明雪 上
青い領巾が風にあおられ、舞い上がる。
両手で抱えたゼニガメは風に目を細める。
綿毛舞い飛ぶ風の町、フウジョタウンにサクヤは辿り着いた。すでに夕刻、辺りは闇に沈みかけて一層寒い。
15番道路のブラン通りの終わりがけで綿のような雪が降り始めたため、慌てて町に入ったのだ。ポケモンセンターを見つけたときには、サクヤの相棒のゼニガメは寒さを嫌って甲羅の中に籠ってしまっていた。この寒い中でモーモーミルクを売り歩いていた人間はとても正気の沙汰とは思えない。
暖房のきいたポケモンセンターに辿り着くと、じんわりと手足の指先に血が通い始める。まっすぐ受付に向かって、疲労の溜まっていたポケモンたちを預けた。ゼニガメをボールにしまおうとすると、いつの間にか甲羅から頭と手足を出していたゼニガメが勢いよく腕の中から飛び出し、勝手にどこかへ走って逃げた。仕方がないのでサクヤはゼニガメだけは預けず、そのまま素早くゼニガメを追って再び両手で捕まえた。
そして痛む足を休めるべくロビーに向かって、サクヤは立ち止まり、眉を顰めた。
しかし相手は、こちらに気付いた。
「あれ? えっ? ちょっ、えっ! サクヤ?」
「……貴様は」
「ルシェドウちゃんっで――すっ!」
ロビーのソファから立ち上がり、両腕を広げてサクヤに歓迎の意を示したのは、鉄紺色の髪のポケモン協会職員、ルシェドウだった。
サクヤの片割れの一人、赤いピアスをしてヒトカゲを相棒とするレイアが、旅先でこの人物と幾度となく出会っては協会の任務に付き合わされるのだと嘆いていた。
つい先だっての自宅謹慎の折には、そのレイアがいると知って、このルシェドウはわざと協会の任務を請け負って四つ子の元に現れた。
常識が欠如しているというか、職業人意識が薄いというか、とにかく頭の軽いこのようなタイプの人間はサクヤは苦手としている。
しかしルシェドウはサクヤのそのような控えめな態度など意にも介さず、人懐っこく構い倒してきた。
「久しぶりじゃん、クノエ以来じゃん! 最初はまーたレイアかと思っちゃったよ! 任務先でレイア以外の四つ子ちゃんに会うの、初めてなんだよね実は! わーいサクヤだサクヤだゼニガメちゃんだぁ! かわいいなぁーよしよーし」
ルシェドウがテンションも高くサクヤの頭に向かって手を伸ばしてきたので、サクヤは反射的にその手を叩き落とした。
乾いた高い音がした。
ルシェドウは一瞬目を瞬いたが、すぐに満面の笑顔になった。
「大好き」
「なぜそうなる」
サクヤがあからさまな嫌悪を表情に表しても、ルシェドウの態度は改まらなかった。サクヤを半ば強引にソファに座らせ、遠慮なく自分はそのすぐ隣に収まり、馴れ馴れしくサクヤの肩に腕を回す。そしてサクヤの耳元で囁いた。
「サクヤくーん、アルバイトしてみない?」
「断る」
「あっちゃー、つれない!」
「僕は用事がある。他を当たれ」
「やだっ! やだやだやだ! 絶対サクヤ君と一緒に仕事するのぉっ!」
「うるさい」
「バイト代弾むから! あっそうだケーキ奢る! ケーキセット奢っちゃう! 高いとこのでもいいよ、ホール買ってもいいよ! ポケモンたちの分もきのみケーキ買ってあげるよ! サクヤ君甘党なんでしょ! ねえねえねえねえ」
「うるさい」
サクヤは冷静にはねつけた。サクヤがこのフウジョタウンに来たのは、モチヅキに呼ばれたからだ。待ち合わせは二日後だが、それまでしばらくポケモンセンターでゆっくりすると決めたのだ。サクヤが甘党なのは真実だが、ケーキよりもモチヅキとの約束の方がサクヤにとってはずっと大切だった。
しかし、ルシェドウは諦めが悪かった。
「もう、サクヤ君たら困ったちゃん! あ、あれっしょ? どうせモチヅキさんと待ち合わせでもしてるんっしょ?」
「……ふん」
「わお、当たっちゃったー! サクヤ君って本当にモチヅキさんのこと好きなんだね、レイアから聞いたし。ねえサクヤ君は、モチヅキさんとレイアだったら、どっちが好きなのっ!」
「黙れ」
「ねー、一日で終わるからさ!」
「うるさい」
「ほんっと冷たいねー。レイアはいっつもなんだかんだ言って手伝ってくれんのに!」
「知るか」
「モチヅキさんも、人助けもしないようなサクヤのことは嫌いだと思うよー?」
サクヤはそこで、むつりと黙り込んだ。
ルシェドウは明るくサクヤの肩を叩いた。
「ただの人捜しだからさ! 頼むよ相棒!」
「誰が相棒だ」
サクヤは舌打ちした。
このルシェドウというポケモン協会職員は、サクヤをせいぜいレイアの代わりとしか見なしていない。
これまでの人生を四つ子の片割れとして生きてきた中で、様々な人間やポケモンから、他の片割れたちと混同されてサクヤは生きてきた。だからなおさら、ルシェドウのような仕打ちが腹立たしい。
しかしそのようなサクヤの怒りなどつゆ知らず、サクヤの腕の中のゼニガメはいつの間にか、ルシェドウと意気投合してしまっていた。ゼニガメはルシェドウとハイタッチなどして、がぜん乗り気である。
ゼニガメはきらきらと輝く瞳でサクヤを見つめた。サクヤは唸る。
「……アクエリアス」
「きゃーゼニガメちゃんかわいいっ! アクエリアスっていうの? 洒落た名前だよね、ていうかむしろ……駄洒落?」
「黙れ。キョウキが付けた名だ」
「ぶはっキョウキ面白れぇ!」
「いちいちうるさいな」
サクヤはルシェドウの隣の席から軽い動作で立ち上がった。青い領巾がふわりと靡く。
ルシェドウは寛いだ様子でサクヤを見上げた。
サクヤの腕からゼニガメが飛び出したかと思うと、腹の甲羅でルシェドウの顔面を勢いよく圧し潰した。
「おぶぇっ」
「……預けた手持ちを受け取ってくる」
サクヤは踵を返した。ルシェドウはゼニガメを膝に乗せ、ゼニガメとにんまりと笑い合うと、サクヤに向かってひらひらと手を振った。
「行ってらー」
雪は止んでいた。
空の雲もいつの間にか吹き払われ、夜空には満天の星が輝く。
サクヤはルシェドウを引きずるようにして、フウジョタウンの北を目指していた。
コートを着込んだルシェドウはにやにやと笑った。
「張り切ってんね、サクヤっ」
「一日で終わらす」
「うんうん、俺も早く終わらせたいよっ。でもサクヤーっ」
「僕の協力が欲しければ、僕の言う通りにしろ」
「あれっ? 依頼したのは俺のほうなはずなんだけどなーっ?」
サクヤの行動力に面食らいつつ、ルシェドウは機嫌よく北のフロストケイブを目指した。道すがら軽い調子でサクヤに話しかける。
「じゃ、とりあえず俺の手持ちを共有しとくね。俺が持ってるのは、バクオング、オンバーン、ペラップ、ビリリダマの四体です!」
「騒がしいパーティーだ」
「パーティーは楽しく騒ぐもんっしょ?」
ルシェドウの洒落をサクヤは無視した。葡萄茶の旅衣をかき合わせて寒さをしのぐ。
「サクヤの手持ちも教えといてもらいたいんだけど?」
「ゼニガメ、ボスゴドラ、ニャオニクス、チルタリス」
「寒色パーティーなんだ。炎タイプいねーの? レイアなんて手持ちの四分の三は炎タイプなのに」
「あいつの好みなど知るか」
フロストケイブの入り口に辿り着いたところで、ルシェドウとサクヤは立ち止まった。
ルシェドウが、ボールから手持ちのオンバーンを出す。そしてサクヤを振り返った。
「人捜しなんで、オンバーンで辺りを探りながら、とりあえずフロストケイブの奥を目指します! 俺らが捜すのは、アワユキって名前の二十代の女性トレーナー。白いコートを着てるんだってさ」
サクヤは鼻を鳴らしただけだった。
ルシェドウは微笑み、ランプを点灯した。そして二人は、暗く寒い洞窟の中に足を踏み入れた。
ルシェドウのオンバーンに導かれ、ルシェドウとサクヤはフロストケイブの洞窟内を進む。
遭遇する野生のポケモンは、ほぼすべてオンバーンが退ける。ルシェドウはいかにも楽しそうに叫ぶ。
「爆音波! 爆音波! ばっくおんぱぐっ」
「うるさい」
あまりの煩さに耐えかねたサクヤの手刀が、ルシェドウの脇腹に突き刺さる。ルシェドウは大きくのけぞった。
「いったぁ――い!」
「貴様がうるさいせいだ!」
サクヤは肩で息をしつつ、こらえきれずに怒鳴る。
ルシェドウが手持ちのオンバーンに命じる攻撃技は、もっぱら爆音波のみであった。それをこの狭い洞窟内で連発されるのだから、同行しているサクヤとしてはたまったものではない。ゼニガメもすっかり甲羅の中に引きこもり、サクヤも耳を押さえているだけで疲れてしまった。
しかしルシェドウに反省の色はなかった。
「あっははっ、サクヤ君の今の顔、レイアに超そっくりー」
「僕の話を聞け!」
「聞いてる聞いてる。そう怒んないの。こうして騒がしくしてれば、アワユキさんもこっちに気付きやすいでしょー」
ルシェドウはへらへらと笑った。サクヤの怒りも意に介さず、勝手に先へと進んでいく。
サクヤは眉を顰めていたが、特に何も言わなかった。今回のルシェドウの任務についてはいくつか疑問があったが、何となくこのふざけたポケモン協会職員に質問をするというのはばかばかしい。
サクヤが知っているのは、ルシェドウがポケモン協会の任務でアワユキという名の女性を捜しているということだけだ。
その女性のみに何があったのかは、サクヤには分からない。
サクヤの前を歩くルシェドウが、サクヤを振り返らないままくすくす笑った。
「サクヤって天然?」
「……は?」
サクヤの短い吐息にも怒気がこもる。ルシェドウはなおも笑って歩く速度を落とし、サクヤの隣に並んだ。
「サクヤって意外と、間抜けだよね」
「…………」
サクヤは立ち止まった。警戒心も露わに、ルシェドウから距離をとる。そして固い声音で言い放った。
「貴様、何を企んでいる……」
「何も? ただ、サクヤって俺のこと嫌ってる割には、俺のこと信じてこんなとこまで来てくれてるよな?」
ルシェドウは肩を竦めた。そして気安げにサクヤの傍まで歩み寄ると、サクヤの肩を押して再び共に先へ進み始めた。
「サクヤは俺のこと嫌いだよねー。なぜなら、俺とモチヅキさんが仲悪いから。……なのに、サクヤは俺のこと信じてるよねー。なぜなら、俺とレイアが友達だから。違う?」
サクヤは黙っていた。ルシェドウの言うことは正確ではなかったが、あながち外れてもいない。
「まあ、今はどうでもいっか。そろそろだと思うしねー」
「……そろそろ?」
「オンバーンの反応を見る限り、もうすぐアワユキさんに会えると思うよ」
ルシェドウはまっすぐ前を、洞窟の暗い果てを見つめていた。
サクヤは沈黙を守る。
ルシェドウが歩きながらぼやく。
「ほんとさ、ポケモン協会って人使い荒いんだよねー。行方不明のトレーナーを捜しに行くとかさ。大概、まったく別の町とかでひょっこり生きて見つかんだよね」
「…………」
「でも、たまに森とかにトレーナー捜しに行かされるときとかは、俺も覚悟しなくちゃなんないんだよ。だって、自殺なさってる時とかあるんだもん」
「…………」
「普通に野生のポケモンに襲われてご遺体、ってパターンもよくあるよね」
「…………」
「自殺とか事故とかじゃなくて、他殺って場合もあるしさー。そうそう、その件の裁判で俺とモチヅキさんは因縁の間柄になったんだっけ。まあその話はいずれまた」
「…………」
「でも死体ならまだいいよね。本当に怖いのは、生きてる人間だよ。つくづくそう思う」
ルシェドウは立ち止まった。
サクヤも闇に目を凝らした。腕の中のゼニガメがそわそわと周囲を気にしている。
オンバーンが微かに唸っている。洞窟内のやや開けた空間に出ていた。
ルシェドウの持つランプ一つでは、辺りはほとんど確認できない。
女の囁くような声が聞こえた。
周囲に、より強い冷気が吹き渡る。
ルシェドウが鋭く叫ぶ。
「――オンバーン、避けろ!」
音波によって周囲の状況を探ることに長けた音波ポケモンは、ひらりと広い空間に飛び立つ。ルシェドウは咄嗟にサクヤの体を押し、一つの岩陰に共に身を潜めた。
凄まじい冷気が辺りを覆う。
ルシェドウは半ばサクヤを抱え込むようにしながら、くすくすと笑い、密やかな声でサクヤに尋ねてきた。
「サクヤ、見たー?」
「……何を」
「アワユキさん。まだ小さい娘さんを人質にしてたよ……」
ルシェドウが何故か楽し気な声音でそう耳元で囁くものだから、サクヤはひどく顔を顰めてルシェドウから身を引き離そうとした。それを押しとどめられる。
「だめだめ。危ねーぞぉ……絶対零度が飛んでくる」
ルシェドウのオンバーンは、暗闇の中でも危なげなく宙を動き回り、敵の攻撃に備えている。
ルシェドウがランプを消すと、周囲は闇に閉ざされた。
完全な暗闇に怯えたらしい。幼い子供の泣き声が、響いた。
ルシェドウが再び、サクヤの耳元で囁く。
「アワユキさんの娘さんだよ……。アワユキさん、娘さんと一緒にフロストケイブに入ってって、そのまま出てくるのが確認されてなかったのさ……」
「おい、貴様……いったい」
「アワユキさんの考えてることなんて知らねーよ……でも娘さんは保護しないと、な?」
そしてルシェドウはのうのうとサクヤに向かって、手伝えよ、と嘯いた。
遭難したトレーナーの捜索ではなかった。
トレーナーの手によって危険な場所に連れ込まれた一般人の幼い子供の保護こそが、ルシェドウの第一目的だった。いや、ルシェドウ自身もまさかそれが最優先事項になるとは思いもしなかったかもしれない。ポケモン協会から与えられたルシェドウの任務は、フロストケイブで消息を絶った母子の捜索、ただそれだけだったのだから。
子供の泣き声を遮るように、女性の鋭い叫び声が上がる。
「ソルロック、フラッシュ!」
周囲に眩い光が満ちるのと同時に、サクヤはポケモンを解放した。
「アイアンテール」
こちらも光と共に現れたボスゴドラが、鋼鉄の鎧の尾をソルロックに向かって振り回す。不意を突かれたソルロックがはね飛ばされ、洞窟の壁に叩き付けられる。
ソルロックが女性の傍へふらふらと戻る。女性はもう一体のポケモン、トドゼルガを伴っていた。
ルシェドウも、オンバーンに指示を飛ばした。
「爆音波!」
「トドゼルガ、地割れよ――!」
女性の悲鳴にも似た指示が上がる。
トドゼルガが、上体をのけぞらせる。
大地を割る。
飛行タイプを持つオンバーンや、頑丈の特製を持つボスゴドラはそのダメージを恐れることはない。しかし、アワユキの狙いは敵対する二体のポケモンを戦闘不能にすることではない。
地面が隆起し、断層を生み出し、ルシェドウやサクヤ、そして地に立つボスゴドラの足場を崩す。物理的な距離を広げる。
サクヤは瞬時にボスゴドラをボールに戻した。チルタリスを繰り出す。
「滅びの歌」
オンバーンのトレーナーであるルシェドウが青ざめるのを無視し、サクヤはチルタリスにおぞましい歌を歌わせる。
ルシェドウはアワユキに向かって、岩陰から緊張を削ぐような調子で話しかけた。
「アワユキさんですよねー? 娘さん、こちらに引き渡して頂けますかー?」
白いコートの女性の足元には、十にも満たない幼い少女が小さく蹲っていた。その娘の硬直した様子が不自然で、そしてルシェドウやサクヤはすぐ、娘にはソルロックのサイコキネシスがかけられていることに思い至った。
「アワユキさーん、ソルロックのサイコキネシスを解いてあげてくださーい。娘さんが苦しそうですよー」
「……ううう煩いうるさい出てって出てって出てけよっ! こいつ殺すぞ!」
白いコートのアワユキが怒鳴る。
ルシェドウは肩を竦めた。
「言ってる傍から、貴方のソルロックもトドゼルガももう戦闘不能ですけどねー?」
チルタリスが仕掛けた、滅びのカウントダウンがゼロになったのだ。アワユキを守るように立ちはだかっていたソルロックとトドゼルガが、同時に沈む。そしてまた、ルシェドウのオンバーンとサクヤのチルタリスも崩れ落ちる。
再び闇が落ちた。サクヤがニャオニクスをボールから出した。
「白コートの女を捕縛しろ」
ニャオニクスのサイコキネシスが、アワユキを捕らえる。しかし、女の口まで止めることは叶わなかった。
「……離せ離せ離せ! こいつ殺すよ!」
「出来るものならばやってみろ」
サクヤは言い放ったが、アワユキは耳障りな音を立てて笑った。
幼い娘の悲鳴が上がる。
ルシェドウがランプを点けると、いつの間にアワユキが繰り出したのか、キリキザンが娘の体を持ち上げ、その細い首に刀刃をあてがっていた。
「あちゃ、詰んだ?」
ルシェドウが緊張感のない声を出した。サクヤのニャオニクスの念力は、悪タイプを持つキリキザンには通じない。キリキザンを止める手立てがこちらにはなかった。サクヤも歯噛みする。
アワユキは白いコートを翻し、狂ったように笑った。
「あははははははははははははキリキザン? ニャオニクスにハサミギロチン!」