暮れ泥む空 中
タテシバを何とか宥めて、ホテル・ヒヨクから追い出す。
それからルシェドウは、ピカチュウを肩に乗せたセッカがぴいぴいと騒ぐのにも構わず、ホテル・ヒヨクのルシェドウの部屋までセッカを引っ張っていった。
その間セッカやピカチュウが騒いでも、ルシェドウは無言だった。ホテル内では静かにとさえ注意せず、やがてセッカは自発的に黙り込んだ。
セッカの手首を掴む、ルシェドウの手の力がかなり強い。手首に固く食い込んで痛い。
部屋に辿り着くと、ルシェドウはセッカをベッドの上に座らせた。
セッカは葡萄茶の旅衣をかなぐり捨てると、やや体を小さくしつつピカチュウを膝の上に乗せ、そっと両腕で抱え込む。シングルルームに連れ込まれて、一体何をされるか分かったものではない。
ルシェドウは照明をいくつか点けると、自身は鏡台の前の椅子に横向きに座った。
そのまま二人はしばらく無言だった。
セッカはどぎまぎしつつ、考える。――ルシェドウは怒っているのだろうか?
セッカが何も考えずに勝手にタテシバに質問をし、タテシバに無礼なことを言って彼を怒らせてしまった。そのせいでルシェドウは知りたいことが分からなかったのかもしれない。それでルシェドウは怒っているのかもしれない。
だからといって、ホテルの部屋に連れ込んで黙り込むものだろうか?
ルシェドウの意図が読めない。
外では雨が降り出したらしい。闇の落ちたヒヨクの街は明るい室内からは望めないが、窓ガラスを雨滴が打つ。
セッカの心臓はずっとドキドキしていたが、長い沈黙にようやく飽きてきた。気まずく辺りを見回しつつ、ルシェドウを見つめている。
ルシェドウは真面目な顔をして、固まっていた。
セッカのピカチュウが手を振ってみている。しかし無反応である。ルシェドウは機嫌が悪くなると黙り込んで動かなくなるタイプなのかもしれない、とセッカは思った。四つ子も十歳になる前はよくそうなっていたからよく分かる。
そしてようやく、ルシェドウが口を開いた。
「……お前さ、馬鹿なの?」
「知ってるぜー」
セッカは軽い調子で応じた。馬鹿の定義は曖昧だが、長年片割れたちや幼馴染や養親から馬鹿だ馬鹿だと言われてきたのだから、セッカは馬鹿なはずである。
ルシェドウは不機嫌にセッカを睨む。
「ほんと、邪魔なんだけど。なんでロフェッカの言う通りおとなしくしてないの。なんで俺の邪魔をするの? なんで?」
セッカは黙って、鉄紺色の髪のポケモン協会職員を見上げていた。
やや激しい口調で詰られる。
「今日の話で分かったでしょ? 榴火はかわいそうなんだ。お前ら四つ子なんかよりずっと。だから俺は榴火を助けてあげなくちゃなんないんだ。分かるだろ? だったら、俺の邪魔をしないでよ」
「俺らはあんたの邪魔をしたいわけじゃない」
セッカも真面目な顔をしてルシェドウに応えてやった。
「確かに俺ら四つ子が歩きまわってると、あんたにとっては邪魔だろう。でも、俺ら四つ子を閉じ込めておくことによって最も大きな利益を得るのは、あんたや榴火じゃない。――ポケモン協会や、与党政府や、フレア団だ」
ルシェドウは顔を歪めたまま、内心では度肝を抜かれたように、黙り込む。
セッカをただの馬鹿だと侮るからこうなるのだ。セッカは打算的に冷淡な声を出した。
「俺たちはこれ以上自由を奪われたくはない。だから、自衛する。榴火から、フレア団から、ポケモン協会から、与党政府から、自力で身を守る。そのために情報を集める。それが俺のしたいことだ」
「…………何それ。…………何だよそれ」
「俺のやってることはおかしい? どうして? あんたに俺を止める権利があるの?」
「あるさ。俺は協会の人間なんだから」
ルシェドウは目を見開いてセッカを見据えた。そして吐き捨てる。
「公務執行妨害で訴えてやる。トレーナー資格を剥奪し、カロスだろうがジョウトだろうが、どこでだってトレーナーとして生きられないようになるぞ」
「なら俺は、あんたに無理矢理ホテルに連れ込まれたって騒ぐ。ルシェドウは公務をサボって、若いいたいけなトレーナーをこんな風に脅して悪戯しましたって、泣きながら訴える」
セッカは無表情で言い放った。自分よりもルシェドウの方が動揺し、感情的になっているのが手に取るように分かる。
ルシェドウが顔を歪めて笑う。
「裁判になりさえすればこっちのもんだ。ポケモン協会側が勝つに決まっている。そうしたらどのみち、お前ら四つ子は終わりなんだ。だからここで大人しく言うことを聞け」
「ふうん。それがあんたの本性なんだ?」
セッカは話をすり替えた。冷静にルシェドウを責める。
「レイアの友達だ、俺たち四つ子のことが好きだと言っておいて、都合が悪くなれば邪魔だと切り捨てる。それがあんたなんだ。あんたは俺たちを裏切った」
「違う!」
その唾さえ飛ばしそうな勢いに、セッカは眉を上げてみせる。
「俺はお前ら四つ子も、榴火も守ろうとして、これしか手がないから! お前らのためだよ! ――分かるだろ! なぜ分からない!!」
「叫んで、脅して。あんたはそうやって子供っぽく駄々をこねて、我儘を通す」
「我儘とかじゃねぇよ! 仕事なんだよ! なあ俺だって辛いんだよ。こんなのもう終わりにしたいよ。だから、せめてお前らだけは、俺のこと考えてくれたっていいじゃないか……!」
「それは俺らの自由を奪う理由にはならないし、そんな意識で動いているルシェドウには榴火を助けることなんてできないとも思う」
ルシェドウは取り乱し、肩で息をし、目元すら赤くして、食い殺さんばかりの勢いでセッカを睨んできていた。
セッカはこの人物がここまで感情を吐露するのを初めて目の当たりにして、やや感動した。それほどまでの深い人間関係にあったことをルシェドウが突きつけてくれたからだ。
ただのレイアの友人だと思っていた。興味本位で四つ子に構っているのだと思っていた。
しかしどうやらこの協会職員は、本気でセッカたち四つ子に愛着を抱いてくれているらしい。そのことには敬意を表する。
ルシェドウが話していることに嘘はないだろう。
そう判断した。
セッカは微笑んで立ち上がり、片手でピカチュウを抱きかかえ、もう一方の手で優しくルシェドウの肩に触れた。
「…………じゃ、俺から提案。すべて任せてくれ」
「何言ってんの、お前…………」
「ルシェドウは榴火を追う仕事をしつつ、榴火のことは俺らに任せてくれればいいんだよ。俺らが榴火を何とかするよ」
先ほどまでの冷淡な声とは打って変わって、セッカは次は甘く優しい声で囁きかける。
「あんただって、榴火を追うのは怖いだろ。あんた自身も榴火に殺されかけたんだもんな。榴火のことは、任せてくれていいんだ。……忘れてしまえばいい」
「……えっと、セッカ……何言ってんのお前…………」
ルシェドウはぽかんとしていた。
その肩をセッカは抱きしめた。慈愛と憐憫と打算を込めて。
「榴火はかわいそう。ルシェドウもかわいそう。いい子だね。……だから俺がお前らを、助けてあげる」
抱きしめるようにして、職員を椅子から立ち上がらせた。ベッドの方へと押しやる。
ピカチュウがぴょこんとセッカの肩から飛び降りる。セッカが笑顔で見やると、ピカチュウはへっと笑っててちてちと歩いていき、そのあたりに転がっていた自分のモンスターボールに自発的に入った。
翌朝には雨は上がった。
港の波はやや高かったが、濡れた地面は陽光に煌めいて眩しい。
ピカチュウを肩に乗せたセッカは、ヒヨクシティのシーサイドステーションからモノレールに乗った。
生まれての初めてのモノレールである。座席に後ろ向きになり窓に張り付いて、流れる景色をまじまじと見つめる。
「ピカさん、すごいなー。速いなー」
「ぴかぁー、ぴかぴーか」
「れーややきょっきょやしゃくやは、モノレールに乗ったことあんのかなー」
「ぴかちゃ?」
「うんうん、俺も色々な経験をしておりますねぇ」
「ぴーか、ぴかちゅ」
「にしてもやっぱルシェドウって女だったんだな。ま、どっちでもいいけど」
「ぴぃかー?」
セッカは座席にまっすぐ座ると、ピカチュウを膝の上に乗せて全身をもふもふした。ときどき静電気がばちりと走るが、セッカにはその感触がたまらなく心地よい。
「ピカさんは好きな子とかいねーの?」
「ぴかぁ? ぴかぴか?」
「あーそっか、みんな軟弱者だもんな。ピカさんに釣り合うようなレディはなかなかいないかー」
「ぴーか」
「……ピカさんたちの幸せって、やっぱ結婚して子供を持つことなんかな。そりゃそうか、何のためにバトルで強くなってるのかって、そりゃ子孫を残すためだもんな」
「ぴかちゅ?」
ピカチュウは首を傾げている。セッカは愛撫の手を止めてピカチュウを抱き上げ、毛並みに顔を埋めて目を閉じる。
「結婚かぁー……将来かぁー……めんどくさいなぁー……っつーかそんなこと考えてる場合かってーの」
「ぴーか、ぴかちゅ、ぴかぴかぴ!」
「いや、俺は好きな人とかいませんよ。遊び相手なら老若男女腐るほどいるけど……」
「びがぁー」
「だから、ピカさんも遊びたきゃ遊んでいいのよ。アギトも、ユアマジェスティちゃんも、デストラップちゃんも。瑪瑙と翡翠にはまだ早いかもな。でも、本当に好きな相手を見つけたら……好きなように生きていいから……」
自分で言っておきながら、セッカは切なくなった。
手持ちのポケモンたちにも、それぞれの意志や生き方があるのだ。トレーナーであるセッカにも手持ちのポケモンの自由を奪うことはできない――とセッカは思っている。自分が自由に生きたいと願うなら、なおさら。
セッカが顔を上げると、正面の席の愛想のいい老年の男性が、目を細めてセッカを見つめていることに気付いた。セッカはぎくりとした。
「……な、ななな何すか」
「いやぁ、すまんね。つい話が聞こえてしまったものだから。ポケモン自身の生き方を尊重する姿勢、実に素晴らしいよ」
それは緑のハンチング帽をかぶり、腰から提げたケースに大ぶりな鋏を収めた、いかにも優しそうな風貌の小柄な老人である。モノレールの中で大きな鋏を所持していることにセッカはぎょっとしつつも、へこへこして愛想笑いを浮かべた。
「い……いやー……どもー……爺さん、誰……」
「ああ、自己紹介が遅れたね。私はヒヨクシティジムリーダーのフクジという。君はもしかして、四つ子さんの最後のお一人かね」
セッカは表情を輝かせた。セッカが四つ子の片割れであることを知っているなら、この人物は間違いなくジムリーダーである。
「そうっす! セッカっていいます! わーいすごい、よく分かりましたね!」
「お着物がお揃いだからね、顔かたちも本当によく似ている。……セッカ君か、よろしく。ピカチュウもよろしくな」
「ぴぃか、ぴかちゅ」
「うんうん、よく育てられてるじゃないか。ジム戦に来たのかね?」
セッカはモノレールの通路を挟んで反対側でふるふると首を振った。
「違うっす。ミアレに行こうとしてて」
「急ぎじゃなかったら、よかったらジムに寄っていかないかね? ジョウト地方のエンジュまで出かけて直に仕入れた茶葉がある。ご馳走しよう」
「エンジュのお茶!?」
セッカは途端にご機嫌になった。エンジュの茶ということは、緑茶だ。緑茶などウズの家でしか飲めない。セッカは紅茶も好きだが、やはり緑茶も大好きだった。ついでにジムリーダーと親しくなっておこうとの打算も胸の隅で働くが、道化のセッカはもちろん純粋無垢なお茶好きのお馬鹿になっている。
モノレールがヒルトップステーションに滑り込む。
そうしてピカチュウを肩に乗せたセッカは、柔和な笑顔が素敵なフクジと連れ立って、丘の上のヒヨクジムへと向かった。