■遺された名前
昔むかし、力を持ったポケモンは時に神、時に妖と呼ばれ畏れられていたころのお話です。
豊縁の中でも有数の、豊かな里がありました。
この里では毎年たくさんのお米がとれました。
めぐまれた気候は苗を育み、古の大樹を抱いた山々は水を貯め、流れ出した水は清らかな川となって田を潤してくれます。
秋ともなれば、黄金色に色付いたたくさんの稲穂が大地を覆い、その里は金色の野となりました。
しかし、その里は恐ろしい妖に支配されていました。
それは九尾の妖でした。
九十九(つくも)と呼ばれたその古狐は、血のような赤い眼、青白く輝く白銀の毛皮、九本の尾を持ち、それは大きな狐であったと伝えられます。
彼は旧くから里に巣食い、君臨しておりました。
十の九尾と百の六尾の狐の一族を従えていたその妖狐を人々は、九十九と呼んだのです。
九十九の吐く炎はさすまじく、一瞬で田も畑も灰にしてしまうほどの勢いがありました。
人々はそれを"野の火"と呼び大変に恐れていたのでございます。
秋が近づく程に人々は炎を恐れました。
ひとたび"野の火"が田を舐めれば費やした歳月は皆灰になってしまうのです。
だから里の人々は収穫の頃が近づくと祭を行いました。
九十九を祀ることで、荒ぶる神を沈め、彼の機嫌をとったのです。
黄金の大地を見下ろす小高い山には社を立て、美しい娘を巫女に据えました。
そうして人々は糧を守ってきたのであります。
そんな祭が近づいたある年の、ある時のことです。
ひさびさの雨と共に若い旅の男が里にやってまいりました。
村のはずれで宿をとった若者は、出された夕食(ゆうげ)にいたく感激いたしました。
出された夕食は真っ白な白米でした。
「この村ではいつもこのようなものを食べているのですか」
若者が尋ねると宿の娘が答えました。
「この土地は古来より稲作が盛んなのです。貴方様にお出ししたのは鬼雀ノ泪と申しまして、もっとも美味だと云われている米でございます」
「なぜこのようなものを私に」
若者が尋ねると、娘は言いました。
「貴方様を待ち続けておりました、雨降様」
すると小雨が一瞬強くなって、雷が落ちたのでございます。
雷鳴の轟く最中、若者は娘に言いました。
「今なら九十九の耳には届かなかろう。いかにも、我が名は雨降。青の国より参じ、炎の妖を討ちとりに参った」
若者――雨降は祭の夜に旗を揚げました。
自らの率いる部下達と共に、炎の妖九十九とその一族に戦いを挑んだのです。
九十九は炎を吐きましたが、雨降には届きません。
彼はその名の通り異能の持ち主でした。
若者の在るところには必ず雨が降ったのです。
炎は雨に流され消えてしまったのです。
「我が眷属よ。力を貸し与えたまえ」
雨降が唱えると里を流れる川や水を湛えた田から水の化生達が現れました。
降りしきる雨の力を得た魚達は陸の獣に劣りませんでした。
九十九の一族の者達を次々に蹴散らしていったのです。
ついに雨降は九十九に矛を突き立てました。
深手を負った九十九は命からがら逃げてゆきましたが、やがて里の北の森で取り囲まれました。
そしてとうとうこれまでと悟ったのか、彼は自らの身体を焼いて果てたのでございます。
「我が毛皮を勝鬨とし、上げるか。だがそうはさせぬ。我が毛皮は誰にも渡さぬ。我は何者にも捕らえられぬ。たとえ我が身滅びようとも、我が力は消えずにあり続けよう。うぬらとこの土地はこの狐の怨念に縛られ続けるであろう」
そう言って九十九は燃え果てました。
それは九十九の意地だったのかもしれません。
こうして九十九に替わり、雨降がこの土地の主となり、守り神となりました。
しかし、九十九が最後に吐いた言霊が雨降の耳に残り続けました。
――我が力は消えずにあり続けよう。
それがずっと気にかかっておりました。
それはある時に大火となって現れるかもしれませんし、怨念が誰かに宿るのかもしれません。
不安の火種がくすぶり続けました。
そうして、討伐からしばらく経った後のことです。
一人の娘が雨降のもとをたずねてまいりました。
それは宿で米を振舞ってくれた娘でありました。
「私は、九十九の巫女だった者。九十九の力を鎮める方法を教えましょう」
そう娘は言いました。
「どうすればよいのだ」
たずねる雨降に娘は続けます。
「出るものを押さえつけてはいけません。出すところで出させ、その度に鎮めればよいのです」
こうして、収穫祭の時期には舞台が上演されるようになりました。
石舞台の上で、九十九はこの時だけ復活を果たしますが、必ず雨降によって倒される、という筋書きです。
それが妖を鎮め、同時に神を称える儀式として伝えられていったのでございます。
しかし、ここで彼らはひとつ、過ちを犯しました。
それは九十九の名を消さずに残してしまったことです。
舞台が上演される度に雨降の名は称えられました。
しかし、同じ数だけ九十九の名も唱えられました。
炎が雨に消えてしまっても、毛皮が燃え尽きなくなっても、九十九の名は人々に忘れられることなく語り継がれ続けました。
たとえ力が鎮められても、古狐の名だけはこの里にありつづけたのです。
畏れは消えずに残り続けたのです。
消えずに残り続けたのです。
村では今でも祭で舞台が上演されます。
舞台の主役は青い衣を纏う雨降。
そうしてその対を成すのは、炎の妖――九十九。
今年も、石舞台に松明が灯ります。
今年も、狐面を被った役者が舞台に上がって参りました。
そうして彼は云うのです。
「我、ここに戻れり」、と。
誰にも見えない面の内側で、九十九役の青年がにたりと笑いました。