玉兎の空 中
高くなりつつある満月の光は淡い。
パルファム宮殿に変化はない。警察に包囲されたまま、静かなままだ。
モチヅキは立ったままホロキャスターのニュースを眺めている。パルファム宮殿の立ち入り禁止の件は報じられていた。
フシギダネを頭上に乗せたキョウキは、先ほどから何件ものマスコミを渡り歩き、時には野次馬となった観光客にもアピールするように、このパルファム宮殿に逃げ込んだ悪鬼榴火がコボクタウンで己にしでかした悪行の数々を弁舌爽やかに述べ立てている。
ゼニガメを抱えたまま、サクヤはモチヅキの傍に寄り添っている。
キョウキの考えていることは分かる。より多くの報道機関に真実を伝え、一般市民に真実が伝わる可能性を少しでも高くしようとしているのだ。
けれどそこには大きなリスクが伴う。
キョウキもそれを認識しているにもかかわらず、マスコミや野次馬へのアピールをやめない。キョウキの必死さが、サクヤには痛いほど分かった。キョウキもまた、榴火への恐怖に駆られているのだ。榴火に殺されかけたからこそ、悪評も何も恐れることなく、ただただ強い言葉の力を求めて訴える。
ただ、そのリスクが大きすぎた。
フレア団やポケモン協会や与党政府は、この事件のそのままの報道を許すだろうか。キョウキのアピールは無視されるのではないだろうか。それどころか、キョウキの話を捏造すらして、逆手に持って、逆利用して、キョウキの意図と真逆の効果を引きだす報道を各社に強いるのではないか。あるいは、四つ子がかつてミアレで起こした事件を暴き出して四つ子への攻撃材料にするか。そして何かと理由をつけて、四つ子からトレーナー資格を奪うのではないか。
懸念は尽きない。
もう四つ子はフレア団とポケモン協会と与党政府の敵なのだ。何をされてもおかしくない。
――とサクヤが思っていたところ、キョウキはそれらもすべて、すべてを、マスコミの前で暴露してしまっていた。
四つ子が榴火につけ狙われていること、榴火のせいでキナンに閉じ込められたこと、そしてポケモン協会に捕まえられかけていること。四つ子の胸の内だけにしまっていたことをすべて、爆発したように喋っている。
サクヤはここでようやく、キョウキが限界にあったことを悟った。キョウキまでがここまで追い詰められていた。
キョウキの死に物狂いの訴えをぼんやりと聞きながら、残る二人の片割れに思いを馳せる。
ロフェッカに裏切られて死に物狂いでコウジンタウンに逃げ込んだレイアは、今何をしているのだろう。ミアレシティにいるというセッカは何をしているのだろうか。二人も追い詰められて、孤独に苛まれて、自棄になっていやしないか。
クノエシティにいる養親のウズや幼馴染のユディは、何も知らないままなのだろうか。
フレア団はどうするのだろう。
ルシェドウやロフェッカをはじめとしたポケモン協会は、どう動くのか。
モチヅキは無表情に、ただホロキャスターのニュースを見つめている。その黒衣の袖をそっと指で掴んで、サクヤは思考の追いつかないほど巨大な波に身を任せることを思って戦慄していた。サクヤには何もわからない。
その中でサクヤの心の最後の拠り所となっていたのは、重く鋭い黒銀の渦潮だった。あらゆる波を潰して、遠い海の彼方へ。どうしようもなくなったら四つ子は四人で、そこへ逃げる。
サクヤは袖を掴んだモチヅキに、そっと話しかけた。狂ったようなキョウキの笑い声を振り払うように。
「……モチヅキ様」
「何だ」
「……これでいいのでしょうか」
「なるようにしかならぬよ」
モチヅキはホロキャスターから視線を外し、片手でサクヤの黒髪を優しく梳く。
「もっと早うに、そなたらをジョウトへ送っておけばよかったやもしれぬな」
考えを見透かされたような気がして、サクヤはびくりとモチヅキの顔を見上げた。
モチヅキはいつもサクヤの前でそうであるように、優しい瞳で、安心させるように微かに笑んでいる。
「だからサクヤ、急げ。レイアとセッカを集めておけ。ウズ殿には私が話をする」
「……はい」
「辛いだろうが、まだだ。まだ危険だ。安全な場所に行くまで、気を抜くな。だから急げ。……死んではならない」
「…………はい」
サクヤはモチヅキにぴったりくっついたまま、頷いた。なぜだかとても切なかった。
そのとき空を切る嫌な音がして、サクヤはぎくりとした。
紅いアブソルが宮殿の塀から躍り出るのは、サクヤには見えなかった。ただ、警察やマスコミが声を上げる。幾つものフラッシュ。歓声とも悲鳴ともつかぬ声。それだけが瞬時に脳に映りこんで、何かが起きたと察した。
モチヅキの黒衣が覆いかぶさるように動いたのを、サクヤは重く感じていた。
なぜ。これでは動けないのに。
サクヤは芝生の上に尻餅をつく。その拍子に腕の中からゼニガメが転げ落ち、文句を言うのがサクヤの耳についた。
先ほどまで煩かったキョウキの声やマスコミの騒ぎ声が、しんと静まった。
サクヤは重い黒衣の下でもがき、芝生に手をつき、姿勢を戻そうとした。
そして何気なくモチヅキに触れた手に、べっとりとした感触があって、息を呑んだ。
思わず引いた手が街灯にぬるりと光った。
力なく倒れかかったモチヅキの体が重い。
誰かが嗤っている。
芝生の上を駆け寄ってきたのがキョウキだと、サクヤは見なくても分かった。見ないでも分かる。だからサクヤは冷静に、自分の足の上にのしかかっていたモチヅキの体を押しのけて、よろよろと立ち上がる。
警察が宮殿の正門に群がっているが、それらは一斉にアブソルの鎌鼬によって薙ぎ倒された。マスコミ陣から悲鳴が上がる。
サクヤはキョウキを見やった。
「モチヅキ様を」
「サクヤ」
「黙れ」
宮殿の門柱の上に、巨大な紅いアブソルが立っている。いや、違う。アブソルではない。
メガアブソル。
芝生の上で、ゼニガメが立ち上がる。
サクヤは血で汚れた手で、モンスターボールを掌の中に包み込んだ。
キョウキの声がする。
「サクヤ、モチヅキさんが」
「……榴火を止める」
ボスゴドラを呼び出し、帯から抜き取った簪に飾られたキーストーンと反応させる。
門柱の上の榴火がくつくつと笑った。
絶叫した。
メガボスゴドラが地に叩き付けた冷気が、地を迸り、門柱までもを凍り付かせる。
血色のメガアブソルは榴火を背に乗せたままひらりと宮殿前の広場に飛び降りる。榴火を下ろすと、嵐のような鎌鼬を吹き起こす。
風はメガボスゴドラの鋼鉄の鎧すら傷つけるが、メガボスゴドラは一歩も退かない。
四足を地につき耐え、尾を叩き付ける。
それをメガアブソルはひらりと躱し、辻斬り。
受け止める。
そこに岩雪崩が降り注いだ。
サクヤは横目でキョウキを見やる。
「おい」
「いやぁ、サクヤ一人じゃきついかと思って。じゃあこけもす、初メガシンカの力、見せちゃって」
キョウキは緑の被衣を手で押さえて空を振り仰いだ。
宙に連れ去っていた紅いメガアブソルを地に叩き付けたのは、キョウキのメガプテラ。
その圧倒的なスピードで、メガアブソルに反撃の隙を与えず猛毒を仕込む。
そこにメガボスゴドラが地の割れそうな地震を起こす。
「あ、ちょ、二対一とか狡くね?」
笑ったのは榴火である。
キョウキは肩を竦めた。
「ほんとだねぇ。あはっ――犯罪者風情に言われたかねぇよ!」
再びメガプテラがメガアブソルを天空に連れ去った。
その隙にキョウキはサクヤを振り返って囁いた。
「モチヅキさん、死んでないよ。背中をバッサリ袈裟斬りされてたけど。マスコミの人が応急処置してくれてる、救急車も呼んでくれたし……ねえサクヤ、落ち着いて」
「落ち着けるか!」
サクヤは凄まじい形相で、メガボスゴドラの鋼鉄の尾に叩き付けられるメガアブソルを凝視していた。
互いを知り尽くした二体のポケモンの連携があれば、凌駕することなど容易い。
なのに榴火は相棒が叩きのめされるのを目にしても嗤うばかりで、他のポケモンを繰り出すでもない。それがさらに、サクヤの神経を逆撫でする。
「……叩きのめせ、メイデン」
「サクヤ、聞いて。宮殿を壊すのはまずい。警察に怪我させるのもナシだ。――榴火を捕まえる」
サクヤはキョウキには応えず、メガボスゴドラに指示を飛ばした。
力なくサクヤに倒れかかってきたモチヅキの重みが、忘れられない。手にまだ付着している汚れの感触が、気持ち悪いような、尊いような、そのような気がする。サクヤにとってモチヅキは神聖なもの、尊崇する親だ。それがあのような姿になって。身を切られるような痛みを、目の前の悪を叩き潰さないでは忘れられない。
キョウキは息を吐いた。
フシギダネが隙を見て蔓を伸ばし、榴火を捕らえる。榴火は水色の双眸を見開いた。
「あ」
「ふしやま、眠り粉」
キョウキは冷徹に指示した。メガプテラがメガアブソルを岩雪崩の下敷きにしたタイミングだ。
フシギダネが先の雪辱を果たさんとばかりに放った眠り粉が、榴火を包み込む。
トレーナーが意識を失ったためか、岩の下でもがいていたメガアブソルを光が包み、変化は解けた。
それでも通常の個体より一回りも二回りも巨大なアブソルは、角を使って岩を押しのけ、眠りに落ちた榴火の傍に駆け寄る。
サクヤの指示を受け、メガボスゴドラがアブソルを取り押さえた。
拳を振りかぶる。
そのメガボスゴドラを吹き飛ばしたのは、紅色の花吹雪だった。
芝生の上を後退しつつ、メガボスゴドラは花吹雪を追い散らす。そして新たな敵の出現に、主人の様子を窺った。
キョウキとサクヤは視線を交わした。
周囲に甘ったるい香りが漂っている。
激しいバトルにすっかり怯んだ警察の間を堂々たる足取りで歩いてきたのは、白いスーツに身を包み、真っ赤な口紅を引き、真っ赤なサングラスをかけ、そして真っ赤なカツラを被った、ローザだった。シュシュプとロズレイドを伴って立っている。
キョウキは思わず失笑した。
「似合いませんよ、ローザさん!」
「あら、あなたは目が腐っているのですわ」
ローザは眠る榴火の傍まで歩み寄る。すぐさまキョウキのフシギダネが蔓を巻き取り、榴火を引き寄せた。
「その子をお放しなさい。ロズレイド、花吹雪!」
「こけもす、岩雪崩だ!」
ローザのロズレイドはよく育てられてはいたが、メガシンカしたプテラには敵わない。雪崩に吹雪は押しつぶされる。
「仕方ありませんわね。シャンデラ、おいでなさい!」
そう叫んだローザは、自分のモンスターボールを開くことはしなかった。代わりに榴火が身につけていたボールの一つがローザの声に反応し、シャンデラが外に現れる。
「トリックであなたの主人を取り返しなさい!」
するとその指示の直後、フシギダネが蔓で捕らえていた榴火が奪われる。キョウキが舌打ちした。メガプテラが降下する。
ローザは紅いアブソルの背の上に赤髪の少年を乗せると、アブソルにその場を離脱させた。
「メイデン――」
「ロズレイド、花吹雪!」
サクヤがメガボスゴドラにアブソルを阻止させようとすると、ローザのロズレイドが更にそれを足止めすべくメガボスゴドラに襲い掛かった。
アブソルの去った方向に、ローザが立ち塞がる。
「行かせませんわ」
「それはどうかな」
蔓を伸ばしたフシギダネとキョウキは、地面すれすれまで降りてきたメガプテラに飛び乗っている。
空を仰ぐロズレイドに、メガボスゴドラが冷気を纏った拳を叩き付ける。
その隙にキョウキを乗せたメガプテラは、アブソルの消えた東の山脈へと夜空を渡っていった。
微かに唖然としてそれを見送ったローザを、サクヤは睨む。
「口先ばかりだな。榴火は逃がさないぞ、フレア団」
「ああ……あなたがサクヤさん、ですわね。うふふ……モチヅキさんのことはご愁傷さまですわ」
揶揄するようなローザの口調に、サクヤは顔が熱くなるのを感じた。モチヅキは死んではいない、キョウキがそう言っていたではないか、大丈夫だ。
満月の光の下、警察に囲まれてもなお、ローザは余裕ある態度で腕を組んだ。
「わたくし、がっかりしておりますのよ。メガシンカ……あなた方四つ子がもっと素直でしたら、お互いハッピーになれましたのに。リュカもとんだ玩具を見つけたものね。でもまあいいですわ、どうせすぐあなた方はこの地上から消えるんですから」
サクヤは声を張り上げる。
「つまり、榴火が最初にレイアを傷つけたのは、フレア団の命令によるものではなく、榴火の意志によるものだったということか!」
「それを知って何になりますの?」
ローザのシュシュプがミストフィールドを繰り出す。周囲に霧が立ち込め、視界が悪くなった。
メガボスゴドラが駄目押しに地震を起こすが、手ごたえはない。
ローザの姿は消えていた。