日進月歩 中
フロストケイブの中は寒い。
それだけではなく、警戒心の強いポケモンが多く潜んでいる。
トレーナーとして旅をしているキョウキやサクヤや、ポケモン協会員のロフェッカはまだしも、一般人であるミホやその孫のリセにとっては危険な場所だ。その二人を下手にフロストケイブに入れるわけにはいかない。
サクヤは困り果てて、ゆっくりと雪の上で屈み込んだ。少女と視線を合わせる。
「……貴方のお母さん、とは、アワユキさんのことか」
「おかあさんのとこ、いく」
「……貴方のお母さんは、ここにはいない」
「――いくったらいくの!」
少女は悲鳴を上げた。ミホがはらはらし、ロフェッカも苦い顔である。おそらく先ほどからこの少女は、フロストケイブの中に行くと言い張ってずっと駄々をこねていたのだろう。
キョウキが寒そうに足踏みをしている。
サクヤは根気良く、少女に質問することにした。
「なぜ、お母さんがここにいると思う?」
「おかあさんが、ここは『せいいき』だって。いのちのかみさまにささげるばしょだっていってた」
少女は真剣に、サクヤにそう訴えかける。
サクヤは戸惑い、老婦人を見上げた。少女の祖母は小さく嘆息した。
「サクヤさんには、ヒャッコクで私の家族のこと、少しお話ししましたね。……本当にお恥ずかしい話ですが」
「いえ。……ミホさん、いったい何が?」
「リセは、私の三番目の孫なのです。私もつい先日、ポケモン協会の方から、この子のことで連絡を頂きましたの……」
そしてそこから先は、ミホも言いにくそうにしている。
キョウキが退屈そうに雪を蹴っている。
サクヤは困惑した。フロストケイブに用があるのは自分であり、キョウキはそれに付き合っているだけだ。キョウキのために、早く用事を終わらせたい。しかし、どうにもミホとその孫娘――アワユキの娘を放っておけそうな状況ではない。
ロフェッカも困ったように顎を触っている。
ミホも泣きそうな顔になり、そしてリセはサクヤにしがみついたまま離れようとしない。
とうとうキョウキが口を開いた。
「ねえリセちゃん。面倒だから、僕、厳しいこと言うね」
サクヤは溜息をついた。とうとうキョウキが出しゃばってしまった。それは即ち、キョウキが随分と苛立っているということである。苛立ったキョウキは老若男女問わず誰に対しても毒舌だ。
けれどサクヤにもこの状況はどうにもしようがないから、キョウキを黙らせることはできなかった。
サクヤにしがみついたまま黒い瞳でじっとキョウキを見上げる少女を、キョウキも真顔で見返した。
「君のお母さんは、頭がおかしい」
そう端的に、キョウキは言い放った。
あまりの言いように、サクヤは額を押さえた。
以前クノエで四つ子全員が集まった際に、フロストケイブでの出来事はキョウキやセッカにも共有していた。そのためキョウキも事情は知っている。そして間接的に知っているだけだからこそ、キョウキは平然とこのようなことを言う。
「フロストケイブで死ぬ? 命の神の聖域? 命の神ってゼルネアスかな。ゼルネアスに対する生贄ってこと? ねえ、リセちゃん、君のお母さんは間違ってるよ」
キョウキは笑顔を浮かべていた。
少女は顔色を失っていた。
「……お、お、おかあさんは、かみさまにいのちをささげて、すくわれるって。だからリセ、おかあさんといっしょに……。そしたら、このひとがじゃまして。このひとがわるいの!」
そう叫んで少女は、屈み込んでいるサクヤの肩を小さな拳で叩いた。
少女の小さな手で殴られ続けるサクヤは、戸惑い、ただ少女を見つめる。
するとますますキョウキは笑みを浮かべた。
「ほんっと、くだらない。神様って何。ただのポケモンだろ」
「かみさまに、いのちをささげれば、しあわせになれるの!」
「ミホさん、貴方の息子のお嫁さんとその娘さん、頭おかしいですよ? 母子揃ってメルヘン少女なんですか? それともまさか、三世代揃ってメルヘン少女なんですかね?」
キョウキはけらけらと笑い、老婦人に陽気に話しかけた。
「ねえ、ポケモンに命を捧げて何になるんです。くだらない。くだらないくだらない。前近代的ですね。宗教とか。迷信とか。そういうのってほんとくだらない」
「キョウキ、いい加減にしろ」
さすがにサクヤが口を挟む。キョウキがやっているのは、ただの人格の否定だ。
ロフェッカも顔を顰め、ミホとリセの二人はすっかり蒼白になっている。
しかしキョウキは口を閉ざさなかった。
「そういうくだらない思い込みに、他人を巻き込むな。迷惑なんだ。ねえリセちゃん、そういう思い込みが、人を不幸にするんだよ。リセちゃんは、リセちゃんの幸せのために、僕らを不幸にするの?」
「……ち、ちが、ちがうもん」
「キョウキ」
「リセちゃんはわがままです。そんなに死にたがらなくても、百年後にはリセちゃんも確実に死んでるから大丈夫! 心配しなくていいよ。――じゃ、サクヤ、行こっか」
それだけ言い捨てると、キョウキはさっさと洞窟の中に消えていった。
少女は泣き出している。ミホも辛そうな顔をしていた。
サクヤは頭を下げた。
「すみません。キョウキがたいへん失礼なことを」
「いえ、いえ、サクヤさん、早くご兄弟のあとを追って差し上げて。早く」
ミホは震える早口で、サクヤを追い払うようにそう言った。
ゼニガメが甲羅から顔を出し、首を傾げ、サクヤを見上げる。
サクヤはロフェッカを見やった。けしてこの男を頼りにしているわけではないが、これも彼の仕事なのだろうから、任せてもいいだろう。サクヤもサクヤで、これ以上キョウキを怒らせるわけにはいかない。
「……貴様」
「行けって。ったく、だから早く行けっつったのによ……。お前さんも随分な間抜けだな、サクヤ?」
ロフェッカは片眉を上げて苦笑した。サクヤはむっとした。
「黙れ」
「もういいから行けって。お前はさっさとキョウキの機嫌直しといてくれ」
サクヤは仕方なく、老婦人と少女から逃げるように、そそくさと洞窟の中に入った。
洞窟内で、すぐにサクヤはキョウキに追いつく。
キョウキはにこりと笑ってサクヤを振り返った。
「おつかれ」
「……お前な」
サクヤからは溜息しか出なかった。
キョウキは飄々として、左手の階段を上っている。
「ねえ、サクヤは伝説とか信じる?」
「命を与えるゼルネアスと、命を奪うイベルタルのことか?」
「そう。神様っているのかなぁ」
「ポケモンとしてなら存在するのではないか」
「ポケモンを神様って崇めるのって、どうなんだろうね」
キョウキは白い息を吐く。
「ゼルネアスは他の生き物に命を与えると、長い休息の眠りにつくらしいよ。僕、ゼルネアスの命を捧げる感じの宗教の話、聞いたことあるかも。ゼルネアスの復活を早めるため、自分の命を捧げるっていう」
「……アワユキさんも、その宗教にのめり込んで?」
「でも、フロストケイブってのはないなぁ。確かに幻想的な空間だけどさ、一応は観光名所なわけだし? そんなところで自殺とか、やめてほしいな」
キョウキはぼやきながら、階段を上っていく。凍り付いてすべる床の上をよろよろと歩き出した。
サクヤも慎重にその後に従いつつ、息を吐く。
「……そうか、生贄か。それでアワユキは娘を連れてフロストケイブにこもり、そして僕も殺されかけたわけだ」
「そうそう。サクヤも危うく無駄な生贄にされちゃうとこだった。で、結局そのアワユキさんは『聖域』でも何でもない薄汚い牢屋の中で自殺しちゃったんだよね。はてさて、それでゼルネアスの復活は早まるのかなぁ?」
キョウキはそう言いながら、凍った床の上をつるると滑っていった。サクヤもその後を追うと、フロストケイブの奥から、深い藍色の水が流れ込んでくるのが目に入った。
「危ない。川に落ちるとこだったね」
「さて、この川を渡ればいいのか」
とはいえ、キョウキもサクヤも波乗りを使えるポケモンを所持していない。仕方がないのでキョウキはプテラに乗り、サクヤはチルタリスに乗って、急流の上を超えた。
道なりに進み、慎重に階段を下ると、より一層冷気が強まった。
凍り付いた岩が見えた。
サクヤは黙って、モンスターボールの一つから、水色のリボンを付けた小さなイーブイを出した。
「玻璃」
「ぷい? ……ぷいいっ」
急にボールの中から出されたイーブイは、寒さに縮こまる。サクヤはイーブイを叱咤した。
「大丈夫だ、すぐに慣れる。バトルだ」
サクヤの視線の先には、氷に覆われた岩がある。そして、その冷気に惹かれるのか、岩にはバニプッチの群れがくっついていた。
状況を察したイーブイが威勢よく鳴いて宣戦布告をすると、バニプッチの群れは一斉に岩から離れ、臨戦態勢に入る。
キョウキがサクヤにのんびりと声をかけた。
「手伝うよ」
「当たり前だ」
「それ行け、ぬめこ、濁流だよ」
キョウキはボールからヌメイルを出し、すかさず指示を下した。
ヌメイルが、泥水をバニプッチの群れに叩き付ける。
「玻璃、体当たり」
サクヤが指示を飛ばす。泥水を被って右往左往するバニプッチの一体に、小さなイーブイが思い切りぶつかり、はね飛ばした。
「いいぞ玻璃、他のバニプッチにも、続けて体当たりだ」
「ぬめこ、玻璃が危なくなったら竜の波動でサポートね」
ヌメイルが先制してバニプッチの体力を大幅に削り、イーブイにとどめを刺させる。以心伝心の連携により、群れバトルを制する。
最後のバニプッチを沈めたイーブイが、得意満面で氷に覆われた岩の上に飛び乗った。
キョウキもヌメイルを労ってボールに戻す。
そしてキョウキとサクヤは、改めてイーブイに近寄った。
「さて」
「よくやったな、玻璃」
サクヤが水色のリボンのイーブイを撫でてやると、イーブイは誇らしげに頬をその手にすり寄せる。そしてイーブイが一声鳴いたかと思うと、その体が眩い光を放った。
「おお」
「……来た」
イーブイは冷光を放った。
凍り付いた岩の冷気を吸い込み、吐息のように放出する。
そして光の収まった後、そこにはグレイシアが佇んでいた。
「しあぁ」
すっかり寒さも平気になったグレイシアが、サクヤを見つめて微笑んでいる。
サクヤも笑い、腕の中のゼニガメを肩までよじ登らせると、青い領巾を引きつつ腕を伸ばし、そっとグレイシアを抱き上げた。グレイシアの寒さを防ぐ毛並みは密で、固いけれどしなやかな手触りをしている。
「進化おめでとう、玻璃」
「しあ」
一回りしっかりした体つきになったグレイシアが、誇らしげに尾を振る。
キョウキも笑いながらグレイシアを軽く撫でると、笑顔のまま歩き出した。サクヤもそれに続く。
フロストケイブでの用事を済ませ、二人は並んで歩いた。洞窟の出入り口に向け、引き返していく。
「やったね、サクヤ。あとはブラッキーか」
「そうだな。夜に育てれば、螺鈿もすぐにでも進化するだろう」
四つ子がタマゴから孵したイーブイは、生まれた直後からたいへん四つ子に懐いていた。育てる時間帯さえ間違えなければ、ブラッキーへ進化させるのは難しくはない。
「レイアがエーフィとニンフィア、だよね。二匹とも光り輝くイメージのポケモンだね。あいつに合ってる」
「で、お前がシャワーズとサンダース。お前のパーティは全体的にじめじめしてるな」
「ちょっと、じめじめはなくない? 雨パとお言い」
「で、それに対してセッカが、ブースターとリーフィアか。晴れパか?」
「そうだね。そして、サクヤがブラッキーとグレイシア。うん、暗いイメージだね。お前に合ってる」
「暗いか?」
「暗いっていうか、闇を背負ってて冷静で、みたいな。ふふふ」
「何を笑ってるんだ」
キョウキもサクヤも、無事にグレイシアの進化が済んで機嫌がよかった。四つ子のイーブイ進化計画は着実に進みつつある。
キョウキのシャワーズとサンダース、セッカのブースターは、既にミアレの石屋で購入した進化の石で進化を遂げた。
残る五種類のイーブイの進化方法はややこしい。特に、エーフィとニンフィアに育て分けることを目標としているレイアは大変だろう。けれどレイアも馬鹿ではないので、うまく目標を達成できると片割れたちは信じている。
二人は静かながら上機嫌に、フロストケイブから出た。