遠くのほうではまだ祭の火が燃えている。
村を一望できる棚田の丘の上で三人は向き合った。
「舞台の上ではお互い名乗りもしなかったからね、改めて自己紹介するよ。僕はツキミヤ。ツキミヤコウスケ。こっちに隠れているのはナナクサ」
「…………ナナクサシュウジです」
ツキミヤの影からそっと顔を出してナナクサも続いた。
「いつまで僕の影にかくれているつもりだ。そもそもすべての元凶は君だろう」
「な、なんだよそれ!」
「君がとにかく選考会に出て、優勝しろと僕に無理強いしたんじゃないか。つまり僕が反則技を使ってまで勝利したのは、すべて君に責任がある」
エネコの首ねっこをつかむようにナナクサを引きずり出すと褐色肌のトレーナーの前に突き出す。
「という訳で、リザードで火あぶりにするなら彼にしてください」
「薄情者!」
「だって、僕にはまだ九十九を演じるという重大な任務が残っているじゃないか。犠牲になるのは君の役目だろう」
「そんな……」
ナナクサは褐色肌のトレーナーのほうを見る。
あいかわらず、鋭い目つきでこちらを睨んでいた。
「…………」
トレーナーがモンスターボールに手をかける。
「うわああああ! ごめんなさい! ごめんなさい! 僕の身体燃えやすいんだ! 火あぶりだけは勘弁してぇ!」
「燃えやすい、燃えにくいに個人差なんてないだろう。さあ」
「とにかく嫌だ!!」
泣き叫ぶナナクサのリアクションを見て満足したのか、青年はナナクサを引っ込めた。
「あいつ怖い。本当に焼き殺されるかと思った」と、ナナクサが呟く。
「ルールを破って戦っていたことは謝罪するよ。でもどうしてもこの役に就きたかった。どうしても九十九になりたかったんだ。だからここは見逃して貰えないかな」
さきほどの飄々した態度とは一変、あくまで相手に許しを乞う姿勢でツキミヤはトレーナーに語りかけた。
トレーナーはしばらく黙っていたが、やがてモンスターボールを腰に戻すと、
「……ヒスイだ」
と言った。
「え?」
「自己紹介だ。戦った相手の名を聞くのはこの国の流儀なのだろう? だから」
「……あ、ああ」
変わったペースの持ち主だと青年は思った。
気を取り直して本題に入る。
「こんなことを言ったら怒るかもしれないが、僕の目的はあくまで九十九を演じることだ。黙っていてくれるなら出演報酬はすべて君に譲ってもいいと思っている」
そんな提案を持ちかけて、反応を伺う。すると、
「それは、報酬目当てで出演する輩にだけ通用する取引だな」
と、ヒスイは答えた。
ツキミヤとナナクサが顔を見合わせる。
「……つまり君も九十九様をやりたかったってこと?」
ナナクサの問いにヒスイは静かに頷いた。
「こりゃあ今年は豊作だなぁ。昨年も一昨年も、報酬目当ての大根役者ばかりだったって言うのに」
「動機としては大変素晴らしい。けど困ったことになったね」
報酬で買収できないとなると、どうやってこの事実を隠蔽すればいいのだ。
ツキミヤはそっと足元を見る。やってしまおうか、と。この距離なら掴まえるのは容易いだろう。自分の中に蠢く影達にならそれが出来る。幸い、相手は自身に少なからず敵意を向けている。付け入るのは簡単だ。
「……提案があるのだが」
ツキミヤが半ば本気で行為に及ぶことを考えている刹那、突如としてヒスイが言った。
「何? もう一人家に泊めたい?」
寝巻き姿のタマエが、不機嫌そうな表情で言った。
もう眠ろうとしていたらしく目を擦る。
「お願いします」
「僕からもお願いします」
ナナクサとツキミヤは二人して、家の主人に頭を下げた。
「ヒスイさんって言うんですが、その一言で言うならジャポニカ種みたいな奴でですね、コウスケと共演するんです。九十九様の一族の役で」
「しかも宿にあぶれてしまったらしくてですね、ずっと野宿してたんだそうです」
「タマエさん、コウスケもめでたく九十九様の役になったことですし、ここはひとつお願いします」
「その、彼は僕と決勝戦で当たってですね」
「つまり彼が負けてくれなかったら、コウスケは九十九様になれなかった訳で」
「祭が終わるまで泊めてやってくれませんか」
再び頭を下げる二人の青年。
「………………勝手にせい」
タマエは一言そう吐き捨てて、自身の寝室の襖をぴしゃっと締めた。
「……なんかタマエさん機嫌悪いね。せっかくコウスケが九十九様に決まったっていうのに」
ナナクサがぼやく。
「そもそもタマエさんに頼まれてなった訳じゃないからね。とにかく了承は貰ったんだからいいじゃないか」
そう答えたのはツキミヤだった。
二人は穴守家の長い廊下をすたすたと歩きながら、そんな会話を交わした。
「ヒスイさん、お待たせ」
ナナクサがツキミヤがはじめてこの家の敷居をまたいだ時に待たせていた部屋の襖を開く。
まさか祭の期間中にもう一度使うことになるとは思わなかった。
一方のヒスイといえば静かに部屋に立って一心に何かを見上げている。
「何見てるの?」
彼は部屋に掛けてあった一枚の絵に見入っていた。
「ああ、その絵」と、ツキミヤが呟く。
自分もタマエとナナクサを待っている間にその絵を見つめていたから。
「……ホウエン神話の二つ神」
絵を見て、ヒスイは呟いた。
対立する赤と青。大きな二匹のポケモンと彼らを囲む人々とポケモン達。両者は睨みあって――
「へえ、やっぱり"あんな提案"するだけあってこういうのに興味があるのか」
ツキミヤがそのように尋ねると
「信仰というのは難儀なものだ。大きな神が二つもあるからこういうことになる」
絵を睨みつけるようにして険しい表情でヒスイは答えた。
ツキミヤは深くは追求しなかったが、彼の言葉からは何らかの決意のようなものが見て取れた。
「変なものがいろいろあるだろ。早い話が物置なんだよ。この部屋」
そう言ったのはナナクサだった。
「亡くなったタマエさんのご主人の収集品とか、タマエさんちのあらゆる黒歴史が眠っているんだ」
「……収集品は黒歴史なのか?」
ツキミヤが突っ込む。
ナナクサは適当に箪笥を選別すると、引き出し一つに手をかけにやりと口を歪ます。
「たとえば、この箪笥を開いたら、村長さんがタマエさんに充てた恥ずかしい恋文の一つくらい出てくるかも」
「村長さんかよ」
「その昔、タマエさんに求婚して振られたのを今でも根に持っているんだよ。あの人は」
彼が引っ張るとすすっと箪笥の引き出しは開いた。
ナナクサがごそごそと中を引っ掻き回す。どこぞの家の秘密を暴く家政婦なんだろうこいつは。ツキミヤは呆れながらも別に止める気はなくただ眺めている。しばらくしてナナクサの手が止まった。
「……ねえコウスケ、すごいもの見つけちゃった」
どういう訳か肩が震えている。
懸命に興奮を抑えるようにナナクサは言った。
「恥ずかしい恋文か?」
「タマエさんが若い頃の写真」
「ぶっ」
ナナクサの両肩から二人の青年がにゅっと顔を出して、ナナクサの手にある写真を覗き込む。
「ほお、」と、ヒスイが声を漏らした。
結婚の記念にでも撮影したのだろうか。それは薄い冊子の中に閉じられていて、古さの割りに痛みは少ない。
中には二人の男女。凛とした着物姿の長い黒髪の女性、そして和服の男が立っていた。おそらく隣の男が他界したタマエの夫なのだろう。それにしても目を引くのは顔立ちの整った黒髪の女性だ。いつだったか道で出会ったノゾミの姉だって美人なほうだろうが、とても彼女には太刀打ちできそうになかった。
「美人じゃないか……なるほど村長さんが求婚したくなるわけだ」
ツキミヤは心底納得して言った。
「コウスケに美人だって言わせるなんて相当だよね。いやでも本当に綺麗だ。まさにオニスズメノナミダとでもいうのか……」
目を輝かせ、誇らしげにナナクサは言った。
「オニスズメの、涙?」
「うん、すごくおいしい米なんだ」
「……へえ」
「いやぁ、いいもの見つけちゃったなぁ」
彼はうっとりとして写真に見いる。
「風呂に案内するよ」
穴が開くほどに写真を見つめるナナクサはしばらく使い物にならなさそうなので、ツキミヤは案内役を買って出る。約一人を放っておいて、二人は部屋を出た。ちょうど脱衣場の入り口に来たあたりでタオルを巻いた少年と鴉にばったり出会う。
「おー、コースケ帰っておったんか」と、すっかり馴染んだ様子でタイキは言ったが、ヒスイの姿を見た途端、
「あーっ! おまんは決勝戦のジャポニカ種! なんでここにおるんじゃ!」
と、叫び声を上げた。
「ああ、こちらヒスイさん。ちょっと諸事情あって今日から彼も泊まることになったから」
「そうなんか。よくタマエ婆が許可したのう」
「ナナクサ君と二人してお願いしたからね」
ツキミヤがにっこりと笑う。一瞬、タイキの肩に止まる鴉と目があったが、鴉はぷいっとそっぽを向いた。
「じゃあ僕は後で入るから。上がったら声かけてくれよ」
なんとなく一人で入りたさそうな雰囲気を察して、ツキミヤはそのように伝えた。
ナナクサが無断で入ってくるかもしれないから気をつけて、とも警告した。
「わかった。その時は焼き殺す」
あまり冗談ではなさそうな目でヒスイが言って、伝えておくよとツキミヤは返した。
「ところで」と、ヒスイが尋ねる。
「まだ何か」
「ジャポニカシュとは何だ?」
「…………」
たぶん外国産の米だろうとはとても言えなかった。
「提案があるのだが」
あの時、祭の灯火を一望しながらヒスイはそのように言った。
「提案?」
「いまさらツキミヤが不正をしていたと騒いだところで、祭が混乱するだけだろう。それに正確に言うならば俺の目的は九十九を演じることではない」
「どういうことだい?」
怪訝な表情をしてツキミヤは尋ねる。
たしかに先程九十九を演じたいのかと問うた時に頷いたではないか。
「俺の目的は仮説を試してみること」
「仮説?」
「プロフェッサー……つまり俺の先生は、ホウエン中の伝承を研究していている。俺は先生に課題を与えられてこの村に来た。仮説を実際に試せるなら、俺自身が九十九になる必要は無い。条件を飲んでくれるなら役はくれてやる。報酬もいらない。ただあえて言うなら……」
「あえて言うなら?」
今度はナナクサが尋ねた。
「泊まれる場所を紹介してくれないか。ここに着てからずっと野宿なんだ」
りーりーと虫が鳴いている。
響いていた太鼓の音もさすがに静まって、あたりを包むのは秋の虫の声ばかりだ。
一風呂浴びたツキミヤは寝室の襖を開けた。
寝室にはふたつの布団が敷いてある。
そのうちの一つには先客が居て膨らんでいた。
「それにしても、君の提案を聞いた時は驚いたよ」
隣の布団に潜り込むとツキミヤは先客――ヒスイに声をかけた。
そう、誰が想像するだろうか。
この村の中自分達と同じことを考えている人間がいるなどと。
「まさか君が"舞台本番に雨降を倒せ"だなんて言うとはね」
同じ家の別の部屋。
淡く灯った灯篭の隣で、布団に横たわり天井を見上げる老婆の姿があった。
眠ろうとすればするほどに目が冴えていき、時間だけが過ぎてゆく。時計の秒針がざく、ざくと時を刻んだ。
正直、二人の青年が連れてきた新しい客人のことなど今の彼女にとっては二の次だった。
――ねえタマエさん、ツクモ様が夢枕に立って、演じてほしいって云ったんだって言ったら信じてくれます?
ツキミヤのその言葉がずっと彼女の胸につかえていた。
考えまいと、忘れようとするほどにに記憶は鮮やかに蘇る。声が聞こえる。
ああ、あれは夏の声、蝉の歌だ。
もう何十年も前の夏の歌だ。
女は狂気を口ずさんで道を行く。
彼女はおそらく村で一番の美人であり、村長の息子をはじめ村の男達は皆が彼女を嫁にしたがった。
けれど彼女は嫌いだった。この村も。この村の人間達も。
燃えてしまえばいい、みんな燃えてしまえばいいのよ。
そうしたら――。
声は蝉の声に掻き消されて。村の人々には聞こえない。
女は歌う。呪詛の歌を。
言葉には力が宿る。それを言霊と人は呼ぶ。
「燃えろ、燃えろ、燃えてしまえ」
その言霊を口にすると村の子ども達は大人達に殴られたものだ。
そんなことを云ってはいけない。口にしてはいけない。
口にすればやってくる。炎の妖がやってくる――
夏の日の蜃気楼。
ゆらゆら揺れる稲穂の海に彼女は炎の幻影を夢見ていた。
もしこの稲の青が真っ赤に染まったなら。
そんな幻想が頭に浮かんだのは去年の夏か、一昨年の夏だったか。
それがいつしか頭から離れなくなっていた。
燃えてしまえ。燃えてしまえ。みんなみんな灰になってしまえばいい。
燃えてしまえばいい、みんな燃えてしまえばいいのよ。
そうしたら――
「そうしたら私は自由になれるの」