかる。どんどん穴が出来ていき、人が通れるくらいの大きさにしていく。任せておいて大丈夫だろう。むしろこのけが人の方が心配だ。
流れる血から目をそらすように様子を見る。血はさっきより勢いは止まっているけれど、力が入らないのは変わらない。一応、呼吸はしているので今の所は大丈夫であるのだろうけど。
後ろからいきなり押さえつけられる。足が宙に浮いた。太い腕、そしてその高さ。片頬が腫れているアクア団だった。目を覚まし、ガーネットを捕らえている。
「こいつにガールフレンドがいたとはな」
「残念だけど、私とザフィールはそんな関係じゃないわ」
「そうかい、じゃあこいつがいま死んでもいいんだな?」
もう一人がザフィールの体をかかえていた。そして地割れの前に持って行く。
ガーネットはミズゴロウの名前を呼んだ。その合図にあわせ、水鉄砲がアクア団に飛び出す。突然のことでザフィールを手放した。崖から落ちないよう、ポニータとエネコがザフィールの服を噛んで引っ張っている。
二匹の後ろからアクア団が近づくが、ポニータの後ろを取るということがどういうことかわかってなかった。反射的にポニータの後ろ足でダイヤモンドなみに堅い蹄の強烈な一撃を与えたのである。それを見てガーネットもアクア団を力任せに振り払う。痛がっているアクア団を持ち上げた。
「ちょっとジャマしないでね、だからあっちいっててほしいんだ」
ほうり投げる。アクア団はトンネルの奥へと再び姿を消した。往生際が悪いのか、もう一人のアクア団は足元にいたミズゴロウを地面に押さえつける。
「動くなよ、動いたらこのミズゴロウを」
ミズゴロウが暴れるが全く効いてない。前足で地面を掻くが、ただへこむだけ。
「よし、そのまま動くんじゃねえぞ。お前みたいなやつは持ち帰ればボスにほめられるんでね、なるべく傷つけず持って帰りたいんだ」
「私は物じゃないし、あんたたちの仲間になる気もない」
ガーネットの右足が揺れる。そこから何かが飛んで、アクア団の顔にめり込む。靴だった。走るのに最適なランニングシューズだからそんなに堅くもない。シルクの蹄より痛くないでしょ、と声をかけると、気絶しているアクア団を放って穴掘りを再開させる。ガーネットは再びザフィールの体をシルクに乗せた。
運が悪いとはこのことで、そのすぐ後、地割れの向こうに赤いフード、黒い服の集団が見える。マグマ団だ。地割れがあるから助かったようなものの、もしなかったら今の状態では守りきれない。
「いたぞ、あの女!」
「やっぱりあの女にやられてたのか!くそっ!」
マグマ団が空を飛べるポケモンを繰り出した。ズバットだ。他にもズバットゴルバットキャモメペリッパー。あまりの数の多さに対応しきれない。
けれどやらなければ。キノココのボールを開き、全員総出の戦い。1匹が何匹も相手しなければならない。それでも負けられない。ザフィールを下ろし、ポニータは炎のたてがみを揺らした。
しばらくは持った。けれど体力のないものから次々に倒れて行く。キノココ、ジグザグマ、ポニータそして最後までねばったミズゴロウも今や押し負けそうだった。力のないものからボールにいれてやると、何かが飛びついてきた。戦いに気を取られ、全く気付いてなかったが、地割れに梯子をかけてマグマ団たちが渡ってきている。そして人海戦術とばかりに、ガーネットを次々に押さえつけたのである。
「みんなで乗ったら気絶するだろーが!!!」
さすがのガーネットも何人もいたらはねとばすことができずにこの有様。マグマ団たちは会議を始める。まずザフィールは病院へ連れて行くのは当たり前として、ガーネットをどうするか、である。
マグマ団たちの足元をぬって、残った体力でガーネットに近づく。ミズゴロウが心配そうに顔を近づけた。何の反応もないガーネットを見て、悲しくなったのか大声で泣き出す。最初はうるさいな、とマグマ団も言っていたが余裕がなくなった。死んだと勘違いしたミズゴロウがさらに大きな水の固まりをマグマ団に当てる。その威力は強いもので、吹き飛ばされている。そして残ったマグマ団にも同じく水の固まりを当てた。体力がなくなると水技が強くなる特性、激流。その名前のごとく、水鉄砲が激流となり、ミズゴロウから乱射されている。そしてその水は低いところにたまり、地割れを満たすまでになる。
「やばい、あのミズゴロウやばいぞ!」
歩ける団員は逃げ出した。ミズゴロウはガーネットとザフィールの服の端をくわえると、今までよりも大きな技を呼び起こす。津波にも似た大量の水が山奥のカナシダトンネルを襲う。壁からも水が漏れだし、全ての空間が水で埋まる。その勢いで、カナシダトンネルが崩れていくニュースが、その日の一面トップに躍り出た。
大きい……ここがトレジャータウン……
私が住んでた町から歩いて半日。
西の空に日が沈みかけてる。
やっとのことで、トレジャータウンって言う場所についた。
右側には何か小さな山のようなものが見える。
階段がたくさんあるけど……なんだろう。
さて、プクリンのギルドを探さなきゃいけない。
歩いてくるには少し遠かった……少し疲れてしまった。
あの家はちゃんと戸締りしてきたから大丈夫だと思う。
大事な物は置いてきたけどね。
道中、トレジャータウンやプクリンのギルドのことをいろいろ聞いた。
探検家になるにはまず、プクリンのギルドに弟子入りして、修業を積むのが一番の早道らしい。
トレジャータウンは、この世界の探検家の拠点、だそうだ。
どうりで私の町なんかよりはるかに賑わっているはずだ。
ここにいるみんなが探検家なのだろうか?
おっとっと……こんなことしてる暇じゃなかった。
プクリンのギルドはどこだろうか……?
ああ、あそこに看板がある。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
↑プクリンのギルド
←トレジャータウン ぼうけんへ→
↓かいがん
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
こっちの方向にプクリンのギルドがあるんだ……って、この山のことだろうか?
階段の方向を指してるみたいだけど……
とりあえず、のぼってみよう。
たったったった……たたたた……とてとてとて……はぁはぁはぁ……
数段上っただけで息が切れた。
どんだけ体力ないんだろうか。私は。
のぼり切るころには、完全に息が上がっていた。
ぜーぜーはーはーすーはーすーはー
……ふぅ。だいぶもどった。
気を取り直してもう一度プクリンのギルドがあるはずの山の上を見る。
顔を上げるとそこには、プクリンをかたどったテント(?)が一つあり、入口は格子戸になっている。
その周りにはたいまつが二つ立っており、夕焼けの空を照らしている。
それ以外には、謎のトーテムポールのようなものが二本、ばってん印の丸太。
ここがプクリンのギルドなんだ。
思わずポカーンとしてしまった。
なんというか……想像と違うというか……
どこにギルドがあるんだろう?
まさかこのテントだけ……じゃないよね?
とりあえず、進んでみよう。
入口の前に歩き進むと、地面の感覚が変わった。
今まで感じていた砂の感じではなく、何かすーすーとした感じがする。
下から風が抜けてくるというか……なんというか。
暗くてよく見えない……けど。
鉄格子まで目と鼻の先……まで近づいたその瞬間。
ずぼっ!
な……足元がいきなり抜けたっ?
……と思ったら、地面に穴があいているだけだった。しかもたくさん。
穴があいている……というより、もともと網目状に棒が交差されて組まれた足場だったようだ。
何のためにこんな危ない床を……
よいしょ、と落ちた前足を引っこ抜きながら体勢を整えていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
『ポケモン はっけん! ポケモン はっけん!
だれの あしがた? だれの あしがた?
あしがたは イーブイ! あしがたは イーブイ!』
突然の出来事だったので、思わず小さな悲鳴をあげてしまった。
しかもかなりの大声。驚いてまた足が穴に落ちるところだった。
『よし。別に怪しい者じゃないみたいだな。通行許可を出そう。』
ずどどどどどどど
なんだか重苦しい音を立てながら、目の前の格子戸が開いた。
奥には誰もいないはずなのに、どうやって開けているのだろうか。
ドキドキといつもより早く脈打っている胸を前足でなでおろしつつ、プクリンの形をしたテント(?)の中に入る。
テント(?)の中には、真ん中にある降り梯子(はしご)以外には、何もなかった。
それ以外に何もないということは、やることも一つなのだろうが、なかなか足が進まない。
下に何があるのか、という期待と不安のせいもあるだろうが、何より一番の原因は……
四本足のポケモンに梯子のぼりおりできるの?
と、言うのが一番の原因。
一つ下の階層を覗いてみるが、結構な高さがあり、落ちたら骨の一、二本持っていかれそうだった。(体が丈夫なら大丈夫だろうけど)
怖いな……なんでこんな作りにしたんだろう……絶対滑るよ。これ。お約束ってやつ……
頭でそんなことを考えつつ、ゆっくりと、梯子に後ろ足をかける。
一段、また一段とゆっくり、慎重に降り進んでいく。
半分くらい下りて、やっと一つ下の階を見渡せるような高さの場所に来ると、何やら声が聞こえてきた。
「もぅ! 全く! どこにイーブイがいるんだい! 本当に入ってきたんだろうね!」
「確かに僕は見ましたよ。ちょっと小さかったけど、しっかりイーブイの足形でした。」
「じゃあなんでいつまでも入ってこないんだい? もう結構時間がたつよ?」
「それは……」
何やらもめているらしい。
あの声は、どこかで聞いたことがある。(ような気がする)
もっとよく聞こえないかな……と下の階に注目した……その時。
つるっ
自分なりに……しっかりと握っていたはずなんだけど。
前足が……滑った。案の定。やっぱり滑った。お約束な気はしてたけど。
ご〜ん
頭から鈍い音が聞こえる。
背中と頭をうちつけたようだ。痛い。
幸いあまり高くないところから落ちたので、半泣きになったことと、頭にたんこぶができたこと以外、大きなけがはなかった。
「だ、大丈夫かい? いきなり上から降ってきたけど……」
涙で滲む視界の中にいきなりカラフルな物体が写りこんできた。
こっちを見ているようだが、ぼやけていてどんな表情をしているかは分からなかった。
「まさか、君がさっき入ってきたイーブイかい?」
カラフルな物体の質問に、首を縦に振って答える。
それから、目を両前足でごしごしとこすり、頭と背中がひりひり痛いのを我慢しつつ、立ち上がった。
よく見えるようになった目で、もう一度カラフルな物体を見ると、どうやらペラップだったようだ。
「ん……? 君のその耳……まさか、あの時のイーブイなのかい?」
また首を縦に振る。
はい。とか、いいえ。とか口で言えばいいのに、なんだか恥ずかしくて。
「そうかい! 久しぶりだね♪ …………ところで、今日は何の用事があってきたんだい?」
私がプクリンのギルドに来たかというと…………プクリンのような探検家になるため。
そのために、ここに弟子入りをしたい、という理由がある。そのことをペラップに伝えなくては。
探検家になりたいこと、プクリンのギルドに弟子入りしたいこと。
かなり小さい声だが、懸命に説明する。
聞きとってもらえたかが多少不安だったけど。
「探検家になりたいのかい? それなら、おやかたさまのところに行かないといけないな。ほら、ワタシについておいで♪」
どうにか聞き取れてもらえたようだった。ふぅ。一安心。
ペラップがバサバサと音を立てながらもう一つ下の階層へ向かって飛んで行った。
まさか……ここもまたあの梯子……?
予想通り、今降りてきた(落ちてきた)梯子の隣にもう一つ降り梯子が掛けてあった。
今度こそ落ちないように、慎重に、そーっと降りる。
時間はかかったが、今回は上手に降りることができた。はっきり言って奇跡だと思う。
今更だけど……プクリンのギルドは、上から降りてくるようにして作られてたんだね。
だから梯子もあるし、窓もある。
どおりで一番上に小さなテント(?)しかなかったわけだ。
なんで下にも入口を造らなかったんだろう。下に入口を造ったほうが早いと思うんだけど……
「さぁ、こっちだよ♪ 急いで急いで♪ おやかたさま。ペラップです♪はいります。」
ペラップが何やらマークがはいった扉をあける。
何故かここだけに扉がついている。流石は親方がいる部屋。他とは違う。
……そう言えば、他の弟子たちはどこにいるのだろう。
何やら怪しい壺の前に居る一匹を除けば、他にはペラップしかいない。
「ほら! 何してるんだい? 早くおいで?」
はっ。そうだった。
ボーっとタイムから意識を呼び戻し、ペラップが待っている方向へ急いで向かう。
扉を通るとそこには、大きな宝箱が二つ置いてあり、そこにはなんだかよくわからないまあるい物体がたくさん入っていた。
凄いものなんだろうなぁ……多分。
「おやかたさま、新しい弟子入り希望者です。よろしくおねがいします。」
そう言うと、ペラップは忙しそうに部屋から出て行った。
……気を取り直して。
部屋の真ん中には、赤いじゅうたんが敷かれており、その上にプクリンがいた。
奥の壁のほうを向いている……何かをしているのだろうか?
「やぁっ! ぼくはプクリン! ここのギルドの親方だよ? って、久しぶりだね! 元気にしてた? ともだち!」
くるりんっ!
カポエラーもびっくりの速度と勢いで、プクリンが180度向きを変えてこっちに向き直った。
あの体型でどうやって回転しているのだろうか。
まさか……
いや、なんでもない。ただの思い違いだろう。
「どうしたの? そんな顔してさぁ♪ ぼくがそんなに変かい?」
いや、あんな挨拶のされ方をすれば誰だって驚く。
はじめて会ったならなおさら。
初めてじゃなかったからこれだけですんだけど……
「探検隊になりたいんだって? うん! 一緒に頑張ろうね! じゃあ、まずはチームの登録を……あれ? もしかして、君一匹かい?」
探検『隊』? チームの登録?
ナンノコトダカサッパリわからない。
まさかとは思うが、プクリンに、二匹以上じゃないとなれないのですか? と聞いてみる。
「別に一匹でも活躍している探検家はいるし、一匹じゃダメって言う決まりもないけど、君、探検初心者だよね? もしも初心者が一匹で探検に行って、倒れたらどうするの? 誰も助けてくれないよ? だから、まだ慣れないうちは、誰かと一緒にチームを組んだほうがいいんだ。それに、チームでいたほうが、賑やかで楽しいよ♪」
にぎやかで楽しい……か……
そんな事とは無縁の人生(?)だったからなぁ……
ん……この場合はポケ生というべきなのか……?
もちろん、無縁ということは、友達などという物はいない。周りからみると、きっと寂しい奴なんだろう。自分では、別にそんなこと思わないけど。
だから、いきなりチームを組め、とか言われても困る。
友達どころか知り合いすら少ないし……
「大丈夫だよ♪ 見つかるまで探せばいいから! じゃあ、一応仮登録しておくよ♪ ほら、これを受け取って♪」
プクリンが床に箱のようなものを置く。
箱には『ポケモン探検隊セット』と書かれてあった。
あけると、探検隊バッジなるものと、地図と鞄が入っていた。(自分の鞄もあるのだが)
「まず、探検隊バッジ。探検隊のあかしだよ。そして、その地図。不思議な地図と言って、とっても便利な地図なんだよ♪ 最後に、トレジャーバッグ。拾った道具を取っておけるよ♪ 今は小さいけど、活躍によって大きくなるとっても不思議で便利な鞄なんだよ♪」
一度にたくさんの説明をされて、頭の中がぐちゃぐちゃする。
でも、全部便利な物、ということはわかった。一応。
「さぁ、トレジャーバッグの中身をのぞいてごらん。」
中には、布状の物が入っており、きれいにたたまれていた。
が……よく見ると、値札が付いている。
『特売! 800ポケ! カクレオン商店』
特売品……まあいいけど。プクリンは全く気がついてないようだ。
言うべきだろうか……
「それは、『ともだちリボン』っていう、持ってると不思議と人気者になれるリボンなんだ♪ それを渡しておくから、探検隊になりたそうなポケモンを誘ってみたらどうかな?」
誘ってみたら? か……一度も友達作ったことない私に……できるのだろうか?
早速、『ともだちリボン』を頭にかけてみる。
目にばっさりとかかって前が見えなくなった。どうやら頭に付けるものではないらしい。
首に巻くものなのかなーと、必死で巻こうとするが、前足をじたばたさせるばかりで、いっこうに巻ける気配がない。
見かねたのか、プクリンが手伝ってくれた。きれいに首に巻いて、トレジャーバッグを体にかけると、気分だけは探検隊になれた気がした。
……………て言うか、値札が……ちくちくするんだけど……
この特売ってところが特にちくちくする。
「仮登録で、チームができるまでは、依頼や探検はさせてあげれないから、がんばってね♪ とりあえずは、ここにいてもいいから! ペラップ!」
プクリンが、ペラップを呼ぶと、「はいはい、ただいま〜」とペラップが飛んできた。
すぐ近くにいたのだろうか。すぐに部屋に入ってきた。
「一つ空き部屋があったよね。この子に使わせてあげて。えっと、一応、仮登録して、ぼくの弟子になったからね。今日はもう休ませてあげて。」
「はい♪ わかりました♪ あの部屋ですね。 かしこまりました。……さぁ、ついておいで。」
ペラップに再び連れられて、奥にある部屋に案内された。
そこは、一匹で使うにはなかなかの広さで、わらのベッドが二つあった。
窓も付いており、快適そうに見えるが、一番奥の部屋なので、出入りに時間がかかりそうだ。
「この部屋は自由に使っていい。 早くパートナーが見つかるといいな♪」
そう言うとペラップはまたも忙しそうに飛んで行ってしまった。
パートナーか……きっと、私にできるはずがない。
今まで生きてきて、友達らしい友達を作ったことも、出来たこともない。
寂しい……と思ったことはなかったけど。
うん……ギルドに他の弟子たちがいないのが気になるけど……
今日は暗いし、もう寝ようかな……
初めて使うベッドに体を丸めてのせる。ふかふかしていて、とても気持ちがいい。
目を閉じ、耳をぺたりと体にそえる。半分しかない右耳も、最初は違和感があったが、既に慣れてしまった。
慣れって怖いね。
あんなにショックだったのに、もう立ち直ってる。
プクリンのギルド生活も、こんな感じですぐに慣れてしまうのだろうか……?
きっと、すぐに慣れることができる……はずだよね。
今日はドキドキすることがいっぱいあったけど、明日はどんなことがあるのだろうか?
いいことあるといいな…………
〜第2話に続く〜
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あとがき的な物体。
はい。第1話です。ありがとうございます。
前回から大幅に遅れてしまいましたが、入門編ということで、書かせてもらいました。
当初、先にパートナーを仲間にする予定でしたが、先に入門したほうが、辻褄が合うので、先に入門させてしまいました。
ただ、ともだちリボンを持たせたかっただけかもしれない。
カクレオンの店で買えない? そこは気にしてはイケナイ。
そして、引き続き
おかしいところの指摘をお待ちしております。
指摘されたところは、加筆・修正していくので、どんどん言ってください。
て言うかむしろ、見つけてほしい。
見つけてください!
お願いします!
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