8
「覚醒剤。警察の話だと間違いないらしいわ。あなたたちの後輩もマサノブ君は、直前に誰かからあの覚醒剤を受け取ったようね」
ここはスタジアム二階の小会議室。シロナさんは捜査の方を警察に任せ、マサノブの関係者――つまり僕たち「ヘル・スロープ」のメンバーをここに集めた。
四天王やチャンピオン、それにジムリーダーはいわゆるポケモン協会が認定したトレーナーである。
彼らは今回のような有事の際、任意で警察の捜査に協力することができる――のだと、ケイタがさっき教えてくれた。
ほんの一時間前までは、手に汗握る試合を思う存分楽しんでいたのに、この凍りついた空気と落胆のため息の前では、まるでテレビゲームでもしていたみたいに思えた。セーブもしていないのに、リセットボタンを押されたのだ、僕たちは。
「マサノブ君は今、警察署の方で聴取を受けているわ。この定期戦が中止になってしまって、みんなの辛い気持ちは痛いほどよく分かる。でも今は捜査に協力して欲しいの。マサノブ君が薬をどうやって、誰から手にしたのか。本人は中身があんなものだったなんて知らないって言ってるし、私も彼のことを疑うつもりはないわ。捜査が進めば分かることかもしれないけれど、今回の事件、マサノブ君の『仲間』としてどう思うか、聞きたいのよ。言える範囲でいいから話してくれないかしら?」
丸々一分間、沈黙が流れた。
僕はシロナさんがどんなに気を使い、優しく接してくれても、責められているような気がした。
「私は――」一年生の女の子、ミサが口を開いた。わりとマサノブと一緒に行動しているグループの一人だ。「マサノブは本当のことを言っていると思います。普段マサノブとは一緒にいるけど、そんなことしてるなんて話一度も聞いたことなかった。お金に困ってるとか、背伸びするタイプとか、そういうわけでもなかったのに――」
「私もミサちゃんと同じ意見」少し強気な口調で、先程トゲチックで試合に出ていたマイ先輩が言った。「あいつは自分からそんなことに手を染める奴じゃない。誰だか知らないけどなんかうまいこと言ってあいつのこと騙したのよ――ねぇ、黙ってる人なんか言ったら?!」
「あんまり荒っぽくなるなよマイ」キュウコン使いのコウタロウ先輩だ。「みんな落ち込んでるんだ。うちのサークルの人間からこんな事件起こすやつが出ちまったこともそうだし、勝ってた試合が中止になっちまったこともそうだし――」
なだめるように言うコウタロウ先輩だったが、マイ先輩は食いついた。
「は?! あんたまるで他人事みたいじゃない?! マサノブが無実だって考えないの?! あいつが戻ってきた時に『犯罪者だから』って言って迎え入れないつもり?! てかこんなことになってまだ試合のことなんか悔んでるの?! そんな場合じゃない――」
「おい、言いすぎだ! 今年で最後だった四年生のことも考えろよ!」
コウタロウ先輩が声を荒げた。マイ先輩は少しひるんだが、目つきは鋭いままだった。
とっさに僕はマキノ先輩を見た。
無表情だった。先輩の顔から感情を読み取れないのは初めてだった。
「シロナさん」マキノ先輩は静かに言った。
「――何?」
「私たちに、謝らせて下さい」
シロナさんは何も言わない。
「メンバー一人がしてしまったことは、サークル全体で責任を取ります。マサノブに全く罪は無かったとしても、こんな騒ぎを起こしてしまったことは事実です。けじめをつけて、もう二度とこんなことが起こらないようにしますから、どうか私たちに謝らせて下さい」
そしてマキノ先輩は立ち上がり、シロナさんに深々と頭を下げた。
また部屋がしんとなる。
僕はいてもたってもいられなくなった。
なんでマキノ先輩が頭を下げるんだよ――?
「そ、それなら僕のせいです! 僕がちゃんとガーディをボールに入れておかなかったから――だから僕が謝ります!」
僕もまた立ち上がり、マキノ先輩の隣りでお辞儀をした。
「バカかお前、代表はサークル全体で責任取るって言ってるんだ」
そう言いながらケイタが僕に並んでお辞儀した。泣きそうになった。
マイ先輩もコウタロウ先輩も、最後にはメンバー全員が立ち上がり、シロナに向かって頭を下げた。
僕の隣りでマキノ先輩が涙を流していた。床に雫が一粒落ちた。
「――もう! 大丈夫よ! ほらみんな、顔上げて!」
僕等はパラパラと頭を上げた。マキノ先輩は最後まで頭を下げていた。
シロナさんがちょっと呆れたように続けた。
「全くあなたたちは――」シロナさんは吹きだした。「最高のチームじゃない」
僕たちはその後、スタジアムの関係者、それにコトブキ大学の学生に謝りに行った。
マイ先輩やマキノ先輩は、最後の方なんてわんわん泣いて抱き合っていたし、事件にともなって中止と思われた打ち上げも、結局やる流れになっていた。
「自粛」というかたちで、とても打ち上げなんてできないとマキノ先輩は最後まで言っていたが、シロナさんがあっさりと「なんで行かないの? こんな日は飲まないでいられないでしょ?」と言い、決行となった。なんて図太い神経だ。
まあ何はともあれ、最後にはマキノ女帝の抜群のリーダーシップで、もしかしたら普通に優勝した場合よりも硬く、チームが結ばれたようだった。
僕も、できればこのままみんなと打ち上げに行きたかった。打ち上げそのものも魅力的だったし、別のものから逃げたいがためでもあった。
――会ってしまったら、問いたださずにはいられない気がする。
すっかり日も暮れ、人気もなくなり、薄暗くなってきたスタジアムのロビーで、カオリは一人、待ってくれていた。マリルがその周りを走り回っている。
メンバーに挨拶し、冷やかされながら僕はカオリの方へ行った。
「ごめん、すっかり遅くなっちゃって」
こちらに気付いたカオリはにっこり微笑んでくれた。
「ううん、いいの。それより……大変だったね」
「ああ、こんなことになるなんてな」
「打ち上げ、あるんでしょ? 行かなくていいの?」
「気にしなくていい、一緒に帰る約束してたろ?」
「――ありがと」カオリは立ち上がって、僕の左手を握った。
「腹減ったな、何か食いに行こう」
「うん――パン、おいで」
僕の心はこの時振り子だった。数秒ごとに気持ちが揺れる。
しかし結局、僕は振り子の糸を自分の手で引きちぎった。
9
僕とカオリは肌寒いこのコトブキシティの夜の街を歩いていた。もう冬がすぐそこまでやってきている。
チェーン展開の、割とリーズナブルなイタリア料理店で夕食をとった。メニューにはワインの種類が豊富だったが、二人とも飲みはせず、お互いに口数は少なかった。
カオリを駅の改札まで送って行くこの道は、いつもデートの時は二人で歩く道だったが、いつもより無機質に見えた。
僕の心は決まっていた。
「――カオリ」僕は切り出す。
「ん? なに?」
「ちょっと、話したいことあるんだ。ちょっと寒いけど……そこ、座らないか?」
僕はコトブキのど真ん中にある、東西に細長い緑地の、いくつもあるベンチのひとつを指して言った。
東端にはこのを緑地を見渡すようにしてテレビ塔が建っている。
毎年十二月の半ばになるとイルミネーションが始まり、色とりどりの電飾が夜空に輝く。
でも今は、デジタル時計を引っ掛けているだけの、ガイコツみたいな姿で、暗闇の中、寒そうに突っ立っている。
「――うん。いいよ」
僕は少し乱暴にカオリの右手を引き、緑地に入った。カオリを座らせてから、僕も座る。
「どうしたの? シュウ。すっごく怖い顔してる」
「いつも、こんな顔だ」
ちょっと突き放し気味に接しないと、心が折れそうだった。
「――なに? 話って」
カオリは冷たくされたことで少し凹んだみたいだった。
「――お前、なんかおれに話すことないか?」
カオリのことを「お前」と呼んだのは初めてだったかもしれない。
「話すこと――うーん、なんだろう?」
「もし、もしおれの考えてることが本当だったとしたら、お前は絶対おれに話さなきゃならないことがあるはずだ」
カオリは面食らったようだった。しばらく口を開かなかった。
正直この沈黙のあと、本当に何もなくても、やはりそうだったとしても、彼女が何もかも隠そうとしても、僕が一体どういう態度を取れるかは自分でもわからなかった。
ただ、今は真実を知りたいのだ。
真実を知らないと――守ってやれもしないじゃないか。
「――手、握って」
長い沈黙のあと、カオリはそう言った。いつの間にか、僕は手を離していた。カオリの右手を握りなおす。
「シュウの考えてること、分かるよ」
カオリは静かに話し始めた。
「あたしたちがまだ付き合う前、シュウのガーディ、ヒートがあたしに向かって吠えたことがあったよね。ガーディは鼻がすごく良いから――ちょっとした臭いに反応するから」
カオリはさらに強く手を握った。
「今日、ヒートがまた吠えた。あの男の子が持ってた薬に向かって。そういうことだよね? 当たってるでしょ?」
カオリは僕を見て、弱々しく微笑んだ。
「――ああ」
風が、冷たい風が吹き始めた。街路樹がざわめく。
「もし、例えばの話だよ。あたしが薬を……覚醒剤とかそういうのを、吸ってたりしてたとしたら――」
繋いだ手がじんじんする。
「シュウはあたしのこと、嫌いになる?」
カオリが驚くほど澄んだ目で僕を見た。質問する目ではなかった。懇願する目だ。
しかしカオリは糸が切れたようにすぐにその目をそらし、おどけて見せた。
「――はは! あたし何変なこと聞いてるんだろ? そんなの嫌いになるに決まってるよね? それ以前に逮捕されちゃうし!」
声が割れていた。
「そんなドラッグ漬けの犯罪者が彼女なんて絶対嫌だよね? すぐ振っちゃうよね? こんな――」
みるみるうちに、瞳から大粒の涙がこぼれてきた。
「――こんなあたし、嫌だよね……」
最後の言葉はほとんど声がひっくり返って、空気が喉を通る音が聴こえた。
握った手に込められていた力が、ゆっくりと、抜けていった。
しばらくの間、僕の耳には、彼女の嗚咽しか聴こえなかった。
テレビ塔が「22:00」を掲げた。
――真実は、一番そうであってほしくないものだった。
「カオリ……」
やがて僕は彼女の肩に手を回した。
「ありがとうな、本当のこと言ってくれて。あと、ごめんな、こんな泣かせちまって。もう大丈夫だから」
何が大丈夫なんだか自分でもよく分からなかったが、とにかく僕はカオリを慰めたかったんだ。
だって、彼氏だしさ。
僕を見上げて、彼女は恐る恐る言った。
「あたしのこと――警察に突き出さないの? 嫌いにならないの?」
僕は笑ってしまった。
僕は「自分」が好きになった。
真実を知っても、自分が前と変わらずカオリを好きでいられていることが分かったから。
「当たり前じゃん。おれ、『変わってる』やつだから――そう言ったの、カオリだろ?」