「馬鹿は死んでも治らないとはよく言ったものだな」
突然後ろから声がした。脳みそが震えるような威圧感と重々しさのこもった声だった。
私は何事かと思い振り返ろうとした。が、
「おっと、振り返るなら覚悟するんだな」
首の動きを止めた。
「振り返ったらもうお前は死ねなくなる。私が死なせない。そしてこの地獄をもっともっと味わってもらうことになる」
「地獄ってなんだよ? というか、あんた一体なんなんだ?」
首の位置を再びまっすぐに向き直し、空に向かって質問した。
こいつは一体何者だ? さっきの「私」と同じで私のことに気付けるみたいだ。威圧的な声のせいか、なぜだか一瞬強盗かと思ったが、人質相手に「死なせない」はおかしなセリフだ。
「振り返れば教えてやろう。だが振り返るなら覚悟しな。後悔したくなければまた死ねばいい。そこのクローゼットに丈夫なベルトが何本かある。ドアノブを使えば多少苦労するだろうが十分死ねるはずだ」
正体不明の男(?)の返答からはまったく状況がつかめない。意味不明だ。
「さっきあんた『馬鹿は死んでも治らない』って言ったな?」鎌をかけてみることにした。
「あぁ、言った」
「ということは……私が今“どうして”ここにいるのか知っているわけだな?」
「知っている。……ふふっ、もちろん、知っているとも」堪えきれないという風に男は笑った。
「もちろん? もちろんってどういうことだ?」
「ふふっ、これ以上答えることはない。さ、どうする? 死ぬか?」男は相変わらず面白げであったが、言葉には有無を言わせない重さが込められていた。
謎だらけだが、選択に迷いはなかった。私は何も言わずクローゼットへまっすぐ向かった。扉を開くと大量の衣装が目に入った。そして内側のレールには確かに、様々な種類のベルトが並んでぶら下げられていた。私は中でも金具の少なくて、出来るだけ新しそうなものを一つ選び手に取った。
黒い革のベルトを握りしめて、私は驚くほど冷静だった。さっき死んだ時にはいろんな思いが頭の中を巡ってぐるぐるしていたというのに、今はまるで空っぽだ。なぜだろう? きっと安心したからだろう。さっきの質問で、あの時自分が幸福の絶頂にいたことを確認できて、それはつまり私が、私の人生において大きなものを一つ残せたということで、安心したのだ。それが分かればもう、いい。
さっきから男の声がしない。気配も感じない(もともと大して感じていなかったが)。まぁ、その方が都合がいい。自分が死ぬところを誰かに見られているというのは、あまり気分のいいものではない。
ベルトで輪っかを作り、私は少し悩んだ。つりさげられたロープなら、首をひっかけて重力に任せるだけでいいが、ドアノブは位置が低すぎてどうしても床に体がついてしまう。これで本当に死ねるだろうか。とりあえずL字のドアノブにベルトをひっかけ首を通してみた。
――思ったより締まるな……。
上体の重みだけでもかなり首の締め付けれる感じがあった。これならもう少し体重をかければ十分そうだ。
私は、最初に首を吊った時と同じように、またあたりを見渡してみた。どうやらさっきの男はすでにいないらしい。どうやって消えたのか、なんていうことは今の私にとってどうでもよかった。
目の前におかれた化粧台の鏡にちらっと自分の顔が映っているのが見える。無様だった。無抵抗のまま死んでいく姿というのがこんなに醜いものとは思わなかった。
最期に自分が残したものをもう一度見たくなり、優勝トロフィーを目だけで探した。
――見つからない。
もう一度見渡してみた。しかし、ない。この部屋においてあるものとずっと思っていた。
探している間も徐々に意識が薄れていくのを感じていた。知っている。これが死に向かっているということだ。
私はひたすら目で探し続けた。それはもう眼球が飛び出してしまうのではないかと思うほどに、ぐるぐるぐるぐると……。
――ない!
まるで目が覚めたような気分だった。焦る。なぜない!?
体が思うように動かせない。意識がどんどん遠のいていく――
――死にたくない!
狂気。指一本動かせないというのに、私は心の中でもがいていた。
――死にたくない、死にたくない、死にたくない!
目を開けていられなくなった。視界が真っ暗になる。
――あと少し……あと少しだけ……生きていたい……。
私は再び死んだ。