少年の住居は町の南にあった。陽の射す時間帯であれば、谷間の駅や果てしない線路を一望出来る小高い丘の上の、二階建ての家屋である。
ドアに鍵は掛かっていなかった。両親の死を嘆くあまり頭が回らず、掛け忘れて行ったのだとしても不思議は無い。
玄関ドアをくぐり、アデクはシュヒのそれを脱がしてから自分も靴を脱ぎ、段差を越えた。居間や台所を一通り確認したのち、二階へと進む。その後ろを、自主的にボールから出たカブルモがついて行った。
たちまち二階に到着し、階段から見て一番手前のドアを開けた。薄暗い中、手探りでボタンを押して照明を点すと、青と緑、茶色といったナチュラルカラーを基調にした絨毯や壁紙、クローゼット、学習テーブル等が置かれた子供部屋が照らし出された。
その窓際のベッドにシュヒを横たわらせて、水色のシーツを胸元まで掛けてやり、すぐに明かりを落とす。カーテンの隙間から射し込むわずかな月光を頼りに、アデクは学習テーブルの頼りなげな椅子に腰掛けて、物思いに耽った。
(イッシュの人々に伝えたい想い。彼には届くのだろうか……?)
自分の力は不要だと思った矢先の出会い。少年が『嫌いだ』と拒む存在を好きになってもらいたいと願うのは、あまりに身勝手で愚かな考えだろうか。
使命を胸に旅を始めてから、およそ一年。彼との出会いは、旅立つ切っ掛けをくれた彼女から与えられた、試練なのかも知れない。けれど使命だとか試練だとかそういうものとは一切関係無く、それ以上に素直に、この孤独な子供を救いたいと、そのために自分に出来ることがあるならなんでもしたいと、アデクは思う。
「カル?」
アデクの膝の上できょろきょろと部屋を見回していたカブルモが、絨毯の上に、月明かりを反射する何かを見つけた。
「どうした?」
床に降り、一点に駆け寄ったカブルモの上からアデクが覗き込む。赤い額縁の写真立てが落ちていた。
「カブカブ……カルルカブッ!!」
拾おうとしたカブルモがバランスを崩し、ずるべちゃっという間の抜けた音とともに前のめり、倒れる。
「あー、こらこらこらこら……」
アデクは呆れながら写真立てをカブルモごと持ち上げ、中の写真を見た。生後間もない赤子が眠る傍で、二匹のポケモンが添い寝をしている様が映っている。
「この赤ん坊はシュヒくんだな」
トレーナーが傍らの箪笥の上に置いた写真立てを、カブルモは涙を溜めた目で恨めしげに見る。倒れた拍子にぶつけた所を擦りたいのだが手が届かず、見当違いの箇所を触っていた。
「お……?」
箪笥の背と接する壁にはコルクボードが掛かっており、そこにも数枚の写真が画鋲で貼り付けられていた。それらはどれも今より幼く、涙ぐんでいるシュヒと、彼を囲み満悦の表情をした二匹のポケモンが映っていることで、共通している。
「モンメンとズルッグ……」
「……ぅ、うぅ……」
写真のポケモンの名を確認するように口にした途端、小さな唸り声が聞こえて、アデクとカブルモはそちらを向いた。
「……父さんっ……母さ、ん……」
窓側へ寝返りを打ち、苦しげに呟くと、少年は再び寝息を立て始める。
「……シュヒくん」
両親を失った悲痛。湧き上がるポケモンへの嫌悪。きっと頭の隅では、ポケモンに当たったところで悲しみが癒えることは無いと、解っているのだろうに。
(この子のために、わしに何が出来る?)
上弦の月はただただ、たおやかな光を大地に注いでいた。
*
明くる日。そろそろ八時になろうかという時刻に、シュヒは鼻を抜けた芳ばしい香りで目を覚ました。
「ん、…………?」
食欲をそそる朝食の香り。これはウインナーの焼ける香りだろうか。
「母さん……?!」
戻って来た。帰って来てくれた! もしかしたら自分はこれまでずっと長い悪夢を見ていて、今やっと目が覚めたのか。いや、どちらでも構いやしない。自分はもう独りではないのだ!
次から次へと溢れ来る歓喜を胸一杯に満たして、シュヒは階段を駆け降りる。
「母さんっ!!」
廊下と居間を仕切るドアを押し開ける。その向こうに待つのは出来たての温かな食事と、笑顔で出迎えてくれる、愛する両親――
「カブ?」
ではなく、青い甲虫。
「わ……うわあああああ!!」
「!!」
「なんでポケモンがいるんだよーーーっ!!」
食卓のカブルモを眼界に収めたシュヒは瞬間的に、飛びのくように後ずさった。対する甲虫も少年と同等に驚いて、盗み飲んでいたモーモーミルクのコップを危うく倒しそうになる。
「カブルモ?! いつの間にボールから出たんだ? 驚かれるから入っておれと言ったのに」
コンロに向かっていたトレーナーが調理の手を止めて詰め寄ると、カブルモは申し訳無さげに頭を垂れた。
「昨日の……なんで、おれん家に」
「あ、ああ、すまんな! 朝っぱらから驚かせて。いやあ、宿が見つからんくてな、昨晩はこちらに泊めさせてもらったのだ」
甲虫をボールに戻しながらアデクはそう返した。
口から出たのは咄嗟の嘘だったが、事実カナワには、トレーナー用達の宿泊施設であるポケモンセンターは存在しない。町に一軒だけある宿屋は個人経営で部屋数はほんのわずか。運が悪ければ相部屋にすらならないので、宿所が見つからないと言うのも強ち間違いではなかった。
そんな老翁の法螺は気にも留めず、シュヒはその台詞の後半部分に顔を蒼褪めさせた。
「か、勝手に……?」
「いや! 巡査と町長の許可を取ったぞ?!」
実際の所、町長の方からは返答を貰っていないが、その後キミズから何も連絡が無いことが、つまりは問題無しという証拠だろう。
カブルモの飲み止しのモーモーミルクを片付けて、アデクはコンロに向き直る。
「礼と言ってはなんだが、朝食を作っておるから。きみの母さんの味には到底及ばんと思うが……良ければ出来るまで待っておってくれ」
セラミック鍋から薄く立ち上る、コンソメの香りを含んだ湯気。木杓子でその中身を掻き混ぜている男の背中に、少年は尖った声を投げつける。
「聞いたんでしょ。おれの父さんと母さんのこと。あれは全部ポケモンのせいだよ。ポケモンなんて……乱ぼうだし、何考えてるのか分かんないし……大きらいだ。父さんも母さんも、どうしてポケモンを好きだったんだろう。好きじゃなかったら……ポケモンを助けないで、死なないで、すんだのに。」
両親がいなくなってから。同じ町に住む人々の、誰にも言わなかった――言えなかった想いが、少年の口を滑り落ちて行った。アデクは彼の言い分を黙って聞き、しばらく調理を続けたのちに開口する。
「一トレーナーとしても、なかなか耳の痛い意見だな」
「あっ」
しまった、という声音になった。
「いやなに。気にせんでよいよ」
煮込み終えたスープに塩と胡椒を少々加え、味見する。なんとかそれらしく出来たみたいだ。火を消し元栓を締めて、老翁は少年に振り向く。
「実はなシュヒくん。わしもつい最近、とても大切な奴を、病で亡くしたのだ」
「……!」
驚愕と戸惑いが入り混じった複雑な相貌。随分と大人びた面持ちをするものだ、とアデクは思う。
「だからと言って、きみの気持ちが解る、などと言うつもりは無い。ただ、わしはそやつを失って初めて気づいたことがあってね。きみももしかすると、そのうち何かに気づくことが出来るかもしれんな」
居間の入口に立ち尽くしていたシュヒを着席させて、アデクは作り立ての食事を二人分、テーブルに並べていく。トーストに野菜のスープ、ウインナーと目玉焼きに、注ぎ直したモーモーミルク。
現在は幼子一人の家庭だ。目ぼしい食材は無いかと思いきや、冷蔵庫には惣菜の入った小鉢、新鮮な野菜や果物があった。他にも消費期限が長く設定されたパンなど一通りが揃っており、悩まずに調理が出来た。恐らくはそのどれもが、近隣の住民からの差し入れなのだろう。
ただ、料理は久方ぶりだし得意な訳でもない。少年の口に合うかどうかだけが問題だった。
改めて出来上がった朝食を眺め渡したアデクは、ミルクを目に留め、カブルモのことを思い出す。
「おっと、いかん。ポケモンたちにも食事をやらなければ。すまんが、先に食べとってくれるかね」
「……うん」
シュヒが頷くのを見届けてから、アデクは洒落っ気の無い麻製の袋を担いで、そそくさと部屋を出る。ガチャ、ガチャリと、玄関ドアの開閉音が響いた。
(自分も先に食べればいいのに。変なおじいさん……)
老翁が姿を消した場所から、ほかほかと湯気を立てる食事へ向きを戻し、シュヒは両手を合わせた。
「……いただきます」
銀の匙でスープを掬い、一口含む。具は野菜だけ、しかも無駄にごろりと切り口が大きい。母の手料理とは全く異なるが、素直に美味しいと感じた。なにせ出来立ての食事を食べるのは久しぶりだ。
母の手伝いをしていたとはいえ、子供がたった一人で、毎日三食を用意するのは困難である。そのためシュヒは、近所からの差し入れだけで足りない時はパンや果物など、調理する必要の無いもので凌いでいたのだった。
匙を置き、こんがりと焼き目のついたトーストにバターを塗りながら考える。翁の言った“大切な奴”が、気になっていた。
(奥さん……、子供? 友達……かな。その人が死んで初めて気がついたことって、なんだろう)
トーストを半分ほど齧り、目玉焼きとウインナーを二口、三口。よく咀嚼してモーモーミルクで飲み下したところで、外から聞こえてくる声に気がついた。
窓際へ寄って硝子越しに庭を眺める。門の傍に、しゃがんだ赤髪の男の後ろ姿があった。
「こらこら、ちゃんと全員分ある。そう慌てるな!」
老翁は袋から取り出したポケモンフーズを、三枚のプラスチック皿に盛り、自分の周りに集まったポケモンたちの前にそれぞれ置いた。
少年の目の前に忽然と出没し驚かせてきた、青い体の甲虫。
頭部がもこもことした体毛で覆われた、大きな角を持つ牛。
ギザギザと角張った赤と青の肌に、翼を付けた二本足の竜。
ぞくり。シュヒの背筋に悪寒が走る。
「よしよし。さあ食べなさい」
自身の合図で一斉に食事にありついた三匹を、アデクは微笑ましげに見つめた。
(変だよ。ポケモンが好きなんて、ぜったい。)
少年は目の前の光景から視線を逸らす。脚が、震えていた。
当然だ。ポケモンを、ポケモンを愛しげに見る人間を、こんなにも近くに感じ、近くに見てしまったのだから。
シュヒが今よりも幼い頃。駅舎の傍を散歩していた彼の頭上に、どこから現われたものなのか、小さな虫型ポケモンが乗っかったことがあった。いくら騒いでもちっとも離れようとしないそれに弱り果て、シュヒは泣き喚きながら両親の元にひた走った。
「お、シュヒはポケモンに好かれる天才か?! そのバチュル、タチバナさんでも手こずってるって聞いたぞ!」
プラットホームで線路内の点検をしていた父親は、息子と、彼の頭に乗っているポケモンを見ても、にこやかに笑ってそう言うのみで、泣き叫ぶ息子からポケモンを引き離そうとはしなかった。
「あらあらシュヒってば、頭にバチュル乗せちゃって! あなたはポケモンに懐かれる子ね。お母さん羨ましいわ!」
キオスクでせっせと商品を整理していた母親もまた、息子とポケモンを見るとにこにこと頬笑んで、そう言うだけ。やはり夫と同様に、息子とポケモンを引き離しはしなかった。
(父さんも母さんもポケモンが大好きだったから、おれがポケモンがいやだって言っても、助けてくれなかった。本当は……本当はおれよりも、ポケモンの方が好きだったのかもしれない)
今まで幾度と無く推し量り、その都度そんなはずは無いと脳裏から振り払い、深くまで考えずにいたこと。
(だから……おれをおいて、死んじゃったのかもしれない)
脚の震えは全身に広がっていた。
*
シュヒは朝食を食べ終えると着のみ着のままで家を出た。
行く当ては無い。とにかく誰にも会わずに、どこか、誰もいない所へ行きたかった。
けれど家を出た時からずっと、シュヒの後ろをつけて来る者がいる。
「……おじいさん。なんでついて来るの」
シュヒはぴたりと歩を止め、振り返らずに背後の人物に訊ねた。
「散歩がてら歩こうと思ったんだが、きみについて行けば、どこか絶景に出会えるかもしれんからな」
問われた男も、その場に立ち止まる。
キミズに懇請し宣言した以上、アデクはたとえ煩わしいと咎められても、出来る限り少年の傍にいようと、独りにさせないようにと、こうして彼について来たのである。
「そうか。まだ名乗っていなかったね、シュヒくん。わしの名前はアデクだよ」
少年のつんけんとした態度を憂える風も無く、老翁は穏やかに笑いかける。
「……アデクさん。おれについて来たって何もないよ。どこに行ってもポケモンがいるんだもん……おれは行きたい所にも行けないんだ」
「ああ、それでこんな裏手を」
二人が歩いて来たのは、住宅街から外れた段々畑の中の畦道だ。最も手前にある民家よりも森林の方により近く、辺り一面には収穫の時を待つ黄金の稲穂が揺れ、足下には雑草が生い茂っていた。
町には住民と共に暮らすポケモンたちがいる。現代の人間の生活からポケモンの存在が無くなることはまず、有り得ない。少年のような、ポケモンを嫌悪する“少数派の人間”は自分たちの方から、苦痛や憤慨を要する景観から立ちのくしかないのだ。
しかし、とアデクは周囲を見渡す。
「こういう場所はかえって危ないんじゃないかね? ほら、今にもそこの木陰から野生のポケモンが……」
「やめてよ!!」
右手に繁茂した林を指差す老翁の、冗談混じりの発言を叫喚が掻き消した。
少年が振り向く。眉を吊り上げてアデクを睨みつけ、己の胸中を巣食うものを、言葉に代えて曝け出す。
「それじゃあおれは、本当にどこにも行けないじゃないか! おれはずっとこの町から、家から、出られないじゃないか!! みんなみんな、ポケモンの味方で! 誰もおれのこと、守ってくれないんだっ!!」
「シュヒくん……」
箍(たが)が外れて奔流となった激情は、尽き果てるまで枯れ果てるまで、留まりはしない。刺すような目つきを子供に突きつけられ、アデクはかける言葉を誤った、と悔いた。けれど。
「父さんも母さんもそうだよ! 本当はおれなんかより、ポケモンの方が大事だったんだ!! おれなんか、いなきゃ良かったんだ!!!」
一度(ひとたび)そんな台詞を耳にしてしまったら。
アデクの理性は、そう上手くは働いてくれなかった。