10
起きたら、僕の腕にカオリの顔が乗っていた。布団を頭まですっぽり被って寝息を立てている。
二人とも裸だった。
まあ、言いたいのはそういうことです。
少し寒かったので、僕はカオリの方に身を寄せた。シャンプーの香りがする。
彼女も、ほとんど反射的に僕の背中に腕を回してきた。
まさに幸福の極み。これ以上は絶対にない。そう言い切れる。
昨夜は、あれ以上カオリを問い詰めることはしなかった。
あの後、カオリにわんわん泣かれ、抱きつかれて、そして何度も謝られた。
良くない道に走ってしまった事実そのものにおいて謝っているのか、それとも僕に迷惑をかけることについて謝っているのか。
多分、どちらも含んでいたんだろう。もちろん後者に関しては、迷惑なんて塵ほども思わない――とかカッコつけて言ってみる。でも本当だ。
僕はほとんど言葉を交わすこともせず、ラブホテルへカオリを引っ張って行った。
ちょっと乱暴だったかなとも思うけど、二人の気持ちは一致していたと、そう思う。
そんなこんなで(そんなこんなってなんだ?)今にいたる。
思えば今日は月曜日じゃないか。まあ、講義はサボるけども。
カオリも確か今日は二講があったはずだ。起こしてあげようとも思ったけど、もうしばらくこうしていたいので、なにもしないでいた。
「んー」カオリがわずかにうごめいた。そして目があった。
「……おはよ」寝ぼけた声。
僕も「おはよう」と返してから、キスをした。
そしてまたしばらく抱き合っていた。
「ねえシュウ?」
「ん?」
「この後、うちに来ない?」
第二ラウンド。そう頭に浮かんでしまった自分は「最低」だと思ったよ。
「シュウがね、あたしのこと捨てないでくれて、すごく嬉しかった。ずっと怖かったの。いけないことしてるんだっていう罪悪感もあったし、もし本当のこと話したら絶対嫌われちゃうって思ってたから。でもそれって、あたしがシュウのこと信じてなかったってことだよね――」
カオリは僕の腕の中に入ってきた。
「でももう怖がってばかりいたくない。シュウのこと信じる。だから全部、話したいの」
なんだか反社会的な展開になってきた。
けど、カオリが僕のことを信じてくれるのは嬉しかったし、例えば彼女を警察に突き出して「この人薬やってます!」なんてこと言えるはずもない。それならいっそ、舌を噛み切って死ぬだろう。
「――多分いっぱい迷惑かけちゃう。だけど――」
カオリは少し言いづらそうにしていたが、やがて小さく呟いた。
「守られるならシュウがいい――わがままで、ごめん……」
十万ボルトを、僕は急所にくらいました。
僕たちはホテルを出て、地下鉄に揺られ、コトブキの北の郊外に位置するカオリの家に行きついた。
来るのは初めてだ。この辺り一帯が立派な一軒家が立ち並ぶ住宅街だったが、彼女の家もまた立派な佇まいだった。
カオリは玄関の鍵を開け、中に入る。そこまで来てやっと、彼女の両親のことに考えが及んだ。
昨日彼女が家に連絡したような感じはなかった。多分とても心配しているんじゃないか?
そんな心境の親御さんのところへ、朝帰りの娘が男を連れてくるというのは――世間一般的にはどうなのだろう?
ところがカオリは「ただいま」も言わず、靴を脱ぎ、家に上がった。
「どうぞ」
通された和室の隅に、仏壇があった。
彼女の両親のものだった。
「――今年の夏、飛行機事故に遭ったの。結婚して二十周年でね、ヨーロッパに二人で旅行に出かけた時だった」
僕は仏壇の前まで行った。手前に両親の写真が飾られている。母親の目が、カオリにそっくりだった。
線香を一本立てて、お鈴を鳴らした。
言葉の出ない僕には、そういう作法的なことしかできなかった。
「ありがとう」
僕が合掌し終わると、彼女は少しだけ微笑んでそう言い、僕の隣りに正座した。
少しだけ間を置き、やがてカオリは力強い声で言い切った。
「シュウ、あたし、今は吸ってない。誓って」
「信じるよ、もちろん」
「――両親の死がきっかけだったの」
カオリはゆっくりと、話し始めた。
「国交サークルの先輩に――ミオシティの暴力団とつながってる人がいるの」
やはり出てきた。ロケット団の傘下に入ったという、ミオの暴力団。
「その人は、普段は別に普通で、むしろ良い人。でもお酒の席になると、なんていうか、気持ちが大きくなっちゃう人っていうか。サークルの飲み会の時、その人は『おれに手出したら後ろ控えてるからな』とか、『欲しかったらやるよ。覚醒剤でもなんでも』とか普通じゃないことばっかり言うの。今もほとんどの人は冗談だと思ってる」
「そいつ、あの合コンの時来てた?」
「ううん、来てなかった」
そんなやつ、来てたら気付くか。
「それでね、私も最初は冗談だと思ってたの。酔っぱらうとこういうふうになる人なんだなって、割り切ってた」
しかし、偶然出会ってしまったのだという。その先輩が、カオリの全く知らない人たちと四、五人で、酔って街を歩いているのに。
「今考えれば、あの人たちは多分暴力団の人。先輩があたしに気付いて絡んできたの。そんなに人通りの少ない道じゃなかったから、乱暴なことはされなかったけど、最後に白い粉の入った小さい袋を渡された。『ちょっと前まではそれだけで一万も二万もしたんだぞ? いい機会だから持ってけ。また欲しくなったら言えよ。まあ次は金払ってもらうがな』とか、そんなこと言ってた」
それが、今年の、九月の終わり頃らしい。ロケット団の復活が八月の終わりだから、一か月でミオの麻薬マーケットに影響を与えていることになる。
「すぐに捨てなきゃと思ったんだけど、捨てるのも怖かったの。本当だよ、使う気なんてその時は全くなかった」
「うん、わかるよ」
そして、本当に酷いタイミングで、彼女の両親は飛行機事故に遭遇し、この世を去った。
カオリは心に同時に二つ、風穴をあけられた。
泣けども泣けどもその穴を埋めることはできず、そんなとき目に止まってしまったのが覚醒剤の粉末だった。
「――お母さんとお父さんが死んで、あたし、ものすごく弱ってたの。あんなもの使うわけがないって思ってたのに――もうどうでもいいって思っちゃったの」
カオリはその先輩からもう一度だけ、覚醒剤を買った。それが例の、ヒートがカオリに向かって吠えた日のことだ。
「あのカバンの中に入れてた。でも信じて。あたし、あれは使ってない――ちょっと待ってて」
カオリは奥の部屋へ行き、一分も経たないうちに戻ってきた。
手には、ちょうど病院でもらう粉薬のような、白い粉末の入った袋。
諸悪の根源は、拍子抜けするほど攻撃性を感じさせなかった。
こんなもので、一体どれだけの人間が私腹を肥やしているのだろう。
こんなもののせいで、一体どれだけの人間が苦しみ、堕ちてゆくのだろう。
こんなもの、なんであるのだろう。