草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre4-3. 霧月のヒヨクシティ
11月上旬 ヒヨクシティ
朝から林檎の収穫祭で沸くヒヨクシティで、珍しい花を持つフラエッテを連れたやたら長身の老人の噂を聞いたセラは、オンバーンを駆って西へ空を駆けさせた。
紺碧のアズール湾が、白い曇天の下に轟きながら横たわっている。
ヒヨクの港の白い船溜まりは印象派絵画を生んだ有名な風景であるけれど、あいにくセラにそのような光景を楽しむ余裕など無かった。
海霧が出ている。
その中に浮かぶ白亜の崖をセラは目指す。
そこに、AZが座り込んでいる。
「…………Bonjour, Votre Majeste………...」
陛下と呼びかけると、その長身の老人はごくゆったりとした動作で振り返った。
彼は滄溟に臨む石灰岩の崖っぷちに腰かけ、掌の上の、珍しい花を持つフラエッテと何やら語り合っていたようだった。それがニャスパーを抱えたセラの姿を認めると、僅かに息を吐いたような気がした。
セラは老人に微笑みかけ、のんびりと話しかけた。
「それが貴方の探し求めていたフェアリーポケモンですか、AZ王」
「……何用だ、フラダリの手の者」
AZの声は一年前に聞いたものより、ずっとしわがれ、聞き取りにくくなっていた。もしかしたらこの不死の王も3000年の悠久の時の中で少しずつ老いているのかもしれないとセラは思った。
可憐なフラエッテを携えた古代のカロスの王、フラダリの先祖の兄にして科学者の偉大なる父祖は、長い白髪を海風に吹かれ、巌のようにただ静かに崖に座している。
セラはニャスパーを抱えたまま、AZの前で草原に膝をついてみせた。無表情で。
「元フレア団科学班所属、ケラスス・アルビノウァーヌスと申します。昨年のラボでの無礼を心からお詫び申し上げる。貴方に伺いたいことがあって参上した」
「…………尋ねたいこと、か……」
「貴方の命についてだ」
「……答えられることならば、答えよう」
「感謝します」
セラは銀紫の瞳で、AZをまっすぐ見つめた。
「ではお尋ねする。――貴方は本当に、死なないのか?」
AZは緩やかに首を振った。
「……私にも分からぬ。生憎、死んだことが無いのでな……」
「失礼ながら、老化が進まれたようにお見受けするが」
「……再会を果たして気が抜けたことにより、腑抜けたという可能性も無きにしも非ずだろう」
「ご自分で仰るか。やはりあの時、リズの制止を振り切ってでも試していればよかったかな」
「……あの時のことは感謝する。おかげで我が左肩に痛覚が残っていることが確認できた」
「どういたしまして」
白髪を持つ二人はのんびりと軽口を叩き合う。
AZがごくかすかに鼻で笑ったような気配がした。
「……この一年で随分と丸くなったな、若き科学者よ」
「色々あったんだ。セキタイで様々なものを見た。それから……本当に色々なことがあって」
セラは海に視線を向ける。ニャスパーの毛並みを撫でながら、傍らに座るAZに語る。
「出力は抑えられていたとはいえ、私もセキタイであの最終兵器の破壊の光を浴びてしまった。貴方と異なり、どうも細胞を破壊されたらしい。普通の人間ほどは生きられないだろうと、医師の宣告は受けている」
「……生き急いだな」
「まったく皮肉なものだ。私は永遠の生を求めて、自ら破滅の光を浴びに行ったのだからな。だがそれはどうでもいい…………心配なのは自分のことよりも、むしろリズだ」
9月下旬にクノエの宿舎をこっそり抜け出してから、セラは一ヶ月以上リズと連絡を取り合っていなかった。そしてただひたすら、AZを捜していたのだ。
シシコを連れた元同僚を思うと、セラの表情は沈む。
フラエッテを掌に乗せたAZは、表情を動かさないまま、ぼそぼそと潮騒にかき消されそうな声で呟く。
「……後に残す者が惜しいなら、なおさら傍に居てやるべきだろう」
「そういうわけにも、いかなくてね……。ああ、もしかして貴方もそうなのか? 貴方の寿命はじきに尽きるだろう。だがそのフラエッテはどうだ? 3000年前に何百何千ものポケモンとゼルネアスから与えられた命は、まだ尽きないのか?」
セラがその珍しい色のフラエッテを見やって尋ねると、AZは案の定、沈黙した。
セラは視線を海に戻した。
「まあ、死んでみるまで分からないか。貴方もそのフラエッテも長い命だ。けれど、同時に逝けるとは限らない。必ずどちらかが先に逝き、もう一方が残される……」
「……自然の摂理だ。私もこれも、3000年の時の間にいくつもの別れを目にしてきたのだから、今さら逆らおうとも思わぬ」
「破格の長さの命を手に入れておいて、今さら自然に身を委ねるなんて」
「……いいかげんに疲れたのだ。私は神ではない、不死の王もさすがに心が砕かれた。最後の望みもついに叶ったのだから、もうこれ以上あがく必要はない……」
AZは掌の上の小さなフラエッテを見つめている。
セラは溜息をついてしまった。
「貴方はそのフラエッテと再会を果たすことを生きる意味として、3000年の人生に耐え続けたのだな」
「……ということになる」
「どうすればそんなにそのフラエッテに惚れていられるんだ? なあフラエッテ、貴方はこの王に何かしたのか?」
セラはAZの掌の上のフラエッテに尋ねてみる。フラエッテはただふわりと花が咲くように微笑んだだけだった。
セラは真面目に頷いた。
「笑顔か。笑顔でいさえすればいいのかな? でもフラエッテ、貴方はAZが先に亡くなったら、その後はどうするんだ?」
永遠の命を持つフラエッテは表情を曇らせた。
このポケモンは死というものを解しているのだなあと、セラはのんびり思った。数多くのポケモンの命を吸い取って生きている存在だ。イベルタルに似ているが、このフラエッテのイベルタルと異なる点は、死する命を想うところだ。
ゼルネアスやイベルタルは、他者の価値観など超越してしまっている。だから平然と命を与えたり奪ったりなどするのだ。命のやり取りをすることが彼らの存在意義であって、他者の思いなどに配慮することはなく、傲慢に他者の命の価値を決定し強制する。だからオリュザはゼルネアスやイベルタルを嫌っていたのだ。
死者を蘇らせるなど、死を奪うなど、生者を殺すなど、生を奪うなど、そんなことは許されてはならない。他者に命の意味を決められてたまるか――オリュザは繰り返し繰り返しそう主張していた。吐きながらそう訴えていた。
ようやく、セラにも理解はできた気がする。
「AZが亡くなったら、貴方は後追いでもするのか?」
セラは尋ねてみた。
フラエッテは目を伏せ、ふるふると首を振った。
「自然に任せるという事か。ではAZ、貴方はフラエッテが先に亡くなったらどうする?」
「……飲食を断ち、衰弱に任せるだろうな」
「それは半ば自殺だな。それが貴方がたの選択か」
セラは膝の上のニャスパーを抱きしめた。
「結局は、どう生きるかは、本人が決める事か」
「……そうなる。個々の天命の流れの中で、どの支流を選び、どの海の水へ落ちるか。そういうものだろう」
AZの淡々とした低い声を聞きながら、セラは膝の間に顔を埋めた。
潮騒のような穏やかな声が、聞こえる。
「……その自らの流れ方の中で、他者に対し澪標を示すこともできる」
「リズがフレア団に対して道標を示したようにか?」
「……そのように、他者と互いの流れを干渉し合い、共に流浪するものだ。人もポケモンも」
時間をかけて覚悟を固めて、ようやくセラは膝を抱えたまま、AZとフラエッテを振り返った。
「最後に一つ、伺ってもよろしいか」
「……どうぞ……」
「なぜ、フラエッテは貴方の元に戻ってきたんだ?」
「……若き科学者よ。おそらくそれは、お前が求める答えではない」
AZにそのように返されて、セラはきょとんとした。
「え、そうなんですか?」
「これが私のもとを去ったのは、私が愛を失ったためだ。――では、お前の友人がお前のもとを去るのは、何ゆえか?」
「リズにはリズの理由があるから、フラエッテの件は参考にはならない、と?」
「左様。そして私の経験も、お前においてはさほど意味を成すまいよ。……その者を知るお前が、自分で、その者にとって一番良い澪標を見出さねばならない」
「…………心得ておきます。やるだけやってみることにする」
セラはニャスパーを抱えたまま、白亜の断崖に立った。腕の中のニャスパーと共に海を改めて睨みつけると、やがて笑顔でAZとフラエッテを振り返る。
「ありがとうございました。そろそろ失礼します」
「……Bon voyage」
「Merci, c’est gentil」
AZとフラエッテと別れの握手を交わすと、セラは草地に覆われた崖をゆっくり降りていった。
冷たい風が海霧を揺らし、崖を覆い隠した。
Chapitre4-3. 霧月のヒヨクシティ END