風を切り裂くような音と、パリン、と何かが割れる音がした。
何が起こったのか分からないまま、ミスミは落ちた破片を拾い上げる。自分がさっきまで使っていた双眼鏡のレンズ部分が、木っ端微塵になって地面に落ちていた。
勿論、彼女自身が木にぶつけたわけではない。
「?」
しっくりこなかったが、今はカオリを探す方が先と考え、ミスミは再び走り出した。
ぞぞぞ、とカオリの足をカゲボウズ達が飲み込んでいく,もう身動きは取れない。別に逃げるつもりも無いのだが。這いつくばってまで逃げるなんて、カオリのプライドが許さなかった。
「やっと分かった。ツキミヤさんのカゲボウズが私のカゲボウズと違う理由。…こんな物食べさせてたら、元気になるはずだよね」
「怖くないのかい」
「…聞いてもいいかな」
反対に質問されて、ツキミヤが少し怒ったような表情を浮かべた。
「何?」
「分からない。分からないんだ。こんなことになっているのに、恐怖心はあまり感じない。でも、何故か別の意味での嫌な予感はする。このまま食べ尽くされて、気を失って、すぐヨノワールが来て、私を宿舎へ連れて行く。
そして次に起きた時私は…」
カオリの右目から、丸い雫が落ちた。
「ツキミヤさんのことを、全て忘れてるんじゃないかって」
「…そうだよ。今まで食べてきた人間は、皆この状況を嫌だとか、怖いだとか喚いていた。そういう感情を植えつけられても仕方の無いことなんだ。でもそれを思い出すことはない。だって怖いっていう感情も残らないくらいに喰らいつくすから」
そして、それを与えたツキミヤの存在も、忘れてしまう。
「いくらゴーストタイプが見える君でも、それは変わらない」
「じゃあ、もう一つだけ答えて」
腕まで飲み込まれた。並みの人間ならもうまともに話すことすらままならないだろう。
「…この気持ちは、何?」
人の話す声がして、ミスミは足を止めた。そのまま、一歩、二歩とゆっくり歩みを進めていく。
木に隠れて声だけを聞く。カミヤさんと、若い男の声がした。おそらく、昨日浜で話していた青年だろう。
ただ、昨日のような雰囲気は何処にも無い。コップに入れた水が、今にも溢れ出しそうな感じだ。
「私は、喜び、哀しみ、楽しみ、そして怒りや恨みの感情を知ってる。怖さも幼い時に経験したことがある。でも、ツキミヤさんに対する感情だけは分からないんだ。
怪我をしているわけでもないのに、胸がすごく痛くて、走った後でもないのにドキドキして、呼吸が苦しくてたまらないんだ」
ミスミは確信した。やっぱりカミヤさんは、この人のことを…
「忘れた方が楽になれる気がする。でも何故だろうね。
…貴方のことだけは、忘れたくないんだよ」
カオリが言葉を発したのは、それが最後だった。カゲボウズが、身体を全て飲み込み―
「!」
「えっ?」
「…」
三つの反応が重なった。何かが攻撃を仕掛けてきた。丸くて深い穴が、ツキミヤの後ろの木についている。
「これは…」
言う前にもう一発打ってきた。ツキミヤの髪の端が少し持っていかれる。木に隠れているミスミも、そっと覗き込んだ。スコープのような物を持っていればいいのだが、生憎そんな便利な物は持っていない。
だが、無くても別に構わなかった。カオリの身体からカゲボウズを引き剥がした後、それは実体を現した。
灰色の身体に、黄色い模様。赤い瞳の一つ目。
ツキミヤが、その名を呼んだ。
「ヨノワールか」
ミスミは、写真以外でヨノワールを見たのは初めてだった。図鑑で見るより大きく、そしてずんぐりむっくりしている。
(塀の上に座ってたら、ハンプティ・ダンプティみたい)
こういうことを考えられるあたり、この状況を楽しんでいる気がする。何かヨノワールが話している感じがするが、ミスミには分からない。
ツキミヤには、テレパシーのような物で話しかけてきた。口調は普通だが、凄まじい怒りのような感情が入っていることがよく分かった。
『傷つけてはいないな』
「ちょっと食べさせてもらったよ。甘すぎて喉の奥が焼けそうだ」
わざとらしく咳払いをするツキミヤを尻目に、ヨノワールはカオリを見た。特に苦しそうな様子も、外傷もない。
右目から何かが流れた跡はあるが。
「次に起きた時、全て忘れているよ。彼女は」
『思い出すことは無いのか』
「僕は、最初から彼女に会わなかった。彼女も僕という存在なんて最初から知らなかった。完全に抹消される」
『完全?…笑わせるな』
言葉が分からないミスミも、この時ばかりは身体が震えたという。一応ボールに入れて連れて来ていた二匹のポケモン達が、中で泡を吹いていた。
立っていられなくて、その場に座り込んだ。
『完全という物は、神にしか通用しないものだ』