夕海 上
とある昼下がり。
肩にピカチュウを乗せた袴ブーツのポケモントレーナー、セッカは、ショウヨウシティをそぞろ歩いていた。南東のコウジンタウンから8番道路のミュライユ海岸を辿って、何となく辿り着いた街だ。
ショウヨウシティにはショウヨウジムもあり、セッカはこのジムのバッジを所持していなかったが、あいにくセッカはバッジを集める気がない。セッカがふらふらとポケモンセンターを探していると、不意に肩の上のピカチュウが鋭い声を発した。
「ぴかっ!」
「ほぎゃあっ!」
セッカは、左から来た自転車に吹っ飛ばされた。
ピカチュウは宙で体勢を整えて地面に着地し、相棒を振り返る。
ピカチュウの相棒は、うつ伏せに潰れていた。
「……ぴかちゃあ!」
「うう……ぐううう……大丈夫だぜピカさん……」
セッカはよろよろと起き上がり、道に座り込んだまま葡萄茶の旅衣から砂をはたき落とした。頬に擦り傷ができたらしく、じくじくと痛む。顔面も砂だらけだ。
惨めさにセッカは涙ぐむ。
「ぴかぁ……」
セッカの膝に飛び乗ってきたピカチュウの頭を撫でつつ、セッカは走り去っていった自転車を眺めた。一つに束ねた茶髪が夢のように風に靡いているのが目に焼き付いた。
「……ピカさん……見たか?」
「びがっ!」
血の気の多いピカチュウはぴくぴくと耳を動かす。セッカは自転車の走り去った方角を見つめ、低く囁いた。
「……許さねぇ」
「べがちゅっ!」
ショウヨウシティの外周には自転車コースが張り巡らされている。そこをスポーツ自転車が、風のように矢のように砲丸のように駆け巡る。町の外から訪れた旅のポケモントレーナーにとってはたまったものではない。
「……せめて信号とかつけろよ。それがだめなら踏切つけろよ。腹立つわ……ったく」
ピカチュウを肩に乗せたセッカは、道路脇の茂みに潜みつつぶつくさと文句を言う。それにいちいちピカチュウも同意してうんうんと頷いてくれる。
その間もセッカは自転車コースの彼方を注視し続けていた。
「るるるっ」
上空に浮いていたガーデンポケモン、橙色の花のフラージェスが、セッカに標的の現れたことを告げる。
「ありがとう、ユアマジェスティちゃん」
標的が着実に罠に足を踏み入れつつあることに、セッカはにやつかずにいられなかった。
「くっくっく……許さねぇ」
しょりしょりしょり、と軽やかに車輪の回る音が聞こえる。セッカは自転車が嫌いである。ついさっき嫌いになった。
自転車が近づいてくる。
茶髪の少女がショウヨウシティを一周して戻ってくる。そこでセッカは吹き出した。
「奴めミニスカで自転車乗ってやがる……! けしからんッ」
自転車コース脇の茂みから、セッカとピカチュウは憎悪を込めた眼差しで少女を睨んだ。
「成敗してくれる! 行けっ今だデストラップちゃん!」
茶髪のミニスカートがセッカとピカチュウとフラージェスの正面を通過する。
少女は瞬時には気づかなかったに違いない。彼女の自転車が踏んでいたのが地面ではなかったことに。
何せそのポケモンは平たい。ぴり、と電流が走った。
「えっ?」
少女は、二つの茫洋とした眼が、地表から自分を見上げているのを見た。
マッギョはにんまり笑った。
「――きゃあああああああっ!」
トラップポケモンの10万ボルトが炸裂した。
セッカは大の得意で茂みの中から道路に飛び出した。
「はっはー! どーだ参ったかデブ女ぁ!」
「きゃああああっ! きゃあああああ――っ!」
そのぽっちゃり体型の茶髪のミニスカートは、奇声を発しながら、セッカの黒い前髪をわしづかみにした。
「ぴぎぃ!?」
「きゃああっ! きゃあああああっ! きゃあああああ――!」
そのまま少女はセッカの前髪を引きずってショウヨウシティにずんずん入っていった。セッカは痛みにぼろぼろ泣いた。
「いひゃい! いちゃい! いやっ離してぇっ」
「きゃああああああ――っ!!」
そして茶髪のミニスカートは、人通りの多い通りまでセッカを引っ張ってくると、群衆の注目を集める中で思いっきりセッカの頬をひっぱたいた。
「痴漢!!!」
「ひどい!」
少女はぼろぼろ泣いていた。セッカもぐしゃぐしゃに泣いていた。
「何よ何なのよもう何よ!」
「こっちの台詞よ!」
「うるさいわよこの痴漢! 警察に突き出してやる!」
「そっちこそうるさいわねっ! そっちが悪いのよっ!」
セッカはなぜかオネエ言葉になりながら、少女の非を強く主張した。
「あんたっ、俺のこと自転車で轢いたじゃないのよ! 轢死するとこだったわよ!」
「あんたこそ、あたしのパンツ覗いたじゃない!」
「覗いてない!」
「覗いてたっ! あんたのマッギョがガン見してた! にんまり笑ったじゃない!」
セッカは怒りにぶるぶる震えた。このミニスカートの無知蒙昧さに非常に腹が立った。マッギョが笑うのは、敵がマッギョを踏みつけにしたがために反射的に電流を流すときなのだ。マッギョの頬のあたりの筋肉が電気で引き攣るから、マッギョは笑顔になるのだ。マッギョの笑顔は獲物を捕らえた冷酷なる歓喜であり、死の宣告なのだ。
「あんたは俺のマッギョを分かってない! そもそも俺のデストラップちゃんは、れっきとしたレディーだ!」
「雄だろうが雌だろうが下着覗いたらセクハラよ! あんたのポケモンがセクハラしたらあんたがセクハラしたってことじゃない!」
セッカの怒りのボルテージがマックスに達しようとしていた。まったく許せない、俺の大事なデストラップちゃんに冤罪を擦り付けようなどと。
「俺は悪くないもん! ばーかばーか!」
「訴えてやる! あんたのトレーナー人生お終いね!」
「ばーか! ブースブース! 大体ミニスカで自転車こいでる方が悪いんだ!」
「……人の勝手でしょ!」
「ふっとい足見せやがって目に毒なんだよ! 誰があんたの下着見て喜ぶかい! 汚いもんさらすな! ブス!」
セッカは思いつく限りの罵詈雑言を吐き散らした。
すると少女は黙り込んだ。
セッカはふんと鼻を鳴らした。
「ふーんだ。ばーか。自転車で人のこと轢きやがって、ひどいよなー、なあピカさーん」
「……いや、お前さんも大概だぞ……」
壮年の呆れ果てたような男の声に、セッカはむっとして顔を上げる。
そして金茶髪の大男を目にし、彼は瞳孔を弛緩させた。
「うわっ、おっさんだ」
「おっさんじゃねぇ、ロフェッカだ」
セッカはその大男を見知っている。かつてセッカが傷害事件を起こして自宅謹慎処分になった際に、彼を尋ねてやってきたポケモン協会の人間だ。セッカの片割れの一人の友達であるという話も聞いた。
そのロフェッカが、ショウヨウシティの群集の中から一人だけ前に出て、セッカと少女の傍に立っている。
髭面のロフェッカはどこか苦々しい顔をしつつ、セッカの頭を軽く小突いた。
「女の子にブスはねぇだろ、クソガキが」
「いだいっ」
ロフェッカは太い指でセッカのぷにぷにした頬を思いっきりつねりあげると、少女を振り返った。そしてポケモン協会の所属を表す腕章を示し、少女に慎重に声をかけた。
「すまんな、ポケモン協会のもんだ。こっちはまあちょっと顔見知りの悪ガキでな、……良かったら、ポケモンセンターででも、詳しい話を聞かせてほしいんだが」
少女は顔を泣きはらしていたが、渋々頷いた。
そして三名はショウヨウシティのポケモンセンターにやってきた。
受付のジョーイさんに一言断りを入れた上でロビーに陣取り、ロフェッカは二人の若者を向き合わせた。袴ブーツも、ミニスカートも、改めてみると双方共になかなか凄まじいボロボロ具合である。
時間をかけて、しょっちゅう感情を高ぶらせる若者二人を宥めつつ、二人の話をすり合わせる。
ミニスカートの少女の名はセーラといった。ことのあらましはこうだ。
まず、セーラが自転車でセッカをはね飛ばし、そのまま逃走した。セッカは復讐を企み、セーラの通り道にマッギョを配置した。マッギョはセーラに10万ボルトを浴びせ、復讐は完遂されたかに見えた。
しかし、セーラはマッギョにセクハラをされたと思い、マッギョのおやであるセッカを公衆の面前で痴漢だと非難した上、平手打ちを食らわせた。それに対しセッカは罵詈雑言を浴びせかけた。
「……どっちもどっちだな……」
ロフェッカは苦笑して唸った。
セッカとセーラは不機嫌も絶頂に、互いにそっぽを向いたままである。
「お互いにごめんなさいして、仲直りってことにしようや?」
「やだもん」
「絶対、嫌」
ロフェッカの提案は双方から断固として拒否された。
双方共に身体的にも精神的にも傷を負っているのだ、相手を許すことはたとえ大の大人であっても困難だろう。
それはロフェッカにも理解できる。
しかし、ポケモン協会員であるロフェッカとしては、ポケモントレーナーのいざこざは早めに解決して、複雑な訴訟事件などに発展しないようにしておくに限る。だからセッカやセーラの保護者にも連絡をせず、ポケモンセンターという公共中立の場で、本人たちの間だけで調停を試みているのだ。そもそも、十歳で一応は成年とみなされているという事情もある。
だが、そのような大人の事情を、セッカやセーラが理解できているとは思えない。
さてどうしたものかとロフェッカは困り果てた。偶然仕事でショウヨウシティのポケモンセンターの設置機器の点検をしに来たと思ったら、これだ。ポケモン協会員は面倒事に首を突っ込むことが義務付けられている。因果な商売である。
結局、セーラは用事があると言って、怒り狂いながらポケモンセンターから出ていってしまった。
残されたセッカも未だに腹を立てっぱなしである。ロフェッカはやはり苦笑しつつ、セッカにサイコソーダを奢ってやった。
「ほい、セッカ。ピカチュウにも。おっと、あの女の子には内緒な?」
「うわー、えこひいきだ。……サンキューおっさん」
不機嫌な口調ながら、セッカは微かに笑っている。黙々と甘い炭酸をピカチュウと並んで味わっている姿はどこか微笑ましかった。
ロフェッカも、セッカの向かい側のソファにどかりと腰を下ろした。
「……セッカお前、ほんとレイアにそっくりだよなぁ。怒って眉間に皺寄せてるときとか、ほんとそっくりでビビるわ」
「なに、そんなこと考えてたわけ? 当たり前じゃん。こっちが何年、一卵性四つ子やってると思ってんの」
「そう言う問題かぁ?」
「……レイアなら、女の子に酷いこと言わないだろうな」
セッカは視線を伏せて、赤いピアスの片割れを思い浮かべているらしい。しかしすぐに、あいつはモテたがりだからな、と一人でぷくくと笑っている。
「キョウキならね、老若男女構わず、ものすごい毒舌だよ。すさまじい皮肉を連発すんの。……サクヤは下品なことは言わないけど、ものすごい眼で睨んで、すぐ殴りかかるな。あいつ意外と武闘派だから」
セッカは続けて緑の被衣の片割れと、青い領巾の片割れのことも思い出している。機嫌がよくなったのか、体をぴょこぴょこと左右に揺らし始めた。
「あーあ、れーやときょっきょとしゃくやに会いたいなぁ。なあピカさん、ピカさんだってサラマンドラやふしやまやアクエリアスに会いたいよな? ずっとプラターヌ博士の研究所で一緒だったんだもんなー」
「ぴかー」
「えへへ、三人は自転車に轢かれて痴漢って決めつけられてビンタされたことあんのかな。ねぇだろ! ねぇよ! そんなことされたトレーナーは世の中に俺だけだろ!」
「ぺがっちゅ!」
「だよなぁ、そうだよなぁ、酷いよなー。分かってくれるか、ピカさんだいしゅきー」
「ぴゃあー」
そうしてセッカは相棒としばらくいちゃついていた。ピカチュウの柔らかな毛並みを撫で回し、真っ赤な電気袋をふにふにつつき、耳の後ろをうりうりと掻いてやる。
ひとしきり相棒と戯れると、セッカはぽつりと呟いた。
「……なんか、どうでもよくなっちゃった。ピカさんの癒し効果やべぇな。絶対マイナスイオン溢れかえってるって」
「お前さんがどうでもよくなっても、あちらさんはそうとは限らんぜ?」
ロフェッカの指摘に、セッカは数瞬だけ黙する。
そして、若いトレーナーは深く深く溜息をついた。
「……おっさん、俺、セーラになんか悪いことした?」
「確かに自転車に轢かれたのは、災難だったな。だが、普通はそこで復讐しようなんて考えねぇもんなんだよ」
「……だってさぁ。腹立っちゃってさあ。これはデストラップちゃんの罠にかけなきゃ気が済まねぇって……」
「目には目を、歯には歯をってか? だがセッカ、考えてみろよ。自転車の轢き逃げとマッギョの10万ボルトは、本当に釣り合ってんのか?」
「……知らないよ」
「だろ? だからどういう刑罰を科すかは、警察とか検察とか裁判所とかに任せときゃいいんだよ。そういうやつらが法律使って、正しい罰を与えてくれる。……セッカ、お前は何もするな。黙って警察行け、こういう時はな」
うー、とセッカは唸った。背を丸めてピカチュウを抱え込む。ピカチュウはおとなしくされるがままになっていた。
「……だってさ、俺はさ、悪い奴なのにさ。警察怖いし……」
「なんだぁ、まさかまだ、あのミアレでのエリートトレーナーの事件がトラウマなのか? 意外と繊細なんだな?」
「茶化すなよ。トキサのことは本当に悪かったと思うよ、トキサは何も悪いことはしてないし。俺もあんま悪くないけど。……でも警察は……俺が警察に助けてもらうって……なんか変じゃね?」
「なに言ってんだよ。警察が守る相手を選り好みなんかできっかよ。奴らはな、場合によっちゃ犯罪者すら守らなきゃなんねぇんだよ。だからな、理不尽な目に遭ったら、迷わず周りの大人に助けを求めろ。いいな?」
「……努力しまーす」
セッカは再びひとしきりピカチュウを撫で回すと、それから両手を振り上げてぐっと伸びをした。そして改めてその灰色の瞳でロフェッカを見やった。
「で? 俺はどうすればいいわけ?」
「おう……それなんだよ。あのお嬢ちゃんが家の人に話して、うっかり裁判沙汰になるってのが一番まずいパターンだ。……ま、もちろんお前さんのトレーナー業にほとんど支障は出ねぇだろうが、しかしセクハラで訴訟ってのは割とまずい」
「セクハラは冤罪なのに!」
「まあ可能性は低いが、万が一ってこともある。どうすっかな。……悪い、わからんわ」
「うっわ、無能」
セッカに冷たく言い放たれるも、ロフェッカは大仰に肩を竦めるだけである。
「こっちだって知るかい。こういうのはできるだけ早めに和解に持ち込むしかねぇんだよ。もつれさせるな。特に若いポケモントレーナーは、すぐ何でもかんでも実力行使で解決しようとしやがる。この機会に学びやがれ、ガキが」
「……なんかよくわかんないけど、セーラに謝って許してもらえばいいんだな?」
セッカは軽く立ち上がった。ぎょっと顔を上げたロフェッカに、明るく笑いかける。
「セーラ捜してくる!」