よもすがら都塵に惑う 上
輝きの洞窟。
エメラルド色の苔に覆われた空間は幻想的に、対峙するトレーナーを闇に浮かび上がらせた。
レイアは棒立ちのまま顎を僅かに上げて、目を細めてかつての友人を眺めている。友人は変わり果てていた。何もかも諦めざるをえなかった溺死体のような瞳で、乱雑にモンスターボールを二つ投げる。オンバーンとバクオング。
ヒヨクシティでいったいセッカがルシェドウに何をしたのかは、想像するだにおぞましかった。生まれて初めてレイアは片割れに恐怖を覚えたし、かつての友人が哀れでならない。
それでもレイアは片割れたちから逃げるわけにはいかない。ルシェドウに同情してやるわけにもいかなかった。
「爆音波!」
ルシェドウが絶叫する。レイアも咄嗟に二つのボールを手に取り、エーフィとニンフィアを繰り出した。
「真珠、珊瑚。瞑想」
オンバーンが大きな耳から、バクオングが大きく開いた口から、岩をも砕く威力の音波を発する。
レイアのエーフィとニンフィアは瞑目して集中力を高め、体が吹き飛ばされるほどの振動も涼しい顔で受け流した。
爆音波の余韻が消えるのも待たず、レイアは叫ぶ。
「真珠はマジカルシャイン、珊瑚はムーンフォース!」
攻撃の対象は指定しなかった。薄暗かった洞窟内に、太陽と月とを合わせた眩い光が満ちる。
オンバーンとバクオングは構わずに、爆音を発する。
それは光エネルギーと音エネルギーの戦いだった。もはや何も見えず、何も聞こえない。
それこそがレイアの狙いだった。
エーフィとニンフィアの放った光が収まり、洞窟内の色が鈍い金緑に戻ったとき、ルシェドウは既にレイアの姿を見失っていた。
ルシェドウはバクオングをボールに戻し、入れ替わりにモンスターボールによく似たビリリダマを繰り出す。
ボールの投げられた勢いもそのままに、ビリリダマは転がる。暴発のエネルギーを秘めて。
オンバーンの示した方向へビリリダマは滑るように回転し、猛烈な勢いで突っ込んでゆく。ルシェドウが笑って叫んだ。
「――ビリリダマいいよ、大爆発!!」
その衝撃は歓喜の震え。
レイアの逃げ込んだ枝穴を、ビリリダマは喜び勇んで爆破した。
轟音。
苔が飛び散り、天井が崩れる。
爆音が空洞を駆け抜けていった。ぞくぞくするようなビリリダマの絶頂の瞬間だ。
土煙の中から現れたレイアは、ヒトカゲを脇に抱え、牙の間から火の粉を漏らすメガヘルガーの背に横乗りになっていた。
悪巧みしたメガヘルガーが首をもたげ、白焔の舌が洞窟を舐め尽くし、光る苔は黒炭と化す。
熱と煙を吹き払ったのは、ルシェドウのバクオングの爆音波だった。
黒煙をたなびかせて現れたレイアは、ルシェドウを横目で見やっただけだった。
その刹那の、憐れむような眼差し。
赤いピアスが白い首筋に揺れる。
踵を返し、レイアを背にメガヘルガーは、落石を軽く飛び越えて熱風のごとく洞窟を駆け抜けていった。
ルシェドウは目を眇めてそれを見送る。メガシンカしたヘルガーを深追いするのは危険だった。しかしみすみすレイアを逃がすつもりもない。ビリリダマの爆発の衝撃は確実にレイアの手持ちにダメージを与えたはずである。
ルシェドウは瀕死となったビリリダマをボールに戻し、また移動を得意としないバクオングもボールに戻して、代わりにペラップを繰り出した。そのままオンバーンの背に乗る。
立ち去り際のレイアの憂いを含んだ眼差しにセッカを、サクヤを、キョウキを、榴火を、アワユキを、モチヅキを、ロフェッカを想起して、ルシェドウは二の腕を粟立たせた。誰も彼もがルシェドウをそのような眼で見る。
お前では力不足だ、お前には無理だ、お前は無能だ、と。
誰もが蔑む。
誰も信じない。
「…………逃がすかよ…………」
唸り、オンバーンにレイアの行方を探らせ、ペラップを並び飛ばす。
メガヘルガーの禍々しい骨のごとき首の装甲に手をかけ、レイアはその行く先はすべてこのエースに委ねていた。
脇に抱えたヒトカゲは、背後を警戒している。その尾の明かりを頼りに、レイアはメガヘルガーの行く先を睨む。
金緑に光る苔が後方へ飛んでいく。
ルシェドウのポケモンの放った爆音波のせいで揺らいでいた空気はようやく静まり、メガヘルガーが落石を躱す必要もなくなって、レイアもようやく平静を取り戻しつつあった。
ルシェドウを退けて、苔くさい洞窟の外へ。9番道路のトゲトゲ山道へ。
一刻も早くサクヤと合流しなければならない。
メガヘルガーが唸る。
出口が近い。敵もいる。ポケモン協会の人間が待ち伏せしていたのだろうか。
レイアは許可を与えた。
酸素をたっぷりと含んだ外の空気を吸い込みざま、メガヘルガーは地獄の業火を広範に吐き散らした。
人かポケモンか、幾つか悲鳴が上がるが、構わない。待ち伏せしていたにしては呆気なかったから、レイアが闇討ちした形になったのかもしれない。
灼熱したメガヘルガーの爪が尖った岩場を蹴り、急峻な崖を数歩で駆け登る。山に入った。
濃い夜空は微かに青みを含み、レイアは敏感に夜明けのにおいを嗅ぎ取った。メガヘルガーは針葉樹の森を駆け抜け、山脈の峠に出た。
東には、巨大な渓谷がある。コボクタウンの南にあたる人里少ない野生ポケモンの聖域だ。
思案するレイアのために、メガヘルガーは立ち止まり足踏みした。顔を上げて周囲のにおいを注意深く嗅ぐ。
レイアはヒトカゲを抱えたまま、メガヘルガーの背に乗ったまま、黙考していた。――サクヤを捜さなければならない。が、どうやって?
そう自問したとき、ひどく懐かしい片割れの声がした。
「レイア」
呼ばれ、反射的に顔を上げる。しかしメガヘルガーは首を振り、針葉樹林に向かって焔を吐いた。サクヤがいるとレイアには思われた森に向かって。
確かにサクヤの声だった。レイアはぎょっとしたが、すぐに思い直す。メガヘルガーにサクヤのにおいを嗅ぎ分けられないはずがない。本物のサクヤはここにはいない。
乾いた針葉樹林を焦がすメガヘルガーの火炎は、山風に緋色に煽られる。
メガヘルガーはレイアを乗せたまま姿勢を低くし、パチパチと音を立てて燃え盛る林を睨み唸った。
爆音波に、赤い炎が吹き飛ばされる。ルシェドウだ。オンバーンの背に乗って空を飛び、メガヘルガーに追いついたか。
メガヘルガーは音に追いやられるように飛び退り、レイアの指示も待たずに林の斜面を駆け下った。
「レイア」
懲りずにサクヤの声がする。これはルシェドウのペラップの、ただのお喋りだ。レイアを油断させるための――。
「――タスケテクレ」
そのペラップの真似ぶ声がレイアの耳に焼き付いた。ヒトカゲの噴いた大の字の炎が、かしましいペラップを追い散らす。その色鮮やかな羽根の舞い散るのを、レイアはおぞましい思いで見ていた。
夜の残滓を、オンバーンとペラップが飛びちがう。その背に乗った鉄紺色の髪のかつての友人を、レイアは木々の葉陰から茫然と見つめていた。
「……お前……あいつを」
「レイア。取引しないか」
オンバーンの背から、淡々としたルシェドウの声が降ってくる。
レイアは緊張するメガヘルガーを押しとどめ、かつての友を見上げ、声を張り上げた。
「ルシェドウてめぇ、あいつはどこだ!」
「レイア、おとなしくサクヤと一緒に降伏しろ。でないとサクヤをフレア団に引き渡す」
「それは取引じゃなくて、脅迫っつーんだよ!」
レイアが怒鳴り、メガヘルガーが上空のオンバーンめがけて炎を放った。
ルシェドウを背に乗せたオンバーンはひらりとそれを躱す。ルシェドウはぼやいた。
「いいのか。サクヤがエイジに殺されても」
「エイジだと――」
「はいどうも、エイジですよと」
メガヘルガーが咄嗟に跳躍し、地面に突き刺さる水手裏剣を回避する。
するとパチパチと拍手が、燃え盛る林中に鳴り響いた。
「二匹め、発見。いやぁ、さすがですね四つ子さん。揃いも揃って怖い怖い。早くバラして売り払っちまいたいですよ、まったく」
東の山の斜面を、ゲッコウガを伴ったエイジが下りてくる。
林の中空にはオンバーンの背に乗ったルシェドウが、無表情にレイアを見下ろしている。
レイアはヒトカゲをしっかり脇に抱え、メガヘルガーの背に乗ったままエイジを睨んだ。地上はエイジ。空からはルシェドウ。ここから脱することを優先すべきか、あるいは二人を相手に戦って勝利しサクヤの居場所を吐かせるべきか。
ところがレイアの結論も待たず、メガヘルガーは勝手に動き始めた。いきなりの行動にその背に騎乗していたレイアは戸惑うが、メガヘルガーは愚かではない。
すぐにレイアにも、山の地面が揺れていることが分かった。
エイジがにっこりと笑い、指でつまんだモンスターボールをゆらゆらと揺らしてみせている。
「いや、逃げたって無駄ですよ。この山の根は既に自分のハガネールに食われている。この山全体が、とっくに地震圏内なのですよ。メガシンカしたヘルガーでも逃げきれない」
メガヘルガーもレイアを背に乗せた状態で揺れる山を下りることが危険と判断したか、諦めて林の中に立ち止まった。唸りながらエイジを振り返り、食い殺さんばかりの目で睨む。
長身のエイジは揺れる地面を一歩一歩、レイアの方に近づいてきた。
「四つ子さんがメガシンカを手に入れたというのは、まあ計算外でした。でも問題ないでしょう。林の中でテッカニンのスピードについてゆけるポケモンはなく、コジョンドの暗殺の手から逃れられるものはないんだから。諦めてください、四つ子さん」
その言葉がはったりでないことは、レイアにも分かった。いつの間にかメガヘルガーの退路を塞ぐかのように、エイジの手持ちらしきテッカニンやコジョンドが火事の影に潜んでいる。
レイアは何気ない動作でメガヘルガーの背から降り立つ。エイジを見やってにやりと笑ってみせた。
「あんた、落ちこぼれのトレーナーじゃなかったのか?」
「キナンでお話ししたでしょう? 自分はいったんは零落し、そしてその後とてつもない幸運に恵まれた、と」
林の向こうで空の色が淡くなりつつあった。
エイジは山中に似つかわしくない白いスーツの上に、パーカーを着込んでいた。そしてレイアの方に歩み寄りつつ、なぜかバリカンを手にしている。
レイアはエイジの持つバリカンに気を取られつつ、一歩退いた。
「……な、なんだてめぇ」
「噛ませ犬臭がぷんぷんするセリフですね」
エイジは笑いながらバリカンのスイッチを入れた。
そして狼狽するレイアの目の前で、エイジはバリカンで自身の頭を剃り始めた。
中空のルシェドウは沈黙を守ったまま、静かにエイジの行動を見守っている。レイアには何が何だかわからない。
「……な、ななな、なに、なになになになに――」
「ぶっちゃけるとですね、自分は社会のどん底にいたあの日、ボスに出会ったんです」
エイジは短い茶髪を片端から見事に剃り落としつつ、呑気に語り出した。
「自分はそれまで、奪われてばかりでした。強いトレーナーに金銭を奪われる。痛ましく傷つく弱いポケモンたちに自尊心を奪われる。だから今度は奪う側に回ってよいと、ボスはそう教えてくださった」
「……な、何言ってんだてめぇ……」
「自分はボスに直にフレア団にスカウトされました。そしてポケモンバトルを一から学び、エリートトレーナーにも推薦していただいて、その路線から自分は高等教育を修了し、大学にまで入れさせていただいた。感謝してるんです。ボスの理想とする世界を創りたい。そのために血の滲むような努力をした」
禿頭となったエイジは前のめりになるようにして、片手で自身の茶髪の残骸を払った。バリカンをパーカーのポケットに突っ込み、真っ赤なサングラスを逆のポケットから取り出す。パーカーを地面に脱ぎ捨てた。
赤いシャツ、白いスーツ、赤い手袋。左耳に二つ、金のカフス。スキンヘッド。
真っ赤なサングラスをかけたエイジは、顔を上げた。
「そうして、フレア団幹部まで登りつめた……」
林から躍り出たコジョンドが、腕の体毛を鞭のように打ち据える。大きく跳躍したメガヘルガーに、飛び出したテッカニンが連続切りを仕掛けた。更にゲッコウガが水手裏剣を飛ばし、地底に潜んでいるらしいハガネールは地震を起こす。
エイジの四体のポケモンが、一斉にレイアに襲い掛かる。まさしくリンチだ。
さすがのメガヘルガーも、まず地震のせいでバランスを崩して応戦に間に合わなかった。レイアの腕の中のヒトカゲが咄嗟に敵を退けようと炎を吐く。それでも多勢に無勢である。
その見るも無残な処刑を、オンバーンの背に乗ったルシェドウは上空から見ていた。
ヒトカゲとメガヘルガーが四体を相手に果敢に応戦するが、山の斜面は大きく揺れ、なおかつトレーナーにも容赦なく攻撃を仕掛けるポケモンたちからレイアを守りつつ戦うのは骨が折れるようだった。
テッカニンの居合切りが、レイアを傷つける。赤が飛んだ。レイアに赤はよく似合う――ルシェドウは場違いな事を考えながら、年若い友人が傷つくのをただ見守っていた。レイアを哀れむ資格もないことを自覚しつつ。
ルシェドウにも、なぜこのような事になってしまったかは分かっていない。
ただ、蔑まれるのが悲しくて悔しくて、愛した分が返されなくて、四つ子に逆恨みをしただけなのだ。だからエイジに協力した。それだけだった。
それを詰るかのように、ルシェドウの耳元を灼熱の炎が掠めていった。鉄紺の髪が幾筋か焦げて、舞い上がる。オンバーンが一瞬だけバランスを崩す。
レイアのメガヘルガーは、ルシェドウやその手持ちのオンバーン、ペラップを狙ったわけではないようだった。エイジのテッカニンが黒く焦げて、針葉樹の根元に転がっている。
メガヘルガーの深紅の瞳が、周囲を睥睨する。
レイアはスキンヘッドとなった赤いサングラスのエイジを睨み、叫ぶ。
「おいおい、どういうつもりだ、フレア団! ここで俺を消すってか!?」
派手なサングラスのせいで、フレア団幹部の表情はわかりづらかった。しかしエイジが悲哀を込めて嘆息したように、レイアには思われた。
林の向こうで、空が明るんでいる。
エイジは美しくそり上げた白い頭を振り、深く溜息を吐く。
「……自分にも、もうフレア団が何を考えて、どこへ向かっているのか、分かりませんよ」
「はあ?」
レイアは思わず大声を出した
「んだよそれ? 何だそれ! ふざけてんのかてめぇ!」
「何で怒るんですか、四つ子さん」
「そもそもてめぇ幹部だろ! あと、てめぇらの榴火のせいで、どんだけ俺らが迷惑被ってると思ってんだ!」
エイジはやれやれと首を振った。
「ええ、ええ、榴火は問題児です。なまじ強いが、扱いにくい。本当に榴火と四つ子さんはそっくりですね。榴火が五人に増えたらさすがに制御がきかないので、四つ子さんには消えていただくことになったんです。お分かりですね?」
「意味分かんねぇ!」
「社会にとって榴火は邪魔だ。榴火は四つ子さんと同じだ。したがって、社会にとって四つ子さんは邪魔だ。――完璧な三段論法ですね、これでもまだ分からないんですか?」
エイジの口調は完全にレイアを見下していた。
メガヘルガーは相性の悪いコジョンドをも退けた。エイジは瀕死のテッカニンとコジョンドをボールに戻し、入れ替わりにメレシーとパンプジンを繰り出した。しかしいずれもメガシンカしたヘルガーに軽くいなされ、林ごと焼き払われヘドロ爆弾を受けて目を回す。
レイアとエイジの力量差は歴然としていた。
それでもフレア団幹部はゲッコウガだけを傍に置いて、笑っている。
メガヘルガーの首筋を撫でつつ、ヒトカゲを脇に抱えた赤いピアスの四つ子の片割れは、厭そうに眉間に皺を刻んだ。
「……おいエイジ……俺らが社会にとって邪魔って、どういう意味だ……」
「同じ榴火を見てれば、分かるじゃないですか」
エイジは赤いサングラスを外し、目を細めて微笑んでみせる。その瞳が紫水晶の色をしていることに、レイアは初めて気が付いた。
「四つ子さんとは、これでお別れです。キナンでの日々、まあまあ楽しかったですよ」
エイジは寂しげに微笑んだ。
「なんで、出て行っちゃったんですか」
地面が大きく揺れた。
レイアから血の気が引く。しばらく地震が収まっていたせいで、山中に潜んでいたエイジのハガネールのことをつい失念していた。
メガヘルガーがバランスを崩す。ゲッコウガを狙っていたはずのその炎の軌道が、逸らされる。
オンバーンの背に乗っていたルシェドウが、息を呑む。
白くかぎろう業火を浴びて、エイジはのたうちまわり――文字通り、蒸発した。精巧な手品でも見ているようだった。