幼虫を追って町の北へとやって来たシュヒの行く先に、だんだんと木々が増えてきた。家屋の数が減り、人の気配も消え失せ、静謐が一人と一匹を包み込む。 速いとは言えないメラルバの駆け足。それでもシュヒは距離を詰めないまま、彼女の何歩か後ろを早足でついて行く。やがてふたりは民家の途切れた辺りにある、周囲の家が六軒ほど入りそうな広い畑の前へと到着した。
「……!」
シュヒは目を見張る。そこが他所の農地とは違う、華やかな色彩で染め上げられていたからだ。一面の薄紅色。所々に深紅や白も見受けられる。 温かな空気を涼ませる微風を受け、そよそよ揺れる沢山のそれは、秋にこそ咲き誇る桜。ふたりの眼前に広がったのは秋桜(こすもす)の花畑であった。
「ルバッ」
可憐な群生に陶然とするシュヒを置いて、メラルバは嬉々として敷地内に這い進んだ。すぐにシュヒも踏み入り、前を行く幼虫に問いかける。
「秋桜の匂いがしたの?」 「ルバ〜」
秋桜は香り高い花ではないが、そこは虫型ポケモン、人間の嗅覚では捉えられない微弱な匂いでも感知出来るのかも知れない。 喜び勇んで花の傍へにじり寄る彼女の姿を見ていて、ふと少年は思いついた。
「そっか……メラルバは女の子だもんね。花が好きなんだね」
そういう所は人間の女の子と同じなのかなと、何とはなしに微笑ましくなるシュヒであったが次の瞬間、幼虫が秋桜を茎ごとむしゃっと食い千切るのを見てショックを受けた。
「……ああ。食べるんだ……」
ナズナとの散歩の道中で低木の葉をいくらか食んでいたのだが、物足りなかったようだ。秋桜って美味しいのかなと首を傾げたのち、シュヒはむしゃむしゃと花を食べているメラルバから、花畑へ視線を移した。
(もう秋桜の季節なんだ)
それが、花畑を目の当たりにした瞬間に彼が抱いた第一印象だった。 晩夏に訪れた無情な死別の後、周りの景色に目を向ける余裕など持ち合わせていなかった故に、少しも思い及ばなかった。今頃の時分に咲く、この可愛らしい花のことを。
秋生まれだからなのか、毎年両親が満開になるのを楽しみにしていたからなのかは判らないけれど、シュヒは秋桜が好きだった。カナワに秋が来る度に父と母と、そしてあの二匹と一緒に秋桜狩に出かけては、畑の中に並んで写真を撮ったものだ。
(おれ、もう十才なんだ)
今この時まで、自身の誕生日が過ぎ去ったことすら忘れていた。それほどまで沈んでいた自分に、何をやっているんだかと溜め息が口を突いて出た。それから、ふと考える。 両親が亡くなり、二匹とも離れ、薄紅を想い愛でる心を失っていた自分を元気づけようとして、メラルバはここまで連れて来てくれたのかも知れないと。いや……彼女は単に食事をしに来ただけなのだけど。シュヒには何故だか、そう思えてならなかった。
近頃の穏やかな気候に似つかわしい愛らしい薄紅色の花畑と、それらに包まれ無心に秋桜を頬張る小さなメラルバに、不思議と心が和む。相変わらず触れる勇気は起きないけれど、彼女とふたりきりでもあまり気負わずにいられている自分を発見して、シュヒは自信に似た感情が密かに湧き上がるのを感じた。落ち着いた心持ちで、話しかけてみる。
「食べたら、さっきの場所に帰ろ……」
そのようにメラルバにかけたシュヒの台詞はしかし、言い終わらぬ内に前方からの突風に掻き消された。思わず目を瞑り、身を屈める。
「な、に……?」
前屈みのまま、ゆっくり目を開く。眼前の地面に大きく色濃い影が、盛んに揺れながら落ちている。頭上からバサッ、バサッと強かに風を切る音がした。 その影と音とをはっきりと認識したと同時に、シュヒの胸の鼓動がバクバクと打ち鳴らされ始めた。本能が叫喚を上げる。見るな、見ちゃいけない。見るな。見るな! しかし、そう思えば思うほど見たくなってしまうのが人間だ。頭のどこかでそんなことは無いと否定する自分がいて、無意識にそちらに同調してしまうからなのか。後悔するかも知れないと瞬時に思考出来るにも関わらず、その目で確認してしまうのだ。 シュヒは嫌な汗を額に浮かせ、恐る恐る頭上を見上げ――そして見てしまったことを、悔やんだ。
「オオグルゥゥウ!!」
白い冠羽を掲げる大きな猛禽が、小さな人間の視線に答えるように勇ましい鳴き声を轟かせた。
「あッ…………野、生の……!」
引き攣った声音で、なんとかそれだけを絞り出す。
町中でも体の大きなポケモンと出会したが、彼らと今目の前にいるポケモンとには、明確な違いがあった。体を張って生きている故の力強さ、頑健さ。人からの手入れを施されていない、ありのままの美しさ。野に生きる者のみが持つ、逞しい生命の輝き。
市街地でも、目が合ったポケモンに近寄って来られたことが何度かあった。だがその都度、主人である人間が声と手で引き止めてくれたので難は逃れられた。しかし今相対しているあのポケモンは野生である。それはつまり、あれが自分をおびやかす行動を取った時、制止させられる人間がいないということ……。 シュヒは全身から血の気が引いてゆく音を聞いた。
「メ、メラルバ、逃げよう!!」 「ルバ?」 「上、見てよ! でっかい鳥のポケモン! 逃げないとっ……!!」
少年に促され、メラルバが上空を見やる。彼に言われるまで巨鳥が現われたことに気づいていなかったようだ。白い体毛に花弁をいくつもくっつけ、未だに口許をもぐもぐ動かしている彼女を、シュヒはどうにかして逃がさなければと咄嗟に思考する。
「そうだ! モンスターボールに入れば……!」
ポケモンに触れられない少年に出来る、ポケモンを引き留めるもう一つの術。先よりも危機的な状況下でよくぞ閃いたと自身を褒めつつ、上着のポケットに手を突っ込む。――無い。ならばズボンかとそちらを探るが、少年の両の手は何も掴み出さなかった。必要無いだろうと判断し、自宅に置いて来てしまったのだ。
(ど、どうしよう……!)
事態は今度こそ絶望的だった。
メラルバに戦ってもらう? ……無理だ。ポケモンの戦わせ方なんて知らない。それにこちらが圧倒的に不利であるのはシュヒの目にも明らかだった。メラルバは少年の胸に抱え切れるくらいに小さいのだ。あんなに大きくて強そうな相手では一堪りも無い。 なんとかして彼女を引き返させないと……。 少年が目紛しく考えを巡らせている隙に猛禽、ウォーグルが、格好の餌を見つけたという風にぎらりと瞳を煌めかせ、急降下する。
「グルオオッ!」
標的は無論。
(だ、だめ……)
シュヒは幼虫に待ち受ける残酷な最期を想像して恐怖し、ポケモンの持つ野性と本能に戦慄し、それを見ているだけしか術の無い自分に落胆し、そして憤怒した。苛立ちで全身の毛が逆立つのを感じる。
自分はなんて非力なんだろう。なんて無力なんだろう。 なんで、自分は何も出来ないんだろう!
「……!?」
苦悩するシュヒの目前の光景に覆い被さるようにして、不意に見覚えの無い映像が浮かび上がった。紫色の巨大な蟲の前に立ち竦む、幼い男の子の後ろ姿……そのイメージが、巨鳥と幼虫の姿にぴたりと重なり――溶ける。
違った。 何も出来ない訳じゃなかった。出来ないと勝手に決めつけていただけで。 こんな自分にも、出来ることはまだあったのだ。
気がつくと、シュヒはメラルバの元へ走っていた。まるで誰かの意思が乗り移ったみたいに他の全ての感情や思考を投げ捨てて、彼女を救い出すことだけに没頭し、全力で蹴立てた。 守らなければならない。このか弱い生命を、自分が救わなければならない。 それは他の誰かの意思でありながら、他の誰のものでもない、紛れも無い少年の本意だった。
「メラルバっ!!」
秋桜を踏み散らかしながら滑り込み、幼虫を拾い上げ抱き竦める。襲いかかって来る巨鳥に背を向けてシュヒはきつく瞼を閉じた。 今から逃げてもすぐに追いつかれる。だから、逃走は端から選択しなかった。 自分はポケモンではないから戦えない。盾にしか、それも酷く脆く矮小な、一時凌ぎの盾にしかなれない。あの鋭い嘴と爪で瞬く間に傷だらけに、血だらけにされてしまうだろう。それでも。
(絶対にメラルバは渡さない、絶対にメラルバを守るんだ。だってこの子もおれと同じ、生きている。誰かに望まれて生まれた命で……、おれの、家族なんだ!)
さっき見えたイメージは六年前、あの二匹の目に映った光景。今シュヒは、あの時の二匹と同じ行動を起こしていた。メラルバを守りたいと、そう強く願って。 そうして解した。二匹もこんな気持ちだった、こんな気持ちで自分を守ってくれたのだと。
あの日――血塗れになってまで我が身を呈したメイテツとキューコ。彼らは幼い自分を救うために、負けるかも知れない敵に挑んだのだ。彼らにとって自分はそうするに値する存在だったのだろう。
(メイテツ。キューコ。ごめんなさい。おれ、ひどいことをした。ひどいことを言った)
風が背中に突き刺さる。頭のすぐ後ろにまで敵が迫っている。そんな窮地の中で、シュヒは一心に懺悔した。 自分を愛してくれる者はまだ傍にいて、ずっと見つめて、見守ってくれていたというのに。彼らの気持ちを知らずに、知ろうともせずに、ただただ残酷に罵倒し強引に突き放してしまった。優しい……優し過ぎるポケモンたちに、ひたすらに謝った。
(こんなおれで、ごめんなさい)
恩知らずな自分で澄まない、と。
ザンッ!
強く掴まれ、捕らえられた衝撃音がした。巨鳥の脚が頭部か背中か、いずれにせよ、自身を捕獲したのだとシュヒは感じた。 たとえこのままメラルバと一緒に巣まで連れ去られてしまうとしても、犠牲になるのは自分だけにしなければと胸底から思った。彼女だけは絶対に逃がさなければならなかった。真新しい命を、こんなに早く喪わせる訳にはいかなかった。
「………………?」
しかし。捕らわれたにしては何の違和も感じない。痛痒も浮遊感も、何もかも変化を覚えない。何故だろうかと確認しようとしたシュヒの耳を、直後けたたましい声が劈いた。
「グルオオオオオオ!!」
悶絶を思わせる咆哮。次いでドッ、と重い物が地に沈み込む音。
「ラルーラルー」
同時にシュヒの胸で幼虫が、彼を呼び覚ますように鳴いた。
少年ははっとなって顔を上げる。聞こえたのだ。声が。巨鳥の叫びではなく、はたまた幼虫の呼びかけでもなく、それらにうずもれた遠い声に。潜み隠れた、その声に。 振り返る。地面に腹這いになったウォーグルの背に、二匹のポケモンが飛びかかっていた。 シュヒは、叫んだ。
「メイテツ!! キューコ!!」
突然の背後からの奇襲に、猛禽は訳が解らないながらも翼をばたつかせて暴れた。振り向き、忽然と出現したポケモンたちを両目に認めると、素早く体勢を整えて両翼を振り上げる。 打たれそうになるのをぎりぎりの所で避け、モンメンがふわふわした体を震わせて無数の綿を撒き散らした。彼の姿によく似た白い塊は見事、敵の攪乱に成功する。綿ばかりを攻撃していく巨鳥の足許を、ズルッグの蹴手繰りが捉えた。
「グルオッ!」
が、猪口才なと言いたげにウォーグルは自身にまとわりつく小さなポケモンたちを、それぞれ強力な翼で打ち据える。
「ルグゥッ」 「めええっ」
地面に叩きつけられ呻いたのもほんの数秒。二匹は息の合った跳躍で、再び巨鳥に向かって行く。
「だめだよ、また傷だらけになっちゃう!」
少年の制止も聞かず果敢に突進した二匹だったが、すぐにまた痛烈な一撃を順々に食らう。効果は、抜群だ。
「だめだったらっ!」
口ではそう言っても、彼らが戦い続ける訳を、戦い続けなければならない理由を、シュヒは痛感していた。
そう、今は全てが理解出来る。両親が消えた日のことも、幼少の日のことも。なぜ彼らが自分に笑いかけていたのか。なぜ悲しみや寂しさを微塵たりとも滲ませなかったのか。完膚無きまでに傷つき、悲鳴を上げていたはずの身体を押し殺してまで、笑顔でいたのかを……。
ウォーグルの中心から浮き出した緑光を、メイテツが吸収した。外傷を与えていないにも関わらず巨鳥は声をくぐもらせ、対する綿花はわずかに気力を取り戻し、青葉を振るった。 項垂れた敵の側頭部目掛けて、キューコがジャンプし頭突きを食らわせる。ごおおんっ、という強烈な衝突音をシュヒは幻聴した。
「グルオァッ!」
けれど巨鳥は倒れない。それどころか一層の敵意を眼差しに閉じ込め、小賢しい二匹のポケモンを仕留めにかかった。その視線が先に捉えたのはズルッグ。相手の素早さに対応し切れず回り込まれ、彼女は強靭な足の爪で深々と背中を、破壊せんとばかりの凄惨さで切りつけられた。 秋桜の畑にぱたりと突っ伏す彼女を唖然と眺めていたモンメンに、猛禽の嘴が襲いかかる。まるで肉を引き千切るような苛烈さで、柔らかな綿に嘴の突きを乱射する。白い綿が血飛沫の如く、方々に飛散した。
「いやだ……いやだ。やめてよ……」
幼虫を強く胸に抱いたまま愕然と戦いを見ていたシュヒが、囁いた。
「痛いよ、苦しいよ……!」
刻々と傷んでいく二匹の痛苦を想うと、胸の痛みが治まらなかった。もし二匹の命が消えてしまったらと想うと、恐くて怖くて堪らなかった。 独りきりだと思っていたのだ。自分は孤独なんだと思い込んでいたのだ。彼らが見てくれていたのに。彼らはいつだって、自分を独りにさせまいとしてくれていたのに。
そう、今は全てが理解出来た。なぜ父が母が、ポケモンを助け死んでいったのかも。両親がアデクが、カナワの町民がイッシュの人々が世界中の人間たちが、ポケモンを愛して止まないのかすらも。
両の翼を堂々と青空に広げ、猛禽が高く猛々しく鳴いた。直後、薄紅色の中から震えながら立ち上がろうとしている二匹に、突風の刃を投げつけた。刃は二匹と秋桜の花を切り刻み、風に姿を戻した後、花弁を巻き込みながら後方のシュヒとメラルバに吹きつけた。 もう限界だった。二匹に立ち上がる体力は残されていなかった。限界のはずだったのに。それなのに彼らは傷だらけの体を起こして、上空の猛禽を睨めつける。 その視線を受け止めたウォーグルが、二匹の方へと滑空する。二度と再起出来ぬよう、とどめの猛撃を食らわせるために。
「やめて……やめてよ……」
呟き、シュヒは首をぶるぶる振った。目頭が熱かった。胸が圧迫されているみたいに苦しくて、呼吸が上手く出来ない。心が痛かった。二匹の体の痛みが、自分の心に移ったようだった。
ウォーグルが二匹を鷲掴みにした。メイテツとキューコは最早、呻き声すら出せない。抵抗出来ずに、地面に押し付けられる。今度こそ、二匹は立ち上がれなくなった。
「メイ、テツ……キュー、コ……」
少年の双眸から涙が溢れ落ちた。 そして、彼は叫んだ。
「おれの家族をっ、いじめるなあっ!!」
涙が散らばる。
足元に力を込める。失いたくない。他の何もかもを失っても構わないから、家族だけはもう失いたくない。強い願いを以てシュヒの足が地を蹴った。その、瞬間。 それまで沈黙を守っていたメラルバの目が、燃え盛った。
「ルバァ!!」 「!?」
駆け出そうとしていたシュヒの腕から幼虫が飛び出す。驚愕し瞠目する少年、彼が辿るはずだった道をメラルバは走り出した。
「メラルバ行っちゃだめだ! メラルバーーーーッ!!」
止めようと追い駆けるシュヒを突き放して、幼虫は疾走する。先程とは比べものにならない速さだった。五本の角から炎が噴き出し、燃え上がっていた。炎が燃焼すればするほどに、彼女の速度は増していった。 その猛進に危険を察し、標的が上昇を始めるよりも速く、メラルバの猛火を纏った突進が、決まった。
「グルォオオ……!」 「……ラルバッ」
空中で一回転し畑に着地した幼虫の前で、ウォーグルが腹から煙を燻らせながら蹌踉く。角から炎を上げたまま、メラルバは敵を見据えた。猛禽も、彼女を見返す。
「……………………」
しばしの睨み合いの後。 ウォーグルは唐突に翼を広げたかと思うと一瞬で遥か上空へ飛び立ち、枯れた声を響かせながら林の向こうの空へと去って行った。
「ラルバッ」
猛禽の姿が完全に見えなくなった頃、メラルバが後ろの四本足で立ち上がり、誇らしげに鳴いた。
*
「ぁ……うっ、うぅ……」
べしゃりと頽れる音と共に噎び声が、弱々しく辺りに流れた。
「ああああ……」
巨鳥が去った空に困憊した目を投げていたモンメンとズルッグが、憂苦の眼差しでシュヒを振り返る。少年は地べたに座り込み、全身を震わせ泣いていた。
「うああああああ……!!」
大きくなった泣き声に誘われて、メラルバがのそのそと歩き出す。何も出来ず、蹲ったまま少年を見つめている二匹の所まで。かと思うと彼らの脇を通り過ぎ、俯き泣いている少年目指して、更に進んで行く。二匹は慌てて傷だらけの体に鞭打って歩み寄り、幼虫の進行を両側から制した。
「ルグッ!!」 「ラル?」 「めえっ!!」 「ラル〜?」
彼に近寄っちゃいけない。彼はまた恐怖した。自分たちの戦う姿を見て、心に傷を負ったんだ。
そのように幼いメラルバに訴えようとした二匹の動作を、急に立ち上がった少年が留めた。思わず体をびくつかせた二匹の間で幼虫が嬉しそうに鳴き、制止を振りほどいて少年の胸に飛びついた。
「ラルバ!!」
飛びかかって来た彼女の体を、シュヒは静かに受け止めた。怖がりも、避けもせず。それどころか慈しむように優しく、温かく。
「メラルバ。ありがとう……ふたりを……おれを……守ってくれたんだね」 「ルバァ〜」
か細い声で礼を言い、涙を溜めた顔をメラルバに近づける。メラルバは幸せそうに、彼に何度も何度も頬ずりをした。
「………………」
それからシュヒは、信じられないものを見るような目で自分を凝視している、モンメンとズルッグを見た。こうして彼らと視線を交わし合うのは、あの日以来だった。
「メイテツ……キューコ……」
無言の視線の交錯を断ち切り、シュヒは彼らの名を呼ぶ。
「ごめんね……ごめんなさい……おれは、おれはっ……」
セピアの瞳から、涙がぽろぽろと溢れ落ちて行く。肩、腕、脚、唇、声、心、全てが震えて止まらない。 恐かった、怖かった。以前とは違う恐怖だった。大切なものを失ってしまうかも知れないという、心身が千々に砕け、張り裂けそうになる暗然たる恐怖だった。二度とあってはならない恐怖だった。
「全部、分かったんだ。ふたりの気持ちも……。おれ、ふたりに……ひどいこと……ずっと、ずっと……っ!」
少年の涙が、胸元のメラルバの体毛に落ちては跳ねて、じんわりと染み込んでいく。 なぜ、どんなに憎まれて嫌われて避けられても、いつでも自分のことを想い、どこにいても駆けつけて来てくれたのか。簡単なことだった。簡単過ぎて、当たり前過ぎて、ずっと気づけなかった。
「ごめんなさい……!!」
限りの無いその慈愛に殉情に、気づくのがこんなにも遅くなって。
メイテツとキューコは顔を見合わせた。戸惑いと躊躇いが動作を制限していて、二匹はしばらく脳内に思い描いた通りに、体を動かせずにいた。 二匹のぐずついた様子にシュヒは一瞬だけ表情を曇らせたが、直後何か思いついたように顔を上げて、胸に抱いていたメラルバを地面に下ろした。そうしてから緩やかに両腕を開き――微笑んだ。
「……!!」
途端に二匹の表情が明るみ、彼らは金縛りから解放された。迷わず、少年の元へと駆け出した。 満面の笑顔でシュヒは二匹を抱き止める。どうして今まで出来なかったんだろうと不思議なほど容易く。二匹の、傷だらけだけれど強い強い命の温もりが、とてつもなく愛おしくて、全身が温かくなった。
「メイテツ、キューコ、おれを守ってくれて、ありがとう……」 「めえん!」 「ルグー!」
いいんだよ。気にしないでいいんだよ。
シュヒにはにこにこと笑う二匹が、そう言ってくれている気がした。言葉は解らないけれど、彼らの気持ちが自然と、触れ合った体を通じて伝わって来る気がした。 二匹にも、自分の気持ちは伝わっているだろうか。いや、きっと伝わるはずだ。だって自分たちは同じ場所で育った、家族なのだから。
「おれを……愛して、くれて……」
兄と姉として、弟のように。時に父と母として、息子のように。 居なくなった父と母の代わりに、愛してくれて。
「…………う」
微かな声と、ぽつりと額を打った水滴に促され、メイテツとキューコは少年の顔を仰いだ。微笑を浮かべていた表情が歪められ、閉じかけた双眸から落ちる涙が数を増す。
「う……う、うっ……うぅっ。父、さん……っ。母さ、ん……!」
少年の口からぽろ、と紡がれた言葉に、二匹の面差しもにわかに歪んだ。
「うあぁ、うわあああん! おとおさあああん、おかあさああああん!!」
拭っても拭っても拭え切れない悲しみと寂しさが、滂沱の涙となって決河する。二匹はシュヒの体を強く強く抱き締めて、声も無く悲泣した。
「うわああああん……!! うわあああああぁぁぁ……」
涙塞き敢えず吼え続けるシュヒに共鳴し、二匹も悲哀を苦痛を流し続けた。どんなに苦しくても、あの日以来ずっと流すことの出来なかった涙が、二匹の前で止め処無く流れ出て行った。
「シュヒくーん! メラルバちゃーん!」
町中に大声を響かせながら、ナズナは走っていた。 自分が目を離した数分の間に、少年と幼虫の姿がどこにも見えなくなっていたのだ。まるで六年前の日が再現されたようで、ナズナの心は大きく震えた。また自分は同じ失敗を犯したのか。自責の念に囚われながら、ドレディアと手分けして必死に奔走していた。
しばらくして交差点で相棒と鉢合わせ、互いがまだ探していない北の郊外へ共立って向かう。少年たちの名を呼びながら黄金の田畑の間を進む内、微かに泣き声が聞こえてきた。彼の声に違い無い。足取りを早めた。 前方にゆっくりと薄紅の畑が覗き出す。少年の涙混じりの叫びは、そこから聞こえていた。近づくと花畑の真ん中に彼の姿を見つけられた。幼虫も傍らにいる。
「シュヒく……」 「うわああん……うあああぁ……」
呼びかけかけて、ナズナは思わず足を止めた。言葉を失い、目の前の光景に見入った。 秋桜畑の中で。メラルバが見つめる先で、少年はずっと避けていた二匹のポケモンを抱き締めて、泣き崩れていた。
――ナズナさん。
――恐らくシュヒくんを本当の意味で救うことが出来るのは、彼らだけだよ。どんなに時が経とうと、いつになろうと、彼を救えるのはシュヒくんを家族のように愛している、あの二匹だけ。
別れの前夜、翁が最後に残した言葉が、ナズナの耳許に鮮やかに甦った。
――同じ者を愛し、同じ場所で同じ時間を過ごし、同じ思い出を持った、家族だけなんだ。彼らと同じ悲しみを分かち合えた、その時。
――初めて、彼は救われるんだよ。
カナワの町並みの中を、楽器の音色が瀏亮と風に乗って滑って行く。それは徐々に空気に溶けて薄れながらも、少年たちの元へと流れて行く。 駅舎と町とを繋ぐ陸橋の中心で、若葉色のワンピースの少女がフルートを奏でている。
深い深い愛情に満ちた、優しく、温かな子守歌を。
《おしまい》
――――――――――――――――――――――――――――――――
・秋桜は美味しくないと思います(開口一番)。 ・やっとこさ完結したよ(感涙)。秋桜畑は当然絶え果てているよ(号泣)。それどころか巷は絶賛クリスマス&正月ムードだよ(慟哭)。ええい六つ子めコノッコノッ(責任転嫁)! ……年賀状描かなきゃ…… ・始めはただ単にポケモン嫌いな少年のちょっと胸糞悪い話にしようとしていたんですが、よくある路線変更。自分自身がブラックな反動なのか、ピュアでイノセントなキャラクターと話しか書けません(人´∀`*)単に現実逃避しているだけとも言う。 ・ポケモンが苦手なのにポケモンに好かれる人…ってどこかにいたなと思ったら、バトナージのリトルパパでした。多分ミルクの匂いがするからだとオレは睨んでる(by.ダズル)。 ・気づけば虫だらけ。イッシュは虫の一大生息地ですか。ところで虫タイプ使いの女性ジムリーダーか四天王はまだですか(BW2とXYにいたらすみません)。 ・アデクについては、こんなじーちゃんだったら素敵だ!と思いながら書きました。燃え自己供給。どなたか私にアデクの話を下さい。あわよくばゲーチスも。← ・(九)と(終)は繋がった状態で書くつもりでしたが、途中で出来てる所まで先に投稿した方がいいかと思い立って切り離しました。一気に書くにはやはり長かった。 ・もっとさくさく進めたいのに何回も見直してねちねちいじってしまう癖も、数をこなせば改善出来るでしょうか。ゼクロム教信者(理想高過ぎの意)脱したい。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました!
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【きみをすくうもの】
(一)〜(四) 2011.4.29完成 2015.4.15修正 (五) 2015.4.15完成 (六) 2015.10.5完成 絵/2011.10.30完成 ポケモンと手を繋ぐ子供は可愛いと思いませんか? (七) 2015.10.13完成 (八) 2015.11.15完成 (九) 2015.12.1完成 (終) 2015.12.14完成 絵/完成日失念 十歳前後を描くと実際より幼くなったり老けたり、ブレてしまう確率が他の年代より高い。難しい。 (+α) 2015.12.14完成 絵/2011.4.29完成 バッフロンが小さ過ぎることには目を瞑って頂きたい(泣笑)
・2015.12.1 題名を変更(君→きみ) ・2015.12.14 全編を微修正
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