「む、あれは……」
寒風吹きすさぶ1月25日の月曜日、夕刻。いつものように訓練の準備をしていた俺は、ナズナが校舎から出る姿を目撃した。彼女は足早に学校を後にし、俺の視界から消えた。
「一体どうしたこった、あんなに早く帰るとは。ミュージカルの部活の指導は休みなのか? いや、それより俺に連絡の1つも無いぞ。今まではそんなことありはしなかったのによ」
成り行きとはいえ、俺と彼女は一緒に住んでいる。何かあったら連絡するってのは当然のことだ。それをしないということは、厄介事に巻き込まれたのか?
俺の心配は、訓練にやってきたラディヤの声で少し落ち着いた。
「先生、何をおっしゃっているのですか?」
「ラディヤか。それがな、まだこんな時間だってのにナズナ先生が帰宅していたのだ。何か怪しいと思ってな」
俺は事情を説明した。もちろん、全ては言わない。この俺がこれくらいで動揺するなどと知られれば、色々不都合が起こるからな。
「そうなのですか。ふふ……」
「おい、何を笑ってるんだ」
ラディヤは、さも何か知ってそうな笑い方をした。……一体どうなってるんだ。
「あ、失礼しました」
ラディヤは軽く頭を下げた。ちょうどそのタイミングで、ターリブンが現れた。
「2人共、サボりでマスか? ならオイラだってサボるでマス!」
「うるせえ、サボっているわけじゃねえぞ。ちょっと気になることがあっただけだ」
「先生、ナズナ先生が早くお帰りになったのが気になるそうですよ」
ラディヤがターリブンに経緯を話した。すると予想通り、ターリブンは冷やかしに走った。
「おお、なるほどでマス。そりゃ嘆くのも分かるでマス、2人は仲良しでマスから」
「こら、余計なこと言ってんじゃねえよ。物事を憶測で判断するのは……」
「じゃあどうしていつも朝一緒に来るでマスか?」
「……詮索は無用だ。訓練のメニューを増やしてやろうか?」
「え、遠慮するでマス」
うむ、なんとかしのいだな。
「あ、テンサイさんおかえりなさい」
午後8時半、俺は家に戻ってきた。ナズナの行動が気になるものの、仕事はこなしてきた。さて、早速探りを入れるか。
「ただいま。今日はえらく早いな、熱でもあるのか?」
「違いますよ。今日は色々準備があったんです」
「準備、なあ」
俺は気の入らない返事をした。彼女は妙にうきうきしている。ダイエットでも成功したのか?
「さあさあ、まずはご飯にしましょう!」
そんなことを考えながらも、手を洗ってうがいをし、食卓についた。目の前には、彩りこそ鮮やかな料理が並んでいる。
「い、いただきます。……む、これはすごいな」
俺は若干手を震えさせながら一口食べた。おや、思った以上に上出来じゃないか。昔ナズナに料理を作ってもらった時は飲み込むだけで精一杯だったってのに。月日はかくのごとく人を育てるものだな。
「美味しかったですか? 良かったあ」
俺の反応に安心したのか、ナズナは深呼吸をした。……腕に自覚はしていたみたいだな。だが、まだ分からないことが残っている。聞かねばなるまい。
「にしても、一体全体どうしたんだ? 今日は記念日でもなければ祝日でもないはずだぞ」
「えっ、覚えてないんですか? 今日はテンサイさんの誕生日じゃないですか」
彼女の不意の一言に、俺は一瞬思考が止まった。誕生日だと……。そんなもの、最早必要無いと意識してなかったぜ。なにせ祝う奴も、それに応じる奴もいないのだから。もし記憶が確かなら、今日で俺は36になるはずだ。
「……確かに今日は俺の誕生日だ。しかし、どこで知ったんだ?」
「ふっふっふ、秘密です。私にかかればそのくらい難しくありませんよ。それよりこれを……」
彼女は、どこからともなくラッピングされた箱を取り出した。包みをはがして出てきたのは、一組の衣装だ。上下に分かれており、下は腰と足首をひもで縛るタイプの黒もんぺ。上は着物のようになっており、生地が重なる部分をひもで結ぶ形となっている。上の着物には両脇にスリットが入っている他、大きめのポケットがある。ちょうど俺の好みにぴったりだ。
「ほう、良くできた作務衣だな。アンタが着るというわけではないだろうし、もしやプレゼントってやつか」
「はい、大正解です! 毎日着流しですから、たまには気分転換しませんとね。しっかし、調べるの大変でしたよ、テンサイさんが欲しがっているもの。部員の3人に聞き込んでようやくここにたどり着きました」
ナズナは胸を張って答えた。あいつら、いつの間にそんなこと話してたんだ。ラディヤの動向が怪しいと思ったら、こういうからくりか。……もっとも、実に久々の贈り物だ。感謝しねえとな。
「なるほど。ありがとな、わざわざ気を遣ってもらって」
「いえいえ、気にしないでください。それより、私の誕生日にもプレゼントしてくださいね」
「そういうことか。まあ、気長に待っててくれよ」
俺はせっかくなので作務衣を上から羽織り、美味い飯に舌鼓を打つのであった。たまにはこんな日があっても良いな。
・次回予告
時間は年を取るごとに早くなる、俺も例外ではない。遂にプロチームのキャンプが始まったのだ。そこで、交流のために部を代表して選手と勝負することになった。果たして、いかほどの実力なのやら。次回、第33話「プロとの遭遇」。俺の明日は俺が決める。
・あつあ通信vol.98
作務衣とは、元々禅宗の僧侶が着る作業着です。甚平に近いのですが、あちらと違って長袖です。色は黒が基本で、出世すると茶色や藍色等も着るとのこと。スリットが入っていて、脇の部分でひもで結んで着ます。私もデニムの作務衣を持っていますが、着心地が良い上にかっこいいですよ。
あつあ通信vol.98、編者あつあつおでん