春の足音がもうすぐ近くにまで聞こえて来た、晩冬の空の下。 庭に広がる木の実畑を眺め歩いていたナズナとドレディアの方へ、砂埃を立て突っ走って来る影が三つあった。
「ナズナさんっっ!!」
背中にメラルバをくっつけ、モンメンとズルッグを引き連れて突然木々の影から勢い込んで飛び出して来た馴染みの少年の、切羽詰まった顔と声にナズナは大いに動揺した。彼女の隣のドレディアも大層驚き、持っていた摘花を落としてしまう。
「なに?! どうしたのシュヒくん?!」
すわ非常事態かと慌てて問いかけた少女へ、シュヒは必死の形相を顔面に貼り付けて、
「アデクじーちゃんって! ポケモンリーグのチャンピオンなんだって!!!」
そう、返した。
「……………………」
ナズナはしばし、少年の発言を読み解くため黙考し――理解するや、きょとんとさせていた面差しを一気に弛緩させ、破顔した。
「うふふふふ! シュヒくんやっと解ったんだ〜!!」
今度はシュヒがぽかん、とした顔つきになる番だ。
「えっ? ナズナさん知ってたの?」 「実は会った時からね。キミズさんに話を聞いた時は私も、まさかー!? って思ったよ」 「そんな前から知ってたの……!」
彼女の返答に、少年は少々たじろいだ。
事実が発覚したのはつい先刻。散歩中に通りかかった交番の前で、キミズ巡査と、町長でありナズナの父親であるコウジの会話を、なんとなく聞き流していた折りであった。
「まさかチャンピオンが、こんなちっちゃな町に来てくれたとはな〜」 「すまんね。会わせることが出来なくて」 「いやぁまあ、僕口軽いですからねぇ、仕方無いですよ。ああいう事情があったんじゃ余計にね。でも一目でいいから見てみたかったよなあ」
二人は昨秋カナワを訪れていたというチャンピオンの話に夢中になっており、シュヒたちには気づくのきの字も無かった。町長の言い方を聞く限り、チャンピオンと直接話したのは巡査他若干名であるらしい。シュヒは、町長の口から漏れて町中の噂にならなかったのはナズナが厳しく注意したからなのかな、と考え、どんな事情があったら噂になっちゃ駄目なんだろう、と疑問に思った。みんなに騒がれずにのんびりしたかったのかな、と適当に自分の中で結論づけ、それ以上は深く考えなかったが。
「トレーナーカードならデータを残してあるけど、見るかい?」 「さすがキミズさん、抜け目が無い。見ます見ます!」
屋内へ入り、ノートパソコンの画面を覗き込む二人。キミズはチャンピオンが提示したトレーナーカードを念のためスキャンし、保管していたようだ。これを使ってリーグ本部に、彼が本人であるかを確認したのだと説明していた。
「ほおっ、なかなかお歳を召してらっしゃるんですね」
証明写真でもあるのだろう。コウジがふむふむ頷きなから、そう述べた。 シュヒは周囲の者ほどチャンピオンに興味は無い。長い間ポケモンに関する事柄と無縁であったから、チャンピオンという名の持つ魅力が、彼にはピンと来ていなかった。とりあえずチャンピオンが凄いのは解るが、どれほど凄いかは正直よく判らない。だからシュヒは二人に話しかけも、覗き見もしなかった。
交番前の生け垣に腰を下ろし、彼らの話をバックミュージックにして少年たちは休憩する。ナズナがクラブで作ったと言って譲ってくれた三色のポフィンを提げていた袋から取り出して、緑色の物をメイテツに、黄色い物をキューコに渡す。そうして残った赤い物を半分に千切って幼虫に食べさせていた時、決定的な言葉が耳に飛び込んで来たのだった。
「イッシュ地方ポケモンリーグチャンピオン、アデク、か〜! また来てくれると嬉しいんだがなあ」
その刹那の少年の驚きたるや、一体全体、いかほどの物であったか……。
「アデクじーちゃんがチャンピオンなんて……おれ全然知らなくって……」
知っていたらそれらしくしたのに。少年は眉根を寄せて俯いた。 怒らせてしまったり、悲しませてしまったり、それに食事まで作ってもらったり、謝りたいことばかりしてしまった。今更悔いてもしょうがないのだけれど、シュヒは自分の仕出かしてきた所業を思うと、恥ずかしくて恥ずかしくて仕方が無かった。
あの老翁の纏う雰囲気が他の人間と違っていたことは、少年もなんとなく感じていた。それが王者故のオーラだったのかまでは不明だが、そもそもそれ相応の力を持っていなければ、自分の家に泊めるなど巡査が承諾するはずが無かっただろう。
「じーちゃんがイッシュで一番強いポケモントレーナー、なのかぁ……」
チャンピオンという漠然とした言葉が、アデクという確然とした形を持ったことで、ようやくシュヒもチャンピオンに興味が湧いてきた。あの人が頂点に立っていて、みんながあの人に憧れているなら、イッシュのポケモントレーナーは好い人ばかりかも知れないと、そう思った。
「キミズさんの他には、私たちがアデクさんと沢山お話をしたってこと、出来る限り内緒にしておこうね? なんだか大変なことになっちゃいそうだもの」
レーちゃんのこともね。ナズナはメラルバの頭を撫でながら、そう言い足す。
「うん。内緒だね」 「めぇん!」 「ルッグ!」
少女に頷いて見せ、シュヒは両隣のメイテツとキューコを見やった。少年と視線を交わした二匹が、にっこり頬笑む。
「ラル〜!」
それから少し遅れてレール――シュヒが付けたメラルバの名前だ――がご機嫌な声を上げて、二人と二匹は高らかに、和やかに笑い合った。
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