カーテンは閉ざされ照明も点いていない、仄暗い子供部屋。南側に置かれたベッドの上に、水色のシーツが丸まっていた。そこから細く聞こえて来るのは、子供の啜り泣く声。
夕闇に薄らと放たれるその声に誘われるようにして、二匹のポケモンが、わずかに開いたドアの外から部屋を覗いた。一匹は綿花に似た体の左右に、腕にも見える青葉を生やしており、もう一匹は赤い小さなとさかを持った、黄色の肌の蜥蜴。
二匹は大きな音を立てないように室内へ滑り込み、ベッドに上ると、小刻みに震えている膨らみに寄り添った。
「めぇん、めぇん」
「ルグ、ルルッグ」
二匹の呼び声に、山を模ったシーツがびくりと動く。
程無くして山がおもむろに崩れ、ふもとから茶色が――茶髪の少年が、恐る恐るシーツの下から顔を出す。八の字を描く眉の下で、セピアの瞳が潤んでいた。
少年と視線が合うと、二匹のポケモンはにこにこと笑う。
大丈夫だよ、大丈夫だよ。
少年のふっくらとした頬に涙が線を引く。ポケモンたちは彼を安心させるべく、優しく声をかける。
けれどポケモンは、人間の言葉が話せない。人間は、ポケモンの言葉が解らない。
「…………なんで」
だから少年は傷ついたような、疑るような眼差しで二匹に訊ねた。
「なんで、笑うの……? 悲しくないの……?」
少年の顔面を支配する感情が、みるみる内に温度を変えていく。
「なんで? なんで笑ってるの?」
胸中を巣食う彼らへの恐れも忘れて、怒りを孕んだ問いを投げる。
「なんで、どうして! どうして笑ってるんだよっ……!!」
ポケモンは人間の言葉を話すことが出来ない。そう解っていながら、少年は二匹への詰問と苛立ちを治められない。
そのような彼の心情を知る由も無いポケモンたちは、先程よりも笑みを濃くして少年の方へ両腕を突き出し、広げて見せた。
大丈夫だよ、僕たちがいるよ。
温かな気持ちを精一杯、人間である少年に対しては意味を成さない声に乗せて、紡ぐ。
だけれど言葉という形に成り得ない慈愛は、二匹の想いを解せない、悲しみで裂けた少年の胸を深々と抉り、痛めつけることしか出来なかった。
「…………いなくなっちゃえ」
二匹は少年を見つめた。少年の、シーツを握り締めた拳がわなわなと震えている。
「ポケモンなんて……」
止め処無く溢れる大粒の涙が彼の服に、シーツに、染みを作っていく。
今、その大きな双眸にあるのは悲痛でも恐怖でもなく、憤怒。
少年には……少年独りきりでは、とても抑制出来ない烈しい憤りが喉から口へと伝い――いよいよ、噴き出した。
「メイテツもキューコも……いなくなっちゃえばいいんだ!!」
涙が散らばる。
「いなくなっちゃえ!!」
残暑の空気で満ちた部屋が、凍てつくように静まり返った。
少年とポケモンたちは、互いをただただ見据えていた。
「……………………」
やがて少年が睥睨を見限る。沈黙を保ったまま、シーツを胸元まで手繰り寄せて膝を抱え、面を伏せた。
それを合図としたように、二匹はしょんぼりした顔を見合わせて頷き、ベッドを下りて廊下の方へと歩いて行く。
最後に、来た時と同じようにドアの隙間から少年を見つめ……その場から立ち去った。
*
イッシュの北西に位置する森の中。ここに、イッシュ全域を網羅する鉄道の中心部であるライモンシティと、白熱のバトルサブウェイを陰から支える車両基地の町、カナワタウンはある。
週末は観光客――とりわけ鉄道愛好家で賑わう場所だが、今日は生憎の月曜日。プラットホームに降り立つ人の数は疎らである。
微睡みの中を思わせる、のどかな空気の漂う昼日中のこの町に彼らがやって来たのは、木々の緑が夕暮色へと衣替えを始めようとしている、初秋の日のことだった。
「カルカル〜!」
駅舎と町とを繋いでいる、煉瓦造りの陸橋へ続く階段。共に行くトレーナーの歩みを、青い体のポケモンが短い足で追い抜いて行く。
「カブルモ、そんなに急ぐと転ぶぞ」
カブルモと言う甲虫に似た格好のポケモンは、自分を呼んだ人物に振り向き、立ち止まった。彼のトレーナーである紅蓮の髪の翁――名はアデク――は老いてなお勇ましい風采で、周囲の景色に目を向けながら言葉を続ける。
「いい眺めだな。ほら見てみろ、転車台だ」
「カブッ」
落ちないように気をつけろよ。橋の隅にてこてこと歩み寄るカブルモにそう言って、アデクは最後の段を上り、自身も縁へと進んで転車台を見下ろす。
四方に広がる森林の中に一筋に引かれた線路を、遥か彼方まで電車が駆け抜けて行く。転車台の奥に構える車庫はその殆どが空で、それは彼らが今まさに、イッシュのどこかを元気に走っていることを知らせていた。
そっと優しい風が吹いた時、アデクの耳に届いたのは、柔らかく澄んだ響きを持つ旋律だった。音を運んだ風の道を辿って見れば、若葉色のワンピースを着た少女が、橋の中央で横笛を吹いているのが目に留まった。
その足下にはぴょんぴょん跳ねる、青い影。
「カブモ! カブッ、カブル!!」
瞑目し、無心でフルートを奏でていた少女は、自分のすぐ傍で跳ねているポケモンに気がつくと、驚きに目を屡叩かせた。
「あーこらこらっ。すまんな、お嬢さん。演奏の邪魔をしてしまって」
跳躍を繰り返すカブルモに慌てて駆け寄り抱き上げて、アデクは苦笑いをしながら彼女に会釈した。
「いえ! 可愛いポケモンですね」
齢を重ねると――娘の場合は特に――虫型のポケモンが苦手になる者は多い。そのことも含んだ詫びだったのだが、少女はアデクの危惧とは裏腹ににこりと頬笑んで、甲虫のようなカブルモをそう表した。
当のカブルモは少女の持つフルートに興味津々で、どう頑張っても届かない距離にあるそれに触れようと、短い手を伸ばしている。
「トレーナーさんですよね? カナワへは観光で?」
「ああ。電車の旅も楽しそうだと思って来てみたのだが、ここはよい所だね。心が落ち着くよ」
「カナワは“電車の眠る町”ですから。トレーナーさんも、ポケモンと一緒に寛いで行って下さいね」
「うむ! ありがとう」
では、と軽く辞儀をして町へと歩き出す。
再び辺りに広がってゆく音色に振り返れば、横笛を吹く手はそのままに、少女が微笑みで応えた。
今度は小さく手を振って別れを告げる。彼のもう片方の腕の中で、カブルモが楽しそうに音に合わせ体を揺らしていた。
「フルートのメロディーは、電車のための子守歌……かもな!」
橋を渡り終えると間も無く、カナワの町並みに出迎えられた。大通りこそ舗装されているが、少し脇道に入れば一帯が砂利道となり、短く刈り揃えられた叢(くさむら)の上に民家が林立していた。
肩にカブルモを乗せたアデクは北に進路を取って住宅街を行く。その道々、生垣越しに見える庭先、公園や十字路など、至る所で人とポケモンが一緒に過ごしている場面を目にした。
洗濯物を干す女性の傍へ、三段重ねの敷布団を軽々と運ぶドッコラー。
所狭しと咲き誇る花々と、合間に植わったタマゲタケに水をやる少年。
きゃっきゃと声を上げて追い駆けっこしている、幼い少女とチラーミィ。
忘れ物を届けに来たコロモリを優しく抱き締めて、破顔する青年。
人間とポケモンが共にあり、互いに楽しそうに、幸せそうに暮らしている。互いの存在を重んじ合い、互いに出来ることを為して、助け合っている。計られたものではない、自然な、ありのままの共存の情景に、アデクは感歎した。
「なんだか見ているわしらが和むな」
「カブ!」
「人とポケモンが分かち合える。本当に素晴らしいことだ」
この町の人々とポケモンはよく知っている。同じ時間、空間を共に過ごすことの出来る喜びと尊さ。
そして愛しさを。
*
転車台と車庫へと向けて引かれている線路を左に見下ろしながら、町の北へと歩いて行くと、突き当たりの林野に白い案内板が立っていた。案内板には細かな文章と矢印が書かれており、左下を指している矢印が示す先には、石の下り階段が伸びている。
「ふむ。ここから転車台へ下りられるのか」
まじまじと看板を見るアデクの背後で、カブルモは石段を凝視していたが、
「行ってみるか? カブル」
「カブモー!!」
トレーナーの言葉を最後まで聞くこと無く、スタートのピストルが鳴らされた陸上選手さながらに走り出した。無論、前方、石造りの階段へ。
「おい、言い終わらん内に行くな!」
転げ落ちるように駆け下る甲虫にアデクは、何故その短い足でそんなに素早く降下出来るのか、と疑問を抱きながら追い駆ける。
「おまえはちょっと元気が過ぎるぞ!」
こちらのことも考慮してくれと思うが、カブルモは人間で言えばおよそ五・六歳。そんな気配りが出来る訳も無い。途中で何度かアデクを振り返っても、自分の有り余る気力を見せつけようとでもしているのか、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねてはぷいと背を向けて、たかたかと石段下りを再開してしまう。
「挑戦的だな……」
若干、眉間に皺が刻まれる。だが渋面はすぐに和らいだ。
以前では有り得なかった、あまりに平凡で、安穏とした時間。
(戦いに明け暮れるばかりでなく、こんな何気無い日々も目一杯に過ごせば、あいつも幸福な一生を終えられたのかも知れんな)
彼女が真に望んでいたのはこれだったのかも知れないと思うと、とてつもなく愛おしく、大切にしなければならない時だと感じられる。彼女との日々をやり直せないなら、彼らとそうした日々を一日でも多く過ごそうと、誓ったのだから。
「……まったく!」
どんどん小さくなっていく青い背中に溜息して、アデクもまた階段を下り始めた。
「ん? カブルモ?」
石段を下り切り、黄土色の芝生を何歩か進んでみたものの、どこにもカブルモの姿が見えない。アデクは先程に続いて二度目の溜息を吐いた。今度は隠れん坊だろうか。
「おーいカブルモ! 隠れるのはいいが、あまり遠くへは行くなよー」
他に相当する場所は見当たらず、まず間違い無いと思われる車庫の方へ声を投げた。
「やれやれ……」
転車台を囲む頑丈そうな木の柵に腕を置き、頬杖をつく。しばらくすれば痺れを切らして戻って来るやもと踏んで、アデクは小憩を決めた。
長年我が身を置いていた土地を離れ、人生で二回目となる旅を始めて一番最初に、新しく仲間にしたのがカブルモだった。自分自身は勿論のこと、彼の方も、連れ立つ流離いの旅路を楽しんでいるだろうことは、アデクの目にも瞭然だ。ならばこの先も共に歩みたいと、思うのではあるが。
「もう少し大人のカブルモが良かったか。素直で可愛いが、元気があり過ぎるのが難点だな」
ふう。先の勝ち目の無い駆け比べを思い返してみたら、溜息が口を突いて出た。これにて合計三度目だ。
(しかし、あいつが電車に乗りたいと騒ぐから来てみたが……ここで皆に伝えることは、何も無さそうだな)
彼女が自分に教えてくれたものを既に知っている、この町の人々には。
一方カブルモはアデクの予測通り、転車台から横へ逸れた、車庫の裏側を歩いていた。
ちなみに、今し方のトレーナーの警告は彼の耳にちゃんと届いていた。届いた上で、なおの続行だ。
幾多の電車を休めるための車庫は堅固な造りで、その背には何か素敵な物が隠されているのではないかと、カブルモの好奇心を刺激するには充分な質量を持っていた。
今のところカブルモの思う素敵な物は見つかっていないし、また見つからなかったとしても、別段彼は構わないと思っている。ここへ来たのにはトレーナーを困らせてやるためでもあったからだ。
果たしてアデクは自分を見つけることが出来るだろうか? カブルモはそんなことを考えてうきうきとしながら、扇形の車庫の輪郭をなぞるように曲がって行く。
「……カブ?」
その時、進行方向に何かの影があるのを見つけた。足を止めてじっくり眺める。車庫の黒い壁に背を預けて座り込む、人間の子供だった。
顔は、山なりに折り曲げた両膝の間にうずめているため見えないが、明るい茶髪の――体格や服装から察するに、九つか十くらいの少年だ。
害は無さそうだと判断したカブルモは、警戒心皆無で少年に近づいて行った。
「カブモッ!」
「え……」
正面までやって来たカブルモに呼びかけられ、少年が顔を上げる。己の目前にいるそれが、紛れも無いポケモンであるという事実を認識した直後。
恐怖に、顔面を蒼白にさせた少年が発したのは、絶叫。
その大声に気圧されて、カブルモは後ろへ引っ繰り返った。
「カブルモ?!」
突如として辺りに響き渡った叫び声を聞きつけ駆け出したアデクは、車庫の裏手で仰向けになっている甲虫を発見すると、
「こら! 今度は一体何をしでかしたんだ?!」
開口一番、叱りつけた。
「カルッ?!」
無実の罪で叱られては堪らない。ぴょこんと跳ね起きたカブルモは、怒っていると言うよりは呆れているトレーナーを前に、顔をぶんぶん左右に振ったり、手足をじたばたさせたりして必死に無罪を主張した。
「違うのか? 子供の悲鳴が聞こえたが……」
「ポケモン、」
「む?」
そこでアデクはようやく気がついた。大きなセピアの目を見開いた少年が、膝を抱え込み全身を戦慄かせている姿に。
「どっかにやってよ……。ポケモンはきらいだ……早くどっかにやって!!」
甲高く叫ぶ少年。ポケモンは嫌い、という文句にショックを受けたらしいカブルモが、あんぐりと口を開けた。
アデクは慌てて佩帯したモンスターボールを一つ取り、カブルモに向けボタンを押す。ボールから発された光がカブルモをしっかと捕らえ、内へ取り込んでいった。
「すまん! 虫タイプが苦手なんだな? 男児だのに珍しいなあ。大人になると苦手になる奴は多いが……」
あやすように少年の前へ膝をついて詫びる。しかし次に彼から返ってきた台詞は、予想だにしないものだった。
「ちがうよ……ポケモンは全部きらいだ。ポケモンがいなければ良かったんだ……ポケモンなんて、いなくなればいいんだっ!!」
これにはカブルモでなくとも衝撃を受けた。ごく限られたほんの一部ではなく、無限とも言える数のそれら全てを嫌いだと、彼は言ってのけたのだから。
「何があったか知らんが……ポケモンがいなければいいなんて、言ってはならんぞ?」
「きらいったらきらい!! ポケモンがいなきゃおれは……おれは一人にならなかったのに!! ポケモンのせいだ、ポケモンのせいでっ……!!」
「むう……、」
相対する者を射抜かんばかりの眼差し。冗談を言っている人間の目ではない。少年が吐いたのは真実。故にアデクはそれ以上、少年に何も言えなかった。
尋常ではない嫌い様。ポケモンの所為で、とはどういう意味なのか……。
彼の身に何があったのかは判らないけれど、情緒の不安定になっている子供を、このような人通りの少ない場所に残してはおけないと感じる。自分を始め、多くの人間が愛して止まないと信じている存在を、嫌いだと言った子供であれば、なおのこと。
アデクは密やかに、少年の隣に腰を下ろした。