草上で食前酒 -Le Aperitif sur l’herbe
Chapitre1-1. 雪月のエイセツシティ
12月下旬 エイセツシティ
エイセツの街はノエル一色に染まっている。
カロスの街はどこでもそうではあるが、その中でもエイセツほど、大規模で豪勢にノエルが祝われる街は他にないだろう。
広場には巨大なモミの木に飾りつけを施した豪華なクリスマスツリーがいくつも飾られており、あるいは街中に暮らすユキノオーが街の人々によって綺麗な衣装を着せられて笑っている。エイセツに暮らすユキノオーは民家の高いところの飾りつけなどを手伝ってくれて、このように人々はポケモンと協力し合いながら街を美しく飾り立てる。
家々は沢山のモニュメントや、色とりどりのイルミネーションで彩られている。
商店街やデパートのショーウインドーにも、それぞれ趣向の凝らされた華やかな飾りつけが成される。
クリスマスマーケットも開かれている。通りには黄金の光が満ちている。パーティーのご馳走の食材、一同を満足させるだけの酒、そして親戚全員が相互に配り合うノエルの贈り物、それらを買い込む人々でごったがえし、年末に向けてその熱気は高まっていく。
パティスリーには丸太型のビュッシュ・ド・ノエルが並び、花屋にはクリスマスツリー用の大ぶりな樅の木が用意され、カフェでは熱く甘いヴァン・ショーが歩き疲れた人々の体と心を温める。
街中の広場には移動遊園地やアイススケートリンクが設置されて、冬休みに入った子供たちが仲良しのポケモンと一緒に歓声を上げている。
また街の教会では温かい食事やプレゼントが、貧しい人々にも振る舞われる。
ノエルはカロスにおいて一年で最も特別な日であり、カロスの人々にとって最も大切な日だ。人々は家族や親戚、友人を大勢自宅に招いて大規模なパーティーに興じ、ご馳走を並べ、ワインボトルをいくつも空にして、夜中まで賑やかに語り合う。
カロスにおいては、ノエルを孤独で過ごすなど考えられない。
――それゆえに孤独に追い詰められて自殺を図る者も、このノエルに急増するという一面もあるが。
シシコを肩に担いだリズはふらりとエイセツの街の喧騒を離れ、南の20番道路“迷いの森”にふらりと引き寄せられるように入っていった。
いつかと同じように。
記憶の中と同じ足取りで。
雪が降りしきる、音の無い深い森の中。
オークやトウヒ、カエデは葉を落とし、地面には落葉と雪が積もってひどく滑りやすくなっている。雪化粧を施された木々の枝の向こうには、一面に曇天が広がっている。
リズはたった一人きり、彷徨い始める。
***
リズはハクダンの病院をたった一人で抜け出して、3体の手持ちのポケモンだけを連れて枯れ果てた葡萄畑の間を彷徨した。
ノエルの所為か知らないが血気盛んに勝負を仕掛けてくるトレーナーを軽くいなす。そいつは故郷の家族にノエルのプレゼントを買う金が必要なのだと物乞いも同然にリズに許しを乞うたが、リズは聖人ではない。リズにはプレゼントを買う予定は無かったが、もしここで相手に譲歩をすればつけあがらせる。そして規則を曲げれば、法の存在する意味が失われる。それは長期的には相手の為にも社会の為にもならないと判断して、きっちりと搾り取るものは搾り取った。悪魔と罵られた。
――知ったことか。フレア団なんてのは奪うだけが能の、悪魔の巣窟だ。与えることを諦めた恵まれた者たちの集団だ。
道路には、同様にプレゼントの購入資金を求めてバトルの相手を探しているトレーナーが、うじゃうじゃいた。群れを成し、ほとんどリンチの体でリズに襲い掛かってくる。
しかしそのような貧しいトレーナーとは、往々にしてバトルに勝てない弱い連中である。だからたとえ集団バトルをしても、彼らはけしてリズの敵ではなかった。リズとて思想一本のみでフレア団内の地位を占めていたわけではない。強い野生のマンムーを捕獲しAZを捕縛してくるほどの幹部並みの実力は持ち合わせている。
トレーナー間に適用されるこの『賞金制度』は、言わずもがな、強者が弱者を搾取することを正当化する制度だ。それは元々経済的に貧しい層に多いポケモントレーナーの中にさらに格差を拡大させ、少数の弱者を虐げることになる。そのためリズがかつて籍を置いていたミアレ第一大学の法哲学者たちの間でも、賞金制度は、正義に適わないとすこぶる評判が悪かった――とリズは記憶している。
しかしリズは、これまで賞金制度を考察の対象としたことはなかった。
なぜなら、世界はフラダリによって滅ぼされると思っていたからだ。
でもそうならなかった。
そうしてトレーナーたちから逃げるようにして転がり込んだ、ノエルに賑わうエイセツの街がやっぱり煩わしくて、リズはさらに逃げた。
どこに行っても、人間か、ポケモンか、あるいは傲慢な神がいるからまったく辟易する。放っておいてくれればいいのに。そう、そもそもオリュザ・メランクトーンという人間の命を与えるまでもなく、無の世界にそのままそっと独り揺蕩わせておいてくれればよかったのだ。自分の命が憎い。生きているというこの眼前の現実が怖くてたまらない。
自分が生きているなんて、信じられない。
生きないといけないなんて、そんな現実、ありえない。
在り得ないのに、リズはここに在る。
そんなの、冗談じゃない。
しかしそれはやっぱり冗談でも何でもなく、現実なのだった。信じられないことに。
雪深い森の中、リズは雪の上に倒れ込んだ。
限界だった。
体が、というよりは心が。
眠りたい。すべて忘れてずっと眠っていたい、二度と目覚めなくてもいい。
気づけば、リズは雪の中、何者かにずりずりと引きずられていた。
腰のベルトを掴まれ、いずこかへと体を移動させられているようである。時折背や腰を木の根などにしたたかに打ちながらも、ポケモンだろうか、何かの獣にリズは森の奥へと連れ去られる。
――食われるのだろうか、などと考えた。
冬は野山に食料が乏しいから、冬眠しない肉食のポケモンに捕まったとしても不思議ではない。なぜすぐに仕留められないのかは不可解だが、そんなことはどうでもいい。
自分は死なない。たとえ手足がちぎれても首の骨を折られても片っ端から再生するのだろう、ヤドンの尻尾みたいに。なら、いい餌になる。死ぬまで、強制された永い生命が尽きるまで、食われて再生しては食われてを繰り返す、山頂で生きながらにして毎日肝臓をウォーグルについばまれる神話のプロメテウスのように。いつまで? 3000年の寿命が尽きるまでか?
悪夢だ。
悪夢みたいな現実を、もう何度目だろうか、リズは嘆く。
その頬を、熱い舌が舐めた。貴重な塩分を摂取したいのか、はたまた単に心優しいだけなのか、それは熱心な舌遣いでリズの涙を拭ってくれる。
それが、シシコとの出会いだった。
年甲斐もなく泣きじゃくりながら雪の中をシシコに引きずられ続けて、気づけば、リズは雪の斑に残る草原に横たわっていた。
雪は降っていたが、体に雪はほとんどかかっていない。
森の奥に開けた草原、そのただ中に作られた東屋の下にリズは休まされていた。
せせらぎの音が聞こえる。
草原の中では時折早咲きの水仙が、氷のように白く震えている。いつもなら花切鋏で摘み取ってしまうところだけれど、今は心が万年雪のように重く凍えて、そんな気になれない。
視線を彷徨わせても、周囲にいたのはシシコだけだった。
シシコはリズの頭の方で蹲り、そのつぶらな瞳でリズの顔を覗き込む。
その尾が、子供を宥め寝付かせるかのように、リズの背を優しく叩く。
再びシシコの熱いざらざらした舌が、毛づくろいをするようにリズの頬を舐めた。ふわふわの毛並みに覆われた前足が、頭をそっと抱え込んでくる。
暖かい。
背中を打つ尾の優しいリズムと、若獅子の甘い口づけと、毛布のように温かく柔らかい毛並みに、いつの間にかリズは眠りに誘われていった。
***
自分のホロキャスターを改造して、セラはリズのホロキャスターの電波を探知できるようにしてしまった。
ハクダンの病院からリズが手持ちのポケモン3体と共に消えた時、あちらこちらを無闇に捜し回る前にホロキャスターの改造を思い立ったのは、むしろセラの科学者としての矜持のためだった。
そしてその時も、そして今も、ホロキャスターの電波を頼りに消えたリズの行方を追ってセラがやってきたのは、ノエルに沸き返るエイセツの南に伸びる20番道路だ。別名“迷いの森”とも呼ばれるその地では、これ以上ホロキャスターの電波を追おうにも、ゾロアークだのオーロットだのといったポケモンに化かされて道を失う可能性の方が高いのだった。
しかし、リズはここにいる。
セラは覚悟を決め、雪に閉ざされた森に踏み込んだ。
いつかと同じように。
記憶の中と同じ足取りで。
そしてあの時も、数時間雪の中を歩き回った末に、案の定、道に迷った。
縄張りを侵されたと勘違いしたポケモンに化かされ、方角と距離を失い、このままではリズを見つけるどころか自分も遭難してしまう。
さてどうしたものかと戸惑って、歩き疲れてとうとう雪の中の倒木に座り込んだ。
そこで出会ったのが、ニャスパーだった。
セラはぎくりとした。ニャスパーは苦手だった――それはセラが幼い時に死なせてしまったポケモンだったから。その別れがつらくて、心を病むまでに嘆き狂って、そしてかつてのセラは永遠の命という夢想に恋い焦がれたわけである。死が無ければ、悲しみも無く、人生に価値が生まれるものと心から信じて。
その夢想がリズによって破壊された今でも、セラにとってニャスパーを見るのがつらいことに変わりはなかった。
ニャスパーはつぶらな瞳で、木の陰からセラを見つめていた。
居心地が悪くなり、セラは痛む足を引きずりその場を後にしようとする。
ところが、道なき道に向かって歩き出そうとすると、そのニャスパーがとてててと駆け出し、セラの前に立ちふさがった。小さな手足を広げて、ちんまりと通せん坊をする。
セラはそれを見下ろして、困り果ててしまった。
向きを変えてみても、やはりニャスパーはセラの行く手に回り込み、歩みを妨害してくるのだった。『先に進みたければ私を倒してからにしろ』というやつであろうか、とセラは思う。しかし相手はかつて喪って悲しみに暮れた愛しいポケモン、傷つけられるはずがない。
仕方なくセラはニャスパーの前に屈みこみ、半ば期待しないながらも説得を試みた。
「……友達を捜しているんだ。通してくれないか」
ニャスパーは首を傾げる。
それからくるりと踵を返し、てちてちと雪の中をとある方角へ歩き出した。
ポケモンも話せば分かるものなのだなとセラが感心しつつその後ろ姿を見送っていると、そのニャスパーはくるりとセラを振り返り、ふんすと鼻を鳴らす。
さっさとついてこい、とでも言うように。
野生にしては随分と人に慣れた様子に、セラはなんとなく分かってしまった。――これは人に捨てられたポケモンだ。ではその人間に仕返しするつもりなのか、あるいは未だに人間を慕って親切をしてくれるつもりなのか、セラには量りかねた。
セラが逡巡していると、ニャスパーの耳がぴくりと不穏に動く。
――まずい、これ以上焦らすと念力を暴発される。
そのように小さなニャスパーに無言の圧力をかけられて、セラは仕方なく、おとなしくその後に従って再び森の奥へ分け入ったのである。
***
ざわざわと、風でない何かが草をかき分けてこちらへやってくる音がして、リズは再び瞼を押し上げた。
草原の東屋の下。
セラが、こちらを見下ろしている。その腕にはニャスパーを抱えている。
リズの枕元にいたシシコがみゃああと嬉しそうな声を上げて起き上がり、こちらもまたセラの腕の中から飛び降りたニャスパーとみいみいにゃあにゃあと戯れ合い始めた。この2体は、この森の奥に隠された草原に暮らす幼馴染なのだろう。
ニャスパーがセラを、シシコと共にいるリズの元まで導いたのだ。
いつかと同じように。
リズがゆっくりと身を起こすと、セラもそれに並んで草の上に腰を下ろした。セラの膝の上に、すっかり懐いた様子でニャスパーがよじ登ってくる。一方のシシコも人懐こくリズの膝の上にのし上がってきた。
2人はそれぞれの毛並みを撫でてやった。くるくると心地よさげに喉を鳴らす音が、ふたつ。
緑の草原で、早咲きの水仙が凍えていた。
「……ひどい夢を見たんだ」
「俺にとってはこの状況こそひどい夢だ」
「…………本当に気が合わないな」
「だよな」
2人して溜息をついてから、互いに互いの顔を見つめた。
セラはすぐに視線を伏せた。
「………………思い出したか?」
リズもすぐに視線を逸らした。
「そうだな」
「…………黒焦げになって死んだと思ってたお前が生きてた時……正直に言おう、嬉しかったよ」
「俺は絶望した」
「……知っている、私はずっとお前の傍にいたんだから」
冷たい風が、草原を渡っていく。
とても静かだった。2人の膝の上のシシコもニャスパーもおとなしく風に目を細めている。
「それでも私は嬉しかったんだ」
「アンタが嬉しくても、俺は嬉しくない」
「セキタイで、一緒に生きるって話をしたのに」
「永遠を生きるとは言っていない。それにアンタは、俺と違って長くない。それなら尚更、生きる意味なんか無いよな。そうだろ?」
だからさ、とリズは苦笑した。
「一緒に死のう、セラ」
リズはひどく手に馴染んだ花切鋏を取り出した。
それを自分の胸に突き立てる。その感覚にすら覚えがあって、ひどくつらかった。
セラはそれを無表情で眺めていた。
「……痛くないか、それ」
「痛い。死にそうだ。でも死ねないんだ。何回やれば死ぬんだろうな」
「……私からしたら、腹立たしいどころじゃないぞ。私は生きたくても生きれないのに、お前は死のうとしている」
「俺は死にたくても死ねないんだ」
「……なあ、やめてくれないか。友達が自殺しているところなんて、何が嬉しくて鑑賞しなくちゃならないんだ」
「まだ当分死なねえよ。あと数百回の我慢だ。あー、ありえないわ、マジで……」
しばらくセラは黙っていた。
それからようやく口を開いた。
「…………私との旅は退屈だったか」
「いや、楽しかったな。……フウジョ行って、クルーズ船で河下りして、コウジン水族館見て、あと、なんだっけ」
「待て、ショウヨウで一緒に春のイースターを祝っただろう。レンリで夏至の音楽祭に寄った、シャラの初夏の中世祭を見た、キナンに真夏のバカンスに行ったし、ヒャッコクの秋のミラベル祭りにも行ったし、その後は葡萄の季節にクノエに」
「たの、しかったな、セラ」
「楽しかったと言うなら、これからも」
「……ちょっと、まて、ひんけつ。きこえない、ちょっとまって。どうせすぐになおるから」
セラはリズから視線を外さなかった。
「…………楽しかったと言うのなら、これからも2人で生きる楽しみを探していこう。一緒に生きよう、リズ」
「嫌だね。なんでアンタに生きる意味を決められなくちゃいけない」
「私が決めてるんじゃない。お前が決めるんだ。私のために生きることを覚悟しろ」
セラが背筋をまっすぐ伸ばしたまま、まっすぐリズを見つめたまま言い放つと、リズはへらりと笑った。
「だから、アンタはこんなことしてるわけ?」
「……こんなこと?」
「そのニャスパーの力か、俺の記憶を奪って。思い出作りだなんて言って、すべてを忘れた状態の俺に“今”なんかを楽しませて。俺がアンタのことを尊重するようになるよう、俺を誘導してただろう。デート作戦で惚れさせようとしてた、でしょ?」
「……ぐうの音も出ないな」
セラは力なく笑った。
リズのほうも笑うしかなかった。汚れた片手で顔を覆う。
「…………最っ低だ…………」
「ごめん。でもこうするしか思いつかなかった。確かに、お前の記憶を奪ったのは私だよ」
「……最低のド変態の下衆野郎だな……」
「だってそうでもしないと、お前、今みたいに、私の目の前で自殺し続けるだろう。それこそ、最低のド変態の下衆野郎のすることじゃないのか?」
「…………うん……だよね、……でもこうするしかないん、だよ」
「そうする以外にもあるはずだ。わかるだろう?」
セラの手が伸びてくる。ぽんぽんと肩を軽く叩かれ、頭も小突かれ、カロスの幼子が仲良し同士でじゃれ合うみたいに、むぎゅうと抱きしめられる。
暖かくて涙も出たけれど、それで少しは命が惜しくなったけれど、花切鋏で突かれた胸は痛いけれど、それでもリズは握った凶器を手放せなかった。これは美しく咲いた季節の花を切り取るもの、その命を刈り取り刹那を歎美するもの、それが実を結ぶと結ばないとに限らずその未来を断つもの。
「…………いやだ。生きてて何の意味がある。アンタはもうすぐ死ぬのに」
「その残り少ない私の人生を、せめて穏やかに過ごさせてくれよ」
「…………いやだよ。俺が虚しいだけだろう」
「私にまで虚しい思いをさせるつもりか? 本当にお前は薄情だ」
「…………何とでも言えよ、アンタのことなんか知るか」
「ああ、そう。お前から記憶を奪ったのは私だけれど、その記憶をお前が思い出した今も、いや思い出したからこそか…………お前の心から、私は忘れ去られてしまったんだな、リズ」
セラは立ち上がった。
リズはそれをぼんやりと見上げていた。
「ちがう、そうじゃ、ない……?」
「忘れたものは仕方ないな。思い出せばいいんだよ。何度でも。私は待っている。この命の続く限り」
セラが泣きそうな顔で、ぐしゃりと顔を歪めて笑う。
「だから、私は何度でもお前の記憶を奪い――」
リズの頭がずきりと痛む。歪んでいるのはリズの視界のほうだろうか。
「……いやだ」
「お前に考え直しを迫るだろう」
「…………やめてくれ…………」
シシコはのんびりと草地に伏せ、すべてを静かに見守っている。
ニャスパーが念力を使っている。
記憶を。
消されている。
まただ。
また? 何度目なんだ? そうじゃない。これからいつまで、何度、繰り返す気だ?
セラは。独りで。これを。
「――お前が本当に私を思い出すまで」
これこそ悪夢じゃないか。
Chapitre1-1. 雪月のエイセツシティ END