「ありゃ、とんでもない人だかりだな。休日だってのに」
「やっぱり、プロの選手を間近で見たいんでしょうね」
2月14日の日曜日、昼下がり。俺とナズナは職員室でグラウンドを眺めていた。プロチーム、ファイターズのキャンプも中盤戦。生き残りを目指す選手達が、休日返上で練習している。俺達と一緒だな。彼らの周囲には大勢のファンや生徒がおり、出待ちでサインを狙っているようだ。まあ、そんなことはどうでもいい。
「こっちはこっちで妙に注目されるし、気が休まらねえよ」
俺は近くにある新聞に目をやった。そこにはこう書いてある。「ダークホース現る:昨年新人王のイケメン選手を、まるで赤子の手をひねるがごとく破ったテンサイ氏。各球団はその存在を把握してなかったようで、その実力を垣間見ようと躍起になっている。チャンピオン以上と絶賛する評論家も少なくない。まだまだ未知数な部分はあるが、今秋のドラフト会議では注目を集めるかもしれない」……こいつら、俺の正体を知ったら掌返しするんだろうな。全く、本人のことも考えてほしいもんだ。まあ、メディアにそんなこと期待するだけ無駄だが。
「それもそうですね、私も落ち着かないですし。まあ、これ食べてリラックスしてくださいよ」
そう言って、ナズナはかばんから包みを取り出した。甘い匂いがするな。見るまでもなく中身が当てられるぜ。
「菓子か。一体どういう風の吹き回しだ?」
「いやですねえ、とぼけちゃって。今日はバレンタインデーじゃないですか。たくさん作ったからおすそ分けです」
「そういうことか。なら遠慮なく頂こう」
俺は包みを受け取り、中にある菓子を一口食べた。チョコレートでコーティングしたクッキーという定番ものだ。所々苦味があって甘味が際立つ。この感じだと、チーゴでも使ったか。たまにはこうしたものも……。
その時だ。職員室の外から一通りではない怒鳴り声が聞こえてきた。甲高い男の声で、確かに聞き覚えがある。
「この声はまさか……」
俺はすぐさま廊下に飛び出した。左右を確認すると、左側に人だかりができているのが見えた。中心にいるのは1人の生徒と1人のおっさんである。生徒の手には何かあるな。
「ほーほっほっほ、私にぶつかるとは良い度胸してるじゃない」
「す、すみません」
「あなたねぇ、謝って終わるなら警察は要らないのですよ? 私が満足するまでいたぶっちゃいますからね」
「きゃあっ……」
あれはラディヤ! そして教頭のホンガンジじゃねえか! あの野郎、因縁なんかつけやがって。しかも、今まさに殴ろうと腕を振りかぶってやがる。そうはさせるか!
ホンガンジの拳はうなりをあげながら振り下ろされた。鈍い音が響く。だがしかし、ラディヤには命中していない。何かが落下したような乾いた音が聞こえ、不意に視界が明るくなる。何かが俺の頬を流れる。何があったかは、まあ分かるだろ。
「……あら、私の邪魔をする奴がいるとは驚いたわ」
「はっ、驚くことはねえさ。生徒の身を守るのは当然だからな」
不機嫌そうにしわを寄せるホンガンジに対し、迷うことなく答えた。これを受け、ホンガンジの眉間のしわはますます深く刻まれる。
「……ふーん、お涙頂戴の典型みたいな台詞ね。私、そういった偽善者が大嫌いなの。特に、あなたみたいな顔の奴はね」
「おやおや、こいつはとんだとばっちりだぜ。俺のそっくりさんに痛い目遭わされたりでもしたのか?」
「……やはり忘れたみたいね。これだから偽善者は困りますわ」
「おい、てめえ何のことを言ってやがる」
「ほーほっほっほ、何でもありませんわよ。さて、愚か者テンサイに告げましょう。私に歯向かったこと、いずれ後悔するでしょう。しかしその時謝っても許してやりませんからね、覚悟しなさい。ほーほっほっほ!」
ホンガンジは、まるで宝を得た山賊のごとく上機嫌になると、意気揚々とその場を離れるのであった。ったく、何様のつもりだあの野郎は。しかし、一部俺のことを知ってるかのような口振りだったのが気になるな。まあ、今はそれより確認だ。
「大丈夫かラディヤ」
「は、はい。先生こそご無事……ではありませんね」
ラディヤは息を呑んで指摘した。俺は顔を触ってみると、手が血で染まった。彼女をかばう時に殴られたわけだが、額でも切れたのだろう。これは若い女子には刺激的かもしれないな、なだめておこう。
「気にするな、かすり傷だ。部の貴重な頭数を失うのに比べれば、どうってこたあない。つばでもつければすぐ治るさ、はっはっはっ」
俺は朗らかに笑って見せた。笑うと実に気分が良いな、痛みもどこかに飛んでいく。
「……はい。サングラス、落ちてましたよ」
「な、なんだと!」
そんな時間も束の間、ナズナが俺にサングラスを渡した。言われてみれば、視界が黒くないじゃないか。俺は表情を凍らせながら、すぐにサングラスをかけた。
「これは不覚だった、顔を見られちまったとは」
「……お顔を見られると何か困るのですか? たいそう凛々しい顔立ちですから、隠す必要は無いと思いますが」
ラディヤが疑問を投げかけた。顔の評価はともかく、急いでこの話題を切り上げねば。
「……まあ、大人には色々事情があるのさ。俺の腑抜けた顔のことは忘れてくれ、分かったな」
「わ、分かりました」
ふう、ようやく一段落ついたぜ。なんとなくナズナの視線が気になるものの、蒸し返すのは危険だ。しばらく黙って仕事するか。俺は手拭いで顔の血を拭き取ると、静かに職員室に戻るのであった。
・次回予告
当たり前のことだが、プロは勝つことが仕事だ。勝利程、人の心を揺さぶるものは無いからな。当然、様々なノウハウがあって然るべきである。団体戦は専門外だからな、しっかり学んでおこう。次回、第35話「まるで盆踊り」。俺の明日は俺が決める。
・あつあ通信vol.100
普通、こういうことがあったら警察沙汰なのですが、ポケモン世界ですからね。あの世界の悪の組織を、警察が捕まえた試しはほとんどありません。例外はギンガ団とハンサムですが、それでも人員はたったの1人です。「謝って終わるなら警察は要らない」という台詞はある意味、ポケモン世界の警察に対する皮肉なのかもしれませんね。
あつあ通信vol.100、編者あつあつおでん