■幻島
昔むかしのことです。
秋津国の南、豊縁と呼ばれる土地の西の海には小さな島がいくつも点在しておりました。
大きな島、小さな島、人が住む島、住まぬ島、海鳥の休む島、おいしい木の実のなる島、様々ございました。
その島々に数えられるうちの一つに、本土から最も離れ、最も大洋に近しい島がございました。
島の名を着凪(キナギ)と言いました。
その島では人々が暮らしておりました。
彼らは日々、海の命を頂いて暮らしておりました。
着凪の島に住む人々は、すぐれた漁師でありました。
波をかきわけて、島から島まで泳ぐことが出来ました。
息を止め、深く深く潜ることが出来ました。
もちろん船を漕がせても非常に早いのです。
彼らは海の風が吹く方向を知っておりました。
たくみに風を捕まえて自由自在に船を操ることが出来ました。
島の民達は普段、小さな魚や貝を食べて暮らしておりましたが、年に三度ほどの特別な日になると総出で漁をいたします。
島の者が残らず海に出、皆で大きな浮鯨を獲るのです。
浮鯨が取れるとしばらくは漁をする必要がありませんでした。
彼らは祭りを開き、周辺の島々にその肉を振舞って回りました。
絞った脂は暖や灯かりといたしましたし、すっかり肉を食べた後は、その骨を家の材料や漁の道具の材料に致しました。
そうして海の神様に感謝を捧げました。
浮鯨は神様が使わした最もありがたい恵みでした。
島の人々は浮鯨の肉、脂、骨に至るまでそれを粗末にしなかったのです。
着凪にはゆったりとした時間が流れておりました。
ところが、このところ島の様子がおかしいのです。
気がつけば島の人々は毎日のように総出で漁に出ています。
船をあやつって、銛(もり)を持って、毎日のように、青い海の中に巨大な影の姿を探しているのです。
巨大な影を銛で突こうと、船を走らせているのです。
とても忙しそうです。
それになんだか島が汚れてきました。
大きな大きな骨があちらこちらに散乱していますし、腐臭がするのです。
それは人々のお腹に納まることなく捨てられた鯨の肉が腐った臭いでした。
島の上ではとれた浮鯨をせっせと人々が解体しております。
そうして頭を裂くと脂を絞りました。
人々の目当ては浮鯨からとれる脂でした。
その脂を容器に詰めて蓋をし、せっせと船で本土へと運びました。
本土では今、脂が高く売れるらしいのです。
それは夜の路や町を照らす照明にもなりましたし、松明にもなりました。
さらには歯車と歯車の間にこの脂を差すと大変に動きがいいというのです。
人々は食べる分よりも多くの浮鯨をとりました。
脂だけを絞って残りの多くを打ち捨てました。
絞られたその残りが、無残に島に転がったのです。
今考えれば、島の何かがおかしくなってしまったのは、何年か前に島のてっぺんに灯かりが灯ってからかもしれません。
何年か前、周辺の島々一帯を治めているという青い装束の領主がやってきて、この島に様々なものをもたらしました。
鉄製の銛や、より早く走る船、島では織ることの出来ない布、島では収穫出来ない穀物、様々なものを持ち込みました。
領主はそれらの品物と引き換えに、鯨の脂を所望しました。
島の暮らしは豊かになりました。
その象徴が灯台でした。
灯台では鯨の脂の火が燃えていました。
そうしているうちにだんだん浮鯨がとれなくなりました。
たくさんたくさんとっていましたから、数が減ったのです。
けれども領主や本土は脂を求め続けました。
けれども日を追うごとに浮鯨はとれなくなりました。
「もう浮鯨はとれん。これ以上とったらいなくなってしまう」
島に住む人々の中からこんな声が上がりました。
とくに年老いた者達はそのように言いました。
けれど青い布を纏った領主は答えます。
「今、脂を切らすわけにはいかん。我ら青が、地上の赤に勝つにはこの脂が必要なのだ」
そうしてこう続けました。
「浮鯨がとれないのなら玉鯨をとればよい」
人々は、お互いの顔を見合わせました。
本来、浮鯨は年に何回かだけとることを許された特別な存在でした。
玉鯨は浮鯨の子ども、将来の浮鯨です。
子どもには手を出さないのが彼らの暗黙の掟だったのです。
海の神様に誓った約束だったのです。
けれど領主が言いました。
脂がとれないのなら、鉄製の銛も、布も、穀物もやらないと、そう言ったのです。
すっかりモノのある生活に慣れきってしまっていた島の人々はついに禁忌に手を染めてしまいました。
何頭のもの玉鯨に銛を突き刺して、浮鯨の重さになるまでとったのです。
人々は玉鯨の脂をしぼって、その屍を山を島の上に積み上げました。
「なんということだ。今に恐ろしいことになる」
島の老人の誰かが言いました。
けれど誰も耳を貸しませんでした。
島に異変が起こったのは次の日、島の人々が総出で海に出た時でした。
不気味な轟音が響き渡って、着凪の島が大きく大きく何度も何度も揺れました。
島が揺れて津波が起きました。漁に出ていた船が沖に流されました。
大洋に流された人々はそこで信じられないものを目にしました。
さきほどまで自分達がいた島が大きく唸って、のけぞりました。
灯台がぼきりと折れて、海中に崩れ落ちました。
海中から大きな尻尾が出て、海面をばしゃりと叩きました。
その巨大な尻尾は浮鯨のそれでした。
尻尾は島から生えているように見えました。
その時、人々は知りました。
自分達の暮らしていたその島がとてつもなく大きな浮鯨だったと知ったのです。
目覚を醒ました着凪島は、大洋に向かって漕ぎ出しました。
決して振り返りませんでした。
やがて島は水平線の向こうへ消えていきました。
巨大な浮鯨を誰も仕留められませんでした。今あるところに留めることも出来ませんでした。
海にわずかに残った浮鯨、玉鯨も島についていなくなりました。
こうしてかつて着凪島があったところは、鯨が去った後の廃材と、ゆらゆらと揺れる水面ばかりが残されたのでした。
島がまるごとなくなって、脂を求める領主はいなくなりました。
もう鉄製の銛も、きれいな布も、穀物も手に入りません。
それどころか足をつける地面もありません。
人々は水面に浮かぶ廃材と自分達の船を繋ぎ合わせて、海草で縄をつくって海底にそれをくくりつけて、海上で暮らしはじめました。
何もかもを失ってしまいました。
けれどゆったりと流れる時間だけは戻って参りました。
人々はまた昔のように、小さな魚や貝をとって細々と生活を始めました。
洋上に浮かぶ町、キナギタウン。
今になってもキナギの人々は去ってしまった自分達の島を洋上に探すことがあるといいます。
けれど、運よく島を見つけても、島は一日も経たないうちに水平線の向こうに姿を消してしまうのだと言います。
現代の人々はその島を「幻島」と呼ぶそうです。