時津風 昼
風の強い日だった。
木々の色づいた葉を容赦なく洗い落とし、乾いた枯葉が石畳の上を転がる。
日は高いらしい。周囲は昼なりに明るいけれど、クノエシティは今日もふわふわと曇って気持ちが良かった。この街の気候は優しい。
僕は、片割れのレイアとセッカとサクヤと一緒に、小さなイーブイ八匹を連れて、クノエの図書館を目指している。もちろん、調べ物をするためだ。
ユディの家にはパソコンがあるけれど、あいにく僕ら四つ子はたいへん機械に弱い。インターネットなんてとても使えない。
僕らはポケモンセンターのボックスすらまともに使えず、モンスターボールの使い方を習得するのにすら難儀したくらいだ。けれどだからこそ、イーブイの双子たちを最後に、僕らはもう新たなポケモンをゲットすることはないだろう。
――手持ちのうちの誰かが、死なない限りは。
そう思ってしまってから、僕はついつい苦笑した。
悪い癖なのだ。僕はどうしても物事を悪い方へ考え、ひねくれた物の見方をしてしまう。けれど、レイアもセッカもサクヤもまっすぐで純真すぎるから、僕くらいはすべてを疑ってかからなければならないのだ。そうでなければ、そうと知れない仮面をかぶった悪意に、僕たち四つ子は殺されてしまうからだ。
ポケモンは生き物だ。いつかは死ぬ。トレーナーよりも長く生きるとは限らない。
昨日生まれたばかりのイーブイたちだって、数年後、十数年後、数十年後には死ぬだろう。その時、僕は泣くだろうか。イーブイだけじゃない、僕のフシギダネもプテラもヌメイルもゴクリンも死ぬ。レイアのヒトカゲもヘルガーもガメノデスもマグマッグも死ぬ。セッカのピカチュウもガブリアスもフラージェスもマッギョも死ぬ。サクヤのゼニガメもボスゴドラもニャオニクスもチルタリスも死ぬ。
僕ら四つ子も死ぬ。
生きている者はみんな死ぬ。
でも、死ぬまでの生き方くらい選ばせてくれてもいいだろう。いつか死ぬから、生きていると言えるのだ。それが生命の在り方であり、ゼルネアスとイベルタルの伝説を受け継ぐカロスの思想。
だから、僕らは自分で決めたように生きよう。
僕が一人でにやにやしながら哲学に耽り、レイアのあとをぼんやりとついていっていると、レイアは勝手に図書館へと導いてくれた。相変わらずまじめでいい子だ。
セッカがおっかなびっくりといった様子で、サクヤは堂々とどこか馴れた様子で、図書館へ突入していく。僕も本のにおいに少しだけ心惹かれながら、図書館に入った。
風がやむ。図書館の中は温かく、空気がよどみ、においで満ちていた。
さて、本の探し方なんて知らない。
片っ端から探すしかないだろう。
セッカはふらふらと平仮名につられて、児童書コーナーへ入っていった。
青い領巾のサクヤは、何かあてでもあるのか、新聞コーナーの方へ歩いていった。
赤いピアスのレイアは暫く逡巡した結果、受付の司書に質問をしに行った。相変わらずレイアは要領の良いことだ。
さて、僕はどうしようか。
そこで僕が決めたのは、連れてきた子イーブイたちに決めさせることだった。二匹のイーブイをそっと図書館の床の上に下ろすと、好奇心旺盛な小さなイーブイたちはとことことどこかへ歩き出した。
僕はイーブイたちをのんびりと追いつつ、書架に視線を走らせる。
カロスの歴史。地理。地史。文化。衣服図鑑。食事図鑑。グルメマップ。料理本。服の作り方。インテリア。――あまりポケモンには関係なさそうだ。
けれど、イーブイに任せることにした以上、文句は言えない。お菓子作りの本を何気なく抜き出して眺めていると、足元の瑠璃と琥珀がぷうぷうと鳴いて僕の足にくっついてきた。二匹を抱き上げると、二匹は本の中のきのみタルトに興味津々とみえた。
「……こんな高価な材料のもの、買えないし、作れないよ」
けれど僕の言葉はイーブイたちには通じない。僕は問答無用でおいしそうな内容の本をぱたりと閉じ、本棚に押し込んだ。ぷうぷうと文句を言うイーブイたちを無視し、僕は真面目に本を探し出す。
カロスの伝説。神話。おとぎ話。伝説のポケモン。幻のポケモン。珍しいポケモン。ポケモンのゲットの仕方。ボールの使い分け。ボール工場。ボールの歴史。ポケモン協会の歴史。
そのとき児童書コーナーの方から、セッカの間抜けな声が聞こえてきた。なにやら、子供のための朗読スペースで絵本か何かを音読しているらしい。思わず笑ってしまった。セッカは相変わらず無垢で純粋で素敵だ。僕はそんなセッカが大好きだ。
一冊ずつ背表紙を確認しているというのに、全然目当ての本は見つからない。
正午を過ぎ、片割れたちと一緒に図書館を一度出て、昼食をとった。けれど、誰も目当ての本を見つけられてはいなかった。レイアはポケモンの進化の本の壁にぶち当たっているし、サクヤはなぜか新聞のバックナンバーをひっくり返して止まらなくなっているし、セッカに至っては小さなお子様たちにせがまれて紙芝居を読んでいるのだという。
僕は片割れ三人を鼻で笑ってあげた。
「やる気ないだろ?」
「てめぇに言われたかねぇよ!」
「マジでそれな!」
「全員、もっとまじめに探そう」
サクヤの冷静な一言で、僕らは渋々と図書館へ戻った。
けれど数時間たっても、誰も収穫はなかった。イーブイたちは退屈しきっているし、レイアはいつの間にか漫画を読みだしているし、サクヤは新聞の山に埋もれているし、セッカは延々と紙芝居を読み上げている。
そうこうしているうちに、だいぶ午後も回ってしまった。
僕も完全に飽きてしまった。
なので、そこら辺の面白い本でも読んで時間を潰そうと思ったのだ。たぶん僕が何もしなくても、レイアかサクヤが閉館までに目当ての本を見つけてくれるだろうと期待して。真面目な作業は彼らに任せるべきだ。
僕は『カロスの伝説』という本を手に取った。
さて、図書館は本を借りる場所だと聞いている。本を借りなければと思う。
僕は基本的には社会のルールを尊重して生きているので、まじめにその本を持ったまま受付に向かった。
「これ、借りたいんですが」
「カードをお願いします」
カード、とは何のことだろうか。僕はキャッシュカードだとかクレジットカードだとかいうものは持っていない。そもそも銀行すら使ったことがない。困り果てて、身分証代わりのトレーナーカードを提示した。
すると受付の人間は、軽く困った顔をした。
「えー……っとー……カードをお作りしましょうか?」
「あ、これとは別に作るんですか」
「はい、えっと……」
受付の人はアルバイトだったらしい。他の人に聞きながら、何やらバーコードのついたカードと記入用紙を差し出した。僕はペンでそれにサインをしたりトレーナーIDを記入したりした。
そしてようやく、その本を借りることに成功した。
「ありがとうございます。これでやっと本が読めます」
にっこりと万人受けする愛想笑いを浮かべてお礼を言ったのだが、なぜか受付の人はどこか困ったような顔をした。しかしもう心底どうでもよかったので、僕は閲覧室の方へ行くべく、踵を返した。
そして、鮮烈な赤に、目が眩んだ。
真っ赤なスーツ。
真っ赤な髪。
真っ赤なサングラス。
僕はふらりと眩暈を覚えて、古代エンジュの姫君の如く眉間を押さえ、穏やかな色の緑の被衣で視界を覆った。
その真っ赤な男は、僕のすぐ後ろに立っていた。それもそれで不躾なのだが、何よりその恰好がダサすぎる。品がない。自己主張が強すぎる。目に痛い。自然に悪そうだ。毒々しい。視界に入れたくない。
しかしその真っ赤な男は、こともあろうか僕に声をかけてきた。
「……おいお前、その本を寄越せ」
「……はい?」
僕は緑の被衣で視界を覆ってその真っ赤人を視界に入れようにしつつ、手にした分厚い本を軽く振った。
「これですか? 今借りたばかりなんで、ちょっと」
「いいから。寄越せ。今すぐ返却してオレに寄越せ」
「嫌です」
僕は目元を緑で覆ったまま、その場を立ち去ろうとした。
すると真っ赤人はついてきた。
「こら! その本は、泣く子も黙るフレア団の参考書なんだぞ! 借りれないと買わなきゃなんないんだぞ!」
「知りませんがな」
「おい待て! フレア団に逆らうのか!」
真っ赤人が僕の肩を掴む。お触り貰いました、罰金いただきます。
僕は、真っ赤人の真っ赤なサングラスをむしりとった。
真っ赤人が悲鳴を上げた。
「うおおおお――いッ!!」
真っ赤なサングラスの下からは、ヒャッコクの湖面のようなコバルトブルーの美しい瞳が現れた。次いで僕は、その男の真っ赤なカツラを引きちぎる。
真っ赤人が絹を裂くような悲鳴を上げた。
「ひぎゃアアアアア――っ!!!」
そのカツラの下からふわりと現れたのは、いかにも品のよさそうなプラチナブロンドである。
金髪碧眼の貴公子が、真っ赤なスーツに身を包んでいるのである。
僕は失笑した。
「はっ……似合わねー」
「貴様ああああっ!!」
図書館の中で騒ぐ金髪碧眼真っ赤スーツの貴公子は、僕の胸ぐらをつかんできた。どうにか真っ赤の面積が減ったので、僕は彼の顔面だけはようやく直視できるようになった。
「いやあ、見たところ、いかにも血統のよさそうなカロスのお坊ちゃんじゃないですか。そのスーツ、似合いませんよ。本ぐらいお屋敷の書斎にないんですか。なくても買えばいいでしょう?」
貴公子は地団太を踏んだ。
「屋敷の書斎にあるのは貴族が教養をひけらかすための特に意味もない装飾ばかり立派な分厚い本や今では特に意味のない昔の法律書やなんかだ! それにオレは今、小遣いを500万使い果たして金欠だ!」
司書の刺々しい視線にも気づかないらしく、育ちのよさそうな真っ赤スーツの貴公子は怒鳴り散らしている。僕は着物の衿首を掴まれたまま、ほやほやと笑う。
小さなイーブイ二匹が怯えていないかが若干心配だったが、旅をしていれば面倒事に巻き込まれることは多々ある。今のうちに人間社会の面倒さを知るのも悪くない機会だろう。
真っ赤な貴公子は、手に提げていたケースを開いた。そこにはモンスターボールが収められていた。
「貴様、勝負だ。オレが勝ったらその本を渡せ!」
「嫌ですよ。僕、いま生まれたてのイーブイしか持ってませんもん」
穏やかに拒否したが、真っ赤な貴公子は聞く耳を持たなかった。むしろ、これは好都合とばかりににやりと笑った。
真っ赤な貴公子が、真っ赤なボールを投げる。ああ、目に痛い。
「行け、デルビル」
そして彼は非常識もいいところに、図書館の中で、炎タイプを持つポケモンを繰り出した。さすがに受付にいた司書が慌てて飛び出してくる。
「炎タイプは館内で出さないでください! 館内でのバトルは禁止です!」
「うるさい!」
真っ赤な貴公子は聞く耳を持たない。
僕は嘆息した。頼りになる手持ちたちは、ユディの家の庭に置いてきてしまった。今の手持ちは、昨日生まれたばかりのイーブイが二匹。レイアもセッカもサクヤも、イーブイを二匹ずつしか持っていない。
ポケモンを一匹も連れていないよりはましなのだが、困ったことに、僕らはイーブイたちの使える技を確認していなかった。鳴き声か、尻尾を振るか、体当たりくらいならできるだろうか。タマゴから生まれたポケモンはたまに親の技を引き継いでいるが、そういうことはないのだろうか。
僕らはイーブイのことは何も知らない。
けれど、今朝の乱闘を見て奮起していたのか、僕の小さなイーブイたちは果敢にデルビルの前に立ちはだかった。細い四本の足が、微かにぷるぷる震えている。ダークポケモンの唸り声一つにもいちいちびくびくしている。
そして、僕はのんびりと思った。
――ああ、かわいいなぁ。
震えているくせに、二匹で頑張って戦おうとしている。おやである僕を守ろうというのか。健気なことだ。小さきものは、うつくしい。
でも、無理だろう。デルビルに噛みつかれ、ふわふわの毛並みを焼き払われることを、この幼いイーブイたちには全くイメージできていないはずだ。
まだ、バトルは早い。
あまりに無残に傷つけられれば、イーブイたちはバトルを忌避するようになるだろう。
そうなれば、イーブイたちは戦力外だ。
タダ飯食らいの、お荷物だ。
そうなったら、僕は幼いイーブイ二匹を捨てるだろう。
僕はぼんやりと立ち尽くしていた。
低く唸るデルビル、踏ん張る小さな二匹のイーブイ。
勝利を確信してほくそ笑む、真っ赤なスーツの貴公子。
さて、どうするか。
面倒くさいなぁ。
バトルしたくないし、醜く足掻きたくないし、――というか、本を渡せばいいんじゃないか!
それを思いついて、僕はにこりと笑った。
手にしていた重い本を貴公子に差し出した。
「はい、どうぞ」
「えっ」
真っ赤人は目を剝いた。僕は思わず首を傾げる。
「え、これが欲しいんでしょう? 僕はイーブイたちを戦わせたくありません。なので、これは貴方に差し上げます」
「えっ」
真っ赤人は拍子抜けしたらしく、ぽかんと口を開いている。
戸惑って僕を振り返る小さな二匹のイーブイを優しくつまみあげ、僕はデルビルの横をすり抜け、貴公子に『カロスの伝説』の本を差し出した。
真っ赤な貴公子はまじまじと本を見つめ、僕を見やり、そして複雑そうな表情をした。僕は根気よく笑顔を作った。
「先ほどは失礼しました。お詫びします。この本はお渡しします」
「……えっと」
「なので、この場は収めてください。デルビルもボールにしまってください。図書館の本に火がついたら大変でしょう」
「……あー……」
しかし、貴公子はまだ何か僕に用事があるらしく、デルビルをしまいもせずにもじもじしていた。僕は嘆息する。
「何か用があるなら、外でお聞きしますので。とりあえず、貴方がこの本をお借りすればいいじゃないですか」
「……だ、だがな、お前、売られた喧嘩は買えと……。つまり……バトルで……」
「僕、バトル嫌いなんですよ」
「……うううるせぇ! さっき散々馬鹿にしといて、本渡しゃ済むなんて思うなよ! ふざけてんなよ、世の中そんな甘くないんだよ!」
真っ赤な貴公子は、白い顔まで真っ赤にして怒鳴り出した。せっかくサングラスとカツラをむしり取ったというのに、まったく見苦しい。
僕はいい加減、面倒くさくなっていた。
そろそろブチ切れたくなっていた。