明け渡る空 下
インターホンの呼び出し音が室内に響いた。
レイアはぼんやりと目を開ける。固いカバーをかけたままのベッドに横たわっていた。いつの間にか寝入っていたのだ。
すぐ傍にはヒトカゲが丸くなって眠っていたが、こちらも呼び出し音に反応して目を覚ました風である。
ホテル・ショウヨウの四階のシングルルーム。
キナンの別荘よりも数段劣る簡素な牢獄。けれどその部屋の鍵はレイアのいる室内から開けることができる。外から呼び出す者を室内に招き入れるくらいなら可能だ。
レイアは目を覚ましたが、頬をシーツに押し当てたまま、呼び出しに応える気はなかった。
心は荒れ果てたまま凍った。これ以上奪われてたまるかという防衛本能で身を丸くする。動く気にもならない。
そうしていると、身を起こしかけたヒトカゲも再び丸くなり、目を閉じる。その尾の炎は夕陽色に優しく揺らめいている。窓からは夕陽が差し込んできていた。
コンコンと扉がノックされる。
ロフェッカだろうか。ロフェッカならばレイアは会う気はさらさらない。片割れたちがここに現れるはずがないと、レイアは直感で悟っていた。片割れたちに関する直感は九分九厘的中する。キョウキもセッカもサクヤも、ここには現れない。
扉の向こうから、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「……レイアさん、ザクロですが……」
訪問客は、ショウヨウシティのジムリーダーのザクロであったらしい。レイアをショウヨウまで送り、ポケモンセンターに五体の手持ちを預けさせ、そしてロフェッカに引き渡した張本人。
であるから、今やレイアにとってはザクロも敵同然だった。無視して微睡む。
ヒトカゲの傍で目を閉じる。
ここは牢獄。あるいは聖域。レイアだけの領域。
そうしてしばらくうつらうつらとしていると、今度はがちゃりと入口の戸の鍵が開けられる音がして、今度こそレイアはびくりとして身を起こした。あると信じていた壁が破られ容易く侵入を許した。
外から鍵が開けられ、扉が開く。
部屋の鍵を持って現れたのは、ザクロを伴ったロフェッカだった。
レイアはベッドの上で素早く胡坐をかき、まず鍵を持ったロフェッカを無表情に睨み上げた。その自分の姿勢が無防備で心細かった。
ロフェッカがそれを見下ろし、苦笑する。
「いやぁ、すまんな。だが、こちらのザクロさんがお前に話があるってんで、俺は失礼させてもらうぜ」
そう言うなりロフェッカはさっさと踵を返し、ザクロを部屋に置いたまま部屋を出ていってしまった。
残されたザクロは、狭いシングルルーム内に立ったまま遠慮がちに微笑んでいる。夕陽に彩られた褐色の肌が美しく輝いていた。レイアはザクロの長い腕にぼんやりと見とれていた。
「急にすみません、お話は伺いました。私でよければ、レイアさんと話をしたいのですが」
レイアは無表情で、無言だった。ザクロに出ていけとも座れとも言わない。ただベッドの上で胡坐をかいたまま、全身を強張らせ、視線を落としている。
ザクロは立ったまま静かに口を開いた。
「……レイアさんのお怒りはもっともです」
レイアは無言だった。
「……私にもどのようにするのが最善なのかは、分かりません。ただ、ロフェッカさんの仰ることを鵜呑みにし、結果的にレイアさんにこのような思いをさせてしまったことは、無責任だったと感じています。せめて、何が起きるかをきちんと知った上で関与すべきでした」
ザクロの声音は誠実だった。そのひとらしい言葉だった。レイアは目を閉じる。無言のまま。
「……私もレイアさんと同じことをされれば、非常に腹が立ちます。けれども、私もポケモン協会に属するジムリーダー。協会の決定に逆らう権限はありません。逆らうつもりもありません。なぜなら、多くのトレーナー達に迷惑がかかるからです」
その言葉が発せられるのは分かりきっていたことだったが、改めてレイアはこのジムリーダーに失望した。
「……おそらくポケモン協会は、あなたたち四つ子からポケモンを取り上げ、何処かのホテルに滞在させるでしょう。もちろん生活は保障されますし、四つ子さんの損害に見合った見舞金は支払われます」
「ザクロさん」
レイアはぼそりと、目の前に立つジムリーダーの名を呼んだ。ザクロ自身には期待はできない。けれど少しの頼みなら聞いてくれるはずだと、レイアは思った。
ザクロは僅かに顔を上げた。
「はい、何でしょう」
「……連絡とりたい人、いるんすけど」
「片割れさんたちとの連絡は、さすがに難しいでしょう」
「違うっす。裁判官のモチヅキって人……捜してくれませんか……クノエのジムリーダーのマーシュさんが、ウズっていう俺らの養親と知り合いで……そのウズが、モチヅキの連絡先知ってるはずなんすけど」
レイアがそう言うと、ザクロは頷いてホロキャスターを取り出した。レイアの言った通りにマーシュと連絡をつけ、ウズを経由し、モチヅキに連絡を入れる。そこまでは驚くほどスムーズにうまく繋がった。
つまりウズは何も尋ねずに、ジムリーダーにモチヅキの連絡先を教えたということだ。それはレイアにとっては意外な事だった。
そうして半刻ほど経っただろうか。
日は沈み、外は暗くなる。けれど部屋の明かりは点けないまま、闇に沈むようなザクロはずっと立ったまま、着信を待ち続けた。
そしてザクロのホロキャスターに連絡が来た。モチヅキからである。
ザクロがモチヅキといくつか挨拶をしている。レイアはヒトカゲを膝の上に乗せ、それをぼんやりと眺めていた。
やがてザクロがホロキャスターをレイアに差し出すと、レイアはそれを手を伸ばして受け取り、そのままぽとりとベッドの上に落とした。そしてモチヅキの姿を映し出した立体映像を覗き込む。
「……ども」
『レイアか。一人か。……簡潔に用を言え』
「なんか……捕まったんすけど……」
『埒が明かぬ。ザクロ殿に戻せ』
そうモチヅキが映像の中で相変わらずの仏頂面で言うので、レイアは仕方なくホロキャスターをザクロに返した。そしてザクロがモチヅキに事情を説明するのをぼんやりと聞いていた。
レイアはポケモン協会に捕捉された。ポケモンセンターに預けた手持ち五体を協会に差し押さえられ、レイア自身の身柄はホテル・ショウヨウで保護されている。ポケモン協会は引き続き、キョウキとセッカとサクヤの捜索をしている。
ザクロは説明を終えると、再びホロキャスターをレイアに差し出す。レイアはそれを受け取ると、やはり、ぽんとベッドの上に投げた。薄暗い部屋の中で、モチヅキの立体映像が乱れた。
レイアは無表情で映像のモチヅキを見下ろす。
「……で……俺、どうするべきなんだろ」
『どうするべき、だと? ――協会に大人しゅう従え。それでも不服ならば、弁護士を雇い、協会を相手取って裁判でも起こすのだな。まあどうせ負けて、訴訟費用が無駄になることは分かりきっているが』
モチヅキはどこまでも冷淡だった。それにつられてレイアも冷淡になった。
「……随分あっさりと言うけどさ、サクヤも俺と同じで狙われてんだぞ。サクヤのこともあんた、無視するわけ」
『哀れには思う。が、協会は違法行為を行っているわけではない。止めようがない。諦めよ』
モチヅキはあっさりとそう切り捨てた。
レイアは瞑目した。小難しいことはこの人に頼れば何とかなるかと淡い期待を抱いたが、やはり無駄な足掻きだったらしい。
溜息まじりに、悪足掻きで訴える。
「…………俺はさ、せめてポケモンぐれぇは返してほしいわけ。カロスにいられなくてもいいからさ、例えばカロス出禁にして、ジョウトに行くとかでもいいわけ……」
レイアの脳裏で三色の光が点滅する。そうだ――あの科学者も――国外逃亡が無難だとか言っていた――。
するとモチヅキはあっさりと頷いた。
『ならばポケモン協会に談判してみよ』
「はい?」
レイアは目を見開き、モチヅキの立体映像に見入った。テンションは同じくせに、先ほどまでの諦めムードと態度が一変していないか。
モチヅキは映像の中で鼻を鳴らした。
『言ってみねば分からぬだろうが。榴火に関わらぬということをポケモン協会に約し、その代わりにそなたの手持ちの返却と、逮捕拘禁の賠償金、ジョウトまでの四人分の交通費を請求するがいい。それだけのことだ。理屈は通る。言うだけ言うてみろ』
「えっ」
そうモチヅキに力強く頷かれ励まされてしまい、レイアは呆気にとられた。ヒトカゲがレイアを見上げて首を傾げている。
その隣で話を聞いていたザクロも頷いた。
「それは良いアイディアですね、私からもそのように請願させていただきましょう。何としてもレイアさんの手持ちを返して頂いて、四つ子さんにはジョウト地方でのびのびとトレーナー修業を続けていただくということで、ポケモン協会の方と話をつけます。ええ、必ず納得させます」
そしてザクロが映像の中のモチヅキに頭を下げた。
「アドバイスをありがとうございます、モチヅキさん。おかげで希望が見えました」
『此方こそ、ザクロ殿には特別なご配慮をいただき誠に感謝申し上げる』
レイアがぽかんとしているうちにザクロとモチヅキは何事か話し合って、やがて一段落ついたのかザクロがレイアを見やってにこりと笑った。
「よい協力者をお持ちですね、レイアさん」
「あ、あー、まあ……。あ、あの、あー……モチヅキ、なんか色々とすまん。急に連絡したりとか」
『まったくだ』
モチヅキは最後まで憮然としていた。
通話を終え、レイアはホロキャスターをザクロに返す。ザクロは「私に任せてください」などと言って、意気揚々と踵を返す。
レイアはすっかり暗くなった部屋の中で、ヒトカゲの尾の灯火に照らされるザクロの大きな背中をぼんやりと見つめていた。
ザクロはドアを開けようとしたところで立ち止まり、レイアを笑顔で振り返った。
「私は次来るときは、ノックを四回します。そのときはどうぞ開けてください」
「……了解っす」
ヒトカゲを抱えたレイアはぼんやりと頷いた。
夜になり、ロフェッカが鍵を開けて部屋に入ってくる。部屋の明かりをつけるも、レイアはベッドの布団の中に潜り込んでロフェッカに顔も見せなかった。いじけた子供のように頑として布団から出ず、それどころかすさまじい形相のヒトカゲにひたすら威嚇されては、ロフェッカとしては部屋に夕食を置いてくるだけでそそくさと退散するしかなかった。
ロフェッカの退散後、レイアは部屋に残された夕食をヒトカゲと共にもそもそと食し、それから再び布団に潜って寝た。色々な夢を見た。
昔の夢。ルシェドウとロフェッカの夢。アワユキとリセの夢。榴火の夢。キナンの夢。
夜中に夢から醒めては、片割れたち三人が懐かしく思い出される。ヒトカゲの尾の炎が優しく揺れる。会いたい。キョウキとセッカとサクヤに会いたい。ポケモン協会のことを警告してやりたい。裏切られたのだと。
そもそも三人は無事だろうか。捕らえられていないだろうか。自分のようにモチヅキと連絡をつけることもできなくて、助けてくれる優しく心強いジムリーダーもいなくて、手持ちを奪われて、閉じ込められて、寂しく泣き寝入りしていないだろうか。
つい涙が滲んだ。
レイアの弱点があるとすれば、それは片割れたちしかない。レイアが捕まったとなれば、ポケモン協会はレイアを囮に使って他の三人も集めるかもしれない。人を囮にするなど荒唐無稽な話かもしれないが、レイアのせいで三人までもが捕まってしまうかもしれないと考えただけでレイアはどうにもやるせなかった。辛かった。自分たちは助け合わなければならないのに、自分がしくじったばかりに、三人まで苦しめる。
また、自分やザクロの要求がポケモン協会に拒絶されたらどうしようかと思った。
そうしたら自分たちはもう、ポケモントレーナーとして生きていけないのだ。榴火のために四つ子は犠牲にされる。学がないから職にも就けない。となると、どうなるのか。想像もつかない。トレーナーにすらなれなかった落ちこぼれが、社会の底辺でわだかまる。なぜ。自分たちはポケモンリーグにまで登りつめたのに。ここまで来てなぜ。
なぜこんな目に遭わなければならない。
なぜ、榴火などのために。
夜中に目の覚めたままぼんやりと思考を弄んでいて、そして空が明るんできたと思った時、四回連続のノックにレイアはがばりと跳ね起きた。
ヒトカゲの方は何の憂いもなくよく眠っていたのか、レイアの勢いに起こされてものんびりと欠伸をしていた。
レイアが慌てて部屋の戸を開けると、そこには鞄を持ったザクロの姿があった。徹夜でもしたのかやや顔がやつれているが、表情は晴れやかである。レイアはどきりとした。
ザクロは忙しなく部屋の中に押し入ると、扉を閉めて鍵をかけ、レイアに鞄を押し付けた。
「ポケモンセンターからレイアさんの手持ちをこっそり引き取ってきました。どうぞ急いで、行ってください」
「……えっ」
ザクロは早口で、なおかつ囁き声だった。聞き取りにくくレイアは聞き返すも、ザクロは有無を言わせぬ様子で、鞄の中身から五つのモンスターボールを出してレイアに身につけさせる。
「詳しくはこの手紙を読んでください。私もここに長居はできません。窓からお逃げください、できますね?」
ザクロはレイアに手持ちをすべて返すと、一枚の紙を押し付けた。レイアは頷き、それを懐にしまう。
レイアはヒトカゲを呼び、肩に跳び乗らせた。
ザクロを振り返ることなく、カーテンを閉めたまま窓を開け、ベランダに出る。窓を閉め、部屋の中の様子はカーテンに仕切られて見えない。下を見下ろす。四階。地面ははるか遠い。
ザクロがレイアを見送ることなくそそくさと部屋を出ていった音がした。早業だった。
レイアは手元に戻ってきたボールの一つを手に取る。
「真珠。ここから飛び降りる。サイコキネシスでサポートしてくれ」
エーフィに素早く言い聞かせ、そのまま躊躇わず、ヒトカゲを抱えたレイアはベランダから飛び降りた。
重力に従い加速する。地面に叩き付けられる前に、四階のベランダに残されたエーフィの念力がレイアを支え、そっと地面に下ろした。レイアはエーフィを労う暇も惜しんでエーフィをモンスターボールに戻す。続いてヘルガーを呼び出した。
「南へ。ショウヨウから出る」
声が震える。ヘルガーがゆらりと鞭のような尾を振る。
レイアはヘルガーの背に飛び乗った。ヘルガーは飛び出した。
早朝のショウヨウはまだ暗い。道に人通りは無い。
早く。早く。遠くへ。
一心に願い、考えるよりも前に帯から簪を抜き取り、ヘルガーにかざす。ヘルガーの角に掛けられたメガストーンと、簪に飾られたキーストーンが反応する。メガシンカ。そうでもしないと怖くてたまらない。
メガヘルガーはレイアを背に乗せて、街を駆け抜けた。南の8番道路、ミュライユ海岸。崖下の渚を踏み越え、あっという間にショウヨウから遠ざかる。
メガヘルガーの体躯は大きく、そのしなやかな筋肉は疲れを知らず、動きはひどく滑らかに安定している。レイアはそれにしがみついて、逆風に耐えていた。
片割れたちと、早く合流しなければ。危険だ。危険なのだ。
ザクロから受け取った手紙の事すら忘れて、レイアはただ片割れたちの事だけを考えて、恐怖に駆られて逃げた。
高い崖と山脈の向こうから見え始めた太陽が、眩しくレイアの目を焼いた。