残照遊ぶ 上
何が見えただろう。
木、草、花、空、雲、海、風、土煙。
必死でしがみついたガブリアスは、大地の匂いがした。乾ききった辛い砂地で出会ったガブリアスは今や、苔むすような甘い土壌や、埃立つような洞穴の酸い砂埃や、泡立つような海辺の苦い砂礫のにおいを纏った。複雑な土の匂い。カロスの地を知る音速の竜。
しかし主人に首に纏わりつかれては、おちおち音速も出せぬ。
ガブリアスは主人を肩車していた。そのまま疾走していた。主人が振り落とされるや否やは主人の腕力のみにかかっている。しかし剛力で首を締め上げられればさしものガブリアスも首が締まる、当然のこと。その上怪力で纏わりついたらば、ガブリアスの鮫肌にて主人の腕が傷つきかねない。
すべてはガブリアスが速度を落とせばおよそ解決する話なのだが、そうは問屋が卸さない。
ガブリアスと主人は、猛牛の群れに襲われていた。
ケンタロスの大群である。
この昼下がり、ガブリアスの呑気な主人がぽてぽてと草地を歩いていたところ、うっかりタマタマを踏み潰し、怒り猛ったタマタマの念力が草地を根こそぎ薙ぎ払い、その神通力の猛威たるやたちまち天候をも変転させ、静穏たる晴天は黒々とした暗雲に呑み込まれ、波濤の崖に激しく打ち付け白き飛沫の舞い上がること泡雪の如く、青嵐尽く木々を薙ぎ倒し哀れな花弁を無残に散らす。滝の如く降り注ぐ大雨、長閑なる12番道路はフラージュ通りを水幕の如く覆い、青草をみなひれ伏さす。
落雷ひっきりなしに大気つんざき、その稲妻一つ、草原にて眠る猛牛の鼻先をぴしゃりと打った。はてさてその性質は暴れ牛、敵に喧嘩を売られたとあらば破滅しつくすまで追い立てる。
ケンタロスの咆哮一つ。その傍に眠る同胞も一斉に目覚め立ち上がる。
大雨暴風落雷止まず。
猛牛たちの目にとまったのは、むべなるかな、否、運悪しくもタマタマを蹴飛ばしたガブリアスの主人である。
ガブリアスの主人はぴゃあああと間抜けな声で絶叫し、困ったときのガブリアス頼み。モンスターボールの光から現れ出でたガブリアスの肩に颯爽と飛び乗り、ガブリアスに遁走を命じた。
主人はカロスの闘牛士でない。ただの若きポケモントレーナーに過ぎぬ。
逃げるほかなかった。これほど多勢に無勢とならば、いかにガブリアスといえどその地震をもってしてもすべて仕留めきれる自信はない。――逃げてぇぇぇ! トレーナーは号泣しつつ命じる。ポケモンは従う。応、逃げねば。行動をもって応える。
ガブリアスは疾走した。
何が見えただろう。
木、草、花、空、雲、海、風、土煙。
背後から追い来るもの。――怒り狂った猛牛たちの唸り声。大地を踏み鳴らす原始の踊り。
濡れそぼりぬかるんだ草地くたされ、爪に蹄にかけられて泥沼と化し、あとには草の芽すら残らなかった。冒涜、凌辱、無比冷酷なる暴虐。彼らの通った後には破滅しかもたらされず。
篠突く雨に途切れない。暗雲おどろおどろしく轟き、ガブリアスにしがみついた手を傷だらけにした主人がおらぶ。
「ピカさん、雷――!」
ガブリアスの肩に乗った主人、その主人の肩に乗ったピカチュウ。
ピカチュウが跳ぶ。その顔は凶悪に笑んでいた。天の雲間に電気の満ちることこの上なく、ピカチュウはただ微かなきっかけを与えてそれを導くだけで宜しかった。不満溢れる嵐雲は勇んでその怒りを雷の魔獣に委ねた。
白い閃光。
炸裂音。
千々に分かたれた稲妻の舌先が、次々とケンタロスをバッフロンへと変えてゆく。
とはいえ、突進する猛牛たちの勢いがそれで急に殺がれたわけではない。
アフロブレイク。と呼んで差支えなかろう。
植物というのは、たくましいものだ。
すっかりしなだれたと思われていたものも、環境さえ整えばたちまち生気を取り戻す。
午後の光が差している。
雲は白く風に吹きはらわれ、元の如く太陽が顔を出していた。草原の影は払われた。
草原のあちらこちらでは、濡れそぼったバッフロンが横倒しになり目を回している。
首をもたげた草の一筋に、露の玉がゆらゆらと煌めいて揺れ、緑から零れる。
雫ははたりと、その頬を打った。
黒い睫毛が微かにふるえ、吐息にけむり、ようようその瞼が押し上げられる。灰色の瞳は青草を銀の鏡のように映した。
その傍らに座り込んでいたガブリアスが息を吐き、ピカチュウがその顔面に飛びつく。
「……ぐるる」
「ぴかちゃあっ!」
「おむっ」
ピカチュウの黄金色の柔らかな腹に窒息させられかけたセッカは、両手でピカチュウを顔面から引きはがした。寝転がったままピカチュウを高く掲げる。そしてふわりと微笑んだ。
「……ピカさん。アギト」
セッカは腹筋を使って、濡れた草の上からのっそり起き上がった。
そしてガブリアスを見やって、目を点にした。
「……おま……何食ってんの? ナナシ?」
ガブリアスは片手にナナシの実を持ち、その固い皮を容易にむしむしと食い破っていた。酸っぱそうな顔をしている。
セッカの口中に途端に唾が湧いた。
「……え? 何それ? ちょ、お前ばっかずるいって」
「……お前もこの実を食べるのか?」
その背後から聞こえてきた男のしわがれたような声に、セッカは跳び上がった。
そして慌てて背後を振り返って、ますます度肝を抜かれた。
「ぎゃああああ……ああ……あ……あ…………?」
その男は、凄まじい長身だった。
3mはあろうか。
セッカは草地に座り込んだままぽかんと口を開けて、ほとんど後ろにひっくり返りそうになりながら大男を見上げていた。そしてひっくり返った。
ピカチュウが笑いながらセッカの顔面に飛びつく。
「ぴぃーかちゃあ?」
「おむっ」
大男は無言だった。セッカはピカチュウを顔面から剥がし、腹筋で起き上がりつつも、大男をまじまじと見つめていた。人として有り得ない身長だ。ガブリアスの1.5倍くらいある。巨人だ。何がどうしてこうなった。
老人だった。その白髪は長く垂れさがり、肌は浅黒い。その体に合う衣服がないと見えて、袖や裾は別の布で継ぎ足されている。胸もとに古びた鍵を提げていた。
巨大な老人は両手にナナシの実を数個抱えていた。そして無言でセッカを見下ろしていたかと思うと、ゆっくりと自分も濡れた草の上に座り込んだ。
「……食べるか」
「あ、あい……どぅ、ども」
大男に差し出されたナナシの実を、セッカはおっかなびっくり受け取る。そしてナナシに歯を突き立てながらも、目を真ん丸にして男を見ていた。
ガブリアスはすっかり寛いだ様子で座り込み、大男にも警戒を見せることなく、濡れた草地を眺めている。
ピカチュウはセッカの膝に両前足を乗せて、ナナシの実の中身をねだる。セッカは苦労して歯で皮を剥いたナナシの汁をピカチュウにも吸わせてやった。その間も、大男から真ん丸に見開いた目を離さなかった。
「……じーさん、でけーなー……」
ようやく漏れたのは、およそ無礼な驚きの声だった。大男は特に返事もせず、残りのナナシの実を袋に詰め込んでいる。
「あんた、誰?」
「……ただのオトコだ」
「見りゃ分かるっす。異常なオトコだってことは」
セッカもまたナナシの果肉を啜り、酸っぱさに顔を引き攣らせた。しかし能天気な性格のゆえにか、この酸っぱさはたまらない。ナナシの実はセッカの大好物である。
きゅっと酸っぱいナナシの実をもしゃもしゃもしゃと咀嚼し飲み込んでしまうと、セッカは勢い良く立ち上がった。しかしそれでも座っている大男の視線の高さとほとんど変わらなかった。
セッカは目をきらきらと輝かせて、老人に両手を突き出した。
「ねえねえ。じーさん、だっこして!」
「……抱っこ、だと?」
戸惑う老人にセッカは掴みかかる。
「おんぶして! だっこにおんぶ! 高い高いして! 肩車してぇ――!」
「……なぜ」
「背ぇ高いもん! アギトよりでっかいもん! ねえ肩車してよねえねえねえ――っ」
セッカがテンション高く老人を拝み倒すと、老人は無表情のままのそりと立ち上がった。そして巨大な掌でセッカの腰をがっしりと掴むと、機械的に持ち上げる。セッカは大喜びである。
「しゅごい! 高い! ねえびゅーんって飛行機して! ひこーき!」
そして老人とセッカは、風になった。
「ぎゃははははははははぎゃっはははははははやべー! たけー!」
老人は高く掲げていたセッカの体をそろそろと下ろす。体は巨大でもやはり老人なりに疲れたものか、僅かに肩で息をしていた。
セッカは興奮で顔を赤くしながら、鼻息も荒く老人に詰め寄る。
「たけー! すっげー! たけー! あんたのこと、竹取の翁って呼ぶわ!」
「……オキナ……?」
「あんた竹取物語も知らねぇのかよ! このカロス人が!」
「……お前は」
「俺は半分ジョウト人の半分カロス人ですぅ! 畜生このカロス人め竹取物語も知らねぇとか! この竹取の翁が!」
セッカは勝手にぷんぷんと怒り出した。なぜウズから教わった昔語りを、こうもカロスの人々は知らないのだろうか。モモン太郎とか、エイパムクラブ合戦とか。
仕方がないのでセッカはどすりと草原に再び腰を下ろし、老人にも座るよう促す。
それから竹取物語をした。
「昔々、本当に遠い昔、竹取の翁とかぐや姫がいました! とても愛していました!」
「…………そうか」
セッカは巨大な老人を相手にせっせと竹取物語を語ってやった。
のどかな青空、ここはメェール牧場だった。北東遠くにアズール湾の青が見える。
すっかり雨は上がり、メェークルたちも草原に出て草を食み、あるいはうとうとと昼寝を始め、メェークル同士で無邪気に遊びまわるものもある。
雨露に濡れた草地は太陽に光にきらきらと輝き、風に撫ぜられるたび玉の飛沫を跳ねかす。
青い草原の只中に、セッカと大男は向き合い、若き者が老いたる者に対して物語をしている。ピカチュウがセッカの膝の上で丸くなり、ガブリアスもその傍らで黙然として目を閉じる。
風が眩しかった。
セッカの話は、適当だ。元が昔話とあって理論構成もあったものではない。
「……そんでかぐや姫は月に帰っちゃって、不死の薬だけが残りました。でもショックだった帝は、その不死の薬をシロガネ山のてっぺんで焼いちゃったんだって。お終い!」
勢いで語り終え、セッカはふんぞり返る。クノエの図書館でさんざん子供相手に読み聞かせをしたため、語りには自信はある。これでカロス人にもまた一人竹取物語を知る者が増えたのである。
老人はすべてを黙って聞いていた。巨大な体を窮屈そうにかがめて、老亀のように静かに、動かずに耳を傾けていた。セッカの話が終わっても何の反応も寄越さない。
風が草原を渡っていった。
微かに潮の香りを運んできた。
セッカは首を傾げた。
「ど、どしたん?」
「……なぜミカドは、不死の薬を焼いたのか」
「え? な、なんでって」
「……不死の薬で生きていれば、カグヤヒメにいつか会えるかもしれないのに。カグヤヒメは永遠の時間を彷徨うのだろう……?」
老人はそこに目をつけたらしかった。まさか昔話の内容に指摘を入れられると思わなかったセッカはわたわたと慌てる。
「い、いや、ほらよくあるじゃん、あれじゃん? 不死の薬ってことは年老いておじいちゃんになっちまうんすよ。おじいちゃんの姿で姫に会ったってしょうがなくね?」
「なぜ? なぜ永遠のヒメはミカドの元を去った? 私がミカドなら不死を選ぶ、かもしれない。会えない日々が続き……いつしか心を失っても……どうにかして会いたいと…………」
セッカは腕を組んでうんうんと頷いた。
「ふんふん、ロマンチックっすね、リソウシュギっすね。姿形が変わっても会えればそれでいい、と。――甘いぜ竹取の翁! 恋愛ってのはそう甘かねぇんだよ!!」
「私はオキナではない。ミカドだ……」
「うっひょぉぉ陛下を自称しますか! やるな竹取の翁! そのクライマックスはなかなかだぜ!」
セッカは興奮して笑いながら立ち上がった。しかしそれでもやっと視線の高さは蹲る老人とほぼ同じである。
「かぐや姫には会えない! かぐや姫は永遠の女性なの! だから竹取の翁も帝ももうかぐや姫には会えないの! それが分かってたから不死の薬を焼いちゃったの!」
「いや、同じく永遠の時を彷徨うなら、会えるはずだ!」
老人は鋭い声を発した。そこには威厳が、傲慢が潜んでいた。
セッカは顔を顰める。
「ムキになっちゃって、何さ。だいたい不死なんて生命に対する冒涜だし。それにたった一人の女性ばっか思い続けて彷徨うなんて、迷惑以外の何物でもない」
「意味が分からない」
「さっさと諦めて次の女探せってこと」
セッカがそう言うと、巨大な老人はのそのそと立ち上がった。
男の影の瞳が、セッカを見下ろす。
「……何も知らぬくせに」
セッカはひっくり返りそうになりながらも大きく胸を張った。
「ああ何も知りませんよーだ! でも、あんたみたいな狂ったような目をしたオトコに追いかけられたいなんて思う女なんて、いませんよーだ。ねえあんたってストーカーなの? 絶対ストーカーだよな?」
「……私とて生きたくて生きているわけではない」
「うっわぁこりゃその女を探し出して無理心中するパティーンだわ」
「そういう意味ではない」
老人は無表情だった。
「私の名はAZ。とあるポケモンを捜しているだけだ」
セッカは顎を上げたまま瞬きした。そして深刻そうな顔になった。
「…………クローゼット?」
「AZだ」
「……エージェントダ? エージェント戸田さん?」
「エーゼット、だ」