世界の終わりの三日前
白の男に出会ったのは、世界が終わる三日前のことだった。
ゲームの勝者になる資格を持つはずのその男の顔は白く、窪んだ眼からは光が消えようとしている。
赤でもなく緑でもなく、そして青でもない最後の色。存在しない色。無色。
無色の男は、自身が消えることを望んだ。戦うこと、考えること、悩むこと、殺すこと、そして生きること。それらから逃げることを、彼は欲した。
俺は、片手で持ち上げられるほどにやせ細った男の手をつかみ、注射器を差し込む。毒を注入する。
それが、世界の終わる、三日前。
俺は世界の終わりに興味はなかったし、無色の男にも興味はなかった。
俺はただ、一人の人間を生き返らせようとしていた。
世界の終わりより、重要なことがあった。
ゲームマスターは、それを知らない。
◇
アリサが死んだ。
広報に「ケーシィ」の文字が出た。その横に、アリサの名前があった。
どこで死んだのか、だれに殺されたのか、わからなかった。
ただ、死んだということだけが分かった。
ゲーム開始から2か月と3日たった、雨の日のことだった。
季節は、冬に変わろうとしていた。
俺はドラミドロのフレイヤを伴い、東京湾を潜行していた。いつものように海水サンプルを取り、ビンに詰め、そして業者に引き渡す。
オフィスに戻ると、前回の調査データの解析結果がメールで送られてきていた。添付されたExcelファイルを開き、定型処理を済ませる。
このとき、うっかりして必要なデータを間違って消してしまった。しかし、メールを開きなおすと、添付ファイルが残っていた。もう一度そこからデータを切り貼りし、整形する。出来上がったファイル一式を共有フォルダにアップする。
定時を過ぎたころに同僚にあいさつし、オフィスをでる。俺の姿を確認し、フレイヤが目の前に降り立つ。俺はフレイヤにまたがる。雨に濡れた毒竜の体は冷たく、俺の服もじっとりと湿った。そしてフレイヤが音もなく飛び立つ。俺は透明なビニル傘を差しながら、ぼんやりと地上の明かりを見つめる。
急行がとまらない小さな駅を2つ通り越し、築20年のアパートの2階に降り立つ。
宅配されてきた荷物が発泡スチロールの箱に入ってドアの前に置かれている。俺はそれを担ぎ、ドアの錠を開け、フレイヤとともに部屋に入る。フレイヤに肉を食わせ、自分は宅配されてきた弁当をそのまま食べる。
広報の時間になったので、テレビをつける。
アリサの死を知る。
驚くべきことではなかった。
人は、いつか死ぬ。
ゲームのプレイヤーならなおさら、死を身近に感じているはずだ。
認められないことではなかった。認めなければならないことは知っていた。
彼女の死は、マッチが燃え尽きるのと同じくらいに自然なことで、ありふれたことで、予測可能なことだった。俺は何度もこの状態を脳内でシミュレーションした。
決して動揺しないように。
自分の計画に影響を与えないように。
俺の思考は次の段階に移った。
予定されていたことだった。もし彼女が死んだら、このように考えようと、あらかじめ準備をしていたのだ。
俺はフレイヤに問いかける。
「さて、どうやってあの女を生き返らせるかな」
◇
ポケモンはゲームのキャラクターだ。
ポケモンが現実社会に現れた当初の疑問はこうだった。
なぜゲームのキャラクターが現実世界に現れたのか?
俺はこの疑問を抱かなかった。
この疑問は、的外れだと思った。
俺はこのように問うた。
なぜ、この世界がゲームの一部であることが露呈し始めたのか?
黒い服の男が答えることはなかった。フレイヤも、もちろん答えを知らない。
現実世界にゲームが入ってきたのか、それとも、もともとがゲームの一部だったこの世界がゲームだと露呈したのか。どちらなのかを確かめる方法はない。
でも、今はそんなことはどうでもいい。
アリサが死んだ。
もしもこの世界が物理法則にのっとった”現実”ならば、彼女が生き返ることはない。
しかし、この世界がゲームなのだとしたら、話は別だ。データを復旧すればよみがえる。古いデータを切り貼りすれば、完了だ。
この世界がゲームでなくては困るのだ。
この世界は、ゲームの一部である必要がある。
俺はこのゲームの勝者になるつもりはない。
俺は、このゲームを作り直す。
◇
カイバ女史は不機嫌だった。
ゲームの進捗が思いのほか進んでいないからだ。
イベルタルを制止させたのち、オペレーターである私がカイバ女史に進捗を報告する。カイバ女史が直属の上司に進捗を報告する。その上司がさらに上の上司に申告し、また別のオペレータへとデータが移り、スケジュールを監視していた男が遅延に気づく。
遅延に気づくのにここまで長いプロセスを経なければならないのは非効率だと思った。しかし、分業をすることが効率的だという決まりがあるため、今の業務が最も効率的だという認識で社会が動いている。
この非効率性は、私にとって、遅延がばれにくいという意味においてはありがたいことだったかもしれない。しかし、小さなミスを隠すことによって、より大きな問題が発生する。些細な仕事をさぼったため、とても大きな作業依頼が舞い込んでくる。
経営はゲームだ。しかし、プレイヤーを自分の手で直接操作することはできない。
そこで登場するのがインセンティブだ。
インセンティブ。動機づけ。あるいは「やりたいと思うこと」。
社員を働かせたいと思ったら、働くことによる報酬を与えればいい。あるいは、働かないことによる罰を。
第一弾は3月ルールの設定だった。ゲーム開始から3か月たった時に、同じ色のプレイヤーが残っていれば、みんな死ぬという触れ込み。これはうまくいった。ゲームの進みが一気に加速した。逃げ続けるという戦略が意味をなさなくなったからだ。本当に3か月後に自動で殺せるはずがないというのに、愚かなプレイヤーたちはこのルールを盲目的に信じ、殺し合いを始めた。
第二弾は広報の実施だった。
人間は自分の作業に意味を見出すと作業を進めやすくなるという。これを利用した。自分が殺した相手がテレビに名前付きで出てくるのだ。これは大きなインセンティブになるだろう。また、残り人数が把握できるため、プレイヤーは目標設定がしやすくなる。ゴールが見えていれば、最後の力を振り絞って走りきることもできるはずだ。
しかし、まだ足りない。
まだプレイヤーが大勢が残っている。
3月ルールがあるというのに、戦おうとしない者がいた。まったくもって理解しかねる。逃げ続けていても死ぬというならば、自分の可能性に賭けて戦うのが普通だ。生きる可能性が完全にゼロである状態と、0.01でもある状態とを比較して、どちらが良いのかも分からないのだろうか。
ひどいときには、同じ色のプレイヤーを守ろうとする物までいた。
愚かだ。自己の利益の最大化という観点から見ると明らかに不合理な選択だ。
そして、私たちは、その不合理な行動を示すプレイヤーたちの対応に追われている。
アラートが鳴った。
私はため息をつき、カイバ女史は見下すように私を見る。薄暗い部屋の中、二人で大きなPCの画面を見つめる。
よく見ると、「警告」ではなく「情報」の通知だった。
何が起こったのかを見る。
私はカイバ女史と顔を見合わせ、少し含み笑いをしながら、データ転送の準備を始める。
このアラートを、内部では「世界が壊れる音」と表現したようだ。
このセンスは悪くない。
文字通り、これでゲームが終わるのだから。
私たちは、ゲーム終了の三日前に、彼を野に解き放った。
無色グループの勝者、最強のポケモントレーナーを。
◇
アリサが死んでから、海ではなく、川に行くことが多くなった。これは俺の研究の成果を発揮するためであったし、ゲームマスターの目をごまかすためでもあった。ほぼ毎日、利根川、荒川と多摩川の上流を行ったり来たりしていた。距離があるので、川をめぐるだけで一日が終わる日もあった。音もなく空を飛ぶフレイヤのおかげで、人に会うこともなく作業を進めることができた。
「音」を聞いたのは、人目につかない山奥でフレイヤを休憩させているときだった。日が沈みかけたころ、カシの木の根元でペットボトルに入った水を飲んでいると、地面が陥没するような大きな音がした。
俺は慌ててフレイヤにまたがり、飛翔する。ほかのプレイヤーに狙われたと思ったからだ。フレイヤは水中戦のほうが勝ちやすい。山奥で狙われたならば、毒ガスを張って逃げるのが得策と思った。
しかし、一向に敵が現れる様子がない。
念のため毒ガスを張り、川まで静かに飛翔する。濁った水が見えたところで、ゆっくりと潜水を始める。
無事に帰り着けた際には少し安心したが、「音」がプレイヤーのものによるものではなかったことを知り、少し損をした気分になった。
それと同時に、ゲームマスターが動く日が近いことを悟った。
「で、お前が噂の無色か」
その男に出会ったのは、世界の終わりの三日前。
「お前がこの世界を壊すのか」
俺が彼に尋ねると、男は静かに首を横に振った。
そして、男は静かに口を開く。
「頼みがある」
「なんだ」
男は生気のない目で俺を凝視する。
「殺してくれ」
わかったと、俺は返事をする。
乞われるまでもない。
それが、このゲームのルールだ。
世界が終わる三日前、世界を壊すはずだった男は死んだ。
それでも、時計の針は戻らない。
今日が、世界が終わる三日前。
そうでなくては、困るのだ。
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