暁闇の呪詛 上
時は夜明け。
空は白み、東の山々の端は朱色に染まっている。
エイセツシティとレンリタウンを繋ぐ19番道路、ラルジュ・バレ通り。広い谷と沼地、そして崖ばかりの道路である。
レイアとヒトカゲは、崖の上で一人のポケモントレーナーと相対していた。
「死ねよ」
荒れ狂う風に赤髪を振り乱し、少年は哂った。
誰が、とレイアは唸る。風に赤いピアスが鳴る。ヒトカゲの尻尾の炎も激しく風にあおられるが、けれど興奮状態のヒトカゲの炎はますます熾然に、猛火を吐き散らし、荒れ狂う大気に立ち向かう。
ねじくれた角を持つ大型の、紅色のアブソルが、吼えて、空気を切り裂いた。
火の粉を散らし、本性をむき出しにしたヒトカゲがするりと地を滑る。
ヒトカゲはアブソルを寄せ付けない。傷を負えば負うほど動きは鋭く、吐く炎は青白く、じりじりと色違いのアブソルを炙る。
レイアと彼が出会ったのは、つい先ほどだった。
ヒトカゲを抱えたレイアが早朝の空気の中、沼を挟む崖の傍を歩いていた、その時。激しい突風が吹き付け、枯葉と泥が飛び散り、沼を波立たせる。
そしてレイアに襲い掛かってきたのは、紅いアブソルだった。
死神の鎌を思わせる片角は、通常のものよりねじくれておぞましい。そして血塗られたように、紅い。
咄嗟に辻斬りを避けたレイアは、腕の中のヒトカゲを投げ上げた。宙に飛び出したヒトカゲが間髪入れず、白い炎を吐く。
紅いアブソルを退ける。
そこに笑い声がかぶさった。レイアは不機嫌も露わに言い放つ。
「随分と物騒なバトルの申し込みじゃねぇか……」
「あはっ、ギャハハハハッ、えっ、ええっ、そっすか――?」
いつの間にかレイアの背後に立っていた赤髪の少年は、耐えきれないと言った様子でゲラゲラと笑い出した。レイアはそちらに半身を向け、地に降り立ったヒトカゲにアブソルを警戒させる。
赤髪の少年は吹き出した。
「えっ、バトルの申し込みって……えっ? えっ? ええっ? バ、バトルの申し込みって……ぶははっ、ギャハハハハハハッ」
「頭おかしいのか」
「いや、だってバトル申し込んだつもりね――し」
赤髪の少年はきょとんとした。
その赤い髪は肩ほどまで伸び、そして日に焼けた上体は裸である。裾の広い袴に似たズボンは擦り切れてボロボロで、両手の爪は長く伸びている。
姿勢が悪い。背を丸めて顎を突き出し、ゲラゲラと笑う。
「……っなのにさぁ、なに、バトル? え、バトルしてーの? え、すればいーじゃん」
水色の瞳が真ん丸に見開かれた。
「オレは、しねーけどな」
紅いアブソルが動く。赤髪の少年が笑う。
レイアは舌打ちし、ヒトカゲに鋭く指示を飛ばす。アブソルの放つ鎌鼬を炎の勢いで打ち消し、さらに近寄らせない。大きな体躯を持つアブソルは、軽々と崖を登り、ヒトカゲの上をとり、襲い掛かる。ヒトカゲは飛びかかるアブソルを焼き払う。
アブソルは風を身に纏って、炎を受け流す。
アブソルが再び鎌鼬を撃つ。
それはヒトカゲとまったく別の方向に飛んだ。レイアは息を呑んだ。
紅いアブソルが狙っていたのは、レイアだった。
赤髪の少年がゲタゲタ笑う。小さく何気なく呟いた。
「死――ね」
アブソルが鎌のような角を振りかぶり、打ち下ろす。レイアの頬や腕にも痛みが走る。
「いっ……てぇ」
「ギャハハッ」
赤髪の少年が楽しくてたまらないとでもいうように笑った。
レイアは怒りも露わに怒鳴る。
「ってぇんだよ! 潰すぞ!」
「潰してみろや!」
ヒトカゲの咆哮、赤髪の少年の哄笑。紅色のアブソルだけが無口に、崖を飛び回り、ヒトカゲだけを見据え、ねじくれた角を振るう。
レイアはあえて少年を無視し、緑眼のアブソルだけを睨みながら、遠い昔のことを思い出していた。
「……なにが、白い毛赤い眼黒い角、だ」
舌打ちする。
遠く、懐かしい昔。
幼い四つ子はそれぞれ黒髪を腰まで伸ばし、見分けのつきやすいようにという理由で色違いの着物を着せられ、四人で毎日のようにクノエシティを走り回り、転び、泣き、そして飽きずに遊び回っていた。
梅の香の漂う日。
レイアとキョウキとセッカとサクヤ。小さい四つ子が、銀髪の養親のウズにまとわりつき、静かな座敷でウズの針仕事の手先を眺めている。
ウズの滑らかな白い指先が銀の針を操り、色鮮やかな布地を縫い合わせ、仕立て上げるのを四人は息を詰めて見つめる。大切な布地や鋭い針の周りで暴れでもすれば、四つ子はウズに容赦なく庭の池に投げ込まれる。けれどおとなしくさえしていれば、ウズは仕事を見せてくれた。そうして、様々な地方に棲む様々なポケモンの話を聞かせてくれたものだ。
暖かな春の日だった。
ウズは手先を休めず、幼い四つ子に語りかける。
「白い毛並みと黒い片角のアブソルを見つけたら、追うてはいかんよ」
なんで、と声を上げたのはレイアかキョウキかセッカかサクヤか。なんにせよ、ウズは手先の針と布地しか見ていない。誰が声を上げても、ウズにはそれが誰の発言かわからなかっただろう。四つ子は声まで同じなのだ。
「アブソルは災いを連れてきよる。土砂崩れや落石に遭うたり、津波や洪水に遭うたり、竜巻や落雷に遭うたりとさまざまじゃ。じゃからな、鎌のような角を持った赤い眼のポケモンに出会うたら、おとなしゅうして逃げんしゃい」
「たたかうもん!」
そう鼻息も荒く跳び上がったのは、黄色い着物のセッカだったと記憶している。
ウズは軽く笑った。
「セッカが戦うんかえ」
「ポケモンでたたかうもん!」
「そうじゃな、おぬしらも十になったらばポケモンと共に旅に出ねばならんな。じゃがな、ポケモンでもどうにもできんことはあるんよ」
「ウズ、ポケモンでも、どうにもできないことがあるの?」
のんびりと問いかけたのは、緑の着物のキョウキだった。
ウズは頷いた。
「ポケモンには人にない力がある。が、たとえポケモンであったとしてもじゃ、所詮は大自然に生きる儚き命。岩に潰されれば死ぬ、溺れれば死ぬ、車に轢かれれば死ぬ」
やだぁ、とセッカが半泣きになり、青い着物のサクヤに縋りついた。サクヤは嫌そうに顔を顰めてセッカの頭をぐいぐいと押しやり、そしてウズに尋ねた。
「つまり、ポケモンでも、アブソルの引き連れてくる災害には勝てないのですか?」
「サクヤは察しがええのう。その通りじゃ。神話に語られるようなポケモンでもなくば、大自然の脅威に対抗するのは難しかろうて」
――じゃから、アブソルに会うたら、迷わず逃げんしゃい。これからおぬしらと共に旅をするポケモンたちを守るためにもな。
ウズはそう幼い四つ子に語った。
「うん、わかったぁ!」
セッカが笑顔になって、ぴょこんと膝で跳ねる。今にも暴れ出しそうなセッカをウズはひと睨みでおとなしくさせてから、手元に視線を戻した。
「……忘れてはいかんよ、白い毛赤い眼黒い角、アブソルに会うたら逃げんしゃい。ポケモンがおっても逃げんしゃい、ポケモンと一緒に逃げんしゃい……」
歌のように、あるいは呪いのように、ウズは繰り返し四つ子に言い聞かせた。
赤い着物を着たレイアは、ただ黙って、ウズの白い横顔を眺めていた。
そんな記憶がある。
「……なにが白い毛赤い眼黒い角だ、ふざけんな」
鋭い風の刃が、葡萄茶の旅衣を断つ。
さながら、ウズの操る裁ち鋏のように。
「くそ」
レイアは毒づいた。先ほどから、色違いのアブソルの操る空気の刀が、ヒトカゲではなく、ヒトカゲのトレーナーであるレイアを狙ってきている。
ねじれた角、大きな体躯。そして紅色の毛並み。その通常の個体とは異なる姿のアブソルの、そのトレーナーである赤髪の少年は、レイアが傷つくのを見て楽しそうに笑っていた。
レイアは怒鳴る。
「……笑ってんじゃねぇよ! さっきからどこ狙ってんだてめぇ!」
「ああ? くく、ルシフェルに言えって」
ルシフェルというのは、赤髪の少年のアブソルのニックネームなのだろう。
アブソルの攻撃でレイアが怪我を負っても、少年は反省の影すら見せなかった。くすくすと笑ってとぼけている。その隙にもアブソルは自身の意思で次々と攻撃を放ち、レイアのヒトカゲはするりするりとそれらを躱す。
「アンタ知ってるか? アブソルは災いを運ぶポケモンなんだぞ?」
赤髪の少年がレイアに話しかける。レイアは怒鳴った。
「知ってるよ!」
「じゃあ分かるよなぁ?」
「何が!」
赤髪の少年は、呆れたように溜息をついた。
そしてにっこりと微笑むと、崖の淵に佇むレイアに向かって、明るく手を振った。
「良い黄泉路を!」
ぐらり、と地面が揺れた。
レイアは息を呑み、足元を見る。重心が崩れる。
「サラマンドラ!」
ヒトカゲを呼び、咄嗟にその小さな体を抱きしめた。けれど、崖は崩れる。
体が宙に投げ出される、浮遊感。
東の山々の向こうから白い太陽が昇ってくるのが見えた。
青空が見える。
赤髪の少年の笑顔と、紅色のアブソルが見える。
血のような色が視界を掠める。
ヒトカゲを抱えたレイアは、崩れた崖ごと、谷底へ転落した。
遠い、懐かしい昔のことを思い出す。
四つ子の片割れたちと一緒に四人で遊んでいて、クノエシティの外れの崖の上でポケモンバトルごっこをしていた。
もちろん幼い四つ子はポケモンを持つことはできなかったし、養親のウズも幼い四つ子には頑として自分のポケモンを貸し与えることはしなかった。だから、四つ子のポケモンバトルごっこは主に空想から成り立っていた。空想のポケモンでマルチバトルに興じる。あるいは、二人がトレーナーになりきり、もう二人がポケモンになりきって、仲良く楽しく大喧嘩に明け暮れるのだ。
ある夏の日。
そのときは緑の着物のキョウキと、青の着物のサクヤがトレーナー役をやっていた。キョウキのポケモン役は赤の着物のレイア、サクヤのポケモン役は黄の着物のセッカである。
「そこでセッカのでんこうせっかー! きゅうしょにあたった! れーやにこうかはばつぐんだーっ!」
「当たってねぇよバカ! それにノーマルタイプの技が効果抜群になるわけねぇだろ!」
セッカがぴゃあぴゃあと叫びながらレイアに組み付いてくる。レイアはセッカのめちゃくちゃな設定に怒鳴る。
サクヤが顔を顰め、キョウキはにこにこと笑っていた。
「セッカ、勝手にでんこうせっかするな」
「今だよレイア、しっぽをふるー!」
「しっぽなんかねぇよ! どうやれってんだよキョウキ!」
キョウキのめちゃくちゃな指示にも、レイアは噛みつく。そこにセッカがぴゃいぴゃいと叫びながら殴りかかってきた。
「とりゃーっ! 今の、破壊光線ね!」
「いってぇ! 思いっきり直接攻撃じゃねぇかバッカじゃねぇの!?」
「レイア、今だよ、あまえるー!」
「嫌だよふざけんなよキョウキィ!」
「いいぞセッカ、その調子でハサミギロチンだ」
「はさみぎろちんーっ!」
「いてぇよ!」
ぼかすかとレイアとセッカはもみ合い、それをキョウキとサクヤが笑いながら囃し立てる。
そのとき、殴り合っていたレイアとセッカはバランスを崩した。
「あ」
「あ」
「あ」
「あ」
四つ子の声が綺麗にハモった。
黄色い着物のセッカが、その状況の中で思いきりレイアの腹を押しやった。急に強く急所を圧迫され、レイアは激しくむせながら草の上に転がる。
「……ってぇな何すんだよ!」
「セッカ!」
キョウキが叫ぶ。サクヤもまたレイアを放置して、セッカを追っていった。
レイアがむっとしつつ体を起こすと、そこにセッカの姿は見えなかった。
慌ててキョウキとサクヤの傍に行き、小さな崖の下を覗き込む。
黄色い着物を泥だらけにして、セッカが目を閉じていた。頭から血が流れている。
ひっ、と息を呑んだのは三人同時だった。