春も近いというのに、夜は寒い。僕はコートの襟元をかき合わせながら路地裏を歩く。
店まであと数メートル。焦げたたれの匂いが鼻をくすぐる。お腹が空いた。
待ち合わせの焼鳥屋の前に着いた時、ちょうどあいつも道の向かいから現れたところだった。
「おう」
「やあ」
久方ぶりに会った幼馴染の親友と短い挨拶だけかわして、僕たちは寒い寒いとすぐに店へ入った。
この店は2階が個室になっていて、そこはタッチパネルで注文ができる。注文の間違いが減るし、人件費も削減できる。とても効率のいい便利なシステムだと思う。
親友はいちばん隅の部屋を迷いなくとると、さっさとタッチパネルを手に取って操作し始めた。
「俺はとりあえず生。お前は?」
「ファジーネーブル」
はいよ、と親友はタッチパネルを叩く。僕はメニューをテーブルに置いて、じっとそれを眺めている。
それにしても腹減ったなぁ、と親友はメニューをちらっとのぞきこむ。
「俺は純鶏とねぎまとつくね。お前は?」
「キモ。ズリ。ハツ。10本ずつ」
「内臓ばっかだなオイ」
「白ご飯」
「はいよ」
「あと軟骨の唐揚げ」
「それは必須だな」
サイドは適当に注文しておいていいか? と聞いてきたので、適当にうなずいておいた。
本当にいい奴だ、と思う。
わざわざ人を呼ばなくて済むこの店を選んだのも、僕がこの年にして重度の人見知りだから。
普通にカクテルを頼んでも何も言わない。男のくせに、とかビールにしろよ、とかぎゃいぎゃい言わない。
ツッコミはしても、無理やりメニューを変えさせたりしない。
お酒の席で先にご飯を頼んでも何も言わない。
子供の頃、物静かな僕を見て、周りの大人たちは僕のことを大人びた子、大人っぽい子、と言ったけど、それは違う。
静かだけどもわがままな僕より、小さな頃からやんちゃ坊主ではあったけど、黙って僕の意見を聞き入れてくれるこいつの方がよっぽど大人だ。
しばらくすると、生ビールとファジーネーブルと、お通しのほうれん草のおひたしが先に運ばれてきた。
とりあえず乾杯、と2人でグラスを打ち合わせる。2人とも一気に飲み干したりはしない。お互いそんなに強くないことを知っているからだ。酔いが回りすぎて会話も出来なくなるのはよろしくない。
少し酒を飲むと、2人とも空腹なので、すぐにほうれん草のおひたしに箸が伸びた。
おひたしがなくなってしばらくしたころ、最初に到着したのはご飯だった。続いてサイドメニューの一部が運ばれてくる。
だし巻き卵に大根おろしを乗せてしょうゆをかけていると、親友が話しかけてきた。
「俺たちが旅に出てから、もう10年も経つんだなぁ」
「そうだね」
だし巻き卵を食べる。ふわふわでうまい。しかし店員も、何も5つに切らなくてもいいのに。争いの火種になりかねない。
しかし戦争が起こる前に、最後のだし巻き卵を食べるか、シーザーサラダの上のポーチドエッグへの入刀許可を得るか、を選択する無言の条約が行われ、僕はポーチドエッグの黄身部分の3分の2を獲得することに成功した。
10年。考えてみれば長い年月だ。
僕が生きてきた半分程度の長さを占める。それは向かいの幼馴染にも同じことだ。
まあそれだけ経てば、あの頃の悪ガキどもがこうやって酒を酌み交わすくらいの年齢にはなるわけで。
10年。長い。
ようやく串焼きが運ばれてきた。僕は内臓だらけの皿を3つ受け取る。別に身が嫌いなわけじゃないけど、好きだから仕方がない。
キモにかぶりつく。程よい火加減で全くぱさついておらず、とろりとした食感だ。
「あ、ここのキモうまい」
「マジで? 1本くれ」
「つくね」
親友が自分の皿からつくねの串を1本渡してきたから、僕もキモの串を1本渡す。これが等価交換だ。つくねの方がちょっと単価高いけど気にしない。
本当だ、うまい、と親友も絶賛している。軟骨の入ったつくねもコリコリとした食感でうまい。そういえば軟骨の唐揚げまだかな。
何か酒頼むか、と言ってきたので、ソルティドッグを所望した。
「そういえばさ」
ハツの串に移ってモグモグしていると、親友が少し静かな声で言ってきた。
「覚えてるか? 俺らが小さいころにさ、町の女の子が草むらに入って大けがして……」
ぱぱぱっと、頭の中で即座にいくつかの光景が呼び出された。
僕は口の中の焼き鳥をよく咀嚼してから飲み込んだ。
「……ああ」
忘れるわけがない。草むらの中に入ろうとすると、あの日見たことが今でも頭の中にちらつく。
俺たちと同じくらいの年頃の女の子。髪の長い子だった。
その子は言いつけを破って、ひとりで草むらの中に入っていったらしい。
きっと運悪く、野生のポケモンの巣の中に入ってしまったのだろう。トレーナーにしてみれば大したことないポケモンたちでも、それがたとえ小さな身体でも、ポケモンもつれていない、力のない子供にとっては十分すぎるほどの脅威だ。
ポケモンは「モンスター」。他の生物と一緒にしてはならない。
町唯一の出入り口周辺では、町の人たちがみんな集まって大騒ぎになっていた。僕もそこへ行った。
大人たちに囲まれていたせいではっきりとは見えなかったけれども、人波のすき間から少しだけ見えた。
布のかけられた担架からだらりとぶら下がった、白くて細い腕。
串にはまだ4つ焼き鳥が残っている。
僕はそれを皿に置き、枝豆に手を伸ばした。
「正直、外に出る気が失せたな、あれは」
「でも何だかんだ言って外に行きたがってただろ君は」
「まあそうなんだけどさ。でもわかったね、みんなが外は危ないって言うのが」
外、というのは町の外のことだ。
ポケモンが自分たちの生活空間を闊歩するのは恐ろしいので、人の住む町は大体が塀で囲まれている。僕たちの生まれ故郷もそうだ。
塀の中は人の世界。塀の外はポケモンの世界。この世は割ときっちり区分されている。
枝豆をさやから出し、薄皮をむく。食べ始めると止まらないのが枝豆の困ったところだ。
「ポケモンの世界と、人間の世界。両方を渡り歩くために必要なのが、トレーナー」
「そういうことだな」
「何かかっこよくない?」
「かっこいいよな」
待ちに待った軟骨の唐揚げが来た。了承も聞かずにレモンを絞りかけたが、特に何も言われなかった。
取り皿にわけるということもせず、唐揚げの乗ったかごの上から2人とも直接箸で取って食べる。
気を抜くとすぐに相手に取られてなくなるので、2人とも無言でひたすら食べる。うまい。ご飯も進む。
最後の1つは親友が素早く取り去って口に運んだ。僕の恨めしそうな視線を浴びながら親友は言ってきた。
「なあ、後でバトルしようぜ」
「白ご飯もう1杯頼んで」
「あ、こら、話そらすな」
「『携帯獣取り扱いに関する法律』第3章第1節第47条」
「……『酒気を帯びている状態で、ポケモンを用いたバトル・移動をしてはならない』」
「5年以下の懲役または100万円以下の罰金。最近取締り厳しいよ?」
「わかったわかった。今日は諦めてやるよ」
そう言って、親友は2杯目のジョッキを空にして、タッチパネルを叩いた。
親友は、今はこの地方で知らない人はまずいないほどの有名なトレーナーだ。いろんな大会で優勝しているし、テレビや雑誌にも時々出ている。毎日毎日朝から晩まで挑戦者が絶えないとか。
一方、僕はそんなに積極的にバトルをする方ではない。大会とかもそんなに興味ないし、挑まれたらまあ戦うというくらいだ。
ちなみに、僕は別に弱いわけじゃない。というか、目の前のこの男にも一度も負けたことがない。ただ、そこまでバトルが好きじゃないっていうだけだ。
親友と会うのは数カ月か半年に1回位だけど、その度にこいつは勝負を挑んでくる。僕がそれに対応するのは5回に1回くらいだ。
そういえばしばらくバトルしてないなあ、と思いながら、僕はまた枝豆を食べる作業に戻った。
「なあ」
枝豆が殻だけになった頃、親友が話しかけてきた。
これもなぜか5つセットだった手羽先の最後のひとつにあいつが手を伸ばしたので、僕もすぐに手を伸ばした。必然的に手羽先の両端を引っ張り合うことになる。
「お前、いつ家に帰るんだ?」
手羽先が、関節でぶつっと2つに千切れた。
あれからもう10年、僕は故郷の土を踏んでいない。
塀の中に住んでいたころ、僕はずっと外に出たがっていた。
それでも、なかなか決心がつかなかった。
子供のころに町を出て行った人たちは、誰も帰ってこなかった。
そしてそれを思うたびに、僕の頭には、力なく垂れ下がった白い腕の映像がちらちらとちらついた。
外に出たら、戻れなくなる。
2度とこの町には、帰ってこられなくなる。
冗談でも何でもなく、僕は本気でそう思っていた。
もちろん大人になった今は、必ずしもそういうわけではないことはわかっている。
だけど。
「だめだよ。だめなんだ。僕はまだ帰れない」
人の世界の中で、僕にとって一番居心地のいい、僕が一番安らぐ、僕のいるべき場所。
それはきっと、僕の生まれたあの町、あの塀の中なのだろう。
だからこそ、僕は戻れなかった。
だって、あの場所に帰ったら。
「……もう二度と、外には出られないような気がするから」
親友が追加注文したオクラの串焼きとささみの梅シソ巻きと生ビール、僕が追加注文したぼんじりとかわとセセリ(各10本)と白ご飯がやってきた。
親友は勝手に僕の分の皿からぼんじりを1本持って行って(代わりに僕はオクラを皿ごと持って行ってやった)ビールと一緒に食べつつ言った。
「で、お前がその『帰ってこない人』になってどうすんだよ」
「……」
僕は幸せ者だ。数か月に1回といえども、こうやって親友と話をして、親友が僕の様子を母さんに報告してくれる。おかげで「消息不明」という扱いにはならずにすんでいる。小さい頃僕が、戻ってこない、と思っていた人たちと違って。
母さんはどんな様子だった、と僕が聞くと、親友はいつもこう答える。
『男の子は元気が一番、好きなようにやりなさい』って言っていた、って。
でもせめてよぉ、と僕が奪った皿からオクラを1本奪い取って、親友は言った。
「今の旅で何をしてるかくらい、お前の母さんに言っておくと喜ぶと思うぜ?」
俺もまだ聞いてないし、と親友はジョッキをぐい、と煽った。
そうだったなぁ、と思って、僕はカバンから古ぼけたノートのような物を取り出した。
「これ、覚えてる?」
「……当たり前だろ。懐かしいなぁ」
10年前、僕たちが旅に出た時、町の博士に頼まれたことがあった。
旅の途中で出会った、色々なポケモンの情報を集めて、1冊の『図鑑』を作ってくれ、と。
色々な場所を歩き回って、その時はどのページも真っ白だった図鑑に、色々なことを書きこんでいく。
姿、形、大きさ、観察してわかった習性や、旅をしている間に人から聞いた情報や噂話。
様々な情報を詰め込んでできたその『図鑑』は、子供だった僕たちがつくったにしては十分すぎるほどのものだった。
「昔さ、旅をしてる時に、ユンゲラーの話を聞いて、その情報を書きこんだんだ」
「『ある朝のこと。超能力少年がベッドから目覚めると、ユンゲラーに変身していた』っていう、あれか」
「そう。そんな話を聞いたから書いたんだけど、実はとある小説のネタだった、ってオチ」
うわ―懐かしいなー、と親友は息を吐いた。
「それ聞いた時は正直がっかりしたけどさ。でも思ったんだ。僕たちが書いてきたことで、他にもこんなことがあるんじゃないかなって」
「あるだろうなぁ。何せちょっとした噂話までこまごま書いてたからなぁ」
「今は、それをひとつずつ確認して回ってるんだ。この10年でポケモンの研究も進んで、今まで知らなかったことも増えてるから、それも付け足していってる」
食べ終わった後の竹串を刺す筒を見ると、もう刺す場所がなかった。全く、もっと大きいの用意しとけって。
ぼそっとそう呟くと、親友が「おかしいのはお前だ」と言ってきた。失礼な。
一応聞くけど〆に何か食うか、と聞かれたから、ここからここまで、とメニューのデザートの欄を上から下まで指でなぞった。
「まだまだ、調べることはいっぱいあるんだ。でも、目標があるから」
「目標?」
「うん。いつか、全部の情報を集めたら、生まれ故郷のあの町に、あの塀の中に戻って」
古ぼけた『図鑑』の表紙をなでる。
もう10年も持ち歩いてめくり続けているから、表紙もページもすりきれてぼろぼろだ。
「誰もが楽しんで読める、本当の『ポケモン図鑑』を作りたいんだ」
この『図鑑』は、僕が旅に出てから、ずっと記してきた記録。
塀の外へ出てからの、僕の足跡。
空になった皿が片づけられて、机の上にデザートが並ぶ。
各種アイスクリーム、シャーベット、白玉あんみつ、かぼちゃプリン、フルーツポンチ。さて、どれから手をつけようか。
「俺が小さい頃に読んだ漫画の中で、誰かが言ってたんだけどさ」
鮭茶漬けをすすりながら、親友が言ってきた。
いい匂いがする。やっぱりもう1杯ご飯食べればよかったかなぁ、と僕は考えた。
「旅っていうのは、帰る場所があるから旅なんだと」
空になった丼を置いて、親友が僕の頭をわしゃわしゃと撫でてきた。
「安心したぜ。お前がしっかり夢を持っててさ」
「ひゃべにふいからにゃでうにゃっへ、あいふほへう」
「よしよし、しっかり頑張れ。好きなだけ旅すりゃいいさ」
俺が言えることじゃないけど、と言いながら、親友は柚子シャーベットを勝手に持って行った。
「帰る場所があるんだから、満足したらいつでも帰ってくりゃいいさ」
とりあえず、柚子シャーベットはくれてやることにした。
店を出ると、来た時よりもずっと冷たい風が吹いてきた。寒っ、と、ボクと親友は同時につぶやき、コートの襟元をかき合せた。
酒を飲んで体も温まっていたというのに、ポケモンセンターへ行くまでに冷え切ってしまいそうだ。ああ寒い。
寒い寒い、と言いながら歩いていると、遠くの方に赤い提灯が見えた。
僕と親友は顔を見合わせた。
「……ラーメンでも食ってくか」
「賛成」
とりあえず、ラーメンを食べながら親友に提案してみるとしようか。
明日、久々にバトルでもしよう、って。
(執筆:2011/03/04)